届く光は儚く、見える空は小さく、折れてしまいそうに細く頼りない。
キスメが目にする空は、いつもそんな風に弱々しいものだった。
遥かな地上から、地の底の旧地獄まで至るには、その光が辿る道筋は小さく、遠すぎる。
それでも、と思う。
キスメは長い間その光を眺めてきた。頼りないその光は、暖かな地上を、どこまでも広がる空を、遥かな頂を想像させるに足るものだったから。
「おうおう、哀愁漂う背中だねえ」
茶化すようなその声は、暗い地底に相応しくない明るさを持つ。キスメにとってはよく知った声。
「ヤマメ、戻ってきてたんだ」
「今しがた、ね。いやはや、地上は暑苦しくっていけないや」
灼熱地獄のある地底の方がよっぽど暑そうだとキスメは思うが、地上の夏というのは中々に厄介なものらしい。
地底と地上の交流がにわかに再開し始めてしばし。黒谷ヤマメは折に触れて地上へと出向くようになっていた。
名目上は今も不可侵の約束があるため、地上に向かうには旧都と地霊殿での手続きが必要になる。それを(特に地霊殿での手続きを)嫌がる妖怪は少なくないのだが、ヤマメはあまり気にしていないようだ。
もう一度上を見る。キスメの目に映るのは、針穴のように小さな光。
「……思い出すねえ。あんたと初めて会ったのもここだった」
ヤマメの柔らかい口調には、若干の寂寥が含まれているようだった。
旧都を離れて少し、複雑な起伏の入り組んだ先に、その場所はあった。
そこには長く、長い縦穴が突き抜けており、地上の光が僅かながら届いていた。
どうしてそんなものがあるのかは知らない。恐らく偶然の産物だろう。
その場所は、初めて見た時からキスメのお気に入りとなった。
遠い遠い向こうにある、大地と空の息吹が、そこにあるような気がした。
何度か通う内、キスメは自分以外の者がここに来ている事を知った。
キスメは釣瓶落としの怪。大いに脅かしてやらねばなるまいと身を潜めようとしたら、不可解な網に足を取られて捕まった。
相手の方が先手を打っていたというわけだ。
その相手、土蜘蛛の黒谷ヤマメは、糸に絡め取られて涙目を浮かべるキスメを大いに笑った。そして、頭上に引っ張り上げておいた桶を脳天に食らって気絶した。
それ以来、キスメとヤマメはしょっちゅうこの場所で邂逅した。出会いこそああでも、妖糸を繰る土蜘蛛のヤマメと、頭上より急襲する釣瓶落としのキスメは能力がよく噛み合い、また、明るく物怖じしないヤマメと引っ込み思案なキスメは性格の相性も良く、すぐに二人は親友となった。
人を脅かすのも、一人より二人の方がずっと上手くいった。ヤマメは社交的で友人が多く、人付き合いの少なかったキスメも知り合いが多くできた。鬼と友人だった事にはキスメは大いに驚いた。彼女自身は大した地位を持っていたわけでもないのに、だ。
二人でよく遊んだ。二人以外の相手ともよく会った。みんなが忌避する地霊殿にも時々は出向いた。橋を見張る、暗いのにお喋りで不思議なお姫様に出会った。鬼のお酒はキツすぎてすぐに潰れてしまう事を知った。閉じた三つ目の瞳を持つ少女が、知らないうちに輪に加わっている事がよくあった。
そうやって生活が変わっていく中で、しかし、この場所に一人で来る事は止めなかった。
ヤマメも同じだった。時々、橋姫や鬼が同行する事もあった。
お喋り好きなパルスィも、いつも豪快に笑う勇儀も、もちろんヤマメも、この場所では多くを語らなかった。
ただ、空を見ていた。空と言うにはあまりに頼りない、その光を。
人間が地霊殿に乗り込むという事件があり、それが収まって以来、地底と地上の交流が復活して旧都も騒がしくなった。向かおうと思えば、地上にも出られるようになった。
それでも、キスメはここに来る事を止めていない。
「キスメも地上に出てみたら良いのに。地底にこもってばかりじゃなくて、さ」
「出てるよ。井戸に潜んで人を脅かしたりしてる」
「いや、そうだけど、そうじゃなくてさ」
ヤマメは手を広げて頭上を見上げる。細く小さな光を。
「広ーい空を飛び回ってみたり」
その目線はやがて降りる。キスメの背中を見つめる。
「大きな大地を駆け回ってみたり……」
広げた手が、やがて降りる。
明瞭で快活な、普段のヤマメの声ではなかった。
何かを誤魔化そうとして、言葉がやがて尽きてしまったというように、その声音は尻すぼみに小さくなる。
「……ま、今日はもう行くよ」
そう告げる声も、やはり普段の朗らかさを帯びたものではなかった。
旧都への道を、意図せず早足になって征く。
ヤマメは地底の暗さが好きだった。
闇は自慢の糸で織りなす罠の発見を容易ならざるものとし、妖怪としての働きに大いに貢献してくれる。
乱暴だが気のいい旧都の住人たちも、怨霊だらけで危なっかしい地底の道も、ヤマメは気に入っていた。
同時に、地上の明るさもヤマメは好きだった。
抜けるような空、遮るものの何もない空を駆ける快感は何にも代えがたいと思った。
様々な色合いが巡る風景は鮮やかで、夜を満たす月の光は妖怪の本質を思い出させてくれた。
ずいぶんと久しく忘れていた感覚。
地上との行き来が盛んになって、ヤマメはそれらを思い起こした。
開かれたのは良い事だ。
そう思うのに、それを素直に喜ばない感情がある事を、ヤマメはずっと不思議に思っていた。
旧都にいる妖怪たちの多くは、今も地上に出たがらない。
騒がしさを好む彼らだが、地上からの客には苦い顔を見せる者も少なくなかった。
彼らの顔を見る時、ヤマメは不安な気持ちに駆られる。
自分も、同じような顔をしているのではないか、と。
立ち止まって、両手で自分の頬を張る。
そのままギュッと目を閉じ、眉間に力を込める。
「入水自殺の準備体操かしら?」
気怠げな、粘着くような水気を帯びた声。
「水に溺れたくらいで死ぬほどヤワじゃないんだけどね」
「あら、私が橋の上で呪ってあげればイチコロよ。試してあげましょうか?」
ピンと尖った耳と、地底の闇にあってなお光を湛える金の髪が印象的な女性。
この橋のお姫様だ。臣下はいない。住人もいない。通行客もあまりいない。
「こんなところで死ななくても、地底にゃ自殺のスポットはいっぱいあるからねえ」
「潰される、燃やされる、心を暴かれる、よりどりみどりね」
「ま、今しばらくは死にたくないから、やめとくよ」
笑って、ヤマメが向き直る。
水橋パルスィは腕を軽く胸の前で組み、悠然と佇んでいた。
「光あふれる大地からほの暗い地の底へ戻ってきて、気が滅入るあまり身を投げようとしたところじゃないの?」
「冗談じゃないや。地底も地上も楽しんで日々を過ごすヤマメちゃんになんてことを」
「そうは見えないって言ってるんだけどね」
ヤマメの笑みが消える。パルスィは、口元だけで微笑んでいた。
「地上から戻ってくる時、いつもそんな顔をしてるじゃあないの。心ここにあらず、って顔」
ヤマメは何も言い返さなかった。自覚があったからだ。
地上に出向いた時、空の広さに、鮮やかな風景に心を奪われる。
その感動を、ヤマメはいろんな相手に話して聞かせるようにしていた。
他の妖怪も、もっと地上に出てみれば良いと思っていたからだ。
だけど、話が終わってふと気付くと、自分の顔から笑みが消えている事に気付く。
「どこに心を置いてきたの?」
地底には、地上を知らない妖怪も多い。そうではない妖怪も、多くは地上の風を忘れてしまって久しいだろう。
穴を登ればいずれ地上に至る。そんなことさえ、忘れてしまったかもしれない。
だけど、ヤマメはそうではなかった。
あの細い光が、頼りない空が、輝ける世界への憧憬を胸に宿すのを、抑えられずにいた。
キスメと初めて会ったあの縦穴は、まるで呼び寄せるかのように、ヤマメの心を縛り付けた。
ふとした時にあの光を思い出し、そこに脚を向かわせた。
道が開かれて、いざ地上に出向いてみて、何を思っただろう。
憧れた光に、懐かしい風に、何を。
「……パルスィは、地上に出たりしないの?」
質問の答えとは別のことを、ヤマメは口にした。
「わざわざ妬ましい奴らを眺めに行くのもねぇ」
「素直に楽しめばいいじゃない。地上はいい所だよ」
「そうでしょうね」
パルスィはふっと目を逸らし、川の上流へと向けた。
そこから流れてくる水は、かつて地上にあった。長い道のりを経て、この地底へと降り下って来たのだ。
「きっと、こんな地底よりずっと綺麗で、優しい風が吹いているのでしょうね」
パルスィと同じように、ヤマメは地上から下る川の流れを見つめた。
きっと、自分も同じような目をしているのだろう。
「お、ヤマメじゃあないか。なんだシケた顔して」
と肩を掴まれたのは、地霊殿の入り口を通ってすぐの事である。
「勇儀姐さんこっちに来てたんだ。旧都にいないから探しちゃったよ」
出会いしなにそういう事をする相手というのは、ヤマメの知り合いにそれなりにいる。そして、その中でもっとも多く顔を合わせる相手が、この星熊勇儀だった。
「あん? 私に用事だったか。そりゃすまんな」
「用事っていうか、戻ってきた報告だけどね。ここに来たのも同じ」
「ああ、そういやお前地上に出てたんだったな。忘れてた」
カラカラと笑う勇儀。ついでに肩をバンバンと叩いてくる。
「いいかげんだなあ。またさとりに文句言われるよ」
「まさに今、文句を言われてきたところだ。出入りの人数がこっちの報告と向こうの記録で合わなすぎるとさ。なははは!」
「笑っていられるのでしたら、次回はもう少し改善されると期待していいんですかね」
その声の主は、エントランスを静かな音で歩み来る。
「おかえりなさい、ヤマメさん。今回は問題も起こされなかったようでなにより」
「別に前だって問題は起こしてないでしょ」
「命蓮寺から『変な妖怪を寄越すな』と抗議がありましたよ」
「ありゃあんたんとこの猫だろ、どっちかって言うと」
「ふむ。その可能性は考えませんでした」
とぼけた顔で首を傾げて見せるこの少女が、地霊殿の主、古明地さとりだ。
地底から地上への道は、ここで申請して受理されなければ通行を許可されない。愚か者の企みで地上との間に争いが起きては困るから、事前にここでチェックを受けるのだ。
その名の通りの覚り妖怪である彼女を前に、腹芸は意味を成さない。企みは全てここで暴かれてしまう。
が、それは本人に企みがあればの話であり、普通に観光するつもりの者が結果的にトラブルを招いてくる事はままある。
それが地上に不利益をもたらしたならば、真っ先に矛先を向けられるのはこのさとりだ。問題を起こした者が何を考えていたのかは、彼女にしか分からない。地上にしてみれば、彼女自身が企みをもってその者を地上へ通したのでは、という事になるのだ。
そういう微妙な立場にあるはずなのだが、さとりの態度は飄々として掴めない。それこそ、何かしらの企みがあるのではないかと思わせる。
「何もありませんよ。考えても詮無いことは放置しているだけです」
思考を読んでそう反論してくる。こういうところが嫌われているのだという事は、多分本人も気づいているだろう。
「そうですね。……ところで、地上で何かありましたか?」
? 何か、とはどういうことだろう。
「いえ、浮かない顔でしたので、私が読めていないだけで何かあったのかと」
さとりは頭に浮かんだ事柄を読み取る能力がある。だが、記憶のすべてを覗き見れるというわけではない。あくまでも、その時の思考にある事を見ているのだ。
だから、本人が思い浮かべていない事は読み取れない。故に彼女は質問をして、その答えとなる事柄を思い浮かべさせようとするのだ。
しかしあいにく、地上で特別に何かがあったという訳ではない。
「そうですか。ふむ……」
それにしても、顔色を窺うなんて、ずいぶんとらしくない事をするものだ。明日は薔薇でも降るだろうか。
「大きなお世話です」
「……おーい、会話してもらっていいかい」
と、それまで黙っていた勇儀が声をあげた。
「おっと、すまんね姐さん。こいつとは話さなくて済むのが楽でねぇ」
「私だって二人の時はそうするが、周りに人がいる時はやらんぞ。傍から見てると気持ち悪い事この上ないからな」
ふむ、そう言えばそうだ。さとりが一方的に喋って相手はうんうんと頷いているのは、見ている側からすれば異様でしかないだろう。
「……私にしてみれば、心を読まれるのを嫌がらないあなた方の方が変わっていますよ」
「そうかい?」
にやりと笑って、勇儀はヤマメに目を向ける。
精神を核として存在する妖怪にとって、心を暴く覚り妖怪は存在を揺るがす危険な相手ですらある。
それを嫌がらない手合いというのは、たしかに変わり者ではあるのだろう。
「さとり様ー!」
と、引き伸ばされたような大声を伴って、玄関が勢い良く開かれた。
「ああっ、さとり様! 大変です!!」
客の存在に目もくれず、黒い翼をはためかせて主のもとに駆け寄る。
「お空、ひとまず落ち着きなさい。それに挨拶を忘れているわよ」
「あ、勇儀さんにヤマメちゃん、いらっしゃいませ!」
霊烏路空はヤマメと勇儀に向き直り、勢い良く頭を下げる。
この、とかく忘れっぽい娘がヤマメの名前をようやく覚えたのは、つい最近の事だ。地上の様子を(多分に誇張を交えつつ)語るヤマメに感銘を受けたようなのだが、話の中で「ヤマメちゃん」と自称したのを覚えてしまったらしく、それ以来ずっとこの呼び方である。
「……で、何か大変なんじゃなかったのかい?」
「あ! そうだった! さとり様、大変なんです!」
お空はさとりの肩を掴んでガクガクと揺らす。慣れているのか、さとりはまったく動じた様子もない。
「お空、まず落ち着いて、何があったのか順番に話してごらん」
「何もなかったんです! だから大変なんです!」
「そう。それはなかなかに哲学的ね」
「何もかも無くなっていて大変とか、そういうヤツじゃないのそれ?」
「違うよヤマメちゃん! 何も起きないから大変なんだよ!」
「本当に哲学的だったな」
「何も起きなくて平和なのは天変地異の前触れって本に書いてあったの! だから大変なんです!」
「その本は燃料にしていいわよ」
さとりが穏やかに告げると、お空は「そうなんですか?」と言って大人しくなった。
胡散臭い本の適当な煽りだという自覚は多少なりともあったと見える。
「やあやあご両人、お勤めご苦労さま」
と、開けっ放しの玄関をくぐって、赤い髪を三つ編みにまとめた少女が姿を見せる。
「お勤めはお前の方だろ。また地上か?」
