もうすぐ夏だというのに連日の雨で、十六夜咲夜は気が滅入っていた。どんどんと溜まっていく洗濯物をどうしようかと考え、誰にも聞かれぬよう不快感をため息にして吐き出す。外の手入れをさせるわけにもいかないので、普段よりも多くの妖精たちが館内をうろつく姿を見て、再び胸のもやもやが溜まっていくのを感じた。
胸元から懐中時計を取り出して時刻を確認したところで、曲がり角の向こうから足音が聞こえる。姿を現したのは、よく図書館の本を無断で借りていく黒白魔法使いだった。
「あら魔理沙。来てたの」
「ああ。誰もいないから勝手に入った。一応門番には許可取ってあるからな」
「珍しい。騒ぎの一つも起こさないなんて」
「そういう気分じゃあ、ないんだよ」
その言葉を聞いて、咲夜は魔理沙の顔をじっと見る。顔はほんのりと赤く、瞼はとろんとしており息遣いも少し荒い。顔から全身を見直すと、身体が左右に揺れている。
「……貴女、風邪ひいてない?」
「んあ、かもしれない。最近徹夜続きだったからさ」
言い終わらぬうちに魔理沙は咲夜の横を抜けていく。歩くと体のふらつきが一層大きくなり、その様は薄暗い廊下とういう背景も相まって、さながらゾンビのようにも思える。その後姿は咲夜を通り過ぎてからちょうど十歩目で、ぽてりと力なく床に突っ伏したのだった。
「まったく、びっくりしたわ」
「んあー、すまん」
結局魔法使いは大図書館にたどり着くことが出来ず、今は咲夜のベッドに横たわっている。汗と雨で湿っていた服を着替えさせ、また洗濯物が増えてしまったと咲夜は辟易する。洗濯をしてあげるという事が自然に入っているあたりが、咲夜らしさである。
咳はあまり出ていないようだが、着替えを手伝った時に触れた魔理沙の体温はかなりのものであった。夕刻前でこれなのだから、夜にはもっとひどくなるだろう
「不摂生と不衛生、それと不用心の結果ね。今日はおとなしくしましょう」
最早咲夜の言葉に返事をするのも億劫なのか、魔理沙は力なく手を振った。
紅魔館には基本的に窓は無いが、幾つかの例外がある。咲夜の部屋もそうだった。その窓には、大粒の雨がこれでもかと叩きつけられている。もうそろそろ夕食の準備がある。魔理沙が寝息を立て始めたことを確認して、咲夜は業務へと戻った。
妖精たちが掃除している場所を見回りながら、その頭の中では別のことを考えていた。咲夜自身がまだ子供だった頃、使用人としても未熟だった頃を。
十六夜咲夜は人間である。勿論、人間なのだから風邪の一つや二つや三つや四つ、引いたことくらいはある。そんなときは、館の住人達や妖精メイド達が普段とは違う心配そうな顔つきで自分を看病をしてくれた。少しばかり気恥ずかしかったが、治った直後に主との会話で、こうも言われたのだ。
「お前は私のモノであると同時に、私の家族だ。だったら、思う存分守られなさい」
その言葉に感動したことを覚えている。魔理沙はどちらかと言えば『招かれざる客』ではあるが、咲夜にとって、よく被害を被っている大図書館の主には悪いが、もし妹がいたのならばこんな感じなのかもしれないとも思っていた。
夜間の引継ぎを手早く済ませると、咲夜は食堂の調理場へと足を向けた。作られた粥と水差し、珈琲の入ったカップをトレイに乗せ、部屋へと戻る。ドアを開けると、明かりをつけるのを忘れていたためか、部屋の中は暗闇に染まっていた。
部屋に備え付けてある幾つかの燭台に明かりを灯す。明かりか、それとも気配か。魔理沙はベッドから身を起こすと、咲夜の顔を見つめた。明かりに照らされているせいもあるだろうが、その瞳は焦点が定まっていないようにも見えた。
「とりあえずおかゆ。食べられる?」
魔理沙は言葉もなく首だけを縦に振った。余程辛いのか、咲夜が差し出したスプーンに文句も言わず口をつける。いくらかの粥と水をとると、再び布団に潜り込んでしまった。そんな様子が、少し失礼かもしれないが、咲夜には面白く見えた。
「まるで野良猫みたい」
くすくすと笑いながら椅子に腰かけると、窓の外に目を向けた。夕刻の頃程ではないが、やはり雨脚は強い。少し温くなった珈琲に口をつけ、ふと、昔のことを思い出した。
まだ、今よりも背が頭二つほど小さかった頃、似たようなことがあった。酷い風邪をこじらせ、一人ベッドで唸っていた。まだ、門番がメイドを兼任していた頃だ。 小さいながらも咲夜はしっかりと働いていたが、熱に浮かされた感情は、そんなしっかり者の少女を心細くさせるには充分だった。
夜、喉の痛みで目を覚ました。明かりもなく、窓にはまるで自分を攫おうとしているかのように、雨粒が叩きつけられていた。早く、こんな時間が過ぎ去ってほしくて、ベッドに潜り込んだ。とても心細かったが、誰に言うこともできなかった。
次に目を覚ました時、自分が何か暖かいものにくるまれていることに気が付いた。真っ暗な空間の中で、自分以外の吐息が聞こえる。そこで初めて、咲夜は自分が抱きしめられていることに気が付いた。少し暑かったが、何故か、胸の内に何かが満たされていることを感じたのだ。
「……早いなあ」
気が付いた時にはメイド長になり、背もいくらか伸びた。様々な技術も身につけた。がむしゃらにやってきたと言える。そんな昔の自分を、もしかしたら重ねているのかもしれない。どことなく、放っておけないのだ。寝間着に着替えてベッドに入り、魔理沙を抱きしめた。その身体はやはり熱を持っている。
「よしよし……」
汗で少し湿った金の髪を撫でながら、咲夜も意識を手放した。
翌朝、風邪のせいで意識があまりなかった魔理沙は、自分が咲夜に抱きしめられているという状況を理解して声を上げそうになったが、すんでのところでそれを飲み込んだ。
色々と聞きたいことがあったが、眠る咲夜の顔は、とても幸せそうで。それを見るとなんだか今の状況が可笑しくなってきて小さく笑い、魔理沙は再び微睡みに落ちた。
それは、なんてことのない、梅雨の一日の話。
安心できますよね、ほんとに。
心地よさが伝わってくる優しい感じがいいですね
ずいぶんお久しぶりみたいですが、また読むことができて嬉しいです。