それは私がまだ幼い頃だった。
私は母に連れられて市内にある図書館へとやってきていた。
母は探しものがあるからと言って、私を児童書のコーナーに置き去りにしてどこかへと行ってしまった。
暇だったので絵本の棚をなんとなしに眺めていると、およそ絵本の棚には不釣り合いなタイトルが背表紙に記された、小さな絵本を見つけた。
棚から取り出し、表紙に目をやると、右半身が女性、左半身が男性の人物が中央に立っており、それぞれ手を小さな子供と繋いでいる絵が描かれていた。
中央の人物の足元には、黒い布で包まれ、ロープで縛られた小さな塊が無造作に転がっている。
絵のタッチもさることながら、そのかもし出す雰囲気がただただ不気味でならなかった。
これは見ちゃいけないものだと、頭のなかでは思っていながらも、私はほとんど無意識にその絵本のページを捲った。
絵本の物語は、幼少期から鬱屈とした人生を歩んでいた男女が出会い、やがて子どもを連れ去って殺す計画を立て、実行するといったものであった。
特別、残虐な描写はなく、ただただ淡々と物語は描かれていた。
しかし、それでも私は全身を虫が這いずり回っているかのような、おぞましい気持ちになった。
一旦読み終えると、私はまた最初からその絵本を読み返した。
一文字一文字をじっくりと、線の一本一本を食い入るように見つめながら読んだ。
四度ほど読み返したのち、私は周囲にだれもいないことを確認してからその絵本を鞄の中にしまった。
やがて用事を済ませた母が戻ってきて、私は図書館を後にした。
家に帰ってからも、私は両親に隠れてその絵本を何度も読んだ。
いつでも読めるようにと常に鞄の中にしまっておいた。
高校を卒業し、市内の国立大学に進学することになったが、今でも鞄の中にはその絵本がある。
絵本についてもっと知りたいと思って調べてみると、この絵本の内容は実際にあった事件をモデルに描かれているらしかった。
その事件の記事も読み漁った。
まるであの絵本に取り憑かれたみたいであったが、それでも私は周囲にお利口で優秀な少女として通っていた。
誰も私の行いを疑おうともしなかった。
そうして私は私という存在の本質を誰にも隠したまま、とうとう大学の一回生になり、そして彼女と出会ったのだ。
隠していたはずの私の内面に気づいた彼女に。
糺の森の東にある住宅街に住んでいたその少女は、下鴨本通沿いにあるローソンに向かうために賀茂御祖神社の参道を横切ろうとしていた。
昼間ですら陽の光が遮られて薄暗い糺の森は、夜になってその闇がいっそう深まっている。
少女はその闇に本能的な恐怖を感じながら、早歩きで糺の森のなかを進んだ。
申しわけ程度に舗装された細道には腐葉土が積り重なっている。
かさり、と背後から物音がし、少女は立ち止まった。
風に吹かれて木々が揺れる音か、たぬきかなにかが草むらの中を通り抜けた音かもしれない。
少女は背後に目を向けたが、そこは真っ暗でなにも見えなかった。
少女は正面に向き直った。目の前に人影があった。
「ぎゃっ」
少女が叫んだ。驚いたからではなかった。
暗闇から現れた黒い雨合羽を着たその女は、少女の肩をハンマーで殴打しており、その痛みに叫んだのだ。
少女は転倒し、肩を押さえて泣いた。
助けて、助けて、と無我夢中に叫んだ。
女は気にするそぶりも見せず、ハンマーを振りかぶり、少女に振り下ろした。
何度も振り下ろした。
振り下ろすたびに鈍い音と、少女の悲鳴が響いた。
手が折れる音がした。
足が折れる音がした。
肩が折れる音がした。
肋骨が折れる音がした。
しばらくすると、少女は泣き叫ぶのをやめて、仰向けに倒れたままうめき声をあげた。
女はハンマーを仕舞うと、ナイフを取り出した。
「嫌……嫌だ……」
見開かれた少女の瞳が恐怖と絶望の色に染まった。
女は少女の右腕を押さえ、右手の親指にナイフを添えて力を入れた。
少女が叫ぶ。ごりっと手応えがして、ナイフの刃が骨ごと指を切断した。
「ぎゃああううぅぅ! 痛い痛い痛いいいいいいぃぃ!」
少女が暴れだすと、女は少女の顔をハンマーで殴った。
歯と鼻の骨が折れて、顔の一部が陥没した。
女はふたたび少女の指をナイフで切り落とした。
次は人差し指を、中指を、薬指を、小指を、右手のすべての指を切り落としたら、次は左手の指を。
女は、少女を生きたまま指先から解体していった。
両腕とも指から肩まで切り裂かれたころには、少女は息絶えていた。
女は死体になった少女をスマートフォンで撮影すると、満足そうにうっとりと微笑んだ。
夏季休暇も終わりを告げ、十月になった。
いまだ夏の暑さがかすかに残っており、ときおり蒸し暑い日もあるが、おおむね涼しい日々が続いていた。
暑いからと薄着でいたら急に寒くなったり、寒いからと厚着でいたら急に暑くなったりして、ころころと変化する気候が私の体力を根こそぎ奪っていった。
なので、私が講堂で講義中にもかかわらず机に突っ伏して眠っていても、なんらおかしなことはないのである。
「蓮子、面白いものを見つけたわ」
一限目は授業がなかったので、二限目の講義に使われる講堂で眠っていると、唐突に肩を揺さぶられて私は起こされることとなった。
重たい瞼をこすりながら顔をあげると、Mが隣の席に座って笑っていた。
「あによ……私、眠ってたんだけど……?」
「そんなの、夜に寝なさいよ。それよりほら、みてみて!」
Mは謝罪も挨拶もなしに、スマートフォンを取り出し、画面をこちらに見せていた。
いつものことだったので気にすることなく画面に目をやると、腐葉土の上に仰向けに倒れた少女の死体の写真が映し出されていた。
