「私を外に連れてってほしいのよ、あんたに」
阿求はわたしの方を見ることなく、小さな声で呟いた。
だからわたしも阿求の方を見ずに、平坦な口調で返した。
「なんでよ。自分で行きなさいよ」
「寝たきりの人間に筋肉が残ってると思うの」
まあそうだろうな、と思ったけれど口には出さなかった。
着物の隙間からちらりと覗いた阿求の腕は、病的なほど白く脆かった。
その脆さと危うさを抱えて、阿求はわたしの前で横たわっている。
阿求は布団に横になりながら、開けた障子の向こう側に見える空を見ていた。
この部屋にはわたしと阿求と布団以外には何もなかった。
畳は少しカビ臭く、時折夏の生ぬるい風が障子の向こうから入ってくる。
外ではセミがうるさく叫んでいて、その声はわたしの耳にじんわりと張り付いた。
セミの鳴き声が何重にも渦を巻いて、耳の奥で響き続けた。
阿求の声よりもよっぽど、わたしの中に残る響きだった。
わたしは阿求を前にして、畳の上でぽつんと小さく座っていた。
外をじっと見ている阿求の横顔を、わたしは黙って見つめている。
その輪郭は徹底的に白く、さらさらと静かに透き通っていた。
降り積もったばかりの足跡の付いていない雪のように、無傷な白さだった。
セミの声がうるさいこの部屋で、阿求だけが透明な音を出している気がした。
阿求が寝たきりの状態になったのは、ここ一年くらいの間のことだ。
三十歳も間近の迫ってきて、「短命って何だったのかしら」なんて笑い話をしていた矢先に阿求は倒れた。
その日を境にして阿求は、スイッチが切れたように段々と衰弱していった。
食事の量が減り、回数が減り、あっさり戻してしまうこともあった。
もともと小さかった身体は更に細く鋭くなっていった。
体力は無くなっていくばかりで、家にいる時間の方が長くなるようになった。
終いには、薬を飲む回数の方が食事の回数より多くなってしまった。
転生の準備はもうできている、縁起も満足のいく具合に仕上がったと阿求は言っていた。
『むしろ何かから解放された気分よ』、そんな風に呟いて静かに笑った。
そうやって何でもないように笑う阿求は、別人のように白く、凄惨なまでに細かった。
わたしはぎこちなく笑い返すことしかできなかった。
じわじわと死が阿求に近づいているようで、彼女を見るたびにやるせない気持ちになった。
「だってずっと外に出てないのよ。庭と空はもう見飽きたわ」
「だからってわたしが連れ出したら、それこそ問題になるでしょ」
「女中さんにも頼んでみたのだけどね。何考えてるんですかと説教されたわ」
「わたしも説教すればいいのかしら」
「ねえ、たまにはいいじゃない。一生のお願いだからさ、ね?」
「今のあんたが言うと冗談にならないわよ……」
わたしは一週間に一度、こうして阿求に逢いに来ていた。
本当は毎日のように来たかったのだけれど、鬱陶しいからやめてと阿求に止められた。
別にわたしがいるからといって何かができる訳じゃない。
貸本屋の娘一人に、人間一人の命は重たすぎる。
それでもわたしは阿求のもとへ通い続けた。
阿求を見ていたかった。
見てなきゃいけないような気がした。
嫌そうに薬を飲む姿を、食事を戻してしまう姿を、布団の上で胸を押さえて苦しむ姿を、わたしは何度も見た。
転生するとはいえ、死を待たなければならない。
それはいつ来るのだろうか、待つ間ずっと阿求は苦しみ続けるのだろうか。
どうか安らかになってほしいと願いながら、阿求を見ているわたしまで、胸苦しさが込み上げてきて息ができなくなった。
遣り切れなさや淋しさや哀しさが、わたしを胸の奥を隙間なく埋め尽くした。
阿求は死に対してまったく怯えていなかった。
自分の死をあっさりと受け入れて、元から決められていたことだとわたしに説明した。
あんまりにも躊躇いなく阿求が言うものだから、わたしは頷くしかなかった。
けれどわたしは、阿求の死にひっそりと怯えていた。
一人で店番をしている時、買い物の帰り道、寝支度をしている時、ふとした時に阿求の死について考えた。
