この平穏なひとときを心に刻もう。野いちごとミルクの器、君たちの顔、眠っているミカエルとヨフの楽器、交わした言葉、この手に記憶を留めよう。こぼれぬよう、そっと優しく抱こう。それが恵みとなり、喜びとなる。 ――――『第七の封印』
「おお、目連殿。それがお好みか」
時刻は21時を過ぎた頃。祭り囃子のような騒がしい音が部屋の外、何処かから届いてきている。
宇佐見蓮子は自室のソファでうつ伏せになり、顔だけ上げて、絨毯の上をすいすい進む猫を退屈そうに眺めていた。猫の名前は目連。メスの三毛猫で、特に資産を増やせるものではない。蓮子の掌の中には、実家から持ってきたお守りの袋があって、それを無意識に弄んでは、また猫に視線を戻して時が過ぎるのを待つ。
3。それは素数であり、素数だけを並べた時に素数番目に来る最小の素数である。上から1、2、3個の点を並べて正三角形を作るとき、1と2だけの段階で3の三角数は出来て、これは唯一の素数の三角数である。
猫は今、3つある中のものから、ひとつの選択をした。
その分岐した未来は、ひとつは牛の肉を燻蒸させて味付けを行った棒状の干し肉で、ひとつは缶詰の中に収まったフレーク状の赤い詳細不明の魚肉、最後のひとつはモース硬度7を越えるカツオの燻製の削り節である。
目連殿はひらひらと風に舞って飛んでいきそうなカツオ加工食品を選んだ。遺伝的反射における食欲か、経験による味の想起か、それとも蓮子が置くことによる場の支配に影響されたのか。置く順序はジャーキー、猫缶、鰹節の順だが、それを配置する瞬間は見せていない。リビングを閉ざしていた扉を開けて、目連殿が入場するまでの間、蓮子はじっとそれら3の数を凝視していたが、特に爆発したり虫が生まれたりなどのイレギュラーは発生しなかった。
なぜ、彼女は選んだのだろう。
そう考える間もなく、目連殿はひとつ隣に移動していた。鰹節を食べ切ったのだ。みるみるうちにそのネコ目のネコは、提示された晩御飯を消化していき、また移動して、次の選択肢へと向かう。やがて3は0に。器だけが残る。
しかし、彼女はまだ諦めなかった。器のもとに戻ると、野生では肉を削ぎ落とすためにある糸状乳頭の群生する舌を使って、丁寧に残った味を拭っていく。食品を置いた順序で表すのなら、3、2、1、2の順で選択は行われた。
……で。
それが何を指すのだろう。
目を細めて猫の真実が見えるかどうか試してみた。もし、この選択時、猫の食卓が大きな箱で隠されていたら――――猫が満腹になった結果だけを見ることになるだろう。
食べる順番に意味はあるのか? 猫にはあるだろう。食欲をコントロールして、食事中はより美味しさを感じられるように、食後は満腹感を得られるように。宇佐見蓮子の持つ物理学の知識では、ボソンの作用によって味の変化を楽しもう、なんて難しい課題を解くことはできなかった。
マエリベリー・ハーンの事を考える。それは、蓮子と同じオカルトサークルに所属している、心理学、民俗学に詳しい学友だ。彼女なら猫の理由を取って付けることも可能だろう。
今や世界はグローバル化を果たしている。電波によって遠隔通信が可能なのだ。電信は記号から音声になり、音楽や映画までデジタル信号で仮想的に上映できるようになった。その通信機自体も徐々に小型化していき、手のひらに収まるサイズにまで進化した。
だがそれ以降、主だった変化は訪れなかった。機能が多様化するほどに利用者が増え、周波域の争奪戦が起こり、回線速度は頭打ちになる。便利さゆえ、何もかもが電子化される風潮は加速して、個人情報が簡単に閲覧できるようになり、そのセキュリティキーは複雑化を極めた。今ではUSBセキュリティが当たり前で、デジタル化された個人そのものよりも、セキュリティキーの方が文字数が多い始末だ。こうなるともはや、セキュリティこそが個人なのではないかと錯覚してしまう。
一昔前の折り畳みラップトップPCと小型タブレットを合わせたような形状の総合通信端末が、蓮子の寝そべる横に立てかけてあった。なんとはなしに開き、SNSサービスを使ってメリーに連絡を取ってみる。蓮子はまず、こう書いた。
『TRPGしてみない?』
すぐに返事が来る。
『藪から棒に……。どうしたの?』
『いや、サイコロを振ってみたくなっただけ』
TRPGとはテーブルトーク、つまり机を囲んで行う座談冒険ゲームの一種である。実書籍であるルールブックに従って、創作されたシナリオ内で目的達成を目指す。最低でも2人、進行役と探索者が居ればできる手軽な暇潰しの手段だ。
大体20時を過ぎると、二人はSNSにログインしていつでも話し合えるようにしている。内容は、オカルトサークルの議題に、学業の相談、その日の天気から食事に至るまでの日常すべてに、暇になるとTRPGのセッションもする。
『サイコロなら、“4人対戦用ゲーム”でいいじゃない』
テーブルトークでは、より数値的なゲームの要素を確立するために、判定にダイスが使われる。これは、場合によってはほぼ球体である100面の仮想ダイスが必要になる。
『“4人対戦用ゲーム”って、6面のダイスを振って大きい目が出たら勝ちっていうやつ? しかも妙に容量がでかい。……少し疑問だけど、メリーってたまに変なの発掘してくるよね』
『変とは何よ。わたしも開発に参加したんだから』
『なにそれ初耳』
『意外にすごいエンジンが積まれてるのよ? 心理学的な“判断”の研究課題なのよ。実は出たダイスの目を画像的に判断して、4つの結果の中から最も大きな数字を選んで、勝ちに値するものがどれか、を悩みつつ決定する人工知能が組み込まれてる』
『……うーん。つまり、知能的に判断するから、たまに間違える事があるって事?』
『いえ、あくまでゲームだから、間違った答えを出しそうになったら計算結果を正しいものに修正してる』
『意味ないじゃん!』
毎日の定例のように電子的会話が始まった。夏期休暇の空いた時間、その日に起きた他愛ない出来事を互いに提出していく。しばらく話したあと目を現実に逸らすと、目連殿は器用にも半開きになった扉の上の、木の厚みの部分に箱座りをしている。再びSNS上に戻ると、会話は、TRPGの実践へとシフトしていった。
そのゲームのプレイにはシナリオが必須だ。しかし、暇にかまけて大凡のシナリオを経験してしまった。ならば、既存の物語を改変してみればどうであろう、というアイデアが出て、メリーはひとつの可能性を提示した。
『そういえば、シナリオに最適な素材があるのよ』
メッセージに貼られたのはある動画へのリンクだった。
『なにこれ』 蓮子は訝しむ。
『最近都市伝説系サイトに上がった謎の動画。シナリオに活用できそうじゃない?』
見てみると、それは不気味なものだった。
ハンディカメラで何処かの塔をあがって行く様子が撮られていて、最上階に辿り着くと、撮影者の男は何十分も掛けて壁に数式を書いていく。そして「私はゼロ点だ」と低く呟くと、唯一ある窓から飛び降りて居なくなってしまう。そのあとは何時間も定点を映し続けるだけの動画になるようだ。
『コズミックな恐怖を感じない? 蓮子』
『確かに怖いけど……何だろう。なんかモヤモヤする』
『……多分そのモヤモヤは“誰が動画にしたか”よ。撮影者が飛び降り自殺したのに誰がカメラの映像を入手したのかって部分。一応、あとから塔を昇った人が見つけたって注釈あるけど眉唾よね。今のところ主説となってるのが、天才数学者と云われるほどの実力を持った学生が、“ゼロ点”である自分の評価に絶望して自殺した映像、とか云われてるみたい』
『うーん。そうじゃなくて……』
『事件になってない、って事? その部分はボカされてて、死体が見つからなかっただの、映像を入手した人間が秘密裏に埋めただの、諸説あるわ』
蓮子は動画を見返した。メリーが謂うような違和感ではない。動画の、もっと映像的な部分に引っ掛かるものがあるように感じた。手持ちの物理学知識で、“彼”の描いた数式を読み取っていく。すると、ある閃きがあった。再々度、映像を再生し直す。
『メリー。もうちょっと複雑かもしれない』
『どういうこと?』
疑問を浮かばせた彼女の期待に応えてやる。
『この数式、例えばAからZまでの26文字分の変数を使った公式だけど、これは不完全な素数公式のひとつなんだ』
『そこに注目するのね』
『他のも、ゼータ関数やら虚数が使われているものが大半。あとこの“ゼロ点”の声、かすれて聴き取りづらくなってるけど、“私がゼロ点だ”に聞こえない?』
『うーん。確かに云われてみれば』
『多分、リーマン予想なのよ。“ゼロ点”はゼータ関数における零点。どんな素数でも取り出せる“秘密の小道”みたいなものの事。つまり、動画中では彼自身が不動の真理の中にいる』
『すごい飛躍したわね』
『現代の数学はもう論理学と空間把握能力を合わせたみたいなものだから案外正しいはずよ』
『わからないという事がわかったわ』
もし、物事に、人間の意志を左右する要素がいくつか散りばめられているとしたら、その後の“行動の決定”は誰が判断するのだろうか。メリーが協力したゲームのよう、“何者かの強制”を受けて出力を変化させるだろうか。
わからないままであれば、意志の決定は自分のもの。
もし、わかってしまったら――――
蓮子は、映像に記憶された情報を読み取っているうち、あることに気付いてしまった。窓の外。ああ、窓に、窓に!
『メリー。窓から、月が覗いてるわ。……この場所、“宝ヶ池観測塔”だ』
宇佐見蓮子は、星を見ただけで時間がわかり、月を眺めるだけで位置がわかる程度の能力を持っている。
マエリベリー・ハーンは、結界の境目――つまり超自然が見える程度の能力を持っている。
「わざわざ時間まで合わせる必要はなかったんじゃない?」
蓮子がメリーに直接声で話しかけた。
メリーは蓮子に正面から言葉で答える。
「偶然明日が映像記録から4周年ってわかったら、もうそうするしかないじゃない。蓮子が約束の時間から遅れるのも想定済み。完璧な時間調整をしたわ」
4周年。二人の目の前には塗装の剥がれかけた橙色のフェンスがあった。宝ヶ池観測塔は、約50年ほど前に建てられてすぐにも廃棄された、ある公園内の名所になるはずだった建造物だ。詳しい事情はわからないが、耐震やら禁止建材やら偽装の類があったそうだ。何の因果か、それは取り壊されずにずっとある。
高さは15mほどだろうか。離れた場所から懐中電灯を当てて見上げるが、さほど高くないように感じる。長年の風雨によって黒ずみ、まるで管理が放棄された宇宙センターのH2ロケットの先端のようだ。
「……結局、乗り越えていくのね」
フェンス横の小高くなっている傾斜にぐいぐいと昇っていくメリーを追って、蓮子はひとり呟いた。今、二人はとても動いたりするような格好ではない。蓮子は風通しの良い白シャツに黒のスカートを軽く巻き、リボン付きの日除けのツバ広帽子を被っている程度で、下草を払うナイフや、緊急時の包帯や水筒を持っているわけではない。あるとすれば願掛けのお守りくらい。フェンスのささくれた鉄サビに服の端が引っ掛かってしまえば、例えどんなにお気に入りのアイテムだろうがすぐにビリビリに破れてしまうだろう。
メリーも同じような服である。濃い青紫の薄手のワンピースと、ナイトキャップのような髪留めだけ。ヒールでなくブーツなのが唯一の幸いだろうか。急な傾斜を無理に先行くせいか、スカートの隙間から下着が見えてしまいそうでヒヤヒヤする。――まあ、夜25時半にこんな場所に訪れているのは自分達だけなので、誰かの目を気にすること自体間違いなのかもしれないが。
「当たり前じゃない」 と、メリーは返した。はて、何の事だったか。ああ、障壁を乗り越えていく独り言への返答だ。
「……メリー。本当に気をつけてよ。命あっての冒険なんだから」
「問題ないわ。だって、巨大ネズミや、火を吹く鳥が出てくるわけじゃないもの」
それが冗談なのか本気なのか、蓮子には判別がつかなかった。これまで幾度となくメリーは異世界旅行を成し遂げている。そのたびに、変な石やら謎の病気やらを持ち帰って苦しんでいるのだ。ただちに死ぬ恐れはないとしても、警戒する価値はあるはずだ。蓮子は余裕綽々のメリーを尻目に、気を引き締めるよう大きく息を吸った。
人間の作った境界を乗り越えるのは容易であった。二人の眼前にはすでに塔がある。入り口は狭く、腐った雑誌の破片や砕けた瓶などが散乱していて薄汚い。バリアフリーなどという概念はなく、大人二人がギリギリ横に並んで入れるくらいの階段が奥へと続いている。
「ただの廃墟感」
「メリー。足元に注意して」
転ばないようにゆっくり残骸を踏み越えていく。塔の内側に侵入すると、懐中電灯が破壊された看板を照らし出した。“老朽化により危険。立入禁止”どうやら、自分達以外にも何人も、いや、何十人も肝試しに来たのか、注意書きには大量の足跡が残っており、折り倒されてすでに看板としての機能を奪われてしまっている。内部のすぐそこには、赤いスプレーで“もっと光を!”と書かれていた。
「ねぇねぇ蓮子。ドキドキしてきたわ」
閉所に突入して急にメリーのテンションが上ってきた。蓮子は苦笑いしながらその様子を観察して、ふと思う。もしかして、すでに“境界の境目”を見つけたのか?
「メリー。何か、視えたの?」
すると彼女は目を輝かせながら答える。
「いいえ! けど、楽しいの。秘密基地の冒険みたい。地下があったら良かったのに!」
彼女はひとりでどんどん昇っていってしまう。宝ヶ池観測塔の内部構造は、まるで銃身にスプリングを詰めたような設計がなされていた。最上階まで、たった一本の螺旋階段により繋がっているだけの、シンプルな形。途中、槍衾にでも使うかのような小さな窓が幾つかあるだけで、特筆して目を引くデザインは何処にもなく、かつてあったはずの鉄製の手すりは崩れて、階段に添えるように落ちて埃に塗れていた。
稼働直後ではなく、建造途中に廃棄されたものかもしれない。塔の中心を穿つ支柱は、ところどころコンクリートが剥がれて鋭い岩肌と鉄骨を晒していた。メリーを追い、昇るに連れて、徐々に壁際に文様が増えていく。
それは、例の数列だ。
呪詛か魔方陣か、描きながら天頂を目指したにしては、量が異常だ。噂に釣られた不特定多数がお巫山戯で追加したのか、それとも元々存在していたのか判断しかねる。物理学の宿った蓮子の目には、どうもそれらが、ひとつの計算結果を導くために積み重ねた数式の証明には見えなかった。むしろもっと抽象的な、例えば、箱の中にぎっしりと“この世界に与えられたあらゆる数式”が詰め込まれているとして、その位置関係的な分布を正確に“図”にしたような――――
「あ、そうそう蓮子。この塔、どうして作られたか知ってる?」
先を進んでいたメリーが足並みを揃えてきた。“図”の考えを一旦蓮子はストップする。もし、未だ発見されていない、ミレニアム懸賞問題の解決のひとつが描かれていたとして、どう解読すれば良いのだろう。蓮子は掌中にある携帯端末を使って、その文字列を撮影するに留めた。二人は並列して、ゆったりとした会話が始まる。
「ううん。調べてない。観測塔って名前からして、最上部に望遠鏡でも取り付ける予定だったのかしら?」
「惜しい! 半分正解。――ねぇ蓮子、その写してる数式って、もしかしてすごい?」
写真一枚ごとにフラッシュが焚かれ、稲光のように辺りを照らし出す。自分達の影が予想以上に伸びていて、亡霊と勘違いしそうだ。
「ん。大体ネット検索でも出るようなものばかりだよ。それよりもさ、“観測塔”の答え合わせお願い」
「そうね。此処、本来の目的では、アンテナが付く予定だったそうよ」
「……アンテナ?」
蓮子はそのまま単語を復唱する形でメリーに問いかけた。何を受信するつもりだったのだろう。塔自体、構造はシンプルであるし、近辺に府立大や産業大があるといっても、この規模の施設ではやれる事はたかが知れている。
「そう。アンテナ。ポイントは、それが受信するものではなく、送信するものだったってこと」
「んー。それじゃ、ますます“観測”から遠くならない?」
「いいえ。観測で合ってるのよ。つまり、“私達”ではなくて、“相手側”に観測させるための塔なのよ」
彼女の知った塔の目的とは、二十世紀初頭に流行ったと云われるSFブームを髣髴とさせるものであった。アンテナを向ける方角は宇宙のその向こう。ここで謂う“相手側”とは、地球より遠く離れたどこかの星の、知的生命体に対してであった。
すなわち、宝ヶ池観測塔とは、公園のていを利用して子供達を集め、毎日無数のメッセージを宇宙に向けて照射するという、時代遅れの浪漫の詰まった遊戯場であったのだ。
「まあ、実現はしなかったらしいけど、面白い試みだったと思うわよ。私は」
メリーは肯定的に解釈していた。ただ、理性的に考えると、はるか遠くで受信を待つ宇宙人とやらが、電波を解読する装置を持っていて、更に地球人の暗号を解読する脳機能を有しているうえに、そこに到達したのと同じ時間を掛けて返信を待たねばならぬという三重苦が壁として立ちはだかっている。蓮子は苦笑いを返すしか無かった。何故ならば――
「相手側が好意的じゃなかったら、とてもヤバイ気がするわ」
世の中のSF小説には、宇宙高速道路を敷くために地球を破壊するというものまである。子供の残したメッセージが、もし、相手を中傷するものだったり、そうでなくとも、表現によっては侮蔑に当たるものであったらどうなるだろう。
バベルの塔が崩壊せずとも、地上と宇宙には言語の違いがあるのだ。
「蓮子。それこそ宇宙戦争が起きたらチャンスよ。何しろ、相手は星の海を越えてこれるほどの技術力と精神性を持ってるのよ」
ウキウキと弾んだ調子でメリーは云う。欲深い人間ならばその異星人の文明をも奪取できるとでも言いたそうだ。実際にスペースノイドが居るとしたら、どんな存在であろうか。物理世界が、宇宙の端まで広がっているとは限らない。この場所の数式も、絶対普遍の原理であるなんて、どの神が保証してくれるだろうか?