「いひひ、道が開いたおかげで死体探しも捗るってもんですよ」
勇儀の問いに、火焔猫燐は歯を見せて悪戯っぽく微笑む。
死体を運び去る火車の少女は、地底の住人の中でもとりわけ盛んに地上へと出向いている。
「そういや、地上に怨霊が湧いたのはお前の仕業だったなぁ。実は全てお前の謀略だったとか?」
「勘弁して下さいよ、勇儀さん。あたいは友達を助けようとしただけですって」
今度は少しはにかむように、お燐は笑う。
地上の神によってお空が八咫烏の力をその身に宿し、増長して地上征服なぞを企んだ。これを知り、さとりによって彼女が処分されるのを恐れたお燐が、事前に彼女の野望を阻止するため、怨霊を地上に現出させて異変解決の専門家を呼び込んだ。それが少し前の異変の顛末だ。
それ以来、地上に乗り込んできた人間を始めとして、地底に招かれたり自ら訪れる者が現れだした。地底からも同じように、地上へと出向く者が出始めた。
長い、長い期間、二つの間に交流は存在しなかった。ヤマメにとっての地上とは、遥かな記憶の彼方にあるおぼろげな風景であり、空想の中にある風の匂いであり、細く頼りない光の線であった。
キスメや、パルスィや、勇儀にとっても、それは同じであっただろう。
しかし、この二人にとってはそうではなかった。
お空は手に入れた力を、地底ではなく地上に向ける事を目論み、お燐はそれを阻止するために、地上の力を利用する事を考えた。
妖怪としては若い方の二人。その想いは、閉ざされた地底の扉をこじ開けてしまった。
もし、力を手に入れたのがお空でなかったなら。
お空と共に居たのがお燐でなかったなら。
地底は開かれなかっただろうか。
「あっそうだ、地上で変なお面をたくさんつけた妖怪がよくわかんない踊りを踊ってたんですよ。今度いっしょに見に行きましょう!」
「言葉だけ聞くとまったく楽しそうに聞こえないのだけど……」
もし、彼女たちでなかったなら。
例えば、自分たちであったなら。
「? ヤマメ、どうかしたか?」
「……ゴメン姐さん、さとり、今日はもう行くよ」
踵を返すヤマメを、皆が不可解という目で見ていた。
さとりだけが、その胸に去来した葛藤を見ていたが、声に出すことはなく、やはりただその背を見つめていた。
「……『もう行く』って、そればっかだな」
地霊殿を後にしてしばし、旧都の路上でぽつりと零す。
まるで逃げているみたいだ。だけど、一体何から逃げているのか。
旧都の町並みに目を向ける。
地上と比べて昼夜の区別が曖昧なここでは、店を探してふらつく酔っぱらいがいつでも絶えない。店の方も、開く時間と閉まる時間が店によってまちまちのため、探せばどこかが開いている。
昼は大いに賑わい、夜は閑散とする、そんな地上の人里で見た風景とはだいぶ異なる。
何か根本的なところで、地上の生き物とは異なってしまっているような、そんな気がする。
そう思った矢先、見覚えのある黒い帽子が目に入った。
「……あ! お前、覚えてるぞ。名前は、確かパルシィだったな」
「ヤマメだよ。あとシィじゃなくてスィね」
黒い帽子の内から波打つ金色を流す少女の、自信満々な間違いを訂正する。
霧雨魔理沙はまったく悪びれる様子もなく、首をかしげて言葉を継いだ。
「そうだったか? まあ似たようなもんだろ」
「何で出会いしなにこんな侮辱を受けているのかな……」
「細かいことを気にするとハゲるぞ。それより、勇儀のやつを知らないか?」
「勇儀姐さん? 多分まだ地霊殿にいると思うけど、何で?」
「宴会に誘われたんだよ。こいつも一緒に連れてこい、ってさ」
その言葉の意味をヤマメは掴みかねたが、魔理沙の背後からぴょこんと姿を見せた、閉じた三つ目の瞳を胸の間に掲げる少女を見て理解する。
「よく捕まえられたね」
「そんなに難しくはないぜ? 探せば案外その辺にいるし」
ひらひらと手を振って、二人は地霊殿の方へと歩み去った。
彼女はどうだろうか。異なる生き物だろうか。
異なるに決まっている。そもそも彼女は人間だ。妖怪であるヤマメたちとは根本的に違う生き物だ。
だけど、と、その後をスキップしながら追いかける背中を見て思う。
あの娘だって妖怪だ。だけど、そういえばあの娘は以前から地上に出ていたらしい。
魔理沙は、自分から乗り込んできた。閉ざされていた地底の道をこじ開けて。
壁があって、通れない道があって、その向こうに何があるのかと思いを馳せて。
その先に自らたどり着いた者と、道が開かれるまでただ待っていた者がいる。
憧れて、夢見て、だけど手を伸ばさなかった。
見ていただけだった。
「綺麗ね」
気づいた時には、流れる水の音が耳に届いていた。
「純粋で偽りのない、嫉妬の香りがするわ」
その瞳に宿る緑は、地底の闇により深く輝く。
パルスィは橋の欄干に背を持たれかけ、ヤマメを横目に眺めていた。
ヤマメが立ち去った時とほとんど変わらない姿。
「……嫉妬。嫉妬ねぇ」
ヤマメはその緑の瞳を眺めて、なぜだか、思考がクリアになっていくような感覚を覚えた。
「私は嫉妬しているのかな?」
「他ならぬこの私が、その感情を見誤る事があると思うの?」
「だってあんた、小さな妬みを操って増幅させたりするの得意じゃない」
「光栄だけど、友人相手に断りもなく能力を使ったりしないわよ」
パルスィは笑っている。その笑みには、含む意味などは何もない。
ただ、笑いたいから笑っている。そういうヤツだ。
「あんたみたいなのでも、嫉妬に身を焦がしたりするのねぇ」
「ついぞ覚えのない感情だったからね。自分でもよくわからなかったよ」
「そう。それで、その感情のぶつける先はあるの?」
「無かったよ 。ついさっきまでは」
「それは残念。奪い取って私の糧にしてやろうと思ったのに」
「いらないよ。別の事に付き合ってもらうから」
「別の事って?」
パルスィは顔に疑問符を浮かべた。
その肩を掴まえて、顔を覗き込む。
「空を見に行くんだ」
遠く、遠い先にある、まるで針の穴のように細い道。
実際には、それは人が通るのに充分過ぎる程の広さを持っている。
ただ、あまりに遠すぎて、妖怪の目にすらも小さな点のようにしか写らないだけだ。
「……ホントにやるわけ?」
パルスィは呆れたような声音で、そう零した。
「せめてもうちょっと意味のある事に命をかけた方が、ねぇ」
そういって、傍らのキスメに目線を送る。
「……意味はあるよ、きっと」
そう返して、キスメは桶を浮かび上がらせて前に出る。
遥かな高みへと続く縦穴を見上げる。隣のヤマメと共に。
「文句を言う割にはちゃんと付き合ってくれるパルスィが好きだよ、私は」
「別に一緒に登るとは言ってないでしょ。阿呆のやることを嘲りにきただけよ」
「と、口では語るも、その身体に燃え上がる好奇を拭い去る事は出来ないのであった」
「やめい」
いつからか、地上と地底を結んでいた小さな縦穴。
誰かがそこから降りてきた事も、そこを登った事もない。
どこに続いているのかも分からない。分かるのは、その向こうには空がある、という事だけ。
地上との行き来は定められたルートがある。当然、ここはその道ではない。
地底は無秩序の世界ではない。ルールを破る者には、相応の報いが待っている。
「それで、一体何を得ようっていうのかしら」
「さあねぇ。一緒に登ってみればわかるんじゃない?」
笑って振り返るヤマメの表情には、気負いも葛藤も見られない。
口元を結んでじっと穴を見上げるキスメも、それは同じ。
「……ま、殺されない事くらいは祈っておいてあげるわ」
「パルスィだったら祈るより呪う方が効果がありそうだなぁ」
「だったら、死に勝る生き地獄を味わうように呪っておきましょうか?」
「お祓いにお金かかりそうだからパスで」
ヤマメが高く右手を掲げると、その指先から細い糸が射出され、縦穴に続く壁の取っ掛かりに巻き付いた。
横に伸ばした左腕には、キスメがしがみついてぶら下がる。
三人はそれぞれに目配せを送った。
そこにあったのは、期待でもあり、不安でもあり、呆れでもあり、覚悟でもあっただろう。
ヤマメが右手を握る。糸がピンと張り詰める。
キスメの手がより強くヤマメにしがみつく。
ヤマメの脚が地面を離れようとした、その刹那。
ズドォォォン、と。
重く響き渡る音が、それに呼応して激しく揺れる大地が、その脚を取って転ばせた。
「まったく、酒の席を妨害するのは万死に値する罪だぞ」
ズン、と、今度は遥かに小さい音。
緩急自在の足音を響かせて、彼女はゆっくりと歩み寄る。
「勇儀……!」
星熊勇儀は、そこにいる誰よりも高い位置にある目で、地に転がる三人を見下ろしていた。
「地底から地上への道は、旧都と地霊殿の双方で申請を許可された者が、定められた道を通る事によってのみ認可される」
淀みなく勇儀は語る。まるで原稿を読み上げるように。
「規則に反し、この道を通って何とする? まして、約定に沿えば滞りなく地上に到れるというこの時世に」
厳然たる態度で、勇儀は三人を睨めつける。
怒りはなく、ただ静かな佇まいだった。
ヤマメはその目を、黙ってじっと見上げた。そして、
「…………くくっ」
堪えきれない、というように、笑みをこぼす。
ぷっ、クスクス、キスメとパルスィの二人も同じように吹き出す。
しばしの間、そうやって静かに笑い転げる三人を、勇儀は黙って見ていた。
「くくくっ……ほんと、似合わないことやってんねえ、姐さん」
「うっさい」
そう言った時、初めて勇儀は渋面を作った。
「まったくお前らは……なんだってこんな楽しそうな事、私に黙ってるんだ」
「だって、思いついたのついさっきだし。それに、誘われたって勇儀姐さんは来れないでしょう」
「ま、な」
地上を離れた荒くれどもが興した旧都にあって、秩序を作る存在とはすなわち強い者だ。
怨霊の管理をする地霊殿、不可侵の約定を交わした地上の賢者たちなど、他の勢力と渡りを付ける代表者も、また同じ。
そして勇儀は、旧都最大の顔役の一人だ。
彼女は旧都における秩序の体現者でなければならない。
それを当人が、望むと望まぬとに関わらず。
「……うふ、うふふふふ」
ゆらりとパルスィが立ち上がる。
その瞳の緑は、いつになく輝きを増していた。
「楽しいわよ、勇儀。この感情を、私の糧であるこの想いを、あなたから感じ取る事ができるなんてね」
「おう、そうか。私は嫉妬しているか」
「本当はこっちに立っていたかった。秩序の担い手なんかより、それをぶち壊す自由の体現者でありたかった」
「そうだな。隠す理由もなくその通りだ」
「うふふふ、良いわよ勇儀、最高だわ」
ゆらゆらと緑のオーラさえ立ち上らせて、パルスィは勇儀に相対していた。
ふと、ちらりとヤマメとキスメの二人に目線を送る。
「ほら、なにぼうっとしてるの。あの穴を登るんでしょう?」
「パルスィは?」
「私は行かないって言ったでしょう。でも、良いものを見れたお礼に、手伝いはしてあげる」
そうして、また勇儀に向き直る。
瞳の緑が尾を引くように、その軌跡を彩った。
「この障害を、ここに留めるくらいの事はしてあげるわ」
にやと笑ってそう言い放つパルスィに、勇儀は目を丸くした。
「……ふっ、あはははは!」
そして、豪快に笑う。
「お前が、陰の気が服着て歩いてるような橋姫が、仲間のために身を挺そうってのか! なるほど、こりゃあ確かに良いものを見れたな!」
がははは、と勇儀が笑う。
クスクス、とパルスィが微笑む。
ゴキリと勇儀が手首を鳴らし、一歩踏み出す。
ズシンと脚を鳴らす勇儀の目には、もうパルスィ以外のなにも写ってはいないようだった。
「ほら、早く行きなさいって。『ここは私に任せて先にいけ!』ってヤツよ」
「……なら、私はこう言わなきゃいけないかな。『必ず戻るから、それまで死ぬなよ!』」
ザッと、土埃を巻き上げてヤマメの足が大地を離れる。
左腕にしがみついたキスメと共に、糸を繰り出して縦穴へと消えていった。
「結局止めないんだから、あんたもつくづく番人向きじゃあないわね」
「そりゃあそうだ。自分を負かしたヤツを気に入って通してしまうような番人じゃ、平穏なんぞ夢だろう」
さらに一歩、勇儀が前に出る。パルスィは構えを取ることもなく、ただそれを見ていた。
「だが、それでも私はここの顔役だ。つまり、ここはそういう場所って事だ」
「さとりの苦労が忍ばれるわねぇ」
「仕方ないさ。誰も己には逆らえん。あいつらも、そうだったんだろ」
勇儀は穴を見上げる。その向こうへと消えていったヤマメとキスメの姿を思う。
「だが、案外こっちの立場もそう悪くはないな! 頼むから、すぐに倒れんでくれよ!」
勇儀は、さらに一歩を踏み出した。
三つ目の踏み出しと共に、先にもまして地面がゴウと揺れた。
その揺れに足を取られたパルスィが、ぐらりと前に倒れ掛かる。
その身体の中心を、勇儀の裏拳が切り裂いた。
空をも断裂せしめんというような、圧倒的な暴力でもって。
「!!」
身体の中心を引き裂かれて真っ二つになったパルスィは、特になんという反応を見せる事もなく、勇儀を見返してニヤリと笑った。
直後、その身体が破裂して、無数の弾となって勇儀に降り注いだ。
「おおっ!?」
その威力は決して大きなものではなかったが、もろに弾幕を浴びてはさしもの勇儀も無傷とはいかない。
顔の前を両腕で守り、一歩二歩と後退り、ようやっと弾幕をやり過ごした。
「ねえ勇儀、もしかしてだけど、違ったら馬鹿にしたみたいでとても申し訳ないのだけど」
クスクスと笑いを含む声が、勇儀の耳に届く。
「あなた、まさか私に勝てるつもりでいるの?」
その姿は地底の闇に溶けるように、判然としなかった。
ただ、緑だけが、ゆらゆらと揺れる。
「妬みを携えて繰り出す拳が、橋姫の身体に届くと、本気で思っているの?」
やがてその揺らぎが、人の形を為す。
金の髪を、笑みの形に歪んだ口元を、全てを吸い込むような緑の双眸を。
緑眼の怪物を。
「ねえ? 本気じゃないわよね? そこまでお馬鹿さんじゃないわよね?」
勇儀は、その瞳に映る自分の姿を見た。
顔を腕で庇いながら、その奥の瞳はギラと燃え盛る。
「おいおい、やめてくれよ」
そして、その口元からは、抑えきれない笑みがこぼれた。
「そんな滾ることを言われて、やり過ぎちまったらどうしてくれる!」
思い切り高く掲げた拳を、ごう、と勢い良く地面に叩きつける。
ドオォォン、と唸る地響きは合図だった。誰も邪魔してくれるなよ、という。
「随分と久しい昂りだ! ここまで来てすぐに死ぬようなら、たたっ殺してやるからな!!」
