<0> エピローグ
「昨日の宴会でかっぱらってきてあげたから、たまにはパチェも飲みなさいよ」
レミィがそう言って私の目の前――に積まれた本の上――に置いたのは、何かしらの酒が詰められているらしい陶器製の瓶だった。その余りに唐突で強引な行動に、珍しく酔っ払いでもしたか、そしてレミィは酔うと奇行に走るタイプだったか、なんて思ったけれど、そういえばこの女吸血鬼は私以外にはよくこういうことをしていたなと思い出す。
珍しい要素と言えば、その思いつき以外の何物でもない行動の対象が私であったことくらいか。
「興味ない、と言う前に中身くらいは訊いておいてあげるわ」
「普通にお酒よ。お米からできる神の恵みってやつ」
「そう。興味ない」
尤も、それがどの種類のお酒であったとしても、同等の反応を示す外ない。魔女というのは、魔法以外に関しては余り興味を持つことができない生き物で、そして魔法への求心の余り他の物を犠牲にした生き様なのだから。
「だろうと思った。だから飲んで自分を亡くしてなんでも面白くなってしまえと言っているのよ」
「血を飲むために相手の自我を失わせる妖怪は言うことが違うわね」
「私はそんな真似したことないけどね。奪うのは精々四肢まで」
「可食部が小さくなりそう」
「美味しい物ってそういうものよ?」
「この国には捨てるところのない食材がたくさんあるらしいけどね」
「大吟醸とか、捨てるところだらけらしいけど。因みにこれも吟醸酒、甘くて美味しかったわ」
「それは勿体ない。ボイコットとして興味を捨てたわ」
頑なな私の態度に多少は諦めがついたか、レミィは溜息を吐きながら私の斜向かいの椅子に腰掛けた。因みに酒瓶は本の上に置いたまま。本を大事にしない者は友達が少ないというけれど、本しか友達にできないのと本すら友達にできないのでは元々の交友の量が違うのだろうか。
「ま、解ってはいたんだけどね」
「解っているけど止められないのね」
「解ったつもりで解っていないかもしれないことを確かめたいのよ。パチェのやってる実験だってそういうものでしょ?」
「私は解ったつもりにはならないけどね。全てを確かめるまでは」
「じゃあ私に奥の手があるかもしれないってことは解ってた?」
「その問いに対する回答は最初から示しているつもりだけど」
私のつれない態度をどう解釈したのか、レミィは不敵な笑みを零した。私の唯一の親友のクセだ。この先の未来が、否、運命が今とは逆接的なものになると確信した途端、彼女は自分だけがそれを知っているとばかりに勝ち誇った顔を浮かべる。自分の読んだことのある本について、まだ読み終えてない他人が結末を予想しているのを聞いているかのような。或いは、自分の記した結末を待ち望む人々を遠くから見下ろすような。そんな表情を。
「仕方ないわね。親友のよしみで、奥の手やらだけは見てあげる」
「私とお前の仲だ。遠慮はいらないさ」
レミィはテーブルに手を突いて立ち上がった。椅子が僅かに動く鈍い音は、広い図書館にこだまする程でもなかった。
そのまま背を向けると、レミィは「待っていてくれ」と私に手を振る。
「私と貴方の仲でしょう。断りはいらないわ」
「どうせ、最初から動くつもりもないだけだろう」
「安心するでしょう、レミィ」
「全くね、パチェ」
暫くして、図書館の扉の蝶番が静かに役を為す音が聞こえた。そうして静寂を取り戻した図書館には、純和風な酒瓶という異物が取り残されたまま、劇団も客も居なくなった劇場のような時間が流れていく。
私はその中で、一人本を開いて文字を追う。記されているのは、ずっと昔、ほんの一瞬だけ名前の売れたとある研究家が遺したメモ書きを集めた、結末もストーリーもない断片集。
知っていることばかり書かれたそれに、時たま知らないことが書かれていると私はつい疑ってしまう。その疑念の内、特に大きな物はあとで実験によって解消するつもりではあるけれど、正しかったにしろ間違っていたにしろ、空しいことのように思えるだろう。
それが解り切っていることだとしても、私はその空しさを伴う真理の追究を止める気はない。
あれ程までに楽しそうな顔で運命を操る親友を、私はまだ親友と呼んでいたいから。
<1> たとえばこんな幻想郷
「『先代』は終始トラブルもなく、無事向こうの世界へ受け入れられましたわ」
「あぁそう、わざわざご報告ご苦労様だ」
「送別セレモニーへのご協力、感謝いたします。偉大なスカーレット家の矮小な御当主様」
「空々しくて寒々しい。この季節にはピッタリだな、チンケな結界の尊大な管理人」
幻想郷における数少ない洋風建築の大豪邸、紅魔館。そしてその紅魔館の中でも最も豪著な一角であるレミリア・スカーレットの私室。
明かりを落したままで薄暗いその部屋には、館と部屋の主であるレミリアと、幻想郷自体の主とも言える八雲紫――その二名の影だけがあった。レミリアに付き従う十六夜咲夜は、紫が訪れたときに案内をしただけで、その後はレミリアの部屋に入ることもしなかった。紫のもう一つの意思とも言える八雲藍は、連れてきていないどころか紫がこの場所を訪れていることさえ知らされていない。
「お陰でお茶の一つもいただけませんわね」
何も置かれていないテーブルを指の腹でなぞりながら、八雲紫は言う。
「生憎香りの良い毒の用意を忘れていたんでね」
正対して頬杖を突くレミリア・スカーレットは、紫に真っ直ぐと視線を向ける。
「今度は是非私共の家へ遊びに来てください、好みのものをご用意いたしますわ」
「知ってる? 死ぬつもりの人間は香りが悪いのよ」
二人きりの仄暗い個室で、その二人ともが自身の心情を隠そうともしない態度を示す。それは、絶対的な不信というある種の信頼感の顕れだと二人ともが思っているようだが、だからこそこの会合は二人きりで行うのが正しいと言えるのだろう。
「で、用件は報告と挨拶で御仕舞? 折角だから夕食でも一緒にどうかしら。八雲様とはそういう席も必要だと思っていてね」
「素敵な申し出ですわ。ですがスカーレット様、生憎家には腹を空かせて待つ乳飲み子が沢山いてね」
「その話は何故鳴くのかという質問をしたときに詳しく聞くとするわ。お見送りは必要?」
「近頃物騒なので、一人で帰らせていただきますわ。そしてその前にもう一つ、いつものお願い事を」
「聞くだけ聞くわ。貴方と私の仲でしょう?」
音も立てず、紫は立ち上がる。会話の最中も微動だにしなかったレミリアを見下ろして、紫はにこりと笑った。
「――これからも是非、幻想郷のためになることをしていただきますわ」
レミリアを見下ろす角度のせいだろう、生まれてしまった影によって感情を隠された紫の表情。それをレミリアは見上げてから、笑いもせずにこう言った。
「私は、私の為になることしかしないよ。それが誰の利害に関わるかなんて、どうだっていい」
「貴方も最早幻想郷の重要な一員であることをお忘れなく」
「つまり、私の為になることは幻想郷の為になるとも言える、ということだな」
「喜ばしいことですわ」
扇の先を口に当て、紫は『スキマ』を呼び出した。レミリアからは余りよく見えないが、その中はまさに混沌といった様子で、あんな場所に入る奴の気が知れないなと思った。
「それでは御機嫌よう、不安に付け込む洞窟の蝙蝠さん」
「半殺しを好むお山の熊さん、達者でね」
交わす言葉の間、二人は最後まで目を合わせなかった。八雲紫はスキマの中に消えて、その後にスキマが閉じていって、糸のようになってからそれさえ消える。レミリア・スカーレットは最初から一人だったかのように私室に取り残された。
先程までスキマという得体の知れない――正直に言えば気味の悪いものが在ったその場所を見つめる。そこにはもう何もないというのに、気味の悪さという概念だけが置いて行かれたように感じてしまう。
「……便利そうだな、あれ」
レミリアが呟くと、タイミングを図ったように背後のドアが三度ノックされた。やけに正確なリズムと、控えめでもうるさくもなく、乱れのないその音に、扉の向こうにいるのが十六夜咲夜だとレミリアは悟る。
「入っていいわよ」
「失礼いたします」
背を向けたまま、ドアの開く音を聞く。この声は、やはり咲夜だ。
「聞いてた? さっきの話」
レミリアはやはり振り向くこともないまま、咲夜に問う。咲夜は、少し間を置いて答えた。
「いいえ。人払いをしておいたので、妖精メイド一匹通っていない筈ですが」
「そう。いえ、別に誰に聞かれていようとも構わないような茶飲み話だったんだけど、随分タイミングが良いなぁと思って」
その言葉は嘘だった。レミリアにとって、先程のやり取りを誰か、特に従者に聞かれるのはあまり良くないことだった。虚勢を張ることさえできないくらい、紫にやり込められてしまった――少なくともレミリア自身は、そう思っているらしい。
「門の外に八雲紫が『現れた』のを見て、それがやけに楽しそうでしたので。お嬢様にはお茶でも飲んで落ち着いていただこうかと」
「不機嫌を予想していたなら一人にしておくという選択肢もあったとは思うんだけどね」
「夕食の時間に拗ねられていては困りますし」
いつからこの従者はこれ程までに不遜な態度を取るようになったんだったかなぁ、とレミリアは自分の教育手腕のなさを痛感しながら、ようやく咲夜の方を振り向いた。
「って。肝心のお茶はどうしたのよ」
咲夜は、両手を前で合わせてピンと真っ直ぐに立っていた。その姿は実に美しいものではあったが、要するに手ぶらということだ。
「そちらに」
にこりといかにも業務上らしい笑顔を浮かべて、咲夜はレミリアが居る場所の一つ向こう、つまりテーブルの方を見た。
つられてレミリアがそちらを向くと、レミリアが後ろを向くまで確かに埃一つなかった筈のテーブルの上には、普段使いのティーセットが並べられていた。もう一度、レミリアは咲夜の方を軽く睨むように振り向いた。
「お熱いので、お気を付けくださいませ」
「その口調、貴方だけが使えるような法律でもできないものかしらね」
「この幻想郷で法律を作るのは、一体どなたなんでしょうね?」
「――法律というのは、それを定める者をこそ一番の無法者にする。私もそうなりたいものだな」
十六夜咲夜は、何も答えなかった。
「良い気分転換になったよ、ありがとう咲夜。安心しろ、ディナーまでには調子を取り戻す。紅茶もあることだしな」
「それは重畳ですわ。妹様もお呼びに?」
「声だけ掛けて、本人に決めさせろ」、
「お役目ご拝命いたしました。それでは、お飲み終わりになった頃またお伺いしますわ」
「あぁそうだ。ついでにもう一つ命令をやろう」
扉の外へ行こうとしていた咲夜が足を止める。レミリアは紅茶の香りだけを嗅いで言った。
「次に八雲紫が来るときまでに、香りの良い毒を用意しておけ」
「はて、八雲様のお好みの味は?」
「どうせ口をつけはしない」
「成程」
レミリアが軽く片手を挙げる。もう行っていい、という合図だ。咲夜は、見られているわけでもなくその合図に一礼を返す。パタン、という音でレミリアは再び一人になる。というよりも、一人にさせた、と表現するのが正しいのかもしれないが、レミリアはそれを若干後悔しつつあった。
