手に持った時計は、今日も私が仕事をスケジュール通りにやり仰せたと言うことをそれ自身の針で表してくれていた。
あとはお嬢様の「咲夜ー」と言うモーニングコールの前に少しの仮眠を取るだけ。たとえ寝ていようとも、私の耳がお嬢様の声を逃すことはない。その声を聞く為に今日も一日頑張ったんだから。
今日のお嬢様はどんな寝起き顔かしら――そんな事を考えて廊下を歩いていた私にその音が聞こえたのは、その親愛するお嬢様の部屋の前を静かに通りすぎようとした時だった。
私の記憶している限りでは、その音はお嬢様の部屋から溢れる筈のない物だ。無論、私の知らないところでお嬢様がどこかしらから拾ってきた可能性はある。お嬢様は気に入ったものなら何でもコレクションしたがる癖をお持ちだし。
しかし、その蒐集癖の対象となる物は珍しいものに対してだし、入手したらほぼ間違いなく私やパチュリー様に自慢しに来るのでは無いだろうか。お嬢様はこそこそと何かをする性分ではない、それがたとえ隠れてやるべきこと――例えばつまみ食いであったりしても、堂々とそれをやり仰せる。堂々とやるつまみ食いはつまみ食いと言うのかどうかは知らないけれど。
それはとにかく、その音はありふれた物の筈なのに、この場所で鳴るのはとても不可解なものだった。
――にゃあ
そのか細い音は再び扉の向こうから聞こえた、どうやら私の聞き間違いでは無かったようだ。
猫の、鳴き声。
私は猫にはあまり明るくない。だからその鳴き声から何の種類なのか当てる事は勿論出来ないが、ここから聞こえるという事は相応に珍しいもの……なのだろうか。
何故猫なのか心当たりはある。昨日、お嬢様と散歩中に野良猫と出会って少し戯れていたからだ。
しかし、お嬢様はあまり興味が無さそうに私が猫に構うのをじーっと見ているだけだった。少しした後に「早く行くわよ」と一言申しただけだったのだが……実は羨ましかったのだろうか? 興味無さそうにしていた手前、それを拾ったとも言いに来にくかったのだろうか。
私は小動物は嫌いではない、むしろ好きな類だ。お嬢様の可愛らしさの一部には小動物っぽさがあってそこも数ある内の好きなところの一つなのだが、そんな小動物らしさがあるお嬢様と小動物そのものである猫が一緒にいるところは凄く至福を感じる一場面では無いだろうか? 想像しただけで良い夢が見れそうである。
気づけば私は部屋の扉の前で聞き耳を立てていた。中からこれと言った物音はせず、お嬢様が起きているかどうかを窺い知ることは出来なかった。
どのみちあと少しでお嬢様の元へお目見えできる。だからここは焦らずに私は私の部屋に戻るのが正しい選択なのだろう。
しかし、私は疲れていた。少しでも早くお嬢様の顔が見れるなら、この扉を開けてしまうのもありなんじゃないだろうか?
今週はまだお嬢様の寝顔は拝見していない。一週間に一度だけだと決めている――そうでも決めないと毎日毎時間覗いてしまうからである。ここでその権利を使うと言う事は、この一週間はお嬢様の寝顔無しで生きねばならないが……まあ、大丈夫だろう。大丈夫大丈夫。
早速私は時を止め、お嬢様の部屋を開く。気付かれなければ不敬では無い。少し覗くだけだから問題無い。
お嬢様の部屋は電気が消えることはない、明るいほうがすっとお早く眠りにつけるそうだ。たまに気分を変えて暗闇で眠りたい場合は棺桶をベッドにおいてその中で眠られるのだが、今日はその棺桶は使われていないようだった。
しかし、部屋を見渡しても問題の猫の姿は確認できず、私は時を再び動かす事にした。あまり動くと気配を察知されお嬢様を起こしてしまう可能性があるが、逆に大きく動かなければ大体の場合は大丈夫と今までの経験で理解している。探すのが音だけの場合は耳にのみ神経を集中すれば良いので、あまり動く必要はない。さあ、どこから聞こえる?
――にゃあ
その声はベッド中から……え、本当に?