「ねぇ、メリー。飛び降りた数学者と、塔の成立。関係あるかな?」
「どうかしら。実用の見送りから廃止までは、調べた感じ施工側のミスと事業撤退から来てるらしいけど……。特に、霊的施設の上に建てて呪われたとか、建造のために犠牲になった人がいるとか、そういう噂もないわ。もとは競馬場があったって話だし」
と、そのとき、足音が一際大きく響いた。二人は肩を跳ねさせて、唯一ある懐中電灯で周囲を照らした。どうやら、最上部の寸前まで来ていたようだ。鳥籠のようになった上階は、音がよく響く。
最後の一歩を階段から抜き放つと、ようやくその終着駅が姿を現した。がらんどうの部屋。二人が光の中で仰ぎ見ると、真上には大きく“8”と描かれていた。
「動画のところね」
メリーが云う。少し踏み出すと、足下で枯れ葉の割れる音が聴こえた。いつ頃から残っていたのか、そもそも、どうやって吹き込んできたのか、まるで秋の絨毯のよう、砕けた植物の残骸が散らばっている。
塔の最上階には、何もなかった。殺風景な石造りであり、宇宙人との交信を求めていた者達が夢見ていたような知的な構造はどこにもない。四方に、数学者がそう出来そうな、身体を乗り出せるだけの小窓があるだけだ。幾何学模様や人類学的に重要なモチーフは一切模られておらず、見ず知らずの狂人が書き記した数式のみが異様さを醸し出していた。
「すごい数の書き込み……。メリー見て。この絵」
目を降ろしたとき、ふと蓮子の視界によぎるものがあった。それは部屋中央、おそらくアンテナと繋いだコンソールを置くための、台座。その上に、数字ではない奇妙な図形が描かれている。
「なにこれ。可愛い」
鯨だ。黒いペンで縁取られ、たった一匹だけ存在している。胴体には“52”の数字が乗せられていた。
「メリー。猛烈に嫌な予感がするの。何か、結界のほころびとか生まれていない?」
突然何かに取り憑かれたように怖気が走り、蓮子は周囲をキョロキョロと見回し始めた。彼女には霊視能力はない。だが、胸騒ぎがその心臓の中でどんどんと大きくなっていった。メリーは不思議そうに首を傾げ、当の本人に尋ねる。
「蓮子。どうしたの? 今のところ、何の裂け目もないわ」
云われるが、奔り出した恐怖感はそうそう止まらない。蓮子は怖ず怖ずとして答えた。
「52ヘルツの鯨よ。“世界で最も孤独な鯨”」
「――その鯨、曰く付きなの?」
「いえ、そうじゃないけど……ただ、少し不気味な話なのよ。今から何十年も前に、アメリカからアラスカあたりの広い範囲の太平洋沖に、普通の鯨よりもずっと高い鳴き声を出す“鯨”が観測されたのよ。ただ、漁場に危害を加えたりとか、それが現れる時だけ怪奇現象が起きるとか、そういうのは無いの。そのかわり、誰もその姿を見たことはないし、今でもそれは“誰か”を求めて周遊している――」
「ちょっと怖いけど、何かロマンチックにも感じるわ」
「この52の真上には、8の数字。引き落とすと“44”で、52をトランプの絵柄で分類すると“13”が“4”つ出来る。何か不吉に見えてきたでしょ?」
「なんかこじつけ臭いけど――――まあ確かに、52は六十四卦で云う“艮”、つまり陰陽道での丑寅で鬼門ね」
「メリー。少し待ってて」
ある思いつきから、蓮子は携帯端末を操作し始めた。すぐにも目的のものに行き当たって、メリーにも見えるようにそれを提示した。
「これこれ! よーく見て!」
「これは……飛び降りのやつね。蓮子、何を見つけたの?」
彼女はその発見に気付かないようで、何度も瞬きをしながら動画を凝視していた。蓮子は画面を指差して答える。
「方角よ。カメラが向かっている窓。数学者の落ちたあそこ――」
そして現実にある窓を指して示す。四方ある中のひとつ。数式の落書きが一致するそこは、他の小窓に比べて若干光が少なかった。その日、京都の周囲には“電子化”された5つの送り火(文字は6つ)が皓々とあるはずで、そうでなくとも街自体の電光が花のように咲いているのが当たり前だ。日本の首都が東京から京都に移って以来、近代化は夜の光と云う形で古風な街並みを奪っている。つまり、宝ヶ池にて光の無い方角とは、
「北のほうね。けど、“法”の火が現実ではあっちにあるから、正確には北西……鬼門ね」 メリーはついにその忌避点に気づく。
「うん。つまり天才数学者の見つけたゼロ点は、物理的には古くからある鬼門に関係していたって可能性が……」
「蓮子。それは希望的観測よ。順序を逆に考えたら、何かに“憑かれた”数学者が、ゼロ点という幻想を夢見ながら誑かされて落ちていった、とも解釈できるわ」
「あー……そっか。色々考えられるもんね。この“8”だって、もしかしたら“∞”かもしれないし」
「確かに蓮子の言うような、“万能の零点”があるとしたら、8でも∞でも、52を足して出た“60”でも、縁起的には正しいわ。けどそうなると、縁起がいい数字を不吉な鬼門と関係させる、あわよくば同一視するこの場そのものが矛盾してしまう……」
話すほどにますます混乱していく。都市伝説はこういう煮え切らない部分があるからこそ存続するのかもしれない。何か他に手掛かりが見つからないかと、蓮子は靴を使ってその足元の枯れ葉達を横に避けていった。すると、一本の線を見つける。
「ん? なにこれ」
「どうしたの蓮子?」 メリーがその背に被さるように覗いてくる。
「いや、数学者の窓のところだけ切り取ったみたいに、妙な線が……」
それは線というよりは、境界に近かった。まるで鬼門の部分だけ後で取り付けたかのように、床面から壁、天井へと周る薄い接着面がある。蓮子が手で触れてみると、材質が他の面とは明らかに違っていた。石のテクスチャをまとった滑らかなプラスチックのような、硬くも柔らかくも感じない異様な触感だ。懐中電灯を当てて目を凝らすと、描かれた数字達も、一線の向こう側のものは塗料を介さず石材そのものが文字と混成されているようだった。
「メリー。やっぱり何か変だよ……結界の切れ目見えてない?」
蓮子はその区域にもうひとつ奇妙な箇所を見つけてしまう。壁面には窓に連なるように小さな四角い凹みがあった。四方には古びたリベットの穴――形状を見るに恐らく、何かのプレートが嵌め込まれていた跡だろう。
違和感が気味の悪さとして実を結んでいく。実像を見遣る蓮子とはまた違った視線で、メリーは虚空を探し始めた。自室の中で感じたような、祭り囃子に似た騒がしいノイズが、静寂の中に幻聴として混ざるようになった。
「ねぇ、窓の外、何か」
月。目を泳がせて、メリーは何かを視たようだった。続いて蓮子も身体を翻し、二人はそのボーダーラインを超えて、鬼門の端へと向かった。
――――瞬間。
ドン、と花火が打ち上がったような音が重力の反転とともに訪れ、視界は真っ暗になった。
時刻は、ちょうど深夜二時。
気が付くと、眼前には夜空が広がっていた。蓮子は肩を震わせて、自分の意識があることにまず驚いた。知らずのうちに忘我の境に入っていたようで、随分時間を経てしまった感覚に襲われた。場所は変わらず塔の最上階。枯れ葉に包まれた数式の部屋だ。瞳は窓から外を向いていたようで、懐中電灯とともに室内に見回す。照らされた先に息遣いはなかった。
メリーが居ない。
何が起きたのか理解できなかった。だが、その不安も、窓の縁から身を乗り出して、地上に電灯を向けることで解消された。彼女が塔の麓で座り込んでいる。光を当てるとこちらに気付き、蓮子の姿に向かい手を振ってきた。僅かな離別と暗闇の恐怖を振り払うよう、蓮子は塔を駆け下りて、その前まで辿り着いた。
「メリー! 居なくなっちゃったかと思ってびっくりしたわ」
声を掛けると、彼女はまるで先程の自分と同じように、現実を見失った風に目をパチクリさせて、そして僅かな沈黙のあと言葉を発した。
「メリー……? メリー。ああそうね私はメリー。ところで、帰り道を教えて欲しいの」
何故だか話慣れないようにメリーは声を詰まらせた。その音声自体も喉が渇いてくっついているのか、妙にかすれていた。彼女は懐中電灯を持っておらず、異様に疲れた顔で目を合わせてきた。まさかまた、メリーだけが時空間のねじれた結界の向こう側に飛ばされて、今帰還したばかりなのかもしれない。
「メリー大丈夫? ここはもう宝ヶ池観測塔よ。家に戻る前に自販機で何か買いましょう」
探索はもう終わりにしようと蓮子は考えた。メリーの状態を察するに、私見を出し合ったりオカルトの探求ができる余裕は残ってなさそうだった。彼女の手を取り、来た道の、塔を囲むフェンスを越えられる小高い傾斜を昇っていく。
「段差、平気?」 蓮子はメリーを気遣う。
「うん」
先行くと、侵入のとき蓮子自身が経験したような、スカートを仰ぎ見るような位置関係をメリーに与えてしまう。しかしやはり、衆目の環境にないし、同性であるから特に気にしない。――そういえば、都会特有の、遠くから響く喧騒がない。深夜の公園廃墟だから当然なのかもしれないが、日付的に200mも南へ下れば、姿を変えた伝統――五山送り火の“妙法”が、原子力由来の送電によって作り出された電光によって、夜中点火しているはずだ。携帯端末を覗くと、午前二時を過ぎた表示となっている。こんなに、静かだったか? 圏外だ。
50年以上前から手入れされていない古い小さな山道を下っていく。言葉は少なく、とにかく今は高野川が見えるあたりまで戻り、地下鉄烏丸線に乗って早く帰途に就きたかった。メリーは辛そうに表情を歪めていて、蓮子が『立ち止まって少し休む?』 と聴くと、『いいえ、急ぎましょう』 と気丈にも返してきた。進む。
――――が。
思いもよらぬ妨害が入り、二人は足を止めた。
山道はもうすぐにも下りられそうだった。目と鼻の先で、街頭がそのコンクリートの道を照らしている。
照らしている、が、そこは見覚えのある道路ではない。
いや、正確には、何千回とも繰り返し通ってはいるのだ。しかし、その道は、空間的にそこにあるはずがないのだ。
眼前には、一軒のマンションが唐突にそびえ立っていた。
「嘘……。なによこれ」 蓮子が小さく呟きを漏らした。
「何? 何かあったの?」 遅れて追いついたメリーが疑問を返してくる。
「メリー。見て。私の――――マンションだ」
奇妙な感覚だった。学業やトラブルに疲れ果てて、すぐにも部屋で横になりたいときにその願いが叶ったかのような、夢に似た、都合が良くどこか恐怖を覚える不条理さだ。
「やっぱり……」
それを見て、メリーは何か納得したように頷いた。
「メリー。何か知っているの?」
「いえ。確信はまだ持てないわ。行ってみましょう」
選択肢は幾つかある。塔に戻るために暗い山道を引き返すか、眼前に立ち塞がる予想外の建造物に侵入するか、もしくは、地下鉄に乗り込み、本来ある自宅の座標に向かうか。少し迷ったのち、蓮子は促されるまま、爪先を真っ直ぐ前に向けた。
建造物敷地には自動車がひとつも停まっておらず、人影も、生活音も見当たらない。オートロック式の入り口自動ドアは電源が入っていないようで、手でこじ開けるしか無かった。もちろん、エレベーターも同じく、稼働していない。ポストの中身は空っぽであった。
言葉少なげに二人は階段を上がっていった。蓮子の部屋は高層階でこそ無いが、京都をある程度見渡せる高さにある。マンションの内壁は記憶と寸分違いなく、大いなる時の流れに残された、なんてことはなさそうだ。やがて辿り着いた階層を進む。渡り廊下のモダンな蛍光灯が規則正しくパチパチと点滅を繰り返していた。
「ついたわ」
くすんだ橙をしているドアの前に漂着する。蓮子は腰ポーチのポケットから家の鍵を取り出して、メリーに振り返った。塔の前から随分と時間が経ち、彼女を支配していた気疲れの表情は薄くなっていた。
「宇、佐、見……」
青い薔薇と“宇佐見”という文字の描かれた表札を見てメリーは小さく呟いた。今では“不可能”ではなく“運命”の花言葉を持ったその花は、2つ寄り添って彫られている。別に珍しい柄ではないはずだが、ネームプレートすら入れていない世帯が増える今、名前を掲げるのはやはり変だろうか? 蓮子はそんな、他愛もない想像をしながら鍵を挿し込んだ。
「あれ」
しかし、鍵は動かなかった。抜き取って先端を見てみるが、間違った鍵を入れているわけではない。表札の名前はあっているし、部屋の番号も、階層も正解のはずだ。変だ、と眉根を寄せ、ダメ元でそのドアのノブを回転させてみると、何と、鍵など初めから無かったかのようにそれは開いてしまった。
「どうしたの?」
「ううん。何でもない」
メリーの問いに簡潔に答えた。良く考えれば、このマンション自体が異物なのだ。鍵のひとつくらい機能しなくて当然か。
――――ならば、部屋に入ること自体が危険なのでは?
蓮子が二の足を踏んでいると、メリーはそのドアの隙間からするりと部屋に入っていってしまった。慌てて先行く後ろ姿を止めようと踏み出すと、内部に広がっていたのは何でもない、ただの自室であった。
東京から越してきて以来住み続けた部屋。一室のリビングと、簡素なユニットバス。オール電化の小さなキッチン。桃と絹白のカーペットの上にある透明なデスク、それに乗った大きい方の通信端末、家族から渡された古い衣装箪笥、星柄のカーテンに、ペイズリーの敷布団の上に掛けられたシーツ、柔らかい新素材の枕……沢山のオカルト本が詰め込まれた本棚に、あぶれて床に積み上げられた本、唯一ないとしたら、飼っている猫くらいだろうか。
塔の上階にあったような一瞬の異変は来なかった。ただ、ただ、そこにある。何も起きない。背筋に嫌な汗が垂れていった。何かが起きているはずだ。けれど、何も掴めない。京都にあるはずの自分達は、本当は何処に居るのか。ベッドで一度眠ってしまえば、すべて夢の泡沫のように消えて、当たり前の朝が始まるのではないか?
ふと思いついて、蓮子は部屋の窓から夜空を眺めた。
宇佐見蓮子は、星を見ただけで時間がわかり、月を眺めるだけで位置がわかる程度の能力を持っている――――
「あ」
漏れる呻き。蓮子は絶句した。
掲げられる星と月。瞬くそれら幾光年も離れた輝きは、何もかもが“新鮮”であった。こちらの様子に気付き、メリーが歩み寄ってくる。
「どうしたの?」
問われて、蓮子は失った声をぱくぱくと唇だけで表現した。驚愕はしばらく意志の麻痺を引き起こしたが、やがて掠れた言葉が喉を通り、その世界のあるままの姿が声としてまろび出た。
「虚数なのよ」
「……?」
提示された答えを理解できず、メリーは眼で詳細を訊いてきた。蓮子が手に入れた情報とは、おおよそ信じられない物理によるものであった。
「時間が、夜のマイナス216時なのよ。座標ももはや地球上とはいえない。緯度経度で表せるような桁数じゃない……」
それどころか、夏の空とはいえないほどに星座の位置が崩れている。ここはもう、鬼門の中だった。
「嗚呼、やっぱりそうなのね……」
「メリー。――何か気付いてたの?」
「変な場所だとは思ったのよ。何をしても出られないしね。よもや未知の領域だとは」
マエリベリー・ハーンは、結界の境目が見える程度の能力を持っている。その彼女が、打つ手が無いというのだから、つまり、つまりは、この場所は――――
既知と未知が同時に存在し、現実でも空想でも無い、矛盾した新世界なのだ。
宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンは朝を待たなかった。
何が、いつ、どこで、どう変化するか予測がつかなかった。部屋で数分の休憩を挟んだのち、二人は話し合ってこれからの予定を立てた。上階から見た街の姿は星空のよう闇に溶け込んで、遠目からではその構造を把握できない。夜が明けるまで待ち、陽の光の中、安全な探索をしようか?
