私はもっと有意義な人生を送りたい、と古明地さとりが書き置きを残して家出したのは執拗に迫る悪徳の編集者から逃げ出すためで、別にゴミ溜めに棲むことを望んだためではなかった。
ゴミ溜めに棲むことが有意義であるかどうかは諸人の判断に任せるところであるが、床に捨てたバナナの皮にたかる小蝿の多さを鑑みるとあんまり良い気分ではない。
こういうバナナの皮なんてやつは、地霊殿では幾らポイ捨てしてもお燐が掃除してくれたので、さとりとしてはこんなバナナの皮が未だに自分の足元に残っていることが許せないのだが、自分は家出をしたわけであって、旧都の賃貸コーポに閉じこもっているのも編集者の探索の眼から逃れるためであって、お燐という目立つツレを連れてくるわけにも行かないのであり、じゃあ自分で掃除をしなければいけませんね、なんてお高く考えてみるのだが、結局ほおっぽいたまんま放置なのだから、小蝿がたかるのも当然なのである。
そもそも恨むべきは編集者のやつだ。小説を書き始めた時分には「大先生の才能は雲より高いですわん、パルパルしちゃいますう」とか甘え声で擦り寄ってきたくせに、今では「あんたに依頼した三文小説、○月×日から広告うつんで適当に脱稿しときなさいよ」と、これである。適当に脱稿? 許されるのか、そんな台詞は。敬意もへったくれもない。こちとら、そんなスカタンな依頼なんぞは受けるなどと一言も言っていないのだ。然るに書翰で送ってきた依頼を既成事実だとか正当化して、まるで書かないやつが悪いとばかりの強弁で、もはやムチでも持ち出しかねぬ編集者に、ほとほと嫌気の差したさとりは家出をするほかなかったのだ。
んで、旧都に逃げた。六畳一間を借りて、そこに潜んだ。籠城のために買い込んだのは山のようなバナナ、さとりも一応は猿の妖怪なのでバナナさえ在れば生きていけるのだ。だが如何な好物とて中身はともかく皮まで食うわけにもいかず、自然とバナナの皮は床に放られる。けれどお燐は不在であるため、床はバナナの皮だらけ。皮で六畳一間が足の踏場もなくなったところに、どこからか小蝿が入り込み、さぞかし良い餌場と認識した御様子で、我も我もとどんどん増えた。今や、さとりの体積よりも小蝿どもを総じた体積のほうが多いのではないかと疑わしいくらいで、この部屋はもはや小蝿に占拠されていると言っても過言ではなく、するとこの部屋は人や妖怪が棲むはずの部屋とも呼べぬのでは在るまいか、腐りかけのバナナの皮がそこかしこに転がっているゴミ溜めとでも呼んだほうが殆ど自然であると、かくして、その結論に至った。
こんな部屋では横たわって眠るスペースもないので寝るにはハンモックを用いている。本来ならキャンプみたいで快適なのだろうが、この部屋は小蝿がぶんぶん煩くて、夜にも朝にも眠られやしない。さとりの繊細な頭脳には睡眠時間が一日十五時間は必要なのだが、ガサツな小蝿どもはおのれらが飛ぶことの喧しさを知らぬ御様子で、あっちでぶんぶんこっちでぶんぶん、おはようぶんぶんおやすみぶんぶん、匂いにおもむろな小蝿臭が纏い始めたところで我慢の限界というやつが訪れて、ウッキイィと猿っぽい叫びをあげて小蝿どもを追いかけ回していたところ、大家がきた。大家は小蝿を追いかけ回しているさとりを狂者かそれに準ずるクズとして認めた様子で、とあれ当月の賃貸料を請求してきたわけなのだが、その額面金額は前もって聞かされていたものよりもだいぶ多い。ちょっとお高いんじゃありませんの、おほほ、おほほ、と上品っぽく問い質してみれば、大家は一言に迷惑料だと言う。小蝿が隣室にまで来て苦情が来ているとのこと。
だが小蝿に悩まされているのは当方も同じである。連中が押し寄せたことについては連中の勝手であって、文句を言われる筋合いもないわけで、寧ろ前述の物質体積的に考えれば部屋の主は彼らであり、さとりなんぞただの居候に過ぎず、できれば賃貸料も連中から――などと、高説をぶってみせたら頬をぶたれた。痛い。痺れる頬を抑え、何が起こったか分からないと無垢な少女ふうに眼を丸くしてみせたら逆の頬もぶたれた。これも痛い。言わばアウチな痛み。
何と暴力的だろうか。暴力には差し伸べるべき手が無い。大家が一体全体何を考えているのやら分からんようになったさとりは、とりあえず読心してみることにした。するとただたださとりに対する忌避的な感情が読み取れるばかり。何故にここまで嫌われたのだろうか。一月前はこの男は自分の小説のファンだと口も頭もそう言っていたはずが、全く酷い心変わりだ。男が少女にこういう残酷な心変わりを味わわさせるのは性交の前と後の態度の違いだけで充分なはずである。
ともあれビンタされたので、さとりは意趣を持った。仕返しとばかりに床にヌメるバナナの皮の腐ったやつを拾い、相手にぽいと投げつけた。フライング・バナナ、ウィズ・フライ。その悪臭漂う投擲に大家が怯んだものだから調子に乗って二投三投と繰り返したわけだが、どうやら大家も怒り心頭に発したらしく、スッと右前遇に屈んでさとりの懐に入り、両手で肩と前袖を掴み、裂帛の気合と共に膝のバネを跳ねさせた。一本背負いだ。このままではバナナの腐った床に――と、そう思ったのも束の間、大家の眼目は窓だったらしく、やんぬるかな、さとりは窓硝子に背中からぶち当てられた。ガシャンと頭の中がヒビ割れたような音が聞こえて、背中のバラバラになるような抵抗を覚えつつ、外の道端へ破片と共に投げ出された。地べたに転がると、割れた硝子の破片が肌身に重なりジャリと音がした。痛みに悶え苦しむさとりに二度と来るなというようなことを大家が叫ぶ。さとりとてこんな暴力行為が罷り通るコーポなどもう御免だ。テリブルテリブル。
髪に混じった硝子を振り払いつつ、さとりが蹌踉と上体を起こすと、道には三輪車に乗った見知らぬ童女が居た。褐色の侮蔑した眼でこちらを見ている。何の用だとばかりに読心を試みたところ、どうやら汚らしいゴミが行く手に突如現れて不快であるとのこと。自分のことかしらん。汚らしいって自分のことかしらん。ウキキ。生憎、自分はゴミではない。ゴミ溜めに暮らしていたヤツが全員ゴミ呼ばわりならば幻想郷はゴミだらけだ。憤慨に感けた不安定な情緒は、およそ理性を蔑ろにし、ちりちり疼いて堪らない背中も乱暴なフラストレィションを助長させ、その挙句、さとりは薬缶みたいに逆上した。「どいつもこいつも嘗めやがって!」と喚き散らし「そっちがその気ならこっちにも考えが在りますよ!」と雑言を叫んで強襲する。その分別のない剣幕に怯んだ童女を押し飛ばし、その三輪車を持ち上げて、一気呵成、割れてない窓へ目がけて投げ込む。アジタートな破砕音が近隣に響き、僅かな静寂、大家の怒声と童女の啼声が後に続いた。
さとりは高笑いのスキップでそこから立ち去った。もうこんなところに用はないのだ。
□
コーポに財布を置いてきたことに気付いたのは旧都の繁華街に差し掛かって、やれ何か食べようかしらんなどと袖を探った時であった。財布が無いということは金が無いということと等しく、また金が無いと飯も食えぬという死活に関わってくる。無一文の前途は暗闇の豆電球ほどに暗い。かといって三輪車をぶちまけたあのコーポに戻ることは気が進まず、一本背負いなぞよりもっと酷いことをされてしまうことが予測され、涙を呑んで財布を諦めるより無かった。
かくして素寒貧な状況に陥ってみると、皮肉にも、美味そうな芳香が四方八方から鼻を引くようになる。雑踏豊かな旧都の繁華街は食事処も多く、ハンバーガー、フライドチキン、ドーナツ、牛丼――。外の世界では廃れつつ在るファストな店が軒を連ねている。地下という場所柄どうしても薄暗さを被る旧都にて、連中は、少欲知足を旨とする仏様が一度目にしてブチギレそうなほど無節操に電気を用い、電球だらけの看板をキンキラに輝かせてストリートを彷徨するハングリー・アニマルズを吸い寄せんとしていた。アンド・ゴッド、アイ・ノウ、アイム・ワン。さとりは牛丼屋に入った。彼女もまたハングリーな獣だったのだ。そんな奴輩を引き寄せてしまう看板を出していた牛丼屋が悪い。安んぞ許せしか、だらあ。
ワン・オペレーションの店員が中ほどに立っている∪型カウンターの末席に座ったさとりは牛ねぎ玉丼アタマの大盛を注文した。十二の蛍光球が吊り下げられた店内は地下であることを忘れるほどに明るく、文化の結晶たる人工灯の光は木目の基調したカウンターを照らしており、そこは滑々として清掃が行き届いている。壁は橙と茶のタイル模様で、その上手にはお持ち帰り可能との木札のほか、牛皿、味噌汁、玉子、半熟玉子、お新香、サラダ、とメニュー札が並んでいる。貼紙は朝定食のメニューを映した写真をポスターとしたものであるが、生憎と今は朝ではない。その上の時計の針は十七時を示している。
その秒針を眺め、それが三度回転した時分に、トンと丼ぶりが置かれた。肉マシマシの牛丼だ。それと……後からネギと玉子が別鉢で差し出されたので、それを迷うこと無く牛丼にぶっかけて、箸でごしゃごしゃして口にかっこむ。美味い。どうしてこんなに美味いのか。ここ一月、バナナしか食べてなかったからかしらん。舌を撫ぜるは玉子とネギと甘味ダレの肉、それらを白米が纏めて食の快楽が躍動する。美味い米だ。まるで水みたく喉を潤していく。それと肉だ、肉が良い。誰だサトリはバナナだけで生きてけるとか言った莫迦は。肉が無けりゃ、肉が無けりゃ、全部骨じゃないか。牛肉バンザイ。牛丼バンザイ。あと、このしゃごしゃごの歯応えときたら、もう、ネギ一番だ。玉子のコクと、合う。すこぶるマッチしてる。喩えるならリズム・アンド・ブルース。ネギのリズムに玉子の持つブルースがセッションしてる。とても良い気分だ。おほほ。おほほ。笑いが溢れちゃう。
たちまちに完食し、空の丼ぶりを前に、爪楊枝を咥えながら、さとりは金銭的な解決を施さねばならぬ事態に在ることを自覚した。
だが問題ない。多少の金であれば適当な奴輩から寸借してしまえば良い。全く好都合なことに、さとりはサトリなので読心が使える。これでそこいらの連中の秘密を知り、それを暴露すると脅して、寸借を要求するわけだ。幸いにして牛丼屋には五人ほど男の客が残っている。しめしめ、と読心を試みた。カモにするなら間抜けが良いというのは当然だが、それと丁度良いくらいの秘密を持っている奴が良い。脅しても動じてもらえぬ秘密では意味がなく、また逆に、脅したら命を狙われる系の秘密でも困る。ほどほどで良いのだ。それと詐略を働くのだから、もちろん相手は御一人様でなければならない。
そこでさとりが見出したのは、会社の備品をこっそり家へと持ち帰っているらしい営業マン・ヨシノである。さとりは爪楊枝を吐き捨てて彼へと歩み寄った。
「ヨシノさん」と、柔和を装って声をかける。
「はあ」
「貴方、ヨシノさんでしょ」
なるたけ馴れ馴れしい口をきくのがコツだ。相手に会話の体裁を取らせねばならない。
「えっと、どちら様でしたっけ?」
「誰でも良いでしょう、そんなこと。それより、五ドル貸してくれません?」
「えっ? 何それ。何であんたに?」
「貴方の部署の上司、トイレットペーパーの減りが早いの気にしてますね」
さも見ていたが如くピンポイントで、彼の鼻先に脅しの指尖を突き付ける。
「な、何だよ、あんたは」
「いつぞやの朝礼なんて酷かったでしょう。物凄い剣幕でした。持ち帰ってることバレたら良くて減俸、悪くてクビ」
「しょ、証拠は在るのか」とヨシノの抗いに、さとりは鼻を鳴らした。
「黙れ、私はサトリだ。お前の会社で暴き立てるぞ」議論は無用とばかりに、さとりは声のトーンを剣呑にした。相手の顔が蒼白したのを確認し、すぐ柔らかに戻す。「噂になってしまえば部署も貴方をマークするでしょうし、もう二度と『節約』はできなくなるでしょう。だから、ね。良いじゃないですか、ここで五ドルくらい。嫌な目で見られるよりはずっとマシでしょう」
するとヨシノは観念したように五ドル札を財布から取り出した。奪うようにして取り上げる。薄汚れたオネスト・エイブ。電光に掲げれば透かしが在り、偽物ではない。
そのまま会計も終えたらしいヨシノがそそくさ逃げるようにして立ち去るのを尻目に、さとりは人生の勝利者の声で「御勘定」と告げ、会計処理のためかレジをカタカタやってる店員にエイブ札を差し出した。彼は億劫そうに告げた。
「牛ねぎ玉丼アタマの大盛、五ドル八十セントです」
「なるほど」足りなかった。
だがこんな時にもさとりは慌てない。くるりと周囲を見渡した。店内の誰もが顔を背けるが、そこは嫌われ者・サトリの宿命というやつ。仕方ないじゃん、足りないんだから。
ところが口を開きかけたさとりに店員が続けて言った。「五ドルで良いです」
「おや」
「その代わり二度と来ないで下さい。サトリが来る店って噂が立ったらヤバいんで」彼は殆んど無感動に告げた。
なるほど、尤もなことであった。世俗にて嫌われ者と定義付けられている『サトリ妖怪』が来るような店には誰も来たくないだろう。先程の如き寸借やら恐喝やらを、いつされるか分かったものではない。
ともあれ、それを無遠慮に指摘する店員の物言いには、さとりとて機嫌を損ねた。その鬱屈した感情を精一杯に表現せんとしてエイブ札を掌中にてグシャグシャに丸めて店員に投げつけてやった。流石に放擲は予想していなかったのだろう、店員は躱すこともできず、その札クズは額にコツンとぶつかって床に転がり落ちた。驚愕、そうして屈辱に歪んだ双眸。だが、殊勝なるかな、店員は文句の一つも零さずに膝を屈してそれを拾った。
かく嘲弄を与えたものの、それで溜飲が下がるでもなし、さとりは大股に牛丼屋を出た。雑踏の中に紛れ、ネオンとアルゴンの明暗世界を歩む。周囲にてんでバラバラな灯りが纏うも、気分はちいとも明るくならない。くさくさする。いったいどうして牛丼屋になんぞ入ったのか。むさくてダサくて、さとりみたいな少女には相応しくない。そもそも地霊殿ではお燐が作った御飯を食べていた。なら、お燐が牛丼を作りゃ良いのだ。ついでに、こいしを連れて迎えに来てはくれまいか。
――と、そこまで考えて、さとりは人波の停滞も顧みず足を止めた。こいし、こいし! こんなチンケな人工灯のそれではなく、例えば夜道に在りて袂に宿る月光を幾重にも重ねたような、その茫乎たる笑顔よ! 想起した途端、会いたくて会いたくて堪らなくなった。もう一月も会っていない。昂ぶりのあまり「お姉ちゃん」と幻聴が聞こえた。返事をしてやりたいのは山々であったが、その声に返事をすることで、頭のおかしい方々の仲間入りと成りかねぬことは知っていた。
鬱々として俯きがちに地べたを見れば小石が在った。パレイドリアの錯覚か、眼に似た模様が浮かび上がる。だが、こんな砂利と眼を合わせるつもりではなかった。大地にだらけて転がって、笑いもしなけりゃ泣きもしない、かくなる小石がこいしの代わりになるものか。常日頃より思いがけぬ行動でさとりを楽しませてくれる、そんな甲斐性も在りゃしない。こんな愚かな小石など、こうしてやる! と、勢い込んで蹴飛ばすと、その軌道の先にはトランクを片手に持つ男が居た。白いスーツに厳つい肩幅、角刈りに揃えられたその両側頭には、明らかにヤバいことに、象牙色の角が生えている。
あ、これは思いも寄らぬ、とさとりは思った。
そのまま小石は後頭に、カツンと小気味良い音を立てた。くるりと首だけ振り返る、彼の表情は、さとりがこれまで見たことの在るどの鬼よりもぎんぎらな表情をしていた。
ああ、ああ、こいつぁ思いも寄らぬ、とさとりは思った。
彼が身体を返す、それと同じ仕草で、さとりも踵を返した。何故だろう、動作が妙にスローモーションを帯びている。後方からの圧倒的な熱源というか迫力というか、莫大なエネルギーに背中が煤ける。周囲が凍て付き寂び返る、その世界の中心でさとりは「うるぅあぁぁ」と叫び、全身の血液を下半身に送り込む心地でフル・スロットルに走った。その疾走は脱兎の如く、距離にすると、まさかの二メートル。人垣が邪魔。あえなく襟首を捕まれ、力任せに人通りの皆無な裏路地に引っ張り込まれた。その最中に「まさか空間能力者!?」とか「誘拐です、ロリコンです、どこかに優しい○TA会長はいませんか」などと騒ぎ立ててみたが、鬼は煩わしい羽音の蝿を見る目をして、さながら洗濯物の水気を飛ばす時の仕草で、力任せにブンブンと襟首からさとりを揺さぶった。外部膂力的なヘッドバンギング、純粋な暴力のグルーヴに当てられて、さとりは借りてきた猿のようにぐったりした。
ふと気付けば周囲は誠に物寂しく、ゴミ箱やらが無造作に置かれており、その薄汚さときたら鼠、百足、土蜘蛛などが徘徊していそうなほどの不衛生な路地である。
「許して下さい、許して下さい」と、さとりは哀願した。「えへ、えへ、そうだ、鬼さん、女の入用は如何ですか。こちとら電話一本で用意できますよ。スタイルの良い猫とおっぱいの大きい烏ならどっちが」
「うっせ」
「はい」
この間、さとりは読心を試みていた。突破口が在るかと企んで思念したわけであるが、彼の心は殺意に溢れており、そこに付け入るべき酌量は無かった。さとりは売られて行く牛のように惨めな気分になった。
「オイ」と鬼が話しかけてきたので「YES?」と淑徳に返事をするや否や、その右腕がぶうんと振られ、さとりは「NOOO!」と丸めた塵紙さながらに吹っ飛ばされた。ほぼ直線の放物線、巨大なブリキのダストビンに直撃して、生ゴミを撒き散らしながら眼をくるくるに回した。ポーンと跳ね跳んだ蓋が、ちょうどさとりの頭に被さってくる。この臭い帽子はお洒落かしらん、などと愚にも付かぬことを思っていると、鬼が話しかけてきた。
「サトリはさあ」
「はあ」
「最近の旧都ってどう思う?」
んだよ、知らねぇよ、と反射的に言いそうになった口を噤む。
彼は旧都に何らかの思い入れを持ってそうな口振りでは在るが、心を読もうにも莫大な怒りのエネルギーが邪魔するのであって、何を応えれば彼の意に沿うのだか、さとりにはさっぱり分からなかった。
「まあ旧都は幻想郷の広い地底世界に存在する都で、そもそも地獄の一部だったのが切り捨てられて、そのまま廃墟になるはずのところに、皆々様が住み着いて今の状態に至ったわけで、住めば都と申しますが、されど地獄で在りまして――」
「どう思うんだよ」
「いやあ、もう、ザ・都なのかなって。ザ・旧い都なんだろうなあって」
頑として肯定にも否定にも回らず、当たり障りのないことを言って相手の反応を伺う。……そのはずだったのだが、鬼は殊更に不機嫌そうな顔を浮かべた。
「旧いって? サトリは今の旧都に旧き良き時代が残ってるとでも言うのか?」
「いえいえいえいえいえいえいえいえ、そうであって欲しかったなって、そう思うわけですよ。もう何なんですかね、あの莫迦みたいな光の氾濫は。イルミネーションってんですか、もうね、最悪ですよ。ケバケバしいし、眼は痛いし、地底の旧き良き風情ってもんをぶっ壊してますよ。行きたい住みたい暮らしたいって気持ちがまるで起こらない。言っちゃ悪いですが、こうも低俗になってるとは思いませんでした」
ラッパのように、さとりは口上した。鬼の表情が少しだけ和らぐ。
「そうだよな。あんな太陽を莫迦にするみたいに光を溢れさせるのは良くねえよな。まったく。んでさ、サトリはこの界隈を仕切ってる奴のことをどう思った?」
「まあ莫迦ですね。どんなに控えめに言おうと、それは間違いない」
「本当にそう思うか?」
「本物の莫迦です。寧ろ、頽廃した現状を生み出した諸悪の根源ですね。この場に居たら貴方よりも先に手が出てしまうかも知れませんよ、私は」
力を込めて言うと、鬼は低い声でぽつりと言った。
「この通りを仕切ってんのはうちの組長だよ。サトリはよ、はっきり言って、たとえ折り合いが悪かったとしても、仮にも盃の親のことをボロクソに言われたら子はどう思うと思う?」
「いや、それは私が莫迦だといったのは、この発電の原因となった連中のことでして、守矢とかいう地上のギャングらしいのですが、それはさておき実際に経営していらっしゃる組長さんはとても商売上手な御方だと思いますよ。正直言って、その点には猛烈に感動しました。今時ね、こんな人通りの多い繁華街なんて持ちたくたって持てませんからね。大変な御労苦が在ったに違い在りません。働き者ですよ。素晴らしい」
つらつらと口から出任せを語ったところ、鬼は「働き者? サトリはあの姉御を働き者っていうのか?」と言って喉をヒク付かせて笑った。
「まあ、あのそれは、あの組の事情もあるのでしょうけど、でも、ほら、組長さんはっていうか、貴方の組はじゃあ、お金持ちなんですね。私なんて今は素寒貧ですからね。うわあ、羨ましい、パルパルしちゃいますう」
などと、焦って喋り続けるさとりを遮り、鬼は「だからこんなクソみてえな金額の電気料金を払わなきゃなんねえんだ」と激しい感情の昂揚を露わにして、その片手に持っていたトランクを地面に投げ出した。
彼自身の、それは、赫怒の表明だったのだろう。だが乱暴に扱われたトランクは、暴力を浴びた御嬢さんが貞操を許すのと同じく、自ずから開いてその中身を晒した。
溢れ出た百ドル札が中空を舞う。一枚、二枚、もう数えられない。その惨憺たる有様に、鬼は、自分が仕出かしたことのくせして泡を食った。その光景はあまりに莫迦で滑稽で、内心では大喜利の観客のように嘲笑ってやったのだが、もちろん鬼の前で実際に嗤う挑戦精神など持ち備えておらず、それよりもこの事態を打開する手段を探すべきであって、慌てて中身を拾い集める鬼を尻目に、さとりは周囲を見渡した。
ゴミ箱がひっくり返ったせいか生ゴミが散乱しており、破けたビニール袋を筆頭に、魚のアラ、沢山の卵の殻、貝殻、野菜の皮、果物の搾ったカス、バナナの皮、多量の食い残しなどが、さとりの周辺には満ち満ちて、それと手の届く範囲に逆さまになった大きなダストビンが在る。ああ、これで良いじゃん、なんて考えて、さとりはダストビンをおもむろに手に取って、無造作にそれを振り上げ、札の収集に気を取られている鬼の背後から肩口に被せた。「ンだらあ」と、鬼は叫び、さとりの居た方向に襲いかかった。もちろんそこには生ゴミが。バナナの皮を踏んだ鬼は喧しい音を立てて転んだ。慌てて立ち上がろうとするも、狭所空間で平衡感覚が損なわれた様子で、ころころとゴミ箱と身体を転げさせて悶絶している。ここに至り、さしもの鬼も状況の拙さに気付いたのか、どうにかゴミ箱を脱ごうとしているが、その両側頭に伸びた角が変に邪魔して脱げないようだ。「ぐぎい」と、鬼が喚いている。その間、さとりはトランクを閉め、その短い腕で抱え込み、臭い帽子の被りを整えてその場をスタコラした。後ろからまた物凄い音が響く。転んだようだが、さとりの知ったことではない。
かくして思わぬ臨時収入を得た。たぶん数千万ドルは入っていようトランクの重みに、使いみちへの空想が捗る。さとりとしては、こいしが喜んでくれるようなことに金を使いたいものだ。
ともあれ、こいしは何と言うだろうか。
『プリン百万個?』なかなか可愛らしい。
『札束プール?』セクスィな感じ。
『お姉ちゃんとのメイク・ラヴ?』ムーディなベッドとか、アロマも良いわね。
「泥棒はいけない事よ?」こいしはそんなこと言わない。
『お金じゃ買えないもの?』それはちょっと……どうしようかしらん、とそこまで考えて、さとりは素ン晴らしいアイデアを閃いた。そうだ、プラネタリウムだ! 地下に育ったあの子のために疑似星空をプレゼントしてあげよう!
