「遠く離れてみて、初めてその有り難みに気がつくものというけれど、本当かしらね」
月夜の静寂を優雅に声が泳ぐ。
闇を透かす黒髪。凛と鳴る唇。その全てが一つの美を為して顕現せしめると、どこかの誰かが謳ったのを思い出す。
言われた側にしてみれば、どうしたものやらという所ではある。
ふっと微笑んで見せる程度の要領はあっても、恥じらいに頬を染めるような純情はない。
「こうして夜毎に月を眺める度に思うのは、ああ、あそこを出て良かったなあという事なのよねぇ」
夜毎に姿を変え、季節が巡り、生まれ、生き、死に、また生まれる。
月の民が『穢れ』と称したるその営みの、なんと美しいことか。
月の都には、そうした彼女の心持ちを解する者はいなかった。
唯一それができた者は、同じ大罪人として今も彼女のそばにある。
つまりは、この地上に。穢土の地に。
「……あなたも、そうではないの?」
そして、今はもう一人、浄土より来たる者が彼女のそばにある。
月の光から逃げるように、部屋の隅で暗闇に身体を浸しながら、膝を抱え込んでいる少女。
暗闇でなお光るその赤い瞳は、怯えを写し取ったように絶えず震えている。
ふ、と微笑み、輝夜は襖を閉じた。
光が遮られても、少女は部屋の隅から出ようとはしない。
輝夜の方を見てはいたが、その胡乱な瞳が果たして何を映しているのかは、定かではない。
「……まだダメみたいね、レイセン」
その呼びかけに、初めて少女はピクリと反応を返した。
だがそれだけだ。他には何も動きはなく、声をかけることもない。
今日はこれがせいぜいだろう。
輝夜はそう判断し、それ以上言葉を紡ぐことはしなかった。
小刻みに震えながら膝を抱える少女と、優雅に佇む輝夜。
夜が明けるまでの間、二人の間にそれ以上の会話はなかった。
その少女は、竹林の中に『落ちてきた』のだと、てゐは語った。
理屈は単純で、彼女の周囲には足跡が全くなかったからだという。
彼女が月の兎であることは、ひと目でわかった。
穢土の民が遍く有する穢れが、彼女には極端に少なかったからだ。
運び込まれた彼女を見た永琳は、まず真っ先に頭の左右に生える二つの長耳を調べた。
これは月兎たちが通信を行う際の受信端末であり、これが機能していた場合、彼女は何らかの使命を受けてやって来た可能性があったからだ。
永琳によれば、機能自体は生きているが近いうちに使用された形跡はなく、現在地を知らせるビーコンは壊されていた。
端末の改造は一兵士の権限で許されるものではない。通信機能もオフにされており、偶然に壊れたという可能性はありえない。
「脱走兵かしら?」
輝夜は疑問を口にしたが、実際のところはほとんど確信を抱いていた。
しかしそれに対し、永琳は即答をせず黙考を始めた。
輝夜は首を傾げたが、少し考えて理解した。
永琳は、この少女が脱走兵を装った間諜である可能性を考えていたのだ。
蓬莱の薬を服用した咎で地球に追放された、蓬莱山輝夜。
その彼女を追って地球に降り立ち、同道した使者を皆殺しにして彼女の側に参じた八意永琳。
二人にとっての目下の使命は、月の民より隠れ潜む事に他ならなかった。
逃亡生活の当初はもっぱら存在の痕跡を消す事に躍起にならねばならず、地上の民との接触も最低限に留めなければならなかったし、それでも一処に留まれる期間はごく短いものだった。
人を惑わす迷いの竹林の奥地に居を構え、安寧を得たかと思えば竹林の所有者を自称する不可解な兎に乗り込まれ、彼女と契約を結ぶ事でようやっと後顧の憂いなく隠遁生活に入れるようになったという、その矢先の出来事である。
この屋敷は歴史の進まぬ場所である。
それは比喩ではなく、永琳の手によって施された結界が外部からの感知を阻み、永遠と須臾を操る輝夜の能力によって屋敷の永遠が保たれていたからである。
しかし、それでも地上の兎である因幡てゐが、術を潜り抜けて屋敷を発見してしまった。
隠蔽未だ完全ならず。永琳はその事でかなり神経を尖らせるようになっており、そこにきてこの月の兎の来訪である。永琳の疑心暗鬼は当然の事だっただろう。
この時、永琳は少女を殺すという選択肢を検討していたはずだ。
しかし、恐らくそれを口にする事はないだろうと輝夜は思った。
それを言えば輝夜は頑として反対するし、そうすれば永琳はその意を引っ込めざるを得ない。その事を、永琳自身がよく分かっているはずだからだ。
「……う、う……」
そうこうしている内に、少女が意識を取り戻した。
兎にも角にも、まず彼女の口から情報を得なければならない。
しかし、永琳の声に少女はほとんど反応を示さなかった。
目は開き、眼前で指を振ってみせればつられて眼球が右往左往する。
しかし声を発する事はなく、まさしく茫然自失の体だった。
埒が明かない様子を見て取り、輝夜は身を乗り出して少女に声をかけた。
「私は輝夜、こっちは永琳よ。……月の言葉で言うなら、八意××と――」
ほんの一瞬だった。
その言葉を聞いた瞬間、少女の瞳孔がにわかに窄まり、次の一瞬にはその身体を跳ね起こしていた。
少女は布団の上から転がり出ると、側にいた輝夜の肩を掴んで瞬時に背後へと回り込み、素早く立ち上がるや否やその首に背後から手をかける。
すかさず輝夜の身体を引き起こしてさっと後退し、部屋の壁を背にして永琳と向き合った。
少女の反応を見て取った永琳が身じろぎ一つする間の出来事である。まさしく電光石火の早業と言う他はない。
「――――……くっ、かはっ」
少女は何かを言おうとしたが、声が出ない様子だった。行き倒れていた様子からも、軽度の脱水症状が推察された。しかしてその機敏さたるや、一線級の戦士のそれである。無手であろうとも人質を害するのに何ら不備はないと、容易に想像させた。
だが、永琳はその様子を一瞥しただけで、全く動じる気配はなかった。
首根っこを押さえられてている輝夜にしても同じである。
この時、永琳が危惧していたのは、少女に月へと連絡される事である。
通信端末が切られていても、別の連絡手段を隠し持っている可能性は否定できない。その意味で、輝夜が永琳の名を口にした事は迂闊に過ぎると言えたし、実際に永琳の非難するような目線は、少女よりも輝夜の方に向けられていた。
そして当の少女はと言えば、消耗と狼狽から前後不覚の状態に陥っているのが容易に見て取れた。
人質の存在が眼前の相手に何ら痛痒を与えていないという事を、少女が理解する様子はなかった。
ともかくも少女を落ち着かせなければならない。そして、できるならば取り押さえて勝手な行動ができないようにしたい。
だが、それがどうにも困難である事は明らかだった。
「ねえ、あなた……っ!」
輝夜が声をかけてみるも、少女は輝夜の顎を掴まえて上向かせた。
妙な事をすれば、直ちにこの首を捻って殺してやるぞと言わんばかりに。
永琳は無言のままだった。
輝夜を案じるというよりは、少女をいかにして鎮圧するかを考えてるかのように。
輝夜はむしろ、少女自身の身を案じていた。
彼女に何の目論見があるのか、あるいは目論見など何もないのか、いずれにせよ、今の行動は衝動的なものである事は間違いない。
そして、事を起こしてしまった故に、焦燥からより頑なな態度に出てしまう。
永琳が強硬手段に出る可能性もある。
時間を置いて冷静を取り戻させるには、状況があまりに切迫しすぎていた。
血を見ずには、収まりがつかないかもしれない。
そう判断した輝夜は、空いている右の手を貫手に構えた。
少女は素早く反応した。
輝夜の顎を掴まえる手に力を込め、白い喉が大きく晒された。
ぞぶり、と。
その喉元に、輝夜の右手が突き刺さった。
鋭く刺す指先が動脈を切断し、血が勢い良く流れ出す。
輝夜が右手を引き抜くと、ぱあっと、花開くように鮮血が舞い上がった。
「…………!?!?」
ごぼ、と輝夜の口からも血が溢れ出し、少女は激しく狼狽した。
輝夜を押さえていた手を離してしまい、開放された輝夜は、ふらりとよろめいてそのまま倒れた。
流れ続ける血が畳を放射状に染め上げていく。
「あ……あ、…………」
少女は壁を背にしたまま、ズルズルと腰を落として座り込んだ。
そのまま、糸が切れたように倒れ込む。
一人残された永琳は、深々とため息をついた。
それからおもむろに立ち上がると、少女の元に歩み寄って容態を確かめる。
少しの間そうしていると、輝夜がむくりと起き上がった。
「こういうのも、迫真の演技って言うのかしらね」
「実際に死んでいたのだから、演技も何もないでしょう」
開口一番に軽口を叩く輝夜に、永琳の反応は冷ややかだった。
「畳を張り替えるのも大変なのだから、もう少し配慮してほしいですね」
「心配する所それー?」
ぷう、と輝夜が頬を膨らませるも、永琳は取り合わない。
輝夜は蓬莱人である。彼女はあらゆる変化を拒絶する。
いかなる手段によっても、彼女を殺傷する事は叶わない。
それが、輝夜が人質に取られた状況を、二人がまるで取り合わなかった理由だ。
「……この娘は、しばらく様子を見るしかなさそうね。正常な判断ができるようになるまで、少し時間がかかりそうだわ」
失神した少女を抱え上げ、永琳は部屋を後にする。
輝夜は振り向いて血まみれの惨状を確認し、「うへえ」と呻いたのだった。
少し時間がかかる、という永琳の見立ては間違っていた。
次に少女が目を覚ました時、刺激をしないためてゐに話をさせたのだが、冷静とは程遠い状態にあった。
少女は完全に怯えきっており、全く話ができるという状態ではなかった。まともに口もきけないというばかりの有様で、下手に刺激すれば舌を噛みかねないと思われた。
永琳はそれでも、その様子を間諜である事を隠すための演技である可能性を考えてはいたようだ。
しかし、その有様は輝夜からはどう見ても演技と思えなかったし、それについては永琳も同意した。
輝夜は、この少女を害してはならない、と永琳にはっきりと言った。
永琳もまた死を拒絶する蓬莱人であったが、その意志については輝夜とはだいぶ隔たりがあった。
永琳は全ての事柄に優先順位を設け、必要とあらばあらゆる措置を断行する。
少女の処遇についても、持て余すならば殺すという選択肢を常に考えていただろう。
だが輝夜は、死ぬ事のない自分たちの事情で、他の者の生命を奪う事はあってはならないと思っていた。
長い時間を共に過ごしても、永琳はその輝夜の情に共感する事はなかったが、理解し尊重はしていた。
結局、ゆっくり時間をかけて落ち着きを取り戻させる以外にはない、となった
少女は常に戦々恐々しきりで、とりわけ他者の目線に極度に怯えを示した。
てゐはおろか、人型を取れない普通の兎たちの目線すらをも過度に忌避した。
誰かの目があると、怯えて話どころではないという状態である。
