・この作品には色々と論議を呼びそうな要素が含まれています
・大量のif設定
・イデオロギー
・共産主義批判、あるいは資本主義批判
部屋の中に、フィルムが積まれている。次第にフィルムの山はかさを増してゆく。メリーは、そのうち一つを手に取る。
しゃらららら。メリーの指の中で、フィルムが回る。色あせたフィルムの中に、メリー自身が映っている。一瞬一瞬が刻まれ、ほんの少しの変化が全体の動きを作って、映像になる。
フィルムの中に映っていたのは、幼いメリー自身だった。カンボジア・プノンペン。昔の王族のような王冠を被り、金きらの飾りを身につけて、童舞に舞っている。あれは確か、踊りを見に行ったとき、着せてもらったものだ。幼いメリーは喜んで、訳も分からず舞ったのだ。
でも、変な話だ、とメリーは思った。ここに積み上げてあるフィルムは、私自身が燃やしたものじゃなかったかしら?
メリー自身、幼い頃にはそういうこともした。しゃららら、フィルムを送ると、次の場面がメリーの手の中にあった。軍隊の格好をして、銃を持っている。身体に不釣り合いなその大きさ。メリーは銃をぶら下げて、人々の労働を見張ってる。事実、メリーはそういうこともした。そう……文明の破壊者。クメール・ルージュとはそういうものだった。文明を捨て、過去を捨てた。貨幣制度を捨て、都市生活を捨て、写真や映画はもちろん、眼鏡さえ捨てた。書物は必要のないものだったからだ。名前も捨て、新しい名前を貰った。都市部に住んでいた人達は集団農場へと強制移住させられた。都市や文明は消滅し、農村だけが残った。人は全て新人類として生まれ変わった。そして旧人類を絶滅する戦いが始まったのだ。
めくるべきフィルムはもうなかった。ジャングルにいる幼いメリー自身がそこにいた。クメール・ルージュは、首都を追い出され、辺境のジャングルに追いやられた。そして、幼いメリーは、ゲリラ戦に明け暮れた。首都を追い出されても、旧人類絶滅の戦いは続いていた。いつまでも続いていた。
そして再び、しゃららら、と、フィルムが巡る。フィルムに移った姿は、一瞬一瞬の姿を刻んでいる。ほんの僅かな変化が、次の動きを作っている。一連の流れができている。
けれど、と私は夢想する。映像が一枚違えば、それは別のレイヤーではないか? メリーは手を伸ばす。そうしたら、すぐそこにある別の世界へ、手を触れられる気がする。例えば、日本のメリーから、1979年、カンボジアのメリーへ。
私……こと、大人のメリーは手を伸ばした。幼いメリーの首をつかんだ。幼いメリーは、抵抗もしなかった。
…………
「ねえ、蓮子。ホログラフィック宇宙論って知っている。世界は二次元でできている。ホログラフィック宇宙論とか、ホログラフィック原理とかいうのがそれ。世界はほんの薄い層(レイヤー)でできている。レイヤーが違えば見え方が変わる。そして、それらのレイヤーはすぐそばに隣接していて、手を伸ばせば触れられる」
…………
「初めまして。宇佐見蓮子さん」
「はぁ」
胡散臭いスーツの女に出会ったのは夜だった。大学を出て、一人、酒を飲もうとバーを探して歩いているところだった。人々は行き交い、通り過ぎていった。立ち止まっている私たちは、まるで無視されて、置き去りにされていた。
私はその時、とある理由のために、良い気分ではなかった。スーツの女に対してもぶっきらぼうに相手をした。女はそのことを気にする様子は見せなかった。
「宇佐見蓮子さん。逮捕します。令状もあるから。はい、19時ちょうど。確保」
「はい?」
女の背後から、警官が二人、すうっと生まれ出たように現れて、私の手首に硬質のものを押しつけた。手錠だった。どんなに時代が変わろうと、たぶん変わらない品物だ。古臭く、確実だ。私は逮捕されて、車の中に押し込まれた。警官と女に挟まれ、私は連行されていった。蓮子が連行。なんちゃって。うくく。笑っている場合ではない。
思い当たるふしがないこともないのが、困りものだった。
警察署へ連れられた私は、どのように考えるべきか、惑った。しかし、あるいはチャンスではないかとさえ思っていた。世界がきちんと回っているのなら、向こうから働きかけてくる。理屈の合わない物事があっても、やがては帳尻を合わせてくるものだ。これはそれだ、と思った。メリーを探すことができるかもしれない。
狭い一室へ通された私の前に、スーツの女が座った。警察という風情ではない。何か、別の職員のように見える。
「あんた、名前は」
「私? 私はそうね、咲子。志村咲子とでも覚えておいて」
「あんた、警察?」
「正確には違う。私は国家境界侵入対策課員に属しているわ」
「は?」
「要するに境界破りの対策員。あなた、境界破りをやったでしょ」
「境界破りに関する、憲法上の明文規定なんて存在しないと思ってたけど。あるのね」
「あなたの言う通り、憲法上は規定されていないわ。一般人は存在も知らない、もちろん」
「じゃあ、不当逮捕じゃないの? 訴えるわよ。それに、あんたの存在も妙だわ。一般人も存在を知らないものに対する対策員が、国家公務員をやっている。あんたの給料どっから出てるの? 経理はそれ、納得ずくで払ってるの?」
「あなたの疑問は至極真っ当なことだわ。でも、あなたは真っ当な世間に生きてはいない。あなたのやっていた境界破り……というよりも、境界を見ることそのものが、この世間では有り得てはいけないことなの。お分かり?」
「それが何の罪に当たるの?」
「境界破りは表向きには犯罪じゃない。あなた達のやってることも承知済みで泳がせていた。でも、ただ遊び回っているだけなら、何かをする気はなかった。でも、あなた達のやっていることが、社会に影響を与える可能性が出て来た。しかも、一人は我々の監視を逃れた。表向きの理由じゃ逮捕はできないし、罪も被せられない。表向きにはね。だから、別の罪がおっ被せられる。国家反逆罪とか、共謀罪とか、テロ等に関わる罪とか、色々」
「一生出てこれないくらい?」
「一生出てこれないくらいね。重たい、なんて思わないことね。大体分かっているんでしょう? あなたの相方が何をしているか」
さて、と私は考えた。どのように物事を考えるべきか? 境界荒らしの専門員がいるなんてことは想像の外だった。
政府の幻想対策の職員だなんて。普通の人間にはできないことを、どのように政府の偉い人に説明するんだろう。一般人の預かり知らぬ闇の中、謎の事件を解決する。まるで、漫画かアニメの世界だ。
しかし私は現実に逮捕されている。目の前にいる女は、どうやらその、嘘みたいな幻想対策の職員だった。職員が言うには、私やメリーの境界荒らしなんてのはとっくに承知していたらしかった。私たちの知らないところで世の中は回っている。出し抜いているのではなくて、出し抜かれていたのだ。
メリーに最後に会ったのは、一ヶ月前のことだ。最後にあったメリーは、『新世界を創造する』と言って消えた。とてもじゃないが、信じられなかった。しかし、メリーが消えて一ヶ月、こうして現実の方が追いついてきた。メリーの言葉ではなく、現実社会が、警察という姿をして、私に真実を教えてきたのだ。メリーは社会を変えようとしている。
一ヶ月前の私に、捕まる前にメリーの言うことを信じて、メリーを追え、と言いたい。でも、信じられる、そんなこと? 何かの冗談だって思わない?
信じられるはずがない。現実から遙かにかけ離れている。だけど、私はこうして逮捕されていて、どうやら、目の前にいる女はメリーのことを知りたがっていた。
私は、手錠をかけられた両手をテーブルの上へ置き、つっぷして、身体の中に溜まった息と、重たい泥のようになった思考を、全部吐き出す。
農村で畑を耕しているメリーを想像する。人々は皆笑顔をしている。身分格差もなく、貧富の差もない。服装や農具や釣具などに、文明の名残があるのみで、人々は物々交換以上のことはせず、日々の食事と寝床ばかりのことを考えて暮らしている。
メリーは笑っている。皆、笑っている。
メリーは新世界を創造すると言った。
果たして、メリーの言う新世界創造は果たして新世界なのだろうか。むしろ、新世界の創造というよりも、単なる世界秩序の破壊に思える。世界秩序を破壊してどうなることだろう。単に縄文時代や弥生時代の再来が来るだけで、ムラが生まれ、やがては政府機関が生まれて国になる。
歴史の時間を戻すことが、メリーの見た新世界の姿なのだろうか。
メリーの言うことが本当ならば……私は、メリーの言うことは全部嘘だと思っていた。境界が見えることは嘘じゃない。でも、メリーが私に語ったことは、突飛に過ぎたのだ。
私とメリーは、単なる境界荒らしの違法サークルではなくなって、世界秩序の破壊者メリーと、その一友人……もしかしたら破壊者の同胞……になった。
「考えは決まった?」
どのくらい時間が経ったか分からない。けど、スーツの女はそこにいて、私も現実にいた。現実で、時間が動いているならば、動かなければならない。
「話してくれる? あなたの相方のこと」
「情報を提供する代わりに、こちらにも要求があるわ」
あら、とスーツの女が首をかしげた。
「何かしら。でも、いいこと、あなたは逮捕されている立場で……」
「不当な逮捕ね。真っ当ではない逮捕なんだから、真っ当ではない取引もいいんでしょ。勝手に言うわよ。要求は二つ。こちらからも情報を提供する代わりに、私にも情報を与えて。メリーを追うのに必要な情報よ、そっちも願ったり叶ったりでしょう。それからもう一つ。私を自由にして。私にメリーを探させて。あなた達も、メリーを確保したいんでしょう」
咲子は口を閉ざした。どのような沈黙なのだろう? 咲子はたぶん、私を利用したいはずだ。メリーの言っていたことが本当ならば、咲子や、政府とかには、おそらく、メリーを追う方法はないのだ。私を利用する他はないのだと決めつけた。咲子が口を開く。
「いいでしょう。こちらとしては、あなたが相方を見つけてくれるのならば、それ以上のことはないわ」
この瞬間、私と咲子は運命共同体になった。目的は同じだ。メリーを見つけた後の目的は、違うかもしれないが。だから、一時的な運命共同体に過ぎないとしても、利用できる間は利用するべきだ。
私はメリーのことを話すために、口を開いた。どこから話すべきか。始まりは……始まりは、メリーの夢のことだった。
思えば、このことが全ての切っ掛けだったわけだ。半年ほど前のことに過ぎないのに、遠い昔のことのように思う。メリーは、幼い自分自身を殺す夢を見ると言った。あれは、メリーの力の目覚め、あるいは、社会を破壊し変革するという、メリー自身の欲望の目覚めだったのかもしれない。
…………
私は、唐突に、メリーの過去のことを何も知らない自分自身に気がついた。マエリベリー・ハーン。私の友人。二十歳ぐらい。何とかとかいう学問を勉強していて、不思議な目を持っていることが私との共通項。そのくらい。
例えば、外国の生まれだろうということは想像出来ても、具体的にどこの生まれかも知らない。両親は何をしていて、幼い頃は何が好きで、将来は何をやりたかったとか。考えれば、活動を始めてそれなりになるのに、私は全くメリーのことを知らなかった。
正確に言えば、気がついたのも初めてのことじゃない。何度か、思いついては、何となく聞きそびれたり、話のタイミングが微妙に外れたりで、今まで至っているだけだ。聞いて悪いことでもないだろうけど、今更のような感があった。
「ね。メリーってさ、どこの出身なの?」
「…………」
情景描写を述べると、ここは大学のカフェテラスで、学生がたくさんいて、それぞれが微粒子みたいにくっついたり離れたり、行き過ぎたりしていた。私とメリーは、テーブルの一つに向かいあって、次の授業までの時間を過ごしていた。私がそのことを話題に出してみたのは、本当に何気ないことで、ただ思いついた勢いで言っただけのことだった。
「メリーの両親って何系の人なの? アジア? ヒスパニック? ヨーロッパ系? 宗教は何を信仰してるの、クリスチャン? ムスリム?」
「何をいきなり聞くのよ。びっくりするじゃない。」
「だってさ。メリーのこと知らないと、困るでしょう。例えばユダヤ系だったらあんまり歴史的に言いにくいこともあるし、黒人系だったら黒人系で言いにくいこともあるし、クリスチャンだったら日曜に遊びに行こうって言いづらいし、ムスリムだったら豚肉のお店誘えないじゃない」
「こないだ徹夜でラーメン屋巡りした時に、豚骨ラーメン食べてたの、見たでしょ」
「とにかく、メリーに話したらいけないことを言ったら悪いから聞いてるの」
沈黙があった。メリーが喋らないから、そうなったのだ。話してはいけないこと、聞いてはいけないことだったのかもしれない。でも、生まれとか育ちに、メリーが気にすることがあったとして、話してくれないのは寂しくない?私は友達、友達以上だと思っていた。メリーが話してくれないというのは、そういうことなのだろうか。それとも、単に場所とかロケーションのせい?
沈黙に耐えられなくて、私の方から口を開いた。
「ね、メリー、私たち、あんまり自分のこと喋らないよね」
「そうかしら」
それで済む話なのかもしれなかった。メリーはあんまり乗り気じゃなくて、話したくないんだな、って話。まあ、いいか、と思った。それで話は終わりにしよう。メリーは話したくないんだから、気を悪くさせても悪い。
すぐさま、別の話を切り出すには、ちょっと空気が重かった。また、私達の間には沈黙があった。辺りばかりがうるさい。私はその辺りを見た。それで、何かしらの話題を見つけ出そうとした。共通の知り合いとか、何かしら変なファッションして歩いている奴とか。
「夢を見るの。私がいた。幼い頃、全世界の平等を信じていた私」
メリーが、唐突に言ったから、私はそれが何の話か、分からなかった。
「私は……」
私は、怒りがメリーの顔に、現れているのを見た。落ち着いているけど、静かに怒っていた。何に怒っているのか知らないけど、もしかして、私?
確かなことは、メリーは怒っていた。片肘を突いて、俯き気味に顔を伏せて、自分の中に閉じこもっていた。私は、どう話すべきか、何を話すべきか、惑った。学生の通り過ぎる繁雑さも、どこか遠くのことのように感じている。
「ええと、メリー?」
「何?」
メリーが顔を上げた。表情がうまく読み取れない。怒りは顔には表れていないように見えた。でも、私に感じさせないようにしているだけで、内側では怒っているのかもしれない。でも、何に? 私は何も分からなくて、それで困っている。
「メリー」
「何よ」
「次の授業、何だっけ」
私はちらりと時計を見て、授業の時間が近いのをいいことに、話題をそらした。
「知らないわ。蓮子とは別の授業でしょ」
「そっか。自分で見ないと」
へへ、と私は笑った。誤魔化しに笑った。私が誤魔化して笑って、機嫌を取らなきゃいけないことだろうか。でも、メリーは何かに苛立っているように見えたし、誰にだってそういう時はある。だから、まあ、大人の余裕を見せておいてあげようと思ったのだ。メリーはたまたまそういう時だったのだろう。寝起きにいきなり部屋の中でゴキブリを見てしまったのだとかそういうことだと、私は思ったのだ。大して大変な話とも思っていなかった。
それが切っ掛けだった。その日はそれで別れた。次の日になって、学校で会った時、メリーはいつもと変わりなかった。だから、安心した。誰かが怒っているというのは気にかかるものだ。それで、私もいつもと変わりない風を心がけた。
「今日、夜は空いてる?」とメリーが言った。試験前でもなければ、いつでも夜は空いている。見たいテレビもないし、誰かと夜を過ごすことなんてない。大学生だというのに、浮いた話もなくて、寂しい女だ。メリーもそうだけど。
「駅前で、バーを見つけたの。行かない?」
メリーにそう誘われると、うきうきして、行く行く、と答えたのだ。たぶん、そのときにはもう、メリーは話すことを決めていた。
「ねえ、蓮子。子供医者って知っている」
「子供の医者?」
「そう。昔、カンボジアで、クメール・ルージュという共産主義の集団がいた。その集団は革命を起こして、カンボジアの政権を倒すと、都市生活は悪いことで、古代の農村生活こそが崇高であるとして、原始共産主義を行った。それで、都市生活を行っていた人は悪い人類、旧人類であるとして、新人類に適応させるための再教育を行った。収容所へ強制移住させて、農村での生活を強制した。それで、逆らう人は誰も彼も殺したの」
「強烈な話ね」
「新人類の中でも、子供はエリートとされていた。子供は都市生活を知らず、毒されていないからというのがその理由だった。子供は兵士や、電気工事の教育を与えられて、国政に関わるようになった。そういった技術を持った大人達は、皆農村で再教育を与えられていたから。実務として、必要な部分があったのね。医者もその一つ。子供たちには資格が与えられて、病人には子供の医者が治療に当たることになった」
「ふうん」
「でも、子供にはもちろん知識はないし、きちんとした教育を受けて実践する時間的な余裕もなかった。それで、まあ、直接的な言い方をすれば、ど素人が病人に接するようなものね。子供達は、病人で実験しながら学んでいった。伝統的な飲み薬を使うことが多かったけど、時には飲み薬を注射したり、ほんの少ししか与えてはいけないような劇薬を大量に与えたり、腹痛のために切開を行ったりした」
「あほくさい話ね。古代の倫理が良いならば、病人はそのまま死ぬのが道理なのに、無用な苦痛を与えたりして」
「ええ、その通りね」
「昔は医療なんかも未発達だったから、子供のうちに死ぬ人が多かったらしいけど。今はそんなこともなくて、良い時代ね」
「ええ。……それで、子供の医者がいたように、子供の兵士もいたの。子供は、良い兵士だったわ。教育を素直に信じるし、命令には疑問を持たず、そのまま従う。戦場では、考えない兵士は良い兵士だから。大人達は都市の論理に毒されている旧人類だ、悪いものだ、と言われれば、そのまま信じた。収容所で告発される人を見つければ、森の中へ連れて行って、ためらいなく殺した。来る日も、来る日も……」
「残酷な話ね。どしたの、メリー。いきなり」
「それが正しいと教えられていて、疑問も持たなかった。ねえ、蓮子。私がその、クメール・ルージュの子供兵士だと言ったら信じる?」
私は、メリーが酔っているのかなと思った。ほんの少し、頭がおかしくなったかなとも思った。いつものことだ。メリーが夢の中の話をした時は、いつも頭がおかしいのかなと思うから。精神的な疾患も珍しい時代ではないし、そういうのをすぐ疑うのも、そう間違った判断ではないだろう。だが、メリーの目のことは知っているから、そこは疑わない。でも、あくまで境界が見られるだけのことだ。空間を移動、ましてや時間を移動するなんてことは、メリーにできるはずもなかった。
「ええとね、メリー」
「うん」
「この地球は、じっと止まっているように思えても、実際はものすごいスピードで太陽の周りを回っているわけ。それも、自転しながら。私達は重力があって、地球と一緒に動いているから、それを感じないわけ」
「何が言いたいの?」
「メリー、そのカンボジアのクメール・ルージュのことなら、どのくらい昔か知らないけど、その頃メリーはいくつ? 今のメリーが何歳か知らないけど、メリーが実際は70だか80かもしれないけど、それでも間に合わない年齢だわ。そうじゃなくて? 共産主義が流行っていた時代なんて……私が言いたいのはね、メリー。メリーには特殊な目があるかもしれないけど、時間の移動なんて不可能だということよ。もしも、一分でもその場所で、時間を遡ってみなさい。地球に置き去りにされて、空気のない宇宙空間に放り出されて死ぬ。そうでしょう」
メリーは軽く首を振った。私は、酔った勢いもあるし、ずっとメリーが喋っていたのだから、次は私のターンだと思って、まくしたてた。
「メリー、酔ってるのよ。そうでなければ、また何か新しいものを見たのね。だから、そういう考えが……」
「私にも分からないの。でも、私は1965年のカンボジアに生まれた。両親はヨーロッパ系だった。アジア人ではなかったけど、そういう人もカンボジアにはいたわ。日本人でも、クメール・ルージュに捕まって、その支配下に置かれ、崩壊後日本に帰った人もいる。私は幼い頃、クメール・ルージュに捕まって、農村へと強制移住をさせられた。それで、クメール・ルージュの指導を受けるうちに、次第に共感して参加し、そして崩壊と同時に解放された。それから後のことは、詳しいことは分からないけれど、私はアメリカに移住することになった。でも、アメリカは嫌だった。それで、私は日本に来たの。そのとき既に、私はこの時代に来ていた。何が起こったのかは、私にも分からない。でも、本当のことなのよ」
メリーは、そう言うと、手元にあったビールを飲んだ。酔っているとしても、その勢いは異様だった。あくまで、本当のこととして、メリーはそう私に信じさせたいのだ。私は腕組みして考えた。本当のことだと扱うとして、なら、証拠はあるの、と聞いたら、メリーは何と言うだろう。これが証拠だ、とカンボジア時代の写真でも持ち出してくるだろうか。それとも、兵士時代の銃? 首飾り? 飾りなんかは許されていないような感じがするから、農具か何かかもしれない。でも、それらを引っ張り出して来られたとして、どこまで信用できるのだろう。写真の加工技術は進んでいるし、農具や銃があったって、それがベトナムのものだかカンボジアのものだか、私には判別できないに違いない。
結局のところ、何が本当のことか分からないのだ。例えば、私の生まれが東京の元皇居のあたりであるとか、私の曾祖父とか、近所の年寄りはそれを自慢にしていたこととか、小学校ではガキ大将の側近みたいな立場にいて悪戯をして回ったこととか、中学校ではいじめがあって、それを黙って見ている自分に嫌気が差したとか、メリーに比べれば平凡だけど、私にも色々とあって、でもそのどれ一つも、私に本当だと証明できることはない。年寄りも、ガキ大将も、いじめをしていた加害者とか被害者とかも、用意したって、それが用意された別物でないとも限らないのだ。
本当のことは、ここにいる私と、私の視界に映っているものだけでしかない。嘘だろう、とメリーの過去を疑うことはできるけど……。
「私の話をしてもいい?」と、メリーに聞くと、メリーは頷いた。それで、今考えたようなことを、私は話した。メリーは表情に乏しい顔で、ただ聞いて、時折頷いたりした。
「考えたらさ」私は言った。「私、メリーの若い頃の話聞けて、嬉しいかも。メリーの昔の話聞くのって初めてだからさ。なんていうか……すごい、さ……大変そうな……って、私が言ってもいいものか……」
うん、とメリーは呟いた。すっかり、お互いにお酒も進んでいて、若干前後不覚の感があった。
「メリーもさ、もっと言ってくれて良いよ。言いにくいこともあるかもしれないけどさ。別に、楽しかったこと、喋りやすいことだけでいいし……。両親は、どういう人だったの」
「うん……」
メリーの反応は、酔っていて鈍いのか、それとも話しにくい話題なのか、計りかねた。聞いて悪いことだったかな、と思った。
「私の両親が、どんな人だったか、私、覚えていないの。私が告発した。二人とも森の中に連れて行かれて、それっきり」
今度こそ、私は言葉をなくした。何を言うべきか、私には分からなかった。カンボジア出身であることから、冗談で言っているのなら、これほど悪質な冗談はないだろう。もしも、後になって、「あれは冗談だった」とでも言おうものなら、殴りつけてやろう、と思った。
メリーは、その夜は、異様なほど杯を重ねた。私はなんだか冷めてしまって、そこまで飲む気分にはなれなかった。私は酔っ払ったメリーを担いで、私の家まで連れて帰った。
メリーと一緒に泊まることは、もう何度もやってることだから、今更何かしらの感情があることでもない。メリーをベッドに放り出して布団をかけると、私はソファーに寝っ転がって、予備の布団を引っ張り出した。
私は、ソファに寝転がってから、少し考えた。お酒で頭がぐるぐるしている。メリーほどではないけど、酔ったかもしれない。
メリーが怒ったのは、私のせいかもしれない。メリーの過去のことを知らず、無遠慮に聞き出そうとした。それで、聞き出したら聞き出したで、不機嫌になっている。メリーはそんな風に見るだろう。
とても、信じられるような内容じゃない。でも、本当に真実だとしたら、メリーは他に何と言うべきなのだろう。聞かれても、何も答えず、ずっとはぐらかしていくべきだろうか。そうしたくなかったから、話してくれたのじゃなかったか。
そこまで考えて、私は別の可能性も考えてみる。メリーは本当はショッキングな何か……例えば、両親を知らないことも、両親に捨てられてしまった過去があったからだ、とか。それで、メリー自身も真実を知らなくて、メリーの持っている特殊な目のせいで、境界の中の何かを見て、それに影響を受けて、自分がクメール・ルージュの生き残りだと信じた可能性だ。そういうことなら、私も納得ができる。しかも、メリーも本当だと信じているから、嘘を言ったことにはならない。
メリーの言っていることはとてもじゃないけど信じられない。でも、メリーは嘘を言ってないことは信じよう、と思った。勘違いかもしれない。何らかの思い違いの可能性は捨ててはいけない。
でも、その勘違いや思い違いのことは、明らかにされなくたっていい。本当のことだと分からなくてもいいし、本当だと立証しなくてもいい。メリーはメリーなのだ。ここにいるメリーが本当だし、メリーにもそう信じさせてあげればいい。もう少し何かしら考えたかもしれないが、私はその辺りで意識が途切れて、眠りについた。
夢を見た。それが夢だと分かったのは、目覚めてからのことで、そのときは突飛なことでも、夢だとは思っていない。夢っていうのは都合のいい品物だ。自分の知っている事柄を部分的に切り出して、繋げて映像を作り出す。
まるで人為的に作られたフィルムのように精巧で、何者かの作為を感じるかのようだ。奇妙に無音だった。音というファクターが、私の中に入っていないからだろう。その場所で、どういう音が鳴っているか、メリーから聞いてはいなかった。
鬱蒼とした森の中で、私はカンボジアにいるのだと思った。森からそれを想像したわけじゃなくて、たぶん、カンボジアだという情報は先にあった。完全に木々に満たされているというわけじゃない。人が住んでいて、時には人通りもある。道路になっている部分には、土が見えていた。
その、土の上に、メリーがいた。二人いた。
一人は黒い格好をしていた。ライフルを肩から提げている。金の髪が、不釣り合いなほどきれいで、その場に相応しくない華美さがあった。幼いメリーだ。幼いメリーは、こんな姿をしていたのか、と思った。
もう一人のメリーは言うまでもない。居酒屋でお酒を飲んでいたメリーだ。ただ、一つだけ異様な部分があった。表情だ。
それは純粋な怒りの表象だった。目を剥き、歯を食いしばって睨んでいた。幼いメリーを見た。幼いメリーは、無感動な目をしている。何も考えていないように見えた。その、細い首に、大人のメリーの指が食いついた。食いついたと表現するほかないほど強烈な力が込められているのが分かった。
どうするべきか、という惑いすら、私には浮かばなかった。本来異常なことだ。メリーの内側のことで、口出しすべき部分ではないのかもしれない。だが、私は即座に手を伸ばして、大人のメリーの身体を打ち払った。他に、どうすることも考えられなかった。
メリーは、幼い自分を殺したいほど憎んでいるのだろうか。大人のメリーが言った。
「それなら、蓮子がやってくれるの?」
そんな馬鹿な話が、あるはずがない。私に人殺しができるわけがない。私に手を汚させて、どうするつもりなのだろう。それとも、メリーは私に、メリーと同じ立場に立ってほしいのだろうか。メリーはきっと、何人も殺してる……。
メリーのためには、するべきかもしれない。メリーは、過去の自分を否定したいのかもしれなかった。私は、何と答えて、どうしたのだろう。私の記憶からは抜けている。夢が、きちんと終わらず、中途半端に覚めてゆくように、それ以上、夢の中身を覚えていない。
私が目を覚ました時、メリーはまだ眠っていた。半分布団をはねのけて、足を放り出した、アホみたいな姿だった。やがて、起き出してきたメリーに、夢のことを聞いた。
「ねえ、夢のこと、覚えてる」
普通ならばアホみたいな話だ。私の見た夢を、メリーが共有してるはずがない。平安時代じゃあるまいし。でも、メリーは特別だ。あれは夢じゃなくて境界の向こうかもしれない。
「夢? ううん、見ていないわ。見たかもしれないけれど……覚えてない。蓮子は何か、面白い夢でも見たの?」
そんな風に言うメリーは、いつも通りのメリーだった。昨日の、居酒屋のテンションでもない。普段通りで、何も変わったところは見せなかった。私は答えなかった。何て言えばいいだろう?
