夜は千の眼を持つ。私はたったの三つだ。三百三十三人のさとり妖怪がいても一つ足りない。最後の一つの瞳で夜はいったい何を見ているのだろうか。どうせ碌なものではないだろう。
本当は拗ねるほどのことはない。地の底にいれば、いつでも夜は遥か遠くにあるものだった。それは今あるのかないのかもわからないものだった。箱を開けてみなければ、その中で生きているのかいないのかわからない猫。実際のところ、それが猫であれば私にはカンニングができるのだけれど、夜の気持ちはわからない。
キッチンでハーブティーを淹れて、書斎の机の灯りをともした。湯気の立ち上るカップに口をつける。疲れてはいたが、もうしばらく起きていようと決めていた。ベッドの上で眠れずに過ごす何時間かが、身体よりも精神を蝕むことを私は知っていたからだ。
背もたれに体重を預けて、薄く両目を閉じる。机のオレンジ色の灯りが睫毛の間から微かに差し込む。そうして胸の前にある眼だけを開いていると、館の住人たちの心の声がよく聞こえた。
小さな動物たちの声は、多くの場合極めて単純な欲求だった。オイディプスまで持ち出さなくても、欠乏こそが行為の原動力であるのは間違いない。喉が渇いたから水場に向かうし、寒いから熱を発する機械のそばに陣取る。そういう様子は、いつでも私にパネルをスライドさせて絵柄を揃えるあのパズルの玩具を思い起こさせる。もちろんこの比喩の本質は、絵柄が揃ったからといって動きを止めることはできないということにあるのだが、そうしたものの集積で、館の中は欠落によって象られた曼荼羅となっていた。
そうした彼らと比べたとき、眠いのにもかかわらず、カップを片手に目的もなく頑張っている私はいくらか高級だと思ったけれど、そんなことが高級であるのであれば、高級さなどというものは出涸らしの茶葉ほどの価値もない。
書斎のドアがノックされた。返事をする前に、私にはそれが誰だかわかっていた。他の動物たちよりもずいぶん細分化された複雑な欲求を持っていた。どうぞ、と私は言った。
燐はドアを開けて入ってきた。足取りに躊躇いはなく、こちらに向かって真っ直ぐ歩いてくる。部屋の暗さは彼女の猫の眼には何の影響も及ぼさない。私にとってはそうではない。彼女が机の灯りが照らし出すところまで歩いてきて、はじめて私は彼女の姿を認めることができた。もうシャワーを浴びて、髪を後ろにまとめてガウンに着替えていた。
「終わりました」
「お疲れ様」
おやすみなさい、と言って踵を返そうとした彼女を私は呼び止めた。私はもう一つのカップにポットから茶を注いだ。
「椅子がもう一つその辺にない?」
「あります」
彼女は机の向かい側までそれを運んできて、その上に座った。私はカップを差し出す。彼女は礼を言って受け取ったが、しばらくはその温かい液体の入った器を胸の前で両手で持ったままでいた。それはまだ彼女の舌には熱すぎるのだ。それでも湯気が彼女の鼻腔に届くと、彼女の耳がぴんと立った。
「何かご用でしたか?」と少しして彼女は訊いた。私の方から話し出さないことを、彼女は私の譲歩というか尊重というか、一種の気遣いだと受け取っていた。
「別に何かがあるわけじゃないんだけど」と私は少し口ごもって言った。「あなたたちの様子を聞いておこうと思って」
彼女は黙って頷いた。そしてすぐに私の寂しさに辿り着いた。あまりに聡い子だ。彼女には眼は三つもいらないのだ。その一方で私はといえば、見透かされていることに気づかないふりをする言い訳が、自分の三つ目の眼によって奪われていることに遅れて気づいたところだった。
私は黙っていた。彼女はそれを肯定と捉えて、それについて何も言わなかった。代わりに少し首を傾げて私に向かって微笑んだ。別に何も心配なんて要りませんよという風に。私はそれを見て恥ずかしいよりも先に吹き出してしまう。
