「おやおや、随分とお久しぶりですね」
(そう、以前に貴女がここに来たのは、いつだったか)
「……どこかでお会いした事があったかしら」
(これが何度目だったか、もう、忘れてしまった。覚えているのは、貴女の顔だけ。貴女の声だけ)
「うふふ、その言葉もどこまで本気なのやら……まあいいでしょう。私の名はドレミー・スイート。ようこそ夢の世界へ、八雲紫さん」
(ああ、いっそ、もう会えなくなればいいとさえ思うのに)
「名前が知れるのも考えものね。低俗な獏如きに馴れ馴れしくされる不快を思えば」
(そう。貴女はいつもそうやって、私の名前に不快を示す。それが貴女なりの、私への愛想だと気づけるまで、どれくらいかかったでしょう)
「随分と露骨な悪態ですこと。貴女らしくもない。夢に捉えられたのがそんなに屈辱でしたか?」
(『貴女らしくない』なんて、そんな事を言えるくらい、貴女の事を知ってしまうまで、どれくらい、貴女と出会ったでしょう)
「自分の管理が及ばない事柄が嫌いなだけですわ。我が儘なもので」
(貴女はいつもそうやって、煙に巻こうとする。もう、自分で気付いているくせに)
「……貴女から本音を引き出す事の困難はよく知っています。ですが、いい加減にして欲しいという私の気持ちも汲んでいただきたいものね」
(もう、自分が手遅れだと、気付いているくせに)
「あらひどい。私が貴女に何をしたというのかしらねぇ」
(ひどいのは貴女だって、言えればいいのに)
「知らないと言いますか。知らないと」
(何度繰り返したの。何度)
「もしかして、人隠しの件かしら? 私がする程度の夢への干渉は、貴女にすれば誤差の範囲でしょうに」
(傷ついて、磨り減って、なくなってしまいそうな心を抱えて、ここにやってくる貴女を、何度迎えたの)
「どこまで本気で言っていますか?」
(貴女はいつだって本気だった。本気で生きて、本気で死んでいった)
「腹を探るより直接聞いたほうが早いと言うわけ? 仮面を被るのが随分と不得手なようで」
(その仮面で、ボロボロの心をひた隠しにして、笑っていたの)
「貴女と腹芸に興じるつもりはありませんよ。
貴女、夢を見ていないでしょう。私たちが夢に干渉する事を頑なに拒んでいる」
(この場所で、人並みに夢を見る貴女を迎えられたら)
「我が儘なもので」
(そんな我が儘を、何度、夢に見たのか)
「夢は記憶を、それに纏わる感情を整理し、心の深くに沈めて糧とするものなのです。夢を通じて記憶は知識となり、感情は思い出となる。そして、それは余分な記憶を削除して知識を整頓する事であり、負の感情を消去して精神を安定させる事でもあるのです」
(この夢の世界で、私が夢見た事だけが、誰の元にも届かなくて)
「必要な事まで忘れてしまう輩も少なくないけどねぇ」
(いっそ、私も忘れてしまいたいとさえ願って)
「しかし、貴女は夢の境界を操り、夢が自分の精神に干渉する事を拒んでいる。それは、記憶や感情の整理が為されず、ただ積み重なり続けて精神への負担を肥大化させる事を意味します。それだから、貴女は精神の休息に人より多くの睡眠を必要とする」
(貴女がそうやって、自分を傷つけるためだけに、能力を振るい続けるのを、ただ、眺めて)
「寝坊助なだけですわ」
(ただ、安らかに眠ってくれれば、それだけで良いと、そう願って)
「頭脳の容量に自信があるのか知りませんが、そんな事を続ければ、いつか精神の許容量を超えるのは自明です」
(なのに、貴女は防壁を纏ったまま、ここに来てしまう)
「……そんな忠告を、わざわざしに来たわけ? 獏の仕事も随分と暇になったようですね」
(何度も、何度も)
「そんなに怖いですか? 忘れる事が」
(死ぬより、壊れるより、忘れる事が)
「…………」
(心の中にあるものを、全部、全部、手放さずにいる事が、失われたものへの供養だと)