ことに、永琳への怯えは尋常な様子ではなかった。
永琳の姿を見るや、戸を蹴破って脱兎のごとくに逃亡を図る始末。
あらかじめ詰めていたイナバたちが押さえつけるが、どうにも俊敏さと力の強さについては少女の方が大きく上回っており、数人がかりでようやく押さえる事ができるのだった。
永遠亭は和装の屋敷で、こういった手合いを閉じ込めておくのに適した部屋がないのもよくなかった。
逃亡騒ぎの度にイナバたちが何人も怪我を負うものだから、とにかく刺激しない事が最優先だとてゐに進言され、ひとまず永琳は彼女の側に近づかないようにせねばならなかった。
輝夜は、自ら少女の世話係をする事にした。
単純に少女への興味もあったが、少女が妖怪兎に対しても怯えを見せる事が気になったのだ。
輝夜にしても怯えられているのは同じであり、打ち解けるためには時間がかかると思われたが、それは別に問題ではない。
待つのは慣れている。たとえ永遠にでも。
目の前で自分の喉を突き破って見せた輝夜に対し、少女の怯えは顕著なものだったが、少なくとも、輝夜が少女を害するつもりがないことはすぐに分かってくれたようだ。
「改めて、私は輝夜。……その名の意味するところは、知っているでしょう?」
彼女が月の兎であれば、地球に追放された輝夜姫の話は聞いた事があるはずだ。
であれば、輝夜の不老不死もまた少女の知るところだろう。
最初に目覚めた時は錯乱していたようだが、ここにきて理解が及んだようだ。力に訴えた所で無意味だと。
「……あなたの名前、聞かせてもらえる?」
「…………」
レイセン、と。
ぼそりと、消え入るような声だったが、少女は応えた。
それから、輝夜は殆どの時間をレイセンと共に過ごすようになった。
輝夜はレイセンに何かを聞くような事はせず、やれ竹の生育具合がどうとか、兎たちの縄張り争いがどうとか、他愛もない話を聞かせていた。
レイセンは胡乱な表情で、聞くともなしにそれを聞いていたが、やがて少しずつ反応を返すようになった。
もとより、身体についてはさしたる変調もなく、あまり眠れていないらしい事を除けば特に伏せている理由もない。
ある程度の対話ができるようになってから、輝夜はレイセンを連れて外出を始めた。
目的はタケノコ採りだったり、薪に使う材木を集めたり、竹林の散策であったりと様々だ。
しかし、姫であるところの輝夜にはそうした作業への経験などは全く無く、どれもこれも見よう見まねの域を出ない。
「……いいことレイセン。人間の身体構造というのは、正確無比にナタを振り下ろせるようにはできていないのです」
薪割りをしてみれば、中心を割るどころか空振りを繰り返す有様である。
なまじ力が強いだけに、目測を誤ったナタが薪の周辺を削り取ってしまい、使いみちのない木くずが大量に生み出される始末であった。
レイセンは早々に作業に順応してしまい、輝夜の方が面倒を見られているという状態となった。
そうして輝夜の見苦しい言い訳を聞けば、ふっとレイセンも笑顔を見せるに至るのだった。
こうした中で、レイセンの恐慌は少しずつ緩和されていった。
相変わらず永琳には怯えを顕著に見せるものの、姿を見ただけで逃げ出すという事は無くなったし、兎たちに対しても表面的には平静に接するようになった。
しかし、相変わらず夜は眠れていない様子だった。
「……レイセン? もう寝たのかしら?」
ある夜、輝夜はレイセンの様子を見に部屋へ向かった。
当日はよく晴れた月夜で、日課の月見が興に乗っていつもより遅くなり、もうレイセンは寝ている頃だろうかとふと気になったのだ。
輝夜はそっと声をかけ、反応が無いので襖を少し開いた。
「…………っ!!!」
果たして、部屋に月光の刺した瞬間、レイセンは跳ねるように布団から飛び起きた。
それは最初の日に輝夜を押さえつけた時にも見せた、身じろぎ一つの間に行われる俊敏さだった。
レイセンは部屋の隅、光の届かぬ場所へと飛び退くと、頭を抱えて身を竦めた。
「レイセン……」
輝夜のかけた声が耳に入らないかのようで、しかし、伸ばした手には顕著に忌避の反応を示した。
「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
ぽつぽつと、レイセンは小さく、しかし何度も呟き続けた。
許して、許して、と。
瞳を固く閉じ、耳を塞ぎ、それでも何かから逃れようと、必死に許しを請い続けた。
「…………」
輝夜は部屋に踏み入り、そっと襖を閉じた。
光が刺さなくなっても、レイセンは目を閉じたままだった。
輝夜はレイセンから少し離れ、正座してただ待ち続けた。
彼女が何を苦しんでいるのか、輝夜は聞こうとはしなかった。
いつかは、彼女自身の口から、その心中を語ってくれると信じた。
今はまだ無理なのであれば、それができるようになるまで、ただ側にいるべきだと。
(……歴史の進まないこの永遠亭で、時間が解決してくれるのを待つって?)
心中で嗤う。
それでも、輝夜はそこを離れなかった。
やがてレイセンの言葉が嗚咽に変わっても、ずっと。
その頃、永琳はたびたび永遠亭を留守にしていた。
レイセンを刺激しないためという以上に、留意すべき事態が進行していたからだ。
永琳は月の民による調査の動向を探るため、てゐをはじめとしたイナバたちの実力者を派遣して外部の情報収集に努めていたが、そこに看過できない情報が混じっていた。
曰く、地上の妖怪たちが軍勢を成して、月に攻め込もうというのである。
(いくら力があっても、月の守りを突破できるとは思えないのだけど……)
しかし、永琳が月から離れて長い時間が経っている。月の頭脳と謳われた永琳の造反という経緯を踏まえれば、変化に乏しい月といえども、その内情を大きく変化させている可能性はあった。
これらの情報について、レイセンから聞き出す事ができればそれに越したことはない。
しかし、月にまつわる事柄を極度に忌避する態度からは、情報を聞き出す事がそもそも困難に思われた。それに、彼女が真実を語るという保証も無い。それよりは、戦いを挑もうという妖怪たちから情報を集める事が重要だと言えた。
「……それは冗談で言っている訳ではなくて?」
しかし、てゐから上がってきた報告を受けた永琳は、別の意味で頭を抱える事になった。
「ホントホント。あいつら部隊編成すらやってないみたいだよ」
脚を組んで行儀悪く座るてゐに、「きちんと座りなさい」とようやく言って、永琳はそれきり黙り込んだ。
月への侵攻を企てる軍勢というのは、その実、単なる群衆と言ってよい程に、何らの統制もされていないようだった。
てゐからの報告で判った事だが、この時代の妖怪たちというものは、大言壮語と実力行使が他の全てに優先されていた。
強いという事が、すなわち全てを手にする権利があるという事であり、威勢が良いという事が、すなわち部下を従える権利があるという事だった。
実力行使に敗れたる者は全てを失うのであり、持てる者とはすなわち勝ち続けている者であった。そうなれば、当然のように己が力に自惚れる事となり、勢い付いて更に勢力の拡大を企てる。
およそ協調などという言葉とは無縁の世界である。
「一部には連携を取りながら活動している奴らもいるみたいだけどね。大半はそんな感じで、月への侵攻も誰が戦果を多く上げるかで競い合ってるみたい」
一番槍は貰ったぞ、と吹いている輩に話を聞いてみれば、敵である月の民が何者であるかも分かっていないという有様である。
「……それはなんと言うか……烏合の衆、と言ったら失礼かしらね。烏合の方に」
いくら単体の力が秀でていようと、これで戦争をしようとはお笑い草である。
これを相手に負けるような事があるのなら、もう月など滅びた方が良かろう。そうまで永琳は思った。
「で、それはいいとして……裏は?」
「なんともだけど、お師匠様が言うような連中の影は、今んとこは確認できないかな。月への侵攻計画ってのも、八雲ってのが噛んでるとはいうけど」
「……そいつが月と結んでいるという可能性は?」
「それこそ、なんとも。八雲は狡猾な連中だし、思惑はあるんだろうけどね。例えば、手に負えない連中を月に始末させようとしてる、とか」
この大地を長く見てきたてゐの知見は、永琳も一目置くところだった。
彼女は力に依らずして、妖怪たちの間を駆け回りながら生きてきた。狡猾というならば、それこそ彼女の右に出る者は稀だろう。
その彼女の見解は、戦争の背後にあるのは月の暗躍ではなく、妖怪たちの勢力争いと見ているようだ。
(……月の民にしてみれば、わざわざ地上を侵す必要があるかは疑わしい。しかし、戦争に乗じて地上に調査隊を送り込み、私たちを見つけ出そうとする可能性はあるかもしれない。それを考えると、戦争に何らかの形で関わる事そのものがリスクとなる……か)
「……ご苦労様。引き続き調査は進めてちょうだい。くれぐれも、下手な連中と関わって腹を探られる事のないようにね。特に、その八雲という連中には」
「あいつらに関しちゃ、私の方がよく知ってる。下手は打たないよ」
不遜に、てゐは断言する。
大いに嘘つきでもある彼女だが、本気と茶番の区別を過つ者ではない事を永琳は知っている。
後は、彼女の持ち帰る情報を慎重に見極めるだけで良い。
(とは言え、あの娘の事が気にならない訳ではないけれど……)
レイセンが戦争に際して何らかの使命を帯びている、という可能性を排除はできない。
とはいえ、現状では不用意に突っつくのも上手くないだろう。
精神の摩耗は容易に回復し得ない。
彼女に何らの目論見も無いのであれば、それこそ時間をかけて慎重に事を運ばねばならない。
口笛を吹きながら出かけるてゐを見送り、今しばらくは静観すべきだと、永琳は結論付けた。
「……輝夜様、そっちじゃないです」
三月も経つ頃には、レイセンの様子は大いに改善された。少なくとも、表面的には。
彼女はイナバたちの仕事を進んで引き受け、精力的にこなした。一応、名目上は輝夜が仕事を引き受け、それをレイセンが手伝っているという形になるのだが、輝夜がまったく当てにならないため、実際はレイセンが単独で仕事をしているも同然だった。
「ああ、もう、なんだってこの竹林はこんなに迷いやすいのよ」
迷いやすいからこそこの場所に居を構えたというのに、この言い草である。
レイセンはクスリと笑って、輝夜に先だってタケノコ採りのポイントへと案内した。
このレイセンは要領をつかむのが上手く、僅かな間にタケノコ採りの技術もさっさと身につけてしまった。
レイセンが目ざとく頭の出たばかりのタケノコを見つけ、輝夜がそれに続いて鍬を振り降りして掘り出しにかかる。
が、勢い余って土と一緒にタケノコの先端も削り取ってしまった。