それからのメリーは、カンボジアのことを話すこともなく、私の方からもそんな話を俎上に乗せられるはずもなく、ただ過ぎていった。そうやって過ごしているうちは、私達は本当に気の合う友達どうしだった。メリーとは気が合うのだと思う。メリーが楽しそうにしていると、楽しかった。それで、メリー自身の話を、持ち出すのは遠慮したのだ。それで、メリーが傷付いているかもしれないとは思った。
メリー自身も、もっと話して吐き出したいのかもしれない。私の空気を読んで、口に出すのを憚っているのかも。だけど、私から話をするには、重たすぎる話だった。それで、以前通りの付き合いを保っていた。
…………
「ねえ蓮子、旅行に行くんだけど、一緒に行く?」
「え、いいよ。行く。でも私、お金ないよ」
「そうだと思った。そのつもりで、お金貯めたの。でも、おごりじゃないよ。とりあえず渡すけど、借金だからね。使ったお金、後で返してね」
メリーとのあれこれ、クメール・ルージュのことであったり、夢でのことがあったりした後、私はどうしてか、メリーと一緒になってカンボジアにいる。メリーは深刻な様子ではなかった。メリーはクメール・ルージュ関連の施設を見に行くのだ、と言い出すんじゃないかと思ったが、そういうわけでもなかった。
カンボジアの都市部はクメール語が多いのみで、東京や大阪ほどにビルは少ないが、日本の中規模の都市と変わりなかった。バイクと露天が極端に多いという印象を持った。
メリーが取った宿はやたら豪華で煌びやかなところで、やたら紳士やセレブなんかが歩いていた。バックパッカーに片足を突っ込んだような格好の連中は、私達くらいしかいなかった。私は信じられず、思わずメリーに「いいの、ここで」と聞いたほどだった。メリーはこの旅行のためにどれほど貯めたのだろう? 忙しく働いていたのは知っているけど、こんなに豪華な旅行をしたいならもっといいところがあるだろうに、と私は訝しんだ。やっぱり、メリーは変だった。そのくせ、妙な様子を見せないのがより怪しいのだ。
本当に、メリーは自然体で楽しんでいるように見えた。着いた次の日、私達は鉄道でアンコール・ワットに行った。汽車の中でも、景色を見たり、ご飯を食べたり、喋ったりしているメリーはいつもの通りのメリーだった。本当に、単に遊びに来たかっただけなんだろうか?
アンコール・ワットは巨大な宗教建築物だ。だが、今は観光地と言って良いと思う。観光地には無数にいる、動きやすい格好の、西洋人やアジア人たちの群れが、サングラスをかけて、写真を撮っている。観光客の姿があると、一度に歴史ある建築物も、観光地じみる、と私は思う。鉄道と三輪タクシーを活用してアンコールワットへと来た私達は、それを見上げた。森の中に、巨大な石が整然と並べられている。アンコールワットを見るに当たって、パンフレットを見て勉強した。いわく、古代クメール人の栄光を象徴する建築物であり、シルクロードを繋ぐ物流の地であり、その地にあって古代クメール人は大いに繁栄したという。
だが以後、カンボジアは大きな進歩をすることはなかった。仏教の影響が強く、国内では大きな内乱もなく安定していたが、変革とも無縁の時期を六百年近く過ごした。そして、東西冷戦に巻き込まれる形で、クメール・ルージュの台頭を許したのだ。
クメール・ルージュはこの都市を破壊した。共産主義の特徴の一つとして、古い権威を許さないということがある。クメール・ルージュもそれに従った。あらゆる文明を忌避すると同時に、宗教も忌避し、仏像の頭部を切り取って回った。
現在は修復されているとは言え、メリーもまた、破壊に手を貸した一人ではないのか? ……どういう意味合いで、この土地へ来たのだろう。植物の複雑に絡みついた仏像や、施設群は、一種荘厳な感じを伴ってもいたが、私にはそういう、素直な気持ちでは見ていられなかった。
夜になると、まるでセレブみたいな時間の過ごし方をした。夕食まで、私とメリーはプールで過ごした。子供みたいに、水をかけ合ったりはしなかった。軽く泳いだりはしたけれど、プールサイドでビーチチェアに寝転がって、カクテルを飲んで過ごしたりした。こういう、おしゃれなことをするのはらしくない、とは思うのだけど、郷には入れば郷に従えで、その場らしいことをするのは楽しいのだった。夕食も豪華だった。大理石の床に、周りは石造りの、水の流れる公園のような舞台装置に囲まれ、壁はなく、周囲が広く見渡せた。まるで、貴族か王様の立場のような食事だった。あんまりに豪華なので、「ねえ、大丈夫なの?」と私は聞いたくらいだった。名前も分からない、カンボジア風の料理が順々に運ばれてきて、肉とか、野菜とか、魚とかをこのあたりの地方のスパイスやら香草やソースで味付けされたそれらを食べながら飲んで、食事が終われば全身マッサージに大きなお風呂だった。なんだか、あまりにもあまりで、ひどく楽しく、ひどく浮かれた。
ベッドも、昨夜の通りで、素晴らしかった。棕櫚の編まれた素材の上に、ふかふかのマット。窓にはレースのカーテンがかかっていて、月の夜で、暑いけれど心地よい。なんだか、何もかもが素晴らしかった。
「ありがと、メリー。連れてきてくれて」と、そうでも言わなければ感謝が足りないほどだった。「いいえ、蓮子」とメリーは答えた。
メリーはベッドに腰掛けていた。私は、ベッドに全身を投げ出して、仰向けで倒れていた。メリーがここへ来た理由なんて、もうどうでもよかった。疑う気持ちなんてすっかりなくなっていた。
「楽しかった?」
「楽しかったなんてもんじゃないわよ。こんな旅行なんて、いつぶりかしら。メリーって、素晴らしい旅行作りができるのね。ツアコンにでもなったらいいんじゃないかしら……」
それもいいかもね、とメリーは言った。私は足を持ち上げて、振って、重心移動で勢いよく起き上がる。
「ツアコンは、ハードな仕事らしいけど。でも、旅ってなくならないものだし、いいと思うわ。突然放り出されるってこともないでしょ。昔はそういうの、大変だったらしいわよ。自動でプログラムを打ってくれる機械ができるまでは、プログラムは手打ちしてたし、それに自動車だって、自動運転が始まった頃は、タクシーやバスの運転手は大変だったらしいわ」
「なるほどね……」
風がさあっと吹いて、カーテンが揺れた。そのとき、メリーが何か、変貌したような気分がした。そんなはずはない。私は、強い拒否感を覚えた。メリーが変貌して、どこかへ行ってしまう気分がした。そんなはずはない! あんなに、楽しくやっていて、ずっとそんな風にやっていられると思っていたのに。
「ねえ、蓮子。ホログラフィック宇宙論って知っている。世界は二次元でできているという説。ホログラフィック宇宙論とか、ホログラフィック原理とかいうのがそれ。世界はほんの薄い層(レイヤー)でできている。レイヤーが違えば見え方が変わる。そして、それらのレイヤーはすぐそばに隣接していて、手を伸ばせば触れられる。
例えば、帽子を被っている私/帽子を被っていない私がいるとする。帽子を脱ぐという動作を経ると、レイヤーは入れ替わり、別の世界が表出する。帽子を脱ぐという情報が、そのレイヤーを切り替えるにすぎない。
私が生きている日本のすぐ脇で、妖異怪異がうごめく世界がある。それはほんの少しのレイヤーの違い。そして私は、どちらのレイヤーにもタッチできる。
私、こと、マエリベリーは、新世紀日本に生きている。だが一方で、1970年代のカンボジアに生きているマエリベリーもいる。それらは、時間が離れているとか空間が離れているとかではなく、同時で、ほんの隣にあるレイヤーっていうことなの。
一方に幼いマエリベリーが居、同時に大人のマエリベリーもいる。
……ね、蓮子。私、幼い私を殺す夢を見るの」
ああ、そう、と切り返すには、重たい話のように思えた。私は困惑し、黙り込んだ。
そもそも、メリーの言っている話は荒唐無稽に過ぎる感じもする。けれど、メリーの目のことも知っている。メリーの見る境界とは、『有り得た可能性』の世界なのだろうか。メリーの目には世界が層に見えていて、そこでは時空を超えることも可能だと言うのだろうか? 1970年代のメリーが、別のどこかへと移動を望み、現代へとレイヤーを超えてきた。理屈は通っているように思う。けど……。
「……知っているわ。私も見ていたもの」
「そうなの? ああ、でも、そうかもしれない。そう言えば、あの夢の中には、蓮子もいたものね。あの蓮子は本物だったのね」
メリーは嘆息するように息を吐き、ベッドに横になった。
「なら、こんなに気にすることもなかったのね。全部、嘘だと思ってた。でも、蓮子は知っていたんだ。言ってくれれば良かったのに……」
クスクス、クス、とメリーが笑う。
「あの時、私は分かった。幼い私の夢は何度も見ていたけど、本当に触れられたのは、あの時が初めて。レイヤーに干渉するなんて簡単なことだと分かった。そして、私自身を殺したら、全部終わりに出来て、全部精算できるような気がした。
でも、蓮子が止めた。……それで、私はそれも良い、と思ったの。何も精算することはない、ということ。クメール・ルージュの理想は生きているのだと思ったわ」
……なんだか、嘘みたいな話だった。
沈黙が、私とメリーの間を、巨大な壁のごとくに、遮っているようだった。風だけがさっきと同じように、レースのカーテンを揺らしている。さっきまではあんなに心地よく感じていた風なのに、今はこんなに冷たい。
「私がこのことを話そうと思ったのは……」
メリーは言葉を切った。続きを話すべきか、迷っているようだった。首を振り、言葉を切った。
メリーは続けた。
「……ねえ、蓮子。クメール・ルージュの話をしましょうか。どこまでは話したかな。都市部の人達は、農村地区の居住地へと強制移住させられた。そこでの暮らしのことを話しましょうか。
移住した人たちは、田畑を耕し、育つことに務めた。時には土木工事にも従事した。夜には集会があって、オンカーの理想を聞かされた。政府のために、とか、ポル・ポトのため、カンボジアのため、とかじゃなくて、オンカー(組織)のために、というのがスローガンだった。とにかくそれを聞かされた。文明社会を捨てた人民の社会の素晴らしさ、貧富のない未来社会の素晴らしさ。
食事はお粥だけ。一日に250グラムの米が与えられていた。それも、飢饉があると七分の一、十六分の一。最終的には二十五分の一になった。動けるものじゃないし、それでも働いていないと見なされると、食事を禁止された。新人類は働かずに食を得る寄生植物である、とオンカーは言った。食物を生産しない者は、食を得るに値しないと言う。
飢えに負けて、自生しているものを勝手に取ると、処刑された。罰はない。敗北したら、森の中へ連れて行かれて、それっきり。
集団疎開の居住地には、元々の知り合いはなくて、全く知らない人たちと家族関係にされて、互いに見張り合うように奨励されていた。隣人に秘密を漏らしたら、次の日には逮捕されている。密告に証拠は必要なくて、密告されるだけで逮捕、処刑された。反乱を企んでいると疑われたら、どこかへ連れて行かれて拷問を受ける。知り合いの名前を言えと言われて、知っている限りの親類の名前を言う。それで、挙げられた名前の人が連れて来られて、同じ事が繰り返される。クメール・ルージュ末期の、カンボジアの人口ピラミッドを見たことがある? 極端に高齢者と若者が多い、テーブル型の人工ピラミッドはそうやって作られた」
「メリー、もういいよ」
「ねえ蓮子、国のために大切なものは何だと思う? 私の考えでは、それは教育だと思う。世の中の理を教えて、社会の仕組みを知る、それで、自己実現に努める。ねえ蓮子、例えば、日本国憲法の十三条を知っている? 『すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。』いいことよ。国家とは何か、どのように成り立って、何のために存在しているのか。知ることは大切だわ」
「国家は、国民の必要としているものを代行する。国民の保護だったり、安全の確保だったり、怪我や病気の時の保証であったり、インフラ整備などの事業だったりする。教育もその一つ。
昔、教育は統一されていなかった。この国では明治から。武士であれば子弟教育を受けて、それ以外の子供はお寺で勉強を受けていて、教育を受けていない子も沢山いた。外国でもそうね。貴族階級の子供は家で教育を受け、教会が学校の代わりをしていたところもあり、義務教育というものはなかった。
学校が制度化されたのは近代になってからのこと」
教育が重要だというのは、メリーを見ていれば分かるような気がした。メリーは知識を与えられ、教育されているというよりも、洗脳されているように見える。けど、私は自分を振り返ってみれば、国家が正しいと何となく信じている。日本は良い国だから、と思っているけれど、私は日本の他の国を知らない。
でも、それはメリーも同じことだ。メリーはクメール・ルージュの教育を信じている。私はそれを思って、反論してみた。
「……でも、メリーはクメール・ルージュのことしか知らないわ」
「私は、オンカーが全てだと教えられた。全て組織のために。それ以外のことは、何もいらないわ」
「だったら、その組織だけのために、その組織とやらだけで、やっていればいいでしょう。他の何かを巻き込む必要なんて、ないでしょう」
「そういうわけにはいかないの。アメリカがどういうことをしたか、知っている?無関係のカンボジアに、ベトナムの兵が逃げ込んでいるという理由だけで、爆撃を行った。クメール・ルージュが生まれたのも、カンボジアが共産国家化したのも、ある種ではアメリカへの反発だわ。単に、共産主義、資本主義という対立で話をするつもりはないわ。現在、共産主義は滅びて、資本主義が確立された。でも、その結果はどう? 貧富の差の極端な二極化。巨大企業が国家を凌駕し、先進国企業による後進国家の乗っ取り。人間を労働力としか見ず、法に従ってはいても貧民層の不満は見て見ぬふりで、国家は企業に依存しているから、企業優先の法整備を行ってばかり。資本主義が完璧なシステムだとはとても言えないわ。問題をただ先送りにしているだけ」
「なら、クメール・ルージュが完璧なシステムだとでもいうの。皆が平等に貧しくなって、餓死寸前で生きてさえいればいいの。それは本物のディストピアだわ。信じられない!」
「私はそう教えられた!」
メリーは声をあげた。大きな声をあげるなんて、議論をひっくり返そうとしているのと同じだ。私は反感を持った、けど同時に、メリーに可哀相な思いも持った。メリーは追い詰められているのかもしれない。何のために? 私のために、それとも、メリーを覆う周囲のシステムのために?
「私はオンカーのためにと教えられた。ポル・ポトは敗北し、クメール・ルージュは崩壊した。でも、それは結果論だわ。本当は間違っているのかもしれない。百回やり直しても同じ結果かもしれない。でも、私はそう教えられたのよ。私がオンカーを失うならば、どのように生きるべきだというの。クメール・ルージュ、民主カンプチア以上の理想を、蓮子が教えてくれるというの」
メリーを批判する権利はない。私も、何も知らないからだ。正直な話をすれば、資本主義云々なんて考えたこともない。ただ、流されるまま生きてきただけで、何となく幸せだから何も考えていなかっただけだ。当然クメール・ルージュの理想も知らなければ、資本主義や共産主義の利点も知らない。そんな私に、国家経営の理想なんてあるはずもない。
「私には分からない、社会のことも、カンボジアのことも、クメール・ルージュのことも、……メリーのことも。じゃあ、メリーはどうするの?」
「私は……」
メリーは言葉を切った。「蓮子と……」と、メリーは私の名前を呼んだ。名前を呼んで、それから首を振り、顔を上げた。メリーは私を見て言った。
「文明を全て破壊し、資本制を破棄して、原始の社会に戻す。旧人類を滅ぼして、新人類で農耕生活をする。差別のない、完全な平等社会を作る」
本気で言っているの。
それから、何を話したか、覚えていない。ただ、帰ったらクメール・ルージュのことを勉強しようと思ったし、それから、ホログラフィック宇宙論とやらのこと、それから社会のことについて、考え直さないといけないと思った。メリーを本気で宥めるなら、資本主義よりも優秀な、それも実行して可能なシステムを目の前に示してやらないといけない気がした。私がもしそれをやれと言われたら、できる、と確信を持っていないと、メリーを説得できないような気がしたのだ。それで、メリーをなんとか宥めて、現実に居着かせたいと思った。メリーが本気なら、夢の中に入って行って、幼いメリーを殺そうとしたように、過去のカンボジアに居着いてしまうことだって可能かもしれない。今から眠れば、メリーと一緒にクメール・ルージュの中にいるかもしれないとさえ思った……本気で思った。でも、そうはならなかった。
目が覚めるとメリーは消えていて、メモと、飛行機のチケットだけ残されていた。メモには、『昨日はごめんなさい。先に帰っているわ。飛行機のチケットは渡しておく』と書かれていた。ああ、冗談だったんだ、と思いたかった。でも、そうは思えず、帰るべきか、私は迷った……けど、メリーが本当に帰っていたら、私が帰ってこなければ、気を悪くしたと思うだろう。私は、メリーの言っていることを信じたのだ。
日本にメリーはいなかった。いくらメリーを待っても、メリーは帰っては来なかった。私にできることは何もなかった。警察にはとりあえず言ってはみたものの、捜索願を出すことは出来なかった。親類であるとか、そうでないといけないらしかった。家族等に連絡を取ることも勧められたけど、メリーの家族も知らなければ、生まれ故郷も知らないのだ。メリーの言ったことを真に受けて、家族はどこ、なんて聞かれた時に、1970年代のカンボジアにいます、と答えたら、なんて言われるだろう?
私は、メリーのいそうなところを尋ねて回ったけど、常に虚しい感覚が付きまとった。自分は無駄なことをしているという感じがした。メリーは私の手を擦り抜けて、永遠に届かない遠くへ行ってしまったのだ。メリーの言っていることを信じれば、別のレイヤー、いわく、別の世界だ。まだ、地球の裏側ならば探しようもあるかもしれないけど。メリーを追って、メリーと同じような目を持っている人を探し、別世界のメリーを追っかける?それこそ、SFの話だ。私は徒労を繰り返した。
勉強は、常にそうだけど、徒労という感じがしなくて、私はそこに慰めを見出した。メリーに聞くまで大して知らなかったカンボジアのこと、クメール・ルージュのことだ。メリーの言っているような事柄はどうやら、概ね正しいようだった。東西冷戦に巻き込まれる形で王政が倒され、アメリカの意を汲んだ新政権が確立。だが、ベトナム戦争に伴ってカンボジアが爆撃を受けるにつれて反米感情が膨れあがり、ポル・ポト旗下のクメール・ルージュによって作られた国家が民主カンプチアであるらしかった。原始共産主義、都市生活を行っていた住民の重労働、虐殺、そしてポル・ポトの周囲への不信感、恐怖政治。ベトナムの支援を受けたカンボジア人による反クメール・ルージュ闘争、そして敗北。
映像も調べた。沢山の人達が、木の棒を担ぎ、土を運んでいる。いくつもの人の流れ、人、人、人……。土を担ぎ上げ、別の場所から別の場所へ運んでいる。これは、田畑を作り、米や食料を作るための大型ダム作りの現場だ。会社という組織もなく、トラックやショベルカーというものもない。人の力で、文明の発展に追いつこうとした。
大型のダムというものが、そもそもどの規模のものなのかというところから始まるほど、私の知識は少ない。だが、ダムを人力で造るとして、どれほどの時間がかかるものだろうか? 毎日毎日、土を運ぶ。あっちからこっちへ、掘り出しては持ち上げて、放り投げる。来る日も、来る日も。
ダムを生み出すという行為で、後世の人々は得をする。そのための礎と思うことが必要なのか?
