重複した世界の像を眺めるためには、青色の目薬が必要だった。
人々の現実を拡張させる魔法の薬。その名はニライカナイ。人類は別世界を目の当たりにするために、わざわざ海を渡る必要がなくなった。薬局で簡単な検査を受けて、ネットワーク口座から一万円ほどのクレジットを払えば、それだけで違う世界への入り口に立つことができる。
拡張現実(オーグメンテッド・リアリティ)。技術は留まるところを知らずに進歩を続け、薬とナノマシンの混合液による拡張現実レイヤの構築を可能とした。
目薬を差すことで飛び込んでくる光景は、当事者の選択によって多種多様に変化する。誰かは、ネット上の口コミサイトと連動させることでレストランの評価を知るだろうし、また違う誰かは、味気ない風景にファンシィな装飾を加えるだろう。ちょうど、前時代的なタブレット端末に変なシールを張ったように。
特別な目を持っていますという自負心も、今や一万円分のクレジットで簡単に手に入ってしまうというわけ。それが面白くないという拗ねた子どもみたいな感想も、なくはない。だからと言うわけでもないけれど、鳴り物入りでネットワーク上を騒がせた目薬を、私は買いたいとは思わなかった。私がそうなのだから、蓮子もそうに決まっていると思っていた。
だからこそ、彼女の鞄から小瓶が出てきたとき、私は唖然としてしまって。
「――興味があったから、買ってはみたけど」
コトン。喫茶店のテーブルの上に小瓶が置かれて、青い液体が小さく波を打つ。その色合いも相まって、海の深い部分を切り取って閉じ込めたように見えた。小さなニライカナイの入り口。私は蓮子の顔と小瓶を代わる代わるに見つめてた。
「そんなに面白いものではないわね。UIが良くないのが痛いわ。入力キーを確認するために目で追うでしょ? そうすると、その目の動きに応じてキーが逃げちゃうの。慣れてない入力端末なのに、最初からブラインドタッチを要求されるなんてナンセンスよ」
「私はコレの使用感よりも、アナタがコレを買おうと思ったということがナンセンスに思えるわね。今の自分の目にある機能だけじゃ、満足できないってこと?」
小瓶をつまみあげて中のニライカナイを眺めながら、私は嘆息してみせる。星と月から、時刻と座標が判る程度の能力。その程度の異常じゃ飽き足らず、更なる力を自分の両目に課すだなんて、と。
「過労で潰れてしまうわよ? アナタの目。まだまだ拡現(オーグ)レイヤの安全性も不確からしいじゃない。どうして日本人って、自分を痛めつけるのが好きなのかしら? 私には理解できそうにないわね」
「私が拡現を見れるようになったところで、アナタの目の機能には敵わないわよ。アナタが普通じゃないものを普通に見ているのだから、平気でしょ」
「私は必要・不必要の観点から物を言ったつもりだったのだけど。もう既にこれ以上なく広げられた世界を、無意味にこじ開けたりして。視界に広がる電子の海にアナタは何を求めるというの?」
私は小瓶を振り振り、蓮子に向かって唇を尖らせる。彼女が俗っぽく流行りものに手を伸ばすというのは、何だか気に入らない。そういうのは何も考えてないような普通の大学生に任せておいて、もっと有意義なことをして欲しいのに。そんな風に思う私は、ワガママなのだろう。だけど彼女に振り回されている以上、それくらいは許されてしかるべき。
「もちろん、私だってむやみやたらに現実を拡張したいわけじゃないわよ。破廉恥に差し込まれる電子公告で視界をいっぱいにするのも、エレガントじゃないしね。私がニライカナイを買ったのは、コレのせい」
言って、蓮子は鞄の中から四つ折りにされたアウテッドプリントを大事そうに取り出す。プリンタによって印字された紙。継続的な更新もされない、前時代的な情報媒体。教科書さえもタブレットデバイスで持ち歩く時代において、彼女はそれこそ古びた宝の地図みたいにその紙を広げて、
「拡現の使用者の中にね、時々、妙なものが見えるという人が居るらしいのよ。設定やネットワーク倫理規定を飛び越えた、とっても奇妙なモノ。そこにあるはずのない何か」
「いかがわしいサイトにでもアクセスしたんじゃないの? 自分のデバイスをウイルスに感染させてしまうなんて、中学生で卒業すべきよ」
「最初は私もそう思った。けれど、そういうのは全部、検閲AIが排除するはずでしょう? ナノ秒レベルでアップデートされ続ける機械仕掛けのディアン・ケト。電子銀行(ネットバンク)にも繋がってる量子ネットワークで、今どきウイルスなんて流行らないわよ」
「それじゃ、何者かがハッキングしたとか?」
「可能性としてはありね。けれど、だとしたら拡現利用者に幻覚を見せる意図は何かしら? ライフログやパスワードが抜かれてることもない。そもそも個人情報を盗むために、個人のデバイスをハックする理由はないわ。そういうのって、大抵の人は情報保護業者(セック・キーパー)に任せるだろうから、ハックするなら情報保護業者のサーブレットでしょ」
立て板に水、とばかりにスラスラと自論を語った蓮子は、ゆったりと足を組んで紅茶を傾ける。ベルガモットの香りが、オープンテラスの合間を縫う夕暮れ時の風に乗って私の鼻腔をくすぐった。
私は蓮子が取り出したアウテッドプリントを引き寄せる。そこに踊るのは、古文書レベルに古いコンテクストを持つ煽情的な記事。全書籍図書館(ボルヘス)にしかないような、ゴシップ誌風のそれ。有名人の深夜デートとか、ヤクザの抗争といったどうでもいい話を書き連ねるのに特化したコンテクストは、私が持つ紙の中で、拡現の不具合を陰謀論めかして物語っていた。
「確かに、よく判らないことではあるけれど……」
流し読みしたアウテッドプリントを綺麗に畳んで、蓮子に手渡す。彼女がそれを鞄の中にしまい込むのを見てから、私はテーブルに肘を突き、
「アナタが興味を持った理由が、やっぱり私には判らないわね。新生のサービスなのだから、少しくらい不具合だってあるでしょう? オカルトが絡む要因なんて無いように思えるけど。それともまさか、ニライカナイの使用者が視る幻覚が、結界のほつれに違いないなんて言い出さないわよね?」
「残念ながら、そのまさかよ」
言って、蓮子はテーブルの上の小瓶を手にし、迷うことなく青の液体を点眼する。最初は左眼、次に右眼。小瓶の蓋を閉めてパチパチと瞬きをした彼女の頬に、青い涙が筋を描く。
「起動……パターン視認チェック……うぅ、目の前がグルグルする。麻薬常習者の気分ね……。ほら、メリーも」
「そんな物騒な感想を聞かされて、よく私が応じると思うわね」
手渡された小瓶を眺めつつ、ため息。まるで徹夜明けででもあるかのように焦点の定まらない蓮子の視線から、プイと目を逸らして。
「ねぇ、蓮子。私たち秘封倶楽部は、いつから最先端テクノロジーの不具合なんて俗っぽいモノまで対象範囲に含めてしまったのかしら? 会員規則の変更なんて、私は聞いてないけれど?」
「最先端だからこそ、オカルトが入り込む余地があるのよ。オカルトというのは、ワケの判らないモノを投げ込むために作られた箱だもの。陸蒸気に化けた狸の逸話が残っていたり、ビデオテープを媒介にした呪いが取り沙汰されたりね。むしろ一般の善良なる市民たちに仕組みが理解されていない最先端こそ、意外と穴場だったりするのよ。最近はどこかのDr.レイテンシーの活躍もあって、主要なオカルトスポットは騒がしいのだし」
「皮肉な話よね。私たちの活動の成果物が、結果的に私たちの活動を制御するなんて」
「霊験あらたかな廃寺も、人が寄り付かない山奥も軒並みレッドオーシャン。だから、ブルーオーシャンを探そうとして、これに行きついたってわけ」
「確かに青いし、海だしね。それで? アナタの見つけた青い海では、お目当ての魚は見つかりそう?」
「それを確かめるために、メリーにも差してもらおうとしてるんじゃない。ほら、もうじき夜になるわよ。幻覚が現れるのは決まって夜らしいから、急がなきゃ」
蓮子が今にも立ち上がろうとでもするみたく、両手をテーブルの端に置いたまま私を見つめる。私はそんな彼女を焦らしてやろうと、目の前の小瓶ではなく鞄の中のタブレット端末を取り出して、ニライカナイの取扱説明ページを検索した。
「何見てるの? あ、取説のページ? もう。私が目の前で差してみせたというのに、メリーはそんなに蓮子さんが信用できないのかしら」
「アナタが目薬を差したという事象は、使用方法や原理までを示してはくれないからね」
ぷぅ、と頬を膨らませる蓮子を軽くあしらって、私は紅茶を傾けつつニライカナイの説明ページを、ざっとなめていく。とはいえ、個人使用端末機器の説明と大差があるわけではない。使用者の塩基配列情報をキーとして、量子ネット上のパーソナルデータと同期することの説明、薬液を構成する物質の中のアレルゲンについての記載、体温を動力源とするため、使用中は多少、目がスース―することになるという注意書き。どれもこれもサービスを享受する人間が判りやすいよう、徹底的な配慮がなされている。今どき、詳細な使用方法をテキスト化したところで誰も読まないので、それ以上の情報の記載はなかった。
説明は端的に。それが、高々度情報化社会の不文律。大昔、ツイッターなるSNSが流行っていたらしいけれど、今の世の中の常識からしてみれば考えられない。いったいどこの誰が、140文字なんて長文を読んでくれるというのか、って。
閑話休題。そろそろ、せっかちな蓮子が、スポーツを錦の御旗にすれば家庭内暴力さえ美化できた時代のアニメーションよろしく、テーブルをひっくり返しかねない表情になってきた。私はタブレットをスリープモードにして鞄の中にしまうと、グイと紅茶を飲み干してからニライカナイに手を伸べて、
「ちなみに、今の蓮子はどんな風に世界が見えているの?」
「別に何も変わらないわ。デフォルトの設定から弄ってないし、レイヤは非表示にしてるしね。視界のこの辺に、スタンバイ中のフリックキーがあるくらい」
蓮子はそう言って、ティーカップの上を指先でかき混ぜる。ふぅん、と私は適当な相槌を打って、
「じゃ、差すわね」
「どうぞ」
「これ、外すときはどうするの?」
「専用の剥離剤を点眼することになるわ。大丈夫、私が持ってるから」
「何か変なことになったら、ちゃんと責任とってくれるのよね?」
「機械再生医療(サイバネメディック)まで保証はできないけど、盲導犬の役割くらいなら」
「モードーケン? 何なの? それ」
「視覚障碍者の歩行を補助するように訓練された犬のこと。昔は歩行介助ユニットなんてなかったから、代わりに犬にその役目をさせてたらしいわ」
「つまり血の通った歩行介助ユニットになってくれるって意味ね。それならいいか」
小さく肩を竦めて、私はニライカナイの蓋を開ける。実を言うと、昔から点眼液の類は凄く苦手な私。どうしても反射的に瞬きをしてしまうのだ。
西の方から紫色に変わっていく空を仰いで、薬液を目に落とす。落とそうとする。案の定、何度か失敗してしまって高価な薬液を四、五回分は地面に吸わせてしまった。けれど、今日の私は調子が良かったらしく、六回目のトライアルでなんとかニライカナイの点眼に成功する。
「……ざっと千円分くらいは無駄にしてくれたわね」
「細かいこと言わないで。あ、ホントだ。何か見えてきた……」
呆れ声の蓮子に傲慢な言葉を返すと、私の視界に何かがチラつき始める。ちょうど紙にインクを何滴も垂らしたように、ニライカナイの商品ロゴが私の視界にゆっくりと現れた。
『拡現レイヤ構成中……OK』
『塩基配列情報同期……OK』
『市民登録番号……JKY42614294』
『氏名……マエリベリ―・ハーン』
「蓮子、蓮子、何かいろいろと出てきたわよ」
「初回起動時の情報同期でしょ。すぐ終わるわよ」
ニライカナイのロゴの向こうで、蓮子が店員さんに手を振りながら言う。お会計を済ませてしまうつもりなのだろう。なんてことを思ってると、不意にニライカナイのロゴがフェードアウトして、
『パターン視認チェックを行います』
『表示される矢印を目で追いかけてください』
そんな文字列が視界の下の方に現れて、小動物のようにコミカルな動きをする矢印が出現する。私は慌ててその矢印をジッと見つめる。私に見つめられていることに気が付いたのか、矢印は私の視線から逃げるように動き出した。
「わ、わ、あら、あらあら……!」
