叡山電鉄本線の出町柳駅のすぐ脇を、高野川沿いに伸びる川端通りを北へ進み、御蔭通りに交わる手前で右に曲がったところに、そのアパートはある。
古ぼけた鉄筋コンクリートのアパートで、壁にはまるで血が伝ったような跡や、表面がはがれて鉄筋が露わになった箇所が点在していた。
通りに面した場所に二階に続く階段があり、その下に郵便受けが並んでいる。
封筒やはがきが郵便受けの口から溢れ出ていたが、回収する気も起きなかった。
怪談を上って、一番奥にある二〇四号室へと向かう。
表札は掛かっていなかった。鍵を開け、鉄の重たい扉を開ける。
玄関脇のスイッチを押すと、しばらく点滅してから蛍光灯の黄ばんだ光が部屋の中を照らした。
リビングに向かう。部屋の中はがらんとしていて誰もいない。
ソファー兼ベッドに腰掛け、私は深くため息を吐いた。
親友のメリーが行方不明になってから、もうひと月以上が経過していた。
大学を出てから家に帰る途中で行方がわからなくなったらしかった。
携帯も音信不通で、警察に相談はしたが捜索をしてくれるわけでもなく、毎日あちこちを歩き回ってはみたものの、まるで最初からいなかったかのように彼女の面影はどこにもなかった。
メリーは日本に身寄りがなく、おまけに一人暮らしであり、家出である可能性はないに等しい。
それに、止むに止まれぬ事情があって姿をくらまさざるをえないにしても、せめて一言くらいお別れの言葉を言ってくれたって良いはずである。
それが、本当に何の兆候もなく、唐突に、彼女は姿を消してしまった。
なにか事件に巻き込まれてしまったのではないかと考えるのが普通である。
あれから、ろくに眠れない日々が続いていた。
毎晩毎晩、メリーに襲いかかったかもしれない、およそ想像しうる上でもっとも悲惨な出来事を思ってしまうと、恐怖に目を閉じることができなくなるのだ。
そうしてやっと二、三時間ほど眠ると、時間は朝の八時頃になっており、私は家を出るのだ。
頭がくらくらとする。明らかに寝不足だった。
このままでは近いうちに私“も”死んでしまうかもしれない。
そこまで考えて、私は自己嫌悪した。
けれども、もはや自分自身ですら、メリーはすでに死んでしまっていると考えてしまっているのはゆるぎのない事実で、自分を騙し続けることなんてできなかった。
お願い。どうか、生きていて……。
私は彼女の無事を祈りながら、溢れ出てくる涙をティッシュでぬぐった。
その時、チャイムが鳴った。
続いて扉の向こうからくぐもった声で「宇佐見さーん! お届け物ですー!」という声が聞こえた。
立ち上がり、玄関へと向かう。
扉を開けると、郵便配達員の制服をまとった青年が、段ボール箱を手に立っていた。
「宇佐見蓮子さんのお宅で間違いないですね?」
「はぁ……はい」
「お届け物です。ここに判子かサイン、お願いします」
差し出されたダンボールに貼ってある伝票に、ボールペンを受け取ってサインを記入する。
青年は伝票の一番上の紙を剥がすと、ダンボールを私に差し出し、礼をしてから立ち去っていった。
扉を閉め、玄関で伝票を確認する。
一本一本の線を定規で引いたみたいな文字で、受取人の欄に私の名前とアパートの住所が記入されており、差出人の欄は無記名。
品名のところには一言『右足』と書かれている。
私はダンボールを開け、中に敷き詰められた緩衝材を取り除いた。
果たして、そこにあったのはマネキンの右足……つまり、足首からつま先までの部分だった。
手に取ってみる。樹脂でできているのか、固いような柔らかいような、不思議な感触だった。
見た目は人間の足とほとんど変わらなかった。
足首の断面は中の肉から骨までリアルに再現されている。