それはひどくわたしを苦しめた。
自分の体をバラバラにされたように、とりとめもなく胸が軋むように、わたしの気持ちは搔き乱された。
だから、阿求の傍にいる時が一番落ち着くことができた。
この場所でならまだ阿求は生きていたし、彼女の死から遠く離れた唯一の場所だった。
残酷なことに、阿求の苦しむ姿が最も生を実感できた。
痛いほど苦しむ阿求は、もうほとんど壊れかけだったけど、それでも生き続けていた。
「あーあ。最後に幻想郷の景色を見たかったんだけどなあ、残念だなあ」
「最後ってなによ」
「ほら、私は明日にでも死んじゃうかもしれないじゃない。だからよ」
「………、冗談、でいいのかしら」
「ふふん。どっちだと思う?」
「わたしをおちょくってる、に鈴奈庵の貸本全部を賭けるわ」
「大きくでたわね。本が泣いてるんじゃないかしら」
「うるさい。で、正解はどっちよ。こっちは胃がキリキリしてんのよ」
「そうね、、、、私は外に連れてってくれたら教えてあげるわ」
阿求はこうやってわたしに、冗談かどうか分からない話をよくした。
寝込んでいても、苦しそうにしていても、必ずなにか他愛のない話をわたしにしてくれた。
新しく入った女中さんがかわいいだとか、雨ばかりの日が続いて嫌だだとか、そんな話だ。
天井のしみは五十もあった、なんて話まで聞かされた。
阿求と一緒に横になって数えてみたけれど、本当にしみは五十あった。
心底くだらない事をしたなと思って、その時は二人でくすくす笑いあった。
「そんなことだろうと思ってたわよ」
「いいじゃないの、行きましょうよ。いい天気よ」
「……そもそも、あんた歩けないじゃない」
「ええ、そうね」
「そうね、じゃないわよ。引きずって連れていけばいいわけ?」
「背負ってくれてもいいわよ」
「ああ、もう。あんた、ほんとに無遠慮よね」
「今更小鈴に気なんか遣わないわよ」
阿求はそう言うと布団から這い出てきて、わたしの前まで身体を引きずってくる。
うまく立ち上がることができないから、四つん這いのようになって身体を進ませている。
筋肉がすっかり失われたその肢体は、しなやかと言うには細すぎた。
わたしが触れただけで折れてしまうんじゃないか、そう思ってしまうほど脆かった。
きっと服の下の身体はこれよりも惨いのだろうと思って、それ以上は考えなかった。
「やっぱり歩くのは無理そうね。おぶってくれると嬉しいわ」
「わたしが断らないのを知ってて言ってるでしょ。ずるいんだから」
「あら、よくわかってるじゃない」
「……あんたのそういうところが嫌いよ」
「ふふっ、あんたのそういうところは好きよ」
わたしは阿求に上着を羽織らせて、壊してしまわないようゆっくりとおぶった。
その体重はありえないほど軽く、およそ人間一人の重たさではなかった。
おもわず何かを言おうとしたけれど、何を言うべきかわからずに口を閉じた。
うんざりしてしまう程、阿求の身体は空っぽだった。
「さあ、行きましょう。行き先は任せるわ」
「そうしたいんだけど、これ、女中さんとかに見つかったらまずいんじゃ……?」
「……裏口から出ましょう。行くことばかり考えていたわ」
「はいはい、仰せのままに」
そのままわたしたちは、裏口まで何も喋らずに歩いた。
首に回された阿求の腕はあたたかいのに、どこかが空虚だった。
背中から伝う軽さで、わたしまで空っぽになってしまいそうだった。
耳の奥に残っていたセミの声だけが、その意識を紛わしてくれた。
***
わたしは阿求を背負ったまま人里を通り抜けて、郊外の小さな農道を歩いていた。
人のざわめきはもう遠のいていて、風のひゅうひゅうという音がわたしを追い越してゆく。
生暖かい風に包まれて、わたしの頬を汗が一つ二つと流れていった。
わたしは阿求が好きだった。
恋愛感情を向ける相手として、性愛という意味で、わたしは阿求の存在がいとおしかった。
阿求の姿を、声を、表情や輪郭を思い浮かべている時が、一番わたしにとって心地よかった。
ただ、おそらく阿求はこの気持ちを知らないだろうし、知ってほしくはなかった。