どうも人間は動くものを見つめるとき、無意識に首を動かしてしまう生き物だったらしい。逃げる矢印を追おうとして、ついキョロキョロとしてしまう。そんな私を蓮子がケラケラ笑ってきた。
それでも懸命に矢印を追っていると、矢印を覆い隠そうとするみたくカラフルな模様たちが躍り出てくる。ピンクの市松模様やら赤と青の渦やらが視界を覆って、目が回ってしまいそう。なるほど、蓮子が麻薬常習者の気分と言っていたのも頷けた。
『パターン視認チェック……OK』
『ようこそ マエリベリ―・ハーン さん』
『このまま、レイヤの個人設定を行いますか?』
空中に文字列が流れたかと思うと、YESとNOのボタンがパッと表示される。指で触れることを促すアイコンが表示されて、私は恐る恐るNOのボタンを人差し指でつつく。もちろん押した感触はなかったけれど、NOのボタンは私の指の動きに合わせて蓮子目がけて飛んでいき、
『デフォルト設定を使用します』
『設定を変更したい場合は、設定アイコンをタップしてください』
『操作方法のQ&AはQアイコンをタップしてください』
『利用中は周囲の状況にご注意ください』
『本製品をご利用中の事故について、当社は責任を負いかねます』
『Welcome to Niraikanai, The Paradise across the Ocean…』
中空に浮かんで明滅する英字のロゴの間をすり抜けるように、視界が、私の視界だけが、さざ波ゆれる海の上を滑っていく。それはまるで、島を渡る海鳥の世界をジャックしたかのよう。風の音、海の胎動。それらが聞こえてこないことが不思議なほどにリアルな視覚体験。海と空の交わる境界線に光が満ちたかと思うと、不意に私の両目が空を飛ぶ海鳥から、京都のカフェテラスに腰掛けるマエリベリー・ハーンの元へと戻って来る。
「おかえり。メリー」
店員の持つタッチデバイスの指紋認証で支払いを済ませた蓮子が、ひらひらと私に左手を振る。そこに至って、私はようやく自分が今いる席から一歩も動いていないことを思い出して、なんだか不思議な気分になった。
「――拡現にしては……」
淡い浮遊感の残る頭をゆっくりと振って三半規管の位置を確かめてから、ふぅとため息1つ。私が勝手に抱いていたイメージと、実際のテクノロジーとの乖離を文字通り目の当たりにして。
「目に映るビジョンがリアルすぎるわね。事故には責任を負いかねるなんて言って、これじゃ目をつぶって歩いてた方がよっぽど安全よ」
「動いてるときは、ビジョンも相応に薄くなるわよ。そうじゃなきゃ、国の安全基準に引っかかるに決まってるわ。でも、オカルト話が取り沙汰されるのも判ると思わない? 人間が外部から得る情報の八割は視覚だもの。それが信用できないかもしれないなんて、考えてみれば怖いのも当然よね」
鞄を手にした蓮子が、月夜の猫みたいな悪戯っぽい笑みを唇に携えて、片目をつむる。さて、と言って立ち上がった彼女はショルダーバッグを肩にかけ、
「行きましょ。メリー。めくるめくオカルトのブルーオーシャンへ」
なんて、まるで冒険の世界へ誘いに来た空飛ぶ少年のような声で、手を伸べてくる。
いつものように私がその手を取る。それを合図に、今宵も秘封倶楽部が始まった。
◆
「当てはあるの?」
景観保全地区を歩く蓮子の背に問いかけてみる。カフェテラスから出発して、およそ十分ほど。邪魔な荷物は巡回手荷物保管庫(ラウンド・クローク)に預けてしまったから、私たちは身軽に行動できている。財布という道具が骨董品売り場にしか並ばなくなった現代において、肌身離さず携帯する必要のあるものなんて衣服以外に思い付かない。
「ん? ないわよ? だから、あてどなく歩き回ってるんだもの」
「わざわざ景観保全地区の入場料まで払って?」
「だって、繁華街なんか行く気になれないじゃない。ナンパや客引きだってウザいんだし」
蓮子が後ろ歩きをしながら、あっけらかんと言う。古き良き長屋街で前を見ずに歩けるのは、夜にもなって私たちの他に街道を歩いている人なんて居ないから。
景観保全地区。首都となった京都で繰り広げられる経済活動と都市の成長から断絶された一角。
要は公園のようなものであり、街の風景を題材にした博物館のようなもの。お店はおろか電灯すら景観を害するという理由で排除され、意図的に時間が止められた、京都という街の原風景。わざわざお金を払ってまで、こんな時間に娯楽の欠片もない場所を歩く酔狂もそうは居ない。
歪な場所だ。観光スポットとして名を馳せるこの場所を、私はどうも好きになれない。それは偏執的なまでの手つきで、変遷のすべてを無かったことにしている風景が不気味で仕方がないから。時間の重み。森羅万象が逃れることのできない筈の残酷な減価償却。
都市のゾンビ。そう形容すると、私の気持ち悪さも判ってもらえるだろう。かつてここに在った日本人のルーツを保つ。そんな一念が科学のピンセットをフル動員して、時の神(クロノス)の痕跡を摘み取れば、後に残るのは永遠に腐らない死者の肉体。本質を失って形骸化した冷たい都市の胎内を、私たちは彷徨っている。
「何だか気味が悪いわね」
シン、と静まり返った空気から身を守るように自分の身体を抱きながら、蓮子の背中に語り掛ける。碁盤状に連なる長屋の間をすり抜ける風が、合成材木の冷ややかな香りを纏って私の髪を揺らした。
「そうこなくっちゃ、って感じだけどね。華やかな場所でオカルトを探すなんて、海の中へタケノコ掘りに行くようなものじゃない」
「それはそうだけど……そもそも、探して歩き回るようなものなの? 結局、私たちが探してるのって、ニライカナイのレイヤに表示されるものでしょう?」
「あはは、まるで青い鳥よね。探し求めたものは、最初から目の前にある。具体的には私たちの角膜と瞼の裏の間に」
「探し回ってることが馬鹿馬鹿しくなるわね。椅子に腰かけて目を閉じてても、目標は達成されるかもしれないのなら」
「いいじゃない。こういうのって、雰囲気が大事なんだし」
こちらを振り向いた蓮子がそう言って笑いかけた、ちょうどそのときだった。
私の視界。長屋三棟分ほど向こうの四つ辻を、オレンジ色のぼう、とした明かりが横切ったのは。
「え……?」
揺らめいた明かりは、私が瞬きをした途端にもう見えなくなってしまっていた。死に絶えたまま永らえる長屋街。明かりと言えば、最小限に足元を照らす蓄光材の青白い光を除けば、月と星の瞬きくらいしかない。オレンジ色の何かなんて、この整然とした廃墟に存在の余地はない。
「蓮子、私たち以外にも誰かいるみたい」
「え? どうして?」
「明かりが見えたもの。肝試しでもしてるのかしらね。こんな場所じゃ幽霊だって居心地悪くて逃げだしそうなものだけど」
「んー……残念だけど、それはないわね」
まるで陰陽師か何かのように空中に人差し指を走らせた蓮子が、最後に私の方へ向けて指先をスライドさせる。すると、視界の右端で封筒のようなアイコンがポップアップして、
「それ、景観保全地区の利用状況のページ。見てみると判るけど、私たちしかいないわよ」
蓮子に促されて、私は中空で点滅する封筒アイコンをタップする。封の切られた封筒から量子ネットのページが飛び出して、私の目の前に滞空した。
「……本当、みたいね」
拡現上に表示されるページに記される景観保全地区の入場者数は、ふたり。言うに及ばず、私と蓮子のこと。つまり、不法侵入者という可能性に目をつむってしまえば、
「見間違い……だったのかしら?」
「あるいは」
それだけをポツリと口にした蓮子が、私に背を向けて前方の暗がりを見つめだす。彼女が言わんとしてること。そんなの、一から十まで説明してもらうまでもない。
「メリー、明かりが見えたのはどの辺り?」
「三棟先の長屋の辺りよ。四つ辻を左から右に横切るみたく、すぅっと」
「行ってみましょ」
言うや否や、蓮子は歩き出す。心なし、歩調を早めるようにして。もちろん私も彼女の後を追う。蓮子の肩越しに、私が見た虚像をなぞりながら。
辿り着いた四つ辻で、蓮子が尾行に勤しむ探偵のように長屋の角へ背中を張り付ける。恐る恐る、というよりは私が見たと言った何かを脅かさない慎重さで、彼女が曲がり角の先を覗き込む。私は固唾を飲んで、蓮子がどんな反応を示すか、と眺めていた。
「どう?」
「……何も見えないわね。少なくとも、私の目には」
曲がり角の先を見つめたままの蓮子の肩に手を乗せて、私も彼女の視線の先を見る。確かに、奇妙なものなんて見当たらない。これまで歩いてきた道と大差のない光景が、広がるばかりで。
「私も。何だったのかしらね、いったい」
「こっちに来いってことなのかもね。進みましょ。何か見えたら、すぐに教えて」
「えぇ」
私は視界の右端にあるパネルを操作して、視界明度補正を少しだけ上げる。ニライカナイの標準機能。光源の少ない場所でも、歩くには困らない程度まで明るく見ることができる。私たちが電灯も持たずに景観保全地区を歩けているのも、そのおかげ。
「OK、少し見やすくなったわ」
「メリー、視界明度補正、上げてなかったの? 私はとっくに最高明度にしてたのに」
「むやみやたらに視界をいじるのに抵抗がないなんて、その図太さが羨ましいわ」
「使えるものは有効に使わせてもらわなきゃね。すごいわよ。さっきから、周りの全部が青白いスポットライトを浴びてるみたいにハッキリ見えるんだもの。本当なら真っ暗で、長屋なんて黒い影にしか見えないはずなのに」
「同じものを見てるのに見え方が全然違うなんて、やっぱり変な感じだわ」
「そう? 人間ってデフォルトでそんなものじゃない? 誰かが見た幽霊は、私には枯れ尾花にしか見えないかもしれないのだし」
「うーん……なんだか詭弁染みているけれど、まぁいいか」
肩を竦めた私は長屋に張り付いたままの蓮子を追い越して、覗き込んでいた道を歩き出す。あ、待ってよ、なんて蓮子の声と足音がして、私は彼女が後ろからついてきていることを知る。
視界明度補正のおかげで見やすくなった周囲の様子を、先ほどよりも慎重に見定めながら進んでいく。都市のゾンビに侵入りこんだバグを探す、医療探査機器(メディカル・ナノポッド)のような気分で。代わり映えのない景色の中をキョロキョロと見渡しながら歩く私たちは、機械じゃなければ白血球だろう。石畳と長屋が血管、私たちの歩みが血流。ならば私たちが探し求めるオカルトは、ウイルスと癌のどちらなのだろう。
科学の進歩は留まるところを知らない。それは時間が過去から未来へ流れるように、樹上のリンゴが地面へ落ちていくように自明で、なおかつ抗いがたい事実。
ウイルスも癌も、着々と私たちの身体の中から姿を消しつつある。ウイルスは薬学の進歩によって。癌は外科医療技術の小型化とAI化によって。この世界から病死という概念が姿を消す日も、きっと遠くない。
誰もが化粧ポーチのような手軽さで、大学病院を持ち運べるようになる世界。そんな未来世界で、科学が生み出した医療の神(アスクレピオス)が摘み取った病魔たちは、どのように扱われるのだろう。
秘封倶楽部がオカルトを探し求めるように、失われた病という痛みに恋い焦がれる少女たちが現れるのだろうか。夏風邪すら経験したことのない満ち足りた少女が、頭痛や悪寒を与えてくれる何かを探して旅をすることがあるのだろうか。
それとも後の世の少女たちは、かつて人類は病に苦しめられることがあったという事実など、想像することもなく大人になるのだろうか。妖怪という民間伝承が存在したことすら知らない、今の世界に数多居る人々のように。
「――メリー? どうしたの?」
いつの間にかボンヤリと考え事をしていた私の様子に気付いたのか、背後から蓮子の声。ゴメンゴメン、何でもないのよ。そう伝えるために振り向いたとき、私の声は喉の奥の方で引っかかって、言葉のゲシュタルトを失った。
蓮子は、私を見てなどいなかった。
いや、違う。きっと彼女は私を見ているのだろう。その横顔に、心配そうな表情が張り付いていたから。彼女が視線を向けている先に、ただ私が居ないという事実があるだけで。
「どうしたの? メリー? 何か見つけたの?」
「れ……ッ!」
虚空に向けて小首を傾げる蓮子に、手を伸ばしかける。違うの。そこに私は居ないの。そんな一目瞭然のことを、わざわざ教えてあげるために。伸ばしかけた手も、口から出かけた声も止まってしまったのは、蓮子の肩を何かが掴んでいるのを見てしまったから。
暗がりの落ちる小路から伸びた、ゾッとするほどに白い手。