「そういえば、この頃空がよく館を抜け出していきます。私たちが眠った後に」
「尾けてみたりしないのね」
「眠いですから」
「ごめんね」
「いや、そういうんじゃないです」と言って彼女は苦笑いした。「つまり、そんなに大層なことじゃないと思って」
「あなたにそれほどひた隠しにしているわけではないから」
「そうです」
そこまで話して、彼女はようやく白いカップに口をつけた。私はその様子を見ていた。そのとき、もちろん私は彼女たちがかつて私にひた隠しにしていたことを思い出していた。その温度のことを。程よい温度になったハーブティーに触れる彼女の舌が、まるで自分のものであるかのように私は感じた。私は彼女に笑いかけた。
「ねえ、あなたは?」と私は訊いた。「最近何を見た? 教えて」
燐はカップを机の上に置いて立ち上がった。
「そうですね……」と彼女は言う。彼女の心の中に様々なイメージが立ち現れるのを私は見た。でも私は何も言わずに待っていた。燐は考えていた。窓際に歩いていき、閉じられていたカーテンを開けた。外には仄かな灯りがあった。窓枠と彼女の姿にだけ場所を残しておいて、柔らかい光がカーペットを浸した。私は彼女のやや俯いた横顔を見ていた。光が浮かび上がらせる白い頬と、赤い髪を見ていた。その目はぼんやりと窓の外に向けられている。記憶を探ろうと水の中に潜った彼女は、その冷たさに半分私のことを忘れていた。
「あっ」と彼女が声を上げた。私は椅子から立ち上がって彼女の方に歩いていった。彼女の肩の前に顔を出した。本当は肩の上に顎を載せたかったのだけれど、彼女の背は私よりもずっと高い。窓は私の息で曇った。
「空だ」と私は言った。彼女は中庭を横切って向こうへと歩いていくところだった。私たちはその足取りを五つの目で追う。
「尾けてみませんか」
私は振り返って「ねえ」と言って笑った。
「私たちも大っぴらについていきましょう」と彼女は言った。「それならあいこです」
外はぬるい風が吹いていた。燐はガウンのままで、私だって似たようなものだ。空はとっくに庭を出ていたけれど、彼女の大きな羽根はここからでもよく見えた。私たちは彼女を追った。歩幅が大きい空について歩くのは大変で、私は共犯の楽しみをゆっくりと味わう余裕もなかった。
空は炉のある方角に歩いていたが、途中で道を一本脇にそれた。
「どこに行くんでしょうね」と燐が訊いた。彼女は涼しい顔をしていた。
「この距離だと考えてることも分からないからね」と私は息を切らせながら何とか答える。
空は私たちにまったく気づいていなかった。まったく無防備と言って良かった。ドーム状になっている天井の、どんどん低くなっていく方へと私たちは向かっていく。あるいは最初から空に声をかけていた方が話が単純だったのではないかとそのときになって私は考えたけれど、むろん機をとっくに逸していた。
壁のようになっている岩の横穴に空は入っていった。穴の高さは空の背丈の三倍ほどあるが、横幅が幾分狭い。燐は一足先に穴の前に着いて私が中に入るのを待っていた。
「こんなところに道があるなんて知らなかったですね」と彼女は言った。「ご存知でしたか?」
「まさか」と私は息も絶え絶えに言った。膝に手をついて屈みこんでいた。「自慢じゃないけど普通の道もほとんど知らないわ」
「もう少しお出かけになったら良いのに」
「気楽に言うけどね」と言って私は恨みがましい目で彼女を見た。彼女は笑って私の背中を擦った。私も負けて笑う。「あなたたちが知ってるからね」と付け足した。
穴の中は外から見た様子よりもずっと深かった。その上曲がりくねっていたが、幸いにも一本道で、空を見失っていながら私たちは迷うことなく進んでいくことができた。
最後の角を曲がった奥には開けた少し明るい場所があった。空はその中央に立っている。結構距離があって、これまでの感じからすると近づいていかない限り気づかれないだろう。私は立ち止まって後ずさり、燐の身体にぶつかった。