少しだけ温度の下がった紅茶に口をつける。採れたての果実のように香り高く、仄かな渋味によって彩られたそれは、場違いにも思えるほど美味しかった。咲夜の淹れるお茶が不味かったことは、原料を原因としているとき以外にはない。だから、その美味しさもただいつも通りでしかない。
「……何が、『幻想郷の重要な一員』だ。馬鹿馬鹿しい」
私は、私でしかない。レミリア・スカーレットが属するのは、スカーレット家――ひいては、この紅魔館だけ。それ以外の所属など、必要ないどころか邪魔なだけだ。自分が居なければ滅ぶというのなら、勝手にすればいい。かつての地からこの幻想郷へ移り住んだように、新しい場所を探すだけだ。
私は、私の為に。私の為になる、家族と親友と従者の為に。それだけを行動原理にしてきた筈なのに。それなのに気付けば、本来何の縁もなく、持つつもりもなかった八雲紫とさえ関わりを持ってしまい、それを受け入れ、密談なんてことまでしてしまう。愉快さがないのなら、追い払ってしまえばいい筈なのに。
私は――解っている。最早自分が、この幻想郷の一員であることを。それを受け入れていることを。幻想郷が私達を受け入れたように、私達が幻想郷を受け入れたことを。
そして、感じている。この幻想郷が変わりつつあることを。変わらないことを目的として作られた筈のこの場所が、変わらないために変わろうとしている――そのうねりを。そしてそれさえも、きっと私は受け入れてしまうことを。
博麗霊夢の居ないこの舞台で、私は役を演じ続けなければいけない。そんなこと、昔の自分なら間髪入れずに拒むだろう。私の思う通りにならない舞台を壊すことを、望むだろう。いや、今だってそれくらいの度胸と我儘さはある。
でもそれをしない。何故か? 私の思う通りにならない舞台では、ないからだ。昔嫌いで嫌いで仕方なくて、見るだけで皿をひっくり返してしまったような食べ物を、大人になってからは好物とするように。
私は、変わってしまう幻想郷を、受け入れてしまう。
変わるのは、幻想郷という場所だけな筈が、ないのだから。
(八雲紫には全てオミトオシ、か)
今度、何か少しでもムシャクシャすることがあったら、たとえ理由が何であれアイツを殴りに行こう。レミリアはそんな物騒なことを決めて、一杯分だけ飲み干した紅茶をその場において立ち上がった。
「さて、フランの機嫌が悪いといいんだけど」
残された紅茶のカップの底には、一粒の砂糖も在りはしなかった。最初から入れなかったから当然ではあるが、寧ろ茶渋が目立つようで不快だった。カップが白ければ白いほど、ほんの僅かな茶渋が目立ってしまう。それを汚れと思うかどうかは人それぞれだけれど、最初から暗い色のカップならば茶渋は見えないのだろうか。
レミリアはそんなことを思いながら、つい最近思春期と反抗期を迎えたばかりの家族のところへ赴くのだった。
レミリアは灰色の天井を見上げていた。フランドールはいつもこれを見て過ごしているのか、なんてことをぼんやりと考えながら、勝負を決めた一撃で負傷した箇所がズキズキと痛むのを誤魔化す。
「強くなったなァ、フラン」
「『お姉ちゃん』が弱いんじゃなくて?」
「敗者に追い打ちするなよ。寝首を掻かれるぞ」
「首が落ちても勝てるわ」
満身創痍のレミリアに比べて二、三のかすり傷を受けただけのフランドールはピンピンしている。せめて息が上がってるフリくらいしてくれればいいものを、と思いながら、フランドールの言っていることが正しいこともレミリアは理解していた。
そもそも開戦のときから結果は見えていた。腹立たしさをぶつけるように殴り掛かる自分と、溜息混じり且つ楽しそうにそれを迎撃するフランドール。純粋な実力差がどうであれ、この構図でレミリアが勝ってしまうことなど、誰も認めないだろう。
「それで、少しはスッキリしたの?」
「あァ、宿酔いの二度寝をしたみたいな気分だ。全く、お陰様だな」
「私もちょっと機嫌が良くなったわ。ご飯、誘ってくれてありがとう」
「誘わなくても来るようになれよ、引きこもり」
「動かないとお腹が空かないのよ」
肺の中の空気を全て入れ替えるように、レミリアは大きく息を吐いた。そしてその勢いで立ち上がり、フランドールと正対する。
「強くなったかはさて置いて、変わったもんだなァ。フラン」
「誰かさんのお陰でね。もう一度産まれ直した気分だわ」
「カハッ。火の鳥か?」
格好つけてはみたものの、レミリアは立つのがやっとだった。足を開くことでようやく体重を支えきって、風でも吹けば再び倒れてしまいそうだ。
「肩を貸す? それとも、とどめを刺す?」
「お前と一緒で、首が落ちても死にはしないさ」
呆れたようにフランドールがレミリアの傍に立つ。負傷が大きくない方の腕を取って、レミリアの体重を預けさせた。レミリアはふっと笑う。その瞬間に、フランドールの肩に掛かる重さが増した。
「フラン。お前が変わったのはよくわかった。それで、私は――私は、変わったか?」
「お姉様は昔からお姉様だと思うけど」
フランドールが一歩前へ出る。レミリアは身体を引きずるようにその動きに合わせた。一歩、一歩と、鈍重ではありながら、少しずつ外へ出る扉の方へ向かっていく。
「それでも、変わったかどうかを疑問に思うのなら、変わったんじゃないかしら」
「良いことを言うなァ。吸血鬼には勿体ない」
「教育が良いのよ」
「流石は私の妹だ」
「お姉様は」
足が止まる。思わず、レミリアはフランドールに預けた腕を離してしまう。多少体力が回復したようで、今度はしっかりと立つことができた。
「お姉様は、変わりたくないの?」
その質問に対する回答を、レミリアは迷った。軽口で返してもいい。真剣に返してもいい。しかしどちらにしても、すぐには最適な言葉が浮かばない。最適かどうかで迷ってしまうなんて、それこそ私は変わってしまったんだろうな、とレミリアは心の中で自虐した。
「大人になるとな――いや、大人になった気分でいるとな。自分が変わってしまえば、誰かに責められるような気がしてしまうんだよ」
「ふぅん。馬鹿みたいね」
「馬鹿なんだよ。子供で居る気がないやつってのはな」
「子供の方が楽だものね。でも、誰が責めるというのかしら」
レミリアは、天井を見上げた。先程よりも近くなった天井は、より暗い色に見えた。
「変わる前の自分、なのかもしれない。どうして私を捨てたんだと、記憶の中から責め立てる」
「やっぱり馬鹿なのね」
「大馬鹿なんだよ。自分を恐れる奴はな」
その言葉の何処かに愉快さを覚えたのだろうか、フランドールは無邪気に笑った。
「じゃあもう私は馬鹿でも大馬鹿でもないのね」
「……そうだな。引きこもるのさえ止めれば、立派な優等生だ」
天真爛漫な笑顔を浮かべて、いかにも上機嫌に歩き出したフランドールの背中を、レミリアは二、三秒見つめた。背中が大きくなったように見えた、訳ではない。しかし、年老いた者のように醜く背中を丸めるではなく、元気な若者らしく筋の入ったその背中が新鮮に見えて、そしてそれが僅かに羨ましかった。
「さぁお姉ちゃん、お夕飯をいただきましょう? 大きくなるにはご飯を沢山食べることが大事らしいわ」
後ろに手を組みながら、振り返って微笑むフランドール。その表情と声色は、ほんの少し前までレミリアには想像さえできなかったもので。
(ならば、変わっていくことを受け入れるのが悪い訳じゃない――こんな風に)
そっと手を伸ばして、レミリアはフランドールの手を取った。
「あんまり急いで歩かないようにね。ご飯は逃げたりしないから」
「お姉ちゃんも、咲夜も皆もね」
「――えぇ、その通り」
私達の家族は、皆そうだ。何処かに出ていっても、いつかは戻ってくる。だから安心して見送れる。安心して、私はこの場所に居続けることができる。変わり続けることでいつも通りになっていくものを、安楽椅子で眺めていられる。
私は良い家族を持ったものだなぁ。
レミリアはそんなことを考えながら、食卓へと向かった。きっとそこには、色んなものが待っているだろうから。
<2>夜を往く者、阻むもの
ザッ、ザッ、ザッ――――
何者かの靴と地面が荒々しく擦れる音が聞こえる。職務中の昼寝を得意とする紅魔館の門番は、その音に気付いてではなく、そのずっと前から目を覚まして、音の主を待ち構えていた。それが彼女の、門番としての仕事であるから。
門は、好まざる通行人を阻むためにある。門番は、好まざる通行人を退けるために居る。そして今、足音を鳴らして近寄ってくる者は、その『好まざる通行人』だった。ならば、門番は門を閉じなくてはならない。門を通さないよう、死力を尽くさなければいけない。
音が近づき、その正体の輪郭が暗闇の中でさえ捉えられる程の距離になった。門番たる紅美鈴は、閉じた門の前にしっかりと立って、その輪郭を捉えた。視力に頼る必要はない。気の流れを読み、操ることが美鈴の能力にして武器だからだ。
そう、美鈴は既に知っていた。一つ目の足音が聞こえる前から、好まざる通行人の正体を。。
「――今晩は。美鈴」
「良い夜ですね、お嬢様」
外からではなく、内から訪れるその通行人。日傘も持たず、従者も連れずに夜を歩く彼女の名は、レミリア・スカーレットだった。
「えぇ、全く。こんな夜にお仕事なんて、嫌にならない?」
「お休みの許可を頂いておりませんので」
「ぼんやりと月でも見ていればいいのよ。狼にならないことにだけ気をつけて、ね」
美鈴の両脚は、杭でも通したかのようにしっかりと立っていた。羆に襲われても一歩として動くことはないと本人が豪語する程に。反して、上半身は実にしなやかで、何も構えてはいないものの、だからこそどのような一撃にも反応できる。
にこやかなようでいて、美鈴はしっかりと、門番としての役割を果たそうとしている。
「狂ってしまいそうなほどに、良い月ですね」
そう言いながらも、空に浮かぶ月には、大きな雲が掛かろうとしていた。強くはない風が雲を流し、それに合わせるように地上には更なる暗闇が訪れていく。
「もう手遅れかしら? 言う相手を間違っているわ。でも、そうね。こんなにも月が綺麗だから」
殺しはしないであげましょう。
レミリアが姿を消す。余りの速さに消えたように見えた、のではない。文字通り、レミリアは夜の闇の中にその存在を『溶かした』。
「っち、――ッ!」
その事象を最後まで捉えてしまっていた美鈴の動きは、当然遅れてしまう。消えてからでは遅いということなど、解り切っている。普通の戦闘ですら、相手の動きを制するには、相手が動き始めてから動き出すまでの間に事を起こさなければならない。勿論美鈴の能力と実力を以てすれば、動き始めどころか動こうと思ったその瞬間を悟ることさえ出来る筈なのに。
レミリアは、動かないままでその姿を消した。だから、誰であろうとその瞬間を捉えることなどできない。闘いというものを知っていれば知っている程、その消失には頭が混乱してしまう。
(間に合って……!)