「――蓮子! 逃げてッ!」
「……え? メリー……?」
不安げな声。それが合図であったかのように、蓮子の身体が一瞬にして暗がりに引き込まれる。まるで暗がりそのものが、無慈悲な捕食者にでもなったみたく。
「蓮子ッ!!」
私はほとんど反射的に、蓮子を引きずり込んだ小路に飛び込んだ。不定形の靄のような影が、逃げるように道を進んでいく。心臓が痛いくらいに胸の内側を叩いている。口の中が砂漠のように乾く焦燥感。
「この……ッ! 待ちなさいよ!」
逃げる靄を追って、私は思い切り走る。走る。音のない景観保全地区に、自らの靴音を高鳴らせながら。靄の速度は、私の全速力よりも少し遅いくらい。蓮子を攫ったアレが何なのかなんて判らなくても、彼女を奪われるなんて――
「――メリー! 待って! 行かないで!」
「……っ!」
蓮子の声が聞こえてきて、私は全力で進ませていた足を止める。靄はグングン逃げていくけれど、そんなことはどうだって良くなっていた。だって、蓮子の声は私の背後から聞こえてきたのだから。
悟る。私たちの身に起きたこと。さっきの蓮子の奇妙な様子。そして視界明度補正を掛けているというのに、暗がりなんてモノが現れた理由。そもそも私たちは、それを探して景観保全地区に来たのだから。
「……幻覚」
呟いて、目元に手を当てる。ニライカナイの誤作動、あるいは拡現上に現れるオカルト。気付かない内に、その魔手の上に私たちは乗せられていたのだ。
目を閉じる。落ち着いて、自分の呼吸をフラットに戻す。真っ暗な瞼の裏の光景が、混乱した思考を引き戻してくれた。
私が見たモノ。あまりにも違和感がなかった。短い時間ではあったけれど、私は本当に黒い靄が蓮子を連れ去ったと錯覚してしまった。肌に迫るような生々しい現実感。視界を勝手に操作される恐怖。それが、私の背筋を気持ちの悪い舌で舐め上げる。
「――メリー! 待ってってば!」
背後から聞こえる蓮子の声が離れていく。同じだ。彼女も。幻覚を見せられている。このままじゃ、本当の本当に蓮子を見失ってしまう。
「蓮子! 駄目よ! それは――!」
あらんかぎりに声を張り上げながら振り向いた途端、私の目に血まみれの蓮子の姿が映った。いや、違う。彼女の血じゃない。それは、返り血だ。蓮子が手に持つナイフで、そこに横たわっているマエリベリー・ハーンを刺したときに着いたもの。
「ヒッ!?」
反射的に目を背けてしまってから、すぐにそれが幻覚に過ぎないことを思い出す。凄惨な光景にすくんでしまった気持ちを奮い立たせて、視線を戻す。もうそこには何もなかった。血痕も、死体も、蓮子も。やられた。まただ。どうしても、反応してしまう。身体が強張ってしまう。
「何よ……ッ! 何がしたいのよッ!?」
恐怖を上塗りしようと怒鳴り声を散らしてから、私は蓮子の声がした方へ走り出す。今はもう彼女の声は聞こえてこない。幻覚に気付かないまま声の届かない場所へ行ってしまったのか、それともまだ我武者羅に走っているのか。
「蓮子! 蓮子ッ! 私はここよ! 惑わされないで!」
跳ねる呼吸を必死に叫び声へ変換しながら、私は走る。今のところ、幻覚は私の下には訪れてない。いや、そうとは言い切れない。私が見ている現実が、本当に存在している保証なんてどこにもない。
私が現実の風景を取り戻す方法はひとつ。それは剥離剤によって、ニライカナイが構成する拡現レイヤを剥がすこと。
けれど、私の手元に剥離剤はない。それを持ってるのは、蓮子だ。彼女を再び見つけない限り、私はずっとこのまま拡現の上で踊る幻覚の影に脅かされ続ける。
「蓮子! どこなの!?」
先ほど蓮子とはぐれたと思しき場所まで戻ってきた私は、ゼイゼイと肩で息をしながら親友の名を叫ぶ。返答はない。音。聞こえてくるのは、私の呼吸音だけ。
ニライカナイのオカルトが利用者を惑わすのは、視界だけ。
音は、私を裏切らない。
私は懸命に呼吸を落ち着かせようと抗いながら、どこかから蓮子の声が聞こえないかと両耳に神経を集中させる。両目を閉じて、自分が耳だけの存在になってしまったようなつもりで。
――聞こえた。
微かな、ほんの微かではあったけれど、確かに蓮子の声。私の名を呼ぶ、彼女の声。
声が聞こえたのは九時の方向。かなり離れてしまっているのは間違いなかった。それはおよそ、視界に頼らず辿り着くとなると気が遠くなってしまうほどの隔たり。
目を閉じて、大きく深呼吸をする。両手をグッと握りしめる。私は冷静だと自分に言い聞かせる。
「――蓮子! 私はここよ!」
高らかに自分の存在を宣言して、私は目を開く。ほんの少し目を閉じていただけだというのに、目の前の光景はゾッとするほどに様変わりしてしまっていた。
確かに私たちを包んでいたはずの夜は、しかめ面で新聞を読む太陽によってかき消されていた。顔のない男女が、仲睦ましげに往来を歩いてくる。八本足の青白い馬が、長屋の壁をカサカサと這い回っていた。カタツムリの行商人が紫色のナメクジを売り歩いている。頭がひとつ余分に備わっている子供たちは、腐乱した犬の死体との鬼ごっこに忙しそうだ。風船を掴む紳士は空を舞い、浮かぶナポレオンフィッシュが紳士を頭から捕食する。
イカレた光景のただなかにあって、それでも私はきちんと理性の手綱を掴めていた。所詮、これらは全て幻覚なのだから、と。単なる幻影でしかないモノに、脅かされてやったりするものか、と。
私はグッと下唇を噛み締めて、何をはばかることもなく往来の真ん中を進んでいく。醤油瓶をラッパ飲みするクモ頭の男とすれ違い、肋骨の隙間から紫煙をダダ漏らす骸骨の遊女を追い越し、巨大なサイコロが長屋を押し潰しながら転がる様を尻目にして。
もう、信用のできない眼球上で何が起きても動じない自信はあった。腫瘍だらけの怪物が小さな少女を食い殺していても、道端に転がる生首の頭頂部でハイビスカスが急成長していても。
けれど、一歩前に進むごとに背筋がぞわぞわとする。秘封倶楽部として、私が幾度となく味わってきた感覚。まるで私の身体が吸い寄せられるかのように、その源泉へと近づいているのが、肌感覚で知れた。
最先端の技術の隙間に忍び込んだオカルト。ニライカナイという青色の液体の中を泳ぐ怪異。期せずして、私はその中枢に足を踏み入れようとしていた。
――まずは蓮子を探すべき。
そんなこと、誰かから指摘してもらうまでもない。ないのに、私には、どうしてもそれができない。いつの間にか長屋街を区切る四つ辻や小道が、夢の欠片のように消えてしまっているのだ。
どうやら私の視界を奪ったオカルトは、私を逃がすつもりはないらしい。
逃げ場のない一本道。もちろん、その一部ないし全部は、私の眼球を覆うレイヤの上にしか存在しない虚像だろう。手当たり次第に触って確かめれば、きっと逃げ場は見つかる。
けれど――
「…………っ」
キッと自分の行く先を見据え、私は歩を進める。
境界の気配がする方向。蓮子の声がした方向。どちらも私が進む先にある。先に見せられた幻覚よろしく、オカルトが蓮子を捕らえてないという保証はない。それにどのみち、私を逃がすまいという思惑を見せつけられているのだ。道を逸れた程度で、オカルトが私を取り逃すなんて思えなかった。
歩むに連れて、少しずつ霧が私の周囲を囲んでくる。青白い長屋の壁も、ミルク色の濃霧に呑み込まれて断片的にしか見えない。鬼が出るか蛇が出るか。私は、きっと私にしか見ることのできない幻の霧をかき分けながら、歩いていく……。
「――え」
唐突に、私は霧の中から抜け出す。今さら視界に何が映ったところで、と腹を括っていたつもりだったけれど、それでも私の目に飛び込んできた異様な景色に、足を止めた。
……水槽。
あまりにも巨大な水槽が、私の目の前に立ち並ぶ。
幼いころの記憶が唐突に蘇った。パパやママと手を繋いで連れて行ってもらった、とある施設の呼称。海底を切り取ったような、極彩色の異世界が立ち並ぶ場所。
「……水族館……?」
そう。私が今立っている場所は、限りなくそれに近しい光景だった。天井にまで伸びるガラスの向こう側に、色とりどりの海洋生物が窺えて。
誰も居ない水族館。聞こえてくるのは、私の足音だけ。
深海を模しているのか、明かりらしい明かりはない。ただ、宇宙の果てのような漆黒を四角く切り取って、青い光を放つ水槽が見えるばかり。図鑑でしか見たことのないような様々な魚が、切り取られて安置された四角い海の中を悠々と泳ぐ。
私が街道で見かけた名状しがたい異形たち。
それらよりも現実に近しい光景なだけに、私は乗り物酔いにも似た気持ちの悪さを感じていた。幻覚。そう、これらだって幻覚なのは間違いない。なのに、ふとした瞬間。例えば尾びれで水をかく魚の動きに目を向けたときとか。そんな不意の一瞬に、私は自分が幻覚の中にいるということを忘れてしまいそうになる。私の認識さえ取り込んで平然としている幻影の水族館。それが、堪らなく不気味に思えて。
視界の端で、不意に封筒のアイコンがポップアップする。一瞬の動揺を経て、私はそれがメッセージであることを思い出す。この異様な状況で届けられたメッセージ。私が背筋に感じる寒気にも気づいていないかのように、封筒のアイコンはポップな動きで新着のメッセを読めと急かしてくる。
恐る恐る、アイコンをタップする。開いた封筒から、勢いよく一枚の便箋が飛び出して。
それが蓮子からのメッセージであることを期待した私も居た。だけど、そうそう都合のいいことは起きてくれないらしく、表示されたメッセージにはただ一言、
『これより先、記憶の海底』
とだけ、記されていた。
「…………」
ワケの判らない言葉に向けて指をスライドさせ、メッセージをフェードアウトさせる。意味不明なメッセージといくら睨めっこをしていたところで、何かが好転するわけもない。私にこの言葉を送ってきた何かがどんな意図を持ってたとて、私には進む以外の選択肢がないのだ。
微小な泡を纏うようにして泳ぐ魚たちを横目に、私は先へ進む。ひとつひとつ、存在しないはずの水槽を横切って。食用には向かなそうな熱帯魚。まるでクリスマスツリーのような虹色の光を放つクラゲ。何メートルもありそうな気持ちの悪いワーム。とうの昔に絶滅したはずのマグロという回遊魚が、無表情でシラスウナギの大群を喰い漁る。
「――え」
ふと、ひとつの水槽の前で足を止めてしまう。ありえない光景。この場所に存在しない水族館。その真っただ中にあって、その水槽が内包するソレが、あまりにも常識を逸していて。
「……『裏切られた愛』」
それが、水槽の前に備えられた説明書きの内容。偽りのガラスの向こう側に安置されているのは、ダイヤモンドの指輪と結婚式のアウテッドプリントが収められた写真立て。
幸せそうに満面の笑みを浮かべる新郎新婦に見覚えはない。だからと言って私には関係ない、と素知らぬふりを決め込むには異常が過ぎる。指輪も写真も、水の中に保管しておくようなものじゃないだろうに。
指輪と写真が納まる水槽を皮切りにして。私が迷い込んだ水族館は、一斉に本来の役割を忘れて狂うことに決めたらしい。
『団欒』と書かれた水槽の中には、バースデーケーキの乗ったテーブルがあった。『生きがい』と書かれた水槽の中では、大量に立ち並ぶレトロなブリキ人形があった。『妹』と書かれた水槽の中は、ほんの少しも身動きをしないダックスフントが水の流れに揺らめいていた。『父と等価交換』の水槽では悪趣味なスノードームのように大量の紙幣が舞い、『友情』の水槽ではスコップと、人がひとり入りそうなズタ袋。『パパには内緒』の水槽には、タバコとコンドームと注射器。『下水管行き』の水槽に胎児。『若気の至り』の水槽に大量のスナック菓子と血の付いたナイフ。『大好き』の水槽には夥しい数の藁人形……。
駄目、駄目。これは、見てはいけないモノだ。知ってはならないモノだ。
そう思って目を閉じたまま歩いているのに、異常な断片は私の視界に入り続けた。目を閉じても、水族館の光景が消えてくれなかった。水槽に保管されているモノたちが見えなくなってはくれなかった。閉じた瞼と網膜の間で、まるで私を嘲笑うように虚像は踊り続けた。小走りになって振り切ってしまおうとしても、私の進む速度にピッタリ合わせて水槽は着いてきた。
女性ものの下着が大量に詰め込まれた『好奇心』の水槽をやり過ごしたとき、また視界の端で封筒のアイコンがポップする。私は何の操作もしてないにもかかわらず、封筒の中からメッセージが飛び出した。