私に、あの掛け布団をめくれと言うことなのですか。
お嬢様が寝ている間に布団をめくった事は流石にまだない。いつもは遠巻きに可愛らしい寝息と掛け布団から覗く御顔のみを楽しみに忍び入るのみだったのだが、ついにあの掛け布団をめくることになってしまうのか。それは一線を超えてはいないだろうか? 就寝中の無防備なお嬢様をさらに無防備にするなど、従者に許される行為なのだろうか。
……いいじゃないか、少しくらいなら。ばっとやっちゃえよ。
私の中の悪魔が囁いた。心の反対側で、私の中の天使はそれに対して物申す。
……せめて気付かれないように、めくる時は時を止めるのよ。
違った、悪魔だった。どうやら私の中に良心的な天使はいないようだった。悪魔の館に仕える身としては誇らしいことだ。
迷いは消え去った。お嬢様の方を見ると、まだまだ目覚める様子はない。掛け布団がお嬢様の寝息と一緒に可愛らしく上下しているのみだ。
私は再度時を止めお嬢様に近付くと、癖があって跳ねがちな髪の毛を撫でつつ梳いてあげ――いや、違う。今は愛でている場合では無い。私には目的がある。
顔の半分まで被っている掛け布団をめくるべく手をかけ、そのままそろりそろりとお嬢様から剥がして……
そして、私は余計にわからなくなった。そこにあったのは、可愛らしいお嬢様の御身一つだった。本当に可愛らしい御身だ。起きて快活に動いていらっしゃる時よりも、静かに眠っている今の方が肌の白さが際立っていて、その白は多分永遠にそこにあり続けるもので。悪魔の筈なのにその寝姿はまるで――
いや、今問題なのはそうではなく。何故そこにいると思われた猫がいないのだろうか。
どうしても真実を知りたくなった私は、最初より少し布団をずらした状態で時を動かしみることにした。少しの変化で何か結果が変わる可能性もあるだろうと考えたのだ。お嬢様が起きてしまうリスクがあるが、今の私は行け行けモード。お嬢様が起きた時に何故か部屋の中に私がいるとしばらく口を聞いていただけなくなる可能性もあるが、クビまではいかないだろう。多分。大丈夫大丈夫。
そして、時は動き出す。
お嬢様は――もぞもぞと体を動かしてはいるが、起きなかった。やった。
考慮すべき一難は去ったものの、本番はここからだと言えるだろう。あの音は如何用にして、どこから聞こえてきたものなのか――
「にゃあ」
………………。……?。
私は最初、目の前のことが認識できなかった。正直、この結果になる事を予測できなかったわけではない。しかし私はあえてその想像をしなかったのだ、それはあまりにも危険すぎるから。
「にゃあ」
しかし、それは現実の、何よりも珍しい映像として私の目と脳に叩きつけられた。
声の主は、お嬢様本人からのものだった。
「……っ!」
私は咄嗟に手で自分の口を塞いだ。そうしなければ声と一緒に魂が体から抜け出てしまいそうになったから。
「んにゃ」
お上手である。本物の猫と遜色のない声色だ。その様子にぼーっと見惚れていると、鳴き声を出す度に羽の先端をぴくぴくと動かしているのが見えた。尻尾の代わりに動かしているのだろうか。可愛い。
私はそうするのが当たり前だと言うように、空いた手の方でお嬢様の頭を撫でていた。時を止めなければ起きてしまう、頭ではきちんと理解している。しかしその手は止める事は出来なかったし、時を止めようとも思えなかった。この時間は止めてしまうにはあまりにも惜しいものだった。
お嬢様は目を覚ます事は無く、羽の動きが少し大きくなるに留まった。いや、正確に言えばそれだけではなく。
お嬢様はゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
今度こそ時が止まる。いつもは私だけしかその時の中では動けないはずなのに、今は私だけが動けなかった。時計の針が進む音と、羽がベッドに擦れる音。そしてお嬢様から出るゴロゴロと言う音だけが、私以外の時が滞りなく進んでいることを証明してくれていた。
私は全てを理解した。部屋に戻ることを決めると、私は私の時間を進めることを許された。今度は私が私以外の時を止める番だった。
