丸いものが好きだ。四角いものも好きだ。
丸いものはどことなくふわふわした感じがする。少なくとも、なにかを傷つけたりはしない。饅頭や大福のように甘くて優しくて柔らかくて。ころころと坂道を転がっていくかのように、気まぐれで。
四角いものはちょっと怖いけれど、それが確かなものなのだと再認識させてくれる。部屋や心のありようのように自分の世界を他人の世界を分かち。日記のように、記憶という曖昧なものを文字として世界に残してくれる。
丸いものを手に持つのは好きだ。四角いものに、そっと触れるのが好きだ。
覚妖怪、心を読む妖怪。それでいて心を読むことに嫌気が差し、第三の目を閉じたという割とハードな過去を持つこいしは一人、姉の自室にこっそり忍び込んでいた。
いつもは鍵がかかっているから入れないから、どくんどくんと心臓が高鳴っているのを感じている。
実際のところ、こいしが入りたいと願い出れば家族思いな姉は快く入れてくれるだろう。だけどそういうことじゃなくて、こうしてばれないようこっそり足を踏み入れることが、なにやらちょっとイケないことをしているような気がして、なんだかくせになりそうだった。
いつも奔放に振る舞うこいしにしては珍しく、そろりそろりと一歩ずつ足を踏み出す。
姉の机、イス、タンス、ベッド、ランプ。いろんなものを見るたびに、やりたいことが思い浮かんでくる。
机の中はあさりたいし、イスには座ってみたいし、タンスの中も覗いてみたいし、ベッドには飛び込んでみたいし、ランプは振り回してみたい。だけど勝手にそんなことをすれば怒られるのが目に見えているので、これまたこいしにしては珍しく、なんとか自分の行動を自重させた。
あいかわらず抜き足差し足忍び足のまま、ふらりふらりとさとりの部屋を見て回る。無機質な部屋だと思った。飾りげのない、言ってしまえば女の子らしくない。そういうこいしも自分の部屋には外で拾ったお気に入りのものを詰め込んだだけの散らかった部屋だったりするので、あまり女の子らしいとも言えないのだけど。
思えば、こいしの部屋は時折不自然に片づいていることが多々あったような気がする。まるでこの姉の部屋のように。
それはつまり彼女もこいしの部屋に、今のこいしのように許可なく足を踏み入れたりしていたということの証明である。
「だったら私も、ちょっとくらいお姉ちゃんの部屋をいじってみてもいいよね」
こっそりと誰かの部屋に、他人の世界に入ろうとする。その世界の仕組みをひっそり明かそうとする。心を読む瞳を閉じても、やっぱりこいしは覚妖怪ということなのかもしれない。
まずは近くにあったランプを手に取ってみた。光をつけて、消して、またつけて、部屋の隅に行ったり来たりしては、とにかく薄暗い場所を照らしてみて。
その明かりでベッドの下も覗いてみた。残念ながら、こいしが期待していたような禁断の書物などは眠っていなかったが。
早々にランプで辺りを照らすことに飽きたこいしは、それをその辺にぽいっと放り投げると、次にベッドに飛び込んだ。
もふもふもふもふ。もっふぁー。
毛布がやわらかい。くんくんと鼻を鳴らせば、姉のにおいもする。温かく、甘いにおい。このまま眠ってしまいそうなくらい、温かくて優しくて、ちょっとだけ寂しそうなにおい。
いつものこいしならここですやぁと眠りこけてしまっていただろうが、まだまだ他にもいじってみたいものがたくさんある。胸のうちにくすぶる熱がこいしが眠ることを許さない。
「ぷはぁー」
存分に姉のベッドを堪能したこいしは満足そうにベッドから起き上がると、次にタンスへと向かった。
遠慮なく取っ手を引いて、中を覗き込む。
