窓から星がよく見える、この部屋が私は好きだ。
灯りをつけることもなく、何かをするわけでもなく、ただただ黙って星を見ている。一つ一つの星が輝き、それらが大きな光となって夜空を埋め尽くす。
日中の空からでは考えることもできないほどの、どこを見ても眩しい世界。物音の一切しないすべてが静けさと光に包まれたこの空間が、私は好きだ。
いつからこうして星を見るようになったかはわからない。
灯りを消したときに窓から差し込む光に気づいて、なんとなく気になって窓から覗き込んでみると、光の海がそこには広がっていた。
自分の中に光が入ってくるような、そんな錯覚に陥るほどの衝撃だった。それがきっかけだったのだと思う。
だから気が向いたときには、こうして窓辺の椅子に腰を掛けて、飽きるまで星を見ている。
『お嬢様は、私と一緒に死ぬことができますか?』
まだ咲夜が生きていた頃に言われたことを思い出した。寝たきりの、すっかり老いて細くなった咲夜にそう言われた。
咲夜は穏やかに死んでいった。人間でいうところの寿命というやつだった。体のどこかに深刻な病床を患っていたとか、見たこともない重病だとか、そんな痛々しい死ではなかった。
人間として普通に歳をとり、当たり前のように老いていった。
ふと気が付いたときには、90に迫ろうかという年齢で、その背中は歪に曲がっていた。こんなにも小さな、頼りない背中だったかと少しだけ困惑した。
会話をゆっくりになった。歩く速さが遅くなった。物忘れが激しくなった。骨張った首筋や脚が目立つようになった。
今まで出来たことが、少しずつ出来なくなっていた。咲夜はこんな風だっただろうかと、大きく戸惑った。
そして咲夜の、皺がすっかり増え小さくなってしまった細い手を見て、目の前の咲夜がどこか遠い存在に感じられた。
咲夜はどこまでも人間で、私たち妖怪とは生きている時間も世界も違うのだと思い知らされた。
それでどうしようもなく悲しくなって、けれど泣くこともできずに、私は咲夜の手から目を逸らすしかなかった。
咲夜がゆっくりと、しかし確実に終わりに近づいていくようで、そんな不安だけがいつまでも残っていた。
咲夜は一度として、眷属にしてほしい、とは言わなかった。人間であることを誇りに思っているようであったし、歳をとることを楽しんでいるようでもあった。
死への恐怖や不安など、そんな息苦しさは微塵も感じられなかった。
咲夜に眷属にならないかと誘ってみたことがある。しかし、やんわりと断られた。
『私はどこまでも人間です。一生死ぬ人間ですよ。死ぬその時までお嬢様の従者です。これだけは譲れません』
すっかり体力も落ち、ぼんやりと過ごす時間の増えた咲夜は、しかしはっきりとそう言った。
『それに、私という一人間の死がお嬢様に大きく影響するのであれば、それ以上に嬉しいことはありませんわ』
やはりはっきりとそう言って、意地悪そうに微笑んだ。暖かい、けれど説得力のある表情だった。
だから私はそれ以上尋ねることはしなかった。私のわがままで咲夜の生き方を歪めてしまうのは無粋だと思った。
それに、死ぬまで従者だと咲夜は言った。なら私も、最後の最後まで主でいようと強く思った。主らしく、咲夜のことをまっすぐに見ようと決めた。
本音では、死んでほしくなどなかった。自分の大切な人がいなくなってしまう事を、簡単に受け入れることなどできるわけがない。
ただ、咲夜が何でもない風に自分の死について言うものだから、私は頷くしかなかった。結局、本音を伝えることはしなかった。
体力の無くなったせいか、咲夜は体調を崩すことが増えベッドのなかで過ごすことが多くなった。
たまに起きてきては家事や掃除をしたりすることもあったが、それでもベッドの上にいる時間の方が長かった。
だから、私やフラン、美鈴にパチェはそれぞれで洗濯や掃除、家事をするようになった。幸いなことに美鈴は料理が得意だったし、掃除や洗濯はパチェが魔法でなんとかしてくれた。
フランは地下から頻繁に出てくるようになった。洗い物をしていることもあったし、咲夜の顔を覗きに来ることもあった。
