――夢を見た。
いや、夢と言うには鮮明に過ぎるかもしれない。
けれど、それは確かに夢だった。
かつての過去。
泡沫へと消え去る小さな過去。
他の誰かにとっては、きっと拳程の大きさもないくらいの、小さな小さな。
狐がこんと鳴いた。
◆
「ゆかりさまー、ゆかりさまー」
とことこと九つの尾を揺らし、ぎしぎしと板を弾ませ八雲藍は縁側を歩く。
季節はとっくに春になっているくせに、自分の主人は一切目覚める気配がない。
寝坊助なのはいつものことだと、首を振る。
何年たっても変わらないこの作業。けれどこの作業は、別に嫌いじゃなかった。
春の訪れを如実に感じることができる。
春一番の風と、遠く冥界から吹き込んでくる花びらが、主人の目覚めを促しているようで。
「だからこれも、春の風物詩、と」
小さな呟きは、風に紛れて消える。
とことこ、とこ、と藍は歩みを止めた。
両開きの障子戸は、まるで鉄壁の要塞のように閉ざされている。
主人の安眠を守るべく、そこにそびえ立っているのだ。
向こう側の気配は薄く、やはり起きている訳もない。
小さく息を吐いた。
ため息――だが嫌いではない。
そこに込められたのは、とっとと起きろよこのやろう、などと罵倒交じりな思いではなく。
まったくしょうがないなぁ、と笑うように。
藍は障子戸の手をかけ、両手で思い切り左右に開いた。
すぱん、と大きな音を立て、暗い部屋に日差しが差し込んだ。
「ゆかりさまー、春ですよー、いい加減起きてください」
一歩踏み込む。
畳の柔らかな感触を足裏に感じながら、藍は踏み込む。
「ゆかりさま?」
そこで、違和感を覚えた。
部屋の中央に敷かれた布団は、ぺしゃんこだ。
さりとて主人の起きた気配はない。
まるで寝ていたまま、どこかに消えてしまったように。
急ぎ、布団へと近づき、その手を中に入れた。
――暖かい。
つまりそれは、先程まで主人が存在していたと言うこと。
「またどこかへ行かれたのか……?」
いや、そんなはずはないだろう。ここ数百年と冬眠から目覚めたら、真っ先に家族におはようと言った。
ここ数十年は藍が起こしていた。
だからこれは、間違いなく異常事態であったのだ。
「らんさまー? ゆかりさま起きました?」
とてっとてっ、と軽い音で床板を弾ませながら、少女が障子戸の端から顔を覗かせる。
小さな彼女は、橙と言った。
「――橙、紫さまを見てないか?」
「え? ええと、見てないですけど……」
「そうか」
言ったきり、藍は黙り込む。
主人はおらず、まるで――ああ、そうか。
かつての過去。
あったはずの、古い話。
昔話をしよう。
猫も狐も知らない。そんな、昔話。
◇
かつて、狐がいた。
小さな仔狐が一匹。
ふらふらと、地面を這うようにして歩いていた。
季節は曖昧で、意識ははっきりしない。
空腹であった。
どこからきて、どこへ行くのかもわからない。
獲物の取り方さえもわからない仔狐に待つのがなんであるのか、考えるまでもなくはっきりとわかった。
それでも歩くのは、きっと死にたくないから。
どれだけ歩いたのだろうか。
それさえもわからなくて、仔狐はそこで力尽きた。
足を丸め、身体を丸める。
これ以上の体力の消耗を、最小限にして、こんな状態でもまだ死にたくないと思って。
――だからそれがなんであるか、最初はわからなかった。
目の前に、肉が浮かんでいる。
まるで自分に見せつけるようにふるふると震えているような。
自分は美味いんだぞ、と言っているかのような。
考えることができたのはそこまでだった。
いつの間にかその肉に噛り付いていた。
口の中に広がる味。
今までのなによりも美味しかったと断言できそうなそれ。
「あら、そんなにお腹、空いてたんだ」
そんなだから、その瞬間までそこに誰かがいることに気がつかなかった。
見上げ。
さらりとした金色の髪が目に入る。
今まで見たことのない、髪の色。白い肌の、まるで違う世界から来たような服装の少女がいた。
ふわふわした、見慣れない服に、見たこともない傘。
そんな少女がしゃがみ込んで、こちらに棒を突き出していた。
一瞬、突きまわされるのではないかと考えが浮かぶが、そうではないと、続く行動で思う。
「ほら、まだあるから、そんなに慌てなくていいよ」
笑みを浮かべ、どこからともなく肉を取り出し、放り投げてくる少女。
まるで、神かなにかのように感じた。
がつがつと食らいつく仔狐を見て、やはり少女は笑うばかり。