こいしの期待に反して、あまりおもしろいものはなさそうだった。こいしの部屋にあるそれとちょっとデザインが違うものの、下着や上着、靴下など、衣類ばかり収められている。姉の服を着て姉のふりをしてみるのも面白そうだとも思ったが、部屋に勝手に入った以上に「こらっ!」と怒られるのが目に見えているので、すんでのところでどうにか思いとどまった。
タンスを開きっぱなしにして次にこいしが向かったのは、姉の机だ。
イスにぽすんと腰を下ろし、がたんがたんと左右に揺れる。床が傷つくでしょ、なんて叱ってきそうな姉は今ここにはいない。たがが外れてがったんがったんとさらに大きく揺れていると、ふいに視界が斜めになった。
ごつんっ、と床に頭をぶつ。揺らしすぎてイスが倒れてしまったようだ。
「痛い……」
姉の代わりに姉の部屋に怒られたような気分になって、若干しょんぼりしつつ、取れた帽子をかぶりなおした。
さとりの部屋は無機質で、面白そうなものは少ない。あと漁れそうな場所は本棚にある大量の本と、机の中くらい。
こいしは倒れたイスをそのままに、意気揚々と引き出しを引いてはがちゃがちゃと無遠慮に中をかき回し始める。変わっていることと言えば、なにやら文房具が多いことと、原稿用紙が入っていること。
そういえばたまに本を書いたりしてるって言ってたっけ、と、こいしの視線が本棚に向く。
こいしは本来、読書のようにじっとしていることはあまり得意ではないので、本にはそこまで興味はない。姉が書いた本を読んだこともなかった。それでも、こうして本当に姉がなにかを書いていることを一人で認識してしまうと、こいしのいたずら心が読んでみたいと囁いてくる。
「我はホワイトスノウミストレスなり! 白銀の雪に吹かれて消えろー! とか書いてるのかなー」
本棚に足を向けて、一冊一冊取り出してはぱらぱらとめくる。これじゃない、これじゃない。作者の名前の部分を見ては本を後ろに放り投げる。
そうやってようやく見つけたさとりの本は、なにやら恋愛ものの小説のようだった。これまた軽くぱらぱらとめくってみると、なんとも純真な一人の少女が淡い恋をする、べたな恋物語が展開されていた。
「え、えっ、えっ?」
あの引きこもりの姉が実は乙女趣向の少女趣味だったという衝撃の事実にちょっと動揺を隠せなかったが、ぷるぷると震える手をどうにか制御して、その本を元の場所に戻す。
だ、誰にでも知られたくないことの一つや二つはあるものだから……。
どきどきと高鳴る胸の前に手を置いて、はぁー、と大きく息をつく。また息を吸っては同じことを繰り返し続けていけば、どうにか心の平穏が戻ってきてくれた。
「ふぅー……さてっと、もう面白そうなものはないかなぁ」
最後にひとしきり部屋の中を見渡してみる。散らかった本、ぐちゃぐちゃになった毛布と、どの引き出しも開いたままのタンスと机、倒れたイス。なぜか胸の内は達成感で満ち溢れている。
ふんふんと鼻歌を歌いながら、さとりの部屋をあとにしようとする。けれどその時、ふいとさとりの机の上に飾ってある四角いものに目が留まって、足も止まった。
それは一枚の写真のようだった。写真立てに飾られた、セピア色の、いかにも昔の写真機で撮ったというような、古ぼけた写真。端の方がぼろぼろになっていて、だいぶ色あせているけれど、とても大事にされている。
今いる位置からではよく見えなかったから、どんな写真なんだろう、と足を傾けて、その写真立てを手に取ってみた。そうしてこいしの視線の焦点がその写真に映る絵を捉えたところで、ぴたりと、こいしの動きが静止する。
「……これ、昔、お姉ちゃんと撮った写真だわ」
昔。まだこいしが、第三の瞳を開いていた頃の写真。打ち捨てられていた写真機をこいしが拾って、姉にねだって河童を通して直してもらって、二人で撮ってみた初めての写真。