力強い呼気と、猛々しく燃え盛る瞳を。
クスクスと溢れる笑みと、深く沈む瞳を。
それぞれを携えた二人が、最後の静寂を噛み締めていた。
糸を伸ばし岩壁を辿るヤマメの手に、ズシン、ズシンと振動が響いていた。
その振動は、腕にしがみついているキスメにも伝わっていただろう。
振動のある度に、キスメの手にはより力がこもった。
それでも、ヤマメもキスメも、何かを口にする事はなかった。
後ろを振り返るより、前を見ていなければいけない。
そうでなくては、それこそここに来た意味がない。
糸を手繰る。
ヤマメの繰り出す糸は大岩さえ容易く持ち上げる強度と、垂直の壁にさえ一瞬で張り付く瞬着力をもつ。
それでいて、伸縮は自由自在であり、得意ではない飛翔よりも遥かに早い速度で、二人を運んでいった。
針の穴のようだった光が、少しずつ、大きさを増してゆく。
「……外に出たら」
ポツリと、キスメが零す。
「ヤマメは、外に出たら何をしてみたい?」
問いながら、瞳はあくまでも前を見据えていた。
「うーん」
ヤマメは唸ってみせた。それはフリだけだ。答えるべき言葉は一つしかなかった。
「なんも考えてないや!」
「私も!」
外に出たらも何も、地上に出る事は二人とも初めてではない。
地上に出るだけなら、そもそもここを通る必要すらない。
それでも、二人はここに来たのだ。
アハハ、と二人で笑った。
その直後、急激な振動が二人の身体を揺らした。
「うわっ!」
とっさにキスメを桶ごと抱え、ヤマメは身体を丸くする。
それまでの振動のように、壁から伝わってくるものではなかった。
空気そのものが、激しく震え、揺らぐような感覚だった。
傍らを勢い良く通り過ぎる熱を感じ取る。
その塊が巻き起こす、熱を伴った風を感じ取る。
くひ、と思わず笑みがこぼれた。
「……そうだ。そうだとも」
丸めた身体を少しずつ解きほぐしながら、自然と言葉が漏れい出た。
キスメが離れ、ヤマメの傍らに浮かんで空を見上げる。
「空への道のりに、最後に立ちはだかるのが、あんたじゃなくっちゃあ嘘だろう!」
瞳を輝かせ、力強い笑みと共に、ヤマメが空を見上げる。
そこにも空がある。
黒い翼を、何よりも激しく燃え盛る熱を、神の火をその身に宿した空が。
霊烏路空が、そこにいる。
「ここのルートは通行禁止だし、あなたたちに地上への通行は許可されていない!」
右腕の制御棒を二人に向け、お空は厳然と言葉を紡ぐ。
「地上に出たいのならきちんと許可を取ればいい! どうしてわざわざ――」
「あ、あー、んっ、うん!」
わざとらしくヤマメが咳払いをすると、お空は眉をひそめて詰問を途中で止めた。
「あー、えっとね、その話は下でもうやってきたんだ。あんたはもちろん聞いてないだろうけどさ」
ヤマメはニヤリと笑う。お空は困惑しきりという表情だった。
「物語のクライマックスに、余計な説明が入っちゃ興ざめだろう? 野暮はなしにして、さ」
すっとヤマメが左手を横に伸ばすと、その指先から岩壁を糸が繋いだ。
その半ばをキスメが握り、ぐっと高度を下げ、糸が大きな曲線を描く。
「話し合いは、こいつで行こうじゃあないか!」
糸は引き絞られた弓のように、自らをその矢と変えて、キスメが勢い良く飛び出した。
「!!」
お空がとっさに身を翻す。
その翼をかすめて、キスメは上空まで飛び上がった。
素早く体制を整え、お空が制御棒の先端をキスメへと向ける。
上空に飛び出したままのキスメは、やがてその勢いを減じて止まる。格好の的だ。
制御棒の先端から、火球が撃ち出される。
しかし、キスメは勢いを減じる前に、桶の取っ手に結びついた縄を投じた。
その先端は、何もない中空に結び目を作り出し、ピタリと静止した。
それを支点として、キスメは勢いづいた振り子のように、円を描く軌道で火球を回避した。
「んなっ!?」
釣瓶落としのキスメには、自らを宙に吊り下げるための支点を作り出す力がある。
頭上から急襲するためには、それは欠かせない能力だ。ヤマメも同じような事はできるが、キスメほど力強くはない。
キスメは遠心力で回転すると、お空の背後から勢い良く体当たりを食らわせた。
「うぎゃっ!」
跳ね飛ばされ、お空が壁に叩きつけられる。
宙に吊り下がってブラブラと揺れながら、キスメは油断なくその背を見据えていた。
「こ……んのォッ!」
バゴォン、とお空が爆発を伴った加速で壁を飛び出す。
そのまま高速で中空を旋回して高度を取ると、まっすぐキスメを目掛けて急降下した。
キスメは飛翔の妖術を用いて加速力を生み出し、桶を勢い付けて振り回し始める。
しかし、加速するお空がバサッと翼を広げると、そこから無数の光弾が発射された。
光弾は縄の結び目、支点となる箇所に向かっていく。狙いは正確ではなかったが、その内の一つが結び目を捉えた。
「あっ!」
支点を失い、キスメが宙に放り出されるような形となる。
その位置を目掛けて方向を修正し、お空はさらに加速した。
その瞬間、キスメの眼前を細い糸が横切った。
キスメはとっさにそれを掴むと、逆上がりの要領で桶ごと身体を持ち上げた。
勢いのままに手を離して飛び上がる。
直後、キスメが寸前までいた位置を、核熱の光を纏ったお空が通り過ぎた。
勢い良く壁に激突し、それでも加速を止める事なく、壁のさらに向こうへとお空は潜っていった。
「…………」
しん、と縦穴が静まりかえる。
ヤマメは糸を放った姿勢のままで、キスメは中空に新たな縄を結びつけて、それぞれ佇んでいた。
その空隙が一瞬の事であるのを、二人は理解していた。
お空の埋まっていった穴から、小さな光が生じる。
それが瞬時に膨れ上がると、直後、超高熱を伴ったレーザーとなって射出された。
二人は素早く上空へと逃れる。
レーザーは穴を大きく広げ、反対側の壁にまで巨大な穴を穿ち、収まった。
「……本気なんだね。二人とも」
悠然と、穴の奥からお空が姿を現す。
「手加減は得意じゃないんだ。消し炭になったって知らないよ!」
宣言と共に、お空の周囲に無数の光球が生み出される。
それは渦を巻く軌道を描き、上空に避難していた二人の元へと殺到した。
光球は次から次へと生み出される。
ヤマメはキスメの前に出て、大量に糸を射出して無数の網を中空へと展開した。
網は光球を捉え、爆発と共に消えていく。
ヤマメの元へ届く事はない。
だが、ヤマメは自嘲の笑みを漏らす。
「……ダメだねこりゃあ。明らかに向こうのほうが余裕だ。先に音を上げるのは間違いなくこっちだね」
「心配いらないよ。止めるから」
キスメがヤマメの背に手を添える。
霊烏路空の弾幕は、熱そのものだ。遠ければ遠いほど威力は落ちる。
裏を返せば、近づけば近づく程に危険を増すという事だ。
しかし、それ以上に脅威であるのは、その圧倒的な物量である。
まさしく無尽蔵とも言えるエネルギーを、お空はその身に宿している。
いくら弱まろうと、回避されようとお構いなしに、大量の弾幕を展開してぶつけるのがお空の戦い方だ。
戦力差というのは、つまるところ物量差の事であるのだから、真っ当にぶつかってこれを撃退するのは、奇跡を持ってしても為し得ない。
だから、掻い潜って中核を直接叩くという戦法が必要になるのだが、近づくというのはすなわち、その物量のもっとも集中する所に飛び込むという事でもあるのだ。
「援護よろしく!」
だが、キスメは何のてらいもなく、その身を弾幕の渦中に踊らせた。
今さら尻込みするものなど、何もないのだと言うように。
「……まったく!」
ヤマメはキスメの反対側へ身を投げ出し、右腕を振るって極太の糸を射出した。
土蜘蛛自慢の糸を無数に束ねたそれは、神の火を持ってしても容易くは焼き切れない。
お空は迫りくる糸に対し、小規模の核爆発を発生させた。
爆発は糸を焼き切るには至らないが、その威力で糸の軌道は直撃を外れる。
「……そりゃあ、そうするよねぇ!」
ヤマメは笑って、右手をパッと開いた。
すると、束ねられていた糸がばあっと解け、広がってお空の周囲に降り注いだ。
「!!」
お空はもう一度爆発を発生させ、直撃する軌道の糸は消し飛ばした。
しかし、その周囲を包み込むように糸は展開し、ヤマメが閉じた手に呼応するように収縮してゆく。
「この……!」
お空がぐっと身を縮こまらせると、その全身から光が溢れ出した。
直後、それが強烈な熱を伴った爆発となって、覆いかぶさる糸を燃やし尽くした。
はあ、とお空が息をつく。
エネルギーの放出された直後に、必ず発生する膠着の瞬間。
「キスメ!!!」
中空に結んだ縄を支点として、最大限の遠心力をその身に纏って。
お空の背中に、キスメが身体まるごとぶつかっていった。
「がっ……!」
肺の中の空気を全て吐き出すようにして、お空が仰け反る。
キスメはその勢いを減じる事なく、お空を壁目掛けて弾き飛ばした。
奇しくも、その身体は先にお空が空けた壁の穴へと吸い込まれていった。
「よっしゃ!」
ヤマメは右手でガッツポーズを作り、張り巡らせた糸を飛び移る。
キスメの元へと降りていくために。
「ははは、意外とあっけないねぇ。こんなもんなら――」
「違う!」
キスメのその鋭い声に、ヤマメは足を止めた。
「ヤマメ、右!」
その言葉に、とっさに反応できたのは、ほとんど偶然だろう。
ヤマメは半ば無意識に、手近な糸を右手に手繰って網を展開した。
その直後、壁を突き破って飛び出したお空が、その勢いのままに体当たりを繰り出した。
「うぐあっ!!」
核熱を宿した高速の体当たりは、網の防壁を容易く突き破り、勢いのままにヤマメは弾き飛ばされた。
中空へと投げ出され、身体の制御もままならぬ中、視界の端でお空が反転してくるのを捉えた。
(防いだだろ……! どういう威力だ!)
ヤマメは糸を手繰ろうとして、右腕が動かない事を認識した。
左手を泳がせる。糸はどこにある? 間に合わない。左手から撃ちだした糸を手繰って、いや、それも遅い――
だが、お空の突撃は途中で方向を変えた。
否、突貫してきたキスメの体当たりを受けて、逸らされたのだ。
弾かれたお空は、だが、すぐに反転してくる。
一方、キスメはふわりと宙に投げ出されたような状態で、次の突撃を躱す猶予はない。
「……ええい!」
動かない右腕の事は忘れて、ヤマメは左手を高く掲げた。その指から五本の糸を射出する。
それは、縦穴に無数に張り巡らせた糸の間を幾重にも結び、巨大な一つの網と為して広がる。
ヤマメはキスメの桶を足で引っ掛けて、その網の間から内側へと身を躍らせた。
お空がさらに加速する。纏う光は爆発するかのように瞬く。
その突撃は、網の中心を捉え、熱が無数の糸を次々に焼き切った。
「おおりゃあああ!」
ヤマメは左腕を思い切り引き込む。
壁に張り付いていた糸が次々に剥がれ、網の中心を取り囲むようにぐるぐると巻き付いていく。
やがて、いくつかの糸によって中空に貼り付けられた、巨大な糸の繭が完成した。
糸の焼き切れる音も、やがて途絶えた。
シン、と静寂が耳を打つ。
ふう、とヤマメが息をつく。
だが、まだ終わりじゃない。さらに強固な封じとするために糸を繰る。
「…………!」
その直後だった。繭にほんの僅かな隙間が生じ、そこから強烈な光が漏れ出した。
隙間は次々に生じて、光は無数の光線となって縦穴を強く照らし出す。
「オオオオオオオオオ!!!!」
唸るような叫びと共に、それは爆発となった。
「「わああっ!!」」
縦穴をさらに広げようとでもいうかのような、強烈な爆発。
閃熱が糸を焼き、空気を焦がし、岩壁を削り取った。
ヤマメはふっ飛ばされた先の壁にしがみつき、かろうじて身を守っているだけだった。
どうにか耐えて、爆発をやり過ごさねばならない。
しかし、あろうことか、お空はその爆発から飛び出した。
熱風、風圧、いずれも冷めやらぬまま、お空は飛び出した勢いのままに旋回し、ヤマメの元を目掛けて突貫してきた。
「ちょっ……!」
冗談ではない。どれだけの妖力があったら、こうまで無茶に暴れる事ができるのか。
これが、神の火の力だというのか。
ヤマメは壁を蹴り、どうにか突撃の軌道を回避した。壁をお空の体当たりがえぐり取る。
未だ残る爆発の熱量に全身を焦がされる思いがした。
そして、一発躱したからといってどうなるものでもない。反転してさらに追撃してくるのを、この状態でどうするというのか。
「ヤマメー!!」
と、さらに上方から届く声。
キスメがお空の元へ急襲を仕掛けた。
中空の縄を支点とした体当たり。振り子の要領で繰り出されるそれは、しかし、鋼の守りすらも打ち砕く威力を誇る。
だが、お空は反転してくる事なく、逆に上方へと飛び上がった。
「!!」
「それはさっき見た」
お空は少し飛んで静止する。
キスメの体当たりは空を切り、縄の位置を支点として、ぐるりと一回転する。
その軌道で待ち構えるように、お空は佇んでいた。
そして、くるりとその場で縦に回転する。
回転の勢いを乗せたかかと落としが、飛び込んできたキスメを正確に捉えた。
「わぎゃっ!!」
バギン、と桶の一部が割れて弾き飛ぶ。
縄を維持できなくなったキスメは、そのまま下方へと叩き落された。
ヤマメはとっさに左手を繰り出し、キスメに向けて糸を射出した。
その背後で、ごう、と風を切る音が鳴った。
とっさに振り返ったヤマメに、お空の制御棒が勢い良く振り下ろされる。
「ぐあっ!」
右腕は動かず、とっさに畳んだ右脚だけで防御できるものでもなく、為す術なくヤマメは叩き落された。
それでも、とっさに左手を振り回し、糸をお空へと撃ち出す。
繰り出された糸は、お空の眼前で生じた爆発に弾かれた。
「糸で太陽が捉えられるものか!」
「……捉える? 冗談じゃあないな!」
そのヤマメの声が、まるで勝ち誇ったように弾んでいたのを、お空は当惑と共に聞いた。
「弾いてくれると思ったからさ! そのために撃ったんだ!」
お空は弾かれたように、先の糸を探す。
それは壁に開いた穴、その取っ掛かりから両端を下方に伸ばしていた。
普通に壁を目掛けて撃てば、当然お空は見咎める。
だから、あえてお空の正面へと撃ったのだ。穴の位置へと弾かれるように角度も計算して。
お空はすぐさま制御棒を糸へと向け、エネルギーを充填させる。
だが、撃ち出す直前に、その糸の向かう先への疑問が意識に割り込んだ。
引っかかった糸は、両方の先端をどちらも下方に向けている。
その、片方の先にいるのはヤマメだ。では、もう一つは?
