世界が終わる。それも、この一年のうちに。
ある日、男は人里でそんな噂を耳にした。
抗いようもない終焉。確定した死。
まことしやかに囁かれていたその噂は男の胸に穴を空ける。恐怖に不安、絶望がその穴の中で黒々とした靄となり、男を苛む。
男は滅びから逃れるための手段を必死に探す。道行く人々に聞いてまわり、異国の本も置いてある人里の貸本屋に行き、本を片っ端から漁る。他にも思いつくことは全て行動に移した。
しかし、求めていたものは手に入らなかった。世界が終わるという噂を知る者も男と同様に滅びを回避する方法など知らず、貸本屋に置いてある本にもそのような情報はどこにもなかった。
いつしか男の胸に巣食う靄は渦巻き、轟々と吹き荒れるようになっていた。抑えきれない恐怖のあまり四六時中冷や汗が流れ、不安で夜も眠れず目の下には濃い隈が浮き出ていた。
もはやどうしようもないのか。世界はこのまま終わりを迎え、自分は死ぬのか。……死んだらどうなる。わからない。死は未知だ。未知とは即ち恐怖。怖い。怖い。怖い。
ガタガタと震える体を押さえこむように道端に座り込んで、自分の両腕を抱きしめる。震えを止めようとする指には力が入って腕に食い込んでいく。痕が残るほど強く、強く。震える歯と歯がぶつかり硬質の音を奏でる。堪えきれない衝動に思わず叫びそうになる。
そんな時だった。
男の前の地面に影が落ちたのは。
男は思わず伏せていた顔をあげる。
眩い逆光に目を細めながら浮かび上がったシルエットに焦点を合わせる。次第に明るさに順応していく目が捉えたのは、青い髪に簪を刺した女性の姿だった。
「なにやら尋常ではないご様子。大丈夫ですか?」
鈴が鳴るような涼やかさと得体の知れぬ艶やかさを兼ね備えた声だった。その声につられて男は反射的に答える。
大丈夫なわけがあるか。これから世界が終わろうとしているんだぞ、と。
それを聞いた女性は小さく首を傾げる。目元は髪とその影によって覆い隠されているため窺い知ることはできないが、きょとんとしている印象を受けた。
「世界が終わる、ですか? ……そのお話、もう少し詳しくお聞かせ願いたいですわ」
男は一瞬逡巡した。この得体の知れない女と話していていいものかと。だがその躊躇もすぐに搔き消える。
世界が終わろうとしているんだ。もはやそれ以外のことなんてどうでもいいではないか。
半ば自暴自棄の思考を経てそう結論づけた男は顔を伏せて口を開き、言葉少なに自身の知る全てを語った。改めて口にすることで絶望が心を蝕む。再び自身の内に埋没していきそうになる思考。それを女性の声が断ち切る。
「なるほどなるほど……それはまた……」
男は眼前の女性の顔を見上げる。相変わらず目元は逆光によってわからない。──だが、その口は小さな笑みを浮かべていた。
何がおかしいのか、と男は思う。
その疑問をぶつけるより先に、女は言葉を紡いだ。
「あなたは幸運ですわ。実は私、こう見えても仙人というものをやっておりまして。あなたを悩ませているその問題を解決する方法というものも存じております」
男は目を見開く。
仙人。人間を超越した存在なら本当に世界の終わりを防ぐ方法も知っているのかもしれない。男の心に歓喜が湧き上がる。
しかし、すぐにその喜びは疑念にとってかわる。この女が仙人だという証拠は無い。よしんば仙人だったとして本当にそんなものを知っているかも怪しい。
半信半疑、そんな目で自分を見上げる男を意に介さずに女はゆっくりとしゃがみ、男と目線の高さを合わせる。その拍子に女の体から甘い香りが漂う。脳に直接染み入るような、蠱惑的な香り。
男はその香りに思わず頭がくらりとする。体の芯がジンと痺れるような錯覚。そんな男の耳元に女は囁く。
「今からあなたに教えるのは誰にも話してはいけない、とっておきの秘術……いいですか、よく聞いてくださいね……」
ボソボソと囁く女の体から放たれる甘い香りはいつしかむせかえるほどに強くなりつつあり、男と女を包み込んでいく──