「ちょっと、危ないですよ」
「ごめん」
「出て行かないんですか」
「どうしよう」
私たちがそこでまごついて、それでも視線だけは角の向こうへと注いでいる間に、空は行動に出ていた。
彼女のいる小部屋には上からぴんと張った一本のロープが垂れていた。空はそれを取って両手で順々に引っ張る。右手、左手、右手、左手。足元に引いた縄がとぐろを巻いて溜まっていく。
どれほどの時間が経っただろう。縄を引ききると、空はそのままでしばらく固まっていた。その姿は彫像のようだった。彼女はじっと上を見ていた。瞬きもしなかった。私たちも思わず息を詰めていた。
空は今度は縄を緩めはじめた。引っ張ったのと同じくらいの時間をかけてゆっくりとロープを天井へと戻していく。私は空の足元に溜まっていたロープの量を考えた。それはとてつもない長さになるはずだ。燐も大体同じことを考えていた。
縄を緩めきって、その反対側が最後に天井から彼女の足元に運んできたのは小さな桶だった。空は縄から手を離し、その桶に向かって屈みこんだ。彼女がその中に両手を差し入れ、何かをすくった途端、どうしたことか、空のいる小部屋がいくらか暗くなった。
この新たにもう一つ起こった出来事が引き金になった。私は燐の腕を叩き、空のいるところへと歩いていった。
「さとり様」と空は驚いた表情で言った。
「こんばんは」と私は言った。
「やっぱりわかっちゃうんですね。敵わないなあ」
「えっ、ええ」
「何してたの」と燐が助け舟を出してくれた。
「夜を汲んでいるの」
「夜?」
二人が牧歌的なオーラルコミュニケーションを試みている間に、私は屈みこんで空が手を入れていた桶を見た。恐らくは本当に空の言う通りのものが収められているその器を。私はその中に手を入れた。私の指先が黒色に浸る。私が触れているものは気体というには固く、液体というにはつかみどころがなかった。それの心を読むことはやはりできなかった。そこから不吉なものを感じはしなかったが、私が好きなものでもなかった。私は空がした通り、そのものをすくって汲み上げた。部屋はさらに暗くなった。もうほとんどのものをはっきりと見ることができない。
その暗闇の中で、私は辛うじて自分の手を見る。夜を汲んだ手を。それはいつもと特に変わりがないように思えた。私は顔を上げる。二つの光が浮いている。それが燐の目だと気づくまでに一瞬の遅れがあった。彼女の瞳は宝石のように輝いていた。
「誰かに頼まれたわけではないのよね?」と私は空に訊いた。それはもちろん何の意味のない質問だった。彼女は首を傾げた。その黒い髪と翼はもうとっくに夜に紛れていた。
私はさらに視線を上げた。微かな光がロープにまとわりついていた。それはどこまでも高く伸びていた。首が痛くなるほど上を見ると、それはやはり地面にまで繋がっているようだった。ロープの上端は闇に滑らかに接合されている。あれが地上なのだろうか。
そのとき燐がぴくりと反応した。彼女の大きな耳は天の音を捉えていた。私は息を詰めて感じとっていた。彼女がロープの上端、地底の蓋がゆっくりと開く音を聴いているのを。
そして私たちは夜空を見た。それが蓋の色とは違うのを見た。その深さを。岩に象られたその切り口の丸さを私は見ていた。
そこに二つの金色の目が現れた。瞬きをする。燐の輝く瞳を見て、それから彼女のようには光ってはいないはずの私の目の中を覗き込む。それが私にはすぐ目の前のことのように見えた。
夜が降りてくる。私と目が合ったまま、微かな光をまとったロープの脇をまっすぐに。燐が前に出て右手の爪を出し、私の肩を左腕で抱くようにして庇った。私は彼女の体重を感じる。乾いたガウンの布地を感じる。彼女の張りつめた精神を感じる。私は一言も発せないでいた。ただそれが降りてくるのを見ていた。
