月が怖い。
そんな事を言ったら、多分笑われてしまうだろう。狼のくせに、妖怪のくせに、と。
まだほんの小さな頃、初めて満月を見た時には、なんて綺麗なんだろうと思った。
夜空にまん丸く輝くお月さまは、まるで王様みたいだった。大小様々に輝く星、優しく広がって空を覆う雲、その全てが満月の引き立て役みたいに見えたのだ。
けれど、そんな風に有難がっていられたのは最初だけ。
月の光は妖の気が強く、良くないものを呼び寄せる性質が強いのだと、群れの仲間は教えてくれた。
夜に移動しなければならない時、遠吠えで仲間の居場所を確かめながら行くのだけれど、合流した時に何匹か居なくなっている事は往々にしてあった。
きっと月に食べられてしまったんだ、と、当時の私は固く信じた。
満月の夜はいつも誰かに引っ付いて移動する私を、みんなは呆れたように眺めていたものだ。
怖くなくなったのは、いつからだっただろう。
一匹で歩けるようになったのは。
明るいうちの方が、よっぽど怖いのだと知ってからだろうか。
夜の暗闇を歩くより、人に追われることの方が、ずっと危険だと知ってからだろうか。
――アオォォーーー……ン……――
遠く、遠く、吠える。
かつて、仲間たちに自分の居場所を知らせた時のように。
多分誰にも届かないし、届いてしまっては困る。
こんな夜に妖怪の鳴き声を聞き届けるのは、凶暴な巫女や魔法使い、メイドくらいのものだろうから。
満月の夜は、誰とも会わないようにしている。
気分が高揚して暴れる事があるから、と、みんなには説明している。
わかさぎ姫が変な勘ぐりをして様子を見に来た事があったが、寝ぼけたフリをして尾ビレに歯型をつけてやってからは、それもなくなった。
一週間ほど痕が取れなかったのは、少しやり過ぎだったと反省したけど。
まっすぐ、月を見つめる。
月の光は狂いの光。長く見つめれば精神に狂いを生ずる事もある。
けれど、私にとっては見慣れた月だ。
誰かの側にくっついておっかなびっくり歩いた夜も。
遠吠えを響かせて仲間とともに進んだ夜も。
誰とも顔を合わせず、一人佇む夜も。
いつだって変わらない。
月はいつもそこにある。
変わってしまうのは、私だけだ。
届かない遠吠え。
音のない夜。
光だけが、どこまでも強い。
小さく、吠える。
人の姿から、四足の獣の姿へと変ずる。
丘を駆けると、強い光が色濃い影を地面に映し出す。
風になびく毛を、小さくとも鋭く尖る牙を。
影がしなやかに跳ねる。闇が大地を切り裂くように。
影狼と、その姿を誰かが呼んだのだ。
誰か……誰だっけ? 確か、人間の男だったと思う。どこの誰かは知らない。妖怪のはびこる夜を一人で行くような迂闊な人間だし、多分もう生きてはいないだろう。そもそもはるか昔の話だ。
だけど、その呼び名は気に入った。月に照らされる私に向けられた、その呼び名を。
その日から、私は影狼になった。
群れの仲間に引っ付いて歩く臆病者でもなく、吠えて仲間を率いる首領でもない。
ただの影。
強い光に照らされて、孤独に走って、それでようやく狼となれる。
月を見るたびに思い出す。
私が狼である事を。
遠くに灯りの集まりを見つける。
あれは人里だ。妖怪たちから身を守るために、里のあちこちで明かりを絶やさぬようにしている。
里から遠く離れ、道と呼ぶには頼りない道の先には、竹林が広がっている。
その奥には人々が頼りにする医者がいる。
たまにたけのこをご馳走になる案内人が、竹林の側でひっそり暮らしている。
竹林の反対に目を向ければ、森が広がっている。
不気味な森だけれど、その向こうには豪奢な洋館が建ち、その手前の湖には私の友達もいる。
森の中には、時々きのこ狩りを手伝わされる魔法使いも住んでいる。
そのどれをも、夜が優しく包み、月が刺すように照らす。
本当は、今も夜は怖い。
夜は眠らなくてはいけないから。
忘れたいとも、忘れたくないとも思っている。
朝、目を覚ました時、大切な誰かが隣にいなかった時のことを。
火薬の弾ける音に、眠りを覚まされた時のことを。
眠らなくては生きていけないのに、眠るのは怖くて、目を覚ますのはもっと怖い。
今はもう、そんなことは起こらない。
鉄砲を持った男たちに追われることはない。
大切な仲間たちを抱きしめて眠ることも、ない。
……いや、酔った蛮奇に抱きすくめられたまま眠ったこともあったっけか。
身体は私の腰を抱きしめているのに、頭だけが横にあってえらく心臓に悪い絵面だった。
そういえば、私の方が酔ってわかさぎ姫に抱きついて眠ったこともあった。
起きた時に髪や服がだいぶ湿っていて、文句を言ったら殴られた。
彼女たちとは、普段から寝食を共にしているわけじゃない。
それでも、そんなことを繰り返す内に、怖いって思いも、忘れてしまうのかもしれない。
