私が初めて人間に会ったのは、忘れもしない、突然のある日の事である。
悪魔の館、紅魔館。その地下深くに据えられた小さな部屋に、私ことフランドール・スカーレットは住んでいた。
物心ついたころから過ごす幽閉の毎日に楽しみなどなく。朝日も昇らなければ月光も沈まない自分だけの空間には、昼夜の概念すら存在しない。ただ起きて、見飽きた天井と壁に囲まれながら、衝動のままに暴れ、壊し、そして眠る。幾度となく繰り返すサイクルに終わりは来ず。あの頃の私に生きている実感を与えてくれたのは、むせるような血の匂いだけ―――。
―――そんな日々に迷い込んだのは、一人のメイドだった。
ある昼下がり。食後のデザートとして甘味が差し入れられる時間帯。いつもならドアに隙間が少しだけ開いて、垣間見える手が真っ赤なケーキを置いていくはず・・・なのだが、その日は違った。
「失礼いたします。お食事後のディセールをお持ちしました」
慎ましいノック。澄んだ声と共にガラガラと車輪の音を立て、ワゴンを押しながら堂々入ってきたのは、メイド装束が怖い程似合う銀髪の女性。私は一目で、彼女が時々やって来る妖精メイドと違うことに気が付いた。
「・・・・・・誰?」
「新しくこの館のメイド長となった者で、初めてお目にかかりますわ。
どうぞ、お座りください」
そう言って半壊したテーブルを整えると、白いクロスを敷き、小さな皿とフォークを置いて、椅子を引く。その全てが慣れた手つきだ。見ればワゴンの上には、初めて見る色とりどりの果実が溢れんばかりに盛りつけられた、丸い何かが乗っている。
彼女は、銀のナイフでそれを一切れだけ切り分けると、丁寧に小皿の中心にのせた。
「・・・・なに、それ」
「フルーツタルトですわ。具材はイチゴ、オレンジ、桃と葡萄にキウイフルーツ,ブルーベリー。ついさっき出来上がった焼きたてですの。・・・お嫌いでしたら、アーモンドは抜いてしまいましょうか?」
私が絵本で知った名前の半分以上を連ねられ、唖然としている間に、メイドは着々と支度を済ます。気丈な口調は凛として揺るがず、よもや私という吸血鬼を前にしてここまで冷静な態度をとれる者を、私は知らなかった。故に固まり動けずにいるのだが、それに首を傾げてくる始末だ。
怖くないのか。私は疑問に思い彼女の顔を見るも、直ぐに円卓上の宝石が放つ色彩へと吸い込まれた。緑、黄、薄紅、藍、香ばしそうな生地の焦がし色。そのどれもがこの部屋にはない、眩しいくらいの煌きをもって、両目いっぱいに見つめ返してくる。
「妹様?」
「・・・・・・いらないわ。下げて頂戴」
何故、拒んだのか。私にもよく分からない。
多分きっと深紅に染まった私の網膜には、その輝きを受け止めきれなかったのだろう。
皿の上の料理にさえ、住む世界が違う、と感じたのかもしれない。
拒否を聞くとメイドは何も問わずに。そうですか、と言って手早く片付け始める。
その時の表情は少しだけ悲しそうに見えたが、お辞儀をして部屋を出ていく頃には既に、元の端正な顔付きに戻っていた。
「失礼します」
鈍い音を立てて扉が閉まる。
私は忘れることにした。ケーキというのは腐ってしまうから、あのタルトとかいうものも、きっと捨てられてしまうだろう。取り返しのつかないことだが、慣れ切った私は微々程の雑念しか生まなかった。
どうせもう、あの光は二度と戻ってこない。彼女も見ない。
追うだけ無駄なんだ。と、自分に言い聞かせて。
次の日。昨日の稀有な出来事も捨て置き、ようようあの銀色も薄れかけた頃。
コンコン、と再び鳴り響くノックが、私をびくりと震わせた。
まさか。そんなはずはない。
「失礼します」
私の前に二日続けて誰かが現れるなど、今まで一度だってなかったのに。
「妹様、食後のデザートをお持ちしました」
いったいどうして。彼女はまた、ここにやって来たのだろう。
「今日のメニューはプディングですわ。カラメルソース、おかけしますね」
前日と同じく。淀みない手際で食器を並べたメイドは、こちらを見て臆せず言う。あれだけ素っ気なく追い出したのに、まるで気にする風でもない。
対して私は部屋の隅からその姿を眺め、頭を抱えるばかり。
何故またここへ来た?
