「ねえ幽香、教えてくれないと家中を毒で満たすわよ!」
ずう、とお茶をすすりながら、風見幽香はその宣言を聞いた。
些か力がこもったようで、すする音が少々はしたないと思った。
「そういう台詞は、まず先に質問をしてから言うのよ」
口の中で言葉を転がせてから、ゆっくりと吐き出す。
強い調子に怯む相手でない事は知っていた。生まれて日が浅く、ものの道理をいまいち把握していない事も。だから、諭すように穏やかに言って聞かせる事が必要なのだ。
言われた相手――メディスン・メランコリーはきょとんと呆けた表情を浮かべ、たっぷり十秒ほども首を傾げて黙考した。その後、口を開く。
「家中毒で満たしていい?」
「だめ」
メディスンは舌打ちをしようとして、うまく音が出ないのか口をパクパクさせ、その後に「ちぇっ」とはっきり発音した。
窓枠から手を離し、ふよふよと浮かびながら遠ざかっていく。
幽香はそれを見届けながら、またカップを手に取る。卓上のガラスポットには黄色い花びらがふわりふわりと踊る。
秋神様の勧めで作ってみたひまわりのハーブティーである。柔らかい香りが春の暖かな日差しと共に、優雅で穏やかな午後を彩る。
もっとも、その目を背後に向けてみれば、飛び込んでくるのは瓶詰めされたひまわりハーブの山である。
人里にも卸そうとの勧めに従ってみたはいいが、どれほど用意してみたものかとあいにく見当がつかず、香りは良いのだから多めに拵えた方が良かろうという皮算用の結果である。実際のところ評判は上々だったが、首尾よく全部を捌き切るというわけにはいかず、こうしてせっせと消費するハメになっているわけなのだ。
今年の夏までには全て捌いてしまいたい所である。
「……ちっがーう!」
メディスンがまた飛び込んできたのは、空になったカップに次を注ごうとポットを手に取った矢先の事だった。
「毒で満たす云々はどうでもいいのよ!」
「よく気がついたわね。えらいわ、メディスン」
「馬鹿にしてんの!?」
「よく気がついたわね。えらいわ、メディスン」
「ムキー!」
鼻息荒く掴みかかってくるメディスンを適当に押しのけ(メディスンの身長は幽香の半分もない)、しばしの暇つぶしとする。毒を放ってこないのは本気でないのか、その発想も浮かばないほど本気で憤慨しているのかは、幽香には判断できなかった。
ひとしきり暴れて――何一つ被害は出ていないが、とにかく満足はしたのか、ようやく要領を得た説明を聞くことができた。
「……要するに、花の育て方を教えてほしいって事?」
「うん」とメディスンが首肯する。
「あなた、鈴蘭畑の世話をしてるじゃないの。今さら何を聞きたいっていうの?」
「スーさんの事じゃないわよ。植えた種が咲かないから、何かやり方に問題あるのかな―と思って」
「まあ、温度や湿度、種の状態とか色々と原因はあり得るわね。何の種?」
「拾ったやつだからわかんない」
「……蟻の死骸と間違えてるとかじゃないでしょうね」
「馬鹿にしないでよ! ちゃんと花の種だったわ! 多分」
語気強く断言――はできていないが、無駄に自信満々の様子でメディスンは言う。
「……とりあえず、その種を見てみましょうか」
指先で軽くこめかみを押さえて、幽香は外出の準備を始めた。
無名の丘で咲き誇る鈴蘭をしばし歓談といきたかったが、逸るメディスンにせっつかれてそのまま南へと抜ける。
穏やかな風が吹き下ろす丘の下り。その一角に、色とりどりの花が咲いている。
「あら、綺麗ね。いつの間にこんな場所を」
「ふっふっふ、色んな所から種を集めて、四季折々の花が開く畑を作るのよ」
「大したものだわ。それが成ったなら、花妖怪の名はあなたに譲ってもいいかもね」
「そしたら幽香が名無しの妖怪になっちゃうじゃない」
「私は『花の妖怪をいじめる妖怪』になるから良いのよ」
「どこも良くない!」
肩を怒らせるメディスンを茶化しながら、芽吹くもののない一角を目に止める。
「そう、ここよここ。他の種と同じようにしてるはずなのに、全然芽吹かないの」
「ふうん……?」
幽香は屈み込んで軽く土を混ぜ返す。
同じようにとは言っても、花の種類によって適切な状態は異なる。他の種が咲いたからといって、ここの種が同じようになるとは限らない。
しかし、メディスンがその辺で拾ってきた種というのであれば、ここの環境が生育に適さないというのは腑に落ちない。種だけが偶然にやって来たという可能性も無いではないだろうが……。
「拾ったっていうのはどこで?」
「ここからもっと人里に近いとこ。ほら、色んな花が咲いてる小さい丘があるでしょ?」
メディスンが言うのは、人里にほど近い花の丘である。季節ごとに様々な花が咲き乱れ、里に近く比較的安全でもある事から、人間が観光に訪れる事もある場所だった。幽香にとってもお気に入りの場所の一つだ。あそこなら、たしかに色んな花の種が見つかる事だろう。
そして、あの丘の花であれば、ここで咲かない理由はあまり無さそうでもある。
「種はまだある?」
問われたメディスンは、近くの木にぶら下げた布袋から幾つかの種を取り出した。
「えーと……あ、これこれ」
人より遥かに小さい手で、一つの種をつまみ上げる。
その手の中にあって、なお粒のように小さいそれは、およそ存在感というものを感じさせる事はない。
(……うん?)
しかし、手に取った瞬間に違和感を覚えた。
見た目におかしなところはない。だが、気配を感じる。
粒のように小さな種から気配とは、なんとも奇妙な事だが、幽香の感覚は鋭敏にそれを感じ取った。
「これは……妖気?」
「あ、そうそう! だから気づいたのよ。こんなちっこいのに、なんだか不思議と目についてね」
「……ふむ」
顎に手を当てて黙考する。
妖気が漂っているという事は、この種は何らかの妖怪と関わりがあるという事だ。
例えば、意のままに動く妖怪植物を育てたり、人を惑わす魔力を有する果実を実らせたりするために。
「この辺で、幽香以外に花と関わってる妖怪なんていたっけ?」
「あなた」
「いや、まあそうかもだけど、そうじゃなくて」
「冗談よ。まあいない事はないと思うけど、私の知るところではないわね」
ぷう、と軽く頬を膨らませたメディスンだが、怒るより話を進める方を選んだようだ。
「でも、誰がわざわざ花の種に細工なんかするの? それも、わざわざあんな場所に落ちているようなものを」
「あなたのような物好きが拾ってくれる事を期待したからじゃないの」
「うぐ。……まあそうとしても、普通に世話して芽も出ないのはなんでよ」
「そうねえ……」
誰かが細工をしたのであれば、芽が出やすくなるように生命力を吹き込んでおくものだ。
芽吹かなければ細工の意味もないとなれば、その程度の下準備はして然るべきだろう。
(まあ、種の状態である事が重要という可能性も無くはないけど……)
少し考え、幽香は種の中からいくつか状態の良いものを選別する。
そして、畑の一角を掘り返して、それを埋めた。
「お?」
メディスンが興味津々という様子で覗き込んでくるのを、首を百八十度回転させて妨害した。
「うぎゃー! 何するのよ!」
憤慨されるが無視する。特に意味はなかったからだ。
メディスンの身体は人形なので、首が取れた程度では活動に支障はない。
脚をゲシゲシと蹴りつけてくる――首が反対に回っているせいで狙いが定まらず、一つも当たらないが――のを尻目に、種の埋まった地面にそっと手を置いた。
手のひらから土へ、妖力が浸透してゆく。
花を操る風見幽香が能力の一つ。成長を促進させ、種を素早く開花させる妖力だ。
自然の営みを曲げてしまうためむやみには使わない能力であるが、ひとたび用いれば数分と経たずに芽を出し、程なく花開くはずである。
……しかし、いくら待ってみても何の反応もない。
「あら、何よ幽香。いつの間にか衰えたのね」
「やっぱり花の妖怪は返上して、メディスンをいじめる妖怪に転職ね」
「もう花関係ない!」
ぐぎ、と音を立てて首を直したメディスンが、今度こそ狙いをつけて蹴ってくるのを日傘でガードしつつ、幽香は立ち上がった。
「まあ冗談はさておき、これは多分『開花させない事そのもの』に妖力が使われているわね」
「……この種を咲かせたくない妖怪が何処かにいるって事?」