あの時はまだ人の心が見えていた。でも、あの時のこいしはもうすでに誰かの心を読むことが嫌になっていて、まだ見えていても、まともに見ようとはしていなかった。
だからずっと忘れてしまっていた。嫌な記憶だからと、捨ててしまっていた。けれど、ふと思い出す。
あの時の姉がどんな気持ちでいたのか。見ようとはしていなかったけれど、見えていたから。その見えていた感覚を、ふいに思い出す。
薄情な妹だなぁ、なんて他人事のように思った。それから、心を読めなくしてしまったことを少しだけ後悔する。
でも、どんなにあの頃のことを思い返したところで、後悔なんてしたところで、結局のところ、最後にはこいしは瞳を閉じてしまっていただろう。だからたぶん、こいしの覚える後悔の感情に意味なんてない。
だけど、一つだけ気になることがある。心が見えていた頃の姉の気持ち。妹を大切にしてくれる、今もまだ、こいしが忘れてしまっていた昔の写真を取っておいてくれている姉の心の中。
どうしても知りたくなって、こいしはその写真立てを無意識に掴み取っていた。
ふらふらと、姉の部屋に踵を返す。姉がいない姉の世界に、別れを告げる。
こいしの姉、古明地さとりはテラスで一人紅茶を嗜んでいるようだった。
ひたすら館の中をさまよい続けて、ようやっと見つけた姉の存在に、とてとてとまっすぐ近寄っていく。
「おねーちゃんっ」
「んー……? あれ、こいし? 珍しいわねぇ、こんな真っ昼間から家にいるなんて」
「地底には昼も夜もないじゃん」
「そうだけど、あんたは夜に帰ってくることが多いからね。一応時間だけは記憶してるのよ」
とんとん、と人差し指で自分の頭をつつくさとり。
こいしとさとりの住まう館は地底にあって、こいしは普段、地上をうろついている。帰ってきても、すぐにまたふらふらと出かけてしまうことがほとんどだ。姉にただいまと帰還を知らせることは珍しい。
それなのにこいしの行動に合わせてくれる姉の心理が気になって、だけど今のこいしには心を読むことはできない。
代わりにこいしは、姉の部屋から取ってきた写真立てと、その中に入っている写真をさとりに向けてかざした。さとりは目をぱちぱちと瞬かせた後、「あっ」となにかに気づいたようにこいしを恨めしげに睨みつけた。
「その写真……あんた、私の部屋勝手に入ったわね。ダメでしょ、私にちゃんと許可取ってからにしなきゃ」
「お姉ちゃんだって私の部屋に勝手に入ってるじゃん。それよりこれ見てよー。昔の写真だよ? ほら、私がお姉ちゃんに写真撮ってみたいーっておねだりした時の」
「あー……あんたそんな昔のことよく覚えてるわね。いつもはすぐ忘れちゃうくせに。珍しいこともあったものね」
ずずず、とさとりが紅茶を口元に運ぶ。それからふと顔を上げ、「飲む?」とこいしにそれを差し出してきた。
こいしは遠慮なくそれを受け取って、ごくごくとがぶ飲みした。飲みきった。うっぷ、と息が漏れる。
さとりはそんなこいしに、あきれたように肩をすくめた。
「で、その写真がどうかしたの? 別にそんなもの、あんたにとっては面白くもなんともないでしょ。それ、あんたが心を読めてた頃のやつだし。あんたは今の生活の方が気に入ってるんでしょ?」
「まぁね。ねえねえ、お姉ちゃんはなんでこんなの大事そうに飾ってたの? あの頃の私がいろんなこと嫌になってたのだって、私とおんなじように心を読めてたお姉ちゃんならわかってたんでしょ? なんで?」
こてん、と首を傾げる。昔の話を掘り返すこいしに、さとりはまたしても珍しいものを見た、というような表情を浮かべながら、こいしが持つ写真に目を向ける。