趾の爪の一枚一枚まで精巧に作られている。
なんとも不気味なものが送りつけられたなと思い、箱の中を探ると、一枚のデータチップが見つかった。
スマートフォンに差し込み、チップの中身を確認すると、音声ファイルが入っていた。
再生する。ホワイトノイズがしばらく続き、それから唐突に声がした。
『だ……誰……?』
か細い、震えた声だった。
なにかに怯えるような、その声に私は聞き覚えがあった。
間違いではなかろうか。私はじっと音声に耳を澄ませた。
『なに……? なんなのここ……あなた、誰……?』
ぶつ、と異音が混じり、ふたたび女性の声。
『……なにを言ってるの? そんな……馬鹿な真似はやめて! いやっ! 助けて!』
どうやら音声の一部が編集でカットされているらしい。
女性は大声で叫んでいた。がたんがたんと物音がする。
声の彼女はベッドか何かに縛り付けられていて、その上で暴れているらしかった。
『ひっ……やだ、やだやだやだ! なにするのやめて! いやっ! いやだ! やめて! おねがいやめて! やめっ……』
どす、と鈍い音がして、悲鳴……いや、叫び声が響いた。
ただひたすらに泣き叫ぶ声と、ときおり「痛い! 足が! 足が!」という悲痛な声も混じっていた。
やがて、ぶつん、と音声は途切れて、音声ファイルの再生は終了した。
私はゆっくりと、マネキンの右足に目を向けた。
驚くほど精巧に作られた、樹脂で固められたマネキンの右足。
『痛い! 足が! 足が!」
彼女の声が頭のなかでこだまする。
聞き覚えのある、あの声。
ああ、そんな……。私は口を手で押さえた。
胃の中のものを吐き出しそうになり、しかし今日はずっとなにも食べていなかったので胃液しか出てこなかった。
それが余計に吐き気をもよおし、私はキッチンに駆け出し、水で口の中を洗いでから、コップの水を一気に飲み干した。
目から涙が溢れる。私はそれを拭きもせずに、その場にしゃがみこんだ。
認めたくなかった。そんなはずはないと浮かび上がる考えを自ら否定した。
けれどもそれで現実が変わったりはしない。
こんな酷いことがあるだろうか。
こんな、残虐なことを、およそ人に対してするべきではないことを、よりにも寄って、メリーが……ああ……。
私は絶望した。
このマネキンの右足は、紛れもなくメリーの右足なのだ。
インターネットで調べてみると、どうやらこの標本化する技術は、プラスティネーションと呼ばれるものらしかった。
手順は、遺体を薄めたホルマリン溶液に数日浸して防腐処理をし、氷点下二十五度まで冷却したアセトンに浸し、死体の水分と脂肪分をアセトンに置き換える。
遺体を常温に戻したら液体合成樹脂に一日漬け込み、硬化剤を加えてさらに二週間漬け込む。
合成樹脂が浸透した遺体を容器で密閉し、真空ポンプで一ヶ月ほど負圧をかけると、残留していたアセトンが完全に気化し、合成樹脂が浸透していく。
それから余分な合成樹脂を取り除き、ケイ酸ソーダを噴霧しながら常温で三日ほど乾燥させ、完成となる。
恐ろしく手間と時間のかかる作業で、だからこそ一ヶ月以上も経ってメリーの標本が私の元へと送られてきたのだ。
となると恐らく、メリーはもう……。
翌日、昨日と同じ時間にチャイムが鳴った。
慌てて玄関に向かい、扉を開ける。
勢いよく開けたからか、扉の向こうには拍子抜けした様子の郵便配達員の青年が立っていた。
「えっと……判子かサインを……」
私は彼からダンボールをひったくり、伝票にサインを書いてから一番上の一枚を青年に差し出し、それから扉を閉めた。
閉じた扉の向こうから「ま、またどーぞー……」困惑した様子の声が聞こえた。
ダンボールを開ける。梱包材に包まれるようにして、今度はメリーの左足が入っていた。