労働をしている人の姿を見ただけで、全てを想像することはできない。ダム造りに従事する人達もいれば、別の労働をする人もいただろう。それに、ダム造りも永遠ではないし、その他の時間の使い方も分からない。
……要するに、勉強はしたものの、当時のカンボジアのことなど、何一つ分からないということだった。
勉強をいくら勉強したところで、理解もできなければ、メリーを説得する材料にもならない。そういう日々の中で、咲子は現れたのだった。
…………
私と咲子は、カンボジアの大地に立っていた。私にとっては二度目のカンボジアだった。入国する時は普通に飛行機で来たけれど、そこからは、車をチャーターしたり、あんまり大多数で動いたりだとか、目立つことはできない。人員も、私と咲子の二人だけだった。けれど、咲子の仲間の職員は、そこらで見えないように、うろついているのかもしれない。……でも、私は気にかけなかった。
私の相方、旅の道連れ、咲子は妙に自信に満ちた立ち姿をしていた。腰に手を当て、両足を大地につっぱり、カラフルなワンピースを身につけ、やたら巨大なサングラスで目を隠している。どういう変装のつもりなのだろう。
「さて、どうすんの」
「さあ?」
私は投げやりに言った。さあってあんた、と、咲子は私に言った。
空港を出ると、カンボジアは夜の中だった。とりあえず、空港の案内所である地名を挙げて聞いてみると、そこまで行ってくれるタクシーはないという。外へ出て、乗り合いのトラックを探し、相乗りで目的地へ行くことになった。
「どこに行くの?」咲子が聞く。
「クメール・ルージュが絶滅処理場にしていたところ。牢屋、拷問場、それから処刑場。今は観光施設にしているみたいだから」
「そこに、あんたの相方のいるあてが?」
「そんなものないわよ。勉強したけど、見たことはないし。実地で見て見ないことには」
「何よ。役に立たないなら、連れて帰るわよ」
ふん、と咲子は拗ねて顔を背けてしまった。私にもあてはないが、どのみち、咲子たちにもあてもないのだろう。ヒントは私の存在くらいだ。舗装されていない山道を、トラックはひどく揺れながら走った。相乗りしているカンボジア人たちは互いに喋ってはいたけれど、さほどうるさいという感じもしなかった。基本的には物静かな人達だった。
この人達にとっても、クメール・ルージュのことは、遠く過去の出来事だ。だけど、この大地には無数の死体が埋まっている。
私は、メリーと一緒にここへ来た時には、そんなことを考えもしなかった。クメール・ルージュのことなんて、悪い過去のことで見向きもしなかった。私自身避けていた。見つめ直さなければならない。メリーのためじゃなくて、私自身のために。
トラックは夜の中を、揺れながら走っていった。トラックの荷台の中で、私は時折まどろみ、時折ひどい揺れと衝撃のために叩き起こされた。カンボジア行きのジャンボ・ジェットとは、まるで違う乗り心地だった。
「ところで、私をあっさり解放していいの。メリーにあるように、私にも異能の目があるのに」
「ああ、あれ。別に異能でも何でもないわよ。人は星空や太陽、季節の進み方や風の吹き方から時間の進みを想像した。要するに、人は自然から時間を感じ取る能力がある。あなたは少しばかり勘がいいだけ」
「勘」
「そう。勘がいいから、時間をぴたっと当てられる。それだけ。でも、そうね。あなたの勘の良さは、役に立つかもしれない。あなたの相方が境界を越えて別の世界にいけるなら、境界を越えた時、時間が少し飛ぶかもしれないわ。僅かな誤差が生じ、それを感じ取ることができるかもね」
「ほんと? ……ところで、メリーに境界が見えるのは、メリーも勘が良いからなの?」
「勘がいいというより、思い込みの類ね。思い込みが強いから、その世界が本当だと考え、物理的に影響を及ぼすことができる。カンボジアと現代に同時に存在できるなんて、想像できる?」
「できない。……でも、ホログラフィック宇宙論ならそれを実証できるかも。でしょう?」
「ホログラフィック宇宙論なら実証できるかもしれない……から、信じられるかもしれない、というだけのことよ。自分を肯定したいがために、実証できそうな真実を探しているだけ。嘘を本当だと思うために、嘘の証拠を探している」
「ホログラフィック宇宙論は嘘?」
「実証されていないからね」
「メリーが実証するかもしれない」
「実証したら、それが既定路線なのよ。……このトラック、ひどいわね。もっといい移動方法はないものかしら」
その日の夜のうちには、辿り着かなかった。運転手のおじさんが知らない村で泊まり、トラックは動かなかった。当然ホテルなどはない。どういう交渉をしたのか、咲子が村人の家に泊まる手はずを整えて一夜を過ごして、到着したのは次の昼のことだった。
ひどく、腰が痛んだ。私の目指すクメール・ルージュの旧人類絶滅施設は、まだ先だ。
旧人類の絶滅施設は、元は高校の校舎だということだった。未来ある子供を育てるための建物が、惨憺たる拷問施設へと変えられた。今は、資料館になっている。
壁には、巨大な、カンボジアと周辺の地図が飾られている。地図でのカンボジアの領土は、人の頭蓋骨で象られている。
「場所が場所で、人種が人種ならば、ナチスドイツ以上に喧伝されているでしょうね。でも、死んだのは白人じゃなく、カンボジア人。ルワンダでも似たようなことがあった。そのときも死んだのは白人じゃない。それに、カンボジアもルワンダも、種を蒔いたのは先進国の人間」
「何が言いたいの」
「いいえ。あなた、あの相方の子に害されているのかなと思って。あなたが考えていそうなことを代弁してみただけよ。でも、事実は事実。私やあなたはどちらかというと部外者、第三者。端から眺めていられる立場だわ。あなたも、どちらかというと、蚊帳の外にいる気分なんじゃない?」
咲子の言う通りだった。どこか、冷めた気分で見つめている。オブジェを作るにしても、時代というものか、人の骨を使って飾るものでもない気がする。これは、残酷なことは見たくないようにしておこうという、日本人の考え方だろうか。
プノンペン郊外のキリング・フィールドには、木で出来た小屋のような建物があり、無造作に人骨が置かれている。町中にも、ガラスケースに入れられた人骨のオブジェがある。内戦下でのカンボジアでは、死体が捨てられていることなど当たり前だったのだろう。
私には、そのような状況など思いも寄らない。どのように考えるべきか、惑っている。傷ましく思うことさえ、どこか作り物のような、白々しさを感じている。
これは正しいことだろうか? 白人たち、内乱の種を蒔き、そして国際社会で影響の少ない辺境で起こっている出来事を無視し、無いもののように扱った先進国の人達。アメリカ人やヨーロッパ人だけではない。日本人だって、見て見ぬ振りをするというのでは同じではないか。私も同じではないのか。自分達の儲けだけを考えて、良くない影響を与えるものは見ないようにする。それで良いのか。私は、メリーをどうしたいと思っているのだろう。安穏と、日本人として暮らすように、メリーに説得したいのだろうか。
絶滅施設には絵画があった。人々は皆黒い服を着ている。過去を塗りつぶす黒が、クメール・ルージュ新人類のモチーフ・カラーとされたからだ。映像でもそうだった。あるいは兵士たちが、裸の農民を縛り上げ、連行する絵。首を締めあげて絞殺する処刑風景。施設には、拷問器具があった。かつて教室だった場所に置かれている鎖のついたベッド。足枷があり、電気のプラグがある。施設には、処刑室もあった。壁一面に、顔写真が貼られていた。無数の人、人、人。男もいれば女もい、年上の者がいれば若い者もいる。全て、処刑直前に撮られた顔だ。奇妙に無感動な顔を、レンズに向けている。
このように、クメール・ルージュは旧人類を絶滅し、新人類を作り、新秩序を作り上げようとした。こんなものは間違っている。私の中の善性が、目の前の出来事を否定する。メリーがこのようなことをしようとしているのであれば、止めなければならないと思う。
けれど、私はさっきまで考えていたことを思い出し、その二つの考えの間に立つ。私達の社会、資本主義の社会は、他国の事柄には無関心だ。そのようにして、自分達のことだけで良いのか。社会主義、全体主義の、他人の行動に踏み込みすぎ、違う考えの者は絶滅するというようなことも認められない。
どちらも、極端に傾けば良くないのだ、と言うのは簡単だ。中庸に過ぎて、耳障りのいい、常人ぶった意見。それは、私の常識を守るのには役立つだろう。でも、メリーを説得するには、とてもじゃないが足りない。
夜、安い宿を取り、咲子と一緒になって座り込んだ。
「あなた、隣に部屋を取ってあげたでしょう。どういうつもり? 夜も一緒に過ごしたいの?」
「いいえ。話がしたいと思って」
「疲れているんだけど」
お構いなしに、私は聞いた。
「メリーの言っていた、ホログラフィック宇宙論というのは本当なの?」
咲子はベッドに放り出していた身体を半分起こし、壁に背中を預けた。
「ふん。……ホログラフィック宇宙論ね。ブラックホールに吸い込まれた情報は、時間や光、空間の影響を受けない平面となる。それらは失われたのではなく、情報として保存され、そこから私達に投影されているという……いわば、ブラックホールに映る平面がこの世界という考え方になるのかしら。私も専門ではないから、どうやってそう飛躍するのか分からないけれど。……本当じゃないわよ。実証されていないもの」
本当かな、と私は訝しんだ。この女は何かを隠している感じがする。
「じゃあ、メリーはその理屈を元に何をしようとしてるの?」
「あなたが言われたことでしょう」
世界の変革、信じたくはないけれど、メリーの言っていたことは事実として、固定されつつある。私が認めていないだけのような感じだ。
「メリーは完全な共産世界を目指していると言った。原始共産制を完成させると。……でも、そんなことが可能なの? メリーは隣り合う平面の世界に触れられると言った。メリーは平面の向こう側に移動して、1970年代にいる幼いメリーを殺そうとした。あれが可能なの? 移動する程度だけではなくて、世界そのものを持って来ることができるの?」
「世界を持って来るというのは、微妙に違う。世界とは情報なのよ。例えば日本の京都という情報があり、行き交う人々にもそれぞれ個別の情報がある。それが投影されているということ」
「よく分からないな。なら、人は一人一人、それぞれの情報を見ているの?」
「一人一人、という個の感覚さえ、ないのかも」
「じゃあ、私は何? メリーの目に映る風景の一つ、情報の一つということ? 情報のために、私の自我がある……メリーがやろうとしているのは、個人の意志を含めて、情報、つまりレイヤー上の事柄を編集するということ? 情報を作り替えて、メリーの思うがまま、世界を作り変えられるということ?」
うーん、と咲子は首を捻る。「どんな風に説明するべきかしら」
「世界は既に完成されているの。世界とは情報なのよ。基本的には、記録されたものが世界なの。それは編集することはできない……映像として流されているだけのこと」
「だけど、メリーはカンボジアでの経験を話したし、実際に私も幼いメリーを見たわ。あれは夢だけど、私とメリーがそう思い込んだだけで、集団幻覚の症状なの? 全部、メリーの妄想?」
「違う。つまり、そうね。世界は一つで、世界は完成されているのだから。1970年代にはあなたの相方はいて、同時に、現代にもあなたの相方はいた。そういうことよ」
「訳分からないわよ。でも、もし、メリーがその、全世界の原始共産主義化を成功させるとしたら」
「そう。世界が変わった結果ではなく、それは決まっていた、ということになる。世界史を見てみましょうか。封建社会が終わり自由化が来て、資本主義が勃興し、共産主義と対立して、資本主義が勝利を収めた。そして、その次の歴史に、原始共産主義が刻まれる。それが既定路線だった……ということ」
私は溜息をついた。世界は完成されているのだとしたら、私のすることは全部徒労だ。全て、筋道の決まった映画を見ているように、キャラクターがどんなに努力しようと、全て流されて行くばかりだ。
「でも……じゃあ、あなたが追いかけても、無駄じゃないの」
「そう。それが分かっているとしても、国家と法律はあなたの相方を犯罪人とすることは変わらないし、あなたもその片棒を担いでることは変わらない。それに、相方が逃げおおせるのが既定じゃないかもしれないわ。私や、他の職員が捕まえるのが結末かもしれない」
この女の言っていることが、全て真実だとは限らない。また、この女が真実を語っているつもりでも、メリーとは見え方が違っているかもしれない。この女は、世界が固定されていないと困るんだ。それはそうだろう。この女は体制側の立場なのだから、世界が引っ繰り返されてしまっては困るんだ。
私は? ……私は今のままの世界で良いと思っているのか、それとも、引っ繰り返ってしまってもいいと思っているのか。
「それに、あなたも同じでしょう。例えあなたの相方がいなくなるのが決まっていることだとしても、あなたは最後まで追いかける」
そう、それだけは確実なことだ。
「もう一つだけ、いいかしら」
「もう一つだけよ。もう、眠いんだから」
「もしもメリーが、重なり合った別の層へ移動するとして、それのどこが問題なのかしら? 私達の現実には、何も関わってこないでしょう? メリーはどこかへ行ってしまい、私達は置き去りにされる……それだけのことじゃない?」
「ええ、それは未知数だわ。未知数だから、警戒している。そう、例えばあなたの相方は向こう側の世界で得た物を、こちら側の世界へ持ち込もうとし、その方法を見つけ出すかもしれない。それに、あなたの相方のように、別の世界へ行く方法を見つけ、技術として確立したらどうなるか? 皆別の世界へ移住して、この世界には誰もいなくなる……かもしれない。それは都合が悪いの、この社会を形成する人達にとってはね」
「搾取できる対象がいなくなったら困る、の間違いじゃなくて」
「どういう思惑で上が動いてるかなんてのは、知らないわ。私にも関わりのないことだしね」
「もう一ついい? あなたはどう思う? 別の世界について?」
「私は、この世界が好きよ。別に変わってほしいとは思わないし、別の世界へ行こうとも思わない。これで充分だわ。……給料高いし」
もう自分の部屋に帰りなさい、と咲子は言った。私は大人しく立ち上がって、自室へ戻った。明日は、どこへ行くべきだろう? と、いうよりも、私はどこへ行き、メリーをどこへ連れて行くべきなのだろう、と思った。
ひどく巨大なダムだった。ポル・ポトが人力で建設させたという、農耕のためのダムだ。これと似たようなダムをいくつも作り、農産事業を発展させようとした。本来、ダムは専門的な知識と技術の元、工業用車両を使って作られるものだ。それをポル・ポトは人力のみで果たそうとした。ダムというものの知識と効用を持ち込んだのは、ポル・ポトとクメール・ルージュの知識層だろう。人力でそれを作ることで、新世界としてのカンボジア、民主カンプチアの意義を示そうとした。複雑な道具や機械などもいらない、人の力のみで事業を成すことができるのだ、と。
クメール・ルージュのプロパガンダ映像が残っている。無数の、黒い服を着た人々が、肩に棒を担いだり、籠を持ったりして、土を運んでいる。向こうからこちらへ、掘り出した土を次々と積み上げている。ほんの一部の人が思うだけでは、この事業は出来ないだろう。無数の人を動かすことができてこそ、人力でのダム建設はできる。人力のみでダムを造るのに、八年の年月がかかったという。
事実そのダムは水量を安定させ、川下の農業地のために役立っただろう。一定の効果を見ることはできるが、しかし、その過程は褒められたものではない。無数の行き交う人々の中に、映像ではうまく隠そうとしているが、小銃を提げた子供兵士の姿が映っている。ダム建設は民衆を使い、強制労働の末に作られたものだ。一定のノルマを果たせなかった者には、食事の量を減らすか、食事を与えられないかという罰が与えられた。
この巨大な貯水池は、今でも使われているのだろうか? 後生に残るものであれば、微少であれ、意義はあったはずだ。それにより食事を得られる者もいる。しかし、その為に飢えて死んだ者も無数にいる。それらは、未来のための犠牲だと思うべきだろうか。クメール・ルージュ支配下の民主カンプチアそのものが。
「ねえ、湖を眺めてても仕方ないでしょ。この底にあなたの相方でも沈んでるというの?」
咲子は不満そうだった。私にも、行くべき場所なんて分からない。
私は黙ったまま、湖を眺めていた。
「……古いドキュメンタリーで見たわね、こういうの」
咲子がぽつりと、呟くように言った。風が吹いて、私達の髪を揺らした。
「ポル・ポトの理想なのかもね」
私も、応えるように、ぽつりとこぼすように言った。咲子に答えたわけでもなく、ただそう気付いただけのように思った。咲子が私の言葉を、敏感に捉えたのが分かった。私に注目し、言葉や動作から、私の真意を探ろうとしているのが感じられた。
「本気で言ってるの」
「本気で言ってるわけじゃないわ。でも、ポル・ポトの理想の根本は、カンボジアにあるわけでしょう。ルソー式の自然賛美と、レーニン式の共産主義を学んで、ここで実践しようとした」
私は、聞きかじりというか、付け焼き刃で学んだ知識と、想像を言った。それが正しい正しくないではなくて、自分の中で確かめたかったのかもしれない。
「自然が素晴らしい、自然な状態が素晴らしい、というのは、教えられる前から、ポル・ポトの中にはあったような気がする。田舎に行くと、安心した。ああいう感じ?
ポル・ポトはフランスの、都会の中で、理念を学んだ。そして都会を憎んだ。カンボジアは、祖国を理由なく攻撃された。ベトナムの反乱分子が潜り込んでいるという理由だけで、カンボジアは無慈悲な爆撃を受けた。無知な村人たちにとっては、災害にも等しかったでしょうね。何の理由もなく、空を飛ぶ化物が地上を壊していく。ポル・ポトは、それをしているのが、アメリカの都会に暮らしている人だと知っていた。アメリカの政府であり、アメリカの資本、アメリカの資産家、アメリカの国民」
「あなた、随分マエリベリーの肩を持つのね。あなたを自由にしておいていいのかどうか、不安になってきたわ」
「私もちょっとは勉強して、ちょっとは考え深くなったのよ。でも、だからって全部農村地帯にしてしまえとは思わない。京都は好きだし、都会も好きだわ。……そうね、ポル・ポトと同じ。私の根本には、日本があるのよ。皆、そう。皆の中に理念がある。言葉にはならないだけで。それは自分にとっては絶対的に正しいのだろうと思うけど、誰もがそうで、他の誰かの根本を奪うことは、誰にもできない」
私は、言葉を続けた。
「誰もが、自分の根本を言葉に出来なくて、でも、確かにあるそれを感じている。だから、それを言葉にしてくれる人が出て来た時、自分のもののように思って、代弁されているような気持ちになって、全身を放り出して従ってしまうものかもしれない。……でも、それって、皆、違うものなのに、一つのものにはできない。なんて言えばいいんだろう」
私はしばらく言葉を切った。ひどく暑くて、風が吹いていた。湖面が揺れて、半円状の波が生まれて、遠ざかっていった。
「信じたものは、最初は正しいと思って信じたとしても、やがて違うと感じることもあるでしょう。でも、一度信じたもの、自分の根本と同じだと感じたものが間違っていたとは、素直に認めることは出来ない。それで、終局的な破滅まで、突き進んでいくことになる」
メリーはそういうことなのかしら。破滅まで突き進まないと済まない。本来、メリーはカンボジアで死んでいて、終わりのはずだった。それが、特殊な目と力を持っていたから、ここへ来て、再び走り出そうとしているのかもしれない。
「愚かなこと」
「……そうかしら」
「そうよ。あなたの相方は間違っていて、間違った方向へ行こうとしている。彼女はなりは大人かもしれないけれど、気持ちは子供のままなのかもね。彼女はカンボジアに立っているのよ。1979年からずっと」
子供の時に、間違った教えを植え付けられたなら、それを振り払うことはできるのだろうか。自分が正しいと教えられたことを、根本から捨てなければならない。仮にそれをしたとしても、新しく教えられた知識や事柄、常識を疑うことになるだろう。この世界は正しいのか、という揺らぎの上に、メリーはずっといたはずだ。
私はどうするべきなのか、やっぱり分からなかった。メリーを導かなくてはならない、と思う。導く、そんなことができるのだろうか。
夜になって咲子の部屋へ行くと、鍵がかかったままになっていた。ドアノブをがちゃがちゃやると、押し込むようにロックが外れて、扉が開いた。中には咲子の姿は無かった。こそこそと、どこかへ出かけているらしかった。
朝になって、行く先を決めたのは咲子の方だった。移動手段は相変わらずのトラックだ。がたがた揺れる荷台の上で、咲子が私の耳に口を寄せた。
「あなたね」
咲子の口調は、説教じみていた。
「少しは、役に立ちなさいよ。そのために連れてきたんだから。あんたを、日本に戻したって別にいいのよ」
ふん、と私は思った。こっそりと、メリーと連絡を取るんじゃないか、と思っているくせに。
咲子に連れて行かれたのは、見知らぬ農村だった。道路のところだけが、車が通るために砂地になっていて、住居のほかはほとんどジャングルだった。比較的近代的な集落が中心にあって、そのほかは……原住民に近い、木でできた高床の家に暮らしている家があるのみだ。
中心地では、バーかカフェのようなものがいくつかあって、プラスチックでできたテーブルや椅子に着き、現地の人が数十人、テレビにかじりついていた。大人もいれば、立っていたり、しゃがみ込んだりしている子供もいた。
この田舎の果てのような場所に連れてきたことについて、咲子は何も説明はしなかった。バックパッカーを汚くしたような私はまだその場に馴染んでいるような気もしなかったけど、身綺麗にして勘違いしたセレブみたいな格好の咲子は、明らかにその場に馴染んではいなかった。注目を浴びる中を、咲子はさっとどこかへ立ち去ってしまった。私は一人で残された。昨晩の様子からして、咲子は何かを掴んだらしい。
咲子を追尾してみたけど、すぐに私はまかれてしまった。これじゃ、メリーの手伝いをして反社会活動をしようにも、活動家失敗だ。一人残された私は、そこらをぶらぶらして回った。まったく、これじゃ、暇潰しに来たのと同じだ。もっとも、日本にいたところで、メリーの手がかりは何もない。
私は、メリーの道連れで逮捕されて、こうしてカンボジアに来た。日本にいれば、牢獄で待っているだけのことだ。それよりも、メリーを探さなければいけないと思った。どこにいるかも分からないけど、ここにもいないような気分はしている。メリーはどこにいるのか、と考えれば、私の直感では、この現実にはいないような気がした。
ホログラフィック宇宙論にしろ、現実離れしている、と思う。私の知らないところで確立されていて、周知のものとなっているのかもしれない。秘匿されているだけで、私の知らないところで。でも、私の感覚からすると、現実離れしていた。あまりにも現実離れしている。メリーとお酒を飲み、メリーの生まれのことを聞き、メリーについてカンボジア旅行をしたときから、今までずっと。どうにも、これが本当の出来事とは思えなかった。
と、いうのも、私は……平淡に言うならば、メリーの言うこと全てに、ドン引きしていたのだ。平凡な日本人としての私としては、動機が何一つ理解できなかった。
だって、そうだと思う。日常を享受して、国民の義務を果たしていれば、平和で楽しく過ごすことができるのだ。それが日本という国家機構の恩恵を受けることであり、運営を助けることでもあった。
メリーはそうは思わないのだろうか。何年メリーが日本で過ごしたか知らないが、日本という安全地帯を好ましく思わないのだろうか。
メリーには何一つメリットはないように見える。メリーは、自分一人がそれを享受するのを、居心地悪く感じたのだろうか。メリーの中には、まだ、メリーが殺した人々や、理想を信じる人達がいて、その人達への思いが、メリーを全世界の原始共産化という、果てのない、無謀とも言える挑戦に走らせたのだろうか。かつての革命戦士たちは、自分たちが死んだとしても、後へ続く者達の礎になると嘯いたらしい。メリーもそういうつもりなのか?