夜に撮られたのか、シャッターの光が少女とその周辺を照らし出していた。
腐葉土は真っ赤に染まり、その上にはばらばらにされた少女の両手が無造作に転がっている。
少女の苦痛に歪んだ表情が、彼女が生きたまま腕を解体されたことを物語っていた。
私は右手で口元を覆った。
あまりの悲惨さに嗚咽を漏らしそうになったとか、胃の中のものを吐き出しそうになったとか、そういうわけではない。
込み上げてくる笑みを堪えきれなかったのだ。
ぞくぞくとした、身の毛のよだつような真っ黒な邪悪が、ぞわぞわと這い上がってくる。
その感覚に自然と笑ってしまいそうになるのだ。
「京都レインコート連続殺人事件の新しい被害者よ。蓮子、夏季休暇前にこの事件の写真がほしいって言ってたでしょう?」
言っただろうか。よく覚えていない。
でも、この事件に興味があることは本当だった。
今年の六月から連続して起こっている猟奇殺人。
被害者はどれも十代の女性で、みんな生きたまま全身にじわじわと痛みを与えられて死んでいた。
犯人の目撃情報はほとんど無く、ただ一件だけ黒い雨合羽を着た人物が目撃されていることから、いつしかこの事件は京都レインコート連続殺人事件と呼ばれるようになり、連日ワイドショーなんかで面白おかしく取り上げられていた。
だが、テレビに映し出されることのない現実は、目を覆いたくなるような悲惨なものだった。
全員がこの凄惨な現実を目の当たりにすれば、きっと殆どの人はこの事件を面白おかしく語ったりはしないだろう。
私のような、一部の人間を除いては。
そういえば、夏期講習の直前にMとこの事件について言葉をかわしたようなきがする。
そのときに無意識に口に出したのかもしれない。
「まだあるわよ」
Mが小声でそう言い、私は画面を右にフリックした。
画面にはアルバムの一つ前の写真が表示された。
机に突っ伏して間抜けな顔を晒しながら眠る、黒髪の乙女の写真だ。
……私だった。
「削除」
「あっ、ひどいわ!」
Mが慌てて私からスマートフォンを引ったくろうとしたが、それを阻止して私の寝顔写真を削除した。
まったく、油断も隙もあったものじゃない。
改めてこんどは左にフリックすると、すこし離れた場所から死体とその現場を撮影した写真が表示された。
そこは森の中で、頭上を覆い尽くす木々の隙間から、少しだけ月と星空が顔を覗かせていた。
そこは糺の森だった。
時間は昨日の午後七時十六分だ。
「裏表ルートの情報なんだけど、昨日、糺の森で殺されたらしいわ」
「ふうん……でも、これまだニュースになってないわよね」
「まだ発見されていないのかしら。でも、糺の森は観光客も多いから、もう発見されているかもしれないわね」
「警察に通報しないの?」
「あら、どうして?」
そう言ってMは目を細めて怪しく笑った。
私は別段彼女の行動を咎めるつもりはないし、自分が代わりに通報しようとも思わなかった。
ただ、もっと早くに知っていれば現場に足を運んだのにと、悔しく思った。
さらに左にフリックすると、今しがた撮ったばかりの私の寝顔写真もあったので、それも無慈悲に削除した。
Mは本来であれば死体の写真を見たときにすべきであろう、絶望的な顔をしていた。
Mとは入学してすぐの頃に知り合った。
講義で偶然、席が隣になり、彼女の方から私に話しかけてきたのだ。
「あなた、どす黒い血の臭いがするわ」
彼女はそう言って嬉しそうに笑った。
それから彼女はよく私に話しかけてくるようになった。
話題の内容は、今回のような残酷で非道で凄惨な事件が主であった。
だが、どれもあの絵本ほど興奮するものではなかった。
講義が始まり、私は講師の言葉に耳を傾けながら、隣に座るMを見つめた。
細く金色の髪、透き通るような白い肌。
きっと彼女が死んだらとても美しいだろうと思った。
Mは金色の髪が美しい、人形のような少女であった。
海外からの留学生で、そうなるともちろん名前も日本人にはおよそ馴染みのない名前なのだが、私はその名前を覚えることができなかった。
そのうちなんか適当な愛称でもつけて呼ぼうかと思っているのだが、それがなかなか思いつかないまますでに半年近くが経過している。
いまさら彼女の名前を聞き返すわけにもいかず、現状どん詰まりであった。
今の今まで、私はどうにか試行錯誤して、彼女の名前を呼ばずに済むような会話を交わしている。
そうして、確かイニシャルがMだったような……という不確かな記憶から、私は彼女のことを心のなかで『M』と呼ぶことにしたのだ。
Mが私の視線に気づいたらしく、こちらへと視線を向けた。
かと思うと、まるで海外映画の女優のようにこちらにウインクをしてみせた。
こういった少々よくわからないところがあるのが、彼女の欠点でもある。
講義が終わり、私は講堂を後にして廊下でMと別れた。
「犯人、捕まると良いわね」
別れ際に彼女はそう言い残していった。
心にもないことを言うと思った。
「そうね」
私も彼女にそう返した。
これまた心にもないことだった。
なぜなら、私は今回の事件の犯人を知っているのだから。
わかっていて、私はこのことを誰にも伝えないでいることにした。
そうしたらきっと、次の死体が遠くない未来に発見されることだろう。
それが楽しみでならなかった。
今回の事件の写真を見せられたとき、私はあの絵本を読んだとき以来の高揚感を感じていたのだ。
その日は夕方から雨が降り始めていた。
日が沈み始めたころに学校を出た少女は、傘を差して早足に家路を急いでいた。
学校の向かいには今出川通を挟んで京都御苑があり、少女はその敷地内を突っ切って歩いていった。