しばらくして腹も膨れた仔狐ははたと気付く。
自分はこの少女の食べ物を、食べつくしてしまったんじゃないかと。
そう思い、視線をきょろきょろと彷徨わせる。
周囲はすでに山から外れ、どこかの道端であることがわかる。
人の声は聞こえず、気配もない。
どことも知れない、誰も通らない道端。
そうなれば、この少女はなんだろうかと思えてくる。
「ん? なによう? 別に気にしなくてもいいわ。私がしたかっただけだから」
まるでこちらのことを理解しているかのような声が、頭上から降る。
見上げると、傘を差して立ち上がった少女がいる。
「いいでしょ、これ。異国の商人からもらったの」
まるで自慢するかのように、くるくると傘を回して見せる。
「それじゃ、そろそろ行くわ」
別に行くあてがあるわけじゃないけど、と小さく呟くと、仔狐に背を向ける。
その背中に向けて、仔狐は小さく鳴いた。
「なによ……別に、懐かれたくてやったわけじゃないんだけど……はぁ」
ため息を一つ、振り返ると仔狐の頭部を撫でる。
「仕方ないなぁ……お前が一人前になるまでだよ?」
わかっているかのように、嬉しそうに、仔狐は鳴いた。
「私の名前は――紫、ゆかりって言うの。覚えた?」
小首を傾げて問いかける少女――紫に、仔狐が鼻を擦りつけた。
くすぐったさに、思わず身を捩る。
「わっ、ちょっと、もー」
それでも、嫌な感じはしない。
◇
「獲物はね、こう取るの」
夕暮れの山の中、草むらに隠れた野ウサギに向けて、紫は忍び寄り、飛び掛かった。
見事な気配の消し方だったと思う。
自分では獲物の一つも獲れない仔狐にとって、それは流星のようにさえ見えた。
手の中で暴れる野ウサギに、小さな小刀で止めを差し、こちらに向かってくる紫を、仔狐は羨望の眼差しで出迎える。
「簡単よ、簡単。すっごく練習したらできるわ」
彼女の過去を、仔狐はよく知らない。
旅の道中に、何度か語ってくれたことをつなぎ合わせるしかできない。
曰く、私は一人で産れ、今日まで誰の助けも受けずに生きてきたと。
「最初の頃は全然捕まえられなくて、野草とか食べてたっけなぁ」
と、言って笑ったのをよく覚えている。
嬉しそうに、紫は野ウサギを捌きながら、ひく、と鼻を鳴らす。視線を向けると、その方向に野ウサギがもう一匹。
「そら、次はお前の番よ」
言って、紫は指を差す。
「教えた通りにやってごらん」
むちゃくちゃだと仔狐は思った。
けれど、できなければ自分は空腹で死ぬことになるのだろう。
一生お世話になることも考えたが、それは自分の矜持に反する。
こっそりと、気配を消すようにして、野ウサギを射程内に収める。
身を隠す草むらを揺らして音を立てないように細心の注意を払う。
それでも――
「ありゃ」
――気配の消し方が甘かったのか、飛び掛かる瞬間、野ウサギは姿を消してしまう。
それがどうに恥ずかしくて、仔狐は固まった。
「しょうがいわ、誰も最初からうまくいくわけじゃないんだから」
笑って言う、その言葉が、悔しいと思ったのだ。
「ほら、ご飯にしましょ」
紫も仔狐も、料理の仕方など知らない。
仔狐は当然のことで、しかし紫はその容姿から、人の村へは溶け込めない。
焼くのが精々であった。
「いっただきまーすっ!」
そんなものであっても、彼女たちにはご馳走に違いない。
肉を食べながら、紫は笑う。
よく笑う少女だ、と仔狐は思う。
「なに? しょうがないじゃない。私、誰かとご飯なんて、食べることなかったんだから」
見てみなさい、と空間に指を一本滑らせる。
そこに亀裂が奔り、裂け目が生まれる。
「なんでかなぁ、私、こんな感じの隙間を操れるのよねぇ……こんなだし、誰かと一緒に過ごせるだなんて思ってなかった」
そもそも、自分は人とは違うのだと、如実に思わされたのだ。
「まだ全然なんだけどね」
言って、その裂け目を消した。
「寿命も、きっと人とは比べられないし、きっとそういう存在なんだって自覚できるし」
独り言のように呟く言葉を、仔狐は静かに聞いている。
「お前も寿命が長ければ、飼ってやってもいいんだけどね……生憎と普通の狐みたいだし」
だからこそ、自然界で生きて行けるように仕込みはする。
けれどそれ以上の手助けはしない。
けれどそれで十分だとも思う。
「お前もそれでいいだろう?」
問いかけに、仔狐は顔を上げる。
小さく首を傾げる様に、紫は微笑んで、仔狐を撫でる。
「ふふっ、お前、私が怖くないかい?」