何故私を恐れない?
何故私に近付こうとする?
何故、何故、私なんかに、今更・・・・
私は初め、ただ不思議に思うだけだった。だが直ぐに、それそのものが質量を持っていることに気が付いたのだ。重い。疑問符に押しつぶされる。分からない。彼女の意思が分からない。彼女の目的が分からない。彼女の一切が分からない。ただ、考えれば考えるほどに、頭痛とは違った憂苦が私を襲う。のしかかるのは、想起する不解への恐怖。
苦しい。苦しい。苦しい―――のだが、どこかにこの感情を受け入れようとする、もう一人の自分がいるようで。最後に残った私自身すら、誰かに支配されてしまうようで。ほんの少しでも耐えがたく恐ろしかった。
故に私は獣のような本能的をもって、それを遠ざけようと。
「・・・いらないって言ったでしょ。早く持って行って」
声を強める。
メイドの手が止まった。が、暫くの静止の後。彼女はやはり何も発せず、淡々と片づけを始める。瞬く間に更地となったテーブルに椅子を戻すと、
「また明日来ますわ。・・・・それでは。」
そう残して。深いお辞儀を遮るように、また扉は閉ざされた。
それからというもの。彼女は言葉通り、連日この部屋へとやって来た。どうにかして私の気を引こうとしているのか、来るたびに手を変え品を変え。またそこが私の気に障る。
勿論、それは私の勝手な僻みであって、彼女は悪くないのだろう。そんなことは分かっている。分かっているはずなのに。自身がとっくの昔に捨ててしまった、諦める、という行為を感じさせない彼女の訪問へ、知らず知らずの内に苛立ちが募ってゆくのだ。
毎日毎日。性懲りもせず―――
「失礼します。デザートのお時間ですわ」
「欲しくないって言ってるのに・・・」
「本日は少し趣向を凝らして、ムースを作ってみました」
「なんで・・・なんで・・・」
「これはですね。ミルフィーユと言って。見てくださいこの断面を・・・」
「あなたは毎日来るのよ!」
「妹様、今日は―――」
「帰って!」
そんな罵声に乗せて放った一振りが、ナプキンを並べていた彼女の真横を切り裂いた今日。それでもなお私を罵らない彼女を背中で見送った後、一人、ベッドで膝を抱えて寝転んでいた。
結局こうなるのだ。私は全て壊してしまう。救いの手を、自ら断ってしまう。
誰も私を助けない。傷つけたくないから、助けを求めることもしない。
だってそうでしょう? 今まで何度だって裏切られてきたのに、突然これまでの不条理をすっきり消し去ってしまうことなど、できるはずがない。悪いのは私一人なの。それをどいつもこいつも馬鹿にするかのようにやって来るから、私の苦しみを理解するなどと軽口を叩くから、いずれ私の憂いは怒りに変わる。矛先のない悔しさに変わる。
今回だって同じ。次はきっと、あの子の喉を掻き切る。貴方はきっと、貴方を抑えることができない。いままでも。そしてこれからも。
私が笑えば誰かが裂ける。私が泣けば誰かが砕ける。私が怒れば誰かが千切れる。
―――だから。だからずっと、私はここに籠って何もかもを避けてきた。望んでもない力に振り回されても、じっと耐えてきた。そうするしかなかった。私が私を受け入れてあげなければ、このかわいそうな悪魔はきっと、本当に壊れてしまうから。
近付かないで。寄らないで。構わないで。私を見ないで。
持てる精一杯の忠告はしたのに、なんで分かってくれないのよ。
腕に入る力が増す。こうして胸を押し殺している時だけ、少し楽になれる気がした。
「・・・・ん」