いや、そもそも、夜がいつまで続くかすら判らない。今は、一刻の時間も惜しい。懐中電灯を持ち、森の中を行くように街に繰り出すのが最適解だろう。
まず、二人は移動手段と食料の確保を第一に考えた。靴を履き、外の空気に触れる。マンションの階段を逆戻りして、地上に足を降ろした。マンション一階には4~5台の自転車が置いてあったが、そのどれもが、チェーンとギアが癒着するような異様な変形があって動かせそうになかった。車は駐車場にも周囲にも一台もなく、他に代替できそうな乗り物はない。そういえば、エレベーターや電子ロックの動力は失われているのに、何故か室内灯や街灯は点いている――作為的な何かの意思を感じる。
空間がねじれたとしか言い様のない公園とマンションの境のコンクリート道路を、二人は北上していく。コンビニの一軒でもあれば良いが、10分程道なりに行くも現れたのは見知らぬ街で、高野川も国際会館地下鉄入り口もまるで無い。道に迷いそうな不安にかられて一旦足を止める。今の持ち物に、ヘンゼルとグレーテルのパンくずとなるようなアイテムは何もない。蓮子の部屋には様々な家具があったが、そのどれも、単なるイミテーションに過ぎず、中身が入っている容器はひとつもなかった。当然、水道も止まっている。
蓮子は手頃な電柱に懐中電灯の柄をこすりつけた。特徴的な傷があれば、踏破した道の目印にはなるはずだ。しかし、コンクリートに見える石の塊は、あの塔の上階で見たような、硬くも柔らかくもない物質で出来ていて、一切の変化を加えることが能わなかった。
一言。二言。三言。蓮子とメリーは他愛のない会話をした。5分もしたら内容を忘れてしまうような、昨日の天気や食事の話だ。やがて、眼前に見覚えのある形状の建物が現れた。それは、この方面にあるはずもない京都水族館だった。
「ねぇ、メリー。行ってみましょう」
個人宅ならともかく、公共施設ならば何らかの手掛かりにありつけるかもしれない。二人は隣接する公園広場の日除けのひさしの下を通って、その玄関前まで辿り着いた。中は閉鎖されておらず、しかし、電源は付いている。半開きになった自動ドアをくぐって、水族館に忍び込んだ。青い壁タイルのあるチケット売り場に人影はなく、ただただガランとしている。丸型の照明や、水槽から漏れる青い“陽光のような光”はあるのに、電光掲示板や電子ロッカーは形だけのイミテーションで暗い。
「メリー、何かワクワクするね」
本来ならチケットを切るはずのゲートを素通りして、蓮子は明るくはしゃいだ。誰も居ないホールはしんと静まり返り、まるで美術館のような雰囲気だった。
「私達の貸し切りなのね」 メリーが応答する。
浅瀬のように誂えられた半水槽に、生物の姿はなかった。季節フェアの描かれたポスターは何故か50年以上前のものであり、より先へと進むと、すでに何年も前に撤去されたはずのオオサンショウウオの展示物サンプルが鎮座していた。何も居ない岩場、何も居ない水槽、中庭部の植物はあらゆる大きさのものが偽物であり、お金を入れても動作しない自動販売機があった。おみやげ店には大量の物品が転がっていたが、そのどれも、ひとつひとつが棚に癒着して、まるで食品サンプルの展示場のようになっていた。
「ねえメリー。このぬいぐるみ、カッチカチ」
まるでゲーム内のポリゴンのようであった。人の居ない水族館は時間を経るにつれ不気味さを増していって、誰も居ない柱の陰や、揺らめく水槽の奥に黒い錯覚を齎した。二人の足音は追跡者のようにホールに大きく響き、異質な空間に閉ざされてしまったという現実感が胸中を襲うようになった。
「ねぇ、……メリー」
何度目かの問い掛け。青い電光に震える水槽を目前にしたベンチに座り込み、二人は隣り合って顔を見合わせた。
「なあに、宇佐見」
「……やめてよメリー。初対面じゃないんだし。蓮子って呼んで」
「………………改めまして蓮子。どうしたの?」
もしあらゆるものがイミテーションならば、食糧もないこの世界でどうやって生きていけば良いのだろう。蓮子はメリーの、膝に載せられた手を横から握りしめた。それは確かに温かく柔らかい。
「――何をしよう?」
「何って……何よ」
あまりに漠然とした提案に、メリーは苦笑いを浮かべた。水槽の揺らぎに呼応するよう、足元に広がる水面の影がゆらゆらと蠢いている。誰も居ない水族館。誰も居ない街。見たことがあるけれど、知らない世界。
静かだ。
「メリー。ねえ。何も思い浮かばないの」
眼を外し、蓮子は無機質な床を見下ろした。どんな場所なのか、何の意味があるのか、これまで予想した様々な姿が、その平坦なタイルに浮かんでは消えていく。言葉は続く。
「……いつもはね。メリーが見ているものが見えたら、感じれるものが感じられたら、どれだけ楽しいんだろうって思ってた。けど、実際こんな広すぎる世界に来ちゃったら、怖くて。――最初は良かったんだけど、立ち止まったら何か…………」
子供の頃に、廃墟と化した東京で迷子になったそのときの不安を思い出す。蓮子は、数式も都市伝説も忘れてしまって、自分の体重がベンチに預けられていることや、近くにメリーの息遣いがあること、瞬きを知らず知らずのうちに何度もしていたことを痛いほどに自覚した。ここは夢でも、現実でもない。
と、その、混乱して血流の滞った頭に、何かが載せられるのを感じた。
「大丈夫よ」
声がする。メリーの声だった。蓮子は気づく。隣りにいる人物が、自分の頭を撫でてくれていた。心臓を刺すような不安が溶解していく。
「“あなたは他の誰かになれない” だからこそ、来た道をきっと戻ることが出来るわ。……きっと」
その手の優しさは、間近に実在していた。何十年も前にも同じように、温かい手を差し伸べられた事がある。迷子のあと、母親に手をひかれる、あの安心感。
――――だが、もはやそれは、学友マエリベリー・ハーンの範囲を逸脱していた。顔を上げ、その目を見遣ると、にこり、と彼女は笑い掛けてくる。
「私は、――他の誰かになってしまうかもしれないけど、私達は出会った。それこそが希望よ」
彼女の笑顔は、何処か寂しそうに見えた。まるで自分自身と比較してそう言っているように。今こそ孤独の渦中にあるように。
「……メリーは、メリーだよ」
蓮子はメリーに体を預けるように寄り添った。何故だか、彼女が消えてしまいそうな気がした。言葉が詰まって、それ以上、二人は何も発さなくなった。
青が揺れている。息遣いが静寂に溶けていき、ただ時間が過ぎていく。
このまま、目を瞑ったら、すべてが夢になっていたらいいのに。蓮子は唇の先で小さくそう呟いた。52ヘルツの鯨は、永久に独りなのだろうか。誰かを呼ぶ声は、誰かに聞こえるだろうか?
時間は絶え間なく続いている。今一瞬も、細胞が再生を続け、血液は養分を運び、心臓は体液を輸送する。意識は連続したスパークによって統合性を持ち、蝋燭の火のように意識、視覚、情景をじわりゆらゆらと作り出していた。
物語は詩的に終わることを許さない。世界は謎ばかりだ。そして解けるものなど、ほとんどない。蓮子とメリーは再び街を放浪する。絵画の中に閉じ込められてしまったように、無機質な石膏で作られたイミテーションの光景が、一歩先、10分後にまたしても待ち受けている。
町並みは、見知らぬ姿に変わっていった。40、50年も前の建築様式を持った、旧日本家屋の一角が現れたかと思うと、次にはすでに失くなってしまったはずの京都ヨドバシが現れる。田舎の方でも中々見られない縁側付きの一軒家に、線路が途切れているもう動かない電車、鳴動しない自販機。
「蓮子。聴いていい?」
「良いよ」
夜は長い。街灯と懐中電灯で照らされるアナザー京都は、遊園地にある迷路のアトラクションのようだ。暗がりには誰かが潜んでいるように見え、実のところ、何もない。妖怪の類が居ないことを喜ぶべきか、誰も居ないことを恐れるべきか。二人はただ、話すことしか出来ない。干渉しようにも、静止した材質で模られた万物は、蹴飛ばしても、拾って投げつけても、やはり傷つかない。予想を並べるだけだ。まるで天才数学者が証明せず残した難解な公式を、必死に解こうと足掻いているかのようだ。
ここは伏見稲荷北にある老舗の並んだ道だ。創業千年を超える祢ざめ家を見送って、赤鳥居のある神社方面へと歩いていく。どんな日でも観光客でごった返していたこの坂道も、今では映画の撮影でも行われるかのようにガランとしている。並み居る商店を進むと、そこに現れたのは稲荷の参道ではなく、蓮子のマンションのような、やはりパッチワークとして繕われた別の場所――――洒落た遊具のひとつもない小さな公園、……南区にある島田公園だろうか?
歩き疲れた二人は、その公園の中央に置かれている藤の絡んだベンチに座り込んだ。下ろした手が藤の蔦に触れる。植物さえも、ああ、硬く、石にようになっている。
「あのね、私は、蓮子の、ココに来た時の状況を知りたいの」
「……どうして? 一緒だったじゃない」
メリーは言いにくそうに俯いて、言葉を選ぶように話してきた。
「正直に話すと、私のほうが先なのよ。此処に辿り着いたのは」
「タイムラグがあったの?」 確かに思い返してみると、メリーは塔の下に立ち竦んでいた。もし、時間的空白があったのなら、その理由としては納得がいく。
じゃあ、どうして、こんなに謙遜しているのだろう?
「そう思ってくれて構わないわ。私とあなたは、来る時間が違っていた。――こうして二人で町を回る前に、一度、私ひとりで色々な場所を回ったわ」
彼女は表情を隠しているが、蓮子にはその顔に落胆の色が浮かんだのを感じた。蓮子が歩んだこの冒険は、実はもうすでに、メリーに踏破されていたのだった。
「……メリー。その、ごめんね。付き合わせちゃって」
「いえ、いいのよ。むしろこれは私が望んだのよ。だって、あなたが来た瞬間、それまでとは――――」
“世界が変わってしまったの”
メリーはそれから、自分に起きた驚くべき出来事を話した。
この場所に訪れたとき、ここには古い様式の京都の姿しか無かった。様々な場所を巡って出口を探したが、かなり長い期間彷徨っても何も見つけられなかった。しかし、蓮子が現れたとき、そこに、突然にマンションが“生じた”という。
ここにある仮説が生まれた。
「つまり、ここは、私達によって成り立っている部分がある?」
蓮子が気付いたそれは、メリーの頷きによって肯定される。メリーがわざわざ彼女に真実を明かさずに付き添ったのは、その変化を、なるべく他の影響を介さずに観察するためであった。
そして、立ち上がり、メリーは、こう証明してみせた。
「蓮子……。これを見て」
言うと、腕を肩ほどまでに上げ、何かに問い掛けるように彼女は念じ始めた。暫くの間、沈黙が園内を支配する。やがて音もなくその目前の地面が盛り上がり始め、四角い形状を象っていく。
呼び出されたのは“扉”だった。
「ねぇ、…………メリー、どういうこと?」
「説明するより、体験してもらったほうが早いわ」
メリーはその扉に手を掛けて、奥へと開いてみせた。そして間髪入れずに向こう側へと進んでいく。平面上の物体なのにも関わらず、その開け放たれた先には全く別の光景が広がっていた。蓮子は横面からそれを覗いてみるが、メリーが反対側から出てくることはない。つまり、空間を歪めた扉――SF漫画であるような、跳躍扉のようだった。
意を決して後に続くと、蓮子の視界はすぐにも岩山に埋め尽くされた。丁度、海の前の防波堤の、テトラポットが積み重なったものに似ている。脱色され白くなったイミテーションの素材を、メリーに続いて昇っていく。身体ひとつ先向こうで、メリーがこう言った。
「これが、この世界の真実よ」
そこには、地平線が、無かった。
ただただ、平面状に広がる、白い物質。うっすらとした光。夜すら存在しない地平線。虚数の海だけがあった。背後を振り返ると、夕暮れの青と赤のせめぎ合いのようになった白黒の境界を挟んで、これまで歩んできたらしい町の影と、その奥に観測塔のシルエットがぼんやりと浮かんでいた。
「え……?」
蓮子の口から呻きが漏れた。これではまるで、
「蓮子。あなたが来たときに世界は更新されたのよ。客観性を持った二人目――あなたが訪れて私は確信したわ。私が今、扉を生み落としたように、此処は“何者か”の想像力で成る世界」
夢と現の境。眠りに就く前の、ほんの僅かな万能感。死に逝く前の浮遊感。メリーは振り返り、こう唱えてきた。
「ここから抜け出すために、あなたがどうやって此処に来たか、教えてもらう必要があるの。それだけが手掛かりなの。蓮子。ねえ、蓮子――――」
「メリー、メリー!」
唐突に癇癪を起こすよう、蓮子は大声を張り上げた。嘆き、悲しみ、失望、狂気、そのどれとも違う。それは期待だった。子供心がなけなしの自由を手にしたときに湧き上がる歓声だった。
「ねえ、メリー。すごい! さっきのどうやってやったの?」
予想した反応と食い違ってテンポを狂わされたのか、メリーは小停止したのち、声を上擦らせてそれに答える。
「えっと、何故か、出来たのよ。“あんなこと出来たらいいな”って思ったら、突然……」
「それよ! それこそ脱出の鍵よ! 何でも取り出せる想像力。数学者の求めたリーマンのゼロ点よそれ!」
はしゃぐ蓮子に向かって、メリーは宥めるようその肩を押さえてきた。今は喜ぶべき場面ではないはずだ。そう考えたようで、メリーは息を吸い込み、ゆっくりと真摯に問いてきた。
「蓮子、落ち着いて。まず私の質問に答えて」
「……わかったわ。けど多分手掛かりにならないと思うよ。私は、宝ヶ池観測塔で――」
塔の最上階、鬼門、午前二時。塔であった出来事を解説していく。恐らく、その情報はメリーも共有しているはずだった。むしろ結界が見える彼女のほうが――彼女のほうが?
ふと思い、蓮子はそれを口走る。
「メリー。そういえば結界はどうだったの? 私よりも先なら、メリーに見えていてもおかしくないよね? だってメリーには結界の境目が見える力がある――――」
それを聞いた途端、目の前に居るドレスの人物が、ぐら、と歪んだように見えた。
「……結界の境目? “境界”のこと?」
「そうだけど……メリー、どうしたの?」
ほんの一瞬、その学友の体が膨張したように錯覚した。顔を上げたその表情には、全く微動だにしない笑顔が張り付いていた。口角が上がったまま、凝固してしまったかのような。
「そうか、アイツのせいか。アイツが攫ってきたんだな? 私が何をしたっていうんだ? みんな私のことを嫌ってるのか」
「――――メリー?」
それはおおよそ彼女の声とは思えなかった。トキが発した警戒音のような、耳障りで背筋を引き裂く不快な音。マエリベリー・ハーンの身体が、背中の中心からバリバリと裂けていく。
柔肌から現れたのは巨大な黒い翼だった。その眼は赤く濁り、口は裂け、目や鼻があった場所から得体も知れない黒い粘液が流れている。
「メリー。メリーか。そう名乗っているのか。見ているんだろう××××××! お前を探し出して八つ裂きにしてやる! 待っていろ! 必ず見つけ出してやる!」
その生物は“何者か”の名前を呼び、あらかた叫び終わるとその黒い翼を羽ばたかせ、凄まじいスピードで空へと上がっていった。あれは、
あれは――――メリーじゃない。
無の地平線の上空に、見たこともないような物体が飛んでいた。
それは船に見える。空飛ぶ古式の船だ。あれは一体何だ? 蓮子は一時的に目を閉じた。現実に広がる虚の海ではなく、自己の奥底、意識の海に潜り込む。
……考えなきゃならない。整理しなければならない。
まず、メリーは居ない。そして、彼女だと思っていた人物は怪物に変身して、メリーを殺しに行った。恐らくそいつは、メリーを誰か別の人物と誤解している。ただ、怪物は自分と同じくこの世界から脱出したいらしい。
今、何をすべきか。今、何を決意すべきか。
ああ、メリーに会わなければ。
怪物よりも早く見つけなければ。
だがどうする。この広大な虚無から、どうやってひとつの数字を見つけばいい? 手掛かりはあるのか? 私達の想像力から生まれた世界ならば、メリーに関係するものを探せばいいのか? この世界でシャッフルされる思い出の場所には、規則性があるのか? メリー。メリー。――――そもそも、メリーが怪物化したという惨事すら考えられる。ああ。難解だ。
長い思案から戻り、蓮子が目を開けると、そこには異常な光景が広がっていた。先程までは、無の波止場に居たはずだ。白い石で模られた岩山の上部。だがしかし、今はどうだろう。
蓮子の周囲、その体をぐるり囲むように、ある一種類の人間の姿があった。その人間は、ひとりではない。同じ姿をした複数人が、蓮子を多方向から見つめている。真っ白い質感をしていたそれは、時間が経つにつれ色を得ていき、そして、
「「「「「「「「「「「蓮子、どうしたの?」」」」」」」」」」」
一斉に声を掛けてきた。彼女はマエリベリー・ハーン。……の姿をした硬い“この世界”だった。
「ひっ」
声が詰まり、反射的に蓮子は逃げ出した。足がもつれ、岩山を転げ落ちるように走り、駆けて、戻っていく。想像力によって成り立つ世界。逃げゆく先に、怪物メリーが作り出した公園行きの扉を見つけるが、それは今まさに溶けてなくなろうとしていた。後ろを振り返る。彼女を囲んでいた石塊のメリーは、二歩、三歩進んだ所で命を失い、悍ましい形に湾曲し、地面に吸い込まれていった。その死の形状の恐ろしさと逃げおおせた安心感が厭に混ざり合い、途端に腰が抜けて、蓮子は地面にへたり込む。
「……何なのよ、一体」
ひとり毒づき町の方を振り返る。観測塔は遥か遠くにある。怪物は自分と同じレベルの情報しか持っていないから、メリーを見つけるには相当の時間が掛るはず――しかし、この距離では後手に回るのは目に見えている。運に頼るか、それとも、画期的なアイデアが浮かぶまで世界そのものを探るか。怪物は“扉”によって何処までも探検できる。“扉”によって……
――――いや。
蓮子の中に閃きがあった。
さっきのメリー達は“何”だったのか。怪物は次元連結扉を創造した。この世界がもし想像力によって成り立つのであれば、あの、溶けて消えた泡沫のメリー達も、同じくイマジネーションによって生じたのではないか?