その問いには、答えられないというか、意味が分からないというか。
だから仔狐は、やっぱり首を傾げて紫を見上げるのみである。
「そうかそうか、理解できないのね――」
言って、紫は手を離す。
背中から離れていく手の暖かさを、仔狐は寂しいと感じた。
――そんな調子でも、月日が経てば、仔狐も成長する。
草むらから飛び出し、逃がす間もなく野ウサギを捉える。
喉笛を噛み千切り、止めを差す。
その獲物を咥えたまま、紫の前にやってくる。
月日が経とうと変わることのない姿に、仔狐は少し寂しさを覚える。
自分は少しずつ大きくなっているというのに、彼女は変わらない。
「すごいじゃない! これで一人前かしらね……?」
その言葉から思いだすのは、一人前になれば別れということ。
気づいた仔狐は、紫の足元に歩み寄り、身を擦り付け始める。
「ちょっと、もー、それは私も困るって」
困らせるつもりなどない。
けれど、寂しいのだ。
「ほらほら、ご飯にしましょうよ。初めてお前が獲った獲物だよ?」
笑って、仔狐の口から野ウサギを受け取ると、捌き始める。
自分の分と、仔狐の分。
しっかりわける。
それが自分たちの道を分けているみたいで、少しだけ気分が沈む。
「ん、そんなに寂しがらないでよ。会いに来るからさ」
やっぱり自分のことがわかっているように、紫は告げる。
「約束するわ。何度でも、お前が死ぬまで会いに来るからさ」
だから、これでお別れだと告げる。
「最初から言ってたじゃない。だから、また会う日まで、別に会えないわけじゃないのよ?」
いい聞かせるように、紫は言う。
「ほら、食べましょう。お肉、美味しいわよ?」
言って、いつものように笑う。
仔狐は、小さく鳴いた。
◇
去っていく背中に、仔狐は何度も何度も鳴き声を放った。
けれどその背中が振り返ることはない。
振り返ってしまったら、きっと自分は進めないことを知っているから。
◇
◇
「お前が母親になるとは、ちょっと想像もできなかったわ」
数年後、何度目かの再開の際、紫はそう言って笑った。
何年も経ち、大きく成長した仔狐は、もう仔狐と言えそうにない。
その足元には、数匹の小さな赤ん坊がじゃれついている。
そんな、成長する姿を、紫は羨ましいと思う。
「色々とさー、各地を巡ってみたわけなのよ」
言って、その場に座り込む。
ここに来る度に、紫は仔狐に自分の話をしていた。
それが、どんな些細なことでも。
それが、初めて一緒に旅をした仲間に対する、礼儀のような気がしたから。
「私ね、妖怪なんだって」
初めて知った、と紫は笑う。
「自分のことなのに知らなかったの、ちょっとおかしいね。でもね、色々わかってきた」
自分の力のことも。
自分たちの存在のことも。
「私たちって、とっとも強いのに、とっても弱いのね。忘れられたら忘れられちゃう」
寂しそうに言う言葉を、狐は黙って聞いている。
「お前たちには寿命がある。だから生きていける。でも、私たちにはそれがないの。わかるかなぁ。自分の存在をしっかりと認識してもらわないと、消えちゃうんだって」
それが怖いと、紫は言う。
「駄目だよねぇ、やっぱ、知っちゃうと怖いなぁ」
内心の震えを隠すかのように、紫はぎゅっと身体を抱き締める。
狐はそんなことはないと言いたかった。
自分が覚えているから。
ずっとずっと、これからの子孫たちも、覚えているからと。
言いたいのに言えない、自分の口を憎んだ。
「あははっ、大丈夫。でも、だからね、私、決めたの」
なにを、と返せない。
「妖怪のさ、楽園があればどんなにいいだろうって思うの。きっと、一年じゃ足りない、何年かかっても足りないかもしれないけどさ、いつか、そんな所ができたらいいなってさ」
まるで笑うかのように、鼻を鳴らした。
そうだ、まるで夢物語を語る少女のような顔が、どこかおかしかった。
顔を赤くして、紫は首を竦める。
「なによー、こっちは真剣なのに」
ならば自分は語り継ごうと思う。
かつてそんなことを思った妖怪がいて。
そしてそれを知っている狐たちがいることを。
子々孫々まで、ずっとずっと継がれていくように。
自分が継げて行こうと。
「ありがと、そっか、それじゃ、お前が私の理解者第一号だね」
言って、かつてのように近寄って、その背中を撫でる。
狐は目を細めて、かつてのように気持ちよさそうに鳴いた。
「あらら、こういうとこは変わらないのね」
それを見ていた仔狐が一匹、紫の身体をよじよじと登る。