わたしのひとかけらでも、阿求の重荷になってしまうのがたまらなく嫌だった。
阿求がわたしの重荷になる分には、全然構わなかった。
痛みや苦しみを何もかも全部、わたしにぶつけてほしかった。
そうすることで阿求が安らかになるのなら、それだけでわたしは満足できた。
わたしが阿求の頼みを断らないのも、きっとその気持ちからきているのだと思う。
阿求は常にわたしの真ん中にいる。
わたしはそれを失くしてしまわないよう大切に抱えて、胸の一番奥にひっそりと隠している。
「ねえ、あんた休憩しなくても大丈夫? さっきから汗すごいわよ」
「こっちは真夏の炎天下にひと一人担いでるのよ。当たり前でしょう」
「いやまあ、そうなんだけど……。ほんとに大丈夫?」
「あんたに心配される程じゃないわよ。気にしないで」
「ならいいわ。まあ、身体大きくなったからね、小鈴は」
「わたしはね。誰かさんは小さいままみたいですけれど」
「うるさいうるさい。こんなに身長が伸びないなんて思ってなかったのよ」
「でも、大きくなった阿求は見たくないわね。なんとなく可愛げがない」
「今の大きくなったあんただって可愛げがないわよ。小さい頃はあんなに可愛かったのに……」
「今のわたしも可愛いじゃない、まったく」
どういうわけか、疲れはそれ程感じなかった。
汗はじわじわと気持ち悪く脚の疲労も無視できなかったけれど、それはすぐに意識の外に消えた。
理由のわからない心地よさがわたしに優しく触れていた。
農道を通り抜けて、長い長い坂道を昇りきって、小さな丘の上に出た。
ゆったり吹く風に合わせて草花が揺れるように、丘そのものが震えていた。
遥か遠くには大きな夏の雲が浮かんでいて、その白い輪郭に光が弾けている。
ひどく安心できる静けさがこの場所にはあった。
わたしの身体の内側まで、夏で満たされていく気がした。
「小鈴、小鈴ったら。ちょっと、聞いてるの?」
「耳元で大きな声を出さないでよ。どうかした? 暑いんだったら汗でも拭くけれど」
「ええと、ここらで休憩でもしましょうよ。おぶられるのも疲れたわ」
「あんたが言うのか」
「ええ、もちろん」
わたしは自分の上着を足元に広げて、その上に阿求をゆっくりと下した。
そのままわたしも隣りに腰を下ろして、黙ったまま空を見上げた。
大きな青色の中に白い雲が沈み込んで、その色の深さがわたしには眩しかった。
真っ直ぐな白が大きく連なっていた。
そうやってしばらくの間空を眺めていると、ぽつぽつと呟くように阿求は話し出した。
少しだけかすれた、透明な声だった。
「ねえ、小鈴。私が死んでしまうのは嫌?」
「当たり前でしょ。なにを言い出すの」
「だってあんた、私の部屋にいる時は必ずと言っていい程、暗い表情なんだもの」
「……ごめんなさい」
「私がいくら適当な話したりくだらない事言ったって、悲しそうに笑うし」
「……ごめん」
「どうかお願いだから、私を悲しまないで。あんたにそう思われるのが、一番辛いのよ」
阿求はわたしの方を真直ぐに見て、ゆったり噛み砕くように言った。
わたしはその目を見ることができず、視線の行き場を探している。
「あんたが居なくなったら、阿求が死んじゃったら、わたしは悲しむわ」
「いずれ人間は死ぬのよ。私がちょっとはやいだけで」
「はやすぎるのよ。……いなくならないでよ」
「理解してくれなくていいわ。ただ、受け入れては貰えないかしら」
「でも、でも……」
わたしはすっかり熱を帯びて潤んだ瞳で阿求を見た。
阿求の瞳は、しんと静かに透き通っていた。
「でも、あんたが動かなくなって、喋らなくなって、ここからいなくなってしまったら、悲しいじゃない」
「そうね」
「ねえ、もう死んじゃうの? もう『最後』なの?」
「分からないわ。ただ、なんとなくそんな気がするだけ」
「……っ、なんで、」
「これでも遅かったほうよ」
理解したくないことが山ほどあった。
受け入れたくないことも沢山あった。
ただそれらが、わたしにはどうしようもない事だとは分かっていた。