右足のときと同じように、樹脂で加工され、足首から切断されている。
そしてやはり、箱の中にはデータチップが入っていた。
スマートフォンに差し込み、データを確認すると、音声データが入っていた。
再生する。ホワイトノイズとともにメリーの声がした。
右足を切断されてからすこし時間が経過しているのか、メリーの声は以前にも増して弱々しく、今にも消え入りそうであった。
ときおり嗚咽も混じっており、うめき声もした。
ぶつ、と一瞬ノイズが走る。いったん音声が途切れたのだ。
それから、恐怖に泣き叫ぶ彼女の声が響いた。
『やだ! やだ! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! やめてやめて! もうやめて!』
しかし、やがてそれは容赦なく彼女の左足に振り下ろされた。
音が割れるほどの叫び声に、私はぎゅっと目をつむった。
ああ、メリー。こんな酷いことを、かわいそうに……。
怒りと悲しみとが綯い交ぜになって、頭のなかでぐちゃぐちゃに広がっていく。
気がつくと、再生は終わっていた。
私はメリーの左足を手に取った。
右足といっしょに、リビングの真ん中に並べる。
メリーの足だ。メリーの足。間違いなく、彼女の。
生きたまま、切断された彼女の足。
泣き叫びながら切断された、彼女の足。
おぞましい。ああ、なんておぞましい。
それから私は、ずっと家にいて彼女の体のパーツが届くのを待った。
毎日、同じ時間に彼女のパーツは届けられた。
次の日には右手首から下が届いた。
次の日は左手だった。
右足首から膝まで。
左足首から膝まで。
右手首から肘まで。
左手首から肘まで。
手足の先から生えてくるみたいに、順々にパーツが送られてきた。
それらの断面は合わせるとぴったりと当てはまり、まるで継ぎ目なんてなかったみたいに違和感なく馴染んだ。
音声データは、だんだんとメリーの声がしなくなっていって、やがて左肘から肩にかけての二の腕のパーツが届くころには、悲鳴が弱々しく途切れたかと思うと、それから一切、彼女の声は聞こえなくなっていた。
それでも音声データは送られ続けた。
腹を引き裂く音。
小腸を、大腸を、子宮を、膀胱を、胃を、膵臓を、腎臓を、肝臓を、脾臓を、引きずり出す音。
それらの音は、唾棄すべきおぞましい音であるはずなのに、不思議と私の耳に心地よかった。
やがて、胴体が届いた。
腹を割かれて、中身は空っぽになっていたが、やがてそれらも届きはじめた。
私は解剖図を参考に内臓を正しい位置に収めていった。
まるでパズルでもしている気分だった。
恐ろしいことに、私はメリーの体を組み立てていくのが楽しいと思い始めていた。
少しずつ組み上がっていく彼女の体を、美しいとすら思っていた。
独特の造形や、なでらかな曲線の美しさ、普段は目にすることも触れることもできないそれらを撫で、転がし、そしてあるべき場所へと当てはめていく。
内臓は、まるで本来の居場所はそこであると主張でもするかのように、綺麗に収まった。
そうして、メリーの首から下がすべて完成した。
リビングには、メリーの首から下だけの裸体が横たわっている。
私はうっとりとその光景に見惚れていた。
まるで今にも動き出しそうなほど、みずみずしく美しい。
だが、まだ画竜点睛に欠いている。
頭部のパーツとして眼球、脳が届いた。それをはめ込むパーツはまだない。
そしていよいよ、今日。
チャイムが鳴って、私は急いで玄関へと向かった。
この十云日ですっかり顔見知りになった郵便配達員の青年が、興味深そうに言った。
「宇佐見さん、なんだか嬉しそうな顔してますね」
「嬉しそう……? そうかしら……」
「ええ、待ちに待った、って顔です」