「貴女を信じてその身を差し出した者の献身を」
(貴女に従わず戦う事を選んだ者の信念を)
「違うわ」
(どちらも選べずに時の流れに飲み込まれていった者の悲哀を)
「箱庭の楽園を築くために、犠牲となった者たちの顔を」
(貴女とは違う世界を想い描いた者の未来を)
「やめなさい」
(救おうとして、救いきれなかった人々を)
「守ってあげられなかった、死を誘う少女の嘆きを」
(楽園の礎とするために、弄んでしまった少女の運命を)
「やめて」
(貴女を、貴女自身を、誰よりも想う者の愛を)
「…………」
(忘れてはくれないのですか。忘れては)
「やめて。お願い」
(いつまでも。いつまでも)
「……それが、貴女を殺すものの正体なのです。気付いていないとは言わせませんよ」
(遥かな昔から、貴女は知っていたはず。いつか、この日が来る事を)
「…………」
(知っていて、それでも、貴女はここに来てしまう)
「どうして貴女が今、この夢の世界に捕捉されたかわかりますか?
限界が来ているという事です。バランスを失いつつある精神が能力を不安定にさせ、夢の世界に引きずり込まれてしまう。
それでも夢の干渉を拒み続ければ、貴女が心の中にしまいこんだ負の想いが、怨念を纏う腐泥となって沈殿する。
それを、私達は悪夢と呼んでいるのです」
(長い、長い時を経て沈殿した、暗く深い淀み)
「夢は心の防波堤。悪夢とは、それを壊して心を喰らい尽くす怪物」
(八雲紫を壊すためだけに、生まれた怪物)
「それが分かっているのに、貴女は」
(貴女がそれを生み出した。貴女が)
「身を守る術は心得ているつもりだったのだけどねぇ。夢っていうのは、本当に厄介だわ。記憶を糧に育ち、心を糧に広がるから、どこまで行っても際限というものが無い」
(嘘。身を守れない事なんて、とっくに知っていた。そうでしょう)
「……貴女が積み重ねてきた歳月が、触れ合ってきた輪廻が、その全てが、夢の世界で貴女を待っている怪物の餌なのです。
全ての過去が貴女に牙を向いた時に、それでも自衛できると、本気で思っている訳ではないでしょう」
(私の事だって、本当は知っている。何度も出会っているという事さえも)
「……そうね」
(ああ、その顔を、何度見てきたのか)
「私に投げればいいでしょう! ここは私の世界で、夢は私の餌です! 貴女が拒みさえしなければ、私はその悪夢を全て喰らってしまえる!
そして私を恨めば良い! よくも心を奪ったなと、私を呪えば良い! 悪夢と共に想いが失われるのを嘆いて、貴女自身が悪夢の餌となるつもりか!」
(この嘆きを、何度語ったのか)
「……貴女は立派に役目を果たしている。貴女がきちんと仕事をしているから、夢を暴走させた者が他者の精神に干渉する事も、夢それ自体が現へと侵食してくる事もない。
とても素晴らしい事です。その貴女が、たかだか一匹の妖怪のために、そうも声を荒げているのは滑稽なことですわ」
(その労りを、何度聞いたのか)
「……! ……この夢の世界で、私の領域で、悪夢に喰われてゆく心を、黙って見過ごせと、そうおっしゃるのですか。
ひとたび捉えられてしまえば、悪夢は貴女を逃がさない。なぜなら、悪夢は貴女自身でもあるのだから。
精神の奥深くに沈めた、貴女自身への絶望が、憎悪が、怨念が、貴女を掴まえて、決して離さない。永遠の悪夢の中で、貴女は何度でも死に、何度となく犯され、大切なものを失い続け、刻まれ、溶かされ、壊され続ける。貴女の心が、跡形もない残骸となってしまうまで」
(無駄な事だと知っている。こんな事、貴女に聞かせたって)
「そう。それは怖いわね」
(貴女はただ笑うだけ)
「……どうして、頼ってくれないのですか。
失ったという哀しみ。守れなかったという後悔。奪ってしまったという悔恨。 全て過ぎ去った事です。