「もしくは、この種そのものが咲くまいとしているのかも、ね」
メディスンは「どゆこと?」と首を傾げた。見せつけるかのように、わざわざ幽香の目線と同じ高さまで飛び上がった上で。
小さな人形の身体にその幼い動作は確かに愛らしくはあり、幽香はさっと目線を反らした。一瞬口元が綻びかけたのは、多分見られてはいないだろう。
「……例えば妖精のイタズラとか、人間が残した想いが魂魄となって宿っているとか、そういうものを私たちが妖力として感知している可能性もあるわ。妖力も種そのものも小さすぎるから、その性質までははっきりと分からないからね」
幽香はそのまま、足先を花の丘の方角へと向ける。
「いずれとしても、種のあった現場を見てみるのが手っ取り早いでしょう」
「あれ、付き合ってくれるの?」
「ここまで関わらせておいて、今さらでしょうに。それに、花の事で私に分からない事があるというのは面白くないわ」
すうと口の両端を持ち上げ、目線は鋭く前を見据える。ぽきり、と指の関節が軽く鳴った。
「誰かの仕業というなら、私をコケにしてくれた報いは生命で償って貰わなくてはね……うふふ」
「本気じゃないくせに。ポーズだけ凄んでも怖くないよ―」
「……こういうのは本気だという事にしておいて、乗っかっておくものなの」
格好だけ凄むのを否定したら、このご時世に妖怪は立ち行かないというのに。
若い妖怪というのはこれだからいけない。そう考えて、いかにも年寄り臭い思考だと少しばかり自虐した。
春の時分、花の丘は暖かな微風が花の香を運び、その種を各所へと散らしてゆく。月見にも人気のスポットで、ことにこの時分は妖精の姿もよく見られる。とは言え、さすがに日の高い内から妖怪たちが跋扈しているという事は無く、なだらかな丘に人の影はなく閑散としたものである。
「いつ来ても、ここは賑やかね」
しかし、幽香にとっての感想はそうではないらしい。
花と共にある彼女にとっては、折々の花が開くこの地は宴会場のようなものだろうか。
メディスンは幽香を伴って丘を進む。
広い上に大した目印もない場所だが、頻繁に来ているメディスンにとっては庭のようなものだ。
「ほら、あそこ」
メディスンが指し示した場所は、他よりも少し花の色が濃い。とは言え、言われてみなければそこに何かがあるとは思わない程度には、他との区別が困難な一帯ではあった。
幽香はメディスンと並んでゆっくりと歩を進め、同じ場所で立ち止まる。
屈んで土をなで上げた幽香の手のひらに、小粒な種がいくつか乗っていた。
「……確かに、遠くからでもかすかな気配は感じるわね。これなら自然に見つけるのも不思議ではない……」
ぼそりと呟いた幽香は、そのままキョロキョロと周囲を見回す。
色とりどりの花が開く丘は、どこを見ても同じような景色と言えるし、どこにも同じ景色が無いとも言えた。
「幽香?」
その様子は何かを探すというより、確かめているかのように、メディスンには見えた。
かけられた声にも反応はなく、定まらぬ視線を方々に向けている。
「……誰か来るわね」
そんな様子だったから、その声への反応が遅れてしまった。
「見つかるのは上手くないわね」
「ん? え!?」
幽香はメディスンの首根っこをひょいと掴み上げ、そのまま早足で歩き始めた。
「ちょっと! どこへ行くのよ!」
じたばたともがくメディスンを一顧だにせず、スタスタと歩を進める。
しばし進んだ所で振り向き、腰をかがめる。そこでようやくメディスンは開放された。
場所を移したと言っても、広く視界の開けた丘の上。木の陰に隠れたわけでもなく、元の場所からもこの位置は丸見えのはずである。
しかし、幽香が眼前で上向けた手のひらにフッと息を吹きかけると、どこからともなく花吹雪が舞い上がって広がった。
「おおー」
思わず感嘆の息を漏らす。花吹雪はやがて穏やかに、二人の周囲を漂いだした。
「これって、向こうからこっちが見えなくなるっていうアレ?」
「正しくは、舞う花びらに認識がもって行かれて、私たちの存在に気づかなくさせるものだけどね」
それを見えなくなるというのではないだろうか。とメディスンは思ったが、わざわざ問い質すほどの事でも無いので黙っていた。
幽香に倣い視線を元の場所に向ける。人影などは特に見当たらない。気配もメディスンには分からない。
幽香の実力の抜きん出たるのはメディスンも知るところである。彼女が気配を感知したというのなら、間違いなく何かが来るのだろう。自分がそれに気付けない事は、少しばかり悔しくもあるが、言っても詮無い事だ。
四半刻ほどもそうしていただろうか。果たして、丘に人の影が差した。
「お、ホントに来たわ。誰かしら?」
「しっ。声は聞こえるんだから、静かに」
言われてメディスンは、両手で幽香の口をふさいだ。
べしっとすげなく払われ、顔をそむけられてしまった。耳が少し赤くなっているあたり、怒らせたかもしれない。
仕方なく、今度は自分の口をふさぐ。
老人だった。しわくちゃの顔は、メディスンが知らない年季を重ねてきた事を物語っている。
品の良い着物に袖を通し、足取りもしっかりしたもので、外見ほどには老いを感じさせない所作だった。
老人は例の種がある一帯で立ち止まり、小さな花束をそっと置いた。
そのまま膝を折り両手を合わせる。何事かを口に上らせていたが、遠すぎて声は届かなかった。
(……誰か死んだのかしら)
メディスンは老人に見覚えがないが、その所作には淀みがなく、何度もここに来ているのだろうと感じさせた。
しばらくの間そうしてから、老人はゆっくりと腰を持ち上げ、踵を返した。
去り際に一度だけ振り返り、丘の一帯を眺めるようにして。
老人の背中が見えなくなる頃合いで、メディスンは立ち上がった(それでも腰をかがめた幽香より低いのだが)。
「多分人里のおじいさんよね。こんな所に墓参り?」
人里が管理する共同墓地は、こことは反対側だ。
そこ以外に人里の者が埋葬される事は滅多にない。
あるとすれば里を追われた罪人などだろうか。しかし、いかにも品の良いあの老人とは結びつかないようにも思われた。
「もしかすると、人間じゃなくて妖怪の墓参りとか? うーん」
「…………」
「……幽香?」
一人うんうんと唸るメディスンを尻目に――というより、気付いてすらいないかのように、幽香は老人の去った方角を一心に見つめていた。
何を思っているのか、何も思っていないのか、その表情は空白だった。
メディスンが間近に顔を覗き込んでいると、不意に足を送り出して、老人の置いていった花束の側に屈み込んだ。
「ちょっと、幽香。どうしたのよ」
やはり声に反応はなく、幽香は小さな花束を見つめ、その側に落ちる種を見つめた。
「……何か気づいたの?」
「…………」
ひとしきり種を見つめた後、幽香はさっと手を払い、立ち上がった。
「さあ。皆目検討もつかないわね」
「…………」
何をいけしゃあしゃあと。どう見ても何もないって態度じゃないでしょう。
そう言いたかったが、幽香がこういう態度に出た時に、秘めた事柄を暴き出せた試しがない。腕も口も幽香の方がずっと達者で、メディスンは体よくあしらわれるのに歯噛みする事しかできないのだ。
「何にしても、まずあのご老体に探りを入れてみるのが良いんじゃない?」
「ふんだ。言われなくたってそうするわよ!」
「あらあら、何を怒っているのかしらねえ」
ぬけぬけと言い放つ幽香を尻目に、メディスンは老人の向かった先――人里へと歩を進めた。
そうは言っても、結局のところ人里を調べるのは主に幽香の仕事である。
一見して人間と変わりない容姿の幽香と違い、メディスンの体躯は人形のそれだ。祭りでもないのに人里の往来をおおっぴらに徘徊するわけにはいかないのであった。
「ほら、次はあっちよ! あの人がなんとなく知ってそうな気がするわ!」
「はいはい」
何の根拠もないと確信を持って言えるメディスンの指示に従い、幽香は大量の本を風呂敷に抱える少女に声をかけた。
少女はギョッとした様子で半歩後ずさった。
物言わぬ人形の振りをしている――とはお世辞にも言い難いメディスンを胸に抱えた幽香の姿は、微笑ましさよりも異様さの方が遥かに勝っていたのだろう。
「ちょっと聞きたいことがあるのだけど」
「あっ……あの、私、急いでるんですけど」
「すぐに済むわ」