予感は、お空に光弾を撃ち出す事ではなく、身を翻す事を選択させた。
しかし、それは僅かに遅かった。
糸のもう片方の先端。それを桶に括り付けたキスメが、遥か下方から勢い良く飛び上がってくる。
そして、そのままお空の背中に思い切りぶち当たった。
「があっ!!」
三度目の背中への体当たりに、ぐらりとお空の身体が倒れかかった。
キスメは桶から片足を出し、その肩を鋭く踏みつけて跳躍する。
高く飛び上がり、キスメは岩壁にしがみつく。
適当な取っ掛かりに桶の取っ手を通すと、ヤマメの糸を直接手繰って引き上げた。
「……ぐううあああアアアアア!!!」
しかし、蹴り落とされたお空は、唸り声と共に翼を大きく広げ、周囲に爆発を生じさせた。
その勢いを翼に受け、無理矢理に勢いを付けて飛び上がる。
キスメの高さまで瞬時に飛び出し、足元に爆発を発生させて、突貫した。
制御棒を力の限り突き出す。
バキィ、と鋭い音を立てて、キスメの桶が砕けた。
のみならず、制御棒はその向こうの岩壁をも穿ち、砲身の半ばまでも埋め込んだ。
桶と、岩壁の残骸がパラパラと落ちていく。
その上方で、桶から飛び出したキスメが、下方へと声を向ける。
「弁償よろしく!」
そして、くるりと身を翻し、お空の側を通り過ぎて落下する。
その右手に括り付けた糸を、制御棒の砲身に引っ掛けながら。
「土蜘蛛お手製の最高級品を用意するよ!」
キスメが落下してゆく、その勢いをそのまま上昇力へと変えて。
反対側から、ヤマメが飛び出してくる。
お空の傍らを通り過ぎて、ヤマメはふわりと浮き上がった。
左手を振るい、糸を岩壁に瞬着させる。
そして、さらに新たな糸を射出する。
無数の糸がお空の全身を絡め取る。
「わっ! ちょ……!」
「地底旅行、いってらっしゃい!」
お空に絡みついた糸を収縮させ、制御棒も引っこ抜いてお空を手元まで手繰り寄せる。
そのまま、ぐるんと一回転。遥かな地底へと目掛けて、力の限り投擲した。
「わあああーーーー!!!」
長く尾を引く悲鳴を残し、お空は叩き落とされていった。
ヤマメは次の糸を射出し、壁に張り付いて一息つく。
その傍らに登ってきたキスメが、肩を叩いて笑った。
ニヤリと、笑みを返す。
キスメは、動かないヤマメの右腕を抱えるように右半身を支え、ヤマメが左手で糸を繰り、縦穴を登っていった。
光の入り口は、もう目の前まで来ている。
最後、穴の縁には、ヤマメとキスメそれぞれが自ら手をかけた。
身体を浮かせる。足を蹴る。腕を思い切り引き上げる。
そうして、穴から勢い良く飛び出して、二人は地上へと躍り出た。
その場所がどこなのかは、地上の地理に明るくない二人には分からなかった。
空は青くはなかった。すでに日の落ちかけた、黄昏の紅を宿していた。
ごろんと、ヤマメは芝生に転がり、どこまでも続くような空を見上げた。
傍らに、同じように転がるキスメの気配がする。
吹き付ける風は、まだまだ暑いのだろう。今は夏だ。
核熱の暴威にさらされていた二人には、充分過ぎる程に涼しい風だったが。
言葉は出なかった。
ただ、空を見ていた。
やがて、ごうと唸る風を伴って、穴からもう一つの影が飛び出した。
手足や翼のあちこちに糸の残骸を張り付かせて、お空はふらつきながら大地に降り立った。
「よ、ようやく、追い詰めたわよ……!」
ぜえぜえ、と肩で息をしながら、それでもお空は二人に制御棒の先端を向けた。
「こんなムチャクチャして! どうなるかわかってるんでしょうね!」
お空は興奮した口調で、矢継ぎ早にまくし立てた。
二人の無茶を、ルール違反を、行動の無意味を咎めた。
「……えーと、あの」
しかし、二人がまったくの無反応なので、どうにも勢いが続かないようだった。
やがて黙りこくって、疑問で仕方ないという顔をして、空を見続ける二人を眺めている。
「…………ふっ」
その声を漏らしたのは、どちらだっただろう。
「ふっ、ふふふっ、ふくく、くははは」
「はっ、あはは、はははひひひひ」
背を丸めて、お腹を引きつらせて、二人は笑いだした。
堪えようもないというかのように、とめどない笑い声を漏らした。
「あっははは、ひひはははは、あっはははひひひひ!」
「うひひひ、ひひあははは、くくくふふはははは!」
お空は混迷極まるという表情で、笑い転げる二人を見ていた。
制御棒も下ろしてしまい、一体どうすれば良いのかという様子である。
二人は身体を起こし、だが笑いすぎてまた転がり、それでもめげずに立ち上がると、お互いの肩を叩いてまた笑った。
それでも収まらずに笑い合うと、お空の肩を抱き、肩を寄せ合って笑い続けた。
「あっはっは、あっはははは!」
「ひっ、ひいはははは! あははは!」
まったく訳がわからないという表情をしていたお空だが、あまりに節操なく笑い続ける二人に看過されて、やがて一緒になって笑いだした。
「うひひひ、もう、なんなのよ! あははは!」
「あはは、知らないってあっははは!」
「あー、お腹痛い、あー、あっはっは!」
そうやって、誰にも分からない、だがとめどなく溢れる笑いの衝動に身を任せ、三人は笑い続けた。
地面を転がり、肩を叩き合い、落ち着いてはまた誰からともなく笑いだし、笑い声がさらなる笑いを誘引し、いつまでも笑っていた。
やがて日が落ち、辺りが夜の闇に包まれるまで、ずっと。
ぐい、と大杯を一気に干して、勇儀はぷはあと息をついた。
「で、あんたはあれに混じらなくていいのかい?」
「冗談でしょ」
答える声は、勇儀の傍らの地面から。
そこに寝そべるパルスィの口から届いた。
遥か地上へと続く縦穴、その向こうから響く馬鹿笑いの声は、複雑な反響を経て遥かな下方へも届いていた。
それはほんの小さなものだったが、勇儀もパルスィも、不思議なほどはっきりとそれを聞き届けた。
「負けたといっても、立派に足止めの役割を果たしたじゃないか。あの輪に加わるには充分な働きだろう?」
「そういう問題じゃないっての。笑ってる意味がそもそも分かんないし」
「ははは、そりゃそうだ」
勇儀は大杯にまた酒を注ぎ、一息に飲み干す。
一方、ぐったりと横たわるパルスィは、身を起こすのも億劫という様相だった。
「なあパルスィ、空の向こうにはなにがある?」
穴の向こうを、そこにいるはずの者たちを見つめるようにして、勇儀は問いかけた。
「……さあね。何にもないんじゃあないの?」
「いいや、あるさ」
「何があるのよ」
「何か、さ」
勇儀は盃を置いて、背を岩壁にもたれかけた。
「空は空だ。そこには何もない。だが、空の向こうは見えない。見えないから、そこにはきっと何かがあるのさ。それを信じたから、ある者はまだ見ぬ大地を踏みしめ、海の向こうを目指し、空の彼方へと飛び立っていった。私ら妖怪だって、見えない何かを恐れる気持ちから生まれたんだ」
「……見えない何かを暴き出すのは、正体を見つけようとするのは、妖怪の存在を失わせる事でしょう。だから、この幻想郷は閉ざされた。それを許さなかったから」
「そうだな。だから憧れる」
あはは、いひひ、うふふ。笑い声は小さく、だけど消える事はなく、勇儀とパルスィの耳に届いた。
目には見えない、その向こうからの笑い声が。
「見えないその場所に、何かがあると思わずにはいられない。求めずにはいられない。その先に、本当は何があるのかなんて、些細な事さ」
見えているものだけで満足するのなら、そこには安心がある。
手にはいるものだけで満足するのなら、そこには安寧がある。
だけど、そうではないものを求めずにはいられない。
見えない所までたどり着く事を、願わずにはいられない。
誰もが知っている。
それを情熱と言うのだと。
「おらー、そっちの糸班サボってんじゃないよー!」
力強く明瞭なヤマメの声が、縦穴の壁に反響して広がった。
「でけー声出すな!」と、同僚の土蜘蛛から怒声が飛ぶ。それもまた壁に反響して広がり、皆が耳をふさいで渋面を浮かべた。
「知能の低そうな工事現場だこと」
「お、パルスィじゃん。もう謹慎明けたの?」
背後からかけられた声に、ヤマメは全身で向き直る。
「あんたと一緒にしないの。私はとっくに明けてたわよ」
「そりゃあそっか。下で勇儀姐さんの足止めしてただけだもんね」
ルールを破って禁止区域からの地上行きを敢行したヤマメたち三人には、当然の如く制裁が下った。
その一つ、ヤマメに言い渡されたのが、この工事現場の監督である。
あの後、ヤマメとキスメが通ったこの縦穴は、埋め立てられる事が決定した。
もともと存在している意味のない場所だったのだ。意味が無いために、あえて触る必要もないと放置されていたに過ぎない。
埋め立ての案自体は以前にも出ていたらしいが、今回の事件を経てようやく着工されるに至ったというわけだ。
ヤマメは全権責任者として働き、工事が完了するまでは地底に戻る事を許されない。もちろん、現場から逃げれば数多の追手が放たれるだろう。
もっとも、土蜘蛛である彼女には工事はお手の物だ。普段の仕事の延長程度の事でしかない。
さとりが罰を言い渡してくる時の、いささかゲッソリした様子を思い出す。
旧都の声は勇儀が抑えたとしても、地上の賢者たちからせっつかれるハメになっただろうし、結構な借りを作ったような気がする。
まあ、大丈夫だろう。誰も不幸にはなっていないのだし。
「ヤマメちゃーん、運んできたよ―!」
お空の能天気な声が頭上から届く。
傍らに降り立ったお空が示した先には、大量の土砂が積み上げられていた。
「ご苦労さん。今日は充分だから、戻っていいよ」
「ん、わかった。明日も同じ時間ね!」
大仰に手を振り、笑顔でお空は地底へと戻っていった。
彼女もまた、ヤマメたちを止められなかった咎で工事の手伝いに駆り出されている。
「なーんか楽しんでるようにしか見えないわねぇ」
「そういうパルスィだって、久々の地上を楽しんでるんじゃあないの?」
「やめてよ、後の事を思うと今から頭が痛いんだから」
額に手をやり俯くパルスィ。
彼女に課せられた罰は、地底観光ツアーのガイド役だ。
器量の良い彼女にピッタリの役目とも言えるし、愛想笑いの苦手な彼女には拷問とも言えるだろう。
もっとも、これでお喋り好きな彼女だから、案外人気が出そうな気がする。
「キスメはどうしてるの?」
「相変わらず地霊殿でこき使われてるわよ。ハシビロコウさんに気に入られて大変だって言ってたわ」
キスメは地霊殿で寝泊まりし、日々ペットたちの世話に奔走させられているそうだ。
壊れた桶はまだ新調できておらず、人前に出る仕事は難しいからという事らしい。
「早く桶作って、ってぼやいてたわよ」
「まあ、工事が終わんない事には、ねぇ」
あはは、とヤマメは誤魔化し笑いを浮かべて、縦穴を見下ろす。
そして、その目線を上に、空の向こうに送る。
「……それで、空はどうだったの?」
「何にも無かったよ」
パルスィの問いに、ヤマメはあっけらかんと答えた。
「でも、楽しかった」
「それは妬ましい事で」
「パルスィも上がってくればよかったのに。姐さんと話してばっかりいないで、さ」
「上がらなかったから謹慎が短かったんだけどね。それに、私は空に思い入れはないもの」
「だったら橋姫らしく、川の流れでも追ってみたら? せっかく地上に上がったんだし」
「追ってどうするのよ。何があるの?」
「さあ。何もないんじゃない?」
にしし、とヤマメは笑った。
パルスィはふっと息を漏らした。
「でも」
「何かがあるかも、ね」
遠い道のり。幾多の障害。その先にある、誰かがすでに踏みしめた大地を目指して。
何を手に入れただろう。きっと、何も手に入れていない。
どこへ至ったのだろう。きっと、どこにも至っていない。
けど、何かを見つけた。きっと、言葉にならない何かを。
ただ願っただけ。
手を伸ばしただけ。
愚直に進んでみただけ。
それだけで、きっとどこにでもたどり着ける。
まだ見えない、その向こうまで。
どんなものも掴む手と、どこへでも向かう足と、何かを願う心をもって。
ほら、どこへ行こうか?