全てを聞き終えた男の顔は輝かんばかりに明るい表情になっていた。
ニッコリと微笑む女性の手を握り、勢いよく頭を下げる。
ありがとう。貴女のおかげだ。あとは自分に任せてくれ。万事うまくやってみせる。
興奮した声でそんなことを言い残し、男は背を向けてその場を走り去った。ひらひらと手を振ってそれを見送った女性は穏やかな微笑を浮かべたまま独白する。
「ええ。期待していますわ……」
──後日。
あちらこちらで人が叫び、走り回る混沌とした人里。その大通りを闊歩する存在がいた。
「やれやれ……終末思想に恐慌をきたした者が連続殺人、当人は取り押さえられる前に喉に短刀を突き刺して自害……ですか。まさしく世も末といったところですね」
笏を持ち、マントを着た中性的な人物。普段なら人目を引くだろうが、今の人里では誰も目もくれない。
その傍らに寄り添うようにして、一人の女性が歩いていた。
「それがですね、豊聡耳様。なにやらその男、『生贄を捧げることで世界を救うことができる』などという趣旨のことを喚いていたそうですわ」
「そんなありもしない妄想を実行に移してしまうとは……嘆かわしい。よほど心の拠り所となるものが無かったのだろうね」
豊聡耳様、と呼ばれた人影は女性の言葉に呆れと悲しみが入り混じった声を返す。それに対して肩をすくめた女性は下から覗き込むように相手の顔を見る。
「だからこそ私たちの出番じゃありませんか。人里が不安で満ちているまさに今、道教で民草を導くのでしょう?」
「……ええ、そうですね。その通りです。心の支え、指針となるものを齎すためにも一刻も早く道教を広めなければ。……さて青娥、次はどこに行くのでしたっけ?」
「ふふ、お任せください。次はあちらですね」
青娥と呼ばれた女性はそう言って道を指し示す。
一陣の風が吹き、彼女の髪から一本の青い髪の毛を運んでいく。
その髪の毛は甘い匂いを僅かに放ち──風によって、すぐ搔き消された。
ある日、男は人里でそんな噂を耳にした。
抗いようもない終焉。確定した死。
まことしやかに囁かれていたその噂は男の胸に穴を空ける。恐怖に不安、絶望がその穴の中で黒々とした靄となり、男を苛む。
男は滅びから逃れるための手段を必死に探す。道行く人々に聞いてまわり、異国の本も置いてある人里の貸本屋に行き、本を片っ端から漁る。他にも思いつくことは全て行動に移した。
しかし、求めていたものは手に入らなかった。世界が終わるという噂を知る者も男と同様に滅びを回避する方法など知らず、貸本屋に置いてある本にもそのような情報はどこにもなかった。
いつしか男の胸に巣食う靄は渦巻き、轟々と吹き荒れるようになっていた。抑えきれない恐怖のあまり四六時中冷や汗が流れ、不安で夜も眠れず目の下には濃い隈が浮き出ていた。
もはやどうしようもないのか。世界はこのまま終わりを迎え、自分は死ぬのか。……死んだらどうなる。わからない。死は未知だ。未知とは即ち恐怖。怖い。怖い。怖い。
ガタガタと震える体を押さえこむように道端に座り込んで、自分の両腕を抱きしめる。震えを止めようとする指には力が入って腕に食い込んでいく。痕が残るほど強く、強く。震える歯と歯がぶつかり硬質の音を奏でる。堪えきれない衝動に思わず叫びそうになる。
そんな時だった。
男の前の地面に影が落ちたのは。
男は思わず伏せていた顔をあげる。
眩い逆光に目を細めながら浮かび上がったシルエットに焦点を合わせる。次第に明るさに順応していく目が捉えたのは、青い髪に簪を刺した女性の姿だった。
「なにやら尋常ではないご様子。大丈夫ですか?」
鈴が鳴るような涼やかさと得体の知れぬ艶やかさを兼ね備えた声だった。その声につられて男は反射的に答える。
大丈夫なわけがあるか。これから世界が終わろうとしているんだぞ、と。
それを聞いた女性は小さく首を傾げる。目元は髪とその影によって覆い隠されているため窺い知ることはできないが、きょとんとしている印象を受けた。