そうと決まれば急げや善なり。さとりは旧都の観光案内所でタバコを吸ってた婆ァに訊いて、地底に都合良く存在しているらしいプラネタリウムへと向かった。
□
さて、その施設は旧都の郊外に存在していた。
踏み心地の良い煉瓦敷きの最深部、道の中央に設置されたコペルニクスの座像が来訪者を迎える。右手にコンパス左手にアストロラーベを持ったその彫像は二メートルほどの台座から偉そうに人々を見下して厳しく口元を結んでいる。蓋し、自分こそが天文の真理を知り、またその精神は宇宙の高みにこそ在るという、およそ地に足が着いていないアストロノマー特有の増長という悪癖を揶揄しているのだろう。
また、その左手に開けた庭園には『Man Enters the Cosmos』とかいう糸楊枝だか日時計だかの銅像が立っているが、これがまた製作者の正気を疑うようなモダニズム作品であって、どうせどこぞの無名なゲージツ家が虚栄を求めて作ったに違いなく、さとりはそれを指差して「おほほ、御覧なさいなアレを、おほほ」と御上品に嘲笑してから、真正面の建物へと足を進めた。
そこから幾段かの階段の先に続く本館は正十二角形をした物珍しい形状で、その上にはこれを土台としたドーム屋根がデデンと屹立している。それなりに大々的な屋舎であるものの、傍目には随分と奇妙な意匠が施行されており、本館の後方半外周位が外界の太陽光パネルに近似した構造で囲われているのだが、太陽の昇らぬ地下世界に在ると、そのデザインはもはや虚誕とでも評さざるを得ない。いっそ場違いとの印象をすらさとりに抱かせたが、近くの看板によるとこの建造物は外界の著名な建物を模したものであるとのことなので、無駄も承知、出費も当然、雰囲気重視の虚飾構造とでも呼ぶべき代物なのだろう。
さとりは大股でマーブルの階段を登り、枡目格子の硝子戸を押し開いた。内部は縦幅さとり十人分くらいの広々とした空間で天井からは火星や土星など惑星を模した子供騙しの球体が吊られていた。随分と世俗的なデコレーションであるが、そもそもここはそういうファミリーでのアミューズメントを主眼とした施設であるようで、やたらめったら観光客が多い。そこいらを走り回っている小動物どものせいで足の置き場すら無いくらいだ。
ともあれ有象無象のガキらを蹴飛ばしつつ、さとりは受付の前へと突き進み、優待チケットを差し出しているバカップルを押し退け、いかにも阿呆っぽく眼をキョトンとさせる受付女の眼前にトランクを置いた。
「プラネタリウムを貸し切りたいんですが」
「は、はあ?」
「おい、俺らが先に並んでたんだぞ」
「煩い、私にはプラネタリウムが必要なんです」と、さとりはそう言って、煩い小蝿を払う仕草をした。
それで尚も喚き散らすバカップルどもに閉口しつつ、トランクを開いた。満たされた百ドル札のお目見え。その威光にはバカップルも静まり返り、そのマネーパワーの放射の直撃を浴びた受付女は喉をヒク付かせて恐縮した。
「ヒッ、ヒエッ」
「プラネタリウムを貸し切りたいんですが」と、さとりは同じ言葉を口にした。
同じ口上を繰り替えすというのは、相手をかなり莫迦にした態度であるが、実際この受付女は何ら対応できないお莫迦さんなので仕方がない。
「わ、私の一存では」
「じゃあ、責任者を読んで頂けますか」
「それも、その、私の一存では」
前言撤回、お莫迦さんどころかナメクジレベルの低能だったらしい。皆目として話の通じぬ感覚に、さとりは相手に軽侮をすら禁じ得なかった。
「貴女の一存では何が可能なのですか」
「チ、チケット、売ってます」
ああ、そうなの、ってんでさとりは失笑しつつ、トランクから札束を一つ取って相手の莫迦面へ目掛けて投げつけた。妙にコントロールが正確になってしまい、彼女の鼻梁にベチと当たる。すると存外に痛かった御様子で、その甚大な悲哀の感情を読心するまでもなく、受付女は眼にじわり涙の膜を作り、さながらスヌーピィのコミックみたいに上を向いて大口にワアと泣き始めた。莫迦ほど声が大きいというのは巷間にて広く知られているが、どうやらそれは事実であるらしい。
その泣声に周囲がざわつき始め、さとりを非難する声が口々に上がり、また警備員が駆けつけてくるのが視界に入った。公衆的劣勢に立たされたことを悟り、さとりはトランクを抱えて逃げ出した。すると当節では全く無関係だってのに喜々として追いかけてくるヒマな正義漢が多いもので、さとりは「何もしてない。触ってませんよ。そんな追いかけてくるなら、もう線路ですよ。線路ですよ。とにかくワタシはやってない」などと無意味な言葉を騒ぎ立てながら懸命に走った。
ロビーを抜けた先、駆け足の視界に入ったのは、天井一杯の『窓硝子風』の電灯に照らされた天の川のパネルであった。七夕記念とのことだが、流し見た限りでは大して珍しくもない、単に赤外線カメラで撮影された星々の遠景だ。その写真では南斗六星や散光星雲がそれぞれ多様な色彩を放っているが、あれらの光が肉眼で観測される頃にはその大方の色彩スペクトルが渾然として銀白の漢(かわ)と映るのであって、これを評して太古の連中は『銀漢』などと称したそうな。
おほほ、何て知的なんでしょう、大作家さとりは博識なのです――などと莫迦な倨傲に精神を浮つかせたのは、とうとう両足の乳酸が限界を超えたためであった。
鉛さながらに重い足を蹌踉めかせ、追いかけてくる連中をチラと見やれば、その多くが警備員ではなく正義面をしたいだけのパンピーだ。
ならばいっそ話は簡単なわけであって、彼らが持つ目先の欲望を正義感から逸らしてしまえば宜しいのである。現状を鑑みるに、この場は金をバラ撒くのが良いだろう。
そう思うが早いか、さとりはトランクの百ドル札束封を三つほど切り、背後に向かって投げ散らかした。ミルキー・ウェイを背景にして、平べったいベンジャミン・フランクリンの大群が中空をひらりひらりと遊泳する。
「わあ、金だ」
「百ドル札だ」
そう背後で騒ぐ声が響き、足を止める阿呆と止めない莫迦がぶつかり合って圧し合って、無関心だった者達さえ百ドル札掴み取り大会に参加し始め、この施設の平穏を護らねばならぬ警備員らはその収拾に追われる羽目となった。
それら総てに乗じて、さとりはまんまと逃走に成功した。追いかけてくる者はもはや皆無だった。こうなってみると何だか淋しい気もするが、ともあれ、まだ逃げ切ったと安堵すべきではない。
連中がさとりの追跡を諦めるまで、どこかに身を隠す必要が在るだろう。眼前に続く、そのSFチックに曲線めいた廊下には、もはや人っ子一人いなかった。
一体どこに続く通路なのかと壁を見やれば、そこには『Atwood Sphere is here』と書かれたパネルが嵌められている。
歩道はやがて開けたフロアとなり、その中央には、天井からの強光電灯を浴びた丸っこい形状の構造物が認められた。亜鉛メッキの薄板で構成されたスフィアだ。側部のアンクルに設置されたガンギ車がギコギコ回るのに合わせて、軽く浮遊したそのスフィアも僅かずつ自転の趣きを示している。その様相はまるで宇宙空間に浮かぶ惑星のようで、デザインのアイデアとしたら陳腐この上ないものであったが、過ぎ去った時代の風情を醸す芳香が感じられ、さとりはフラフラとそれに歩み寄った。するとそれが単純な球体ではなく、斜め下背部が平面断に切り取られた丸壺型の構造をしていることが分かった。内部は空洞で、設置された籠型リフトに乗ればスフィアの内層に潜り込むことができるらしい。
つまり、きっとこれは一種のアトラクションなのだろう。
「ああ、これこれ、これですよ」と、さとりは独り言ちて、手すりをひらりと飛び越えて籠の内部に乗り込んだ。近くのスイッチを操作すると、無機質な機械音がリフトの起動を知らせ、籠は緩々した調子で上昇を開始する。
しめしめ巧く行った――と。さとりは、俗世の悪徳を丸ごと包括した御上品を口元に弾ませ、ウキキと笑った。後は、ほとぼりが冷めるまでこの中に隠伏すれば良いだろう。
リフトが上昇するに連れて、さとりを乗せた籠はスフィア内部に飲み込まれて行った。外界と隔たれ、周囲は次第と薄暗くなっていく。やがては暗闇に、と、そう思ったのも束の間、朧げな光源に迎えられる。三つ在る眼を凝らして見るに、内部が完全な暗闇へと移行しなかったのは、どうやらそのスフィアの外殻に施された細工のためであるらしかった。スフィアの壁には数ミリほどの無数の細孔が開けられており、それが薄闇にこそ映える条々の光線を数多と漏らしているのだ。それも人工灯そのものな均一色ではなく、その細孔内部には光線の射出を搾る絡繰が備わっているようで、それぞれの微孔に発する光粒子は極小のチンダル現象に揺らめきながら個々に特別な彩りを呈していた。
それは明らかな『芸術性』を企図されていた。
よもやこれは――と、さとりがスフィアの本義に気付いた、ちょうどその時、リフトの上昇がガクンと止まった。籠の中心に佇むさとりの正面に煌めくは赫灼たる光彩。蓋し、これぞベテルギウス。半歩下がって遠見に望めば、そこには偉大なるオリオンの形状、その細孔の配列は精緻である。とすれば細孔の布陣は実際の星々の位置を模したもので、このスフィアがアンクルによって自転させられていたのは、単なる造形美というよりも、星の巡る転遷を簡易的に呈示する機能的な仕組だったのだろう。つまりこの場は、極めて原始的な、プラネタリウムなのだ。もちろんここにはさとりが居るだけなので貸し切りも同然なわけで、「なるほど、万事めでたしってわけですね」と、さとりは満足気に独言した。
そうと分かれば実に心地が良く、頭から爪先まで綺羅星を模した光彩に包まれるのは、まるで星空を冠する『地上』に居る気分であって、地下妖怪にとっては垂涎この上ない情景を独占しているのであるから、その悦楽も一入である。
さとりは眼を閉じ、軽く呼吸した。外の世界の緊張を解き、ただその全身を覆う星空に精神を集中する。やがて眼を開いた時には星空はよりリアルになっていた。今や、さとりは地底を抜け出でた――その妄想に浸っていた。妖怪の山の清澄なる空気に包まれ、足下には群生した風蘭、南の夜風は万緑の大地を清籟とし、そのリナロール性フレグランスをさとりに届ける。肌に纏わる青々とした湿気は昼の陽射しの草熱れだろうか。それに汗ばむことはなく、ただ全身の感覚は却って弛緩させられた。さとりは眼を見開き、星空にその短臂を広げた。空一面に広がる大パノラマは天を分する星河であった。夜闇の合間を埋め尽くす乳白色した光粒子はミルキー・ウェイの美称に相応しい。かく星群の華々しさを、その煌めきの風靡たるを、無機質な赤外線カメラで如何して伝えられようか。その迫真は肉眼で眺めてこその好適であった。遙かなる太古より尊ばれ、また親しまれて来たこの天文は、その圧倒的な美の迫力によって万人に夢幻を抱かせてきたのだ。あれは幻想そのものであり、星光の降り注ぐここはきっと幻想郷だ。その中心に在りて、さとりは畏れ多くも銀漢という玉冠を頭上に被ったような気分になった。ブリキの蓋? 横ちょにポイである。気を取り直し、さとりは夜空へ向けて口を惚けさせた。可憐なサトリ妖怪から、幻想への、あえかなキッス・アピールだ。飛泉の如くに降り注ぐ穹蒼からの光線を、その敬意がために、自身の内々へ迎え入れてやりたくなったのだ。口に注ぎ込まれたその光は仄かにバナナっぽい味がした。
だが、ふと、物足りなさに気付く。
その認識は、すぐに、この類稀なる幻想を曇らせてしまった。だから、さとりは急いで対処せねばならなかった。彼女を、この場所に、出現させなければならない。「こいし、こいし」愛しい妹の名前を、さとりは口ずさんだ。「こいしや、こいし」その思路は全くクレイジィだったが、家族への、伴侶への、ペットへの、そうして生きとし生ける者への、愛情という感情に内蔵されし、まさしく不朽たる真髄に肉薄した領域を、この時、さとりは確かにまさぐっていた。「こいし、こいしや」身悶えの声が風蘭の花園に響く。「恋しや、こいし」無論、さとりは妹のことしか考えていなかっただろう。だがその衝動は、この世の森羅万象を包括する温もりへの獣めいた口付けに等しかった。
さとりは再び眼を閉じて、深く呼吸し、また開いた。
すると開眼した途端、上下の区別が曖昧となった。足が頭側に浮かび上がったような、奇妙な浮遊感に、流石のさとりも周囲を見渡す。驚いたことに、彼女は六合ぐるみ星辰の宇宙空間に漂っていた。振り放け見れば蒼翠なる宝石さながらの我が母星、どうやら地上を飛び越えてしまったらしい。すぐ背後には黄色いリボンのダービーハットを被った月の姿……ふと、その月が振り返ると、裏側には愛しいハルトマン少女の顔が映っていた。
『ヤッホー、お姉ちゃん』
「あら、あら、こいしったら、そこに居たのね」
「私、ずっと後ろに居るのよ」
こいしの目鼻はどこか朧げで、それでも穏やかな微笑をさとりに向けてくれたので、さとりは嬉しくなった。
「御覧なさいな、こいし。インターステラー・お姉ちゃんよ」
そう言って、さとりはZERO・Gの空間でゆったりとムーンサルトしてみせた。
『お猿さんみたいね』きゃらきゃらと、こいしが愉快そうに笑う。
さとりは調子に乗って曲芸さながらに一層くるくるしてみせた。しかし、何事にも限度が在るようで、慣れぬ無重力で無茶をしたツケか、不意に悪心を催した。
慌てて口を抑え、どこか休める場所は無いものか見渡すと、すぐ横を先程まで被っていたブリキの蓋が漂って行く。さとりは、貧弱な半規管を多少なり保護するため、それを取って腰元に敷くことにした。せめて何かに座ったほうが安定するはず――と、そう考えたのだが、ブリキの蓋だって別に何かに固定されているわけではないわけで、結局、一緒になってふよふよと漂うばかりだ。……強堅な地底が今は少しだけ懐かしい。
さとりは地底の遥か彼方にて、ブリキの蓋に座っている。こいしは仄々とした金色の月光を放射して全身を愛撫してくれるが、当のさとりはそれを甘受することしかできない。「こいし、ちょっとこっちにいらっしゃいな。お姉ちゃんが頭を撫でたげるから」
『わあい、嬉しいな』と、こいしは嬉々としたが、すぐに憂いの表情となった。『でもね、お姉ちゃん。月って自分の力じゃ動けないのよ。共通重心を目安にして、ただ地球の周りを無意識に公転することしかできないの』
はてな、と訝しむ。ここはさとりの幻想世界だというのに、その妄想の中ですら彼女の無意識は牆壁となるのか。而して、遼遠なる距離を相隔てなければならないのか。これでは地霊殿(ふだん)と変わりないではないか。
それを思うと、途端に、煩悶が生じた。どうにかして、月となった妹にキスの一つくらいしてあげられないか。できるならば、この手で抱きしめてあげられないものか。
猿猴取月と嘲笑われても良い。宇宙の暗闇に溺れて喘ぎ、それでも彼女を愛するのだ。そんなことくらい、当然ではないか。私は、こいしの、お姉ちゃんなのだから。
そう決意するや、さとりはブリキの蓋を鳥の羽根みたくバタつかせ、こいしの元へ行かんとした。短い両足を振って、身体を伸ばして。それでも互いのスペースは縮まらない。
「こいし、待っててね」
『わあい、わあい、お姉ちゃんが来てくれる』「ダメだよ、お姉ちゃん。危ないよ」
「うふふ、そんなにはしたなくはしゃいじゃダメよ」
『だって嬉しいんだもん』「お姉ちゃん、後ろ見て」
何故だか、こいしの声は切迫していた。それでも、さとりは後ろを顧みない。進むことが愛の証明であれば、振り返ることは愛の浮気であるのだから。
やがて……背後から雷にでも打たれたようなバチッとした痛みに、一瞬何が起こったのか分からず「ウキイィアアアァ」と喉の限り悲鳴を上げた。
どうやら後頭部を殴られたようで、鈍い痛みが後追いに続き、脳がガンガンする。頭蓋と脾腹を庇い『海老のように丸い体勢』を取るものの、さとりの腰背に無慈悲なストンピングの雨が降り注いだ。蹴点の数からして、相手は明らかに一人ではない。多分、五人は居る。こんなの卑怯だ、アンフェアだ。こっちは脆弱な少女妖怪だというのに、これでは息すらできやしない。このままでは衆寡敵せずの言葉通り、惨めな敗北を喫してしまう。
さとりは歯を食い縛り、この状況を打破するための秘術を放つことにした。その名も奥義『Getting wild with our Koishi(周囲の敵が全員こいしに見えるの術)』である。
「うふふ、こいし、ッ、お姉ちゃんと遊んで欲しいのね」そう告げ、さとりは微笑した。「ッ、でもねこいし、お姉ちゃんのね、ッ、背中はね、トランポリンじゃないのよ」瞼が痙攣する。限界が近い。「あら、ッ、次はプロレスね。プロレスごっこするのね。良いわ、こいし、好きなだけ遊んだげる」その空想の内に、激痛が苦しみなのかどうかも分からなくなって、とうとうさとりは気絶した。薄れ行く意識の中で『焼きそば食べたい』と、こいしの声が聞こえた気がした――。
□
「おかしいですよ、さとり様!」
「あらあら、大騒ぎね」
「騒ぎもしますよ。だって、こんな台詞、脈絡が無いじゃありませんか」
そう言って、猫耳をヒク付かせながら苦言を呈するのは地霊殿のペット・火焔猫燐だ。両サイドに編み込まれたプラットと髪帯がトレードマークの可愛らしい火車である。
「そもそも焼きそばを食べたいって仰ってるのは現実のこいし様なわけでしょう。なのに、この小説の中のこいし様にまで『焼きそば食べたい』って言わせちゃったら、全然何のことだか分からなくって、読者の方々は戸惑っちゃいますよ」
ふんすふんすと猫っぽく鼻息を荒くし、お燐は懸命に諌めの言葉を口にした。彼女は忠直な猫であるから何かが間違っていると気付いたらすぐにこうして忠告してくれるのだ。
そういう存在は、クリエイターにとって、甚だ得難いものである。
さとりは母情豊かに微笑してそれを受容しつつ、手元のフライパンの焼きそばが焦げ付かぬよう炒めていた。厨房にはソースの香りが充満している。
「この『Getting wild with our Koishi』って奥義?だって何が何だか良く分かんないですし、やっぱり書き直したほうが良いですよ」
「うふふ、お燐。貴女の心配も分かるけれど、私の話も聞いてちょうだい」
コンロの火を消し、フライパンから焼きそばを大皿に移し替えつつ、さとりは告げた。
「純文学ってのはね、とっても難しいの。何せ、難解なものほど評価されるんだもの。だから、こういう読者を飽きさせない独自の『文法』ってものが必要なのよ。ストーリィなんてどっちらけでも構わないの」
「おかしいですよ、そんなの」
「かもね。けど私には世界を改善するつもりなんてないわ」
悲痛に眉目を曇らせるお燐を尻目に、さとりは大皿を伴ってリビングへと戻った。食卓ではこいしがさとりのことを待ちわびていた。
『わあい、焼きそばだあ』
『嬉しいな、ありがとうお姉ちゃん』
『お姉ちゃん、大好き』
『アイ・ラブ・マイ・シス』
『あねじょ、ごっつぁんでごわす』
五人のこいしは口々に喜びの言葉を口にした。妹達の歓声に、さとりは嬉しくなって、おほほ、おほほと笑った。そんな折、金髪緑眼の編集者が実に単調なムジークで唱いながらリビングに入ってきた。
「怠ける作家は裸にするぞ。書かないのならぶっ殺せ。たかが文者だ、たかが文者」
唐突に入ってきた彼女は旧都『道水橋』の出版社に勤めている、この上なく凶暴な女担当、その名を水橋パルスィという。生きながらにして鬼女となった身の上であるというが、口元など牙でギザギザしており、生来の鬼より余程と鬼っぽい。作家への態度は強硬にして過激であり、いつの日か自分はこの強硬な編集者に食い殺されるのだろうな、などと、さとりは思わぬでもないのだが、原稿を終えた今日ともなれば彼女の何を怖れることが在ろうか。
さとりは諸手をパンパンと鳴らした。
お燐が静々と前に出て、原稿を彼女に差し出す。パルスィはそれをパラパラと捲り、眺め見て、やがてその牙の並んだ口元を三日月型に撓ませて告げた。
「大先生の才能は月より輝かしいですわん、パルパルしちゃいますう」と、どうやらお気に召したらしい。
すると五人のこいしもパルスィの傍らに進み出て、唱い出す彼女と共に合唱した。
「喜べ、読者達よ。作家センセが脱稿した。作家センセが脱稿した」
ああ、ああ、素晴らしい心地だ。かくも全人的なる幸福の詰まった地霊殿を、何を勘違いしたのか、さとりは逃げ出したのだ。
どうしてだろう――と、我に返りて因果を辿れば応報たると心意が告げた。
さとりの心の片隅には常に苔生した堕落がぶら下がっている。さっさと振り払ってしまえば良さそうなものを、自分が自分で、そこに手が届かない演技をする。夜になるとそれは一層重くなり、いかにも苦行とばかりに煩悶してみたりする。机の前で、それを巡り巡っているのだ。だから遂には騙された。騙されたのだ。深夜に昂る妄執はいつもさとりを誘惑し、妄想させ、中途まで良い気分にさせておいて最後には必ず掌を返す。裏切るのだ。
そもそも有意義な人生への渇望など言訳に過ぎず、畢竟、視野の広さ次第ではないか。
なのにこうして真夜中の衝動に一度従ってしまうと、もはやそれの取り返しが付くことはない。分かるだろうか。何も彼もを嘗めていたのはたぶん自分自身だったのだ。
そんな夢をみた。
さとりは目蓋の下の暗闇で覚醒した。幸いにして戒めは施されておらず、床に転がされたまま放置されていた。頬に当たる石床の触感は硬くて冷たく、あと土足の匂いがする。
ともあれ起き明けに眼を開かなかったのは好判断だったはずだ。気絶に至った経緯を思えば、今も、さとりを殴った奴輩が周辺に居るのは間違いない……と、その殺伐めいた推測には確信が在ったのだが、さても周囲からは誰の気配も感じられなかった。例えば呼吸音や身動きから生ずるノイズ、或いは心音など、それに類する物音の一切がまるで聞こえてこない。まさか囚われた末に独房にでも放り込まれているのかと、飛躍した焦燥に襲われて、右眼を限りなく薄目に開いてみたところ、まず視界に入ったのは巨大な液晶TVで、それは五メートルくらい離れた壁の内部に嵌め込まれていた。映し出されている映像ビジョンは太陽を中心にして九つの惑星が巡っているもの――子供騙しの雑な3Dグラフィックだ。TVの周辺には多様なテーブル&チェア、間遠の壁際にはケーキ屋に在るようなショーケースが設置されていた。その中身はエッグマフィン、チョコマフィン、ナッツビスケット、スポンジケーキなどで、その上に置かれた案内紙によれば、どうやら今夜のデイリィ・スープはターキーとブロッコリーの煮込みであるそうな。そうして、そのショーケースを挟み、三人の鬼が女店員と気の抜けた会話を愉しんでいた。サードアイでこっそり読心したところ、どうやらここは『Cafe Galileo's』という食事処で、連中は空腹なので組長が来る前に腹拵えをしようと『三人分』の注文をしているところであるらしい。彼らには捕虜を放置するという明白な怠慢が見受けられるが、ともあれ現状さとりの見張りは彼らのみということになる。
食意地への没入というか、彼らのその間抜けな油断は大して長く続くものではないだろう。なればこそ急いで逃走計画を企てる必要が在る。とりあえずさとりは手元を探った。
すると如何なる僥倖たるや――! 件のブリキの蓋が近くに置かれていた。こんなもんを私物と思ったのか知れぬが、それにしても傍らに置いておくなど随分と律儀なものだ。かくも物堅い鬼達には特別な報奨を与えてやらねばなるまい。
そう、例えば確保していた美少女に逃げられる失態など、彼らには相応しかろう。ウキキ。
ほくそ笑み、さとりは蓋に弾幕としてのエナジーを込める。脳符『ブレインフィンガープリント』だ。それを手首の力のみで液晶TVに向けて投げつけた。カツン、と乾いた音を立てて液晶にぶつかるブリキの蓋――一斉に鬼達がそちらを見る。次の瞬間、それは轟裂を起こした。緑色した閃光の放散、中枢神経を痺れさせる『ナイスショット』、この即席のフラッシュバンはオプシンとレチナールの濃厚なイン・アウトを誘起させる。苦悶、呻吟、鬼達(と女店員)が両眼瞼を押さえて狼狽した。次いで液晶TVがジジジという音と共にアークを吹き出し、大スパークしたタイミングでブレーカーが落ちる。停電だ! 地下世界では電気が無ければ一寸先すら闇であり、視覚情報の価値は石ころより安い!