ただ、貴女の心の中にだけ、それが過去のものとならずに残っているだけ。責めるのも、苛むのも、貴女以外にもう、誰もいないのに」
(貴女がここで、どれほどの痛苦を受けて、血反吐を吐いているのか、誰も知らない)
「……誰もいないからよ。
かつてあった事を、私の決断が起こした事を、他の誰でもない、この私だけは、過去に置き去ってはいけないの。
それは、私が八雲紫であった事の証であり、これからも八雲紫である事の戒めだから」
(貴女が守ってきたものが、救ってきたものが、どれほど大きくても、貴女は、失われたものに想いを馳せてしまう)
「たとえ、壊されても、ですか」
(その愛が、貴女を壊すのに)
「うふふ、そんな顔して、心配してくれるの? 意外と優しいのね。
案じなくとも、私は魂をも構築する式を書ける。いつか守りが崩れて夢の世界に引きずり込まれるのも、想定の範囲内ですわ」
(壊れる事も、殺される事も、全部織り込んで)
「…………」
(ああ、言わないで、聞かせないで)
「悪夢が私の精神を喰らい尽くすならば、それをトリガーとして式が八雲紫を再構築します。以前の状態を保ってね。それで何もかも元通り」
(知っている。知っているの。今ここにいる貴女が、私が、かつて見た貴女ではない事は)
「……その過程で、貴女は死にます。貴女の心は、無残な屍と成り果てるまで嬲られ続ける。
私たち妖怪にとって、肉体の死などよりも遥かに苦しく、凄惨で、絶望的な、心の死。
そんなものを、受け入れてまで、どうして」
(貴女がここで、何度死んだのか、貴女は知らないでしょう)
「私が……、ぐ、……私、が、私に、約束した、事、だからよ。
この痛みを、ずっと、ずっと、抱えて、ここに、あり続ける、と」
(私は、知っている。知っているの。ずっと見てきたもの)
「…………」
(貴女が泣く所も、悲鳴を上げる所も、血反吐を吐く所も、潰される所も、刻まれる所も、犯される所も、壊される所も、全部、全部見てきたもの)
「……ああ、もう、こうして話して、いられるのも、あと、僅か、みたい。
見なくて、いいのよ。辛いでしょう。自分の領域で、手も出せずに、壊れていく者の、姿を、眺める、のは」
(貴女をここから開放したい。憎まれても、殺されてもいいから)
「……それも、また貴女の夢。そして、私は夢の管理者です。
ならば、最後のその時まで、ここにいましょう。見ている事しかできなくとも」
(何度も、何度も、そう思って、果たせなくて)
「せめて、一緒に……苦しもう、と? そんなの、は、不幸な、だけ、よ」
(だから、苦しくて、苦しむ事しかできなくて)
「何とでもおっしゃって下さい。これが、私ですから」
(それが私なの。そんなものが)
「そ、う。優しい、の、ね。
……うふふ、それ、じゃあ、い、言える、うち、にい、い、言って、おく、わ、ね。
……さ、よう……な……ら」
(ああ、また、この瞬間が来る。その言葉を、言わなくてはいけない瞬間が)
「……………………さよう、なら」
(……どうして。どうしてなの。貴女には使命がある。守るべきものがある。その全てを、貴女は完全に果たしてきて、そして今もそれを続けている。それなのに、どうして貴女が、貴女だけが、貴女を許さずにいるの。誰もそれを望まなくとも、貴女だけが。
失われたものをいつまでも忘れずにいるのは、器の水が溢れるに任せるに等しいこと。水を零さぬよう器を包んだとて、いずれは破裂してしまうだけ。そうやって、何度も壊れて、その度に溢れた水を一滴残らず吸い上げて、また器が溢れるまで、壊れるまで、ずっと続けて。
誰も望まなくても、貴女が望むのですか。忘れないことが、そんなに大切なのですか。心を、壊してまで)
「紫様? まだお目覚めではないのですか?」