お嬢様を起こさないように、見つからないように。止まる時の中で部屋を出て、廊下を歩く。そのまま真っすぐ私室に入り、普段は着替えてから乗るベッドの上へ身を投げる。
私は、この館には悪魔しかいないと思っていた。お嬢様の可愛さはあくまでも悪魔的可愛さであって、純真無垢で清純なだけの単調な可愛さによるものでは無いと、そう思っていた。
しかし、あの部屋には。あの瞬間だけは、そこに天使がいた。純真無垢で清純で単調な可愛さは私の心を澄み渡らせ、滅茶苦茶に荒らした。あれ以上部屋にいるのは耐えきれなかったし、許されなかった。
「……お嬢様」
その単語を口にすると、少しだけ心が落ち着きを取り戻した。そういえば今日はずっと動き詰めだったことを頭と体が思い出して――
私は猫である。名前は……思い出せない。ちゃんとした名前があった気がするけれど、どうにも眠たくてそれどころではない。歩き回って疲れたので今は木陰で休んでいるところだった。ずっと家の中にいると退屈なので、こうして家を飛び出し色んな所へ行くのが私の日課だった。今日は色んな場所へ出かけた。神社に湖に、こっそりと人里にも。
今日は夜までこのまま寝てようか。そう考えていた時、目の前を一匹の雑種が通る。汚らしいと言うわけではないが、私と違ってどうにも気品さが感じられないやつだった。うつらうつらしながら眺めていると、どうやらそいつは私のいる木陰ではなく、その近くの日向でくつろごうとしているようだった。こんな暑い日に、よくあんな場所でゆっくりと出来るものだ。私には関係ないけれど。
そして私は目を瞑る、次に起きる時はきちんと夜になっている事だろう。
そのまま眠るはずだった。何かの足音が私の安眠を妨げなければ。
(……何?)
耳だけ立てて状況を探る。それは近づいてきてはいるようだったが、私の方にでは無いようだった。
「――」
どうやら人間のようだ。
何か喋っているようだったが、何と言っているかまでは猫である私には知りようがない。ただ、声色から予測するに人間は例の雑種にじゃれついているようだった。
私には関係ない事だ。そう思っていても、耳が音を探るのを止めてくれない。何故だろう?
もしかして、あの声を私が欲していると言うのだろうか。いや、声だけじゃなく、その声の主であるあの人間にじゃれてもらいたいと思ってる? 私が? そんな馬鹿な事が……
もしかすると、あってしまうのかもしれない。現に、今こうして一向に眠れていないのが何よりの証拠となってしまうのだろう。このままでは満足して眠ることが出来ないので、あの人間に協力してもらう必要がありそうだった。
早速、ここにもう一匹猫がいると気づいてもらうために少し鳴いてみる。目を瞑ったまま、ガツガツしすぎず控えめな声で。
一度目。こちらに来る気配はない。どうやら気づかれていない様子だ。
二度目。少し強めに鳴いてみる。変化はない。
三度、四度、五度……少しずつ少しずつ鳴き声を大きくしていくと、どうやらようやくこちらに気付いたらしく、あやすような甘い声が止んだ。私は足音を探って待ち構えて――
しかし次の瞬間。その人間は気づけば私の頭を撫でていた。こちらにやってきていた気配や足音は全くなく、まるで最初からそこにいたかのようだった。
私は何故かその事については驚かなかった。しかし、完全に不覚を取られてしまった私は、その優しい撫で方に思わず喉を鳴らしてしまい……
夢というのは起きた時に忘れたり覚えたままだったりする。今日見たものは……あまり覚えていない。
寝起きの気分はあまり良くなかった。酷すぎる悪夢というわけでも無かった気がするのだが、がっと起きてしゃきしゃき着替える気分にはなれていないのは事実だ。
「咲夜ー」
少し声を張ってその名前を呼ぶと、咲夜はいつもすぐに駆けつけてきてくれる。今だってご多分に漏れずベッドのすぐ近くに立っていた、まるで最初からそこにいたかのように。
「お嬢様、いかがされましたか?」
「変な夢を見た気がするの。そのせいでやる気が妙に削がれてしまってね」
そう言うと、咲夜は急にごほごほと苦しそうに咳をしだしたのだった。咲夜の方を見ると、あまり顔色が優れないように思えた。……ふぅん?