砂利の地面にはあちこちに大きな水たまりができており、道を歩く人の姿もほとんどない。
点々と設置された電灯の光は頼りなく、森の奥は深い闇が広がっており、少女は薄気味悪さに眉をひそめた。
薄暗い道の反対側から、傘を差していない人影が少女の方へと歩いてきていた。
その人影は黒い雨合羽を着た女性で、どこかおぼつかない足取りで、見ていて不安になるほどふらふらとしていた。
少女は無視して進もうかと思ったが、万が一にでも病気かなにかだったら大変だと、女の方へと駆け寄った。
「あの、大丈夫ですか?」
声をかけると、女は顔をあげた。
ふらり、と雨合羽の女がよろめき、少女はとっさに女の体を支えた。
「へっ?」
じわり、と腹部に熱を感じ、少女は間抜けな声を漏らして自分の腹部を見下ろした。
少女の腹部には銀色に輝くナイフが突き刺さっており、制服の白いシャツが赤く染まっていた。
「あ……」
足の力が抜けて、少女は膝から地面に崩れ落ちた。
傘が地面に転がる。
少女は雨合羽の女を見上げた。
女は柔和な笑みを浮かべたまま、スマートフォンを取り出し、動画撮影で少女を撮りはじめた。
「あ、あの……助けて……。すごく、痛いの……。救急車……」
女は少女の腹部のナイフにそっと手を伸ばすと、それをぐりぐりと動かしながらゆっくりと引き抜いた。
「ひい、いいいいいいぃぃ」
少女が悲鳴を上げる。
ほとんど消え入りそうなその悲鳴は、雨の音にかき消された。
Mがこちらに向けているスマートフォンには、数十秒に一回、ゆっくりと腹部をナイフで刺されて苦しむ少女の動画が映し出されていた。
以前の事件からおよそ半月、犯人はようやく第二の事件を起こしたのだ。
今回は以前のような犯行後の写真ではなく、少女を刺し殺すさまを映し出した動画だった。
つまり正真正銘、犯人が撮影した動画にほかならない。
「昨日の夜、犯行現場は京都御苑ね。死体は今朝、警備の人が発見したらしいわ」
「そう……今回も死体は見れなさそうね」
「がっかり?」
「いえ、動画で見られただけでも十分だわ」
動画は少女が動かなくなってからしばらくして終わった。
画面を左にフリックすると、事切れた少女の写真が数枚表示された。
さっきまで確実に生きていたはずの存在が、まるでぼろ雑巾のように雨と血に濡れて水たまりの中に横たわっている。
瞳は輝きを失い、ただただ虚空をじっと見つめて動かない。
なんともやるせない光景だった。
「この子は前回の殺人があった時点で警察に通報しなかった、私たちが殺してしまったようなものだわ」
Mがまるで反省している素振りも見せずにそう言った。
「そうかもしれないわね。私とあなたの、二人でね」
そう言い、私はMを見た。
Mは楽しそうに口元をほころばせていた。
それでも、私は犯人を警察に差し出すつもりはなかった。
「次は、もっと早く情報を手に入れてみせるわ。蓮子が死体を直接見られるように」
「期待しないで待っておくわ」
講師が入ってきて、私たちの会話は中断された。
そうしてついに、犯人の魔の手は私達にも及ぼうとしていた。
二人目の被害者が出てから一月後、マエリベリー・ハーンは宇佐見蓮子と別れると、今出川通沿いのカフェを出て、銀閣寺の方へと向かって歩いていった。
つい話し込んでしまったせいか、日は沈んで辺りはすでに暗くなっていた。
マエリベリーは途中の横断歩道を渡り、吉田山の鳥居の前までやってきた。
鳥居の横には屋台のテントがあって、マエリベリーは後であそこで飲もうかな、などと考えながら、鳥居をくぐり、階段を登りはじめた。
その歩みに迷いはなく、彼女はずんずんと瞬く間に坂道を進んでいった。
吉田山の登山道は街灯一つなく、暗闇の中に月の光と、ざわめく木々の影がぼんやりと浮かび上がっていた。
途中、周囲の木々が開けて星空が露わになると、マエリベリーはそれをスマートフォンで撮影し、画像を添付して宇佐見蓮子に送信した。
「よし」とちいさく呟き、マエリベリーはくるりと来た道を振り返った。
かさり、と落ち葉を踏む音がして、マエリベリーの目の前に黒い雨合羽を着た女が立っていた。
「……雨も降っていないのに、雨合羽?」
マエリベリーが不思議そうに言った。
女はマエリベリーの言葉には答えず、銀色に鈍く光るナイフを取り出した。
一人になり、カフェで鶏皮バターライスを食べていると、さっき別れたばかりの彼女からのメールを受信する通知が鳴った。
メールを開いてみると、本文はなく、画像が一枚添付されていた。
添付されていた画像は、月と星が写った写真だった。
時間はついさっき、場所は吉田山の中腹であった。
私はしばらくその画像を見つめていたが、冷めてはいけないと鶏皮バターライスを消費する作業へと戻った。
きれいに平らげたところで会計を済ませ、私はカフェを出て吉田山へと向かった。
さっきの写真は、私相手でしか通用しない、自分の現在位置を伝える方法だった。
私に現在位置を伝えたのは、恐らく彼女が殺人鬼に出会ったからだろう。
万が一のことがあるかもしれないから、念のために注意するようにと彼女には言い含めてあるのだ。
となれば恐らく、彼女がよっぽどの失敗をしない限り、Mは死ぬことになる。
鳥居をくぐり、階段を登っていく。
しばらく坂道を登っていくと、Mはそこに横たわっていた。
手足はそれぞれ膝と肘のところで綺麗に切断されており、手足はまるでゴミでも捨てたみたいに無造作に放り出されていた。
コンクリートの地面にじわりじわりと血溜まりが広がっていた。
「あ、れ……蓮子……?」
Mがこちらを見て呟いた。