(……そう、そして、貴女はまた目覚める)
「…………」
(私のよく知る、だけど知らない貴女が作られる。八雲紫という存在が)
「……なんだ、起きてるじゃあないですか。……紫様?」
(わたしが、この瞬間を、何度眺めてきたのか、貴女は知らない)
「…………」
(誰も、知らない)
「! …………
失礼致しました……また、後ほど」
(あの狐さえも、貴女が味わってきた苦しみを、完全には理解していない。
知っているのは、私だけ)
「……………………………………………………………………………………………………………………」
(ああ、それが、そんな事が、何の慰めになるのでしょう。
私が願う事なんて、ただ一つだけなのに)
「…………再起動完了」
(なのに、私はこうやって、貴女を見ているだけ)
「……くあ……今何時かしら……あら、今日は……? ……そう」
(何度、何度繰り返しても)
「……ねえ、ドレミー。そこにいるのかしら?」
(……そうですよ。私はここにいます)
「もし居るのならば、貴女に言っておかなくてはいけないわね」
(ただ居る事しか、私にはできない)
「貴女が私を守ろうとしてくれる事、とても嬉しく思います」
(ずっと、ずっと願ってきたのに。何度も祈ってきたのに)
「でも、ごめんなさいね」
(私はただ、貴女を)
「これが、私だから」
(貴女を……)
「……ありがとう」
(……………………)
(そう、以前に貴女がここに来たのは、いつだったか)
「……どこかでお会いした事があったかしら」
(これが何度目だったか、もう、忘れてしまった。覚えているのは、貴女の顔だけ。貴女の声だけ)
「うふふ、その言葉もどこまで本気なのやら……まあいいでしょう。私の名はドレミー・スイート。ようこそ夢の世界へ、八雲紫さん」
(ああ、いっそ、もう会えなくなればいいとさえ思うのに)
「名前が知れるのも考えものね。低俗な獏如きに馴れ馴れしくされる不快を思えば」
(そう。貴女はいつもそうやって、私の名前に不快を示す。それが貴女なりの、私への愛想だと気づけるまで、どれくらいかかったでしょう)
「随分と露骨な悪態ですこと。貴女らしくもない。夢に捉えられたのがそんなに屈辱でしたか?」
(『貴女らしくない』なんて、そんな事を言えるくらい、貴女の事を知ってしまうまで、どれくらい、貴女と出会ったでしょう)
「自分の管理が及ばない事柄が嫌いなだけですわ。我が儘なもので」
(貴女はいつもそうやって、煙に巻こうとする。もう、自分で気付いているくせに)
「……貴女から本音を引き出す事の困難はよく知っています。ですが、いい加減にして欲しいという私の気持ちも汲んでいただきたいものね」
(もう、自分が手遅れだと、気付いているくせに)
「あらひどい。私が貴女に何をしたというのかしらねぇ」
(ひどいのは貴女だって、言えればいいのに)
「知らないと言いますか。知らないと」
(何度繰り返したの。何度)
「もしかして、人隠しの件かしら? 私がする程度の夢への干渉は、貴女にすれば誤差の範囲でしょうに」
(傷ついて、磨り減って、なくなってしまいそうな心を抱えて、ここにやってくる貴女を、何度迎えたの)
「どこまで本気で言っていますか?」
(貴女はいつだって本気だった。本気で生きて、本気で死んでいった)
「腹を探るより直接聞いたほうが早いと言うわけ? 仮面を被るのが随分と不得手なようで」
(その仮面で、ボロボロの心をひた隠しにして、笑っていたの)
「貴女と腹芸に興じるつもりはありませんよ。
貴女、夢を見ていないでしょう。私たちが夢に干渉する事を頑なに拒んでいる」
(この場所で、人並みに夢を見る貴女を迎えられたら)
「我が儘なもので」
(そんな我が儘を、何度、夢に見たのか)