当てずっぽうで、美鈴は上半身を捩る。
レミリアは自分の速度に自信を持っている筈。だから、初撃を避けられることなど想定しない。圧倒的な速さに、確実性は必要ない。もう一つ必要だとすれば、威力だけだ。
そういうレミリアの思考回路を、美鈴は知っていた。だから、とにかく避けることだけを考えた。相手の回避を想定していない一撃、つまりそれは、どんな方向にでも動いてしまえば芯を外すことができるのだ。
ドッ。鈍い音がして、美鈴の横腹に痛みが走る。インパクトの為に闇夜から再び姿を現したレミリアの白いドレスを、美鈴の視界が捉えた。
そして、他人では一寸として動かすことのできないその脚を、勢いよく腹部らしきところに向かって蹴り上げる。鍛えられ、手段を問わず目的を果たすための戦闘に特化されたその一撃は、モロに喰らえばたとえレミリアであろうと内臓のいくつかが突き破けるかもしれない。それでも美鈴は、躊躇わない。例え相手が主人であろうとも、その主人の最上級の命令として与えられた門番の役割を果たすためには。
「すいま、せん!!」
ブンと、空気が切り裂かれ、美鈴の脚は何も捉えられなかった。狙いも正しかった、速さも最高だった。しかしレミリアが再び闇夜の一部と化したために、物理的な一撃は例えどれほど強烈なものであっても、意味がなくなってしまったのだ。
その空発を惜しむ間もなく、美鈴は再び、上半身に無駄な力を入れない形で構える。何処から来ても反応できるように、ではない。何処に一撃を喰らっても、その衝撃を地面に流せるようにだ。最早、完全に避けたり、防いだりすることは試すだけ無駄だ。
だから、せめて一撃でも多く受け、耐える。
そうすれば、必ずチャンスは巡ってくる。レミリアがどのような手段で姿を消しているのかは解らないが、インパクトの瞬間だけは実体を現す。その一瞬を突けば、もしかしたら勝てるかもしれない。
そして、それ以上に。耐えること自体が目的でもあった。自分が耐えている間ならば、自分は役割を果たしていることになる。だから、その瞬間瞬間を少しでも長くするために、美鈴はどのような痛みも受け入れることを決めた。
「私は、良い家族を持ったわね」
声が、聞こえた。そして、徐々に雲をくぐりぬけた月光が地上に戻ってくる。
レミリア・スカーレットの姿が、互いの手を伸ばしても届かない程度の距離に現れた。背後に満月の月光を受け、レミリアのドレスは銀の糸で紡がれたように輝く。その場所だけが夜ではなくなったかのように、まるでレミリア自身が月となったように、その姿は妖しく美鈴の目を奪った。
「肉弾戦より、弾幕ごっこの方が良かったかしら?」
「うーん、でも私が弾幕を張ると、お庭や館を傷つけてしまいそうですね」
「じゃあこのまま続ける? 多分貴方は、勝てないわ」
「勝つ必要はありません。ここを通しさえしなければ」
「一応訊くわね。何故そこまで通したくない?」
「お嬢様からの御命令でして。『侵入者は通したところで構わない』――」
「――『狂った奴が出ていくのを止めろ』、ね。もう少し言い方を考えておくべきだったわ」
「正確にはその後に、『お前にはそれができるだろう?』が続きますね」
よく覚えているもんだ、とレミリアは溜息を吐いた。労働者の知恵ですよ、と美鈴は笑った。
「ではこちらからも質問をさせていただいても?」
「許可するよ。お前からの質問なんて、茶でも交わしながら聞きたいところだな」
「私が拒む姿勢を見せて、それでも出ていこうとする――その目的は何ですか?」
ざぁ、と生温い夜風が二人の頬を撫でた。よく整備された庭木も、噂話をするようにその葉をこすり合わせる。門の周りには、否、門の内側と紅魔館の間には、虫一匹居ない。無機質なものと二人の眼と、そして月だけがこの対峙を知っていた。
レミリアは、美鈴にしか聞かれることのない回答を呟いた。
「ちょっとそこまで、異変でも起こそうかとね」
「お一人で、ですか?」
「えぇ。博麗の巫女も居ないことだし、それにこんなにも月が紅いから」
「つまり私がこうして止めようとしているのは、やはり正しかったということですね」
「私が狂っていると?」
「昔のお嬢様の言葉が正確だったかはわかりませんから。ただ、お嬢様は私にこういうことをさせたかったんじゃないかなって」
「ふぅん。美鈴のクセに、中々勘を働かせるじゃない」
「根拠が必要なければ、勘にだけは自信がありますから」
やがて、別の雲がまたも月に掛かろうとしていた。美鈴はそれを感じ取り、警戒する。月が姿を隠せば、その暗闇に乗じてお嬢様は不可視となってしまう。その一刹那前、消えようとしてから消えるまでのほんの僅かな間隙で、この距離を詰め、レミリアを捕えることはできるだろうか。
――三歩。美鈴とレミリアの距離は、丁度三歩分。美鈴が三歩進めばレミリアの肉体を捕えることができる。レミリアが三歩以上進めば、美鈴の存在など無視して飛び出すことができるようになる。尤も、先程そうしなかったのだから、次もそうしないと考えるのが自然なのかもしれないが。
「次で決めてあげるわ。手段と結果を選ばず、本気で来なさい」
「館が傷ついても、お嬢様のせいってことにしておいてくれますか?」
「勿論。従者の粗相は主の責任よ」
「良かった、咲夜さんには怒られたくないんですよ」
じゃあ、次で決めますね。美鈴はそう言って構えを直す。両脚を縦に大きく開いた、美鈴の本来の戦闘スタイルだ。
ゆらりと、レミリアの上半身が揺れる。
(まだだ……まだ早い)
美鈴が全身に力を籠める。主が次で決めると言った以上、最早ただ耐えるだけのことは意味を為さない。その判断は、美鈴の基準としては正しかったのかもしれない。しかし、勝負という意味で正しいかと言えば、それは間違っていたのかもしれない。
レミリアは姿を消すことなく、純粋に美鈴に向かって『突っ込んだ』。丁度三歩の距離で、最も勢いを増すように。小細工や演出などない、ただ只管に『強く』『速く』『正確な』一撃を与えるために。
僅かに遅れて美鈴が動き出す。その遅れは、勝敗を決するような致命的な遅れではない。相手よりも早いカウンターには意味などない。相手の勢いが最も乗ったところで与える反撃こそが、一番効果的なカウンターになる。だから、その為に、美鈴は意図的にレミリアの動向を見てから動いたのだ。
レミリアの肉体が夏夜の空気を切り裂く。美鈴の肉体がその切っ先を迎え撃つ。
この一合で勝負が決まらないのならば、きっとこの闘いは永遠に終わらないだろう。そう感じさせるような衝突は、月が半分だけ隠れた頃に。
演者以外の誰も知らない結末が、砂塵の中で静かに訪れたのだった。
「……はぁ。主より強い門番なんて、雇うべきじゃなかったわね」
「いえいえ、どう考えたってお嬢様の勝ちじゃないですか。因みに私あと二分くらいは立てません」
結局、最後に立っていたのはレミリア・スカーレットだった。最後として定められたその一合の後、二人の間には再び三歩の距離が空いていて、そして二人ともがしっかりと地面を捉えて立っていた筈だった。しかし、月が雲から顔を出す頃、美鈴はどさりとその身体を崩してしまった。
あの一瞬、レミリアは確かに、一点の曇りもなく、百パーセントの『攻撃』をした。そしてそれを迎え撃つ美鈴の拳は、『防御』としての拳そのものだった。相手を倒すのではなく、相手の一撃を無効化するためだけの、そういう一撃。だからレミリアは弾き飛ばされるように元の立ち位置に戻ったし、美鈴はその場から動かなかった。
「貴方の役割は勝つことではなくて止めることでしょう?」
「じゃあ任務達成ですね。ご褒美を期待しておきます」
「駄目よ。貴方、私の言うことに逆らったじゃない」
「あれがそうなんですよ。何卒ご理解いただければ」
防御としての一撃を美鈴が選んだ理由は、レミリアには理解できない。しかし美鈴にとっては確かに『手段と結果を選ばない、最高の行動』だったらしく、美鈴の顔にはどこか誇らしさのような色が浮かんでいた。
「まぁ、いいけど。さて、ここを通ってもよろしくて? 優秀な門番さん」
「どうぞ。主の許可が頂けたような気がするので」
「――全く、どうしてうちの従者はこうも生意気なのかしら」
「主の躾が良いらしく」
月を見上げたまま、美鈴はふっと笑う。
「最後に一つだけ忠告しておくわ」
「なんでしょう?」
「貴方の最後の一撃、あれを『私を殺すつもり』で打てば、きっとそこに寝ているのは私だったわ」
それは、嘘や誤魔化し、慰めのつもりなど一切ない、レミリアの心からの言葉だった。本当に目的も立場も忘れて、美鈴がレミリアを殺すつもりでいたならば、レミリアも殺されるつもりなど毛頭ないものの、しかし自分にとって都合の良い結末になっていたかは解らない。
だからこそ、レミリアは美鈴に対して若干の憤りを覚えているのだった。しかし美鈴はそんな感情を知ってか知らずか、ただ能天気にこう言う。
「お嬢様は、手段と結果は選ぶな、としか言っていませんから。そして本気だったのも事実です」
「あらそう。まぁいいわ。説明責任を果たさない貴方からは、暫く休暇を剥奪しとく」
「……すいません。さっきは強がりました。あと二日くらいベッドで身体を休めたいんですが」
「二分経ったわね。主を最敬礼で見送りなさい、門番」
ザッ、ザッ、ザッ――。
再び、レミリアの靴が地面を蹴る音。紅魔館の大きく重い門は、館の主に対して何の抵抗もなく、ゆっくりと開いていった。
「いってらっしゃいませ、お嬢様」
そんな声を背中に受けながらも、レミリアは表情一つ変えずに、歩き続けた。
「迎えに来てあげなさい、咲夜。聞こえているかどうか知らないけど」
「お嬢様の御命令とあれば」
そして、レミリアは館の外へ姿を消した。暗闇に溶けていくその背中は、唯々寂しかった。
<3> なくなってしまうもの、揮発するもの
レミリアが足を引きずりながら向かうのは、博麗神社だった。美鈴に言ったような、『一人で異変を起こす』気など失せてしまったし、そもそも先程の戦闘のダメージは従者の前だからと張れる虚勢でようやく隠せるかどうかくらいのもので、霊夢どころかその辺の妖怪が少し束になって掛かってくれば逃げ帰らざるを得なくなるだろう。
それでも外に行くことを止めなかったのは、そして向かう先をいつの間にか博麗神社に決めたのは、プライドのようなものがそうさせたとしか言いようがない。
(利害など最初からありはしない――ならば、プライドで動く。それだけのことさ)
それは、レミリアが産まれてから一度として忘れたことがなく、そして嘲笑いながらも守ってきた貴族としての生き様だった。プライドのために豪華な生活をして、プライドのために戦う。暇潰しなんて、プライドに比べればあまりにちっぽけな行動原理だったのだ。いつの間にか、プライドを賭けなければならないようなことがなくなって、暇潰しのウエイトが増してきてはいたけれど。
レミリア・スカーレットは、妹と同じくするスカーレットの名の元のプライドを忘れてはいなかった。
(それにしては、随分格好悪いけどなァ)
足だけではない、全身を引きずるように、鈍重に。博麗神社という、最早目的のない筈の場所へ向かう。その理由をプライドに求めずにはいられないというのが、もしかしたら真相なのかもしれない。
(あぁ……帰って、咲夜の紅茶を飲んで、フランを構って、寝たい。明日の今くらいの時間まで、ずっと寝たい)
草木も月も眠るその時間、夜を歩く者は、それでも歩みを止めなかった。
だから、辿り着く。どれ程の時間が経ったかは解らない。本当は大した時間ではないのかもしれない。その間にレミリアの身体へのダメージは癒えることなく、視界は霞んで今にも倒れてしまいそうだった。それでも、倒れることなく、博麗神社に続く階段はレミリアの目の前にあった。
階段の向こうを見上げると、賑やかな音と光が今にも溢れ出しそうだった。
(宴会……? まさか。だって、ここにはもう誰も――)
「よう、紅魔館の。飲むか?」
戸惑う声を掛けてきたのは、階段に腰掛けて休んでいたらしい八坂の神だった。
霊夢が居た頃の宴会でも時々しか目にしなかったこいつが、今なぜここにいるのだろう。まさか所有者が居ないのをいいことに乗っ取りでもしたか、それともあの行動の読めない結界の管理人に言われてか……いや、暫く館に引きこもっていた自分では想像はできても推測まではできない。考えるだけ無駄だ。