「そうかしら……。そうかもしれないわね。その荷物でようやっと、完成するんですもの」
青年が抱えるダンボールの伝票には、『頭』と品名が記載されている。
「へえ、なにが出来上がるんですか?」
「見ていく? どうぞ、上がって」
「へへ、すみません」
照れ笑いを浮かべながら、青年は靴を脱いで家に上がった。
リビングに入る。青年は言葉に詰まった様子で、手で口を押さえたまま立ち尽くしている。
私は段ボール箱を開封し、梱包材の山の中から目当ての物を取り出した。
メリーの頭だ。眼窩がぽっかりと口を開けており、頭部は蓋のように外れて中の空洞が露わになった。
私はそれぞれに眼球と脳をはめ込み、それからメリーの頭をゆっくりと胴体と接合した。
「ああ、やっと帰ってきた……おかえり、メリー」
私は呟き、彼女の頭を撫でた。
それから私は、リビングの入口に立ち尽くしている青年に振り返った。
「あなたも、ありがとう。メリーを返してくれて」
「えっ……あ、いえ……。仕事ですから……」
そう言って、彼はまた完成したメリーの体躯をじっと見つめた。
私もメリーに振り返った。こんなにも美しいのだ、なんど見たって見惚れてしまうものだろう。
不意に、上から下へと一瞬何かが視界を横切った。
かと思うと、きゅっと首に何かが巻き付き、呼吸が苦しくなる。
首を手で探る。首にはロープが巻かれていた。
「ああ……やっぱり……か……」
私は思わずかすれた声を漏らす。
「やっぱり……ですか?」
背後から、不思議そうに尋ねる青年の声。
ほんの少しだけ、首を絞めるロープが緩んだ。
「最初……あなたがメリーの右足を届けに来たとき……あなたは、私に届け物があると、そう言ったわよね……?」
「ええ、その通りです。私からあなたへ、大切なお届け物です」
「あなたは……メリーから私の存在を導き出し、尾行か何かをして私の住む場所を探り当てたのでしょう。でも……間違っていたのよ。あなたは私に『宇佐見蓮子さんのお宅で間違いないですね?』と尋ねた。でも、ここは私の家じゃないの。メリーの家なのよ」
「ほう……」少し驚いた様子の、青年の声がした。
「郵便局には各家庭の顧客の情報があって、それと照らし合わせて宛先に荷物を送っているの……。メリーの家に私宛の荷物が送られてくるにしても、まずそれが間違いでないかどうかという確認があるはず。でも、あなたは尋ねなかった。それはあなたがここを私の家だと勘違いしたからよ。そして、そうなると自ずとあなたは郵便配達の人間じゃなくなり、だとしたらあなたは犯人である以外にないということになるわ」
「なるほど……いや、まんまとしてやられました。まあ、それでもぎりぎりになってやっと気づいた時点であなたの負けですよ、宇佐見さん。あなたはこれから剥製になるんです。生きたままホルマリン溶液に沈められて、一ヶ月かけて彼女と同じようにね」
首を絞めるロープの力が強まる。
彼は勘違いをしている。
彼が犯人であるとは、もっと前から気付いていた。
けれども、途中でそのことを彼に伝えたら、きっとメリーのパーツは全て届くことはなく、彼女の芸術的なまでの肢体は完成しないままだっただろう。
それに、彼を家に上げたのも、きっと彼なら私を殺してメリーと同じ剥製に仕上げてくれるだろうと読んだからである。
結果、彼は私の読み通りに私を殺し、剥製として仕上げてくれようとしていた。
彼女といっしょに、永遠に美しいままの剥製に。
なんて、素敵なことなのだろう。
薄れ行く意識のなかで 私は そう 思っ
古ぼけた鉄筋コンクリートのアパートで、壁にはまるで血が伝ったような跡や、表面がはがれて鉄筋が露わになった箇所が点在していた。