この時点で、さとりは既に起き上がっており、今や逃亡者の体勢を取らんとしていた。
さとりは駆けた。勢いを絶やせば失敗する類いの逃走劇になろうことは分かっていた。一心不乱に向かうはカフェの展望窓、外界への最短距離、頭を庇うようにして前額の前で両手首を交差させ、外へ続く窓硝子に前傾姿勢で突っ込む。鈍い衝撃、薄糸ほどのヒビ、それが亀裂を生み、遂に毀滅音、重力が身体の前のめりを許容する。期せずしてカフェは二階であり、窓の外は中空であった。多少ほど息を飲んだものの、それでも惰弱を圧し殺して身体を前へと傾ける。僅かなれど気後れは身体を硬直させ、地べたにカカトを着かせてしまうだろう。そうなれば衝撃がそのまま両足に集中するため、かくも高所からでは骨折待ったなしだ。さとりは地上を睨み、両脚をムチのように意識し、まずは爪先でつんのめるようにして、そのまま地上にてパルクール・ロールを試みた。背後から降り注ぐ硝子片の雨にも構わず、身を投げ出して転繰り返る。髪の毛に破片が少し混ざったかも知れぬが、うなじから背中にかけてを遣り過ごし、頭を上げたその瞬間からスプリントへと移行することができた。成功だ。成功したのだ。インターステラー的な回転のイメージ・トレーニングがここにきて大いに役立ってくれた。そのまま黒闇に沈んだ煉瓦道を走り行くと、チラチラ明滅が在り、周囲の街灯が恢復する。電気系統が復旧したようだ。眼前の姫立金花の庭園には例の『Man Enters the Cosmos』が見える。つまり、もう出入り口の付近にまで至っているということ。「ざまあみろ、クズどもめ。猿にも劣る莫迦犬どもめ」さとりは走りながら悪態を付いた。
ところが不意に襟首を掴まれた。全速力の、その、真最中だった。流石のさとりもヒヤリときて、疾走の足をもたつかせてしまう。かいなの主は、その動揺を幸いとし、思い切り引き寄せてきて――すると、驚くべき光景が周囲に展開した。まるで壊れたTVのようにぐにゃりぐにゃりと周囲の世界が歪んだのだ。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの星月夜が如く、森羅万象の混沌が渦巻きの様相を呈し、歪みは空間と具象への認識を剥離させた。全身に纏わる冷感は目眩にも似た感覚だったが、やはりそれとは明確に違い、寧ろ、強迫観念に付する嘔気そのものであった。不覚にも、さとりは縮こまって金切声を上げた。上げざるを得なかった。この精神汚涜を浴びたならば、もはや禽獣じみた絶叫のみが自我を持する唯一の手段だった。徐々にその怪奇は落ち着きをみせ、やがて漸く視界がピタリと元通りになった時には、さとりはカフェに引き戻されていた。襟首は無論、拘束されたまま……なれば体良く捕縛されたようだ。さとりはほぞを噛み、呟いた。
「まさか空間能力者……!」
「そうさね」と応ずるが早いか、かいなの主は、さとりを捻じ伏せるように床へと叩きつけて平伏させた。莫迦力に鼻が潰れされる、敢えて言うなればテリブルな痛み。
噬臍して、さとりは相手を睨む。屈強な鬼に挟まれて佇む、その長身の女は、大鎌に青い長裾の着物と腰巻きという平素従来と変わらぬ出で立ちをしていた。両隣に立つ鬼達と比べ、彼女の表情が妙に莞爾としているのは、この一件が仕事を『サボる』良い口実であるからなのだろう。小野塚小町、本職は死神なれど、旧都の鬼を束ねる小野塚組の組長でもある。是非曲直庁の死神が旧都でヤクザの組長を副業としていることに懸念を唱える者も多いが、理屈を並べてみれば何ら不思議ではなく、旧都は知っての通り元々が地獄だった場所なのだから、あくまでもその領域は是非曲直庁の管轄であり、それを治めるために荒くれ鬼どもを統括するトップは組織内部の者が望ましいわけで、畢竟、死神のヤクザ稼業を推奨こそせぬが黙認をというのが実状であった。彼らにとっても利権・甘い汁を思う存分に楽しめるわけで、小町に限らず、多くの死神がこういうサイドワークで金銭を儲けているという。『This is the Shinigami(これこそが死神)』ってわけだ。
ともあれ、さとりは哀願した。この期に至りては、もうそれくらいしか選択肢がない。
「許して下さい。どうか許して下さい。お金は全て弁済しますから」
「いやあ、他人行儀は止しとくれよ、さとりん」と、実に気さくな調子で、小町は言った。「あたいとあんたとの仲じゃないか。あたいらは四季様にお仕えする立場でさ、仲良くすべきなんだからさ、こういうトラブルが生じちまったこと自体が間違いなんだよ。うちの莫迦な連中がさあ」と、軽口の刹那、小町は右に立っていた鬼の頬桁を殴り、また左の鬼の肝臓付近に膝蹴りを抉り込ませた。粘土を潰した時のような音――左の鬼などはその場にうずくまり吐瀉物を吐き散らした。「さとりんに勝手を奮っちまったみたいでさあ、いやあ、悪かったねえ」口先での謝罪を続けながら小町は片足をおもむろに上げて、足元の吐瀉物にその当人の頭部を墜落させるようなストンピングを見舞った。汚いのがビシャンと跳ねたが、さとりは絶句してしまい身動き一つ出来なかった。よくよく見れば、後ろでは三人の鬼――さとりを取り逃した連中――が血みどろの満身創痍にされており、何のとばっちりなのか女店員は素裸に剥かれて、自身の両肩を抱く姿勢でガタガタと震えている。事態ここに至りて、漸く、さとりは気付いた。『サボる』云々は関係ない、この女は笑顔のままでブチ切れている、と。
急いで土下座のポーズを構え、さとりは謝意を重ね示した。「許して下さい、許して下さい」作家のくせに、もうそれ以外の言葉が思いつかないのだから情けない。
「許すさ、許す許す、当然さね」と、小町は蕩けたミルク・チョコレイトみたいに甘ったるい言葉で応じた。
チラと、さとりは上目にその顔を伺う……相手の血紅色の瞳は笑っておらず、慌てて頭部を戻した。
「けどそうさねえ。さとりんがそんなにも申し訳ないって思ってんのなら、このまま口先だけのケジメにしたって、どうしてもシコリが残っちまうかねえ」小町は喉をヒク付かせる笑声を漏らした。「じゃあ、形だけお詫びを頂こうか」
「ええ、ええ、何でも仰って下さい」
すると比較的無事な右側の鬼が、どこから取り出したのか、小町に算盤を渡す。パチパチと、小町は樺珠を弾いた。
「えっとだねえ、さとりん、今計算してみてるんだけどさ、お空ちゃんの原子力発電による電気料金って凄いねえ。ザッとだけど、旧都に流通してる金銭の一%が電気代だけで地霊殿に流れ込んでるよ」
「そ、それは、映姫様が」
「そうそうそう、四季様が決められたことさねえ。電気を使い過ぎることは幻想郷の存在基盤を揺るがすことになるかも知れないから料金を高く設定して制限するって、あのチャーミングな御声と御顔で仰られちゃあねえ、従うしかないよ。四季様が考えなさることは全て正しい。あたいは四季様の忠実な部下だからね」んふんふ、と自慢げに笑う死神に、忠誠ってか性欲だろうよと、さとりは無言のままツッコミを想った。彼女の閻魔への執心は旧都の界隈ですら顰蹙を買って有名だ。「だから電気料金は変えられない。だけどそう、こういうのはどうかねえ。さとりんは今後、今回の件のお詫びとして、地霊殿の収入の九十%をあたいらに上納する」
「……え?」聞き間違いか、よもや聴覚異常かとすら思って、さとりはポカンとした。
「ああ、九十%は言い過ぎた。悪いね、さとりんにも生活が在るもんねえ。八十五%にしとこっか」
はちじゅうごぱあせんと……八十五%?……八十五%?! 凍寒、身を荒びて、たちまち窮する。冷水を浴びたどころか頭から北極海に沈められた心地となり、さとりは泡を食って小町に読心を試みた。結果、それは冗談なんぞではなかった。それどころか、これを断った時に、小町が意図している対応をすら読心してしまい、さとりは背筋から凍り付く思いでガチガチに固まった。彼女は猟奇的な私刑をこそ望んでいるのだ。猿の細切れにされてしまう、あの鋭利なる大鎌で!
「いやね、あたいは常々さあ、さとりんと疎遠過ぎるかなって思ってたのさ。どっちも四季様の直属の部下なんだから、もっと仲良くしなくちゃね。だからこれって、これからの付き合いを深める意味でも、なかなか名案じゃないかねえ」
そう言って、小町は右隣を見た。鬼は慇懃に告げた。「名案かと」
次に、小町は左隣を見た。吐瀉物を拭いながら、鬼が告げた。「め、名案かと」
次いで、小町は後ろを振り返った。三人の鬼達は声を掠れさせつつも、口々に告げた。「名案……です」「……名案です」「……名案……です」
ところが三人が応えても小町は顔を戻さない。暫し沈黙、やがて「女ァ!」と、その場の雰囲気をまさに地獄へと引きずり込む死神の大音声が、さとりの耳を穿った。鼓膜を破れんばかりの質量たっぷりな低音ボイス。
「め、名案ですう」と、女店員が涙と鼻水だらけの顔を一層に湿らせて告げた。
そこで漸く小町が頭を戻した。土下座をしているさとりの前にしゃがみ込んで、算盤をチャカチャカ鳴らしながら笑顔?にて問うてくる。「ねえ、さとりんはさあ、どう思う? これって名案かねえ?」
甘い声音、まるでこの世界の毒を全て流し込んだような飲み込めぬくらい甘たるい声音……さとりは遂にシクシクと涙を零した。「何で泣いてんの」小町の、声の、トーンが下がり行く。「何を一端に泣いてんだよ、さとり、なあ、おい」
その時だった。「止めなさい、小町」と、よく聞き知った声音がカフェに響き渡った。
「あらら、四季様」と、小町が困惑とも嬌羞とも判別できぬ上ずりの声をあげた。「どうなすったんです、こんな旧都に一人で来ちゃ危ないですよう」
先程までの組長としての強面はどこへやら、小町は忠実な死神としての柔和な表情を浮かべ、いかにも健気とばかりの小走りで、その少女の元へと駆け寄った。
「あたい、いつも言っているじゃないですか。旧都は危ないヤツだらけです。四季様みたいな可愛らしい人が旧都を一人で歩いたら、すぐに悪いヤツに拐われちゃうんですよう」
「貴女は私を姑娘か何かと勘違いしているのでは在りませんか」
軽忽を言うなとばかりに眉を寄せ、彼女は毅然と死神に相対した。紺色の上着と黒色のフレアスカート、仰々しい閻魔帽――灼然なる霊験が後光となって燦爛たる、彼女こそは四季映姫、幻想郷の偉大なる最高裁判長(ヤマザナドゥ)である。死神たる小町の上司であり、それと……一応、さとりの上役でもある。そもそも地霊殿は灼熱地獄跡の管理を担う建物であるので、即ち是非曲直庁の下部組織に相当し、そこの主であるさとりは閻魔の指示を拝命せねばならぬ立場であるのだ。
「そもそも私は自分の身ぐらい自分で護れますよ」
「四季様がお強いのは知ってますとも。けど言葉巧みに四季様を騙そうとする悪者も多いんです。だから、あたいが隣りに居る時じゃないと是非曲直庁を出ちゃダメですよう」
御節介者な言葉を並べ立てて、小町は、その莫迦みたいにデカい乳房を覆い被せるようにして映姫を抱擁した。とんでもない色情魔的誘惑だ。あの胸の暴力を見るたびに思うが、男であれ女であれ、あれを為されて劣情を我慢できる者はいないだろう。小町の天稟たる必殺技である。かく彼女にとって唯一の不幸といえば、彼女の愛する相手が石部金吉石地蔵だったことであろうか。
「時に、小町」
「何でしょ、四季様」
懐抱相手の背が自分より低いのを良いことに、小町は相手の帽子を殆んど潰すような頬擦りを施している。ただ凄いのは映姫のほうで、それに全く動じていない。
「貴女に頼みが在るのです」
「何なりと、どうぞ」
「古明地さとりを解放してくれませんか」
「うひゃあ」と、思わず口に出したのは、小町ではなく、さとり当人だった。
思わぬところで自分の名前が出されたものだ。チラ、と見れば、こちらに顔を向けた小町と眼が合う。閻魔への体裁も在ってか困ったように笑っているが、さとりには分かる。あれは、ぎんぎらな血相である。視線だけで殺されそうだ。
かくも部下の反発必至な容喙をしてまで、映姫がこの嫌われ者・サトリ妖怪を救済しようとするのには、さとり自身が面映ゆくならざるを得ない噴飯物のワケが在った。
この幻想郷のヤマザナドゥは、就任当初、さとりのことなど歯牙にもかけていなかった。ただ地霊殿を管理している部下A程度の認識であったと、自分ではそう記憶している。その態度が少しばかり変わってきたのが、さとりの私小説がとある文学賞にノミネートされてからで、澄江堂我鬼賞(通称・我鬼賞)の候補作として文芸雑誌に掲載されたところ、その翌週から『□□ホテルで懇親会です』だとか『料亭○○で勉強会です』などと、業務連絡という名目の誘いが舞い込むようになり、そういう場所での食事は美味こそ相場というもんで、さとりとしてもまあまあ御機嫌だったのだが、その場所で席次が必ず映姫の隣となっていることには困惑せざるを得ず、しかもその席で映姫は『自分は昔から文学には一家言が在る』だの『自分は文芸の守護者である』だの、挙句には『後援会を組織しましょう』などと真剣になって言ってくるので、もはや閉口の範疇に至っていた。
なら映姫様はどんな作家がお好きなんですか、などと媚び諂いつつ訊ねてみようものなら、もう反応が凄いもんで、その長ったらしい口上の真先に名が挙がるのが豊島与志雄だってんだから始末に負えない。いや、もちろん偉大な文豪であるが、そこで好きな作品を訊いてみれば、案の定、レ・ミゼラブルと応える。阿呆かな。阿呆なのかな。幻想郷のヤマザナドゥは著者と訳者の白黒も付かんのだろうか。
ともあれ、その言辞など勘案したところ、結局、映姫は文者の才能を見出す『文芸の守護者』の立場に憧れていることが推測された。確かに豊島与志雄にもそういう側面が在った。だから彼女は必要以上にさとりを大事にしているのだ。その過保護の極めつけが例の間欠泉異変の一件である。自分のペット達が巻き起こした大騒動について呼び出され、さとりは蒼白の顔で映姫の御前に参上したが、彼女から語られたのは電気産業の今後の方針についてのみで、地霊殿管理者としての進退や懲罰に話が及ぶことは無かった。しかも、その時に提示された電気料金が大層さとり優位であったのは、先程の小町の言の通りである。
――恐らく、そういう映姫の態度に最も機嫌を損ねていたのは、この死神だったに違いない。何せ彼女は、自分こそが映姫に一番愛されていると、そう信じたがっているに違いなかったから。その反面、さとりへの憎悪が在っただろうことは想像に難くない。想い起こされるは宴席にて、映姫と閑談する自分に向けられた彼女の眼顔、その湯気立つが如き怨嗟の凄まじさと来たら!