まだ息があるが、ほとんど虫の息であった。
もう間もなくして、Mは死ぬだろう。
「偶然……ね。あなたが……ここにいるなんて……。でも、ちょうどよかった……」
Mは微笑んだ。
「死体……ずっと、見たいって……言ってた、でしょ……? 私……もうすぐ、死んじゃう……から……」
「ええ、そうね」
「計画……どおり……じゃない、けど……蓮子……私の、死体でも……うれしい……?」
「……ええ、嬉しいわ。とっても」
「……ふふっ。私も、蓮子……喜んで、くれて……嬉しい、な……。ねえ……おねが……写真……撮って……。私を……」
彼女の傍らには、彼女が普段使っているスマートフォンが転がっていた。
それを手に取り、カメラを起動する。
カメラをMに向けると、彼女は嬉しそうに笑った。
これではなんだか死体らしくないなと思いながら、彼女の笑顔を写真に収める。
隠し撮りした私の寝顔や、糺の森、京都御苑での被害者の写真が収められている、撮影写真専用のフォルダに、新たな写真が加わった。
「最後に一つ、いいかしら」
私はMのスマートフォンをポケットにしまい、血溜まりを踏まないようにして彼女のそばにしゃがみこんだ。
「……な……あに?」
「言おう言おうと思ってずっと聞きそびれていたのよ。あなた、なんて名前だったっけ? どうにも横文字の名前って覚えるのが苦手なのよね」
Mは驚いた様子で目を見開いたが、やがてがっかりした様子で目を閉じた。
「ひどい……なあ、蓮子……。私の名前は……モナ・グリッチ、よ……。もう、忘れないで、ね……?」
「約束はできないわね。でも、写真もあるから、頑張って覚えるわ」
「ふふ……ありが……」
ぴたり、とモナは動かなくなった。
今の今まで生きていた存在が、その温もりをゆっくりと失って、やがて冷たくなっていく。
私は自分のスマートフォンを取り出し、動かなくなったモナを写真に収めた。
思った通り、彼女の死体はまるで人形のように美しかった。
ただ、せめて黒い雨合羽でなく、きれいなドレスでも着てくれていれば画になったのになあと、私はすこし残念に思った。
「さよなら、モナ」
私はモナの頬に触れ、ちいさく呟いた。
モナの死体はそのまま放置して、吉田山を下山すると、鳥居の前に屋台のテントが張られていた。
入ると、メリーが一人でおでんをつまみにビールを飲んでいるところだった。
「おっさんみたいね」
「あら、蓮子。おかえり。蓮子もいっしょに呑みましょう?」
メリーの向かいに座り、私もビールを注文する。
どれも安い新型酒であったが、この際贅沢は言っていられない。
運ばれてきたビールでメリーと乾杯する。
喉を流れて胃の腑へと落ちていく、キンキンに冷えたビールは、新型酒といえどやはり美味しいものだった。
味の染みたおでんを食べながら、冷やっこと焼鳥も追加で注文する。
「あなた、カフェで鶏皮のバターライス食べたばかりじゃない」
「別腹よ、別腹」
「太るわよ」
「うるちゃい。大丈夫よ、まだ若いんだもの。新陳代謝、新陳代謝」
メリーは呆れた様子で溜息をつくと、運ばれてきた焼鳥を食べはじめた。
メリーだってさっきカフェでケーキとパフェを食べていたじゃないかと思ったが、あとが怖いので口にはしないでおいた。
「で、どうだった? あの子の最期」
まるで観てきた映画の感想でも求めるみたいな軽さで、メリーが言った。
「きれいだったわよ。お人形さんみたいだった。服さえちゃんとしたものなら余計にね。ま、死体になったメリーには遠く及ばないでしょうけれども」
「嬉しくない褒め言葉だわ」
「メリーこそどうだったのよ。半年ぶりじゃない? 人を殺すの」
メリーが最後に誰かを殺したのは、大学に入学してすぐの頃だった。
死体を追い求める私と、殺人を追い求めるメリーが出会うきっかけとなった事件だ。
メリーの殺害方法はかなり特殊で、空間に境界を生み出し、対象の人体を切り離すといった方法で今までに大勢の人を殺していた。
殺害理由は『渇き』だとメリーは主張するが、それはきっと精神的なものなのであろう。
まさか殺した相手の血を啜るわけでもあるまい。
「うーん、微妙だったわ。相手が殺されて当然の人殺しだったからかしら。やっぱり私の中の渇きは収まらないのよね」
「渇き……ね」
「そうね……やっぱり、蓮子。あなたを殺しさえすればこの渇きは満たされるんじゃないかって思うのよね。勘だけど」
「またそれえ? 嫌よ私、自分自身の死体じゃ見られないから意味がないもの」
私はスマートフォンを取り出し、モナの写真を映し出した。
彼女が最初、どういった理由で人を殺し始めたのかはわからない。
だが、糺の森の一件以降、彼女は私を喜ばせたい一心で人を殺していた。
最初は殺した少女の写真を、次は少女を殺す動画を、そして最後は私に一番近しい人の死を、私に用意してくれようとしていた。
きっと彼女が死にゆく自分の姿を私に撮らせたのは、それ自体がメリーの死体に代わる、私への贈り物のつもりだったのだろう。
彼女は誰かのための殺人という形で、自分の中の渇きを満たそうとしていたのかもしれない。
「渇きが満たされないならビールでも飲んでなさい」
グラスにビールを注ぐと、メリーはそれを一気に飲み干した。
「んんっ、満たされない! 生ビールおかわり!」
そう言って、メリーはおでんのはんぺんをむしゃむしゃ食べはじめた。
私も冷やっこを食べ、ビールのグラスを空にした。
「ねえ、メリー」
「ねえ、蓮子」
それから私たちは、同時に言った。
「あなた、私に殺されてみない?」
私は母に連れられて市内にある図書館へとやってきていた。