「夢は記憶を、それに纏わる感情を整理し、心の深くに沈めて糧とするものなのです。夢を通じて記憶は知識となり、感情は思い出となる。そして、それは余分な記憶を削除して知識を整頓する事であり、負の感情を消去して精神を安定させる事でもあるのです」
(この夢の世界で、私が夢見た事だけが、誰の元にも届かなくて)
「必要な事まで忘れてしまう輩も少なくないけどねぇ」
(いっそ、私も忘れてしまいたいとさえ願って)
「しかし、貴女は夢の境界を操り、夢が自分の精神に干渉する事を拒んでいる。それは、記憶や感情の整理が為されず、ただ積み重なり続けて精神への負担を肥大化させる事を意味します。それだから、貴女は精神の休息に人より多くの睡眠を必要とする」
(貴女がそうやって、自分を傷つけるためだけに、能力を振るい続けるのを、ただ、眺めて)
「寝坊助なだけですわ」
(ただ、安らかに眠ってくれれば、それだけで良いと、そう願って)
「頭脳の容量に自信があるのか知りませんが、そんな事を続ければ、いつか精神の許容量を超えるのは自明です」
(なのに、貴女は防壁を纏ったまま、ここに来てしまう)
「……そんな忠告を、わざわざしに来たわけ? 獏の仕事も随分と暇になったようですね」
(何度も、何度も)
「そんなに怖いですか? 忘れる事が」
(死ぬより、壊れるより、忘れる事が)
「…………」
(心の中にあるものを、全部、全部、手放さずにいる事が、失われたものへの供養だと)
「貴女を信じてその身を差し出した者の献身を」
(貴女に従わず戦う事を選んだ者の信念を)
「違うわ」
(どちらも選べずに時の流れに飲み込まれていった者の悲哀を)
「箱庭の楽園を築くために、犠牲となった者たちの顔を」
(貴女とは違う世界を想い描いた者の未来を)
「やめなさい」
(救おうとして、救いきれなかった人々を)
「守ってあげられなかった、死を誘う少女の嘆きを」
(楽園の礎とするために、弄んでしまった少女の運命を)
「やめて」
(貴女を、貴女自身を、誰よりも想う者の愛を)
「…………」
(忘れてはくれないのですか。忘れては)
「やめて。お願い」
(いつまでも。いつまでも)
「……それが、貴女を殺すものの正体なのです。気付いていないとは言わせませんよ」
(遥かな昔から、貴女は知っていたはず。いつか、この日が来る事を)
「…………」
(知っていて、それでも、貴女はここに来てしまう)
「どうして貴女が今、この夢の世界に捕捉されたかわかりますか?
限界が来ているという事です。バランスを失いつつある精神が能力を不安定にさせ、夢の世界に引きずり込まれてしまう。
それでも夢の干渉を拒み続ければ、貴女が心の中にしまいこんだ負の想いが、怨念を纏う腐泥となって沈殿する。
それを、私達は悪夢と呼んでいるのです」
(長い、長い時を経て沈殿した、暗く深い淀み)
「夢は心の防波堤。悪夢とは、それを壊して心を喰らい尽くす怪物」
(八雲紫を壊すためだけに、生まれた怪物)
「それが分かっているのに、貴女は」
(貴女がそれを生み出した。貴女が)
「身を守る術は心得ているつもりだったのだけどねぇ。夢っていうのは、本当に厄介だわ。記憶を糧に育ち、心を糧に広がるから、どこまで行っても際限というものが無い」
(嘘。身を守れない事なんて、とっくに知っていた。そうでしょう)
「……貴女が積み重ねてきた歳月が、触れ合ってきた輪廻が、その全てが、夢の世界で貴女を待っている怪物の餌なのです。
全ての過去が貴女に牙を向いた時に、それでも自衛できると、本気で思っている訳ではないでしょう」
(私の事だって、本当は知っている。何度も出会っているという事さえも)
「……そうね」
(ああ、その顔を、何度見てきたのか)
「私に投げればいいでしょう! ここは私の世界で、夢は私の餌です! 貴女が拒みさえしなければ、私はその悪夢を全て喰らってしまえる!