ほとんどの時間を咲夜は寝ていることが多かったから、フランが咲夜に何か言うことはなかった。
でも顔を見に来る度に、ひどく安心したような、けれど何でもないような顔をして咲夜を見ていた。だから、フランなりに咲夜を心配していたのだと思う。
咲夜もさすがに、自分一人で家事をやる、なんて無茶を言うことはなくなった。言わなくなったことが少しだけ悲しかった。
私は咲夜の部屋で過ごすことが増えた。と言っても咲夜はほとんど寝ているのだから、寝ている横で本を読んだり紅茶を飲んだりと、思い思いに時間を潰した。
ただあんまりにも寝ているものだから、そのまますっと死んでしまうのではないかと怖くなることがあった。だから頻繁に咲夜の寝顔を見ては安心するようにした。
私の知らないところで死んでしまうのは、あまりにも辛い。
まだ生きている、こんなにも生きている、と自分に言い聞かせながら何時間も咲夜の寝顔を眺めていた。このままずっと眺めていたい、そう思った。
薬は永遠亭から処方してもらった。咲夜が竹林まで診察してもらいに行くのは厳しいから、定期的に永琳に診にきてもらった。
どうか回診に来てくれないだろうか、と頼んでみると、『いいわ』とそれだけ言って引き受けてくれた。
月人に対していい思い出がないだけに、引き受けてくれたことはちょっと意外だった。
しかし咲夜は、薬を飲むことだけは頑なに拒んだ。別に深い理由があるわけではなく、単に苦いから飲みたくないらしい。
あんまりにも子どもっぽい理由だったから、私やフランはおもわず笑ってしまった。ただパチェだけは、それを聞いてものすごく不機嫌な顔をした。
『ただの風邪薬じゃない。つべこべ言わずにさっさと飲みなさいよ』
『パチュリー様は飲んだことがないからそう言えるんですよ。死ぬほど不味いですからね、この薬』
『いまのあなたが言うと冗談に聞こえないわよ』
『それに、飲んでも飲まなくても、いずれは死にます。なら私は飲みませんわ、苦いんですもの』
咲夜は冗談でも言うかのようにそう言って、笑った。
『……二度と、二度と言わないで。二度とよ』
そう言って、パチェはその場から足早に去っていった。目が真っ赤だった。泣いていたのかもしれない。
パチェなりに咲夜を心配していたのだと思う。わかりにくいし不器用なやつだけれど、裏では私たちの誰よりも咲夜のことを気にかけている。
咲夜の着替えを手伝ったり部屋の掃除をしているのは、実はパチェだったりする。
咲夜の分の食事は普段は美鈴が作っているのだけれど、それにも口を出していて、料理の栄養が云々というのを美鈴に対して何時間も語っていた。
美鈴は半ば放心状態で聞いていなかったし、それを見た小悪魔は目を合わせないように急いでその場から逃げていった。
だから伝えるのが下手なだけで、パチェは純粋に優しいやつだと思う。
『パチュリー様って』
『なんだ、咲夜』
『パチュリー様って実は優しい方ですよね。わかりにくいですけど』
『わかっててあんな事言ったのか……』
『いやぁ、ちょっとした悪戯心ですよ。流石にやりすぎたとは思いますが』
『咲夜さあ、なんか意地悪になったよね。前だったら絶対にこんな事言わなかったじゃん』
『年のせいですわ。老いて益々、というやつです』
『微妙に違うと思うな』
寝たきりの老人が口だけは達者、なんてとんでもない皮肉だと思う。まあ咲夜はそのつもりで言ったんだろうけど。
やっぱり意地悪になったなぁ、そう思って少し可笑しくなった。
『一応、後で謝っておきますわ。泣くとは思いませんでした』
『楽しんでるだろ、お前。あんまりいじめないでやってよ』
咲夜は嬉しそうに笑っていた。だからきっと、パチェの気持ちも伝わっていることだと思う。
それからは、咲夜の食事にパチェがこっそりと薬を入れるようになった。見ただけでは入ってるかわからないし、実際に食べてみたがやはり薬の味はしなかった。
でもなぜか咲夜は入っていることに気づいて、必ず残していた。しかもパチェの仕業だということも分かっていて、ことあるごとにパチェに嫌味を言っていた。
結局薬を飲むことはなかったけれど、咲夜もパチェも楽しそうに罵倒し合っているから多分これでいいのだろう。
