東に太陽、西に月
-1-
博麗霊夢は待っていた。夕暮れを迎えた神社は絵の具を塗りたくったように真っ赤で、正面にある鳥居からは月が控えめに顔を覗かせていた。まもなく月は夜道を照らし妖怪たちが目覚めることだろう。
賽銭箱を背後にした霊夢はじっと自分の影が足元から伸びていく姿を見つめていた。影の中から生き物が這い出して来ると予感しているかのようだった。
「霊夢、こんばんは」
顔を上げた先には少名針妙丸が立っていた。背丈は人間の子供くらいだろうか。霊夢が作り出す影が彼女の足元を覆っていた。
「こんばんは」
針妙丸が辺りを見渡す。「正邪は?」
「ここ」
霊夢の隣に木製の箱が置かれていた。表面には札が何枚も貼っており、霊夢が箱を蹴ると思い出したかのように箱が不自然に揺れた。
「棺桶みたいだね」
「中途半端なことをすると逃げられるのよ。縛るぐらいだとあーだこーだ喋ってうるさいし」
箱の周囲を縄で縛ると針妙丸は縄の端を肩に担いだ。
「ありがとう。捕まえてくれて」
「いいのよ。あんたのアドバイスで捕まえられたし、こっちもお灸を据えられたから」霊夢は一瞬だけ口を閉ざした。「あんたはそいつをどうするの?」
「小槌の魔力を返してもらう、そしたらおさらばよ」
「もう一回レジスタンスをやるつもりはあるの?」
暗くなっていく空を背景に針妙丸は微笑んだ。わずかに開いた瞼から覗かせる視線は霊夢をしっかりと捉えており、楽しさに由来する笑みではなく、底知れぬ感情をごまかすための微笑だと霊夢は勘付いた。
「まさか。私は私のやりたいことをするの」
鬼人正邪は暗闇の中で胎児のように丸まってじっと待っていた。棺桶の扉が開いて自由になれる時を。棺桶のつくりはしっかりしていて、光も音もほとんど感じられなかった。こんな暗闇はいつ以来だろうと正邪は記憶を手繰り寄せた。たしか、針妙丸と出会う前、一人で世の中に反抗していた時にこの暗闇を経験していた気がする。あの頃はすべてが敵で、すべてに敵意を向けていたとしか覚えていない。今も似たようなものだが、まだマシだと思えた。まだ駒は残っている。
正邪の感覚で何日も経ったころ扉が開いた。目に飛び込んだ光景が針妙丸の顔でなければ喜びの表情を浮かべていたことだろう。
「これはこれは姫様。ひょっとしてお目覚めのキスをしていただけるのかな?」
「毒リンゴは食べてないでしょう」
手足を縛られていたが上体を起こして彼女と視線の高さを合わせようとした。座る姿勢でも針妙丸の方が頭の位置が高く彼女が正邪を見下ろしていた。
正邪が視線を周囲にやる。どうやらここは輝針城の中のようだ。
「さ、年貢の納め時よ」
「待った。待った。無理矢理ってのはよくないだろ。お姫様の名に傷がつくぞ」
「今更何を言うの」
「じゃあ、こういうのは? 小槌の魔力をとらない代わりに、あんたの傍にいる。必要な時は私が持っている分から使っていい」
沈黙。
一瞬正邪は針妙丸が悩んでいると思ったが、彼女の表情は予想とは違っていた。ゴミを見るような、見下して軽蔑する表情だった。
正邪はこういう顔をよく知っていた。数え切れない数の人間や妖怪が彼女に向けた表情そのものだ。その時の彼ら、彼女らが正邪に向けた感情を正邪はよく覚えているし、今更驚くものではなかった。
ああ、こいつもなのか。正邪の胸に浮かんだのはそれだけだった。
「勘違いしないで、私はこれ以上あんたの顔なんて見たくないの。夢しか見ない理想主義者のあまったるい妄言なんて聞きたくないの」
表情を変えず、正邪はゆっくりと上半身を揺らす。まるでそれが平静さを保つまじないのようだった。
「あんたは私を利用していたけど、私もあんたを利用してたの。外から来たあんたに取り入って、みずぼらしい場所から離れたかったの」
「自分の故郷だろ」
「不自由で薄汚れた故郷ね。全てが嫌だった」
忘れようとするかのように針妙丸は頭を振った。
「あんたに気に入られるために、媚も売ったし計画の協力もした。お互いに十分でしょ」
だから、と呟いて針妙丸は打出の小槌を掲げた。正邪の身体から紫色の煙が漂い、それが小槌に吸収された。あらかた吸収されると正邪は自分の身体が重くなったように感じた。大量の血液が流れ出たかのように体に力が入らなかった。
動けなくなった正邪の身体を縛っていた縄を針妙丸が針で切った。
「だから、もう終わりよ。互いにここから裸一貫でスタートをきればいいでしょ。あんたは叶いっこない夢を追いかけなさい」
「……だったら、そんなに下克上を嫌ってたのなら、どうして巫女に敵対した? こっちに来た時点で私から離れればよかっただろう」
針妙丸は口角を吊り上げて歪んだ笑顔で正邪を蔑んだ。
「馬鹿ねえ。考えなさい。騙された被害者として同情された方が周りも受け入れてくれるでしょう。負けるつもりで戦ってたのよ」
おぼつかない足元の中正邪は立ち上がる。天邪鬼ゆえの意地で彼女は己を大きく見せようとした。
針妙丸は歪んだ笑みを消そうとしなかった。正邪を見上げるようになっても、なお。