そして私を恨めば良い! よくも心を奪ったなと、私を呪えば良い! 悪夢と共に想いが失われるのを嘆いて、貴女自身が悪夢の餌となるつもりか!」
(この嘆きを、何度語ったのか)
「……貴女は立派に役目を果たしている。貴女がきちんと仕事をしているから、夢を暴走させた者が他者の精神に干渉する事も、夢それ自体が現へと侵食してくる事もない。
とても素晴らしい事です。その貴女が、たかだか一匹の妖怪のために、そうも声を荒げているのは滑稽なことですわ」
(その労りを、何度聞いたのか)
「……! ……この夢の世界で、私の領域で、悪夢に喰われてゆく心を、黙って見過ごせと、そうおっしゃるのですか。
ひとたび捉えられてしまえば、悪夢は貴女を逃がさない。なぜなら、悪夢は貴女自身でもあるのだから。
精神の奥深くに沈めた、貴女自身への絶望が、憎悪が、怨念が、貴女を掴まえて、決して離さない。永遠の悪夢の中で、貴女は何度でも死に、何度となく犯され、大切なものを失い続け、刻まれ、溶かされ、壊され続ける。貴女の心が、跡形もない残骸となってしまうまで」
(無駄な事だと知っている。こんな事、貴女に聞かせたって)
「そう。それは怖いわね」
(貴女はただ笑うだけ)
「……どうして、頼ってくれないのですか。
失ったという哀しみ。守れなかったという後悔。奪ってしまったという悔恨。 全て過ぎ去った事です。
ただ、貴女の心の中にだけ、それが過去のものとならずに残っているだけ。責めるのも、苛むのも、貴女以外にもう、誰もいないのに」
(貴女がここで、どれほどの痛苦を受けて、血反吐を吐いているのか、誰も知らない)
「……誰もいないからよ。
かつてあった事を、私の決断が起こした事を、他の誰でもない、この私だけは、過去に置き去ってはいけないの。
それは、私が八雲紫であった事の証であり、これからも八雲紫である事の戒めだから」
(貴女が守ってきたものが、救ってきたものが、どれほど大きくても、貴女は、失われたものに想いを馳せてしまう)
「たとえ、壊されても、ですか」
(その愛が、貴女を壊すのに)
「うふふ、そんな顔して、心配してくれるの? 意外と優しいのね。
案じなくとも、私は魂をも構築する式を書ける。いつか守りが崩れて夢の世界に引きずり込まれるのも、想定の範囲内ですわ」
(壊れる事も、殺される事も、全部織り込んで)
「…………」
(ああ、言わないで、聞かせないで)
「悪夢が私の精神を喰らい尽くすならば、それをトリガーとして式が八雲紫を再構築します。以前の状態を保ってね。それで何もかも元通り」
(知っている。知っているの。今ここにいる貴女が、私が、かつて見た貴女ではない事は)
「……その過程で、貴女は死にます。貴女の心は、無残な屍と成り果てるまで嬲られ続ける。
私たち妖怪にとって、肉体の死などよりも遥かに苦しく、凄惨で、絶望的な、心の死。
そんなものを、受け入れてまで、どうして」
(貴女がここで、何度死んだのか、貴女は知らないでしょう)
「私が……、ぐ、……私、が、私に、約束した、事、だからよ。
この痛みを、ずっと、ずっと、抱えて、ここに、あり続ける、と」
(私は、知っている。知っているの。ずっと見てきたもの)
「…………」
(貴女が泣く所も、悲鳴を上げる所も、血反吐を吐く所も、潰される所も、刻まれる所も、犯される所も、壊される所も、全部、全部見てきたもの)
「……ああ、もう、こうして話して、いられるのも、あと、僅か、みたい。
見なくて、いいのよ。辛いでしょう。自分の領域で、手も出せずに、壊れていく者の、姿を、眺める、のは」