それは私たちの目の前に来た。頭一つ上のところに。その姿は燐の目をもってしてもはっきりと捉えることができなかった。二つの目だけ。しばらく誰も物音ひとつ立てなかったが、燐はいつでも飛びかかるつもりでいた。私は燐の背中に手を回して彼女の右手を軽く二度叩いた。彼女は手をおろした。
私はその心の持ち主には覚えがあった。
「何をしているんですか」と私は訊いた。
「夜の散歩です」
「のは主格ですか」
「どちらでも」
「とにかく」と私は言った。「うちの鴉を唆すのはやめていただきたいですね」
「滅相もない」とそれは言った。その身振りは見えなくても私にはありありと感じられた。「団欒に水を差してしまいましたね」とそれは言った。
誰も何も答えなかった。私は相手が話すのを待っていたが、二つの目はそれ以上は何も言わずにゆっくりと下の方に沈み込んでいった。私たちの立っているところよりもさらに下に。そして消えていった。
地底よりも深いところに何があるのだろうと一瞬考えたが、考えても仕方のないことだろう。それは帰っていっただけだ。それならばそれで構わなかった。私はもう充分な情報を得ていた。
私たち三人がそこに残された。夜は黒々としてその場にある。私はそのとき自分がひどい眠気を覚えていることに気がついた。空は気まずい思いで私が言葉を発するのを待っていた。
「さて」と私は言った。「日も暮れたし帰りましょうか」
燐は笑った。「鴉が鳴くからじゃないんですか」と彼女は言った。
私は暗闇の中で肩から燐の左腕を外して右手と繋いだ。空の右手を左手で取った。私の手に触れたとき、彼女の羽根がどのようにして動くのか私にはわかった。胸の前の目どころか、一つの目も持っていなかったとしてもわかったことだろう。
私は天を見上げた。岩によって丸く切断された夜空。その真ん中に一つだけ浮かんでいる星と目が合った。
それはきらりと瞬いた。
本当は拗ねるほどのことはない。地の底にいれば、いつでも夜は遥か遠くにあるものだった。それは今あるのかないのかもわからないものだった。箱を開けてみなければ、その中で生きているのかいないのかわからない猫。実際のところ、それが猫であれば私にはカンニングができるのだけれど、夜の気持ちはわからない。
キッチンでハーブティーを淹れて、書斎の机の灯りをともした。湯気の立ち上るカップに口をつける。疲れてはいたが、もうしばらく起きていようと決めていた。ベッドの上で眠れずに過ごす何時間かが、身体よりも精神を蝕むことを私は知っていたからだ。
背もたれに体重を預けて、薄く両目を閉じる。机のオレンジ色の灯りが睫毛の間から微かに差し込む。そうして胸の前にある眼だけを開いていると、館の住人たちの心の声がよく聞こえた。
小さな動物たちの声は、多くの場合極めて単純な欲求だった。オイディプスまで持ち出さなくても、欠乏こそが行為の原動力であるのは間違いない。喉が渇いたから水場に向かうし、寒いから熱を発する機械のそばに陣取る。そういう様子は、いつでも私にパネルをスライドさせて絵柄を揃えるあのパズルの玩具を思い起こさせる。もちろんこの比喩の本質は、絵柄が揃ったからといって動きを止めることはできないということにあるのだが、そうしたものの集積で、館の中は欠落によって象られた曼荼羅となっていた。
そうした彼らと比べたとき、眠いのにもかかわらず、カップを片手に目的もなく頑張っている私はいくらか高級だと思ったけれど、そんなことが高級であるのであれば、高級さなどというものは出涸らしの茶葉ほどの価値もない。
書斎のドアがノックされた。返事をする前に、私にはそれが誰だかわかっていた。他の動物たちよりもずいぶん細分化された複雑な欲求を持っていた。どうぞ、と私は言った。