キスメが目にする空は、いつもそんな風に弱々しいものだった。
遥かな地上から、地の底の旧地獄まで至るには、その光が辿る道筋は小さく、遠すぎる。
それでも、と思う。
キスメは長い間その光を眺めてきた。頼りないその光は、暖かな地上を、どこまでも広がる空を、遥かな頂を想像させるに足るものだったから。
「おうおう、哀愁漂う背中だねえ」
茶化すようなその声は、暗い地底に相応しくない明るさを持つ。キスメにとってはよく知った声。
「ヤマメ、戻ってきてたんだ」
「今しがた、ね。いやはや、地上は暑苦しくっていけないや」
灼熱地獄のある地底の方がよっぽど暑そうだとキスメは思うが、地上の夏というのは中々に厄介なものらしい。
地底と地上の交流がにわかに再開し始めてしばし。黒谷ヤマメは折に触れて地上へと出向くようになっていた。
名目上は今も不可侵の約束があるため、地上に向かうには旧都と地霊殿での手続きが必要になる。それを(特に地霊殿での手続きを)嫌がる妖怪は少なくないのだが、ヤマメはあまり気にしていないようだ。
もう一度上を見る。キスメの目に映るのは、針穴のように小さな光。
「……思い出すねえ。あんたと初めて会ったのもここだった」
ヤマメの柔らかい口調には、若干の寂寥が含まれているようだった。
旧都を離れて少し、複雑な起伏の入り組んだ先に、その場所はあった。
そこには長く、長い縦穴が突き抜けており、地上の光が僅かながら届いていた。
どうしてそんなものがあるのかは知らない。恐らく偶然の産物だろう。
その場所は、初めて見た時からキスメのお気に入りとなった。
遠い遠い向こうにある、大地と空の息吹が、そこにあるような気がした。
何度か通う内、キスメは自分以外の者がここに来ている事を知った。
キスメは釣瓶落としの怪。大いに脅かしてやらねばなるまいと身を潜めようとしたら、不可解な網に足を取られて捕まった。
相手の方が先手を打っていたというわけだ。
その相手、土蜘蛛の黒谷ヤマメは、糸に絡め取られて涙目を浮かべるキスメを大いに笑った。そして、頭上に引っ張り上げておいた桶を脳天に食らって気絶した。
それ以来、キスメとヤマメはしょっちゅうこの場所で邂逅した。出会いこそああでも、妖糸を繰る土蜘蛛のヤマメと、頭上より急襲する釣瓶落としのキスメは能力がよく噛み合い、また、明るく物怖じしないヤマメと引っ込み思案なキスメは性格の相性も良く、すぐに二人は親友となった。
人を脅かすのも、一人より二人の方がずっと上手くいった。ヤマメは社交的で友人が多く、人付き合いの少なかったキスメも知り合いが多くできた。鬼と友人だった事にはキスメは大いに驚いた。彼女自身は大した地位を持っていたわけでもないのに、だ。
二人でよく遊んだ。二人以外の相手ともよく会った。みんなが忌避する地霊殿にも時々は出向いた。橋を見張る、暗いのにお喋りで不思議なお姫様に出会った。鬼のお酒はキツすぎてすぐに潰れてしまう事を知った。閉じた三つ目の瞳を持つ少女が、知らないうちに輪に加わっている事がよくあった。
そうやって生活が変わっていく中で、しかし、この場所に一人で来る事は止めなかった。
ヤマメも同じだった。時々、橋姫や鬼が同行する事もあった。
お喋り好きなパルスィも、いつも豪快に笑う勇儀も、もちろんヤマメも、この場所では多くを語らなかった。
ただ、空を見ていた。空と言うにはあまりに頼りない、その光を。
人間が地霊殿に乗り込むという事件があり、それが収まって以来、地底と地上の交流が復活して旧都も騒がしくなった。向かおうと思えば、地上にも出られるようになった。
それでも、キスメはここに来る事を止めていない。
「キスメも地上に出てみたら良いのに。地底にこもってばかりじゃなくて、さ」
「出てるよ。井戸に潜んで人を脅かしたりしてる」
「いや、そうだけど、そうじゃなくてさ」
ヤマメは手を広げて頭上を見上げる。細く小さな光を。
「広ーい空を飛び回ってみたり」
その目線はやがて降りる。キスメの背中を見つめる。
「大きな大地を駆け回ってみたり……」
広げた手が、やがて降りる。
明瞭で快活な、普段のヤマメの声ではなかった。
何かを誤魔化そうとして、言葉がやがて尽きてしまったというように、その声音は尻すぼみに小さくなる。
「……ま、今日はもう行くよ」
そう告げる声も、やはり普段の朗らかさを帯びたものではなかった。
旧都への道を、意図せず早足になって征く。
ヤマメは地底の暗さが好きだった。
闇は自慢の糸で織りなす罠の発見を容易ならざるものとし、妖怪としての働きに大いに貢献してくれる。
乱暴だが気のいい旧都の住人たちも、怨霊だらけで危なっかしい地底の道も、ヤマメは気に入っていた。
同時に、地上の明るさもヤマメは好きだった。
抜けるような空、遮るものの何もない空を駆ける快感は何にも代えがたいと思った。
様々な色合いが巡る風景は鮮やかで、夜を満たす月の光は妖怪の本質を思い出させてくれた。
ずいぶんと久しく忘れていた感覚。
地上との行き来が盛んになって、ヤマメはそれらを思い起こした。
開かれたのは良い事だ。
そう思うのに、それを素直に喜ばない感情がある事を、ヤマメはずっと不思議に思っていた。
旧都にいる妖怪たちの多くは、今も地上に出たがらない。
騒がしさを好む彼らだが、地上からの客には苦い顔を見せる者も少なくなかった。
彼らの顔を見る時、ヤマメは不安な気持ちに駆られる。
自分も、同じような顔をしているのではないか、と。
立ち止まって、両手で自分の頬を張る。
そのままギュッと目を閉じ、眉間に力を込める。
「入水自殺の準備体操かしら?」
気怠げな、粘着くような水気を帯びた声。
「水に溺れたくらいで死ぬほどヤワじゃないんだけどね」
「あら、私が橋の上で呪ってあげればイチコロよ。試してあげましょうか?」
ピンと尖った耳と、地底の闇にあってなお光を湛える金の髪が印象的な女性。
この橋のお姫様だ。臣下はいない。住人もいない。通行客もあまりいない。
「こんなところで死ななくても、地底にゃ自殺のスポットはいっぱいあるからねえ」
「潰される、燃やされる、心を暴かれる、よりどりみどりね」
「ま、今しばらくは死にたくないから、やめとくよ」
笑って、ヤマメが向き直る。
水橋パルスィは腕を軽く胸の前で組み、悠然と佇んでいた。
「光あふれる大地からほの暗い地の底へ戻ってきて、気が滅入るあまり身を投げようとしたところじゃないの?」
「冗談じゃないや。地底も地上も楽しんで日々を過ごすヤマメちゃんになんてことを」
「そうは見えないって言ってるんだけどね」
ヤマメの笑みが消える。パルスィは、口元だけで微笑んでいた。
「地上から戻ってくる時、いつもそんな顔をしてるじゃあないの。心ここにあらず、って顔」
ヤマメは何も言い返さなかった。自覚があったからだ。
地上に出向いた時、空の広さに、鮮やかな風景に心を奪われる。
その感動を、ヤマメはいろんな相手に話して聞かせるようにしていた。
他の妖怪も、もっと地上に出てみれば良いと思っていたからだ。
だけど、話が終わってふと気付くと、自分の顔から笑みが消えている事に気付く。
「どこに心を置いてきたの?」
地底には、地上を知らない妖怪も多い。そうではない妖怪も、多くは地上の風を忘れてしまって久しいだろう。
穴を登ればいずれ地上に至る。そんなことさえ、忘れてしまったかもしれない。
だけど、ヤマメはそうではなかった。
あの細い光が、頼りない空が、輝ける世界への憧憬を胸に宿すのを、抑えられずにいた。
キスメと初めて会ったあの縦穴は、まるで呼び寄せるかのように、ヤマメの心を縛り付けた。
ふとした時にあの光を思い出し、そこに脚を向かわせた。
道が開かれて、いざ地上に出向いてみて、何を思っただろう。
憧れた光に、懐かしい風に、何を。
「……パルスィは、地上に出たりしないの?」
質問の答えとは別のことを、ヤマメは口にした。
「わざわざ妬ましい奴らを眺めに行くのもねぇ」
「素直に楽しめばいいじゃない。地上はいい所だよ」
「そうでしょうね」
パルスィはふっと目を逸らし、川の上流へと向けた。
そこから流れてくる水は、かつて地上にあった。長い道のりを経て、この地底へと降り下って来たのだ。
「きっと、こんな地底よりずっと綺麗で、優しい風が吹いているのでしょうね」
パルスィと同じように、ヤマメは地上から下る川の流れを見つめた。
きっと、自分も同じような目をしているのだろう。
「お、ヤマメじゃあないか。なんだシケた顔して」
と肩を掴まれたのは、地霊殿の入り口を通ってすぐの事である。
「勇儀姐さんこっちに来てたんだ。旧都にいないから探しちゃったよ」
出会いしなにそういう事をする相手というのは、ヤマメの知り合いにそれなりにいる。そして、その中でもっとも多く顔を合わせる相手が、この星熊勇儀だった。
「あん? 私に用事だったか。そりゃすまんな」
「用事っていうか、戻ってきた報告だけどね。ここに来たのも同じ」
「ああ、そういやお前地上に出てたんだったな。忘れてた」
カラカラと笑う勇儀。ついでに肩をバンバンと叩いてくる。
「いいかげんだなあ。またさとりに文句言われるよ」
「まさに今、文句を言われてきたところだ。出入りの人数がこっちの報告と向こうの記録で合わなすぎるとさ。なははは!」
「笑っていられるのでしたら、次回はもう少し改善されると期待していいんですかね」
その声の主は、エントランスを静かな音で歩み来る。
「おかえりなさい、ヤマメさん。今回は問題も起こされなかったようでなにより」
「別に前だって問題は起こしてないでしょ」
「命蓮寺から『変な妖怪を寄越すな』と抗議がありましたよ」
「ありゃあんたんとこの猫だろ、どっちかって言うと」
「ふむ。その可能性は考えませんでした」
とぼけた顔で首を傾げて見せるこの少女が、地霊殿の主、古明地さとりだ。
地底から地上への道は、ここで申請して受理されなければ通行を許可されない。愚か者の企みで地上との間に争いが起きては困るから、事前にここでチェックを受けるのだ。
その名の通りの覚り妖怪である彼女を前に、腹芸は意味を成さない。企みは全てここで暴かれてしまう。
が、それは本人に企みがあればの話であり、普通に観光するつもりの者が結果的にトラブルを招いてくる事はままある。
それが地上に不利益をもたらしたならば、真っ先に矛先を向けられるのはこのさとりだ。問題を起こした者が何を考えていたのかは、彼女にしか分からない。地上にしてみれば、彼女自身が企みをもってその者を地上へ通したのでは、という事になるのだ。
そういう微妙な立場にあるはずなのだが、さとりの態度は飄々として掴めない。それこそ、何かしらの企みがあるのではないかと思わせる。
「何もありませんよ。考えても詮無いことは放置しているだけです」
思考を読んでそう反論してくる。こういうところが嫌われているのだという事は、多分本人も気づいているだろう。
「そうですね。……ところで、地上で何かありましたか?」
? 何か、とはどういうことだろう。
「いえ、浮かない顔でしたので、私が読めていないだけで何かあったのかと」
さとりは頭に浮かんだ事柄を読み取る能力がある。だが、記憶のすべてを覗き見れるというわけではない。あくまでも、その時の思考にある事を見ているのだ。
だから、本人が思い浮かべていない事は読み取れない。故に彼女は質問をして、その答えとなる事柄を思い浮かべさせようとするのだ。
しかしあいにく、地上で特別に何かがあったという訳ではない。
「そうですか。ふむ……」
それにしても、顔色を窺うなんて、ずいぶんとらしくない事をするものだ。明日は薔薇でも降るだろうか。
「大きなお世話です」
「……おーい、会話してもらっていいかい」
と、それまで黙っていた勇儀が声をあげた。
「おっと、すまんね姐さん。こいつとは話さなくて済むのが楽でねぇ」
「私だって二人の時はそうするが、周りに人がいる時はやらんぞ。傍から見てると気持ち悪い事この上ないからな」
ふむ、そう言えばそうだ。さとりが一方的に喋って相手はうんうんと頷いているのは、見ている側からすれば異様でしかないだろう。
「……私にしてみれば、心を読まれるのを嫌がらないあなた方の方が変わっていますよ」
「そうかい?」
にやりと笑って、勇儀はヤマメに目を向ける。
精神を核として存在する妖怪にとって、心を暴く覚り妖怪は存在を揺るがす危険な相手ですらある。
それを嫌がらない手合いというのは、たしかに変わり者ではあるのだろう。
「さとり様ー!」
と、引き伸ばされたような大声を伴って、玄関が勢い良く開かれた。
「ああっ、さとり様! 大変です!!」
客の存在に目もくれず、黒い翼をはためかせて主のもとに駆け寄る。
「お空、ひとまず落ち着きなさい。それに挨拶を忘れているわよ」
「あ、勇儀さんにヤマメちゃん、いらっしゃいませ!」
霊烏路空はヤマメと勇儀に向き直り、勢い良く頭を下げる。
この、とかく忘れっぽい娘がヤマメの名前をようやく覚えたのは、つい最近の事だ。地上の様子を(多分に誇張を交えつつ)語るヤマメに感銘を受けたようなのだが、話の中で「ヤマメちゃん」と自称したのを覚えてしまったらしく、それ以来ずっとこの呼び方である。
「……で、何か大変なんじゃなかったのかい?」
「あ! そうだった! さとり様、大変なんです!」
お空はさとりの肩を掴んでガクガクと揺らす。慣れているのか、さとりはまったく動じた様子もない。
「お空、まず落ち着いて、何があったのか順番に話してごらん」
「何もなかったんです! だから大変なんです!」
「そう。それはなかなかに哲学的ね」
「何もかも無くなっていて大変とか、そういうヤツじゃないのそれ?」
「違うよヤマメちゃん! 何も起きないから大変なんだよ!」
「本当に哲学的だったな」
「何も起きなくて平和なのは天変地異の前触れって本に書いてあったの! だから大変なんです!」
「その本は燃料にしていいわよ」
さとりが穏やかに告げると、お空は「そうなんですか?」と言って大人しくなった。
胡散臭い本の適当な煽りだという自覚は多少なりともあったと見える。
「やあやあご両人、お勤めご苦労さま」
と、開けっ放しの玄関をくぐって、赤い髪を三つ編みにまとめた少女が姿を見せる。
「お勤めはお前の方だろ。また地上か?」
「いひひ、道が開いたおかげで死体探しも捗るってもんですよ」