(貴女をここから開放したい。憎まれても、殺されてもいいから)
「……それも、また貴女の夢。そして、私は夢の管理者です。
ならば、最後のその時まで、ここにいましょう。見ている事しかできなくとも」
(何度も、何度も、そう思って、果たせなくて)
「せめて、一緒に……苦しもう、と? そんなの、は、不幸な、だけ、よ」
(だから、苦しくて、苦しむ事しかできなくて)
「何とでもおっしゃって下さい。これが、私ですから」
(それが私なの。そんなものが)
「そ、う。優しい、の、ね。
……うふふ、それ、じゃあ、い、言える、うち、にい、い、言って、おく、わ、ね。
……さ、よう……な……ら」
(ああ、また、この瞬間が来る。その言葉を、言わなくてはいけない瞬間が)
「……………………さよう、なら」
(……どうして。どうしてなの。貴女には使命がある。守るべきものがある。その全てを、貴女は完全に果たしてきて、そして今もそれを続けている。それなのに、どうして貴女が、貴女だけが、貴女を許さずにいるの。誰もそれを望まなくとも、貴女だけが。
失われたものをいつまでも忘れずにいるのは、器の水が溢れるに任せるに等しいこと。水を零さぬよう器を包んだとて、いずれは破裂してしまうだけ。そうやって、何度も壊れて、その度に溢れた水を一滴残らず吸い上げて、また器が溢れるまで、壊れるまで、ずっと続けて。
誰も望まなくても、貴女が望むのですか。忘れないことが、そんなに大切なのですか。心を、壊してまで)
「紫様? まだお目覚めではないのですか?」
(……そう、そして、貴女はまた目覚める)
「…………」
(私のよく知る、だけど知らない貴女が作られる。八雲紫という存在が)
「……なんだ、起きてるじゃあないですか。……紫様?」
(わたしが、この瞬間を、何度眺めてきたのか、貴女は知らない)
「…………」
(誰も、知らない)
「! …………
失礼致しました……また、後ほど」
(あの狐さえも、貴女が味わってきた苦しみを、完全には理解していない。
知っているのは、私だけ)
「……………………………………………………………………………………………………………………」
(ああ、それが、そんな事が、何の慰めになるのでしょう。
私が願う事なんて、ただ一つだけなのに)
「…………再起動完了」
(なのに、私はこうやって、貴女を見ているだけ)
「……くあ……今何時かしら……あら、今日は……? ……そう」
(何度、何度繰り返しても)
「……ねえ、ドレミー。そこにいるのかしら?」
(……そうですよ。私はここにいます)
「もし居るのならば、貴女に言っておかなくてはいけないわね」
(ただ居る事しか、私にはできない)
「貴女が私を守ろうとしてくれる事、とても嬉しく思います」
(ずっと、ずっと願ってきたのに。何度も祈ってきたのに)
「でも、ごめんなさいね」
(私はただ、貴女を)
「これが、私だから」
(貴女を……)
「……ありがとう」
(……………………)
お互いに苦しみを背負うところがたまらなかったです。
ループ系特有の重たい感情はいいぞ……。
反転無しを読んでから反転文字を読み、また反転無しと思わず三回目読み直してしまいました
ドレミーさんの器にもゆかりんの自死という水が溜まり続けていて、近い将来壊れそうで怖いですね…
ドレミーの悲哀も相まって悲しいお話だ
素敵な雰囲気でした。
どうにもならないながらも相手を思いやるドレミーの姿が良かったです
紫さまは幻想郷のために全てを記憶し続ける……