どれ程たった頃だろう。
柱時計の低い時報に揺さぶられ、私は布団の合間から体を起こす。どうやら寝てしまったらしい。ぼうっとする頭で針の居所を確かめると、八時。既に夕餉は過ぎている。
足を床につけ。ゆっくり立ち上がり、大きな伸び。数時間瞼を閉じていただけなのに、久しぶりに随分長く眠れたような気がした。段々と冴えわたる視界も、まるで一度丸洗いしたかのように、真新しく見え・・・・
見え・・・・
「・・・・・・え⁉ あれ⁉」
―――訂正しよう。それは寝ぼけ眼の幻などではなく、私の世界は明らかに変化していたのだ。それも人目には不思議に思うほど、異質な形で。
「・・・・どうなってるの?」
変わり果てた姿に、ぽかんと開いた口が塞がらない。そこへ
「ひゃ!」
コンコン、と響き渡る木製の快音。最早聞きなれたリズムは、あのノックだった。
「―――え⁉ え⁉ なんで⁉」
不意打ちに狼狽える。だっていつもならそれは昼食後、三時を前にした辺りで聞こえるはずの音なのだ。よもやこんな時間にそれを耳にするなど、初めての手前思いもよらなかった。いや、それ以前に気がかりなのは・・・。
音の主は直ぐに入っては来なかった。私からの入室の許可を待っているのだろうか。
色々焦った結果。兎に角まずは、赤く滲んだ瞼をこすって誤魔化し、深く深呼吸。落ち着きを取り戻してよく考えることに決めた。体に酸素が回ると、思考も変わる。
そうとも、まだあのメイドと決まったわけじゃない。先を思い出せ。あれだけ手荒に振り切られて、また訪れようなどと思い付くはずもないじゃないか。・・・・そう。きっと私はまだ夢を見ているに違いない。この妙な景色も全部幻で、ちょっと欠伸でもする束の間に消えてしまうのさ。
と、そんな結論に至ったころ。二度目のノックが等間隔で響く。
「・・・・開いてるわよ」
「夜分に失礼致しますわ、妹様」
「・・・・!」
この一週間足らずで馴染んでしまったのか、少しも耳に触らない彼女の挨拶を聞いて、私はようやく目が覚めた。そして、これは都合の良い夢などでは無い、としかと悟った。
綺麗に磨かれた革靴の立てる澱み無い音が、力関係など何処かに蹴り飛ばしてしまったように、私の頭には処刑へのカウントダウンめいて木霊する。彼女が持つ鋼鉄の決意、とでもいうのだろうか。ともすれば、恐怖さえ覚えてしまう足取りに一瞬気を呑まれたことでようやく、逃げられないと思い知ったのだ。
私はもう、その歩みを阻もうとは思わなかった。向かい合い、問わなければならないと、始めて感じた。
最早時間などどうでもよかった。あと少しでその身が二つとなる所だったというのに、平常を装って戸を叩き、彼女はここへ来た。その姿を見ていると、私の底に溜まったドロドロの感情が酷くちっぽけに感じてしまうほど、疑問が大きく、大きく膨らむ。
本心が分からないのはこれまでと同じ。なのだが、寝起きの気怠さがそうさせるのか、まるで胸の内が空気の抜けた風船のように萎んでしまったようで。あれほど嫌悪を催した彼女の一手一足を見ても、ベッドの縁にぺたりと座り込んだまま動けずにいる。あるものと言えば、突き動かされるような使命感のみ。
これで何回目の、『なぜ』だろう。
知りたい。聞きたい。でも私から近付けば、どうなってしまうか分からない。
口をもどかしく開いては、塞ぐ。そんな事を反復しているうちに、彼女は丸いテーブルの上に支度を整え終え、私の拒みすら待つことなく、軽い会釈を経て元来た道を戻り始めていた。私は選択を迫られたのだ。