そして少し懐かしむような顔をしながら、彼女は微笑んだ。
「あんたにとっては嫌なことだったかもしれないけど、私にとってはそうじゃなかったから。あんたはいろんなことが嫌だって思ってたかもしれないけど……こんなものでも、私にとってはあんたとの唯一形のある思い出だから。なんてね」
ほんの少し頬を朱に染めて語るさとりを、こいしは目をぱちぱちとさせて見つめた。
そんなこいしの反応に、さとりは途端に恥ずかしくなかったかのように咳払いをした。
「な、なんでそういう反応するのよ。いつもみたいに適当に流しなさいってば。ほら、もういいでしょ? ちゃんと答えたんだから、その写真立て、元の場所に戻してきて」
「ねーお姉ちゃん」
「無視……」
さらにとてとてと姉のそばに歩み寄る。そうっと、こいしと違って今もまだ開いている、まあるい第三の目を覗き見る。
「お姉ちゃんはさ、昔の私と今の私、どっちが好き?」
「はあ?」
なんでか少しだけ、不安な気持ちになりながら。どくんどくんと脈打つ心臓の前で手を握りながら、姉に質問を投げかける。
――私は、どっちが好きって言ってほしいんだろう。
さとりの第三の目がこいしに向く。第三の目と一緒に心を閉じたこいしの内心なんて見えやしないのに、こいしの不安や苦痛を理解したいとでも言いたげに、一生懸命そらすことなくじっとこいしを見つめてくる。
こいしは第三の目を閉じた。だけど今もまだこの胸の前には閉じた三つ目の瞳が浮いている。
これは、さとりとこいしの姉妹の証だ。どんなに忌まわしくても、どんなにこの能力が嫌いでも、この目はさとりとこいしの血が繋がっていることを、二人が姉妹であることを証明する。し続けてくれる。
さとりはあいかわらず変なものを見るような目をしたままだったが、はぁ、と小さくため息をはくと、そっとこいしに手を伸ばしてきた。
びくっ、と震えかけたこいしの頭を、さとりは優しく、温かく撫でる。
「あんたはあんたでしょ。どっちが好きもなにもない。瞳が閉じてても開いてても、あんたが手のかかる妹だってことに変わりはないんだから」
しかたがなさそうな、だけど、幸せそうな微笑み。
ぽかぽかと、胸の内が温かかった。
「そっかぁ」
――丸いものは、優しいから好きだ。温かいから好きだ。
さとりの妹を見る目は、饅頭や大福のように甘くて優しくて柔らかくて。
四角いものも好きだ。ちょっと怖いけど、記憶なんて曖昧なものを確かな形で残してくれる。今こいしが握っている写真のように、大切な思い出をいつまでも取っておいてくれる。
こいしは気がついた時には、がばぁっ、とさとりに抱きついてしまっていた。
「こ、こいしっ?」
「むふふー、お姉ちゃんってやっぱりいいにおいがするなぁ。私ね、このにおい昔からずっと大好きだったんだ」
「……それはまぁ、知ってるけど……前はあんたの心読めてたし。今もまだ、好きなの?」
「今も昔もないよ。お姉ちゃんはお姉ちゃんだもん」
「……そっか。なんでかしら。あんまり悪い気分じゃ、ないわね」
そっと、さとりはこいしの頭を再び撫でる。なんだか、心を読み合うことができていた昔に戻れたような気分だった。
ちなみにこの後、一緒に写真を元の場所に戻しに行ったところ、さとりの部屋を荒らし回ったことが当然のごとくばれてげんこつを落とされたのは秘密である。その際にさとりの書いた本の存在にも触れてしまって、彼女が顔を真っ赤にしてベッドに顔を埋めたのも秘密である。秘密ったら秘密である。
丸いものはどことなくふわふわした感じがする。少なくとも、なにかを傷つけたりはしない。饅頭や大福のように甘くて優しくて柔らかくて。ころころと坂道を転がっていくかのように、気まぐれで。