もし、メリーが迷っているなら止めたいと思う。けど、そういう、現実的な話とはかけ離れている。メリーが本気になっていて、死ぬまでやるつもりなのならば、私に何ができるだろうか。黙って、見送ってやる他はない。その熱意も理解できなければ、その理想の世界も理解することはできなかった。とてもじゃないが、素晴らしい世界とは思えない。日本は資本主義の世界で、色々な歪みはあるかもしれないけど、だからといって生まれ故郷を批判し、破壊しようという気分にはなれなかった。これはもはや生まれの場所の問題で、どこに去秋を覚えるかという問題でしかないのだろうか。
メリーが革命をするとして、放置するほかない理由はもう一つある。メリーが望む全世界の原始共産化、それが可能ならば、ということだ。
メリーがもしも、それが可能なように世界が変えられるとすれば、の話だ。メリーは隣のレイヤーに触れて、物事を変えることが可能だと言った。実際、理屈は分からないが、それはタイムスリップを可能にしている。過去へと移動し、未来を変えてしまうことも、あるいは直接現在を変えてしまうことも可能かもしれない。別の世界へ移って、原始共産化されたところで永住するかもしれない。
もしもそれができるならば、私にできることは何もない。メリーはすでにそこへ行ってしまっていて、私にできることは何もない。
私のしていることは、何もかも無駄かもしれなかった。現実味がなく、だけど、全部が嘘だとも言えず、どっちつかずで、私はここにいる。メリーはそこらにいて、ひょっこり現れたりとか、あるいは、良くない考えだけど、逮捕されたり、あるいは死んでしまっていたりということを考える。物事には、流れがあって、ストーリーがあるように、全て決まっているとしたら、どこかに終わりはあるはずなのだ。メリーが世界をいじれるのならば、それはなくなるが、そうでないとすれば、どこかで決着がつく。
私は、何らかの決着を望んでいるだけで、メリーをどうこうしようという気はないのかもしれない、と唐突に思った。どうやってメリーを導くつもりでいるのか、私自身にも分からなかった。
要するに、私はメリーというものの、本当の姿を知りたいだけなのかもしれない。
咲子が迎えに来た時、私は膝を立てたまま座って、首を膝の間に突っ込んで項垂れていた。とてもくたびれていて、夜を迎えようとしていることだとか、どこで泊まるのだろうとか、そういうことは考えなければいけないけれど、考えて行動することさえ億劫になっていた。
私はどこか知らない民家に放り込まれて、知らない人に案内されて、むしろの敷かれた床で寝た。咲子が用意してくれたのだから文句を言えないのだろうけど、良いホテルとは言えなかった。ホテルというより、ホテルなんてないのだろう。民家を借りたに過ぎない。どういう手続きを経てるのか知らないけど、なんだか、こうしているうちに全て終わっていきそうだった。
現地の人と仲良くなった。現地の人と並んでテレビを見たり、そこらをうろついて見学をしているうち、向こうでも観光者なのだ、と納得するようになったらしい。
クメール語はさっぱり分からない。なので、何か言われても、とりあえず分かるだけの英単語や、時には面倒になって日本語で返していたけど、理解し合えなくてもコミュニケーションを取っているということだけは分かるもので、時には長いこと、分からないままに、話し込んだりもした。
英語が分かる人を見つけて、単語だけを並べてなんとか対話してみた。そうすると、ここにはかつてクメール・ルージュに参加していた人達がいる、一部のグループがここに棲み着いていて、その子供達も暮らしている、というようなことも聞いた。クメール・ルージュの残党は、今では世の中をどうこうというつもりはないけれど、今でもポル・ポトとクメール・ルージュを信奉していて、参加したことを誇りに思っているという。そういうものかもしれない。素朴な農耕生活をして過ごしていた人達が、理由なく大国どうしの闘いに巻き込まれ(当然冷戦だとか、そういったことは分かっていなかっただろう)、そして、そうした暴力へ対抗するために得たイデオロギーなのだ。全く理解が及ばない世界の事柄に答えを用意し、対抗する方法を教えたのが当時のポル・ポトだ。良きにしろ悪しきにしろ、イデオロギーはそういう力を持っている。熱を持ってのめり込み、信奉するようになるのも分からなくはない。
元、クメール・ルージュの人達や、その子供や孫達も、それで差別を受けることもないようだった。たぶん、大多数のカンボジアの人達にとっては、他の政府に感じるのと同じような感じしか受けていないのではないだろうかと、私は想像した。資本主義者、あるいは同じ共産主義者、あるいは知識人。あるいは資本主義の他国は、クメール・ルージュを批判する。だが、カンボジアの農村に住む、直接被害を受けたわけではないカンボジア人にとっては、そういうことは重要ではないのだ。被害を受けた都市部のカンボジア人にとってはたまったものではないだろうが、当時には……そして今でも、クメール・ルージュとポル・ポトを信奉する人はいるのだ。
クメール・ルージュの信奉者がいると聞いて、咲子がここへ来た理由が分かった。咲子はここにメリーが潜伏しているのではと思い、調べているのだ。それにしては咲子の姿は派手に過ぎるけど、まあ、咲子は囮なのかもしれない。他のエージェントもいるのかも。
それからしばらくして、私は川の水の浄化を試していた。ビニールをもらって、木の枝で四方に足を作り、コップに入れた川の水を下に置き、蒸発した水を集めて別の入れ物に入れるのだ。昔、サバイバルの雑誌に書いてあった。実際、できるのか半信半疑だったけど、一時間、二時間と待つと、雫がこぼれてくるようになった。一滴、二滴。これがいっぱいになるのにはどのくらいかかるだろう。
川の水は、たぶん飲めない感じがした。現地の人なら慣れているかもしれないが、都会暮らしの私はお腹を壊してしまうだろう。京都にいれば、水は蛇口を捻るだけで出てくる。それはインフラが整っているからだし、インフラを整えるための税金を払っているからだ。ここではそういうものはない。水を飲むには水を買わなければいけない。
私の持っている知識は、文明と言えるかもしれない。危ない水を真水にして飲めるようにする技術だ。文明は偉大だと思った。渇きに耐えかねて川の水を飲み、お腹を壊して、死んでしまうかもしれない。
そうしていても、なかなか水は溜まらなかった。私は買ってきたペットボトルの水を飲んで、しばらく横になって待っていた。子供が集まってきて、それが何かと興味深く眺めていた。子供はいい。言葉が通じなくても、なんとなく分かる気がする。子供は私を眺めて、この異様な奴はどこから来た、何者なんだろうと思っている感じがした。私の側でも、この少年少女たちは何者だろうと思ったりした。クメール・ルージュは子供を重要視した。村を周り、理想を説いて、共感した子供達をクメール・ルージュに参加させていた。
子供だけでなくて、大人も来た。私に何か伝えたいことがあるらしかったけど、言葉が通じない。英語ができる人が来て、私に伝えた。村の外れで地雷が破裂して、ここに来ていた日本人が死んだ、と言った。
大昔には、ベトナムに対抗するため、クメール・ルージュが大量に埋めた地雷が国内に残っているということは知っていたけど、今でも残っているものだろうか。ほとんどは、国連などの協力によって取り除かれたはずだ。それを踏んで、咲子が死んだ? あるいは、咲子は処理された? 何者かによって?
……何が起こっているのか、分からなかった。咲子が殺される理由は何もない。単なる事故でないのなら、殺されたのは、咲子を邪魔に思っている人間がいるからだ。メリーがここにいて、クメール・ルージュの残党と一緒になって、咲子を殺した。それは恐ろしい想像だった。メリーが人殺しをするなんて。だけど、それがメリーのやろうとしていることだ。メリーが行動を起こせば、反対する人達を殺していかなくてはならない。世界の原始化など、多くの人が反対するだろう。都会に暮らしている多くの人は、川の水など飲めない。身体を弱らせれば、多くの人が死ぬだろう。反対が出るのも当然だ。
夜になって、私はむしろから身体を起こして、立ち上がった。家の人に悪いから、音を立てないように家を出た。家の先にはスコップが置いてあった。
死んだ日本人は埋めた、と聞いた。私はスコップを拝借して、ジャングルの中を進んだ。どこに埋めたかなんて聞いていない。
私はとにかく、ジャングルの中に土の地面を見つけると、スコップを突き刺して地面を掘った。咲子を掘り返したところで何の意味もない。私は、もう一つの可能性を考えたのだ。死んだのはメリーかもしれない。咲子が、メリーを殺したのだ。その可能性はあるかもしれない。ここに、ボリビアの軍隊によって埋められたゲバラのように、メリーも埋められているかもしれない。
私は、死んだのがメリーかどうか確かめたくて、とにかく掘った。ジャングルの土を掘ると、死体が出て来た。けど、それはメリーじゃなかった。ここらでは、地面を掘れば死体は出てくる。私は死体を全部掘り出すと、骨をきちんと並べて、再び埋める。穴を掘り、死体を見つけてはまた埋めてゆく。なんで、掘り出しては埋めるということをしているんだろう? 私は空を見た。午前二時四十五分……。ここが二時なら、京都は十一時くらい……?
そうしているうちに、この死体はメリーではないか、という気持ちがしてきた。穴に横たえた死体は、別世界、あるいは過去へ行ったメリー、あるいはここにいるのとは別の、幼いメリーではないかという気分がした。メリーは一人ではなくて、無数にいるのだという思い込みが私の中に生まれた。穴の中に横たわった死体は、幼いメリーの姿をしているように見えてきた。幻覚かもしれない。肉体的疲労があり、精神的にももう限界かもしれない。こんなところへ送られて、私は何をしているのだろう。
幼いメリーは、眠っているように綺麗な顔をしていた。これは、掘り出してはいけないものだ。私の知っているメリーとは違うものだ。メリーは一人であって、それ以外の存在がいるとなると、現実が揺らいでしまう。私の知っている現実を取り戻さなければならない。私は、幼いメリーに土をかけ始めた。背後から、誰かの声がした。
「ここらは、地面を掘れば死体が出てくるのよ」
私は、背後を見るより先に空を見上げた。時間が回る。星が尾を引いて、円を描くように伸びてゆく。長時間露出で撮った写真のように、空が光の線で満ちていく。
「この国で暮らすとき、人の死を踏みつけにしている。再び行われてはいけないことだわ。私はそれを学んだ」
星空がやがて、一つの地点に固定される。似たような空の形だ。だが、午前二時四十分。時間が巻き戻っている? 違う、そうではない。別世界への境界を超えたのだ。メリーは既にこちらのレイヤーにおらず、別のレイヤーへと移動している。私はそちら側のレイヤーへ来た。咲子は、私の目があれば、時間の移動、別世界への移動を察知できるかもしれないと言った。だけど、その時、知っている知識の中から、現実に起こりそうなことを選んで自分を納得させるとも言った。そのどちらだろう? 私が見ている物は、本当のことなのか、それとも嘘なのか。
「独裁者の話をしましょう。人の時間は有限であり、知識や情報も有限である。全てを知ることはできないし、そして、人には人の心を知ることはできない。
独裁者は、国家を支配しているつもりでいても、実際には部下の心一つ支配することはできず、あらゆる事柄を自分自身で見聞することもできない。だから部下達に都合の良い、嘘の情報を教えられて、正しい統治ができず、本人も疑心暗鬼に陥る。
国家の話もしましょうか。狩猟があり、農耕があり、交易があり、戦争があって、人々の生活があった。統率し、それらの便宜を図る代わりに、運営のための資金や労力を募る。権利と義務という、契約関係が生まれた。村単位だった社会がやがて町になり、国家となっていった。
自然の中で、獣ですらグループを作り、リーダーを作る。人も獣の一つだし、文明を持っていようともそれは同じ。けど、完璧な統治が行えるはずはない。完璧でないにしろ統治が生まれ、やがて統治は機構となり、国家という枠組みができる。新しく生まれた人は、国家という枠組みに組み込まれていくようにできている。
人は一人ではない、けれど、人と交わると集団になる。国家とは集団のことよ。他人と比べることは止められず、幸福は個人のものから他人との比較から生まれるものに変わる。
不可能なことなのよ。国家というシステムを用いて、人を幸福にしようというのは。幸福な人の割合を増やそうということはできる。しかし、完全な社会はない。というよりも、この世に完全というものはない。いくら別次元へと移動しようとも、ないものはないのよ」
その演説を、私に聴かせて、どうしようというつもりなのだろう。じゃあ、だから、何だというのだ。メリーは何のために帰ってきたのだ。それを知った上で、まだ決意を新たにして、どこまでも邁進しようというのだろうか。死ぬことで、理想を完成させようとでも言うのか。
メリーは、幼いメリーのままなのか。だから、この国にいるとでも言うのだろうか。そして、クメール・ルージュと同じことをもう一度やろうと言うのか。
メリーは何も言わなかった。沈黙が、答えのように思えた。
エンジンの音が聞こえて、車のヘッドライトが光った。いやというほど乗ってきたトラックだ。私達を照らして、やがて私達の隣へと止まってアイドリングした。私達の場所は、再び闇の中に戻った。メリーはトラックを振り返ると、タイヤに足を乗せてよじ登った。私を振り返った。私は、一歩を踏み出して、メリーに続いた。トラックに乗る時、メリーが手を差し伸べてくれた。
私はそのとき、トラックの荷台に、もう一人の住人を見つけた。暗くて、よく見えない。
「私はね、蓮子。いくつもの世界を巡ってきた。私は隣のレイヤーへと手を触れることができた。望むままに世界を作り替えることができた。無血のまま、原始共産主義を完成させた世界があった。元来、資本主義社会も世界の流れの中で生まれたもの。共産主義的な素養を持った世界があれば、原始共産主義のままの世界もある。私はそれを選び取った。
でも、本や知識がなくなっても、人は経験則から知識を溜め込んでゆき、知識のある親とそうでない子供には差が生まれた。
また、人々が獣同然の時代にも行った。そして、そのままの体制を維持することができればと思った。けれど、獣のままに管理するためには、また組織や国家が必要だった。
でも、現代社会のような歪みはない。それで満足すべきだったのかもしれない。だけど、私には隣のレイヤーが見える。
隣のレイヤーが見えるということは、幸福なことではなかったわ。無数のレイヤー、無数の世界の中で、資本主義的な貧困にあえぐ人達がいて、その人達は、常に私の指先に触れている。
獣のような、あるいは原始的な生活をしている人達は、それぞれ不幸はあっても、システム的な苦痛はなかった。けど、同時に、それらは薄い層で隔てられただけで、いくつもの不幸と重なっていた。そう。私が、あの頃のメリーと同時にここに存在しているように。
私が全てを置き去りにして幸福な世界を作ったとしても、置き去りにされた人々が貧困にあえぐことは変わらない。全ては、私一人の頭の中の妄想と変わらない。お人形遊びをしているだけのことだわ」
走り続けるトラックの上で、メリーは言った。ひたすらに振動と音と風だ。
「ねえ。メリー」
「何、蓮子」
「ところでさ。あんた、咲子を殺したの?」
「いいえ。殺してはいないわ」
「地雷踏んだって聞いたけど」
「たまたま、あの人が出歩き、たまたま除去されていなかった地雷があって、踏んでしまったんでしょう」
「そのレイヤーを選んだってことなの? メリーが?」
「…………」
現実を、手の平の上でいじくるように、自由自在に変えてしまえるのだとしたら、神様とどう違うというのだろう。メリーが、自分自身の運命を選んで、自分以外の何もかもを変えてしまうことができる。
「ふはははは! 死んだかと思ったか!」
突然、奇妙な高笑いが聞こえ、何者かがトラックの荷台へ飛び乗ってきた。現れたのは咲子だった。咲子はジャケットも髪も風にはためかせていた。
「私の名前は咲子改め、八雲紫、おっと、夜雲紫子よ! 世界秩序を乱そうとするマエリベリー! 私を殺して安心したと思ったかもしれないけれど、そうは問屋は降ろさない。油断したのかしら? ようやく姿を表したわね。宇佐見蓮子を見張っていて良かったわ。よくやく役に立ったというところね! ありがとう蓮子! そしてマエリベリー! 死ね!」
妙なテンションで現れた咲子改め縁子は、メリーに向かって飛び掛かったが、たまたま落ちてきたヤシガニに頭を直撃されて吹っ飛んだ。縁子の体はトラックからもんどり打って転げ落ち、地面を転がっていった。これもメリーが選んだレイヤーなのか。とても愉快なレイヤーに移動してきたようだった。
「えーと?」
「ちょっとこの一幕は余計ね。シリアスな方のレイヤーに戻しましょう」
さっきまで何を話していたっけ。トラックは、さっきと変わらず走り続けている。
私は口を開いた。隣にいるメリーに話しかけた。
「ね、メリー。メリーの話はいっぱい聞いたよ。難しくて、分からないところもあったけどさ。私の方も言ってもいい? 長くなるかもしれないし、単なる愚痴でしかなくて、国家運営とか難しい話はできないから、何の役にも立たないかもしれないけど。
例えばさあ、私が今の社会を嫌だと思って……例えば、どうしようもない事情があって、孤児が生まれる世の中が嫌だから、恵まれない子供の寄付をするとするじゃん。
それをしたお陰で、助かる子供が一人いるとする。そしたら、一つのレイヤーを超えたってことなのかな?
でも、別に世界が嫌だと思ってなかったレイヤーの方の私自身は、レイヤーと一緒に消えてしまう。
私だけじゃなくって、色んな人が、色んなレイヤーを持っていて、そのレイヤーを日々超えようとして、色々やってる。自分の信じる世界が良い方向へ、持って行きたいと思って。
メリーのやってるレイヤー移動ってのは、実は大したことないんじゃないかなって、私思ったりする……。
メリーはたまたまさ、1970年代のカンボジアからこっちに来た。元々が異邦人かもしれないけど、それはそれでいいじゃん。世界はあらゆる形に変わり得るっていうのが分かったら、それはそれでさ。メリーがもし、社会のないジュラ紀とか白亜紀みたいなとこで原始時代の生活したいって言うなら、付き合うよ。レイヤー移動してくれたら、行くよ。メリーが満足するまで過ごさせてくれたら、戻してくれたらいいし……そのくらいの制御はできるよね? 行きっぱなしじゃ嫌だよ。メリーとカンボジア来る前に読んでたさ、京都のラーメン屋100軒特集の店、まだ全部回ってないじゃん。メリーなら実はラーメン屋の起源はジュラ紀にあったとか、色々とずらせるから、ジュラ紀で食べるラーメンもおいしいかもしれないけどさ。私は京都がいいよ。京都でいたいし」
メリーは答えなかった。トラックだけが流れていった。
結局のところ、私にしろ、メリーにしろ、自分一人の満足でしかない。世の中の正しさとか、そういうのはどうでもいい。自分一人の心地良さの世界でしかない。メリーが勝手なら、私も勝手な話で、私の勝手でメリーを縛り付けておくことなどできない。
メリーがここにいるのも、再び私と出会うためではなかった。メリーは単に悩んでいるだけのことだ。一人で救われたって仕方ない。
ホログラフィック宇宙論で言う世界とは、平面な世界に映し出された情報だ。映画を見ているように、時間の経過と共に、画面は変わり、流れていく。
メリーがいなくなったとしたら、メリーが最初から世界にいなくなったというだけの話で、「メリーがいない」ということに書き換えることができるのだ。メリーはその能力を持ち、理想のために行動している。
私はと言えばどうだろう? 私は、何の選択もしていない。世界は簡単なものかもしれない、と私は言った。さっき言ったのだ。たった一つの動作、たった一つの考えで、世界は変えられるかもしれない。メリーの考えを変えることも、もしかしたらできるかもしれないのだ。
私は、選択をすることにした。カンボジアのメリーか、今のメリー、秘封倶楽部のメリーか。メリーを自分のものにしたいとは思わない。そこまで強欲にならなくてもいい。でもせめて、自分の世界、今の世界に置いておきたいと思った。
私は手を伸ばした。
トラックの端に座っている、もう一つの影が本当は何か、分かっていたのだ。そこに座っている理由も。幼いメリーは、今のメリーと常に一緒にいる。私は幼いメリーを掴むとトラックから突き落とし、そのあと地面に向かって飛び降りた。メリーだけトラックに乗って、どこかへ過ぎ去っていった。
私は幼いメリーに馬乗りになると、細っこい首に掌を押しつけた。人を殺すのなんて初めてだった。現代人のほとんどが経験することはないものだ。だけど、メリーは何度もやったに違いない。
罪悪感は容赦なく襲ってきた。だけど私は、こいつは本来、ここで死んでいたはずのものだと何度も思った。幼いメリーは、ここで死んでいたのだ。元の土に戻してやるだけのことだと思い込んだ。そうでないと、殺人を犯す自分を許容できない。幼いメリーは抵抗もしなかった。一度、クメール・ルージュは滅び、自分の全てが消滅することを、メリーは経験している。自棄になったような気分だったのかもしれない。幼いメリーが動かなくなると、私は地面を掘って、幼いメリーをそこへ横たえた。最初からそうであったように、幼いメリーは骨になって、そこに埋まった。最初から、そうだったように、幼いメリーは土の中に帰った。
私はスコップを担いで、仮の宿にしている家に戻った。くたくたで、土のように私は眠った。
朝になると、咲子が迎えに来た。「それで、どうするの」と咲子は言った。
「あなたの相方捜し、まだするの?」
「いいえ。いいわ、帰りましょう」
咲子は「そう、ほっとしたわ」と言った。それでトラックに乗って、来た時のように空港へ向かって走った。
帰り道、咲子が言った。
「良かったわ。やっと諦めてくれて。見つからないのは残念だけど、正直な話、私にも仕事があるもの。カンボジア旅行に来て迷子になった子を探すのを付き合ってくれ、だなんて」
咲子が言った事柄には、驚かなかった。「あなたの仕事、なんだっけ」と私は尋ねた。
「カンボジアの日本大使館職員よ。前にも言った通り」
そういうことになっているのだ、と私は思った。大使館職員にしては珍妙な格好のままだったけど、咲子のキャラはそういうものなのだろう。
帰り道、下らない話をいくつもした。時間つぶしにしかならないような話だ。その中で、犯罪者の話になった。
「無能な犯罪者はいいけど、有能な犯罪者はもう、流刑地へと流す他はないと思うのね。そうでないと、世の中は変わってしまう。
そして、私の考えでは、流刑地っていうのは楽園でなくてはいけないのね。良からぬことを考えないように。
できれば、世の中全てが楽園に変わってくれれば、それが良いのだけどね」
それが咲子の考えなのか。それで、世界を乱すメリーを追いかけていたのかもしれなかった。
空港に着くと、咲子とは別れた。私の視界から外れると、咲子は消滅したようにいなくなった。まるで別のレイヤーへ行ったように消えてしまったのだった。
日本へ戻ってしばらくすると、メリーは帰ってきた。再び出会ったのは大学でのことだ。私はカフェテラスに座っていて、メリーはそこへと歩み寄ってきた。メリーは「ただいま」と言い、私もただいまと言った。それだけだった。メリーは私の向かいに座り、次の瞬間には、次に出席する授業のことだとか、提出期限のあるレポートのことだとかの話に移っていた。
共産主義だとか資本主義だとか、クメール・ルージュの話なんかは避けた。私の考えでは、メリーは揺らぎの中にいる。
カンボジアにいた幼いメリーは、メリーの中で死んだ。いないことになり、メリーの中から失われた。メリーは出身地不詳、生まれた時も不詳の外国人になった。
だが、そのプロセスは消えたわけじゃない。メリーがその気になれば、幼いメリーを拾い上げることも、世界との闘争に身を投じることもできるし、一瞬で世界を変えてしまうこともできるだろう。私は、メリーがそのことを思い出さないようにしなくてはならない。
メリーは、何かが一つ違ってしまえば、またどこか別のレイヤーへ消えてしまうことだろう。私は、メリーを必死に、ここへと結びつけ続けなければならない。
正直なところ、私はメリーの何もかもを知らない……発端として、私がメリーを知ろうとした時と同じだ。最初に戻ってきたわけだ。でも、もう、知ろうとは思わない。メリーが革命をしたいのかどうかとか、どうして戻ってきたのかとか、戻ってここで何をしたいのかとかだ。でも、そんなことは、明らかにしなくていいんだ。明らかにしたら、何もかもが変わってしまう。
いつかは変わってしまうものかもしれない……とはいえ、メリーがその気になれば、永遠に大学生活を続けることだってできるのかもしれないけど……ともかく、私は、こういう中途半端な関係で良いのだと、気付いたのだった。
私たちは、元に戻ったつもりでも、どうしようもなく変わってしまったのかもしれない。だけど、それでも良かった。仮初めの姿であっても、秘封倶楽部は秘封倶楽部であればいい。
・大量のif設定
・イデオロギー
・共産主義批判、あるいは資本主義批判
部屋の中に、フィルムが積まれている。次第にフィルムの山はかさを増してゆく。メリーは、そのうち一つを手に取る。
しゃらららら。メリーの指の中で、フィルムが回る。色あせたフィルムの中に、メリー自身が映っている。一瞬一瞬が刻まれ、ほんの少しの変化が全体の動きを作って、映像になる。
フィルムの中に映っていたのは、幼いメリー自身だった。カンボジア・プノンペン。昔の王族のような王冠を被り、金きらの飾りを身につけて、童舞に舞っている。あれは確か、踊りを見に行ったとき、着せてもらったものだ。幼いメリーは喜んで、訳も分からず舞ったのだ。
でも、変な話だ、とメリーは思った。ここに積み上げてあるフィルムは、私自身が燃やしたものじゃなかったかしら?