なよやかな笑顔で告げる幽香に、有無を言わせぬ気配を感じ取ったか、少女はさらに後ずさった。しかし逃げる事は諦めたらしく、荷物を手放すような事はしなかった。
実際、質問は単純ですぐに終わる話である。
幽香が老人の特徴を告げて覚えがないか問うと、少女は知りませんと答えた。
「そう、有難う」
そう言って去る幽香の姿を、人々は遠巻きに眺めていた。
歩を進める先の誰もが道を開け、さながら楽団の行進の如きである。もしくは、悪魔の侵攻だろうか。
「……おい、そこの花妖怪」
凛とした声色を殊更に低く唸らせて、その声は幽香の耳に届いた。
「あら、慧音じゃないの。元気してた?」
「お前とそんな挨拶を交わす間柄だったかな、私は」
「つれないわねぇ、ハーブティーの里での売り込みを頼んだ仲じゃないの」
「お前に人里をうろつかれたくないから引き受けたというんだ。こんな風に徘徊されていたら意味がないだろう」
「私にだって事情はあるのよ」
「人間を脅かして回る事がか?」
「よく分かっているじゃない」
はあ、とため息をつき、上白沢慧音は腰に当てていた手を下ろした。
彼女が妖怪を相手に詰問する時は、胸の前で腕を組むか、腰に手を当てているかのどちらかだ。
その構えを解くのは、詰問を終わらせようかという合図である。
つまりは、実力行使もやむを得ないという事だ。
「うふふ、そう構えなさんな。今日は本当に用事があるのよ」
「毒人形を胸に抱えての用事とは、一体どんなに恐ろしい企てかな」
「人探しよ!」
と、それまで黙っていたメディスンが声を上げた。
人間の前ではしゃべらないようにしていたが、慧音は半妖でありメディスンの事も知っている。問題は、その周りに普通の人間もいっぱいいるという事だったが。
もっとも、それが人々に驚愕や恐怖を撒き散らすという事はなかった。
人々にとってみれば、風見幽香が里にいる事より恐ろしい事も、風見幽香が人形を抱いている事より驚くべき事も、ここにはなかったからである。
先程よりもいっとう深くため息をついた慧音は、下ろした腕を胸の前で組んだ。
「……で、誰を探しているって?」
さすがに知識と歴史の半獣という二つ名は伊達ではなく、慧音は伝えられた老人の特徴にあっさりと解答を出した。
「ここ?」
「そうみたいね」
幽香とメディスンがたどり着いたのは、古いが頑丈そうな店構えの花屋だった。カキツバタ、スミレ、サイネリアと多様な花が慎ましく立ち並ぶ様は、見る者を穏やかな気持ちにさせるだろう。
手入れの行き届いた様子に、幽香は満足気に頷いた。
「じー」
ふと、隠す気もない興味の視線を感じ取り、幽香とメディスンは足元を見やる。
年の頃は十にも満たないだろうか。女の子が一人、幽香を――というよりは、その胸に抱えられたメディスンを見つめていた。
「こんにちは。あなた、この花屋のお子さん?」
こくり、と女の子が首肯する。それからまた「じー」とメディスンに熱い視線を注ぐ。
「……ああ、ごめんなさい。この子は駄目なのよ」
女の子から遠ざけるようにメディスンを抱え直す。
メディスンの身体は鈴蘭の毒でできている。子供に触れさせるのはよろしくない。
(……幽香、幽香、大丈夫)
しかし、口の動きだけでメディスンが伝えてくる。
(子供に気に入られた方が話を聞きやすいでしょ)
愛玩人形扱いされる事をつとに嫌がるメディスンにしては、随分と殊勝な態度だ。
幽香は少し黙考し、膝をかがめて女の子と目線を合わせた。
「大事にしてくれるなら、少しだけ貸してあげる」
「……いいの?」
女の子の返事に、にっこりと微笑みを返す。
女の子はぱあっと破顔し、メディスンを大事そうに胸に抱え上げた。
「おやおや、すいませんねえ」
店の奥から老人が出てきて、幽香に軽く会釈した。
「構いませんわ。あの子も喜ぶでしょう」
くるくると回る女の子の腕の中で、早くも若干迷惑そうに目を細めたメディスンを眺める。
それでもきちんと毒は抑えているから、まあ問題はないだろう。
「お子さんですか? 少しお年が離れていらっしゃるようですが」
「養子ですよ。他に三人おります」
「そうでしたか。あの年頃は可愛い盛りでしょう」
「ほっほっほ、おっしゃる通りで……花をお探しでしたかな?」
「ええ。それに、よければ少しお話を伺えればと」
幽香と老人の会話は、メディスンにも聞こえているだろう。
子供の相手が嫌になって心を無にしていなければ、だが。
ああ、あの丘に埋葬されているのは、あたしの娘です。
……いえいえお気になさらず。もう随分と昔の事ですよ。
ああ、そうです。養子ではなくて、うちのが腹を痛めて産んだ一人娘でした。
これがまた大人しい娘でしてね。贔屓目ながら器量は悪くなかったかと思うんですが、なにぶん口がうまくない。年頃になっても織物屋の若にばかり引っ付いておりましたなあ。
ええ、織物屋とうちは古い馴染みでしてね。若……今はもう立派な旦那ですが、あちらさんとうちの奴も年が近いもんで、よく一緒になって遊んでいたもんです。うちのが二つばかり下だったんで、餓鬼の時分にゃ兄ィ、兄ィと後ろをくっついて回ってました。
……ええ、そうです。忘れもしません。若旦那の縁談が持ち上がった頃でした。普段からぼうっとしてる娘でしたが、いっとう呆けた様子が増えましてな。まあ、何か思うところはあったんでしょうが、うちは小さな花屋。かたや縁談のお相手は、織物屋に出資している、さる富豪の娘さんって話で、うちのが逆立ちしたって天秤の向こうにゃ乗りません。
ある日の事です。朝からあれの姿が見えませんでな。伝手を回っても影も差さないとくる。
日が落ちても見つかりゃしない。あたしはもう気が気じゃないですよ。眠れないまま夜が明けて、日が高くなった頃、若が駆け込んできたんです。
旅人がやってきて、うちのが死んじまったらしいと聞かされたんだそうです。最初あたしは信じませんでしたね。若も同じ気持ちだったんでしょう。二人して取るもの取りあえず、旅人から聞かされたって場所まで駆けつけたんです。そう、あの花の丘です。
……まあ、穏やかな死に顔でしたよ。なんだか花に囲まれちまって、まるでお話の中みたいだった。
それから人を呼んで、そのままそこに埋葬してやったんです。……うん? そうですねえ……何ていうか、そこに埋めてやるのが一番だって気になったんですわ。花たちが娘を守ってくれてるみたいでねえ。
それから、若は泣いてあたしに謝りました。何でも聞く所によりゃ、娘と若はあすこで落ち合うつもりだったらしいんです。どうやら二人は一緒になろうって約束してたそうでね。若はうちのを嫁に貰って、二人で織物屋を盛り立てていこうって言ってくれてたらしい。
ところが、まあこう言っちゃあなんですが、そん時の織物屋はうまく行っておりませんでね。ちょうど外由来の織物が流行りだした頃合いで、若んところのは仕立ては丁寧だが、特にこれって目玉があるでもなく、どうにも地味でいけないと言われてまして。なまじ付き合いが多いもんだから、方々からせっつかれていたらしいんです。
そんな折に持ち上がった縁談だ。パトロンとの結びつきは、ことにあの頃の織物屋にとっちゃあ何を差し置いてもってくらいの大事でしょう。当時の旦那が積極的に話を進めて、若はたいそうやりあったらしい。思い詰めて、ついにはうちのと一緒に逃げ出そうって思っちまったそうで。
けれども、家を出ようとしたところで、若はとっ捕まってしまいました。それからずうっと旦那と若で話し合って、日が落ちて夜が開けてもまだ続いたそうです。ええ、うちのと落ち合う約束の、まさにその日です。
まさか若も、日が落ちてもうちのが待ち続けてるなんて思いもしなかったんでしょう。夜に里の外で待つなんて、死にたがりのやることだ。約束の時間もとっくに過ぎてんだから、一旦戻って何事かと確かめりゃあいいものを、馬鹿みたいにずっと待ってるなんてねえ。
自分が呼び出したせいだって、若は泣いておりました。旦那もあたしのところに来て、何度も頭を下げましたねえ。まあ、しかし、あたしはお二人を恨んじゃいませんよ。それを言ったらあたしだって、娘の様子に気づいてやれなんだ。それにそもそもは、娘が馬鹿なことをしなきゃあそれで済んだ話だった。