「それじゃ」針妙丸は正邪に背中を向ける。
「おい」
針妙丸は振り返らない。城の奥に入って、ふすまを閉める。目の前を白い壁が景色を置き換えた。
「おい」
目の前のふすまに向かって届くはずのない小さな声を上げる。ふすまが鋼鉄の壁になって声が届くのを妨げていた。
一切の音が届かない部屋の中で正邪は一人静かに自分の身体を抱きしめた。そうでもしないと風の前の塵のように自分の身体がもろくも崩れていくような気がしたのだ。
-2-
「おーす、マミゾウ」
「やあ、ぬえ…… ってなんじゃそれは?」
封獣ぬえが肩に担いだ荷物を二ツ岩マミゾウは訝しげに見つめる。
「拾った」
「拾ったって、天邪鬼じゃろ」
どさりと、音を立てて正邪を地面に落とす。彼女の衣服はボロボロで、全体的に汚れた印象だった。眠ってはいたが、うなされているかのような表情だった。
「巫女に捕まったという噂があったが、こてんぱんにされたのかな。いや、ひょっとして……」
「とにかくさ、マミゾウの所で面倒を見られない? 目が覚めてから話を聞けばいいんだし」
「構わんが、どうしてわしのところなんじゃ? おぬしの寺でもいいじゃろう」
「寺に連れて行ったら、聖が真面目に修行させるだけだもん。こういう面白そうなネタは独占しないと」
新しいおもちゃを見つけた子供のようにぬえは笑っていた。
目を覚ました正邪の目には見たことがない天井が映っていた。 もちろんマミゾウの屋敷の天井である。布団から起き上がると隣にはマミゾウとぬえがいた。
「起きたか。ぬえが見つけたんじゃぞ」
特に礼を言うこともなく。正邪は黙ってぬえの顔を横目で見つめた。
「変なところで倒れたけど何かあった? 巫女にやられた? 仕返しなら手伝うよ」
目を輝かせて質問をするぬえに正邪は返事をせずに黙る。目もどこか焦点が合っておらず呆けているようにマミゾウには見えた。
マミゾウは顎に手をやりながら正邪の顔を覗き込む。
「そういえば、儂は金貸しをやっているんじゃが、最近小人の子が儂のところにきたぞ。なんか事業を始めたいと言っておった」
そのつぶやきに正邪はマミゾウの方に視線を向ける。先ほどよりも視線に力がはいっていたのをマミゾウは見逃さなかった。
「そっちか。ひょっとして振られたのか?」
「……うっさいな。どうでもいいだろう」
「そうじゃな。過去よりも未来じゃ。行く所はあるのか?」
「……ない」
「金は?」
「あるわけないだろ」
マミゾウは目を細め、顎に手をやった。あたかも交渉を始める商売人のような面持ちだった。
「さっきもいったが儂は金貸しをしている道楽者じゃ。仕事が忙しいのに子分が多くて家事が大変なんじゃが、手伝いで働かないか? 家事と仕事の手伝いで、ちゃんと衣食住も給料も保証するぞ」
「天邪鬼がまともに働くと思っているのか?」
「確かに、天邪鬼がキチンと仕事をするとは誰も思わん。だったらその思い込みに反抗してはどうじゃ。ちゃんとやったら儂は驚くぞ」
正邪は唇を歪ませる。
「ズルい言い方だな」
マミゾウもぬえも揃って笑った。
-3-
うっそうと竹の生い茂る迷いの竹林では、絶え間なく音が聞こえていた。枯草を踏む音、風に吹かれて竹がこすれあう音。落ち着かないくらいだが、直射日光が当たらないため心地よくはあった。
「これから行くところは、ミスティア・ローレライさんですね。屋台でお店を経営しているんですよ」
指導役の狸が帳簿を片手に説明している。
「額は少ないんですけど、人間のお金で貸しているので。なかなか返済が終わらないんです」
正邪は黙って狸の一歩後ろを歩く。やがて移動式の屋台が姿を現した。
カウンターの下から顔を出したミスティアは狸の姿を見た途端、眉間にしわを寄せて不快感をあらわにした。
「来たわね。金の亡者」
「借りるからでしょう。会うのが嫌なら全額返してください」
黙ってミスティアがカウンターに潜り込む。顔を出すと大股で狸の元へ近寄り、金を手に押し付けた。
「これ妖怪のお金ですよ。人間のお金でしたので手数料で余分に……」
「分かってるわよ! 何度も聞いてるから」
今度はカウンターから包丁を取り出し、ミスティアは二人に見せつけながら怒鳴る。「終わったでしょ! 狸汁にするわよ! 」
おー怖い怖いと、やたらと大きめの声で呟きながら狸は屋台に背を向けて歩き出した。正邪も一歩遅れて後を追いかける。振り向きざまにみたミスティアの顔は依然嫌悪をあらわにしていた。
ミスティアの姿が見えなくなると狸は平然と帳簿を取り出して書き込み始めた。
「お金を受け取ったら記録をお願いします。もし返済がなくても記録だけはしてください。いつ取り立てに行ったのかといのも重要な情報なので」
黙っていた正邪がようやく口を開く。
「あの人はいつもあんな感じなのか?」
「今日は虫の居所が悪かったですね」気にした様子もなく狸は返事をする。正邪のほうに顔を向ける。「ひょっとしてやりたくないですか?」
「あんなの弱い者イジメと同じだろ」
「仕事ですからね。嫌なこともあります。それに彼女もこれを承知で借りてるんですよ」