怪物メリーでなくとも、創造の力は持てるのだろうか。確か、自室とその建造物は自身の来訪とともに“生じた”らしい。
何故ここが虚数に満ちているのかは解らない。だが、a+b=c……等号を中心に組まれる当たり前の数式のよう、数を入力して、その結果が絶対的な形として現れるのなら、利用法は無限にある。蓮子の予想通り、“扉”の性質が“怪物の思い通り”に作られたものなら、同じことが、いや、それ以上の可能性を引き出す事すら出来るはずだ。
蓮子は腕を上げ、瞼を閉じて念じ始めた。目の前に扉。扉。メリーに通じる扉……怪物はこの世界からは逃げられなかった。恐らく、“外”への干渉は“何者か”の制約によって出来ない。だがそれは裏を返せば、内に向かう能力であるならば、あらゆる事が実現可能になるという事だ。
つまり、この世界にメリーが迷い込んでさえいれば、扉の先に彼女は居る。
目を開けるのが怖い。充分に念じたはずだ。しかしもし、何も無かったら。偽物のメリーがまた大量に沸いていたら。恐怖に打ち勝つのは、眠気に逆らって起床して朝洗面台に向かうのに似ている。ゆっくりと、息を落ち着けて蓮子は目蓋を上げた。
その扉は――――期待通りに眼前に萌芽していた。怖ず怖ずと指を伸ばし、その平面を押し開けていく。“メリーのもとへと繋がる扉”
あったのは、………………………闇だった。
「駄目か」
一歩踏み入れることすら迷うような闇。光も夜もまるで概念のように靄となって空を覆っているこの世界において、唯一の完全なる闇。真っ暗だ。懐中電灯を向けても、それはすぐに吸収されてしまう。
…………“完全な闇”?
蓮子は違和感を覚えた。闇は、無ではない。
「もしかして」
その仮定を証明するには、猫が必要だった。3つの食べ物の中から、ひとつを選ぶ、箱の中の猫。幾つかの未来から、ひとつを選ぶことの出来る決意。欲。蓮子は瞳を閉ざして再び願った。
そしてそこに出現したのは、土塊の猫だった。当然、その猫には意味を持たせてある。“メリーを見つける飼い猫の目連”
現れるなり彼女はこちらを一瞥して、付いてこいと云わんばかりにその前足を扉へと侵入させた。予測通りの動きが現れ、蓮子は歓喜した。猫が選んだ道筋を、自分で辿っていく。闇に入る。
最初、その闇が何なのか理解できなかった。霧のように漂い、光を掻き消してしまう。文字通りのダークマターだ。しかし、蓮子の物理学的知識の中に、そんな黒体誘引物質はない。考える。
自分より早くこの世界に訪れたメリーは、実は怪物変化であった。それなら、本物のメリーは何時来たのだろう。やはり正解は、自分と同じタイミングで移動して、別の場所に出た、というのが一番しっくり来る。メリーなら、本物のメリーならば、自分と同じように好奇心に任せて探索を行っているはずだ。そして、想像力によって世界が追加されるのなら、メリーの分だってあるはず。
――だが、それら妄想の具現を、否定して余りあるほどの空虚があった。自分達の通う大学、彼女の家、その縁の喫茶店、どれもが町には追加されていなかった。痕跡すらない。少なくとも、塔の真ん前にある自分のマンションくらい、訪ねていて然るべきだと思った。
じゃあ、メリーはどうしていたのか。何故、見えなかったのか。
その理由は――――
「メリー! 起きて!」
闇の中を無造作に歩き、帰り道すら見えなくなった所で蓮子は声を張り上げた。視覚が塞がれていても音は通じるはずだ。世界は静寂に包まれている。絶対にわかるはずだ。自分が他の誰かになれないのと同じく、メリーも、他の誰かになれないのだから。
……次の瞬間。
まるで部屋の電灯の紐を引っ張ったかのよう、パチ、とその部屋に光が灯った。
そこには溶けかけた蓮子の姿や、メリー自身の像、ミニチュア化した観測塔周辺の施設に、電車、学校、様々な日用生活品に囲まれて、ひとりの女性が眠り込んでいた。蓮子の声に気づいたようで、彼女はゆったりと身を起こして、そして、
「おはよう、蓮子」
マエリベリー・ハーンは、短い夢から覚めたのだった。眠りの闇…………
すべてを説明するには相当な苦労を要した。ありふれた数学の公式を、その原理から証明していくのに似ていた。世界は想像力によって成り立ち、見知る景色がツギハギにされて町の地図に登録される。偽物のメリーは未だ怪物として彷徨っていて、土塊の猫とどこでもドアが自分を探し出した。信じられないような話だが、メリーはさもそれが当然の幻想世界であるように、蓮子の言葉を鵜呑みにしていった。
それもそのはず、彼女は結界の向こう側を知っている。その手を取って、彼女を抱き寄せる。柔らかく、温かい。土塊ではない。
「52」 蓮子は唐突にその数字を口にした。
「鯨のこと?」 メリーは即座にその答えを返した。
部屋を包んでいた闇は、彼女の浅い、朦朧とした睡眠から生まれていた。メリー曰く、
「ワープしたと思ったら、真っ暗だったのよ。懐中電灯も落としてしまって……。感触も平坦で、音も何もないから、段々と眠くなっちゃって――――」
「アイソレーションタンクみたいね」
部屋は殺風景な四角型で、家具も設備もない独房のような場所だった。メリーが眠っている間に見たぼんやりとしたイメージだけが、土塊の変化となって幾つか残骸として転がっていた。壁端にひとつだけ小さな階段があり、二人と一匹がそこを上がっていくと、なんと塔の入り口の暗がり、“立入禁止”の看板の倒れていた僅かなスペースに出た。メリーが閉じ込められていたのは、本来ないはずの塔の地下であった。
『いいえ! けど、楽しいの。秘密基地の冒険みたい。地下があったら良かったのに!』
彼女が、一度言葉に発して“望んだ”地下室。無垢の世界は、欲望のままに何でも叶えてしまう。モノ、場所、目的。祈りがすぐに神に届けば、人間はまず歓喜ではなく、当惑をその身に宿してしまうのだった。
二人は宝ヶ池観測塔に戻ってきていた。そして、これからを相談する。
「それで、蓮子。――――何をしよう?」 それは蓮子が、怪物メリーに向かって水族館で発した言葉と同じであった。
「私としては、もう帰りたいわ」
塔の真下、汚れのテクスチャのある壁面に体重を預けて蓮子は答えた。未だ夜は明けない。空を仰ぐと、虚数時間がほんの少しだけ変動していた。
「帰るって、蓮子。出来るの?」
帰る方法。それはすでに、怪物メリーから扉を見せられたときに思い付いていた。何もかもが取り出せるゼロ点法則だからこそ可能な精査法だ。
「ええ。意味付けを持った猫が作れるのが判ったから、比較的容易に。もちろん、メリーの力が必要だけど」
「私の? けど、さっき説明してもらった話によると、“世界の外”には干渉できないんでしょ?」
「うん。けど――――この世界は願うことであらゆる現物を手に入れられる。石塊だけどね。この猫は、“外の世界の物質である私達”から産まれて、そして私達を探す事が出来た。つまり……」
「つまり、干渉は不可能だけど、探査は可能ということ?」
「そゆこと」
「けど、私達の想像力によって世界は成り立ってるんでしょ? 私達が現世との繋がりを求めたら、この世界自身がそれ――つまり偽物のゲートを作ってしまうだけなんじゃ……」
「――もし、私達じゃなくて、“この世界で創造された意志なき存在”が、自動的にそれらを探し当てるのなら、そこに私達の想像力は介在しない。イコール真実のゲートよ。だからどこでもドアの向こう側はメリーに繋がっていたのよ。法則自体に“法則の隙間”を見つけてもらうの」
「なるほど。私達がここに来た時点で、確実にゲートを通ってきてるわけだし、何処かにはあるはずだものね」
「うん。だから、その“真実”を視るためにメリーの力が必要なんだ」
「それじゃあ、もう一匹の猫を作りましょう!」
「うん」
相談からの準備はすぐに終わった。2匹の猫。2人の人間。あとはもう、自動的に歩き、自動的に見つけるだけだ。心配事と言えば、怪物と化した偽物のメリーだけ。塔の暗がりより隠れた身を乗り出す直前、蓮子はメリーに最後となるはずの確認をした。
「これでいいよね?」
何もかもが順調だった。他愛ない、ただの応答。“うん” という簡潔な二文字だけでよかった。しかし、問われた彼女は、押し黙って、その表情を曇らせた。
「どうしたの? メリー」 顔を覗き込む。メリーは何か言いたそうだった。ほんの少し、待ってみることにする。
「……あのね、蓮子」
「なに?」
そこでメリーは、思いもよらぬ提案を口にする。
「まだやり残したことがあるわ」
「え……?」
一体何を? 藪から棒に、蓮子は一歩身を引いて顔に疑問符を浮かべた。探索しようにも、メリーは狙われているのだ。それを天秤に乗せて計って、余りある収穫とは一体何なのか? この奇妙な世界の物理的成り立ちにすら、その価値は無いように思えた。
「まだ会わなきゃならないひとが居る」
「会うって……何言ってるのよ。この世界には私達以外もう――――」
もう。そこまで言ってある事を思い出す。二人がこの虚無に囚われることになった元凶。塔の北東へと飛び出した人物。あの、都市伝説上の、居るかどうかもわからない……
「もしかして、」
「ええ。数学者よ。あの男の人。あと、……――――偽物の私」
「やめて!」
思わず蓮子は声を荒げてしまった。せっかく出会えたのに、また離れ離れになってしまいそうな気がした。あの怪物を助けて、何の得があるのか。それに、何年も前に飛び降りた数学者なんて、放っておけばいいのだ。
お腹が減った。
眠い。
寂しい。
落ち着かない。
故郷が恋しい。
地球上では、老人子供の区別なく毎日人は死ぬし、絶え間ない資源採掘や工業生産による無慈悲な環境破壊もある。人間は他の動物を隷属させて標本化して、幸福と不幸の狭間で利用し尽くす。露悪趣味の本が台頭して、つまらない終末思想を掲げた新興宗教が今日も声高に街を練り歩いているだろう。しかし幸運かな、かの星には、探っても掘り返しても摂り尽くせないほどの謎がある。人間は、真更な白紙同然で生まれてくる。それは愚かであれ、同時に“飽きない”ものでもある。多分、生きていて、悲しいことのほうが多いだろう。けど、早く帰らなければ。
丑三つ時に長くいると、妖怪に喰われてしまう――――
「メリー。そういうのやめよう? だって話が通じるか、わからないんだよ? 数学者も怪物も。わからないものは捨ててしまおう。慎ましく生きるために」
その体を揺り動かすように掴んで、蓮子は嘆願した。しかし、メリーの決意に満ちた表情は変えられなかった。
「蓮子。あなたが一番知ってるはずよ。怪物と直接会話をした蓮子なら一番。…………私は誤解を解くべきだと思うの。“それ”もきっと、元の世界に帰りたいはずよ」
「同じ世界に帰らせてどうするのよ! あれがもし、私達が恐れて、探すような怪異の具現化なら、平和な京都に危険因子が加わるだけになるのよ!? メリーは眠ってたから知らないのよ! あの怪物は、帰りたいがために私をずっと利用していただけ――――――」
その一瞬。出かけた声が喉に引っかかって、蓮子は咳き込んでしまった。突然に脳にフラッシュバックするのは、水族館での温かい手。思い出される彼女の優しい言葉。
“あなたは他の誰かになれない”
嗚呼、心の奥底では分かっている。あのメリーは恐ろしいが、同時に信用もできる。まるでそこにある死と対話するように、身近にあって、当たり前のように姿を変え、心臓に恐怖の楔を打ち込む。ただ、その終局はひとつの救いでもある。怖い。
怖い。
怖い。言い訳がましく、無茶苦茶に言葉を捲し上げて必死に怪物を拒否する理由は、それひとつ。『怖い』
この願いの叶う未知なる石塊の世界で、最も危険なのは怒りと勘違いだ。それは冷静さを失わせ、かつ答えを遠くする。
頭が真っ白になって、自分の立ち位置がわからなくなる。
次に意識が戻ったときには、すでに数分が経過して、異様に乾いてしまった舌を震わせて、蓮子はこう、一言を絞り出すだけで精一杯になってしまった。
「……メリーは、優しすぎるよ」
「蓮子。大団円に向かいましょう? 大丈夫。私達二人、秘封倶楽部なら、きっと出来るわ」
狂気じみたその日和見、楽観主義は、まるで先程まで夢の中で見ていた未来をトレースするような、そんな幻想じみた確信に満ちていた。
塔に光を灯す。
秘封倶楽部は再度、宝ヶ池観測塔最上階に昇った。明かりはなく、電池の切れかけた蓮子の懐中電灯がその狭い部屋を映し出していた。二人は念じ、そこに新たな概念を創造する。
それはまるで灯台だった。作り上げたものは“数学者を探り当てる光”だった。
まばゆい光が一直線に地平線へと消えていく。
「……数学者は実在するのね。もう後戻りできないわ」 蓮子は諦めたように呟いた。この光は恐らく、怪物の誘蛾灯にもなるだろう。
あの向こうに、都市伝説の人物がいる。あとはここに、再び何処までも通ずる“扉”を、光の方向に向かって出現させるだけだ。
「蓮子。少し、不思議に思ったことがあるのよ」
ふと、気が付いたようにメリーがそう言った。何の事だろう、と蓮子が疑問を眼で伝えると、彼女はその場でしゃがみ込んで、北北東にある継ぎ目を指でなぞって差していた。
「ここだけ一度切り取られてみたいになってるじゃない? 確か、向こう側もそうだったわよね」
「ええ」 そのはずだった。蓮子は頷いた。確か向こう側の材質も、この世界の石塊のような――――メリーは続ける。
「という事は、この境界線の向こうは“交換”されているはずよね。向こうがイミテーション化していたのなら、当然こちら側は、全変化の石塊じゃなくて、現世のコンクリートのはず」
す、と境界を指で撫でて、その跡を見せてくる。埃も石片も、塗料もなにひとつ付着しておらず、まるで加工された鏡面に触れたときのよう綺麗な指先が蓮子に提示された。もし、トレードされたはずの現実の石が此処にはないとするなら、一体、何処に、何故、消えてしまったのだろうか。
大きな可能性は2つ。
「じゃあ、この世界の何処かに“何者かの意志で”移動されたってこと? それとも、――――この世界に長くいると、コンクリートでもイミテーション化してしまうって事?」
コクリ、とメリーは首で肯定した。
「……まだ未確定だけど、私には、この世界に何らかの“意志”が宿っている気がするの。誰かの願いを叶えようとしたり、何もかもが土塊で創造されていたり、鬼門、虚数の空、ひとつに繋がる点が、あるような気がするのよ。具体的にはあの光の向こう」
立ち上がったメリーは眼でそれを示した。点。リーマンの零点。虚数空間にもし、共通する“秘密の小道”があるのなら、それは“誰の意志、誰の足跡によって均された道”なのだろう。
光は直進する。しかし、それは重力によって湾曲する。重力とは引力だ。引力とは、あらゆるもの、あらゆる質量、つまり実在から発生している。まるで引力のように、秘封倶楽部はこの世界に招かれた。帰り道を得た途端、メリーに芽生えた提案によって何処か、真実に限りなく近い場所へと誘われている。