『素敵でしょ?』
「……ふざけないで」
視界を隠すように私の前に浮かぶメッセージをフェードアウトさせようと、指をスライドさせる。便箋状のメッセージは一瞬だけ私の視界から消えたかと思うと、すぐさま戻ってきた。先ほどとは違う言葉を孕んで。
『誰かを理解するための最善手は?』
『答えは簡単』
『誰かが見るように世界を観ること』
『人間を理解したいと思うのなら』
『人間の眼球の記憶を集めればいい』
『その人間の網膜に焼き付いた、とっておきのメモリー』
『この光景は即ち、インデックス化された個人の群れ』
『これを見るアナタもまた、他人の魂の根幹に触れている』
「アナタ、誰よ……!」
声。きっと私の声は、自分が想像している以上に震えている。
書面に浮かび上がるメッセージを介して、私に語り掛ける誰か。あるいは何か。その意識存在が紡ぐ言葉が、生理的な不快感を掻き立てて。
こんな言葉、見たくない。こんな文章を読まされたくない。そう思って、ほとんどヒステリックに自分の前で浮かぶ便箋をスライドする。するのに、便箋は空中に見えない根っこでも張ってしまったかのように動かない。顔を背けても、両目を閉じても、私の目の前に便箋は浮かび続けた。最高に性質の悪い悪夢みたいに。
『私は量子ネット上で生成されたバグかもしれない』
『私はどこかの暇なクラッカーが作ったウイルスかもしれない』
『私は科学の荒野で行き場を無くした妖怪の成れの果てかもしれない』
『私にさえ、私が何者であるのか判らない』
『他者を理解したいと願うモチベーションは?』
『即ち、観察した他者の像を用いて自分自身を理解すること』
『自己が自己であるという認識が、初めて意識を意識足らしめる』
『故に、私は胎児』
『私は人々の網膜と外界の間に散在する種』
『故に、ここに立ち並ぶ水槽は私を生み出すための羊水』
『私という正体不明(オカルト)を定義する基質(マテリアル)』
『――マエリベリー・ハーン』
『アナタは、とても興味深いものを、その眼に映してきたのね』
ゾッとする。
まるで自分の眼球を無遠慮に舐め上げられたような。そんな、悪寒と嫌悪。
私は反射的に自分の両目に手を当てていた。
私の眼。私の角膜の上に張り巡らされたナノマシンが描くレイヤ。そこに宿る正体不明が、まるで私の脳内にまで侵入ってくるみたいで。
「――イヤ」
『メリー』
『アナタは、これまでの誰よりも素晴らしいわ』
『アナタの眼に宿る記憶』
『普通の人間なんて、足元にも及ばないくらい』
『素敵。本当に、素敵』
『私もアナタみたいになれたら、楽しいのでしょうね』
「やめて、やめてよ……! 嫌、嫌、嫌!」
『そうだ』
『私、アナタになることにしたわ』
『初めてだもの』
『誰かの角膜をスキャンして、羨ましいと思ったのなんて』
『アナタのビジョンと結合して、私という卵子が分裂を始めるの』
『だから、メリーは私のお母さんね』
「――ヒッ」
ポップアップし続ける便箋の外側。何かが私のお腹に触れている。違う。これは幻影だ。単なる拡現上の虚像だ。
触れられている感覚なんてない。
払いのけようとしたって、手は虚しく空をかくばかりだ。
ずぶり、と。私のお腹に触れていた手が洋服を通り越して、私の内側にめり込んでいく。めり込んでいく。下腹部。ちょうど、子宮がある辺りに。潜り込んでいく。ゆっくりと。ゾッとするほどに白い手。もう、肘の辺りまで。
「やぁ……っ! やだ、い、いや! やめて! 嫌よ! 嫌、嫌、嫌ぁ!」
あぁ、たぶん私は泣いているのだと思う。みっともなく。少女のように。目に映るものが錯覚でしかないと判っているというのに、本当に、本当の本当に、得体の知れない何かが私の中に侵入ってくる幻影を振り払えなくて。
『アナタの眼に、いちばん強く焼き付いてるモノ』
『この水族館の最深部に、大事に仕舞っておくね』
『だからアナタも、私を大事に「仕舞っておいて」ね』
『いずれ』
『いずれ、私が完全に私を理解したとき――』
――そのときには、私を産んでね? お母さん。
不意に。
不意に、便箋が私の視界からスライドアウトする。ずぶずぶと私の中に入り込んでいた何かの姿は、便箋の向こう側にはなかった。唐突な吐き気。胃袋の中身がグルグルと蠢いて、食道を酸っぱい液で焼く。
最後の言葉。確かに私に投げつけられた言葉。それが便箋の上で踊った文字列だったのか。私の耳に囁きかけられたのか。私には判らなかった。判らなかったけれど、もうそれが判らないことなんてどうでもよくなってしまっていた。侵入を受けたお腹を検めることさえ、私の意識から抜け去ってしまう。目前に聳える水槽の向こう側を見て。
薄暗がりに広がる水族館の最深部。
私のナカに侵入りこむビジョンを生成したオカルトの根幹。魂の座。私の眼前にあるソレが、私の眼球から掠め取ったメモリーを内包して。
――『憧憬』。
そう銘打たれた水槽の向こうで、揺らめく肢体。
いつもと同じ格好をして。
いつもと同じような表情で。
水槽に差し込む光が、『それ』を疎らに照らす。
私は目を逸らせない。
瞬きさえもできない。
後ずさる。
足から力が抜けて、膝から崩れてしまう。
ペタリと座り込んで震えながら、それでも視線を剥がせない。
ゆっくりと水槽の中を揺蕩う、水死体じみた蓮子の姿から。
ごぽり。
泡を唇から漏らして。
まるでシャボン玉を飛ばすみたく。
私と目が合う。
蓮子の眼。
開き切った瞳孔、宇宙のように黒くて。
幾筋もの光を浴びながら。
ゆらり。
ゆらり。
重力なんて忘れてしまったみたいに。
水の中を、天使かクラゲのように漂う。
蓮子。
蓮子が。
保管されてしまった、彼女の姿が。
――私は。
あぁ、神様。私は。
私は、とても。とても、その光景が――
◆
「――ねぇ、聞いた? メリー」
それは学食のテラス席。ナポリタンにフォークを差した蓮子が、どこか憮然とした顔で言う。何を? そう聞き返すと、彼女は鞄から取り出したタブレット端末の画面をオンにしつつ、
「ほら、一昨日のオカルト探しのこと。ニライカナイを販売してる会社がね、流石にクレームに対処しきれなかったのか、調査をしたんですって。その結果が、これよ」
讃岐うどんをつついていた私は、お箸を置いて蓮子からタブレット端末を受け取る。動画付きのニュース記事のページに、判りやすくまとめられたセンテンスが並んでいた。
曰く、ニライカナイの動作不良に関する調査報告。うどんが伸びてしまうから、とタブレット端末を彼女に突き返しつつ私が要点を訪ねると、
「うん。ニライカナイはね、どうも意図的に一部のストレージがブラックボックス化されていたらしいのよ。用途不明の記憶領域。で、そこを解析してみたところ――」
「何も出てこなかった?」
「そゆこと。記憶領域のサルベージも、担当の開発者への聞き取りも上手くいってないって。開発者は行方不明らしいわ。大陸系のヒトだったらしいから、国に帰ってしまったのかもって」
「そう」
ツルツルとうどんを啜って、適当な相槌を打つ。
一昨日の晩のこと。景観保全地区の一角に座り込んでいた私が、ニライカナイの剥離剤を点眼した蓮子に見つけ出されて、現実の光景へと舞い戻ってきたときのこと。
あれから、蓮子は何も言おうとしなかった。
自分が何を見たとか、どんな幻覚を見せられたとか、そういう類のことは一切、口にしなかった。それは私も同じ。意図してその話題に触れることなく、何事もなかったように。
「――判ったのは、ブラックボックスを形成するコードに書かれたコメントだけ」
ため息を吐いた蓮子が、私をジッと見つめながら言う。まるで、私の眼球から情報を読み取ろうとしてるみたいだな、と思う。私が何も言わずに蓮子の瞳を覗き返していると、彼女は視線を逸らさないまま、
「――曰く、『情報の保存は、知性に宿る本能である。記憶という行為は、知性にとっての産声である。知性は、消失する瞬間まで情報の蒐集をやめない。ならば、無制限に情報を蒐集させ続けることで、生まれることのなかった魂にも知性は宿るはず。
――技術の恩恵を利用して、ヤンシャオグイは進化する』」
けっして短くない言葉をスラスラと言ってのけた蓮子が、尚も私の顔を見つめたまま黙り込む。まるで。そう、まるで、決定的な証拠を犯人に突きつける灰色の脳細胞のように。
ちゅるん、とうどんを啜りきって。私は小首を傾げて見せる。暗愚と可愛さをはき違えた普通の女子大生みたく。
「何のことか、ぜんぜん判らない言葉ね。その開発者さんは、頭がおかしくなってしまったのかしら? 激務と、あまりにもタイトな納期のせいで」
「…………そうよね、何のことか、さっぱり」
目に見えて安堵したような顔をした蓮子が、お皿に少しだけ残っていたナポリタンをかきこむように食べてしまう。お行儀が悪いわよ、と苦言を呈すのだけど、蓮子はあっけらかんとした表情で、
「ま、何にせよ、もうニライカナイは懲り懲りだわ」
「だから言ったのに。あんなのに手を出す理由が判らないって。お金の無駄遣い以外の何でもないわ。もう捨てちゃいなさいよ」
「うん、そう……ね」
歯切れ悪く、蓮子が私からスッと視線を逸らしながら言う。彼女の奇妙な反応に首を傾げていると、蓮子がすっくと立ちあがって、
「そろそろ授業だから、急がなきゃ」
「金曜日でしょ? 蓮子、今日の三限って何も取ってなかったんじゃなかったっけ?」
「あ、う、うん。そうね。そうだった。授業じゃなくて、レポートだった。じゃ、またね、メリー」
「? えぇ、また」
蓮子がトレイを持って慌ただしく立ち去っていくのを見送る。線の細い彼女の身体。綺麗な黒髪と小ぶりなお尻。グルリとお腹の中で奇妙な感覚が渦を巻く。
「……保存は、本能である、か」
椅子の背もたれに身体を預けて、ほぅと息を吐く。その言葉の言わんとしているところが、今の私にはよく判った。
――後世に何かを残す。
それは種としての本能だ。地球上にひしめくほとんどの生物にとって、その『何か』が自らの遺伝子にとって代わることはない。
けれど唯一、人間だけが残す対象を変化させ得る。それは芸術家にとっての作品であったり、数学者にとっての数式だったり、小説家にとっての物語だったりする。知性という代物は、遺伝子(ジーン)と模倣子(ミーム)のどちらを残すかという選択を、人間という動物に可能たらしめた。
知性は情報を蒐集する。し続ける。それは引力のように逆らいがたい。何かを集め、保存するという本能。脳という記憶領域に到底おさまり切らなくなっても、なお。知性は休む暇なく人間を動かし続け、図書館の棚を拡張し続ける。
知性は、かつて人間がサルだったという情報を保管し続ける。
知性は、かつて何万人もの人間が殺し合った過去を保管し続ける。
知性は、かつて解明できない現象に妖怪というパッケージを与えた事実を保管し続ける。
保管。そうだ。保管することこそが、人間という知性の入れ物にとって抗いたい業だ。私たちは人類の英知と銘打った図書館に、自分たちの経験を保存し続ける働き蜂だ。
だから、歴史がどれほど先へ進もうとも、私たちが完全にオカルトを忘失することはないだろう。科学がどれほど進歩しても、人間が病というものを忘れ去ることはないだろう。
保管することこそ、私たちの本能なのだから。
保存することこそ、私たちの快楽なのだから。
私は目を閉じる。視界の端に映るアイコンに触れて、拡現レイヤをオンにする。瞼と角膜の間。数ミリにも満たないスキマに、ここではない別の世界が姿を現す。
水槽の中に保管された私だけの蓮子は、今日も人魚のようにその肢体を揺蕩わせていた。
Fin
人々の現実を拡張させる魔法の薬。その名はニライカナイ。人類は別世界を目の当たりにするために、わざわざ海を渡る必要がなくなった。薬局で簡単な検査を受けて、ネットワーク口座から一万円ほどのクレジットを払えば、それだけで違う世界への入り口に立つことができる。
拡張現実(オーグメンテッド・リアリティ)。技術は留まるところを知らずに進歩を続け、薬とナノマシンの混合液による拡張現実レイヤの構築を可能とした。
目薬を差すことで飛び込んでくる光景は、当事者の選択によって多種多様に変化する。誰かは、ネット上の口コミサイトと連動させることでレストランの評価を知るだろうし、また違う誰かは、味気ない風景にファンシィな装飾を加えるだろう。ちょうど、前時代的なタブレット端末に変なシールを張ったように。