四角いものはちょっと怖いけれど、それが確かなものなのだと再認識させてくれる。部屋や心のありようのように自分の世界を他人の世界を分かち。日記のように、記憶という曖昧なものを文字として世界に残してくれる。
丸いものを手に持つのは好きだ。四角いものに、そっと触れるのが好きだ。
覚妖怪、心を読む妖怪。それでいて心を読むことに嫌気が差し、第三の目を閉じたという割とハードな過去を持つこいしは一人、姉の自室にこっそり忍び込んでいた。
いつもは鍵がかかっているから入れないから、どくんどくんと心臓が高鳴っているのを感じている。
実際のところ、こいしが入りたいと願い出れば家族思いな姉は快く入れてくれるだろう。だけどそういうことじゃなくて、こうしてばれないようこっそり足を踏み入れることが、なにやらちょっとイケないことをしているような気がして、なんだかくせになりそうだった。
いつも奔放に振る舞うこいしにしては珍しく、そろりそろりと一歩ずつ足を踏み出す。
姉の机、イス、タンス、ベッド、ランプ。いろんなものを見るたびに、やりたいことが思い浮かんでくる。
机の中はあさりたいし、イスには座ってみたいし、タンスの中も覗いてみたいし、ベッドには飛び込んでみたいし、ランプは振り回してみたい。だけど勝手にそんなことをすれば怒られるのが目に見えているので、これまたこいしにしては珍しく、なんとか自分の行動を自重させた。
あいかわらず抜き足差し足忍び足のまま、ふらりふらりとさとりの部屋を見て回る。無機質な部屋だと思った。飾りげのない、言ってしまえば女の子らしくない。そういうこいしも自分の部屋には外で拾ったお気に入りのものを詰め込んだだけの散らかった部屋だったりするので、あまり女の子らしいとも言えないのだけど。
思えば、こいしの部屋は時折不自然に片づいていることが多々あったような気がする。まるでこの姉の部屋のように。
それはつまり彼女もこいしの部屋に、今のこいしのように許可なく足を踏み入れたりしていたということの証明である。
「だったら私も、ちょっとくらいお姉ちゃんの部屋をいじってみてもいいよね」
こっそりと誰かの部屋に、他人の世界に入ろうとする。その世界の仕組みをひっそり明かそうとする。心を読む瞳を閉じても、やっぱりこいしは覚妖怪ということなのかもしれない。
まずは近くにあったランプを手に取ってみた。光をつけて、消して、またつけて、部屋の隅に行ったり来たりしては、とにかく薄暗い場所を照らしてみて。
その明かりでベッドの下も覗いてみた。残念ながら、こいしが期待していたような禁断の書物などは眠っていなかったが。
早々にランプで辺りを照らすことに飽きたこいしは、それをその辺にぽいっと放り投げると、次にベッドに飛び込んだ。
もふもふもふもふ。もっふぁー。
毛布がやわらかい。くんくんと鼻を鳴らせば、姉のにおいもする。温かく、甘いにおい。このまま眠ってしまいそうなくらい、温かくて優しくて、ちょっとだけ寂しそうなにおい。
いつものこいしならここですやぁと眠りこけてしまっていただろうが、まだまだ他にもいじってみたいものがたくさんある。胸のうちにくすぶる熱がこいしが眠ることを許さない。
「ぷはぁー」
存分に姉のベッドを堪能したこいしは満足そうにベッドから起き上がると、次にタンスへと向かった。
遠慮なく取っ手を引いて、中を覗き込む。
こいしの期待に反して、あまりおもしろいものはなさそうだった。こいしの部屋にあるそれとちょっとデザインが違うものの、下着や上着、靴下など、衣類ばかり収められている。姉の服を着て姉のふりをしてみるのも面白そうだとも思ったが、部屋に勝手に入った以上に「こらっ!」と怒られるのが目に見えているので、すんでのところでどうにか思いとどまった。