レイセンは笑って輝夜に手を添え、加減を教えながら鍬を動かす。
ようやく、二本のタケノコを掘り出す事に成功して、輝夜は息をつく。
「はあ。自分がここまで不器用だとは知らなかったわ」
「……輝夜様はお姫様なんですから、こんなことしなくてもいいのに」
「いいのよ、私が好きでやってるんだから!」
てゐに「向いてないんだから止めればいいのに」と言われた事を思い出し、思わずムキになって反論してしまった。
「……あ、ごめんなさい。別に怒ってるわけじゃないのよ」
レイセンは驚いたような顔をしていたが、輝夜がすぐにとりなすとホッとした表情を見せた。
「はははは……似合わんことをするからそうなる」
その、割り込んできた声に、輝夜はスッと身を固くした。
笑顔は消え、目を細め、それまでの穏やかさは息を潜める。
「……レイセン、離れて」
「え、……輝夜様?」
レイセンは困惑した表情だったが、輝夜の顔を覗き込んで息を呑み、そのまま離れた。
それは炎の匂いを纏っていた。
怒気によるものか、抑えても溢れ出るのだと言わんばかりに、その炎は空気を焦がした。
白い少女だった。
足元にまで届く長い髪は、透けるような白髪。
さながら雪の細工のようで、しかし、少女が孕む気は裏腹に熱く燃え盛る。
「最近見なかったから、とっくに彼岸を渡ったかと思っていたよ」
「……私が死んだと思ったの? それは大変ね。いい頭の医者を紹介できるわよ?」
「なら、お前こそすぐにかかるといい。不器用な手つきでタケノコを破壊して回るよりは、いい時間の使い方だろう」
二人は口元にだけ笑顔を浮かべ、向かい合っていた。
レイセンは竹藪に身を潜めながら、オロオロと二人を見比べる。
「もののついでだ。医者が診察しやすいように、頭の中身を取り出して届けてやろう!」
ごう、と音を立て、少女の足元から炎を孕んだ霊力が立ち上る。
「レイセン、永遠亭に戻っていなさい」
小さく、しかし語気を強めて輝夜が言う。
レイセンが狼狽していると「早く!」と鋭く告げられ、レイセンは慌ててその場を駆け出した。
輝夜が戻ったのは、夜になってからの事だった。
「あんまり派手な事はしてほしくないのですけど」
「仕方ないでしょう、こればかりは。言って聞く手合いじゃあないわ。お互いに」
苦い顔の永琳に、同じく渋面を作って返す輝夜。
二人の戦いはしばしばたがを外し、一度は竹林の一角が消失するほどの災禍をもたらした事もある。永琳の苦言は無理からぬ事ではあった。
「……ところで、レイセンは?」
「部屋にこもっていますよ。……行く前に格好を整えてくださいね」
言われて、輝夜は己の姿を省みた。
確かに、左脚が半ば炭化し、右腕の肘から先が焼失した姿を見せては、また卒倒して引きこもりかねない。
輝夜はコソコソと自室に戻り、そのまま布団の上に倒れた。
いかなる負傷も、放っておけば勝手に治る。蓬莱山輝夜の身体に、いかなる変質ももたらす事はできないのだ。
「……あの、輝夜、様」
が、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
身体を欠損するほどの戦いは久しぶりだったから、思ったより消耗していたかも知れない。
むく、と起き上がり、身体の状態を確かめる。
腕も脚も、全て元通りになっている。当然、服はボロボロのままだが。
ふと見ると、レイセンの側に着替えの一式、それと湯を張った桶に手拭いが置いてあった。
「あら、着替えを持ってきてくれたのね。ありがとう」
輝夜は立ち上がり、あちこちが焼失した衣服を脱ぎ――と言うより破り捨てた。
そのままレイセンに背を向けて座る。
レイセンはオドオドとした手つきで、手拭いを湯に浸し輝夜の身体を拭き始める。
タケノコ採りや薪割りといった肉体労働に比べて、レイセンの様子は随分と及び腰だが、それでも懸命だった。
荒事にばかり慣れさせられて来た彼女の、それが精一杯の献身なのだと、その手つきは物語る。
「輝夜様……あの、昼間の人は……」
「ん? ……彼女はね、私の宿敵よ」
宿敵、と、レイセンはオウム返しに口にする。
「藤原妹紅。ああ見えて長く生きている奴でね。あの通り炎の妖術は山をも焼くほどのものよ」
「……あの人、輝夜様を殺すような事を……」
「そんな事が不可能なのはよく知っているでしょうにねえ。まあ、でも、長い因縁を積み重ねてしまった相手だからね。いつだって殺す気よ。お互いに」
それを聞いて、レイセンは黙ってしまった。手拭いの動きも少しの間、止まっていた。
「……あの人は……」
「ん?」
「あの人は、殺すべき相手なんですか。輝夜様にとって」
「…………」
ぐっと輝夜は押し黙り、目を細めてここにいない相手の事を想った。
「そうね。殺してやれるものなら、そうしてあげたいわね」
その言葉には、いくつもの想いが込められていた。
それは怒りであり、憐憫であり、憎悪であり、信頼であり、侮蔑であり、そして、愛情でもあっただろう。
二人の間にしか通じない事が、いくつもあった。
レイセンが、それをどのように受け取ったのかは分からない。
レイセンはそれ以上聞かず、輝夜もまた何をも語らなかった。
それ以来、レイセンの様子が少し変化した。
永琳の元に顔を出すようになったのだ。
「心境に変化でもあったの?」
「…………」
永琳の問いに沈黙を返すレイセンは、視線は泳いで合わせるどころではなく、手は小刻みに震えていた。
怯えの様子はこれまでと変わる所はなく、およそ回復したとは思われない。
それでも、自分から手伝いをさせてほしいと言ってきたのだから、何かしら思うところはあるのだろう。
永琳はてゐに地上の調査をさせる以外は、もっぱら薬学の研究に精を出していた。
深い理由があっての事ではなく、時間があれば何かしらの学びに費やすのが永琳の常だったからだ。
こちらを手伝わせる分には、何かがあってもさしたる問題にはならない。
そう判断して、永琳は申し出を受け入れる事にした。
「……けど、一つだけ聞いておきたいわね。あなた、どうして私の事を怖がっているの?」
その質問にレイセンは、びく、と大げさに震えた。
それでも逃げなかったのだから、やはり、大分マシにはなっているのだろう。
「……わ……」
「うん?」
「綿月様を……思い出すから……」
綿月。
それは、月にいた頃の永琳の弟子、綿月豊姫、綿月依姫の姉妹の事だ。
(……そう、やはり彼女は……)
おおよそ想像はついていた。
綿月の姉妹、特に妹の依姫は、月の幹部の中でも実働部隊のリーダーを努めており、兵士たちは原則として彼女の隷下にあった。
兵士の支給品を身につけていたのだから、彼女もその一人であった事は想像に難くない。
この姉妹が永琳の愛弟子であったことは、多くの者が知るところだ。
つまり永琳は彼女にとって、上司の更に上役という事になる。
軍とは無関係な立場にあった輝夜と違って、永琳は兵士たちに直接の関わりもある立場だったから、畏怖の念は当然にあったのだろう。
永琳は月から離反し、その際に同道した使者を全員殺害している。
逃げてきた彼女にとって、その事実はどのように映るだろうか。
少なくとも、逃亡者同士仲良くしようとか、そんな楽観ができる性格ではなかったようだ。
(ともあれ、ここで綿月の名前が出るという事は、彼女たちは未だ失脚もしていないという事ね……)
それは永琳にとっては朗報とも言える。
綿月の姉妹は月の中でも、ことに永琳の深い信奉者であり、また極めて優秀な人材でもあった。
永琳が離反した事で彼女たちに累が及ぶ可能性を永琳は危惧していたが、それが杞憂であったと確認できた事になる。
また、依姫が未だ実働部隊のトップにいるのなら、その性格を熟知している永琳にとっては与し易い。
警戒を緩めるとはいかないものの、永琳の知らないルートで策謀が渦巻いているという可能性は低くなっただろう。
……彼女の言葉が真実であるならば。
(とは言え、この期に及んで偽報というのも考えにくいし、疑心暗鬼が過ぎるのも危険ではある)
それがひとまずの結論となった。
「……とりあえず、震える手で薬品を零したりする事の無いように注意してね」
そう告げて、永琳はレイセンを伴っての研究を始めたのだった。
意思は全てを凌駕する。
永琳はそれを知らなかった。
最も明晰な頭脳を持つ彼女には、理よりも大いなるものは存在しなかったから。
輝夜はそれを知っていた。
自らの行動もまたそうであると、身をもって理解していたから。
そして二人は、レイセンの事を知らなかった。
「……ん?」
その日は、てゐが一週間ぶりに永遠亭へと戻ってきた日だった。
取りまとめた調査内容を永琳へと報告し、永遠亭であった事の報告を部下のイナバたちから受け取り、一通り目を通して周辺の散策に出向いた矢先の事。
レイセンが、一人で屋敷を出ていったのだ。
このところ、レイセンは精力的に仕事を請け負っており、一人で外に出向く事もあった。
本来は輝夜が同行するべきなのだが、輝夜がさっぱり仕事に慣れないのは周知の事で、レイセン一人で作業しているような状態だった。実際にレイセン一人で仕事に出向く事も増えていた。
レイセンは胸に、いかにも大事そう荷物を抱えていた。
その口からはいくつかの容器が覗いており、それは永琳が薬品の研究に使うものと酷似していた。
レイセンは輝夜によく懐き、徹底して従順だった。その点については永琳さえも問題ないだろうと判断しており、レイセンに対する警戒というのは半ば無実化していた。
永琳の研究の手伝いも献身的に努めており、今日のこれもその一端だろうと、イナバたちは見咎めなかったのだろう。
しかし、てゐはそう思わなかった。
レイセンは出かける時の様子こそ堂々としていたが、竹林に入るとすぐに周辺を探るような様子を見せ始めた。
まるで誰かを探すように。
「……どうしたものかね」
てゐは、声をかけて目的を問い質すべきか、隠れて後をつけるべきかを自問した。
彼女がただ不審な事をしているというだけなら、捕まえて質した方が早い。
目的だって、秘密に保護した動物を世話しているとか、どうでもいい事かも知れない。
しかし、もしこの行動の裏に何者かがいるのだとしたら、それが月の手の者である可能性は低くない。
これが、その裏を暴く好機であるとしたなら、行動には細心の注意を要する。
レイセンは他者の気配に、異様に敏感だ。
イナバに後をつけさせるのは、恐らくバレる。
てゐは部下に命じて、周辺一帯のイナバを引き上げさせた。
そして、自らレイセンの後を尾行し始めた。
レイセンは何度も立ち止まり、周辺の確認をした。
尾行を警戒するようでもあったが、何かを探しているという様子が強かった。
(目的地があるわけではない……もしくは、その目的地は常に移動している……?)