「咲夜、大丈夫? 何だか体調が悪そうだけど」
「そうでしょうか? いつもと変わりなく健康ですよー……」
微笑んでくれたその顔は、やっぱりいつもより少し青い気がした。大丈夫というのであればあまり問い詰めることも無いだろう。
「んー……そうね。咲夜、気晴らしに私を撫でてみて」
咲夜はそう言われるのが意外だったようで、嬉しそうな、困ったような、何とも言えない表情で狼狽えていた。可愛いやつだ。
「どうしたの? 私の命令が聞けない?」
私はわざと目を合わせないように後ろを向いて、怒った声色でそう投げかけた。咲夜をいじめると可愛い反応をしてくれる。瀟洒で完全な従者も、私の言葉の前では型無しだった。
「いえ、むしろ喜んでといいますか、はい。いきなりどうされたのかなと……」
ぽんぽんと猫を撫でるように、咲夜の手が私の頭の上で踊る。撫でられるのは好きだった。その人にとって特別に想われてる気がするから
そして、私はなんだかぼんやりと、さっき見た夢の内容を思い出しつつあった。
「咲夜、私の寝てる間に部屋に入った?」
リズムよく私の頭を撫でていた手は、一瞬びくりと強張って、でも何にもなかったみたいにまた同じルーチンへと戻っていった。
「……今日はいきなりが多い日ですね。何故おわかりになられたのでしょうか」
「あら、素直ね。言い訳したりしないの?」
「お嬢様がそう仰るという事は、何かしら確定的な理由がおありなんだろうなーと……」
「そうねぇ。私、咲夜が好きなんだよ」
直接見なくても咲夜の顔が赤くなっているだろうことは明白だったが、私は向き直って直接その顔を覗いてやった。
……ほら、赤い。血に負けないくらいに。青くなったり赤くなったり、ほんとに体調が悪くなるんじゃないかしら?
「撫でてもらうのも好きだし、困った顔を見るのも好きだし……香水なんか使わない、ふんわり甘い香りも好きだよ」
「香り……ですか」
「そう。今までもたまに入ってきてたでしょう? 起きたらさ、咲夜の香りが部屋でするんだよね。私は咲夜が好きだからいいんだけど……妖怪は鼻が効くんだよ、お仕事中には以後気をつけることだね」
「……はい」
返事をした咲夜は何故だかしょんぼりしていた。完璧に隠し通せていると思っていたのだろうか、詰めが甘いところも可愛いものだ。
私に変なことしなかった? って聞くのもありだけど、あんまりいじめてしまうのも可哀想な気がしてやめておいた。実際してないだろうし、ヘタレだから。
「ねえねえ、それでね、夢を見たんだけれど」
「……夢、ですか?」
「大まかにしか思い出せないんだけど……あ、手が止まってるわよ」
好きだと言った時に止まっていた手を再び頭の上で動かして貰って――そして、その手を握って体ごとこっちへ引き寄せる。
「お、お嬢様?」
間近で見る咲夜の顔は、明らかに混乱の相を示していた。今度は私が咲夜の頭に手を添える番だった。
「夢の中で、私は多分猫になってたわ」
咲夜はそれを聞くと何かに納得したような、辻褄があったような、そんな息の呑み方をした。
「もしかして私、寝てる時に恥ずかしいとこみせちゃったかしら」
「いやぁ、そんな事は滅相も……」
「まあいいわ。猫になった私は誰かに撫でてもらったのよ。その時の撫で方が今の貴女にそっくりでね」
「……あはは。それは光栄です……?」
嬉しそうな、困ったような、笑ってるような、泣いてるような。私がいつ表情をころっと変えて怒り出すのかわからず怯えているのだろうか。その割に、握られている手は感触を楽しむようににぎにぎと動かされているのだが。反射によるものか、怖いもの知らずなだけか、死を覚悟した時に出る本能か。私には知る由もなかった。
「それでね? 私はそこで起きちゃってね。せっかくの夢なのに、猫っぽい仕草をコンプリート出来なかったのよ。だから、今それを叶えてみようかしら」
私はさらに力を込めて咲夜の身を寄せ、そのままの勢いで咲夜をベッドへと仰向けに倒し伏せる。ほとんど抵抗はなく、人形遊びするみたいにそれは上手く言った。
「例えば……猫って、気に入ったやつに顔を近づけられたらどんな反応をするか知ってる?」
「えっと……鼻を近づけて、つんと……」