「だからって……」
歯切れの悪さを感じながら正邪は頭を掻く。足元に転がった竹に気づかず転びそうになった。
狸は笑いそうになりながら言った。「前に親分も言ってましたけど、金を借りるのは弱者か強者のどちらかなんですよ。いずれ強者の方にも行ってみますか」
「強者が金を借りることがあるのか?」
「あります。大口の客は大体そっちですね」狸は音を立てて帳簿を閉じた。「それと、彼女はあなたが思うほど弱者ではありませんよ」
意味がわからなかったが、盛大に竹にぶつかってしまい正邪は聞くタイミングを逃してしまった。
夜を迎えた竹林の中を正邪は歩いていた。夜空は竹で覆われており見上げても月は見えない。足元もよく見えない明るさだったため、ゆっくりと歩く。
ちょっと前、あらゆる者から逃げていた時は夜が生きる世界だった。いまじゃすっかり規則正しい生活を送り、夜を過ごす勘までなくなってしまってしまったと正邪はあくび交じりに自嘲した。
開けた場所にミスティアの屋台を見つけた。昼とは違い煮炊きする香りが鼻をついた。
「あ、昼の……」ミスティアが正邪を見つけた。「今度は一人で取立て?」
「違うよ。客で来たんだ。酒とツマミを頼む」
ミスティアに金を見せながら席に座る。
ミスティアはぶっきらぼうながら、正邪の前に料理を出した。出された日本酒と八つ目ウナギを頬張る。
「癖が強いな」
「お酒には合うでしょう」
ミスティアは観察するように正邪の顔を覗き込む。
「下剋上はどうしたのよ? 借金取りの手伝いだなんて槍の雨が降ったみたい」
「金が貯まったら出て行くよ。こっちだってやりたくてやってるわけじゃない」
言葉は少なく、竹のざわめきが二人の間を通り過ぎて行った。小鉢がいくつか並びテーブルに彩りを添えていた。
「どうして借金なんかしたんだ。しかも、人間の金で」
「包丁とか調理道具が欲しかったの。やっぱり人間がつくったやつの方が使いやすくって」
「嫌じゃないのか」
正邪の言葉にミスティアは料理の手を止める。
「どういうこと?」
「色々だ。借金取りが来たり、借金しなければいけないほど仕事に追われるなんて、楽しそうには見えない。いっそのこと辞めたらどうだ」
何かがおかしいのかミスティアはくすくすと笑いだす。正邪は首を傾げた。
「わかってないわね。私は好きで屋台をやっているの。借金なんて小さい問題よ」
風が吹き抜けて、笹のこすれる音が大きく響く。屋台に置いてある器具が揺れてカチャカチャと金属音が小さく聞こえてきた。
「料理を出して、食べてもらって、ご馳走様、おいしかった。そういって何度も来てくれるお客さんがいるの。それが私には自慢なの。それができるなら借金なんて小さいことよ。やっていればいずれは返せれるんだもん」
眉間にしわを寄せたまま正邪はヤツメウナギにかぶりつく。
「よくわかんないな。私にはあんたが頭をぺこぺこ下げる弱いやつにしか見えない。もっと自由にやりたいとか思わないのか」
「確かに、私は殴り合いは強くないわよ。けど、屋台ではあんたが嫌いそうな強者にも料理を出す時もあって、その時だけは私は強いの。それが私の戦いよ」
「そういうものなのか」
「そういうものよ」
料理の皿を正邪はじっと見つめた。なんとなく気になって、食べかすを残さないように丁寧に食べた。皿が綺麗になるのを確認してから酒を一気に飲み干して椅子から立ち上がった。
「ごちそうさま」
「あら、早いわね」
「明日は朝の料理当番なんだ。早起きしないと間に合わない」
「あんたって料理できるの?」
「食える味って言われてる」
ミスティアは余裕の笑みを正邪に向ける。料理に関しては彼女の方が先輩だ。
「まだまだってことね。おいしいって言われるまでがんばりなさい」
「ごちそうさま」
勘定をして屋台から出ようとした瞬間、屋台にかけられた暖簾に気がついた。暖簾には雀が描かれているがよく見たら刺繍で描かれてる。
「女将、この暖簾の雀、刺繍なんだな」
「でしょう。最近できたお店で頼んだの。いいものでしょ」
返事はせず正邪は屋台を離れた。しばらく歩いて屋台が見えなくなったのを確認してから近くにあった竹を思いっきり蹴飛ばした。
思い出すのは、紅葉より小さい手とまつ毛のような針、出来上がった刺繍を見せようとする天真爛漫な笑顔だった。
あの笑顔は全て仮面だったのだ。
-4-
「刺繍をするお店? 確か村紗と一輪が言ってたね。ワンポイントなら安くできるって言ってた。受付が小さい女の子で可愛いとか」
案内をしていたぬえが振り返って正邪を見る。目元はからかいの種を見つけて意地の悪い笑みを浮かべていた。
「なに? あんたも欲しいの? 下剋上って書いてもらうの?」
「ちげーよ。変わった刺繍だと思っただけだよ」
「確かに、刺繍のやり方が変わってるらしいね。最近外から来た人なのかなって一輪が言ってた」
正邪はそれについては返事しなかった。黙っているとぬえは話題を変えた。「河童は金にうるさいから取り立ては大変だよ。はぐらかされて進まないって嘆くやつもいるからね」