本人もどこに向かうべきか分かっていないのか、時に来た道を戻りすらもしていた。
フラフラと彷徨うように歩き続けるため、てゐにすればいつ発見されるか気が気でなかった。
しかし、ある地点で急に方向を定め、歩調を早めた。
危うく見失いかけたてゐは慌てて追う。
そして、目標を発見したかのように立ち止まる。
竹林の間に身を潜める。
慎重に距離を取っていたてゐには、彼女が何を見ているのかは判らなかった。
レイセンは周囲への警戒を緩めていたように見えた。
この様子ならもう少し近づいても良いかもしれない。
てゐは回り込むように距離を詰め、レイセンの視線の先を確認しようとした。
だが、レイセンの行動は素早かった。
てゐが充分に近づくよりも素早く、彼女は竹林の間を飛び出した。
てゐが何よりも注意を引かれたのは、その目だった。
まっすぐに目標を睨み、一切の後退を考えないという目。
争い絶えぬ妖怪たちの間を駆け回っていたてゐは、その目を何度も見てきた。
死地に向かう者の目だった。
レイセンがどこへ向かっているのか。
その手に抱えたものは何なのか。
レイセンの視線の先にある、白く長い髪を見つけて、全て理解する。
てゐは、身を隠す事を止めて駆け出した。
その人物が、向かってくるレイセンに炎を放とうとしたのは、その直後だった。
「妹紅!! やめろ!!!」
てゐはありったけの声量で叫んだ。
妹紅はてゐを見た。レイセンは見なかった。
「爆弾だ!!!」
その直後に起きる、ほんの数秒間の出来事について、てゐは思い出す度に身を竦ませる事になる。
レイセンは、妹紅が炎を引っ込めたと見てとるや、荷物を思い切り地面に叩きつけた。
妹紅は、それが何を意味するのか瞬時に理解した。
すかさず蹴りを繰り出し、まともに食らったレイセンは大きく吹っ飛ばされる。
そして、妹紅はそのまま倒れ込んだ。
すでに火花を生じている薬品に覆いかぶさるように。
爆発は、その直後に起きた。
てゐはレイセンに駆け寄りながら、それを見ていた。
爆風が、立ち上る豪炎が、妹紅の身体を跡形もなく焼失させるのを。
「…………! 痛っ……づ……!」
布団を跳ね上げて起き上がったレイセンは、だが、痛みに顔をしかめてすぐに俯いてしまった。
周囲を見やる。灯りはなく、月の光だけが部屋をわずかに照らしている。
空より刺す光を見て、レイセンは大きく身体を震わせたが、飛び退いたりはしなかった。
「レイセン」
だが、かけられた声には、後ずさるように身じろぎした。
「……輝夜……様」
輝夜は枕元に正座して、レイセンが起きてからも微動だにせず、待っていた。
「……まだ痛むでしょう。無理をしては駄目よ」
「…………私、は、どうして」
「どうして生きているのか、知りたい?」
はっとレイセンが息を呑んだ。
輝夜は優しく微笑んだまま、言葉を継いだ。
「妹紅が、助けてくれたのよ」
「…………え」
レイセンは呆けたように、目を丸くした。
「彼女はね、私と同じ、蓬莱人なの」
「!!」
また息を呑む。
今度は、輝夜は言葉を継がなかった。
「……それじゃあ、私は」
「レイセン」
目線が泳ぎ、声を震わせるレイセンに、輝夜はあくまでも優しく声をかける。
「私は、あなたにお礼を言わなくてはいけない」
レイセンが輝夜に向ける目は、最初の頃と同じ、怯えに満ちたものだった。
「あなたは私のために、命を懸けて戦おうとしてくれたのでしょう。だから、お礼」
輝夜は微笑み「こっちに来て」とレイセンを招く。
レイセンが身を竦ませて動かないのを見ると、自分から歩み寄り、その頭にぽんと手のひらを乗せ、優しく撫でた。
「そして、私はあなたを叱らなくてはいけない」
頭に手を乗せたまま、輝夜が言う。
「私のためにどんな事をしてくれたのだとしても、その為にあなたが生命を落としたとすれば、私はそれを喜ばない」
「…………あ……」
レイセンの喉から漏れた声は、嗚咽に近かった。
「……そして、謝らなくてはいけないわね」
そこで、ようやくレイセンは顔を上げた。
揺れる瞳が、輝夜の眼差しと交わる。
「私たちは、ずっと、あなたと向き合う事を避けていたわ」
レイセンが顔を伏せる。輝夜は目を閉じて、言葉を継いだ。
「あなたが何者であるのか。あなたが何を考えているのか。私たちはそんな事ばかりで、本当にあなたに言うべきだった言葉を、ずっと言えないままだったわね」
輝夜が両腕を伸ばす。
レイセンはとっさに逃げようとしたけれど、構わずにその頭を捕まえ、抱き寄せる。
「大丈夫よ、レイセン。
ここにあなたを傷つけるものはない。
あなたがしなくてはいけない事は、なにもない」
「…………違う……」
今度ははっきりと、レイセンの声には嗚咽が混ざっていた。
「違うんです……私、私は……そんなんじゃ、なくて」
「……どうして?」
「私は……逃げてきた、から」
ぽつりと。
レイセンの頬から涙が一粒、輝夜の脚の上に落ちた。
「戦争が、あるって……言われて、私は、戦わなくちゃ、いけなかったのに……私は、逃げた、逃げたんです。死んじゃうかも、しれないのに、みんな……怖いって、言って、でも、逃げなかった、逃げなかったのに、私は、私だけ、一人で」
「……怖かったのね」
「私は、だから、今度こそ、戦わなくちゃって……たとえ死んだって、そうしなきゃ、みんなに、顔向けできないって、だから」
たとえ死んだって。
それは、輝夜には決して出来ない事だった。
だから、輝夜には決して、その意志を否定する事はできない。
そうしなければ、後悔を拭えないと、罪を滅ぼせないと。
その意志が故に、レイセンは戦場を求めていたのだろう。
戦場から逃げた罪は、戦場で死ぬ事でしか贖えないと。
「……そう」
彼女は、ずっと怯えていた。
死を恐れ、戦場に怯えた。
逃げた己の罪を恐れ、他者の目に怯えた。
逃げ続ける事を恐れ、生きる事に怯えた。
それに立ち向かう唯一の武器が、死を賭すという意志だった。
妹紅はもしかすると、その意志を見抜いていたかも知れない。
彼女は輝夜よりずっと、生と死の宿業に近い所で生きてきた。
てゐがレイセンを運び込んできてしばらく後、復活した妹紅が永遠亭にやって来た。
自分は爆裂四散したくせに、レイセンの容態を気にしていた。
レイセンを拾ったのがてゐではなく、妹紅だったとしたら。
自分よりずっと早く、彼女の意思を汲んであげられていたかもしれない。
「…………」
レイセンの嗚咽が少しずつ小さくなる。
それを待って、輝夜はレイセンの顔を正面向かせ、瞳を覗き込んだ。
「レイセン、服を脱いで頂戴」
「……え」
揺れていた瞳が、ぽかんと丸くなる。
輝夜が無言のまま促すと、レイセンは見を固くしたが、意を決したように衣類に手をかけた。
元より治療のため、簡素な貫頭衣を身に着けていただけである。
すぐに脱ぎ終えて、レイセンは輝夜の前に座り込んだ。
一糸まとわぬ姿というと、少し語弊があった。
腕に、脚に、右目に、あちこちを包帯が覆っているからだ。
そして、それでも覆いきれぬ程に、至る所に傷跡を残す身体だった。
輝夜はレイセンの左腕を取った。肘から先は殆どが包帯に覆われている。
「……ひどい傷と火傷だったそうよ。永琳は『診たのが私で無ければ、傷跡が大きく残ったでしょうね』と言ったわ」
左の脇の下、うっすらと痣になっている箇所を撫でる。レイセンがわずかに顔をしかめた。
「爆発の時の傷ではないみたいね。どこかで打ったのかしら」
包帯が走る太腿を、ふくらはぎを撫でる。包帯のない箇所にも、小さな切り傷がいくつもある。
「林を歩いた時の傷かしらね。せっかく綺麗な脚なのに、傷をつけては勿体無いわ」
肩に触れ、首筋に触れ、顎を持ち上げる。
レイセンは目を伏せて、頬は少し赤かった。
「……あなた、怪我をしても永琳に言わなかったでしょう。迷惑をかけたくないって、思ったの?」
輝夜はあくまでも穏やかに訪ねた。
こくん、とレイセンは首肯する。
「……ねえ、レイセン」
輝夜は腕を引き、レイセンの顔を間近に寄せた。
「あなたは、今日から私のものよ」
鼻先が、額が触れるほどに近づけて、言う。
「長くて綺麗な薄紫の髪も、よく鍛えられて引き締まった身体も、細いのに意外と逞しい腕も、力強く大地を蹴る脚も、全部、私のもの」
髪を分け、額にそっと口付ける。
それが印だと、言って聞かせるように。
「だから、あなたは自分を大切にしなくてはいけないの。
あなたが、私の事を大切にしてくれるように」
ぎゅ、ともう一度、レイセンの頭を抱き寄せる。
また、輝夜の脚に涙が落ちた。
今度は一度ではなく、二度、三度と続いた。
おずおずと、レイセンの両手が輝夜の背に回される。
「……これから先、あなたの中にあるものが、何度でもあなたを苛むのでしょう。
だけど、急いで飲み込まなくていいわ。ゆっくり、少しずつ、自分を受け入れていければ、それでいい」
自分を許せないのなら、代わりに許す事。
自分を受けられないのなら、代わりに受け入れる事。
心の中には踏み入れない。
傷を癒してはあげられない。
だから、せめて、一緒に傷ついてあげられるように。
「あなたが『レイセン』である事が、あなたを傷つけるのであれば、もう一つ、名前をあげる。
それは、いつかあなたを許す者の名前。私の大切な、私の『イナバ』」
やがて、レイセンの嗚咽が収まり、両手が離された。
だが、輝夜は離さず、逆により強く引き寄せた。
ぽす、と布団に倒れ込む。
レイセンを抱きしめたまま。
「もう遅いし、このまま寝てしまいましょう」
「あの……輝夜、様」
「なあに?」
「……その……服、を」
「寒い?」
「……少し……」
「だったら、もっとくっついて」
ぎゅ、と深く抱きしめられ、レイセンは抵抗を諦めたようだった。
「……それとも、私も脱いだ方がいいかしら」
「え、いや……その、それは」
しどろもどろになり、耳まで赤くなって、レイセンは黙ってしまった。
「否定しないのね」
「…………っ」
輝夜の手が掛け布団を引き上げ、二人の身体はその内に包まれた。
それから少しの間、衣擦れの音が部屋に響き、やがて、二人の呼吸の音だけとなった。
お互いの耳には、遮るもののない相手の鼓動が、聞こえていたのかもしれないけれど。
「……輝夜様」
「うん?」
「私は、ここに居ても、いいのですか」
「……違うわ。ここに居なくてはいけないの。わかった?」
「…………」
小さい、抱き合っていなければ聞こえないほどに小さな声で、レイセンは「はい」と応えた。
頭立を途中で止めたような姿勢と言うべきか。
見たままを表現すれば、頬と右肩を畳に押し付け、両手をついて体重を支え、腰を浮かし、片足は高く上げ、もう片方はつま先だけ畳に付けている。そういう姿勢である。
「どうしたの鈴仙、面白いポーズを取っちゃって。あとパンツ見えてるわよ」
輝夜の指摘には「ううぅぅぅう」と唸り声が返ってきた。
「あれ以来、しばらく夜は一緒に眠るようになったわねぇ。あの時から月の光も平気になったのに、私と一緒の時は怖がるような素振りをして」
「マジカンベンシテクダサイ」
機械のように抑揚のない声が鈴仙の口から漏れた。
頭立の角度が若干深くなり、両足とも畳から浮いていた。
輝夜の手には、古びた日誌がある。
それは鈴仙の具合を記録するために、輝夜が付けていた診療記録のようなものだ。
掃除中にこれを発見し、中身を見る前に輝夜に内容を聞いた事が、彼女の不運であっただろう。
結局のところ、月と地上の争いというのは、戦争とも呼べない結果に終わった。
そもそも鈴仙ら玉兎が恐れていた『戦争』と、月の上層部が警戒していた『侵略』はまったく別のものである。
当時は現界の人間、いわゆる外の世界から月面への調査が伸びつつあり、それによって月の都が侵される事が警戒されていた。
外の世界からやって来るのは調査隊であって、戦争をしに来る訳ではない。月の民からすれば穢れを持ち込む『刺客』ではあったが。
それでも、万一の備えはしなければならず、故に実戦を想定した訓練が組まれていた。
しかし、地上の手が月に届こうとしているという情報を、玉兎たちは『地上の妖怪たちが押し寄せて月面が戦場になる』と解釈した。末端にいる玉兎たちは、話に聞いただけの妖怪を過度に恐れ、日々の噂は尾ひれがどんどんついていく。
実戦的で厳しい訓練が課せられる中で、こうした噂は大いに現実味を伴って拡散した