メリー自身、幼い頃にはそういうこともした。しゃららら、フィルムを送ると、次の場面がメリーの手の中にあった。軍隊の格好をして、銃を持っている。身体に不釣り合いなその大きさ。メリーは銃をぶら下げて、人々の労働を見張ってる。事実、メリーはそういうこともした。そう……文明の破壊者。クメール・ルージュとはそういうものだった。文明を捨て、過去を捨てた。貨幣制度を捨て、都市生活を捨て、写真や映画はもちろん、眼鏡さえ捨てた。書物は必要のないものだったからだ。名前も捨て、新しい名前を貰った。都市部に住んでいた人達は集団農場へと強制移住させられた。都市や文明は消滅し、農村だけが残った。人は全て新人類として生まれ変わった。そして旧人類を絶滅する戦いが始まったのだ。
めくるべきフィルムはもうなかった。ジャングルにいる幼いメリー自身がそこにいた。クメール・ルージュは、首都を追い出され、辺境のジャングルに追いやられた。そして、幼いメリーは、ゲリラ戦に明け暮れた。首都を追い出されても、旧人類絶滅の戦いは続いていた。いつまでも続いていた。
そして再び、しゃららら、と、フィルムが巡る。フィルムに移った姿は、一瞬一瞬の姿を刻んでいる。ほんの僅かな変化が、次の動きを作っている。一連の流れができている。
けれど、と私は夢想する。映像が一枚違えば、それは別のレイヤーではないか? メリーは手を伸ばす。そうしたら、すぐそこにある別の世界へ、手を触れられる気がする。例えば、日本のメリーから、1979年、カンボジアのメリーへ。
私……こと、大人のメリーは手を伸ばした。幼いメリーの首をつかんだ。幼いメリーは、抵抗もしなかった。
…………
「ねえ、蓮子。ホログラフィック宇宙論って知っている。世界は二次元でできている。ホログラフィック宇宙論とか、ホログラフィック原理とかいうのがそれ。世界はほんの薄い層(レイヤー)でできている。レイヤーが違えば見え方が変わる。そして、それらのレイヤーはすぐそばに隣接していて、手を伸ばせば触れられる」
…………
「初めまして。宇佐見蓮子さん」
「はぁ」
胡散臭いスーツの女に出会ったのは夜だった。大学を出て、一人、酒を飲もうとバーを探して歩いているところだった。人々は行き交い、通り過ぎていった。立ち止まっている私たちは、まるで無視されて、置き去りにされていた。
私はその時、とある理由のために、良い気分ではなかった。スーツの女に対してもぶっきらぼうに相手をした。女はそのことを気にする様子は見せなかった。
「宇佐見蓮子さん。逮捕します。令状もあるから。はい、19時ちょうど。確保」
「はい?」
女の背後から、警官が二人、すうっと生まれ出たように現れて、私の手首に硬質のものを押しつけた。手錠だった。どんなに時代が変わろうと、たぶん変わらない品物だ。古臭く、確実だ。私は逮捕されて、車の中に押し込まれた。警官と女に挟まれ、私は連行されていった。蓮子が連行。なんちゃって。うくく。笑っている場合ではない。
思い当たるふしがないこともないのが、困りものだった。
警察署へ連れられた私は、どのように考えるべきか、惑った。しかし、あるいはチャンスではないかとさえ思っていた。世界がきちんと回っているのなら、向こうから働きかけてくる。理屈の合わない物事があっても、やがては帳尻を合わせてくるものだ。これはそれだ、と思った。メリーを探すことができるかもしれない。
狭い一室へ通された私の前に、スーツの女が座った。警察という風情ではない。何か、別の職員のように見える。
「あんた、名前は」
「私? 私はそうね、咲子。志村咲子とでも覚えておいて」
「あんた、警察?」
「正確には違う。私は国家境界侵入対策課員に属しているわ」
「は?」
「要するに境界破りの対策員。あなた、境界破りをやったでしょ」
「境界破りに関する、憲法上の明文規定なんて存在しないと思ってたけど。あるのね」
「あなたの言う通り、憲法上は規定されていないわ。一般人は存在も知らない、もちろん」
「じゃあ、不当逮捕じゃないの? 訴えるわよ。それに、あんたの存在も妙だわ。一般人も存在を知らないものに対する対策員が、国家公務員をやっている。あんたの給料どっから出てるの? 経理はそれ、納得ずくで払ってるの?」
「あなたの疑問は至極真っ当なことだわ。でも、あなたは真っ当な世間に生きてはいない。あなたのやっていた境界破り……というよりも、境界を見ることそのものが、この世間では有り得てはいけないことなの。お分かり?」
「それが何の罪に当たるの?」
「境界破りは表向きには犯罪じゃない。あなた達のやってることも承知済みで泳がせていた。でも、ただ遊び回っているだけなら、何かをする気はなかった。でも、あなた達のやっていることが、社会に影響を与える可能性が出て来た。しかも、一人は我々の監視を逃れた。表向きの理由じゃ逮捕はできないし、罪も被せられない。表向きにはね。だから、別の罪がおっ被せられる。国家反逆罪とか、共謀罪とか、テロ等に関わる罪とか、色々」
「一生出てこれないくらい?」
「一生出てこれないくらいね。重たい、なんて思わないことね。大体分かっているんでしょう? あなたの相方が何をしているか」
さて、と私は考えた。どのように物事を考えるべきか? 境界荒らしの専門員がいるなんてことは想像の外だった。
政府の幻想対策の職員だなんて。普通の人間にはできないことを、どのように政府の偉い人に説明するんだろう。一般人の預かり知らぬ闇の中、謎の事件を解決する。まるで、漫画かアニメの世界だ。
しかし私は現実に逮捕されている。目の前にいる女は、どうやらその、嘘みたいな幻想対策の職員だった。職員が言うには、私やメリーの境界荒らしなんてのはとっくに承知していたらしかった。私たちの知らないところで世の中は回っている。出し抜いているのではなくて、出し抜かれていたのだ。
メリーに最後に会ったのは、一ヶ月前のことだ。最後にあったメリーは、『新世界を創造する』と言って消えた。とてもじゃないが、信じられなかった。しかし、メリーが消えて一ヶ月、こうして現実の方が追いついてきた。メリーの言葉ではなく、現実社会が、警察という姿をして、私に真実を教えてきたのだ。メリーは社会を変えようとしている。
一ヶ月前の私に、捕まる前にメリーの言うことを信じて、メリーを追え、と言いたい。でも、信じられる、そんなこと? 何かの冗談だって思わない?
信じられるはずがない。現実から遙かにかけ離れている。だけど、私はこうして逮捕されていて、どうやら、目の前にいる女はメリーのことを知りたがっていた。
私は、手錠をかけられた両手をテーブルの上へ置き、つっぷして、身体の中に溜まった息と、重たい泥のようになった思考を、全部吐き出す。
農村で畑を耕しているメリーを想像する。人々は皆笑顔をしている。身分格差もなく、貧富の差もない。服装や農具や釣具などに、文明の名残があるのみで、人々は物々交換以上のことはせず、日々の食事と寝床ばかりのことを考えて暮らしている。
メリーは笑っている。皆、笑っている。
メリーは新世界を創造すると言った。
果たして、メリーの言う新世界創造は果たして新世界なのだろうか。むしろ、新世界の創造というよりも、単なる世界秩序の破壊に思える。世界秩序を破壊してどうなることだろう。単に縄文時代や弥生時代の再来が来るだけで、ムラが生まれ、やがては政府機関が生まれて国になる。
歴史の時間を戻すことが、メリーの見た新世界の姿なのだろうか。
メリーの言うことが本当ならば……私は、メリーの言うことは全部嘘だと思っていた。境界が見えることは嘘じゃない。でも、メリーが私に語ったことは、突飛に過ぎたのだ。
私とメリーは、単なる境界荒らしの違法サークルではなくなって、世界秩序の破壊者メリーと、その一友人……もしかしたら破壊者の同胞……になった。
「考えは決まった?」
どのくらい時間が経ったか分からない。けど、スーツの女はそこにいて、私も現実にいた。現実で、時間が動いているならば、動かなければならない。
「話してくれる? あなたの相方のこと」
「情報を提供する代わりに、こちらにも要求があるわ」
あら、とスーツの女が首をかしげた。
「何かしら。でも、いいこと、あなたは逮捕されている立場で……」
「不当な逮捕ね。真っ当ではない逮捕なんだから、真っ当ではない取引もいいんでしょ。勝手に言うわよ。要求は二つ。こちらからも情報を提供する代わりに、私にも情報を与えて。メリーを追うのに必要な情報よ、そっちも願ったり叶ったりでしょう。それからもう一つ。私を自由にして。私にメリーを探させて。あなた達も、メリーを確保したいんでしょう」
咲子は口を閉ざした。どのような沈黙なのだろう? 咲子はたぶん、私を利用したいはずだ。メリーの言っていたことが本当ならば、咲子や、政府とかには、おそらく、メリーを追う方法はないのだ。私を利用する他はないのだと決めつけた。咲子が口を開く。
「いいでしょう。こちらとしては、あなたが相方を見つけてくれるのならば、それ以上のことはないわ」
この瞬間、私と咲子は運命共同体になった。目的は同じだ。メリーを見つけた後の目的は、違うかもしれないが。だから、一時的な運命共同体に過ぎないとしても、利用できる間は利用するべきだ。
私はメリーのことを話すために、口を開いた。どこから話すべきか。始まりは……始まりは、メリーの夢のことだった。
思えば、このことが全ての切っ掛けだったわけだ。半年ほど前のことに過ぎないのに、遠い昔のことのように思う。メリーは、幼い自分自身を殺す夢を見ると言った。あれは、メリーの力の目覚め、あるいは、社会を破壊し変革するという、メリー自身の欲望の目覚めだったのかもしれない。
…………
私は、唐突に、メリーの過去のことを何も知らない自分自身に気がついた。マエリベリー・ハーン。私の友人。二十歳ぐらい。何とかとかいう学問を勉強していて、不思議な目を持っていることが私との共通項。そのくらい。
例えば、外国の生まれだろうということは想像出来ても、具体的にどこの生まれかも知らない。両親は何をしていて、幼い頃は何が好きで、将来は何をやりたかったとか。考えれば、活動を始めてそれなりになるのに、私は全くメリーのことを知らなかった。
正確に言えば、気がついたのも初めてのことじゃない。何度か、思いついては、何となく聞きそびれたり、話のタイミングが微妙に外れたりで、今まで至っているだけだ。聞いて悪いことでもないだろうけど、今更のような感があった。
「ね。メリーってさ、どこの出身なの?」
「…………」
情景描写を述べると、ここは大学のカフェテラスで、学生がたくさんいて、それぞれが微粒子みたいにくっついたり離れたり、行き過ぎたりしていた。私とメリーは、テーブルの一つに向かいあって、次の授業までの時間を過ごしていた。私がそのことを話題に出してみたのは、本当に何気ないことで、ただ思いついた勢いで言っただけのことだった。
「メリーの両親って何系の人なの? アジア? ヒスパニック? ヨーロッパ系? 宗教は何を信仰してるの、クリスチャン? ムスリム?」
「何をいきなり聞くのよ。びっくりするじゃない。」
「だってさ。メリーのこと知らないと、困るでしょう。例えばユダヤ系だったらあんまり歴史的に言いにくいこともあるし、黒人系だったら黒人系で言いにくいこともあるし、クリスチャンだったら日曜に遊びに行こうって言いづらいし、ムスリムだったら豚肉のお店誘えないじゃない」
「こないだ徹夜でラーメン屋巡りした時に、豚骨ラーメン食べてたの、見たでしょ」
「とにかく、メリーに話したらいけないことを言ったら悪いから聞いてるの」
沈黙があった。メリーが喋らないから、そうなったのだ。話してはいけないこと、聞いてはいけないことだったのかもしれない。でも、生まれとか育ちに、メリーが気にすることがあったとして、話してくれないのは寂しくない?私は友達、友達以上だと思っていた。メリーが話してくれないというのは、そういうことなのだろうか。それとも、単に場所とかロケーションのせい?
沈黙に耐えられなくて、私の方から口を開いた。
「ね、メリー、私たち、あんまり自分のこと喋らないよね」
「そうかしら」
それで済む話なのかもしれなかった。メリーはあんまり乗り気じゃなくて、話したくないんだな、って話。まあ、いいか、と思った。それで話は終わりにしよう。メリーは話したくないんだから、気を悪くさせても悪い。
すぐさま、別の話を切り出すには、ちょっと空気が重かった。また、私達の間には沈黙があった。辺りばかりがうるさい。私はその辺りを見た。それで、何かしらの話題を見つけ出そうとした。共通の知り合いとか、何かしら変なファッションして歩いている奴とか。
「夢を見るの。私がいた。幼い頃、全世界の平等を信じていた私」
メリーが、唐突に言ったから、私はそれが何の話か、分からなかった。
「私は……」
私は、怒りがメリーの顔に、現れているのを見た。落ち着いているけど、静かに怒っていた。何に怒っているのか知らないけど、もしかして、私?
確かなことは、メリーは怒っていた。片肘を突いて、俯き気味に顔を伏せて、自分の中に閉じこもっていた。私は、どう話すべきか、何を話すべきか、惑った。学生の通り過ぎる繁雑さも、どこか遠くのことのように感じている。
「ええと、メリー?」
「何?」
メリーが顔を上げた。表情がうまく読み取れない。怒りは顔には表れていないように見えた。でも、私に感じさせないようにしているだけで、内側では怒っているのかもしれない。でも、何に? 私は何も分からなくて、それで困っている。
「メリー」
「何よ」
「次の授業、何だっけ」
私はちらりと時計を見て、授業の時間が近いのをいいことに、話題をそらした。
「知らないわ。蓮子とは別の授業でしょ」
「そっか。自分で見ないと」
へへ、と私は笑った。誤魔化しに笑った。私が誤魔化して笑って、機嫌を取らなきゃいけないことだろうか。でも、メリーは何かに苛立っているように見えたし、誰にだってそういう時はある。だから、まあ、大人の余裕を見せておいてあげようと思ったのだ。メリーはたまたまそういう時だったのだろう。寝起きにいきなり部屋の中でゴキブリを見てしまったのだとかそういうことだと、私は思ったのだ。大して大変な話とも思っていなかった。
それが切っ掛けだった。その日はそれで別れた。次の日になって、学校で会った時、メリーはいつもと変わりなかった。だから、安心した。誰かが怒っているというのは気にかかるものだ。それで、私もいつもと変わりない風を心がけた。
「今日、夜は空いてる?」とメリーが言った。試験前でもなければ、いつでも夜は空いている。見たいテレビもないし、誰かと夜を過ごすことなんてない。大学生だというのに、浮いた話もなくて、寂しい女だ。メリーもそうだけど。
「駅前で、バーを見つけたの。行かない?」
メリーにそう誘われると、うきうきして、行く行く、と答えたのだ。たぶん、そのときにはもう、メリーは話すことを決めていた。
「ねえ、蓮子。子供医者って知っている」
「子供の医者?」
「そう。昔、カンボジアで、クメール・ルージュという共産主義の集団がいた。その集団は革命を起こして、カンボジアの政権を倒すと、都市生活は悪いことで、古代の農村生活こそが崇高であるとして、原始共産主義を行った。それで、都市生活を行っていた人は悪い人類、旧人類であるとして、新人類に適応させるための再教育を行った。収容所へ強制移住させて、農村での生活を強制した。それで、逆らう人は誰も彼も殺したの」
「強烈な話ね」
「新人類の中でも、子供はエリートとされていた。子供は都市生活を知らず、毒されていないからというのがその理由だった。子供は兵士や、電気工事の教育を与えられて、国政に関わるようになった。そういった技術を持った大人達は、皆農村で再教育を与えられていたから。実務として、必要な部分があったのね。医者もその一つ。子供たちには資格が与えられて、病人には子供の医者が治療に当たることになった」
「ふうん」
「でも、子供にはもちろん知識はないし、きちんとした教育を受けて実践する時間的な余裕もなかった。それで、まあ、直接的な言い方をすれば、ど素人が病人に接するようなものね。子供達は、病人で実験しながら学んでいった。伝統的な飲み薬を使うことが多かったけど、時には飲み薬を注射したり、ほんの少ししか与えてはいけないような劇薬を大量に与えたり、腹痛のために切開を行ったりした」
「あほくさい話ね。古代の倫理が良いならば、病人はそのまま死ぬのが道理なのに、無用な苦痛を与えたりして」
「ええ、その通りね」
「昔は医療なんかも未発達だったから、子供のうちに死ぬ人が多かったらしいけど。今はそんなこともなくて、良い時代ね」
「ええ。……それで、子供の医者がいたように、子供の兵士もいたの。子供は、良い兵士だったわ。教育を素直に信じるし、命令には疑問を持たず、そのまま従う。戦場では、考えない兵士は良い兵士だから。大人達は都市の論理に毒されている旧人類だ、悪いものだ、と言われれば、そのまま信じた。収容所で告発される人を見つければ、森の中へ連れて行って、ためらいなく殺した。来る日も、来る日も……」
「残酷な話ね。どしたの、メリー。いきなり」
「それが正しいと教えられていて、疑問も持たなかった。ねえ、蓮子。私がその、クメール・ルージュの子供兵士だと言ったら信じる?」
私は、メリーが酔っているのかなと思った。ほんの少し、頭がおかしくなったかなとも思った。いつものことだ。メリーが夢の中の話をした時は、いつも頭がおかしいのかなと思うから。精神的な疾患も珍しい時代ではないし、そういうのをすぐ疑うのも、そう間違った判断ではないだろう。だが、メリーの目のことは知っているから、そこは疑わない。でも、あくまで境界が見られるだけのことだ。空間を移動、ましてや時間を移動するなんてことは、メリーにできるはずもなかった。
「ええとね、メリー」
「うん」
「この地球は、じっと止まっているように思えても、実際はものすごいスピードで太陽の周りを回っているわけ。それも、自転しながら。私達は重力があって、地球と一緒に動いているから、それを感じないわけ」
「何が言いたいの?」
「メリー、そのカンボジアのクメール・ルージュのことなら、どのくらい昔か知らないけど、その頃メリーはいくつ? 今のメリーが何歳か知らないけど、メリーが実際は70だか80かもしれないけど、それでも間に合わない年齢だわ。そうじゃなくて? 共産主義が流行っていた時代なんて……私が言いたいのはね、メリー。メリーには特殊な目があるかもしれないけど、時間の移動なんて不可能だということよ。もしも、一分でもその場所で、時間を遡ってみなさい。地球に置き去りにされて、空気のない宇宙空間に放り出されて死ぬ。そうでしょう」
メリーは軽く首を振った。私は、酔った勢いもあるし、ずっとメリーが喋っていたのだから、次は私のターンだと思って、まくしたてた。
「メリー、酔ってるのよ。そうでなければ、また何か新しいものを見たのね。だから、そういう考えが……」
「私にも分からないの。でも、私は1965年のカンボジアに生まれた。両親はヨーロッパ系だった。アジア人ではなかったけど、そういう人もカンボジアにはいたわ。日本人でも、クメール・ルージュに捕まって、その支配下に置かれ、崩壊後日本に帰った人もいる。私は幼い頃、クメール・ルージュに捕まって、農村へと強制移住をさせられた。それで、クメール・ルージュの指導を受けるうちに、次第に共感して参加し、そして崩壊と同時に解放された。それから後のことは、詳しいことは分からないけれど、私はアメリカに移住することになった。でも、アメリカは嫌だった。それで、私は日本に来たの。そのとき既に、私はこの時代に来ていた。何が起こったのかは、私にも分からない。でも、本当のことなのよ」
メリーは、そう言うと、手元にあったビールを飲んだ。酔っているとしても、その勢いは異様だった。あくまで、本当のこととして、メリーはそう私に信じさせたいのだ。私は腕組みして考えた。本当のことだと扱うとして、なら、証拠はあるの、と聞いたら、メリーは何と言うだろう。これが証拠だ、とカンボジア時代の写真でも持ち出してくるだろうか。それとも、兵士時代の銃? 首飾り? 飾りなんかは許されていないような感じがするから、農具か何かかもしれない。でも、それらを引っ張り出して来られたとして、どこまで信用できるのだろう。写真の加工技術は進んでいるし、農具や銃があったって、それがベトナムのものだかカンボジアのものだか、私には判別できないに違いない。
結局のところ、何が本当のことか分からないのだ。例えば、私の生まれが東京の元皇居のあたりであるとか、私の曾祖父とか、近所の年寄りはそれを自慢にしていたこととか、小学校ではガキ大将の側近みたいな立場にいて悪戯をして回ったこととか、中学校ではいじめがあって、それを黙って見ている自分に嫌気が差したとか、メリーに比べれば平凡だけど、私にも色々とあって、でもそのどれ一つも、私に本当だと証明できることはない。年寄りも、ガキ大将も、いじめをしていた加害者とか被害者とかも、用意したって、それが用意された別物でないとも限らないのだ。
本当のことは、ここにいる私と、私の視界に映っているものだけでしかない。嘘だろう、とメリーの過去を疑うことはできるけど……。
「私の話をしてもいい?」と、メリーに聞くと、メリーは頷いた。それで、今考えたようなことを、私は話した。メリーは表情に乏しい顔で、ただ聞いて、時折頷いたりした。
「考えたらさ」私は言った。「私、メリーの若い頃の話聞けて、嬉しいかも。メリーの昔の話聞くのって初めてだからさ。なんていうか……すごい、さ……大変そうな……って、私が言ってもいいものか……」
うん、とメリーは呟いた。すっかり、お互いにお酒も進んでいて、若干前後不覚の感があった。
「メリーもさ、もっと言ってくれて良いよ。言いにくいこともあるかもしれないけどさ。別に、楽しかったこと、喋りやすいことだけでいいし……。両親は、どういう人だったの」
「うん……」
メリーの反応は、酔っていて鈍いのか、それとも話しにくい話題なのか、計りかねた。聞いて悪いことだったかな、と思った。
「私の両親が、どんな人だったか、私、覚えていないの。私が告発した。二人とも森の中に連れて行かれて、それっきり」
今度こそ、私は言葉をなくした。何を言うべきか、私には分からなかった。カンボジア出身であることから、冗談で言っているのなら、これほど悪質な冗談はないだろう。もしも、後になって、「あれは冗談だった」とでも言おうものなら、殴りつけてやろう、と思った。
メリーは、その夜は、異様なほど杯を重ねた。私はなんだか冷めてしまって、そこまで飲む気分にはなれなかった。私は酔っ払ったメリーを担いで、私の家まで連れて帰った。
メリーと一緒に泊まることは、もう何度もやってることだから、今更何かしらの感情があることでもない。メリーをベッドに放り出して布団をかけると、私はソファーに寝っ転がって、予備の布団を引っ張り出した。
私は、ソファに寝転がってから、少し考えた。お酒で頭がぐるぐるしている。メリーほどではないけど、酔ったかもしれない。
メリーが怒ったのは、私のせいかもしれない。メリーの過去のことを知らず、無遠慮に聞き出そうとした。それで、聞き出したら聞き出したで、不機嫌になっている。メリーはそんな風に見るだろう。
とても、信じられるような内容じゃない。でも、本当に真実だとしたら、メリーは他に何と言うべきなのだろう。聞かれても、何も答えず、ずっとはぐらかしていくべきだろうか。そうしたくなかったから、話してくれたのじゃなかったか。
そこまで考えて、私は別の可能性も考えてみる。メリーは本当はショッキングな何か……例えば、両親を知らないことも、両親に捨てられてしまった過去があったからだ、とか。それで、メリー自身も真実を知らなくて、メリーの持っている特殊な目のせいで、境界の中の何かを見て、それに影響を受けて、自分がクメール・ルージュの生き残りだと信じた可能性だ。そういうことなら、私も納得ができる。しかも、メリーも本当だと信じているから、嘘を言ったことにはならない。
メリーの言っていることはとてもじゃないけど信じられない。でも、メリーは嘘を言ってないことは信じよう、と思った。勘違いかもしれない。何らかの思い違いの可能性は捨ててはいけない。
でも、その勘違いや思い違いのことは、明らかにされなくたっていい。本当のことだと分からなくてもいいし、本当だと立証しなくてもいい。メリーはメリーなのだ。ここにいるメリーが本当だし、メリーにもそう信じさせてあげればいい。もう少し何かしら考えたかもしれないが、私はその辺りで意識が途切れて、眠りについた。
夢を見た。それが夢だと分かったのは、目覚めてからのことで、そのときは突飛なことでも、夢だとは思っていない。夢っていうのは都合のいい品物だ。自分の知っている事柄を部分的に切り出して、繋げて映像を作り出す。
まるで人為的に作られたフィルムのように精巧で、何者かの作為を感じるかのようだ。奇妙に無音だった。音というファクターが、私の中に入っていないからだろう。その場所で、どういう音が鳴っているか、メリーから聞いてはいなかった。
鬱蒼とした森の中で、私はカンボジアにいるのだと思った。森からそれを想像したわけじゃなくて、たぶん、カンボジアだという情報は先にあった。完全に木々に満たされているというわけじゃない。人が住んでいて、時には人通りもある。道路になっている部分には、土が見えていた。
その、土の上に、メリーがいた。二人いた。
一人は黒い格好をしていた。ライフルを肩から提げている。金の髪が、不釣り合いなほどきれいで、その場に相応しくない華美さがあった。幼いメリーだ。幼いメリーは、こんな姿をしていたのか、と思った。
もう一人のメリーは言うまでもない。居酒屋でお酒を飲んでいたメリーだ。ただ、一つだけ異様な部分があった。表情だ。
それは純粋な怒りの表象だった。目を剥き、歯を食いしばって睨んでいた。幼いメリーを見た。幼いメリーは、無感動な目をしている。何も考えていないように見えた。その、細い首に、大人のメリーの指が食いついた。食いついたと表現するほかないほど強烈な力が込められているのが分かった。
どうするべきか、という惑いすら、私には浮かばなかった。本来異常なことだ。メリーの内側のことで、口出しすべき部分ではないのかもしれない。だが、私は即座に手を伸ばして、大人のメリーの身体を打ち払った。他に、どうすることも考えられなかった。
メリーは、幼い自分を殺したいほど憎んでいるのだろうか。大人のメリーが言った。
「それなら、蓮子がやってくれるの?」
そんな馬鹿な話が、あるはずがない。私に人殺しができるわけがない。私に手を汚させて、どうするつもりなのだろう。それとも、メリーは私に、メリーと同じ立場に立ってほしいのだろうか。メリーはきっと、何人も殺してる……。
メリーのためには、するべきかもしれない。メリーは、過去の自分を否定したいのかもしれなかった。私は、何と答えて、どうしたのだろう。私の記憶からは抜けている。夢が、きちんと終わらず、中途半端に覚めてゆくように、それ以上、夢の中身を覚えていない。
私が目を覚ました時、メリーはまだ眠っていた。半分布団をはねのけて、足を放り出した、アホみたいな姿だった。やがて、起き出してきたメリーに、夢のことを聞いた。
「ねえ、夢のこと、覚えてる」
普通ならばアホみたいな話だ。私の見た夢を、メリーが共有してるはずがない。平安時代じゃあるまいし。でも、メリーは特別だ。あれは夢じゃなくて境界の向こうかもしれない。
「夢? ううん、見ていないわ。見たかもしれないけれど……覚えてない。蓮子は何か、面白い夢でも見たの?」
そんな風に言うメリーは、いつも通りのメリーだった。昨日の、居酒屋のテンションでもない。普段通りで、何も変わったところは見せなかった。私は答えなかった。何て言えばいいだろう?