そうして今も、彼女は、歯を強く噛み締める系統の笑顔をしている。「ダメですよう、四季様、こいつは悪いヤツなんですから」と、顔をこちらに向けたまま、つまり映姫にその死神的な表情を見せぬようにして、小町は言った。
「そうでしょうか」
「そうですとも。今日だけで家賃滞納、三輪車強奪、建造物等損壊罪、無銭飲食からの寸借詐欺、投石とゴミ箱による傷害からの現金強奪――」と、何故に知っているのか、小町はまるで見てきたようにツラツラとさとりの華麗なる犯罪遍歴を語った。正直なところ、それが閻魔に伝えられている時点で、もはや生きた心地がしないと言うか、死んだ心地とも言おうものか。「ここでも入場列の割り込みに始まって、受付への強要・脅迫、往来で金銭をバラ撒くという道路交通法違反、液晶TVをスパークさせる器物損壊、さっきの停電もこいつのせいですし、あとそこの窓を壊して……これも建造物等損壊罪、それと、そこの女の人を無理やり裸にしました。女の敵ですよう」
「え?」
最後のは手前だろよ、というツッコミをさとりは口にしようとしたが、相手の殺意だだ漏れな視線によって沈黙させられた。
嘆息、映姫の淡麗な鼻から吐息が漏れる。「本当ですか、さとり」と問うてくる、その声音には地獄堕ちが宣告される際に特有な独特の閑けさが在った。
「は、はい」と、さとりは鼻声で肯んずる。肯んずるより仕方がない。相手は嘘が通じぬ閻魔であり、ここで他人に責任を擦り付けても、それは映姫の判決を重くするばかりであろう。
映姫は小町からの抱擁を退かせ、さとりのほうへと歩み寄った。未だ平身低頭の姿勢を呈しているさとりの、そのすぐ前に佇む。閻魔は沈香の崇高な香りを漂わせていた。
「私は閻魔です」と、とうに分かりきったことを、彼女は玲瓏かつ厳かに告げた。「善行と悪行の積み重なりを鑑みて、貴女を裁かねばなりません」
「はい」
「貴女は乱暴狼藉を極め、強盗、脅迫など他者を思いやらない行動を繰り返しましたね」
「……はい」
「それどころか婦女暴行にまで手を染めました」
「……ッ、はい」
「しかし私は文芸の守護者です」
「はい?」と訝しげに返事したのは、さとりではなく、小町であった。「え、四季様?」
「さとり、小町、そうして皆、良く聞きなさい」と前置きし、映姫は次の台詞を告げた。
「純文学作家は何をしても許されます。総てが白となるのです」
時が止まったような――という形容は実に陳腐で古来より使い古されているが、まさに今のような状態を言うのだろうと、さとりは思った。
誰も彼もが口をポカンとさせて呆然としている。あの凶悪な小町ですらも、縁日に在る呆けた金魚みたいに口をパクパクさせている。
咄嗟に、さとりは映姫に対して読心を試みた。結果、その発言は冗談とかそういうチャチなものではなく、信念から確立された本心からの発言と知れた。なので頭を急速に回転させ、現状で最も取るべきと推察される行動を取ることにした。
「映姫様ァ!」と、鼻声に叫び、彼女のほっそりした柳腰に縋り付く。小刻みに震えてみせるのも忘れてはいけない。なるたけ落伍者のように振る舞う必要が在る。太宰とかカフカみたいに。「私、私、もうどうして良いのか分からなくって」
「おお、よしよし。怖かったですね。怖かったですね」映姫は憐れに嘆くさとりを受け止め、アルカイックに微笑し、まるで愛猿でも可愛がるようにその旋毛を撫でた。
「一切が過ぎて行ってしまったのです。私は取り残された気分だったのです」などと、自分で口にしてみて良く意味が分からないが、閻魔が喜びそうな即興台詞を述べてみせた。
それに加え、これ見よがしの涙なども、先程の小町の脅迫がために幾らでも準備ができていた。それを閻魔の胸元に押し付け、ダメ人間の惨めさをアピールして同情を誘った。
「ちゃんと居ますよ。私はここに居ますよ」優しい応えだ。首尾は上々と言える。
その情景を眼にして我に返ったのだろう、小町が悲鳴じみた声を上げた。
「お、お、おかしいですよう、そんなの!」御尤もな台詞だった。「誰しもそれぞれに積める善行が在るって、そりゃあ確かに前にも仰ってた気がしますけど、でも、それにしたって純文学作家が何でも在りなのは無茶苦茶ですよ!」
「黙りなさい、小町」
「黙りません! あたい、それだけは、四季様が間違ってると思います!」
当然の慷慨、実際のところ、さとりは小町に同感である。しかしここで彼女に同意することは自分の沈没を意味する。彼女には悪いが、ここで沈むのは自分ではなく、彼女であるべきだ。さとりは映姫に抱擁されながら次の一手を放った。
「小町さんは、私の行いを殊更に論い、付け込んで、遂には地霊殿の収入の九十五%を上納しろって脅迫してきたんです」
「本当ですか、小町」
「うぐ……」
よもや追求の手が自分に向くとは予想だにしていなかったのだろう、小町は息を飲んで後退った。映姫は名残惜しげにさとりを解放すると、彼女の前に進み出て、腰に手を当てて仁王立ちした。
「小町。以前にも話した通り、効率の良い貨殖は善行です。けれど、それはあくまでも、死神として全うに働いた上でのことであり、誰かを脅迫して貪欲に阿堵物を集めよと説いたつもりは在りません。即ち、貴女は私の説諭を曲解した」
「あ、いや。あたいは別にお金が欲しかったわけじゃ……」
「問答無用、罪を顧みよ!」パチンと、その頭を、映姫が悔悟の棒で叩いた。
「きゃん!」と、小町が悲鳴を上げる。
自失愕然たる双眸、やがて顫動、その心を慮るなれば黯然銷魂か。開かれた口元がワナワナと歪み、その血紅色の眼から憫然たる雫がドッと溢れ出る。
平素たれば叱られたところで照れ笑いを浮かべる図太さを持った彼女であるが、此度の叱責は余程とショックだったのだろう。彼女は悄然と肩を落とし、先程までの威勢はどこへやら、今や主人に叱られた仔犬のように項垂れていた。
「帰りますよ、小町。今日はお説教です」
「……はい」憤然として進む映姫の後ろを消沈した小町が続き、五人の鬼達もそれに習う。
いつの間にやら裸の女店員はどこかに消えていた。大方、スキを見て逃げ出したのだろう。実に賢い判断といえる。さとりとて、さっさとこの場を離れてしまいたいのだが、この喧騒の当事者である以上、物言わず退去することは映姫の心象を悪くさせかねず、そもそも彼女らが撤収しようとしている真最中なのだから、ただ御歴々が立ち去るまで平身しておく必要が在るのである。
その折に、だ。「さとり」と、帰りがけの映姫に名を呼ばれる。
「は、はい。何でしょう」
「貴女は純文学作家です。なので自分の道を歩めば宜しい」
「はあ」
「ですが注意しなければならないことも在るのですよ」と、そこで映姫はコホンと空咳してから頬を淡く染めて告げた。「今の私はもう石地蔵では在りません。そんな私に不意に縋り付くのは些か『罪作り』です」
「ええ……?」まさか嫌な顔をするわけにもいかず、さとりは視線を沈めた。
詰襟を正した粛然たる声調子でありながら波乱含みな宣告であった。先程の緊急避難的な密着がマズかったのか。その想定するよしもない副次的な展開に、正直、さとりは困惑した。そんな関係は別に望んでいない。そもそも何でこの閻魔はこの期にンなことを言い出すのだろう。見や、後ろに居る死神の顔が物凄いことになっている。例えるならば狂犬病発作の犬が水を飲みたくても飲めない渇望の表情というか、正気と狂気のボーダー線上のアリアを呈している。
「ああ、それと」と、映姫が生真面目な表情に戻って続けた。「お迎えがいらしてますよ」
おっと――そういう展開なら大歓迎だ。自分をわざわざ迎えに来てくれる者といえば、それ即ち、こいしに違いない。
喜色に弾けたさとりは土下座の体勢から一気に浮かれ立った。灼然なる仏性の閻魔に感謝と別れの一礼を捧げ、御歴々を追い越してカフェを駆け去る。映姫のクスクスな忍び笑いも、小町の歯噛みの音も、もはや思慮の端にも及ばなかった。
愛おしい妹がもうすぐそこまで来ている。それだけがさとりの足に最後のダッシュの気力を与えていた。実のところ本来さとりはインドア派であって、旧都を走り回った両脚はとうにグラグラなわけで、いつ筋肉が痙攣または虚脱しても不思議ではない状況に在ったのだが、こいしに会えるとすればたかが疲労がどれほどの支障であろう。さとりは自分の可能な限りのことを徹し、漸く待ちに待ったこの瞬間を迎えることができたのだ。
後はもうハッピーエンドだ。地霊殿に戻り、全人的なる幸福を謳歌することにしよう。
やがて、こいしの姿を目視する。茫乎とした立姿、今にも霞み消えそうな茫洋、たださとりを視認した表情に確固と見受けられる欣喜の煌めきは最愛の人を認識した少女の普遍な感情であり、彼女の姉としてはまさしく感動と見做すべき飽和の色彩が胸一杯に広がった。彼女は高々と諸手を掲げて、その場に待つことすら焦れったいのか、こちらへトテトテ駆け寄ってくる。
待ちきれない気持ちは、さとりとて同じだ。走りながら念じた。早く、早く、距離よ詰まれ。彼女を抱きしめてあげたくてたまらない。さとりはお姉ちゃんなのだから。
だが、しかし、そんなこいしを追い抜いて、こちらへ駆け寄ってくる者が在る。お燐かしらん、おほほ、あの子も淋しかったのね、なんて思って、眼を細めて見据えたところ、そいつの髪は赤毛ならぬブロンドであり、強膜面積の少ない緑眼がちの瞳とギザギザな歯は、どこかで見覚えが在る。ヤツの口から漏れ出ている「パルパルパルパルパル」という邯鄲の鳴声みたいな呪詛は、恐怖というか、動悸というか、目眩というか、絶望というか、そういうものを一斉に惹起させる根源で、こいしがこちらに来ていることを頭では理解しつつ、さとりは踵を返さざるを得なかった。今来た道を逆走して、疾走する。形而下での邪悪が、筆舌できぬ恐怖が、破綻という名の絶望を抱え、さとりを追いかけてくるのだ。
「お姉ちゃん」こいしの声が聴こえる。しかし、ああしかし、それに応えてやることができぬ。「お姉ちゃん、私、後ろにいるのよ」知っている。知っているが、おお、情けないお姉ちゃんを許して。
さとりブレインは電光石火の考察にて逃走経路を構築した。先程、さとりが破壊した、あの展望窓からの脱出がベストだ。背後に迫る悪徳の編集者がこの建物の構造を解しているかは知れぬが、少なくとも、今あの窓が通行可能な状況に在ることを知るよしもないはずだ。そう考えて、さとりは足元に余力を集中させ、こちらを見て眼を丸くしている閻魔の隣りを通り抜けようとした。ふとスネに何か当たった。バランスが崩れ、憐れにも、さとりは転倒して石床に鼻頭をぶつけた。混乱と激情の入り混じった表情で『何か』を見やれば、そこには大鎌の柄を相手取って小芝居に興ずる小町の姿が。
「おやおや、走ってるさとりんを転ばせちまうなんて、お前は悪い鎌だねえ。罪を顧みよ、罪を顧みよ」と、瞭然たる意趣返しの笑顔を浮かべながら、手前の大鎌を悔悟させしと柄をペチペチ叩いている。
ざっけんなと文句の口を開きかけた、次の瞬間、さとりの背中にボディプレスを見舞う編集者の質量が圧し掛かった。
「うきゃあ」
内臓への重み、これはもはや疝痛。汗にベタつく吐息が耳朶にかかり、次いで、怒声なのかすら判別できぬ無機質な声音が耳孔を穿った。
「原稿は、どこ」
「ひ、ひい」
「原稿は、どこよ」
背中に覆い被さっている編集者は、さとりの首筋を裸絞に拘束した。気道が絞まる。
「グエッ、いえ、ちょ、もう少し待、グエエ」
「首を捻れば出てくるかしらん、水道みたいに」
嫋やかな彼女の前腕は真綿さながらに温柔なれど、その技倆や力加減は絶妙で、相手が辛うじて気絶せぬ程度の塩梅に抑えていた。酸欠の朦朧に苦悶させられ、しかし気絶にも逃げられず、さとりは救いを求めて仏性の化現たる閻魔を見た。
すると呆気に取られていた映姫が我に返りて「み、水橋パルスィ」と口を挟んでくれる。
「あら、閻魔様。先日はうちの文芸誌に大層な寄稿を頂きまして」
「ああ、いえ、それは良いのですが……」と、パルスィの穏やかな世間話に水を向けられ、映姫が戸惑う。
そもそも、ンなこともやってんのか、この閻魔は。笑止この上ないが、今はそうも四方山な事情を慮っている場合ではない。さとりは自分を締め付けてくるパルスィの腕を、お猿のシンバルさながらに、パチパチ打って映姫に窮状を訴えた。
映姫は気を揉む憂慮の声で、悪徳の編集者を説得せんとした。
「パルスィ、良いですか。原稿を求めるのは編集者の定めというものですが、貴女の遣り口は些か度が過ぎているのでは?」
「はて、異なことを仰られますね」パルスィはさとりの首を蛇口の如きにしながら、言葉だけは丁重に告げた。「作品を物させることこそ編集者の生業。こればかりは閻魔様にも止めて頂くわけには参りません」
「いやあ、御高説、御尤も!」と、手を打ち鳴らして大仰なまでの賛同を示したのは、いつのまにやら御機嫌を取り戻した死神だった。「編集者殿の作家らに逃げ出される御苦労は察するに余り在ります。何せ死神も幽霊を追い回す仕事ですからね。尤も、幽霊には逃げる足も御座いませんが」などと下らない戯言を吐き、カラカラと小町は笑った。「そうだ。どうでしょう、いっそこの大先生の足を切ってしまうというのは。なあに、彼女とて妖怪、死にゃあしませんよ」
それこそが本題とばかりに、小町は大鎌を構えた。
「あら、死神さん。その提案ってとってもジェラスィですわん」何と、かくも無法な提案に、この編集者、どうやらノリ気である。
だがシメキリを随分過ぎたとはいえ、そんな無茶をされる筋合いが在るものか。どうにかヤメロと言いたいが、首が苦しくて声が出せない。オブジェクション。お願いだからオブジェクション、ユア・オナァ。
「いや、それは、その、ですが……か、可哀相ですし……」
絞り出したような声で制止しようとする映姫に、小町が、蜂蜜バターみたいに粘っこい声音で嘯いた。
「でも、四季様。ぶんげーをしゅごするためなら白!ですよう。書いて貰わないと読めないわけですし」
「それは、そうなのですが……」
もはや若干の不本意にならば通じ得る映姫の弱音に、嫌だァ、とさとりは恐慌に陥った。今ここで映姫に諦められたらバッド・エンド一直線である。ネヴァ・ギヴアップ。どうかネヴァ・ギヴアップ、ユア・オナァ。
――と、その時だった。何処からか明瞭な、さながら茫乎の殻を打ち割ったような歌声が聞こえてきた。
「怠ける作家は裸にしちゃえ。そしたらきっと書くでしょう。それが文者だ、それこそ文者」
耳を恋しげに撫ぜてくる、可憐な歌声だった。例えるならば素月の爽涼、夏山から吹く夜颪に随する月影の雫――一嗅に茫洋なれど処々に鋭利なその清けき芳香は、さとりの人中を仄かに摩った。
きっと、その歌を映姫もまた耳にしたのだろう、遽然として代替案を口走った。
「そうだ。逃さなければ良いのであれば、いっそ裸にしてしまえば良いのでは?」と、うわべでこそ、それは歌と同じ論旨だった。
だがそれを耳にした途端、妙に胸がザワついた。愛妹からの提案としてならばまだしも、家族ならぬ他人からの案出ともなれば不思議と生理的な忌避が湧いてくる。
この尾籠な建言をこそ、或いは救済と認識せねばならぬ自分の立場の惨めさに、さとりは絶望した。あまつさえ、その発言が清廉を旨とすべき閻魔の口から出たことに憤懣を覚え、さとりは弾劾の睥睨を向けた。
その視線を浴びた彼女は、口元を歪めつつ「気の毒ですが貴女のためです」と小言めかして耳元に囁いた。
その際に、勢い込んで顔を近づけて来たためか、閻魔の唇が耳介に触れる――不愉快な感触――まさか耳への口吸で謝意を示したわけでは在るまいが、さとりは屈辱に唇を噛み締めた。
「ダメですよう、四季様」憐れっぽい声音で、小町が言った。「足を、足を、斬っとかないと、こいつ裸だって構わず逃げ出しますよ」
「大丈夫です。逃げないよう私が見張ります」
「見張るったって、四季様には御仕事が在るでしょう」
「だから私の執務室に篭ってもらいます。私の隣りに椅子を置きますので、そこで」
おや。
おやおや。
おやおやおや。
曖昧だった不安が貞操の危機へと進化して行く。執務室に裸の少女を置くつもりなのか、この閻魔は。さとりはその胸騒ぎの真偽を知るべく読心を試みた。
すると『妄りに心を読んではいけませんよ』と靄がかった心の中から窘めの御言葉が返された。これはつまり高踏なる法力によって思念が遮蔽され、心情は秘匿されたということである。彼女は何かを隠したのだ、何かを。
「ま、私は原稿さえ貰えれば構いませんので」と、編集者は老獪な女衒が如く鼻で笑った。彼女は、どうやら、さとりと等しき予感を抱いたらしい。
「ならば良し。では運んであげましょうね。ほうら、皆さん」
「……ほうれ、運びな」
二人の掛声を合図に、配下の鬼どもがパルスィからさとりを受領した。逃げる猶予を得ようと、さとりは必死に抵抗したものの、多勢の鬼には非力な小細工など無勢であり、はや胴上げの体勢で拘束された。
「死神さん、忠実な死神さん」さとりは今や唯一この状況を変えられ得る死神に呼びかけた。「良いんですか、こんなの。貴女は納得できるんですか」
「……別に、良いさ。四季様は石地蔵だし」小町は苦虫を噛み潰すようにして告げた。
「さっき違うって御自分で仰ってたんですけど」
「きいきい煩いねえ、ペットの猿に嫉妬するヤツなんて居ないよ」
ああ、彼女はそういう解釈でこの展開に納得したのか。なれば、なれば、何か他の方策を急いで得ねばならぬ。さとりは下唇を噛み締めつつ、焦燥して周囲を見渡した。
ふと売店が視界に入った。そこには先程まで素裸に剥かれていたはずの女店員が、元通りの制服を身に纏って、ショーケース後ろの陰の辺りで硬直していた。充血した眼尻には涙跡、食い縛られた歯創の生々しい唇は頑なで、硬質で、一種のマヌカンめいた印象を受けた。そこまでして職務を果たす必要もなかろうにと、要らぬ老婆心から彼女を読心したところ、公衆で裸にされたくらいで早退けは認められないと、そういう理不尽をミュージアムの館長に怒鳴られたらしい。
旧都の理不尽に翻弄された彼女の境遇に、さとりは深いシンパシーを感じた。自分はこれから裸にされる、彼女は既に裸にされた、これらは誠に類似と見るべき親和性である。翻って鑑みるに、彼女はこの奇妙奇天烈なる展開に物申すことが可能な権利者であるわけで、その口で一声『裸にするなんてサイテーだ』と公然に述べてさえくれれば、さとりの運命はまた変わってくるのではなかろうか。
一縷の望みを賭け、さとりは声を大にして叫んだ。
「店員さん、可哀想な店員さん。貴女は旧都の理不尽なんぞ唾棄すべきと思いませんか」ちらと、彼女がこちらに眼を向けた。さとりは続けた。「ならば、今思っていることを叫んで下さい。さもなくば世界は変わらないんですよ、店員さん」
その懸命な疾呼に、女店員は頬を仄かに紅潮させ、その眼からは涙痕を再び辿る滴りを溢れさせた。女性的なれど明瞭な胸鎖乳突筋がワナワナと隆起し、遂にはその重々しい口を開いて叫んだ。
「手前ら、二度と来んなあっ!」
「違う、そうじゃない!」
物分かりの悪い共感者に、さとりは喚き返したが、もはや彼女とは遠ざかって行くばかりだった。
神輿のように運ばれ、大衆どもに物珍しげに眺められる対象となりし恥辱に、さとりは遂に錯乱へと至った。制御を失った第三の目がそこいら一帯の心の声を無造作に濫読し、許容量を遥かに越えたヴォリュームがサトリ・ブレインへと送り込まれ、嘲笑、憎悪、同情、瞋恚、狂騒、おおよそ多くの者の心が頭に入り込んできて、それがあんまり眩しくて、ますます精神崩壊にアクセルがかかる。どこだ、見えない、ここはどこだ。津浪のように殺到する心の声が脳髄に堆積して知覚に異常をもたらしている。世界が燦爛と色鮮やかで自分ばかりくすんで行く。呼吸がおかしいが、空気が薄弱に感じられるところからして、ここは山間の風蘭畑かそれとも宇宙か。揺れる、揺れる、神輿が揺れる。あまり揺らさないで、ゴミ溜め似合いの御帽子が頭から落ちちゃう。あら、爆発しちゃったんだっけ? 弾幕の焦げ臭い匂いが旋毛からモクモク立ち昇っている。これって幻視? 幻嗅?