勇儀の問いに、火焔猫燐は歯を見せて悪戯っぽく微笑む。
死体を運び去る火車の少女は、地底の住人の中でもとりわけ盛んに地上へと出向いている。
「そういや、地上に怨霊が湧いたのはお前の仕業だったなぁ。実は全てお前の謀略だったとか?」
「勘弁して下さいよ、勇儀さん。あたいは友達を助けようとしただけですって」
今度は少しはにかむように、お燐は笑う。
地上の神によってお空が八咫烏の力をその身に宿し、増長して地上征服なぞを企んだ。これを知り、さとりによって彼女が処分されるのを恐れたお燐が、事前に彼女の野望を阻止するため、怨霊を地上に現出させて異変解決の専門家を呼び込んだ。それが少し前の異変の顛末だ。
それ以来、地上に乗り込んできた人間を始めとして、地底に招かれたり自ら訪れる者が現れだした。地底からも同じように、地上へと出向く者が出始めた。
長い、長い期間、二つの間に交流は存在しなかった。ヤマメにとっての地上とは、遥かな記憶の彼方にあるおぼろげな風景であり、空想の中にある風の匂いであり、細く頼りない光の線であった。
キスメや、パルスィや、勇儀にとっても、それは同じであっただろう。
しかし、この二人にとってはそうではなかった。
お空は手に入れた力を、地底ではなく地上に向ける事を目論み、お燐はそれを阻止するために、地上の力を利用する事を考えた。
妖怪としては若い方の二人。その想いは、閉ざされた地底の扉をこじ開けてしまった。
もし、力を手に入れたのがお空でなかったなら。
お空と共に居たのがお燐でなかったなら。
地底は開かれなかっただろうか。
「あっそうだ、地上で変なお面をたくさんつけた妖怪がよくわかんない踊りを踊ってたんですよ。今度いっしょに見に行きましょう!」
「言葉だけ聞くとまったく楽しそうに聞こえないのだけど……」
もし、彼女たちでなかったなら。
例えば、自分たちであったなら。
「? ヤマメ、どうかしたか?」
「……ゴメン姐さん、さとり、今日はもう行くよ」
踵を返すヤマメを、皆が不可解という目で見ていた。
さとりだけが、その胸に去来した葛藤を見ていたが、声に出すことはなく、やはりただその背を見つめていた。
「……『もう行く』って、そればっかだな」
地霊殿を後にしてしばし、旧都の路上でぽつりと零す。
まるで逃げているみたいだ。だけど、一体何から逃げているのか。
旧都の町並みに目を向ける。
地上と比べて昼夜の区別が曖昧なここでは、店を探してふらつく酔っぱらいがいつでも絶えない。店の方も、開く時間と閉まる時間が店によってまちまちのため、探せばどこかが開いている。
昼は大いに賑わい、夜は閑散とする、そんな地上の人里で見た風景とはだいぶ異なる。
何か根本的なところで、地上の生き物とは異なってしまっているような、そんな気がする。
そう思った矢先、見覚えのある黒い帽子が目に入った。
「……あ! お前、覚えてるぞ。名前は、確かパルシィだったな」
「ヤマメだよ。あとシィじゃなくてスィね」
黒い帽子の内から波打つ金色を流す少女の、自信満々な間違いを訂正する。
霧雨魔理沙はまったく悪びれる様子もなく、首をかしげて言葉を継いだ。
「そうだったか? まあ似たようなもんだろ」
「何で出会いしなにこんな侮辱を受けているのかな……」
「細かいことを気にするとハゲるぞ。それより、勇儀のやつを知らないか?」
「勇儀姐さん? 多分まだ地霊殿にいると思うけど、何で?」
「宴会に誘われたんだよ。こいつも一緒に連れてこい、ってさ」
その言葉の意味をヤマメは掴みかねたが、魔理沙の背後からぴょこんと姿を見せた、閉じた三つ目の瞳を胸の間に掲げる少女を見て理解する。
「よく捕まえられたね」
「そんなに難しくはないぜ? 探せば案外その辺にいるし」
ひらひらと手を振って、二人は地霊殿の方へと歩み去った。
彼女はどうだろうか。異なる生き物だろうか。
異なるに決まっている。そもそも彼女は人間だ。妖怪であるヤマメたちとは根本的に違う生き物だ。
だけど、と、その後をスキップしながら追いかける背中を見て思う。
あの娘だって妖怪だ。だけど、そういえばあの娘は以前から地上に出ていたらしい。
魔理沙は、自分から乗り込んできた。閉ざされていた地底の道をこじ開けて。
壁があって、通れない道があって、その向こうに何があるのかと思いを馳せて。
その先に自らたどり着いた者と、道が開かれるまでただ待っていた者がいる。
憧れて、夢見て、だけど手を伸ばさなかった。
見ていただけだった。
「綺麗ね」
気づいた時には、流れる水の音が耳に届いていた。
「純粋で偽りのない、嫉妬の香りがするわ」
その瞳に宿る緑は、地底の闇により深く輝く。
パルスィは橋の欄干に背を持たれかけ、ヤマメを横目に眺めていた。
ヤマメが立ち去った時とほとんど変わらない姿。
「……嫉妬。嫉妬ねぇ」
ヤマメはその緑の瞳を眺めて、なぜだか、思考がクリアになっていくような感覚を覚えた。
「私は嫉妬しているのかな?」
「他ならぬこの私が、その感情を見誤る事があると思うの?」
「だってあんた、小さな妬みを操って増幅させたりするの得意じゃない」
「光栄だけど、友人相手に断りもなく能力を使ったりしないわよ」
パルスィは笑っている。その笑みには、含む意味などは何もない。
ただ、笑いたいから笑っている。そういうヤツだ。
「あんたみたいなのでも、嫉妬に身を焦がしたりするのねぇ」
「ついぞ覚えのない感情だったからね。自分でもよくわからなかったよ」
「そう。それで、その感情のぶつける先はあるの?」
「無かったよ 。ついさっきまでは」
「それは残念。奪い取って私の糧にしてやろうと思ったのに」
「いらないよ。別の事に付き合ってもらうから」
「別の事って?」
パルスィは顔に疑問符を浮かべた。
その肩を掴まえて、顔を覗き込む。
「空を見に行くんだ」
遠く、遠い先にある、まるで針の穴のように細い道。
実際には、それは人が通るのに充分過ぎる程の広さを持っている。
ただ、あまりに遠すぎて、妖怪の目にすらも小さな点のようにしか写らないだけだ。
「……ホントにやるわけ?」
パルスィは呆れたような声音で、そう零した。
「せめてもうちょっと意味のある事に命をかけた方が、ねぇ」
そういって、傍らのキスメに目線を送る。
「……意味はあるよ、きっと」
そう返して、キスメは桶を浮かび上がらせて前に出る。
遥かな高みへと続く縦穴を見上げる。隣のヤマメと共に。
「文句を言う割にはちゃんと付き合ってくれるパルスィが好きだよ、私は」
「別に一緒に登るとは言ってないでしょ。阿呆のやることを嘲りにきただけよ」
「と、口では語るも、その身体に燃え上がる好奇を拭い去る事は出来ないのであった」
「やめい」
いつからか、地上と地底を結んでいた小さな縦穴。
誰かがそこから降りてきた事も、そこを登った事もない。
どこに続いているのかも分からない。分かるのは、その向こうには空がある、という事だけ。
地上との行き来は定められたルートがある。当然、ここはその道ではない。
地底は無秩序の世界ではない。ルールを破る者には、相応の報いが待っている。
「それで、一体何を得ようっていうのかしら」
「さあねぇ。一緒に登ってみればわかるんじゃない?」
笑って振り返るヤマメの表情には、気負いも葛藤も見られない。
口元を結んでじっと穴を見上げるキスメも、それは同じ。
「……ま、殺されない事くらいは祈っておいてあげるわ」
「パルスィだったら祈るより呪う方が効果がありそうだなぁ」
「だったら、死に勝る生き地獄を味わうように呪っておきましょうか?」
「お祓いにお金かかりそうだからパスで」
ヤマメが高く右手を掲げると、その指先から細い糸が射出され、縦穴に続く壁の取っ掛かりに巻き付いた。
横に伸ばした左腕には、キスメがしがみついてぶら下がる。
三人はそれぞれに目配せを送った。
そこにあったのは、期待でもあり、不安でもあり、呆れでもあり、覚悟でもあっただろう。
ヤマメが右手を握る。糸がピンと張り詰める。
キスメの手がより強くヤマメにしがみつく。
ヤマメの脚が地面を離れようとした、その刹那。
ズドォォォン、と。
重く響き渡る音が、それに呼応して激しく揺れる大地が、その脚を取って転ばせた。
「まったく、酒の席を妨害するのは万死に値する罪だぞ」
ズン、と、今度は遥かに小さい音。
緩急自在の足音を響かせて、彼女はゆっくりと歩み寄る。
「勇儀……!」
星熊勇儀は、そこにいる誰よりも高い位置にある目で、地に転がる三人を見下ろしていた。
「地底から地上への道は、旧都と地霊殿の双方で申請を許可された者が、定められた道を通る事によってのみ認可される」
淀みなく勇儀は語る。まるで原稿を読み上げるように。
「規則に反し、この道を通って何とする? まして、約定に沿えば滞りなく地上に到れるというこの時世に」
厳然たる態度で、勇儀は三人を睨めつける。
怒りはなく、ただ静かな佇まいだった。
ヤマメはその目を、黙ってじっと見上げた。そして、
「…………くくっ」
堪えきれない、というように、笑みをこぼす。
ぷっ、クスクス、キスメとパルスィの二人も同じように吹き出す。
しばしの間、そうやって静かに笑い転げる三人を、勇儀は黙って見ていた。
「くくくっ……ほんと、似合わないことやってんねえ、姐さん」
「うっさい」
そう言った時、初めて勇儀は渋面を作った。
「まったくお前らは……なんだってこんな楽しそうな事、私に黙ってるんだ」
「だって、思いついたのついさっきだし。それに、誘われたって勇儀姐さんは来れないでしょう」
「ま、な」
地上を離れた荒くれどもが興した旧都にあって、秩序を作る存在とはすなわち強い者だ。
怨霊の管理をする地霊殿、不可侵の約定を交わした地上の賢者たちなど、他の勢力と渡りを付ける代表者も、また同じ。
そして勇儀は、旧都最大の顔役の一人だ。
彼女は旧都における秩序の体現者でなければならない。
それを当人が、望むと望まぬとに関わらず。
「……うふ、うふふふふ」
ゆらりとパルスィが立ち上がる。
その瞳の緑は、いつになく輝きを増していた。
「楽しいわよ、勇儀。この感情を、私の糧であるこの想いを、あなたから感じ取る事ができるなんてね」
「おう、そうか。私は嫉妬しているか」
「本当はこっちに立っていたかった。秩序の担い手なんかより、それをぶち壊す自由の体現者でありたかった」
「そうだな。隠す理由もなくその通りだ」
「うふふふ、良いわよ勇儀、最高だわ」
ゆらゆらと緑のオーラさえ立ち上らせて、パルスィは勇儀に相対していた。
ふと、ちらりとヤマメとキスメの二人に目線を送る。
「ほら、なにぼうっとしてるの。あの穴を登るんでしょう?」
「パルスィは?」
「私は行かないって言ったでしょう。でも、良いものを見れたお礼に、手伝いはしてあげる」
そうして、また勇儀に向き直る。
瞳の緑が尾を引くように、その軌跡を彩った。
「この障害を、ここに留めるくらいの事はしてあげるわ」
にやと笑ってそう言い放つパルスィに、勇儀は目を丸くした。
「……ふっ、あはははは!」
そして、豪快に笑う。
「お前が、陰の気が服着て歩いてるような橋姫が、仲間のために身を挺そうってのか! なるほど、こりゃあ確かに良いものを見れたな!」
がははは、と勇儀が笑う。
クスクス、とパルスィが微笑む。
ゴキリと勇儀が手首を鳴らし、一歩踏み出す。
ズシンと脚を鳴らす勇儀の目には、もうパルスィ以外のなにも写ってはいないようだった。
「ほら、早く行きなさいって。『ここは私に任せて先にいけ!』ってヤツよ」
「……なら、私はこう言わなきゃいけないかな。『必ず戻るから、それまで死ぬなよ!』」
ザッと、土埃を巻き上げてヤマメの足が大地を離れる。
左腕にしがみついたキスメと共に、糸を繰り出して縦穴へと消えていった。
「結局止めないんだから、あんたもつくづく番人向きじゃあないわね」
「そりゃあそうだ。自分を負かしたヤツを気に入って通してしまうような番人じゃ、平穏なんぞ夢だろう」
さらに一歩、勇儀が前に出る。パルスィは構えを取ることもなく、ただそれを見ていた。
「だが、それでも私はここの顔役だ。つまり、ここはそういう場所って事だ」
「さとりの苦労が忍ばれるわねぇ」
「仕方ないさ。誰も己には逆らえん。あいつらも、そうだったんだろ」
勇儀は穴を見上げる。その向こうへと消えていったヤマメとキスメの姿を思う。
「だが、案外こっちの立場もそう悪くはないな! 頼むから、すぐに倒れんでくれよ!」
勇儀は、さらに一歩を踏み出した。
三つ目の踏み出しと共に、先にもまして地面がゴウと揺れた。
その揺れに足を取られたパルスィが、ぐらりと前に倒れ掛かる。
その身体の中心を、勇儀の裏拳が切り裂いた。
空をも断裂せしめんというような、圧倒的な暴力でもって。
「!!」
身体の中心を引き裂かれて真っ二つになったパルスィは、特になんという反応を見せる事もなく、勇儀を見返してニヤリと笑った。
直後、その身体が破裂して、無数の弾となって勇儀に降り注いだ。
「おおっ!?」
その威力は決して大きなものではなかったが、もろに弾幕を浴びてはさしもの勇儀も無傷とはいかない。
顔の前を両腕で守り、一歩二歩と後退り、ようやっと弾幕をやり過ごした。
「ねえ勇儀、もしかしてだけど、違ったら馬鹿にしたみたいでとても申し訳ないのだけど」
クスクスと笑いを含む声が、勇儀の耳に届く。
「あなた、まさか私に勝てるつもりでいるの?」
その姿は地底の闇に溶けるように、判然としなかった。
ただ、緑だけが、ゆらゆらと揺れる。
「妬みを携えて繰り出す拳が、橋姫の身体に届くと、本気で思っているの?」
やがてその揺らぎが、人の形を為す。
金の髪を、笑みの形に歪んだ口元を、全てを吸い込むような緑の双眸を。
緑眼の怪物を。
「ねえ? 本気じゃないわよね? そこまでお馬鹿さんじゃないわよね?」
勇儀は、その瞳に映る自分の姿を見た。
顔を腕で庇いながら、その奥の瞳はギラと燃え盛る。
「おいおい、やめてくれよ」
そして、その口元からは、抑えきれない笑みがこぼれた。
「そんな滾ることを言われて、やり過ぎちまったらどうしてくれる!」
思い切り高く掲げた拳を、ごう、と勢い良く地面に叩きつける。
ドオォォン、と唸る地響きは合図だった。誰も邪魔してくれるなよ、という。
「随分と久しい昂りだ! ここまで来てすぐに死ぬようなら、たたっ殺してやるからな!!」