「ただの手伝いなんだし、ほどほどにやるよ」
周囲から目立たないように膝の高さまで伸びた草の中を歩く。ぬえは服が汚れるのが嫌なのか飛びながら正邪を先導する。
「しかし、なんで私が河童のところまで行かなきゃいけないんだ。面倒な客なら子分に行かせればいいだろ」
「マミゾウはあんたのこと気に入っているみたいだよ。色々やらせたいみたい」
「子分になる気はないぞ」
「子分じゃなくても育つ様を見るのも好きなのよ。口調もそうだけどお婆ちゃんっぽいからね」
小声で会話しつつ歩いていると、景色が開け整備された道が見えてきた。遠くに大きな平屋建ての建物があり、そこからオイル臭いにおいが漂ってきた。
「河童の工房はあれだよ。がんばってね」
「ここまでなのか」
「私が頼まれたのは案内だけだもん。見張りの天狗をからかったら帰るから」
そういうとぬえは一人空高く昇って行った。正邪にむかって笑顔で手を振りながら。
工房にはいると建物の奥に案内された。河城にとりがソファに座るように促す。
「今工房のお金をかき集めているとことなんで、お待ちください」
ソファでふんぞり返ると別の河童が炭酸飲料をテーブルに置いた。何の気に無しに正邪が口に含むと途端にむせかえり眉間にしわを寄せた。
「なんだこれ。青臭いぞ」
「きゅうり味の炭酸です。うちの新商品で」
大げさに顔を手で覆う正邪を見てにとりはキョトンとした。
「ひょっとして炭酸苦手でした?」
「そっちじゃない。なんできゅうり味にしたんだ」
「きゅうり美味しいじゃないですか。うちの工房では爆発的な人気なんですよ」
のどを鳴らす勢いで飲むにとりに正邪は唇をへの字に曲げた。
「いや炭酸の話はいいや。ところで、なんで金を借りたんだ?」
「そりゃあ、発明にはお金がかかりますから。パーツ代に工具代、色々ですよ」
「返せるあてはあるのか」
「発明が成功して、売れれば。過去に何度か満額返済しているはずですよ」
そこは帳簿で既に知っていた。
「発明が失敗して借金を返せなかった場合はどうするんだ?」
「追加で借りて発明を続けるしかないですね」
「そこまでしてやるのか」
「好きでやってますから」
にとりはこぼれそうな笑顔で返事をした。正邪が辺りを見渡すと工房中の河童が皆似たような顔をしていた。何やら相談しているもの、頭を抱えて悩んでいるもの、機械の使い方を教わるもの、全員が単純な笑顔ではないが死んだような表情をしたものは一人もいない。壁にぶつかる事すら楽しんでいるようにも見える。
「河童って天狗の下にいるんだろ」
「ええ、まあ」
「嫌じゃないのか、無茶苦茶なことを言われることもあるだろう」
「ありますけど」
正邪は身を屈め顔をにとりに近づけた。そのまま声をひそめて話しかける。
「天狗から自由になりたいとか思わないのか? 好きな発明が自由にできるんだぞ」
一瞬呆気にとられたにとりだったがすぐに笑顔に戻った。
「ひょっとして勧誘ですか? あいにく乗りませんよ」
「なんでだ。好きに発明ができるのに」
にとりはソファに身を沈めてため息をついた。顔をあげて天井を仰ぎ見るが、目の焦点は天井よりもその先の空を見ているようだった。
「河童だけではやっていけないんです。ここの工房も借金も天狗が背後にいるからできたようなものですよ。天狗に無茶言われるのも税金だと思えば安いものです」
遠くを見つめたにとりの表情から正邪は感情を見つけられなかった。工房の喧騒は止むことなく物作りに携わる数えきれない河童たちの存在を二人に伝えていた。
「自分たちの力だけで生きていきたいとか思わないのか」
「そこまで強くないし、器用でもありません。正直なところ、誰かがリーダーをやってくれるなら喜んで乗っかりますよ」
その言葉で話しは終わりだと言わんばかりに、にとりは残った炭酸を一気に飲み干した。それを見ていた正邪も釣られて一気飲み干した。キュウリの青臭さが鼻を突き抜けた。
「気に入ってくれました?」
「ちげーよ」
「またまた。あ、お金が来たみたいですよ」
河童から巾着を受け取った正邪は中を確認するとはっきりと眉間にしわを寄せた。その表情のまま、巾着をひっくり返し中身をテーブルにぶちまけた。
「偽物の小銭が混ざってるぞ。どういうつもりだ」
「あれ、すいません。若い者が間違えたんですね」
「話し込んでたのは時間稼ぎか?」
「違いますよ。昔遊びで作ったのが混ざっただけですって」
悪びれない無邪気な笑顔でにとりは答える。正邪は帳簿を取り出して書き込みを始めた。
「偽物の分は記録しないでおいてやるから、もうやるなよ」
「おや、優しいんですね」
「弱いからって何をやっても許されると思ったら大間違いだぞ」
「人を騙して、国家転覆を図った人のセリフとは思えませんね」
にとりの皮肉に正邪は一瞬だけ唇を歪めた。
「夢があったんだ」
-5-
「随分と丸くなったね。前見た時は目が血走ってたよ」
豊聡耳神子は開口一番にそう言った。正邪は首をかしげる。