勿論即決などできるはずもない。『それ』は私の過去を否定し、まっさらにして底無しの愚かさに身を投じることだと知っているから。ここから一歩踏み出すだけでも、昔時に積み重なった苦しみの全てに、向かい合わなくてはならないから。
躊躇い、戸惑い、迷い、揺蕩い。今度は遠ざかる彼女の足音に駆られ。
「では妹様、私は・・・・・」
―――それでも、それでも。残された唯一の扉が閉ざされてしまう、その刹那に。
「待って!」
私は、自分の掌で『いままで』を壊し。
瞬きほどの時間へと、手を伸ばす事を選んだ。
「・・・・・・はい、何でしょう?」
「あ、えっと。・・・・一つ 聞いてもいい・・・かしら」
「なんなりと」
突然かけられた私の声に少し驚いた様子ながら。すっと姿勢を正すメイドに、私は急く気持ちを一度撫で下ろし、大きく深呼吸してから。
「あなたは、私が怖くないの?」
「殺されかけたのに、私が憎くないの? 」
「あんなに酷く追い払われたのに、私を嫌いにならないの?」
「どうしてあなたは、毎日毎日、こんな私の所へやって来るの?」
口が開くに任せて、思うがままをぶつけた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
返答はない。彼女は、たどたどしく言葉を紡ぐ私を見つめ、黙りこくる。
静寂に脅され、もしや何か不味いことを言ってしまったのだろうか、と不安になった。何しろ人と面向かってまともに対話するなど、これが何十年ぶりだか分からないのだ。仮にグラマーから間違っていても気付きようがない。
緊張でごくりと喉が鳴る。そして、それを見計らっていたかのように。彼女は貴婦人のような含みで笑った。
「ふふ、嫌ですわ。私が何故 妹様を嫌わなければならないのです?」
「え・・・。だって、私はこれまで散々―――」
「はい、追い払われました。時には全て支度を済ませてから、時には顔を見ただけで門前払い。・・・・でもそれは全て、妹様の目にかなう料理をお持ちできなかったのが原因。私が至らなかったせいでございます。それをどうして、妹様を責めることができましょうか」
あまりにも嘘のない、澄んだ口調。彼女はおそらく本心で言っていたのだろうが、私にはそれが想定外だった。建前やおべっかなんかじゃない、彼女が真に願っているという事実に、不安が許容量を越えて積もる。
「・・・・分からない、分からないわ! どうして? あなたは私に殺されかけたのよ? それなのにまたここへ来るなんて、私の前に現れるなんて信じられない! お姉様への忠義か何か知らないけど、くだらない、くだらないくだらないくだらない! そんなもののために命を投げ出すなんて、どうかしてるわ!」
「・・・怯えて、いらっしゃるのですね」
「―――そうよ、だからあなたを助けたかったのに。苦しいのは私だけで十分なのに!」
私は叫びの裏に、遥か昔日を思い出していた。この地下室に幽閉された、忌まわしき日を。
その時。幼い吸血鬼は、姉の言葉に逆らうことができなかった。こうなる未来を予想する想像力に欠けていたからではない。自らの姉を絶対だと信じて、疑わなかったからだ。
では結果はどうであろう。ひと時と窘められてから、もう幾年が過ぎたか分からない。私は騙されたのか? たった一人の家族は、自身の安全を確保するためだけに私を犠牲にしたのか? 私はいつ外に出られる? そもそも姉は今、哀れな愚妹のことを覚えているのだろうか?
