その時、私は生まれて初めて光というものを知った。
真っ白な世界。眩しい、という感覚をこの時初めて体験し、私はすこし目を細めた。
やがて光に目が慣れてくると、薄らぼんやりとであるが、真っ白な世界に輪郭が浮かび上がってきた。
そして、私のことを見下ろす影が二つあることに気がついた。
二つともやわらかい笑みを浮かべながら、じっと私のことを見つめていた。
私が声を出すと、嬉しそうにしていた。
「ユキ。ユキ。お前の名前はユキだ。わかるか、ユキ」片方が言った。
「お父さん、わかりっこありませんよ。まだ生まれたばかりなんですから」もう片方が、すこし呆れた様子で言った。
「そ、そうか……。うん、お父さんか……悪くないな。なあ、母さん」
「ふふっ。もう、なんですかいきなり」
「この子は私たちの大切な子どもだ。そうしたら、私とお前はお父さんとお母さんというわけだ。はは、なんだか嬉しいなあ!」
「もう、いい年してはしゃいじゃって……まったく困ったお父さんですねえ、ユキ?」
二人がなんと言っているのかはわからなかったけれども、私は何度もユキと呼ばれた。
だからきっと、ユキとは私のことなのだろう。
ユキと呼ばれたので声を出して返事をすると、二人はとても嬉しそうにした。
それから二人……お父さんとお母さんに育てられて、私はすくすく成長した。
お父さんは私が悪戯をすると大きな声で怒った。
けれども、私がしょんぼりとしていると私のことを抱き上げて、やさしく抱きしめてくれた。
お母さんに内緒でよくおやつをくれた。
お父さんに無理やり入れられたお風呂は、最初は怖かったけれど、今はいつもお父さんと一緒に入っている。
そんなお父さんが私は大好きだった。
お母さんはいつも私が大好きなごはんをくれた。
そうしてお腹がいっぱいになって眠たくなると、よくお母さんの膝の上で眠ってしまい、その間ずっとお母さんは私の頭をなでてくれた。
目いっぱいのいたずらをして怒らせると、お母さんはお父さん以上に怖かった。
けれども、夜はいつも寂しくないようにって一緒の布団で眠ってくれた。
そんなお母さんが私は大好きだった。
私とお父さんとお母さん。三人で過ごした。
幸せだった。ずっとずっと幸せだった。
あの日、あの怪物が現れるまでは。
その日は蒸し暑く、お父さんは縁側の戸を開け放していた。
時折涼しい風が吹くと、縁側に吊るされた風鈴がちりんちりんと音を立てていた。
ぶたの置物のなかで蚊取り線香が煙をくゆらせていて、臭かったので私はそれには近づかなかった。
お父さんとお母さんは居間でテレビを見ていた。
テーブルの上には三角に切られたスイカが置いてある。
テレビからはひっきりなしに笑い声が聞こえて、それに釣られたみたいにお父さんとお母さんも笑っていた。
私は縁側に座って、外を眺めていた。
ぼうっと外を眺めているのが私は好きだった。
かさり、と縁側につながる庭から物音がした。
庭にはお母さんが趣味で植えた木や花があって、その一部は綺麗に花びらを広げて咲き誇っていた。
それが揺れる音だった。
私は音がした方をじっと見つめた。
かさり、とまた葉っぱが揺れる音がして、その向こうからなにかが現れた。
私が驚き立ちあがるのと、それが私に向かって飛びかかってくるのは同時だった。
叫び声を上げる。驚いてお父さんとお母さんがこちらに振り返った。
二人は最初、なにが起こったのかわかっていない様子だった。
最初に動いたのはお父さんだった。
その怪物は縁側を登ってくると、居間に逃げ出した私のことを追いかけた。
お父さんは私と怪物のあいだに立ちふさがって、何ごとかを叫んでいた。
お母さんも慌ててその怪物を押さえ込もうとした。
「ぎゃあっ!」
お父さんが叫んだ。真っ赤なものが飛び散った。お母さんが悲鳴を上げる。
私は居間の隅で震えていた。わけがわからなかった。
お父さんは床に倒れて苦しそうにもがいた。畳の床が赤く染まっていった。
お母さんがお父さんにすがりついた。なんどもお父さんの名前を呼んでいた。
苦しそうにしていたお父さんは、やがて動かなくなった。
怪物が立ち上がり、お母さんに襲いかかった。
私は叫んだ。ふたたび赤いものが吹き出す。お母さんが倒れた。
私はお父さんとお母さんに駆け寄ろうとした。怪物がこちらを見た。
怪物が手を払うと、私の体は簡単に吹き飛ばされた。
私と怪物の体格差は歴然で、こうなるのは当然だった。
怪物がこちらに迫る。私には為す術がなかった。
お母さんが怪物に飛びかかった。怪物が倒れる。
怪物とお母さんはもみ合っていたが、やがてお母さんがうめき声をあげて畳の上に転がった。
お母さんが叫んだ。
「逃げて! ユキ! 逃げてぇ!」
怪物がお母さんを殴った。殴った。殴った。
私はどうしたらいいのかわからなかった。
「ユキ……お願い……逃げ……」
お母さんも動かなくなった。見開かれた目が、じっとこちらを見つめていた。
怪物が立ち上がり、こちらを見た。
私は怪物の横を駆け抜け、家を飛び出した。
そろそろ夏期休暇が控えており、生徒たちが浮足立ち始める七月下旬。
いよいよ夏の暑さが本格的になり始め、ときおり涼しい日もあるが、おおむね蒸し暑い日々が続いていた。
暑いからと薄着でいたら急に寒くなったり、寒いからと厚着でいたら急に暑くなったりして、ころころと変化する気候が私の体力を根こそぎ奪っていった。