「会ったのだって一度だけだし、そんなに長い時間じゃないだろ」
「為政者を舐めないでもらいたいね。こっちは君みたいな人間を一杯見てきたんだよ」
余裕たっぷりの雰囲気を醸し出しながら神子は応接室のテーブルに札束を置いた。ほとんどが真新しい紙幣だ。
「今回の返済はこれだけです。どうぞご確認を」
正邪は手にとって数え始める。
「借金をするほど金に困ってるのか?」
ここに来るとき、正邪は様子を一通り確認していた。神子の道場、応接室は立派なもので建物の清潔さ、調度品の豪華さ、どれをとっても維持に多額の費用が必要なものに思われた。
「信用作りだよ。いきなり多額のお金を貸してくれって言っても断られるから、今の内に記録を作っておくんだ」
「よくわからないな」
「面倒なのはわかるけど、お金が絡むと面倒なことが多いんだ」
札束を数え上げると正邪はソファーから腰を上げて帰り支度を始めた。
神子が片手を上げて正邪を呼び止めようとする。
「まあまあ、せっかく来たんだし一杯どう」
「酒か?」
神子は棚からワインとグラスを取り出した。
「葡萄を醗酵したお酒だよ。君にとっては珍品だろう」
小気味よい音を立ててコルクを抜くと神子自らグラスにワインを注ぐ。血のように赤いワインは二人の顔を映し出している。
滑り出すようにテーブルに置かれたグラスを正邪は手に取り、口に含む。
「渋いな」
「慣れてないとそうだね」
神子は正邪に向かって微笑みを投げかける。正邪は明後日の方角に目をやった。
「嫌かな」
「そういう他人を舐め腐った表情が嫌いなんだ。馬鹿にされてる気がする」
「君の信念は変わってないね」
「嫌いなやつをぶっ飛ばしたいだけだ」
「本気でそうしたい?」
正邪が視線を戻すと表情を保ったまま笑みを浮かべた神子がいた。まるで教師になりきって見守っているかのようだった。
「そうだよ」
「だったら仲間を集めないと。君の前提条件と目標を考えると一人では達成できない。数は力に直結する」
「集めた。私が何をやってたか知ってるだろう」
「うん。打ち出の小槌に頼るのはいい考えだったけど、騙し方がイマイチだったね。下手な嘘だとばれたら味方が一転して敵になる可能性が高い」
「……あの時は騙さないと協力してくれないと思ったんだ。あいつは不自由ない生活をしていたから」
その考えは間違っていたと正邪は今では思う。彼女が求めていたのはもっと別のものだった。籠の中の鳥でもなく、復讐にかられた鬼でもなかった。
「そう。弱者が全員君と同じ考えをもてるわけじゃない。不自由な現状でも大切にしたい物があるし、目標を達成した後に不安を抱える人もいる。そこは私でも大変な時があるよ」
「あんたでも苦労することあるのか」
「しょっちゅうだよ。どれだけ正しい方向に導きたいと思っていても反対する人が必ず出てくる。お互いに共有できるものを見つけて時間をかけて話すしかないんだよ。理解されたいんだったら、こちらから理解しようとする姿勢を見せないといけないんだ。特に弱者は仲間意識を大切にするだろう」神子は一瞬押し黙り、正邪の顔の高さにワイングラスを掲げた。「仲間意識を強めたいんだったら、物事はシンプルに伝えた方がいい。わかりやすくすることで、大勢の人が感情を共有できるんだ。相手の求めてる物を見極めて、自分の理想と重なるようにわかりやすく伝える。それが人の上に立つ者の義務だよ」
正邪は神子の言葉にすぐには返事をせずゆっくりとグラスを手に取った。グラスに残ったワインに映る自分の顔を覗き込む。
「あんた偉そうに見えていい奴なんだな」
正邪は残りのワインを一気に飲み干す。慣れないワインの渋みが頭への刺激になったかのようで、正邪は首を傾けた。
「ちょっと待て、なんであんたからアドバイスみたいなことを言われてるんだ。私は敵だろ」
神子は再び微笑みを投げかける。まぶたの隙間から見える彼女の瞳はしっかりと正邪を捉えていた。
「君みたいな骨のある子は珍しいから教育をしようかと思ってね。もう一回チャレンジして欲しいんだ」
「次やった時、成功してもいいのか」
「その時は私が直々に相手しよう。遠慮なく潰してあげるよ」
正邪は勢いよく立ち上がって荷物をしまい始めた。表情には静かな怒りが張り付いていた。
「やっぱりあんたも典型的な強者じゃないか。馬鹿にしやがって」
「帰る前にもう一ついいかな」
「なんだ」
「今日飲んだワインだけどね、あれは長い時間寝かせるほど味がよくなるんだ。長いものだと百年以上寝かせるものもある」
「百年も置いたら人間は死ぬだろ」
「それでもやろうとする人間がいるんだよ」
「で、何が言いたい」
「ワインと同じように、熟成に時間が必要な友人関係があると私は思ってる」
部屋を出ようとした正邪は足を止める。
「もったいぶった言い方はやめてくれ」
「おや、このテーブルクロスの刺繍に気がついてなかったのかな」
返事をためらう正邪を見ながら、神子は指で刺繍をなぞる。刺繍は北斗七星の星の配置を表していた。