ただ咲夜があんまりにも酷い罵倒を浴びせた日には、パチェに八つ当たりされたこともある。私は悪くないだろ。
あっという間に数年が経った。秋ももう終わりかけていて、明日にでも雪が降りそうな、そんな季節になった。
この頃の咲夜はもうベッドから出てくることはほとんど無かった。体力はどんどん落ちていったし、食事の量も段々少なくなっていった。
何か原因があるのか永琳に詳しく説明してもらったけれど、大きな病気というわけではないらしかった。
『単に死に向かって進んでいっているだけ、人間として当たり前のことよ』、そう永琳は言った。
確かにそうなのだろう。そうなのだけれど、納得できるものではない。できるわけがない。したくもない。
例えば明日咲夜が死んだとしても、咲夜自身は何の不満もないのだろう。けれど私は、私たちはそうじゃない。
何百年と生きている妖怪にしてみれば、人間の一生は短すぎる。百年なんてあっという間じゃないか。
咲夜自身が自らの老いや死を受け入れていることが腹立たしかった。おかげでこの感情のやり場がどこにもない。
私が我儘を言っていることはわかっているし、咲夜に腹を立てるのは筋違いだということもわかっている。
けれどやっぱりどうしようもなくて、やりきれない感情が消えることは無かった。ふとした時に私の心に出てきては、いつまでも私を悩ませた。そっとしておいてほしい、そう何度も思った。
『お嬢様は、私と一緒に死ぬことができますか?』
雪の降る日にそう言われた。朝から雪が降っていて、ひっそりとした静寂に包まれた、そんな日だった。
私は咲夜のベッドの横にいて、椅子に腰掛けていた。
『すさまじく意地悪な質問だな。なんだ、私に死んでほしいのか?』
『いえいえ、そんなつもりは。簡単な暇潰しだとでも思ってください』
『質問が重たすぎて私が潰れそうだよ……』
『でしたら、明日にでもさくっと答えてくれれば構いませんわ』
『さくっと、ねえ。一晩考えてみるよ、一応な』
『お待ちしてますわ。寝てばかりでは退屈ですから』
咲夜が意地悪なことを言うのは、もうすっかり慣れていた。だからその後は、いつも通り他愛のない会話をした。
フランが美鈴と花を育てているとか、パチェに和食ブームがきているとか、小悪魔が妖精メイドと喧嘩をしただとか、そんな話をいつまでもしていた。
昔に戻ったみたいで、それがひどく私を安心させた。咲夜と私しかいない、この静かな世界に閉じこもっていたいと思った。
気づけば日はもう傾いていて、咲夜はとても眠たそうだった。こちらの話に相槌を打ちながらも、目はほとんど閉じかけていた。
仕方ないので咲夜を寝かせて、そのまま私は椅子に座ってじっとしながら、何もしないで咲夜を何時間でも眺めていた。
咲夜をみているだけでうれしくなった。自分と咲夜以外に何もないこの空間が居心地がよくて、咲夜が死んでしまうことや、やりきれなさなんてものは全く考えなかった。
完璧な安らぎがここにはあった。
そうやってぼんやりとしているうちに、段々と瞼が下りてきて私もすっかり眠ってしまった。
椅子から滑り落ちて目が覚めた。無理な体勢で寝たせいか、体のあちこちが痛い。
体を伸ばしながら時計を見ると日付が変わっていた。結局あのまま私は眠ってしまったのだとわかった。
部屋に戻って眠ろうと思い、声を掛けようと近づいて、咲夜が息をしていないことに気付いた。
肩まで毛布に包まった咲夜は、気持ち良さそうに穏やかに眠りながら、けれど確かに息絶えていた。
息をしていなかった。心音が聞こえなくなった。揺すってみたけれど反応が返ってくることはなかった。
死んでしまったのだ、とどこか冷静に思った。最後まで人間のまま、人間として死んでいった。
目の前に咲夜がいる。確かに咲夜がいる。けれど、今この部屋には私がひとりぼっちで居るだけなのだと、頭のどこかで理解していた。
時間が止まったみたいにひっそりと、咲夜だけがこの部屋からいなくなっていた。
『……おはよう、くらいは言いたかったんだけどな。くそ。くそ。はやいんだよ、いなくなるのが。私に何も言わないでいなくなるなんて、従者失格じゃないか。なあ、そうだろう咲夜。