いつの間にか。
ここに来て、どれくらいだろう。
もう、鉄や火薬の匂いに神経を巡らせる事はしなくなった。
妖怪の山や竹林には、寝床も食べ物も探すのに苦労はないし、人に紛れて里に入り込んでもさほど問題は起きない。
美味しいお酒があり、よく遊ぶ友だちがいる。
たまには調子に乗って、怖い巫女やらに成敗されたりもする。
だけど、満月の夜だけ、私はそのどれからも離れていたいと思う。
――アオォォーーーーーー……ン……――
もう一度、遠吠えを響かせる。
誰も聞かない、誰にも聞かせたくない声を。
かつて、この声が絆だった。
守りたかったものも、守れなかったものも、大切だったものも、そうでなかったものも、全部、全部、この声と共にあった。
寂しいとは思わない。友だちがいる。
悲しいとは思わない。生きるのは楽しい。
怖いとは思わない。明日の心配がない日々は気楽だ。
苦しいとは思わない。何も、苦しいとは。
ただ、少しだけ、乾いていると思う。
私は変わっていくし、私の周りもみんなそうだ。
かつてあったものは、今はもうここにはないし、かつてなかった大切なものが、今はここにある。
それもやがて失われるし、その時、新しい何かがまたそこにあるだろう。
月だけが、ただそこにある。
かつても、今も、いつかの未来も変わらずに。
だから、時々思い出したくなる。
今はもういない私を。記憶の中で、思い出だけに残る私を。
あの影の狼を。
――アオォォーーーーーー………………――
長く、遠く、吠える。
久しぶり。会いに来たよ。まだ、そこにいるよね。
どれだけ頑張っても、ほんの一秒前の過去にも届かないけれど。
届いてなくても、聞こえてなくても、そこにいることはわかるから。
いつの間にか、東の空が白みだしていた。
そろそろ帰って一眠りしなければ。
起きたら人里で蛮奇を誘って、霧の湖に行ってみよう。
川魚でも捕まえて、赤い館のメイド長に料理してもらおう。わかさぎ姫は文句を言うかもしれないけれど。
明日を思う私。
かつて、どこかの空の下にいた私。
月だけが見ていた私。
どれも同じ私。
でもやっぱり、満月の光を浴びる私は、きっと違う私だ。
かつてそこにいた狼。
影を残して走っていた貴女。
さようなら。
おやすみなさい。
また、来月。
そんな事を言ったら、多分笑われてしまうだろう。狼のくせに、妖怪のくせに、と。
まだほんの小さな頃、初めて満月を見た時には、なんて綺麗なんだろうと思った。
夜空にまん丸く輝くお月さまは、まるで王様みたいだった。大小様々に輝く星、優しく広がって空を覆う雲、その全てが満月の引き立て役みたいに見えたのだ。
けれど、そんな風に有難がっていられたのは最初だけ。
月の光は妖の気が強く、良くないものを呼び寄せる性質が強いのだと、群れの仲間は教えてくれた。
夜に移動しなければならない時、遠吠えで仲間の居場所を確かめながら行くのだけれど、合流した時に何匹か居なくなっている事は往々にしてあった。
きっと月に食べられてしまったんだ、と、当時の私は固く信じた。
満月の夜はいつも誰かに引っ付いて移動する私を、みんなは呆れたように眺めていたものだ。
怖くなくなったのは、いつからだっただろう。
一匹で歩けるようになったのは。
明るいうちの方が、よっぽど怖いのだと知ってからだろうか。
夜の暗闇を歩くより、人に追われることの方が、ずっと危険だと知ってからだろうか。
――アオォォーーー……ン……――
遠く、遠く、吠える。
かつて、仲間たちに自分の居場所を知らせた時のように。
多分誰にも届かないし、届いてしまっては困る。
こんな夜に妖怪の鳴き声を聞き届けるのは、凶暴な巫女や魔法使い、メイドくらいのものだろうから。
満月の夜は、誰とも会わないようにしている。
気分が高揚して暴れる事があるから、と、みんなには説明している。
わかさぎ姫が変な勘ぐりをして様子を見に来た事があったが、寝ぼけたフリをして尾ビレに歯型をつけてやってからは、それもなくなった。
一週間ほど痕が取れなかったのは、少しやり過ぎだったと反省したけど。
まっすぐ、月を見つめる。
月の光は狂いの光。長く見つめれば精神に狂いを生ずる事もある。
けれど、私にとっては見慣れた月だ。
誰かの側にくっついておっかなびっくり歩いた夜も。
遠吠えを響かせて仲間とともに進んだ夜も。
誰とも顔を合わせず、一人佇む夜も。
いつだって変わらない。
月はいつもそこにある。
変わってしまうのは、私だけだ。
届かない遠吠え。
音のない夜。
光だけが、どこまでも強い。
小さく、吠える。
人の姿から、四足の獣の姿へと変ずる。
丘を駆けると、強い光が色濃い影を地面に映し出す。
風になびく毛を、小さくとも鋭く尖る牙を。