タンスを開きっぱなしにして次にこいしが向かったのは、姉の机だ。
イスにぽすんと腰を下ろし、がたんがたんと左右に揺れる。床が傷つくでしょ、なんて叱ってきそうな姉は今ここにはいない。たがが外れてがったんがったんとさらに大きく揺れていると、ふいに視界が斜めになった。
ごつんっ、と床に頭をぶつ。揺らしすぎてイスが倒れてしまったようだ。
「痛い……」
姉の代わりに姉の部屋に怒られたような気分になって、若干しょんぼりしつつ、取れた帽子をかぶりなおした。
さとりの部屋は無機質で、面白そうなものは少ない。あと漁れそうな場所は本棚にある大量の本と、机の中くらい。
こいしは倒れたイスをそのままに、意気揚々と引き出しを引いてはがちゃがちゃと無遠慮に中をかき回し始める。変わっていることと言えば、なにやら文房具が多いことと、原稿用紙が入っていること。
そういえばたまに本を書いたりしてるって言ってたっけ、と、こいしの視線が本棚に向く。
こいしは本来、読書のようにじっとしていることはあまり得意ではないので、本にはそこまで興味はない。姉が書いた本を読んだこともなかった。それでも、こうして本当に姉がなにかを書いていることを一人で認識してしまうと、こいしのいたずら心が読んでみたいと囁いてくる。
「我はホワイトスノウミストレスなり! 白銀の雪に吹かれて消えろー! とか書いてるのかなー」
本棚に足を向けて、一冊一冊取り出してはぱらぱらとめくる。これじゃない、これじゃない。作者の名前の部分を見ては本を後ろに放り投げる。
そうやってようやく見つけたさとりの本は、なにやら恋愛ものの小説のようだった。これまた軽くぱらぱらとめくってみると、なんとも純真な一人の少女が淡い恋をする、べたな恋物語が展開されていた。
「え、えっ、えっ?」
あの引きこもりの姉が実は乙女趣向の少女趣味だったという衝撃の事実にちょっと動揺を隠せなかったが、ぷるぷると震える手をどうにか制御して、その本を元の場所に戻す。
だ、誰にでも知られたくないことの一つや二つはあるものだから……。
どきどきと高鳴る胸の前に手を置いて、はぁー、と大きく息をつく。また息を吸っては同じことを繰り返し続けていけば、どうにか心の平穏が戻ってきてくれた。
「ふぅー……さてっと、もう面白そうなものはないかなぁ」
最後にひとしきり部屋の中を見渡してみる。散らかった本、ぐちゃぐちゃになった毛布と、どの引き出しも開いたままのタンスと机、倒れたイス。なぜか胸の内は達成感で満ち溢れている。
ふんふんと鼻歌を歌いながら、さとりの部屋をあとにしようとする。けれどその時、ふいとさとりの机の上に飾ってある四角いものに目が留まって、足も止まった。
それは一枚の写真のようだった。写真立てに飾られた、セピア色の、いかにも昔の写真機で撮ったというような、古ぼけた写真。端の方がぼろぼろになっていて、だいぶ色あせているけれど、とても大事にされている。
今いる位置からではよく見えなかったから、どんな写真なんだろう、と足を傾けて、その写真立てを手に取ってみた。そうしてこいしの視線の焦点がその写真に映る絵を捉えたところで、ぴたりと、こいしの動きが静止する。
「……これ、昔、お姉ちゃんと撮った写真だわ」
昔。まだこいしが、第三の瞳を開いていた頃の写真。打ち捨てられていた写真機をこいしが拾って、姉にねだって河童を通して直してもらって、二人で撮ってみた初めての写真。
あの時はまだ人の心が見えていた。でも、あの時のこいしはもうすでに誰かの心を読むことが嫌になっていて、まだ見えていても、まともに見ようとはしていなかった。