咲夜。さくや。さくや。死んでほしくなんてなかったんだよ。なんで死んじゃうんだよ。私と一緒に生きてくれよ。なんでさ。なんで……』
そのまま私は声を殺して泣いていた。体中の水分をすべて出し切るくらいの勢いで、小さく震えながら泣いた。
吸血鬼の弱点は流水、なんてのは困ったものだと思う。泣くときはどうしろというのだ。
自分で自分の首を絞めるなんて馬鹿じゃないのか。ちくしょう。ちくしょう。
そうして私は、疲れて眠ってしまうまで泣き続けた。いつの間にか、雪は止んでいた。
***
「あの時の質問になんて答えようかなあ」
星を見ながら、咲夜に言われたことを考えていた。
結局あの質問に答えることはできなかったし、咲夜が死んでしまってからしばらくはそれどころではなかった。
葬式までは比較的平静を保てていたと思う。火葬だった。死んだら燃やしてくれと咲夜が言うものだから、言う通りにした。
咲夜の入った棺が燃えているのを見て、これで咲夜はこの世界から完全にいなくなるのだろうか、とそんなことを思った。
そう考えるともう駄目だった。どうしようもなく悲しくなって、大声で泣いた。
あんまりにもうるさいから、最初は泣いていたフランや美鈴に、しっかりしろと怒られた。パチェには頭を小突かれた。ちょっと位は優しくしてほしい。
夢に出てくることもあった。悪夢なんかじゃなく、ふとした日常の一場面だった。ただ、咲夜と会話することはもうできないと言われているようで、目を覚ますのが怖かった。
目を覚まして、咲夜がいないことがわかって、やっぱり泣いた。
表向きは明るくふるまって生活することができた。フランや美鈴、パチェに小悪魔も段々と表情が明るくなってきていた。
でもやっぱり、ふとした時に咲夜のことを思い出してひっそりと泣いた。パチェや美鈴達も真っ赤な目をしていることが度々あったから、私の知らないところで泣いていたのだと思う。
そんな生活がしばらく続いたから、質問のことなどすっかり忘れていた。こればかりは仕方のないことなので、薄情だと思わないでほしい。
咲夜がどんな意図であの質問をしたのかは分からない。単に意地悪したかったのかもしれないし、本気で私と死にたかったのかもしれない。
後者はちょっと怖いし愛情にしては重たすぎるから、前者だろう。前者であってくれ。
星を見ながら考えていると、とても落ち着いた気持ちでいられる。今は概ね気持ちの整理もできているし、急に取り乱すようなことも無くなった。それでも、たまには泣いてしまう事もあるけど。
「やっぱり、死んでやることはできないかな」
そう、確かに思う。死んでやることは、私には出来ない。
咲夜が生きたこの場所が好きだ。咲夜と生きたこの場所が好きだ。私と同じように、私以上に咲夜を愛したこの紅魔館の皆が、私は大好きだ。
他の皆を残して死んでしまうなんて、そんな悲しませるような事は出来ない。泣くのも泣かれるのもしばらくは御免だ。
流水は弱点なのだから。
夜に咲く。咲夜。星みたいだ、なんてことを考えている。
死んで星になるというのなら、いま見ている星空のどこかにいるのだろうか。綺麗で強く輝く星なんだろうなと思う。
無性に咲夜に会いたくなることがあった。そんなときに限って、無理やり眷属にしていればだとか、どうして死んでしまったのだとか、余計なことばかり考えた。
後悔していることを挙げればいくらでも出てくるだろう。ただそれは自分なりに納得した上でのことなんだし、挙げればキリがない後悔だって背負う覚悟はある。
でも咲夜に会いたいというこの気持ちだけは、いつまでも残り続けるのだと思う。私が生き続ける限り、この気持ちが消えることは無いし、ずっと私に張り付いたままなんだと思う。
星みたいだと思った。星になるのなら、星になったのなら、私のもとへ降って来ないかななんて考えて、ちょっと可笑しくなった。
ただひたすらに咲夜に会いたかった。咲夜に会いたいと、そう思った。
大きな星がひとつ、流れたように見えた。
灯りをつけることもなく、何かをするわけでもなく、ただただ黙って星を見ている。一つ一つの星が輝き、それらが大きな光となって夜空を埋め尽くす。