「いい腕をしているね、彼女。師匠に恵まれていたんだね」
「……姫をやってたんだ。そこら辺はしっかりと教わっていた」
「けど、もうすぐ挫折するよ」
「どうしてだ。評判だって聞いてるぞ」
「成功しすぎて、他人の嫉妬を買っているんだよ。特にお金が絡んでいるとね。お金は人間も妖怪も等しく魔物にする。私だって正面からは関わりたくないレベルの恐ろしさだ」
神子は自分の分のワイングラスに口をつけた。膝をそろえて飲むその姿は優雅であるとすらいえた。彼女自身が光を纏っていて動くたびに少しずつ光子を発散しているようだった。
「その時、君はどうする?」
「どうもしないよ。もう会うこともないだろう」
「私はね、運命というか人と人の縁というものを信じてる。千年待ってくれた友人たちしかり、思いがけず出会った河勝のお面しかり、私の復活を邪魔した僧たちもしかり、時間がたっても不思議と切れない縁があるはずだ。私の友人たちなんて千年たってようやく仲直りし始めた。君たちなんてまだまだ日が浅い。しかも狭い世界の話だ。きっとまた出会って、仲直りできるはずだ」
神子は立ち上がって正邪に向かって手を差し出した。戸惑いながら正邪が握手に応じる。キメの細かい柔らかそうな肌をしているように見えて、神子の手は不思議と硬く、冷たかった。まるで剣を握っているかのような感触だと正邪は思った。
「これは私個人の勝手な願いだから。けど、嘘から始まったとしても君たち二人は仲違いするような縁ではないと私は思ってる」
「あんたの言葉にどれだけの価値があるんだ」
「そうだね。国一つ分の価値はあると思う」
「そういう言い方が嫌いなんだ。高慢ちきが」
神子は声を高らかに笑った。
-6-
日差しは高く、庭で洗濯物を干す正邪に容赦なく襲い掛かっている。なにしろ人数だけは多いので服を干すだけでも重労働だ。これが終わっても他にやることが控えている。
額の汗を拭っているとぬえが庭に直接降りてきた。胸元に握り拳を作っており困惑のニュアンスを含んだ顔で正邪を見つめていた。
「どうかしたのか」
「こんなの拾ったんだけど」
ぬえが差し出した手にはネズミくらいの大きさの生き物が収まっていた。着ている服は土で汚れていたがもともとの質の高さが伺えた。その生き物の顔は正邪がよく知っていた。
「……針妙丸」
「だよねえ。あんたの関係者、道端で倒れるのが流行しているの?」
ぬえは正邪の手を取って針妙丸を無理やり押し付けた。
「あんたの方が慣れてるはずだから世話はまかせたよ」
ぬえは正邪に背を向けて屋敷の中に入っていった。
庭に残された正邪は手に収まった針妙丸を見下ろした。彼女の眼の下には隈が見えて疲れているように見えた。
針妙丸を握る手に思わず力がこもった。
自室で針妙丸を横にすると正邪は茶を入れた。小さいサイズの菓子と湯呑みも余分に用意していた。
障子が夕暮れの色に染まる頃、ようやく目を覚ました。
「起きたか」
覗き込んで顔を見ようとするが、針妙丸は正邪を見た瞬間に顔をしかめた。すぐに顔をそむけて目を合わせないようにした。
「なんでいるのよ」
「助けたやつにひどい言い草だな」
針妙丸の見える位置に菓子とぬるくなった茶を置いた。
「聞きたいのはこっちだ。何があった」
「どこも刺繍の糸を売ってくれなくなった。自分では糸を作れないからお店を畳むしかなかったの。きっと私に売らないように誰かが圧力をかけたんだ」
針妙丸は蚊の羽音のように小さい声で言うと菓子に手を伸ばした。しゃっくりのような嗚咽をあげながら音を立てて菓子を食べ始めた。
「……ひとつ聞きたいことがある。お前の刺繍の腕前は知ってるし、センスがあるのも知ってる。けど、あまりにも上手くいきすぎている気がしてならなかった。マミゾウだって不思議に思ってた。だからさ」
ここまで口にしたところで正邪は自分の予想が正しかったことを確信した。嗚咽をあげていたはずの針妙丸はまっすぐに正邪を見つめており、その視線は正邪を捨てた時の眼差しによく似ていて、また少し違っていた。軽蔑と少しの怒りだ
「お前、小槌を商売に使っただろう。どれだけ使った?」
立ち上がった針妙丸は正邪を見上げていた。視線は針のように鋭かったし、声もまた棘を感じさせる腹の底から出すような声だった。
「だとしたら何? 失敗したのは小槌の代償で自業自得だって言いたいの? ざまあみろってこと?」
「そこまで言ってない……」
「いいや、言ってる。目がそう言ってる。馬鹿にするな。そもそも小槌は私の物だ。どう使ってどういう結果になっても私の責任だし、お前にとやかく言われる筋合いはないはずだ」
開き直りともとれる針妙丸の態度は正邪の胸にあった同情や労りの気持ちを吹き飛ばした。残されたのは表に出すつもりのなかった怒りだった。いつまでたっても消すことのできなかったくすぶりは針妙丸の言葉で火となった。
「今のお前を見ていると小人の一族がどうしてあの世界に飛ばされたのかわかるよ。弱いからって何をやってもいいと勘違いしてやがる。小槌を使って楽をしようとして反省もせず何度も使って最後には追放されたってわけだ。お前もいずれそうなるんだろうな」