咲夜の鼓動は耳障りなほど大きかった。恐怖からなのか、それとも別の感情からか。どちらにせよ、それを取り出して食べたらきっと一番美味しい頃合いだった。
でも、ほんとに食べたらそれこそ本物のお人形になっちゃうし。
だから今は。
「そうそう。そうする時に、どこか違う部分が触れても問題ないわよね」
咲夜の呼吸だけを食べることにした。
「……今度からお嬢様が寝てる時に私からつんと」
「それはダメ」
あとはお嬢様の「咲夜ー」と言うモーニングコールの前に少しの仮眠を取るだけ。たとえ寝ていようとも、私の耳がお嬢様の声を逃すことはない。その声を聞く為に今日も一日頑張ったんだから。
今日のお嬢様はどんな寝起き顔かしら――そんな事を考えて廊下を歩いていた私にその音が聞こえたのは、その親愛するお嬢様の部屋の前を静かに通りすぎようとした時だった。
私の記憶している限りでは、その音はお嬢様の部屋から溢れる筈のない物だ。無論、私の知らないところでお嬢様がどこかしらから拾ってきた可能性はある。お嬢様は気に入ったものなら何でもコレクションしたがる癖をお持ちだし。
しかし、その蒐集癖の対象となる物は珍しいものに対してだし、入手したらほぼ間違いなく私やパチュリー様に自慢しに来るのでは無いだろうか。お嬢様はこそこそと何かをする性分ではない、それがたとえ隠れてやるべきこと――例えばつまみ食いであったりしても、堂々とそれをやり仰せる。堂々とやるつまみ食いはつまみ食いと言うのかどうかは知らないけれど。
それはとにかく、その音はありふれた物の筈なのに、この場所で鳴るのはとても不可解なものだった。
――にゃあ
そのか細い音は再び扉の向こうから聞こえた、どうやら私の聞き間違いでは無かったようだ。
猫の、鳴き声。
私は猫にはあまり明るくない。だからその鳴き声から何の種類なのか当てる事は勿論出来ないが、ここから聞こえるという事は相応に珍しいもの……なのだろうか。
何故猫なのか心当たりはある。昨日、お嬢様と散歩中に野良猫と出会って少し戯れていたからだ。
しかし、お嬢様はあまり興味が無さそうに私が猫に構うのをじーっと見ているだけだった。少しした後に「早く行くわよ」と一言申しただけだったのだが……実は羨ましかったのだろうか? 興味無さそうにしていた手前、それを拾ったとも言いに来にくかったのだろうか。
私は小動物は嫌いではない、むしろ好きな類だ。お嬢様の可愛らしさの一部には小動物っぽさがあってそこも数ある内の好きなところの一つなのだが、そんな小動物らしさがあるお嬢様と小動物そのものである猫が一緒にいるところは凄く至福を感じる一場面では無いだろうか? 想像しただけで良い夢が見れそうである。
気づけば私は部屋の扉の前で聞き耳を立てていた。中からこれと言った物音はせず、お嬢様が起きているかどうかを窺い知ることは出来なかった。
どのみちあと少しでお嬢様の元へお目見えできる。だからここは焦らずに私は私の部屋に戻るのが正しい選択なのだろう。
しかし、私は疲れていた。少しでも早くお嬢様の顔が見れるなら、この扉を開けてしまうのもありなんじゃないだろうか?
今週はまだお嬢様の寝顔は拝見していない。一週間に一度だけだと決めている――そうでも決めないと毎日毎時間覗いてしまうからである。ここでその権利を使うと言う事は、この一週間はお嬢様の寝顔無しで生きねばならないが……まあ、大丈夫だろう。大丈夫大丈夫。
早速私は時を止め、お嬢様の部屋を開く。気付かれなければ不敬では無い。少し覗くだけだから問題無い。
お嬢様の部屋は電気が消えることはない、明るいほうがすっとお早く眠りにつけるそうだ。たまに気分を変えて暗闇で眠りたい場合は棺桶をベッドにおいてその中で眠られるのだが、今日はその棺桶は使われていないようだった。
しかし、部屋を見渡しても問題の猫の姿は確認できず、私は時を再び動かす事にした。あまり動くと気配を察知されお嬢様を起こしてしまう可能性があるが、逆に大きく動かなければ大体の場合は大丈夫と今までの経験で理解している。探すのが音だけの場合は耳にのみ神経を集中すれば良いので、あまり動く必要はない。さあ、どこから聞こえる?
――にゃあ
その声はベッド中から……え、本当に?