だからずっと忘れてしまっていた。嫌な記憶だからと、捨ててしまっていた。けれど、ふと思い出す。
あの時の姉がどんな気持ちでいたのか。見ようとはしていなかったけれど、見えていたから。その見えていた感覚を、ふいに思い出す。
薄情な妹だなぁ、なんて他人事のように思った。それから、心を読めなくしてしまったことを少しだけ後悔する。
でも、どんなにあの頃のことを思い返したところで、後悔なんてしたところで、結局のところ、最後にはこいしは瞳を閉じてしまっていただろう。だからたぶん、こいしの覚える後悔の感情に意味なんてない。
だけど、一つだけ気になることがある。心が見えていた頃の姉の気持ち。妹を大切にしてくれる、今もまだ、こいしが忘れてしまっていた昔の写真を取っておいてくれている姉の心の中。
どうしても知りたくなって、こいしはその写真立てを無意識に掴み取っていた。
ふらふらと、姉の部屋に踵を返す。姉がいない姉の世界に、別れを告げる。
こいしの姉、古明地さとりはテラスで一人紅茶を嗜んでいるようだった。
ひたすら館の中をさまよい続けて、ようやっと見つけた姉の存在に、とてとてとまっすぐ近寄っていく。
「おねーちゃんっ」
「んー……? あれ、こいし? 珍しいわねぇ、こんな真っ昼間から家にいるなんて」
「地底には昼も夜もないじゃん」
「そうだけど、あんたは夜に帰ってくることが多いからね。一応時間だけは記憶してるのよ」
とんとん、と人差し指で自分の頭をつつくさとり。
こいしとさとりの住まう館は地底にあって、こいしは普段、地上をうろついている。帰ってきても、すぐにまたふらふらと出かけてしまうことがほとんどだ。姉にただいまと帰還を知らせることは珍しい。
それなのにこいしの行動に合わせてくれる姉の心理が気になって、だけど今のこいしには心を読むことはできない。
代わりにこいしは、姉の部屋から取ってきた写真立てと、その中に入っている写真をさとりに向けてかざした。さとりは目をぱちぱちと瞬かせた後、「あっ」となにかに気づいたようにこいしを恨めしげに睨みつけた。
「その写真……あんた、私の部屋勝手に入ったわね。ダメでしょ、私にちゃんと許可取ってからにしなきゃ」
「お姉ちゃんだって私の部屋に勝手に入ってるじゃん。それよりこれ見てよー。昔の写真だよ? ほら、私がお姉ちゃんに写真撮ってみたいーっておねだりした時の」
「あー……あんたそんな昔のことよく覚えてるわね。いつもはすぐ忘れちゃうくせに。珍しいこともあったものね」
ずずず、とさとりが紅茶を口元に運ぶ。それからふと顔を上げ、「飲む?」とこいしにそれを差し出してきた。
こいしは遠慮なくそれを受け取って、ごくごくとがぶ飲みした。飲みきった。うっぷ、と息が漏れる。
さとりはそんなこいしに、あきれたように肩をすくめた。
「で、その写真がどうかしたの? 別にそんなもの、あんたにとっては面白くもなんともないでしょ。それ、あんたが心を読めてた頃のやつだし。あんたは今の生活の方が気に入ってるんでしょ?」
「まぁね。ねえねえ、お姉ちゃんはなんでこんなの大事そうに飾ってたの? あの頃の私がいろんなこと嫌になってたのだって、私とおんなじように心を読めてたお姉ちゃんならわかってたんでしょ? なんで?」
こてん、と首を傾げる。昔の話を掘り返すこいしに、さとりはまたしても珍しいものを見た、というような表情を浮かべながら、こいしが持つ写真に目を向ける。
そして少し懐かしむような顔をしながら、彼女は微笑んだ。
「あんたにとっては嫌なことだったかもしれないけど、私にとってはそうじゃなかったから。あんたはいろんなことが嫌だって思ってたかもしれないけど……こんなものでも、私にとってはあんたとの唯一形のある思い出だから。なんてね」