・・・・・・そんなことはどうでもいいのだ。どれだけ考えたところで、今の苦しみからは救われない。それが、私がこの暗い地の底で学んだ数少ない知恵だった。ただ一つ分かることと言えば、あの日、姉に従ったからこうなった。という事実だけである。
それでよかった。私一人が全部背負えば、姉と、姉を慕う者たちは救われる。幸せになる事はなくとも、不幸で汚されることはない。そして、私にはそれを背負うことができた。いや、この力は背負わされて、誰かが負わざるを得なかったのだ。ならば嫌われるのは、憎まれるのは、私だけで良い。何度も何度も胸に刻んで、耐えてきた。
―――なのに。私は全てを諦めたようで、やはり、捨てきれなかった。どれだけ努力しようと足掻いても、しなければならないと吠えても。血の涙を流しながらではない笑顔で笑う自分を、夢から追い出しきれなかった。
「うっ・・・、ううっ・・・」
気付けば、少女は顔を抑えて咽び泣いていた。姉を肯定できない自分と、否定しきれない自分。私を殺しきれない私と、私を生かしきれない私。どっちつかずな心に挟まれ、行き場を失った。
暫くして。閉ざされた視界に、声が差す。
「――妹様」
「・・・・・・」
「妹様」
「・・・・なによ」
「妹様は、私のことがお嫌いですか?」
「・・・・・分からない。もう自分でも、何が何だか分からないのよ」
「私はそうは思いません。一介の従者がする駄推ですが、妹様は私を遠ざけてくださった。それはきっと、自らの力を危惧してのことではありませんか」
「・・・・だったら、何で―――」
「私も、同じだからです」
「・・・・・・え?」
「そう。私と妹様、どちらとも相手を嫌いではないんです。よく分かりませんが、誰かを嫌う事はそう簡単ではない、ということなのでしょう。それこそ身を引き裂かれかけた誰かのことも、自分を理解してくれない誰かに対しても。私達は自然と、どこかで信じる気持ちを捨てきれないのですよ」
「・・・そんな、こと・・・」
「ですから私は、妹様が一メイドを案じてくださるのと同じように。とある屋敷の主が、唯一の妹を大切に思うのと同じように。仕える身として、己に出来る事をするべきだ。そう思っただけでございますわ」
「・・・・・・だから、ここに来たっていうの?」
「はい。お嬢様は私に、『料理を運べ』とは命じませんでした。賜ったのは妹様の話を聞いた時に一言、『あの子が求めるものになってくれ』という言葉だけ。私は至らぬ従者ですから、お嬢様の真意は測りかねましたが、やはり正しかったようです」
「だってようやく。こうして妹様の方から、お声をかけて頂けたんですもの」
私は、私は、声が出なかった。というより、その先の言葉を知らなかった。というのが正しいだろう。
「・・・それが、全部? 貴方の理由の全て?」
ようやく絞り出した問いに、彼女は何も言わず、にこやかに微笑む。その笑顔を作っているのは、一人のメイドと、私が終ぞ消しきれなかった姉の影。残酷なほど優しく、胸が張り裂けそうなほどに締め付けられる、嫌いになれない誰かの願い。
―――ああ、思い出した。あの日お姉様は・・・・・・
いつの間にか解けていた両手に、溜め込んだものが軒並溢れ落ちる。するりするりと頬を伝うそれは、自分でも驚くほどに透き通っていた。胸中はぐちゃぐちゃに入り混じった感情でごった返していたが、それでも今までの泥々としか感覚ではなく。もっと無垢で澄んだ、例えるなら絵本で読んだ青空の色、とでもいうのだろうか。私はまだ見たことが無いけれど、たぶんそうに違いない。
メイドは再び背を向け、扉に手をかけた。
そして後ろ目に私の不安がる表情を捉えたのか、振り向くと
「甘いものに紅茶は欠かせません。直ぐに、淹れてまいりますわ」