私に、あの掛け布団をめくれと言うことなのですか。
お嬢様が寝ている間に布団をめくった事は流石にまだない。いつもは遠巻きに可愛らしい寝息と掛け布団から覗く御顔のみを楽しみに忍び入るのみだったのだが、ついにあの掛け布団をめくることになってしまうのか。それは一線を超えてはいないだろうか? 就寝中の無防備なお嬢様をさらに無防備にするなど、従者に許される行為なのだろうか。
……いいじゃないか、少しくらいなら。ばっとやっちゃえよ。
私の中の悪魔が囁いた。心の反対側で、私の中の天使はそれに対して物申す。
……せめて気付かれないように、めくる時は時を止めるのよ。
違った、悪魔だった。どうやら私の中に良心的な天使はいないようだった。悪魔の館に仕える身としては誇らしいことだ。
迷いは消え去った。お嬢様の方を見ると、まだまだ目覚める様子はない。掛け布団がお嬢様の寝息と一緒に可愛らしく上下しているのみだ。
私は再度時を止めお嬢様に近付くと、癖があって跳ねがちな髪の毛を撫でつつ梳いてあげ――いや、違う。今は愛でている場合では無い。私には目的がある。
顔の半分まで被っている掛け布団をめくるべく手をかけ、そのままそろりそろりとお嬢様から剥がして……
そして、私は余計にわからなくなった。そこにあったのは、可愛らしいお嬢様の御身一つだった。本当に可愛らしい御身だ。起きて快活に動いていらっしゃる時よりも、静かに眠っている今の方が肌の白さが際立っていて、その白は多分永遠にそこにあり続けるもので。悪魔の筈なのにその寝姿はまるで――
いや、今問題なのはそうではなく。何故そこにいると思われた猫がいないのだろうか。
どうしても真実を知りたくなった私は、最初より少し布団をずらした状態で時を動かしみることにした。少しの変化で何か結果が変わる可能性もあるだろうと考えたのだ。お嬢様が起きてしまうリスクがあるが、今の私は行け行けモード。お嬢様が起きた時に何故か部屋の中に私がいるとしばらく口を聞いていただけなくなる可能性もあるが、クビまではいかないだろう。多分。大丈夫大丈夫。
そして、時は動き出す。
お嬢様は――もぞもぞと体を動かしてはいるが、起きなかった。やった。
考慮すべき一難は去ったものの、本番はここからだと言えるだろう。あの音は如何用にして、どこから聞こえてきたものなのか――
「にゃあ」
………………。……?。
私は最初、目の前のことが認識できなかった。正直、この結果になる事を予測できなかったわけではない。しかし私はあえてその想像をしなかったのだ、それはあまりにも危険すぎるから。
「にゃあ」
しかし、それは現実の、何よりも珍しい映像として私の目と脳に叩きつけられた。
声の主は、お嬢様本人からのものだった。
「……っ!」
私は咄嗟に手で自分の口を塞いだ。そうしなければ声と一緒に魂が体から抜け出てしまいそうになったから。
「んにゃ」
お上手である。本物の猫と遜色のない声色だ。その様子にぼーっと見惚れていると、鳴き声を出す度に羽の先端をぴくぴくと動かしているのが見えた。尻尾の代わりに動かしているのだろうか。可愛い。
私はそうするのが当たり前だと言うように、空いた手の方でお嬢様の頭を撫でていた。時を止めなければ起きてしまう、頭ではきちんと理解している。しかしその手は止める事は出来なかったし、時を止めようとも思えなかった。この時間は止めてしまうにはあまりにも惜しいものだった。
お嬢様は目を覚ます事は無く、羽の動きが少し大きくなるに留まった。いや、正確に言えばそれだけではなく。
お嬢様はゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
今度こそ時が止まる。いつもは私だけしかその時の中では動けないはずなのに、今は私だけが動けなかった。時計の針が進む音と、羽がベッドに擦れる音。そしてお嬢様から出るゴロゴロと言う音だけが、私以外の時が滞りなく進んでいることを証明してくれていた。
私は全てを理解した。部屋に戻ることを決めると、私は私の時間を進めることを許された。今度は私が私以外の時を止める番だった。
お嬢様を起こさないように、見つからないように。止まる時の中で部屋を出て、廊下を歩く。そのまま真っすぐ私室に入り、普段は着替えてから乗るベッドの上へ身を投げる。
私は、この館には悪魔しかいないと思っていた。お嬢様の可愛さはあくまでも悪魔的可愛さであって、純真無垢で清純なだけの単調な可愛さによるものでは無いと、そう思っていた。
しかし、あの部屋には。あの瞬間だけは、そこに天使がいた。純真無垢で清純で単調な可愛さは私の心を澄み渡らせ、滅茶苦茶に荒らした。あれ以上部屋にいるのは耐えきれなかったし、許されなかった。
「……お嬢様」
その単語を口にすると、少しだけ心が落ち着きを取り戻した。そういえば今日はずっと動き詰めだったことを頭と体が思い出して――
私は猫である。名前は……思い出せない。ちゃんとした名前があった気がするけれど、どうにも眠たくてそれどころではない。歩き回って疲れたので今は木陰で休んでいるところだった。ずっと家の中にいると退屈なので、こうして家を飛び出し色んな所へ行くのが私の日課だった。今日は色んな場所へ出かけた。神社に湖に、こっそりと人里にも。
今日は夜までこのまま寝てようか。そう考えていた時、目の前を一匹の雑種が通る。汚らしいと言うわけではないが、私と違ってどうにも気品さが感じられないやつだった。うつらうつらしながら眺めていると、どうやらそいつは私のいる木陰ではなく、その近くの日向でくつろごうとしているようだった。こんな暑い日に、よくあんな場所でゆっくりと出来るものだ。私には関係ないけれど。
そして私は目を瞑る、次に起きる時はきちんと夜になっている事だろう。
そのまま眠るはずだった。何かの足音が私の安眠を妨げなければ。
(……何?)