力強い呼気と、猛々しく燃え盛る瞳を。
クスクスと溢れる笑みと、深く沈む瞳を。
それぞれを携えた二人が、最後の静寂を噛み締めていた。
糸を伸ばし岩壁を辿るヤマメの手に、ズシン、ズシンと振動が響いていた。
その振動は、腕にしがみついているキスメにも伝わっていただろう。
振動のある度に、キスメの手にはより力がこもった。
それでも、ヤマメもキスメも、何かを口にする事はなかった。
後ろを振り返るより、前を見ていなければいけない。
そうでなくては、それこそここに来た意味がない。
糸を手繰る。
ヤマメの繰り出す糸は大岩さえ容易く持ち上げる強度と、垂直の壁にさえ一瞬で張り付く瞬着力をもつ。
それでいて、伸縮は自由自在であり、得意ではない飛翔よりも遥かに早い速度で、二人を運んでいった。
針の穴のようだった光が、少しずつ、大きさを増してゆく。
「……外に出たら」
ポツリと、キスメが零す。
「ヤマメは、外に出たら何をしてみたい?」
問いながら、瞳はあくまでも前を見据えていた。
「うーん」
ヤマメは唸ってみせた。それはフリだけだ。答えるべき言葉は一つしかなかった。
「なんも考えてないや!」
「私も!」
外に出たらも何も、地上に出る事は二人とも初めてではない。
地上に出るだけなら、そもそもここを通る必要すらない。
それでも、二人はここに来たのだ。
アハハ、と二人で笑った。
その直後、急激な振動が二人の身体を揺らした。
「うわっ!」
とっさにキスメを桶ごと抱え、ヤマメは身体を丸くする。
それまでの振動のように、壁から伝わってくるものではなかった。
空気そのものが、激しく震え、揺らぐような感覚だった。
傍らを勢い良く通り過ぎる熱を感じ取る。
その塊が巻き起こす、熱を伴った風を感じ取る。
くひ、と思わず笑みがこぼれた。
「……そうだ。そうだとも」
丸めた身体を少しずつ解きほぐしながら、自然と言葉が漏れい出た。
キスメが離れ、ヤマメの傍らに浮かんで空を見上げる。
「空への道のりに、最後に立ちはだかるのが、あんたじゃなくっちゃあ嘘だろう!」
瞳を輝かせ、力強い笑みと共に、ヤマメが空を見上げる。
そこにも空がある。
黒い翼を、何よりも激しく燃え盛る熱を、神の火をその身に宿した空が。
霊烏路空が、そこにいる。
「ここのルートは通行禁止だし、あなたたちに地上への通行は許可されていない!」
右腕の制御棒を二人に向け、お空は厳然と言葉を紡ぐ。
「地上に出たいのならきちんと許可を取ればいい! どうしてわざわざ――」
「あ、あー、んっ、うん!」
わざとらしくヤマメが咳払いをすると、お空は眉をひそめて詰問を途中で止めた。
「あー、えっとね、その話は下でもうやってきたんだ。あんたはもちろん聞いてないだろうけどさ」
ヤマメはニヤリと笑う。お空は困惑しきりという表情だった。
「物語のクライマックスに、余計な説明が入っちゃ興ざめだろう? 野暮はなしにして、さ」
すっとヤマメが左手を横に伸ばすと、その指先から岩壁を糸が繋いだ。
その半ばをキスメが握り、ぐっと高度を下げ、糸が大きな曲線を描く。
「話し合いは、こいつで行こうじゃあないか!」
糸は引き絞られた弓のように、自らをその矢と変えて、キスメが勢い良く飛び出した。
「!!」
お空がとっさに身を翻す。
その翼をかすめて、キスメは上空まで飛び上がった。
素早く体制を整え、お空が制御棒の先端をキスメへと向ける。
上空に飛び出したままのキスメは、やがてその勢いを減じて止まる。格好の的だ。
制御棒の先端から、火球が撃ち出される。
しかし、キスメは勢いを減じる前に、桶の取っ手に結びついた縄を投じた。
その先端は、何もない中空に結び目を作り出し、ピタリと静止した。
それを支点として、キスメは勢いづいた振り子のように、円を描く軌道で火球を回避した。
「んなっ!?」
釣瓶落としのキスメには、自らを宙に吊り下げるための支点を作り出す力がある。
頭上から急襲するためには、それは欠かせない能力だ。ヤマメも同じような事はできるが、キスメほど力強くはない。
キスメは遠心力で回転すると、お空の背後から勢い良く体当たりを食らわせた。
「うぎゃっ!」
跳ね飛ばされ、お空が壁に叩きつけられる。
宙に吊り下がってブラブラと揺れながら、キスメは油断なくその背を見据えていた。
「こ……んのォッ!」
バゴォン、とお空が爆発を伴った加速で壁を飛び出す。
そのまま高速で中空を旋回して高度を取ると、まっすぐキスメを目掛けて急降下した。
キスメは飛翔の妖術を用いて加速力を生み出し、桶を勢い付けて振り回し始める。
しかし、加速するお空がバサッと翼を広げると、そこから無数の光弾が発射された。
光弾は縄の結び目、支点となる箇所に向かっていく。狙いは正確ではなかったが、その内の一つが結び目を捉えた。
「あっ!」
支点を失い、キスメが宙に放り出されるような形となる。
その位置を目掛けて方向を修正し、お空はさらに加速した。
その瞬間、キスメの眼前を細い糸が横切った。
キスメはとっさにそれを掴むと、逆上がりの要領で桶ごと身体を持ち上げた。
勢いのままに手を離して飛び上がる。
直後、キスメが寸前までいた位置を、核熱の光を纏ったお空が通り過ぎた。
勢い良く壁に激突し、それでも加速を止める事なく、壁のさらに向こうへとお空は潜っていった。
「…………」
しん、と縦穴が静まりかえる。
ヤマメは糸を放った姿勢のままで、キスメは中空に新たな縄を結びつけて、それぞれ佇んでいた。
その空隙が一瞬の事であるのを、二人は理解していた。
お空の埋まっていった穴から、小さな光が生じる。
それが瞬時に膨れ上がると、直後、超高熱を伴ったレーザーとなって射出された。
二人は素早く上空へと逃れる。
レーザーは穴を大きく広げ、反対側の壁にまで巨大な穴を穿ち、収まった。
「……本気なんだね。二人とも」
悠然と、穴の奥からお空が姿を現す。
「手加減は得意じゃないんだ。消し炭になったって知らないよ!」
宣言と共に、お空の周囲に無数の光球が生み出される。
それは渦を巻く軌道を描き、上空に避難していた二人の元へと殺到した。
光球は次から次へと生み出される。
ヤマメはキスメの前に出て、大量に糸を射出して無数の網を中空へと展開した。
網は光球を捉え、爆発と共に消えていく。
ヤマメの元へ届く事はない。
だが、ヤマメは自嘲の笑みを漏らす。
「……ダメだねこりゃあ。明らかに向こうのほうが余裕だ。先に音を上げるのは間違いなくこっちだね」
「心配いらないよ。止めるから」
キスメがヤマメの背に手を添える。
霊烏路空の弾幕は、熱そのものだ。遠ければ遠いほど威力は落ちる。
裏を返せば、近づけば近づく程に危険を増すという事だ。
しかし、それ以上に脅威であるのは、その圧倒的な物量である。
まさしく無尽蔵とも言えるエネルギーを、お空はその身に宿している。
いくら弱まろうと、回避されようとお構いなしに、大量の弾幕を展開してぶつけるのがお空の戦い方だ。
戦力差というのは、つまるところ物量差の事であるのだから、真っ当にぶつかってこれを撃退するのは、奇跡を持ってしても為し得ない。
だから、掻い潜って中核を直接叩くという戦法が必要になるのだが、近づくというのはすなわち、その物量のもっとも集中する所に飛び込むという事でもあるのだ。
「援護よろしく!」
だが、キスメは何のてらいもなく、その身を弾幕の渦中に踊らせた。
今さら尻込みするものなど、何もないのだと言うように。
「……まったく!」
ヤマメはキスメの反対側へ身を投げ出し、右腕を振るって極太の糸を射出した。
土蜘蛛自慢の糸を無数に束ねたそれは、神の火を持ってしても容易くは焼き切れない。
お空は迫りくる糸に対し、小規模の核爆発を発生させた。
爆発は糸を焼き切るには至らないが、その威力で糸の軌道は直撃を外れる。
「……そりゃあ、そうするよねぇ!」
ヤマメは笑って、右手をパッと開いた。
すると、束ねられていた糸がばあっと解け、広がってお空の周囲に降り注いだ。
「!!」
お空はもう一度爆発を発生させ、直撃する軌道の糸は消し飛ばした。
しかし、その周囲を包み込むように糸は展開し、ヤマメが閉じた手に呼応するように収縮してゆく。
「この……!」
お空がぐっと身を縮こまらせると、その全身から光が溢れ出した。
直後、それが強烈な熱を伴った爆発となって、覆いかぶさる糸を燃やし尽くした。
はあ、とお空が息をつく。
エネルギーの放出された直後に、必ず発生する膠着の瞬間。
「キスメ!!!」
中空に結んだ縄を支点として、最大限の遠心力をその身に纏って。
お空の背中に、キスメが身体まるごとぶつかっていった。
「がっ……!」
肺の中の空気を全て吐き出すようにして、お空が仰け反る。
キスメはその勢いを減じる事なく、お空を壁目掛けて弾き飛ばした。
奇しくも、その身体は先にお空が空けた壁の穴へと吸い込まれていった。
「よっしゃ!」
ヤマメは右手でガッツポーズを作り、張り巡らせた糸を飛び移る。
キスメの元へと降りていくために。
「ははは、意外とあっけないねぇ。こんなもんなら――」
「違う!」
キスメのその鋭い声に、ヤマメは足を止めた。
「ヤマメ、右!」
その言葉に、とっさに反応できたのは、ほとんど偶然だろう。
ヤマメは半ば無意識に、手近な糸を右手に手繰って網を展開した。
その直後、壁を突き破って飛び出したお空が、その勢いのままに体当たりを繰り出した。
「うぐあっ!!」
核熱を宿した高速の体当たりは、網の防壁を容易く突き破り、勢いのままにヤマメは弾き飛ばされた。
中空へと投げ出され、身体の制御もままならぬ中、視界の端でお空が反転してくるのを捉えた。
(防いだだろ……! どういう威力だ!)
ヤマメは糸を手繰ろうとして、右腕が動かない事を認識した。
左手を泳がせる。糸はどこにある? 間に合わない。左手から撃ちだした糸を手繰って、いや、それも遅い――
だが、お空の突撃は途中で方向を変えた。
否、突貫してきたキスメの体当たりを受けて、逸らされたのだ。
弾かれたお空は、だが、すぐに反転してくる。
一方、キスメはふわりと宙に投げ出されたような状態で、次の突撃を躱す猶予はない。
「……ええい!」
動かない右腕の事は忘れて、ヤマメは左手を高く掲げた。その指から五本の糸を射出する。
それは、縦穴に無数に張り巡らせた糸の間を幾重にも結び、巨大な一つの網と為して広がる。
ヤマメはキスメの桶を足で引っ掛けて、その網の間から内側へと身を躍らせた。
お空がさらに加速する。纏う光は爆発するかのように瞬く。
その突撃は、網の中心を捉え、熱が無数の糸を次々に焼き切った。
「おおりゃあああ!」
ヤマメは左腕を思い切り引き込む。
壁に張り付いていた糸が次々に剥がれ、網の中心を取り囲むようにぐるぐると巻き付いていく。
やがて、いくつかの糸によって中空に貼り付けられた、巨大な糸の繭が完成した。
糸の焼き切れる音も、やがて途絶えた。
シン、と静寂が耳を打つ。
ふう、とヤマメが息をつく。
だが、まだ終わりじゃない。さらに強固な封じとするために糸を繰る。
「…………!」
その直後だった。繭にほんの僅かな隙間が生じ、そこから強烈な光が漏れ出した。
隙間は次々に生じて、光は無数の光線となって縦穴を強く照らし出す。
「オオオオオオオオオ!!!!」
唸るような叫びと共に、それは爆発となった。
「「わああっ!!」」
縦穴をさらに広げようとでもいうかのような、強烈な爆発。
閃熱が糸を焼き、空気を焦がし、岩壁を削り取った。
ヤマメはふっ飛ばされた先の壁にしがみつき、かろうじて身を守っているだけだった。
どうにか耐えて、爆発をやり過ごさねばならない。
しかし、あろうことか、お空はその爆発から飛び出した。
熱風、風圧、いずれも冷めやらぬまま、お空は飛び出した勢いのままに旋回し、ヤマメの元を目掛けて突貫してきた。
「ちょっ……!」
冗談ではない。どれだけの妖力があったら、こうまで無茶に暴れる事ができるのか。
これが、神の火の力だというのか。
ヤマメは壁を蹴り、どうにか突撃の軌道を回避した。壁をお空の体当たりがえぐり取る。
未だ残る爆発の熱量に全身を焦がされる思いがした。
そして、一発躱したからといってどうなるものでもない。反転してさらに追撃してくるのを、この状態でどうするというのか。
「ヤマメー!!」
と、さらに上方から届く声。
キスメがお空の元へ急襲を仕掛けた。
中空の縄を支点とした体当たり。振り子の要領で繰り出されるそれは、しかし、鋼の守りすらも打ち砕く威力を誇る。
だが、お空は反転してくる事なく、逆に上方へと飛び上がった。
「!!」
「それはさっき見た」
お空は少し飛んで静止する。
キスメの体当たりは空を切り、縄の位置を支点として、ぐるりと一回転する。
その軌道で待ち構えるように、お空は佇んでいた。
そして、くるりとその場で縦に回転する。
回転の勢いを乗せたかかと落としが、飛び込んできたキスメを正確に捉えた。
「わぎゃっ!!」
バギン、と桶の一部が割れて弾き飛ぶ。
縄を維持できなくなったキスメは、そのまま下方へと叩き落された。
ヤマメはとっさに左手を繰り出し、キスメに向けて糸を射出した。
その背後で、ごう、と風を切る音が鳴った。
とっさに振り返ったヤマメに、お空の制御棒が勢い良く振り下ろされる。
「ぐあっ!」
右腕は動かず、とっさに畳んだ右脚だけで防御できるものでもなく、為す術なくヤマメは叩き落された。
それでも、とっさに左手を振り回し、糸をお空へと撃ち出す。
繰り出された糸は、お空の眼前で生じた爆発に弾かれた。
「糸で太陽が捉えられるものか!」
「……捉える? 冗談じゃあないな!」
そのヤマメの声が、まるで勝ち誇ったように弾んでいたのを、お空は当惑と共に聞いた。
「弾いてくれると思ったからさ! そのために撃ったんだ!」
お空は弾かれたように、先の糸を探す。
それは壁に開いた穴、その取っ掛かりから両端を下方に伸ばしていた。
普通に壁を目掛けて撃てば、当然お空は見咎める。
だから、あえてお空の正面へと撃ったのだ。穴の位置へと弾かれるように角度も計算して。
お空はすぐさま制御棒を糸へと向け、エネルギーを充填させる。
だが、撃ち出す直前に、その糸の向かう先への疑問が意識に割り込んだ。
引っかかった糸は、両方の先端をどちらも下方に向けている。
その、片方の先にいるのはヤマメだ。では、もう一つは?
