――そして、その女の子は井戸に落ちた友達を助けるためにその場を離れて走ったんだ。
でも、そんな時に限って近くには人影が無く、やっとの思いで見付けた大人たちを連れて戻って来た時にはかなりの時間が経っていた。
女の子は急いで井戸に駆け寄り「もう大丈夫、助けを呼んで来たよ」と声をかける。
しかし、その声に返事が返って来ることは無かった。
女の子が井戸を覗き込むと、そこには既に力尽きて薄暗い水の底に沈む、変わり果てた友達の姿が見えた。
女の子はその場に泣き崩れ、友達を見殺しにしてしまった自分を呪った。それなのに、後から続いて井戸を覗き込んだ大人たちは口をそろえてこう言った。
「なんだ、誰もいないじゃないか」
大人たちは呆れた顔をして帰ろうとして、女の子はそれを必死で止めようとするが、誰一人としてまともに取り合おうとする大人は居らず、女の子はその場にぽつんと一人残されてしまった。
途方に暮れて女の子は再び井戸の中を覗き込む。すると、さっきまであったはずの友達の亡骸は姿を消していて、見えるのは不気味に黒く揺れる水面だけだった。
何がどうなっているのか、女の子はどうして、とただただ呆然とするばかり。
そしてその時だった。
「よくも見捨てたな……」
背後からあの友達の声がした。その瞬間、女の子はいきなり強い力で井戸に引き込まれ、ばしゃんと大きな水音を一度だけ立てて、井戸は黒くゆれる水面だけを残して静かになった。
それ以降、この井戸の周辺には子供にしか見えない女の子の幽霊が夜な夜な出るようになり、その姿を見た子供達は皆井戸に引き込まれて二度と外には出られなくなってしまうそうな――
「もう察しはついていると思うが、その井戸というのはさっきまでみんなが夕食で使った食器を洗うのに利用していた、このお寺の中庭にある井戸の事だ」
夜の闇に染まる空の下、今にも消えてしまいそうな頼りないろうそくの明かりが灯る広いお寺の本堂に、子供達を集めて話をしているのは人里で寺子屋を営んでいる慧音だった。
この日は寺子屋の宿泊学習が行われており、昼間まで楽しく騒がしく過ごした子供達は今、慧音の怪談話によって恐怖のどん底に突き落とされていた。
「チルノちゃん、こ、怖いね」
「あ、あたいはぜんぜん怖くなかったよ。大ちゃん、そんなに怖かったんなら、きょ、
今日はあたいとくっついていっしょに寝たらいいよ」
震え上がる子供達の中に、大妖精とチルノの姿があった。
寺子屋に通うのは何も人間だけではない。慧音は勉学を必要とする者ならわけ隔てなく誰でも歓迎していて、自ら寺子屋の門を叩いた大妖精と、そのおまけでついてきたチルノにも他の子供達と同じように勉強を教え、こうして宿泊学習にも参加させていたのだった。
「さあ、そろそろ就寝の時間だ。各自自分の布団を引いて今のうちにトイレを済ませておくように。井戸のおばけは大人には見えないから、夜中出歩いて引きずり込まれそうになっても助けてあげられないぞ」
慧音の掛け声に、子供達のげっそりとした返事が返ってくる。
宿泊学習に怪談話はつき物だが、これは元気余りある子供達が夜中に騒いだりしないように脅しをかけるという、いわゆる大人の事情が背景にあっての事であり、先の話はこの寺に代々伝わる怪談話なのだった。
大人の身勝手な都合で怖がらされる子供の身になってみれば迷惑この上ない話ではあるのだが、その効果はてき面で、子供達はそそくさと就寝の準備を済ませると、慧音が明かりを消して別室へ離れても布団に入ったままじっとしていて、次第に部屋のあちらこちらからは整った寝息が聞こえてくるばかりとなったのだった。
「どうしよう、ちゃんと寝る前に済ませたはずなのに」
部屋の全員が寝静まっている中、大妖精は急に尿意を覚え一人目を覚ましてしまった。
隣に居るチルノはすやすやと寝息を立てて起きる気配は無く、大妖精は心細さを感じながらも我慢できそうに無い尿意にはやし立てられ、トイレへ向かうため一人で部屋を出た。
部屋の外はすぐに屋外に面した板張りの廊下になっていて、明かりの一つも無いその廊下は中途半端に欠けた頼りない月の光にのみうっすらと照らされていて、トイレはその薄暗い廊下を一番奥まで行った所にあった。その途中には先ほどの慧音の話に出てきた中庭の井戸があり、大妖精はその井戸が見える位置まで進んでからは足を止めて先に行くのを躊躇した。