母は探しものがあるからと言って、私を児童書のコーナーに置き去りにしてどこかへと行ってしまった。
暇だったので絵本の棚をなんとなしに眺めていると、およそ絵本の棚には不釣り合いなタイトルが背表紙に記された、小さな絵本を見つけた。
棚から取り出し、表紙に目をやると、右半身が女性、左半身が男性の人物が中央に立っており、それぞれ手を小さな子供と繋いでいる絵が描かれていた。
中央の人物の足元には、黒い布で包まれ、ロープで縛られた小さな塊が無造作に転がっている。
絵のタッチもさることながら、そのかもし出す雰囲気がただただ不気味でならなかった。
これは見ちゃいけないものだと、頭のなかでは思っていながらも、私はほとんど無意識にその絵本のページを捲った。
絵本の物語は、幼少期から鬱屈とした人生を歩んでいた男女が出会い、やがて子どもを連れ去って殺す計画を立て、実行するといったものであった。
特別、残虐な描写はなく、ただただ淡々と物語は描かれていた。
しかし、それでも私は全身を虫が這いずり回っているかのような、おぞましい気持ちになった。
一旦読み終えると、私はまた最初からその絵本を読み返した。
一文字一文字をじっくりと、線の一本一本を食い入るように見つめながら読んだ。
四度ほど読み返したのち、私は周囲にだれもいないことを確認してからその絵本を鞄の中にしまった。
やがて用事を済ませた母が戻ってきて、私は図書館を後にした。
家に帰ってからも、私は両親に隠れてその絵本を何度も読んだ。
いつでも読めるようにと常に鞄の中にしまっておいた。
高校を卒業し、市内の国立大学に進学することになったが、今でも鞄の中にはその絵本がある。
絵本についてもっと知りたいと思って調べてみると、この絵本の内容は実際にあった事件をモデルに描かれているらしかった。
その事件の記事も読み漁った。
まるであの絵本に取り憑かれたみたいであったが、それでも私は周囲にお利口で優秀な少女として通っていた。
誰も私の行いを疑おうともしなかった。
そうして私は私という存在の本質を誰にも隠したまま、とうとう大学の一回生になり、そして彼女と出会ったのだ。
隠していたはずの私の内面に気づいた彼女に。
糺の森の東にある住宅街に住んでいたその少女は、下鴨本通沿いにあるローソンに向かうために賀茂御祖神社の参道を横切ろうとしていた。
昼間ですら陽の光が遮られて薄暗い糺の森は、夜になってその闇がいっそう深まっている。
少女はその闇に本能的な恐怖を感じながら、早歩きで糺の森のなかを進んだ。
申しわけ程度に舗装された細道には腐葉土が積り重なっている。
かさり、と背後から物音がし、少女は立ち止まった。
風に吹かれて木々が揺れる音か、たぬきかなにかが草むらの中を通り抜けた音かもしれない。
少女は背後に目を向けたが、そこは真っ暗でなにも見えなかった。
少女は正面に向き直った。目の前に人影があった。
「ぎゃっ」
少女が叫んだ。驚いたからではなかった。
暗闇から現れた黒い雨合羽を着たその女は、少女の肩をハンマーで殴打しており、その痛みに叫んだのだ。
少女は転倒し、肩を押さえて泣いた。
助けて、助けて、と無我夢中に叫んだ。
女は気にするそぶりも見せず、ハンマーを振りかぶり、少女に振り下ろした。
何度も振り下ろした。
振り下ろすたびに鈍い音と、少女の悲鳴が響いた。
手が折れる音がした。
足が折れる音がした。
肩が折れる音がした。
肋骨が折れる音がした。
しばらくすると、少女は泣き叫ぶのをやめて、仰向けに倒れたままうめき声をあげた。
女はハンマーを仕舞うと、ナイフを取り出した。
「嫌……嫌だ……」
見開かれた少女の瞳が恐怖と絶望の色に染まった。
女は少女の右腕を押さえ、右手の親指にナイフを添えて力を入れた。
少女が叫ぶ。ごりっと手応えがして、ナイフの刃が骨ごと指を切断した。
「ぎゃああううぅぅ! 痛い痛い痛いいいいいいぃぃ!」
少女が暴れだすと、女は少女の顔をハンマーで殴った。
歯と鼻の骨が折れて、顔の一部が陥没した。
女はふたたび少女の指をナイフで切り落とした。
次は人差し指を、中指を、薬指を、小指を、右手のすべての指を切り落としたら、次は左手の指を。
女は、少女を生きたまま指先から解体していった。
両腕とも指から肩まで切り裂かれたころには、少女は息絶えていた。
女は死体になった少女をスマートフォンで撮影すると、満足そうにうっとりと微笑んだ。
夏季休暇も終わりを告げ、十月になった。
いまだ夏の暑さがかすかに残っており、ときおり蒸し暑い日もあるが、おおむね涼しい日々が続いていた。
暑いからと薄着でいたら急に寒くなったり、寒いからと厚着でいたら急に暑くなったりして、ころころと変化する気候が私の体力を根こそぎ奪っていった。
なので、私が講堂で講義中にもかかわらず机に突っ伏して眠っていても、なんらおかしなことはないのである。
「蓮子、面白いものを見つけたわ」
一限目は授業がなかったので、二限目の講義に使われる講堂で眠っていると、唐突に肩を揺さぶられて私は起こされることとなった。
重たい瞼をこすりながら顔をあげると、Mが隣の席に座って笑っていた。
「あによ……私、眠ってたんだけど……?」
「そんなの、夜に寝なさいよ。それよりほら、みてみて!」
Mは謝罪も挨拶もなしに、スマートフォンを取り出し、画面をこちらに見せていた。
いつものことだったので気にすることなく画面に目をやると、腐葉土の上に仰向けに倒れた少女の死体の写真が映し出されていた。
夜に撮られたのか、シャッターの光が少女とその周辺を照らし出していた。