ずんぐりむっくりを推移する世界を俯瞰すると、足元から太腿へと這い登って来る貧相な顔した邯鄲の大群がその翅を戦慄かせて、パルパルパルと哭くのに気付く。もぞもぞとしてくすぐったいな。ねえ、きゃんと啼いてみて。すると連中は行儀良いことに、みゃあみゃあと鳴き始めた。さとり様、さとり様、おかしいですよ、みゃあみゃあみゃあ。何だ、煩い、猫め。いいや違った、邯鄲どもめ。何一つとして解決してない、結局どっちらけじゃないか。さとりは不安定な気持ちになった。多様な鳴声がこんがらがって耳に届く、その音の隙間には、蓋し、獣のメロディが在る。それは一種のカンタータで、或いは大文豪のための黄色い歓声だ。赫灼なスタッカートや蒼白なデクレッシェンドも在るけれど、些細だ、そんな音色どもは。どうせ終いには色彩スペクトルが渾然として銀色を奏でるのだ。そうです、これぞ銀漢ですよ。皆さんお聴きなさいなコレを、おほほ、おほほ。天の川バンザイ。七夕バンザイ。ねえ、こいし、貴女の願いごとはなあに。
「だからいつも言ってるでしょう」突如、シンと総ての音が消えた。くっきりと、耳元で声が聞こえてくる。我に返りて背後を顧みると、こいしがちょこんと座っていた。「心を読んでばかりだからそうなっちゃうんだよ」姉を窘めるような、それでいて包容するような、大人びた忠告の台詞。張り詰めていたものが融解し、さとりは自分の眼頭に熱気を覚え、更に視界が滲むのを感じた。「お願いだからさ、今度からは相手の心を考えてみるようにしようね。お姉ちゃん……』
「そう、ね。そうよね。そうするわ、ありがとう、こいし。いつも後ろに居てくれて」
とうとう、さとりは返事した。そうして独りで泣き笑いに耽った。おほほ、おほほ、おほほ――と、その声は群衆の喧騒に似て、破滅のバラードに似て、獣の咆哮に似て、永遠に続きそうな気配で、いつまで経っても終わらぬのであった。
□
ちなみに、この後、さとりが書きあげた『Getting wild with our Koishi』は我鬼賞に再びノミネートされたそうな。めでたし、めでたし。
ゴミ溜めに棲むことが有意義であるかどうかは諸人の判断に任せるところであるが、床に捨てたバナナの皮にたかる小蝿の多さを鑑みるとあんまり良い気分ではない。
こういうバナナの皮なんてやつは、地霊殿では幾らポイ捨てしてもお燐が掃除してくれたので、さとりとしてはこんなバナナの皮が未だに自分の足元に残っていることが許せないのだが、自分は家出をしたわけであって、旧都の賃貸コーポに閉じこもっているのも編集者の探索の眼から逃れるためであって、お燐という目立つツレを連れてくるわけにも行かないのであり、じゃあ自分で掃除をしなければいけませんね、なんてお高く考えてみるのだが、結局ほおっぽいたまんま放置なのだから、小蝿がたかるのも当然なのである。
そもそも恨むべきは編集者のやつだ。小説を書き始めた時分には「大先生の才能は雲より高いですわん、パルパルしちゃいますう」とか甘え声で擦り寄ってきたくせに、今では「あんたに依頼した三文小説、○月×日から広告うつんで適当に脱稿しときなさいよ」と、これである。適当に脱稿? 許されるのか、そんな台詞は。敬意もへったくれもない。こちとら、そんなスカタンな依頼なんぞは受けるなどと一言も言っていないのだ。然るに書翰で送ってきた依頼を既成事実だとか正当化して、まるで書かないやつが悪いとばかりの強弁で、もはやムチでも持ち出しかねぬ編集者に、ほとほと嫌気の差したさとりは家出をするほかなかったのだ。
んで、旧都に逃げた。六畳一間を借りて、そこに潜んだ。籠城のために買い込んだのは山のようなバナナ、さとりも一応は猿の妖怪なのでバナナさえ在れば生きていけるのだ。だが如何な好物とて中身はともかく皮まで食うわけにもいかず、自然とバナナの皮は床に放られる。けれどお燐は不在であるため、床はバナナの皮だらけ。皮で六畳一間が足の踏場もなくなったところに、どこからか小蝿が入り込み、さぞかし良い餌場と認識した御様子で、我も我もとどんどん増えた。今や、さとりの体積よりも小蝿どもを総じた体積のほうが多いのではないかと疑わしいくらいで、この部屋はもはや小蝿に占拠されていると言っても過言ではなく、するとこの部屋は人や妖怪が棲むはずの部屋とも呼べぬのでは在るまいか、腐りかけのバナナの皮がそこかしこに転がっているゴミ溜めとでも呼んだほうが殆ど自然であると、かくして、その結論に至った。
こんな部屋では横たわって眠るスペースもないので寝るにはハンモックを用いている。本来ならキャンプみたいで快適なのだろうが、この部屋は小蝿がぶんぶん煩くて、夜にも朝にも眠られやしない。さとりの繊細な頭脳には睡眠時間が一日十五時間は必要なのだが、ガサツな小蝿どもはおのれらが飛ぶことの喧しさを知らぬ御様子で、あっちでぶんぶんこっちでぶんぶん、おはようぶんぶんおやすみぶんぶん、匂いにおもむろな小蝿臭が纏い始めたところで我慢の限界というやつが訪れて、ウッキイィと猿っぽい叫びをあげて小蝿どもを追いかけ回していたところ、大家がきた。大家は小蝿を追いかけ回しているさとりを狂者かそれに準ずるクズとして認めた様子で、とあれ当月の賃貸料を請求してきたわけなのだが、その額面金額は前もって聞かされていたものよりもだいぶ多い。ちょっとお高いんじゃありませんの、おほほ、おほほ、と上品っぽく問い質してみれば、大家は一言に迷惑料だと言う。小蝿が隣室にまで来て苦情が来ているとのこと。
だが小蝿に悩まされているのは当方も同じである。連中が押し寄せたことについては連中の勝手であって、文句を言われる筋合いもないわけで、寧ろ前述の物質体積的に考えれば部屋の主は彼らであり、さとりなんぞただの居候に過ぎず、できれば賃貸料も連中から――などと、高説をぶってみせたら頬をぶたれた。痛い。痺れる頬を抑え、何が起こったか分からないと無垢な少女ふうに眼を丸くしてみせたら逆の頬もぶたれた。これも痛い。言わばアウチな痛み。
何と暴力的だろうか。暴力には差し伸べるべき手が無い。大家が一体全体何を考えているのやら分からんようになったさとりは、とりあえず読心してみることにした。するとただたださとりに対する忌避的な感情が読み取れるばかり。何故にここまで嫌われたのだろうか。一月前はこの男は自分の小説のファンだと口も頭もそう言っていたはずが、全く酷い心変わりだ。男が少女にこういう残酷な心変わりを味わわさせるのは性交の前と後の態度の違いだけで充分なはずである。
ともあれビンタされたので、さとりは意趣を持った。仕返しとばかりに床にヌメるバナナの皮の腐ったやつを拾い、相手にぽいと投げつけた。フライング・バナナ、ウィズ・フライ。その悪臭漂う投擲に大家が怯んだものだから調子に乗って二投三投と繰り返したわけだが、どうやら大家も怒り心頭に発したらしく、スッと右前遇に屈んでさとりの懐に入り、両手で肩と前袖を掴み、裂帛の気合と共に膝のバネを跳ねさせた。一本背負いだ。このままではバナナの腐った床に――と、そう思ったのも束の間、大家の眼目は窓だったらしく、やんぬるかな、さとりは窓硝子に背中からぶち当てられた。ガシャンと頭の中がヒビ割れたような音が聞こえて、背中のバラバラになるような抵抗を覚えつつ、外の道端へ破片と共に投げ出された。地べたに転がると、割れた硝子の破片が肌身に重なりジャリと音がした。痛みに悶え苦しむさとりに二度と来るなというようなことを大家が叫ぶ。さとりとてこんな暴力行為が罷り通るコーポなどもう御免だ。テリブルテリブル。
髪に混じった硝子を振り払いつつ、さとりが蹌踉と上体を起こすと、道には三輪車に乗った見知らぬ童女が居た。褐色の侮蔑した眼でこちらを見ている。何の用だとばかりに読心を試みたところ、どうやら汚らしいゴミが行く手に突如現れて不快であるとのこと。自分のことかしらん。汚らしいって自分のことかしらん。ウキキ。生憎、自分はゴミではない。ゴミ溜めに暮らしていたヤツが全員ゴミ呼ばわりならば幻想郷はゴミだらけだ。憤慨に感けた不安定な情緒は、およそ理性を蔑ろにし、ちりちり疼いて堪らない背中も乱暴なフラストレィションを助長させ、その挙句、さとりは薬缶みたいに逆上した。「どいつもこいつも嘗めやがって!」と喚き散らし「そっちがその気ならこっちにも考えが在りますよ!」と雑言を叫んで強襲する。その分別のない剣幕に怯んだ童女を押し飛ばし、その三輪車を持ち上げて、一気呵成、割れてない窓へ目がけて投げ込む。アジタートな破砕音が近隣に響き、僅かな静寂、大家の怒声と童女の啼声が後に続いた。
さとりは高笑いのスキップでそこから立ち去った。もうこんなところに用はないのだ。
□
コーポに財布を置いてきたことに気付いたのは旧都の繁華街に差し掛かって、やれ何か食べようかしらんなどと袖を探った時であった。財布が無いということは金が無いということと等しく、また金が無いと飯も食えぬという死活に関わってくる。無一文の前途は暗闇の豆電球ほどに暗い。かといって三輪車をぶちまけたあのコーポに戻ることは気が進まず、一本背負いなぞよりもっと酷いことをされてしまうことが予測され、涙を呑んで財布を諦めるより無かった。
かくして素寒貧な状況に陥ってみると、皮肉にも、美味そうな芳香が四方八方から鼻を引くようになる。雑踏豊かな旧都の繁華街は食事処も多く、ハンバーガー、フライドチキン、ドーナツ、牛丼――。外の世界では廃れつつ在るファストな店が軒を連ねている。地下という場所柄どうしても薄暗さを被る旧都にて、連中は、少欲知足を旨とする仏様が一度目にしてブチギレそうなほど無節操に電気を用い、電球だらけの看板をキンキラに輝かせてストリートを彷徨するハングリー・アニマルズを吸い寄せんとしていた。アンド・ゴッド、アイ・ノウ、アイム・ワン。さとりは牛丼屋に入った。彼女もまたハングリーな獣だったのだ。そんな奴輩を引き寄せてしまう看板を出していた牛丼屋が悪い。安んぞ許せしか、だらあ。
ワン・オペレーションの店員が中ほどに立っている∪型カウンターの末席に座ったさとりは牛ねぎ玉丼アタマの大盛を注文した。十二の蛍光球が吊り下げられた店内は地下であることを忘れるほどに明るく、文化の結晶たる人工灯の光は木目の基調したカウンターを照らしており、そこは滑々として清掃が行き届いている。壁は橙と茶のタイル模様で、その上手にはお持ち帰り可能との木札のほか、牛皿、味噌汁、玉子、半熟玉子、お新香、サラダ、とメニュー札が並んでいる。貼紙は朝定食のメニューを映した写真をポスターとしたものであるが、生憎と今は朝ではない。その上の時計の針は十七時を示している。
その秒針を眺め、それが三度回転した時分に、トンと丼ぶりが置かれた。肉マシマシの牛丼だ。それと……後からネギと玉子が別鉢で差し出されたので、それを迷うこと無く牛丼にぶっかけて、箸でごしゃごしゃして口にかっこむ。美味い。どうしてこんなに美味いのか。ここ一月、バナナしか食べてなかったからかしらん。舌を撫ぜるは玉子とネギと甘味ダレの肉、それらを白米が纏めて食の快楽が躍動する。美味い米だ。まるで水みたく喉を潤していく。それと肉だ、肉が良い。誰だサトリはバナナだけで生きてけるとか言った莫迦は。肉が無けりゃ、肉が無けりゃ、全部骨じゃないか。牛肉バンザイ。牛丼バンザイ。あと、このしゃごしゃごの歯応えときたら、もう、ネギ一番だ。玉子のコクと、合う。すこぶるマッチしてる。喩えるならリズム・アンド・ブルース。ネギのリズムに玉子の持つブルースがセッションしてる。とても良い気分だ。おほほ。おほほ。笑いが溢れちゃう。
たちまちに完食し、空の丼ぶりを前に、爪楊枝を咥えながら、さとりは金銭的な解決を施さねばならぬ事態に在ることを自覚した。
だが問題ない。多少の金であれば適当な奴輩から寸借してしまえば良い。全く好都合なことに、さとりはサトリなので読心が使える。これでそこいらの連中の秘密を知り、それを暴露すると脅して、寸借を要求するわけだ。幸いにして牛丼屋には五人ほど男の客が残っている。しめしめ、と読心を試みた。カモにするなら間抜けが良いというのは当然だが、それと丁度良いくらいの秘密を持っている奴が良い。脅しても動じてもらえぬ秘密では意味がなく、また逆に、脅したら命を狙われる系の秘密でも困る。ほどほどで良いのだ。それと詐略を働くのだから、もちろん相手は御一人様でなければならない。
そこでさとりが見出したのは、会社の備品をこっそり家へと持ち帰っているらしい営業マン・ヨシノである。さとりは爪楊枝を吐き捨てて彼へと歩み寄った。
「ヨシノさん」と、柔和を装って声をかける。
「はあ」
「貴方、ヨシノさんでしょ」
なるたけ馴れ馴れしい口をきくのがコツだ。相手に会話の体裁を取らせねばならない。
「えっと、どちら様でしたっけ?」
「誰でも良いでしょう、そんなこと。それより、五ドル貸してくれません?」
「えっ? 何それ。何であんたに?」
「貴方の部署の上司、トイレットペーパーの減りが早いの気にしてますね」
さも見ていたが如くピンポイントで、彼の鼻先に脅しの指尖を突き付ける。
「な、何だよ、あんたは」
「いつぞやの朝礼なんて酷かったでしょう。物凄い剣幕でした。持ち帰ってることバレたら良くて減俸、悪くてクビ」
「しょ、証拠は在るのか」とヨシノの抗いに、さとりは鼻を鳴らした。
「黙れ、私はサトリだ。お前の会社で暴き立てるぞ」議論は無用とばかりに、さとりは声のトーンを剣呑にした。相手の顔が蒼白したのを確認し、すぐ柔らかに戻す。「噂になってしまえば部署も貴方をマークするでしょうし、もう二度と『節約』はできなくなるでしょう。だから、ね。良いじゃないですか、ここで五ドルくらい。嫌な目で見られるよりはずっとマシでしょう」
するとヨシノは観念したように五ドル札を財布から取り出した。奪うようにして取り上げる。薄汚れたオネスト・エイブ。電光に掲げれば透かしが在り、偽物ではない。
そのまま会計も終えたらしいヨシノがそそくさ逃げるようにして立ち去るのを尻目に、さとりは人生の勝利者の声で「御勘定」と告げ、会計処理のためかレジをカタカタやってる店員にエイブ札を差し出した。彼は億劫そうに告げた。
「牛ねぎ玉丼アタマの大盛、五ドル八十セントです」
「なるほど」足りなかった。
だがこんな時にもさとりは慌てない。くるりと周囲を見渡した。店内の誰もが顔を背けるが、そこは嫌われ者・サトリの宿命というやつ。仕方ないじゃん、足りないんだから。
ところが口を開きかけたさとりに店員が続けて言った。「五ドルで良いです」
「おや」
「その代わり二度と来ないで下さい。サトリが来る店って噂が立ったらヤバいんで」彼は殆んど無感動に告げた。
なるほど、尤もなことであった。世俗にて嫌われ者と定義付けられている『サトリ妖怪』が来るような店には誰も来たくないだろう。先程の如き寸借やら恐喝やらを、いつされるか分かったものではない。
ともあれ、それを無遠慮に指摘する店員の物言いには、さとりとて機嫌を損ねた。その鬱屈した感情を精一杯に表現せんとしてエイブ札を掌中にてグシャグシャに丸めて店員に投げつけてやった。流石に放擲は予想していなかったのだろう、店員は躱すこともできず、その札クズは額にコツンとぶつかって床に転がり落ちた。驚愕、そうして屈辱に歪んだ双眸。だが、殊勝なるかな、店員は文句の一つも零さずに膝を屈してそれを拾った。
かく嘲弄を与えたものの、それで溜飲が下がるでもなし、さとりは大股に牛丼屋を出た。雑踏の中に紛れ、ネオンとアルゴンの明暗世界を歩む。周囲にてんでバラバラな灯りが纏うも、気分はちいとも明るくならない。くさくさする。いったいどうして牛丼屋になんぞ入ったのか。むさくてダサくて、さとりみたいな少女には相応しくない。そもそも地霊殿ではお燐が作った御飯を食べていた。なら、お燐が牛丼を作りゃ良いのだ。ついでに、こいしを連れて迎えに来てはくれまいか。
――と、そこまで考えて、さとりは人波の停滞も顧みず足を止めた。こいし、こいし! こんなチンケな人工灯のそれではなく、例えば夜道に在りて袂に宿る月光を幾重にも重ねたような、その茫乎たる笑顔よ! 想起した途端、会いたくて会いたくて堪らなくなった。もう一月も会っていない。昂ぶりのあまり「お姉ちゃん」と幻聴が聞こえた。返事をしてやりたいのは山々であったが、その声に返事をすることで、頭のおかしい方々の仲間入りと成りかねぬことは知っていた。
鬱々として俯きがちに地べたを見れば小石が在った。パレイドリアの錯覚か、眼に似た模様が浮かび上がる。だが、こんな砂利と眼を合わせるつもりではなかった。大地にだらけて転がって、笑いもしなけりゃ泣きもしない、かくなる小石がこいしの代わりになるものか。常日頃より思いがけぬ行動でさとりを楽しませてくれる、そんな甲斐性も在りゃしない。こんな愚かな小石など、こうしてやる! と、勢い込んで蹴飛ばすと、その軌道の先にはトランクを片手に持つ男が居た。白いスーツに厳つい肩幅、角刈りに揃えられたその両側頭には、明らかにヤバいことに、象牙色の角が生えている。
あ、これは思いも寄らぬ、とさとりは思った。
そのまま小石は後頭に、カツンと小気味良い音を立てた。くるりと首だけ振り返る、彼の表情は、さとりがこれまで見たことの在るどの鬼よりもぎんぎらな表情をしていた。
ああ、ああ、こいつぁ思いも寄らぬ、とさとりは思った。
彼が身体を返す、それと同じ仕草で、さとりも踵を返した。何故だろう、動作が妙にスローモーションを帯びている。後方からの圧倒的な熱源というか迫力というか、莫大なエネルギーに背中が煤ける。周囲が凍て付き寂び返る、その世界の中心でさとりは「うるぅあぁぁ」と叫び、全身の血液を下半身に送り込む心地でフル・スロットルに走った。その疾走は脱兎の如く、距離にすると、まさかの二メートル。人垣が邪魔。あえなく襟首を捕まれ、力任せに人通りの皆無な裏路地に引っ張り込まれた。その最中に「まさか空間能力者!?」とか「誘拐です、ロリコンです、どこかに優しい○TA会長はいませんか」などと騒ぎ立ててみたが、鬼は煩わしい羽音の蝿を見る目をして、さながら洗濯物の水気を飛ばす時の仕草で、力任せにブンブンと襟首からさとりを揺さぶった。外部膂力的なヘッドバンギング、純粋な暴力のグルーヴに当てられて、さとりは借りてきた猿のようにぐったりした。
ふと気付けば周囲は誠に物寂しく、ゴミ箱やらが無造作に置かれており、その薄汚さときたら鼠、百足、土蜘蛛などが徘徊していそうなほどの不衛生な路地である。
「許して下さい、許して下さい」と、さとりは哀願した。「えへ、えへ、そうだ、鬼さん、女の入用は如何ですか。こちとら電話一本で用意できますよ。スタイルの良い猫とおっぱいの大きい烏ならどっちが」
「うっせ」
「はい」
この間、さとりは読心を試みていた。突破口が在るかと企んで思念したわけであるが、彼の心は殺意に溢れており、そこに付け入るべき酌量は無かった。さとりは売られて行く牛のように惨めな気分になった。
「オイ」と鬼が話しかけてきたので「YES?」と淑徳に返事をするや否や、その右腕がぶうんと振られ、さとりは「NOOO!」と丸めた塵紙さながらに吹っ飛ばされた。ほぼ直線の放物線、巨大なブリキのダストビンに直撃して、生ゴミを撒き散らしながら眼をくるくるに回した。ポーンと跳ね跳んだ蓋が、ちょうどさとりの頭に被さってくる。この臭い帽子はお洒落かしらん、などと愚にも付かぬことを思っていると、鬼が話しかけてきた。
「サトリはさあ」
「はあ」
「最近の旧都ってどう思う?」
んだよ、知らねぇよ、と反射的に言いそうになった口を噤む。
彼は旧都に何らかの思い入れを持ってそうな口振りでは在るが、心を読もうにも莫大な怒りのエネルギーが邪魔するのであって、何を応えれば彼の意に沿うのだか、さとりにはさっぱり分からなかった。
「まあ旧都は幻想郷の広い地底世界に存在する都で、そもそも地獄の一部だったのが切り捨てられて、そのまま廃墟になるはずのところに、皆々様が住み着いて今の状態に至ったわけで、住めば都と申しますが、されど地獄で在りまして――」
「どう思うんだよ」
「いやあ、もう、ザ・都なのかなって。ザ・旧い都なんだろうなあって」
頑として肯定にも否定にも回らず、当たり障りのないことを言って相手の反応を伺う。……そのはずだったのだが、鬼は殊更に不機嫌そうな顔を浮かべた。
「旧いって? サトリは今の旧都に旧き良き時代が残ってるとでも言うのか?」
「いえいえいえいえいえいえいえいえ、そうであって欲しかったなって、そう思うわけですよ。もう何なんですかね、あの莫迦みたいな光の氾濫は。イルミネーションってんですか、もうね、最悪ですよ。ケバケバしいし、眼は痛いし、地底の旧き良き風情ってもんをぶっ壊してますよ。行きたい住みたい暮らしたいって気持ちがまるで起こらない。言っちゃ悪いですが、こうも低俗になってるとは思いませんでした」
ラッパのように、さとりは口上した。鬼の表情が少しだけ和らぐ。
「そうだよな。あんな太陽を莫迦にするみたいに光を溢れさせるのは良くねえよな。まったく。んでさ、サトリはこの界隈を仕切ってる奴のことをどう思った?」
「まあ莫迦ですね。どんなに控えめに言おうと、それは間違いない」
「本当にそう思うか?」
「本物の莫迦です。寧ろ、頽廃した現状を生み出した諸悪の根源ですね。この場に居たら貴方よりも先に手が出てしまうかも知れませんよ、私は」
力を込めて言うと、鬼は低い声でぽつりと言った。
「この通りを仕切ってんのはうちの組長だよ。サトリはよ、はっきり言って、たとえ折り合いが悪かったとしても、仮にも盃の親のことをボロクソに言われたら子はどう思うと思う?」
「いや、それは私が莫迦だといったのは、この発電の原因となった連中のことでして、守矢とかいう地上のギャングらしいのですが、それはさておき実際に経営していらっしゃる組長さんはとても商売上手な御方だと思いますよ。正直言って、その点には猛烈に感動しました。今時ね、こんな人通りの多い繁華街なんて持ちたくたって持てませんからね。大変な御労苦が在ったに違い在りません。働き者ですよ。素晴らしい」
つらつらと口から出任せを語ったところ、鬼は「働き者? サトリはあの姉御を働き者っていうのか?」と言って喉をヒク付かせて笑った。
「まあ、あのそれは、あの組の事情もあるのでしょうけど、でも、ほら、組長さんはっていうか、貴方の組はじゃあ、お金持ちなんですね。私なんて今は素寒貧ですからね。うわあ、羨ましい、パルパルしちゃいますう」
などと、焦って喋り続けるさとりを遮り、鬼は「だからこんなクソみてえな金額の電気料金を払わなきゃなんねえんだ」と激しい感情の昂揚を露わにして、その片手に持っていたトランクを地面に投げ出した。
彼自身の、それは、赫怒の表明だったのだろう。だが乱暴に扱われたトランクは、暴力を浴びた御嬢さんが貞操を許すのと同じく、自ずから開いてその中身を晒した。
溢れ出た百ドル札が中空を舞う。一枚、二枚、もう数えられない。その惨憺たる有様に、鬼は、自分が仕出かしたことのくせして泡を食った。その光景はあまりに莫迦で滑稽で、内心では大喜利の観客のように嘲笑ってやったのだが、もちろん鬼の前で実際に嗤う挑戦精神など持ち備えておらず、それよりもこの事態を打開する手段を探すべきであって、慌てて中身を拾い集める鬼を尻目に、さとりは周囲を見渡した。
ゴミ箱がひっくり返ったせいか生ゴミが散乱しており、破けたビニール袋を筆頭に、魚のアラ、沢山の卵の殻、貝殻、野菜の皮、果物の搾ったカス、バナナの皮、多量の食い残しなどが、さとりの周辺には満ち満ちて、それと手の届く範囲に逆さまになった大きなダストビンが在る。ああ、これで良いじゃん、なんて考えて、さとりはダストビンをおもむろに手に取って、無造作にそれを振り上げ、札の収集に気を取られている鬼の背後から肩口に被せた。「ンだらあ」と、鬼は叫び、さとりの居た方向に襲いかかった。もちろんそこには生ゴミが。バナナの皮を踏んだ鬼は喧しい音を立てて転んだ。慌てて立ち上がろうとするも、狭所空間で平衡感覚が損なわれた様子で、ころころとゴミ箱と身体を転げさせて悶絶している。ここに至り、さしもの鬼も状況の拙さに気付いたのか、どうにかゴミ箱を脱ごうとしているが、その両側頭に伸びた角が変に邪魔して脱げないようだ。「ぐぎい」と、鬼が喚いている。その間、さとりはトランクを閉め、その短い腕で抱え込み、臭い帽子の被りを整えてその場をスタコラした。後ろからまた物凄い音が響く。転んだようだが、さとりの知ったことではない。
かくして思わぬ臨時収入を得た。たぶん数千万ドルは入っていようトランクの重みに、使いみちへの空想が捗る。さとりとしては、こいしが喜んでくれるようなことに金を使いたいものだ。
ともあれ、こいしは何と言うだろうか。
『プリン百万個?』なかなか可愛らしい。
『札束プール?』セクスィな感じ。
『お姉ちゃんとのメイク・ラヴ?』ムーディなベッドとか、アロマも良いわね。
「泥棒はいけない事よ?」こいしはそんなこと言わない。
『お金じゃ買えないもの?』それはちょっと……どうしようかしらん、とそこまで考えて、さとりは素ン晴らしいアイデアを閃いた。そうだ、プラネタリウムだ! 地下に育ったあの子のために疑似星空をプレゼントしてあげよう!