なので、私が講堂で講義中にもかかわらず机に突っ伏して眠っていても、なんらおかしなことはないのである。
「蓮子、面白いものを見つけたわ」
一限目は授業がなかったので、二限目の講義に使われる講堂で眠っていると、唐突に肩を揺さぶられて私は起こされることとなった。
重たい瞼をこすりながら顔をあげると、メリーが隣の席に座って笑っていた。
「あによ……私、眠ってたんだけど……?」
「眠ってたんだけど? じゃないわよ。もう講義終わったわよ」
「えっ!」
顔を起こして講堂を見回す。
講堂には私とメリー以外に人の姿はなく、目の前にはよだれが水たまりを作った机と、その上に置かれた『怒』と書かれたメモ紙が一枚あった。
やってしまった。講義が始まるまで寝ているつもりが、講義が終わるまで眠り続けていたらしい。
せめて誰か起こしてくれたっていいだろうに、薄情者ばかりである。
「そんなことより、ほら」
私が自分の睡眠欲のあまりの強欲さに絶望しているというのに、メリーはそんな心情を気にするそぶりも見せずに、私にスマートフォンの画面を見せつけた。
「あによ、もう……」
スマートフォンを受け取り、画面を覗き込む。
赤い。
第一印象は赤だった。
場所は畳敷きの居間で、飛び散った血や、広がった血溜まりで真っ赤に染まっていて、そこに人が二人、倒れていた。
倒れているのは男の人と女の人で、年齢は四十代か五十代くらいだろうか。
二人とも目を見開いたまま死んでいた。
画面を左にフリックすると、様々な角度から死体を写した写真が何枚も出てきた。
すべての写真を見終えた後、スマートフォンをメリーに返し、これはなにかと無言で問うた。
「いやいや、私がやったんじゃないわよ?」
「まだなにも言ってないわよ」
「昨日ね、道端でうずくまって泣きじゃくっている、血まみれの女の子に出会ったのよ」
「ちょっと、誰が怪談を話せって言ったのよ」
「違うわよ、最後まで聞いて。その女の子、顔に殴られたみたいなあざはあったんだけれど、血は自分のものじゃなかったの。で、その女の子がお父さんとお母さんが殺されたって言うから、その子の家まで案内してもらったのよ。そしたら、居間がこんな感じに」
「ずるい!」私は唇を尖らせて言った。
「ずるいって言われても……」
「で、その死体はまだあるの?」
「ええ、あるわよ」
メリーはこともなげに言ってのけた。
女の子に連れられて家に入ると、たしかにそこには少女の父親と母親と思しき二人の死体があった。
居間には血の臭いが充満していて、まだ死んで間もない、独特の空気が漂っていた。
テレビから聞こえてくる騒がしい声が、部屋の雰囲気になんともミスマッチであった。
少女は死体の傍らでグズグズと泣いていた。
私はスマートフォンを取り出すと、少女には構わずに死体の写真をいくつか撮った。
あとで蓮子にでも見せてやろうと思ったのだ。
一通り写真を撮り終えると、少女は聞いてもいないのに喋りだした。
「さっきまでいっしょだったの。三人でスイカを食べて、テレビを見て……そしたら、庭からでっかいバケモノが入ってきて……」
「バケモノ……」
「私、襲われて……お父さんとお母さんがバケモノを取り押さえようとして……そしたら、二人とも動かなくなっちゃって……」
「それで家から逃げ出した、と」
「お母さんが……ユキ、逃げてって……それで、すぐに動かなくなっちゃって……私、どうしたらいいんだろう……」
それからまた思い出したみたいにぐずぐずと泣きはじめた少女に、私は深くため息をついた。
「さあ? 警察を呼ぶなりなんなり、したらいいんじゃないかしら」
「………………ううん。呼ばない」
「あら、どうして?」
「お父さんとお母さんを殺したバケモノを、私が殺すから」
それから少女は死体になった父親と母親に抱きつき、そのまますうすうと寝息を立てはじめてしまった。
よくもまあこんなところで寝られるもんだと感心しながら、私は家を出ていった。
「と、いうことよ」
「よし行こう!」
メリーが話し終わるのと同時に、私は荷物をまとめて立ち上がった。
いつ少女が心変わりして警察を呼ぶともわからない。
それに、蒸し蒸しとした日が続いているので、たった数日でもすぐに腐臭に気づいて近所の人が通報してしまうかもしれない。
死体は鮮度が命だ。
もっともすでに命はないのだけれど。
「いってらっしゃーい」
メリーがひらひらと手を振りながら言った。
「なに言ってるのよ! あなたがいなくちゃ場所がわからないでしょう! ほら、歩いた歩いた!」
「ええー……」
私はメリーの腕を掴んで立ち上がらせると、そのまま講堂を後にした。
私には世間一般的には顔をしかめられるようなアブノーマルな趣味があった。
私は残酷で非道で凄惨な事件を調べるのが好きで、ニュースなんかでおぞましい殺人事件なんかが起こるとネットなんかで事件の詳細を調べたりした。
その中でも特に私は死体、とりわけ他殺体を見るのが好きだった。
私と同じ、生きていた人間だったはずの死体。
命を持ち、意思を持ち、家族がいて、温かかったはずの人間が、冷たくなり、動かなくなり、やがては腐っていくのだ。
死体の写真を、できれば動画を、願わくは本物を見る。
見て、生を実感し、その儚さと美しさに酔いしれる。
ある意味、芸術鑑賞のようなものだった。
メリーはそんな私の数少ない理解者の一人だった。