「こ、怖い……」
誰に話す訳でもなく、込み上げてきた感情が勝手に言葉になって溢れ出す。
しかし、いくら怖がった所でここを進む以外にトイレに行く術はなく、大妖精は意を決して精一杯の短い一歩を踏み出した。
一歩、一歩。井戸に近づいていく。
一歩、また一歩。月の暗い光に不気味に照らされた井戸が、いよいよ真横に迫る。
一歩、更に一歩。井戸は視界から背後に消え、代わりに井戸の方角に引き込まれるような感覚を感じ、大妖精はその身を震え上がらせる。
ギッ
突然、大妖精はすぐ後ろで自分の足音とは別の足音がしたように感じ、思わず立ち止まる。
しかしこの時、激しく脈打つ心臓の動きとは裏腹に大妖精はとても冷静だった。
こうして何かに恐怖を覚えている時というのは、普段何でもない物音にも敏感に反応してしまい、それを悪い方向に捉えて有りもしない恐ろしい妄想をいだいて自分で自分の恐怖心を煽り立てがちなものだ。それは今までの経験からも言える事で、大妖精はこのような時には必ず後ろを振り返って「ほら、やっぱり何もいない」と自分の妄想を消し去って安心する様にしていた。
「何もいない、何もいない、何もいない」
おまじないをかけるように自分にそう言い聞かせ、持てる限りの勇気を振り絞って後ろを振り返る。
するとやはりそこには何もいない、はずだった。
しかし大妖精の予想は外れ、振り返ってすぐ目の前には自分と同じ程の、ちょうど人間の子供の背丈程の人影が暗闇にうっすらと浮かび上がっていて、大妖精は思わず悲鳴を上げた。
だがその時、大妖精の耳には自分の悲鳴の他にあともう一人の悲鳴が重なって聞こえてきていていて、それによって大妖精はすぐに我に返る。その声は大妖精のよく知る、聞き覚えのある声なのだった。
「え、チルノちゃん!?」
もう一人の悲鳴の正体、いや目の前にあった人影の正体は、部屋で他の子供たちと一緒に寝ていたはずのチルノだった。
「び、びっくりした…… 大ちゃん、いきなり大きい声出しておどかさないでよ」
「もう、それはこっちのセリフだよ。心臓が止まるかと思ったんだからね」
口では怒ってはいるが、大妖精はチルノという心強い存在が目の前に現れた事で、内心とても嬉しく思っていた。現に、先程まで恐怖心によって強張っていた大妖精の表情は、今やその面影すら感じさせない程に安堵した表情へと変わっていた。
「もしかしてチルノちゃんもトイレ?」
「うん、寝る前に済ませたはずなんだけど、床がひんやりしてたから体が冷えちゃったのかな」
「そっか、実は私もそうなんだ」
チルノでも体が冷える事があるのかと大妖精はよっぽど思ったが、わざわざ突っ込むのも気が引けたのでその事については何も言わず「じゃあ一緒に行こう」とチルノをさそって、二人は再び廊下を進んだ。
トイレはここから廊下の角を曲がってすぐの所にあり、二人はほんの数歩進んだだけですぐにトイレの入り口へと辿りついた。
ギッ
目的の場所にたどり着いたのもつかの間、大妖精はまたも背後に物音を感じ、体の動きを止めて神経を集中させる。
見ると、自分に背を向けて前にいるチルノも異変を感じ取ったのか、同じように体を硬直させていて、それを見た大妖精はこの気配がまたも自分の妄想が生み出したものではないと受け入れるより他無かった。
「大ちゃん、いま……」
「しー、私も聞こえた」
「足おと?」
「多分……」
二人の間には緊迫した空気が流れ、そのまま動く事も口を開く事もできず、あたりは虫の声すらも聞こえない完全な静寂に支配された。
「よくも見捨てたな!」
不気味なまでの静寂は二人のどちらでもない声によって突然破られた。
その声は大妖精のすぐ背後から大きな音で聞こえてきて、二人は全身の毛が逆立つ感覚を覚えると同時に、先ほどの悲鳴よりも更に大きな絶叫をあげ腰を抜かしてその場に倒れ込んでしまう。
「わっははは、悪い悪い、少し脅かしすぎてしまったな」
場違いな明るい口調の声に振り返ると、そこには先ほど曲ったばかりの廊下の角から顔を覗かせこちらを見て笑っている、慧音の姿があった。
「先生……」