ほんの少し頬を朱に染めて語るさとりを、こいしは目をぱちぱちとさせて見つめた。
そんなこいしの反応に、さとりは途端に恥ずかしくなかったかのように咳払いをした。
「な、なんでそういう反応するのよ。いつもみたいに適当に流しなさいってば。ほら、もういいでしょ? ちゃんと答えたんだから、その写真立て、元の場所に戻してきて」
「ねーお姉ちゃん」
「無視……」
さらにとてとてと姉のそばに歩み寄る。そうっと、こいしと違って今もまだ開いている、まあるい第三の目を覗き見る。
「お姉ちゃんはさ、昔の私と今の私、どっちが好き?」
「はあ?」
なんでか少しだけ、不安な気持ちになりながら。どくんどくんと脈打つ心臓の前で手を握りながら、姉に質問を投げかける。
――私は、どっちが好きって言ってほしいんだろう。
さとりの第三の目がこいしに向く。第三の目と一緒に心を閉じたこいしの内心なんて見えやしないのに、こいしの不安や苦痛を理解したいとでも言いたげに、一生懸命そらすことなくじっとこいしを見つめてくる。
こいしは第三の目を閉じた。だけど今もまだこの胸の前には閉じた三つ目の瞳が浮いている。
これは、さとりとこいしの姉妹の証だ。どんなに忌まわしくても、どんなにこの能力が嫌いでも、この目はさとりとこいしの血が繋がっていることを、二人が姉妹であることを証明する。し続けてくれる。
さとりはあいかわらず変なものを見るような目をしたままだったが、はぁ、と小さくため息をはくと、そっとこいしに手を伸ばしてきた。
びくっ、と震えかけたこいしの頭を、さとりは優しく、温かく撫でる。
「あんたはあんたでしょ。どっちが好きもなにもない。瞳が閉じてても開いてても、あんたが手のかかる妹だってことに変わりはないんだから」
しかたがなさそうな、だけど、幸せそうな微笑み。
ぽかぽかと、胸の内が温かかった。
「そっかぁ」
――丸いものは、優しいから好きだ。温かいから好きだ。
さとりの妹を見る目は、饅頭や大福のように甘くて優しくて柔らかくて。
四角いものも好きだ。ちょっと怖いけど、記憶なんて曖昧なものを確かな形で残してくれる。今こいしが握っている写真のように、大切な思い出をいつまでも取っておいてくれる。
こいしは気がついた時には、がばぁっ、とさとりに抱きついてしまっていた。
「こ、こいしっ?」
「むふふー、お姉ちゃんってやっぱりいいにおいがするなぁ。私ね、このにおい昔からずっと大好きだったんだ」
「……それはまぁ、知ってるけど……前はあんたの心読めてたし。今もまだ、好きなの?」
「今も昔もないよ。お姉ちゃんはお姉ちゃんだもん」
「……そっか。なんでかしら。あんまり悪い気分じゃ、ないわね」
そっと、さとりはこいしの頭を再び撫でる。なんだか、心を読み合うことができていた昔に戻れたような気分だった。
ちなみにこの後、一緒に写真を元の場所に戻しに行ったところ、さとりの部屋を荒らし回ったことが当然のごとくばれてげんこつを落とされたのは秘密である。その際にさとりの書いた本の存在にも触れてしまって、彼女が顔を真っ赤にしてベッドに顔を埋めたのも秘密である。秘密ったら秘密である。
非常にらしいこいしちゃんで魅力的です
わがままで構ってちゃんなこの子はすごく妹だなあ
ちょっとつっけんどんなさとり様も可愛かったです。
並んでピースなのか、頰を寄せ合って自撮りなのか、写真の中身が気になりました
こいしのふらふらとした取り留めのない奇行に例えようのない愛嬌を感じました
お姉ちゃんらしく振舞ってたさとりがベットに顔を突っ込む所も可愛らしかったです
こいしは本当にお姉ちゃん大好きなんだなということが伝わってきました