それからのメリーは、カンボジアのことを話すこともなく、私の方からもそんな話を俎上に乗せられるはずもなく、ただ過ぎていった。そうやって過ごしているうちは、私達は本当に気の合う友達どうしだった。メリーとは気が合うのだと思う。メリーが楽しそうにしていると、楽しかった。それで、メリー自身の話を、持ち出すのは遠慮したのだ。それで、メリーが傷付いているかもしれないとは思った。
メリー自身も、もっと話して吐き出したいのかもしれない。私の空気を読んで、口に出すのを憚っているのかも。だけど、私から話をするには、重たすぎる話だった。それで、以前通りの付き合いを保っていた。
…………
「ねえ蓮子、旅行に行くんだけど、一緒に行く?」
「え、いいよ。行く。でも私、お金ないよ」
「そうだと思った。そのつもりで、お金貯めたの。でも、おごりじゃないよ。とりあえず渡すけど、借金だからね。使ったお金、後で返してね」
メリーとのあれこれ、クメール・ルージュのことであったり、夢でのことがあったりした後、私はどうしてか、メリーと一緒になってカンボジアにいる。メリーは深刻な様子ではなかった。メリーはクメール・ルージュ関連の施設を見に行くのだ、と言い出すんじゃないかと思ったが、そういうわけでもなかった。
カンボジアの都市部はクメール語が多いのみで、東京や大阪ほどにビルは少ないが、日本の中規模の都市と変わりなかった。バイクと露天が極端に多いという印象を持った。
メリーが取った宿はやたら豪華で煌びやかなところで、やたら紳士やセレブなんかが歩いていた。バックパッカーに片足を突っ込んだような格好の連中は、私達くらいしかいなかった。私は信じられず、思わずメリーに「いいの、ここで」と聞いたほどだった。メリーはこの旅行のためにどれほど貯めたのだろう? 忙しく働いていたのは知っているけど、こんなに豪華な旅行をしたいならもっといいところがあるだろうに、と私は訝しんだ。やっぱり、メリーは変だった。そのくせ、妙な様子を見せないのがより怪しいのだ。
本当に、メリーは自然体で楽しんでいるように見えた。着いた次の日、私達は鉄道でアンコール・ワットに行った。汽車の中でも、景色を見たり、ご飯を食べたり、喋ったりしているメリーはいつもの通りのメリーだった。本当に、単に遊びに来たかっただけなんだろうか?
アンコール・ワットは巨大な宗教建築物だ。だが、今は観光地と言って良いと思う。観光地には無数にいる、動きやすい格好の、西洋人やアジア人たちの群れが、サングラスをかけて、写真を撮っている。観光客の姿があると、一度に歴史ある建築物も、観光地じみる、と私は思う。鉄道と三輪タクシーを活用してアンコールワットへと来た私達は、それを見上げた。森の中に、巨大な石が整然と並べられている。アンコールワットを見るに当たって、パンフレットを見て勉強した。いわく、古代クメール人の栄光を象徴する建築物であり、シルクロードを繋ぐ物流の地であり、その地にあって古代クメール人は大いに繁栄したという。
だが以後、カンボジアは大きな進歩をすることはなかった。仏教の影響が強く、国内では大きな内乱もなく安定していたが、変革とも無縁の時期を六百年近く過ごした。そして、東西冷戦に巻き込まれる形で、クメール・ルージュの台頭を許したのだ。
クメール・ルージュはこの都市を破壊した。共産主義の特徴の一つとして、古い権威を許さないということがある。クメール・ルージュもそれに従った。あらゆる文明を忌避すると同時に、宗教も忌避し、仏像の頭部を切り取って回った。
現在は修復されているとは言え、メリーもまた、破壊に手を貸した一人ではないのか? ……どういう意味合いで、この土地へ来たのだろう。植物の複雑に絡みついた仏像や、施設群は、一種荘厳な感じを伴ってもいたが、私にはそういう、素直な気持ちでは見ていられなかった。
夜になると、まるでセレブみたいな時間の過ごし方をした。夕食まで、私とメリーはプールで過ごした。子供みたいに、水をかけ合ったりはしなかった。軽く泳いだりはしたけれど、プールサイドでビーチチェアに寝転がって、カクテルを飲んで過ごしたりした。こういう、おしゃれなことをするのはらしくない、とは思うのだけど、郷には入れば郷に従えで、その場らしいことをするのは楽しいのだった。夕食も豪華だった。大理石の床に、周りは石造りの、水の流れる公園のような舞台装置に囲まれ、壁はなく、周囲が広く見渡せた。まるで、貴族か王様の立場のような食事だった。あんまりに豪華なので、「ねえ、大丈夫なの?」と私は聞いたくらいだった。名前も分からない、カンボジア風の料理が順々に運ばれてきて、肉とか、野菜とか、魚とかをこのあたりの地方のスパイスやら香草やソースで味付けされたそれらを食べながら飲んで、食事が終われば全身マッサージに大きなお風呂だった。なんだか、あまりにもあまりで、ひどく楽しく、ひどく浮かれた。
ベッドも、昨夜の通りで、素晴らしかった。棕櫚の編まれた素材の上に、ふかふかのマット。窓にはレースのカーテンがかかっていて、月の夜で、暑いけれど心地よい。なんだか、何もかもが素晴らしかった。
「ありがと、メリー。連れてきてくれて」と、そうでも言わなければ感謝が足りないほどだった。「いいえ、蓮子」とメリーは答えた。
メリーはベッドに腰掛けていた。私は、ベッドに全身を投げ出して、仰向けで倒れていた。メリーがここへ来た理由なんて、もうどうでもよかった。疑う気持ちなんてすっかりなくなっていた。
「楽しかった?」
「楽しかったなんてもんじゃないわよ。こんな旅行なんて、いつぶりかしら。メリーって、素晴らしい旅行作りができるのね。ツアコンにでもなったらいいんじゃないかしら……」
それもいいかもね、とメリーは言った。私は足を持ち上げて、振って、重心移動で勢いよく起き上がる。
「ツアコンは、ハードな仕事らしいけど。でも、旅ってなくならないものだし、いいと思うわ。突然放り出されるってこともないでしょ。昔はそういうの、大変だったらしいわよ。自動でプログラムを打ってくれる機械ができるまでは、プログラムは手打ちしてたし、それに自動車だって、自動運転が始まった頃は、タクシーやバスの運転手は大変だったらしいわ」
「なるほどね……」
風がさあっと吹いて、カーテンが揺れた。そのとき、メリーが何か、変貌したような気分がした。そんなはずはない。私は、強い拒否感を覚えた。メリーが変貌して、どこかへ行ってしまう気分がした。そんなはずはない! あんなに、楽しくやっていて、ずっとそんな風にやっていられると思っていたのに。
「ねえ、蓮子。ホログラフィック宇宙論って知っている。世界は二次元でできているという説。ホログラフィック宇宙論とか、ホログラフィック原理とかいうのがそれ。世界はほんの薄い層(レイヤー)でできている。レイヤーが違えば見え方が変わる。そして、それらのレイヤーはすぐそばに隣接していて、手を伸ばせば触れられる。
例えば、帽子を被っている私/帽子を被っていない私がいるとする。帽子を脱ぐという動作を経ると、レイヤーは入れ替わり、別の世界が表出する。帽子を脱ぐという情報が、そのレイヤーを切り替えるにすぎない。
私が生きている日本のすぐ脇で、妖異怪異がうごめく世界がある。それはほんの少しのレイヤーの違い。そして私は、どちらのレイヤーにもタッチできる。
私、こと、マエリベリーは、新世紀日本に生きている。だが一方で、1970年代のカンボジアに生きているマエリベリーもいる。それらは、時間が離れているとか空間が離れているとかではなく、同時で、ほんの隣にあるレイヤーっていうことなの。
一方に幼いマエリベリーが居、同時に大人のマエリベリーもいる。
……ね、蓮子。私、幼い私を殺す夢を見るの」
ああ、そう、と切り返すには、重たい話のように思えた。私は困惑し、黙り込んだ。
そもそも、メリーの言っている話は荒唐無稽に過ぎる感じもする。けれど、メリーの目のことも知っている。メリーの見る境界とは、『有り得た可能性』の世界なのだろうか。メリーの目には世界が層に見えていて、そこでは時空を超えることも可能だと言うのだろうか? 1970年代のメリーが、別のどこかへと移動を望み、現代へとレイヤーを超えてきた。理屈は通っているように思う。けど……。
「……知っているわ。私も見ていたもの」
「そうなの? ああ、でも、そうかもしれない。そう言えば、あの夢の中には、蓮子もいたものね。あの蓮子は本物だったのね」
メリーは嘆息するように息を吐き、ベッドに横になった。
「なら、こんなに気にすることもなかったのね。全部、嘘だと思ってた。でも、蓮子は知っていたんだ。言ってくれれば良かったのに……」
クスクス、クス、とメリーが笑う。
「あの時、私は分かった。幼い私の夢は何度も見ていたけど、本当に触れられたのは、あの時が初めて。レイヤーに干渉するなんて簡単なことだと分かった。そして、私自身を殺したら、全部終わりに出来て、全部精算できるような気がした。
でも、蓮子が止めた。……それで、私はそれも良い、と思ったの。何も精算することはない、ということ。クメール・ルージュの理想は生きているのだと思ったわ」
……なんだか、嘘みたいな話だった。
沈黙が、私とメリーの間を、巨大な壁のごとくに、遮っているようだった。風だけがさっきと同じように、レースのカーテンを揺らしている。さっきまではあんなに心地よく感じていた風なのに、今はこんなに冷たい。
「私がこのことを話そうと思ったのは……」
メリーは言葉を切った。続きを話すべきか、迷っているようだった。首を振り、言葉を切った。
メリーは続けた。
「……ねえ、蓮子。クメール・ルージュの話をしましょうか。どこまでは話したかな。都市部の人達は、農村地区の居住地へと強制移住させられた。そこでの暮らしのことを話しましょうか。
移住した人たちは、田畑を耕し、育つことに務めた。時には土木工事にも従事した。夜には集会があって、オンカーの理想を聞かされた。政府のために、とか、ポル・ポトのため、カンボジアのため、とかじゃなくて、オンカー(組織)のために、というのがスローガンだった。とにかくそれを聞かされた。文明社会を捨てた人民の社会の素晴らしさ、貧富のない未来社会の素晴らしさ。
食事はお粥だけ。一日に250グラムの米が与えられていた。それも、飢饉があると七分の一、十六分の一。最終的には二十五分の一になった。動けるものじゃないし、それでも働いていないと見なされると、食事を禁止された。新人類は働かずに食を得る寄生植物である、とオンカーは言った。食物を生産しない者は、食を得るに値しないと言う。
飢えに負けて、自生しているものを勝手に取ると、処刑された。罰はない。敗北したら、森の中へ連れて行かれて、それっきり。
集団疎開の居住地には、元々の知り合いはなくて、全く知らない人たちと家族関係にされて、互いに見張り合うように奨励されていた。隣人に秘密を漏らしたら、次の日には逮捕されている。密告に証拠は必要なくて、密告されるだけで逮捕、処刑された。反乱を企んでいると疑われたら、どこかへ連れて行かれて拷問を受ける。知り合いの名前を言えと言われて、知っている限りの親類の名前を言う。それで、挙げられた名前の人が連れて来られて、同じ事が繰り返される。クメール・ルージュ末期の、カンボジアの人口ピラミッドを見たことがある? 極端に高齢者と若者が多い、テーブル型の人工ピラミッドはそうやって作られた」
「メリー、もういいよ」
「ねえ蓮子、国のために大切なものは何だと思う? 私の考えでは、それは教育だと思う。世の中の理を教えて、社会の仕組みを知る、それで、自己実現に努める。ねえ蓮子、例えば、日本国憲法の十三条を知っている? 『すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。』いいことよ。国家とは何か、どのように成り立って、何のために存在しているのか。知ることは大切だわ」
「国家は、国民の必要としているものを代行する。国民の保護だったり、安全の確保だったり、怪我や病気の時の保証であったり、インフラ整備などの事業だったりする。教育もその一つ。
昔、教育は統一されていなかった。この国では明治から。武士であれば子弟教育を受けて、それ以外の子供はお寺で勉強を受けていて、教育を受けていない子も沢山いた。外国でもそうね。貴族階級の子供は家で教育を受け、教会が学校の代わりをしていたところもあり、義務教育というものはなかった。
学校が制度化されたのは近代になってからのこと」
教育が重要だというのは、メリーを見ていれば分かるような気がした。メリーは知識を与えられ、教育されているというよりも、洗脳されているように見える。けど、私は自分を振り返ってみれば、国家が正しいと何となく信じている。日本は良い国だから、と思っているけれど、私は日本の他の国を知らない。
でも、それはメリーも同じことだ。メリーはクメール・ルージュの教育を信じている。私はそれを思って、反論してみた。
「……でも、メリーはクメール・ルージュのことしか知らないわ」
「私は、オンカーが全てだと教えられた。全て組織のために。それ以外のことは、何もいらないわ」
「だったら、その組織だけのために、その組織とやらだけで、やっていればいいでしょう。他の何かを巻き込む必要なんて、ないでしょう」
「そういうわけにはいかないの。アメリカがどういうことをしたか、知っている?無関係のカンボジアに、ベトナムの兵が逃げ込んでいるという理由だけで、爆撃を行った。クメール・ルージュが生まれたのも、カンボジアが共産国家化したのも、ある種ではアメリカへの反発だわ。単に、共産主義、資本主義という対立で話をするつもりはないわ。現在、共産主義は滅びて、資本主義が確立された。でも、その結果はどう? 貧富の差の極端な二極化。巨大企業が国家を凌駕し、先進国企業による後進国家の乗っ取り。人間を労働力としか見ず、法に従ってはいても貧民層の不満は見て見ぬふりで、国家は企業に依存しているから、企業優先の法整備を行ってばかり。資本主義が完璧なシステムだとはとても言えないわ。問題をただ先送りにしているだけ」
「なら、クメール・ルージュが完璧なシステムだとでもいうの。皆が平等に貧しくなって、餓死寸前で生きてさえいればいいの。それは本物のディストピアだわ。信じられない!」
「私はそう教えられた!」
メリーは声をあげた。大きな声をあげるなんて、議論をひっくり返そうとしているのと同じだ。私は反感を持った、けど同時に、メリーに可哀相な思いも持った。メリーは追い詰められているのかもしれない。何のために? 私のために、それとも、メリーを覆う周囲のシステムのために?
「私はオンカーのためにと教えられた。ポル・ポトは敗北し、クメール・ルージュは崩壊した。でも、それは結果論だわ。本当は間違っているのかもしれない。百回やり直しても同じ結果かもしれない。でも、私はそう教えられたのよ。私がオンカーを失うならば、どのように生きるべきだというの。クメール・ルージュ、民主カンプチア以上の理想を、蓮子が教えてくれるというの」
メリーを批判する権利はない。私も、何も知らないからだ。正直な話をすれば、資本主義云々なんて考えたこともない。ただ、流されるまま生きてきただけで、何となく幸せだから何も考えていなかっただけだ。当然クメール・ルージュの理想も知らなければ、資本主義や共産主義の利点も知らない。そんな私に、国家経営の理想なんてあるはずもない。
「私には分からない、社会のことも、カンボジアのことも、クメール・ルージュのことも、……メリーのことも。じゃあ、メリーはどうするの?」
「私は……」
メリーは言葉を切った。「蓮子と……」と、メリーは私の名前を呼んだ。名前を呼んで、それから首を振り、顔を上げた。メリーは私を見て言った。
「文明を全て破壊し、資本制を破棄して、原始の社会に戻す。旧人類を滅ぼして、新人類で農耕生活をする。差別のない、完全な平等社会を作る」
本気で言っているの。
それから、何を話したか、覚えていない。ただ、帰ったらクメール・ルージュのことを勉強しようと思ったし、それから、ホログラフィック宇宙論とやらのこと、それから社会のことについて、考え直さないといけないと思った。メリーを本気で宥めるなら、資本主義よりも優秀な、それも実行して可能なシステムを目の前に示してやらないといけない気がした。私がもしそれをやれと言われたら、できる、と確信を持っていないと、メリーを説得できないような気がしたのだ。それで、メリーをなんとか宥めて、現実に居着かせたいと思った。メリーが本気なら、夢の中に入って行って、幼いメリーを殺そうとしたように、過去のカンボジアに居着いてしまうことだって可能かもしれない。今から眠れば、メリーと一緒にクメール・ルージュの中にいるかもしれないとさえ思った……本気で思った。でも、そうはならなかった。
目が覚めるとメリーは消えていて、メモと、飛行機のチケットだけ残されていた。メモには、『昨日はごめんなさい。先に帰っているわ。飛行機のチケットは渡しておく』と書かれていた。ああ、冗談だったんだ、と思いたかった。でも、そうは思えず、帰るべきか、私は迷った……けど、メリーが本当に帰っていたら、私が帰ってこなければ、気を悪くしたと思うだろう。私は、メリーの言っていることを信じたのだ。
日本にメリーはいなかった。いくらメリーを待っても、メリーは帰っては来なかった。私にできることは何もなかった。警察にはとりあえず言ってはみたものの、捜索願を出すことは出来なかった。親類であるとか、そうでないといけないらしかった。家族等に連絡を取ることも勧められたけど、メリーの家族も知らなければ、生まれ故郷も知らないのだ。メリーの言ったことを真に受けて、家族はどこ、なんて聞かれた時に、1970年代のカンボジアにいます、と答えたら、なんて言われるだろう?
私は、メリーのいそうなところを尋ねて回ったけど、常に虚しい感覚が付きまとった。自分は無駄なことをしているという感じがした。メリーは私の手を擦り抜けて、永遠に届かない遠くへ行ってしまったのだ。メリーの言っていることを信じれば、別のレイヤー、いわく、別の世界だ。まだ、地球の裏側ならば探しようもあるかもしれないけど。メリーを追って、メリーと同じような目を持っている人を探し、別世界のメリーを追っかける?それこそ、SFの話だ。私は徒労を繰り返した。
勉強は、常にそうだけど、徒労という感じがしなくて、私はそこに慰めを見出した。メリーに聞くまで大して知らなかったカンボジアのこと、クメール・ルージュのことだ。メリーの言っているような事柄はどうやら、概ね正しいようだった。東西冷戦に巻き込まれる形で王政が倒され、アメリカの意を汲んだ新政権が確立。だが、ベトナム戦争に伴ってカンボジアが爆撃を受けるにつれて反米感情が膨れあがり、ポル・ポト旗下のクメール・ルージュによって作られた国家が民主カンプチアであるらしかった。原始共産主義、都市生活を行っていた住民の重労働、虐殺、そしてポル・ポトの周囲への不信感、恐怖政治。ベトナムの支援を受けたカンボジア人による反クメール・ルージュ闘争、そして敗北。
映像も調べた。沢山の人達が、木の棒を担ぎ、土を運んでいる。いくつもの人の流れ、人、人、人……。土を担ぎ上げ、別の場所から別の場所へ運んでいる。これは、田畑を作り、米や食料を作るための大型ダム作りの現場だ。会社という組織もなく、トラックやショベルカーというものもない。人の力で、文明の発展に追いつこうとした。
大型のダムというものが、そもそもどの規模のものなのかというところから始まるほど、私の知識は少ない。だが、ダムを人力で造るとして、どれほどの時間がかかるものだろうか? 毎日毎日、土を運ぶ。あっちからこっちへ、掘り出しては持ち上げて、放り投げる。来る日も、来る日も。
ダムを生み出すという行為で、後世の人々は得をする。そのための礎と思うことが必要なのか?