耳だけ立てて状況を探る。それは近づいてきてはいるようだったが、私の方にでは無いようだった。
「――」
どうやら人間のようだ。
何か喋っているようだったが、何と言っているかまでは猫である私には知りようがない。ただ、声色から予測するに人間は例の雑種にじゃれついているようだった。
私には関係ない事だ。そう思っていても、耳が音を探るのを止めてくれない。何故だろう?
もしかして、あの声を私が欲していると言うのだろうか。いや、声だけじゃなく、その声の主であるあの人間にじゃれてもらいたいと思ってる? 私が? そんな馬鹿な事が……
もしかすると、あってしまうのかもしれない。現に、今こうして一向に眠れていないのが何よりの証拠となってしまうのだろう。このままでは満足して眠ることが出来ないので、あの人間に協力してもらう必要がありそうだった。
早速、ここにもう一匹猫がいると気づいてもらうために少し鳴いてみる。目を瞑ったまま、ガツガツしすぎず控えめな声で。
一度目。こちらに来る気配はない。どうやら気づかれていない様子だ。
二度目。少し強めに鳴いてみる。変化はない。
三度、四度、五度……少しずつ少しずつ鳴き声を大きくしていくと、どうやらようやくこちらに気付いたらしく、あやすような甘い声が止んだ。私は足音を探って待ち構えて――
しかし次の瞬間。その人間は気づけば私の頭を撫でていた。こちらにやってきていた気配や足音は全くなく、まるで最初からそこにいたかのようだった。
私は何故かその事については驚かなかった。しかし、完全に不覚を取られてしまった私は、その優しい撫で方に思わず喉を鳴らしてしまい……
夢というのは起きた時に忘れたり覚えたままだったりする。今日見たものは……あまり覚えていない。
寝起きの気分はあまり良くなかった。酷すぎる悪夢というわけでも無かった気がするのだが、がっと起きてしゃきしゃき着替える気分にはなれていないのは事実だ。
「咲夜ー」
少し声を張ってその名前を呼ぶと、咲夜はいつもすぐに駆けつけてきてくれる。今だってご多分に漏れずベッドのすぐ近くに立っていた、まるで最初からそこにいたかのように。
「お嬢様、いかがされましたか?」
「変な夢を見た気がするの。そのせいでやる気が妙に削がれてしまってね」
そう言うと、咲夜は急にごほごほと苦しそうに咳をしだしたのだった。咲夜の方を見ると、あまり顔色が優れないように思えた。……ふぅん?