通りに面した場所に二階に続く階段があり、その下に郵便受けが並んでいる。
封筒やはがきが郵便受けの口から溢れ出ていたが、回収する気も起きなかった。
怪談を上って、一番奥にある二〇四号室へと向かう。
表札は掛かっていなかった。鍵を開け、鉄の重たい扉を開ける。
玄関脇のスイッチを押すと、しばらく点滅してから蛍光灯の黄ばんだ光が部屋の中を照らした。
リビングに向かう。部屋の中はがらんとしていて誰もいない。
ソファー兼ベッドに腰掛け、私は深くため息を吐いた。
親友のメリーが行方不明になってから、もうひと月以上が経過していた。
大学を出てから家に帰る途中で行方がわからなくなったらしかった。
携帯も音信不通で、警察に相談はしたが捜索をしてくれるわけでもなく、毎日あちこちを歩き回ってはみたものの、まるで最初からいなかったかのように彼女の面影はどこにもなかった。
メリーは日本に身寄りがなく、おまけに一人暮らしであり、家出である可能性はないに等しい。
それに、止むに止まれぬ事情があって姿をくらまさざるをえないにしても、せめて一言くらいお別れの言葉を言ってくれたって良いはずである。
それが、本当に何の兆候もなく、唐突に、彼女は姿を消してしまった。
なにか事件に巻き込まれてしまったのではないかと考えるのが普通である。
あれから、ろくに眠れない日々が続いていた。
毎晩毎晩、メリーに襲いかかったかもしれない、およそ想像しうる上でもっとも悲惨な出来事を思ってしまうと、恐怖に目を閉じることができなくなるのだ。
そうしてやっと二、三時間ほど眠ると、時間は朝の八時頃になっており、私は家を出るのだ。
頭がくらくらとする。明らかに寝不足だった。
このままでは近いうちに私“も”死んでしまうかもしれない。
そこまで考えて、私は自己嫌悪した。
けれども、もはや自分自身ですら、メリーはすでに死んでしまっていると考えてしまっているのはゆるぎのない事実で、自分を騙し続けることなんてできなかった。
お願い。どうか、生きていて……。
私は彼女の無事を祈りながら、溢れ出てくる涙をティッシュでぬぐった。
その時、チャイムが鳴った。
続いて扉の向こうからくぐもった声で「宇佐見さーん! お届け物ですー!」という声が聞こえた。
立ち上がり、玄関へと向かう。
扉を開けると、郵便配達員の制服をまとった青年が、段ボール箱を手に立っていた。
「宇佐見蓮子さんのお宅で間違いないですね?」
「はぁ……はい」
「お届け物です。ここに判子かサイン、お願いします」
差し出されたダンボールに貼ってある伝票に、ボールペンを受け取ってサインを記入する。
青年は伝票の一番上の紙を剥がすと、ダンボールを私に差し出し、礼をしてから立ち去っていった。
扉を閉め、玄関で伝票を確認する。
一本一本の線を定規で引いたみたいな文字で、受取人の欄に私の名前とアパートの住所が記入されており、差出人の欄は無記名。
品名のところには一言『右足』と書かれている。
私はダンボールを開け、中に敷き詰められた緩衝材を取り除いた。
果たして、そこにあったのはマネキンの右足……つまり、足首からつま先までの部分だった。
手に取ってみる。樹脂でできているのか、固いような柔らかいような、不思議な感触だった。
見た目は人間の足とほとんど変わらなかった。
足首の断面は中の肉から骨までリアルに再現されている。
趾の爪の一枚一枚まで精巧に作られている。
なんとも不気味なものが送りつけられたなと思い、箱の中を探ると、一枚のデータチップが見つかった。
スマートフォンに差し込み、チップの中身を確認すると、音声ファイルが入っていた。
再生する。ホワイトノイズがしばらく続き、それから唐突に声がした。