「ちょ、こーら、くすぐったいってば」
しかし、すぐに違和感を感じる。
頭頂部でに陣取って、眠り始めるその仔狐に、どこか自分と似たものを感じたのだ。
「ちょっと、この子、なんか私の力、感じるんだけど」
知らない、と狐は思う。
もしかしたら、自分が彼女の近くにい過ぎたせいだろうか。
知らず知らずのうちに彼女の力を浴びていたからだろう。
まぁ理由などはどうでもいい。
彼女のことを知っている子が一匹増えただけのこと。
連れて行って欲しいと、狐は思う。
「えー、んー、あー、生きにくいよねぇ、こんな力を持った狐なんて。あー、どうしよっかなぁ……でも私の責任だしなぁ、あーもーわかったわかった。連れてけばいいんでしょ?」
それがいい、と狐は鳴いた。
鳴き声に起こされたのか知らないが、仔狐は唐突に目を覚ますと、今度は紫の服の中に顔をうずめた。
「あっはっはっ、ちょ、もー! お前の子供はいたずらっ子ね」
くすぐったさに悶えながら、紫はごろごろと転げまわる。
そんな所を見て、狐は笑う。
楽し気に、楽し気に。
◇
「それじゃ、お前の子供は責任持って預かるよ」
◇
◇
次の一年、狐は、そこで息を引き取った。
◆
「っふぅ、やっぱ下手くそになってるわね」
額の汗を拭い、紫は手の中の野ウサギを見る。
未だにじたばたと足掻いている野ウサギ。
「ごめんね」
呟いて、止めを差す。
「やっぱ自分の手で獲らないと意味がないものね」
自分がここに来る意味もなにも、なくなってしまう。
ここに来るまでに五羽。
手土産には十分だろう。
がさがさと山を歩き、ある一点で足を止める。
小さな広場になっているそこは、まるで山の中心に突然現れたかのような場所だ。
その隅に、小さな石が置いてある。
「出てきなさい」
一言、呟くように言うと、がさがさと草むらが音を立て、数匹の狐が顔を出す。
小さな仔狐も連れてだ。
「こ、今年は随分と増えたのね」
苦笑を浮かべ、これでは足りないかもしれない、と彼らの前に四羽を落とす。
群がってくる狐の前でしゃがみ込み、その頭を撫でる。
「まだ覚えててくれるのね」
彼らがここへきたことを思い、笑う。
さて、と息を吐き立ち上がる。
そのまま彼らと戯れるのも悪くないだろう。
けれど、自分の本命は別なのだ。
「久し振りね」
小さな石に声をかける。
名前もない仔狐だった彼女。
けれど、きっと代替のいない存在。
初めての仲間で、もうずっと古い仲間。
記憶の彼方に存在していて、けれどずっと覚えている。
「お前がいなくなって、何年も経ったけど、私、楽園を創ったのよ――って、この話、何度目だったかしら」
懐かしい夢を見てしまったからだろう。
いてもたってもいられなくて、藍が起こしに来る前に来てしまった。
今じゃ家は大騒動ではないだろうかと予想する。
たまにはいいじゃないか、と思うけども。
「紫さま―ッ!」
と、その背後に隙間が開く。
中から飛び出してきたのは、八雲藍。
まるで飛び掛かるかのように、紫の背中に向けて突撃する。
あらかじめ予想していたのか、それを受け止め。
「あら、藍、どうしてここまできたのかしら」
「それは紫さまがいつの間にか消えていたからですっ!」
頭を押さえつけられ、そこから進みようのないまま、藍は声を荒げる。
「それはごめんなさいね。でも、静かにね?」
唇に手を当てて、紫はこてんと首を傾げた。
「あ、はい」
まるで今までの怒りが霧散していくような気分を感じて。
「そういえばここ、どこです?」
「あー、そういえば連れてきたこと、なかったっけ?」
「知りませんが」
「そ、じゃ、今度から一緒にきましょう?」
「え、あ、えぇ……?」
ひらりと彼女を躱し、紫はその小さな石の前にしゃがみ込むと、野ウサギを置いた。
「ほら、あなたの娘は、今も元気よ?」
笑って、立ち上がる。
「さ、行きましょ、藍」
「あ、ちょ、もー、紫さま! 教えてくださいよ、ここがどこだか!」
「あはは、あなたも知ってる、覚えているかも怪しい子が、寝てるのよ」
まるで童女のように笑いながら、紫はスカートの裾を翻した。
その背中に、狐の鳴き声が。
小さく、こん、と鳴くのが聞こえた。
誰も知らない、誰かの昔話を。
いや、夢と言うには鮮明に過ぎるかもしれない。
けれど、それは確かに夢だった。
かつての過去。
泡沫へと消え去る小さな過去。
他の誰かにとっては、きっと拳程の大きさもないくらいの、小さな小さな。