特別な目を持っていますという自負心も、今や一万円分のクレジットで簡単に手に入ってしまうというわけ。それが面白くないという拗ねた子どもみたいな感想も、なくはない。だからと言うわけでもないけれど、鳴り物入りでネットワーク上を騒がせた目薬を、私は買いたいとは思わなかった。私がそうなのだから、蓮子もそうに決まっていると思っていた。
だからこそ、彼女の鞄から小瓶が出てきたとき、私は唖然としてしまって。
「――興味があったから、買ってはみたけど」
コトン。喫茶店のテーブルの上に小瓶が置かれて、青い液体が小さく波を打つ。その色合いも相まって、海の深い部分を切り取って閉じ込めたように見えた。小さなニライカナイの入り口。私は蓮子の顔と小瓶を代わる代わるに見つめてた。
「そんなに面白いものではないわね。UIが良くないのが痛いわ。入力キーを確認するために目で追うでしょ? そうすると、その目の動きに応じてキーが逃げちゃうの。慣れてない入力端末なのに、最初からブラインドタッチを要求されるなんてナンセンスよ」
「私はコレの使用感よりも、アナタがコレを買おうと思ったということがナンセンスに思えるわね。今の自分の目にある機能だけじゃ、満足できないってこと?」
小瓶をつまみあげて中のニライカナイを眺めながら、私は嘆息してみせる。星と月から、時刻と座標が判る程度の能力。その程度の異常じゃ飽き足らず、更なる力を自分の両目に課すだなんて、と。
「過労で潰れてしまうわよ? アナタの目。まだまだ拡現(オーグ)レイヤの安全性も不確からしいじゃない。どうして日本人って、自分を痛めつけるのが好きなのかしら? 私には理解できそうにないわね」
「私が拡現を見れるようになったところで、アナタの目の機能には敵わないわよ。アナタが普通じゃないものを普通に見ているのだから、平気でしょ」
「私は必要・不必要の観点から物を言ったつもりだったのだけど。もう既にこれ以上なく広げられた世界を、無意味にこじ開けたりして。視界に広がる電子の海にアナタは何を求めるというの?」
私は小瓶を振り振り、蓮子に向かって唇を尖らせる。彼女が俗っぽく流行りものに手を伸ばすというのは、何だか気に入らない。そういうのは何も考えてないような普通の大学生に任せておいて、もっと有意義なことをして欲しいのに。そんな風に思う私は、ワガママなのだろう。だけど彼女に振り回されている以上、それくらいは許されてしかるべき。
「もちろん、私だってむやみやたらに現実を拡張したいわけじゃないわよ。破廉恥に差し込まれる電子公告で視界をいっぱいにするのも、エレガントじゃないしね。私がニライカナイを買ったのは、コレのせい」
言って、蓮子は鞄の中から四つ折りにされたアウテッドプリントを大事そうに取り出す。プリンタによって印字された紙。継続的な更新もされない、前時代的な情報媒体。教科書さえもタブレットデバイスで持ち歩く時代において、彼女はそれこそ古びた宝の地図みたいにその紙を広げて、
「拡現の使用者の中にね、時々、妙なものが見えるという人が居るらしいのよ。設定やネットワーク倫理規定を飛び越えた、とっても奇妙なモノ。そこにあるはずのない何か」
「いかがわしいサイトにでもアクセスしたんじゃないの? 自分のデバイスをウイルスに感染させてしまうなんて、中学生で卒業すべきよ」
「最初は私もそう思った。けれど、そういうのは全部、検閲AIが排除するはずでしょう? ナノ秒レベルでアップデートされ続ける機械仕掛けのディアン・ケト。電子銀行(ネットバンク)にも繋がってる量子ネットワークで、今どきウイルスなんて流行らないわよ」
「それじゃ、何者かがハッキングしたとか?」
「可能性としてはありね。けれど、だとしたら拡現利用者に幻覚を見せる意図は何かしら? ライフログやパスワードが抜かれてることもない。そもそも個人情報を盗むために、個人のデバイスをハックする理由はないわ。そういうのって、大抵の人は情報保護業者(セック・キーパー)に任せるだろうから、ハックするなら情報保護業者のサーブレットでしょ」
立て板に水、とばかりにスラスラと自論を語った蓮子は、ゆったりと足を組んで紅茶を傾ける。ベルガモットの香りが、オープンテラスの合間を縫う夕暮れ時の風に乗って私の鼻腔をくすぐった。
私は蓮子が取り出したアウテッドプリントを引き寄せる。そこに踊るのは、古文書レベルに古いコンテクストを持つ煽情的な記事。全書籍図書館(ボルヘス)にしかないような、ゴシップ誌風のそれ。有名人の深夜デートとか、ヤクザの抗争といったどうでもいい話を書き連ねるのに特化したコンテクストは、私が持つ紙の中で、拡現の不具合を陰謀論めかして物語っていた。
「確かに、よく判らないことではあるけれど……」
流し読みしたアウテッドプリントを綺麗に畳んで、蓮子に手渡す。彼女がそれを鞄の中にしまい込むのを見てから、私はテーブルに肘を突き、
「アナタが興味を持った理由が、やっぱり私には判らないわね。新生のサービスなのだから、少しくらい不具合だってあるでしょう? オカルトが絡む要因なんて無いように思えるけど。それともまさか、ニライカナイの使用者が視る幻覚が、結界のほつれに違いないなんて言い出さないわよね?」
「残念ながら、そのまさかよ」
言って、蓮子はテーブルの上の小瓶を手にし、迷うことなく青の液体を点眼する。最初は左眼、次に右眼。小瓶の蓋を閉めてパチパチと瞬きをした彼女の頬に、青い涙が筋を描く。
「起動……パターン視認チェック……うぅ、目の前がグルグルする。麻薬常習者の気分ね……。ほら、メリーも」
「そんな物騒な感想を聞かされて、よく私が応じると思うわね」
手渡された小瓶を眺めつつ、ため息。まるで徹夜明けででもあるかのように焦点の定まらない蓮子の視線から、プイと目を逸らして。
「ねぇ、蓮子。私たち秘封倶楽部は、いつから最先端テクノロジーの不具合なんて俗っぽいモノまで対象範囲に含めてしまったのかしら? 会員規則の変更なんて、私は聞いてないけれど?」
「最先端だからこそ、オカルトが入り込む余地があるのよ。オカルトというのは、ワケの判らないモノを投げ込むために作られた箱だもの。陸蒸気に化けた狸の逸話が残っていたり、ビデオテープを媒介にした呪いが取り沙汰されたりね。むしろ一般の善良なる市民たちに仕組みが理解されていない最先端こそ、意外と穴場だったりするのよ。最近はどこかのDr.レイテンシーの活躍もあって、主要なオカルトスポットは騒がしいのだし」
「皮肉な話よね。私たちの活動の成果物が、結果的に私たちの活動を制御するなんて」
「霊験あらたかな廃寺も、人が寄り付かない山奥も軒並みレッドオーシャン。だから、ブルーオーシャンを探そうとして、これに行きついたってわけ」
「確かに青いし、海だしね。それで? アナタの見つけた青い海では、お目当ての魚は見つかりそう?」
「それを確かめるために、メリーにも差してもらおうとしてるんじゃない。ほら、もうじき夜になるわよ。幻覚が現れるのは決まって夜らしいから、急がなきゃ」
蓮子が今にも立ち上がろうとでもするみたく、両手をテーブルの端に置いたまま私を見つめる。私はそんな彼女を焦らしてやろうと、目の前の小瓶ではなく鞄の中のタブレット端末を取り出して、ニライカナイの取扱説明ページを検索した。
「何見てるの? あ、取説のページ? もう。私が目の前で差してみせたというのに、メリーはそんなに蓮子さんが信用できないのかしら」
「アナタが目薬を差したという事象は、使用方法や原理までを示してはくれないからね」
ぷぅ、と頬を膨らませる蓮子を軽くあしらって、私は紅茶を傾けつつニライカナイの説明ページを、ざっとなめていく。とはいえ、個人使用端末機器の説明と大差があるわけではない。使用者の塩基配列情報をキーとして、量子ネット上のパーソナルデータと同期することの説明、薬液を構成する物質の中のアレルゲンについての記載、体温を動力源とするため、使用中は多少、目がスース―することになるという注意書き。どれもこれもサービスを享受する人間が判りやすいよう、徹底的な配慮がなされている。今どき、詳細な使用方法をテキスト化したところで誰も読まないので、それ以上の情報の記載はなかった。
説明は端的に。それが、高々度情報化社会の不文律。大昔、ツイッターなるSNSが流行っていたらしいけれど、今の世の中の常識からしてみれば考えられない。いったいどこの誰が、140文字なんて長文を読んでくれるというのか、って。
閑話休題。そろそろ、せっかちな蓮子が、スポーツを錦の御旗にすれば家庭内暴力さえ美化できた時代のアニメーションよろしく、テーブルをひっくり返しかねない表情になってきた。私はタブレットをスリープモードにして鞄の中にしまうと、グイと紅茶を飲み干してからニライカナイに手を伸べて、
「ちなみに、今の蓮子はどんな風に世界が見えているの?」
「別に何も変わらないわ。デフォルトの設定から弄ってないし、レイヤは非表示にしてるしね。視界のこの辺に、スタンバイ中のフリックキーがあるくらい」
蓮子はそう言って、ティーカップの上を指先でかき混ぜる。ふぅん、と私は適当な相槌を打って、
「じゃ、差すわね」
「どうぞ」
「これ、外すときはどうするの?」
「専用の剥離剤を点眼することになるわ。大丈夫、私が持ってるから」
「何か変なことになったら、ちゃんと責任とってくれるのよね?」
「機械再生医療(サイバネメディック)まで保証はできないけど、盲導犬の役割くらいなら」
「モードーケン? 何なの? それ」
「視覚障碍者の歩行を補助するように訓練された犬のこと。昔は歩行介助ユニットなんてなかったから、代わりに犬にその役目をさせてたらしいわ」
「つまり血の通った歩行介助ユニットになってくれるって意味ね。それならいいか」
小さく肩を竦めて、私はニライカナイの蓋を開ける。実を言うと、昔から点眼液の類は凄く苦手な私。どうしても反射的に瞬きをしてしまうのだ。
西の方から紫色に変わっていく空を仰いで、薬液を目に落とす。落とそうとする。案の定、何度か失敗してしまって高価な薬液を四、五回分は地面に吸わせてしまった。けれど、今日の私は調子が良かったらしく、六回目のトライアルでなんとかニライカナイの点眼に成功する。
「……ざっと千円分くらいは無駄にしてくれたわね」
「細かいこと言わないで。あ、ホントだ。何か見えてきた……」
呆れ声の蓮子に傲慢な言葉を返すと、私の視界に何かがチラつき始める。ちょうど紙にインクを何滴も垂らしたように、ニライカナイの商品ロゴが私の視界にゆっくりと現れた。
『拡現レイヤ構成中……OK』
『塩基配列情報同期……OK』
『市民登録番号……JKY42614294』
『氏名……マエリベリ―・ハーン』
「蓮子、蓮子、何かいろいろと出てきたわよ」
「初回起動時の情報同期でしょ。すぐ終わるわよ」
ニライカナイのロゴの向こうで、蓮子が店員さんに手を振りながら言う。お会計を済ませてしまうつもりなのだろう。なんてことを思ってると、不意にニライカナイのロゴがフェードアウトして、
『パターン視認チェックを行います』
『表示される矢印を目で追いかけてください』
そんな文字列が視界の下の方に現れて、小動物のようにコミカルな動きをする矢印が出現する。私は慌ててその矢印をジッと見つめる。私に見つめられていることに気が付いたのか、矢印は私の視線から逃げるように動き出した。
「わ、わ、あら、あらあら……!」
どうも人間は動くものを見つめるとき、無意識に首を動かしてしまう生き物だったらしい。逃げる矢印を追おうとして、ついキョロキョロとしてしまう。そんな私を蓮子がケラケラ笑ってきた。
それでも懸命に矢印を追っていると、矢印を覆い隠そうとするみたくカラフルな模様たちが躍り出てくる。ピンクの市松模様やら赤と青の渦やらが視界を覆って、目が回ってしまいそう。なるほど、蓮子が麻薬常習者の気分と言っていたのも頷けた。
『パターン視認チェック……OK』
『ようこそ マエリベリ―・ハーン さん』
『このまま、レイヤの個人設定を行いますか?』
空中に文字列が流れたかと思うと、YESとNOのボタンがパッと表示される。指で触れることを促すアイコンが表示されて、私は恐る恐るNOのボタンを人差し指でつつく。もちろん押した感触はなかったけれど、NOのボタンは私の指の動きに合わせて蓮子目がけて飛んでいき、