予感は、お空に光弾を撃ち出す事ではなく、身を翻す事を選択させた。
しかし、それは僅かに遅かった。
糸のもう片方の先端。それを桶に括り付けたキスメが、遥か下方から勢い良く飛び上がってくる。
そして、そのままお空の背中に思い切りぶち当たった。
「があっ!!」
三度目の背中への体当たりに、ぐらりとお空の身体が倒れかかった。
キスメは桶から片足を出し、その肩を鋭く踏みつけて跳躍する。
高く飛び上がり、キスメは岩壁にしがみつく。
適当な取っ掛かりに桶の取っ手を通すと、ヤマメの糸を直接手繰って引き上げた。
「……ぐううあああアアアアア!!!」
しかし、蹴り落とされたお空は、唸り声と共に翼を大きく広げ、周囲に爆発を生じさせた。
その勢いを翼に受け、無理矢理に勢いを付けて飛び上がる。
キスメの高さまで瞬時に飛び出し、足元に爆発を発生させて、突貫した。
制御棒を力の限り突き出す。
バキィ、と鋭い音を立てて、キスメの桶が砕けた。
のみならず、制御棒はその向こうの岩壁をも穿ち、砲身の半ばまでも埋め込んだ。
桶と、岩壁の残骸がパラパラと落ちていく。
その上方で、桶から飛び出したキスメが、下方へと声を向ける。
「弁償よろしく!」
そして、くるりと身を翻し、お空の側を通り過ぎて落下する。
その右手に括り付けた糸を、制御棒の砲身に引っ掛けながら。
「土蜘蛛お手製の最高級品を用意するよ!」
キスメが落下してゆく、その勢いをそのまま上昇力へと変えて。
反対側から、ヤマメが飛び出してくる。
お空の傍らを通り過ぎて、ヤマメはふわりと浮き上がった。
左手を振るい、糸を岩壁に瞬着させる。
そして、さらに新たな糸を射出する。
無数の糸がお空の全身を絡め取る。
「わっ! ちょ……!」
「地底旅行、いってらっしゃい!」
お空に絡みついた糸を収縮させ、制御棒も引っこ抜いてお空を手元まで手繰り寄せる。
そのまま、ぐるんと一回転。遥かな地底へと目掛けて、力の限り投擲した。
「わあああーーーー!!!」
長く尾を引く悲鳴を残し、お空は叩き落とされていった。
ヤマメは次の糸を射出し、壁に張り付いて一息つく。
その傍らに登ってきたキスメが、肩を叩いて笑った。
ニヤリと、笑みを返す。
キスメは、動かないヤマメの右腕を抱えるように右半身を支え、ヤマメが左手で糸を繰り、縦穴を登っていった。
光の入り口は、もう目の前まで来ている。
最後、穴の縁には、ヤマメとキスメそれぞれが自ら手をかけた。
身体を浮かせる。足を蹴る。腕を思い切り引き上げる。
そうして、穴から勢い良く飛び出して、二人は地上へと躍り出た。
その場所がどこなのかは、地上の地理に明るくない二人には分からなかった。
空は青くはなかった。すでに日の落ちかけた、黄昏の紅を宿していた。
ごろんと、ヤマメは芝生に転がり、どこまでも続くような空を見上げた。
傍らに、同じように転がるキスメの気配がする。
吹き付ける風は、まだまだ暑いのだろう。今は夏だ。
核熱の暴威にさらされていた二人には、充分過ぎる程に涼しい風だったが。
言葉は出なかった。
ただ、空を見ていた。
やがて、ごうと唸る風を伴って、穴からもう一つの影が飛び出した。
手足や翼のあちこちに糸の残骸を張り付かせて、お空はふらつきながら大地に降り立った。
「よ、ようやく、追い詰めたわよ……!」
ぜえぜえ、と肩で息をしながら、それでもお空は二人に制御棒の先端を向けた。
「こんなムチャクチャして! どうなるかわかってるんでしょうね!」
お空は興奮した口調で、矢継ぎ早にまくし立てた。
二人の無茶を、ルール違反を、行動の無意味を咎めた。
「……えーと、あの」
しかし、二人がまったくの無反応なので、どうにも勢いが続かないようだった。
やがて黙りこくって、疑問で仕方ないという顔をして、空を見続ける二人を眺めている。
「…………ふっ」
その声を漏らしたのは、どちらだっただろう。
「ふっ、ふふふっ、ふくく、くははは」
「はっ、あはは、はははひひひひ」
背を丸めて、お腹を引きつらせて、二人は笑いだした。
堪えようもないというかのように、とめどない笑い声を漏らした。
「あっははは、ひひはははは、あっはははひひひひ!」
「うひひひ、ひひあははは、くくくふふはははは!」
お空は混迷極まるという表情で、笑い転げる二人を見ていた。
制御棒も下ろしてしまい、一体どうすれば良いのかという様子である。
二人は身体を起こし、だが笑いすぎてまた転がり、それでもめげずに立ち上がると、お互いの肩を叩いてまた笑った。
それでも収まらずに笑い合うと、お空の肩を抱き、肩を寄せ合って笑い続けた。
「あっはっは、あっはははは!」
「ひっ、ひいはははは! あははは!」
まったく訳がわからないという表情をしていたお空だが、あまりに節操なく笑い続ける二人に看過されて、やがて一緒になって笑いだした。
「うひひひ、もう、なんなのよ! あははは!」
「あはは、知らないってあっははは!」
「あー、お腹痛い、あー、あっはっは!」
そうやって、誰にも分からない、だがとめどなく溢れる笑いの衝動に身を任せ、三人は笑い続けた。
地面を転がり、肩を叩き合い、落ち着いてはまた誰からともなく笑いだし、笑い声がさらなる笑いを誘引し、いつまでも笑っていた。
やがて日が落ち、辺りが夜の闇に包まれるまで、ずっと。
ぐい、と大杯を一気に干して、勇儀はぷはあと息をついた。
「で、あんたはあれに混じらなくていいのかい?」
「冗談でしょ」
答える声は、勇儀の傍らの地面から。
そこに寝そべるパルスィの口から届いた。
遥か地上へと続く縦穴、その向こうから響く馬鹿笑いの声は、複雑な反響を経て遥かな下方へも届いていた。
それはほんの小さなものだったが、勇儀もパルスィも、不思議なほどはっきりとそれを聞き届けた。
「負けたといっても、立派に足止めの役割を果たしたじゃないか。あの輪に加わるには充分な働きだろう?」
「そういう問題じゃないっての。笑ってる意味がそもそも分かんないし」
「ははは、そりゃそうだ」
勇儀は大杯にまた酒を注ぎ、一息に飲み干す。
一方、ぐったりと横たわるパルスィは、身を起こすのも億劫という様相だった。
「なあパルスィ、空の向こうにはなにがある?」
穴の向こうを、そこにいるはずの者たちを見つめるようにして、勇儀は問いかけた。
「……さあね。何にもないんじゃあないの?」
「いいや、あるさ」
「何があるのよ」
「何か、さ」
勇儀は盃を置いて、背を岩壁にもたれかけた。
「空は空だ。そこには何もない。だが、空の向こうは見えない。見えないから、そこにはきっと何かがあるのさ。それを信じたから、ある者はまだ見ぬ大地を踏みしめ、海の向こうを目指し、空の彼方へと飛び立っていった。私ら妖怪だって、見えない何かを恐れる気持ちから生まれたんだ」
「……見えない何かを暴き出すのは、正体を見つけようとするのは、妖怪の存在を失わせる事でしょう。だから、この幻想郷は閉ざされた。それを許さなかったから」
「そうだな。だから憧れる」
あはは、いひひ、うふふ。笑い声は小さく、だけど消える事はなく、勇儀とパルスィの耳に届いた。
目には見えない、その向こうからの笑い声が。
「見えないその場所に、何かがあると思わずにはいられない。求めずにはいられない。その先に、本当は何があるのかなんて、些細な事さ」
見えているものだけで満足するのなら、そこには安心がある。
手にはいるものだけで満足するのなら、そこには安寧がある。
だけど、そうではないものを求めずにはいられない。
見えない所までたどり着く事を、願わずにはいられない。
誰もが知っている。
それを情熱と言うのだと。
「おらー、そっちの糸班サボってんじゃないよー!」
力強く明瞭なヤマメの声が、縦穴の壁に反響して広がった。
「でけー声出すな!」と、同僚の土蜘蛛から怒声が飛ぶ。それもまた壁に反響して広がり、皆が耳をふさいで渋面を浮かべた。
「知能の低そうな工事現場だこと」
「お、パルスィじゃん。もう謹慎明けたの?」
背後からかけられた声に、ヤマメは全身で向き直る。
「あんたと一緒にしないの。私はとっくに明けてたわよ」
「そりゃあそっか。下で勇儀姐さんの足止めしてただけだもんね」
ルールを破って禁止区域からの地上行きを敢行したヤマメたち三人には、当然の如く制裁が下った。
その一つ、ヤマメに言い渡されたのが、この工事現場の監督である。
あの後、ヤマメとキスメが通ったこの縦穴は、埋め立てられる事が決定した。
もともと存在している意味のない場所だったのだ。意味が無いために、あえて触る必要もないと放置されていたに過ぎない。
埋め立ての案自体は以前にも出ていたらしいが、今回の事件を経てようやく着工されるに至ったというわけだ。
ヤマメは全権責任者として働き、工事が完了するまでは地底に戻る事を許されない。もちろん、現場から逃げれば数多の追手が放たれるだろう。
もっとも、土蜘蛛である彼女には工事はお手の物だ。普段の仕事の延長程度の事でしかない。
さとりが罰を言い渡してくる時の、いささかゲッソリした様子を思い出す。
旧都の声は勇儀が抑えたとしても、地上の賢者たちからせっつかれるハメになっただろうし、結構な借りを作ったような気がする。
まあ、大丈夫だろう。誰も不幸にはなっていないのだし。
「ヤマメちゃーん、運んできたよ―!」
お空の能天気な声が頭上から届く。
傍らに降り立ったお空が示した先には、大量の土砂が積み上げられていた。
「ご苦労さん。今日は充分だから、戻っていいよ」
「ん、わかった。明日も同じ時間ね!」
大仰に手を振り、笑顔でお空は地底へと戻っていった。
彼女もまた、ヤマメたちを止められなかった咎で工事の手伝いに駆り出されている。
「なーんか楽しんでるようにしか見えないわねぇ」
「そういうパルスィだって、久々の地上を楽しんでるんじゃあないの?」
「やめてよ、後の事を思うと今から頭が痛いんだから」
額に手をやり俯くパルスィ。
彼女に課せられた罰は、地底観光ツアーのガイド役だ。
器量の良い彼女にピッタリの役目とも言えるし、愛想笑いの苦手な彼女には拷問とも言えるだろう。
もっとも、これでお喋り好きな彼女だから、案外人気が出そうな気がする。
「キスメはどうしてるの?」
「相変わらず地霊殿でこき使われてるわよ。ハシビロコウさんに気に入られて大変だって言ってたわ」
キスメは地霊殿で寝泊まりし、日々ペットたちの世話に奔走させられているそうだ。
壊れた桶はまだ新調できておらず、人前に出る仕事は難しいからという事らしい。
「早く桶作って、ってぼやいてたわよ」
「まあ、工事が終わんない事には、ねぇ」
あはは、とヤマメは誤魔化し笑いを浮かべて、縦穴を見下ろす。
そして、その目線を上に、空の向こうに送る。
「……それで、空はどうだったの?」
「何にも無かったよ」
パルスィの問いに、ヤマメはあっけらかんと答えた。
「でも、楽しかった」
「それは妬ましい事で」
「パルスィも上がってくればよかったのに。姐さんと話してばっかりいないで、さ」
「上がらなかったから謹慎が短かったんだけどね。それに、私は空に思い入れはないもの」
「だったら橋姫らしく、川の流れでも追ってみたら? せっかく地上に上がったんだし」
「追ってどうするのよ。何があるの?」
「さあ。何もないんじゃない?」
にしし、とヤマメは笑った。
パルスィはふっと息を漏らした。
「でも」
「何かがあるかも、ね」
遠い道のり。幾多の障害。その先にある、誰かがすでに踏みしめた大地を目指して。
何を手に入れただろう。きっと、何も手に入れていない。
どこへ至ったのだろう。きっと、どこにも至っていない。
けど、何かを見つけた。きっと、言葉にならない何かを。
ただ願っただけ。
手を伸ばしただけ。
愚直に進んでみただけ。
それだけで、きっとどこにでもたどり着ける。
まだ見えない、その向こうまで。
どんなものも掴む手と、どこへでも向かう足と、何かを願う心をもって。
ほら、どこへ行こうか?
少女たちの言動がとても好みでした。
設定とか取り込ませてもらいます\(^o^)/
なんとなしに空に上がって、そこには何もなくて、でも、それでよかったんですよね。最高でした
戦闘描写も詰まることなく頭に入ってきて、地上にたどり着けるのかとハラハラしながら読めました。六ボスの風格を感じさせるお空をしりぞけさせちゃう一面コンビ強い。
よき地底組で楽しめました、ありがとうございます
良かったです