……純粋だった、ですか? はは、そう言っていただけるならありがたいですが、それで死んじまっちゃあ世話もない。随分前に織物屋の旦那も亡くなったんですが、最後まであたしにすまないと言っておりましたよ。
それから? 若は正式に織物屋を継いで、結婚もしましたよ。……ああ、いや、別の娘さんとです。子供もできて、店もどうにか立て直したんですが、当時の事は思い出すに忍びないんでしょうなあ。あたしの顔を見ると、今も慚愧に堪えないという顔をしましてね……
人里は店の競争というものがあまり活発ではなく、いわゆる老舗という店が多い。
新しい技術や製品というものがそう頻繁には入ってこないため、一つの店が長くやっていく事ができるからだ。
とは言え、まったく競争がないわけでもなく、業績を落として閉まる店がないわけではない。
その織物屋も、一度は閉めるかどうかという瀬戸際まで行ったのだという。
「こうして眺めていると、悪かった時があるなんて信じられないわね」
(私はよく分かんないけどー)
メディスンを胸に抱えながら、幽香は織物屋の店内で商品を眺める。
深い色合いの派手になりすぎない仕立てで、見る者を落ち着かせる上品な品物を揃えていた。
商品の多くは花柄をあしらっており、店内にも様々な花が飾られている。
中でも一番の目玉だという商品は、桔梗の花模様をあしらった藍色の絹織物だ。
装いはいくらか派手ながら落ち着いた色合いで、よく人の目を惹き、しかし嫌味にはならない品の良さがある。
その商品を見分する客の側に、一人の男性があった。
口髭を上品に伸ばし丸眼鏡をかけ、痩せた体躯は一見して頼りなさそうではある。
しかし、伸ばした背筋には芯が通ったような力強さがあり、声も落ち着いたものだ。
この織物屋の旦那である。
彼は今も、ああして店に出ては客前で商品の具合を語り、客の要求を細かく聞いてはこれという品物を見立ててくれるのだそうだ。
伝統ある老舗の主人でありながら、その気さくな人柄が多くの人々に好まれていた。
「で、話を聞きにいかなくていいの?」
(だって、さっきのおじいさんの話でほとんど終わってるでしょ。後の事は、あの人に聞いてもしょうがないと思う)
「……だったら、どうしてこの店に来たの?」
(…………)
メディスンは答えず、じっと店の主人を見ていた。
結局のところ、未だ目的を達したとは言えない。
ある娘に降り掛かった悲劇。その娘の埋葬された地に現れる、妖気をまとう咲かない花の種。
この二つがどうやって結びついているのか。それがメディスンには分からないでいる。それは、主人や老人に聞いても同じ事だろう。
メディスンはしばらくじっとしていたが、不意に幽香の腕を離れ、飛翔して店先から飛び出した。
「あっ」
幽香はとっさに駆け出して、店を出る。
周辺に人はまばらで、そう多くの人に見咎められてはいないようだった。
「まったく、もう」
幽香はスタスタと店の脇から路地に入り、人の目がなくなった所で飛翔した。
そのままメディスンを追う。どこに向かったのかは、探るまでもない。
花の丘の一角、なだらかな傾斜の降りた先に、備えられた小さな花束。
その前にしゃがみ込み、メディスンはじっと大地を見つめていた。
背後に幽香が降り立っても、メディスンは振り向く事なく黙考していた。
不意に、小さな手を送り出して、粒のような種を拾い上げる。
「……要するにさ、これって霊魂よね」
呟くような声は、背後の幽香に向けたものだろう。
「そうね。ここで死んだ娘さんの、生前の想いが残り香としてここに留まっている。それが花の種と結びついているのでしょう」
言わば幽霊と同じものである。肉体を失った、想いだけの存在として、ただそこにある。それが、二人には妖気として感知されたのだ。
「でも、地縛霊として残っていたり、怨霊になって漂ったりはしてない」
「そうね。そのように強い未練があれば、もっとはっきりした形で留まったでしょうね」
幽香もメディスンも、種に宿る想いを感知する事はできなかった。
小さい種に宿ったものであれ、その想いが身を焦がすような激しさを、狂おしい情念を伴っていたならば、それを感じ取る事は難しくなかったはずなのだ。
「おーい、聞こえる?」
メディスンは、手のひらの上の種に語りかけた。
「ねえ、私があの男を殺してあげようか?」
何のてらいもなく、さっぱりした口調だった。
「私は毒を操れるの。人間ひとり殺すのなんてあっという間よ。あの男はここに墓参りに来ているらしいし、一人で来たところを襲えば簡単だわ。あなたと一緒に、ここに眠らせてやる事もできる」
風がさざめき、さあっと花が揺れたのは、偶然だろう。
手のひらの上で、種が揺れたのも。
それでも、その様子は何かを暗示しているようでもあり、じっと黙ったまま、メディスンは種を見つめた。
そして、ふうと息をつき、メディスンは種を地面に落とした。
「そんな事しなくていい、って言いたいみたい」
「声が聞こえたの?」
「聞こえない。でも、多分、そうだと思う」
やるせなさと、疑問と、少しの納得がないまぜになったような。
そんな表情を見せて、メディスンは種に背を向けた。
「……ある妖怪がいたの」
「? 何よ急に?」
「その妖怪はとっても親切な花の妖怪でね。奥ゆかしい花屋の娘さんの事も知っていたそうよ。
ある日、日が落ちた花の丘を妖怪が歩いていると、何やら騒々しい気配を感じたの。
向かってみると、人食い妖怪が数匹寄り集まって、一人の人間を襲っていたわ。
人間はあちこちから血を流して、特に背中は深く切り裂かれて、すぐに致命傷だと察しがついたわ。
花の妖怪はものすごく強くてね。他の妖怪からも恐れられていたの。本当はとっても親切なのに、きっと誤解されやすかったのね。
その時も、人食いたちはそそくさと足早に通り過ぎようとしたわ。住処に人間を運び込んで、ゆっくりいただくつもりだったのでしょう。
だけど、花の妖怪はその人間の顔を見て、人食いたちを呼び止めたわ。そして、みんな殺してしまったの。
人間は、花屋の娘さんだったわ。花の妖怪はきっと同情したのでしょう。
妖怪は娘さんに聞いたわ。『もう助けてはあげられないけど、何か思い残しはあるか』って。
娘さんは、胸に大事そうに抱えていた花束を差し出したわ。そして、これを織物屋の若旦那に届けて欲しいと言ったの。
妖怪が頷くと、娘さんは気丈に微笑んだわ。
そして、妖怪が日傘を地面に突き立てると、その周囲に一斉に花が開いたの。
娘さんは痛みも苦しみも失せたような表情を浮かべて、ゆっくりと目を閉じた。そして、二度とは開かなかった」
「……それで?」
メディスンはふよふよと浮かんで、幽香の表情を伺っていた。
幽香は目を閉じ、微笑んで、言葉を継ぐ。
「花束は娘さんの死の報と共に、織物屋の若旦那に届けられたわ。
それは桔梗の花だった。花言葉は『永遠の愛』」
「…………」
メディスンは振り向いて、あの花の種を、娘の眠る地を見つめた。
織物屋で見た、深い藍色の絹織物を思い出す。
さあっと、また風が吹いた。
花の香はゆるやかに渦巻いて、二人を包んでは離れた。
メディスンは幽香を見つめて、正面に向き直って、また幽香を見た。
「幽香は、その時どう思ったの?」
「私とは言ってないわよ。とっても親切な、花の妖怪さん」
「違うとも言ってないじゃないの……まあいいけど、花の妖怪さんはなんだって?」
「良くわからないって」
「おい」
「あの娘の想いは、あの娘だけのもの。外側からそれを暴いたり、知ったような顔をするのは無為な事だわ」
幽香は目を開いて、花の香を追った。
風は花びらを、種をその背に乗せて、緩やかに流れ行く。
森へ、湖へ、里へ、空へ。どこまでもは行けないけれど、きっと、行けるところまで。
決して咲かない桔梗の種は、彼女の想いを宿した種は、風に乗る事はない。
彼女は、ただここにいる事を選んだのだろう。
「それでも言葉にするならば、それが愛なのでしょう」
「……わかんないな。私だったら、絶対に男を恨むと思う。必ず道連れにしてやるって思うのに」
「あなたも誰かを愛してみれば、わかるかもしれないわよ」
「幽香はわかるの?」
「さあ、どうかしら」
咲き乱れる事は望みません。
ただ、あなたの心の中に開けば、それだけで。
ずう、とお茶をすすりながら、風見幽香はその宣言を聞いた。