腐葉土は真っ赤に染まり、その上にはばらばらにされた少女の両手が無造作に転がっている。
少女の苦痛に歪んだ表情が、彼女が生きたまま腕を解体されたことを物語っていた。
私は右手で口元を覆った。
あまりの悲惨さに嗚咽を漏らしそうになったとか、胃の中のものを吐き出しそうになったとか、そういうわけではない。
込み上げてくる笑みを堪えきれなかったのだ。
ぞくぞくとした、身の毛のよだつような真っ黒な邪悪が、ぞわぞわと這い上がってくる。
その感覚に自然と笑ってしまいそうになるのだ。
「京都レインコート連続殺人事件の新しい被害者よ。蓮子、夏季休暇前にこの事件の写真がほしいって言ってたでしょう?」
言っただろうか。よく覚えていない。
でも、この事件に興味があることは本当だった。
今年の六月から連続して起こっている猟奇殺人。
被害者はどれも十代の女性で、みんな生きたまま全身にじわじわと痛みを与えられて死んでいた。
犯人の目撃情報はほとんど無く、ただ一件だけ黒い雨合羽を着た人物が目撃されていることから、いつしかこの事件は京都レインコート連続殺人事件と呼ばれるようになり、連日ワイドショーなんかで面白おかしく取り上げられていた。
だが、テレビに映し出されることのない現実は、目を覆いたくなるような悲惨なものだった。
全員がこの凄惨な現実を目の当たりにすれば、きっと殆どの人はこの事件を面白おかしく語ったりはしないだろう。
私のような、一部の人間を除いては。
そういえば、夏期講習の直前にMとこの事件について言葉をかわしたようなきがする。
そのときに無意識に口に出したのかもしれない。
「まだあるわよ」
Mが小声でそう言い、私は画面を右にフリックした。
画面にはアルバムの一つ前の写真が表示された。
机に突っ伏して間抜けな顔を晒しながら眠る、黒髪の乙女の写真だ。
……私だった。
「削除」
「あっ、ひどいわ!」
Mが慌てて私からスマートフォンを引ったくろうとしたが、それを阻止して私の寝顔写真を削除した。
まったく、油断も隙もあったものじゃない。
改めてこんどは左にフリックすると、すこし離れた場所から死体とその現場を撮影した写真が表示された。
そこは森の中で、頭上を覆い尽くす木々の隙間から、少しだけ月と星空が顔を覗かせていた。
そこは糺の森だった。
時間は昨日の午後七時十六分だ。
「裏表ルートの情報なんだけど、昨日、糺の森で殺されたらしいわ」
「ふうん……でも、これまだニュースになってないわよね」
「まだ発見されていないのかしら。でも、糺の森は観光客も多いから、もう発見されているかもしれないわね」
「警察に通報しないの?」
「あら、どうして?」
そう言ってMは目を細めて怪しく笑った。
私は別段彼女の行動を咎めるつもりはないし、自分が代わりに通報しようとも思わなかった。
ただ、もっと早くに知っていれば現場に足を運んだのにと、悔しく思った。
さらに左にフリックすると、今しがた撮ったばかりの私の寝顔写真もあったので、それも無慈悲に削除した。
Mは本来であれば死体の写真を見たときにすべきであろう、絶望的な顔をしていた。
Mとは入学してすぐの頃に知り合った。
講義で偶然、席が隣になり、彼女の方から私に話しかけてきたのだ。
「あなた、どす黒い血の臭いがするわ」
彼女はそう言って嬉しそうに笑った。
それから彼女はよく私に話しかけてくるようになった。
話題の内容は、今回のような残酷で非道で凄惨な事件が主であった。
だが、どれもあの絵本ほど興奮するものではなかった。
講義が始まり、私は講師の言葉に耳を傾けながら、隣に座るMを見つめた。
細く金色の髪、透き通るような白い肌。
きっと彼女が死んだらとても美しいだろうと思った。
Mは金色の髪が美しい、人形のような少女であった。
海外からの留学生で、そうなるともちろん名前も日本人にはおよそ馴染みのない名前なのだが、私はその名前を覚えることができなかった。
そのうちなんか適当な愛称でもつけて呼ぼうかと思っているのだが、それがなかなか思いつかないまますでに半年近くが経過している。
いまさら彼女の名前を聞き返すわけにもいかず、現状どん詰まりであった。
今の今まで、私はどうにか試行錯誤して、彼女の名前を呼ばずに済むような会話を交わしている。
そうして、確かイニシャルがMだったような……という不確かな記憶から、私は彼女のことを心のなかで『M』と呼ぶことにしたのだ。
Mが私の視線に気づいたらしく、こちらへと視線を向けた。
かと思うと、まるで海外映画の女優のようにこちらにウインクをしてみせた。
こういった少々よくわからないところがあるのが、彼女の欠点でもある。
講義が終わり、私は講堂を後にして廊下でMと別れた。
「犯人、捕まると良いわね」
別れ際に彼女はそう言い残していった。
心にもないことを言うと思った。
「そうね」
私も彼女にそう返した。
これまた心にもないことだった。
なぜなら、私は今回の事件の犯人を知っているのだから。
わかっていて、私はこのことを誰にも伝えないでいることにした。
そうしたらきっと、次の死体が遠くない未来に発見されることだろう。
それが楽しみでならなかった。
今回の事件の写真を見せられたとき、私はあの絵本を読んだとき以来の高揚感を感じていたのだ。
その日は夕方から雨が降り始めていた。
日が沈み始めたころに学校を出た少女は、傘を差して早足に家路を急いでいた。
学校の向かいには今出川通を挟んで京都御苑があり、少女はその敷地内を突っ切って歩いていった。
砂利の地面にはあちこちに大きな水たまりができており、道を歩く人の姿もほとんどない。