細い金色の髪に、透き通るような白い肌。
そんな彼女の死体になった姿は、きっとどんな死体よりも美しいことだろう。
ドライフラワーや剥製のように、いつまでもその形のまま飾っていられれば、どれだけ素敵なことだろう。
もし機会があるのなら、私は喜んでメリーを殺すだろう。
どうやってメリーを殺したら一番美しい死体になるかを、なんども頭のなかでシミュレートした。
絞殺も、刺殺も、毒殺も、撲殺も、溺殺も、どれも捨てがたい。
焼殺だけは、美しさの原型を留めないので許容できないが。
だが、その願いを叶えるのはとても難しいことだった。
なぜなら彼女は、殺す側の人間だからだ。
メリーに案内されて、例の家の前までやって来る。
警察がやってきた様子はなく、家の前に群がる野次馬やマスコミの姿もない、いたって普通ののどかな住宅街の一画であった。
玄関の脇から回り込んで庭に入ると、戸が開け放たれた縁側があって、その向こうにまるで眠っているかのように横たわっている人の形が二つあった。
少女の姿は見当たらなかった。
靴を脱ぎ、居間に上がる。
横たわっていたのは、もちろん死体だった。
四十代から五十代くらいの男性と女性で、衣服や畳を染めている二人の血は乾いてどす黒く変色していた。
メリーが話していた死の臭いはより強いものとなっており、おそらくすでにどこかが腐り始めているのだろう、蝿がぶんぶんと飛び回っていた。
「うん、やっぱり早めに訪れて正解だったわ」
私は横たわった二つの死体を様々な角度から眺め、それを写真に収めていった。
少女がいじってしまい、本来の死の形ではなくなってしまったのが残念でならないが、まあ仕方ない。
ふとメリーの方を見ると、彼女は居間には上がらずに縁側に座り込んでいた。
「臭いからそっち行きたくない」
指で鼻を摘みながら、メリーは言った。
私は広々と俯瞰して居間を見渡した。
縁側に吊るされた風鈴がそよ風が吹くたびに涼しげな音色を奏で、ぶたの置物は中に燃え尽きた灰を残したまま鎮座している。
テレビは少女が消したのだろう。
テーブルの上には食べかけのしなびたスイカが二切れ置かれていて、甘い匂いに誘われたのか蛾や黄金虫といったものがたかっていた。
私は家の中を歩き回った。
もう動かなくなり、腐り始めてすらいる二つの死体。
それらが生きてきた痕跡を写真に収めるためだった。
キッチンにある食器や、洗面台にある歯ブラシや、寝室に敷かれた布団や、玄関に並んだ靴や、他にも様々なものを写真に撮っていった。
やはり、明確な違和感があった。
「あら、猫ちゃん」
縁側からメリーの声がした。
居間に戻ってみると、庭からひょっこりと白い毛並みの猫が顔を出しており、ちちちち、と言いながらメリーが手招きをしていた。
「野良猫かしら」
「飼い猫でしょう。毛並みが綺麗だわ」
猫は警戒しているのかゆっくりとメリーに近づくと、ひょいっと飛んで縁側に上った。
我が物顔である。
「餌付けでもしていたのかしら」
見回すと、居間の隅にキャットフードが置かれていた。
にゃあ、と鳴いて、猫は居間へと入ってきた。
死体の方へと近づいていくので、血で汚れると思わず猫を抱き上げた。
にゃあ、と猫は悲しそうに鳴いた。
「おやつくれる人が死んじゃって悲しいか? ん?」
私は猫の顔を見つめた。
猫は首輪をしていた。
銀色のプレートがついた首輪で、そこに猫の名前とIDなのか、数字とアルファベットの羅列が刻印されていた。
私は猫を下ろしてやった。
猫は死体の傍で、にゃあにゃあと鳴いていた。
「どうしたの?」
メリーが呟いた。
「あー、うん。なんというか……犯人、わかったわよ」
私が言うと、メリーがびっくりした様子で目を見開いた。
「ただいまあ」
その時、玄関の扉が開く音がして、まだ幼い少女の声が家の中に響いた。
とてとてと軽い足音がして、少女が居間に姿を現した。
私の胸のあたりまでしか背丈がないであろう、小柄な少女だった。
右目のところには真っ青に腫れたあざがあり、とても痛々しい。
少女は私とメリーを見て驚いた様子だったが、メリーが笑顔でひらひらと手を振ると、昨日のことを覚えていたのだろう、少女は小さく頭を下げて会釈した。
「あの……一体、何の用事でしょう? それに、あなたは……?」
少女が私の顔を見上げて言った。その表情には困惑の色が見えた。
「はじめまして、君がユキちゃん? 私は彼女と同じ学校の知り合いでね。昨日の事件の話を聞いて、興味が湧いたものだから」
すると少女は怒った様子で声を荒げた。
「ふざけないでください! お父さんとお母さんは見世物じゃないんです! 帰って!」
「ごめんごめん、謝るよ。それじゃあ、一つだけ聞いてもいいかな?」
「……なんですか」
警戒を解かない少女に、なるべく優しい声色で、私は尋ねた。
「二人を殺したとき、どんな気分だった?」
「………………はい?」
「君が、お父さんと、お母さんだと、偽った、あの、二人を、殺したとき、どんな気分だった? と、聞いているの」
「……なにを、言っているんですか? 私が? 私が、お父さんとお母さんを……? まさか、そんなはず、ないじゃないですか……ありえませんよ。ありえません。だって、私、お父さんとお母さんが大好きで、大好きで大好きで大好きで……そしたら、あのバケモノが……」
少女の声は震えていた。
瞳は揺れ動き、明らかに動揺していることが伺える。