と一言の後、彼女は指を唇の前で立て、そうだ、と付け足した。
「実は私がここに来た理由は、もう一つあるんですよ」
「・・・え?」
「妹様にはまだ、私のデザートを食べて頂けていないでしょう? それがこのメイドの身には、たまらなく悔しいのですわ」
小さなウインクを挟み。緩やかに、温かい音を立てて扉が閉まる。
あそこへ手を掛ける日が、ほんの少しだけ、近付いたような気がした。
「ふあぁ・・・、いい匂い・・・」
温まった白いポットに、コポコポと心地よい音で熱湯が注がれる。立ち込める湯気が茶葉の香りを巻き込み、蓋が閉じられる僅かな時間に部屋一帯を甘く満たした。
気付けば椅子に腰を掛けテーブルに向かい合っていた私は、血みどろだったこの部屋に染み入る初めての香りを、思い切り鼻で頬張る。その度に零れる溜息を聞いて、メイドは普段ならワゴンの上で済ませる作業を、私の好奇心のために逐一前で説明してくれた。
「ベルガモットの香りですね。これは高温に熱すると、特に香りが立つんですよ」
「直ぐに入れないの?」
「ええ。紅茶は蒸らす時間が重要なんです。種類によってまちまちですが、この種類なら二・三分ってところでしょうか。少々お待ちください」
「へぇ・・・。ただお湯を注ぐだけに見えて、結構手間がかかってるのね」
「ほんのひと工夫が美味しさの秘密ですから。ではその間に、メインをご用意しましょうか」
彼女はワゴンに手を伸ばし、大皿を一枚手に取ってテーブルに置く。それから私の前に小皿を一枚と、フォークが並べられた。
「さぁ。こちらが本日、私が腕に寄りをかけて作った一品ですわ!」
美しい宝石を思い出して高鳴る私を察してか。彼女がノリノリで開けクロッシュの先には、
これまた劣らぬ輝きを放つ、例の『あれ』。
「あっ! もしかしてこれって・・・」
「はい! ストロベリーを中心に、ブラック、ブルー、ラズ、クラン、グース。ありとあらゆるイチゴを使った、ミックスベリーのタルトです!」
眼前に広がるカップステージに所狭しと敷き詰められた果物は、濃淡をもって赤という言葉を飾り、私の知るレッドの定義を広く塗りつぶす。脳に焼き付くは恒星のような煌きと、粉雪に似たパウダーシナモン。相関図では同じ色のはずなのに、今まで食べてきた血の色ケーキとは違い、もっとこう、新鮮な艶が前面に浮き出ているのだ。
「・・・す、すごい! 私の羽の赤よりずっと綺麗だわ! これあなたが作ったの⁉」
「お褒め頂き光栄です、妹様」
生き生きとした得意顔が素敵に光り。鮮やかな手付きでカトラリーを繰ると、サーバーきっかりに切り分けられたタルトが小皿に添えられる。八等分になってなお見劣りしない色の均衡からは、計算尽くされた彼女の技術が伺えた。
涎が垂れそうなほど欲していて。要するに私は今、釘付けなのである。
「い・・・・、いいの? 食べても」
「どうぞどうぞ。お気の済むまま、がっついて下さいまし」
「そ、それじゃあ。・・・・いただきます」
感謝をしっかりと述べ、小さなフォークに手を伸ばす。芸術品じみた完璧な一切れを傷つけてしまうのがもったいなくて、私は第一刀をどこに入れようか迷ったが、やはりここは先端から。恐る恐る狙いをつけ、ゆっくりと振り下ろした。
そして私は、数多のルビィが乗った一欠片を、口へ運び
――――噛み締める。
「んんっ!」
放り込んだ途端、口に広がるは強烈な酸味。鼻腔を貫いて弾ける刺激が通ったかと思えば、後を追って来る柔らかい甘みでそれを包み込む。嚙むほどに溢れる果汁は、総じてくどくなく。何種類もの甘酸っぱさが織り重なっているが、一粒一粒の存在を決して忘れさせない。生地のサクサクとした歯ごたえも心地よくて、幾らでも食べられる食べられる!