「――――メリー。ゼロ点にね。こんなエピソードがあるの」 光の向こう。蓮子は思い出して、メリーの行き先と視線を合わせた。「“3億個”」
それは3。猫が選んだ未来の1億倍の数だ。暗黙のうちに続きを欲したメリーを察して、蓮子は話し始める。
「昔の数学者――ドン・ザギエがゼロ点を研究した時、あることを発見したの。そのゼロ点は、素数の数だけ“無限に”存在するのだけど、3億個を越えたあたりで、“リーマンの仮定した魔法のゼロ点”であるよりも、“そこから外れなければならない理由”のほうが上回ってしまうのよ。簡単に言えば、そこからさき、ゼロ点がゼロ点であるのならば、それはもう奇跡としか言いようがないの」
あるものが、あるものであり続ける事。法則が例外なく、ただ当たり前にあること。その証明は途方もなく難しい。
「それで、それから数学者はどうしたの?」 メリーは訊く。
「……当時開発されたばかりのスーパーコンピューターを使って計算したわ。顛末は省くけど、今では100億個を超えるゼロ点がリーマン予想に追従してるわ。つまり、奇跡はあったのよ」
そして、魔法の扉はその距離を縮めるのである。答え合わせは近づいていた。確率が天文学的な稀さになる事が奇跡ならば、比較対象を万物すべての存在にしたとき、――――つまり分母を“無限”にシフトさせた時、分子となる“個”は奇跡だろうか。
この意志。
この名前。
この繋がり。
「きっと私達は奇跡の向こう側に居るのよ」 手を伸ばして、メリーは誘ってくる。「さあ、行きましょう。家に帰る前の、ほんのすこしの大冒険に」
触れて、握り繋がり合う。そうして念じて、真実への扉が生まれた。ともに手を差し伸べて、ゆっくりと開いていく。淡い光。京都の町には夜空が覆いかぶさっていたが、真実の中では突き抜けるような虚無が真っ白なスケッチブックを天に展開していた。
どちらが本物だろうか。夜空か、虚無か、どちらが作り出された空の景色なのだろう? 虚の世界に夜が来れば、蓮子にも分かるはずだ。
嗚呼。其の旅の終点。きっと果てなのだろう。
塔が見えぬほど遠く、遥か途方もない点となる。
何処からともなく幽かな光が漏れてきているらしく、二人の居る位置に向かって何かの影が伸びていた。陰影の根本を追うと、眼は、小さなオブジェクトを見出した。
一歩。一歩近づく。大きさを比較できるものはなく、遠くにあるのか、それとも間近なのか判別できない。平衡感覚を失う霧白の中を、まるで雲の上の薄氷を踏むように慎重に進んでいく。「ねぇメリー」 蓮子が呟いた。
「――メリーが作った4人対戦用ゲームは“彼”? それとも“彼女”?」
そこには小さな塚があった。まるで、あるはずもない強風から身を守るよう、隆起した鍾乳石のような石塊が外殻を形作っている。その中には、円筒を鋭く斜めに切り取ったような形状の、白く、若干の劣化が見られる壁の一部が置かれていた。広大なる無の中にひとつだけポツンとある――それは塔の、失くなったはずの鬼門であった。メリーは蓮子に答える。
「私達はそれを“GZK”と呼んだわ。簡単な話、“HAL”のひとつうえ。発音的にはゴズキ……“牛頭鬼”と同じよ。彼、かしらね」
『2×××年・8月16日 吉日 ――過去の叡智AGASAとの出会いに感謝して――苺好きのY・Oより』
鬼門の上には一枚のプレートが立て掛けられていた。長方形の四端にはリベットが外された丸く歪んだ穴。塔の壁面にあった四角い跡にぴったりと嵌まる、最後のピースであった。
蓮子はそれに近づいていき、そして、「もしこれが、本当に塔の一部だったのなら、私達が知ってるその事件は、都市伝説なんかじゃなくて――――」 台座から生える一つ足のテーブルの上の、見慣れぬ物体に手を触れた。
そこには、複雑な機構を持った“アンテナ”が重力に逆らうようにして空に向けられていた。物理学専攻の蓮子にはそれが何なのか、形で構造を把握することが出来た。光電子増倍管――キーボード型の旧式入力装置――何十年も前に、日本にて最高エネルギー宇宙線を観測したAGASAという宇宙線望遠鏡――――を模して作られたエネルギー出入力機であった。
「本物の“神隠し”なのね」 メリーが続きを答えた。
「もし――――」 蓮子は得意の数学のように、頭のなかで仮定を敷いて、その出来事が、事件が本当はどんなものであったのかを組み立てていった。
「もし、これが、このアンテナが超技術を持った本物なら、GZK限界を超えたEECR(最高エネルギー宇宙線)を観測し得るわけで……つまり、宇宙論的にまだ若い“未知の物理的過程を経て放出される”ものを観測できる事になる。この宇宙線は典型的なものとは掛け離れた、まるで52ヘルツの鯨のような孤立した静止質量とエネルギーを持っていて……――――」
「待って蓮子」 そこで親しい友人から待ったが入る。
装置にあるディスプレイには、ただ一単語、『42』という数字だけが映し出されていた。メリーは云う。
「全く意味がわからないわ。そのGZKは牛頭鬼とは関係ないの?」 見つけ出した取っ掛かりだけを頼りに言葉を返す。
「関係ない……けど、恐ろしい偶然ね。GZK限界は、高エネルギー宇宙線がある一定の値以上の数値では地球には絶対に届かない、という予言よ。とりあえず何が言いたいかというと、この装置は“物理的にありえない宇宙線を観測すると、信号を送り返す”ようにできているように見えるってこと」
「なるほど。それで…………それがどういう」
適当に蓮子がキーボードを叩くと、『MAY I HELP YOU?』 という表示が現れて、入力を要求してきた。
「物理的にありえないということは」
「ああ! 領域外の現象が干渉してきた、ということね。つまり、物理法則を越えている。私達がこうして、此処に来てしまったのも、その“観測によって結界が揺らいだ”から」
「うん。誰かは判らないけど、これがもし地球で作られたのなら、とんでもない知恵を持ってるわ。例えば一昔前に物議をかもした“非統一魔法世界論”みたいな夢物語を信仰してる人物ね」
「――ねぇ、蓮子。装置が『真』なら、私が聞いた都市伝説の中身も、ちょっと変わるかもしれない」
「どうなるの? メリー」
「塔の目的やアンテナの施工の順序がガラッと変わるのよ。もし、アンテナが“すでに完成していた”としたら、稼働した後に“鬼門ワープが起きた”せいで“塔が削られて”その結果、施工ミスと捉えられて計画は廃止された」
「と、すると、もうすでに“メッセージ”は送信されている?」
「そう。未だ見ぬ宇宙人に向けての言葉がもう発されてるのよ。そして、プレートに描かれた施工年は、都市伝説の廃止年とは4年離れている……蓮子。何か気にならない?」
4年。記憶を探ってみると、数学者の映像が撮られたのは今から4年前だったような……しかし、それが何なのだろう。
「メリー。まさかとは思うけど、4年って……距離?」
「そう! “4光年”よ。つまり50数年前送ったメッセージは4年掛けてこの世界に届き、一番最初の空間移動――最上階の分離が起きて、そしてつい最近、それとは逆に、ここから発されたメッセージが4年掛けて地球に届いて、私達が――――」
「そんな馬鹿なことが」 言い掛けて、蓮子は閉口した。あるかもしれない。“4光年”という単位は恐らく正確ではないが、メリーがよく体験している“双方の繋がり”によって空間跳躍が起こる不可思議現象があるのなら、そこそこ理屈は通ずる。
「……あったとして、どんな経路を辿ったのよ」
その疑問は当然だった。ここは蓮子の知る物理法則とは掛け離れている。アンテナが向けられたのは宇宙だ。宇宙にこんなものが、
「あるのよ。宇宙には。きっと地球と同じ惑星で、新しい物理が生まれつつある神秘の世界なのよ。ねえ蓮子。4光年でそれっぽい候補地はない?」
メリーの喜びようは異常だった。数学者の求めるゼロ点は見当たらなかったが、ここには浪漫があった。
蓮子は考える。「確かに約4光年という範囲なら、プロキシマ・ケンタウリbという地球によく似た環境のある星があるはずだけど」
「それよ! 馬頭鬼のケンタウリをもじって、牛頭鬼、ミノタウリbと名付けましょう!」
――その部分はケンタウルス座という星座を表す箇所であって、無闇に変えてしまうとミノタウロス座にある事になってしまうのだが。それに、宇宙全体の大きさから考えると、4光年ぽっちでは新しい物理が生まれてる可能性は限りなく低い。蓮子はそれをわざわざ口には出さなかった。問題は名前じゃない。彼女はもっと根本的な部分で、大きな問題に直面していた。
「ねえ、メリー」 蓮子はその疑問をメリーにぶつけてみた。「地球からの発信はわかったわ。けどこの星からの返信は、誰が?」
“彼”。
光が指しているこの“彼”は、何者だろうか。一見、装置そのもので、入力を求めているだけだ。何故突然、何十年もの沈黙を破って、それは返信を行ったのだろう。
「……それは、」 メリーは言葉に詰まった。「わからない」
蓮子は声を重ねる。「それに、通信ラグが4年でしょ。帰る方法がわかったのはいいけど、もしこの“帰宅用ネコ”が次のゲートまで4年を要求してきたら……」
蓮子が考案した方法には、実は欠点があった。
それは、結界の隙間が“常に”存在するのが前提であること。もし、メッセージが地球に届くタイミングでしかワープゾーンが生まれないのなら、今すぐ送信したとしても、最低でも4年の歳月を経なければ到達し得ない。
人間が生きるには、過酷な空白だった。
「もしかして、私達、帰れない?」 メリーの声が少し上擦った。
真実は常に残酷だ。天才数学者ラマヌジャンが、自分が解き明かした数式が実は150年も前にオイラーによって発見済みだった事を知ったときのような、耐え難い失望感。
だが、蓮子にはその失望のさきが見えていた。ラマヌジャンはそれでも諦めず、夢の中の啓示と類まれなる才能によって、それから無数の功績を打ち立てたように――好奇心は落胆によって何ら害される事なく、次の、次の次の展開を目の前に見せてくる未来を。考えられる可能性。まだ希望はある。
「いいえ。可能性はあるわ。――4年前にこの場所からメッセージを送った人物が居るのなら、それを見つけ出せばいい。“メッセージは一回とは限らない” 例えば救難信号のよう、日を置いて何度も実行したのなら、明日にも繋がる瞬間が訪れるかもしれない」
――怪物は、出会ったことが希望、と言っていた。
「確かに。……蓮子、もう一匹猫を作るの?」
「いいえ。もう、いらないわ」
この世界で、唯一居るはずの“第三者”。それはあの怪物だ。それは、かなり長い期間彷徨っていたようで、蓮子に会ったことを喜んでいるようだった。4年。まさか4年。
ああ。
見捨てようとした事を蓮子は悔やんだ。結局、運命でもあるかのように、奴とは再会する未来が約束されていたのだ。そして足元を見ると、
…………猫が三匹に増えていたのだ。
3。
それは素数であり、旧約聖書中には円周率として登場する。箴言の第三章3節には、『慈しみと真を捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書き記せ』とある。ある自然数を思い浮かべ、各桁に登場する数をひとつずつ抜き出して足し合わせたものが3の倍数だった場合、もとの自然数も3で割り切れる。つまり、10進法である限り、その条件に当てはまる数は、桁にある数字をどういう形に入れ替えても3の倍数である。
3匹の中の1匹の怪物と、二人の秘封倶楽部、ひとつの装置。
猫は我々を選ぶ。ジャーキー、猫缶、鰹節。一匹はメリーを向き、一匹は町のある塔の方へ、もう一匹は蓮子を睨んでいた。
「宇佐見蓮子。その女から離れろ」
何処からともなく声が響いてくる。聞き覚えのある、いや、一度聴いたら耳から離れる事はないだろう、不快な音だった。口の裂けた切断面から歪んで吐出される警戒音。あの怪物の声だ。
「私は“それ”を懲らしめ、向こうに戻らなければならない」
それはすぐには襲ってこず、強い言葉で締め上げてくる。蓮子はメリーをかばうように、次元扉との間に割って入った。なおも、怪物は謂う。
「メリーと名乗っているが、それはお前が思っているような愚鈍ではないぞ蓮子。振り返って顔を見てみろ」
声は、まるで悪魔の誘いだった。
「“いつ”信じた? その女を」 時が粘性を帯びていた。蓮子だけしか聴こえてないのか、それ以外すべてが静止してしまったかのような錯覚を受ける。
確かに、蓮子は“メリー”を見つけ出した。だが怪物の云う通り、その事象が真実かどうか、確証は持てない。新しく見つけ出した“創造の原理”も付け焼き刃の仮説に過ぎず、そもそも、本物でなくとも同じ姿を持てる事は、この世界の石塊のみならず、怪物自身が成り代わって証明しているのだ。
「私は、」 蓮子はメリーを信仰していた。しかし今まさに眼を使い、皮膚で感じるこれは自分の意志の範囲内に過ぎなく、相手の考えまでは至らない。それが柔らかさを持った石塊であっても、姿を変える新種の怪物だとしても、蓮子を救う“都合の良さ”で接してくれば、それはきっとメリーなのだろう。
『私は、』 それ以上の言葉が出なかった。断言できない。約束できない。根拠がない。あえてきっかけを持ち出すなら、彼女が52ヘルツの鯨を知っていたからだ。孤独で、誰かに訴えかけるその、群れからはぐれた奇形の一匹。
「メリーを、」 もし、彼女が本物のメリーではなかったら?
地球に戻ったあと、自分はメリーモドキと幸せな生活をして、ミノタウリbでは取り残されたメリーが失意の中、孤独死するだろう。自と他を隔てるものはなんだ。彼女は、彼女なのか? この世界が模造品として蓮子の街並みを再現したように、記憶から引き出された“似たもの”を人間は望むのか?
猫が3つの餌の中から難なく選ぶように、取るに足らない日常は、毎日同じ食事だろうと、毎度違う味付けであろうと、満足感を絶対に運んでくれる。否、満足するしか無い。蓮子は、最も“近い”メリーだからこそ、それを想うのか?
舌が渇いて、声が出なかった。蓮子には判らなかった。
この宇宙は当たり前のように形を持っている。だからこそ、彼女達は混ざり合うことなく、互いに幻惑されることなく、ただひとりの自分でいられる。
しかし、幻想の中では――メリーの旅する異世界や、この星系のような不確定の現実の中では、蓮子もメリーも“移動する点”に過ぎない。固有の情報、セキュリティキーを持ったシンプルな関数A程度の存在なのだ。
文字で表される物語のよう、線で描かれる絵のよう、奏でられる音の羅列のよう、観測されて初めて存在できて、にも関わらず同一ではない…………ちょうどシアン化水素と一緒に箱に詰められた猫のように不定だ。彼女達は彼女達だろうか。
果たして彼女なのか?
それはあなたなのか? それは私なのか?