この時、実際に地上では月侵攻のため妖怪たちが集まっていた。
てゐはこの情報を、誰かが玉兎たちに流したのではないかと推察していた。
これによって鈴仙の脱走騒ぎが起き、月は一時期混乱したようだ。
上層部と玉兎の間にある認識のズレが発覚し、妖怪たちを相手取るための防備がきちんと整えられ、結果、妖怪たちはろくな損害も与えられないまま惨敗する事になる。
これを陰謀とするのならば、その者は月に対して嫌がらせに混乱を巻き起こしつつ、血気に逸る当時の妖怪たちを大量に抹殺した事になる。
それをする意味がある者とは、これを契機として妖怪たちの間での地位を確保した者に他ならない。
「あいつらは本当えげつないよ。知ってた事だけど」とはてゐの言である。
終わってしまえば、単なる先走りでしかない。
だけど、当事者たちにしてみれば、己の存在を懸けた大事である。
生命を惜しんで逃げ出した事も。
生命を懸けて立ち向かった事も。
全てが真実で、だからこそ傷つき、そして、それが生きるという事だった。
妹紅が鈴仙を庇ったのは、単に自分が死なないからという事だけでなく、その尊さを知っていたからだろう。
生命を惜しむことも、懸けることも、輝夜たちには、もうできないから。
「……そんなに恥じる事じゃあないわよ」
その言葉には、羨望が混じっていたかも知れない。
「あなたがそれだけ必死であったという事だし、生命の価値に自分なりに向き合ったというぶっふぉ」
最後まで言う前に吹き出してしまった。
顔を上げて輝夜を振り向いた鈴仙の頬には、畳の網目がびっしりと浮き上がっていた。
「あっははは、何その顔! ちょっとこっち見ないでアハハハ!」
「もー、何なんですか、もぉー!」
鈴仙に肩を掴まれてガクガク揺さぶられるも、ツボに入ってしまった輝夜の笑いは収まらない。
鈴仙は「もう知りません!」と憤慨し、輝夜の手から日誌を取り上げて片付けてしまった。
本当は燃やしたいと思っていたかも知れない。そうなれば全力で止めるが。
日誌の中には、彼女を記すための名前がいくつもある。
地上人を装うための『鈴仙』。
許しのために輝夜が与えた『イナバ』。
永琳が弟子を呼ぶための『優曇華院』。
そして、彼女の意思と共にあった『レイセン』。
そのどれをも受け入れて、今、彼女はここにいる。
その全てが、彼女の名前である。
月夜の静寂を優雅に声が泳ぐ。
闇を透かす黒髪。凛と鳴る唇。その全てが一つの美を為して顕現せしめると、どこかの誰かが謳ったのを思い出す。
言われた側にしてみれば、どうしたものやらという所ではある。
ふっと微笑んで見せる程度の要領はあっても、恥じらいに頬を染めるような純情はない。
「こうして夜毎に月を眺める度に思うのは、ああ、あそこを出て良かったなあという事なのよねぇ」
夜毎に姿を変え、季節が巡り、生まれ、生き、死に、また生まれる。
月の民が『穢れ』と称したるその営みの、なんと美しいことか。
月の都には、そうした彼女の心持ちを解する者はいなかった。
唯一それができた者は、同じ大罪人として今も彼女のそばにある。
つまりは、この地上に。穢土の地に。
「……あなたも、そうではないの?」
そして、今はもう一人、浄土より来たる者が彼女のそばにある。
月の光から逃げるように、部屋の隅で暗闇に身体を浸しながら、膝を抱え込んでいる少女。
暗闇でなお光るその赤い瞳は、怯えを写し取ったように絶えず震えている。
ふ、と微笑み、輝夜は襖を閉じた。
光が遮られても、少女は部屋の隅から出ようとはしない。
輝夜の方を見てはいたが、その胡乱な瞳が果たして何を映しているのかは、定かではない。
「……まだダメみたいね、レイセン」
その呼びかけに、初めて少女はピクリと反応を返した。
だがそれだけだ。他には何も動きはなく、声をかけることもない。
今日はこれがせいぜいだろう。
輝夜はそう判断し、それ以上言葉を紡ぐことはしなかった。
小刻みに震えながら膝を抱える少女と、優雅に佇む輝夜。
夜が明けるまでの間、二人の間にそれ以上の会話はなかった。
その少女は、竹林の中に『落ちてきた』のだと、てゐは語った。
理屈は単純で、彼女の周囲には足跡が全くなかったからだという。
彼女が月の兎であることは、ひと目でわかった。
穢土の民が遍く有する穢れが、彼女には極端に少なかったからだ。
運び込まれた彼女を見た永琳は、まず真っ先に頭の左右に生える二つの長耳を調べた。
これは月兎たちが通信を行う際の受信端末であり、これが機能していた場合、彼女は何らかの使命を受けてやって来た可能性があったからだ。
永琳によれば、機能自体は生きているが近いうちに使用された形跡はなく、現在地を知らせるビーコンは壊されていた。
端末の改造は一兵士の権限で許されるものではない。通信機能もオフにされており、偶然に壊れたという可能性はありえない。
「脱走兵かしら?」
輝夜は疑問を口にしたが、実際のところはほとんど確信を抱いていた。
しかしそれに対し、永琳は即答をせず黙考を始めた。
輝夜は首を傾げたが、少し考えて理解した。
永琳は、この少女が脱走兵を装った間諜である可能性を考えていたのだ。
蓬莱の薬を服用した咎で地球に追放された、蓬莱山輝夜。
その彼女を追って地球に降り立ち、同道した使者を皆殺しにして彼女の側に参じた八意永琳。
二人にとっての目下の使命は、月の民より隠れ潜む事に他ならなかった。
逃亡生活の当初はもっぱら存在の痕跡を消す事に躍起にならねばならず、地上の民との接触も最低限に留めなければならなかったし、それでも一処に留まれる期間はごく短いものだった。
人を惑わす迷いの竹林の奥地に居を構え、安寧を得たかと思えば竹林の所有者を自称する不可解な兎に乗り込まれ、彼女と契約を結ぶ事でようやっと後顧の憂いなく隠遁生活に入れるようになったという、その矢先の出来事である。
この屋敷は歴史の進まぬ場所である。
それは比喩ではなく、永琳の手によって施された結界が外部からの感知を阻み、永遠と須臾を操る輝夜の能力によって屋敷の永遠が保たれていたからである。
しかし、それでも地上の兎である因幡てゐが、術を潜り抜けて屋敷を発見してしまった。
隠蔽未だ完全ならず。永琳はその事でかなり神経を尖らせるようになっており、そこにきてこの月の兎の来訪である。永琳の疑心暗鬼は当然の事だっただろう。
この時、永琳は少女を殺すという選択肢を検討していたはずだ。
しかし、恐らくそれを口にする事はないだろうと輝夜は思った。
それを言えば輝夜は頑として反対するし、そうすれば永琳はその意を引っ込めざるを得ない。その事を、永琳自身がよく分かっているはずだからだ。
「……う、う……」
そうこうしている内に、少女が意識を取り戻した。
兎にも角にも、まず彼女の口から情報を得なければならない。
しかし、永琳の声に少女はほとんど反応を示さなかった。
目は開き、眼前で指を振ってみせればつられて眼球が右往左往する。
しかし声を発する事はなく、まさしく茫然自失の体だった。
埒が明かない様子を見て取り、輝夜は身を乗り出して少女に声をかけた。
「私は輝夜、こっちは永琳よ。……月の言葉で言うなら、八意××と――」
ほんの一瞬だった。
その言葉を聞いた瞬間、少女の瞳孔がにわかに窄まり、次の一瞬にはその身体を跳ね起こしていた。
少女は布団の上から転がり出ると、側にいた輝夜の肩を掴んで瞬時に背後へと回り込み、素早く立ち上がるや否やその首に背後から手をかける。
すかさず輝夜の身体を引き起こしてさっと後退し、部屋の壁を背にして永琳と向き合った。
少女の反応を見て取った永琳が身じろぎ一つする間の出来事である。まさしく電光石火の早業と言う他はない。
「――――……くっ、かはっ」
少女は何かを言おうとしたが、声が出ない様子だった。行き倒れていた様子からも、軽度の脱水症状が推察された。しかしてその機敏さたるや、一線級の戦士のそれである。無手であろうとも人質を害するのに何ら不備はないと、容易に想像させた。
だが、永琳はその様子を一瞥しただけで、全く動じる気配はなかった。
首根っこを押さえられてている輝夜にしても同じである。
この時、永琳が危惧していたのは、少女に月へと連絡される事である。
通信端末が切られていても、別の連絡手段を隠し持っている可能性は否定できない。その意味で、輝夜が永琳の名を口にした事は迂闊に過ぎると言えたし、実際に永琳の非難するような目線は、少女よりも輝夜の方に向けられていた。
そして当の少女はと言えば、消耗と狼狽から前後不覚の状態に陥っているのが容易に見て取れた。
人質の存在が眼前の相手に何ら痛痒を与えていないという事を、少女が理解する様子はなかった。
ともかくも少女を落ち着かせなければならない。そして、できるならば取り押さえて勝手な行動ができないようにしたい。
だが、それがどうにも困難である事は明らかだった。
「ねえ、あなた……っ!」
輝夜が声をかけてみるも、少女は輝夜の顎を掴まえて上向かせた。
妙な事をすれば、直ちにこの首を捻って殺してやるぞと言わんばかりに。
永琳は無言のままだった。
輝夜を案じるというよりは、少女をいかにして鎮圧するかを考えてるかのように。
輝夜はむしろ、少女自身の身を案じていた。
彼女に何の目論見があるのか、あるいは目論見など何もないのか、いずれにせよ、今の行動は衝動的なものである事は間違いない。
そして、事を起こしてしまった故に、焦燥からより頑なな態度に出てしまう。
永琳が強硬手段に出る可能性もある。
時間を置いて冷静を取り戻させるには、状況があまりに切迫しすぎていた。
血を見ずには、収まりがつかないかもしれない。
そう判断した輝夜は、空いている右の手を貫手に構えた。
少女は素早く反応した。
輝夜の顎を掴まえる手に力を込め、白い喉が大きく晒された。
ぞぶり、と。
その喉元に、輝夜の右手が突き刺さった。
鋭く刺す指先が動脈を切断し、血が勢い良く流れ出す。
輝夜が右手を引き抜くと、ぱあっと、花開くように鮮血が舞い上がった。
「…………!?!?」
ごぼ、と輝夜の口からも血が溢れ出し、少女は激しく狼狽した。
輝夜を押さえていた手を離してしまい、開放された輝夜は、ふらりとよろめいてそのまま倒れた。
流れ続ける血が畳を放射状に染め上げていく。
「あ……あ、…………」
少女は壁を背にしたまま、ズルズルと腰を落として座り込んだ。
そのまま、糸が切れたように倒れ込む。
一人残された永琳は、深々とため息をついた。
それからおもむろに立ち上がると、少女の元に歩み寄って容態を確かめる。
少しの間そうしていると、輝夜がむくりと起き上がった。
「こういうのも、迫真の演技って言うのかしらね」
「実際に死んでいたのだから、演技も何もないでしょう」
開口一番に軽口を叩く輝夜に、永琳の反応は冷ややかだった。
「畳を張り替えるのも大変なのだから、もう少し配慮してほしいですね」
「心配する所それー?」
ぷう、と輝夜が頬を膨らませるも、永琳は取り合わない。
輝夜は蓬莱人である。彼女はあらゆる変化を拒絶する。
いかなる手段によっても、彼女を殺傷する事は叶わない。
それが、輝夜が人質に取られた状況を、二人がまるで取り合わなかった理由だ。
「……この娘は、しばらく様子を見るしかなさそうね。正常な判断ができるようになるまで、少し時間がかかりそうだわ」
失神した少女を抱え上げ、永琳は部屋を後にする。
輝夜は振り向いて血まみれの惨状を確認し、「うへえ」と呻いたのだった。
少し時間がかかる、という永琳の見立ては間違っていた。
次に少女が目を覚ました時、刺激をしないためてゐに話をさせたのだが、冷静とは程遠い状態にあった。
少女は完全に怯えきっており、全く話ができるという状態ではなかった。まともに口もきけないというばかりの有様で、下手に刺激すれば舌を噛みかねないと思われた。
永琳はそれでも、その様子を間諜である事を隠すための演技である可能性を考えてはいたようだ。
しかし、その有様は輝夜からはどう見ても演技と思えなかったし、それについては永琳も同意した。
輝夜は、この少女を害してはならない、と永琳にはっきりと言った。
永琳もまた死を拒絶する蓬莱人であったが、その意志については輝夜とはだいぶ隔たりがあった。
永琳は全ての事柄に優先順位を設け、必要とあらばあらゆる措置を断行する。