「声が聞こえたと思って来てみれば、お前達こんな時間に何してるんだ?」
「もう、けーねひどい! がまんしてるのに、チビるかと思た!」
「ははは、ちびられては私も困るな。でも、二人とも寝る前にトイレは済ませたはずだろ?」
済ませておいても尚出そうなものは仕方が無い。それはわざわざ質問した慧音にも分かりきっている話で、二人が気まずそうにして返事を返せずにいても慧音はそれ以上せんさくする様な事はしなかった。
「まあいい、二人は用を済ませたら真っ直ぐ布団に戻るように。先生は仕事がまだ残ってるから先に部屋に戻るからな」
「わかりました」
「言われなくてもそうするよ。おっかないもん」
チルノの言葉に慧音はそうかそうかと笑いながらその場を後にし、残された二人は顔を見合わせて、先ほどまで物音の正体が慧音だと知らずにまんまと怖がっていた自分たちを笑い合った。
「大ちゃん、それより早く入ろ、ホントにちびっちゃう」
そういってチルノは大妖精の返事も待たずにちょうど二つあるトイレの個室へと入ってしまい、大妖精もそれに続き隣の個室へと入る。
壁と扉に囲まれた個室の中は恐ろしく暗く、ほとんど何も見えないに等しい。普通なら怪談話に恐怖した後にこの様な真っ暗闇のトイレに入ろうものなら、話の中にトイレにまつわるものが出て来なくとも怖気づいてしまうものだが、先ほどまでのどたばたで恐怖心が薄れていたことと、すぐ隣に親友がいるという安心感から、大妖精の中に怖いという感情は起きなかった。
だが安心していたのもつかの間、チルノが入った個室の方からは部屋を出る音が聞こえ、大妖精はそれで急に心細く感じて急いで用を済ませる。
「あれ、チルノちゃん?」
外に出ると、そこにチルノの姿は無かった。その事に不安を感じた大妖精はすぐにでも大きな声でチルノの名前を叫びたく思ったが、深夜という時間であるという事と、再び舞い戻った辺りを満たす静寂がその行いを躊躇させた。
名前を呼ぶ事を早々に諦め、しばらく辺りを見渡してみたが、チルノが姿を現す気配は一向に無く、大妖精は「きっと怖くなって先に布団に戻っちゃったんだろう」と確信の無いまま判断を下して廊下を歩き始めた。
その道中、もしかするとチルノは自分を脅かそうとどこかに隠れているのでは、と思い背後や死角に注意しながら進んでみたものの、その予想は外れて気がつけば大妖精は他の子供たちが眠っている元の部屋へと辿り着いていた。
「いない……」
部屋を覗くと、チルノの姿はそこにも無く、大妖精の脳裏には嫌な予感が過る。
とその瞬間、廊下の奥から大きな物音がして、同時に同じ場所から大妖精の名前を叫ぶチルノの声が響き渡った。
「チルノちゃん!」
声がしたのはちょうどチルノを見失ったトイレの辺りで、大妖精は我を忘れるかのように廊下を走った。
トイレにたどり着いて大妖精が目にしたのは、個室の傍で膝を抱えてうずくまっているチルノの姿だった。
大妖精は急いでチルノの元へと駆け寄り声をかける。しかしチルノはずっとうずくまったまま返事をせず、顔もうつむいたままでその表情も確認できない。
何があったのかは分からないが、チルノは何かにおびえているように体をガタガタと震わせていて、とにかくよほど怖い思いをしたのだということが推測できた。
「チルノちゃん、ごめんね。私、チルノちゃんが先に戻っちゃったんだと思って、それで……」
状況がつかめないまま、大妖精はチルノを何とか落ち着かせようと声をかけ、体を抱きしめる。するとチルノは声こそ出さないものの、首をわずかにコクコクと縦に振り、精一杯の返事を返して来る。
多少なりとも返答が帰ってきたことに大妖精は安堵して、もう一度チルノに謝ってから一緒に部屋に戻ろうと促す。
チルノはまた首を縦に振り、大妖精に支えられながらゆっくりと立ち上がると、すぐに大妖精の後ろにまわり、腕にしがみつきながらその顔を背中にうずてしまった。
チルノがこんなにも怯えてしまうだなんて一体何があったのだろうか。大妖精は強い不安を抱き、すぐにでもそれを聞き出したく思ったが、まずは部屋に戻るのが先決だと自分に言い聞かせ、チルノが離れてしまわないよう気をつけながら慎重に廊下を歩き始めた。