狐がこんと鳴いた。
◆
「ゆかりさまー、ゆかりさまー」
とことこと九つの尾を揺らし、ぎしぎしと板を弾ませ八雲藍は縁側を歩く。
季節はとっくに春になっているくせに、自分の主人は一切目覚める気配がない。
寝坊助なのはいつものことだと、首を振る。
何年たっても変わらないこの作業。けれどこの作業は、別に嫌いじゃなかった。
春の訪れを如実に感じることができる。
春一番の風と、遠く冥界から吹き込んでくる花びらが、主人の目覚めを促しているようで。
「だからこれも、春の風物詩、と」
小さな呟きは、風に紛れて消える。
とことこ、とこ、と藍は歩みを止めた。
両開きの障子戸は、まるで鉄壁の要塞のように閉ざされている。
主人の安眠を守るべく、そこにそびえ立っているのだ。
向こう側の気配は薄く、やはり起きている訳もない。
小さく息を吐いた。
ため息――だが嫌いではない。
そこに込められたのは、とっとと起きろよこのやろう、などと罵倒交じりな思いではなく。
まったくしょうがないなぁ、と笑うように。
藍は障子戸の手をかけ、両手で思い切り左右に開いた。
すぱん、と大きな音を立て、暗い部屋に日差しが差し込んだ。
「ゆかりさまー、春ですよー、いい加減起きてください」
一歩踏み込む。
畳の柔らかな感触を足裏に感じながら、藍は踏み込む。
「ゆかりさま?」
そこで、違和感を覚えた。
部屋の中央に敷かれた布団は、ぺしゃんこだ。
さりとて主人の起きた気配はない。
まるで寝ていたまま、どこかに消えてしまったように。
急ぎ、布団へと近づき、その手を中に入れた。
――暖かい。
つまりそれは、先程まで主人が存在していたと言うこと。
「またどこかへ行かれたのか……?」
いや、そんなはずはないだろう。ここ数百年と冬眠から目覚めたら、真っ先に家族におはようと言った。
ここ数十年は藍が起こしていた。
だからこれは、間違いなく異常事態であったのだ。
「らんさまー? ゆかりさま起きました?」
とてっとてっ、と軽い音で床板を弾ませながら、少女が障子戸の端から顔を覗かせる。
小さな彼女は、橙と言った。
「――橙、紫さまを見てないか?」
「え? ええと、見てないですけど……」
「そうか」
言ったきり、藍は黙り込む。
主人はおらず、まるで――ああ、そうか。
かつての過去。
あったはずの、古い話。
昔話をしよう。
猫も狐も知らない。そんな、昔話。
◇
かつて、狐がいた。
小さな仔狐が一匹。
ふらふらと、地面を這うようにして歩いていた。
季節は曖昧で、意識ははっきりしない。
空腹であった。
どこからきて、どこへ行くのかもわからない。
獲物の取り方さえもわからない仔狐に待つのがなんであるのか、考えるまでもなくはっきりとわかった。
それでも歩くのは、きっと死にたくないから。
どれだけ歩いたのだろうか。
それさえもわからなくて、仔狐はそこで力尽きた。
足を丸め、身体を丸める。
これ以上の体力の消耗を、最小限にして、こんな状態でもまだ死にたくないと思って。
――だからそれがなんであるか、最初はわからなかった。
目の前に、肉が浮かんでいる。
まるで自分に見せつけるようにふるふると震えているような。
自分は美味いんだぞ、と言っているかのような。
考えることができたのはそこまでだった。
いつの間にかその肉に噛り付いていた。
口の中に広がる味。
今までのなによりも美味しかったと断言できそうなそれ。
「あら、そんなにお腹、空いてたんだ」
そんなだから、その瞬間までそこに誰かがいることに気がつかなかった。
見上げ。
さらりとした金色の髪が目に入る。
今まで見たことのない、髪の色。白い肌の、まるで違う世界から来たような服装の少女がいた。
ふわふわした、見慣れない服に、見たこともない傘。
そんな少女がしゃがみ込んで、こちらに棒を突き出していた。
一瞬、突きまわされるのではないかと考えが浮かぶが、そうではないと、続く行動で思う。
「ほら、まだあるから、そんなに慌てなくていいよ」
笑みを浮かべ、どこからともなく肉を取り出し、放り投げてくる少女。
まるで、神かなにかのように感じた。
がつがつと食らいつく仔狐を見て、やはり少女は笑うばかり。
しばらくして腹も膨れた仔狐ははたと気付く。
自分はこの少女の食べ物を、食べつくしてしまったんじゃないかと。
そう思い、視線をきょろきょろと彷徨わせる。
周囲はすでに山から外れ、どこかの道端であることがわかる。