少女の処遇についても、持て余すならば殺すという選択肢を常に考えていただろう。
だが輝夜は、死ぬ事のない自分たちの事情で、他の者の生命を奪う事はあってはならないと思っていた。
長い時間を共に過ごしても、永琳はその輝夜の情に共感する事はなかったが、理解し尊重はしていた。
結局、ゆっくり時間をかけて落ち着きを取り戻させる以外にはない、となった
少女は常に戦々恐々しきりで、とりわけ他者の目線に極度に怯えを示した。
てゐはおろか、人型を取れない普通の兎たちの目線すらをも過度に忌避した。
誰かの目があると、怯えて話どころではないという状態である。
ことに、永琳への怯えは尋常な様子ではなかった。
永琳の姿を見るや、戸を蹴破って脱兎のごとくに逃亡を図る始末。
あらかじめ詰めていたイナバたちが押さえつけるが、どうにも俊敏さと力の強さについては少女の方が大きく上回っており、数人がかりでようやく押さえる事ができるのだった。
永遠亭は和装の屋敷で、こういった手合いを閉じ込めておくのに適した部屋がないのもよくなかった。
逃亡騒ぎの度にイナバたちが何人も怪我を負うものだから、とにかく刺激しない事が最優先だとてゐに進言され、ひとまず永琳は彼女の側に近づかないようにせねばならなかった。
輝夜は、自ら少女の世話係をする事にした。
単純に少女への興味もあったが、少女が妖怪兎に対しても怯えを見せる事が気になったのだ。
輝夜にしても怯えられているのは同じであり、打ち解けるためには時間がかかると思われたが、それは別に問題ではない。
待つのは慣れている。たとえ永遠にでも。
目の前で自分の喉を突き破って見せた輝夜に対し、少女の怯えは顕著なものだったが、少なくとも、輝夜が少女を害するつもりがないことはすぐに分かってくれたようだ。
「改めて、私は輝夜。……その名の意味するところは、知っているでしょう?」
彼女が月の兎であれば、地球に追放された輝夜姫の話は聞いた事があるはずだ。
であれば、輝夜の不老不死もまた少女の知るところだろう。
最初に目覚めた時は錯乱していたようだが、ここにきて理解が及んだようだ。力に訴えた所で無意味だと。
「……あなたの名前、聞かせてもらえる?」
「…………」
レイセン、と。
ぼそりと、消え入るような声だったが、少女は応えた。
それから、輝夜は殆どの時間をレイセンと共に過ごすようになった。
輝夜はレイセンに何かを聞くような事はせず、やれ竹の生育具合がどうとか、兎たちの縄張り争いがどうとか、他愛もない話を聞かせていた。
レイセンは胡乱な表情で、聞くともなしにそれを聞いていたが、やがて少しずつ反応を返すようになった。
もとより、身体についてはさしたる変調もなく、あまり眠れていないらしい事を除けば特に伏せている理由もない。
ある程度の対話ができるようになってから、輝夜はレイセンを連れて外出を始めた。
目的はタケノコ採りだったり、薪に使う材木を集めたり、竹林の散策であったりと様々だ。
しかし、姫であるところの輝夜にはそうした作業への経験などは全く無く、どれもこれも見よう見まねの域を出ない。
「……いいことレイセン。人間の身体構造というのは、正確無比にナタを振り下ろせるようにはできていないのです」
薪割りをしてみれば、中心を割るどころか空振りを繰り返す有様である。
なまじ力が強いだけに、目測を誤ったナタが薪の周辺を削り取ってしまい、使いみちのない木くずが大量に生み出される始末であった。
レイセンは早々に作業に順応してしまい、輝夜の方が面倒を見られているという状態となった。
そうして輝夜の見苦しい言い訳を聞けば、ふっとレイセンも笑顔を見せるに至るのだった。
こうした中で、レイセンの恐慌は少しずつ緩和されていった。
相変わらず永琳には怯えを顕著に見せるものの、姿を見ただけで逃げ出すという事は無くなったし、兎たちに対しても表面的には平静に接するようになった。
しかし、相変わらず夜は眠れていない様子だった。
「……レイセン? もう寝たのかしら?」
ある夜、輝夜はレイセンの様子を見に部屋へ向かった。
当日はよく晴れた月夜で、日課の月見が興に乗っていつもより遅くなり、もうレイセンは寝ている頃だろうかとふと気になったのだ。
輝夜はそっと声をかけ、反応が無いので襖を少し開いた。
「…………っ!!!」
果たして、部屋に月光の刺した瞬間、レイセンは跳ねるように布団から飛び起きた。
それは最初の日に輝夜を押さえつけた時にも見せた、身じろぎ一つの間に行われる俊敏さだった。
レイセンは部屋の隅、光の届かぬ場所へと飛び退くと、頭を抱えて身を竦めた。
「レイセン……」
輝夜のかけた声が耳に入らないかのようで、しかし、伸ばした手には顕著に忌避の反応を示した。
「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
ぽつぽつと、レイセンは小さく、しかし何度も呟き続けた。
許して、許して、と。
瞳を固く閉じ、耳を塞ぎ、それでも何かから逃れようと、必死に許しを請い続けた。
「…………」
輝夜は部屋に踏み入り、そっと襖を閉じた。
光が刺さなくなっても、レイセンは目を閉じたままだった。
輝夜はレイセンから少し離れ、正座してただ待ち続けた。
彼女が何を苦しんでいるのか、輝夜は聞こうとはしなかった。
いつかは、彼女自身の口から、その心中を語ってくれると信じた。
今はまだ無理なのであれば、それができるようになるまで、ただ側にいるべきだと。
(……歴史の進まないこの永遠亭で、時間が解決してくれるのを待つって?)
心中で嗤う。
それでも、輝夜はそこを離れなかった。
やがてレイセンの言葉が嗚咽に変わっても、ずっと。
その頃、永琳はたびたび永遠亭を留守にしていた。
レイセンを刺激しないためという以上に、留意すべき事態が進行していたからだ。
永琳は月の民による調査の動向を探るため、てゐをはじめとしたイナバたちの実力者を派遣して外部の情報収集に努めていたが、そこに看過できない情報が混じっていた。
曰く、地上の妖怪たちが軍勢を成して、月に攻め込もうというのである。
(いくら力があっても、月の守りを突破できるとは思えないのだけど……)
しかし、永琳が月から離れて長い時間が経っている。月の頭脳と謳われた永琳の造反という経緯を踏まえれば、変化に乏しい月といえども、その内情を大きく変化させている可能性はあった。
これらの情報について、レイセンから聞き出す事ができればそれに越したことはない。
しかし、月にまつわる事柄を極度に忌避する態度からは、情報を聞き出す事がそもそも困難に思われた。それに、彼女が真実を語るという保証も無い。それよりは、戦いを挑もうという妖怪たちから情報を集める事が重要だと言えた。
「……それは冗談で言っている訳ではなくて?」
しかし、てゐから上がってきた報告を受けた永琳は、別の意味で頭を抱える事になった。
「ホントホント。あいつら部隊編成すらやってないみたいだよ」
脚を組んで行儀悪く座るてゐに、「きちんと座りなさい」とようやく言って、永琳はそれきり黙り込んだ。
月への侵攻を企てる軍勢というのは、その実、単なる群衆と言ってよい程に、何らの統制もされていないようだった。
てゐからの報告で判った事だが、この時代の妖怪たちというものは、大言壮語と実力行使が他の全てに優先されていた。
強いという事が、すなわち全てを手にする権利があるという事であり、威勢が良いという事が、すなわち部下を従える権利があるという事だった。
実力行使に敗れたる者は全てを失うのであり、持てる者とはすなわち勝ち続けている者であった。そうなれば、当然のように己が力に自惚れる事となり、勢い付いて更に勢力の拡大を企てる。
およそ協調などという言葉とは無縁の世界である。
「一部には連携を取りながら活動している奴らもいるみたいだけどね。大半はそんな感じで、月への侵攻も誰が戦果を多く上げるかで競い合ってるみたい」
一番槍は貰ったぞ、と吹いている輩に話を聞いてみれば、敵である月の民が何者であるかも分かっていないという有様である。
「……それはなんと言うか……烏合の衆、と言ったら失礼かしらね。烏合の方に」
いくら単体の力が秀でていようと、これで戦争をしようとはお笑い草である。
これを相手に負けるような事があるのなら、もう月など滅びた方が良かろう。そうまで永琳は思った。
「で、それはいいとして……裏は?」
「なんともだけど、お師匠様が言うような連中の影は、今んとこは確認できないかな。月への侵攻計画ってのも、八雲ってのが噛んでるとはいうけど」
「……そいつが月と結んでいるという可能性は?」
「それこそ、なんとも。八雲は狡猾な連中だし、思惑はあるんだろうけどね。例えば、手に負えない連中を月に始末させようとしてる、とか」
この大地を長く見てきたてゐの知見は、永琳も一目置くところだった。
彼女は力に依らずして、妖怪たちの間を駆け回りながら生きてきた。狡猾というならば、それこそ彼女の右に出る者は稀だろう。
その彼女の見解は、戦争の背後にあるのは月の暗躍ではなく、妖怪たちの勢力争いと見ているようだ。
(……月の民にしてみれば、わざわざ地上を侵す必要があるかは疑わしい。しかし、戦争に乗じて地上に調査隊を送り込み、私たちを見つけ出そうとする可能性はあるかもしれない。それを考えると、戦争に何らかの形で関わる事そのものがリスクとなる……か)
「……ご苦労様。引き続き調査は進めてちょうだい。くれぐれも、下手な連中と関わって腹を探られる事のないようにね。特に、その八雲という連中には」
「あいつらに関しちゃ、私の方がよく知ってる。下手は打たないよ」
不遜に、てゐは断言する。
大いに嘘つきでもある彼女だが、本気と茶番の区別を過つ者ではない事を永琳は知っている。
後は、彼女の持ち帰る情報を慎重に見極めるだけで良い。
(とは言え、あの娘の事が気にならない訳ではないけれど……)
レイセンが戦争に際して何らかの使命を帯びている、という可能性を排除はできない。
とはいえ、現状では不用意に突っつくのも上手くないだろう。
精神の摩耗は容易に回復し得ない。
彼女に何らの目論見も無いのであれば、それこそ時間をかけて慎重に事を運ばねばならない。
口笛を吹きながら出かけるてゐを見送り、今しばらくは静観すべきだと、永琳は結論付けた。
「……輝夜様、そっちじゃないです」
三月も経つ頃には、レイセンの様子は大いに改善された。少なくとも、表面的には。
彼女はイナバたちの仕事を進んで引き受け、精力的にこなした。一応、名目上は輝夜が仕事を引き受け、それをレイセンが手伝っているという形になるのだが、輝夜がまったく当てにならないため、実際はレイセンが単独で仕事をしているも同然だった。
「ああ、もう、なんだってこの竹林はこんなに迷いやすいのよ」
迷いやすいからこそこの場所に居を構えたというのに、この言い草である。
レイセンはクスリと笑って、輝夜に先だってタケノコ採りのポイントへと案内した。
このレイセンは要領をつかむのが上手く、僅かな間にタケノコ採りの技術もさっさと身につけてしまった。
レイセンが目ざとく頭の出たばかりのタケノコを見つけ、輝夜がそれに続いて鍬を振り降りして掘り出しにかかる。
が、勢い余って土と一緒にタケノコの先端も削り取ってしまった。
レイセンは笑って輝夜に手を添え、加減を教えながら鍬を動かす。
ようやく、二本のタケノコを掘り出す事に成功して、輝夜は息をつく。
「はあ。自分がここまで不器用だとは知らなかったわ」
「……輝夜様はお姫様なんですから、こんなことしなくてもいいのに」
「いいのよ、私が好きでやってるんだから!」
てゐに「向いてないんだから止めればいいのに」と言われた事を思い出し、思わずムキになって反論してしまった。
「……あ、ごめんなさい。別に怒ってるわけじゃないのよ」
レイセンは驚いたような顔をしていたが、輝夜がすぐにとりなすとホッとした表情を見せた。
「はははは……似合わんことをするからそうなる」
その、割り込んできた声に、輝夜はスッと身を固くした。
笑顔は消え、目を細め、それまでの穏やかさは息を潜める。
「……レイセン、離れて」
「え、……輝夜様?」
レイセンは困惑した表情だったが、輝夜の顔を覗き込んで息を呑み、そのまま離れた。
それは炎の匂いを纏っていた。