『だ……誰……?』
か細い、震えた声だった。
なにかに怯えるような、その声に私は聞き覚えがあった。
間違いではなかろうか。私はじっと音声に耳を澄ませた。
『なに……? なんなのここ……あなた、誰……?』
ぶつ、と異音が混じり、ふたたび女性の声。
『……なにを言ってるの? そんな……馬鹿な真似はやめて! いやっ! 助けて!』
どうやら音声の一部が編集でカットされているらしい。
女性は大声で叫んでいた。がたんがたんと物音がする。
声の彼女はベッドか何かに縛り付けられていて、その上で暴れているらしかった。
『ひっ……やだ、やだやだやだ! なにするのやめて! いやっ! いやだ! やめて! おねがいやめて! やめっ……』
どす、と鈍い音がして、悲鳴……いや、叫び声が響いた。
ただひたすらに泣き叫ぶ声と、ときおり「痛い! 足が! 足が!」という悲痛な声も混じっていた。
やがて、ぶつん、と音声は途切れて、音声ファイルの再生は終了した。
私はゆっくりと、マネキンの右足に目を向けた。
驚くほど精巧に作られた、樹脂で固められたマネキンの右足。
『痛い! 足が! 足が!」
彼女の声が頭のなかでこだまする。
聞き覚えのある、あの声。
ああ、そんな……。私は口を手で押さえた。
胃の中のものを吐き出しそうになり、しかし今日はずっとなにも食べていなかったので胃液しか出てこなかった。
それが余計に吐き気をもよおし、私はキッチンに駆け出し、水で口の中を洗いでから、コップの水を一気に飲み干した。
目から涙が溢れる。私はそれを拭きもせずに、その場にしゃがみこんだ。
認めたくなかった。そんなはずはないと浮かび上がる考えを自ら否定した。
けれどもそれで現実が変わったりはしない。
こんな酷いことがあるだろうか。
こんな、残虐なことを、およそ人に対してするべきではないことを、よりにも寄って、メリーが……ああ……。
私は絶望した。
このマネキンの右足は、紛れもなくメリーの右足なのだ。
インターネットで調べてみると、どうやらこの標本化する技術は、プラスティネーションと呼ばれるものらしかった。
手順は、遺体を薄めたホルマリン溶液に数日浸して防腐処理をし、氷点下二十五度まで冷却したアセトンに浸し、死体の水分と脂肪分をアセトンに置き換える。
遺体を常温に戻したら液体合成樹脂に一日漬け込み、硬化剤を加えてさらに二週間漬け込む。
合成樹脂が浸透した遺体を容器で密閉し、真空ポンプで一ヶ月ほど負圧をかけると、残留していたアセトンが完全に気化し、合成樹脂が浸透していく。
それから余分な合成樹脂を取り除き、ケイ酸ソーダを噴霧しながら常温で三日ほど乾燥させ、完成となる。
恐ろしく手間と時間のかかる作業で、だからこそ一ヶ月以上も経ってメリーの標本が私の元へと送られてきたのだ。
となると恐らく、メリーはもう……。
翌日、昨日と同じ時間にチャイムが鳴った。
慌てて玄関に向かい、扉を開ける。
勢いよく開けたからか、扉の向こうには拍子抜けした様子の郵便配達員の青年が立っていた。
「えっと……判子かサインを……」
私は彼からダンボールをひったくり、伝票にサインを書いてから一番上の一枚を青年に差し出し、それから扉を閉めた。
閉じた扉の向こうから「ま、またどーぞー……」困惑した様子の声が聞こえた。
ダンボールを開ける。梱包材に包まれるようにして、今度はメリーの左足が入っていた。
右足のときと同じように、樹脂で加工され、足首から切断されている。
そしてやはり、箱の中にはデータチップが入っていた。
スマートフォンに差し込み、データを確認すると、音声データが入っていた。
再生する。ホワイトノイズとともにメリーの声がした。