レミリアは、取り敢えず今は敵意のないことの表現として、無難な言葉を返す。
「内臓の消毒くらいにはなるかもしれないが、遠慮しておく」
「西洋の医療か? 是非ともご教授願いたいな。うちの早苗もまだまだ学が浅くてね」
「生徒役はもう満杯。寧ろ医者役を一人雇いたいくらいなんだけど」
「居るじゃないか。あの本の虫」
「私の親友を馬鹿にするんじゃない。それに、アイツは医者の不養生の典型すぎてな」
階段の一段目、上手く上がってくれない足を見つめていると、神奈子がレミリアの腕を引っ張った。
「……なんだ。この国の神霊は随分優しいんだな、八坂の」
「いやぁ、酔って涼しいとこに来たはいいが、足がおぼつかなくてな。肩を貸してくれとは言わん、腕を寄越しな。紅魔館の」
身長差から言ってそもそも肩を貸せないのは確かだが、とレミリアは思いつつ、素直に神奈子についていくことにした。逆らっても仕方がない、せめて今起こっていることがどういったものなのか、自分の目で確かめておきたい。それに、妹も登った階段だ、自分が立ち竦んだままでいては恰好がつかない。
「実はね。アンタとは、一度話してみたいと思っていたんだよ」
「あの湖なら私の所有物じゃないから、好きにしていいぞ」
「違う違う。わかってんだろ? あの気に食わない女の被害者同士としてさ」
「気に食わない女……? あァ、あの女狐か」
「狐は式の方さ。ったく、自分の都合ばかり話す上に相手の都合を知り尽くしてるやつほどうざったいものはないな」
「やはり、何処にでも声を掛けてるんだな。行動範囲の広さには敵わんなァ」
神奈子と話すうち、レミリアは自分にしては珍しい感情を覚えていることに気付いた。それは新鮮さそのものともいえるような感情であり、レミリア自身気付いてはいなかったここ最近の胸の中の閉塞感を取り除かれた解放感だった。
酔っ払いと怪我人で支え合いながら階段を登る僅かな時間、レミリアは自分がそんなポジティブな感情に包まれていることに不安を覚えながらもそれを拒むことができないでいた。
やがて階段を登りきって、大きな鳥居が見える。聞こえていた賑やかな音が宴会の騒々しさそのものであることに気付き、やや人影も見えてきた。
「くしゅん、と」
わざとらしいくしゃみの音に目を向けると、そこに居たのは鳥居に背中を預けて一人佇む八雲紫だった。
「……ハッ。相変わらず、会いたくないときに現れる奴だな」
「ご挨拶ですこと。それで、本日はこのうら寂しい廃墟に何の御用事で?」
「廃墟探検ツアーの案内を拾ったんでな。そしたらそいつが狢の穴だったみたいで、今帰ろうとしていたところさ」
八雲紫は不敵に笑う。相変わらずその片手には一品ものらしい扇を携えて。
「お陰様でツアーが大盛況なのよ。それでも来る者拒まず、去る者追わずですわ」
「フン、言われなくても招待状持ちは置いてくさ。八坂の、世話になった」
「あら。貴方々と私の三人で、幻想郷をもっと良くしていく相談なんてできたらと思っていたのですけど」
「いつからアンタは政治家になったんだい? それとも、宗教家かな」
「足元にも及びませんわ、八坂様」
「あたしは宗教家じゃないがな」
「政治は苦手だったようで」
横から口を出し、レミリア以上に不機嫌さを露わにしたのは神奈子だ。被害者の会、と言うだけあって、レミリアと同じように紫には良くない因縁があるのだろう。
「チ……早苗はともかく、洩矢はなんだってこんな奴を……。まぁいい、レミリア・スカーレット。宴会に寄りたいならあたしが連れてくよ。こんな奴の招待状なんて最初からいらんさ」
神奈子は紫に対する敵意をむき出しにしたまま、レミリアを酒宴へと誘う。
「いや、今日は帰るとするよ」
霊夢が開催する宴会以外へのゲストとしての参加はしたことがない。もしするとしても、せめて万全の状態でしたいし、今日は咲夜も連れてきていない。――それに、宴会に参加するためにこの場所を訪れた訳ではない。
じゃあ何のためなのか、と問われたところで、それに対する答えをレミリアは持ち合わせていないのだが。
レミリアの即断に、神奈子はそれ以上口を挟まなかった。流石は名のある一柱なだけあるな、なんて思いながら、レミリアは神様という存在が人間の都合や感情を汲んでやった話など殆ど聞いた覚えがないな、と考え直す。
だとすれば、これは神奈子の性格なのだろう。つくづく神様に向かない性格で、確かに一度ゆっくり話すのも悪くはないなとレミリアは思った。
「あら、帰るならお土産を渡さなくちゃね。霊夢にも頼まれたことだし」
「霊夢に?」
せびることはあっても、人に頼んでまで渡そうとするなんて、それは本当にあの巫女なのだろうか。狐が狸に騙される話など聞き飽きたが、その狐がもしこの八雲紫ならば、さぞ痛快なのだろうなとレミリアは誰に言うこともない自分の冗談に心の内だけで笑った。
「えぇ、これよ。珍しく貴方が飲んでいた日本酒だから、きっと好みだったんだろうって」
そう言って八雲紫が背中側に隠れていた腕を上げる。その手にあったのは、よくは見えないけれど恐らく酒瓶のようなものらしい。
「ふぅん……全く覚えていないけど、霊夢も粋なことをするものだなァ」
「あの子、あれで結構家族思いな他人には優しいのよ」
「嘘を吐け。あいつが誰かに優しかったり厳しかったりする筈がない」
「それもまた、一つの真実ですわ」
八雲紫の差し出した酒瓶を受け取るために、レミリアが階段を登る。神奈子の手は、いつの間にか離れていた。そしてその神奈子は、レミリアを追うこともなく、階段の下からレミリアの背中と紫を見上げていた。
「……早苗の様子を見てくるよ。アイツが潰されちゃ、喧嘩でも起こったときにいよいよ止める奴がいなくなる」
「お優しいこと」
「アンタと違ってな」
一段一段登るレミリアの横を、神奈子は急ぐような足取りで追い抜いた。階段の端を歩いていた割に、鳥居を通る際には堂々と真ん中を進む。そして、終始紫と目を合わせることはなかった。
「はい、どうぞ」
「ありがたく受け取っておくよ。この酒には罪がないしな」
「えぇ。飲めばなくなってしまうものですから」
酒瓶が、紫の手からレミリアの手へと渡る。ずっしりと重いそれを、レミリアは落とさないようにしっかりと握った。
「いつか、宴会にも遊びに来てくださいね。誰が喜ぶかなんて気にせず」
「そもそも性に合わないんだよ。私が好きなのはディナーと一緒に味わう赤ワインでね。パーティーはVIP席で見ているだけの成金さ」
「じゃあ、そのお酒は独りで?」
「……悪かったな。身内すら酒の席には誘えないんだよ」
「吸血鬼は誘われなければ家に入れないんでしたわね」
「難儀なしきたりだ」
「でも、きっと幻想郷は貴方を受け入れるでしょう。幻想郷の一員は、即ち幻想郷の一部ですわ」
扇で隠された紫の表情は、レミリアには見えない。見えたところでその裏が読める筈もないが、しかし不思議といつものように腹が立つこともなかった。
「それと、もう一つ。貴方に言ったことを訂正しますわ」
「あァ? すまんな、軽口は忘れる性質なんだ。心が広くてな」
「貴方『達』も最早幻想郷の重要な一員であることをお忘れなく」
「……フン。私の家族を変なことに巻き込むなよ」
「幸せになるのは、一人でも多い方がよろしいのではなくて?」
「私一人で充分だよ」
最早用はない、とレミリアは背を向けた。暗い夜道の階段は、一人で降りるには心細いように思えた。
「さて、ここからは私の個人的な質問」
その背中に、紫が問いかける。レミリアは振り返って、その質問を聞くことにした。良い予感は元よりなかったが、紫の何かを見透かしたような笑顔を見て、レミリアはより寒々しさを覚える。
「貴方、そのお酒を誰と飲むつもり?」
さっきも言わなかったか、と返すつもりだったが、紫の続く言葉に阻まれる。
「もしも当てがあるのなら、明日また、日の落ちない内に出かけるといいわ。森の辺りに」
「……お前はいつから占い師になったんだ? まぁいいさ、起き上がることができたら考えておく」
お前が本当に幻想郷の幸福を祈る者であることを信じてな。そう呟いて、レミリアは階段を降り始める。
――――参加者の内、人間の占める割合が僅かに減った博麗神社の宴会。それは、文字通り夜が明けるまで続いたのだった。
<4> 蛇足という名の香りの良い毒
「――かっぱらってきた、なんて言って。貰い物じゃないの、これ」
「カハハ、そんな細かいことはいいじゃない、親友さん」
「私は親友が飲むものによって酒癖が変わるなんて性質を今更知って、驚いているところなのだけれど」
昼夜を知らぬ大図書館。そこでは、レミリア・スカーレットとパチュリー・ノーレッジによる二人だけの宴会が開かれていた。宴会と言っても、酒を呷っているのは主にレミリアだけで、パチュリーは舐める程度にしか酒に口をつけていないのだが。
「で、その大事な貰い物をそんなにガバガバ飲んでしまっていいのかしら?」
「酒は飲めばなくなるが、飲まなければ意味のないものよパチェ。透明で、見ていても楽しくないしね」
「思い出とか感傷とか……まぁ、ないでしょうね」
「パチェもしないでしょう、そんなこと」
「無くならないものになら、少しは考えてあげてもいいけどね」
何度目だろうか、酔いが回り切って座っているのにふらついているレミリアが、テーブルの上に突っ伏して、動かなくなる。きっと涎を垂らして眠ってしまったのだろう。テーブルを片付けておいて本当に良かった、とパチュリーは溜息を零す。
「切子硝子、ねぇ。魔法で作れるかしら」
パチュリーは、レミリアが『奥の手』として持ってきた、杯代わりのグラスをシャンデリアの光にかざす。透明感のある鮮やかな硝子の色と、丁寧に彫られた細工がきらきらと光を反射する。
これは、今日の昼間に咲夜を連れて出掛けた、森の道具店で見つけたものらしい。
(昨晩も急に一人で出て行って、へとへとになって帰ってきたかと思えば、今日もわざわざこんなものを買うために出かけるなんて。……最近のレミィはやけにお節介だと思っていたけど、まさか自分まで変わろうとするなんてね)
寝息を立て始めた親友の頬を、パチュリーは軽く指で突いた。
(あら、本格的に寝てる)
本当に自分勝手に動き回る奴だ、なんて呆れながら、レミリアの持ってきた酒瓶を持ち上げる。パチュリーはそれを自分のグラスに注いで、もう一度それをシャンデリアに向かってかざした。
なんとなく、何かが入っていた方が綺麗に見える気がした。
パチュリーは注いだ酒でほんの少し口の中を潤わせる。酒の喉を焼く感触の後も、芳醇な香りが口内に残っていた。
(……やっぱりワインの方が少しはマシだと思うけど)
それでもまぁ、親友が持ち帰ってきた酒だ。慣れはしないが、不味いと思う理由などない。
まだ酔い潰れる前のレミリアの言葉を、パチュリーはふと思い出した。
『良い器には、良い酒を注がなきゃならない。それはいつかなくなるが、そうしたらまた注げばいい――いや、注がなくちゃならない。美味い酒だった、と杯を見つめても、一滴として戻ってくるわけじゃないんだから』
それは誰かに聞いた言葉なのだろうか。それとも、レミリア自身に思うところがあったのだろうか。それは解らないけれど、少なくとも間違ったことを言っているわけでも、酔狂や言葉遊びで言っているわけでもないことくらいは理解できる。
四、五回かけてゆっくりと日本酒を飲み干すと、パチュリーはレミリアがグラスと一緒に持ってきたボトルのワインを注いだ。先程とは違い、今度は紅い液体によって満たされたグラスは、また違った姿を見せた。
ワイングラスよりも厚い飲み口の切子グラスでワインを飲むと、香りよりも味わいを感じられることにも気づいた。
(レミィにしてはいいチョイスね)
パチュリーは、幸せそうに眠るレミリアの髪を撫でる。
もしレミリアが起きたら、この事実を教えてあげよう。そしてもしずっと起きないようなら、今度レミリアに誘われた際には図書館以外でやることにしよう。そんなことを思いながら、パチュリーは目を閉じたレミリアの視線に自分の視線を合わせる。
こんな距離で顔を見たのはいつ以来だろうか、もしかしたら初めてかもしれない。――尤も、今こうしてその初めてを迎えたのだから、これからはきっと珍しくなくなるだろう。
変わり行く日々と、そして変わろうとしているのかもしれない友人の姿に若干の期待を覚えながら、パチュリーはグラスとワインの液面が反射する光を愛おしそうに見つめる。