燐はドアを開けて入ってきた。足取りに躊躇いはなく、こちらに向かって真っ直ぐ歩いてくる。部屋の暗さは彼女の猫の眼には何の影響も及ぼさない。私にとってはそうではない。彼女が机の灯りが照らし出すところまで歩いてきて、はじめて私は彼女の姿を認めることができた。もうシャワーを浴びて、髪を後ろにまとめてガウンに着替えていた。
「終わりました」
「お疲れ様」
おやすみなさい、と言って踵を返そうとした彼女を私は呼び止めた。私はもう一つのカップにポットから茶を注いだ。
「椅子がもう一つその辺にない?」
「あります」
彼女は机の向かい側までそれを運んできて、その上に座った。私はカップを差し出す。彼女は礼を言って受け取ったが、しばらくはその温かい液体の入った器を胸の前で両手で持ったままでいた。それはまだ彼女の舌には熱すぎるのだ。それでも湯気が彼女の鼻腔に届くと、彼女の耳がぴんと立った。
「何かご用でしたか?」と少しして彼女は訊いた。私の方から話し出さないことを、彼女は私の譲歩というか尊重というか、一種の気遣いだと受け取っていた。
「別に何かがあるわけじゃないんだけど」と私は少し口ごもって言った。「あなたたちの様子を聞いておこうと思って」
彼女は黙って頷いた。そしてすぐに私の寂しさに辿り着いた。あまりに聡い子だ。彼女には眼は三つもいらないのだ。その一方で私はといえば、見透かされていることに気づかないふりをする言い訳が、自分の三つ目の眼によって奪われていることに遅れて気づいたところだった。
私は黙っていた。彼女はそれを肯定と捉えて、それについて何も言わなかった。代わりに少し首を傾げて私に向かって微笑んだ。別に何も心配なんて要りませんよという風に。私はそれを見て恥ずかしいよりも先に吹き出してしまう。
「そういえば、この頃空がよく館を抜け出していきます。私たちが眠った後に」
「尾けてみたりしないのね」
「眠いですから」
「ごめんね」
「いや、そういうんじゃないです」と言って彼女は苦笑いした。「つまり、そんなに大層なことじゃないと思って」
「あなたにそれほどひた隠しにしているわけではないから」
「そうです」
そこまで話して、彼女はようやく白いカップに口をつけた。私はその様子を見ていた。そのとき、もちろん私は彼女たちがかつて私にひた隠しにしていたことを思い出していた。その温度のことを。程よい温度になったハーブティーに触れる彼女の舌が、まるで自分のものであるかのように私は感じた。私は彼女に笑いかけた。
「ねえ、あなたは?」と私は訊いた。「最近何を見た? 教えて」
燐はカップを机の上に置いて立ち上がった。
「そうですね……」と彼女は言う。彼女の心の中に様々なイメージが立ち現れるのを私は見た。でも私は何も言わずに待っていた。燐は考えていた。窓際に歩いていき、閉じられていたカーテンを開けた。外には仄かな灯りがあった。窓枠と彼女の姿にだけ場所を残しておいて、柔らかい光がカーペットを浸した。私は彼女のやや俯いた横顔を見ていた。光が浮かび上がらせる白い頬と、赤い髪を見ていた。その目はぼんやりと窓の外に向けられている。記憶を探ろうと水の中に潜った彼女は、その冷たさに半分私のことを忘れていた。
「あっ」と彼女が声を上げた。私は椅子から立ち上がって彼女の方に歩いていった。彼女の肩の前に顔を出した。本当は肩の上に顎を載せたかったのだけれど、彼女の背は私よりもずっと高い。窓は私の息で曇った。
「空だ」と私は言った。彼女は中庭を横切って向こうへと歩いていくところだった。私たちはその足取りを五つの目で追う。
「尾けてみませんか」
私は振り返って「ねえ」と言って笑った。
「私たちも大っぴらについていきましょう」と彼女は言った。「それならあいこです」
外はぬるい風が吹いていた。燐はガウンのままで、私だって似たようなものだ。空はとっくに庭を出ていたけれど、彼女の大きな羽根はここからでもよく見えた。私たちは彼女を追った。歩幅が大きい空について歩くのは大変で、私は共犯の楽しみをゆっくりと味わう余裕もなかった。