右足を切断されてからすこし時間が経過しているのか、メリーの声は以前にも増して弱々しく、今にも消え入りそうであった。
ときおり嗚咽も混じっており、うめき声もした。
ぶつ、と一瞬ノイズが走る。いったん音声が途切れたのだ。
それから、恐怖に泣き叫ぶ彼女の声が響いた。
『やだ! やだ! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! やめてやめて! もうやめて!』
しかし、やがてそれは容赦なく彼女の左足に振り下ろされた。
音が割れるほどの叫び声に、私はぎゅっと目をつむった。
ああ、メリー。こんな酷いことを、かわいそうに……。
怒りと悲しみとが綯い交ぜになって、頭のなかでぐちゃぐちゃに広がっていく。
気がつくと、再生は終わっていた。
私はメリーの左足を手に取った。
右足といっしょに、リビングの真ん中に並べる。
メリーの足だ。メリーの足。間違いなく、彼女の。
生きたまま、切断された彼女の足。
泣き叫びながら切断された、彼女の足。
おぞましい。ああ、なんておぞましい。
それから私は、ずっと家にいて彼女の体のパーツが届くのを待った。
毎日、同じ時間に彼女のパーツは届けられた。
次の日には右手首から下が届いた。
次の日は左手だった。
右足首から膝まで。
左足首から膝まで。
右手首から肘まで。
左手首から肘まで。
手足の先から生えてくるみたいに、順々にパーツが送られてきた。
それらの断面は合わせるとぴったりと当てはまり、まるで継ぎ目なんてなかったみたいに違和感なく馴染んだ。
音声データは、だんだんとメリーの声がしなくなっていって、やがて左肘から肩にかけての二の腕のパーツが届くころには、悲鳴が弱々しく途切れたかと思うと、それから一切、彼女の声は聞こえなくなっていた。
それでも音声データは送られ続けた。
腹を引き裂く音。
小腸を、大腸を、子宮を、膀胱を、胃を、膵臓を、腎臓を、肝臓を、脾臓を、引きずり出す音。
それらの音は、唾棄すべきおぞましい音であるはずなのに、不思議と私の耳に心地よかった。
やがて、胴体が届いた。
腹を割かれて、中身は空っぽになっていたが、やがてそれらも届きはじめた。
私は解剖図を参考に内臓を正しい位置に収めていった。
まるでパズルでもしている気分だった。
恐ろしいことに、私はメリーの体を組み立てていくのが楽しいと思い始めていた。
少しずつ組み上がっていく彼女の体を、美しいとすら思っていた。
独特の造形や、なでらかな曲線の美しさ、普段は目にすることも触れることもできないそれらを撫で、転がし、そしてあるべき場所へと当てはめていく。
内臓は、まるで本来の居場所はそこであると主張でもするかのように、綺麗に収まった。
そうして、メリーの首から下がすべて完成した。
リビングには、メリーの首から下だけの裸体が横たわっている。
私はうっとりとその光景に見惚れていた。
まるで今にも動き出しそうなほど、みずみずしく美しい。
だが、まだ画竜点睛に欠いている。
頭部のパーツとして眼球、脳が届いた。それをはめ込むパーツはまだない。
そしていよいよ、今日。
チャイムが鳴って、私は急いで玄関へと向かった。
この十云日ですっかり顔見知りになった郵便配達員の青年が、興味深そうに言った。
「宇佐見さん、なんだか嬉しそうな顔してますね」
「嬉しそう……? そうかしら……」
「ええ、待ちに待った、って顔です」
「そうかしら……。そうかもしれないわね。その荷物でようやっと、完成するんですもの」
青年が抱えるダンボールの伝票には、『頭』と品名が記載されている。
「へえ、なにが出来上がるんですか?」
「見ていく? どうぞ、上がって」
「へへ、すみません」