どうやら少女は、自分自身に嘘をついている様子であった。
きっと今の少女は、本気で自分は犯人ではないと思いこんでいるのだろう。
「バケモノはいなかった。この二人は君の両親じゃなかった。なにより、君はユキちゃんじゃない」
「そんなはずない……私はユキだ……」
「テーブルの上にスイカが二つあったの。二つよ。三つじゃない。なんで三つじゃないんだろうって思って、家の中を見て回ったの。箸も、茶碗も、歯ブラシも、布団も、枕も、靴も、全部大人用だった。子供用のものが何一つなかった。あなたはこの家の子じゃない。じゃあ、あなたは誰なの?」
「違う! 違う違う違う! ユキは私だ! 私がユキだ! お父さんとお母さんにつけてもらった大切な名前だ! 私の名前なんだ!」
「いいえ、違うわ。ユキは、この子よ」
そう言って、私は死体に寄り添って鳴いている猫を抱き上げた。
猫は少女を見ると、途端に興奮した様子で、ふしゃー、と威嚇した。
少女は、絶望の顔をしていた。
すべて思い出したのだろう。
自分がなにをしたのかを。
「嘘だ……そんな……私が……お父さんと、お母さんを……?」
「思い出したかしら?」
「……思い、出した。私、お父さんに殴られたんだ。本当のお父さんに。なにもやっていないのに、突然。なんども、なんども、なんどもなんども。それで、キッチンにあった果物ナイフを持って家を逃げ出したの。そしたら、この家から笑い声がして……二人と、猫が、幸せそうにしてて……あの猫、殺したら、代わりに私が可愛がってもらえるかなって思って。私、この猫を殺そうとした。そしたら、二人に止められて、私……二人を殺しちゃった」
少女はポケットから果物ナイフを取り出した。
こびりついた血が赤黒く変色していた。
少女の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
私が殺した、私が殺した、とうわ言のように呟いており、私とメリーは顔を見合わせて肩をすくめた。
さて、これでだいたい用事は済んだことだし、そろそろ帰ろうかと思った時だった。
突然、少女は手にしていた果物ナイフの刃を自分の首に突き刺した。
止める暇もなかった。もっとも、止めるつもりなど毛頭なかったのだが。
血が飛び散る。少女は畳の上に転倒すると、首に開いた穴を手で押さえてもがいた。
「いいっ! っああ、ぎぃっ……が、かはっ、はぁ……あ……が……ぁ……」
しばらく苦しそうに暴れたあと、少女は静かに動かなくなった。
父親と母親だと思いこんでいた二人の死体に寄り添うように。
「敵が討てたわね」
私は少女の死体に向かって呟いた。
怪物が倒れた。
お父さんとお母さんと同じように、赤いものを吹き出して倒れた。
そして、しばらく暴れたあとに、ぴたりと動かなくなってしまった。
怪物の死体は、お父さんとお母さんに寄り添うようにしていた。
まるで本当の親子のように見えた。
私はしばらくその姿を見つめていたが、なんだかとても悲しくなって、家を出ていくことにした。
もう戻っては来ないと、心に誓った。
「君、これからどうするんだい?」
黒髪の少女が、私に向かって言った。
わからない。どうしたらいいのか、なにもわからない。
そう返事をしたが、きっと彼女には伝わってはいないのだろう。
私は縁側から庭に降り立ち、一度居間の方を振り返ってから、家を出ていった。
アスファルトは熱く、遠くの景色は揺らいで見えた。
「わかるわあ、あの子の気持ち」
講堂の机にうつ伏せになり、ひんやりとした木の冷たさを肌で感じながら、私は呟いた。
「あら、どうして? あなたの家って家庭内暴力が盛んだったりしたかしら?」
メリーが紙パックの野菜ジュースを飲みながら言った。
一本で一日分の野菜をすべて摂取できるという野菜ジュースだった。
一日に摂取しなければならない量は意外と少ないと思った。
「いえ、そうじゃなくて。私も猫になりたいなー、ってときどき思うもの」
「……あの子はそういうんじゃないと思うのだけれども」
「大体いっしょよ。悩みがなくていいなーとか、昼間からごろごろしてていいなーとか、無償の愛を享受していていいなーとか。猫だって過酷な人生……いや、猫生があるだろうにねえ」
ずぞぞ、と音がして、メリーが飲んでいた野菜ジュースの紙パックが空になった。
「あの猫ちゃん、元気に生きているといいわね……」
「無理でしょ。生まれてからずっと飼い猫として生きてきたんだし、今になって野良猫になったって、飢え死にするか、車に轢かれるか、他の野良猫に殺されるのがオチよ」
「そっかぁ……そうだよねえ……」
口にストローをくわえたまま、しょんぼりとした様子のメリー。
しばらく、そんな様子のメリーを眺めていたが、いたたまれなくなった私は小さくため息を吐いてから、言葉を続けた。。
「でもまあ、見た目はきれいだし、もしかしたらどこかの家に拾われて、優雅に家猫生活を送っているかもしれないわね」
「そうよね! きっとそうに決まっているわよね! うんうん! やっぱり蓮子は天才ね!」
「なんだかそれ、褒められている気がしないんだけど」
途端に元気になったメリーは、嬉しそうに破顔した。
あいかわらずメリーは変人だなあと、私は思った。
真っ白な世界。眩しい、という感覚をこの時初めて体験し、私はすこし目を細めた。