・・・・・・とまぁ、これは後に何口も食べてから気付いた感想。実際の私は食べた直後、頭の中が真っ白というか、真っ赤に染めあがって。
「どうですか? ・・・・お口に、合いましたでしょうか?」
「・・・・・・・しい」
「はい?」
「おいしいっ! こんなっ、こんなおいしいもの食べたのっ! 生まれて初めてよ!」
その一言を発して、夢中でかぶりつくので手一杯だった。
「まぁまぁ、それほどまでに気に入って頂けるとは・・・・。メイド冥利に尽きますわ」
最早形が崩れるのも、口元が汚れるのも構わず。咽そうになりながら私は一心不乱に咀嚼を続ける。苺ばかりではない酸味が鼻に上り、キュウっと締め付けられる度、私はお腹の底から満たされるのを感じた。黙って食べ続けるのは口がふさがっているのに加えて、この感動をふさわしい言葉で表せなかったから。まるで永い永い空白を越え、495年前に止まった時が再び動き出したような。そんな感覚だ。
しかして一瞬。そう、まるで彼女が先ほど、言葉通りに瞬きほどの時間で帰ってきたのと同じく。タルトは私の前から姿を消した。
「そんなに慌てなくても、おかわりはまだたくさんありますから。落ち着いて食べてくださいな」
私の口元を拭いた彼女はそう諭して、鮮やかな筆細工の入ったティーポットに手をかけると、カップへ飴色の液体を流し込む。爽やかながらコクのある芳香は、確かに淹れた時よりも濃厚になっていた。
「熱いのでお気をつけて」
取っ手を利き手側に。丁度口の中を潤したいタイミングで出された一杯は、メインよりも自信がこもっているようで、従者たる彼女の『らしさ』が良く溶け出ている。
「ふー。ふー。・・・・んん~~~~」
火傷しないよう少しづつ啜ると、すぐさま舌の根に香ばしさがのしかかる。濃い味かと思いきや、口の中を支配していた酸味に当たれば、中和するようにスッと消えた。しつこさを感じない風味は、熱さに構わず二口三口と促すのも当然、それどころか益々食欲を刺激してくれる。地味な色で派手さはないが、タルトの味を引き立てるにはうってつけの役者だ。
「あぁ・・・、おいしい・・・。こんなにおいしい食べ物があったなんて・・・」
「その紅茶はアールグレイ。香りがきつくなってしまうため、一般にはアイスティー向きとされていますが、上手く淹れればホットでも抑えて飲むことができるんです。温めると余韻もが増して、味わいも一層深くなりますし。それに・・・・」
「――ふふ、あなたは本当にいろんなことを知ってるのね」
「あ、・・・・すみません。嬉しくて、つい舞い上がってしまいました」
「ううん、とっても面白いわ。私の知らない事ばかりだもの」
本当に申し訳なさそうに謝るメイドを羨み、紅茶を飲み干す。新円のテーブルの上に、ほうっと長いため息がついて出た。
「あなたはすごいのね。物知りさんだし、綺麗なタルトやお菓子も一杯も作れるし、紅茶だってこんなにおいしく淹れられる。どうやったのか分からないけれど、この部屋をきれいに掃除してくれたのもあなたでしょう? まるで魔法使いみたいね」
「いえそんな・・・、メイド長を務める者として当然のことですわ」
「・・・・私とは大違いね。おんなじ魔法でも、私は壊すことしかできないもの」
「妹様・・・・」
「大きすぎるだけで何も出来ない。こんな役に立たない力を持っているくらいなら、お茶の一杯でもおいしく淹れられた方が、よっぽど素敵なのにね」
漏れる息に乗せてか。茶と興が冷めるだけの話だと分かっていても、意図せず皮肉を口にしてしまう。こんな、彼女を困らせるだけの愚痴が。くだらないネガティブが。
メイドは空になったカップに再び紅茶を注ぎ、口調をはっきりさせて言う。