点々と設置された電灯の光は頼りなく、森の奥は深い闇が広がっており、少女は薄気味悪さに眉をひそめた。
薄暗い道の反対側から、傘を差していない人影が少女の方へと歩いてきていた。
その人影は黒い雨合羽を着た女性で、どこかおぼつかない足取りで、見ていて不安になるほどふらふらとしていた。
少女は無視して進もうかと思ったが、万が一にでも病気かなにかだったら大変だと、女の方へと駆け寄った。
「あの、大丈夫ですか?」
声をかけると、女は顔をあげた。
ふらり、と雨合羽の女がよろめき、少女はとっさに女の体を支えた。
「へっ?」
じわり、と腹部に熱を感じ、少女は間抜けな声を漏らして自分の腹部を見下ろした。
少女の腹部には銀色に輝くナイフが突き刺さっており、制服の白いシャツが赤く染まっていた。
「あ……」
足の力が抜けて、少女は膝から地面に崩れ落ちた。
傘が地面に転がる。
少女は雨合羽の女を見上げた。
女は柔和な笑みを浮かべたまま、スマートフォンを取り出し、動画撮影で少女を撮りはじめた。
「あ、あの……助けて……。すごく、痛いの……。救急車……」
女は少女の腹部のナイフにそっと手を伸ばすと、それをぐりぐりと動かしながらゆっくりと引き抜いた。
「ひい、いいいいいいぃぃ」
少女が悲鳴を上げる。
ほとんど消え入りそうなその悲鳴は、雨の音にかき消された。
Mがこちらに向けているスマートフォンには、数十秒に一回、ゆっくりと腹部をナイフで刺されて苦しむ少女の動画が映し出されていた。
以前の事件からおよそ半月、犯人はようやく第二の事件を起こしたのだ。
今回は以前のような犯行後の写真ではなく、少女を刺し殺すさまを映し出した動画だった。
つまり正真正銘、犯人が撮影した動画にほかならない。
「昨日の夜、犯行現場は京都御苑ね。死体は今朝、警備の人が発見したらしいわ」
「そう……今回も死体は見れなさそうね」
「がっかり?」
「いえ、動画で見られただけでも十分だわ」
動画は少女が動かなくなってからしばらくして終わった。
画面を左にフリックすると、事切れた少女の写真が数枚表示された。
さっきまで確実に生きていたはずの存在が、まるでぼろ雑巾のように雨と血に濡れて水たまりの中に横たわっている。
瞳は輝きを失い、ただただ虚空をじっと見つめて動かない。
なんともやるせない光景だった。
「この子は前回の殺人があった時点で警察に通報しなかった、私たちが殺してしまったようなものだわ」
Mがまるで反省している素振りも見せずにそう言った。
「そうかもしれないわね。私とあなたの、二人でね」
そう言い、私はMを見た。
Mは楽しそうに口元をほころばせていた。
それでも、私は犯人を警察に差し出すつもりはなかった。
「次は、もっと早く情報を手に入れてみせるわ。蓮子が死体を直接見られるように」
「期待しないで待っておくわ」
講師が入ってきて、私たちの会話は中断された。
そうしてついに、犯人の魔の手は私達にも及ぼうとしていた。
二人目の被害者が出てから一月後、マエリベリー・ハーンは宇佐見蓮子と別れると、今出川通沿いのカフェを出て、銀閣寺の方へと向かって歩いていった。
つい話し込んでしまったせいか、日は沈んで辺りはすでに暗くなっていた。
マエリベリーは途中の横断歩道を渡り、吉田山の鳥居の前までやってきた。
鳥居の横には屋台のテントがあって、マエリベリーは後であそこで飲もうかな、などと考えながら、鳥居をくぐり、階段を登りはじめた。
その歩みに迷いはなく、彼女はずんずんと瞬く間に坂道を進んでいった。
吉田山の登山道は街灯一つなく、暗闇の中に月の光と、ざわめく木々の影がぼんやりと浮かび上がっていた。
途中、周囲の木々が開けて星空が露わになると、マエリベリーはそれをスマートフォンで撮影し、画像を添付して宇佐見蓮子に送信した。
「よし」とちいさく呟き、マエリベリーはくるりと来た道を振り返った。
かさり、と落ち葉を踏む音がして、マエリベリーの目の前に黒い雨合羽を着た女が立っていた。
「……雨も降っていないのに、雨合羽?」
マエリベリーが不思議そうに言った。
女はマエリベリーの言葉には答えず、銀色に鈍く光るナイフを取り出した。
一人になり、カフェで鶏皮バターライスを食べていると、さっき別れたばかりの彼女からのメールを受信する通知が鳴った。
メールを開いてみると、本文はなく、画像が一枚添付されていた。
添付されていた画像は、月と星が写った写真だった。
時間はついさっき、場所は吉田山の中腹であった。
私はしばらくその画像を見つめていたが、冷めてはいけないと鶏皮バターライスを消費する作業へと戻った。
きれいに平らげたところで会計を済ませ、私はカフェを出て吉田山へと向かった。
さっきの写真は、私相手でしか通用しない、自分の現在位置を伝える方法だった。
私に現在位置を伝えたのは、恐らく彼女が殺人鬼に出会ったからだろう。
万が一のことがあるかもしれないから、念のために注意するようにと彼女には言い含めてあるのだ。
となれば恐らく、彼女がよっぽどの失敗をしない限り、Mは死ぬことになる。
鳥居をくぐり、階段を登っていく。
しばらく坂道を登っていくと、Mはそこに横たわっていた。
手足はそれぞれ膝と肘のところで綺麗に切断されており、手足はまるでゴミでも捨てたみたいに無造作に放り出されていた。
コンクリートの地面にじわりじわりと血溜まりが広がっていた。
「あ、れ……蓮子……?」
Mがこちらを見て呟いた。
まだ息があるが、ほとんど虫の息であった。
もう間もなくして、Mは死ぬだろう。