空は炉のある方角に歩いていたが、途中で道を一本脇にそれた。
「どこに行くんでしょうね」と燐が訊いた。彼女は涼しい顔をしていた。
「この距離だと考えてることも分からないからね」と私は息を切らせながら何とか答える。
空は私たちにまったく気づいていなかった。まったく無防備と言って良かった。ドーム状になっている天井の、どんどん低くなっていく方へと私たちは向かっていく。あるいは最初から空に声をかけていた方が話が単純だったのではないかとそのときになって私は考えたけれど、むろん機をとっくに逸していた。
壁のようになっている岩の横穴に空は入っていった。穴の高さは空の背丈の三倍ほどあるが、横幅が幾分狭い。燐は一足先に穴の前に着いて私が中に入るのを待っていた。
「こんなところに道があるなんて知らなかったですね」と彼女は言った。「ご存知でしたか?」
「まさか」と私は息も絶え絶えに言った。膝に手をついて屈みこんでいた。「自慢じゃないけど普通の道もほとんど知らないわ」
「もう少しお出かけになったら良いのに」
「気楽に言うけどね」と言って私は恨みがましい目で彼女を見た。彼女は笑って私の背中を擦った。私も負けて笑う。「あなたたちが知ってるからね」と付け足した。
穴の中は外から見た様子よりもずっと深かった。その上曲がりくねっていたが、幸いにも一本道で、空を見失っていながら私たちは迷うことなく進んでいくことができた。
最後の角を曲がった奥には開けた少し明るい場所があった。空はその中央に立っている。結構距離があって、これまでの感じからすると近づいていかない限り気づかれないだろう。私は立ち止まって後ずさり、燐の身体にぶつかった。
「ちょっと、危ないですよ」
「ごめん」
「出て行かないんですか」
「どうしよう」
私たちがそこでまごついて、それでも視線だけは角の向こうへと注いでいる間に、空は行動に出ていた。
彼女のいる小部屋には上からぴんと張った一本のロープが垂れていた。空はそれを取って両手で順々に引っ張る。右手、左手、右手、左手。足元に引いた縄がとぐろを巻いて溜まっていく。
どれほどの時間が経っただろう。縄を引ききると、空はそのままでしばらく固まっていた。その姿は彫像のようだった。彼女はじっと上を見ていた。瞬きもしなかった。私たちも思わず息を詰めていた。
空は今度は縄を緩めはじめた。引っ張ったのと同じくらいの時間をかけてゆっくりとロープを天井へと戻していく。私は空の足元に溜まっていたロープの量を考えた。それはとてつもない長さになるはずだ。燐も大体同じことを考えていた。
縄を緩めきって、その反対側が最後に天井から彼女の足元に運んできたのは小さな桶だった。空は縄から手を離し、その桶に向かって屈みこんだ。彼女がその中に両手を差し入れ、何かをすくった途端、どうしたことか、空のいる小部屋がいくらか暗くなった。
この新たにもう一つ起こった出来事が引き金になった。私は燐の腕を叩き、空のいるところへと歩いていった。
「さとり様」と空は驚いた表情で言った。
「こんばんは」と私は言った。
「やっぱりわかっちゃうんですね。敵わないなあ」
「えっ、ええ」
「何してたの」と燐が助け舟を出してくれた。
「夜を汲んでいるの」
「夜?」
二人が牧歌的なオーラルコミュニケーションを試みている間に、私は屈みこんで空が手を入れていた桶を見た。恐らくは本当に空の言う通りのものが収められているその器を。私はその中に手を入れた。私の指先が黒色に浸る。私が触れているものは気体というには固く、液体というにはつかみどころがなかった。それの心を読むことはやはりできなかった。そこから不吉なものを感じはしなかったが、私が好きなものでもなかった。私は空がした通り、そのものをすくって汲み上げた。部屋はさらに暗くなった。もうほとんどのものをはっきりと見ることができない。