やがて光に目が慣れてくると、薄らぼんやりとであるが、真っ白な世界に輪郭が浮かび上がってきた。
そして、私のことを見下ろす影が二つあることに気がついた。
二つともやわらかい笑みを浮かべながら、じっと私のことを見つめていた。
私が声を出すと、嬉しそうにしていた。
「ユキ。ユキ。お前の名前はユキだ。わかるか、ユキ」片方が言った。
「お父さん、わかりっこありませんよ。まだ生まれたばかりなんですから」もう片方が、すこし呆れた様子で言った。
「そ、そうか……。うん、お父さんか……悪くないな。なあ、母さん」
「ふふっ。もう、なんですかいきなり」
「この子は私たちの大切な子どもだ。そうしたら、私とお前はお父さんとお母さんというわけだ。はは、なんだか嬉しいなあ!」
「もう、いい年してはしゃいじゃって……まったく困ったお父さんですねえ、ユキ?」
二人がなんと言っているのかはわからなかったけれども、私は何度もユキと呼ばれた。
だからきっと、ユキとは私のことなのだろう。
ユキと呼ばれたので声を出して返事をすると、二人はとても嬉しそうにした。
それから二人……お父さんとお母さんに育てられて、私はすくすく成長した。
お父さんは私が悪戯をすると大きな声で怒った。
けれども、私がしょんぼりとしていると私のことを抱き上げて、やさしく抱きしめてくれた。
お母さんに内緒でよくおやつをくれた。
お父さんに無理やり入れられたお風呂は、最初は怖かったけれど、今はいつもお父さんと一緒に入っている。
そんなお父さんが私は大好きだった。
お母さんはいつも私が大好きなごはんをくれた。
そうしてお腹がいっぱいになって眠たくなると、よくお母さんの膝の上で眠ってしまい、その間ずっとお母さんは私の頭をなでてくれた。
目いっぱいのいたずらをして怒らせると、お母さんはお父さん以上に怖かった。
けれども、夜はいつも寂しくないようにって一緒の布団で眠ってくれた。
そんなお母さんが私は大好きだった。
私とお父さんとお母さん。三人で過ごした。
幸せだった。ずっとずっと幸せだった。
あの日、あの怪物が現れるまでは。
その日は蒸し暑く、お父さんは縁側の戸を開け放していた。
時折涼しい風が吹くと、縁側に吊るされた風鈴がちりんちりんと音を立てていた。
ぶたの置物のなかで蚊取り線香が煙をくゆらせていて、臭かったので私はそれには近づかなかった。
お父さんとお母さんは居間でテレビを見ていた。
テーブルの上には三角に切られたスイカが置いてある。
テレビからはひっきりなしに笑い声が聞こえて、それに釣られたみたいにお父さんとお母さんも笑っていた。
私は縁側に座って、外を眺めていた。
ぼうっと外を眺めているのが私は好きだった。
かさり、と縁側につながる庭から物音がした。
庭にはお母さんが趣味で植えた木や花があって、その一部は綺麗に花びらを広げて咲き誇っていた。
それが揺れる音だった。
私は音がした方をじっと見つめた。
かさり、とまた葉っぱが揺れる音がして、その向こうからなにかが現れた。
私が驚き立ちあがるのと、それが私に向かって飛びかかってくるのは同時だった。
叫び声を上げる。驚いてお父さんとお母さんがこちらに振り返った。
二人は最初、なにが起こったのかわかっていない様子だった。
最初に動いたのはお父さんだった。
その怪物は縁側を登ってくると、居間に逃げ出した私のことを追いかけた。
お父さんは私と怪物のあいだに立ちふさがって、何ごとかを叫んでいた。
お母さんも慌ててその怪物を押さえ込もうとした。
「ぎゃあっ!」
お父さんが叫んだ。真っ赤なものが飛び散った。お母さんが悲鳴を上げる。
私は居間の隅で震えていた。わけがわからなかった。
お父さんは床に倒れて苦しそうにもがいた。畳の床が赤く染まっていった。
お母さんがお父さんにすがりついた。なんどもお父さんの名前を呼んでいた。
苦しそうにしていたお父さんは、やがて動かなくなった。
怪物が立ち上がり、お母さんに襲いかかった。
私は叫んだ。ふたたび赤いものが吹き出す。お母さんが倒れた。
私はお父さんとお母さんに駆け寄ろうとした。怪物がこちらを見た。
怪物が手を払うと、私の体は簡単に吹き飛ばされた。
私と怪物の体格差は歴然で、こうなるのは当然だった。
怪物がこちらに迫る。私には為す術がなかった。
お母さんが怪物に飛びかかった。怪物が倒れる。
怪物とお母さんはもみ合っていたが、やがてお母さんがうめき声をあげて畳の上に転がった。
お母さんが叫んだ。
「逃げて! ユキ! 逃げてぇ!」
怪物がお母さんを殴った。殴った。殴った。
私はどうしたらいいのかわからなかった。
「ユキ……お願い……逃げ……」
お母さんも動かなくなった。見開かれた目が、じっとこちらを見つめていた。
怪物が立ち上がり、こちらを見た。
私は怪物の横を駆け抜け、家を飛び出した。
そろそろ夏期休暇が控えており、生徒たちが浮足立ち始める七月下旬。
いよいよ夏の暑さが本格的になり始め、ときおり涼しい日もあるが、おおむね蒸し暑い日々が続いていた。
暑いからと薄着でいたら急に寒くなったり、寒いからと厚着でいたら急に暑くなったりして、ころころと変化する気候が私の体力を根こそぎ奪っていった。
なので、私が講堂で講義中にもかかわらず机に突っ伏して眠っていても、なんらおかしなことはないのである。
「蓮子、面白いものを見つけたわ」