照れ笑いを浮かべながら、青年は靴を脱いで家に上がった。
リビングに入る。青年は言葉に詰まった様子で、手で口を押さえたまま立ち尽くしている。
私は段ボール箱を開封し、梱包材の山の中から目当ての物を取り出した。
メリーの頭だ。眼窩がぽっかりと口を開けており、頭部は蓋のように外れて中の空洞が露わになった。
私はそれぞれに眼球と脳をはめ込み、それからメリーの頭をゆっくりと胴体と接合した。
「ああ、やっと帰ってきた……おかえり、メリー」
私は呟き、彼女の頭を撫でた。
それから私は、リビングの入口に立ち尽くしている青年に振り返った。
「あなたも、ありがとう。メリーを返してくれて」
「えっ……あ、いえ……。仕事ですから……」
そう言って、彼はまた完成したメリーの体躯をじっと見つめた。
私もメリーに振り返った。こんなにも美しいのだ、なんど見たって見惚れてしまうものだろう。
不意に、上から下へと一瞬何かが視界を横切った。
かと思うと、きゅっと首に何かが巻き付き、呼吸が苦しくなる。
首を手で探る。首にはロープが巻かれていた。
「ああ……やっぱり……か……」
私は思わずかすれた声を漏らす。
「やっぱり……ですか?」
背後から、不思議そうに尋ねる青年の声。
ほんの少しだけ、首を絞めるロープが緩んだ。
「最初……あなたがメリーの右足を届けに来たとき……あなたは、私に届け物があると、そう言ったわよね……?」
「ええ、その通りです。私からあなたへ、大切なお届け物です」
「あなたは……メリーから私の存在を導き出し、尾行か何かをして私の住む場所を探り当てたのでしょう。でも……間違っていたのよ。あなたは私に『宇佐見蓮子さんのお宅で間違いないですね?』と尋ねた。でも、ここは私の家じゃないの。メリーの家なのよ」
「ほう……」少し驚いた様子の、青年の声がした。
「郵便局には各家庭の顧客の情報があって、それと照らし合わせて宛先に荷物を送っているの……。メリーの家に私宛の荷物が送られてくるにしても、まずそれが間違いでないかどうかという確認があるはず。でも、あなたは尋ねなかった。それはあなたがここを私の家だと勘違いしたからよ。そして、そうなると自ずとあなたは郵便配達の人間じゃなくなり、だとしたらあなたは犯人である以外にないということになるわ」
「なるほど……いや、まんまとしてやられました。まあ、それでもぎりぎりになってやっと気づいた時点であなたの負けですよ、宇佐見さん。あなたはこれから剥製になるんです。生きたままホルマリン溶液に沈められて、一ヶ月かけて彼女と同じようにね」
首を絞めるロープの力が強まる。
彼は勘違いをしている。
彼が犯人であるとは、もっと前から気付いていた。
けれども、途中でそのことを彼に伝えたら、きっとメリーのパーツは全て届くことはなく、彼女の芸術的なまでの肢体は完成しないままだっただろう。
それに、彼を家に上げたのも、きっと彼なら私を殺してメリーと同じ剥製に仕上げてくれるだろうと読んだからである。
結果、彼は私の読み通りに私を殺し、剥製として仕上げてくれようとしていた。
彼女といっしょに、永遠に美しいままの剥製に。
なんて、素敵なことなのだろう。
薄れ行く意識のなかで 私は そう 思っ
後半が急だった気もしますが。
その上で調べが雑でちぐはぐなことを言ってるのに気付いてないのは、最早指差して笑われるレベル。
ただどういう理由でこうなったのかよくわかりませんでした
蓮子も安い狂気につまらない溺れ方して
この蓮子の場合はメリーがしんだし自分もそこまで生きる価値あるかどうか自信ないからしんだって感じかしら
最初の方階段を上がってのはずなのに怪談を上がってになっていました。
違っていたらごめんなさい。