大勢の人間に描かれた物語の神は、伝説の怪物は、死した英雄達は、何を持って“真”となるのか。
「ねぇ、蓮子」 その、踏みとどまった友人を押しのけるように、彼女は一歩前へと進み寄った。メリーは眼で示し、小声で蓮子にこう言った。「私に任せて」
すると、マエリベリー・ハーンは突然空を仰ぎ見た。
「あなたは、私を誰だと勘違いしているの!」
どこへともなく彼女は叫んだ。まだ怪物の姿はない。声だけがメリーに応えてくる。
「……土塊は“扉”以外にも変化できるそうだ。丁度その猫は、お前の本質を見抜けるようプログラムされている。訊いてみればどうだ」
足元で猫が鳴くような仕草をした。音はない。その眼は真っ直ぐメリーを見つめていた。
「私はマエリベリー・ハーン。京都市のいち大学生よ」
言う。猫なんて眼中にないように、虚空に言い放つ。瞬間、何もない空がぐにゃりと揺れた。
「白々しいぞ××××××! お前は“我々”の味方ではなかったのか!? 何故私を孤独にする! 蓮子と引き合わせたのも、私に人間の手を持たせるためか!」
激高した声は、地平線に稲光を起こした。霧のような、水滴になりきれない雨が降り始め、真っ白い石塊の大地が変色していく。泥状に溶けていく白色の物質は、怪物の怒りに感化したように形を得ていく。
ひとり、二人、……神が泥から人間を作るよう、そこには複数のメリーの姿が創造された。命無きものが魂を欲するように、彼女達はマエリベリー・ハーンを囲んでその身体を揺らし蠢いている。
××××××とは一体誰のことだ。秘封倶楽部には、その名を言語として聞き取ることができなかった。怪物の口ぶりから察すると、恐らく異世界の存在であり、その管理者であるかのような印象を受けた。怪物の“神”だろうか。
メリーの眼には土塊達は映っていなかった。気丈にも、更に怪物を追い詰めるように主張を重ねる。
「あなたは前提から間違えている。あなたはあらゆる意志が、何者かによって操られていると考えている。私が此処に存在するのは偶然だし、蓮子も、あなただってそうなのよ。絶対不変の原理の中で、これだけは“誰でも良かったのよ”」
「答えになっていない。それ以上嘘を吐き続けると猫がお前を殺してしまうぞ!」 怪物の声に呼応して、猫が扉の枠上へと躍り上がる。
土塊達は成長していた。大人びた笑みを顔に貼り付け、艶のある長い髪を靡かせていた。服の露出の多いドレスを身にまとい、日傘を差し、まるで娼婦のような異様な眼光を持ってメリーに囁きかけてくる。「あなたは嘘の塊。自分の名前すら言えやしない」
だが惑わされない。蓮子にも、メリーにも、自分達二人が一番“自分達”であるという盲信がある。メリーは言う。
「可能性があるからこそ、私はあなたの“答え”を出せないのよ。何しろ私は一回、眠りによって意識を失っている。私は断続的に続く“意志”なのか、目覚めて初めて訪れる“生の一瞬”なのか、あなたが何者であるか私達は知らないように、ただそこにある実在と比べて、人格は曖昧模糊よ。信じなければ生まれない。念じなければ現れない。私が私であることを、蓮子が私の蓮子であることすら」
「人格など問題ではない! 憎悪だ! お前が何者であるかを訊いているのだ! 女よ!」
三匹目の猫が土塊の肩に落ちてきて、それはそのままメリーを睨みつけた。今すぐにでも爪を出し、相手の首を掻き切らんばかりに毛を逆立たせている。
「ひとつ。証明する方法があるわ。それは“彼”よ」
怪物の怒号を物ともせず、メリーは指して見せる。それは、
「彼は私達をこの世界に導いた。――その言葉が信じられなくとも、“彼”には光が当たっているわ。石塊は石塊にすぎないけど、“彼”は“それ”ではなく、きちんと“彼”として存在している。だから私を殺すのは、私達二人がすべての謎を解決してからでも遅くはないわ」
コンソールの中には、恐らくあの数学者の手掛かりが残っているはずだ。
「馬鹿馬鹿しい! お前はそういう“役割”を演じたいだけだ! 自分だけは安全な場所に居ながら、そうして……その“彼”とやらも、お前が想像で作ったものにすぎない!」
言葉のぶつけ合いは平行線を辿っていた。交わることのない二次元の線。どちらかが曲げなければ、延々と罵りあうだけだ。何とかして別の方法を模索しなければならない。
「私達みなの願いはこの世界から脱出することでしょ!? どうして私だけその輪から外れているように思うのよ!」
「お前がお前であるという確証はあるか!?」
メリーと蓮子の姿形が、瞬きをする間もなく突如として交換される。怪物がメリーに化けた時のような、異質な幻覚を見せているのだろう。二人の姿はそのまま年老いていき、死へのピークに達すると今度は逆に子供帰りしていく。最後にはみな同じ毛並みの猫の姿へと移り変わってしまう。
「あなたがあなたであるという真実も無いわ!」
鏡像を打ち破るように叫んだメリーの声とともに、二人の姿はリセットされた。この、若い姿が本当に真実なのか? 溶液の満たされた器の中に、脳だけが浮かんでいるのではないか。全て、夢なのでは? 嘘と真実を追求する事は、まるで時を凍らせるかのようだった。進展がない。
どうにかして道を探り当てなければならなかった。リーマンのゼロ点が存在する秘密の小道のような、ピッタリと嵌まるパズルのピースを。さもなくば、その誰もが自分の目的を果たせず終わってしまう。
蓮子とメリーは怪物に喰われて終わり。怪物は二人を殺して帰り道を失って終わり。
最終的に闘うことになる怪物は“疑心”であった。
相手は誰か。自分は何者か。この世界は何なのか――――
初めに線を交わらせたのは――
「……もうわかった。私が確かめれば良いのだ」
猫だった。
三匹目の猫。それは人間の言葉で応えた。
声は怪物のものであった。猫が嘘を見抜くと言ってのけたのは、それは土塊から作った紛い物などではなく、怪物自身、自分の眼で判断するための方便であった。両の肩甲骨が盛り上がり、鋭角の、まるで得体も知れない刃物のような翼が生じる。
「メリーよ。お前がその者なら、私が何をしようとしているか、解る筈だ。お前の作ったルールだ。日和見は通用しないぞ! 守ってみるがいい! 避けてみるがいい! 人間に頼り、想像することをやめた妖怪よ! 正体不明の殺意に怯えて死ね!」
飛び上がった猫はその姿が霞むほどの光を発し始め、そして、輝く人型に変身した。聴いたこともないような悍ましい怪鳥の鳴き声が辺り一面を揺らし、その両手から、2つの波紋を合わせたような光弾が全方位に放射状に射出される。
それは破壊的なエネルギーで未知の大気を鳴動させ、凄まじいスピードで飛来した。
「で、どうしようか」
影の中で隠れるように身を縮めて、蓮子はメリーの耳元で囁いた。もはや誰がどんな真実を持っていようと、圧倒的な流れの中では意味をなさなかった。
光は滝のように降り注ぎ、まるで光速を泳ぐスターボウのように長い孤を描いていた。怪物は未確認飛行物体の如く、宙空をふらふらと彷徨い、彼女達二人の姿を探していた。
秘封倶楽部は、今、石塊を繋ぎ合わせた小さな盾の裏に隠れ、互いに顔を見合わせていた。メリーは云う。
「この世界が石塊に満たされていて助かったわ。イチかバチかだったけど、予想通り“念”以外では傷ひとつつかない。……咄嗟に防空壕を作ってみたは良いけれど、どうしようかしら?」
「それさっき私が云った台詞よ!」
二人の持ち寄った解決策はもはやジレンマに陥っていた。メリーが居なければ帰り道は生まれず、メリーが居る限り怪物の脅威に晒され続ける。もし、『すぐに帰る』 という蓮子の意見が打ち勝ってすぐに帰還を始めていたとしても、地球とミノタウリbの通信期間のおかげで結局は時間が必要になり、やはり運命でもあるかのよう、怪物との邂逅は避けられなかっただろう。
「あれは私達をキーパーだと思ってるのよ。本当は皆、プレイヤーなんだけどね」 メリーは冗談のように呟いた。
しかし、その言葉は洒落になっていない。もし偶然にもあの通信装置のコンソールに“GZK”――メリーの作り出したAIがインプットされていたら、黒幕は彼女としか考えられなくなる。蓮子は気が気ではなかった。怪物の言う通り、メリー(の姿を持った何者か)が今の彼女ならば……蓮子は、積み上げてきた信頼を貫き通せるだろうか?
唾を飲み込んで、蓮子は何とか心を落ち着けようとした。光弾は今でこそ石塊を貫通しないが、何かの拍子に体で受けてしまったら黒焦げでは済まないだろう。怪物が角度問題に気付き、アンテナ台座含む地球の物質を探り当てるのは時間の問題に思えた。
「メリー。相手の言ってた“ルール”さえわかれば、何とかなりそうかしら?」
「――――可能性はあるわ。何しろこれだけの事ができるのに、私達に直接弾を当ててこないのよ? 怪物の持つ独自の“ルール”がそこにはある。けどそうすると、ひとつ腑に落ちない事が生まれるわ」
「……それは、何?」 蓮子は疑問符を浮かべた。ルールの中で相手を殺そうとするのは、まるで決闘のように思えた。メリーは、そこに何かおかしな部分があると謂う。
「考えてもみて。私達がこの光に当たったら、最悪死ぬのよ? ルールに則ったって、結果は同じなのよ。そうなるとあとは気持ちの問題でしょ? けど、あの怪物は“無差別”に攻撃を開始した」
「つまり、どういう事?」
「……私が、マエリベリー・ハーンじゃなくて、怪物の云う“何者か”の変身体であると確信しているのよ。そしてそれが神隠しの犯人であるとも。怪物は思い込んでいるのよ。無差別に攻撃をすれば、すぐに尻尾を出して蓮子、あなたを守るだろうと」
「けど、」 蓮子は反論する。「それなら猫になって話す必要はなかったわ」 先程の問答は、すべて事前に用意された茶番だとでも云うのか。いつ“確信”を持ったのか。そもそも、無差別な時点でルールなんてクソ食らえなのだ。非合理的。有り得ない。
「効率を求めれば、数学的に考えればそうなのでしょう。けど、これはきっと“心”の問題なのよ。怪物は、自分の“疑い”そのものに惑わされてるのよ。最終的には感情に流されちゃったけど、私達を、人間だと信じたいのよ」
「…………………つまり、今の怪物はヤケになってるだけ?」
「ええ。一見矛盾して見える心理は大体ヤケクソなのよ」
「ええ! って……」
切迫した状況に何ら変化はない。しかし、拍子抜けした結論に 蓮子は呆れてしまった。にわかには信じられない出来事、会話、理由。メリーが本物であるとか、そうでないなどと云う問題は、もう些細なものでしなかった。
あらゆる数学的結論、物理学的現象、それどころか哲学、生理機能、進化論、あらゆる学問を究明するとき、最後の最後に学者が辿り着くものがある。
“シンプルさ”
何もかもがシンプルならば、メリーは絶対にメリーなのだろう。相対的に見れば、怪物にとって今のメリーは××××××なのだろうし、この世界は秘封倶楽部にとってのミノタウリbなのだ。真理にしては浅すぎるし、かつ期待はずれだ。
――――だがそれが、一番納得がいく。
考えるのを止めて、再び蓮子はこう云った。
「で、どうしようか」
「私にいい考えがあるの」
何やら子供のような笑みを浮かべて、メリーはある提案をした。二人は身を屈めて、光から逃げるようにして目を閉じた。
シンプルな話、この世界の石塊は強い意志に反応する。
それなら。
次の瞬間、大地が音もなく盛り上がった。それは拳大の大きさから徐々に大木のように成長し、やがて空をも飲み込む巨大な塔になった。そしてゆっくりと枝葉が分離するようにして五体が生まれ、まるで神話に現れる原初の巨人の体を成した。それは、いや彼女は、メリーの姿をしていて、怪物の光をまるで蝋燭の火を吹き消すようにその手で囲んだ。異常さに気がついた怪物は背を反らして抜け出そうと奮闘するが、神々の広い腕からは逃げられない。抵抗むなしく全ての光が手中に収まった。
この世界の物質は“念”以外で変質することはない。逆に、“念”さえあれば如何ようにも姿を変える。怒りに乱れた怪物の意志では、秘封倶楽部の好奇心を乱すことはできなかった。闘いはほんの僅かの期間で終わりを告げた。
「さ。あとは時間に任せましょう?」
メリーはすっきりした表情で蓮子に振り返った。
「力って、本当にどの世界でも通用するね……」
蓮子ははただただ苦笑いを浮かべるだけ。幕切れとしては何処にも美しさがなかった。確かに怒りは時間によって薄まっていくし、それが勘違いからとあれば尚更だ。言葉や、その他の相手のルールに従っての和解、理解、そういった様々な社会性のしがらみを、力は悠々と超えていく。
世界に満ちた圧倒的な力。それは粘土をこねて作るような、発想による創造の力だった。
ルールを力でねじ伏せた決闘は、あっけなく終わりを告げた。
かつて仏教僧が妖怪を調伏するときに目の前で説法を問いたと言うが、徳の上がるありがたいお言葉も、戒律的救済も何もなく、ただ、怒りの霧散する経過を見つつ、土塊に身体を巻き込まれて動けなくなった怪物に向かって、軽い気持ちで「待っていてね」と囁く傍若無人な秘封倶楽部の姿があった。
二人は装置を調べていた。後ろで罵詈雑言を捲し立てる怪物を聞き流して、その秘密を解いてやろうと推論を幾つも並べ立てた。そのうち怪物が土塊の弱点に気がついて、精一杯念じて脱出を試みるも、そこは2対1。結局、シンプルな法則――2は1よりも多いという常識に従って、ひとりで念じる力は2人に完封されてしまう。
装置に“彼”は居た。
コンピュータ内の機能を1階層ずつ調べていくと、そこには3つのインターフェイスが存在した。ひとつは『MAY I HELP YOU?』と描かれた入力部分。ひとつは幾つかのノイズを解析して言葉にならない音にする出力部分。最後のひとつはそんな浪漫をただ隣で見つめるディスプレイ端の影……ポストペットの部屋。
その部屋は、宝ヶ池観測塔の最上階そのものだった。今は何の姿もない。
――“彼”は、孤独の中で機械的な自死を選んだのだった。
初めはきっと、願を掛けたもの達の意志と記憶を引き継ぐように、世界の創造を願ったのだろう。その残骸が50年以上前の建築物で、しかし地球からの更新が途絶えて、彼は旧式と化してしまった。新しいものを作れなくなった“機械の神”は死に、何もかもが停滞してしまっていた。二人にとっての問題は、神は、創造主のコンピューターは、いつ死んだかであった。
「……これまで地球に届いたノイズの中に、“彼”の発信したメッセージがあったのかしら?」 メリーは言う。52ヘルツの鯨は此処に存在した。
「わからない。ただ、はっきりとした映像で“彼”の死は私達に届いた。多分、アンテナを設置した人物が、彼の様子をモニターしていたのね。地球にあった頃から動画サイトにリンクさせて、監視して――もしくは観察していた。けど、時が経つに連れ、機械のマスターは彼の前から去り、その後もモニタリングされ続けた映像達も、何の変哲もない“日常”の部分は誰の目も引かず記録から消えてしまい、“死”だけが、ただ話題になるというだけで、都市伝説になった」
「なんだか、悲しいわね」
「メッセージが届いてしまったからこそ、異星間移動によって“彼”は孤独の世界に閉じ込められた。そして私達も、“彼”のメッセージによって、宇宙の中で孤立してしまった」
物質はあるだけで引力を生じる。“彼”の云ったゼロ点は、引力から最も遠ざかる――まさに無を意味していた。『引き寄せた後に突き放す』運命があるとしたら、何のために起こるのだろう。ありとあらゆるものを逆方向に動かす虚数符号がまずあった。彼のメッセージには、本来の、何かを集合させる意図は失われ、真逆の、引き剥がし別れさせる力が宿っていた。
そうならば、数学者の落下が彼の最期ならば、あれが最後のメッセージならば、それ以降、ミノタウリbと地球を繋げるものは…………
ディスプレイから目を離して、蓮子は空を仰いだ。項垂れた巨大なメリーの石塊が、白い世界に聳えている。塔から放たれた光は彼女に当たり、道標はなくなっていた。
「メリー。ダメ元で猫に頼ってみようか」
まだ法則下に埋蔵した何か、宝が眠っているかもしれない。首を振り、苦悩をリセットするように気を取り直して、蓮子はメリーの顔を迎えた。すると、そこにはいつもと変わらぬ落ち着いた表情の彼女が居た。メリーは一歩下がって足元を俯瞰した。
「ええ。…………けどその前に、三匹目の猫に頼りましょう」
そうやって誘って、秘封倶楽部は石塊に囚えられた怪物の間近まで歩み寄っていった。それ自身が纏っていた破壊の光は消え、また元通り、ただの猫の姿になって石の隙間に挟まっていた。
「落ち着いた?」
まるで挑発するようなメリーの言葉に、大きく溜め息を吐いて猫は目を逸らした。熱は冷めきって、表情筋の乏しいその動物の顔が、明確にしょげたように歪んでいるのが見えた。
「………………やはりお前はあいつそのものだ。そっくりだ」
その声は神経の弦を引き擦るような雑音ではなくなっていた。少女のような若い声。冷静さ、というには諦観に近いトーンの弱さで呟くと、怪物は猫からメリー、蓮子と姿を変えていき、やがて黒髪の、小さな少女の形で安定した。言う。
「私はもう抵抗はしない。何でも、望むようなシナリオを押し付けてこい」
完全に化けきれていないのか、元怪物の背中からは赤と、青の金属片のような突起物が出ていた。少なくとも、地球の重力下で育まれた生物にはとても見えない。別世界の、例えば太陽系の各惑星に当て嵌められる神話生物のような曖昧さを感じる。
「それじゃあ、貴女もプレイヤーとして冒険に加わって」 怪物に答えるメリーの言葉は、今日昨日で蒸留されたものではない。幾つか、幾つも数多くの冒険によって蓄積された余裕だった。
「私の拘束を解いてもいいのか? 従順なフリをして、後ろから刺すかもしれないぞ?」 跳ね返る怪物の声に、
「その時は、貴女を再び押さえつけるわ。――ね、蓮子?」 メリーは強引に了承を取り付けてくる。
「あ、ああ」 戸惑いながらも蓮子はそれに頷いた。
2対1である限り、多数派である限り、この世界では絶対に優勢となる。心配する事はない。しかしそれよりも、今ではメリーの平常さが恐ろしい。――――思い返してみると、メリーは初めから怪物に対して恐怖心を抱いていなかった。より弱い生物ほど、身を守るために臆病に、凶暴にならざるを得ない。一刻前の怪物がそうだ。なら、××××××とは、どれだけ絶大な力を持つというのか。もし、怖れの一切ない覚者が居るとしたら、それは何よりも強く、友好的に、対等に振る舞うのだろうか?
ある怪奇小説家が日本の妖怪を恐怖の具現と云っていたが、彼女、メリーにとっては平等に“何か”ではなく“誰か”なのだろう。時折、その親友が、幻想世界そのものの具現なのではないか、と錯覚することがある。
……そして二人の念は石塊の巨人を地に還して、怪物の戒めが解かれた。その生物の全貌が顕になる。人間の形。それも少女だ。黒いワンピースを着た低身長の少女。黒い癖っ毛のショートヘアをして、血のように赤い瞳を持っている。メリーは訊く。
「貴女の名前は?」 歯に衣着せず、同年代にそうするよう、当たり前に尋ねた。すると、怪物は嫌そうに唇を歪ませて、しぶしぶという風に小さい声で答えた。
「……私はぬ…………エヌ。エヌって呼んで」
「エヌ……N。イニシャルみたいね。私がマエリベリーのMで、蓮子がR。NMR……蓮子、何かありそうかしら?」
問答はもう、完全にお遊びの領域に達していた。だがしかし、今真剣に悩んで何の得があるだろう? 蓮子は会話の流れを汲んで、思案を巡らせることにした。
「NMRは核磁気共鳴のことね。量子コンピュータに使われてるやつよ」
云うと、メリーは思い出したように表情を咲かせた。「そうよコンピューター!」 Nに振り返り、こう、疑問を投げ掛けた。
「ねえエヌ。あなたは、いつ頃から此処に居るの?」
Nの認識では、未だメリーは拉致の主犯格である。それがこんな茶番を訊いてくるものだから、彼女は苦虫を噛み潰したような顔を更に情けなくするしかなかった。しかし正直に答える。
「……わからない。昼も夜も、恒星も星座も出鱈目だ。創造に気付いたとき時計を作ったけど、1年ほど数えたところで嫌気が差したよ」
蓮子の能力によって発見された“散開する星々”は、Nにも観測されていた。少なくとも1年の経過がある。続いてメリーは居所を尋ねる。尋問? 迷子相談?