一限目は授業がなかったので、二限目の講義に使われる講堂で眠っていると、唐突に肩を揺さぶられて私は起こされることとなった。
重たい瞼をこすりながら顔をあげると、メリーが隣の席に座って笑っていた。
「あによ……私、眠ってたんだけど……?」
「眠ってたんだけど? じゃないわよ。もう講義終わったわよ」
「えっ!」
顔を起こして講堂を見回す。
講堂には私とメリー以外に人の姿はなく、目の前にはよだれが水たまりを作った机と、その上に置かれた『怒』と書かれたメモ紙が一枚あった。
やってしまった。講義が始まるまで寝ているつもりが、講義が終わるまで眠り続けていたらしい。
せめて誰か起こしてくれたっていいだろうに、薄情者ばかりである。
「そんなことより、ほら」
私が自分の睡眠欲のあまりの強欲さに絶望しているというのに、メリーはそんな心情を気にするそぶりも見せずに、私にスマートフォンの画面を見せつけた。
「あによ、もう……」
スマートフォンを受け取り、画面を覗き込む。
赤い。
第一印象は赤だった。
場所は畳敷きの居間で、飛び散った血や、広がった血溜まりで真っ赤に染まっていて、そこに人が二人、倒れていた。
倒れているのは男の人と女の人で、年齢は四十代か五十代くらいだろうか。
二人とも目を見開いたまま死んでいた。
画面を左にフリックすると、様々な角度から死体を写した写真が何枚も出てきた。
すべての写真を見終えた後、スマートフォンをメリーに返し、これはなにかと無言で問うた。
「いやいや、私がやったんじゃないわよ?」
「まだなにも言ってないわよ」
「昨日ね、道端でうずくまって泣きじゃくっている、血まみれの女の子に出会ったのよ」
「ちょっと、誰が怪談を話せって言ったのよ」
「違うわよ、最後まで聞いて。その女の子、顔に殴られたみたいなあざはあったんだけれど、血は自分のものじゃなかったの。で、その女の子がお父さんとお母さんが殺されたって言うから、その子の家まで案内してもらったのよ。そしたら、居間がこんな感じに」
「ずるい!」私は唇を尖らせて言った。
「ずるいって言われても……」
「で、その死体はまだあるの?」
「ええ、あるわよ」
メリーはこともなげに言ってのけた。
女の子に連れられて家に入ると、たしかにそこには少女の父親と母親と思しき二人の死体があった。
居間には血の臭いが充満していて、まだ死んで間もない、独特の空気が漂っていた。
テレビから聞こえてくる騒がしい声が、部屋の雰囲気になんともミスマッチであった。
少女は死体の傍らでグズグズと泣いていた。
私はスマートフォンを取り出すと、少女には構わずに死体の写真をいくつか撮った。
あとで蓮子にでも見せてやろうと思ったのだ。
一通り写真を撮り終えると、少女は聞いてもいないのに喋りだした。
「さっきまでいっしょだったの。三人でスイカを食べて、テレビを見て……そしたら、庭からでっかいバケモノが入ってきて……」
「バケモノ……」
「私、襲われて……お父さんとお母さんがバケモノを取り押さえようとして……そしたら、二人とも動かなくなっちゃって……」
「それで家から逃げ出した、と」
「お母さんが……ユキ、逃げてって……それで、すぐに動かなくなっちゃって……私、どうしたらいいんだろう……」
それからまた思い出したみたいにぐずぐずと泣きはじめた少女に、私は深くため息をついた。
「さあ? 警察を呼ぶなりなんなり、したらいいんじゃないかしら」
「………………ううん。呼ばない」
「あら、どうして?」
「お父さんとお母さんを殺したバケモノを、私が殺すから」
それから少女は死体になった父親と母親に抱きつき、そのまますうすうと寝息を立てはじめてしまった。
よくもまあこんなところで寝られるもんだと感心しながら、私は家を出ていった。
「と、いうことよ」
「よし行こう!」
メリーが話し終わるのと同時に、私は荷物をまとめて立ち上がった。
いつ少女が心変わりして警察を呼ぶともわからない。
それに、蒸し蒸しとした日が続いているので、たった数日でもすぐに腐臭に気づいて近所の人が通報してしまうかもしれない。
死体は鮮度が命だ。
もっともすでに命はないのだけれど。
「いってらっしゃーい」
メリーがひらひらと手を振りながら言った。
「なに言ってるのよ! あなたがいなくちゃ場所がわからないでしょう! ほら、歩いた歩いた!」
「ええー……」
私はメリーの腕を掴んで立ち上がらせると、そのまま講堂を後にした。
私には世間一般的には顔をしかめられるようなアブノーマルな趣味があった。
私は残酷で非道で凄惨な事件を調べるのが好きで、ニュースなんかでおぞましい殺人事件なんかが起こるとネットなんかで事件の詳細を調べたりした。
その中でも特に私は死体、とりわけ他殺体を見るのが好きだった。
私と同じ、生きていた人間だったはずの死体。
命を持ち、意思を持ち、家族がいて、温かかったはずの人間が、冷たくなり、動かなくなり、やがては腐っていくのだ。
死体の写真を、できれば動画を、願わくは本物を見る。
見て、生を実感し、その儚さと美しさに酔いしれる。
ある意味、芸術鑑賞のようなものだった。
メリーはそんな私の数少ない理解者の一人だった。
細い金色の髪に、透き通るような白い肌。
そんな彼女の死体になった姿は、きっとどんな死体よりも美しいことだろう。