些か力がこもったようで、すする音が少々はしたないと思った。
「そういう台詞は、まず先に質問をしてから言うのよ」
口の中で言葉を転がせてから、ゆっくりと吐き出す。
強い調子に怯む相手でない事は知っていた。生まれて日が浅く、ものの道理をいまいち把握していない事も。だから、諭すように穏やかに言って聞かせる事が必要なのだ。
言われた相手――メディスン・メランコリーはきょとんと呆けた表情を浮かべ、たっぷり十秒ほども首を傾げて黙考した。その後、口を開く。
「家中毒で満たしていい?」
「だめ」
メディスンは舌打ちをしようとして、うまく音が出ないのか口をパクパクさせ、その後に「ちぇっ」とはっきり発音した。
窓枠から手を離し、ふよふよと浮かびながら遠ざかっていく。
幽香はそれを見届けながら、またカップを手に取る。卓上のガラスポットには黄色い花びらがふわりふわりと踊る。
秋神様の勧めで作ってみたひまわりのハーブティーである。柔らかい香りが春の暖かな日差しと共に、優雅で穏やかな午後を彩る。
もっとも、その目を背後に向けてみれば、飛び込んでくるのは瓶詰めされたひまわりハーブの山である。
人里にも卸そうとの勧めに従ってみたはいいが、どれほど用意してみたものかとあいにく見当がつかず、香りは良いのだから多めに拵えた方が良かろうという皮算用の結果である。実際のところ評判は上々だったが、首尾よく全部を捌き切るというわけにはいかず、こうしてせっせと消費するハメになっているわけなのだ。
今年の夏までには全て捌いてしまいたい所である。
「……ちっがーう!」
メディスンがまた飛び込んできたのは、空になったカップに次を注ごうとポットを手に取った矢先の事だった。
「毒で満たす云々はどうでもいいのよ!」
「よく気がついたわね。えらいわ、メディスン」
「馬鹿にしてんの!?」
「よく気がついたわね。えらいわ、メディスン」
「ムキー!」
鼻息荒く掴みかかってくるメディスンを適当に押しのけ(メディスンの身長は幽香の半分もない)、しばしの暇つぶしとする。毒を放ってこないのは本気でないのか、その発想も浮かばないほど本気で憤慨しているのかは、幽香には判断できなかった。
ひとしきり暴れて――何一つ被害は出ていないが、とにかく満足はしたのか、ようやく要領を得た説明を聞くことができた。
「……要するに、花の育て方を教えてほしいって事?」
「うん」とメディスンが首肯する。
「あなた、鈴蘭畑の世話をしてるじゃないの。今さら何を聞きたいっていうの?」
「スーさんの事じゃないわよ。植えた種が咲かないから、何かやり方に問題あるのかな―と思って」
「まあ、温度や湿度、種の状態とか色々と原因はあり得るわね。何の種?」
「拾ったやつだからわかんない」
「……蟻の死骸と間違えてるとかじゃないでしょうね」
「馬鹿にしないでよ! ちゃんと花の種だったわ! 多分」
語気強く断言――はできていないが、無駄に自信満々の様子でメディスンは言う。
「……とりあえず、その種を見てみましょうか」
指先で軽くこめかみを押さえて、幽香は外出の準備を始めた。
無名の丘で咲き誇る鈴蘭をしばし歓談といきたかったが、逸るメディスンにせっつかれてそのまま南へと抜ける。
穏やかな風が吹き下ろす丘の下り。その一角に、色とりどりの花が咲いている。
「あら、綺麗ね。いつの間にこんな場所を」
「ふっふっふ、色んな所から種を集めて、四季折々の花が開く畑を作るのよ」
「大したものだわ。それが成ったなら、花妖怪の名はあなたに譲ってもいいかもね」
「そしたら幽香が名無しの妖怪になっちゃうじゃない」
「私は『花の妖怪をいじめる妖怪』になるから良いのよ」
「どこも良くない!」
肩を怒らせるメディスンを茶化しながら、芽吹くもののない一角を目に止める。
「そう、ここよここ。他の種と同じようにしてるはずなのに、全然芽吹かないの」
「ふうん……?」
幽香は屈み込んで軽く土を混ぜ返す。
同じようにとは言っても、花の種類によって適切な状態は異なる。他の種が咲いたからといって、ここの種が同じようになるとは限らない。
しかし、メディスンがその辺で拾ってきた種というのであれば、ここの環境が生育に適さないというのは腑に落ちない。種だけが偶然にやって来たという可能性も無いではないだろうが……。
「拾ったっていうのはどこで?」
「ここからもっと人里に近いとこ。ほら、色んな花が咲いてる小さい丘があるでしょ?」
メディスンが言うのは、人里にほど近い花の丘である。季節ごとに様々な花が咲き乱れ、里に近く比較的安全でもある事から、人間が観光に訪れる事もある場所だった。幽香にとってもお気に入りの場所の一つだ。あそこなら、たしかに色んな花の種が見つかる事だろう。
そして、あの丘の花であれば、ここで咲かない理由はあまり無さそうでもある。
「種はまだある?」
問われたメディスンは、近くの木にぶら下げた布袋から幾つかの種を取り出した。
「えーと……あ、これこれ」
人より遥かに小さい手で、一つの種をつまみ上げる。
その手の中にあって、なお粒のように小さいそれは、およそ存在感というものを感じさせる事はない。
(……うん?)
しかし、手に取った瞬間に違和感を覚えた。
見た目におかしなところはない。だが、気配を感じる。
粒のように小さな種から気配とは、なんとも奇妙な事だが、幽香の感覚は鋭敏にそれを感じ取った。
「これは……妖気?」
「あ、そうそう! だから気づいたのよ。こんなちっこいのに、なんだか不思議と目についてね」
「……ふむ」
顎に手を当てて黙考する。
妖気が漂っているという事は、この種は何らかの妖怪と関わりがあるという事だ。
例えば、意のままに動く妖怪植物を育てたり、人を惑わす魔力を有する果実を実らせたりするために。
「この辺で、幽香以外に花と関わってる妖怪なんていたっけ?」
「あなた」
「いや、まあそうかもだけど、そうじゃなくて」
「冗談よ。まあいない事はないと思うけど、私の知るところではないわね」
ぷう、と軽く頬を膨らませたメディスンだが、怒るより話を進める方を選んだようだ。
「でも、誰がわざわざ花の種に細工なんかするの? それも、わざわざあんな場所に落ちているようなものを」
「あなたのような物好きが拾ってくれる事を期待したからじゃないの」
「うぐ。……まあそうとしても、普通に世話して芽も出ないのはなんでよ」
「そうねえ……」
誰かが細工をしたのであれば、芽が出やすくなるように生命力を吹き込んでおくものだ。
芽吹かなければ細工の意味もないとなれば、その程度の下準備はして然るべきだろう。
(まあ、種の状態である事が重要という可能性も無くはないけど……)
少し考え、幽香は種の中からいくつか状態の良いものを選別する。
そして、畑の一角を掘り返して、それを埋めた。
「お?」
メディスンが興味津々という様子で覗き込んでくるのを、首を百八十度回転させて妨害した。
「うぎゃー! 何するのよ!」
憤慨されるが無視する。特に意味はなかったからだ。
メディスンの身体は人形なので、首が取れた程度では活動に支障はない。
脚をゲシゲシと蹴りつけてくる――首が反対に回っているせいで狙いが定まらず、一つも当たらないが――のを尻目に、種の埋まった地面にそっと手を置いた。
手のひらから土へ、妖力が浸透してゆく。
花を操る風見幽香が能力の一つ。成長を促進させ、種を素早く開花させる妖力だ。
自然の営みを曲げてしまうためむやみには使わない能力であるが、ひとたび用いれば数分と経たずに芽を出し、程なく花開くはずである。
……しかし、いくら待ってみても何の反応もない。
「あら、何よ幽香。いつの間にか衰えたのね」
「やっぱり花の妖怪は返上して、メディスンをいじめる妖怪に転職ね」
「もう花関係ない!」
ぐぎ、と音を立てて首を直したメディスンが、今度こそ狙いをつけて蹴ってくるのを日傘でガードしつつ、幽香は立ち上がった。
「まあ冗談はさておき、これは多分『開花させない事そのもの』に妖力が使われているわね」
「……この種を咲かせたくない妖怪が何処かにいるって事?」
「もしくは、この種そのものが咲くまいとしているのかも、ね」
メディスンは「どゆこと?」と首を傾げた。見せつけるかのように、わざわざ幽香の目線と同じ高さまで飛び上がった上で。