「あなたはどうやって来たの?」
聴いて、Nは眉根をくしゃくしゃにして自嘲の笑みを浮かべた。それは本来なら、自分が真っ先に尋ねたはずの言葉なのだ。『あのね、私は、蓮子の、ココに来た時の状況を知りたいの』 メリーの姿が投影させていた自分にむず痒さを覚えて、Nは言い辛そうに答えた。
「――――突然よ。電波塔の上で北の夜空見ていたら急に真っ白。あとは苦悩の日々」
すると、等価交換とでも云いたげにメリーは、「そうねぇ。私は宝ヶ池観測塔の最上階から飛んだわ」 と返した。
「それは蓮子から訊いた。――なあ、あそこの空、何かが浮いているだろう?」
唐突にNは空を指差した。一刻前に蓮子が独りで見た幻……古式の船がそこには飛んでいた。Nは云う。
「お前達が蟻塚のような洞窟の部屋に住んでいるように、私もああいった舟に乗り込んでいた時期がある。この世界は訪れたものの意志や記憶をもとに、箱庭を作り上げていくようだ。ならば、私にも、お前達にも知らないような場所は、一体誰のものだ?」
「それは私が説明するわ」 蓮子が一歩前に出る。「どうやらあのコンピュータに入っていたものに反応したみたいなのよ」
「ふむ。コンピュータとやらは、生き物なのか? 私の眼にはアレが無機物に見える。どこまでが“存在”なのだ? そして記憶は何処から来たのだ?」
「それは、……」 答えかけて、蓮子の言葉は詰まった。ミノタウリbに“誰か”が訪れた時、その者に親しい場所が街に加わる、という法則がまずあるとする。蓮子のマンション、Nの方舟、アンテナ製作者の観測塔――蓮子は、コンピューターに入力されたメッセージの大元、願掛けした人々の記憶から、50年以上前の京都の姿が再現されたという仮説を立てていた。しかし、機械の記憶は“文字の羅列”に過ぎないのではないか。被験者達の脳味噌が直接コンピューターに繋がっていれば、都市の再生も容易だろう。だが、入力されたのは“メッセージ”だけだ。何処に、位置情報があるのだろう。
もし、霊的な“ありとあらゆる情報”の詰まった宇宙の歪みから、個人個人の意志を“誘導剤”として利用して街の建設を行っているのなら理屈は通じる。しかしそれなら、同じ無機物で、意志の込められた様々なアイテム――例えば蓮子の帽子、スカート、携帯端末、メリーの金色の髪、整えられた爪、Nを取り巻く妖怪物質、そう云ったものから賑やかな街が生まれていないとおかしい。
星は、何を“個人”として認めているのだろう。
それとも、別の法則や要因が隠れているのだろうか?
「それは、わからないわ」 蓮子は頭を抱えて答える事になった。
しかし、そこで鶴の一声。
「いえ、蓮子。色んな先入観を捨てて簡単にしてしまえば、わかるかもしれないわ」 メリーはそうして宣うと、集まる視線に応えるように続けた。
「シンプルな話よ。最初この世界には、ただ“塔”の最上部だけがあった。そして、遥か50年以上前、設計者の他に、様々な旅行者がここを訪れていたの」
「メリー。それは、一体、どういう……」
「つまり、こういう事。《行き来が自由だった》。装置の製作者は、この星のことを知っていて“意図的に”ゲートを繋げたのよ。多分、メッセージの発信どうこうは、人の目を引くために作られた広告塔なだけで、本当の目的は別にあった。例えば、――何かの理論を実証するため、とか、頭のお硬い先駆者達に認められるため、とか、科学者然とした野望ね。アトラクションとして使われた時代があるかどうかは微妙だけど、何人も何人も訪れては帰って、ミノタウリbは成長していった。しかし、途中で誰も来なくなって、やがて観測者であるコンピューターも自死を選んだ」
蓮子は気付く。もしそうであれば、怪物に憎しみを与え、自分達に当惑を齎した、何もかもを運命づけた“神”は、
「待って。そうだとしたら、そんなのまるで“魔法”よ! それに、そんな事があったら私達の地球は今、もっともっと進歩しているはずよ!」
「……科学的躍進がないということは、周囲に認められなかったって事でしょう。この、何でも出来る世界と、あらゆる距離を結ぶ研究が。塔の廃止も、別のキナ臭い政治的理由が隠れているかもしれないわ」
神は、人間で科学者だった。全能を否定するのも、神ならではの力である。蓮子は気付く。自分達の置かれた偶然に。
「辻褄は合うわ。辻褄は……けど、本当に、そうなら」
まず最初に研究があった。それは観測塔に新気鋭のマシンを作り出し、すでに観測されていた魔法の星と地球を繋げようとした。そのためにメッセージを集め、星に意志が着床するのを待った。リンクが確立すると、創造主は進みすぎた科学の力を使い移動して、意志によって形を自在に変える“究極の資源”を発見した。それからは苦難の日々である。研究は否定され、塔の移動機構は解体された。だが星は、歩みを止めた進化の中で、その後も地球に向かってメッセージを送り続けた。ようやく偶然が実ったときには機械は自死を選んでいて――――Nと二人の移動した時間が違うのは、星からの距離だろうか? それとも物理的歪みだろうか?
蓮子は考えた。例えば、Nの云っていた舟が宇宙を航行する亜光速船であるなら、相対性によって時間のズレが発生するはず。例えば、彼女の住んでいた場所が 『永遠を望むようなユートピア』 であり、時間の伸びを極限にまで引き伸ばした光速の中にあるのならば……例えば、Nが50年以上前に巻き込まれたとしても、向こうではほんの一瞬――――――しかし、数年もの空白がNにあったとするなら、どうして彼女はコンピューターが孤独死するまで無視を続けたのだろう? マシンを知らず、かつ“魔法”のような超技術で支えられた怪物の故郷、そんなものが有り得るだろうか?
もし、メリーのシンプルな仮説が本物なら、そのまるで理想郷のような世界がある事も、眉唾ではないだろう。なにしろ、Nは自分の姿を自由に変えられるし、蓮子とメリーの姿も任意で変化させられるのだ。こんなもの“魔法”と言わずなんと謂う。
『本当にそうなら――――』
そして、もうひとつの現実が突きつけられる。
「ええ。帰り道はもう無い」
“偶然”に星と星が繋がったことを認めなければならない。メッセージが届く届かないは些細な誤差に過ぎなく、50年以上前にあった物質の交換は、意図的に理論的に作られたものであり、しかし今やその渡航技術は失われていて、今回の異星間移動は、結界の隙間や物理の必然ではなく、たまたま起きた宇宙の歪みが、機械の自死と重なっただけであるという悲劇。行きはよいよい帰りはない。
つまり都市伝説によくある、バミューダトライアングルの航空機消失くらいの“ありえない出来事”に巻き込まれてしまったという事。
…………誰も帰れない。
人生をある程度進むと、誰もが幸運な偶然を望むようになる。
宇宙へのメッセージに願いを託すように、数学的研究が成就するのを祈るように、家路へと就く方法があると盲信するように。
しかし、必然はきっと来る。必然により動かされている。もし、猫の動きに従って帰り道を模索していたとしても、当て所無く石塊の廃墟を巡っていたとしても、怪物と仲直りした後に情報を集めて探索を再開したとしても、行き着くところは皆同じ。
ただただ三人は三位一体となって、この粘土作りの星で姿形を捏ねて神の真似事をするしかない。必然はきっと来る。人間にとって、死という確実な終焉があるように。
彼女達は憶測の域を出ない不毛な議論を幾つか重ねたあと、猫に従い歩き始めた。猫はどこかへ向かっているようだった。それに込めたプログラムは『結界の破れ、帰り道』に関するものであった。
箱庭の中の猫は、偶然を見抜けるのか?
その世界はシンプルだった。色を得ていない白からあらゆる意志が形となって具象化して、否定しない限りはそこに有り続ける。
観測塔を中心にして、果てしない町と地平線が広がっている。パッチワークの都市は、迷宮のように三人を睨みつけていたが、猫の歩みは確かで、道を縫っては、真実へと繋げていく。
最後に行き着くのは何処だろう? 知恵と道具のある世界最大の書斎だろうか。誤差なく日食を観測できる物理学者の地の果てだろうか。数学者ラマヌジャンが啓示を受けた夢の中だろうか。はたまた、志半ばで埋もれて人生のレールを変えてしまうのだろうか。
猫に足音はなかった。片方はメリーを見つけて役目を終えたのかその頭の上で眠りに就き、導くもう1匹は振り返りもせずにグングンと進んでいった。3匹目は3人目となり、今では人間2人に従っている。
3。次いで出る数字は、
「ねぇ」
蓮子がひとり声を漏らした。猫はその十歩先ほどで足を止めて、目的地だと言わんばかりに振り向いた。辿り着いたのは一軒の家の前だった。かなり古風な様式の日本家屋で、玄関横のスペースには赤色のクラシックカーが停まっていた。
「どうしたの?」 メリーが聴いてくる。その終着地点は宇佐見蓮子の最もよく知る特異点であった。
「…………これ、私の実家よ。ほら、車のナンバー17・29。随分前に帰ったきりだけど、全部覚えてる」
1729。これは後の世に見つかった数学者の遺稿に、K3曲面の構成とともに書かれていた数字だった。ここから生まれたカラビ・ヤウ多様体は超弦理論の中で――――
「猫は“帰り道”の解釈を間違えたのかしら?」 メリーの言葉に、
「どうだろうね。まあ、あがっていきなよ」 蓮子は先行って、続く2人を追憶の中へと案内した。
それは、寸分違わぬ故郷だった。引き戸の玄関を開け放ち、靴を脱がずに土間からあがっていく。玄関踊り場の横には靴箱があり、その上には縁起物の七福神が置いてあった。家の中央を廊下が走っていて、そこから枝葉のように分かれた居間からは、閑静とした縁側と丈夫そうな障子戸が見えた。屋内の柱はダークブラウンの釉薬が塗られていて、木の質感が表に出ている。台所にはガスボンベを使う火の元が存在して、食材を保存する縦長の冷蔵庫には大量のメモ書きが貼り付けてあった。
「うわー見てよメリー。このテレビ。私が子供の頃のやつだ」
指差した彼女の先には、骨董品であるブラウン管テレビが置かれていた。蓮子が生まれる前にすでにアナログ放送は終わっていて、それを正規の意味で利用することは一度もなかっただろう。近くにはビデオデッキが置いてあり、その家族がレトロライクな趣味を持っていたのが伺える。
「子供の、って事は、大昔の記憶のほうを読み出してるのね」
「なあ、お前達はそうして見るだけで察せるのだろうが、私にはそれが何に使うモノなのか、さっぱり解らない」 興味を示したNが後ろでそう云った。
「ああ、これは電波を受信してテレビ放送が見れたらしいのよ」
と蓮子は答えるが、元々怪物で、生まれた環境の違うNには、
「そうか。すごいな。わからん」
なんとなく話を合わせる事すらできなかった。
立ち止まった時、想い出に浸るのは何故だろう。蓮子はその昔の自分を紹介しながら、家の各部屋を回っていった。もはや観測者の消えた世界で時間の意味があるかどうかは野暮な話だが、時は過ぎて、蓮子は自分の部屋のある2階へとあがっていった。
階段の上にある踊り場には、掃除道具や溢れたおもちゃ籠が部屋から避難していて、横窓から斜めに入る光で照らされていた。全員上がり終えたところで、メリーの頭から猫が逃げるように飛び降りて、その場でにゃあ、と鳴いた。ドアノブに手を掛けた蓮子を、後ろから御するものが居た。
「蓮子、ちょっと待って」
それはメリーだった。蓮子が目を遣ると、彼女は神妙な面持ちで佇んでいた。訪れは突然。帰り道を探す2匹目の猫が案内したから、これは必然なのか。それとも、ずっと前、怪物の云う“何者か”が仕組んだ罠なのか。はたまた神が歩ませる苦難の道のよう、ただ、運命としてあったのか。彼女には“それ”が見えていた。
「もしかしてメリー」
「……ええ。そう。あるのよ。結界の境目が」
「えっ……帰れるの?」
メリーとは対照的に蓮子の顔は明るく綻んだ。しかし、当の発見者の顔色は優れない。
「かもしれない。――――確かに、私達の住んでいる地球には“結界の切れ目”みたいな不可思議なものが存在するのだから、ここにあってもおかしくは無い、けど」
「けど、って何よ。行き道があれば帰り道もあるだけって話でしょ? 私達は幸運だったのよ」
「…………いえ。行きとは少し状況が違うのよ。ここに来る時、私達は4年前の数学者の送信したメッセージ、つまり“縁”に導かれてきた。けど、今は“彼”が死んでしまっているのよ。当然、地球とミノタウリbには、もう接点はない」
「つまり、こういう事か」 横からNが結論を引っ張り出す。「移動はできるが、帰れる確証はない、と」
「そう」 メリーは肯定し、
「そうとは限らないわ」 蓮子は否定した。
肯定も否定も、実は単純なことだった。
結局、箱を開けなければわからない。扉を開けなければわからない。そしてその先には、猫は着いてこられないのであった。
「蓮子。私の見た幻想は何処か遠くにあるのよ」
「メリー。私達の現実はすぐそばにある」
「お前達は頷くか首を振るかで一喜一憂するようだが、役を演じている私には茶番に見える」
「「貴女にはわからないわ」」 挟まれたNの茶化しを真っ向から払拭するように二人は声を合わせた。Nはやれやれ、といった風に口をすぼめて、一言を付け加えた。
「判るも判らないも、お前達の言葉は相反しないじゃないか。幻想は何処か遠くにあり、現実はすぐそばにある。人間の手が無闇に迷うならば、せめて私が開けよう」
云うと彼女は秘封倶楽部の肩を退けるように進み、その扉を一気に開け放った。他愛ない。第三者の力でその観測は完了する。
奥には何があるだろう。驚く暇もなく、状況を整える余裕もなく、眼をその空白に向けたときにはすでに、嗚呼、まるで観測塔最上階でそうであったように、前兆無く景色は移り変わった。
懐かしき追憶の中より、懐かしき現代の街へ――――
街。…………街?
そう都合よく行くはずなんてない。天が回る世界観も宇宙空間に満ちるエーテルも、魔法や科学や、それ以降の何らかの“真実を定める学問”も、実験と結果、データの蓄積に反証推論精査修正証明――――莫大な時間と人間の命を吸い取って、“叡智”は信仰のような体系を作り出す。それは決して都合の良いものではなく、ただ、あり、憧れによって誘引されてきた賢者達を残らず喰い殺す。“探求”は、一体どれくらいの人間を殺しただろうか。思考は世界最大の生贄装置だ。
毒を知るには、毒を喰わねばならぬ。
嗚呼。三人バラバラにならなかったのは不幸中の幸いか。
蓮子はひとり後悔した。二の足を踏んだメリーは、杞憂に怯えているものだとばかり思い込んでいた。ブレーンワールド宇宙論において、別のブレーンには生身の身体のまま侵入できると、科学の想像を過信していた。これは、何だろう。
秩序からカオスへ。
蓮子は唾を飲み込もうとした。しかし、自分がそう、出来たかどうか判別できなかった。あの星は安定していたのだ。だからイニシャルY・Oは実証の地に選んだのだ。此処は? ここは――――どこだ?