その暗闇の中で、私は辛うじて自分の手を見る。夜を汲んだ手を。それはいつもと特に変わりがないように思えた。私は顔を上げる。二つの光が浮いている。それが燐の目だと気づくまでに一瞬の遅れがあった。彼女の瞳は宝石のように輝いていた。
「誰かに頼まれたわけではないのよね?」と私は空に訊いた。それはもちろん何の意味のない質問だった。彼女は首を傾げた。その黒い髪と翼はもうとっくに夜に紛れていた。
私はさらに視線を上げた。微かな光がロープにまとわりついていた。それはどこまでも高く伸びていた。首が痛くなるほど上を見ると、それはやはり地面にまで繋がっているようだった。ロープの上端は闇に滑らかに接合されている。あれが地上なのだろうか。
そのとき燐がぴくりと反応した。彼女の大きな耳は天の音を捉えていた。私は息を詰めて感じとっていた。彼女がロープの上端、地底の蓋がゆっくりと開く音を聴いているのを。
そして私たちは夜空を見た。それが蓋の色とは違うのを見た。その深さを。岩に象られたその切り口の丸さを私は見ていた。
そこに二つの金色の目が現れた。瞬きをする。燐の輝く瞳を見て、それから彼女のようには光ってはいないはずの私の目の中を覗き込む。それが私にはすぐ目の前のことのように見えた。
夜が降りてくる。私と目が合ったまま、微かな光をまとったロープの脇をまっすぐに。燐が前に出て右手の爪を出し、私の肩を左腕で抱くようにして庇った。私は彼女の体重を感じる。乾いたガウンの布地を感じる。彼女の張りつめた精神を感じる。私は一言も発せないでいた。ただそれが降りてくるのを見ていた。
それは私たちの目の前に来た。頭一つ上のところに。その姿は燐の目をもってしてもはっきりと捉えることができなかった。二つの目だけ。しばらく誰も物音ひとつ立てなかったが、燐はいつでも飛びかかるつもりでいた。私は燐の背中に手を回して彼女の右手を軽く二度叩いた。彼女は手をおろした。
私はその心の持ち主には覚えがあった。
「何をしているんですか」と私は訊いた。
「夜の散歩です」
「のは主格ですか」
「どちらでも」
「とにかく」と私は言った。「うちの鴉を唆すのはやめていただきたいですね」
「滅相もない」とそれは言った。その身振りは見えなくても私にはありありと感じられた。「団欒に水を差してしまいましたね」とそれは言った。
誰も何も答えなかった。私は相手が話すのを待っていたが、二つの目はそれ以上は何も言わずにゆっくりと下の方に沈み込んでいった。私たちの立っているところよりもさらに下に。そして消えていった。
地底よりも深いところに何があるのだろうと一瞬考えたが、考えても仕方のないことだろう。それは帰っていっただけだ。それならばそれで構わなかった。私はもう充分な情報を得ていた。
私たち三人がそこに残された。夜は黒々としてその場にある。私はそのとき自分がひどい眠気を覚えていることに気がついた。空は気まずい思いで私が言葉を発するのを待っていた。
「さて」と私は言った。「日も暮れたし帰りましょうか」
燐は笑った。「鴉が鳴くからじゃないんですか」と彼女は言った。
私は暗闇の中で肩から燐の左腕を外して右手と繋いだ。空の右手を左手で取った。私の手に触れたとき、彼女の羽根がどのようにして動くのか私にはわかった。胸の前の目どころか、一つの目も持っていなかったとしてもわかったことだろう。
私は天を見上げた。岩によって丸く切断された夜空。その真ん中に一つだけ浮かんでいる星と目が合った。
それはきらりと瞬いた。
軽めで良いです。
情景が目に浮かぶようでした。
空が夜を掬っているところみたいな、長久手さんの書く不思議なシーン大好きです
とても幻想的でした