そうやって進んで廊下の角を曲がってしばらく、二人はまたあの井戸の脇を通過していた。
先ほどまでは他の事に気を取られ存在すら忘れていた井戸だったが、チルノの身に何があったのかはっきりしないという恐怖感と、それを感じながらもゆっくりとしか進めないというもどかしさから、大妖精は再び怪談話を思い出しその存在に恐怖した。
そしてそれに追い打ちをかけるように、前方の暗闇から誰かが歩いてくる足音が聞こえて来た。
最初の一瞬はその音に慄き身構えた大妖精だったが、その足音の正体を視界に捉えると大妖精はすぐに緊張の糸を解いた。
「あ、先生」
「あ、先生じゃないだろ。いつまでうるさくさわいでるつもりだ? いくら普段まじめな大妖精だからって、さすがに先生怒るぞ」
「ご、ごめんなさい」
「ほら、部屋まで一緒に行ってやるからついて来な」
慧音に名指しで怒られた大妖精だったが、そんなことはどうでもよく思えた。あの恐ろしい井戸を前にして最も心強い存在に出会えて大妖精はむしろ喜んでいた。
しかし慧音は二人を置いてそそくさと廊下を進もうとして、チルノをかばっている大妖精はそれについていくことができずに慧音を引き止める。
「先生待って、チルノちゃんが……」
「ん? そういえば、チルノは一緒じゃないのか?」
慧音の言葉に大妖精は耳を疑った。いくらチルノが大妖精の背中に小さくうずくまっているからとはいえ、慧音の目にそれが写らないわけが無いのだ。
「え、先生、チルノちゃんならここに」
「んー? あ、さてはさっきの仕返しに先生を怖がらせようって魂胆だな? でも残念だな、井戸のお化けは大人には見えないんだ。だから先生はぜんぜん怖くないぞ」
井戸のお化けは大人には見えない。だから慧音の目には見えない。慧音には、チルノが見えていない。
大妖精の中で、つながってはいけないものがつながってしまう。
「せ……せんせ、ちが……」
「はいはい、もうそれは終わり。部屋の前で待ってるから、気が済んだらすぐに来るんだぞ?早く来ないと井戸のお化けに連れて行かれちゃうからな」
そう言い残して慧音はそのままズカズカと廊下を歩き初めてしまう。
大妖精は声を出してそれを呼び止め様とするが、恐怖のあまり全く声が出ない。全身が硬直して、それを追うこともできないまま、慧音はついに廊下の角を曲がり視界から消えてしまう。
ぽた。 ぽた。
ぽた。 ぽた。
大妖精の耳に、水の音が聞こえる。気がつくと、いつの間にか大妖精の体は頭の先から足の先までぐっしょりと水に濡れていた。
まるで、服を着たまま水に漬かったかのように服や髪の毛からは大量の水滴が零れ落ち、足元の床までもを濡らしていた。
何がどうなっているのか、大妖精は唖然とするしかなかった。
そしてふと、大妖精の腕にしがみついているチルノの手に徐々に後ろへ引っ張ろうとする力が込められ始めていることに気付く。
「チルノちゃん……だよね? チ、チルノちゃ………………ッ」
幻想郷の里にある、とある古びた寺院。
その中庭に佇む井戸は、今日も静寂で満たされ、不気味に黒く光る水面を人知れず揺らしているのみだった。
ただ、演出なのはわかるのですが、ちょっと背景に対して文字色が暗すぎるかも?
とても良かったです。
続きが気になるオチで面白かったです。
もう少し怖くてもよかったかもしれません。
大妖精「一回休みになっちゃった、今度から気をつけよう」
当方が水に関する怪談がやや苦手というのもあったかもしれませんが…
1つ気になった点はチルノは一体何処からチルノじゃなかったのか。
文中には大妖精が起きた時には隣にいて起きる気配はないと書いてあったので、てっきりトイレの前で会ったチルノは既にチルノじゃないのかと思っていましたが、口調などから見ると大妖精がトイレに入っている間に入れ替わったのかなとも取れました。
伏線などでこの入れ替わったポイントが明確にわかるともっと怖さが増すと思います。
ある意味ではそれがはっきりわからないこそ怖いというのもあるかもしれませんが…
でも、総じて怖面白かったです。
一度読者に安心感を覚えさせてから、オチで叩き落とす。
特に身内の正体が実は…というパターンは一番怖い。
怪談話の中でも一番怖いパターンの1つだったと思います。