そしてやがて、レミリアにつられるように、パチュリーの瞼がゆっくりと閉じていって、束の間の喧騒を得た図書館は、再び静かになっていく。その空間は決して黴臭くなどなく、ただいつもよりもずっと酒臭くて、だからこそ今までにないくらい安らかに眠れるような、そんな気がした。
「お酒の席が楽しいのはよくわかりますが、せめて寝床に入るくらいの正気は保ってくださいませ。お嬢様、パチュリー様」
「血……いや、お水をちょうだい……そのあと紅茶」
「……背中と腰と腕が痛い」
「何よパチェ、私なんて頭が痛いのよ」
「思い出したわ、頭も痛い。レミィより痛いわ」
明くる日。紅魔館の主人とその友人は、優秀なメイド長によって叩き起こされた。その視線はやけに冷たく、レミリアとパチュリーは、宿酔いや机に突っ伏すという慣れない姿勢で寝たことによる節々の痛みによって、『これ以上責めなくたっていいじゃないか』という感想を共にすることとなった。
「ねぇ咲夜、お願いだからお水を」
「宿酔いには日光が一番らしいですわ」
「……うー」
頭を抱えて心底辛そうな表情を浮かべる主人に、流石に溜飲を下げたのだろうか。咲夜は二人の前に水差しとグラスを用意した。
「それにしても、お嬢様が潰れる程飲まれるのも、パチュリー様がそれに付き合われるのも驚きですわ。何かのお祝いでしょうか」
グラス一杯の水を飲み干して、パチュリーが答える。
「親友の頼み事は断れないのよ、ご存じのとおり」
二杯分の水を飲み干して、自分の頭部をぐっぐっと指圧してから、レミリアが答える。
「古い器に新しい酒を入れたくなったんだよ」
要領を得ているとは言い難い二人の回答に、咲夜はまたも呆れたような溜息を漏らした。
「そうだ、咲夜」
少しは思考がはっきりしてきたのだろうか、先程よりは頼りなくない声で、レミリアが言う。
「今度は貴方も付き合いなさい、門番も呼んで」
「一升瓶をご用意いただければ」
「樽酒と一升マスを用意しておくさ」
「香り高いものをお願いいたしますわ」
「はっ、八雲紫が来ると言い出したら、そうしてやるさ」
水差しを空にしたレミリアが椅子から立ち上がる。まだ若干のふらつきを残してはいたが、自分で立てるくらいには回復したらしい。
「お嬢様、お水なら私が新しいものをご用意いたしますが」
「違うわよ。フランのところに遊びに行くの」
「……自殺志願でしょうか」
「止めないであげなさい咲夜、一昨日からのことなんだから」
だから、とレミリアが言う。咲夜とパチュリーの方をしっかりと見返して、そして背筋を天にも届きそうな程に伸ばして、こう笑った。
「古い器に新しい酒を入れにいくのよ」
「昨日の宴会でかっぱらってきてあげたから、たまにはパチェも飲みなさいよ」
レミィがそう言って私の目の前――に積まれた本の上――に置いたのは、何かしらの酒が詰められているらしい陶器製の瓶だった。その余りに唐突で強引な行動に、珍しく酔っ払いでもしたか、そしてレミィは酔うと奇行に走るタイプだったか、なんて思ったけれど、そういえばこの女吸血鬼は私以外にはよくこういうことをしていたなと思い出す。
珍しい要素と言えば、その思いつき以外の何物でもない行動の対象が私であったことくらいか。
「興味ない、と言う前に中身くらいは訊いておいてあげるわ」
「普通にお酒よ。お米からできる神の恵みってやつ」
「そう。興味ない」
尤も、それがどの種類のお酒であったとしても、同等の反応を示す外ない。魔女というのは、魔法以外に関しては余り興味を持つことができない生き物で、そして魔法への求心の余り他の物を犠牲にした生き様なのだから。
「だろうと思った。だから飲んで自分を亡くしてなんでも面白くなってしまえと言っているのよ」
「血を飲むために相手の自我を失わせる妖怪は言うことが違うわね」
「私はそんな真似したことないけどね。奪うのは精々四肢まで」
「可食部が小さくなりそう」
「美味しい物ってそういうものよ?」
「この国には捨てるところのない食材がたくさんあるらしいけどね」
「大吟醸とか、捨てるところだらけらしいけど。因みにこれも吟醸酒、甘くて美味しかったわ」
「それは勿体ない。ボイコットとして興味を捨てたわ」
頑なな私の態度に多少は諦めがついたか、レミィは溜息を吐きながら私の斜向かいの椅子に腰掛けた。因みに酒瓶は本の上に置いたまま。本を大事にしない者は友達が少ないというけれど、本しか友達にできないのと本すら友達にできないのでは元々の交友の量が違うのだろうか。
「ま、解ってはいたんだけどね」
「解っているけど止められないのね」
「解ったつもりで解っていないかもしれないことを確かめたいのよ。パチェのやってる実験だってそういうものでしょ?」
「私は解ったつもりにはならないけどね。全てを確かめるまでは」
「じゃあ私に奥の手があるかもしれないってことは解ってた?」
「その問いに対する回答は最初から示しているつもりだけど」
私のつれない態度をどう解釈したのか、レミィは不敵な笑みを零した。私の唯一の親友のクセだ。この先の未来が、否、運命が今とは逆接的なものになると確信した途端、彼女は自分だけがそれを知っているとばかりに勝ち誇った顔を浮かべる。自分の読んだことのある本について、まだ読み終えてない他人が結末を予想しているのを聞いているかのような。或いは、自分の記した結末を待ち望む人々を遠くから見下ろすような。そんな表情を。
「仕方ないわね。親友のよしみで、奥の手やらだけは見てあげる」
「私とお前の仲だ。遠慮はいらないさ」
レミィはテーブルに手を突いて立ち上がった。椅子が僅かに動く鈍い音は、広い図書館にこだまする程でもなかった。
そのまま背を向けると、レミィは「待っていてくれ」と私に手を振る。
「私と貴方の仲でしょう。断りはいらないわ」
「どうせ、最初から動くつもりもないだけだろう」
「安心するでしょう、レミィ」
「全くね、パチェ」
暫くして、図書館の扉の蝶番が静かに役を為す音が聞こえた。そうして静寂を取り戻した図書館には、純和風な酒瓶という異物が取り残されたまま、劇団も客も居なくなった劇場のような時間が流れていく。
私はその中で、一人本を開いて文字を追う。記されているのは、ずっと昔、ほんの一瞬だけ名前の売れたとある研究家が遺したメモ書きを集めた、結末もストーリーもない断片集。
知っていることばかり書かれたそれに、時たま知らないことが書かれていると私はつい疑ってしまう。その疑念の内、特に大きな物はあとで実験によって解消するつもりではあるけれど、正しかったにしろ間違っていたにしろ、空しいことのように思えるだろう。
それが解り切っていることだとしても、私はその空しさを伴う真理の追究を止める気はない。
あれ程までに楽しそうな顔で運命を操る親友を、私はまだ親友と呼んでいたいから。
<1> たとえばこんな幻想郷
「『先代』は終始トラブルもなく、無事向こうの世界へ受け入れられましたわ」
「あぁそう、わざわざご報告ご苦労様だ」
「送別セレモニーへのご協力、感謝いたします。偉大なスカーレット家の矮小な御当主様」
「空々しくて寒々しい。この季節にはピッタリだな、チンケな結界の尊大な管理人」
幻想郷における数少ない洋風建築の大豪邸、紅魔館。そしてその紅魔館の中でも最も豪著な一角であるレミリア・スカーレットの私室。
明かりを落したままで薄暗いその部屋には、館と部屋の主であるレミリアと、幻想郷自体の主とも言える八雲紫――その二名の影だけがあった。レミリアに付き従う十六夜咲夜は、紫が訪れたときに案内をしただけで、その後はレミリアの部屋に入ることもしなかった。紫のもう一つの意思とも言える八雲藍は、連れてきていないどころか紫がこの場所を訪れていることさえ知らされていない。
「お陰でお茶の一つもいただけませんわね」
何も置かれていないテーブルを指の腹でなぞりながら、八雲紫は言う。
「生憎香りの良い毒の用意を忘れていたんでね」
正対して頬杖を突くレミリア・スカーレットは、紫に真っ直ぐと視線を向ける。
「今度は是非私共の家へ遊びに来てください、好みのものをご用意いたしますわ」
「知ってる? 死ぬつもりの人間は香りが悪いのよ」
二人きりの仄暗い個室で、その二人ともが自身の心情を隠そうともしない態度を示す。それは、絶対的な不信というある種の信頼感の顕れだと二人ともが思っているようだが、だからこそこの会合は二人きりで行うのが正しいと言えるのだろう。
「で、用件は報告と挨拶で御仕舞? 折角だから夕食でも一緒にどうかしら。八雲様とはそういう席も必要だと思っていてね」
「素敵な申し出ですわ。ですがスカーレット様、生憎家には腹を空かせて待つ乳飲み子が沢山いてね」
「その話は何故鳴くのかという質問をしたときに詳しく聞くとするわ。お見送りは必要?」
「近頃物騒なので、一人で帰らせていただきますわ。そしてその前にもう一つ、いつものお願い事を」
「聞くだけ聞くわ。貴方と私の仲でしょう?」
音も立てず、紫は立ち上がる。会話の最中も微動だにしなかったレミリアを見下ろして、紫はにこりと笑った。
「――これからも是非、幻想郷のためになることをしていただきますわ」
レミリアを見下ろす角度のせいだろう、生まれてしまった影によって感情を隠された紫の表情。それをレミリアは見上げてから、笑いもせずにこう言った。
「私は、私の為になることしかしないよ。それが誰の利害に関わるかなんて、どうだっていい」
「貴方も最早幻想郷の重要な一員であることをお忘れなく」
「つまり、私の為になることは幻想郷の為になるとも言える、ということだな」
「喜ばしいことですわ」
扇の先を口に当て、紫は『スキマ』を呼び出した。レミリアからは余りよく見えないが、その中はまさに混沌といった様子で、あんな場所に入る奴の気が知れないなと思った。
「それでは御機嫌よう、不安に付け込む洞窟の蝙蝠さん」
「半殺しを好むお山の熊さん、達者でね」
交わす言葉の間、二人は最後まで目を合わせなかった。八雲紫はスキマの中に消えて、その後にスキマが閉じていって、糸のようになってからそれさえ消える。レミリア・スカーレットは最初から一人だったかのように私室に取り残された。
先程までスキマという得体の知れない――正直に言えば気味の悪いものが在ったその場所を見つめる。そこにはもう何もないというのに、気味の悪さという概念だけが置いて行かれたように感じてしまう。
「……便利そうだな、あれ」
レミリアが呟くと、タイミングを図ったように背後のドアが三度ノックされた。やけに正確なリズムと、控えめでもうるさくもなく、乱れのないその音に、扉の向こうにいるのが十六夜咲夜だとレミリアは悟る。
「入っていいわよ」
「失礼いたします」
背を向けたまま、ドアの開く音を聞く。この声は、やはり咲夜だ。
「聞いてた? さっきの話」
レミリアはやはり振り向くこともないまま、咲夜に問う。咲夜は、少し間を置いて答えた。
「いいえ。人払いをしておいたので、妖精メイド一匹通っていない筈ですが」
「そう。いえ、別に誰に聞かれていようとも構わないような茶飲み話だったんだけど、随分タイミングが良いなぁと思って」
その言葉は嘘だった。レミリアにとって、先程のやり取りを誰か、特に従者に聞かれるのはあまり良くないことだった。虚勢を張ることさえできないくらい、紫にやり込められてしまった――少なくともレミリア自身は、そう思っているらしい。
「門の外に八雲紫が『現れた』のを見て、それがやけに楽しそうでしたので。お嬢様にはお茶でも飲んで落ち着いていただこうかと」
「不機嫌を予想していたなら一人にしておくという選択肢もあったとは思うんだけどね」
「夕食の時間に拗ねられていては困りますし」
いつからこの従者はこれ程までに不遜な態度を取るようになったんだったかなぁ、とレミリアは自分の教育手腕のなさを痛感しながら、ようやく咲夜の方を振り向いた。
「って。肝心のお茶はどうしたのよ」
咲夜は、両手を前で合わせてピンと真っ直ぐに立っていた。その姿は実に美しいものではあったが、要するに手ぶらということだ。
「そちらに」
にこりといかにも業務上らしい笑顔を浮かべて、咲夜はレミリアが居る場所の一つ向こう、つまりテーブルの方を見た。