労働をしている人の姿を見ただけで、全てを想像することはできない。ダム造りに従事する人達もいれば、別の労働をする人もいただろう。それに、ダム造りも永遠ではないし、その他の時間の使い方も分からない。
……要するに、勉強はしたものの、当時のカンボジアのことなど、何一つ分からないということだった。
勉強をいくら勉強したところで、理解もできなければ、メリーを説得する材料にもならない。そういう日々の中で、咲子は現れたのだった。
…………
私と咲子は、カンボジアの大地に立っていた。私にとっては二度目のカンボジアだった。入国する時は普通に飛行機で来たけれど、そこからは、車をチャーターしたり、あんまり大多数で動いたりだとか、目立つことはできない。人員も、私と咲子の二人だけだった。けれど、咲子の仲間の職員は、そこらで見えないように、うろついているのかもしれない。……でも、私は気にかけなかった。
私の相方、旅の道連れ、咲子は妙に自信に満ちた立ち姿をしていた。腰に手を当て、両足を大地につっぱり、カラフルなワンピースを身につけ、やたら巨大なサングラスで目を隠している。どういう変装のつもりなのだろう。
「さて、どうすんの」
「さあ?」
私は投げやりに言った。さあってあんた、と、咲子は私に言った。
空港を出ると、カンボジアは夜の中だった。とりあえず、空港の案内所である地名を挙げて聞いてみると、そこまで行ってくれるタクシーはないという。外へ出て、乗り合いのトラックを探し、相乗りで目的地へ行くことになった。
「どこに行くの?」咲子が聞く。
「クメール・ルージュが絶滅処理場にしていたところ。牢屋、拷問場、それから処刑場。今は観光施設にしているみたいだから」
「そこに、あんたの相方のいるあてが?」
「そんなものないわよ。勉強したけど、見たことはないし。実地で見て見ないことには」
「何よ。役に立たないなら、連れて帰るわよ」
ふん、と咲子は拗ねて顔を背けてしまった。私にもあてはないが、どのみち、咲子たちにもあてもないのだろう。ヒントは私の存在くらいだ。舗装されていない山道を、トラックはひどく揺れながら走った。相乗りしているカンボジア人たちは互いに喋ってはいたけれど、さほどうるさいという感じもしなかった。基本的には物静かな人達だった。
この人達にとっても、クメール・ルージュのことは、遠く過去の出来事だ。だけど、この大地には無数の死体が埋まっている。
私は、メリーと一緒にここへ来た時には、そんなことを考えもしなかった。クメール・ルージュのことなんて、悪い過去のことで見向きもしなかった。私自身避けていた。見つめ直さなければならない。メリーのためじゃなくて、私自身のために。
トラックは夜の中を、揺れながら走っていった。トラックの荷台の中で、私は時折まどろみ、時折ひどい揺れと衝撃のために叩き起こされた。カンボジア行きのジャンボ・ジェットとは、まるで違う乗り心地だった。
「ところで、私をあっさり解放していいの。メリーにあるように、私にも異能の目があるのに」
「ああ、あれ。別に異能でも何でもないわよ。人は星空や太陽、季節の進み方や風の吹き方から時間の進みを想像した。要するに、人は自然から時間を感じ取る能力がある。あなたは少しばかり勘がいいだけ」
「勘」
「そう。勘がいいから、時間をぴたっと当てられる。それだけ。でも、そうね。あなたの勘の良さは、役に立つかもしれない。あなたの相方が境界を越えて別の世界にいけるなら、境界を越えた時、時間が少し飛ぶかもしれないわ。僅かな誤差が生じ、それを感じ取ることができるかもね」
「ほんと? ……ところで、メリーに境界が見えるのは、メリーも勘が良いからなの?」
「勘がいいというより、思い込みの類ね。思い込みが強いから、その世界が本当だと考え、物理的に影響を及ぼすことができる。カンボジアと現代に同時に存在できるなんて、想像できる?」
「できない。……でも、ホログラフィック宇宙論ならそれを実証できるかも。でしょう?」
「ホログラフィック宇宙論なら実証できるかもしれない……から、信じられるかもしれない、というだけのことよ。自分を肯定したいがために、実証できそうな真実を探しているだけ。嘘を本当だと思うために、嘘の証拠を探している」
「ホログラフィック宇宙論は嘘?」
「実証されていないからね」
「メリーが実証するかもしれない」
「実証したら、それが既定路線なのよ。……このトラック、ひどいわね。もっといい移動方法はないものかしら」
その日の夜のうちには、辿り着かなかった。運転手のおじさんが知らない村で泊まり、トラックは動かなかった。当然ホテルなどはない。どういう交渉をしたのか、咲子が村人の家に泊まる手はずを整えて一夜を過ごして、到着したのは次の昼のことだった。
ひどく、腰が痛んだ。私の目指すクメール・ルージュの旧人類絶滅施設は、まだ先だ。
旧人類の絶滅施設は、元は高校の校舎だということだった。未来ある子供を育てるための建物が、惨憺たる拷問施設へと変えられた。今は、資料館になっている。
壁には、巨大な、カンボジアと周辺の地図が飾られている。地図でのカンボジアの領土は、人の頭蓋骨で象られている。
「場所が場所で、人種が人種ならば、ナチスドイツ以上に喧伝されているでしょうね。でも、死んだのは白人じゃなく、カンボジア人。ルワンダでも似たようなことがあった。そのときも死んだのは白人じゃない。それに、カンボジアもルワンダも、種を蒔いたのは先進国の人間」
「何が言いたいの」
「いいえ。あなた、あの相方の子に害されているのかなと思って。あなたが考えていそうなことを代弁してみただけよ。でも、事実は事実。私やあなたはどちらかというと部外者、第三者。端から眺めていられる立場だわ。あなたも、どちらかというと、蚊帳の外にいる気分なんじゃない?」
咲子の言う通りだった。どこか、冷めた気分で見つめている。オブジェを作るにしても、時代というものか、人の骨を使って飾るものでもない気がする。これは、残酷なことは見たくないようにしておこうという、日本人の考え方だろうか。
プノンペン郊外のキリング・フィールドには、木で出来た小屋のような建物があり、無造作に人骨が置かれている。町中にも、ガラスケースに入れられた人骨のオブジェがある。内戦下でのカンボジアでは、死体が捨てられていることなど当たり前だったのだろう。
私には、そのような状況など思いも寄らない。どのように考えるべきか、惑っている。傷ましく思うことさえ、どこか作り物のような、白々しさを感じている。
これは正しいことだろうか? 白人たち、内乱の種を蒔き、そして国際社会で影響の少ない辺境で起こっている出来事を無視し、無いもののように扱った先進国の人達。アメリカ人やヨーロッパ人だけではない。日本人だって、見て見ぬ振りをするというのでは同じではないか。私も同じではないのか。自分達の儲けだけを考えて、良くない影響を与えるものは見ないようにする。それで良いのか。私は、メリーをどうしたいと思っているのだろう。安穏と、日本人として暮らすように、メリーに説得したいのだろうか。
絶滅施設には絵画があった。人々は皆黒い服を着ている。過去を塗りつぶす黒が、クメール・ルージュ新人類のモチーフ・カラーとされたからだ。映像でもそうだった。あるいは兵士たちが、裸の農民を縛り上げ、連行する絵。首を締めあげて絞殺する処刑風景。施設には、拷問器具があった。かつて教室だった場所に置かれている鎖のついたベッド。足枷があり、電気のプラグがある。施設には、処刑室もあった。壁一面に、顔写真が貼られていた。無数の人、人、人。男もいれば女もい、年上の者がいれば若い者もいる。全て、処刑直前に撮られた顔だ。奇妙に無感動な顔を、レンズに向けている。
このように、クメール・ルージュは旧人類を絶滅し、新人類を作り、新秩序を作り上げようとした。こんなものは間違っている。私の中の善性が、目の前の出来事を否定する。メリーがこのようなことをしようとしているのであれば、止めなければならないと思う。
けれど、私はさっきまで考えていたことを思い出し、その二つの考えの間に立つ。私達の社会、資本主義の社会は、他国の事柄には無関心だ。そのようにして、自分達のことだけで良いのか。社会主義、全体主義の、他人の行動に踏み込みすぎ、違う考えの者は絶滅するというようなことも認められない。
どちらも、極端に傾けば良くないのだ、と言うのは簡単だ。中庸に過ぎて、耳障りのいい、常人ぶった意見。それは、私の常識を守るのには役立つだろう。でも、メリーを説得するには、とてもじゃないが足りない。
夜、安い宿を取り、咲子と一緒になって座り込んだ。
「あなた、隣に部屋を取ってあげたでしょう。どういうつもり? 夜も一緒に過ごしたいの?」
「いいえ。話がしたいと思って」
「疲れているんだけど」
お構いなしに、私は聞いた。
「メリーの言っていた、ホログラフィック宇宙論というのは本当なの?」
咲子はベッドに放り出していた身体を半分起こし、壁に背中を預けた。
「ふん。……ホログラフィック宇宙論ね。ブラックホールに吸い込まれた情報は、時間や光、空間の影響を受けない平面となる。それらは失われたのではなく、情報として保存され、そこから私達に投影されているという……いわば、ブラックホールに映る平面がこの世界という考え方になるのかしら。私も専門ではないから、どうやってそう飛躍するのか分からないけれど。……本当じゃないわよ。実証されていないもの」
本当かな、と私は訝しんだ。この女は何かを隠している感じがする。
「じゃあ、メリーはその理屈を元に何をしようとしてるの?」
「あなたが言われたことでしょう」
世界の変革、信じたくはないけれど、メリーの言っていたことは事実として、固定されつつある。私が認めていないだけのような感じだ。
「メリーは完全な共産世界を目指していると言った。原始共産制を完成させると。……でも、そんなことが可能なの? メリーは隣り合う平面の世界に触れられると言った。メリーは平面の向こう側に移動して、1970年代にいる幼いメリーを殺そうとした。あれが可能なの? 移動する程度だけではなくて、世界そのものを持って来ることができるの?」
「世界を持って来るというのは、微妙に違う。世界とは情報なのよ。例えば日本の京都という情報があり、行き交う人々にもそれぞれ個別の情報がある。それが投影されているということ」
「よく分からないな。なら、人は一人一人、それぞれの情報を見ているの?」
「一人一人、という個の感覚さえ、ないのかも」
「じゃあ、私は何? メリーの目に映る風景の一つ、情報の一つということ? 情報のために、私の自我がある……メリーがやろうとしているのは、個人の意志を含めて、情報、つまりレイヤー上の事柄を編集するということ? 情報を作り替えて、メリーの思うがまま、世界を作り変えられるということ?」
うーん、と咲子は首を捻る。「どんな風に説明するべきかしら」
「世界は既に完成されているの。世界とは情報なのよ。基本的には、記録されたものが世界なの。それは編集することはできない……映像として流されているだけのこと」
「だけど、メリーはカンボジアでの経験を話したし、実際に私も幼いメリーを見たわ。あれは夢だけど、私とメリーがそう思い込んだだけで、集団幻覚の症状なの? 全部、メリーの妄想?」
「違う。つまり、そうね。世界は一つで、世界は完成されているのだから。1970年代にはあなたの相方はいて、同時に、現代にもあなたの相方はいた。そういうことよ」
「訳分からないわよ。でも、もし、メリーがその、全世界の原始共産主義化を成功させるとしたら」
「そう。世界が変わった結果ではなく、それは決まっていた、ということになる。世界史を見てみましょうか。封建社会が終わり自由化が来て、資本主義が勃興し、共産主義と対立して、資本主義が勝利を収めた。そして、その次の歴史に、原始共産主義が刻まれる。それが既定路線だった……ということ」
私は溜息をついた。世界は完成されているのだとしたら、私のすることは全部徒労だ。全て、筋道の決まった映画を見ているように、キャラクターがどんなに努力しようと、全て流されて行くばかりだ。
「でも……じゃあ、あなたが追いかけても、無駄じゃないの」
「そう。それが分かっているとしても、国家と法律はあなたの相方を犯罪人とすることは変わらないし、あなたもその片棒を担いでることは変わらない。それに、相方が逃げおおせるのが既定じゃないかもしれないわ。私や、他の職員が捕まえるのが結末かもしれない」
この女の言っていることが、全て真実だとは限らない。また、この女が真実を語っているつもりでも、メリーとは見え方が違っているかもしれない。この女は、世界が固定されていないと困るんだ。それはそうだろう。この女は体制側の立場なのだから、世界が引っ繰り返されてしまっては困るんだ。
私は? ……私は今のままの世界で良いと思っているのか、それとも、引っ繰り返ってしまってもいいと思っているのか。
「それに、あなたも同じでしょう。例えあなたの相方がいなくなるのが決まっていることだとしても、あなたは最後まで追いかける」
そう、それだけは確実なことだ。
「もう一つだけ、いいかしら」
「もう一つだけよ。もう、眠いんだから」
「もしもメリーが、重なり合った別の層へ移動するとして、それのどこが問題なのかしら? 私達の現実には、何も関わってこないでしょう? メリーはどこかへ行ってしまい、私達は置き去りにされる……それだけのことじゃない?」
「ええ、それは未知数だわ。未知数だから、警戒している。そう、例えばあなたの相方は向こう側の世界で得た物を、こちら側の世界へ持ち込もうとし、その方法を見つけ出すかもしれない。それに、あなたの相方のように、別の世界へ行く方法を見つけ、技術として確立したらどうなるか? 皆別の世界へ移住して、この世界には誰もいなくなる……かもしれない。それは都合が悪いの、この社会を形成する人達にとってはね」
「搾取できる対象がいなくなったら困る、の間違いじゃなくて」
「どういう思惑で上が動いてるかなんてのは、知らないわ。私にも関わりのないことだしね」
「もう一ついい? あなたはどう思う? 別の世界について?」
「私は、この世界が好きよ。別に変わってほしいとは思わないし、別の世界へ行こうとも思わない。これで充分だわ。……給料高いし」
もう自分の部屋に帰りなさい、と咲子は言った。私は大人しく立ち上がって、自室へ戻った。明日は、どこへ行くべきだろう? と、いうよりも、私はどこへ行き、メリーをどこへ連れて行くべきなのだろう、と思った。
ひどく巨大なダムだった。ポル・ポトが人力で建設させたという、農耕のためのダムだ。これと似たようなダムをいくつも作り、農産事業を発展させようとした。本来、ダムは専門的な知識と技術の元、工業用車両を使って作られるものだ。それをポル・ポトは人力のみで果たそうとした。ダムというものの知識と効用を持ち込んだのは、ポル・ポトとクメール・ルージュの知識層だろう。人力でそれを作ることで、新世界としてのカンボジア、民主カンプチアの意義を示そうとした。複雑な道具や機械などもいらない、人の力のみで事業を成すことができるのだ、と。
クメール・ルージュのプロパガンダ映像が残っている。無数の、黒い服を着た人々が、肩に棒を担いだり、籠を持ったりして、土を運んでいる。向こうからこちらへ、掘り出した土を次々と積み上げている。ほんの一部の人が思うだけでは、この事業は出来ないだろう。無数の人を動かすことができてこそ、人力でのダム建設はできる。人力のみでダムを造るのに、八年の年月がかかったという。
事実そのダムは水量を安定させ、川下の農業地のために役立っただろう。一定の効果を見ることはできるが、しかし、その過程は褒められたものではない。無数の行き交う人々の中に、映像ではうまく隠そうとしているが、小銃を提げた子供兵士の姿が映っている。ダム建設は民衆を使い、強制労働の末に作られたものだ。一定のノルマを果たせなかった者には、食事の量を減らすか、食事を与えられないかという罰が与えられた。
この巨大な貯水池は、今でも使われているのだろうか? 後生に残るものであれば、微少であれ、意義はあったはずだ。それにより食事を得られる者もいる。しかし、その為に飢えて死んだ者も無数にいる。それらは、未来のための犠牲だと思うべきだろうか。クメール・ルージュ支配下の民主カンプチアそのものが。
「ねえ、湖を眺めてても仕方ないでしょ。この底にあなたの相方でも沈んでるというの?」
咲子は不満そうだった。私にも、行くべき場所なんて分からない。
私は黙ったまま、湖を眺めていた。
「……古いドキュメンタリーで見たわね、こういうの」
咲子がぽつりと、呟くように言った。風が吹いて、私達の髪を揺らした。
「ポル・ポトの理想なのかもね」
私も、応えるように、ぽつりとこぼすように言った。咲子に答えたわけでもなく、ただそう気付いただけのように思った。咲子が私の言葉を、敏感に捉えたのが分かった。私に注目し、言葉や動作から、私の真意を探ろうとしているのが感じられた。
「本気で言ってるの」
「本気で言ってるわけじゃないわ。でも、ポル・ポトの理想の根本は、カンボジアにあるわけでしょう。ルソー式の自然賛美と、レーニン式の共産主義を学んで、ここで実践しようとした」
私は、聞きかじりというか、付け焼き刃で学んだ知識と、想像を言った。それが正しい正しくないではなくて、自分の中で確かめたかったのかもしれない。
「自然が素晴らしい、自然な状態が素晴らしい、というのは、教えられる前から、ポル・ポトの中にはあったような気がする。田舎に行くと、安心した。ああいう感じ?
ポル・ポトはフランスの、都会の中で、理念を学んだ。そして都会を憎んだ。カンボジアは、祖国を理由なく攻撃された。ベトナムの反乱分子が潜り込んでいるという理由だけで、カンボジアは無慈悲な爆撃を受けた。無知な村人たちにとっては、災害にも等しかったでしょうね。何の理由もなく、空を飛ぶ化物が地上を壊していく。ポル・ポトは、それをしているのが、アメリカの都会に暮らしている人だと知っていた。アメリカの政府であり、アメリカの資本、アメリカの資産家、アメリカの国民」
「あなた、随分マエリベリーの肩を持つのね。あなたを自由にしておいていいのかどうか、不安になってきたわ」
「私もちょっとは勉強して、ちょっとは考え深くなったのよ。でも、だからって全部農村地帯にしてしまえとは思わない。京都は好きだし、都会も好きだわ。……そうね、ポル・ポトと同じ。私の根本には、日本があるのよ。皆、そう。皆の中に理念がある。言葉にはならないだけで。それは自分にとっては絶対的に正しいのだろうと思うけど、誰もがそうで、他の誰かの根本を奪うことは、誰にもできない」
私は、言葉を続けた。
「誰もが、自分の根本を言葉に出来なくて、でも、確かにあるそれを感じている。だから、それを言葉にしてくれる人が出て来た時、自分のもののように思って、代弁されているような気持ちになって、全身を放り出して従ってしまうものかもしれない。……でも、それって、皆、違うものなのに、一つのものにはできない。なんて言えばいいんだろう」
私はしばらく言葉を切った。ひどく暑くて、風が吹いていた。湖面が揺れて、半円状の波が生まれて、遠ざかっていった。
「信じたものは、最初は正しいと思って信じたとしても、やがて違うと感じることもあるでしょう。でも、一度信じたもの、自分の根本と同じだと感じたものが間違っていたとは、素直に認めることは出来ない。それで、終局的な破滅まで、突き進んでいくことになる」
メリーはそういうことなのかしら。破滅まで突き進まないと済まない。本来、メリーはカンボジアで死んでいて、終わりのはずだった。それが、特殊な目と力を持っていたから、ここへ来て、再び走り出そうとしているのかもしれない。
「愚かなこと」
「……そうかしら」
「そうよ。あなたの相方は間違っていて、間違った方向へ行こうとしている。彼女はなりは大人かもしれないけれど、気持ちは子供のままなのかもね。彼女はカンボジアに立っているのよ。1979年からずっと」
子供の時に、間違った教えを植え付けられたなら、それを振り払うことはできるのだろうか。自分が正しいと教えられたことを、根本から捨てなければならない。仮にそれをしたとしても、新しく教えられた知識や事柄、常識を疑うことになるだろう。この世界は正しいのか、という揺らぎの上に、メリーはずっといたはずだ。
私はどうするべきなのか、やっぱり分からなかった。メリーを導かなくてはならない、と思う。導く、そんなことができるのだろうか。
夜になって咲子の部屋へ行くと、鍵がかかったままになっていた。ドアノブをがちゃがちゃやると、押し込むようにロックが外れて、扉が開いた。中には咲子の姿は無かった。こそこそと、どこかへ出かけているらしかった。
朝になって、行く先を決めたのは咲子の方だった。移動手段は相変わらずのトラックだ。がたがた揺れる荷台の上で、咲子が私の耳に口を寄せた。
「あなたね」
咲子の口調は、説教じみていた。
「少しは、役に立ちなさいよ。そのために連れてきたんだから。あんたを、日本に戻したって別にいいのよ」
ふん、と私は思った。こっそりと、メリーと連絡を取るんじゃないか、と思っているくせに。
咲子に連れて行かれたのは、見知らぬ農村だった。道路のところだけが、車が通るために砂地になっていて、住居のほかはほとんどジャングルだった。比較的近代的な集落が中心にあって、そのほかは……原住民に近い、木でできた高床の家に暮らしている家があるのみだ。
中心地では、バーかカフェのようなものがいくつかあって、プラスチックでできたテーブルや椅子に着き、現地の人が数十人、テレビにかじりついていた。大人もいれば、立っていたり、しゃがみ込んだりしている子供もいた。
この田舎の果てのような場所に連れてきたことについて、咲子は何も説明はしなかった。バックパッカーを汚くしたような私はまだその場に馴染んでいるような気もしなかったけど、身綺麗にして勘違いしたセレブみたいな格好の咲子は、明らかにその場に馴染んではいなかった。注目を浴びる中を、咲子はさっとどこかへ立ち去ってしまった。私は一人で残された。昨晩の様子からして、咲子は何かを掴んだらしい。
咲子を追尾してみたけど、すぐに私はまかれてしまった。これじゃ、メリーの手伝いをして反社会活動をしようにも、活動家失敗だ。一人残された私は、そこらをぶらぶらして回った。まったく、これじゃ、暇潰しに来たのと同じだ。もっとも、日本にいたところで、メリーの手がかりは何もない。
私は、メリーの道連れで逮捕されて、こうしてカンボジアに来た。日本にいれば、牢獄で待っているだけのことだ。それよりも、メリーを探さなければいけないと思った。どこにいるかも分からないけど、ここにもいないような気分はしている。メリーはどこにいるのか、と考えれば、私の直感では、この現実にはいないような気がした。
ホログラフィック宇宙論にしろ、現実離れしている、と思う。私の知らないところで確立されていて、周知のものとなっているのかもしれない。秘匿されているだけで、私の知らないところで。でも、私の感覚からすると、現実離れしていた。あまりにも現実離れしている。メリーとお酒を飲み、メリーの生まれのことを聞き、メリーについてカンボジア旅行をしたときから、今までずっと。どうにも、これが本当の出来事とは思えなかった。
と、いうのも、私は……平淡に言うならば、メリーの言うこと全てに、ドン引きしていたのだ。平凡な日本人としての私としては、動機が何一つ理解できなかった。
だって、そうだと思う。日常を享受して、国民の義務を果たしていれば、平和で楽しく過ごすことができるのだ。それが日本という国家機構の恩恵を受けることであり、運営を助けることでもあった。
メリーはそうは思わないのだろうか。何年メリーが日本で過ごしたか知らないが、日本という安全地帯を好ましく思わないのだろうか。
メリーには何一つメリットはないように見える。メリーは、自分一人がそれを享受するのを、居心地悪く感じたのだろうか。メリーの中には、まだ、メリーが殺した人々や、理想を信じる人達がいて、その人達への思いが、メリーを全世界の原始共産化という、果てのない、無謀とも言える挑戦に走らせたのだろうか。かつての革命戦士たちは、自分たちが死んだとしても、後へ続く者達の礎になると嘯いたらしい。メリーもそういうつもりなのか?