人の声は聞こえず、気配もない。
どことも知れない、誰も通らない道端。
そうなれば、この少女はなんだろうかと思えてくる。
「ん? なによう? 別に気にしなくてもいいわ。私がしたかっただけだから」
まるでこちらのことを理解しているかのような声が、頭上から降る。
見上げると、傘を差して立ち上がった少女がいる。
「いいでしょ、これ。異国の商人からもらったの」
まるで自慢するかのように、くるくると傘を回して見せる。
「それじゃ、そろそろ行くわ」
別に行くあてがあるわけじゃないけど、と小さく呟くと、仔狐に背を向ける。
その背中に向けて、仔狐は小さく鳴いた。
「なによ……別に、懐かれたくてやったわけじゃないんだけど……はぁ」
ため息を一つ、振り返ると仔狐の頭部を撫でる。
「仕方ないなぁ……お前が一人前になるまでだよ?」
わかっているかのように、嬉しそうに、仔狐は鳴いた。
「私の名前は――紫、ゆかりって言うの。覚えた?」
小首を傾げて問いかける少女――紫に、仔狐が鼻を擦りつけた。
くすぐったさに、思わず身を捩る。
「わっ、ちょっと、もー」
それでも、嫌な感じはしない。
◇
「獲物はね、こう取るの」
夕暮れの山の中、草むらに隠れた野ウサギに向けて、紫は忍び寄り、飛び掛かった。
見事な気配の消し方だったと思う。
自分では獲物の一つも獲れない仔狐にとって、それは流星のようにさえ見えた。
手の中で暴れる野ウサギに、小さな小刀で止めを差し、こちらに向かってくる紫を、仔狐は羨望の眼差しで出迎える。
「簡単よ、簡単。すっごく練習したらできるわ」
彼女の過去を、仔狐はよく知らない。
旅の道中に、何度か語ってくれたことをつなぎ合わせるしかできない。
曰く、私は一人で産れ、今日まで誰の助けも受けずに生きてきたと。
「最初の頃は全然捕まえられなくて、野草とか食べてたっけなぁ」
と、言って笑ったのをよく覚えている。
嬉しそうに、紫は野ウサギを捌きながら、ひく、と鼻を鳴らす。視線を向けると、その方向に野ウサギがもう一匹。
「そら、次はお前の番よ」
言って、紫は指を差す。
「教えた通りにやってごらん」
むちゃくちゃだと仔狐は思った。
けれど、できなければ自分は空腹で死ぬことになるのだろう。
一生お世話になることも考えたが、それは自分の矜持に反する。
こっそりと、気配を消すようにして、野ウサギを射程内に収める。
身を隠す草むらを揺らして音を立てないように細心の注意を払う。
それでも――
「ありゃ」
――気配の消し方が甘かったのか、飛び掛かる瞬間、野ウサギは姿を消してしまう。
それがどうに恥ずかしくて、仔狐は固まった。
「しょうがいわ、誰も最初からうまくいくわけじゃないんだから」
笑って言う、その言葉が、悔しいと思ったのだ。
「ほら、ご飯にしましょ」
紫も仔狐も、料理の仕方など知らない。
仔狐は当然のことで、しかし紫はその容姿から、人の村へは溶け込めない。
焼くのが精々であった。
「いっただきまーすっ!」
そんなものであっても、彼女たちにはご馳走に違いない。
肉を食べながら、紫は笑う。
よく笑う少女だ、と仔狐は思う。
「なに? しょうがないじゃない。私、誰かとご飯なんて、食べることなかったんだから」
見てみなさい、と空間に指を一本滑らせる。
そこに亀裂が奔り、裂け目が生まれる。
「なんでかなぁ、私、こんな感じの隙間を操れるのよねぇ……こんなだし、誰かと一緒に過ごせるだなんて思ってなかった」
そもそも、自分は人とは違うのだと、如実に思わされたのだ。
「まだ全然なんだけどね」
言って、その裂け目を消した。
「寿命も、きっと人とは比べられないし、きっとそういう存在なんだって自覚できるし」
独り言のように呟く言葉を、仔狐は静かに聞いている。
「お前も寿命が長ければ、飼ってやってもいいんだけどね……生憎と普通の狐みたいだし」
だからこそ、自然界で生きて行けるように仕込みはする。
けれどそれ以上の手助けはしない。
けれどそれで十分だとも思う。
「お前もそれでいいだろう?」
問いかけに、仔狐は顔を上げる。
小さく首を傾げる様に、紫は微笑んで、仔狐を撫でる。
「ふふっ、お前、私が怖くないかい?」
その問いには、答えられないというか、意味が分からないというか。
だから仔狐は、やっぱり首を傾げて紫を見上げるのみである。
「そうかそうか、理解できないのね――」
言って、紫は手を離す。