そうと決まれば急げや善なり。さとりは旧都の観光案内所でタバコを吸ってた婆ァに訊いて、地底に都合良く存在しているらしいプラネタリウムへと向かった。
□
さて、その施設は旧都の郊外に存在していた。
踏み心地の良い煉瓦敷きの最深部、道の中央に設置されたコペルニクスの座像が来訪者を迎える。右手にコンパス左手にアストロラーベを持ったその彫像は二メートルほどの台座から偉そうに人々を見下して厳しく口元を結んでいる。蓋し、自分こそが天文の真理を知り、またその精神は宇宙の高みにこそ在るという、およそ地に足が着いていないアストロノマー特有の増長という悪癖を揶揄しているのだろう。
また、その左手に開けた庭園には『Man Enters the Cosmos』とかいう糸楊枝だか日時計だかの銅像が立っているが、これがまた製作者の正気を疑うようなモダニズム作品であって、どうせどこぞの無名なゲージツ家が虚栄を求めて作ったに違いなく、さとりはそれを指差して「おほほ、御覧なさいなアレを、おほほ」と御上品に嘲笑してから、真正面の建物へと足を進めた。
そこから幾段かの階段の先に続く本館は正十二角形をした物珍しい形状で、その上にはこれを土台としたドーム屋根がデデンと屹立している。それなりに大々的な屋舎であるものの、傍目には随分と奇妙な意匠が施行されており、本館の後方半外周位が外界の太陽光パネルに近似した構造で囲われているのだが、太陽の昇らぬ地下世界に在ると、そのデザインはもはや虚誕とでも評さざるを得ない。いっそ場違いとの印象をすらさとりに抱かせたが、近くの看板によるとこの建造物は外界の著名な建物を模したものであるとのことなので、無駄も承知、出費も当然、雰囲気重視の虚飾構造とでも呼ぶべき代物なのだろう。
さとりは大股でマーブルの階段を登り、枡目格子の硝子戸を押し開いた。内部は縦幅さとり十人分くらいの広々とした空間で天井からは火星や土星など惑星を模した子供騙しの球体が吊られていた。随分と世俗的なデコレーションであるが、そもそもここはそういうファミリーでのアミューズメントを主眼とした施設であるようで、やたらめったら観光客が多い。そこいらを走り回っている小動物どものせいで足の置き場すら無いくらいだ。
ともあれ有象無象のガキらを蹴飛ばしつつ、さとりは受付の前へと突き進み、優待チケットを差し出しているバカップルを押し退け、いかにも阿呆っぽく眼をキョトンとさせる受付女の眼前にトランクを置いた。
「プラネタリウムを貸し切りたいんですが」
「は、はあ?」
「おい、俺らが先に並んでたんだぞ」
「煩い、私にはプラネタリウムが必要なんです」と、さとりはそう言って、煩い小蝿を払う仕草をした。
それで尚も喚き散らすバカップルどもに閉口しつつ、トランクを開いた。満たされた百ドル札のお目見え。その威光にはバカップルも静まり返り、そのマネーパワーの放射の直撃を浴びた受付女は喉をヒク付かせて恐縮した。
「ヒッ、ヒエッ」
「プラネタリウムを貸し切りたいんですが」と、さとりは同じ言葉を口にした。
同じ口上を繰り替えすというのは、相手をかなり莫迦にした態度であるが、実際この受付女は何ら対応できないお莫迦さんなので仕方がない。
「わ、私の一存では」
「じゃあ、責任者を読んで頂けますか」
「それも、その、私の一存では」
前言撤回、お莫迦さんどころかナメクジレベルの低能だったらしい。皆目として話の通じぬ感覚に、さとりは相手に軽侮をすら禁じ得なかった。
「貴女の一存では何が可能なのですか」
「チ、チケット、売ってます」
ああ、そうなの、ってんでさとりは失笑しつつ、トランクから札束を一つ取って相手の莫迦面へ目掛けて投げつけた。妙にコントロールが正確になってしまい、彼女の鼻梁にベチと当たる。すると存外に痛かった御様子で、その甚大な悲哀の感情を読心するまでもなく、受付女は眼にじわり涙の膜を作り、さながらスヌーピィのコミックみたいに上を向いて大口にワアと泣き始めた。莫迦ほど声が大きいというのは巷間にて広く知られているが、どうやらそれは事実であるらしい。
その泣声に周囲がざわつき始め、さとりを非難する声が口々に上がり、また警備員が駆けつけてくるのが視界に入った。公衆的劣勢に立たされたことを悟り、さとりはトランクを抱えて逃げ出した。すると当節では全く無関係だってのに喜々として追いかけてくるヒマな正義漢が多いもので、さとりは「何もしてない。触ってませんよ。そんな追いかけてくるなら、もう線路ですよ。線路ですよ。とにかくワタシはやってない」などと無意味な言葉を騒ぎ立てながら懸命に走った。
ロビーを抜けた先、駆け足の視界に入ったのは、天井一杯の『窓硝子風』の電灯に照らされた天の川のパネルであった。七夕記念とのことだが、流し見た限りでは大して珍しくもない、単に赤外線カメラで撮影された星々の遠景だ。その写真では南斗六星や散光星雲がそれぞれ多様な色彩を放っているが、あれらの光が肉眼で観測される頃にはその大方の色彩スペクトルが渾然として銀白の漢(かわ)と映るのであって、これを評して太古の連中は『銀漢』などと称したそうな。
おほほ、何て知的なんでしょう、大作家さとりは博識なのです――などと莫迦な倨傲に精神を浮つかせたのは、とうとう両足の乳酸が限界を超えたためであった。
鉛さながらに重い足を蹌踉めかせ、追いかけてくる連中をチラと見やれば、その多くが警備員ではなく正義面をしたいだけのパンピーだ。
ならばいっそ話は簡単なわけであって、彼らが持つ目先の欲望を正義感から逸らしてしまえば宜しいのである。現状を鑑みるに、この場は金をバラ撒くのが良いだろう。
そう思うが早いか、さとりはトランクの百ドル札束封を三つほど切り、背後に向かって投げ散らかした。ミルキー・ウェイを背景にして、平べったいベンジャミン・フランクリンの大群が中空をひらりひらりと遊泳する。
「わあ、金だ」
「百ドル札だ」
そう背後で騒ぐ声が響き、足を止める阿呆と止めない莫迦がぶつかり合って圧し合って、無関心だった者達さえ百ドル札掴み取り大会に参加し始め、この施設の平穏を護らねばならぬ警備員らはその収拾に追われる羽目となった。
それら総てに乗じて、さとりはまんまと逃走に成功した。追いかけてくる者はもはや皆無だった。こうなってみると何だか淋しい気もするが、ともあれ、まだ逃げ切ったと安堵すべきではない。
連中がさとりの追跡を諦めるまで、どこかに身を隠す必要が在るだろう。眼前に続く、そのSFチックに曲線めいた廊下には、もはや人っ子一人いなかった。
一体どこに続く通路なのかと壁を見やれば、そこには『Atwood Sphere is here』と書かれたパネルが嵌められている。
歩道はやがて開けたフロアとなり、その中央には、天井からの強光電灯を浴びた丸っこい形状の構造物が認められた。亜鉛メッキの薄板で構成されたスフィアだ。側部のアンクルに設置されたガンギ車がギコギコ回るのに合わせて、軽く浮遊したそのスフィアも僅かずつ自転の趣きを示している。その様相はまるで宇宙空間に浮かぶ惑星のようで、デザインのアイデアとしたら陳腐この上ないものであったが、過ぎ去った時代の風情を醸す芳香が感じられ、さとりはフラフラとそれに歩み寄った。するとそれが単純な球体ではなく、斜め下背部が平面断に切り取られた丸壺型の構造をしていることが分かった。内部は空洞で、設置された籠型リフトに乗ればスフィアの内層に潜り込むことができるらしい。
つまり、きっとこれは一種のアトラクションなのだろう。
「ああ、これこれ、これですよ」と、さとりは独り言ちて、手すりをひらりと飛び越えて籠の内部に乗り込んだ。近くのスイッチを操作すると、無機質な機械音がリフトの起動を知らせ、籠は緩々した調子で上昇を開始する。
しめしめ巧く行った――と。さとりは、俗世の悪徳を丸ごと包括した御上品を口元に弾ませ、ウキキと笑った。後は、ほとぼりが冷めるまでこの中に隠伏すれば良いだろう。
リフトが上昇するに連れて、さとりを乗せた籠はスフィア内部に飲み込まれて行った。外界と隔たれ、周囲は次第と薄暗くなっていく。やがては暗闇に、と、そう思ったのも束の間、朧げな光源に迎えられる。三つ在る眼を凝らして見るに、内部が完全な暗闇へと移行しなかったのは、どうやらそのスフィアの外殻に施された細工のためであるらしかった。スフィアの壁には数ミリほどの無数の細孔が開けられており、それが薄闇にこそ映える条々の光線を数多と漏らしているのだ。それも人工灯そのものな均一色ではなく、その細孔内部には光線の射出を搾る絡繰が備わっているようで、それぞれの微孔に発する光粒子は極小のチンダル現象に揺らめきながら個々に特別な彩りを呈していた。
それは明らかな『芸術性』を企図されていた。
よもやこれは――と、さとりがスフィアの本義に気付いた、ちょうどその時、リフトの上昇がガクンと止まった。籠の中心に佇むさとりの正面に煌めくは赫灼たる光彩。蓋し、これぞベテルギウス。半歩下がって遠見に望めば、そこには偉大なるオリオンの形状、その細孔の配列は精緻である。とすれば細孔の布陣は実際の星々の位置を模したもので、このスフィアがアンクルによって自転させられていたのは、単なる造形美というよりも、星の巡る転遷を簡易的に呈示する機能的な仕組だったのだろう。つまりこの場は、極めて原始的な、プラネタリウムなのだ。もちろんここにはさとりが居るだけなので貸し切りも同然なわけで、「なるほど、万事めでたしってわけですね」と、さとりは満足気に独言した。
そうと分かれば実に心地が良く、頭から爪先まで綺羅星を模した光彩に包まれるのは、まるで星空を冠する『地上』に居る気分であって、地下妖怪にとっては垂涎この上ない情景を独占しているのであるから、その悦楽も一入である。
さとりは眼を閉じ、軽く呼吸した。外の世界の緊張を解き、ただその全身を覆う星空に精神を集中する。やがて眼を開いた時には星空はよりリアルになっていた。今や、さとりは地底を抜け出でた――その妄想に浸っていた。妖怪の山の清澄なる空気に包まれ、足下には群生した風蘭、南の夜風は万緑の大地を清籟とし、そのリナロール性フレグランスをさとりに届ける。肌に纏わる青々とした湿気は昼の陽射しの草熱れだろうか。それに汗ばむことはなく、ただ全身の感覚は却って弛緩させられた。さとりは眼を見開き、星空にその短臂を広げた。空一面に広がる大パノラマは天を分する星河であった。夜闇の合間を埋め尽くす乳白色した光粒子はミルキー・ウェイの美称に相応しい。かく星群の華々しさを、その煌めきの風靡たるを、無機質な赤外線カメラで如何して伝えられようか。その迫真は肉眼で眺めてこその好適であった。遙かなる太古より尊ばれ、また親しまれて来たこの天文は、その圧倒的な美の迫力によって万人に夢幻を抱かせてきたのだ。あれは幻想そのものであり、星光の降り注ぐここはきっと幻想郷だ。その中心に在りて、さとりは畏れ多くも銀漢という玉冠を頭上に被ったような気分になった。ブリキの蓋? 横ちょにポイである。気を取り直し、さとりは夜空へ向けて口を惚けさせた。可憐なサトリ妖怪から、幻想への、あえかなキッス・アピールだ。飛泉の如くに降り注ぐ穹蒼からの光線を、その敬意がために、自身の内々へ迎え入れてやりたくなったのだ。口に注ぎ込まれたその光は仄かにバナナっぽい味がした。
だが、ふと、物足りなさに気付く。
その認識は、すぐに、この類稀なる幻想を曇らせてしまった。だから、さとりは急いで対処せねばならなかった。彼女を、この場所に、出現させなければならない。「こいし、こいし」愛しい妹の名前を、さとりは口ずさんだ。「こいしや、こいし」その思路は全くクレイジィだったが、家族への、伴侶への、ペットへの、そうして生きとし生ける者への、愛情という感情に内蔵されし、まさしく不朽たる真髄に肉薄した領域を、この時、さとりは確かにまさぐっていた。「こいし、こいしや」身悶えの声が風蘭の花園に響く。「恋しや、こいし」無論、さとりは妹のことしか考えていなかっただろう。だがその衝動は、この世の森羅万象を包括する温もりへの獣めいた口付けに等しかった。
さとりは再び眼を閉じて、深く呼吸し、また開いた。
すると開眼した途端、上下の区別が曖昧となった。足が頭側に浮かび上がったような、奇妙な浮遊感に、流石のさとりも周囲を見渡す。驚いたことに、彼女は六合ぐるみ星辰の宇宙空間に漂っていた。振り放け見れば蒼翠なる宝石さながらの我が母星、どうやら地上を飛び越えてしまったらしい。すぐ背後には黄色いリボンのダービーハットを被った月の姿……ふと、その月が振り返ると、裏側には愛しいハルトマン少女の顔が映っていた。
『ヤッホー、お姉ちゃん』
「あら、あら、こいしったら、そこに居たのね」
「私、ずっと後ろに居るのよ」
こいしの目鼻はどこか朧げで、それでも穏やかな微笑をさとりに向けてくれたので、さとりは嬉しくなった。
「御覧なさいな、こいし。インターステラー・お姉ちゃんよ」
そう言って、さとりはZERO・Gの空間でゆったりとムーンサルトしてみせた。
『お猿さんみたいね』きゃらきゃらと、こいしが愉快そうに笑う。
さとりは調子に乗って曲芸さながらに一層くるくるしてみせた。しかし、何事にも限度が在るようで、慣れぬ無重力で無茶をしたツケか、不意に悪心を催した。
慌てて口を抑え、どこか休める場所は無いものか見渡すと、すぐ横を先程まで被っていたブリキの蓋が漂って行く。さとりは、貧弱な半規管を多少なり保護するため、それを取って腰元に敷くことにした。せめて何かに座ったほうが安定するはず――と、そう考えたのだが、ブリキの蓋だって別に何かに固定されているわけではないわけで、結局、一緒になってふよふよと漂うばかりだ。……強堅な地底が今は少しだけ懐かしい。
さとりは地底の遥か彼方にて、ブリキの蓋に座っている。こいしは仄々とした金色の月光を放射して全身を愛撫してくれるが、当のさとりはそれを甘受することしかできない。「こいし、ちょっとこっちにいらっしゃいな。お姉ちゃんが頭を撫でたげるから」
『わあい、嬉しいな』と、こいしは嬉々としたが、すぐに憂いの表情となった。『でもね、お姉ちゃん。月って自分の力じゃ動けないのよ。共通重心を目安にして、ただ地球の周りを無意識に公転することしかできないの』
はてな、と訝しむ。ここはさとりの幻想世界だというのに、その妄想の中ですら彼女の無意識は牆壁となるのか。而して、遼遠なる距離を相隔てなければならないのか。これでは地霊殿(ふだん)と変わりないではないか。
それを思うと、途端に、煩悶が生じた。どうにかして、月となった妹にキスの一つくらいしてあげられないか。できるならば、この手で抱きしめてあげられないものか。
猿猴取月と嘲笑われても良い。宇宙の暗闇に溺れて喘ぎ、それでも彼女を愛するのだ。そんなことくらい、当然ではないか。私は、こいしの、お姉ちゃんなのだから。
そう決意するや、さとりはブリキの蓋を鳥の羽根みたくバタつかせ、こいしの元へ行かんとした。短い両足を振って、身体を伸ばして。それでも互いのスペースは縮まらない。
「こいし、待っててね」
『わあい、わあい、お姉ちゃんが来てくれる』「ダメだよ、お姉ちゃん。危ないよ」
「うふふ、そんなにはしたなくはしゃいじゃダメよ」
『だって嬉しいんだもん』「お姉ちゃん、後ろ見て」
何故だか、こいしの声は切迫していた。それでも、さとりは後ろを顧みない。進むことが愛の証明であれば、振り返ることは愛の浮気であるのだから。
やがて……背後から雷にでも打たれたようなバチッとした痛みに、一瞬何が起こったのか分からず「ウキイィアアアァ」と喉の限り悲鳴を上げた。
どうやら後頭部を殴られたようで、鈍い痛みが後追いに続き、脳がガンガンする。頭蓋と脾腹を庇い『海老のように丸い体勢』を取るものの、さとりの腰背に無慈悲なストンピングの雨が降り注いだ。蹴点の数からして、相手は明らかに一人ではない。多分、五人は居る。こんなの卑怯だ、アンフェアだ。こっちは脆弱な少女妖怪だというのに、これでは息すらできやしない。このままでは衆寡敵せずの言葉通り、惨めな敗北を喫してしまう。
さとりは歯を食い縛り、この状況を打破するための秘術を放つことにした。その名も奥義『Getting wild with our Koishi(周囲の敵が全員こいしに見えるの術)』である。
「うふふ、こいし、ッ、お姉ちゃんと遊んで欲しいのね」そう告げ、さとりは微笑した。「ッ、でもねこいし、お姉ちゃんのね、ッ、背中はね、トランポリンじゃないのよ」瞼が痙攣する。限界が近い。「あら、ッ、次はプロレスね。プロレスごっこするのね。良いわ、こいし、好きなだけ遊んだげる」その空想の内に、激痛が苦しみなのかどうかも分からなくなって、とうとうさとりは気絶した。薄れ行く意識の中で『焼きそば食べたい』と、こいしの声が聞こえた気がした――。
□
「おかしいですよ、さとり様!」
「あらあら、大騒ぎね」
「騒ぎもしますよ。だって、こんな台詞、脈絡が無いじゃありませんか」
そう言って、猫耳をヒク付かせながら苦言を呈するのは地霊殿のペット・火焔猫燐だ。両サイドに編み込まれたプラットと髪帯がトレードマークの可愛らしい火車である。
「そもそも焼きそばを食べたいって仰ってるのは現実のこいし様なわけでしょう。なのに、この小説の中のこいし様にまで『焼きそば食べたい』って言わせちゃったら、全然何のことだか分からなくって、読者の方々は戸惑っちゃいますよ」
ふんすふんすと猫っぽく鼻息を荒くし、お燐は懸命に諌めの言葉を口にした。彼女は忠直な猫であるから何かが間違っていると気付いたらすぐにこうして忠告してくれるのだ。
そういう存在は、クリエイターにとって、甚だ得難いものである。
さとりは母情豊かに微笑してそれを受容しつつ、手元のフライパンの焼きそばが焦げ付かぬよう炒めていた。厨房にはソースの香りが充満している。
「この『Getting wild with our Koishi』って奥義?だって何が何だか良く分かんないですし、やっぱり書き直したほうが良いですよ」
「うふふ、お燐。貴女の心配も分かるけれど、私の話も聞いてちょうだい」
コンロの火を消し、フライパンから焼きそばを大皿に移し替えつつ、さとりは告げた。
「純文学ってのはね、とっても難しいの。何せ、難解なものほど評価されるんだもの。だから、こういう読者を飽きさせない独自の『文法』ってものが必要なのよ。ストーリィなんてどっちらけでも構わないの」
「おかしいですよ、そんなの」
「かもね。けど私には世界を改善するつもりなんてないわ」
悲痛に眉目を曇らせるお燐を尻目に、さとりは大皿を伴ってリビングへと戻った。食卓ではこいしがさとりのことを待ちわびていた。
『わあい、焼きそばだあ』
『嬉しいな、ありがとうお姉ちゃん』
『お姉ちゃん、大好き』
『アイ・ラブ・マイ・シス』
『あねじょ、ごっつぁんでごわす』
五人のこいしは口々に喜びの言葉を口にした。妹達の歓声に、さとりは嬉しくなって、おほほ、おほほと笑った。そんな折、金髪緑眼の編集者が実に単調なムジークで唱いながらリビングに入ってきた。
「怠ける作家は裸にするぞ。書かないのならぶっ殺せ。たかが文者だ、たかが文者」
唐突に入ってきた彼女は旧都『道水橋』の出版社に勤めている、この上なく凶暴な女担当、その名を水橋パルスィという。生きながらにして鬼女となった身の上であるというが、口元など牙でギザギザしており、生来の鬼より余程と鬼っぽい。作家への態度は強硬にして過激であり、いつの日か自分はこの強硬な編集者に食い殺されるのだろうな、などと、さとりは思わぬでもないのだが、原稿を終えた今日ともなれば彼女の何を怖れることが在ろうか。
さとりは諸手をパンパンと鳴らした。
お燐が静々と前に出て、原稿を彼女に差し出す。パルスィはそれをパラパラと捲り、眺め見て、やがてその牙の並んだ口元を三日月型に撓ませて告げた。
「大先生の才能は月より輝かしいですわん、パルパルしちゃいますう」と、どうやらお気に召したらしい。
すると五人のこいしもパルスィの傍らに進み出て、唱い出す彼女と共に合唱した。
「喜べ、読者達よ。作家センセが脱稿した。作家センセが脱稿した」
ああ、ああ、素晴らしい心地だ。かくも全人的なる幸福の詰まった地霊殿を、何を勘違いしたのか、さとりは逃げ出したのだ。
どうしてだろう――と、我に返りて因果を辿れば応報たると心意が告げた。
さとりの心の片隅には常に苔生した堕落がぶら下がっている。さっさと振り払ってしまえば良さそうなものを、自分が自分で、そこに手が届かない演技をする。夜になるとそれは一層重くなり、いかにも苦行とばかりに煩悶してみたりする。机の前で、それを巡り巡っているのだ。だから遂には騙された。騙されたのだ。深夜に昂る妄執はいつもさとりを誘惑し、妄想させ、中途まで良い気分にさせておいて最後には必ず掌を返す。裏切るのだ。
そもそも有意義な人生への渇望など言訳に過ぎず、畢竟、視野の広さ次第ではないか。
なのにこうして真夜中の衝動に一度従ってしまうと、もはやそれの取り返しが付くことはない。分かるだろうか。何も彼もを嘗めていたのはたぶん自分自身だったのだ。
そんな夢をみた。
さとりは目蓋の下の暗闇で覚醒した。幸いにして戒めは施されておらず、床に転がされたまま放置されていた。頬に当たる石床の触感は硬くて冷たく、あと土足の匂いがする。
ともあれ起き明けに眼を開かなかったのは好判断だったはずだ。気絶に至った経緯を思えば、今も、さとりを殴った奴輩が周辺に居るのは間違いない……と、その殺伐めいた推測には確信が在ったのだが、さても周囲からは誰の気配も感じられなかった。例えば呼吸音や身動きから生ずるノイズ、或いは心音など、それに類する物音の一切がまるで聞こえてこない。まさか囚われた末に独房にでも放り込まれているのかと、飛躍した焦燥に襲われて、右眼を限りなく薄目に開いてみたところ、まず視界に入ったのは巨大な液晶TVで、それは五メートルくらい離れた壁の内部に嵌め込まれていた。映し出されている映像ビジョンは太陽を中心にして九つの惑星が巡っているもの――子供騙しの雑な3Dグラフィックだ。TVの周辺には多様なテーブル&チェア、間遠の壁際にはケーキ屋に在るようなショーケースが設置されていた。その中身はエッグマフィン、チョコマフィン、ナッツビスケット、スポンジケーキなどで、その上に置かれた案内紙によれば、どうやら今夜のデイリィ・スープはターキーとブロッコリーの煮込みであるそうな。そうして、そのショーケースを挟み、三人の鬼が女店員と気の抜けた会話を愉しんでいた。サードアイでこっそり読心したところ、どうやらここは『Cafe Galileo's』という食事処で、連中は空腹なので組長が来る前に腹拵えをしようと『三人分』の注文をしているところであるらしい。彼らには捕虜を放置するという明白な怠慢が見受けられるが、ともあれ現状さとりの見張りは彼らのみということになる。
食意地への没入というか、彼らのその間抜けな油断は大して長く続くものではないだろう。なればこそ急いで逃走計画を企てる必要が在る。とりあえずさとりは手元を探った。
すると如何なる僥倖たるや――! 件のブリキの蓋が近くに置かれていた。こんなもんを私物と思ったのか知れぬが、それにしても傍らに置いておくなど随分と律儀なものだ。かくも物堅い鬼達には特別な報奨を与えてやらねばなるまい。
そう、例えば確保していた美少女に逃げられる失態など、彼らには相応しかろう。ウキキ。
ほくそ笑み、さとりは蓋に弾幕としてのエナジーを込める。脳符『ブレインフィンガープリント』だ。それを手首の力のみで液晶TVに向けて投げつけた。カツン、と乾いた音を立てて液晶にぶつかるブリキの蓋――一斉に鬼達がそちらを見る。次の瞬間、それは轟裂を起こした。緑色した閃光の放散、中枢神経を痺れさせる『ナイスショット』、この即席のフラッシュバンはオプシンとレチナールの濃厚なイン・アウトを誘起させる。苦悶、呻吟、鬼達(と女店員)が両眼瞼を押さえて狼狽した。次いで液晶TVがジジジという音と共にアークを吹き出し、大スパークしたタイミングでブレーカーが落ちる。停電だ! 地下世界では電気が無ければ一寸先すら闇であり、視覚情報の価値は石ころより安い!