日中の空からでは考えることもできないほどの、どこを見ても眩しい世界。物音の一切しないすべてが静けさと光に包まれたこの空間が、私は好きだ。
いつからこうして星を見るようになったかはわからない。
灯りを消したときに窓から差し込む光に気づいて、なんとなく気になって窓から覗き込んでみると、光の海がそこには広がっていた。
自分の中に光が入ってくるような、そんな錯覚に陥るほどの衝撃だった。それがきっかけだったのだと思う。
だから気が向いたときには、こうして窓辺の椅子に腰を掛けて、飽きるまで星を見ている。
『お嬢様は、私と一緒に死ぬことができますか?』
まだ咲夜が生きていた頃に言われたことを思い出した。寝たきりの、すっかり老いて細くなった咲夜にそう言われた。
咲夜は穏やかに死んでいった。人間でいうところの寿命というやつだった。体のどこかに深刻な病床を患っていたとか、見たこともない重病だとか、そんな痛々しい死ではなかった。
人間として普通に歳をとり、当たり前のように老いていった。
ふと気が付いたときには、90に迫ろうかという年齢で、その背中は歪に曲がっていた。こんなにも小さな、頼りない背中だったかと少しだけ困惑した。
会話をゆっくりになった。歩く速さが遅くなった。物忘れが激しくなった。骨張った首筋や脚が目立つようになった。
今まで出来たことが、少しずつ出来なくなっていた。咲夜はこんな風だっただろうかと、大きく戸惑った。
そして咲夜の、皺がすっかり増え小さくなってしまった細い手を見て、目の前の咲夜がどこか遠い存在に感じられた。
咲夜はどこまでも人間で、私たち妖怪とは生きている時間も世界も違うのだと思い知らされた。
それでどうしようもなく悲しくなって、けれど泣くこともできずに、私は咲夜の手から目を逸らすしかなかった。
咲夜がゆっくりと、しかし確実に終わりに近づいていくようで、そんな不安だけがいつまでも残っていた。
咲夜は一度として、眷属にしてほしい、とは言わなかった。人間であることを誇りに思っているようであったし、歳をとることを楽しんでいるようでもあった。
死への恐怖や不安など、そんな息苦しさは微塵も感じられなかった。
咲夜に眷属にならないかと誘ってみたことがある。しかし、やんわりと断られた。
『私はどこまでも人間です。一生死ぬ人間ですよ。死ぬその時までお嬢様の従者です。これだけは譲れません』
すっかり体力も落ち、ぼんやりと過ごす時間の増えた咲夜は、しかしはっきりとそう言った。
『それに、私という一人間の死がお嬢様に大きく影響するのであれば、それ以上に嬉しいことはありませんわ』
やはりはっきりとそう言って、意地悪そうに微笑んだ。暖かい、けれど説得力のある表情だった。
だから私はそれ以上尋ねることはしなかった。私のわがままで咲夜の生き方を歪めてしまうのは無粋だと思った。
それに、死ぬまで従者だと咲夜は言った。なら私も、最後の最後まで主でいようと強く思った。主らしく、咲夜のことをまっすぐに見ようと決めた。
本音では、死んでほしくなどなかった。自分の大切な人がいなくなってしまう事を、簡単に受け入れることなどできるわけがない。
ただ、咲夜が何でもない風に自分の死について言うものだから、私は頷くしかなかった。結局、本音を伝えることはしなかった。
体力の無くなったせいか、咲夜は体調を崩すことが増えベッドのなかで過ごすことが多くなった。
たまに起きてきては家事や掃除をしたりすることもあったが、それでもベッドの上にいる時間の方が長かった。
だから、私やフラン、美鈴にパチェはそれぞれで洗濯や掃除、家事をするようになった。幸いなことに美鈴は料理が得意だったし、掃除や洗濯はパチェが魔法でなんとかしてくれた。
フランは地下から頻繁に出てくるようになった。洗い物をしていることもあったし、咲夜の顔を覗きに来ることもあった。
ほとんどの時間を咲夜は寝ていることが多かったから、フランが咲夜に何か言うことはなかった。
でも顔を見に来る度に、ひどく安心したような、けれど何でもないような顔をして咲夜を見ていた。だから、フランなりに咲夜を心配していたのだと思う。