背中から離れていく手の暖かさを、仔狐は寂しいと感じた。
――そんな調子でも、月日が経てば、仔狐も成長する。
草むらから飛び出し、逃がす間もなく野ウサギを捉える。
喉笛を噛み千切り、止めを差す。
その獲物を咥えたまま、紫の前にやってくる。
月日が経とうと変わることのない姿に、仔狐は少し寂しさを覚える。
自分は少しずつ大きくなっているというのに、彼女は変わらない。
「すごいじゃない! これで一人前かしらね……?」
その言葉から思いだすのは、一人前になれば別れということ。
気づいた仔狐は、紫の足元に歩み寄り、身を擦り付け始める。
「ちょっと、もー、それは私も困るって」
困らせるつもりなどない。
けれど、寂しいのだ。
「ほらほら、ご飯にしましょうよ。初めてお前が獲った獲物だよ?」
笑って、仔狐の口から野ウサギを受け取ると、捌き始める。
自分の分と、仔狐の分。
しっかりわける。
それが自分たちの道を分けているみたいで、少しだけ気分が沈む。
「ん、そんなに寂しがらないでよ。会いに来るからさ」
やっぱり自分のことがわかっているように、紫は告げる。
「約束するわ。何度でも、お前が死ぬまで会いに来るからさ」
だから、これでお別れだと告げる。
「最初から言ってたじゃない。だから、また会う日まで、別に会えないわけじゃないのよ?」
いい聞かせるように、紫は言う。
「ほら、食べましょう。お肉、美味しいわよ?」
言って、いつものように笑う。
仔狐は、小さく鳴いた。
◇
去っていく背中に、仔狐は何度も何度も鳴き声を放った。
けれどその背中が振り返ることはない。
振り返ってしまったら、きっと自分は進めないことを知っているから。
◇
◇
「お前が母親になるとは、ちょっと想像もできなかったわ」
数年後、何度目かの再開の際、紫はそう言って笑った。
何年も経ち、大きく成長した仔狐は、もう仔狐と言えそうにない。
その足元には、数匹の小さな赤ん坊がじゃれついている。
そんな、成長する姿を、紫は羨ましいと思う。
「色々とさー、各地を巡ってみたわけなのよ」
言って、その場に座り込む。
ここに来る度に、紫は仔狐に自分の話をしていた。
それが、どんな些細なことでも。
それが、初めて一緒に旅をした仲間に対する、礼儀のような気がしたから。
「私ね、妖怪なんだって」
初めて知った、と紫は笑う。
「自分のことなのに知らなかったの、ちょっとおかしいね。でもね、色々わかってきた」
自分の力のことも。
自分たちの存在のことも。
「私たちって、とっとも強いのに、とっても弱いのね。忘れられたら忘れられちゃう」
寂しそうに言う言葉を、狐は黙って聞いている。
「お前たちには寿命がある。だから生きていける。でも、私たちにはそれがないの。わかるかなぁ。自分の存在をしっかりと認識してもらわないと、消えちゃうんだって」
それが怖いと、紫は言う。
「駄目だよねぇ、やっぱ、知っちゃうと怖いなぁ」
内心の震えを隠すかのように、紫はぎゅっと身体を抱き締める。
狐はそんなことはないと言いたかった。
自分が覚えているから。
ずっとずっと、これからの子孫たちも、覚えているからと。
言いたいのに言えない、自分の口を憎んだ。
「あははっ、大丈夫。でも、だからね、私、決めたの」
なにを、と返せない。
「妖怪のさ、楽園があればどんなにいいだろうって思うの。きっと、一年じゃ足りない、何年かかっても足りないかもしれないけどさ、いつか、そんな所ができたらいいなってさ」
まるで笑うかのように、鼻を鳴らした。
そうだ、まるで夢物語を語る少女のような顔が、どこかおかしかった。
顔を赤くして、紫は首を竦める。
「なによー、こっちは真剣なのに」
ならば自分は語り継ごうと思う。
かつてそんなことを思った妖怪がいて。
そしてそれを知っている狐たちがいることを。
子々孫々まで、ずっとずっと継がれていくように。
自分が継げて行こうと。
「ありがと、そっか、それじゃ、お前が私の理解者第一号だね」
言って、かつてのように近寄って、その背中を撫でる。
狐は目を細めて、かつてのように気持ちよさそうに鳴いた。
「あらら、こういうとこは変わらないのね」
それを見ていた仔狐が一匹、紫の身体をよじよじと登る。
「ちょ、こーら、くすぐったいってば」
しかし、すぐに違和感を感じる。
頭頂部でに陣取って、眠り始めるその仔狐に、どこか自分と似たものを感じたのだ。
「ちょっと、この子、なんか私の力、感じるんだけど」