この時点で、さとりは既に起き上がっており、今や逃亡者の体勢を取らんとしていた。
さとりは駆けた。勢いを絶やせば失敗する類いの逃走劇になろうことは分かっていた。一心不乱に向かうはカフェの展望窓、外界への最短距離、頭を庇うようにして前額の前で両手首を交差させ、外へ続く窓硝子に前傾姿勢で突っ込む。鈍い衝撃、薄糸ほどのヒビ、それが亀裂を生み、遂に毀滅音、重力が身体の前のめりを許容する。期せずしてカフェは二階であり、窓の外は中空であった。多少ほど息を飲んだものの、それでも惰弱を圧し殺して身体を前へと傾ける。僅かなれど気後れは身体を硬直させ、地べたにカカトを着かせてしまうだろう。そうなれば衝撃がそのまま両足に集中するため、かくも高所からでは骨折待ったなしだ。さとりは地上を睨み、両脚をムチのように意識し、まずは爪先でつんのめるようにして、そのまま地上にてパルクール・ロールを試みた。背後から降り注ぐ硝子片の雨にも構わず、身を投げ出して転繰り返る。髪の毛に破片が少し混ざったかも知れぬが、うなじから背中にかけてを遣り過ごし、頭を上げたその瞬間からスプリントへと移行することができた。成功だ。成功したのだ。インターステラー的な回転のイメージ・トレーニングがここにきて大いに役立ってくれた。そのまま黒闇に沈んだ煉瓦道を走り行くと、チラチラ明滅が在り、周囲の街灯が恢復する。電気系統が復旧したようだ。眼前の姫立金花の庭園には例の『Man Enters the Cosmos』が見える。つまり、もう出入り口の付近にまで至っているということ。「ざまあみろ、クズどもめ。猿にも劣る莫迦犬どもめ」さとりは走りながら悪態を付いた。
ところが不意に襟首を掴まれた。全速力の、その、真最中だった。流石のさとりもヒヤリときて、疾走の足をもたつかせてしまう。かいなの主は、その動揺を幸いとし、思い切り引き寄せてきて――すると、驚くべき光景が周囲に展開した。まるで壊れたTVのようにぐにゃりぐにゃりと周囲の世界が歪んだのだ。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの星月夜が如く、森羅万象の混沌が渦巻きの様相を呈し、歪みは空間と具象への認識を剥離させた。全身に纏わる冷感は目眩にも似た感覚だったが、やはりそれとは明確に違い、寧ろ、強迫観念に付する嘔気そのものであった。不覚にも、さとりは縮こまって金切声を上げた。上げざるを得なかった。この精神汚涜を浴びたならば、もはや禽獣じみた絶叫のみが自我を持する唯一の手段だった。徐々にその怪奇は落ち着きをみせ、やがて漸く視界がピタリと元通りになった時には、さとりはカフェに引き戻されていた。襟首は無論、拘束されたまま……なれば体良く捕縛されたようだ。さとりはほぞを噛み、呟いた。
「まさか空間能力者……!」
「そうさね」と応ずるが早いか、かいなの主は、さとりを捻じ伏せるように床へと叩きつけて平伏させた。莫迦力に鼻が潰れされる、敢えて言うなればテリブルな痛み。
噬臍して、さとりは相手を睨む。屈強な鬼に挟まれて佇む、その長身の女は、大鎌に青い長裾の着物と腰巻きという平素従来と変わらぬ出で立ちをしていた。両隣に立つ鬼達と比べ、彼女の表情が妙に莞爾としているのは、この一件が仕事を『サボる』良い口実であるからなのだろう。小野塚小町、本職は死神なれど、旧都の鬼を束ねる小野塚組の組長でもある。是非曲直庁の死神が旧都でヤクザの組長を副業としていることに懸念を唱える者も多いが、理屈を並べてみれば何ら不思議ではなく、旧都は知っての通り元々が地獄だった場所なのだから、あくまでもその領域は是非曲直庁の管轄であり、それを治めるために荒くれ鬼どもを統括するトップは組織内部の者が望ましいわけで、畢竟、死神のヤクザ稼業を推奨こそせぬが黙認をというのが実状であった。彼らにとっても利権・甘い汁を思う存分に楽しめるわけで、小町に限らず、多くの死神がこういうサイドワークで金銭を儲けているという。『This is the Shinigami(これこそが死神)』ってわけだ。
ともあれ、さとりは哀願した。この期に至りては、もうそれくらいしか選択肢がない。
「許して下さい。どうか許して下さい。お金は全て弁済しますから」
「いやあ、他人行儀は止しとくれよ、さとりん」と、実に気さくな調子で、小町は言った。「あたいとあんたとの仲じゃないか。あたいらは四季様にお仕えする立場でさ、仲良くすべきなんだからさ、こういうトラブルが生じちまったこと自体が間違いなんだよ。うちの莫迦な連中がさあ」と、軽口の刹那、小町は右に立っていた鬼の頬桁を殴り、また左の鬼の肝臓付近に膝蹴りを抉り込ませた。粘土を潰した時のような音――左の鬼などはその場にうずくまり吐瀉物を吐き散らした。「さとりんに勝手を奮っちまったみたいでさあ、いやあ、悪かったねえ」口先での謝罪を続けながら小町は片足をおもむろに上げて、足元の吐瀉物にその当人の頭部を墜落させるようなストンピングを見舞った。汚いのがビシャンと跳ねたが、さとりは絶句してしまい身動き一つ出来なかった。よくよく見れば、後ろでは三人の鬼――さとりを取り逃した連中――が血みどろの満身創痍にされており、何のとばっちりなのか女店員は素裸に剥かれて、自身の両肩を抱く姿勢でガタガタと震えている。事態ここに至りて、漸く、さとりは気付いた。『サボる』云々は関係ない、この女は笑顔のままでブチ切れている、と。
急いで土下座のポーズを構え、さとりは謝意を重ね示した。「許して下さい、許して下さい」作家のくせに、もうそれ以外の言葉が思いつかないのだから情けない。
「許すさ、許す許す、当然さね」と、小町は蕩けたミルク・チョコレイトみたいに甘ったるい言葉で応じた。
チラと、さとりは上目にその顔を伺う……相手の血紅色の瞳は笑っておらず、慌てて頭部を戻した。
「けどそうさねえ。さとりんがそんなにも申し訳ないって思ってんのなら、このまま口先だけのケジメにしたって、どうしてもシコリが残っちまうかねえ」小町は喉をヒク付かせる笑声を漏らした。「じゃあ、形だけお詫びを頂こうか」
「ええ、ええ、何でも仰って下さい」
すると比較的無事な右側の鬼が、どこから取り出したのか、小町に算盤を渡す。パチパチと、小町は樺珠を弾いた。
「えっとだねえ、さとりん、今計算してみてるんだけどさ、お空ちゃんの原子力発電による電気料金って凄いねえ。ザッとだけど、旧都に流通してる金銭の一%が電気代だけで地霊殿に流れ込んでるよ」
「そ、それは、映姫様が」
「そうそうそう、四季様が決められたことさねえ。電気を使い過ぎることは幻想郷の存在基盤を揺るがすことになるかも知れないから料金を高く設定して制限するって、あのチャーミングな御声と御顔で仰られちゃあねえ、従うしかないよ。四季様が考えなさることは全て正しい。あたいは四季様の忠実な部下だからね」んふんふ、と自慢げに笑う死神に、忠誠ってか性欲だろうよと、さとりは無言のままツッコミを想った。彼女の閻魔への執心は旧都の界隈ですら顰蹙を買って有名だ。「だから電気料金は変えられない。だけどそう、こういうのはどうかねえ。さとりんは今後、今回の件のお詫びとして、地霊殿の収入の九十%をあたいらに上納する」
「……え?」聞き間違いか、よもや聴覚異常かとすら思って、さとりはポカンとした。
「ああ、九十%は言い過ぎた。悪いね、さとりんにも生活が在るもんねえ。八十五%にしとこっか」
はちじゅうごぱあせんと……八十五%?……八十五%?! 凍寒、身を荒びて、たちまち窮する。冷水を浴びたどころか頭から北極海に沈められた心地となり、さとりは泡を食って小町に読心を試みた。結果、それは冗談なんぞではなかった。それどころか、これを断った時に、小町が意図している対応をすら読心してしまい、さとりは背筋から凍り付く思いでガチガチに固まった。彼女は猟奇的な私刑をこそ望んでいるのだ。猿の細切れにされてしまう、あの鋭利なる大鎌で!
「いやね、あたいは常々さあ、さとりんと疎遠過ぎるかなって思ってたのさ。どっちも四季様の直属の部下なんだから、もっと仲良くしなくちゃね。だからこれって、これからの付き合いを深める意味でも、なかなか名案じゃないかねえ」
そう言って、小町は右隣を見た。鬼は慇懃に告げた。「名案かと」
次に、小町は左隣を見た。吐瀉物を拭いながら、鬼が告げた。「め、名案かと」
次いで、小町は後ろを振り返った。三人の鬼達は声を掠れさせつつも、口々に告げた。「名案……です」「……名案です」「……名案……です」
ところが三人が応えても小町は顔を戻さない。暫し沈黙、やがて「女ァ!」と、その場の雰囲気をまさに地獄へと引きずり込む死神の大音声が、さとりの耳を穿った。鼓膜を破れんばかりの質量たっぷりな低音ボイス。
「め、名案ですう」と、女店員が涙と鼻水だらけの顔を一層に湿らせて告げた。
そこで漸く小町が頭を戻した。土下座をしているさとりの前にしゃがみ込んで、算盤をチャカチャカ鳴らしながら笑顔?にて問うてくる。「ねえ、さとりんはさあ、どう思う? これって名案かねえ?」
甘い声音、まるでこの世界の毒を全て流し込んだような飲み込めぬくらい甘たるい声音……さとりは遂にシクシクと涙を零した。「何で泣いてんの」小町の、声の、トーンが下がり行く。「何を一端に泣いてんだよ、さとり、なあ、おい」
その時だった。「止めなさい、小町」と、よく聞き知った声音がカフェに響き渡った。
「あらら、四季様」と、小町が困惑とも嬌羞とも判別できぬ上ずりの声をあげた。「どうなすったんです、こんな旧都に一人で来ちゃ危ないですよう」
先程までの組長としての強面はどこへやら、小町は忠実な死神としての柔和な表情を浮かべ、いかにも健気とばかりの小走りで、その少女の元へと駆け寄った。
「あたい、いつも言っているじゃないですか。旧都は危ないヤツだらけです。四季様みたいな可愛らしい人が旧都を一人で歩いたら、すぐに悪いヤツに拐われちゃうんですよう」
「貴女は私を姑娘か何かと勘違いしているのでは在りませんか」
軽忽を言うなとばかりに眉を寄せ、彼女は毅然と死神に相対した。紺色の上着と黒色のフレアスカート、仰々しい閻魔帽――灼然なる霊験が後光となって燦爛たる、彼女こそは四季映姫、幻想郷の偉大なる最高裁判長(ヤマザナドゥ)である。死神たる小町の上司であり、それと……一応、さとりの上役でもある。そもそも地霊殿は灼熱地獄跡の管理を担う建物であるので、即ち是非曲直庁の下部組織に相当し、そこの主であるさとりは閻魔の指示を拝命せねばならぬ立場であるのだ。
「そもそも私は自分の身ぐらい自分で護れますよ」
「四季様がお強いのは知ってますとも。けど言葉巧みに四季様を騙そうとする悪者も多いんです。だから、あたいが隣りに居る時じゃないと是非曲直庁を出ちゃダメですよう」
御節介者な言葉を並べ立てて、小町は、その莫迦みたいにデカい乳房を覆い被せるようにして映姫を抱擁した。とんでもない色情魔的誘惑だ。あの胸の暴力を見るたびに思うが、男であれ女であれ、あれを為されて劣情を我慢できる者はいないだろう。小町の天稟たる必殺技である。かく彼女にとって唯一の不幸といえば、彼女の愛する相手が石部金吉石地蔵だったことであろうか。
「時に、小町」
「何でしょ、四季様」
懐抱相手の背が自分より低いのを良いことに、小町は相手の帽子を殆んど潰すような頬擦りを施している。ただ凄いのは映姫のほうで、それに全く動じていない。
「貴女に頼みが在るのです」
「何なりと、どうぞ」
「古明地さとりを解放してくれませんか」
「うひゃあ」と、思わず口に出したのは、小町ではなく、さとり当人だった。
思わぬところで自分の名前が出されたものだ。チラ、と見れば、こちらに顔を向けた小町と眼が合う。閻魔への体裁も在ってか困ったように笑っているが、さとりには分かる。あれは、ぎんぎらな血相である。視線だけで殺されそうだ。
かくも部下の反発必至な容喙をしてまで、映姫がこの嫌われ者・サトリ妖怪を救済しようとするのには、さとり自身が面映ゆくならざるを得ない噴飯物のワケが在った。
この幻想郷のヤマザナドゥは、就任当初、さとりのことなど歯牙にもかけていなかった。ただ地霊殿を管理している部下A程度の認識であったと、自分ではそう記憶している。その態度が少しばかり変わってきたのが、さとりの私小説がとある文学賞にノミネートされてからで、澄江堂我鬼賞(通称・我鬼賞)の候補作として文芸雑誌に掲載されたところ、その翌週から『□□ホテルで懇親会です』だとか『料亭○○で勉強会です』などと、業務連絡という名目の誘いが舞い込むようになり、そういう場所での食事は美味こそ相場というもんで、さとりとしてもまあまあ御機嫌だったのだが、その場所で席次が必ず映姫の隣となっていることには困惑せざるを得ず、しかもその席で映姫は『自分は昔から文学には一家言が在る』だの『自分は文芸の守護者である』だの、挙句には『後援会を組織しましょう』などと真剣になって言ってくるので、もはや閉口の範疇に至っていた。
なら映姫様はどんな作家がお好きなんですか、などと媚び諂いつつ訊ねてみようものなら、もう反応が凄いもんで、その長ったらしい口上の真先に名が挙がるのが豊島与志雄だってんだから始末に負えない。いや、もちろん偉大な文豪であるが、そこで好きな作品を訊いてみれば、案の定、レ・ミゼラブルと応える。阿呆かな。阿呆なのかな。幻想郷のヤマザナドゥは著者と訳者の白黒も付かんのだろうか。
ともあれ、その言辞など勘案したところ、結局、映姫は文者の才能を見出す『文芸の守護者』の立場に憧れていることが推測された。確かに豊島与志雄にもそういう側面が在った。だから彼女は必要以上にさとりを大事にしているのだ。その過保護の極めつけが例の間欠泉異変の一件である。自分のペット達が巻き起こした大騒動について呼び出され、さとりは蒼白の顔で映姫の御前に参上したが、彼女から語られたのは電気産業の今後の方針についてのみで、地霊殿管理者としての進退や懲罰に話が及ぶことは無かった。しかも、その時に提示された電気料金が大層さとり優位であったのは、先程の小町の言の通りである。
――恐らく、そういう映姫の態度に最も機嫌を損ねていたのは、この死神だったに違いない。何せ彼女は、自分こそが映姫に一番愛されていると、そう信じたがっているに違いなかったから。その反面、さとりへの憎悪が在っただろうことは想像に難くない。想い起こされるは宴席にて、映姫と閑談する自分に向けられた彼女の眼顔、その湯気立つが如き怨嗟の凄まじさと来たら!