そのどうしようもなさは、余計にわたしを辛い気持ちにさせた。
阿求がわたしの方へ手を伸ばしてくる。
その手を掴むと、くいと弱々しい力で身体を抱き締められた。
あんまりにも弱々しいから、撫でられていると言った方がいいかもしれない。
阿求の匂いがした。
やさしくてやわらかい、わたしにとって特別な匂いだった。
「きっと、私はもう死んでしまうわ」
「言わないで、言わないでよ。聞きたくないのよ」
「いいから聞きなさい」
「……やだって言ったら?」
「だめ」
阿求の言葉が一つ二つと、わたしたちの間に溶けていった。
わたしはそれらをどうにか掬い上げようと、大きくもがいている。
「あんたときちんと話がしたかったのよ。いつも気にかけてくれてたみたいだし」
「当然じゃない」
「ねえ、私のこと嫌じゃなかった? 邪魔だって思ったりしなかった?」
「どうして、そんなこと、、」
「だって私よりよっぽど苦しそうなんだもの、小鈴」
「だからって邪魔だなんて、そんなわけないでしょ」
嫌になるわけがないのだ。
わたしがいくら苦しもうが辛くなろうが、視線の先には必ず阿求がいた。
いつまでもずっと、わたしは阿求を見ている。
ずっとずっと、いつまででも見ていたかった。
「嫌気がさしてたらあんたの部屋になんか行かないわよ」
「いやまあ、そうだけど。とにかく、それが気懸りだったの」
「……だからわたしを外に連れ出したわけ?」
「連れ出してくれたのはあんただけどね」
「そんなの、直接その場で言ってくれればいいじゃない」
「だってあの部屋だと小鈴が重たい表情なんだもの」
「むう」
「それに私だって聞くのは怖いのよ。あんたに嫌いでしたなんて言われたら、本気で死にたくなるわ」
「だから冗談になってないのよ」
「ねえ小鈴。今日は楽しかった?」
「……まあ、部屋にずっといるよりは、多少なりとも楽しかったわ」
「ならよかったわ、私も楽しかったもの。我儘を聞いてくれてありがとう」
わたしはもう返事をしなかった。
阿求に抱き締められたまま、腕の中で小さく頷くだけだった。
このまま、わたしと阿求二人だけの時間ができるだけ長く続いてくれればと、痛いくらいに思った。
わたしに触れている阿求の声が、匂いが、身体が、そう思わせた。
このいとおしい気持ちでさえも、今はひどく悲しいだけだった。
わたしは阿求に包まれたまま、その柔らかさの中に沈み込んでいった。
阿求の感触一つ一つが、わたしを優しく撫でていた。
***
夏はもう終わろうとしていた。
いつの間にかセミの声は静かになって、涼しい風が吹く季節に移りつつあった。
突き刺すような陽射しも段々と薄くなっていった。
夏の名残を探そうと空を見ても、空気に触れても、耳を澄ましても、どこにも残ってはいなかった。
そして、その夏の終わりに阿求は死んだ。
わたしが連れ出した半月ほど後に、ひっそりと自室で死んだ。
阿求は最後、白く白く透き通って、そのまま夏の向こうに静かに消えた。
わたしは変わらずに阿求のいた部屋に通い続けた。
いなくなった阿求を思い出すために、何度でも部屋を訪れた。
じっと息を静めて、部屋の中で何時間も何時間も阿求のいる記憶に浸っている。
そうやって生きている阿求を思い浮かべる度に、心地よさと苦しさがわたしの胸をふさいでいった。
阿求の部屋で横になって、天井のしみをわたしは数えている。
二人で数えた時と同じで、ちょうどぴったり五十あった。
そして数え終わって、わたしはひとりだと確認させられる。
わたしだけが、取り残されたようにぽつんと部屋の中にいた。
天井を見つめたまま、阿求のあの白さを想って、わたしはめいっぱいに泣いた。
短命の現実を受け入れて、親友と思い出を残した阿求の人生は、満足のゆく物だったのではないでしょうか。
鈴奈庵を読む限りでは、色々と行動してるし。
岩長姫の力で、思いのほか長生き出来たと、小鈴という存在のおかげで大往生できたのだと、考えたりしました。
あぁ、めーフラ分が足りないので、往生しそうです。
良かったです。
透き通るような綺麗な話でした