咲夜もさすがに、自分一人で家事をやる、なんて無茶を言うことはなくなった。言わなくなったことが少しだけ悲しかった。
私は咲夜の部屋で過ごすことが増えた。と言っても咲夜はほとんど寝ているのだから、寝ている横で本を読んだり紅茶を飲んだりと、思い思いに時間を潰した。
ただあんまりにも寝ているものだから、そのまますっと死んでしまうのではないかと怖くなることがあった。だから頻繁に咲夜の寝顔を見ては安心するようにした。
私の知らないところで死んでしまうのは、あまりにも辛い。
まだ生きている、こんなにも生きている、と自分に言い聞かせながら何時間も咲夜の寝顔を眺めていた。このままずっと眺めていたい、そう思った。
薬は永遠亭から処方してもらった。咲夜が竹林まで診察してもらいに行くのは厳しいから、定期的に永琳に診にきてもらった。
どうか回診に来てくれないだろうか、と頼んでみると、『いいわ』とそれだけ言って引き受けてくれた。
月人に対していい思い出がないだけに、引き受けてくれたことはちょっと意外だった。
しかし咲夜は、薬を飲むことだけは頑なに拒んだ。別に深い理由があるわけではなく、単に苦いから飲みたくないらしい。
あんまりにも子どもっぽい理由だったから、私やフランはおもわず笑ってしまった。ただパチェだけは、それを聞いてものすごく不機嫌な顔をした。
『ただの風邪薬じゃない。つべこべ言わずにさっさと飲みなさいよ』
『パチュリー様は飲んだことがないからそう言えるんですよ。死ぬほど不味いですからね、この薬』
『いまのあなたが言うと冗談に聞こえないわよ』
『それに、飲んでも飲まなくても、いずれは死にます。なら私は飲みませんわ、苦いんですもの』
咲夜は冗談でも言うかのようにそう言って、笑った。
『……二度と、二度と言わないで。二度とよ』
そう言って、パチェはその場から足早に去っていった。目が真っ赤だった。泣いていたのかもしれない。
パチェなりに咲夜を心配していたのだと思う。わかりにくいし不器用なやつだけれど、裏では私たちの誰よりも咲夜のことを気にかけている。
咲夜の着替えを手伝ったり部屋の掃除をしているのは、実はパチェだったりする。
咲夜の分の食事は普段は美鈴が作っているのだけれど、それにも口を出していて、料理の栄養が云々というのを美鈴に対して何時間も語っていた。
美鈴は半ば放心状態で聞いていなかったし、それを見た小悪魔は目を合わせないように急いでその場から逃げていった。
だから伝えるのが下手なだけで、パチェは純粋に優しいやつだと思う。
『パチュリー様って』
『なんだ、咲夜』
『パチュリー様って実は優しい方ですよね。わかりにくいですけど』
『わかっててあんな事言ったのか……』
『いやぁ、ちょっとした悪戯心ですよ。流石にやりすぎたとは思いますが』
『咲夜さあ、なんか意地悪になったよね。前だったら絶対にこんな事言わなかったじゃん』
『年のせいですわ。老いて益々、というやつです』
『微妙に違うと思うな』
寝たきりの老人が口だけは達者、なんてとんでもない皮肉だと思う。まあ咲夜はそのつもりで言ったんだろうけど。
やっぱり意地悪になったなぁ、そう思って少し可笑しくなった。
『一応、後で謝っておきますわ。泣くとは思いませんでした』
『楽しんでるだろ、お前。あんまりいじめないでやってよ』
咲夜は嬉しそうに笑っていた。だからきっと、パチェの気持ちも伝わっていることだと思う。
それからは、咲夜の食事にパチェがこっそりと薬を入れるようになった。見ただけでは入ってるかわからないし、実際に食べてみたがやはり薬の味はしなかった。
でもなぜか咲夜は入っていることに気づいて、必ず残していた。しかもパチェの仕業だということも分かっていて、ことあるごとにパチェに嫌味を言っていた。
結局薬を飲むことはなかったけれど、咲夜もパチェも楽しそうに罵倒し合っているから多分これでいいのだろう。
ただ咲夜があんまりにも酷い罵倒を浴びせた日には、パチェに八つ当たりされたこともある。私は悪くないだろ。
あっという間に数年が経った。秋ももう終わりかけていて、明日にでも雪が降りそうな、そんな季節になった。