影がしなやかに跳ねる。闇が大地を切り裂くように。
影狼と、その姿を誰かが呼んだのだ。
誰か……誰だっけ? 確か、人間の男だったと思う。どこの誰かは知らない。妖怪のはびこる夜を一人で行くような迂闊な人間だし、多分もう生きてはいないだろう。そもそもはるか昔の話だ。
だけど、その呼び名は気に入った。月に照らされる私に向けられた、その呼び名を。
その日から、私は影狼になった。
群れの仲間に引っ付いて歩く臆病者でもなく、吠えて仲間を率いる首領でもない。
ただの影。
強い光に照らされて、孤独に走って、それでようやく狼となれる。
月を見るたびに思い出す。
私が狼である事を。
遠くに灯りの集まりを見つける。
あれは人里だ。妖怪たちから身を守るために、里のあちこちで明かりを絶やさぬようにしている。
里から遠く離れ、道と呼ぶには頼りない道の先には、竹林が広がっている。
その奥には人々が頼りにする医者がいる。
たまにたけのこをご馳走になる案内人が、竹林の側でひっそり暮らしている。
竹林の反対に目を向ければ、森が広がっている。
不気味な森だけれど、その向こうには豪奢な洋館が建ち、その手前の湖には私の友達もいる。
森の中には、時々きのこ狩りを手伝わされる魔法使いも住んでいる。
そのどれをも、夜が優しく包み、月が刺すように照らす。
本当は、今も夜は怖い。
夜は眠らなくてはいけないから。
忘れたいとも、忘れたくないとも思っている。
朝、目を覚ました時、大切な誰かが隣にいなかった時のことを。
火薬の弾ける音に、眠りを覚まされた時のことを。
眠らなくては生きていけないのに、眠るのは怖くて、目を覚ますのはもっと怖い。
今はもう、そんなことは起こらない。
鉄砲を持った男たちに追われることはない。
大切な仲間たちを抱きしめて眠ることも、ない。
……いや、酔った蛮奇に抱きすくめられたまま眠ったこともあったっけか。
身体は私の腰を抱きしめているのに、頭だけが横にあってえらく心臓に悪い絵面だった。
そういえば、私の方が酔ってわかさぎ姫に抱きついて眠ったこともあった。
起きた時に髪や服がだいぶ湿っていて、文句を言ったら殴られた。
彼女たちとは、普段から寝食を共にしているわけじゃない。
それでも、そんなことを繰り返す内に、怖いって思いも、忘れてしまうのかもしれない。
いつの間にか。
ここに来て、どれくらいだろう。
もう、鉄や火薬の匂いに神経を巡らせる事はしなくなった。
妖怪の山や竹林には、寝床も食べ物も探すのに苦労はないし、人に紛れて里に入り込んでもさほど問題は起きない。
美味しいお酒があり、よく遊ぶ友だちがいる。
たまには調子に乗って、怖い巫女やらに成敗されたりもする。
だけど、満月の夜だけ、私はそのどれからも離れていたいと思う。
――アオォォーーーーーー……ン……――
もう一度、遠吠えを響かせる。
誰も聞かない、誰にも聞かせたくない声を。
かつて、この声が絆だった。
守りたかったものも、守れなかったものも、大切だったものも、そうでなかったものも、全部、全部、この声と共にあった。
寂しいとは思わない。友だちがいる。
悲しいとは思わない。生きるのは楽しい。
怖いとは思わない。明日の心配がない日々は気楽だ。
苦しいとは思わない。何も、苦しいとは。
ただ、少しだけ、乾いていると思う。
私は変わっていくし、私の周りもみんなそうだ。
かつてあったものは、今はもうここにはないし、かつてなかった大切なものが、今はここにある。
それもやがて失われるし、その時、新しい何かがまたそこにあるだろう。
月だけが、ただそこにある。
かつても、今も、いつかの未来も変わらずに。
だから、時々思い出したくなる。
今はもういない私を。記憶の中で、思い出だけに残る私を。
あの影の狼を。
――アオォォーーーーーー………………――
長く、遠く、吠える。
久しぶり。会いに来たよ。まだ、そこにいるよね。
どれだけ頑張っても、ほんの一秒前の過去にも届かないけれど。
届いてなくても、聞こえてなくても、そこにいることはわかるから。
いつの間にか、東の空が白みだしていた。
そろそろ帰って一眠りしなければ。
起きたら人里で蛮奇を誘って、霧の湖に行ってみよう。
川魚でも捕まえて、赤い館のメイド長に料理してもらおう。わかさぎ姫は文句を言うかもしれないけれど。
明日を思う私。
かつて、どこかの空の下にいた私。
月だけが見ていた私。
どれも同じ私。
でもやっぱり、満月の光を浴びる私は、きっと違う私だ。
かつてそこにいた狼。
影を残して走っていた貴女。
さようなら。
おやすみなさい。
また、来月。
人に歴史ありってやつでしょうか、影狼だけでなく誰しもに過去はあるのだろうと思いました