怒気によるものか、抑えても溢れ出るのだと言わんばかりに、その炎は空気を焦がした。
白い少女だった。
足元にまで届く長い髪は、透けるような白髪。
さながら雪の細工のようで、しかし、少女が孕む気は裏腹に熱く燃え盛る。
「最近見なかったから、とっくに彼岸を渡ったかと思っていたよ」
「……私が死んだと思ったの? それは大変ね。いい頭の医者を紹介できるわよ?」
「なら、お前こそすぐにかかるといい。不器用な手つきでタケノコを破壊して回るよりは、いい時間の使い方だろう」
二人は口元にだけ笑顔を浮かべ、向かい合っていた。
レイセンは竹藪に身を潜めながら、オロオロと二人を見比べる。
「もののついでだ。医者が診察しやすいように、頭の中身を取り出して届けてやろう!」
ごう、と音を立て、少女の足元から炎を孕んだ霊力が立ち上る。
「レイセン、永遠亭に戻っていなさい」
小さく、しかし語気を強めて輝夜が言う。
レイセンが狼狽していると「早く!」と鋭く告げられ、レイセンは慌ててその場を駆け出した。
輝夜が戻ったのは、夜になってからの事だった。
「あんまり派手な事はしてほしくないのですけど」
「仕方ないでしょう、こればかりは。言って聞く手合いじゃあないわ。お互いに」
苦い顔の永琳に、同じく渋面を作って返す輝夜。
二人の戦いはしばしばたがを外し、一度は竹林の一角が消失するほどの災禍をもたらした事もある。永琳の苦言は無理からぬ事ではあった。
「……ところで、レイセンは?」
「部屋にこもっていますよ。……行く前に格好を整えてくださいね」
言われて、輝夜は己の姿を省みた。
確かに、左脚が半ば炭化し、右腕の肘から先が焼失した姿を見せては、また卒倒して引きこもりかねない。
輝夜はコソコソと自室に戻り、そのまま布団の上に倒れた。
いかなる負傷も、放っておけば勝手に治る。蓬莱山輝夜の身体に、いかなる変質ももたらす事はできないのだ。
「……あの、輝夜、様」
が、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
身体を欠損するほどの戦いは久しぶりだったから、思ったより消耗していたかも知れない。
むく、と起き上がり、身体の状態を確かめる。
腕も脚も、全て元通りになっている。当然、服はボロボロのままだが。
ふと見ると、レイセンの側に着替えの一式、それと湯を張った桶に手拭いが置いてあった。
「あら、着替えを持ってきてくれたのね。ありがとう」
輝夜は立ち上がり、あちこちが焼失した衣服を脱ぎ――と言うより破り捨てた。
そのままレイセンに背を向けて座る。
レイセンはオドオドとした手つきで、手拭いを湯に浸し輝夜の身体を拭き始める。
タケノコ採りや薪割りといった肉体労働に比べて、レイセンの様子は随分と及び腰だが、それでも懸命だった。
荒事にばかり慣れさせられて来た彼女の、それが精一杯の献身なのだと、その手つきは物語る。
「輝夜様……あの、昼間の人は……」
「ん? ……彼女はね、私の宿敵よ」
宿敵、と、レイセンはオウム返しに口にする。
「藤原妹紅。ああ見えて長く生きている奴でね。あの通り炎の妖術は山をも焼くほどのものよ」
「……あの人、輝夜様を殺すような事を……」
「そんな事が不可能なのはよく知っているでしょうにねえ。まあ、でも、長い因縁を積み重ねてしまった相手だからね。いつだって殺す気よ。お互いに」
それを聞いて、レイセンは黙ってしまった。手拭いの動きも少しの間、止まっていた。
「……あの人は……」
「ん?」
「あの人は、殺すべき相手なんですか。輝夜様にとって」
「…………」
ぐっと輝夜は押し黙り、目を細めてここにいない相手の事を想った。
「そうね。殺してやれるものなら、そうしてあげたいわね」
その言葉には、いくつもの想いが込められていた。
それは怒りであり、憐憫であり、憎悪であり、信頼であり、侮蔑であり、そして、愛情でもあっただろう。
二人の間にしか通じない事が、いくつもあった。
レイセンが、それをどのように受け取ったのかは分からない。
レイセンはそれ以上聞かず、輝夜もまた何をも語らなかった。
それ以来、レイセンの様子が少し変化した。
永琳の元に顔を出すようになったのだ。
「心境に変化でもあったの?」
「…………」
永琳の問いに沈黙を返すレイセンは、視線は泳いで合わせるどころではなく、手は小刻みに震えていた。
怯えの様子はこれまでと変わる所はなく、およそ回復したとは思われない。
それでも、自分から手伝いをさせてほしいと言ってきたのだから、何かしら思うところはあるのだろう。
永琳はてゐに地上の調査をさせる以外は、もっぱら薬学の研究に精を出していた。
深い理由があっての事ではなく、時間があれば何かしらの学びに費やすのが永琳の常だったからだ。
こちらを手伝わせる分には、何かがあってもさしたる問題にはならない。
そう判断して、永琳は申し出を受け入れる事にした。
「……けど、一つだけ聞いておきたいわね。あなた、どうして私の事を怖がっているの?」
その質問にレイセンは、びく、と大げさに震えた。
それでも逃げなかったのだから、やはり、大分マシにはなっているのだろう。
「……わ……」
「うん?」
「綿月様を……思い出すから……」
綿月。
それは、月にいた頃の永琳の弟子、綿月豊姫、綿月依姫の姉妹の事だ。
(……そう、やはり彼女は……)
おおよそ想像はついていた。
綿月の姉妹、特に妹の依姫は、月の幹部の中でも実働部隊のリーダーを努めており、兵士たちは原則として彼女の隷下にあった。
兵士の支給品を身につけていたのだから、彼女もその一人であった事は想像に難くない。
この姉妹が永琳の愛弟子であったことは、多くの者が知るところだ。
つまり永琳は彼女にとって、上司の更に上役という事になる。
軍とは無関係な立場にあった輝夜と違って、永琳は兵士たちに直接の関わりもある立場だったから、畏怖の念は当然にあったのだろう。
永琳は月から離反し、その際に同道した使者を全員殺害している。
逃げてきた彼女にとって、その事実はどのように映るだろうか。
少なくとも、逃亡者同士仲良くしようとか、そんな楽観ができる性格ではなかったようだ。
(ともあれ、ここで綿月の名前が出るという事は、彼女たちは未だ失脚もしていないという事ね……)
それは永琳にとっては朗報とも言える。
綿月の姉妹は月の中でも、ことに永琳の深い信奉者であり、また極めて優秀な人材でもあった。
永琳が離反した事で彼女たちに累が及ぶ可能性を永琳は危惧していたが、それが杞憂であったと確認できた事になる。
また、依姫が未だ実働部隊のトップにいるのなら、その性格を熟知している永琳にとっては与し易い。
警戒を緩めるとはいかないものの、永琳の知らないルートで策謀が渦巻いているという可能性は低くなっただろう。
……彼女の言葉が真実であるならば。
(とは言え、この期に及んで偽報というのも考えにくいし、疑心暗鬼が過ぎるのも危険ではある)
それがひとまずの結論となった。
「……とりあえず、震える手で薬品を零したりする事の無いように注意してね」
そう告げて、永琳はレイセンを伴っての研究を始めたのだった。
意思は全てを凌駕する。
永琳はそれを知らなかった。
最も明晰な頭脳を持つ彼女には、理よりも大いなるものは存在しなかったから。
輝夜はそれを知っていた。
自らの行動もまたそうであると、身をもって理解していたから。
そして二人は、レイセンの事を知らなかった。
「……ん?」
その日は、てゐが一週間ぶりに永遠亭へと戻ってきた日だった。
取りまとめた調査内容を永琳へと報告し、永遠亭であった事の報告を部下のイナバたちから受け取り、一通り目を通して周辺の散策に出向いた矢先の事。
レイセンが、一人で屋敷を出ていったのだ。
このところ、レイセンは精力的に仕事を請け負っており、一人で外に出向く事もあった。
本来は輝夜が同行するべきなのだが、輝夜がさっぱり仕事に慣れないのは周知の事で、レイセン一人で作業しているような状態だった。実際にレイセン一人で仕事に出向く事も増えていた。
レイセンは胸に、いかにも大事そう荷物を抱えていた。
その口からはいくつかの容器が覗いており、それは永琳が薬品の研究に使うものと酷似していた。
レイセンは輝夜によく懐き、徹底して従順だった。その点については永琳さえも問題ないだろうと判断しており、レイセンに対する警戒というのは半ば無実化していた。
永琳の研究の手伝いも献身的に努めており、今日のこれもその一端だろうと、イナバたちは見咎めなかったのだろう。
しかし、てゐはそう思わなかった。
レイセンは出かける時の様子こそ堂々としていたが、竹林に入るとすぐに周辺を探るような様子を見せ始めた。
まるで誰かを探すように。
「……どうしたものかね」
てゐは、声をかけて目的を問い質すべきか、隠れて後をつけるべきかを自問した。
彼女がただ不審な事をしているというだけなら、捕まえて質した方が早い。
目的だって、秘密に保護した動物を世話しているとか、どうでもいい事かも知れない。
しかし、もしこの行動の裏に何者かがいるのだとしたら、それが月の手の者である可能性は低くない。
これが、その裏を暴く好機であるとしたなら、行動には細心の注意を要する。
レイセンは他者の気配に、異様に敏感だ。
イナバに後をつけさせるのは、恐らくバレる。
てゐは部下に命じて、周辺一帯のイナバを引き上げさせた。
そして、自らレイセンの後を尾行し始めた。
レイセンは何度も立ち止まり、周辺の確認をした。
尾行を警戒するようでもあったが、何かを探しているという様子が強かった。
(目的地があるわけではない……もしくは、その目的地は常に移動している……?)
本人もどこに向かうべきか分かっていないのか、時に来た道を戻りすらもしていた。
フラフラと彷徨うように歩き続けるため、てゐにすればいつ発見されるか気が気でなかった。
しかし、ある地点で急に方向を定め、歩調を早めた。
危うく見失いかけたてゐは慌てて追う。
そして、目標を発見したかのように立ち止まる。
竹林の間に身を潜める。
慎重に距離を取っていたてゐには、彼女が何を見ているのかは判らなかった。
レイセンは周囲への警戒を緩めていたように見えた。
この様子ならもう少し近づいても良いかもしれない。
てゐは回り込むように距離を詰め、レイセンの視線の先を確認しようとした。
だが、レイセンの行動は素早かった。
てゐが充分に近づくよりも素早く、彼女は竹林の間を飛び出した。
てゐが何よりも注意を引かれたのは、その目だった。
まっすぐに目標を睨み、一切の後退を考えないという目。
争い絶えぬ妖怪たちの間を駆け回っていたてゐは、その目を何度も見てきた。
死地に向かう者の目だった。
レイセンがどこへ向かっているのか。
その手に抱えたものは何なのか。
レイセンの視線の先にある、白く長い髪を見つけて、全て理解する。
てゐは、身を隠す事を止めて駆け出した。
その人物が、向かってくるレイセンに炎を放とうとしたのは、その直後だった。
「妹紅!! やめろ!!!」
てゐはありったけの声量で叫んだ。
妹紅はてゐを見た。レイセンは見なかった。
「爆弾だ!!!」
その直後に起きる、ほんの数秒間の出来事について、てゐは思い出す度に身を竦ませる事になる。
レイセンは、妹紅が炎を引っ込めたと見てとるや、荷物を思い切り地面に叩きつけた。
妹紅は、それが何を意味するのか瞬時に理解した。
すかさず蹴りを繰り出し、まともに食らったレイセンは大きく吹っ飛ばされる。
そして、妹紅はそのまま倒れ込んだ。
すでに火花を生じている薬品に覆いかぶさるように。
爆発は、その直後に起きた。
てゐはレイセンに駆け寄りながら、それを見ていた。
爆風が、立ち上る豪炎が、妹紅の身体を跡形もなく焼失させるのを。
「…………! 痛っ……づ……!」
布団を跳ね上げて起き上がったレイセンは、だが、痛みに顔をしかめてすぐに俯いてしまった。
周囲を見やる。灯りはなく、月の光だけが部屋をわずかに照らしている。
空より刺す光を見て、レイセンは大きく身体を震わせたが、飛び退いたりはしなかった。
「レイセン」
だが、かけられた声には、後ずさるように身じろぎした。
「……輝夜……様」
輝夜は枕元に正座して、レイセンが起きてからも微動だにせず、待っていた。