知らない、と狐は思う。
もしかしたら、自分が彼女の近くにい過ぎたせいだろうか。
知らず知らずのうちに彼女の力を浴びていたからだろう。
まぁ理由などはどうでもいい。
彼女のことを知っている子が一匹増えただけのこと。
連れて行って欲しいと、狐は思う。
「えー、んー、あー、生きにくいよねぇ、こんな力を持った狐なんて。あー、どうしよっかなぁ……でも私の責任だしなぁ、あーもーわかったわかった。連れてけばいいんでしょ?」
それがいい、と狐は鳴いた。
鳴き声に起こされたのか知らないが、仔狐は唐突に目を覚ますと、今度は紫の服の中に顔をうずめた。
「あっはっはっ、ちょ、もー! お前の子供はいたずらっ子ね」
くすぐったさに悶えながら、紫はごろごろと転げまわる。
そんな所を見て、狐は笑う。
楽し気に、楽し気に。
◇
「それじゃ、お前の子供は責任持って預かるよ」
◇
◇
次の一年、狐は、そこで息を引き取った。
◆
「っふぅ、やっぱ下手くそになってるわね」
額の汗を拭い、紫は手の中の野ウサギを見る。
未だにじたばたと足掻いている野ウサギ。
「ごめんね」
呟いて、止めを差す。
「やっぱ自分の手で獲らないと意味がないものね」
自分がここに来る意味もなにも、なくなってしまう。
ここに来るまでに五羽。
手土産には十分だろう。
がさがさと山を歩き、ある一点で足を止める。
小さな広場になっているそこは、まるで山の中心に突然現れたかのような場所だ。
その隅に、小さな石が置いてある。
「出てきなさい」
一言、呟くように言うと、がさがさと草むらが音を立て、数匹の狐が顔を出す。
小さな仔狐も連れてだ。
「こ、今年は随分と増えたのね」
苦笑を浮かべ、これでは足りないかもしれない、と彼らの前に四羽を落とす。
群がってくる狐の前でしゃがみ込み、その頭を撫でる。
「まだ覚えててくれるのね」
彼らがここへきたことを思い、笑う。
さて、と息を吐き立ち上がる。
そのまま彼らと戯れるのも悪くないだろう。
けれど、自分の本命は別なのだ。
「久し振りね」
小さな石に声をかける。
名前もない仔狐だった彼女。
けれど、きっと代替のいない存在。
初めての仲間で、もうずっと古い仲間。
記憶の彼方に存在していて、けれどずっと覚えている。
「お前がいなくなって、何年も経ったけど、私、楽園を創ったのよ――って、この話、何度目だったかしら」
懐かしい夢を見てしまったからだろう。
いてもたってもいられなくて、藍が起こしに来る前に来てしまった。
今じゃ家は大騒動ではないだろうかと予想する。
たまにはいいじゃないか、と思うけども。
「紫さま―ッ!」
と、その背後に隙間が開く。
中から飛び出してきたのは、八雲藍。
まるで飛び掛かるかのように、紫の背中に向けて突撃する。
あらかじめ予想していたのか、それを受け止め。
「あら、藍、どうしてここまできたのかしら」
「それは紫さまがいつの間にか消えていたからですっ!」
頭を押さえつけられ、そこから進みようのないまま、藍は声を荒げる。
「それはごめんなさいね。でも、静かにね?」
唇に手を当てて、紫はこてんと首を傾げた。
「あ、はい」
まるで今までの怒りが霧散していくような気分を感じて。
「そういえばここ、どこです?」
「あー、そういえば連れてきたこと、なかったっけ?」
「知りませんが」
「そ、じゃ、今度から一緒にきましょう?」
「え、あ、えぇ……?」
ひらりと彼女を躱し、紫はその小さな石の前にしゃがみ込むと、野ウサギを置いた。
「ほら、あなたの娘は、今も元気よ?」
笑って、立ち上がる。
「さ、行きましょ、藍」
「あ、ちょ、もー、紫さま! 教えてくださいよ、ここがどこだか!」
「あはは、あなたも知ってる、覚えているかも怪しい子が、寝てるのよ」
まるで童女のように笑いながら、紫はスカートの裾を翻した。
その背中に、狐の鳴き声が。
小さく、こん、と鳴くのが聞こえた。
誰も知らない、誰かの昔話を。
藍様大好きな私としては、十分に楽しめました。
殺生石にになるのではない、藍様の母狐とゆかりんの過去話。
その存在が、死を迎えても魂は受け継がれる。とても面白い話でした。
感謝、感謝。
藍さんとの出会いはいろいろと想像させるものがあって面白いなぁと思います。
この子の存在が今の紫に与えた影響は計り知れないと思いました
この狐がいなければ幻想郷そのものが作られなかったかもしれませんね
心温まりました