この頃の咲夜はもうベッドから出てくることはほとんど無かった。体力はどんどん落ちていったし、食事の量も段々少なくなっていった。
何か原因があるのか永琳に詳しく説明してもらったけれど、大きな病気というわけではないらしかった。
『単に死に向かって進んでいっているだけ、人間として当たり前のことよ』、そう永琳は言った。
確かにそうなのだろう。そうなのだけれど、納得できるものではない。できるわけがない。したくもない。
例えば明日咲夜が死んだとしても、咲夜自身は何の不満もないのだろう。けれど私は、私たちはそうじゃない。
何百年と生きている妖怪にしてみれば、人間の一生は短すぎる。百年なんてあっという間じゃないか。
咲夜自身が自らの老いや死を受け入れていることが腹立たしかった。おかげでこの感情のやり場がどこにもない。
私が我儘を言っていることはわかっているし、咲夜に腹を立てるのは筋違いだということもわかっている。
けれどやっぱりどうしようもなくて、やりきれない感情が消えることは無かった。ふとした時に私の心に出てきては、いつまでも私を悩ませた。そっとしておいてほしい、そう何度も思った。
『お嬢様は、私と一緒に死ぬことができますか?』
雪の降る日にそう言われた。朝から雪が降っていて、ひっそりとした静寂に包まれた、そんな日だった。
私は咲夜のベッドの横にいて、椅子に腰掛けていた。
『すさまじく意地悪な質問だな。なんだ、私に死んでほしいのか?』
『いえいえ、そんなつもりは。簡単な暇潰しだとでも思ってください』
『質問が重たすぎて私が潰れそうだよ……』
『でしたら、明日にでもさくっと答えてくれれば構いませんわ』
『さくっと、ねえ。一晩考えてみるよ、一応な』
『お待ちしてますわ。寝てばかりでは退屈ですから』
咲夜が意地悪なことを言うのは、もうすっかり慣れていた。だからその後は、いつも通り他愛のない会話をした。
フランが美鈴と花を育てているとか、パチェに和食ブームがきているとか、小悪魔が妖精メイドと喧嘩をしただとか、そんな話をいつまでもしていた。
昔に戻ったみたいで、それがひどく私を安心させた。咲夜と私しかいない、この静かな世界に閉じこもっていたいと思った。
気づけば日はもう傾いていて、咲夜はとても眠たそうだった。こちらの話に相槌を打ちながらも、目はほとんど閉じかけていた。
仕方ないので咲夜を寝かせて、そのまま私は椅子に座ってじっとしながら、何もしないで咲夜を何時間でも眺めていた。
咲夜をみているだけでうれしくなった。自分と咲夜以外に何もないこの空間が居心地がよくて、咲夜が死んでしまうことや、やりきれなさなんてものは全く考えなかった。
完璧な安らぎがここにはあった。
そうやってぼんやりとしているうちに、段々と瞼が下りてきて私もすっかり眠ってしまった。
椅子から滑り落ちて目が覚めた。無理な体勢で寝たせいか、体のあちこちが痛い。
体を伸ばしながら時計を見ると日付が変わっていた。結局あのまま私は眠ってしまったのだとわかった。
部屋に戻って眠ろうと思い、声を掛けようと近づいて、咲夜が息をしていないことに気付いた。
肩まで毛布に包まった咲夜は、気持ち良さそうに穏やかに眠りながら、けれど確かに息絶えていた。
息をしていなかった。心音が聞こえなくなった。揺すってみたけれど反応が返ってくることはなかった。
死んでしまったのだ、とどこか冷静に思った。最後まで人間のまま、人間として死んでいった。
目の前に咲夜がいる。確かに咲夜がいる。けれど、今この部屋には私がひとりぼっちで居るだけなのだと、頭のどこかで理解していた。
時間が止まったみたいにひっそりと、咲夜だけがこの部屋からいなくなっていた。
『……おはよう、くらいは言いたかったんだけどな。くそ。くそ。はやいんだよ、いなくなるのが。私に何も言わないでいなくなるなんて、従者失格じゃないか。なあ、そうだろう咲夜。
咲夜。さくや。さくや。死んでほしくなんてなかったんだよ。なんで死んじゃうんだよ。私と一緒に生きてくれよ。なんでさ。なんで……』