つられてレミリアがそちらを向くと、レミリアが後ろを向くまで確かに埃一つなかった筈のテーブルの上には、普段使いのティーセットが並べられていた。もう一度、レミリアは咲夜の方を軽く睨むように振り向いた。
「お熱いので、お気を付けくださいませ」
「その口調、貴方だけが使えるような法律でもできないものかしらね」
「この幻想郷で法律を作るのは、一体どなたなんでしょうね?」
「――法律というのは、それを定める者をこそ一番の無法者にする。私もそうなりたいものだな」
十六夜咲夜は、何も答えなかった。
「良い気分転換になったよ、ありがとう咲夜。安心しろ、ディナーまでには調子を取り戻す。紅茶もあることだしな」
「それは重畳ですわ。妹様もお呼びに?」
「声だけ掛けて、本人に決めさせろ」、
「お役目ご拝命いたしました。それでは、お飲み終わりになった頃またお伺いしますわ」
「あぁそうだ。ついでにもう一つ命令をやろう」
扉の外へ行こうとしていた咲夜が足を止める。レミリアは紅茶の香りだけを嗅いで言った。
「次に八雲紫が来るときまでに、香りの良い毒を用意しておけ」
「はて、八雲様のお好みの味は?」
「どうせ口をつけはしない」
「成程」
レミリアが軽く片手を挙げる。もう行っていい、という合図だ。咲夜は、見られているわけでもなくその合図に一礼を返す。パタン、という音でレミリアは再び一人になる。というよりも、一人にさせた、と表現するのが正しいのかもしれないが、レミリアはそれを若干後悔しつつあった。
少しだけ温度の下がった紅茶に口をつける。採れたての果実のように香り高く、仄かな渋味によって彩られたそれは、場違いにも思えるほど美味しかった。咲夜の淹れるお茶が不味かったことは、原料を原因としているとき以外にはない。だから、その美味しさもただいつも通りでしかない。
「……何が、『幻想郷の重要な一員』だ。馬鹿馬鹿しい」
私は、私でしかない。レミリア・スカーレットが属するのは、スカーレット家――ひいては、この紅魔館だけ。それ以外の所属など、必要ないどころか邪魔なだけだ。自分が居なければ滅ぶというのなら、勝手にすればいい。かつての地からこの幻想郷へ移り住んだように、新しい場所を探すだけだ。
私は、私の為に。私の為になる、家族と親友と従者の為に。それだけを行動原理にしてきた筈なのに。それなのに気付けば、本来何の縁もなく、持つつもりもなかった八雲紫とさえ関わりを持ってしまい、それを受け入れ、密談なんてことまでしてしまう。愉快さがないのなら、追い払ってしまえばいい筈なのに。
私は――解っている。最早自分が、この幻想郷の一員であることを。それを受け入れていることを。幻想郷が私達を受け入れたように、私達が幻想郷を受け入れたことを。
そして、感じている。この幻想郷が変わりつつあることを。変わらないことを目的として作られた筈のこの場所が、変わらないために変わろうとしている――そのうねりを。そしてそれさえも、きっと私は受け入れてしまうことを。
博麗霊夢の居ないこの舞台で、私は役を演じ続けなければいけない。そんなこと、昔の自分なら間髪入れずに拒むだろう。私の思う通りにならない舞台を壊すことを、望むだろう。いや、今だってそれくらいの度胸と我儘さはある。
でもそれをしない。何故か? 私の思う通りにならない舞台では、ないからだ。昔嫌いで嫌いで仕方なくて、見るだけで皿をひっくり返してしまったような食べ物を、大人になってからは好物とするように。
私は、変わってしまう幻想郷を、受け入れてしまう。
変わるのは、幻想郷という場所だけな筈が、ないのだから。
(八雲紫には全てオミトオシ、か)
今度、何か少しでもムシャクシャすることがあったら、たとえ理由が何であれアイツを殴りに行こう。レミリアはそんな物騒なことを決めて、一杯分だけ飲み干した紅茶をその場において立ち上がった。
「さて、フランの機嫌が悪いといいんだけど」
残された紅茶のカップの底には、一粒の砂糖も在りはしなかった。最初から入れなかったから当然ではあるが、寧ろ茶渋が目立つようで不快だった。カップが白ければ白いほど、ほんの僅かな茶渋が目立ってしまう。それを汚れと思うかどうかは人それぞれだけれど、最初から暗い色のカップならば茶渋は見えないのだろうか。
レミリアはそんなことを思いながら、つい最近思春期と反抗期を迎えたばかりの家族のところへ赴くのだった。
レミリアは灰色の天井を見上げていた。フランドールはいつもこれを見て過ごしているのか、なんてことをぼんやりと考えながら、勝負を決めた一撃で負傷した箇所がズキズキと痛むのを誤魔化す。
「強くなったなァ、フラン」
「『お姉ちゃん』が弱いんじゃなくて?」
「敗者に追い打ちするなよ。寝首を掻かれるぞ」
「首が落ちても勝てるわ」
満身創痍のレミリアに比べて二、三のかすり傷を受けただけのフランドールはピンピンしている。せめて息が上がってるフリくらいしてくれればいいものを、と思いながら、フランドールの言っていることが正しいこともレミリアは理解していた。
そもそも開戦のときから結果は見えていた。腹立たしさをぶつけるように殴り掛かる自分と、溜息混じり且つ楽しそうにそれを迎撃するフランドール。純粋な実力差がどうであれ、この構図でレミリアが勝ってしまうことなど、誰も認めないだろう。
「それで、少しはスッキリしたの?」
「あァ、宿酔いの二度寝をしたみたいな気分だ。全く、お陰様だな」
「私もちょっと機嫌が良くなったわ。ご飯、誘ってくれてありがとう」
「誘わなくても来るようになれよ、引きこもり」
「動かないとお腹が空かないのよ」
肺の中の空気を全て入れ替えるように、レミリアは大きく息を吐いた。そしてその勢いで立ち上がり、フランドールと正対する。
「強くなったかはさて置いて、変わったもんだなァ。フラン」
「誰かさんのお陰でね。もう一度産まれ直した気分だわ」
「カハッ。火の鳥か?」
格好つけてはみたものの、レミリアは立つのがやっとだった。足を開くことでようやく体重を支えきって、風でも吹けば再び倒れてしまいそうだ。
「肩を貸す? それとも、とどめを刺す?」
「お前と一緒で、首が落ちても死にはしないさ」
呆れたようにフランドールがレミリアの傍に立つ。負傷が大きくない方の腕を取って、レミリアの体重を預けさせた。レミリアはふっと笑う。その瞬間に、フランドールの肩に掛かる重さが増した。
「フラン。お前が変わったのはよくわかった。それで、私は――私は、変わったか?」
「お姉様は昔からお姉様だと思うけど」
フランドールが一歩前へ出る。レミリアは身体を引きずるようにその動きに合わせた。一歩、一歩と、鈍重ではありながら、少しずつ外へ出る扉の方へ向かっていく。
「それでも、変わったかどうかを疑問に思うのなら、変わったんじゃないかしら」
「良いことを言うなァ。吸血鬼には勿体ない」
「教育が良いのよ」
「流石は私の妹だ」
「お姉様は」
足が止まる。思わず、レミリアはフランドールに預けた腕を離してしまう。多少体力が回復したようで、今度はしっかりと立つことができた。
「お姉様は、変わりたくないの?」
その質問に対する回答を、レミリアは迷った。軽口で返してもいい。真剣に返してもいい。しかしどちらにしても、すぐには最適な言葉が浮かばない。最適かどうかで迷ってしまうなんて、それこそ私は変わってしまったんだろうな、とレミリアは心の中で自虐した。
「大人になるとな――いや、大人になった気分でいるとな。自分が変わってしまえば、誰かに責められるような気がしてしまうんだよ」
「ふぅん。馬鹿みたいね」
「馬鹿なんだよ。子供で居る気がないやつってのはな」
「子供の方が楽だものね。でも、誰が責めるというのかしら」
レミリアは、天井を見上げた。先程よりも近くなった天井は、より暗い色に見えた。
「変わる前の自分、なのかもしれない。どうして私を捨てたんだと、記憶の中から責め立てる」
「やっぱり馬鹿なのね」
「大馬鹿なんだよ。自分を恐れる奴はな」
その言葉の何処かに愉快さを覚えたのだろうか、フランドールは無邪気に笑った。
「じゃあもう私は馬鹿でも大馬鹿でもないのね」
「……そうだな。引きこもるのさえ止めれば、立派な優等生だ」
天真爛漫な笑顔を浮かべて、いかにも上機嫌に歩き出したフランドールの背中を、レミリアは二、三秒見つめた。背中が大きくなったように見えた、訳ではない。しかし、年老いた者のように醜く背中を丸めるではなく、元気な若者らしく筋の入ったその背中が新鮮に見えて、そしてそれが僅かに羨ましかった。
「さぁお姉ちゃん、お夕飯をいただきましょう? 大きくなるにはご飯を沢山食べることが大事らしいわ」
後ろに手を組みながら、振り返って微笑むフランドール。その表情と声色は、ほんの少し前までレミリアには想像さえできなかったもので。
(ならば、変わっていくことを受け入れるのが悪い訳じゃない――こんな風に)
そっと手を伸ばして、レミリアはフランドールの手を取った。
「あんまり急いで歩かないようにね。ご飯は逃げたりしないから」
「お姉ちゃんも、咲夜も皆もね」
「――えぇ、その通り」
私達の家族は、皆そうだ。何処かに出ていっても、いつかは戻ってくる。だから安心して見送れる。安心して、私はこの場所に居続けることができる。変わり続けることでいつも通りになっていくものを、安楽椅子で眺めていられる。
私は良い家族を持ったものだなぁ。
レミリアはそんなことを考えながら、食卓へと向かった。きっとそこには、色んなものが待っているだろうから。
<2>夜を往く者、阻むもの
ザッ、ザッ、ザッ――――
何者かの靴と地面が荒々しく擦れる音が聞こえる。職務中の昼寝を得意とする紅魔館の門番は、その音に気付いてではなく、そのずっと前から目を覚まして、音の主を待ち構えていた。それが彼女の、門番としての仕事であるから。
門は、好まざる通行人を阻むためにある。門番は、好まざる通行人を退けるために居る。そして今、足音を鳴らして近寄ってくる者は、その『好まざる通行人』だった。ならば、門番は門を閉じなくてはならない。門を通さないよう、死力を尽くさなければいけない。
音が近づき、その正体の輪郭が暗闇の中でさえ捉えられる程の距離になった。門番たる紅美鈴は、閉じた門の前にしっかりと立って、その輪郭を捉えた。視力に頼る必要はない。気の流れを読み、操ることが美鈴の能力にして武器だからだ。
そう、美鈴は既に知っていた。一つ目の足音が聞こえる前から、好まざる通行人の正体を。。
「――今晩は。美鈴」
「良い夜ですね、お嬢様」
外からではなく、内から訪れるその通行人。日傘も持たず、従者も連れずに夜を歩く彼女の名は、レミリア・スカーレットだった。
「えぇ、全く。こんな夜にお仕事なんて、嫌にならない?」
「お休みの許可を頂いておりませんので」
「ぼんやりと月でも見ていればいいのよ。狼にならないことにだけ気をつけて、ね」
美鈴の両脚は、杭でも通したかのようにしっかりと立っていた。羆に襲われても一歩として動くことはないと本人が豪語する程に。反して、上半身は実にしなやかで、何も構えてはいないものの、だからこそどのような一撃にも反応できる。
にこやかなようでいて、美鈴はしっかりと、門番としての役割を果たそうとしている。
「狂ってしまいそうなほどに、良い月ですね」
そう言いながらも、空に浮かぶ月には、大きな雲が掛かろうとしていた。強くはない風が雲を流し、それに合わせるように地上には更なる暗闇が訪れていく。
「もう手遅れかしら? 言う相手を間違っているわ。でも、そうね。こんなにも月が綺麗だから」
殺しはしないであげましょう。
レミリアが姿を消す。余りの速さに消えたように見えた、のではない。文字通り、レミリアは夜の闇の中にその存在を『溶かした』。
「っち、――ッ!」
その事象を最後まで捉えてしまっていた美鈴の動きは、当然遅れてしまう。消えてからでは遅いということなど、解り切っている。普通の戦闘ですら、相手の動きを制するには、相手が動き始めてから動き出すまでの間に事を起こさなければならない。勿論美鈴の能力と実力を以てすれば、動き始めどころか動こうと思ったその瞬間を悟ることさえ出来る筈なのに。
レミリアは、動かないままでその姿を消した。だから、誰であろうとその瞬間を捉えることなどできない。闘いというものを知っていれば知っている程、その消失には頭が混乱してしまう。
(間に合って……!)