針妙丸の顔に朱がさした。瞳の中には炎が揺らめいていて歯を食いしばっていた。
「同じにするな。それに私を騙してたお前に言われたくない」
「お前だって騙してただろう。しかもお前は自分の利益の為だけに走って、失敗したら被害者面しようとして最後は開き直りか。しっかりと祖先の愚かな部分を受け継いでいたみたいだな」
針妙丸は顔だけではなく全身が赤くなろうとしていた。かみしめた唇は皮膚を破って血を流しそうになっていた。
「うるさい……」
「お前は紛れもなく小人の姫だよ。みずぼらしい世界の姫にふさわしい愚か者だ」
「黙れ! 黙れ! 用済みの駒が偉そうにほざくな!!」
飛び上がった針妙丸は正邪の顔に飛びかかろうとした。払いのけようと正邪が腕を振り回す。蜂のようによけては飛びかかる行為を繰り返す。だが、所詮は蟻と象の戦いであって一つの結末に収束していった。針妙丸が正邪の手に押し付けられ、身動きが取れなくなった。正邪が息を乱している中、針妙丸は手の中でもがいていた。その様子は捕食者に捕らわれた哀れな餌であったが、針妙丸はひたすらに正邪に敵意の眼差しを向けていた。絶望的な状況になっても彼女は戦う意思を捨てなかった。
「どけ! 放せ! 所詮はお前も強者だ。お前に小さい者の気持ちなんてわかるものか! どんなに声を上げても、頑張っても誰もまともに相手してくれないんだ! 小さいからだ! 大きくなるためなら何だってやる。鬼でも悪魔でも利用してやる! 必死になってやったのに、寄ってたかって潰しやがって! みんな屑だ! お前もだ! 死ね! みんな死んじまえ!!」
正邪の手の中で針妙丸は叫んだ。小さな身体から放たれた精一杯の叫びは正邪に耳鳴りを与えるほどだった。その代償で彼女はむせかえった。ぜんそくの発作のように絶え間のない咳と洞穴の隙間風の音を発し続けた。
もしこのまま体重をかけたら彼女は死ぬだろう。骨を折って、折れた骨は体の内部を傷つけるだろう。そして口から血を吐くだろう。それだけで、この小人のうるさい口を封じることができる。正邪は一瞬だけそれを考えた。次の瞬間には正邪はそれを考えた自分自身に驚き、恥じた。手の中でむせかえっている彼女の振動も、上気した彼女の体温もすべて正邪の手の中で感じられていた。
「気が済んだか?」
「済むわけない。あんたの目玉に針を刺してやるんだ」
「焦りすぎたんだよ。もっとゆっくりやれば良かったんだ」
「嫌だよ。ずっと我慢してきたんだ。もう一日だって我慢したくない」
「それがこの結果だろ。わかってるのか」
「うるさい。説教はもうたくさんだ」
針妙丸が息を整え始めても、正邪は手を放せずにいた。手を放した途端針妙丸がどこか遠くに行って危険なことをしでかしてしまうような気がした。きっと彼女はどこまでも走っていくだろう。歩幅の小さい体を全力で動かして。
「もうちょっと静かにしてくれんかのう。儂の家なんじゃが」
障子をあけてマミゾウが入ってきた。そこでようやく正邪は手を放すことができた。
マミゾウの顔を見て針妙丸は表情を変えた。彼女はマミゾウから借金をしていたはずだ。
「さて、瓜子姫よ」
マミゾウが座り込んだ。二人が返答できない間に会話の主導権をマミゾウが握ってしまった。
「おぬしは儂から融資を受けていたはずじゃが、返せる見込みはあるか?」
姿勢を直した針妙丸がうつむく。どうしようもない現実に悔しさをにじませていた。
「すいません。できそうにないです」
「ふむ。では、ここで働きなさい。その間の利息は計上しないようにしよう」
「は?」突然の発言に正邪は抜けた声を発する。
「正邪。おぬしは首じゃ」
「は!?」
「雑用係は二人もいらん。これは退職金じゃ」
マミゾウから袋を受け取って正邪はさらに驚いた。袋のずしりとした確かな重みは多額の退職金を意味していた。これまでに受け取っていた給金を含めたらかなりの額になる。
「それだけあればしばらくは困らんじゃろ。好きな所に行って、好きなことをやれ」
「……あんた、本当に金貸しか?」
「最初に言ったじゃろ、金貸しをやってる道楽者じゃ」
「道楽が過ぎないか?」
「金は使ってこそ金じゃ。使えないほど持っていたって意味はない」
そこでマミゾウは笑い声をあげた。演技がかったわざとらしい笑いに正邪には見えた。
「明日からここは針妙丸の部屋じゃ。今日ばかりは同室で寝てくれ。正邪は部屋を片付けるようにな。明日から頼むぞ」
呆然としていた針妙丸は慌てて正座の姿勢を作って頭を下げた。
「よろしくおねがいします」
お前は先に寝てろ。私は部屋を片付けないと。
わかった。
まったくこんなことになるとは思わなかった。助けるんじゃなかった。
正邪……
なんだ?
謝らないから。
ああ、期待してないよ。
謝る気もないし、反省する気もない。もう一回やり直す。何度でもやるんだから。
お前、負けず嫌いだったんだな。
今更ね。
そうだな。
あんた今まで何見てたの?