そのまま私は声を殺して泣いていた。体中の水分をすべて出し切るくらいの勢いで、小さく震えながら泣いた。
吸血鬼の弱点は流水、なんてのは困ったものだと思う。泣くときはどうしろというのだ。
自分で自分の首を絞めるなんて馬鹿じゃないのか。ちくしょう。ちくしょう。
そうして私は、疲れて眠ってしまうまで泣き続けた。いつの間にか、雪は止んでいた。
***
「あの時の質問になんて答えようかなあ」
星を見ながら、咲夜に言われたことを考えていた。
結局あの質問に答えることはできなかったし、咲夜が死んでしまってからしばらくはそれどころではなかった。
葬式までは比較的平静を保てていたと思う。火葬だった。死んだら燃やしてくれと咲夜が言うものだから、言う通りにした。
咲夜の入った棺が燃えているのを見て、これで咲夜はこの世界から完全にいなくなるのだろうか、とそんなことを思った。
そう考えるともう駄目だった。どうしようもなく悲しくなって、大声で泣いた。
あんまりにもうるさいから、最初は泣いていたフランや美鈴に、しっかりしろと怒られた。パチェには頭を小突かれた。ちょっと位は優しくしてほしい。
夢に出てくることもあった。悪夢なんかじゃなく、ふとした日常の一場面だった。ただ、咲夜と会話することはもうできないと言われているようで、目を覚ますのが怖かった。
目を覚まして、咲夜がいないことがわかって、やっぱり泣いた。
表向きは明るくふるまって生活することができた。フランや美鈴、パチェに小悪魔も段々と表情が明るくなってきていた。
でもやっぱり、ふとした時に咲夜のことを思い出してひっそりと泣いた。パチェや美鈴達も真っ赤な目をしていることが度々あったから、私の知らないところで泣いていたのだと思う。
そんな生活がしばらく続いたから、質問のことなどすっかり忘れていた。こればかりは仕方のないことなので、薄情だと思わないでほしい。
咲夜がどんな意図であの質問をしたのかは分からない。単に意地悪したかったのかもしれないし、本気で私と死にたかったのかもしれない。
後者はちょっと怖いし愛情にしては重たすぎるから、前者だろう。前者であってくれ。
星を見ながら考えていると、とても落ち着いた気持ちでいられる。今は概ね気持ちの整理もできているし、急に取り乱すようなことも無くなった。それでも、たまには泣いてしまう事もあるけど。
「やっぱり、死んでやることはできないかな」
そう、確かに思う。死んでやることは、私には出来ない。
咲夜が生きたこの場所が好きだ。咲夜と生きたこの場所が好きだ。私と同じように、私以上に咲夜を愛したこの紅魔館の皆が、私は大好きだ。
他の皆を残して死んでしまうなんて、そんな悲しませるような事は出来ない。泣くのも泣かれるのもしばらくは御免だ。
流水は弱点なのだから。
夜に咲く。咲夜。星みたいだ、なんてことを考えている。
死んで星になるというのなら、いま見ている星空のどこかにいるのだろうか。綺麗で強く輝く星なんだろうなと思う。
無性に咲夜に会いたくなることがあった。そんなときに限って、無理やり眷属にしていればだとか、どうして死んでしまったのだとか、余計なことばかり考えた。
後悔していることを挙げればいくらでも出てくるだろう。ただそれは自分なりに納得した上でのことなんだし、挙げればキリがない後悔だって背負う覚悟はある。
でも咲夜に会いたいというこの気持ちだけは、いつまでも残り続けるのだと思う。私が生き続ける限り、この気持ちが消えることは無いし、ずっと私に張り付いたままなんだと思う。
星みたいだと思った。星になるのなら、星になったのなら、私のもとへ降って来ないかななんて考えて、ちょっと可笑しくなった。
ただひたすらに咲夜に会いたかった。咲夜に会いたいと、そう思った。
大きな星がひとつ、流れたように見えた。
何となく少女漫画っぽいイメージでした
>『……二度と、二度と言わないで。二度とよ』
>吸血鬼の弱点は流水、なんてのは困ったものだと思う。泣くときはどうしろというのだ。
など、いくつも好きなフレーズがありました。
流れ星に咲夜を重ね合わせるお嬢様が印象的でした。読んでよかったです