当てずっぽうで、美鈴は上半身を捩る。
レミリアは自分の速度に自信を持っている筈。だから、初撃を避けられることなど想定しない。圧倒的な速さに、確実性は必要ない。もう一つ必要だとすれば、威力だけだ。
そういうレミリアの思考回路を、美鈴は知っていた。だから、とにかく避けることだけを考えた。相手の回避を想定していない一撃、つまりそれは、どんな方向にでも動いてしまえば芯を外すことができるのだ。
ドッ。鈍い音がして、美鈴の横腹に痛みが走る。インパクトの為に闇夜から再び姿を現したレミリアの白いドレスを、美鈴の視界が捉えた。
そして、他人では一寸として動かすことのできないその脚を、勢いよく腹部らしきところに向かって蹴り上げる。鍛えられ、手段を問わず目的を果たすための戦闘に特化されたその一撃は、モロに喰らえばたとえレミリアであろうと内臓のいくつかが突き破けるかもしれない。それでも美鈴は、躊躇わない。例え相手が主人であろうとも、その主人の最上級の命令として与えられた門番の役割を果たすためには。
「すいま、せん!!」
ブンと、空気が切り裂かれ、美鈴の脚は何も捉えられなかった。狙いも正しかった、速さも最高だった。しかしレミリアが再び闇夜の一部と化したために、物理的な一撃は例えどれほど強烈なものであっても、意味がなくなってしまったのだ。
その空発を惜しむ間もなく、美鈴は再び、上半身に無駄な力を入れない形で構える。何処から来ても反応できるように、ではない。何処に一撃を喰らっても、その衝撃を地面に流せるようにだ。最早、完全に避けたり、防いだりすることは試すだけ無駄だ。
だから、せめて一撃でも多く受け、耐える。
そうすれば、必ずチャンスは巡ってくる。レミリアがどのような手段で姿を消しているのかは解らないが、インパクトの瞬間だけは実体を現す。その一瞬を突けば、もしかしたら勝てるかもしれない。
そして、それ以上に。耐えること自体が目的でもあった。自分が耐えている間ならば、自分は役割を果たしていることになる。だから、その瞬間瞬間を少しでも長くするために、美鈴はどのような痛みも受け入れることを決めた。
「私は、良い家族を持ったわね」
声が、聞こえた。そして、徐々に雲をくぐりぬけた月光が地上に戻ってくる。
レミリア・スカーレットの姿が、互いの手を伸ばしても届かない程度の距離に現れた。背後に満月の月光を受け、レミリアのドレスは銀の糸で紡がれたように輝く。その場所だけが夜ではなくなったかのように、まるでレミリア自身が月となったように、その姿は妖しく美鈴の目を奪った。
「肉弾戦より、弾幕ごっこの方が良かったかしら?」
「うーん、でも私が弾幕を張ると、お庭や館を傷つけてしまいそうですね」
「じゃあこのまま続ける? 多分貴方は、勝てないわ」
「勝つ必要はありません。ここを通しさえしなければ」
「一応訊くわね。何故そこまで通したくない?」
「お嬢様からの御命令でして。『侵入者は通したところで構わない』――」
「――『狂った奴が出ていくのを止めろ』、ね。もう少し言い方を考えておくべきだったわ」
「正確にはその後に、『お前にはそれができるだろう?』が続きますね」
よく覚えているもんだ、とレミリアは溜息を吐いた。労働者の知恵ですよ、と美鈴は笑った。
「ではこちらからも質問をさせていただいても?」
「許可するよ。お前からの質問なんて、茶でも交わしながら聞きたいところだな」
「私が拒む姿勢を見せて、それでも出ていこうとする――その目的は何ですか?」
ざぁ、と生温い夜風が二人の頬を撫でた。よく整備された庭木も、噂話をするようにその葉をこすり合わせる。門の周りには、否、門の内側と紅魔館の間には、虫一匹居ない。無機質なものと二人の眼と、そして月だけがこの対峙を知っていた。
レミリアは、美鈴にしか聞かれることのない回答を呟いた。
「ちょっとそこまで、異変でも起こそうかとね」
「お一人で、ですか?」
「えぇ。博麗の巫女も居ないことだし、それにこんなにも月が紅いから」
「つまり私がこうして止めようとしているのは、やはり正しかったということですね」
「私が狂っていると?」
「昔のお嬢様の言葉が正確だったかはわかりませんから。ただ、お嬢様は私にこういうことをさせたかったんじゃないかなって」
「ふぅん。美鈴のクセに、中々勘を働かせるじゃない」
「根拠が必要なければ、勘にだけは自信がありますから」
やがて、別の雲がまたも月に掛かろうとしていた。美鈴はそれを感じ取り、警戒する。月が姿を隠せば、その暗闇に乗じてお嬢様は不可視となってしまう。その一刹那前、消えようとしてから消えるまでのほんの僅かな間隙で、この距離を詰め、レミリアを捕えることはできるだろうか。
――三歩。美鈴とレミリアの距離は、丁度三歩分。美鈴が三歩進めばレミリアの肉体を捕えることができる。レミリアが三歩以上進めば、美鈴の存在など無視して飛び出すことができるようになる。尤も、先程そうしなかったのだから、次もそうしないと考えるのが自然なのかもしれないが。
「次で決めてあげるわ。手段と結果を選ばず、本気で来なさい」
「館が傷ついても、お嬢様のせいってことにしておいてくれますか?」
「勿論。従者の粗相は主の責任よ」
「良かった、咲夜さんには怒られたくないんですよ」
じゃあ、次で決めますね。美鈴はそう言って構えを直す。両脚を縦に大きく開いた、美鈴の本来の戦闘スタイルだ。
ゆらりと、レミリアの上半身が揺れる。
(まだだ……まだ早い)
美鈴が全身に力を籠める。主が次で決めると言った以上、最早ただ耐えるだけのことは意味を為さない。その判断は、美鈴の基準としては正しかったのかもしれない。しかし、勝負という意味で正しいかと言えば、それは間違っていたのかもしれない。
レミリアは姿を消すことなく、純粋に美鈴に向かって『突っ込んだ』。丁度三歩の距離で、最も勢いを増すように。小細工や演出などない、ただ只管に『強く』『速く』『正確な』一撃を与えるために。
僅かに遅れて美鈴が動き出す。その遅れは、勝敗を決するような致命的な遅れではない。相手よりも早いカウンターには意味などない。相手の勢いが最も乗ったところで与える反撃こそが、一番効果的なカウンターになる。だから、その為に、美鈴は意図的にレミリアの動向を見てから動いたのだ。
レミリアの肉体が夏夜の空気を切り裂く。美鈴の肉体がその切っ先を迎え撃つ。
この一合で勝負が決まらないのならば、きっとこの闘いは永遠に終わらないだろう。そう感じさせるような衝突は、月が半分だけ隠れた頃に。
演者以外の誰も知らない結末が、砂塵の中で静かに訪れたのだった。
「……はぁ。主より強い門番なんて、雇うべきじゃなかったわね」
「いえいえ、どう考えたってお嬢様の勝ちじゃないですか。因みに私あと二分くらいは立てません」
結局、最後に立っていたのはレミリア・スカーレットだった。最後として定められたその一合の後、二人の間には再び三歩の距離が空いていて、そして二人ともがしっかりと地面を捉えて立っていた筈だった。しかし、月が雲から顔を出す頃、美鈴はどさりとその身体を崩してしまった。
あの一瞬、レミリアは確かに、一点の曇りもなく、百パーセントの『攻撃』をした。そしてそれを迎え撃つ美鈴の拳は、『防御』としての拳そのものだった。相手を倒すのではなく、相手の一撃を無効化するためだけの、そういう一撃。だからレミリアは弾き飛ばされるように元の立ち位置に戻ったし、美鈴はその場から動かなかった。
「貴方の役割は勝つことではなくて止めることでしょう?」
「じゃあ任務達成ですね。ご褒美を期待しておきます」
「駄目よ。貴方、私の言うことに逆らったじゃない」
「あれがそうなんですよ。何卒ご理解いただければ」
防御としての一撃を美鈴が選んだ理由は、レミリアには理解できない。しかし美鈴にとっては確かに『手段と結果を選ばない、最高の行動』だったらしく、美鈴の顔にはどこか誇らしさのような色が浮かんでいた。
「まぁ、いいけど。さて、ここを通ってもよろしくて? 優秀な門番さん」
「どうぞ。主の許可が頂けたような気がするので」
「――全く、どうしてうちの従者はこうも生意気なのかしら」
「主の躾が良いらしく」
月を見上げたまま、美鈴はふっと笑う。
「最後に一つだけ忠告しておくわ」
「なんでしょう?」
「貴方の最後の一撃、あれを『私を殺すつもり』で打てば、きっとそこに寝ているのは私だったわ」
それは、嘘や誤魔化し、慰めのつもりなど一切ない、レミリアの心からの言葉だった。本当に目的も立場も忘れて、美鈴がレミリアを殺すつもりでいたならば、レミリアも殺されるつもりなど毛頭ないものの、しかし自分にとって都合の良い結末になっていたかは解らない。
だからこそ、レミリアは美鈴に対して若干の憤りを覚えているのだった。しかし美鈴はそんな感情を知ってか知らずか、ただ能天気にこう言う。
「お嬢様は、手段と結果は選ぶな、としか言っていませんから。そして本気だったのも事実です」
「あらそう。まぁいいわ。説明責任を果たさない貴方からは、暫く休暇を剥奪しとく」
「……すいません。さっきは強がりました。あと二日くらいベッドで身体を休めたいんですが」
「二分経ったわね。主を最敬礼で見送りなさい、門番」
ザッ、ザッ、ザッ――。
再び、レミリアの靴が地面を蹴る音。紅魔館の大きく重い門は、館の主に対して何の抵抗もなく、ゆっくりと開いていった。
「いってらっしゃいませ、お嬢様」
そんな声を背中に受けながらも、レミリアは表情一つ変えずに、歩き続けた。
「迎えに来てあげなさい、咲夜。聞こえているかどうか知らないけど」
「お嬢様の御命令とあれば」
そして、レミリアは館の外へ姿を消した。暗闇に溶けていくその背中は、唯々寂しかった。
<3> なくなってしまうもの、揮発するもの
レミリアが足を引きずりながら向かうのは、博麗神社だった。美鈴に言ったような、『一人で異変を起こす』気など失せてしまったし、そもそも先程の戦闘のダメージは従者の前だからと張れる虚勢でようやく隠せるかどうかくらいのもので、霊夢どころかその辺の妖怪が少し束になって掛かってくれば逃げ帰らざるを得なくなるだろう。
それでも外に行くことを止めなかったのは、そして向かう先をいつの間にか博麗神社に決めたのは、プライドのようなものがそうさせたとしか言いようがない。
(利害など最初からありはしない――ならば、プライドで動く。それだけのことさ)
それは、レミリアが産まれてから一度として忘れたことがなく、そして嘲笑いながらも守ってきた貴族としての生き様だった。プライドのために豪華な生活をして、プライドのために戦う。暇潰しなんて、プライドに比べればあまりにちっぽけな行動原理だったのだ。いつの間にか、プライドを賭けなければならないようなことがなくなって、暇潰しのウエイトが増してきてはいたけれど。
レミリア・スカーレットは、妹と同じくするスカーレットの名の元のプライドを忘れてはいなかった。
(それにしては、随分格好悪いけどなァ)
足だけではない、全身を引きずるように、鈍重に。博麗神社という、最早目的のない筈の場所へ向かう。その理由をプライドに求めずにはいられないというのが、もしかしたら真相なのかもしれない。
(あぁ……帰って、咲夜の紅茶を飲んで、フランを構って、寝たい。明日の今くらいの時間まで、ずっと寝たい)
草木も月も眠るその時間、夜を歩く者は、それでも歩みを止めなかった。
だから、辿り着く。どれ程の時間が経ったかは解らない。本当は大した時間ではないのかもしれない。その間にレミリアの身体へのダメージは癒えることなく、視界は霞んで今にも倒れてしまいそうだった。それでも、倒れることなく、博麗神社に続く階段はレミリアの目の前にあった。
階段の向こうを見上げると、賑やかな音と光が今にも溢れ出しそうだった。
(宴会……? まさか。だって、ここにはもう誰も――)
「よう、紅魔館の。飲むか?」
戸惑う声を掛けてきたのは、階段に腰掛けて休んでいたらしい八坂の神だった。
霊夢が居た頃の宴会でも時々しか目にしなかったこいつが、今なぜここにいるのだろう。まさか所有者が居ないのをいいことに乗っ取りでもしたか、それともあの行動の読めない結界の管理人に言われてか……いや、暫く館に引きこもっていた自分では想像はできても推測まではできない。考えるだけ無駄だ。
レミリアは、取り敢えず今は敵意のないことの表現として、無難な言葉を返す。
「内臓の消毒くらいにはなるかもしれないが、遠慮しておく」
「西洋の医療か? 是非ともご教授願いたいな。うちの早苗もまだまだ学が浅くてね」
「生徒役はもう満杯。寧ろ医者役を一人雇いたいくらいなんだけど」
「居るじゃないか。あの本の虫」
「私の親友を馬鹿にするんじゃない。それに、アイツは医者の不養生の典型すぎてな」
階段の一段目、上手く上がってくれない足を見つめていると、神奈子がレミリアの腕を引っ張った。
「……なんだ。この国の神霊は随分優しいんだな、八坂の」
「いやぁ、酔って涼しいとこに来たはいいが、足がおぼつかなくてな。肩を貸してくれとは言わん、腕を寄越しな。紅魔館の」
身長差から言ってそもそも肩を貸せないのは確かだが、とレミリアは思いつつ、素直に神奈子についていくことにした。逆らっても仕方がない、せめて今起こっていることがどういったものなのか、自分の目で確かめておきたい。それに、妹も登った階段だ、自分が立ち竦んだままでいては恰好がつかない。
「実はね。アンタとは、一度話してみたいと思っていたんだよ」
「あの湖なら私の所有物じゃないから、好きにしていいぞ」
「違う違う。わかってんだろ? あの気に食わない女の被害者同士としてさ」
「気に食わない女……? あァ、あの女狐か」