「世界が終わる、ですか? ……そのお話、もう少し詳しくお聞かせ願いたいですわ」
男は一瞬逡巡した。この得体の知れない女と話していていいものかと。だがその躊躇もすぐに搔き消える。
世界が終わろうとしているんだ。もはやそれ以外のことなんてどうでもいいではないか。
半ば自暴自棄の思考を経てそう結論づけた男は顔を伏せて口を開き、言葉少なに自身の知る全てを語った。改めて口にすることで絶望が心を蝕む。再び自身の内に埋没していきそうになる思考。それを女性の声が断ち切る。
「なるほどなるほど……それはまた……」
男は眼前の女性の顔を見上げる。相変わらず目元は逆光によってわからない。──だが、その口は小さな笑みを浮かべていた。
何がおかしいのか、と男は思う。
その疑問をぶつけるより先に、女は言葉を紡いだ。
「あなたは幸運ですわ。実は私、こう見えても仙人というものをやっておりまして。あなたを悩ませているその問題を解決する方法というものも存じております」
男は目を見開く。
仙人。人間を超越した存在なら本当に世界の終わりを防ぐ方法も知っているのかもしれない。男の心に歓喜が湧き上がる。
しかし、すぐにその喜びは疑念にとってかわる。この女が仙人だという証拠は無い。よしんば仙人だったとして本当にそんなものを知っているかも怪しい。
半信半疑、そんな目で自分を見上げる男を意に介さずに女はゆっくりとしゃがみ、男と目線の高さを合わせる。その拍子に女の体から甘い香りが漂う。脳に直接染み入るような、蠱惑的な香り。
男はその香りに思わず頭がくらりとする。体の芯がジンと痺れるような錯覚。そんな男の耳元に女は囁く。
「今からあなたに教えるのは誰にも話してはいけない、とっておきの秘術……いいですか、よく聞いてくださいね……」
ボソボソと囁く女の体から放たれる甘い香りはいつしかむせかえるほどに強くなりつつあり、男と女を包み込んでいく──
全てを聞き終えた男の顔は輝かんばかりに明るい表情になっていた。
ニッコリと微笑む女性の手を握り、勢いよく頭を下げる。
ありがとう。貴女のおかげだ。あとは自分に任せてくれ。万事うまくやってみせる。
興奮した声でそんなことを言い残し、男は背を向けてその場を走り去った。ひらひらと手を振ってそれを見送った女性は穏やかな微笑を浮かべたまま独白する。
「ええ。期待していますわ……」
──後日。
あちらこちらで人が叫び、走り回る混沌とした人里。その大通りを闊歩する存在がいた。
「やれやれ……終末思想に恐慌をきたした者が連続殺人、当人は取り押さえられる前に喉に短刀を突き刺して自害……ですか。まさしく世も末といったところですね」
笏を持ち、マントを着た中性的な人物。普段なら人目を引くだろうが、今の人里では誰も目もくれない。
その傍らに寄り添うようにして、一人の女性が歩いていた。
「それがですね、豊聡耳様。なにやらその男、『生贄を捧げることで世界を救うことができる』などという趣旨のことを喚いていたそうですわ」
「そんなありもしない妄想を実行に移してしまうとは……嘆かわしい。よほど心の拠り所となるものが無かったのだろうね」
豊聡耳様、と呼ばれた人影は女性の言葉に呆れと悲しみが入り混じった声を返す。それに対して肩をすくめた女性は下から覗き込むように相手の顔を見る。
「だからこそ私たちの出番じゃありませんか。人里が不安で満ちているまさに今、道教で民草を導くのでしょう?」
「……ええ、そうですね。その通りです。心の支え、指針となるものを齎すためにも一刻も早く道教を広めなければ。……さて青娥、次はどこに行くのでしたっけ?」
「ふふ、お任せください。次はあちらですね」
青娥と呼ばれた女性はそう言って道を指し示す。
一陣の風が吹き、彼女の髪から一本の青い髪の毛を運んでいく。
その髪の毛は甘い匂いを僅かに放ち──風によって、すぐ搔き消された。