小さな人形の身体にその幼い動作は確かに愛らしくはあり、幽香はさっと目線を反らした。一瞬口元が綻びかけたのは、多分見られてはいないだろう。
「……例えば妖精のイタズラとか、人間が残した想いが魂魄となって宿っているとか、そういうものを私たちが妖力として感知している可能性もあるわ。妖力も種そのものも小さすぎるから、その性質までははっきりと分からないからね」
幽香はそのまま、足先を花の丘の方角へと向ける。
「いずれとしても、種のあった現場を見てみるのが手っ取り早いでしょう」
「あれ、付き合ってくれるの?」
「ここまで関わらせておいて、今さらでしょうに。それに、花の事で私に分からない事があるというのは面白くないわ」
すうと口の両端を持ち上げ、目線は鋭く前を見据える。ぽきり、と指の関節が軽く鳴った。
「誰かの仕業というなら、私をコケにしてくれた報いは生命で償って貰わなくてはね……うふふ」
「本気じゃないくせに。ポーズだけ凄んでも怖くないよ―」
「……こういうのは本気だという事にしておいて、乗っかっておくものなの」
格好だけ凄むのを否定したら、このご時世に妖怪は立ち行かないというのに。
若い妖怪というのはこれだからいけない。そう考えて、いかにも年寄り臭い思考だと少しばかり自虐した。
春の時分、花の丘は暖かな微風が花の香を運び、その種を各所へと散らしてゆく。月見にも人気のスポットで、ことにこの時分は妖精の姿もよく見られる。とは言え、さすがに日の高い内から妖怪たちが跋扈しているという事は無く、なだらかな丘に人の影はなく閑散としたものである。
「いつ来ても、ここは賑やかね」
しかし、幽香にとっての感想はそうではないらしい。
花と共にある彼女にとっては、折々の花が開くこの地は宴会場のようなものだろうか。
メディスンは幽香を伴って丘を進む。
広い上に大した目印もない場所だが、頻繁に来ているメディスンにとっては庭のようなものだ。
「ほら、あそこ」
メディスンが指し示した場所は、他よりも少し花の色が濃い。とは言え、言われてみなければそこに何かがあるとは思わない程度には、他との区別が困難な一帯ではあった。
幽香はメディスンと並んでゆっくりと歩を進め、同じ場所で立ち止まる。
屈んで土をなで上げた幽香の手のひらに、小粒な種がいくつか乗っていた。
「……確かに、遠くからでもかすかな気配は感じるわね。これなら自然に見つけるのも不思議ではない……」
ぼそりと呟いた幽香は、そのままキョロキョロと周囲を見回す。
色とりどりの花が開く丘は、どこを見ても同じような景色と言えるし、どこにも同じ景色が無いとも言えた。
「幽香?」
その様子は何かを探すというより、確かめているかのように、メディスンには見えた。
かけられた声にも反応はなく、定まらぬ視線を方々に向けている。
「……誰か来るわね」
そんな様子だったから、その声への反応が遅れてしまった。
「見つかるのは上手くないわね」
「ん? え!?」
幽香はメディスンの首根っこをひょいと掴み上げ、そのまま早足で歩き始めた。
「ちょっと! どこへ行くのよ!」
じたばたともがくメディスンを一顧だにせず、スタスタと歩を進める。
しばし進んだ所で振り向き、腰をかがめる。そこでようやくメディスンは開放された。
場所を移したと言っても、広く視界の開けた丘の上。木の陰に隠れたわけでもなく、元の場所からもこの位置は丸見えのはずである。
しかし、幽香が眼前で上向けた手のひらにフッと息を吹きかけると、どこからともなく花吹雪が舞い上がって広がった。
「おおー」
思わず感嘆の息を漏らす。花吹雪はやがて穏やかに、二人の周囲を漂いだした。
「これって、向こうからこっちが見えなくなるっていうアレ?」
「正しくは、舞う花びらに認識がもって行かれて、私たちの存在に気づかなくさせるものだけどね」
それを見えなくなるというのではないだろうか。とメディスンは思ったが、わざわざ問い質すほどの事でも無いので黙っていた。
幽香に倣い視線を元の場所に向ける。人影などは特に見当たらない。気配もメディスンには分からない。
幽香の実力の抜きん出たるのはメディスンも知るところである。彼女が気配を感知したというのなら、間違いなく何かが来るのだろう。自分がそれに気付けない事は、少しばかり悔しくもあるが、言っても詮無い事だ。
四半刻ほどもそうしていただろうか。果たして、丘に人の影が差した。
「お、ホントに来たわ。誰かしら?」
「しっ。声は聞こえるんだから、静かに」
言われてメディスンは、両手で幽香の口をふさいだ。
べしっとすげなく払われ、顔をそむけられてしまった。耳が少し赤くなっているあたり、怒らせたかもしれない。
仕方なく、今度は自分の口をふさぐ。
老人だった。しわくちゃの顔は、メディスンが知らない年季を重ねてきた事を物語っている。
品の良い着物に袖を通し、足取りもしっかりしたもので、外見ほどには老いを感じさせない所作だった。
老人は例の種がある一帯で立ち止まり、小さな花束をそっと置いた。
そのまま膝を折り両手を合わせる。何事かを口に上らせていたが、遠すぎて声は届かなかった。
(……誰か死んだのかしら)
メディスンは老人に見覚えがないが、その所作には淀みがなく、何度もここに来ているのだろうと感じさせた。
しばらくの間そうしてから、老人はゆっくりと腰を持ち上げ、踵を返した。
去り際に一度だけ振り返り、丘の一帯を眺めるようにして。
老人の背中が見えなくなる頃合いで、メディスンは立ち上がった(それでも腰をかがめた幽香より低いのだが)。
「多分人里のおじいさんよね。こんな所に墓参り?」
人里が管理する共同墓地は、こことは反対側だ。
そこ以外に人里の者が埋葬される事は滅多にない。
あるとすれば里を追われた罪人などだろうか。しかし、いかにも品の良いあの老人とは結びつかないようにも思われた。
「もしかすると、人間じゃなくて妖怪の墓参りとか? うーん」
「…………」
「……幽香?」
一人うんうんと唸るメディスンを尻目に――というより、気付いてすらいないかのように、幽香は老人の去った方角を一心に見つめていた。
何を思っているのか、何も思っていないのか、その表情は空白だった。
メディスンが間近に顔を覗き込んでいると、不意に足を送り出して、老人の置いていった花束の側に屈み込んだ。
「ちょっと、幽香。どうしたのよ」
やはり声に反応はなく、幽香は小さな花束を見つめ、その側に落ちる種を見つめた。
「……何か気づいたの?」
「…………」
ひとしきり種を見つめた後、幽香はさっと手を払い、立ち上がった。
「さあ。皆目検討もつかないわね」
「…………」
何をいけしゃあしゃあと。どう見ても何もないって態度じゃないでしょう。
そう言いたかったが、幽香がこういう態度に出た時に、秘めた事柄を暴き出せた試しがない。腕も口も幽香の方がずっと達者で、メディスンは体よくあしらわれるのに歯噛みする事しかできないのだ。
「何にしても、まずあのご老体に探りを入れてみるのが良いんじゃない?」
「ふんだ。言われなくたってそうするわよ!」
「あらあら、何を怒っているのかしらねえ」
ぬけぬけと言い放つ幽香を尻目に、メディスンは老人の向かった先――人里へと歩を進めた。
そうは言っても、結局のところ人里を調べるのは主に幽香の仕事である。
一見して人間と変わりない容姿の幽香と違い、メディスンの体躯は人形のそれだ。祭りでもないのに人里の往来をおおっぴらに徘徊するわけにはいかないのであった。
「ほら、次はあっちよ! あの人がなんとなく知ってそうな気がするわ!」
「はいはい」
何の根拠もないと確信を持って言えるメディスンの指示に従い、幽香は大量の本を風呂敷に抱える少女に声をかけた。
少女はギョッとした様子で半歩後ずさった。
物言わぬ人形の振りをしている――とはお世辞にも言い難いメディスンを胸に抱えた幽香の姿は、微笑ましさよりも異様さの方が遥かに勝っていたのだろう。
「ちょっと聞きたいことがあるのだけど」
「あっ……あの、私、急いでるんですけど」
「すぐに済むわ」
なよやかな笑顔で告げる幽香に、有無を言わせぬ気配を感じ取ったか、少女はさらに後ずさった。しかし逃げる事は諦めたらしく、荷物を手放すような事はしなかった。