「偶然……ね。あなたが……ここにいるなんて……。でも、ちょうどよかった……」
Mは微笑んだ。
「死体……ずっと、見たいって……言ってた、でしょ……? 私……もうすぐ、死んじゃう……から……」
「ええ、そうね」
「計画……どおり……じゃない、けど……蓮子……私の、死体でも……うれしい……?」
「……ええ、嬉しいわ。とっても」
「……ふふっ。私も、蓮子……喜んで、くれて……嬉しい、な……。ねえ……おねが……写真……撮って……。私を……」
彼女の傍らには、彼女が普段使っているスマートフォンが転がっていた。
それを手に取り、カメラを起動する。
カメラをMに向けると、彼女は嬉しそうに笑った。
これではなんだか死体らしくないなと思いながら、彼女の笑顔を写真に収める。
隠し撮りした私の寝顔や、糺の森、京都御苑での被害者の写真が収められている、撮影写真専用のフォルダに、新たな写真が加わった。
「最後に一つ、いいかしら」
私はMのスマートフォンをポケットにしまい、血溜まりを踏まないようにして彼女のそばにしゃがみこんだ。
「……な……あに?」
「言おう言おうと思ってずっと聞きそびれていたのよ。あなた、なんて名前だったっけ? どうにも横文字の名前って覚えるのが苦手なのよね」
Mは驚いた様子で目を見開いたが、やがてがっかりした様子で目を閉じた。
「ひどい……なあ、蓮子……。私の名前は……モナ・グリッチ、よ……。もう、忘れないで、ね……?」
「約束はできないわね。でも、写真もあるから、頑張って覚えるわ」
「ふふ……ありが……」
ぴたり、とモナは動かなくなった。
今の今まで生きていた存在が、その温もりをゆっくりと失って、やがて冷たくなっていく。
私は自分のスマートフォンを取り出し、動かなくなったモナを写真に収めた。
思った通り、彼女の死体はまるで人形のように美しかった。
ただ、せめて黒い雨合羽でなく、きれいなドレスでも着てくれていれば画になったのになあと、私はすこし残念に思った。
「さよなら、モナ」
私はモナの頬に触れ、ちいさく呟いた。
モナの死体はそのまま放置して、吉田山を下山すると、鳥居の前に屋台のテントが張られていた。
入ると、メリーが一人でおでんをつまみにビールを飲んでいるところだった。
「おっさんみたいね」
「あら、蓮子。おかえり。蓮子もいっしょに呑みましょう?」
メリーの向かいに座り、私もビールを注文する。
どれも安い新型酒であったが、この際贅沢は言っていられない。
運ばれてきたビールでメリーと乾杯する。
喉を流れて胃の腑へと落ちていく、キンキンに冷えたビールは、新型酒といえどやはり美味しいものだった。
味の染みたおでんを食べながら、冷やっこと焼鳥も追加で注文する。
「あなた、カフェで鶏皮のバターライス食べたばかりじゃない」
「別腹よ、別腹」
「太るわよ」
「うるちゃい。大丈夫よ、まだ若いんだもの。新陳代謝、新陳代謝」
メリーは呆れた様子で溜息をつくと、運ばれてきた焼鳥を食べはじめた。
メリーだってさっきカフェでケーキとパフェを食べていたじゃないかと思ったが、あとが怖いので口にはしないでおいた。
「で、どうだった? あの子の最期」
まるで観てきた映画の感想でも求めるみたいな軽さで、メリーが言った。
「きれいだったわよ。お人形さんみたいだった。服さえちゃんとしたものなら余計にね。ま、死体になったメリーには遠く及ばないでしょうけれども」
「嬉しくない褒め言葉だわ」
「メリーこそどうだったのよ。半年ぶりじゃない? 人を殺すの」
メリーが最後に誰かを殺したのは、大学に入学してすぐの頃だった。
死体を追い求める私と、殺人を追い求めるメリーが出会うきっかけとなった事件だ。
メリーの殺害方法はかなり特殊で、空間に境界を生み出し、対象の人体を切り離すといった方法で今までに大勢の人を殺していた。
殺害理由は『渇き』だとメリーは主張するが、それはきっと精神的なものなのであろう。
まさか殺した相手の血を啜るわけでもあるまい。
「うーん、微妙だったわ。相手が殺されて当然の人殺しだったからかしら。やっぱり私の中の渇きは収まらないのよね」
「渇き……ね」
「そうね……やっぱり、蓮子。あなたを殺しさえすればこの渇きは満たされるんじゃないかって思うのよね。勘だけど」
「またそれえ? 嫌よ私、自分自身の死体じゃ見られないから意味がないもの」
私はスマートフォンを取り出し、モナの写真を映し出した。
彼女が最初、どういった理由で人を殺し始めたのかはわからない。
だが、糺の森の一件以降、彼女は私を喜ばせたい一心で人を殺していた。
最初は殺した少女の写真を、次は少女を殺す動画を、そして最後は私に一番近しい人の死を、私に用意してくれようとしていた。
きっと彼女が死にゆく自分の姿を私に撮らせたのは、それ自体がメリーの死体に代わる、私への贈り物のつもりだったのだろう。
彼女は誰かのための殺人という形で、自分の中の渇きを満たそうとしていたのかもしれない。
「渇きが満たされないならビールでも飲んでなさい」
グラスにビールを注ぐと、メリーはそれを一気に飲み干した。
「んんっ、満たされない! 生ビールおかわり!」
そう言って、メリーはおでんのはんぺんをむしゃむしゃ食べはじめた。
私も冷やっこを食べ、ビールのグラスを空にした。
「ねえ、メリー」
「ねえ、蓮子」
それから私たちは、同時に言った。
「あなた、私に殺されてみない?」
ちゃんと叙述トリックの体を為しており、お手本のようなSSでした。
黙認者と正義漢どちらがくそなのだろうか
友情があってころすぞと恫喝し合う中だからバランスがとれてるのかも