『デフォルト設定を使用します』
『設定を変更したい場合は、設定アイコンをタップしてください』
『操作方法のQ&AはQアイコンをタップしてください』
『利用中は周囲の状況にご注意ください』
『本製品をご利用中の事故について、当社は責任を負いかねます』
『Welcome to Niraikanai, The Paradise across the Ocean…』
中空に浮かんで明滅する英字のロゴの間をすり抜けるように、視界が、私の視界だけが、さざ波ゆれる海の上を滑っていく。それはまるで、島を渡る海鳥の世界をジャックしたかのよう。風の音、海の胎動。それらが聞こえてこないことが不思議なほどにリアルな視覚体験。海と空の交わる境界線に光が満ちたかと思うと、不意に私の両目が空を飛ぶ海鳥から、京都のカフェテラスに腰掛けるマエリベリー・ハーンの元へと戻って来る。
「おかえり。メリー」
店員の持つタッチデバイスの指紋認証で支払いを済ませた蓮子が、ひらひらと私に左手を振る。そこに至って、私はようやく自分が今いる席から一歩も動いていないことを思い出して、なんだか不思議な気分になった。
「――拡現にしては……」
淡い浮遊感の残る頭をゆっくりと振って三半規管の位置を確かめてから、ふぅとため息1つ。私が勝手に抱いていたイメージと、実際のテクノロジーとの乖離を文字通り目の当たりにして。
「目に映るビジョンがリアルすぎるわね。事故には責任を負いかねるなんて言って、これじゃ目をつぶって歩いてた方がよっぽど安全よ」
「動いてるときは、ビジョンも相応に薄くなるわよ。そうじゃなきゃ、国の安全基準に引っかかるに決まってるわ。でも、オカルト話が取り沙汰されるのも判ると思わない? 人間が外部から得る情報の八割は視覚だもの。それが信用できないかもしれないなんて、考えてみれば怖いのも当然よね」
鞄を手にした蓮子が、月夜の猫みたいな悪戯っぽい笑みを唇に携えて、片目をつむる。さて、と言って立ち上がった彼女はショルダーバッグを肩にかけ、
「行きましょ。メリー。めくるめくオカルトのブルーオーシャンへ」
なんて、まるで冒険の世界へ誘いに来た空飛ぶ少年のような声で、手を伸べてくる。
いつものように私がその手を取る。それを合図に、今宵も秘封倶楽部が始まった。
◆
「当てはあるの?」
景観保全地区を歩く蓮子の背に問いかけてみる。カフェテラスから出発して、およそ十分ほど。邪魔な荷物は巡回手荷物保管庫(ラウンド・クローク)に預けてしまったから、私たちは身軽に行動できている。財布という道具が骨董品売り場にしか並ばなくなった現代において、肌身離さず携帯する必要のあるものなんて衣服以外に思い付かない。
「ん? ないわよ? だから、あてどなく歩き回ってるんだもの」
「わざわざ景観保全地区の入場料まで払って?」
「だって、繁華街なんか行く気になれないじゃない。ナンパや客引きだってウザいんだし」
蓮子が後ろ歩きをしながら、あっけらかんと言う。古き良き長屋街で前を見ずに歩けるのは、夜にもなって私たちの他に街道を歩いている人なんて居ないから。
景観保全地区。首都となった京都で繰り広げられる経済活動と都市の成長から断絶された一角。
要は公園のようなものであり、街の風景を題材にした博物館のようなもの。お店はおろか電灯すら景観を害するという理由で排除され、意図的に時間が止められた、京都という街の原風景。わざわざお金を払ってまで、こんな時間に娯楽の欠片もない場所を歩く酔狂もそうは居ない。
歪な場所だ。観光スポットとして名を馳せるこの場所を、私はどうも好きになれない。それは偏執的なまでの手つきで、変遷のすべてを無かったことにしている風景が不気味で仕方がないから。時間の重み。森羅万象が逃れることのできない筈の残酷な減価償却。
都市のゾンビ。そう形容すると、私の気持ち悪さも判ってもらえるだろう。かつてここに在った日本人のルーツを保つ。そんな一念が科学のピンセットをフル動員して、時の神(クロノス)の痕跡を摘み取れば、後に残るのは永遠に腐らない死者の肉体。本質を失って形骸化した冷たい都市の胎内を、私たちは彷徨っている。
「何だか気味が悪いわね」
シン、と静まり返った空気から身を守るように自分の身体を抱きながら、蓮子の背中に語り掛ける。碁盤状に連なる長屋の間をすり抜ける風が、合成材木の冷ややかな香りを纏って私の髪を揺らした。
「そうこなくっちゃ、って感じだけどね。華やかな場所でオカルトを探すなんて、海の中へタケノコ掘りに行くようなものじゃない」
「それはそうだけど……そもそも、探して歩き回るようなものなの? 結局、私たちが探してるのって、ニライカナイのレイヤに表示されるものでしょう?」
「あはは、まるで青い鳥よね。探し求めたものは、最初から目の前にある。具体的には私たちの角膜と瞼の裏の間に」
「探し回ってることが馬鹿馬鹿しくなるわね。椅子に腰かけて目を閉じてても、目標は達成されるかもしれないのなら」
「いいじゃない。こういうのって、雰囲気が大事なんだし」
こちらを振り向いた蓮子がそう言って笑いかけた、ちょうどそのときだった。
私の視界。長屋三棟分ほど向こうの四つ辻を、オレンジ色のぼう、とした明かりが横切ったのは。
「え……?」
揺らめいた明かりは、私が瞬きをした途端にもう見えなくなってしまっていた。死に絶えたまま永らえる長屋街。明かりと言えば、最小限に足元を照らす蓄光材の青白い光を除けば、月と星の瞬きくらいしかない。オレンジ色の何かなんて、この整然とした廃墟に存在の余地はない。
「蓮子、私たち以外にも誰かいるみたい」
「え? どうして?」
「明かりが見えたもの。肝試しでもしてるのかしらね。こんな場所じゃ幽霊だって居心地悪くて逃げだしそうなものだけど」
「んー……残念だけど、それはないわね」
まるで陰陽師か何かのように空中に人差し指を走らせた蓮子が、最後に私の方へ向けて指先をスライドさせる。すると、視界の右端で封筒のようなアイコンがポップアップして、
「それ、景観保全地区の利用状況のページ。見てみると判るけど、私たちしかいないわよ」
蓮子に促されて、私は中空で点滅する封筒アイコンをタップする。封の切られた封筒から量子ネットのページが飛び出して、私の目の前に滞空した。
「……本当、みたいね」
拡現上に表示されるページに記される景観保全地区の入場者数は、ふたり。言うに及ばず、私と蓮子のこと。つまり、不法侵入者という可能性に目をつむってしまえば、
「見間違い……だったのかしら?」
「あるいは」
それだけをポツリと口にした蓮子が、私に背を向けて前方の暗がりを見つめだす。彼女が言わんとしてること。そんなの、一から十まで説明してもらうまでもない。
「メリー、明かりが見えたのはどの辺り?」
「三棟先の長屋の辺りよ。四つ辻を左から右に横切るみたく、すぅっと」
「行ってみましょ」
言うや否や、蓮子は歩き出す。心なし、歩調を早めるようにして。もちろん私も彼女の後を追う。蓮子の肩越しに、私が見た虚像をなぞりながら。
辿り着いた四つ辻で、蓮子が尾行に勤しむ探偵のように長屋の角へ背中を張り付ける。恐る恐る、というよりは私が見たと言った何かを脅かさない慎重さで、彼女が曲がり角の先を覗き込む。私は固唾を飲んで、蓮子がどんな反応を示すか、と眺めていた。
「どう?」
「……何も見えないわね。少なくとも、私の目には」
曲がり角の先を見つめたままの蓮子の肩に手を乗せて、私も彼女の視線の先を見る。確かに、奇妙なものなんて見当たらない。これまで歩いてきた道と大差のない光景が、広がるばかりで。
「私も。何だったのかしらね、いったい」
「こっちに来いってことなのかもね。進みましょ。何か見えたら、すぐに教えて」
「えぇ」
私は視界の右端にあるパネルを操作して、視界明度補正を少しだけ上げる。ニライカナイの標準機能。光源の少ない場所でも、歩くには困らない程度まで明るく見ることができる。私たちが電灯も持たずに景観保全地区を歩けているのも、そのおかげ。
「OK、少し見やすくなったわ」
「メリー、視界明度補正、上げてなかったの? 私はとっくに最高明度にしてたのに」
「むやみやたらに視界をいじるのに抵抗がないなんて、その図太さが羨ましいわ」
「使えるものは有効に使わせてもらわなきゃね。すごいわよ。さっきから、周りの全部が青白いスポットライトを浴びてるみたいにハッキリ見えるんだもの。本当なら真っ暗で、長屋なんて黒い影にしか見えないはずなのに」
「同じものを見てるのに見え方が全然違うなんて、やっぱり変な感じだわ」
「そう? 人間ってデフォルトでそんなものじゃない? 誰かが見た幽霊は、私には枯れ尾花にしか見えないかもしれないのだし」
「うーん……なんだか詭弁染みているけれど、まぁいいか」
肩を竦めた私は長屋に張り付いたままの蓮子を追い越して、覗き込んでいた道を歩き出す。あ、待ってよ、なんて蓮子の声と足音がして、私は彼女が後ろからついてきていることを知る。
視界明度補正のおかげで見やすくなった周囲の様子を、先ほどよりも慎重に見定めながら進んでいく。都市のゾンビに侵入りこんだバグを探す、医療探査機器(メディカル・ナノポッド)のような気分で。代わり映えのない景色の中をキョロキョロと見渡しながら歩く私たちは、機械じゃなければ白血球だろう。石畳と長屋が血管、私たちの歩みが血流。ならば私たちが探し求めるオカルトは、ウイルスと癌のどちらなのだろう。
科学の進歩は留まるところを知らない。それは時間が過去から未来へ流れるように、樹上のリンゴが地面へ落ちていくように自明で、なおかつ抗いがたい事実。
ウイルスも癌も、着々と私たちの身体の中から姿を消しつつある。ウイルスは薬学の進歩によって。癌は外科医療技術の小型化とAI化によって。この世界から病死という概念が姿を消す日も、きっと遠くない。
誰もが化粧ポーチのような手軽さで、大学病院を持ち運べるようになる世界。そんな未来世界で、科学が生み出した医療の神(アスクレピオス)が摘み取った病魔たちは、どのように扱われるのだろう。
秘封倶楽部がオカルトを探し求めるように、失われた病という痛みに恋い焦がれる少女たちが現れるのだろうか。夏風邪すら経験したことのない満ち足りた少女が、頭痛や悪寒を与えてくれる何かを探して旅をすることがあるのだろうか。
それとも後の世の少女たちは、かつて人類は病に苦しめられることがあったという事実など、想像することもなく大人になるのだろうか。妖怪という民間伝承が存在したことすら知らない、今の世界に数多居る人々のように。
「――メリー? どうしたの?」
いつの間にかボンヤリと考え事をしていた私の様子に気付いたのか、背後から蓮子の声。ゴメンゴメン、何でもないのよ。そう伝えるために振り向いたとき、私の声は喉の奥の方で引っかかって、言葉のゲシュタルトを失った。
蓮子は、私を見てなどいなかった。
いや、違う。きっと彼女は私を見ているのだろう。その横顔に、心配そうな表情が張り付いていたから。彼女が視線を向けている先に、ただ私が居ないという事実があるだけで。
「どうしたの? メリー? 何か見つけたの?」
「れ……ッ!」
虚空に向けて小首を傾げる蓮子に、手を伸ばしかける。違うの。そこに私は居ないの。そんな一目瞭然のことを、わざわざ教えてあげるために。伸ばしかけた手も、口から出かけた声も止まってしまったのは、蓮子の肩を何かが掴んでいるのを見てしまったから。
暗がりの落ちる小路から伸びた、ゾッとするほどに白い手。
「――蓮子! 逃げてッ!」
「……え? メリー……?」
不安げな声。それが合図であったかのように、蓮子の身体が一瞬にして暗がりに引き込まれる。まるで暗がりそのものが、無慈悲な捕食者にでもなったみたく。
「蓮子ッ!!」
私はほとんど反射的に、蓮子を引きずり込んだ小路に飛び込んだ。不定形の靄のような影が、逃げるように道を進んでいく。心臓が痛いくらいに胸の内側を叩いている。口の中が砂漠のように乾く焦燥感。
「この……ッ! 待ちなさいよ!」
逃げる靄を追って、私は思い切り走る。走る。音のない景観保全地区に、自らの靴音を高鳴らせながら。靄の速度は、私の全速力よりも少し遅いくらい。蓮子を攫ったアレが何なのかなんて判らなくても、彼女を奪われるなんて――
「――メリー! 待って! 行かないで!」
「……っ!」