「狐は式の方さ。ったく、自分の都合ばかり話す上に相手の都合を知り尽くしてるやつほどうざったいものはないな」
「やはり、何処にでも声を掛けてるんだな。行動範囲の広さには敵わんなァ」
神奈子と話すうち、レミリアは自分にしては珍しい感情を覚えていることに気付いた。それは新鮮さそのものともいえるような感情であり、レミリア自身気付いてはいなかったここ最近の胸の中の閉塞感を取り除かれた解放感だった。
酔っ払いと怪我人で支え合いながら階段を登る僅かな時間、レミリアは自分がそんなポジティブな感情に包まれていることに不安を覚えながらもそれを拒むことができないでいた。
やがて階段を登りきって、大きな鳥居が見える。聞こえていた賑やかな音が宴会の騒々しさそのものであることに気付き、やや人影も見えてきた。
「くしゅん、と」
わざとらしいくしゃみの音に目を向けると、そこに居たのは鳥居に背中を預けて一人佇む八雲紫だった。
「……ハッ。相変わらず、会いたくないときに現れる奴だな」
「ご挨拶ですこと。それで、本日はこのうら寂しい廃墟に何の御用事で?」
「廃墟探検ツアーの案内を拾ったんでな。そしたらそいつが狢の穴だったみたいで、今帰ろうとしていたところさ」
八雲紫は不敵に笑う。相変わらずその片手には一品ものらしい扇を携えて。
「お陰様でツアーが大盛況なのよ。それでも来る者拒まず、去る者追わずですわ」
「フン、言われなくても招待状持ちは置いてくさ。八坂の、世話になった」
「あら。貴方々と私の三人で、幻想郷をもっと良くしていく相談なんてできたらと思っていたのですけど」
「いつからアンタは政治家になったんだい? それとも、宗教家かな」
「足元にも及びませんわ、八坂様」
「あたしは宗教家じゃないがな」
「政治は苦手だったようで」
横から口を出し、レミリア以上に不機嫌さを露わにしたのは神奈子だ。被害者の会、と言うだけあって、レミリアと同じように紫には良くない因縁があるのだろう。
「チ……早苗はともかく、洩矢はなんだってこんな奴を……。まぁいい、レミリア・スカーレット。宴会に寄りたいならあたしが連れてくよ。こんな奴の招待状なんて最初からいらんさ」
神奈子は紫に対する敵意をむき出しにしたまま、レミリアを酒宴へと誘う。
「いや、今日は帰るとするよ」
霊夢が開催する宴会以外へのゲストとしての参加はしたことがない。もしするとしても、せめて万全の状態でしたいし、今日は咲夜も連れてきていない。――それに、宴会に参加するためにこの場所を訪れた訳ではない。
じゃあ何のためなのか、と問われたところで、それに対する答えをレミリアは持ち合わせていないのだが。
レミリアの即断に、神奈子はそれ以上口を挟まなかった。流石は名のある一柱なだけあるな、なんて思いながら、レミリアは神様という存在が人間の都合や感情を汲んでやった話など殆ど聞いた覚えがないな、と考え直す。
だとすれば、これは神奈子の性格なのだろう。つくづく神様に向かない性格で、確かに一度ゆっくり話すのも悪くはないなとレミリアは思った。
「あら、帰るならお土産を渡さなくちゃね。霊夢にも頼まれたことだし」
「霊夢に?」
せびることはあっても、人に頼んでまで渡そうとするなんて、それは本当にあの巫女なのだろうか。狐が狸に騙される話など聞き飽きたが、その狐がもしこの八雲紫ならば、さぞ痛快なのだろうなとレミリアは誰に言うこともない自分の冗談に心の内だけで笑った。
「えぇ、これよ。珍しく貴方が飲んでいた日本酒だから、きっと好みだったんだろうって」
そう言って八雲紫が背中側に隠れていた腕を上げる。その手にあったのは、よくは見えないけれど恐らく酒瓶のようなものらしい。
「ふぅん……全く覚えていないけど、霊夢も粋なことをするものだなァ」
「あの子、あれで結構家族思いな他人には優しいのよ」
「嘘を吐け。あいつが誰かに優しかったり厳しかったりする筈がない」
「それもまた、一つの真実ですわ」
八雲紫の差し出した酒瓶を受け取るために、レミリアが階段を登る。神奈子の手は、いつの間にか離れていた。そしてその神奈子は、レミリアを追うこともなく、階段の下からレミリアの背中と紫を見上げていた。
「……早苗の様子を見てくるよ。アイツが潰されちゃ、喧嘩でも起こったときにいよいよ止める奴がいなくなる」
「お優しいこと」
「アンタと違ってな」
一段一段登るレミリアの横を、神奈子は急ぐような足取りで追い抜いた。階段の端を歩いていた割に、鳥居を通る際には堂々と真ん中を進む。そして、終始紫と目を合わせることはなかった。
「はい、どうぞ」
「ありがたく受け取っておくよ。この酒には罪がないしな」
「えぇ。飲めばなくなってしまうものですから」
酒瓶が、紫の手からレミリアの手へと渡る。ずっしりと重いそれを、レミリアは落とさないようにしっかりと握った。
「いつか、宴会にも遊びに来てくださいね。誰が喜ぶかなんて気にせず」
「そもそも性に合わないんだよ。私が好きなのはディナーと一緒に味わう赤ワインでね。パーティーはVIP席で見ているだけの成金さ」
「じゃあ、そのお酒は独りで?」
「……悪かったな。身内すら酒の席には誘えないんだよ」
「吸血鬼は誘われなければ家に入れないんでしたわね」
「難儀なしきたりだ」
「でも、きっと幻想郷は貴方を受け入れるでしょう。幻想郷の一員は、即ち幻想郷の一部ですわ」
扇で隠された紫の表情は、レミリアには見えない。見えたところでその裏が読める筈もないが、しかし不思議といつものように腹が立つこともなかった。
「それと、もう一つ。貴方に言ったことを訂正しますわ」
「あァ? すまんな、軽口は忘れる性質なんだ。心が広くてな」
「貴方『達』も最早幻想郷の重要な一員であることをお忘れなく」
「……フン。私の家族を変なことに巻き込むなよ」
「幸せになるのは、一人でも多い方がよろしいのではなくて?」
「私一人で充分だよ」
最早用はない、とレミリアは背を向けた。暗い夜道の階段は、一人で降りるには心細いように思えた。
「さて、ここからは私の個人的な質問」
その背中に、紫が問いかける。レミリアは振り返って、その質問を聞くことにした。良い予感は元よりなかったが、紫の何かを見透かしたような笑顔を見て、レミリアはより寒々しさを覚える。
「貴方、そのお酒を誰と飲むつもり?」
さっきも言わなかったか、と返すつもりだったが、紫の続く言葉に阻まれる。
「もしも当てがあるのなら、明日また、日の落ちない内に出かけるといいわ。森の辺りに」
「……お前はいつから占い師になったんだ? まぁいいさ、起き上がることができたら考えておく」
お前が本当に幻想郷の幸福を祈る者であることを信じてな。そう呟いて、レミリアは階段を降り始める。
――――参加者の内、人間の占める割合が僅かに減った博麗神社の宴会。それは、文字通り夜が明けるまで続いたのだった。
<4> 蛇足という名の香りの良い毒
「――かっぱらってきた、なんて言って。貰い物じゃないの、これ」
「カハハ、そんな細かいことはいいじゃない、親友さん」
「私は親友が飲むものによって酒癖が変わるなんて性質を今更知って、驚いているところなのだけれど」
昼夜を知らぬ大図書館。そこでは、レミリア・スカーレットとパチュリー・ノーレッジによる二人だけの宴会が開かれていた。宴会と言っても、酒を呷っているのは主にレミリアだけで、パチュリーは舐める程度にしか酒に口をつけていないのだが。
「で、その大事な貰い物をそんなにガバガバ飲んでしまっていいのかしら?」
「酒は飲めばなくなるが、飲まなければ意味のないものよパチェ。透明で、見ていても楽しくないしね」
「思い出とか感傷とか……まぁ、ないでしょうね」
「パチェもしないでしょう、そんなこと」
「無くならないものになら、少しは考えてあげてもいいけどね」
何度目だろうか、酔いが回り切って座っているのにふらついているレミリアが、テーブルの上に突っ伏して、動かなくなる。きっと涎を垂らして眠ってしまったのだろう。テーブルを片付けておいて本当に良かった、とパチュリーは溜息を零す。
「切子硝子、ねぇ。魔法で作れるかしら」
パチュリーは、レミリアが『奥の手』として持ってきた、杯代わりのグラスをシャンデリアの光にかざす。透明感のある鮮やかな硝子の色と、丁寧に彫られた細工がきらきらと光を反射する。
これは、今日の昼間に咲夜を連れて出掛けた、森の道具店で見つけたものらしい。
(昨晩も急に一人で出て行って、へとへとになって帰ってきたかと思えば、今日もわざわざこんなものを買うために出かけるなんて。……最近のレミィはやけにお節介だと思っていたけど、まさか自分まで変わろうとするなんてね)
寝息を立て始めた親友の頬を、パチュリーは軽く指で突いた。
(あら、本格的に寝てる)
本当に自分勝手に動き回る奴だ、なんて呆れながら、レミリアの持ってきた酒瓶を持ち上げる。パチュリーはそれを自分のグラスに注いで、もう一度それをシャンデリアに向かってかざした。
なんとなく、何かが入っていた方が綺麗に見える気がした。
パチュリーは注いだ酒でほんの少し口の中を潤わせる。酒の喉を焼く感触の後も、芳醇な香りが口内に残っていた。
(……やっぱりワインの方が少しはマシだと思うけど)
それでもまぁ、親友が持ち帰ってきた酒だ。慣れはしないが、不味いと思う理由などない。
まだ酔い潰れる前のレミリアの言葉を、パチュリーはふと思い出した。
『良い器には、良い酒を注がなきゃならない。それはいつかなくなるが、そうしたらまた注げばいい――いや、注がなくちゃならない。美味い酒だった、と杯を見つめても、一滴として戻ってくるわけじゃないんだから』
それは誰かに聞いた言葉なのだろうか。それとも、レミリア自身に思うところがあったのだろうか。それは解らないけれど、少なくとも間違ったことを言っているわけでも、酔狂や言葉遊びで言っているわけでもないことくらいは理解できる。
四、五回かけてゆっくりと日本酒を飲み干すと、パチュリーはレミリアがグラスと一緒に持ってきたボトルのワインを注いだ。先程とは違い、今度は紅い液体によって満たされたグラスは、また違った姿を見せた。
ワイングラスよりも厚い飲み口の切子グラスでワインを飲むと、香りよりも味わいを感じられることにも気づいた。
(レミィにしてはいいチョイスね)
パチュリーは、幸せそうに眠るレミリアの髪を撫でる。
もしレミリアが起きたら、この事実を教えてあげよう。そしてもしずっと起きないようなら、今度レミリアに誘われた際には図書館以外でやることにしよう。そんなことを思いながら、パチュリーは目を閉じたレミリアの視線に自分の視線を合わせる。
こんな距離で顔を見たのはいつ以来だろうか、もしかしたら初めてかもしれない。――尤も、今こうしてその初めてを迎えたのだから、これからはきっと珍しくなくなるだろう。
変わり行く日々と、そして変わろうとしているのかもしれない友人の姿に若干の期待を覚えながら、パチュリーはグラスとワインの液面が反射する光を愛おしそうに見つめる。
そしてやがて、レミリアにつられるように、パチュリーの瞼がゆっくりと閉じていって、束の間の喧騒を得た図書館は、再び静かになっていく。その空間は決して黴臭くなどなく、ただいつもよりもずっと酒臭くて、だからこそ今までにないくらい安らかに眠れるような、そんな気がした。
「お酒の席が楽しいのはよくわかりますが、せめて寝床に入るくらいの正気は保ってくださいませ。お嬢様、パチュリー様」
「血……いや、お水をちょうだい……そのあと紅茶」
「……背中と腰と腕が痛い」
「何よパチェ、私なんて頭が痛いのよ」
「思い出したわ、頭も痛い。レミィより痛いわ」
明くる日。紅魔館の主人とその友人は、優秀なメイド長によって叩き起こされた。その視線はやけに冷たく、レミリアとパチュリーは、宿酔いや机に突っ伏すという慣れない姿勢で寝たことによる節々の痛みによって、『これ以上責めなくたっていいじゃないか』という感想を共にすることとなった。
「ねぇ咲夜、お願いだからお水を」
「宿酔いには日光が一番らしいですわ」
「……うー」
頭を抱えて心底辛そうな表情を浮かべる主人に、流石に溜飲を下げたのだろうか。咲夜は二人の前に水差しとグラスを用意した。
「それにしても、お嬢様が潰れる程飲まれるのも、パチュリー様がそれに付き合われるのも驚きですわ。何かのお祝いでしょうか」
グラス一杯の水を飲み干して、パチュリーが答える。
「親友の頼み事は断れないのよ、ご存じのとおり」
二杯分の水を飲み干して、自分の頭部をぐっぐっと指圧してから、レミリアが答える。
「古い器に新しい酒を入れたくなったんだよ」
要領を得ているとは言い難い二人の回答に、咲夜はまたも呆れたような溜息を漏らした。
「そうだ、咲夜」
少しは思考がはっきりしてきたのだろうか、先程よりは頼りなくない声で、レミリアが言う。
「今度は貴方も付き合いなさい、門番も呼んで」
「一升瓶をご用意いただければ」
「樽酒と一升マスを用意しておくさ」
「香り高いものをお願いいたしますわ」
「はっ、八雲紫が来ると言い出したら、そうしてやるさ」
水差しを空にしたレミリアが椅子から立ち上がる。まだ若干のふらつきを残してはいたが、自分で立てるくらいには回復したらしい。
「お嬢様、お水なら私が新しいものをご用意いたしますが」
「違うわよ。フランのところに遊びに行くの」
「……自殺志願でしょうか」
「止めないであげなさい咲夜、一昨日からのことなんだから」
だから、とレミリアが言う。咲夜とパチュリーの方をしっかりと見返して、そして背筋を天にも届きそうな程に伸ばして、こう笑った。
「古い器に新しい酒を入れにいくのよ」
胡散臭さがまたいい。
レミリアはなにやっても楽しそうで、読んでて楽しくなります。