実際、質問は単純ですぐに終わる話である。
幽香が老人の特徴を告げて覚えがないか問うと、少女は知りませんと答えた。
「そう、有難う」
そう言って去る幽香の姿を、人々は遠巻きに眺めていた。
歩を進める先の誰もが道を開け、さながら楽団の行進の如きである。もしくは、悪魔の侵攻だろうか。
「……おい、そこの花妖怪」
凛とした声色を殊更に低く唸らせて、その声は幽香の耳に届いた。
「あら、慧音じゃないの。元気してた?」
「お前とそんな挨拶を交わす間柄だったかな、私は」
「つれないわねぇ、ハーブティーの里での売り込みを頼んだ仲じゃないの」
「お前に人里をうろつかれたくないから引き受けたというんだ。こんな風に徘徊されていたら意味がないだろう」
「私にだって事情はあるのよ」
「人間を脅かして回る事がか?」
「よく分かっているじゃない」
はあ、とため息をつき、上白沢慧音は腰に当てていた手を下ろした。
彼女が妖怪を相手に詰問する時は、胸の前で腕を組むか、腰に手を当てているかのどちらかだ。
その構えを解くのは、詰問を終わらせようかという合図である。
つまりは、実力行使もやむを得ないという事だ。
「うふふ、そう構えなさんな。今日は本当に用事があるのよ」
「毒人形を胸に抱えての用事とは、一体どんなに恐ろしい企てかな」
「人探しよ!」
と、それまで黙っていたメディスンが声を上げた。
人間の前ではしゃべらないようにしていたが、慧音は半妖でありメディスンの事も知っている。問題は、その周りに普通の人間もいっぱいいるという事だったが。
もっとも、それが人々に驚愕や恐怖を撒き散らすという事はなかった。
人々にとってみれば、風見幽香が里にいる事より恐ろしい事も、風見幽香が人形を抱いている事より驚くべき事も、ここにはなかったからである。
先程よりもいっとう深くため息をついた慧音は、下ろした腕を胸の前で組んだ。
「……で、誰を探しているって?」
さすがに知識と歴史の半獣という二つ名は伊達ではなく、慧音は伝えられた老人の特徴にあっさりと解答を出した。
「ここ?」
「そうみたいね」
幽香とメディスンがたどり着いたのは、古いが頑丈そうな店構えの花屋だった。カキツバタ、スミレ、サイネリアと多様な花が慎ましく立ち並ぶ様は、見る者を穏やかな気持ちにさせるだろう。
手入れの行き届いた様子に、幽香は満足気に頷いた。
「じー」
ふと、隠す気もない興味の視線を感じ取り、幽香とメディスンは足元を見やる。
年の頃は十にも満たないだろうか。女の子が一人、幽香を――というよりは、その胸に抱えられたメディスンを見つめていた。
「こんにちは。あなた、この花屋のお子さん?」
こくり、と女の子が首肯する。それからまた「じー」とメディスンに熱い視線を注ぐ。
「……ああ、ごめんなさい。この子は駄目なのよ」
女の子から遠ざけるようにメディスンを抱え直す。
メディスンの身体は鈴蘭の毒でできている。子供に触れさせるのはよろしくない。
(……幽香、幽香、大丈夫)
しかし、口の動きだけでメディスンが伝えてくる。
(子供に気に入られた方が話を聞きやすいでしょ)
愛玩人形扱いされる事をつとに嫌がるメディスンにしては、随分と殊勝な態度だ。
幽香は少し黙考し、膝をかがめて女の子と目線を合わせた。
「大事にしてくれるなら、少しだけ貸してあげる」
「……いいの?」
女の子の返事に、にっこりと微笑みを返す。
女の子はぱあっと破顔し、メディスンを大事そうに胸に抱え上げた。
「おやおや、すいませんねえ」
店の奥から老人が出てきて、幽香に軽く会釈した。
「構いませんわ。あの子も喜ぶでしょう」
くるくると回る女の子の腕の中で、早くも若干迷惑そうに目を細めたメディスンを眺める。
それでもきちんと毒は抑えているから、まあ問題はないだろう。
「お子さんですか? 少しお年が離れていらっしゃるようですが」
「養子ですよ。他に三人おります」
「そうでしたか。あの年頃は可愛い盛りでしょう」
「ほっほっほ、おっしゃる通りで……花をお探しでしたかな?」
「ええ。それに、よければ少しお話を伺えればと」
幽香と老人の会話は、メディスンにも聞こえているだろう。
子供の相手が嫌になって心を無にしていなければ、だが。
ああ、あの丘に埋葬されているのは、あたしの娘です。
……いえいえお気になさらず。もう随分と昔の事ですよ。
ああ、そうです。養子ではなくて、うちのが腹を痛めて産んだ一人娘でした。
これがまた大人しい娘でしてね。贔屓目ながら器量は悪くなかったかと思うんですが、なにぶん口がうまくない。年頃になっても織物屋の若にばかり引っ付いておりましたなあ。
ええ、織物屋とうちは古い馴染みでしてね。若……今はもう立派な旦那ですが、あちらさんとうちの奴も年が近いもんで、よく一緒になって遊んでいたもんです。うちのが二つばかり下だったんで、餓鬼の時分にゃ兄ィ、兄ィと後ろをくっついて回ってました。
……ええ、そうです。忘れもしません。若旦那の縁談が持ち上がった頃でした。普段からぼうっとしてる娘でしたが、いっとう呆けた様子が増えましてな。まあ、何か思うところはあったんでしょうが、うちは小さな花屋。かたや縁談のお相手は、織物屋に出資している、さる富豪の娘さんって話で、うちのが逆立ちしたって天秤の向こうにゃ乗りません。
ある日の事です。朝からあれの姿が見えませんでな。伝手を回っても影も差さないとくる。
日が落ちても見つかりゃしない。あたしはもう気が気じゃないですよ。眠れないまま夜が明けて、日が高くなった頃、若が駆け込んできたんです。
旅人がやってきて、うちのが死んじまったらしいと聞かされたんだそうです。最初あたしは信じませんでしたね。若も同じ気持ちだったんでしょう。二人して取るもの取りあえず、旅人から聞かされたって場所まで駆けつけたんです。そう、あの花の丘です。
……まあ、穏やかな死に顔でしたよ。なんだか花に囲まれちまって、まるでお話の中みたいだった。
それから人を呼んで、そのままそこに埋葬してやったんです。……うん? そうですねえ……何ていうか、そこに埋めてやるのが一番だって気になったんですわ。花たちが娘を守ってくれてるみたいでねえ。
それから、若は泣いてあたしに謝りました。何でも聞く所によりゃ、娘と若はあすこで落ち合うつもりだったらしいんです。どうやら二人は一緒になろうって約束してたそうでね。若はうちのを嫁に貰って、二人で織物屋を盛り立てていこうって言ってくれてたらしい。
ところが、まあこう言っちゃあなんですが、そん時の織物屋はうまく行っておりませんでね。ちょうど外由来の織物が流行りだした頃合いで、若んところのは仕立ては丁寧だが、特にこれって目玉があるでもなく、どうにも地味でいけないと言われてまして。なまじ付き合いが多いもんだから、方々からせっつかれていたらしいんです。
そんな折に持ち上がった縁談だ。パトロンとの結びつきは、ことにあの頃の織物屋にとっちゃあ何を差し置いてもってくらいの大事でしょう。当時の旦那が積極的に話を進めて、若はたいそうやりあったらしい。思い詰めて、ついにはうちのと一緒に逃げ出そうって思っちまったそうで。
けれども、家を出ようとしたところで、若はとっ捕まってしまいました。それからずうっと旦那と若で話し合って、日が落ちて夜が開けてもまだ続いたそうです。ええ、うちのと落ち合う約束の、まさにその日です。
まさか若も、日が落ちてもうちのが待ち続けてるなんて思いもしなかったんでしょう。夜に里の外で待つなんて、死にたがりのやることだ。約束の時間もとっくに過ぎてんだから、一旦戻って何事かと確かめりゃあいいものを、馬鹿みたいにずっと待ってるなんてねえ。
自分が呼び出したせいだって、若は泣いておりました。旦那もあたしのところに来て、何度も頭を下げましたねえ。まあ、しかし、あたしはお二人を恨んじゃいませんよ。それを言ったらあたしだって、娘の様子に気づいてやれなんだ。それにそもそもは、娘が馬鹿なことをしなきゃあそれで済んだ話だった。
……純粋だった、ですか? はは、そう言っていただけるならありがたいですが、それで死んじまっちゃあ世話もない。随分前に織物屋の旦那も亡くなったんですが、最後まであたしにすまないと言っておりましたよ。