ドライフラワーや剥製のように、いつまでもその形のまま飾っていられれば、どれだけ素敵なことだろう。
もし機会があるのなら、私は喜んでメリーを殺すだろう。
どうやってメリーを殺したら一番美しい死体になるかを、なんども頭のなかでシミュレートした。
絞殺も、刺殺も、毒殺も、撲殺も、溺殺も、どれも捨てがたい。
焼殺だけは、美しさの原型を留めないので許容できないが。
だが、その願いを叶えるのはとても難しいことだった。
なぜなら彼女は、殺す側の人間だからだ。
メリーに案内されて、例の家の前までやって来る。
警察がやってきた様子はなく、家の前に群がる野次馬やマスコミの姿もない、いたって普通ののどかな住宅街の一画であった。
玄関の脇から回り込んで庭に入ると、戸が開け放たれた縁側があって、その向こうにまるで眠っているかのように横たわっている人の形が二つあった。
少女の姿は見当たらなかった。
靴を脱ぎ、居間に上がる。
横たわっていたのは、もちろん死体だった。
四十代から五十代くらいの男性と女性で、衣服や畳を染めている二人の血は乾いてどす黒く変色していた。
メリーが話していた死の臭いはより強いものとなっており、おそらくすでにどこかが腐り始めているのだろう、蝿がぶんぶんと飛び回っていた。
「うん、やっぱり早めに訪れて正解だったわ」
私は横たわった二つの死体を様々な角度から眺め、それを写真に収めていった。
少女がいじってしまい、本来の死の形ではなくなってしまったのが残念でならないが、まあ仕方ない。
ふとメリーの方を見ると、彼女は居間には上がらずに縁側に座り込んでいた。
「臭いからそっち行きたくない」
指で鼻を摘みながら、メリーは言った。
私は広々と俯瞰して居間を見渡した。
縁側に吊るされた風鈴がそよ風が吹くたびに涼しげな音色を奏で、ぶたの置物は中に燃え尽きた灰を残したまま鎮座している。
テレビは少女が消したのだろう。
テーブルの上には食べかけのしなびたスイカが二切れ置かれていて、甘い匂いに誘われたのか蛾や黄金虫といったものがたかっていた。
私は家の中を歩き回った。
もう動かなくなり、腐り始めてすらいる二つの死体。
それらが生きてきた痕跡を写真に収めるためだった。
キッチンにある食器や、洗面台にある歯ブラシや、寝室に敷かれた布団や、玄関に並んだ靴や、他にも様々なものを写真に撮っていった。
やはり、明確な違和感があった。
「あら、猫ちゃん」
縁側からメリーの声がした。
居間に戻ってみると、庭からひょっこりと白い毛並みの猫が顔を出しており、ちちちち、と言いながらメリーが手招きをしていた。
「野良猫かしら」
「飼い猫でしょう。毛並みが綺麗だわ」
猫は警戒しているのかゆっくりとメリーに近づくと、ひょいっと飛んで縁側に上った。
我が物顔である。
「餌付けでもしていたのかしら」
見回すと、居間の隅にキャットフードが置かれていた。
にゃあ、と鳴いて、猫は居間へと入ってきた。
死体の方へと近づいていくので、血で汚れると思わず猫を抱き上げた。
にゃあ、と猫は悲しそうに鳴いた。
「おやつくれる人が死んじゃって悲しいか? ん?」
私は猫の顔を見つめた。
猫は首輪をしていた。
銀色のプレートがついた首輪で、そこに猫の名前とIDなのか、数字とアルファベットの羅列が刻印されていた。
私は猫を下ろしてやった。
猫は死体の傍で、にゃあにゃあと鳴いていた。
「どうしたの?」
メリーが呟いた。
「あー、うん。なんというか……犯人、わかったわよ」
私が言うと、メリーがびっくりした様子で目を見開いた。
「ただいまあ」
その時、玄関の扉が開く音がして、まだ幼い少女の声が家の中に響いた。
とてとてと軽い足音がして、少女が居間に姿を現した。
私の胸のあたりまでしか背丈がないであろう、小柄な少女だった。
右目のところには真っ青に腫れたあざがあり、とても痛々しい。
少女は私とメリーを見て驚いた様子だったが、メリーが笑顔でひらひらと手を振ると、昨日のことを覚えていたのだろう、少女は小さく頭を下げて会釈した。
「あの……一体、何の用事でしょう? それに、あなたは……?」
少女が私の顔を見上げて言った。その表情には困惑の色が見えた。
「はじめまして、君がユキちゃん? 私は彼女と同じ学校の知り合いでね。昨日の事件の話を聞いて、興味が湧いたものだから」
すると少女は怒った様子で声を荒げた。
「ふざけないでください! お父さんとお母さんは見世物じゃないんです! 帰って!」
「ごめんごめん、謝るよ。それじゃあ、一つだけ聞いてもいいかな?」
「……なんですか」
警戒を解かない少女に、なるべく優しい声色で、私は尋ねた。
「二人を殺したとき、どんな気分だった?」
「………………はい?」
「君が、お父さんと、お母さんだと、偽った、あの、二人を、殺したとき、どんな気分だった? と、聞いているの」
「……なにを、言っているんですか? 私が? 私が、お父さんとお母さんを……? まさか、そんなはず、ないじゃないですか……ありえませんよ。ありえません。だって、私、お父さんとお母さんが大好きで、大好きで大好きで大好きで……そしたら、あのバケモノが……」
少女の声は震えていた。
瞳は揺れ動き、明らかに動揺していることが伺える。
どうやら少女は、自分自身に嘘をついている様子であった。
きっと今の少女は、本気で自分は犯人ではないと思いこんでいるのだろう。