もし、メリーが迷っているなら止めたいと思う。けど、そういう、現実的な話とはかけ離れている。メリーが本気になっていて、死ぬまでやるつもりなのならば、私に何ができるだろうか。黙って、見送ってやる他はない。その熱意も理解できなければ、その理想の世界も理解することはできなかった。とてもじゃないが、素晴らしい世界とは思えない。日本は資本主義の世界で、色々な歪みはあるかもしれないけど、だからといって生まれ故郷を批判し、破壊しようという気分にはなれなかった。これはもはや生まれの場所の問題で、どこに去秋を覚えるかという問題でしかないのだろうか。
メリーが革命をするとして、放置するほかない理由はもう一つある。メリーが望む全世界の原始共産化、それが可能ならば、ということだ。
メリーがもしも、それが可能なように世界が変えられるとすれば、の話だ。メリーは隣のレイヤーに触れて、物事を変えることが可能だと言った。実際、理屈は分からないが、それはタイムスリップを可能にしている。過去へと移動し、未来を変えてしまうことも、あるいは直接現在を変えてしまうことも可能かもしれない。別の世界へ移って、原始共産化されたところで永住するかもしれない。
もしもそれができるならば、私にできることは何もない。メリーはすでにそこへ行ってしまっていて、私にできることは何もない。
私のしていることは、何もかも無駄かもしれなかった。現実味がなく、だけど、全部が嘘だとも言えず、どっちつかずで、私はここにいる。メリーはそこらにいて、ひょっこり現れたりとか、あるいは、良くない考えだけど、逮捕されたり、あるいは死んでしまっていたりということを考える。物事には、流れがあって、ストーリーがあるように、全て決まっているとしたら、どこかに終わりはあるはずなのだ。メリーが世界をいじれるのならば、それはなくなるが、そうでないとすれば、どこかで決着がつく。
私は、何らかの決着を望んでいるだけで、メリーをどうこうしようという気はないのかもしれない、と唐突に思った。どうやってメリーを導くつもりでいるのか、私自身にも分からなかった。
要するに、私はメリーというものの、本当の姿を知りたいだけなのかもしれない。
咲子が迎えに来た時、私は膝を立てたまま座って、首を膝の間に突っ込んで項垂れていた。とてもくたびれていて、夜を迎えようとしていることだとか、どこで泊まるのだろうとか、そういうことは考えなければいけないけれど、考えて行動することさえ億劫になっていた。
私はどこか知らない民家に放り込まれて、知らない人に案内されて、むしろの敷かれた床で寝た。咲子が用意してくれたのだから文句を言えないのだろうけど、良いホテルとは言えなかった。ホテルというより、ホテルなんてないのだろう。民家を借りたに過ぎない。どういう手続きを経てるのか知らないけど、なんだか、こうしているうちに全て終わっていきそうだった。
現地の人と仲良くなった。現地の人と並んでテレビを見たり、そこらをうろついて見学をしているうち、向こうでも観光者なのだ、と納得するようになったらしい。
クメール語はさっぱり分からない。なので、何か言われても、とりあえず分かるだけの英単語や、時には面倒になって日本語で返していたけど、理解し合えなくてもコミュニケーションを取っているということだけは分かるもので、時には長いこと、分からないままに、話し込んだりもした。
英語が分かる人を見つけて、単語だけを並べてなんとか対話してみた。そうすると、ここにはかつてクメール・ルージュに参加していた人達がいる、一部のグループがここに棲み着いていて、その子供達も暮らしている、というようなことも聞いた。クメール・ルージュの残党は、今では世の中をどうこうというつもりはないけれど、今でもポル・ポトとクメール・ルージュを信奉していて、参加したことを誇りに思っているという。そういうものかもしれない。素朴な農耕生活をして過ごしていた人達が、理由なく大国どうしの闘いに巻き込まれ(当然冷戦だとか、そういったことは分かっていなかっただろう)、そして、そうした暴力へ対抗するために得たイデオロギーなのだ。全く理解が及ばない世界の事柄に答えを用意し、対抗する方法を教えたのが当時のポル・ポトだ。良きにしろ悪しきにしろ、イデオロギーはそういう力を持っている。熱を持ってのめり込み、信奉するようになるのも分からなくはない。
元、クメール・ルージュの人達や、その子供や孫達も、それで差別を受けることもないようだった。たぶん、大多数のカンボジアの人達にとっては、他の政府に感じるのと同じような感じしか受けていないのではないだろうかと、私は想像した。資本主義者、あるいは同じ共産主義者、あるいは知識人。あるいは資本主義の他国は、クメール・ルージュを批判する。だが、カンボジアの農村に住む、直接被害を受けたわけではないカンボジア人にとっては、そういうことは重要ではないのだ。被害を受けた都市部のカンボジア人にとってはたまったものではないだろうが、当時には……そして今でも、クメール・ルージュとポル・ポトを信奉する人はいるのだ。
クメール・ルージュの信奉者がいると聞いて、咲子がここへ来た理由が分かった。咲子はここにメリーが潜伏しているのではと思い、調べているのだ。それにしては咲子の姿は派手に過ぎるけど、まあ、咲子は囮なのかもしれない。他のエージェントもいるのかも。
それからしばらくして、私は川の水の浄化を試していた。ビニールをもらって、木の枝で四方に足を作り、コップに入れた川の水を下に置き、蒸発した水を集めて別の入れ物に入れるのだ。昔、サバイバルの雑誌に書いてあった。実際、できるのか半信半疑だったけど、一時間、二時間と待つと、雫がこぼれてくるようになった。一滴、二滴。これがいっぱいになるのにはどのくらいかかるだろう。
川の水は、たぶん飲めない感じがした。現地の人なら慣れているかもしれないが、都会暮らしの私はお腹を壊してしまうだろう。京都にいれば、水は蛇口を捻るだけで出てくる。それはインフラが整っているからだし、インフラを整えるための税金を払っているからだ。ここではそういうものはない。水を飲むには水を買わなければいけない。
私の持っている知識は、文明と言えるかもしれない。危ない水を真水にして飲めるようにする技術だ。文明は偉大だと思った。渇きに耐えかねて川の水を飲み、お腹を壊して、死んでしまうかもしれない。
そうしていても、なかなか水は溜まらなかった。私は買ってきたペットボトルの水を飲んで、しばらく横になって待っていた。子供が集まってきて、それが何かと興味深く眺めていた。子供はいい。言葉が通じなくても、なんとなく分かる気がする。子供は私を眺めて、この異様な奴はどこから来た、何者なんだろうと思っている感じがした。私の側でも、この少年少女たちは何者だろうと思ったりした。クメール・ルージュは子供を重要視した。村を周り、理想を説いて、共感した子供達をクメール・ルージュに参加させていた。
子供だけでなくて、大人も来た。私に何か伝えたいことがあるらしかったけど、言葉が通じない。英語ができる人が来て、私に伝えた。村の外れで地雷が破裂して、ここに来ていた日本人が死んだ、と言った。
大昔には、ベトナムに対抗するため、クメール・ルージュが大量に埋めた地雷が国内に残っているということは知っていたけど、今でも残っているものだろうか。ほとんどは、国連などの協力によって取り除かれたはずだ。それを踏んで、咲子が死んだ? あるいは、咲子は処理された? 何者かによって?
……何が起こっているのか、分からなかった。咲子が殺される理由は何もない。単なる事故でないのなら、殺されたのは、咲子を邪魔に思っている人間がいるからだ。メリーがここにいて、クメール・ルージュの残党と一緒になって、咲子を殺した。それは恐ろしい想像だった。メリーが人殺しをするなんて。だけど、それがメリーのやろうとしていることだ。メリーが行動を起こせば、反対する人達を殺していかなくてはならない。世界の原始化など、多くの人が反対するだろう。都会に暮らしている多くの人は、川の水など飲めない。身体を弱らせれば、多くの人が死ぬだろう。反対が出るのも当然だ。
夜になって、私はむしろから身体を起こして、立ち上がった。家の人に悪いから、音を立てないように家を出た。家の先にはスコップが置いてあった。
死んだ日本人は埋めた、と聞いた。私はスコップを拝借して、ジャングルの中を進んだ。どこに埋めたかなんて聞いていない。
私はとにかく、ジャングルの中に土の地面を見つけると、スコップを突き刺して地面を掘った。咲子を掘り返したところで何の意味もない。私は、もう一つの可能性を考えたのだ。死んだのはメリーかもしれない。咲子が、メリーを殺したのだ。その可能性はあるかもしれない。ここに、ボリビアの軍隊によって埋められたゲバラのように、メリーも埋められているかもしれない。
私は、死んだのがメリーかどうか確かめたくて、とにかく掘った。ジャングルの土を掘ると、死体が出て来た。けど、それはメリーじゃなかった。ここらでは、地面を掘れば死体は出てくる。私は死体を全部掘り出すと、骨をきちんと並べて、再び埋める。穴を掘り、死体を見つけてはまた埋めてゆく。なんで、掘り出しては埋めるということをしているんだろう? 私は空を見た。午前二時四十五分……。ここが二時なら、京都は十一時くらい……?
そうしているうちに、この死体はメリーではないか、という気持ちがしてきた。穴に横たえた死体は、別世界、あるいは過去へ行ったメリー、あるいはここにいるのとは別の、幼いメリーではないかという気分がした。メリーは一人ではなくて、無数にいるのだという思い込みが私の中に生まれた。穴の中に横たわった死体は、幼いメリーの姿をしているように見えてきた。幻覚かもしれない。肉体的疲労があり、精神的にももう限界かもしれない。こんなところへ送られて、私は何をしているのだろう。
幼いメリーは、眠っているように綺麗な顔をしていた。これは、掘り出してはいけないものだ。私の知っているメリーとは違うものだ。メリーは一人であって、それ以外の存在がいるとなると、現実が揺らいでしまう。私の知っている現実を取り戻さなければならない。私は、幼いメリーに土をかけ始めた。背後から、誰かの声がした。
「ここらは、地面を掘れば死体が出てくるのよ」
私は、背後を見るより先に空を見上げた。時間が回る。星が尾を引いて、円を描くように伸びてゆく。長時間露出で撮った写真のように、空が光の線で満ちていく。
「この国で暮らすとき、人の死を踏みつけにしている。再び行われてはいけないことだわ。私はそれを学んだ」
星空がやがて、一つの地点に固定される。似たような空の形だ。だが、午前二時四十分。時間が巻き戻っている? 違う、そうではない。別世界への境界を超えたのだ。メリーは既にこちらのレイヤーにおらず、別のレイヤーへと移動している。私はそちら側のレイヤーへ来た。咲子は、私の目があれば、時間の移動、別世界への移動を察知できるかもしれないと言った。だけど、その時、知っている知識の中から、現実に起こりそうなことを選んで自分を納得させるとも言った。そのどちらだろう? 私が見ている物は、本当のことなのか、それとも嘘なのか。
「独裁者の話をしましょう。人の時間は有限であり、知識や情報も有限である。全てを知ることはできないし、そして、人には人の心を知ることはできない。
独裁者は、国家を支配しているつもりでいても、実際には部下の心一つ支配することはできず、あらゆる事柄を自分自身で見聞することもできない。だから部下達に都合の良い、嘘の情報を教えられて、正しい統治ができず、本人も疑心暗鬼に陥る。
国家の話もしましょうか。狩猟があり、農耕があり、交易があり、戦争があって、人々の生活があった。統率し、それらの便宜を図る代わりに、運営のための資金や労力を募る。権利と義務という、契約関係が生まれた。村単位だった社会がやがて町になり、国家となっていった。
自然の中で、獣ですらグループを作り、リーダーを作る。人も獣の一つだし、文明を持っていようともそれは同じ。けど、完璧な統治が行えるはずはない。完璧でないにしろ統治が生まれ、やがて統治は機構となり、国家という枠組みができる。新しく生まれた人は、国家という枠組みに組み込まれていくようにできている。
人は一人ではない、けれど、人と交わると集団になる。国家とは集団のことよ。他人と比べることは止められず、幸福は個人のものから他人との比較から生まれるものに変わる。
不可能なことなのよ。国家というシステムを用いて、人を幸福にしようというのは。幸福な人の割合を増やそうということはできる。しかし、完全な社会はない。というよりも、この世に完全というものはない。いくら別次元へと移動しようとも、ないものはないのよ」
その演説を、私に聴かせて、どうしようというつもりなのだろう。じゃあ、だから、何だというのだ。メリーは何のために帰ってきたのだ。それを知った上で、まだ決意を新たにして、どこまでも邁進しようというのだろうか。死ぬことで、理想を完成させようとでも言うのか。
メリーは、幼いメリーのままなのか。だから、この国にいるとでも言うのだろうか。そして、クメール・ルージュと同じことをもう一度やろうと言うのか。
メリーは何も言わなかった。沈黙が、答えのように思えた。
エンジンの音が聞こえて、車のヘッドライトが光った。いやというほど乗ってきたトラックだ。私達を照らして、やがて私達の隣へと止まってアイドリングした。私達の場所は、再び闇の中に戻った。メリーはトラックを振り返ると、タイヤに足を乗せてよじ登った。私を振り返った。私は、一歩を踏み出して、メリーに続いた。トラックに乗る時、メリーが手を差し伸べてくれた。
私はそのとき、トラックの荷台に、もう一人の住人を見つけた。暗くて、よく見えない。
「私はね、蓮子。いくつもの世界を巡ってきた。私は隣のレイヤーへと手を触れることができた。望むままに世界を作り替えることができた。無血のまま、原始共産主義を完成させた世界があった。元来、資本主義社会も世界の流れの中で生まれたもの。共産主義的な素養を持った世界があれば、原始共産主義のままの世界もある。私はそれを選び取った。
でも、本や知識がなくなっても、人は経験則から知識を溜め込んでゆき、知識のある親とそうでない子供には差が生まれた。
また、人々が獣同然の時代にも行った。そして、そのままの体制を維持することができればと思った。けれど、獣のままに管理するためには、また組織や国家が必要だった。
でも、現代社会のような歪みはない。それで満足すべきだったのかもしれない。だけど、私には隣のレイヤーが見える。
隣のレイヤーが見えるということは、幸福なことではなかったわ。無数のレイヤー、無数の世界の中で、資本主義的な貧困にあえぐ人達がいて、その人達は、常に私の指先に触れている。
獣のような、あるいは原始的な生活をしている人達は、それぞれ不幸はあっても、システム的な苦痛はなかった。けど、同時に、それらは薄い層で隔てられただけで、いくつもの不幸と重なっていた。そう。私が、あの頃のメリーと同時にここに存在しているように。
私が全てを置き去りにして幸福な世界を作ったとしても、置き去りにされた人々が貧困にあえぐことは変わらない。全ては、私一人の頭の中の妄想と変わらない。お人形遊びをしているだけのことだわ」
走り続けるトラックの上で、メリーは言った。ひたすらに振動と音と風だ。
「ねえ。メリー」
「何、蓮子」
「ところでさ。あんた、咲子を殺したの?」
「いいえ。殺してはいないわ」
「地雷踏んだって聞いたけど」
「たまたま、あの人が出歩き、たまたま除去されていなかった地雷があって、踏んでしまったんでしょう」
「そのレイヤーを選んだってことなの? メリーが?」
「…………」
現実を、手の平の上でいじくるように、自由自在に変えてしまえるのだとしたら、神様とどう違うというのだろう。メリーが、自分自身の運命を選んで、自分以外の何もかもを変えてしまうことができる。
「ふはははは! 死んだかと思ったか!」
突然、奇妙な高笑いが聞こえ、何者かがトラックの荷台へ飛び乗ってきた。現れたのは咲子だった。咲子はジャケットも髪も風にはためかせていた。
「私の名前は咲子改め、八雲紫、おっと、夜雲紫子よ! 世界秩序を乱そうとするマエリベリー! 私を殺して安心したと思ったかもしれないけれど、そうは問屋は降ろさない。油断したのかしら? ようやく姿を表したわね。宇佐見蓮子を見張っていて良かったわ。よくやく役に立ったというところね! ありがとう蓮子! そしてマエリベリー! 死ね!」
妙なテンションで現れた咲子改め縁子は、メリーに向かって飛び掛かったが、たまたま落ちてきたヤシガニに頭を直撃されて吹っ飛んだ。縁子の体はトラックからもんどり打って転げ落ち、地面を転がっていった。これもメリーが選んだレイヤーなのか。とても愉快なレイヤーに移動してきたようだった。
「えーと?」
「ちょっとこの一幕は余計ね。シリアスな方のレイヤーに戻しましょう」
さっきまで何を話していたっけ。トラックは、さっきと変わらず走り続けている。
私は口を開いた。隣にいるメリーに話しかけた。
「ね、メリー。メリーの話はいっぱい聞いたよ。難しくて、分からないところもあったけどさ。私の方も言ってもいい? 長くなるかもしれないし、単なる愚痴でしかなくて、国家運営とか難しい話はできないから、何の役にも立たないかもしれないけど。
例えばさあ、私が今の社会を嫌だと思って……例えば、どうしようもない事情があって、孤児が生まれる世の中が嫌だから、恵まれない子供の寄付をするとするじゃん。
それをしたお陰で、助かる子供が一人いるとする。そしたら、一つのレイヤーを超えたってことなのかな?
でも、別に世界が嫌だと思ってなかったレイヤーの方の私自身は、レイヤーと一緒に消えてしまう。
私だけじゃなくって、色んな人が、色んなレイヤーを持っていて、そのレイヤーを日々超えようとして、色々やってる。自分の信じる世界が良い方向へ、持って行きたいと思って。
メリーのやってるレイヤー移動ってのは、実は大したことないんじゃないかなって、私思ったりする……。
メリーはたまたまさ、1970年代のカンボジアからこっちに来た。元々が異邦人かもしれないけど、それはそれでいいじゃん。世界はあらゆる形に変わり得るっていうのが分かったら、それはそれでさ。メリーがもし、社会のないジュラ紀とか白亜紀みたいなとこで原始時代の生活したいって言うなら、付き合うよ。レイヤー移動してくれたら、行くよ。メリーが満足するまで過ごさせてくれたら、戻してくれたらいいし……そのくらいの制御はできるよね? 行きっぱなしじゃ嫌だよ。メリーとカンボジア来る前に読んでたさ、京都のラーメン屋100軒特集の店、まだ全部回ってないじゃん。メリーなら実はラーメン屋の起源はジュラ紀にあったとか、色々とずらせるから、ジュラ紀で食べるラーメンもおいしいかもしれないけどさ。私は京都がいいよ。京都でいたいし」
メリーは答えなかった。トラックだけが流れていった。
結局のところ、私にしろ、メリーにしろ、自分一人の満足でしかない。世の中の正しさとか、そういうのはどうでもいい。自分一人の心地良さの世界でしかない。メリーが勝手なら、私も勝手な話で、私の勝手でメリーを縛り付けておくことなどできない。
メリーがここにいるのも、再び私と出会うためではなかった。メリーは単に悩んでいるだけのことだ。一人で救われたって仕方ない。
ホログラフィック宇宙論で言う世界とは、平面な世界に映し出された情報だ。映画を見ているように、時間の経過と共に、画面は変わり、流れていく。
メリーがいなくなったとしたら、メリーが最初から世界にいなくなったというだけの話で、「メリーがいない」ということに書き換えることができるのだ。メリーはその能力を持ち、理想のために行動している。
私はと言えばどうだろう? 私は、何の選択もしていない。世界は簡単なものかもしれない、と私は言った。さっき言ったのだ。たった一つの動作、たった一つの考えで、世界は変えられるかもしれない。メリーの考えを変えることも、もしかしたらできるかもしれないのだ。
私は、選択をすることにした。カンボジアのメリーか、今のメリー、秘封倶楽部のメリーか。メリーを自分のものにしたいとは思わない。そこまで強欲にならなくてもいい。でもせめて、自分の世界、今の世界に置いておきたいと思った。
私は手を伸ばした。
トラックの端に座っている、もう一つの影が本当は何か、分かっていたのだ。そこに座っている理由も。幼いメリーは、今のメリーと常に一緒にいる。私は幼いメリーを掴むとトラックから突き落とし、そのあと地面に向かって飛び降りた。メリーだけトラックに乗って、どこかへ過ぎ去っていった。
私は幼いメリーに馬乗りになると、細っこい首に掌を押しつけた。人を殺すのなんて初めてだった。現代人のほとんどが経験することはないものだ。だけど、メリーは何度もやったに違いない。
罪悪感は容赦なく襲ってきた。だけど私は、こいつは本来、ここで死んでいたはずのものだと何度も思った。幼いメリーは、ここで死んでいたのだ。元の土に戻してやるだけのことだと思い込んだ。そうでないと、殺人を犯す自分を許容できない。幼いメリーは抵抗もしなかった。一度、クメール・ルージュは滅び、自分の全てが消滅することを、メリーは経験している。自棄になったような気分だったのかもしれない。幼いメリーが動かなくなると、私は地面を掘って、幼いメリーをそこへ横たえた。最初からそうであったように、幼いメリーは骨になって、そこに埋まった。最初から、そうだったように、幼いメリーは土の中に帰った。
私はスコップを担いで、仮の宿にしている家に戻った。くたくたで、土のように私は眠った。
朝になると、咲子が迎えに来た。「それで、どうするの」と咲子は言った。
「あなたの相方捜し、まだするの?」
「いいえ。いいわ、帰りましょう」
咲子は「そう、ほっとしたわ」と言った。それでトラックに乗って、来た時のように空港へ向かって走った。
帰り道、咲子が言った。
「良かったわ。やっと諦めてくれて。見つからないのは残念だけど、正直な話、私にも仕事があるもの。カンボジア旅行に来て迷子になった子を探すのを付き合ってくれ、だなんて」
咲子が言った事柄には、驚かなかった。「あなたの仕事、なんだっけ」と私は尋ねた。
「カンボジアの日本大使館職員よ。前にも言った通り」
そういうことになっているのだ、と私は思った。大使館職員にしては珍妙な格好のままだったけど、咲子のキャラはそういうものなのだろう。
帰り道、下らない話をいくつもした。時間つぶしにしかならないような話だ。その中で、犯罪者の話になった。
「無能な犯罪者はいいけど、有能な犯罪者はもう、流刑地へと流す他はないと思うのね。そうでないと、世の中は変わってしまう。
そして、私の考えでは、流刑地っていうのは楽園でなくてはいけないのね。良からぬことを考えないように。
できれば、世の中全てが楽園に変わってくれれば、それが良いのだけどね」
それが咲子の考えなのか。それで、世界を乱すメリーを追いかけていたのかもしれなかった。
空港に着くと、咲子とは別れた。私の視界から外れると、咲子は消滅したようにいなくなった。まるで別のレイヤーへ行ったように消えてしまったのだった。
日本へ戻ってしばらくすると、メリーは帰ってきた。再び出会ったのは大学でのことだ。私はカフェテラスに座っていて、メリーはそこへと歩み寄ってきた。メリーは「ただいま」と言い、私もただいまと言った。それだけだった。メリーは私の向かいに座り、次の瞬間には、次に出席する授業のことだとか、提出期限のあるレポートのことだとかの話に移っていた。
共産主義だとか資本主義だとか、クメール・ルージュの話なんかは避けた。私の考えでは、メリーは揺らぎの中にいる。
カンボジアにいた幼いメリーは、メリーの中で死んだ。いないことになり、メリーの中から失われた。メリーは出身地不詳、生まれた時も不詳の外国人になった。
だが、そのプロセスは消えたわけじゃない。メリーがその気になれば、幼いメリーを拾い上げることも、世界との闘争に身を投じることもできるし、一瞬で世界を変えてしまうこともできるだろう。私は、メリーがそのことを思い出さないようにしなくてはならない。
メリーは、何かが一つ違ってしまえば、またどこか別のレイヤーへ消えてしまうことだろう。私は、メリーを必死に、ここへと結びつけ続けなければならない。
正直なところ、私はメリーの何もかもを知らない……発端として、私がメリーを知ろうとした時と同じだ。最初に戻ってきたわけだ。でも、もう、知ろうとは思わない。メリーが革命をしたいのかどうかとか、どうして戻ってきたのかとか、戻ってここで何をしたいのかとかだ。でも、そんなことは、明らかにしなくていいんだ。明らかにしたら、何もかもが変わってしまう。
いつかは変わってしまうものかもしれない……とはいえ、メリーがその気になれば、永遠に大学生活を続けることだってできるのかもしれないけど……ともかく、私は、こういう中途半端な関係で良いのだと、気付いたのだった。
私たちは、元に戻ったつもりでも、どうしようもなく変わってしまったのかもしれない。だけど、それでも良かった。仮初めの姿であっても、秘封倶楽部は秘封倶楽部であればいい。
紫子さんが出てきたときは口があんぐりと開きましたが、そんなものはなかったし別のレイヤーの話なので覚えていません。
これは別に、蓮子をメリーに同調させるとかではなく、全く別の思想を持った異常者にするってことです
そんでもっと思想同士をぶつかり合わせれば、もう少し作者さんの書きたい主題が明確になったと思います
でもこれはこれで面白かったです
ぼくもそう思いますので
ただしぼくはあれは大国に洗脳されてはめられたと思っています
まあ自主的にせよ他人の洗脳にせよ平和すぎるとそういういやな力学が働くというのはあるのかもです
だからってどうというわけじゃありませんが
まあぎゃくさつを教訓とし想定することがありとあらゆる思想の基礎となるかもとは最近思うんですが
だからっといって暴力を肯定しようとも思いたくないですね