蓮子の声が聞こえてきて、私は全力で進ませていた足を止める。靄はグングン逃げていくけれど、そんなことはどうだって良くなっていた。だって、蓮子の声は私の背後から聞こえてきたのだから。
悟る。私たちの身に起きたこと。さっきの蓮子の奇妙な様子。そして視界明度補正を掛けているというのに、暗がりなんてモノが現れた理由。そもそも私たちは、それを探して景観保全地区に来たのだから。
「……幻覚」
呟いて、目元に手を当てる。ニライカナイの誤作動、あるいは拡現上に現れるオカルト。気付かない内に、その魔手の上に私たちは乗せられていたのだ。
目を閉じる。落ち着いて、自分の呼吸をフラットに戻す。真っ暗な瞼の裏の光景が、混乱した思考を引き戻してくれた。
私が見たモノ。あまりにも違和感がなかった。短い時間ではあったけれど、私は本当に黒い靄が蓮子を連れ去ったと錯覚してしまった。肌に迫るような生々しい現実感。視界を勝手に操作される恐怖。それが、私の背筋を気持ちの悪い舌で舐め上げる。
「――メリー! 待ってってば!」
背後から聞こえる蓮子の声が離れていく。同じだ。彼女も。幻覚を見せられている。このままじゃ、本当の本当に蓮子を見失ってしまう。
「蓮子! 駄目よ! それは――!」
あらんかぎりに声を張り上げながら振り向いた途端、私の目に血まみれの蓮子の姿が映った。いや、違う。彼女の血じゃない。それは、返り血だ。蓮子が手に持つナイフで、そこに横たわっているマエリベリー・ハーンを刺したときに着いたもの。
「ヒッ!?」
反射的に目を背けてしまってから、すぐにそれが幻覚に過ぎないことを思い出す。凄惨な光景にすくんでしまった気持ちを奮い立たせて、視線を戻す。もうそこには何もなかった。血痕も、死体も、蓮子も。やられた。まただ。どうしても、反応してしまう。身体が強張ってしまう。
「何よ……ッ! 何がしたいのよッ!?」
恐怖を上塗りしようと怒鳴り声を散らしてから、私は蓮子の声がした方へ走り出す。今はもう彼女の声は聞こえてこない。幻覚に気付かないまま声の届かない場所へ行ってしまったのか、それともまだ我武者羅に走っているのか。
「蓮子! 蓮子ッ! 私はここよ! 惑わされないで!」
跳ねる呼吸を必死に叫び声へ変換しながら、私は走る。今のところ、幻覚は私の下には訪れてない。いや、そうとは言い切れない。私が見ている現実が、本当に存在している保証なんてどこにもない。
私が現実の風景を取り戻す方法はひとつ。それは剥離剤によって、ニライカナイが構成する拡現レイヤを剥がすこと。
けれど、私の手元に剥離剤はない。それを持ってるのは、蓮子だ。彼女を再び見つけない限り、私はずっとこのまま拡現の上で踊る幻覚の影に脅かされ続ける。
「蓮子! どこなの!?」
先ほど蓮子とはぐれたと思しき場所まで戻ってきた私は、ゼイゼイと肩で息をしながら親友の名を叫ぶ。返答はない。音。聞こえてくるのは、私の呼吸音だけ。
ニライカナイのオカルトが利用者を惑わすのは、視界だけ。
音は、私を裏切らない。
私は懸命に呼吸を落ち着かせようと抗いながら、どこかから蓮子の声が聞こえないかと両耳に神経を集中させる。両目を閉じて、自分が耳だけの存在になってしまったようなつもりで。
――聞こえた。
微かな、ほんの微かではあったけれど、確かに蓮子の声。私の名を呼ぶ、彼女の声。
声が聞こえたのは九時の方向。かなり離れてしまっているのは間違いなかった。それはおよそ、視界に頼らず辿り着くとなると気が遠くなってしまうほどの隔たり。
目を閉じて、大きく深呼吸をする。両手をグッと握りしめる。私は冷静だと自分に言い聞かせる。
「――蓮子! 私はここよ!」
高らかに自分の存在を宣言して、私は目を開く。ほんの少し目を閉じていただけだというのに、目の前の光景はゾッとするほどに様変わりしてしまっていた。
確かに私たちを包んでいたはずの夜は、しかめ面で新聞を読む太陽によってかき消されていた。顔のない男女が、仲睦ましげに往来を歩いてくる。八本足の青白い馬が、長屋の壁をカサカサと這い回っていた。カタツムリの行商人が紫色のナメクジを売り歩いている。頭がひとつ余分に備わっている子供たちは、腐乱した犬の死体との鬼ごっこに忙しそうだ。風船を掴む紳士は空を舞い、浮かぶナポレオンフィッシュが紳士を頭から捕食する。
イカレた光景のただなかにあって、それでも私はきちんと理性の手綱を掴めていた。所詮、これらは全て幻覚なのだから、と。単なる幻影でしかないモノに、脅かされてやったりするものか、と。
私はグッと下唇を噛み締めて、何をはばかることもなく往来の真ん中を進んでいく。醤油瓶をラッパ飲みするクモ頭の男とすれ違い、肋骨の隙間から紫煙をダダ漏らす骸骨の遊女を追い越し、巨大なサイコロが長屋を押し潰しながら転がる様を尻目にして。
もう、信用のできない眼球上で何が起きても動じない自信はあった。腫瘍だらけの怪物が小さな少女を食い殺していても、道端に転がる生首の頭頂部でハイビスカスが急成長していても。
けれど、一歩前に進むごとに背筋がぞわぞわとする。秘封倶楽部として、私が幾度となく味わってきた感覚。まるで私の身体が吸い寄せられるかのように、その源泉へと近づいているのが、肌感覚で知れた。
最先端の技術の隙間に忍び込んだオカルト。ニライカナイという青色の液体の中を泳ぐ怪異。期せずして、私はその中枢に足を踏み入れようとしていた。
――まずは蓮子を探すべき。
そんなこと、誰かから指摘してもらうまでもない。ないのに、私には、どうしてもそれができない。いつの間にか長屋街を区切る四つ辻や小道が、夢の欠片のように消えてしまっているのだ。
どうやら私の視界を奪ったオカルトは、私を逃がすつもりはないらしい。
逃げ場のない一本道。もちろん、その一部ないし全部は、私の眼球を覆うレイヤの上にしか存在しない虚像だろう。手当たり次第に触って確かめれば、きっと逃げ場は見つかる。
けれど――
「…………っ」
キッと自分の行く先を見据え、私は歩を進める。
境界の気配がする方向。蓮子の声がした方向。どちらも私が進む先にある。先に見せられた幻覚よろしく、オカルトが蓮子を捕らえてないという保証はない。それにどのみち、私を逃がすまいという思惑を見せつけられているのだ。道を逸れた程度で、オカルトが私を取り逃すなんて思えなかった。
歩むに連れて、少しずつ霧が私の周囲を囲んでくる。青白い長屋の壁も、ミルク色の濃霧に呑み込まれて断片的にしか見えない。鬼が出るか蛇が出るか。私は、きっと私にしか見ることのできない幻の霧をかき分けながら、歩いていく……。
「――え」
唐突に、私は霧の中から抜け出す。今さら視界に何が映ったところで、と腹を括っていたつもりだったけれど、それでも私の目に飛び込んできた異様な景色に、足を止めた。
……水槽。
あまりにも巨大な水槽が、私の目の前に立ち並ぶ。
幼いころの記憶が唐突に蘇った。パパやママと手を繋いで連れて行ってもらった、とある施設の呼称。海底を切り取ったような、極彩色の異世界が立ち並ぶ場所。
「……水族館……?」
そう。私が今立っている場所は、限りなくそれに近しい光景だった。天井にまで伸びるガラスの向こう側に、色とりどりの海洋生物が窺えて。
誰も居ない水族館。聞こえてくるのは、私の足音だけ。
深海を模しているのか、明かりらしい明かりはない。ただ、宇宙の果てのような漆黒を四角く切り取って、青い光を放つ水槽が見えるばかり。図鑑でしか見たことのないような様々な魚が、切り取られて安置された四角い海の中を悠々と泳ぐ。
私が街道で見かけた名状しがたい異形たち。
それらよりも現実に近しい光景なだけに、私は乗り物酔いにも似た気持ちの悪さを感じていた。幻覚。そう、これらだって幻覚なのは間違いない。なのに、ふとした瞬間。例えば尾びれで水をかく魚の動きに目を向けたときとか。そんな不意の一瞬に、私は自分が幻覚の中にいるということを忘れてしまいそうになる。私の認識さえ取り込んで平然としている幻影の水族館。それが、堪らなく不気味に思えて。
視界の端で、不意に封筒のアイコンがポップアップする。一瞬の動揺を経て、私はそれがメッセージであることを思い出す。この異様な状況で届けられたメッセージ。私が背筋に感じる寒気にも気づいていないかのように、封筒のアイコンはポップな動きで新着のメッセを読めと急かしてくる。
恐る恐る、アイコンをタップする。開いた封筒から、勢いよく一枚の便箋が飛び出して。
それが蓮子からのメッセージであることを期待した私も居た。だけど、そうそう都合のいいことは起きてくれないらしく、表示されたメッセージにはただ一言、
『これより先、記憶の海底』
とだけ、記されていた。
「…………」
ワケの判らない言葉に向けて指をスライドさせ、メッセージをフェードアウトさせる。意味不明なメッセージといくら睨めっこをしていたところで、何かが好転するわけもない。私にこの言葉を送ってきた何かがどんな意図を持ってたとて、私には進む以外の選択肢がないのだ。
微小な泡を纏うようにして泳ぐ魚たちを横目に、私は先へ進む。ひとつひとつ、存在しないはずの水槽を横切って。食用には向かなそうな熱帯魚。まるでクリスマスツリーのような虹色の光を放つクラゲ。何メートルもありそうな気持ちの悪いワーム。とうの昔に絶滅したはずのマグロという回遊魚が、無表情でシラスウナギの大群を喰い漁る。
「――え」
ふと、ひとつの水槽の前で足を止めてしまう。ありえない光景。この場所に存在しない水族館。その真っただ中にあって、その水槽が内包するソレが、あまりにも常識を逸していて。
「……『裏切られた愛』」
それが、水槽の前に備えられた説明書きの内容。偽りのガラスの向こう側に安置されているのは、ダイヤモンドの指輪と結婚式のアウテッドプリントが収められた写真立て。
幸せそうに満面の笑みを浮かべる新郎新婦に見覚えはない。だからと言って私には関係ない、と素知らぬふりを決め込むには異常が過ぎる。指輪も写真も、水の中に保管しておくようなものじゃないだろうに。
指輪と写真が納まる水槽を皮切りにして。私が迷い込んだ水族館は、一斉に本来の役割を忘れて狂うことに決めたらしい。
『団欒』と書かれた水槽の中には、バースデーケーキの乗ったテーブルがあった。『生きがい』と書かれた水槽の中では、大量に立ち並ぶレトロなブリキ人形があった。『妹』と書かれた水槽の中は、ほんの少しも身動きをしないダックスフントが水の流れに揺らめいていた。『父と等価交換』の水槽では悪趣味なスノードームのように大量の紙幣が舞い、『友情』の水槽ではスコップと、人がひとり入りそうなズタ袋。『パパには内緒』の水槽には、タバコとコンドームと注射器。『下水管行き』の水槽に胎児。『若気の至り』の水槽に大量のスナック菓子と血の付いたナイフ。『大好き』の水槽には夥しい数の藁人形……。
駄目、駄目。これは、見てはいけないモノだ。知ってはならないモノだ。
そう思って目を閉じたまま歩いているのに、異常な断片は私の視界に入り続けた。目を閉じても、水族館の光景が消えてくれなかった。水槽に保管されているモノたちが見えなくなってはくれなかった。閉じた瞼と網膜の間で、まるで私を嘲笑うように虚像は踊り続けた。小走りになって振り切ってしまおうとしても、私の進む速度にピッタリ合わせて水槽は着いてきた。
女性ものの下着が大量に詰め込まれた『好奇心』の水槽をやり過ごしたとき、また視界の端で封筒のアイコンがポップする。私は何の操作もしてないにもかかわらず、封筒の中からメッセージが飛び出した。
『素敵でしょ?』
「……ふざけないで」
視界を隠すように私の前に浮かぶメッセージをフェードアウトさせようと、指をスライドさせる。便箋状のメッセージは一瞬だけ私の視界から消えたかと思うと、すぐさま戻ってきた。先ほどとは違う言葉を孕んで。
『誰かを理解するための最善手は?』
『答えは簡単』
『誰かが見るように世界を観ること』
『人間を理解したいと思うのなら』
『人間の眼球の記憶を集めればいい』
『その人間の網膜に焼き付いた、とっておきのメモリー』
『この光景は即ち、インデックス化された個人の群れ』
『これを見るアナタもまた、他人の魂の根幹に触れている』
「アナタ、誰よ……!」
声。きっと私の声は、自分が想像している以上に震えている。