「それは違いますわ。私にだってできないことは沢山あります。逆を言えば、妹様にしか出来ないこともある、ということもあるはずです」
「・・・・私にしかできない事かぁ。あるのかな、そんなの」
「妹様は素敵なお方ですもの、きっと見つかりますわ。この命に賭けて誓います」
一点の濁りなく。まるで自分の事のように胸を張って言い切る彼女を見ると、なんだか悲観的でばかりいる私が、酷く馬鹿らしく思えてきて。笑いが込み上げてくる。
「うん、ありがとう。えっと・・・・、あなた、お名前は?」
「これは失礼いたしました。私は咲夜、十六夜咲夜ですわ。どうぞよろしくお願い致します、妹様」
「―――咲夜、咲夜ね。いきなりなんだけど、二つお願いがあるの。いい?」
アールグレイの水面に映る金髪を暫く眺めた後。私は咲夜の方を向いて、訪ねた。
「・・・・あのね。私にも、この紅茶の淹れ方を教えてくれないかしら?」
「紅茶の淹れ方、・・・ですか? しかしそれは・・・」
「うん。こんなこと、私の立場で頼むのは可笑しいって分かってる。けど、もしかしたらそれで、私にしか出来ないことが見つかるかもしれない。見つからなくても、何かヒントが得られそうな気がするのよ! だから出来れば、色んなお菓子の作り方とかも教えて欲しいの」
変わりたいから。そう思って行ったつもりなど私には無かったが、彼女には、咲夜には秘めたる思いとして伝わっていたのかもしれない。
「・・・・・・分かりました。妹様がそう望まれるのなら、私に止める理由はありません。この十六夜咲夜に可能な事であれば、一より十まで まるっとお教えしますわ!」
「ありがとう咲夜! ・・・・それで、もう一つのお願いなんだけど・・・」
私は少し言葉につっかえて。恥ずかしさで少し目線を伏せながら。
「私のこと、ね。妹様じゃなくって、フラン って呼んでくれない?」
そう言うと、銀色を羽織った顔はここ一番の驚きを見せたように、目を丸くする。細い手で隠したかと思えば、とぎれとぎれな失笑が聞こえてくる。
「ふ・・・ふふ、ふふふふっ・・・」
「ちょ、ちょっと! 笑わないでよ! 私だって恥ずかしいんだからね!」
「はー。申し訳ありません。ただちょっと思い出してしまって」
「むぅ・・・。何をよ」
「はい。本日のタルトに使われているのですが、フランス語でラズベリーのことを、『フランボワーズ』と言うんですよ。いやはや。まさにぴったりデザートのだなぁ、と」
「それは確かにぴったりだけど、・・・・なんだかちょっとむず痒いわ」
おいしいおいしい。と、さっきまでの誉め言葉が自賛に思えて、少し変な気分。
―――けれど。私もこの苺のみたいにたくさんの仲間に囲まれて、綺麗に着飾って、優しいメイドの魔法にかけられて。誰かが感動してくれるなら、それでもいいかな、なんて。そんなことを思うと、両の頬が薄紅に染まるのを感じた。
「分かりましたフラン様。今後とも、よろしくお願いいたしますわ」
「うん。よろしくね! 咲夜!」
―――初めて呼び合う名前が、温まった心にするりと触れる。
私はその温もりを壊さないように。ぎゅっと、胸の前で握りしめるのだった。
「あ! でしたらこのタルト、『フランドールスペシャル』と命名しましょうか!」
「え、いや。それは・・・・だいじょうぶ。恥ずかしくて死にそう」
葛藤するフランドールがかわいいかわいい……。
とってもよかったです。
普段美鈴が解放役なのばっか読んでるけど咲夜さんがやるのも良い。
咲夜さんは天然であるべき。
特に咲夜さんに対する4つの質問や、思い悩むもう一人のフラン。
上手く作られているなぁと思いました。