それから? 若は正式に織物屋を継いで、結婚もしましたよ。……ああ、いや、別の娘さんとです。子供もできて、店もどうにか立て直したんですが、当時の事は思い出すに忍びないんでしょうなあ。あたしの顔を見ると、今も慚愧に堪えないという顔をしましてね……
人里は店の競争というものがあまり活発ではなく、いわゆる老舗という店が多い。
新しい技術や製品というものがそう頻繁には入ってこないため、一つの店が長くやっていく事ができるからだ。
とは言え、まったく競争がないわけでもなく、業績を落として閉まる店がないわけではない。
その織物屋も、一度は閉めるかどうかという瀬戸際まで行ったのだという。
「こうして眺めていると、悪かった時があるなんて信じられないわね」
(私はよく分かんないけどー)
メディスンを胸に抱えながら、幽香は織物屋の店内で商品を眺める。
深い色合いの派手になりすぎない仕立てで、見る者を落ち着かせる上品な品物を揃えていた。
商品の多くは花柄をあしらっており、店内にも様々な花が飾られている。
中でも一番の目玉だという商品は、桔梗の花模様をあしらった藍色の絹織物だ。
装いはいくらか派手ながら落ち着いた色合いで、よく人の目を惹き、しかし嫌味にはならない品の良さがある。
その商品を見分する客の側に、一人の男性があった。
口髭を上品に伸ばし丸眼鏡をかけ、痩せた体躯は一見して頼りなさそうではある。
しかし、伸ばした背筋には芯が通ったような力強さがあり、声も落ち着いたものだ。
この織物屋の旦那である。
彼は今も、ああして店に出ては客前で商品の具合を語り、客の要求を細かく聞いてはこれという品物を見立ててくれるのだそうだ。
伝統ある老舗の主人でありながら、その気さくな人柄が多くの人々に好まれていた。
「で、話を聞きにいかなくていいの?」
(だって、さっきのおじいさんの話でほとんど終わってるでしょ。後の事は、あの人に聞いてもしょうがないと思う)
「……だったら、どうしてこの店に来たの?」
(…………)
メディスンは答えず、じっと店の主人を見ていた。
結局のところ、未だ目的を達したとは言えない。
ある娘に降り掛かった悲劇。その娘の埋葬された地に現れる、妖気をまとう咲かない花の種。
この二つがどうやって結びついているのか。それがメディスンには分からないでいる。それは、主人や老人に聞いても同じ事だろう。
メディスンはしばらくじっとしていたが、不意に幽香の腕を離れ、飛翔して店先から飛び出した。
「あっ」
幽香はとっさに駆け出して、店を出る。
周辺に人はまばらで、そう多くの人に見咎められてはいないようだった。
「まったく、もう」
幽香はスタスタと店の脇から路地に入り、人の目がなくなった所で飛翔した。
そのままメディスンを追う。どこに向かったのかは、探るまでもない。
花の丘の一角、なだらかな傾斜の降りた先に、備えられた小さな花束。
その前にしゃがみ込み、メディスンはじっと大地を見つめていた。
背後に幽香が降り立っても、メディスンは振り向く事なく黙考していた。
不意に、小さな手を送り出して、粒のような種を拾い上げる。
「……要するにさ、これって霊魂よね」
呟くような声は、背後の幽香に向けたものだろう。
「そうね。ここで死んだ娘さんの、生前の想いが残り香としてここに留まっている。それが花の種と結びついているのでしょう」
言わば幽霊と同じものである。肉体を失った、想いだけの存在として、ただそこにある。それが、二人には妖気として感知されたのだ。
「でも、地縛霊として残っていたり、怨霊になって漂ったりはしてない」
「そうね。そのように強い未練があれば、もっとはっきりした形で留まったでしょうね」
幽香もメディスンも、種に宿る想いを感知する事はできなかった。
小さい種に宿ったものであれ、その想いが身を焦がすような激しさを、狂おしい情念を伴っていたならば、それを感じ取る事は難しくなかったはずなのだ。
「おーい、聞こえる?」
メディスンは、手のひらの上の種に語りかけた。
「ねえ、私があの男を殺してあげようか?」
何のてらいもなく、さっぱりした口調だった。
「私は毒を操れるの。人間ひとり殺すのなんてあっという間よ。あの男はここに墓参りに来ているらしいし、一人で来たところを襲えば簡単だわ。あなたと一緒に、ここに眠らせてやる事もできる」
風がさざめき、さあっと花が揺れたのは、偶然だろう。
手のひらの上で、種が揺れたのも。
それでも、その様子は何かを暗示しているようでもあり、じっと黙ったまま、メディスンは種を見つめた。
そして、ふうと息をつき、メディスンは種を地面に落とした。
「そんな事しなくていい、って言いたいみたい」
「声が聞こえたの?」
「聞こえない。でも、多分、そうだと思う」
やるせなさと、疑問と、少しの納得がないまぜになったような。
そんな表情を見せて、メディスンは種に背を向けた。
「……ある妖怪がいたの」
「? 何よ急に?」
「その妖怪はとっても親切な花の妖怪でね。奥ゆかしい花屋の娘さんの事も知っていたそうよ。
ある日、日が落ちた花の丘を妖怪が歩いていると、何やら騒々しい気配を感じたの。
向かってみると、人食い妖怪が数匹寄り集まって、一人の人間を襲っていたわ。
人間はあちこちから血を流して、特に背中は深く切り裂かれて、すぐに致命傷だと察しがついたわ。
花の妖怪はものすごく強くてね。他の妖怪からも恐れられていたの。本当はとっても親切なのに、きっと誤解されやすかったのね。
その時も、人食いたちはそそくさと足早に通り過ぎようとしたわ。住処に人間を運び込んで、ゆっくりいただくつもりだったのでしょう。
だけど、花の妖怪はその人間の顔を見て、人食いたちを呼び止めたわ。そして、みんな殺してしまったの。
人間は、花屋の娘さんだったわ。花の妖怪はきっと同情したのでしょう。
妖怪は娘さんに聞いたわ。『もう助けてはあげられないけど、何か思い残しはあるか』って。
娘さんは、胸に大事そうに抱えていた花束を差し出したわ。そして、これを織物屋の若旦那に届けて欲しいと言ったの。
妖怪が頷くと、娘さんは気丈に微笑んだわ。
そして、妖怪が日傘を地面に突き立てると、その周囲に一斉に花が開いたの。
娘さんは痛みも苦しみも失せたような表情を浮かべて、ゆっくりと目を閉じた。そして、二度とは開かなかった」
「……それで?」
メディスンはふよふよと浮かんで、幽香の表情を伺っていた。
幽香は目を閉じ、微笑んで、言葉を継ぐ。
「花束は娘さんの死の報と共に、織物屋の若旦那に届けられたわ。
それは桔梗の花だった。花言葉は『永遠の愛』」
「…………」
メディスンは振り向いて、あの花の種を、娘の眠る地を見つめた。
織物屋で見た、深い藍色の絹織物を思い出す。
さあっと、また風が吹いた。
花の香はゆるやかに渦巻いて、二人を包んでは離れた。
メディスンは幽香を見つめて、正面に向き直って、また幽香を見た。
「幽香は、その時どう思ったの?」
「私とは言ってないわよ。とっても親切な、花の妖怪さん」
「違うとも言ってないじゃないの……まあいいけど、花の妖怪さんはなんだって?」
「良くわからないって」
「おい」
「あの娘の想いは、あの娘だけのもの。外側からそれを暴いたり、知ったような顔をするのは無為な事だわ」
幽香は目を開いて、花の香を追った。
風は花びらを、種をその背に乗せて、緩やかに流れ行く。
森へ、湖へ、里へ、空へ。どこまでもは行けないけれど、きっと、行けるところまで。
決して咲かない桔梗の種は、彼女の想いを宿した種は、風に乗る事はない。
彼女は、ただここにいる事を選んだのだろう。
「それでも言葉にするならば、それが愛なのでしょう」
「……わかんないな。私だったら、絶対に男を恨むと思う。必ず道連れにしてやるって思うのに」
「あなたも誰かを愛してみれば、わかるかもしれないわよ」
「幽香はわかるの?」
「さあ、どうかしら」
咲き乱れる事は望みません。
ただ、あなたの心の中に開けば、それだけで。
切ないけど、どこか想いの残るようなお話で、良い読後感でした。
幼いメディスンといいお姉さんと見せかけて割と意地悪な幽香がいいコンビでした
この種は自分を見つけて欲しかったのだろうか