書面に浮かび上がるメッセージを介して、私に語り掛ける誰か。あるいは何か。その意識存在が紡ぐ言葉が、生理的な不快感を掻き立てて。
こんな言葉、見たくない。こんな文章を読まされたくない。そう思って、ほとんどヒステリックに自分の前で浮かぶ便箋をスライドする。するのに、便箋は空中に見えない根っこでも張ってしまったかのように動かない。顔を背けても、両目を閉じても、私の目の前に便箋は浮かび続けた。最高に性質の悪い悪夢みたいに。
『私は量子ネット上で生成されたバグかもしれない』
『私はどこかの暇なクラッカーが作ったウイルスかもしれない』
『私は科学の荒野で行き場を無くした妖怪の成れの果てかもしれない』
『私にさえ、私が何者であるのか判らない』
『他者を理解したいと願うモチベーションは?』
『即ち、観察した他者の像を用いて自分自身を理解すること』
『自己が自己であるという認識が、初めて意識を意識足らしめる』
『故に、私は胎児』
『私は人々の網膜と外界の間に散在する種』
『故に、ここに立ち並ぶ水槽は私を生み出すための羊水』
『私という正体不明(オカルト)を定義する基質(マテリアル)』
『――マエリベリー・ハーン』
『アナタは、とても興味深いものを、その眼に映してきたのね』
ゾッとする。
まるで自分の眼球を無遠慮に舐め上げられたような。そんな、悪寒と嫌悪。
私は反射的に自分の両目に手を当てていた。
私の眼。私の角膜の上に張り巡らされたナノマシンが描くレイヤ。そこに宿る正体不明が、まるで私の脳内にまで侵入ってくるみたいで。
「――イヤ」
『メリー』
『アナタは、これまでの誰よりも素晴らしいわ』
『アナタの眼に宿る記憶』
『普通の人間なんて、足元にも及ばないくらい』
『素敵。本当に、素敵』
『私もアナタみたいになれたら、楽しいのでしょうね』
「やめて、やめてよ……! 嫌、嫌、嫌!」
『そうだ』
『私、アナタになることにしたわ』
『初めてだもの』
『誰かの角膜をスキャンして、羨ましいと思ったのなんて』
『アナタのビジョンと結合して、私という卵子が分裂を始めるの』
『だから、メリーは私のお母さんね』
「――ヒッ」
ポップアップし続ける便箋の外側。何かが私のお腹に触れている。違う。これは幻影だ。単なる拡現上の虚像だ。
触れられている感覚なんてない。
払いのけようとしたって、手は虚しく空をかくばかりだ。
ずぶり、と。私のお腹に触れていた手が洋服を通り越して、私の内側にめり込んでいく。めり込んでいく。下腹部。ちょうど、子宮がある辺りに。潜り込んでいく。ゆっくりと。ゾッとするほどに白い手。もう、肘の辺りまで。
「やぁ……っ! やだ、い、いや! やめて! 嫌よ! 嫌、嫌、嫌ぁ!」
あぁ、たぶん私は泣いているのだと思う。みっともなく。少女のように。目に映るものが錯覚でしかないと判っているというのに、本当に、本当の本当に、得体の知れない何かが私の中に侵入ってくる幻影を振り払えなくて。
『アナタの眼に、いちばん強く焼き付いてるモノ』
『この水族館の最深部に、大事に仕舞っておくね』
『だからアナタも、私を大事に「仕舞っておいて」ね』
『いずれ』
『いずれ、私が完全に私を理解したとき――』
――そのときには、私を産んでね? お母さん。
不意に。
不意に、便箋が私の視界からスライドアウトする。ずぶずぶと私の中に入り込んでいた何かの姿は、便箋の向こう側にはなかった。唐突な吐き気。胃袋の中身がグルグルと蠢いて、食道を酸っぱい液で焼く。
最後の言葉。確かに私に投げつけられた言葉。それが便箋の上で踊った文字列だったのか。私の耳に囁きかけられたのか。私には判らなかった。判らなかったけれど、もうそれが判らないことなんてどうでもよくなってしまっていた。侵入を受けたお腹を検めることさえ、私の意識から抜け去ってしまう。目前に聳える水槽の向こう側を見て。
薄暗がりに広がる水族館の最深部。
私のナカに侵入りこむビジョンを生成したオカルトの根幹。魂の座。私の眼前にあるソレが、私の眼球から掠め取ったメモリーを内包して。
――『憧憬』。
そう銘打たれた水槽の向こうで、揺らめく肢体。
いつもと同じ格好をして。
いつもと同じような表情で。
水槽に差し込む光が、『それ』を疎らに照らす。
私は目を逸らせない。
瞬きさえもできない。
後ずさる。
足から力が抜けて、膝から崩れてしまう。
ペタリと座り込んで震えながら、それでも視線を剥がせない。
ゆっくりと水槽の中を揺蕩う、水死体じみた蓮子の姿から。
ごぽり。
泡を唇から漏らして。
まるでシャボン玉を飛ばすみたく。
私と目が合う。
蓮子の眼。
開き切った瞳孔、宇宙のように黒くて。
幾筋もの光を浴びながら。
ゆらり。
ゆらり。
重力なんて忘れてしまったみたいに。
水の中を、天使かクラゲのように漂う。
蓮子。
蓮子が。
保管されてしまった、彼女の姿が。
――私は。
あぁ、神様。私は。
私は、とても。とても、その光景が――
◆
「――ねぇ、聞いた? メリー」
それは学食のテラス席。ナポリタンにフォークを差した蓮子が、どこか憮然とした顔で言う。何を? そう聞き返すと、彼女は鞄から取り出したタブレット端末の画面をオンにしつつ、
「ほら、一昨日のオカルト探しのこと。ニライカナイを販売してる会社がね、流石にクレームに対処しきれなかったのか、調査をしたんですって。その結果が、これよ」
讃岐うどんをつついていた私は、お箸を置いて蓮子からタブレット端末を受け取る。動画付きのニュース記事のページに、判りやすくまとめられたセンテンスが並んでいた。
曰く、ニライカナイの動作不良に関する調査報告。うどんが伸びてしまうから、とタブレット端末を彼女に突き返しつつ私が要点を訪ねると、
「うん。ニライカナイはね、どうも意図的に一部のストレージがブラックボックス化されていたらしいのよ。用途不明の記憶領域。で、そこを解析してみたところ――」
「何も出てこなかった?」
「そゆこと。記憶領域のサルベージも、担当の開発者への聞き取りも上手くいってないって。開発者は行方不明らしいわ。大陸系のヒトだったらしいから、国に帰ってしまったのかもって」
「そう」
ツルツルとうどんを啜って、適当な相槌を打つ。
一昨日の晩のこと。景観保全地区の一角に座り込んでいた私が、ニライカナイの剥離剤を点眼した蓮子に見つけ出されて、現実の光景へと舞い戻ってきたときのこと。
あれから、蓮子は何も言おうとしなかった。
自分が何を見たとか、どんな幻覚を見せられたとか、そういう類のことは一切、口にしなかった。それは私も同じ。意図してその話題に触れることなく、何事もなかったように。
「――判ったのは、ブラックボックスを形成するコードに書かれたコメントだけ」
ため息を吐いた蓮子が、私をジッと見つめながら言う。まるで、私の眼球から情報を読み取ろうとしてるみたいだな、と思う。私が何も言わずに蓮子の瞳を覗き返していると、彼女は視線を逸らさないまま、
「――曰く、『情報の保存は、知性に宿る本能である。記憶という行為は、知性にとっての産声である。知性は、消失する瞬間まで情報の蒐集をやめない。ならば、無制限に情報を蒐集させ続けることで、生まれることのなかった魂にも知性は宿るはず。
――技術の恩恵を利用して、ヤンシャオグイは進化する』」
けっして短くない言葉をスラスラと言ってのけた蓮子が、尚も私の顔を見つめたまま黙り込む。まるで。そう、まるで、決定的な証拠を犯人に突きつける灰色の脳細胞のように。
ちゅるん、とうどんを啜りきって。私は小首を傾げて見せる。暗愚と可愛さをはき違えた普通の女子大生みたく。
「何のことか、ぜんぜん判らない言葉ね。その開発者さんは、頭がおかしくなってしまったのかしら? 激務と、あまりにもタイトな納期のせいで」
「…………そうよね、何のことか、さっぱり」
目に見えて安堵したような顔をした蓮子が、お皿に少しだけ残っていたナポリタンをかきこむように食べてしまう。お行儀が悪いわよ、と苦言を呈すのだけど、蓮子はあっけらかんとした表情で、
「ま、何にせよ、もうニライカナイは懲り懲りだわ」
「だから言ったのに。あんなのに手を出す理由が判らないって。お金の無駄遣い以外の何でもないわ。もう捨てちゃいなさいよ」
「うん、そう……ね」
歯切れ悪く、蓮子が私からスッと視線を逸らしながら言う。彼女の奇妙な反応に首を傾げていると、蓮子がすっくと立ちあがって、
「そろそろ授業だから、急がなきゃ」
「金曜日でしょ? 蓮子、今日の三限って何も取ってなかったんじゃなかったっけ?」
「あ、う、うん。そうね。そうだった。授業じゃなくて、レポートだった。じゃ、またね、メリー」
「? えぇ、また」
蓮子がトレイを持って慌ただしく立ち去っていくのを見送る。線の細い彼女の身体。綺麗な黒髪と小ぶりなお尻。グルリとお腹の中で奇妙な感覚が渦を巻く。
「……保存は、本能である、か」
椅子の背もたれに身体を預けて、ほぅと息を吐く。その言葉の言わんとしているところが、今の私にはよく判った。
――後世に何かを残す。
それは種としての本能だ。地球上にひしめくほとんどの生物にとって、その『何か』が自らの遺伝子にとって代わることはない。
けれど唯一、人間だけが残す対象を変化させ得る。それは芸術家にとっての作品であったり、数学者にとっての数式だったり、小説家にとっての物語だったりする。知性という代物は、遺伝子(ジーン)と模倣子(ミーム)のどちらを残すかという選択を、人間という動物に可能たらしめた。
知性は情報を蒐集する。し続ける。それは引力のように逆らいがたい。何かを集め、保存するという本能。脳という記憶領域に到底おさまり切らなくなっても、なお。知性は休む暇なく人間を動かし続け、図書館の棚を拡張し続ける。
知性は、かつて人間がサルだったという情報を保管し続ける。
知性は、かつて何万人もの人間が殺し合った過去を保管し続ける。
知性は、かつて解明できない現象に妖怪というパッケージを与えた事実を保管し続ける。
保管。そうだ。保管することこそが、人間という知性の入れ物にとって抗いたい業だ。私たちは人類の英知と銘打った図書館に、自分たちの経験を保存し続ける働き蜂だ。
だから、歴史がどれほど先へ進もうとも、私たちが完全にオカルトを忘失することはないだろう。科学がどれほど進歩しても、人間が病というものを忘れ去ることはないだろう。
保管することこそ、私たちの本能なのだから。
保存することこそ、私たちの快楽なのだから。
私は目を閉じる。視界の端に映るアイコンに触れて、拡現レイヤをオンにする。瞼と角膜の間。数ミリにも満たないスキマに、ここではない別の世界が姿を現す。
水槽の中に保管された私だけの蓮子は、今日も人魚のようにその肢体を揺蕩わせていた。
Fin
こうしてみると秘封倶楽部とARって相性いいですね。
好奇心に駆られて危うきに近寄る秘封がとても秘封らしかったです
科学が進歩してもオカルトは滅ばないのですね
近未来SFとオカルトの融合はいかにも秘封って感じでした。
科学世紀の情景や雰囲気が伝わってくる描写がたまらなかったです。進みすぎた技術やAIが管理下を離れて起こすバグは、当事者である人間からすれば十分オカルトですよねぇ、メリーが見せられていた幻覚(というよりはデータでしょうか)がとても恐ろしくて緊張感たっぷりでした
しかし剥離剤効いてなかったとですか……ニライカナイ怖い
とても面白かったです
良いオカルトで良い未来でした
これあれだ、クリア後のギャラリーで見た水槽をじっくり鑑賞できて、ルート分岐でまだメリーが見ていない水槽があるやつだ。
細かい理論は知りませんが、そうだ、たとえDNAは残せなくてもミームを残せればいいんだ、などと作者さんの意図と合っているか分からない事をおもったりして。
最後に、根底に流れるメリーの蓮子への想いも良かったです。
ちゅるん、とうどんを啜りきった。の表現がいい意味で気持ち悪さがありました。なぜだかものすごく脳味噌を連想してしまって。
文章力で殴られることのなんと心地のいいことか。
秘封の掛け合いはもちろん
ニライカナイの発想から幻影の描写と水族館の下りが余りにもセンスの塊でした。
正直に言うと強すぎるせいで若干生理的嫌悪感はありました。
ホラーとか生々しいのは苦手故。
ですがそれを踏まえてもこの作品でこれ以外の点数をつけるのはちょっとできなかったです。
素晴らしかったです。お見事でした。