「……まだ痛むでしょう。無理をしては駄目よ」
「…………私、は、どうして」
「どうして生きているのか、知りたい?」
はっとレイセンが息を呑んだ。
輝夜は優しく微笑んだまま、言葉を継いだ。
「妹紅が、助けてくれたのよ」
「…………え」
レイセンは呆けたように、目を丸くした。
「彼女はね、私と同じ、蓬莱人なの」
「!!」
また息を呑む。
今度は、輝夜は言葉を継がなかった。
「……それじゃあ、私は」
「レイセン」
目線が泳ぎ、声を震わせるレイセンに、輝夜はあくまでも優しく声をかける。
「私は、あなたにお礼を言わなくてはいけない」
レイセンが輝夜に向ける目は、最初の頃と同じ、怯えに満ちたものだった。
「あなたは私のために、命を懸けて戦おうとしてくれたのでしょう。だから、お礼」
輝夜は微笑み「こっちに来て」とレイセンを招く。
レイセンが身を竦ませて動かないのを見ると、自分から歩み寄り、その頭にぽんと手のひらを乗せ、優しく撫でた。
「そして、私はあなたを叱らなくてはいけない」
頭に手を乗せたまま、輝夜が言う。
「私のためにどんな事をしてくれたのだとしても、その為にあなたが生命を落としたとすれば、私はそれを喜ばない」
「…………あ……」
レイセンの喉から漏れた声は、嗚咽に近かった。
「……そして、謝らなくてはいけないわね」
そこで、ようやくレイセンは顔を上げた。
揺れる瞳が、輝夜の眼差しと交わる。
「私たちは、ずっと、あなたと向き合う事を避けていたわ」
レイセンが顔を伏せる。輝夜は目を閉じて、言葉を継いだ。
「あなたが何者であるのか。あなたが何を考えているのか。私たちはそんな事ばかりで、本当にあなたに言うべきだった言葉を、ずっと言えないままだったわね」
輝夜が両腕を伸ばす。
レイセンはとっさに逃げようとしたけれど、構わずにその頭を捕まえ、抱き寄せる。
「大丈夫よ、レイセン。
ここにあなたを傷つけるものはない。
あなたがしなくてはいけない事は、なにもない」
「…………違う……」
今度ははっきりと、レイセンの声には嗚咽が混ざっていた。
「違うんです……私、私は……そんなんじゃ、なくて」
「……どうして?」
「私は……逃げてきた、から」
ぽつりと。
レイセンの頬から涙が一粒、輝夜の脚の上に落ちた。
「戦争が、あるって……言われて、私は、戦わなくちゃ、いけなかったのに……私は、逃げた、逃げたんです。死んじゃうかも、しれないのに、みんな……怖いって、言って、でも、逃げなかった、逃げなかったのに、私は、私だけ、一人で」
「……怖かったのね」
「私は、だから、今度こそ、戦わなくちゃって……たとえ死んだって、そうしなきゃ、みんなに、顔向けできないって、だから」
たとえ死んだって。
それは、輝夜には決して出来ない事だった。
だから、輝夜には決して、その意志を否定する事はできない。
そうしなければ、後悔を拭えないと、罪を滅ぼせないと。
その意志が故に、レイセンは戦場を求めていたのだろう。
戦場から逃げた罪は、戦場で死ぬ事でしか贖えないと。
「……そう」
彼女は、ずっと怯えていた。
死を恐れ、戦場に怯えた。
逃げた己の罪を恐れ、他者の目に怯えた。
逃げ続ける事を恐れ、生きる事に怯えた。
それに立ち向かう唯一の武器が、死を賭すという意志だった。
妹紅はもしかすると、その意志を見抜いていたかも知れない。
彼女は輝夜よりずっと、生と死の宿業に近い所で生きてきた。
てゐがレイセンを運び込んできてしばらく後、復活した妹紅が永遠亭にやって来た。
自分は爆裂四散したくせに、レイセンの容態を気にしていた。
レイセンを拾ったのがてゐではなく、妹紅だったとしたら。
自分よりずっと早く、彼女の意思を汲んであげられていたかもしれない。
「…………」
レイセンの嗚咽が少しずつ小さくなる。
それを待って、輝夜はレイセンの顔を正面向かせ、瞳を覗き込んだ。
「レイセン、服を脱いで頂戴」
「……え」
揺れていた瞳が、ぽかんと丸くなる。
輝夜が無言のまま促すと、レイセンは見を固くしたが、意を決したように衣類に手をかけた。
元より治療のため、簡素な貫頭衣を身に着けていただけである。
すぐに脱ぎ終えて、レイセンは輝夜の前に座り込んだ。
一糸まとわぬ姿というと、少し語弊があった。
腕に、脚に、右目に、あちこちを包帯が覆っているからだ。
そして、それでも覆いきれぬ程に、至る所に傷跡を残す身体だった。
輝夜はレイセンの左腕を取った。肘から先は殆どが包帯に覆われている。
「……ひどい傷と火傷だったそうよ。永琳は『診たのが私で無ければ、傷跡が大きく残ったでしょうね』と言ったわ」
左の脇の下、うっすらと痣になっている箇所を撫でる。レイセンがわずかに顔をしかめた。
「爆発の時の傷ではないみたいね。どこかで打ったのかしら」
包帯が走る太腿を、ふくらはぎを撫でる。包帯のない箇所にも、小さな切り傷がいくつもある。
「林を歩いた時の傷かしらね。せっかく綺麗な脚なのに、傷をつけては勿体無いわ」
肩に触れ、首筋に触れ、顎を持ち上げる。
レイセンは目を伏せて、頬は少し赤かった。
「……あなた、怪我をしても永琳に言わなかったでしょう。迷惑をかけたくないって、思ったの?」
輝夜はあくまでも穏やかに訪ねた。
こくん、とレイセンは首肯する。
「……ねえ、レイセン」
輝夜は腕を引き、レイセンの顔を間近に寄せた。
「あなたは、今日から私のものよ」
鼻先が、額が触れるほどに近づけて、言う。
「長くて綺麗な薄紫の髪も、よく鍛えられて引き締まった身体も、細いのに意外と逞しい腕も、力強く大地を蹴る脚も、全部、私のもの」
髪を分け、額にそっと口付ける。
それが印だと、言って聞かせるように。
「だから、あなたは自分を大切にしなくてはいけないの。
あなたが、私の事を大切にしてくれるように」
ぎゅ、ともう一度、レイセンの頭を抱き寄せる。
また、輝夜の脚に涙が落ちた。
今度は一度ではなく、二度、三度と続いた。
おずおずと、レイセンの両手が輝夜の背に回される。
「……これから先、あなたの中にあるものが、何度でもあなたを苛むのでしょう。
だけど、急いで飲み込まなくていいわ。ゆっくり、少しずつ、自分を受け入れていければ、それでいい」
自分を許せないのなら、代わりに許す事。
自分を受けられないのなら、代わりに受け入れる事。
心の中には踏み入れない。
傷を癒してはあげられない。
だから、せめて、一緒に傷ついてあげられるように。
「あなたが『レイセン』である事が、あなたを傷つけるのであれば、もう一つ、名前をあげる。
それは、いつかあなたを許す者の名前。私の大切な、私の『イナバ』」
やがて、レイセンの嗚咽が収まり、両手が離された。
だが、輝夜は離さず、逆により強く引き寄せた。
ぽす、と布団に倒れ込む。
レイセンを抱きしめたまま。
「もう遅いし、このまま寝てしまいましょう」
「あの……輝夜、様」
「なあに?」
「……その……服、を」
「寒い?」
「……少し……」
「だったら、もっとくっついて」
ぎゅ、と深く抱きしめられ、レイセンは抵抗を諦めたようだった。
「……それとも、私も脱いだ方がいいかしら」
「え、いや……その、それは」
しどろもどろになり、耳まで赤くなって、レイセンは黙ってしまった。
「否定しないのね」
「…………っ」
輝夜の手が掛け布団を引き上げ、二人の身体はその内に包まれた。
それから少しの間、衣擦れの音が部屋に響き、やがて、二人の呼吸の音だけとなった。
お互いの耳には、遮るもののない相手の鼓動が、聞こえていたのかもしれないけれど。
「……輝夜様」
「うん?」
「私は、ここに居ても、いいのですか」
「……違うわ。ここに居なくてはいけないの。わかった?」
「…………」
小さい、抱き合っていなければ聞こえないほどに小さな声で、レイセンは「はい」と応えた。
頭立を途中で止めたような姿勢と言うべきか。
見たままを表現すれば、頬と右肩を畳に押し付け、両手をついて体重を支え、腰を浮かし、片足は高く上げ、もう片方はつま先だけ畳に付けている。そういう姿勢である。
「どうしたの鈴仙、面白いポーズを取っちゃって。あとパンツ見えてるわよ」
輝夜の指摘には「ううぅぅぅう」と唸り声が返ってきた。
「あれ以来、しばらく夜は一緒に眠るようになったわねぇ。あの時から月の光も平気になったのに、私と一緒の時は怖がるような素振りをして」
「マジカンベンシテクダサイ」
機械のように抑揚のない声が鈴仙の口から漏れた。
頭立の角度が若干深くなり、両足とも畳から浮いていた。
輝夜の手には、古びた日誌がある。
それは鈴仙の具合を記録するために、輝夜が付けていた診療記録のようなものだ。
掃除中にこれを発見し、中身を見る前に輝夜に内容を聞いた事が、彼女の不運であっただろう。
結局のところ、月と地上の争いというのは、戦争とも呼べない結果に終わった。
そもそも鈴仙ら玉兎が恐れていた『戦争』と、月の上層部が警戒していた『侵略』はまったく別のものである。
当時は現界の人間、いわゆる外の世界から月面への調査が伸びつつあり、それによって月の都が侵される事が警戒されていた。
外の世界からやって来るのは調査隊であって、戦争をしに来る訳ではない。月の民からすれば穢れを持ち込む『刺客』ではあったが。
それでも、万一の備えはしなければならず、故に実戦を想定した訓練が組まれていた。
しかし、地上の手が月に届こうとしているという情報を、玉兎たちは『地上の妖怪たちが押し寄せて月面が戦場になる』と解釈した。末端にいる玉兎たちは、話に聞いただけの妖怪を過度に恐れ、日々の噂は尾ひれがどんどんついていく。
実戦的で厳しい訓練が課せられる中で、こうした噂は大いに現実味を伴って拡散した
この時、実際に地上では月侵攻のため妖怪たちが集まっていた。
てゐはこの情報を、誰かが玉兎たちに流したのではないかと推察していた。
これによって鈴仙の脱走騒ぎが起き、月は一時期混乱したようだ。
上層部と玉兎の間にある認識のズレが発覚し、妖怪たちを相手取るための防備がきちんと整えられ、結果、妖怪たちはろくな損害も与えられないまま惨敗する事になる。
これを陰謀とするのならば、その者は月に対して嫌がらせに混乱を巻き起こしつつ、血気に逸る当時の妖怪たちを大量に抹殺した事になる。
それをする意味がある者とは、これを契機として妖怪たちの間での地位を確保した者に他ならない。
「あいつらは本当えげつないよ。知ってた事だけど」とはてゐの言である。
終わってしまえば、単なる先走りでしかない。
だけど、当事者たちにしてみれば、己の存在を懸けた大事である。
生命を惜しんで逃げ出した事も。
生命を懸けて立ち向かった事も。
全てが真実で、だからこそ傷つき、そして、それが生きるという事だった。
妹紅が鈴仙を庇ったのは、単に自分が死なないからという事だけでなく、その尊さを知っていたからだろう。
生命を惜しむことも、懸けることも、輝夜たちには、もうできないから。
「……そんなに恥じる事じゃあないわよ」
その言葉には、羨望が混じっていたかも知れない。
「あなたがそれだけ必死であったという事だし、生命の価値に自分なりに向き合ったというぶっふぉ」
最後まで言う前に吹き出してしまった。
顔を上げて輝夜を振り向いた鈴仙の頬には、畳の網目がびっしりと浮き上がっていた。
「あっははは、何その顔! ちょっとこっち見ないでアハハハ!」
「もー、何なんですか、もぉー!」
鈴仙に肩を掴まれてガクガク揺さぶられるも、ツボに入ってしまった輝夜の笑いは収まらない。
鈴仙は「もう知りません!」と憤慨し、輝夜の手から日誌を取り上げて片付けてしまった。
本当は燃やしたいと思っていたかも知れない。そうなれば全力で止めるが。
日誌の中には、彼女を記すための名前がいくつもある。
地上人を装うための『鈴仙』。
許しのために輝夜が与えた『イナバ』。
永琳が弟子を呼ぶための『優曇華院』。
そして、彼女の意思と共にあった『レイセン』。
そのどれをも受け入れて、今、彼女はここにいる。
その全てが、彼女の名前である。
作者さんそれぞれに思っている個々の過去が存在するわけで、これもその一つだったのでしょう
楽しませて頂きました
姫うどん…はまってしまいそうです。輝夜の尊さと鈴仙の脆さがガラス細工のようです…いいお話をありがとうございました。