そうして今も、彼女は、歯を強く噛み締める系統の笑顔をしている。「ダメですよう、四季様、こいつは悪いヤツなんですから」と、顔をこちらに向けたまま、つまり映姫にその死神的な表情を見せぬようにして、小町は言った。
「そうでしょうか」
「そうですとも。今日だけで家賃滞納、三輪車強奪、建造物等損壊罪、無銭飲食からの寸借詐欺、投石とゴミ箱による傷害からの現金強奪――」と、何故に知っているのか、小町はまるで見てきたようにツラツラとさとりの華麗なる犯罪遍歴を語った。正直なところ、それが閻魔に伝えられている時点で、もはや生きた心地がしないと言うか、死んだ心地とも言おうものか。「ここでも入場列の割り込みに始まって、受付への強要・脅迫、往来で金銭をバラ撒くという道路交通法違反、液晶TVをスパークさせる器物損壊、さっきの停電もこいつのせいですし、あとそこの窓を壊して……これも建造物等損壊罪、それと、そこの女の人を無理やり裸にしました。女の敵ですよう」
「え?」
最後のは手前だろよ、というツッコミをさとりは口にしようとしたが、相手の殺意だだ漏れな視線によって沈黙させられた。
嘆息、映姫の淡麗な鼻から吐息が漏れる。「本当ですか、さとり」と問うてくる、その声音には地獄堕ちが宣告される際に特有な独特の閑けさが在った。
「は、はい」と、さとりは鼻声で肯んずる。肯んずるより仕方がない。相手は嘘が通じぬ閻魔であり、ここで他人に責任を擦り付けても、それは映姫の判決を重くするばかりであろう。
映姫は小町からの抱擁を退かせ、さとりのほうへと歩み寄った。未だ平身低頭の姿勢を呈しているさとりの、そのすぐ前に佇む。閻魔は沈香の崇高な香りを漂わせていた。
「私は閻魔です」と、とうに分かりきったことを、彼女は玲瓏かつ厳かに告げた。「善行と悪行の積み重なりを鑑みて、貴女を裁かねばなりません」
「はい」
「貴女は乱暴狼藉を極め、強盗、脅迫など他者を思いやらない行動を繰り返しましたね」
「……はい」
「それどころか婦女暴行にまで手を染めました」
「……ッ、はい」
「しかし私は文芸の守護者です」
「はい?」と訝しげに返事したのは、さとりではなく、小町であった。「え、四季様?」
「さとり、小町、そうして皆、良く聞きなさい」と前置きし、映姫は次の台詞を告げた。
「純文学作家は何をしても許されます。総てが白となるのです」
時が止まったような――という形容は実に陳腐で古来より使い古されているが、まさに今のような状態を言うのだろうと、さとりは思った。
誰も彼もが口をポカンとさせて呆然としている。あの凶悪な小町ですらも、縁日に在る呆けた金魚みたいに口をパクパクさせている。
咄嗟に、さとりは映姫に対して読心を試みた。結果、その発言は冗談とかそういうチャチなものではなく、信念から確立された本心からの発言と知れた。なので頭を急速に回転させ、現状で最も取るべきと推察される行動を取ることにした。
「映姫様ァ!」と、鼻声に叫び、彼女のほっそりした柳腰に縋り付く。小刻みに震えてみせるのも忘れてはいけない。なるたけ落伍者のように振る舞う必要が在る。太宰とかカフカみたいに。「私、私、もうどうして良いのか分からなくって」
「おお、よしよし。怖かったですね。怖かったですね」映姫は憐れに嘆くさとりを受け止め、アルカイックに微笑し、まるで愛猿でも可愛がるようにその旋毛を撫でた。
「一切が過ぎて行ってしまったのです。私は取り残された気分だったのです」などと、自分で口にしてみて良く意味が分からないが、閻魔が喜びそうな即興台詞を述べてみせた。
それに加え、これ見よがしの涙なども、先程の小町の脅迫がために幾らでも準備ができていた。それを閻魔の胸元に押し付け、ダメ人間の惨めさをアピールして同情を誘った。
「ちゃんと居ますよ。私はここに居ますよ」優しい応えだ。首尾は上々と言える。
その情景を眼にして我に返ったのだろう、小町が悲鳴じみた声を上げた。
「お、お、おかしいですよう、そんなの!」御尤もな台詞だった。「誰しもそれぞれに積める善行が在るって、そりゃあ確かに前にも仰ってた気がしますけど、でも、それにしたって純文学作家が何でも在りなのは無茶苦茶ですよ!」
「黙りなさい、小町」
「黙りません! あたい、それだけは、四季様が間違ってると思います!」
当然の慷慨、実際のところ、さとりは小町に同感である。しかしここで彼女に同意することは自分の沈没を意味する。彼女には悪いが、ここで沈むのは自分ではなく、彼女であるべきだ。さとりは映姫に抱擁されながら次の一手を放った。
「小町さんは、私の行いを殊更に論い、付け込んで、遂には地霊殿の収入の九十五%を上納しろって脅迫してきたんです」
「本当ですか、小町」
「うぐ……」
よもや追求の手が自分に向くとは予想だにしていなかったのだろう、小町は息を飲んで後退った。映姫は名残惜しげにさとりを解放すると、彼女の前に進み出て、腰に手を当てて仁王立ちした。
「小町。以前にも話した通り、効率の良い貨殖は善行です。けれど、それはあくまでも、死神として全うに働いた上でのことであり、誰かを脅迫して貪欲に阿堵物を集めよと説いたつもりは在りません。即ち、貴女は私の説諭を曲解した」
「あ、いや。あたいは別にお金が欲しかったわけじゃ……」
「問答無用、罪を顧みよ!」パチンと、その頭を、映姫が悔悟の棒で叩いた。
「きゃん!」と、小町が悲鳴を上げる。
自失愕然たる双眸、やがて顫動、その心を慮るなれば黯然銷魂か。開かれた口元がワナワナと歪み、その血紅色の眼から憫然たる雫がドッと溢れ出る。
平素たれば叱られたところで照れ笑いを浮かべる図太さを持った彼女であるが、此度の叱責は余程とショックだったのだろう。彼女は悄然と肩を落とし、先程までの威勢はどこへやら、今や主人に叱られた仔犬のように項垂れていた。
「帰りますよ、小町。今日はお説教です」
「……はい」憤然として進む映姫の後ろを消沈した小町が続き、五人の鬼達もそれに習う。
いつの間にやら裸の女店員はどこかに消えていた。大方、スキを見て逃げ出したのだろう。実に賢い判断といえる。さとりとて、さっさとこの場を離れてしまいたいのだが、この喧騒の当事者である以上、物言わず退去することは映姫の心象を悪くさせかねず、そもそも彼女らが撤収しようとしている真最中なのだから、ただ御歴々が立ち去るまで平身しておく必要が在るのである。
その折に、だ。「さとり」と、帰りがけの映姫に名を呼ばれる。
「は、はい。何でしょう」
「貴女は純文学作家です。なので自分の道を歩めば宜しい」
「はあ」
「ですが注意しなければならないことも在るのですよ」と、そこで映姫はコホンと空咳してから頬を淡く染めて告げた。「今の私はもう石地蔵では在りません。そんな私に不意に縋り付くのは些か『罪作り』です」
「ええ……?」まさか嫌な顔をするわけにもいかず、さとりは視線を沈めた。
詰襟を正した粛然たる声調子でありながら波乱含みな宣告であった。先程の緊急避難的な密着がマズかったのか。その想定するよしもない副次的な展開に、正直、さとりは困惑した。そんな関係は別に望んでいない。そもそも何でこの閻魔はこの期にンなことを言い出すのだろう。見や、後ろに居る死神の顔が物凄いことになっている。例えるならば狂犬病発作の犬が水を飲みたくても飲めない渇望の表情というか、正気と狂気のボーダー線上のアリアを呈している。
「ああ、それと」と、映姫が生真面目な表情に戻って続けた。「お迎えがいらしてますよ」
おっと――そういう展開なら大歓迎だ。自分をわざわざ迎えに来てくれる者といえば、それ即ち、こいしに違いない。
喜色に弾けたさとりは土下座の体勢から一気に浮かれ立った。灼然なる仏性の閻魔に感謝と別れの一礼を捧げ、御歴々を追い越してカフェを駆け去る。映姫のクスクスな忍び笑いも、小町の歯噛みの音も、もはや思慮の端にも及ばなかった。
愛おしい妹がもうすぐそこまで来ている。それだけがさとりの足に最後のダッシュの気力を与えていた。実のところ本来さとりはインドア派であって、旧都を走り回った両脚はとうにグラグラなわけで、いつ筋肉が痙攣または虚脱しても不思議ではない状況に在ったのだが、こいしに会えるとすればたかが疲労がどれほどの支障であろう。さとりは自分の可能な限りのことを徹し、漸く待ちに待ったこの瞬間を迎えることができたのだ。
後はもうハッピーエンドだ。地霊殿に戻り、全人的なる幸福を謳歌することにしよう。
やがて、こいしの姿を目視する。茫乎とした立姿、今にも霞み消えそうな茫洋、たださとりを視認した表情に確固と見受けられる欣喜の煌めきは最愛の人を認識した少女の普遍な感情であり、彼女の姉としてはまさしく感動と見做すべき飽和の色彩が胸一杯に広がった。彼女は高々と諸手を掲げて、その場に待つことすら焦れったいのか、こちらへトテトテ駆け寄ってくる。
待ちきれない気持ちは、さとりとて同じだ。走りながら念じた。早く、早く、距離よ詰まれ。彼女を抱きしめてあげたくてたまらない。さとりはお姉ちゃんなのだから。
だが、しかし、そんなこいしを追い抜いて、こちらへ駆け寄ってくる者が在る。お燐かしらん、おほほ、あの子も淋しかったのね、なんて思って、眼を細めて見据えたところ、そいつの髪は赤毛ならぬブロンドであり、強膜面積の少ない緑眼がちの瞳とギザギザな歯は、どこかで見覚えが在る。ヤツの口から漏れ出ている「パルパルパルパルパル」という邯鄲の鳴声みたいな呪詛は、恐怖というか、動悸というか、目眩というか、絶望というか、そういうものを一斉に惹起させる根源で、こいしがこちらに来ていることを頭では理解しつつ、さとりは踵を返さざるを得なかった。今来た道を逆走して、疾走する。形而下での邪悪が、筆舌できぬ恐怖が、破綻という名の絶望を抱え、さとりを追いかけてくるのだ。
「お姉ちゃん」こいしの声が聴こえる。しかし、ああしかし、それに応えてやることができぬ。「お姉ちゃん、私、後ろにいるのよ」知っている。知っているが、おお、情けないお姉ちゃんを許して。
さとりブレインは電光石火の考察にて逃走経路を構築した。先程、さとりが破壊した、あの展望窓からの脱出がベストだ。背後に迫る悪徳の編集者がこの建物の構造を解しているかは知れぬが、少なくとも、今あの窓が通行可能な状況に在ることを知るよしもないはずだ。そう考えて、さとりは足元に余力を集中させ、こちらを見て眼を丸くしている閻魔の隣りを通り抜けようとした。ふとスネに何か当たった。バランスが崩れ、憐れにも、さとりは転倒して石床に鼻頭をぶつけた。混乱と激情の入り混じった表情で『何か』を見やれば、そこには大鎌の柄を相手取って小芝居に興ずる小町の姿が。
「おやおや、走ってるさとりんを転ばせちまうなんて、お前は悪い鎌だねえ。罪を顧みよ、罪を顧みよ」と、瞭然たる意趣返しの笑顔を浮かべながら、手前の大鎌を悔悟させしと柄をペチペチ叩いている。
ざっけんなと文句の口を開きかけた、次の瞬間、さとりの背中にボディプレスを見舞う編集者の質量が圧し掛かった。
「うきゃあ」
内臓への重み、これはもはや疝痛。汗にベタつく吐息が耳朶にかかり、次いで、怒声なのかすら判別できぬ無機質な声音が耳孔を穿った。
「原稿は、どこ」
「ひ、ひい」
「原稿は、どこよ」
背中に覆い被さっている編集者は、さとりの首筋を裸絞に拘束した。気道が絞まる。
「グエッ、いえ、ちょ、もう少し待、グエエ」
「首を捻れば出てくるかしらん、水道みたいに」
嫋やかな彼女の前腕は真綿さながらに温柔なれど、その技倆や力加減は絶妙で、相手が辛うじて気絶せぬ程度の塩梅に抑えていた。酸欠の朦朧に苦悶させられ、しかし気絶にも逃げられず、さとりは救いを求めて仏性の化現たる閻魔を見た。
すると呆気に取られていた映姫が我に返りて「み、水橋パルスィ」と口を挟んでくれる。
「あら、閻魔様。先日はうちの文芸誌に大層な寄稿を頂きまして」
「ああ、いえ、それは良いのですが……」と、パルスィの穏やかな世間話に水を向けられ、映姫が戸惑う。
そもそも、ンなこともやってんのか、この閻魔は。笑止この上ないが、今はそうも四方山な事情を慮っている場合ではない。さとりは自分を締め付けてくるパルスィの腕を、お猿のシンバルさながらに、パチパチ打って映姫に窮状を訴えた。
映姫は気を揉む憂慮の声で、悪徳の編集者を説得せんとした。
「パルスィ、良いですか。原稿を求めるのは編集者の定めというものですが、貴女の遣り口は些か度が過ぎているのでは?」
「はて、異なことを仰られますね」パルスィはさとりの首を蛇口の如きにしながら、言葉だけは丁重に告げた。「作品を物させることこそ編集者の生業。こればかりは閻魔様にも止めて頂くわけには参りません」
「いやあ、御高説、御尤も!」と、手を打ち鳴らして大仰なまでの賛同を示したのは、いつのまにやら御機嫌を取り戻した死神だった。「編集者殿の作家らに逃げ出される御苦労は察するに余り在ります。何せ死神も幽霊を追い回す仕事ですからね。尤も、幽霊には逃げる足も御座いませんが」などと下らない戯言を吐き、カラカラと小町は笑った。「そうだ。どうでしょう、いっそこの大先生の足を切ってしまうというのは。なあに、彼女とて妖怪、死にゃあしませんよ」
それこそが本題とばかりに、小町は大鎌を構えた。
「あら、死神さん。その提案ってとってもジェラスィですわん」何と、かくも無法な提案に、この編集者、どうやらノリ気である。
だがシメキリを随分過ぎたとはいえ、そんな無茶をされる筋合いが在るものか。どうにかヤメロと言いたいが、首が苦しくて声が出せない。オブジェクション。お願いだからオブジェクション、ユア・オナァ。
「いや、それは、その、ですが……か、可哀相ですし……」
絞り出したような声で制止しようとする映姫に、小町が、蜂蜜バターみたいに粘っこい声音で嘯いた。
「でも、四季様。ぶんげーをしゅごするためなら白!ですよう。書いて貰わないと読めないわけですし」
「それは、そうなのですが……」
もはや若干の不本意にならば通じ得る映姫の弱音に、嫌だァ、とさとりは恐慌に陥った。今ここで映姫に諦められたらバッド・エンド一直線である。ネヴァ・ギヴアップ。どうかネヴァ・ギヴアップ、ユア・オナァ。
――と、その時だった。何処からか明瞭な、さながら茫乎の殻を打ち割ったような歌声が聞こえてきた。
「怠ける作家は裸にしちゃえ。そしたらきっと書くでしょう。それが文者だ、それこそ文者」
耳を恋しげに撫ぜてくる、可憐な歌声だった。例えるならば素月の爽涼、夏山から吹く夜颪に随する月影の雫――一嗅に茫洋なれど処々に鋭利なその清けき芳香は、さとりの人中を仄かに摩った。
きっと、その歌を映姫もまた耳にしたのだろう、遽然として代替案を口走った。
「そうだ。逃さなければ良いのであれば、いっそ裸にしてしまえば良いのでは?」と、うわべでこそ、それは歌と同じ論旨だった。
だがそれを耳にした途端、妙に胸がザワついた。愛妹からの提案としてならばまだしも、家族ならぬ他人からの案出ともなれば不思議と生理的な忌避が湧いてくる。
この尾籠な建言をこそ、或いは救済と認識せねばならぬ自分の立場の惨めさに、さとりは絶望した。あまつさえ、その発言が清廉を旨とすべき閻魔の口から出たことに憤懣を覚え、さとりは弾劾の睥睨を向けた。
その視線を浴びた彼女は、口元を歪めつつ「気の毒ですが貴女のためです」と小言めかして耳元に囁いた。
その際に、勢い込んで顔を近づけて来たためか、閻魔の唇が耳介に触れる――不愉快な感触――まさか耳への口吸で謝意を示したわけでは在るまいが、さとりは屈辱に唇を噛み締めた。
「ダメですよう、四季様」憐れっぽい声音で、小町が言った。「足を、足を、斬っとかないと、こいつ裸だって構わず逃げ出しますよ」
「大丈夫です。逃げないよう私が見張ります」
「見張るったって、四季様には御仕事が在るでしょう」
「だから私の執務室に篭ってもらいます。私の隣りに椅子を置きますので、そこで」
おや。
おやおや。
おやおやおや。
曖昧だった不安が貞操の危機へと進化して行く。執務室に裸の少女を置くつもりなのか、この閻魔は。さとりはその胸騒ぎの真偽を知るべく読心を試みた。
すると『妄りに心を読んではいけませんよ』と靄がかった心の中から窘めの御言葉が返された。これはつまり高踏なる法力によって思念が遮蔽され、心情は秘匿されたということである。彼女は何かを隠したのだ、何かを。
「ま、私は原稿さえ貰えれば構いませんので」と、編集者は老獪な女衒が如く鼻で笑った。彼女は、どうやら、さとりと等しき予感を抱いたらしい。
「ならば良し。では運んであげましょうね。ほうら、皆さん」
「……ほうれ、運びな」
二人の掛声を合図に、配下の鬼どもがパルスィからさとりを受領した。逃げる猶予を得ようと、さとりは必死に抵抗したものの、多勢の鬼には非力な小細工など無勢であり、はや胴上げの体勢で拘束された。
「死神さん、忠実な死神さん」さとりは今や唯一この状況を変えられ得る死神に呼びかけた。「良いんですか、こんなの。貴女は納得できるんですか」
「……別に、良いさ。四季様は石地蔵だし」小町は苦虫を噛み潰すようにして告げた。
「さっき違うって御自分で仰ってたんですけど」
「きいきい煩いねえ、ペットの猿に嫉妬するヤツなんて居ないよ」
ああ、彼女はそういう解釈でこの展開に納得したのか。なれば、なれば、何か他の方策を急いで得ねばならぬ。さとりは下唇を噛み締めつつ、焦燥して周囲を見渡した。
ふと売店が視界に入った。そこには先程まで素裸に剥かれていたはずの女店員が、元通りの制服を身に纏って、ショーケース後ろの陰の辺りで硬直していた。充血した眼尻には涙跡、食い縛られた歯創の生々しい唇は頑なで、硬質で、一種のマヌカンめいた印象を受けた。そこまでして職務を果たす必要もなかろうにと、要らぬ老婆心から彼女を読心したところ、公衆で裸にされたくらいで早退けは認められないと、そういう理不尽をミュージアムの館長に怒鳴られたらしい。
旧都の理不尽に翻弄された彼女の境遇に、さとりは深いシンパシーを感じた。自分はこれから裸にされる、彼女は既に裸にされた、これらは誠に類似と見るべき親和性である。翻って鑑みるに、彼女はこの奇妙奇天烈なる展開に物申すことが可能な権利者であるわけで、その口で一声『裸にするなんてサイテーだ』と公然に述べてさえくれれば、さとりの運命はまた変わってくるのではなかろうか。
一縷の望みを賭け、さとりは声を大にして叫んだ。
「店員さん、可哀想な店員さん。貴女は旧都の理不尽なんぞ唾棄すべきと思いませんか」ちらと、彼女がこちらに眼を向けた。さとりは続けた。「ならば、今思っていることを叫んで下さい。さもなくば世界は変わらないんですよ、店員さん」
その懸命な疾呼に、女店員は頬を仄かに紅潮させ、その眼からは涙痕を再び辿る滴りを溢れさせた。女性的なれど明瞭な胸鎖乳突筋がワナワナと隆起し、遂にはその重々しい口を開いて叫んだ。
「手前ら、二度と来んなあっ!」
「違う、そうじゃない!」
物分かりの悪い共感者に、さとりは喚き返したが、もはや彼女とは遠ざかって行くばかりだった。
神輿のように運ばれ、大衆どもに物珍しげに眺められる対象となりし恥辱に、さとりは遂に錯乱へと至った。制御を失った第三の目がそこいら一帯の心の声を無造作に濫読し、許容量を遥かに越えたヴォリュームがサトリ・ブレインへと送り込まれ、嘲笑、憎悪、同情、瞋恚、狂騒、おおよそ多くの者の心が頭に入り込んできて、それがあんまり眩しくて、ますます精神崩壊にアクセルがかかる。どこだ、見えない、ここはどこだ。津浪のように殺到する心の声が脳髄に堆積して知覚に異常をもたらしている。世界が燦爛と色鮮やかで自分ばかりくすんで行く。呼吸がおかしいが、空気が薄弱に感じられるところからして、ここは山間の風蘭畑かそれとも宇宙か。揺れる、揺れる、神輿が揺れる。あまり揺らさないで、ゴミ溜め似合いの御帽子が頭から落ちちゃう。あら、爆発しちゃったんだっけ? 弾幕の焦げ臭い匂いが旋毛からモクモク立ち昇っている。これって幻視? 幻嗅?
ずんぐりむっくりを推移する世界を俯瞰すると、足元から太腿へと這い登って来る貧相な顔した邯鄲の大群がその翅を戦慄かせて、パルパルパルと哭くのに気付く。もぞもぞとしてくすぐったいな。ねえ、きゃんと啼いてみて。すると連中は行儀良いことに、みゃあみゃあと鳴き始めた。さとり様、さとり様、おかしいですよ、みゃあみゃあみゃあ。何だ、煩い、猫め。いいや違った、邯鄲どもめ。何一つとして解決してない、結局どっちらけじゃないか。さとりは不安定な気持ちになった。多様な鳴声がこんがらがって耳に届く、その音の隙間には、蓋し、獣のメロディが在る。それは一種のカンタータで、或いは大文豪のための黄色い歓声だ。赫灼なスタッカートや蒼白なデクレッシェンドも在るけれど、些細だ、そんな音色どもは。どうせ終いには色彩スペクトルが渾然として銀色を奏でるのだ。そうです、これぞ銀漢ですよ。皆さんお聴きなさいなコレを、おほほ、おほほ。天の川バンザイ。七夕バンザイ。ねえ、こいし、貴女の願いごとはなあに。
「だからいつも言ってるでしょう」突如、シンと総ての音が消えた。くっきりと、耳元で声が聞こえてくる。我に返りて背後を顧みると、こいしがちょこんと座っていた。「心を読んでばかりだからそうなっちゃうんだよ」姉を窘めるような、それでいて包容するような、大人びた忠告の台詞。張り詰めていたものが融解し、さとりは自分の眼頭に熱気を覚え、更に視界が滲むのを感じた。「お願いだからさ、今度からは相手の心を考えてみるようにしようね。お姉ちゃん……』
「そう、ね。そうよね。そうするわ、ありがとう、こいし。いつも後ろに居てくれて」
とうとう、さとりは返事した。そうして独りで泣き笑いに耽った。おほほ、おほほ、おほほ――と、その声は群衆の喧騒に似て、破滅のバラードに似て、獣の咆哮に似て、永遠に続きそうな気配で、いつまで経っても終わらぬのであった。
□
ちなみに、この後、さとりが書きあげた『Getting wild with our Koishi』は我鬼賞に再びノミネートされたそうな。めでたし、めでたし。
さすがに笑った。
野生の町田康だ
>臭い帽子の被りを整えてその場をスタコラした
ここ反則的な破壊力でしたね、パルパル言いながら迫ってくるパルスィといい崩しているのにキャラにドハマリさせてくるパワーがすごい
「内部は縦幅さとり十人分くらいの」などの(各人の)想像しやすい表現も上手くて、躓くことなく読ませてくる氏の実力はさすがのひとこと。あなたの書く日本語大好きです
とても楽しむことができました
ところで蛇足ですがアストロラーペはわざと?(アストロラーベ)
さとりと小町と映姫とパルスィが入り乱れる中盤から後半が特に容赦なくて面白い
>幻想郷のヤマザナドゥは著者と訳者の白黒も付かんのだろうか
り、リトールドってのもあるし…吸血鬼ドラキュラも自分の好きな作家が超訳してるし…児童向けだけど…
よおやるなあ
脱帽である,こんなん書かれて,どうすれば良いのだ
パルスィの声に例えてた邯鄲って何のことだと思って、ググッたら虫でキモッとか思ったけど、youtubeで鳴声を聞いてみたら凄え綺麗な鳴声でびびったwww
個人的には窓からさとりが飛び出すシーンが良かった
読んでいて、たいへん楽しかったです。ありがとうございました。
>短臂
あはは、原作準拠!
通貨がドルなところでもうだめだった
どいつもこいつもイカしてました
特に"さとりは地底の遥か彼方にて、ブリキの蓋に座っている。"の部分は、ほんと最高です。
最後のこいしが妄想だったところなども、少しSAN値を削られる感じがして良かったです。
面白かったです、ありがとうございました。
それはそれとして大変面白かったので続編希望と書いてみる。
寧ろ物質体積的に考えれば、この部屋の主は小蝿である比重のほうが高い。
↓
寧ろ物質体積的に考えれば、この部屋の主は小蝿である。
または
寧ろ物質体積的に考えれば、この部屋は小蝿の比重のほうが高い。
でしょうか?
ただここらへんの文脈の曖昧さは町田氏もやっているので、それに倣っただけかも知れませんが。
ともあれ、さとりの逃避行、楽しませて頂きました。
個人的には、さとりと映姫と小町の三角関係をもっと多く書いてくれると嬉しかったです。