「咲夜、大丈夫? 何だか体調が悪そうだけど」
「そうでしょうか? いつもと変わりなく健康ですよー……」
微笑んでくれたその顔は、やっぱりいつもより少し青い気がした。大丈夫というのであればあまり問い詰めることも無いだろう。
「んー……そうね。咲夜、気晴らしに私を撫でてみて」
咲夜はそう言われるのが意外だったようで、嬉しそうな、困ったような、何とも言えない表情で狼狽えていた。可愛いやつだ。
「どうしたの? 私の命令が聞けない?」
私はわざと目を合わせないように後ろを向いて、怒った声色でそう投げかけた。咲夜をいじめると可愛い反応をしてくれる。瀟洒で完全な従者も、私の言葉の前では型無しだった。
「いえ、むしろ喜んでといいますか、はい。いきなりどうされたのかなと……」
ぽんぽんと猫を撫でるように、咲夜の手が私の頭の上で踊る。撫でられるのは好きだった。その人にとって特別に想われてる気がするから
そして、私はなんだかぼんやりと、さっき見た夢の内容を思い出しつつあった。
「咲夜、私の寝てる間に部屋に入った?」
リズムよく私の頭を撫でていた手は、一瞬びくりと強張って、でも何にもなかったみたいにまた同じルーチンへと戻っていった。
「……今日はいきなりが多い日ですね。何故おわかりになられたのでしょうか」
「あら、素直ね。言い訳したりしないの?」
「お嬢様がそう仰るという事は、何かしら確定的な理由がおありなんだろうなーと……」
「そうねぇ。私、咲夜が好きなんだよ」
直接見なくても咲夜の顔が赤くなっているだろうことは明白だったが、私は向き直って直接その顔を覗いてやった。
……ほら、赤い。血に負けないくらいに。青くなったり赤くなったり、ほんとに体調が悪くなるんじゃないかしら?
「撫でてもらうのも好きだし、困った顔を見るのも好きだし……香水なんか使わない、ふんわり甘い香りも好きだよ」
「香り……ですか」
「そう。今までもたまに入ってきてたでしょう? 起きたらさ、咲夜の香りが部屋でするんだよね。私は咲夜が好きだからいいんだけど……妖怪は鼻が効くんだよ、お仕事中には以後気をつけることだね」
「……はい」
返事をした咲夜は何故だかしょんぼりしていた。完璧に隠し通せていると思っていたのだろうか、詰めが甘いところも可愛いものだ。
私に変なことしなかった? って聞くのもありだけど、あんまりいじめてしまうのも可哀想な気がしてやめておいた。実際してないだろうし、ヘタレだから。
「ねえねえ、それでね、夢を見たんだけれど」
「……夢、ですか?」
「大まかにしか思い出せないんだけど……あ、手が止まってるわよ」
好きだと言った時に止まっていた手を再び頭の上で動かして貰って――そして、その手を握って体ごとこっちへ引き寄せる。
「お、お嬢様?」
間近で見る咲夜の顔は、明らかに混乱の相を示していた。今度は私が咲夜の頭に手を添える番だった。
「夢の中で、私は多分猫になってたわ」
咲夜はそれを聞くと何かに納得したような、辻褄があったような、そんな息の呑み方をした。
「もしかして私、寝てる時に恥ずかしいとこみせちゃったかしら」
「いやぁ、そんな事は滅相も……」
「まあいいわ。猫になった私は誰かに撫でてもらったのよ。その時の撫で方が今の貴女にそっくりでね」
「……あはは。それは光栄です……?」
嬉しそうな、困ったような、笑ってるような、泣いてるような。私がいつ表情をころっと変えて怒り出すのかわからず怯えているのだろうか。その割に、握られている手は感触を楽しむようににぎにぎと動かされているのだが。反射によるものか、怖いもの知らずなだけか、死を覚悟した時に出る本能か。私には知る由もなかった。
「それでね? 私はそこで起きちゃってね。せっかくの夢なのに、猫っぽい仕草をコンプリート出来なかったのよ。だから、今それを叶えてみようかしら」
私はさらに力を込めて咲夜の身を寄せ、そのままの勢いで咲夜をベッドへと仰向けに倒し伏せる。ほとんど抵抗はなく、人形遊びするみたいにそれは上手く言った。
「例えば……猫って、気に入ったやつに顔を近づけられたらどんな反応をするか知ってる?」
「えっと……鼻を近づけて、つんと……」
咲夜の鼓動は耳障りなほど大きかった。恐怖からなのか、それとも別の感情からか。どちらにせよ、それを取り出して食べたらきっと一番美味しい頃合いだった。
でも、ほんとに食べたらそれこそ本物のお人形になっちゃうし。
だから今は。
「そうそう。そうする時に、どこか違う部分が触れても問題ないわよね」
咲夜の呼吸だけを食べることにした。
「……今度からお嬢様が寝てる時に私からつんと」
「それはダメ」
咲夜に構ってもらっていた猫が羨ましかったのかな、レミリアは。
手玉にとられている咲夜さんも可愛いです!
この時間は止めてしまうにはあまりにも惜しいものだった。という1文が詩的でした
シンプルな話なのに妙にイメージが沸いてくるお話でした