「バケモノはいなかった。この二人は君の両親じゃなかった。なにより、君はユキちゃんじゃない」
「そんなはずない……私はユキだ……」
「テーブルの上にスイカが二つあったの。二つよ。三つじゃない。なんで三つじゃないんだろうって思って、家の中を見て回ったの。箸も、茶碗も、歯ブラシも、布団も、枕も、靴も、全部大人用だった。子供用のものが何一つなかった。あなたはこの家の子じゃない。じゃあ、あなたは誰なの?」
「違う! 違う違う違う! ユキは私だ! 私がユキだ! お父さんとお母さんにつけてもらった大切な名前だ! 私の名前なんだ!」
「いいえ、違うわ。ユキは、この子よ」
そう言って、私は死体に寄り添って鳴いている猫を抱き上げた。
猫は少女を見ると、途端に興奮した様子で、ふしゃー、と威嚇した。
少女は、絶望の顔をしていた。
すべて思い出したのだろう。
自分がなにをしたのかを。
「嘘だ……そんな……私が……お父さんと、お母さんを……?」
「思い出したかしら?」
「……思い、出した。私、お父さんに殴られたんだ。本当のお父さんに。なにもやっていないのに、突然。なんども、なんども、なんどもなんども。それで、キッチンにあった果物ナイフを持って家を逃げ出したの。そしたら、この家から笑い声がして……二人と、猫が、幸せそうにしてて……あの猫、殺したら、代わりに私が可愛がってもらえるかなって思って。私、この猫を殺そうとした。そしたら、二人に止められて、私……二人を殺しちゃった」
少女はポケットから果物ナイフを取り出した。
こびりついた血が赤黒く変色していた。
少女の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
私が殺した、私が殺した、とうわ言のように呟いており、私とメリーは顔を見合わせて肩をすくめた。
さて、これでだいたい用事は済んだことだし、そろそろ帰ろうかと思った時だった。
突然、少女は手にしていた果物ナイフの刃を自分の首に突き刺した。
止める暇もなかった。もっとも、止めるつもりなど毛頭なかったのだが。
血が飛び散る。少女は畳の上に転倒すると、首に開いた穴を手で押さえてもがいた。
「いいっ! っああ、ぎぃっ……が、かはっ、はぁ……あ……が……ぁ……」
しばらく苦しそうに暴れたあと、少女は静かに動かなくなった。
父親と母親だと思いこんでいた二人の死体に寄り添うように。
「敵が討てたわね」
私は少女の死体に向かって呟いた。
怪物が倒れた。
お父さんとお母さんと同じように、赤いものを吹き出して倒れた。
そして、しばらく暴れたあとに、ぴたりと動かなくなってしまった。
怪物の死体は、お父さんとお母さんに寄り添うようにしていた。
まるで本当の親子のように見えた。
私はしばらくその姿を見つめていたが、なんだかとても悲しくなって、家を出ていくことにした。
もう戻っては来ないと、心に誓った。
「君、これからどうするんだい?」
黒髪の少女が、私に向かって言った。
わからない。どうしたらいいのか、なにもわからない。
そう返事をしたが、きっと彼女には伝わってはいないのだろう。
私は縁側から庭に降り立ち、一度居間の方を振り返ってから、家を出ていった。
アスファルトは熱く、遠くの景色は揺らいで見えた。
「わかるわあ、あの子の気持ち」
講堂の机にうつ伏せになり、ひんやりとした木の冷たさを肌で感じながら、私は呟いた。
「あら、どうして? あなたの家って家庭内暴力が盛んだったりしたかしら?」
メリーが紙パックの野菜ジュースを飲みながら言った。
一本で一日分の野菜をすべて摂取できるという野菜ジュースだった。
一日に摂取しなければならない量は意外と少ないと思った。
「いえ、そうじゃなくて。私も猫になりたいなー、ってときどき思うもの」
「……あの子はそういうんじゃないと思うのだけれども」
「大体いっしょよ。悩みがなくていいなーとか、昼間からごろごろしてていいなーとか、無償の愛を享受していていいなーとか。猫だって過酷な人生……いや、猫生があるだろうにねえ」
ずぞぞ、と音がして、メリーが飲んでいた野菜ジュースの紙パックが空になった。
「あの猫ちゃん、元気に生きているといいわね……」
「無理でしょ。生まれてからずっと飼い猫として生きてきたんだし、今になって野良猫になったって、飢え死にするか、車に轢かれるか、他の野良猫に殺されるのがオチよ」
「そっかぁ……そうだよねえ……」
口にストローをくわえたまま、しょんぼりとした様子のメリー。
しばらく、そんな様子のメリーを眺めていたが、いたたまれなくなった私は小さくため息を吐いてから、言葉を続けた。。
「でもまあ、見た目はきれいだし、もしかしたらどこかの家に拾われて、優雅に家猫生活を送っているかもしれないわね」
「そうよね! きっとそうに決まっているわよね! うんうん! やっぱり蓮子は天才ね!」
「なんだかそれ、褒められている気がしないんだけど」
途端に元気になったメリーは、嬉しそうに破顔した。
あいかわらずメリーは変人だなあと、私は思った。
血の似合う秘封倶楽部はいいですね。
こういう秘封倶楽部は悪くないし、叙述トリック的な要素も面白かったです。
ただキャラ設定とか前作から引き継いでるなら、続編と書かないとダメですよ
メリーの話を聞いて「よし行こう!」ってなる辺りが蓮子っぽくて非常に良かったです