三人の前には、驚くべき“法則”が待っていた。光景とも地平とも呼べない何物かが、全身を透過して、情報だけを教えて色を奪っていく。空間……空間? 時間? 意識した途端、合わせ鏡のように自分達が多重に存在する感覚に苛まれた。
「メリー。大丈夫
声を発したはずだが、言い終わる前より先に彼女が頷く幻視が訪れた。「行けるところまで行きましょう」 と返してきてくれた予感が蓮子の手の指先から浸透してきて、次のステップに移るために自分の足が霧に変化したような気になった。Nが小さく呟く「なるほど。理解した」
夢の終わる瞬間のあの感覚。未だ半分眠りの中にある寝ぼけ眼をこすっているときには思い出せた夢が、二本の足で歩き、朝のうがいをしている間に次第に薄れていって、現実に慣れていくあの漠然とした確信。それとは真逆の、今から夢に入るような微睡みの中、一日に起きた出来事がぐちゃぐちゃになって襲い掛かってくる混沌の黎明。身体の重さを感じなくなり、徐々に快楽と共に消失が忍び寄ってくるあの、理解したくもない安らぎ。10色の絵の具を混ぜている途中のような、フォーダイトに似た色彩。充足感の中、全てに繋がり全知となり、繋がっているからこそ判別がつかなくなる無知の極地。メリーは必死に目を凝らした。また別の、安定した世界を探るために、“探求”を行うために目を凝らした。目を凝らした。
何も視えない。という訳ではない。感知はできる。しかし大凡知り得るような意識のフォーマットが展開されなかった。まるで見える事が、血管壁内のヘモグロビンの動作になったようだ。全身くまなく巡る視覚が、脳を通り過ぎて頬のこぶし4つ分先で薄い膜を作り上げている。未来が幾らでも見通せた。京都地下環状線の完成から200年が経ち再び首都が移り変わる事を。蓮子はメリーのそんな予知を覗き見ていた。同時に、Nの体験してきた沢山の光の飛び交う決闘をその耳で聴き、また咀嚼していた。
「蓮子、向こう側に、 石塊のような幾重にも積もり上がった創造物が足元と頭上から鍾乳石のように垂れ下がってきて、完璧なシンメトリーを持った自身の顔を造形しては、それを猫の顔にへし曲げ、そしてオッドアイにさせ、赤、青、黄の三色に分解していく。1、7、数字が鳥のように飛び回り歯車機構を物理的に吐き出すように囀ると、次の瞬間にはアルコールが酢酸へと代謝されていく仮定が大2口を開けて鳥どもを呑み込み、マリンバの音がその現象の終わりを9告げた。999999。3
「 手を ひとつの事象の寿命は1分から数秒まで様々であった。しかしどれもが永遠のように長く、かつ意識を別の場所において、相対性で決められたよう、視点を変えるとその途端、死ぬのであった。 繋ぎましょう。」蓮子、メリー、N
迷わないように手を伸ばすと、それは一輪のハルシオンへと生まれ変わって曲面の隙間を縫うように花畑となって広がった。 ! 塔が出現して光りが瞬くと瞬くと、数学者達は皆一声に拍手で出迎えて出迎えて、その道筋が確かなものであると硝酸した。た。科学は進歩を病めない。何時迄もいつ間でも人減と知性が尊属する可ぎり、疎うして深まり続けて深淵を覗く者は、――深淵に覗かれてい――――るのだ探求は永延である琴を詔命しツヅケル。真。理は虚の面を刳り鶏、日は東に、135度35結果は銅なる? 嗚呼。手が重なると、意志は混合した。8。紫色の虹が顕れ…………
時を幾ら隔てたか――――その時、蓮子とメリーの姿が突然はっきりとした形を持った。現実では変わることのない形。重力に軋む膝に、血肉の詰まった胴体……心臓の脈動が隅々まで行き渡り、菌類がきのこを形成していくように末端の膨らみが生まれていった。脳が眼球と繋がり、骨という器と支柱を元にして背中、腰、硬く安定している部分を囲み、日に焼けない皮膚と柔らかい筋肉を隆起させ、そして産毛、現実にあった生物の記憶がリロードされる。まるで蝋燭の火が点くように、像の定まらない闇に秘封倶楽部がただふたり、出現する。「メリー、私達」 蓮子が、言葉に昇華した音を相手に伝える。「ええ。何故か、私達で居られてる」 空気振動は概念となって大きめの鳥に生まれ変わり、それは光年の距離を泳いでエーテルの海に溶けると、やがて耳元に辿り着いてそこに居る妖精に意志を教え、妖精はごくごく小さい声で相手にそのメッセージを囁くのだった。宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンは、自分達が一番良く知る世界観によってカオスの中に存在できていた。姿がないのはN。彼女はまるで霧が黎明の朝露の中で、薄光の向かうべき道に彷徨っているように、自失して漂っていた。《“私”の“力”で“お前達”の“姿形”を“正しく”“変化”させた》 Nが発そうとした台詞は網膜に渋味として染み込むように、映像として映り込んだ。「そんな……」 彼女の決死の助力よりも、彼女自身が混沌から抜け出せないでいる事に蓮子は悲嘆した。なんとかその手を取ろうと、宙空に腕を伸ばし、虚無を掬い取る。何度も繰り返している内にしっかりとした感触があったような気がして、その掌の中に願いを込める。「蓮子。行きましょう」 行くべき目的地など無く、あてどなく自分の能力を信じて、二本の足で歩く事も知らずに進まなければならない。
この場所では、生きる事も死ぬ事もない。永遠であり、融合であり、また無であり全でもある。蓮子に続いて、メリーもNの手を探り当ててそのバラバラになりかけた実存を繋ぎ止める。そのまま、ゆっくり、常闇よりも暗く太陽よりも明るい当惑の間隙を縫うように進んでいく。空飛ぶ魚や海を泳ぐ鳥共、地を這い回る植物に、地底に眠る獣達。移動は、四肢や空間を隔てず、意志や現象によっても影響を受けなかった。ただ、ランダムで、歩く場所もあれば、笑い声によって越えられる孔もあった。何もかもが手探りで、しかし二人は手を離さなかった。3人の輪を作るよう、右手はひとり、左手はひとり、唯一の相手を確かめ合うようにして自分達を見失わないようにする。混沌が回廊状であるのなら、もう二度とは戻れはしないだろう。
3。3人だった。しかし、あらゆるものはやがて灰に還り、水に流れて塵と化し、そしてより大きなものに牽かれて圧搾されてしまう。姿の維持も、声によるコミュニケーションが行えたのも今では一瞬だと思ってしまう程に時を隔てた。手と手の境界が揺らぎ始め、溶解の時が迫ってくる――――
「「「ねぇ」」」
それは3人共に聴こえた、もはや概念が有り得ないはずの音声だった。誰か、――――と現世の慣習で姿を眼で探したとき、すでにその“少女”は目の前に存在していた。
その顔は霞がかって見えない。それどころか姿すらも不定形で、まるで水の中で揺蕩っているように実像が掴めない。知識でそれを判別しようとすれば、間違いなくカオスの中に現れた、電子周期の偶然の錯覚に過ぎないだろう。しかし、そこには“少女”が居るのが実感できた。幼い頃の自分の映し身が、今際の際に走馬灯として再生されるよう、五体を持ってはまた古い記憶のように朧気になって消えてを繰り返している。少女は、黒い帽子を被っているように見える。それは、蓮子だけではなく、メリーやNにとっても同じであった。
「「「ずっとあなたの事を探していたの」」」
少女はたった一本の手で三人の掌を掴んだ。彼女はまるで相対性の具現化であるように、ひとりひとりの意識の中に同時に存在していて、かつ別次元であるその意識達を、たったひとつの宇宙に繋ぐよう干渉してきている。少女に誘われて、歩き――歩くというよりは、引力に近い動きで、秘封倶楽部と怪物は混沌を進んでいった。進む? 何かに向かうのは間違いではない。
「あなたは―― メリーか、蓮子か、誰が発したのか、少女への問い掛けは途中で膨大な情報の渦に巻き込まれて、メッセージ化しなかった。「「「大丈夫。道は合ってるよ」」」 一方的に言われ、皆、その秘密の小道を掻き分けていった。
ハードディスクドライブ内に存在する16進数の群れのような暗号化された世界がランダムパターン化したノイズへと変化して、徐々にそれは点の集合から鋭い角を持つ図形へと昇華されていった。その先はあっという間だった。何かが爆発的に弾けたと思うと、その中心から、様々な球が互いに回転しながら放射状に広がっていき、やがて速度が安定すると、球は近くにある更に大きな球に落ちていくようになり、その大きな球も更に更に大きな球へと――――楕円状になった落下の軌跡は光の帯を描いて、複雑に絡み合う環が作り出された。光はある地点に達すると急激に冷えて固まり、ガス状から鉄に似た固体へと変遷していく。その球の表面に風が吹くたび、これまでの爆発的事象からは考えられないほど繊細な砂の動きが生まれ、そしてそれは一個の塔を建造した。
螺旋状の階段のある塔を外から昇るように浮遊しながら眺めていくと、その覗き窓からは同じものがひとつとしてない影が幾つも幾重も並んで見えた。骨を持った猿がその“道具”を振りかざすと、巨人の手がそうしたように大陸が平たく均された。神が落とした一滴のインクが詩歌と文字になり、大地は“言語”で埋め尽くされていった。子供におとぎ話を読ませていた親達は、やがて機械に声を吹き込むようになり、光によって撮られた写真、映像、人生はその“記憶”を小さなチップの中に詰め込んだ。円熟した文明は幾何学文様の織物や巨大建造物を生み出すが、次第に環境が閉鎖を始めると、そのどれもが突然の侵略や災害によって破壊し尽くされた。スクラップ&ビルドされる街並みが何千、何万と続くと、ずる賢い人間達はその、破壊行為によって進歩する方法を発見した。それは、窓から見たところ“コイン”を交換しているような光景だった。そして、掌から滑り落ちたコインは、木の、石の、鉄の、アルミの、プラスチックの、床に二三度バウンドして、片側の面を見せた。裏と表を決めるのは概念に過ぎなく、蓮子、メリーの眼にはその絵柄が、人物の描かれた面ではなく、ただの素っ気ない数の彫られた側であるのだけがわかった。ただ、数字の周囲には豊穣を示すのか、見覚えのある花が添えられていて、それは丁寧にも色が付けられている。塔の最上階にもそのコインは存在して、数学者の居ないその空白には、一匹の鯨と、その上の一枚、そして描かれた8の数字だけがあった。
オッドアイの猫が階段を上がってきて、鯨の描かれたテーブル上に飛び上がると、明らかにこちらに気付いたように眼を向けてきた。
「「「帰ろう」」」
少女の声を最後に身体に重力が戻ってきて、あまりの重さに蓮子はその場でへたり込んだ。立ちくらみのあとのよう、バラバラになっていた視界が徐々に正常さを取り戻して、終着地点の景色が網膜に入り込んでくる。冷たい空気。柔らかい土。弱い風。傍らに大きな赤い鳥居が立っている。
――――高台から見下ろしたその里は、まるで時が若返ったかのよう、
気が付くと、秘封倶楽部は塔の最上階で朝を迎えていた。朦朧とする意識の中、携帯端末を取り出すと、すでに朝7時を回っていた。不思議と眠気はない。二人は顔を見合わせて、混濁した記憶に目を丸くした。まるで何百年も宇宙の、一番新しいものが常に作られていく坩堝の中で過ごしていた感覚がある。そして腕に残る温かい少女の手の追憶。
言葉少なげに二人が話し合う。「帰ってこれたの?」 「現実だった?」 軽い状況確認の声を2つほど交わすと、窓から照らす太陽の光に気付いた。今日は月曜日……。突発的な思いつきから来た冒険は“空想差ボケ”を引き起こしていて、機械端末の数字よりも、朝の光に現実を覚えた。ベッドから飛び起きるよう二人は立ち上がって、「急がなきゃ」 と呟いて塔の階段を駆け下りていった。部屋から去る前、蓮子はひとり、居た場所を振り返った。敷き詰められた枯れ葉、北東だけ削り取られて代替物で補填された窓辺、無数の数式、プレートの取られた跡、52ヘルツの鯨――――
ミノタウリbの数学者は、本当に自死を選んだのだろうか。もしメリーの作成した“4人対戦用ゲーム”のようなものがあったとして、その機械が考えた結果が、もっと強い結論――演算プログラムによって答えを修正されてしまうとしたら、マシンの意志は箱の外に出ない事になる。例えば、機械が自死を選んでいたとして、計算結果は変わらず出力されるのだから、誰もその死を知ることが出来ない。まさにシュレディンガーの猫だ。匣の中の意志……。
結局、石塊の猫はミノタウリbに残った。自分達人間のような、何かを変革できるものが途絶えた星では、恐らく、真っ白で、永遠の時が流れているのだろう。また再び、誰かのメッセージが偶然辿り着いて、偶然何かのゲートが開くまでは。
螺旋状の階段を降りている間、二人はある事に気がついた。「今日って、月曜日だっけ?」 前日が送り火の行われる期間最終日だから違うはず、と手元の端末を確認すると、大学の忙しい夏季休暇期間は未だ全く終わっていなかった。◯曜日。メリーは疑問を口にした。「じゃあどうして、私達は夏休みである事を忘れて、しかも曜日の感覚まで狂っていたのかしら?」
二人共同じような感覚に襲われていた。様々な憶測が入り乱れた。カオスの中で体内時計がおかしくなった説、実はタイムトリップした説、超物理現象と組み合わせた新しい心理効果説、Nの見せた幻惑説――――N。その名前を出した途端、朧気ながらも記憶が蘇ってきた気がした。あの混沌の後の、原風景。秘封倶楽部はとりあえずその現象に“月曜日現象”とおかしな名前をつけて、帰ろうとする足並みをほんの僅かに遅くした。
秘封倶楽部は断片的な記憶を二人合わせて補完して、その、第三の世界を思い出そうとした。家路につくまでは最寄り駅からでもそこそこの時間が掛かる。それまでに幾つも回想をすれば、この帰郷の、嬉しいような、少し残念なような、混ざりあってモヤモヤと霧になってしまった胸のざわめきも消えるだろう。あの里。神社。
「確か、私達三人共カオスを突破できたのよね」 蓮子が言い、
「そうみたいね」 メリーが次に応答する形になった。
「手を誰かに引かれたのは覚えてる。あの里? に辿り着いた時、もうひとり居たはずよ」
「うん。そうね……黒い帽子と……緑色の瞳をした女の子だったと思うわ」
「私が覚えてるのは、青紫っぽい丸い目玉が一個浮いていて、あとは人型の影みたいな女の子……? のようなもの」
「見るひとによって違うのかしら。蓮子は何を話したか覚えてる? 私は名前も聴いてない気がするの」
「うーん。確か……私の後ろで自分の事を“メリーさん”と名乗っていたわ」
「Nと言いその子と言い、どうして私を真似たがるのかしら」
「あとは、“二人にはまだ早いよ”って台詞。そのあと神社の裏手に連れて行かれて、記憶が途切れたわ」
「多分、その場所に現実に繋がる結界の切れ目があったのね」
「メリーは何か言われた?」
「ちょっと待ってね。頑張って思い出す……――――あ、そういえば、Nとは少し話した覚えがあるわ。あの子はこう言ってたわ」
『私は疑ってばかりで役に立てなかったな』
『そうでも無いわよ。あのとき私達の姿を作ってくれなきゃ、彼女に手を引かれることもなく雲散霧消してたわ』
「って私は返したの。あと、うろ覚えだけどその前に“メリーさん”が、」
『おかえり。みんな心配してたよ』
「とか何とかNに言ってたはず」
「とすると、あの世界がNの謂う“方舟”って事なのね」
「うん。ただ頭がぼーっとしてたから不確かだけど」
「私もそうだったよメリー。あの混沌さえ無ければ、Nの方舟を探索する余裕があったんだけどね」
「………………ごめんね。蓮子」
「いきなりどうしたのメリー」
「いいえ。私のせいで、あんな危険な目に合わせちゃって」
「いいのいいの。そのおかげで帰れたんだし、結果オーライよ」
「結果良ければ全て良し……なのかな」
場面は地下鉄の駅のホームに移り変わっていた。話し込んで、場所さえも忘れて、ただ無意識にその道を歩んでいく。
3つの中からひとつを選んで、成功、失敗、境界値。そのどれもを捕食して、猫は腹を満たす。原因と結果。偶然。意志と無意識。
どの方角へと向かうか。秘封倶楽部の話は尽きなかった。数学的現象から、海の底のオカルトへ。牛頭鬼から4光年離れた未知の新しい星々へ。イドの底にある方舟に、何の変哲もない日常。思い返してみると、あんなに難しかった道筋は今となってはどうでも良くて、ただ、なんとなく、本当の意味で“なんとなく”壮大な冒険をした気分になっていた。
昔話にはいつも教訓が引っ付いてくる。過去を回想するとき、物語を読むとき、思い出を語るとき。二人は、今回の旅路にちょっとした寄り道を追加することにした。蓮子の部屋に集まって、何もかものきっかけであるTRPGのシナリオの作成を、経験をもとに作ろうと云うのだ。では、この話の教訓は?
蓮子はふと思い起こす。浮いた目玉の少女が、どのタイミングかは不明だが、こんな言葉を口走ったのを。
『宇佐見……何子だっけ。何十年ぶりかな? あれからずっとオカルトを集めてたの? 多分そのせいで皆巻き込まれちゃったと思うの。また電話欲しいな』
彼女はそれを心の中にしまっておくことにした。京都の町はランダムにシャッフルされておらず、いとも簡単に、だがきちんとした距離の道のりを以て帰り道は実在していた。携帯端末を見る。そこには見ず知らずの、例えば身体不明の少女の番号などが沸いているわけもなく――そういえば、同じ場所に実家のお守りを入れたままであった。中には“何かの石”の欠片が入っている。
雲は黎明の空をゆっくり流れていた。コンクリートブロックを踏みしめる足が、たまに浮いたような気がして二人は一緒に歩みを止める。振り返り、当たり前の街並みがあることを確認して、そして空を仰いで、大きく息を吸い込んだ。
私達は生きている。
選択できる。
そうして苦労して創り上げる。
了
こういう話は秘封じゃないと無理なのだと思います
ただ全体的に取っ付きにくさがあった気がします、そこだけ残念でした
最初わからなかった存在がぬえだとわかってからピースが繋がりだして、謎がふたりによって暴かれていくさまが堪らなかったです。あとがきのエピソードも素敵。
とても楽しめました、よき秘封倶楽部に感謝。
本文でやられて、あとがきで更に殴られました。
面白い話は面白いと再認識させられた気分です。
とても好きな話でした、読めたことに感謝します。
知識があれば、地頭がよければ、もっと楽しめたのだろうか。
全てを楽しめずしてなお、満足感は十分だったのですが。