夢ばっかり見てたよ。お前の演技に気が付かないくらい。
もうちょっと現実をみなさい。
お前だって夢があるんだろ。
あんたよりは現実的よ。
そうだな。
……
まあ、なんだ、お前はお前で頑張れよ。
……
負けたら承知しないからな。
……
おい
……
寝ちまったか。
エピローグ
夜明けを控えた東の空は濃い紫色を帯びていた。西は依然として漆黒で雲の色さえ判別できない。二つの空の間で正邪と針妙丸が話し込んでいた。離れたところではぬえとマミゾウが見守っていた。
「小槌、使いすぎるなよ」
隣の針妙丸は正邪の肩の高さまで背を伸ばしていた。
「何度も言わないでよ。耳にタコができそう」
二人とも目を合わせず、色の変わっていく空を見上げて会話していた。ぎこちなさというよりも適切な距離感をわかっているかのようで、ゆっくりと流れる小川のせせらぎのような会話だった。
「じゃあな」
「じゃあね」
正邪は東の方角へ、針妙丸は西の方角へ歩き出した。
ぬえが正邪に話しかける。
「あんなにあっさりした別れでいいの? お涙頂戴とかを期待してたんだけど」
「もう、そんな関係じゃないよ。用済みになったからお互いに離れるだけだ」
「そんなに嫌いなの?」
「嫌いだよ」
けど、きっとどこかでまた会うような気がした。神子の言葉を借りれば縁があるのかもしれない。縁は縁でも、腐れ縁かもしれないが。
「これからどうするの? また下剋上の仲間を探すの?」
「そのことだけど、どうすればいいかイマイチわかってない」
ぬえが目をまん丸に開いて正邪を不思議そうに見つめる。
「強者を倒せばみんな喜ぶと思ってたけど、違うみたいだ。みんな強者との付き合い方を持ってるみたいだし、倒したら困る奴らだっていそうだ。まず、私が弱者をわからないといけない」
正邪は懐の金の重みを感じながら歩く。歩行のリズムに合わせて服が揺れる。
「金はあるんだ。しばらく放浪するよ」正邪はぬえの顔を見る。「お前も来るか?」
「やだよ。私は世界を相手にするほど馬鹿じゃないよ」
「私は馬鹿か」
「昔の私と同じくらい馬鹿だね」
正邪は首をかしげる。
「あんたもやったことがあるのか」
「若気の至りだよ。ま、せいぜい頑張りな」
ぬえはマミゾウの方へ飛んで行った。
吹き抜ける風を感じて正邪は立ち止まる。髪をかき上げた後、自分の手をじっと見つめた。
あの時、針妙丸を押しつぶそうと考えた瞬間、自分は確かに強者だった。強者と弱者なんて相対的なもので簡単に入れ替わる。小人の彼女はあの瞬間弱者だった。それでも彼女は戦う意思を捨てなかったし、今も小さな足で立ち上がろうとしている。正邪よりも彼女の方が反逆者の称号にふさわしいかもしれない。
のどの渇きを感じて、水筒に手を伸ばす。中身はただの水でなんの味もしなかった。ヤツメウナギの癖のある味も、きゅうり味の青臭さも、ワインの渋みもなにも感じなかった。味が欲しいと思った。なんでもいい。おいしくても、まずくてもいい。無味無臭ではつまらない。これから見つけなければいけなかった。
「やってやるさ」
太陽が昇り始めた。東の空は青くなり始めて、白い雲が散らばっているのが見えた。
眩しさに目を細めた正邪は顔の前に手を伸ばす。手を太陽に突き出して影を作って、青い空を見つめる。
今、正邪の手の中に太陽がある。
マミゾウが針妙丸に話しかける。
「あれでよかったのか」
「いいのよ。一緒にいたら喧嘩するだけだもん」
針妙丸は振り返って正邪の背中を見る。目を細め、ここではない遠くに思いを向けた。
「私の故郷にはあんな奴いっぱいいたの。敵わない怪物を倒して、先祖の栄光を継いでやるってね。馬鹿にしか見えなかったけど、ああいう奴に限って青空みたいに綺麗な目をしてるのよ。見るのが嫌だった」
「気にしすぎじゃないか。儂はおぬしの眼差しが力強くてよいと思うぞ。融資の交渉をしているときは凄かったぞ」
針妙丸は首を振った。マミゾウとは目を合わせず伏し目で返答をする。
「私の目は血走ってる。首を曲げて足元ばっかり見て自分を大きく見せる方法を探してるの。全然綺麗じゃない」
マミゾウは後ろから手を伸ばして、針妙丸の頬を挟み込んだ。潰れた饅頭みたいな顔をした針妙丸がくぐもった声で抗議する。
「ちょっとやめてよ」
マミゾウは後ろから声をかける。母親が子供に話しかけるように優し気な口調で語りかけながら、針妙丸の顔を上にあげようとする。
「いいじゃないか。今のおぬしは何者でもないんだ。今だけは顔を上げて空を見てもよいじゃろう。星が綺麗じゃぞ」
紫色の空には月と数えきれないほどの星が光り輝いていた。星は一つ一つでは大した意味がない。けれど、砂粒のようにたくさん集まると、星は星座の一部となる。月や星座は暦になり、物語の礎になる。青空でなくても夜空は美しく、人を引き付ける。
「ホント、綺麗ね」
顔を上げた針妙丸の瞳には月と星が映り込んでいた。
鬼人正邪の目の前には太陽がある。どれだけ眩しくても彼女は目を閉じない。背中を向けない。
少名針妙丸の目の前には月がある。どれだけ暗くても彼女は目を開き続ける。顔を上げる。
そうして、二人は歩き続ける。
そう思わせるものがこの作品にはありました。面白かったです。
読んでいて引き込まれました
水の味に物足りなさを覚える場面がお気に入り。
出てくるキャラ全員の台詞が妙に力強くて、すらすらと読めます
悩み、倒れ、また歩き出す。
強い者の生き方を学び、しかし媚びず、頼らず、我が道を行く。
強者の多い幻想郷で、ちっぽけな天邪鬼がどう成長するのか。
いいお話でした。
無味無臭じゃつまらない、タイトル、素晴らしかったです
あとは顧客であるミスティアといいにとりといい神子といい、正邪と同じく夢があって弱者と強者のなんたるかをしっかりと弁えている感じもまた言い合いに一定のディテールを与えていて。三者三様の飲み物を挟んでサシで話す、その妙に輝かしいばかりの生き様は正邪をまた引き立てていたのかもとすら思わされるようでした。
短い訳では無いけれども淡麗で、時折挟まれる幻想的な風景描写も正邪と針妙丸の間に流れる空気を絶妙に表現されていて、本当に引き込まれるかのような話でした。面白かったです、ありがとうございます。