痛い。痛い。今もまだ、ひどく目が痛む。
真っ暗だった。何も見えなかった。
上も、下も、右も、左も、前も、後ろも、無い。
ただただどこまでも何重にも塗り潰された真っ黒だった。
両手で目を押さえ、唸った。
痛い。痛い。目玉を貫かれ、抉られたみたいだ。
助けて。助けて。私は叫んだ。
彼女の名前を叫んだ。
「蓮子! 蓮子!」
ひた、と私の手に何かが触れた。
温かくて、柔らかくて、ところどころが硬かった。
形を確かめるように指で撫でると、ふっくらとしていた。
それでいてシワがあって、途中で五本に細く分かれていた。
そしてそれぞれ先端に硬いものが張り付いていた。
これは手だ、と理解した。
誰かが私の手を優しく握っていた。
私はその手をぎゅっと強く握り返した。
どこまでも続く暗闇の中で、その手だけがはっきりとした形で浮かび上がっていた。
「メリー」
悲しそうに呟く声がした。
「蓮子?」
「そうだよ。蓮子だよ。大丈夫、私はずっとここにいるから」
「ああ、蓮子。怖いの。私、真っ暗で、何も見えないのよ。ねえ、明かりはどこ? どうして真っ暗なの?」
「メリー……ああ、それは……かわいそうに。こんな、こんな真実を、伝えなきゃいけないなんて……」
「蓮子? ねえ、明かりをつけて? 私、あなたの顔が見たいわ。ひどく不安になるの。なんだかとてもおっかないものを見た気がして。ねえ、蓮子?」
「……電気は、ついているのよ」
「嘘。真っ暗よ」
「カーテンも開いているわ。それに今はお昼なの。陽の光が差し込んで眩しいわ」
「嘘。真っ暗よ。全然嘘よ。蓮子、私を脅かそうって魂胆ね。でも、今は本当に不安なの。ね、蓮子。意地悪しないで。あなたの顔を見せて」
「………………」
蓮子は何も言わずに、私の手を引いた。
私は寝ていたらしく、蓮子に背中を支えられてゆっくりと上半身を起こした。
私はベッドの上にいるらしく、蓮子に促されてベッドの縁から足を床に垂らした。
蓮子に支えられて立ち上がる。
真っ暗で何も見えなくて、とても怖かった。
「こっち。窓のそばよ」
蓮子が言って、私の手を引いた。
指先が硬いものに触れた。
指先でなぞっていくと、そこは窓の縁で、ひんやりとしてつるっとした板は窓ガラスだった。
そして、ああ、真っ暗なはずなのに、なんでだろうか。
とても暖かかった。
まるで強い日差しが照りつけているみたいに。
「……わかった? メリー、今はお昼なの。夜じゃないのよ」
「でも、それじゃあ、なんで。真っ暗なのよ。嘘じゃないの。本当に何も見えないのよ。本当に……」
私はゆっくりと指先を顔に触れて、顔に何かが巻かれているのに気づいた。
布だ。包帯だ。包帯が目を隠すようにぐるぐると頭に巻かれているのだ。
私はそれを外そうとした。
「駄目」
蓮子が私の腕を掴んだ。
私は蓮子の腕を跳ね除けた。
真っ暗なんだ。ずっとずっと真っ暗で、何も見えなくて。
真の闇はこんなにも怖いものなのか。
早く。早く光が、光が見たい。
私は包帯を無理矢理に引っ張り、解いた。
「……っ」
蓮子の息を飲む音がした。
世界は、真っ暗のままだった。
包帯は解いたのに。
なのに、真っ暗のままだった。
「ああ、メリー」
蓮子が半分泣きながら私の名前を呼んだ。
「かわいそうに。メリー、あなたは……あなたの目は、もう……」
私の目?
私の目がどうしたんだろうか。
私はそっと顔を触った。
頬。鼻。口。耳。顎。髪。眉。目。目。……目。
本来であれば、瞼に触れた時のあのころっとした丸い形のものが、そこにはなかった。
ただぺらぺらとした薄い皮がふにゃっとくしゃくしゃになっただけだった。
さらに指を差し入れる。
じっとりと湿った空洞がそこにあった。
本来であれば眼球が収まっていなければならない空間。
そこがぽっかりを口を開けていたのだ。
ああ、そんな、そんな……。
地面がぐにゃりと揺れ、私はバランスを崩した。
蓮子に体を支えられて、ベッドに座る。
私の両目は失われてしまった。
その事実が、ぐしゃりと私の体を押し潰した。
「私は……一体なにがあったの……?」
私は蓮子に尋ねた。
蓮子は苦しそうにしながら、ぽつりぽつりと昨日の出来事を話してくれた。
昨日、私と蓮子は一緒に結界の境目の向こう側へと侵入したのだ。
向こう側は鬱蒼とした森の中だった。
そこで私たちは……そうだ。
怪物に出会ったのだ。
怪物。あれは怪物だった。
私たちは逃げた。必死に森の中を走って逃げた。
そして、元の世界へと戻る直前、奴が……。
気がつくと、私たちは元の世界に戻ってきていた。
死に物狂いで走ったのと、恐怖のせいか、心臓が悲鳴をあげていた。
空を見上げる。時間は一時間も経っていない。
あの怪物はなんだったのだろうか。
人のような形をしていた。
それでも明らかに人ではなかった。
目がいくつもあったのだ。
身体中に、いくつも、いくつも。
全ての目がぱちぱちと瞬きをし、ぎょろりと周囲を見回していた。
そして、それらの目が私たちを捉えるのと同時に、怪物はとんでもないスピードでこちらへ向かって走り出したのだ。
そして、追いつかれそうになった時、私たちはこちらの世界へと戻ってきたのだ。
私は安堵し、大きく息を吐いた。
ふと、メリーの方に目を向ける。
メリーはまるで胎児のように体を丸めて地面にうずくまっていた。
「メリー?」
声をかける。返事はない。
私は四つん這いのままメリーのそばへと這い寄った。
「うう……ううう……」
メリーは苦しそうに呻き声をあげていた。
これはまずいかもしれない。
そう思って私はメリーを仰向けにさせた。
「ひっ……」
私は声にならない悲鳴をあげていた。
眼球を失い、ぽっかりと空いた眼窩。
そこからはまるで涙のように血が溢れ出ていた。
「ああ……痛い……助けて……痛い……」
譫言のように言いながら、メリーは顔を手で覆った。
私は慌てて救急車を呼んだ。
しばらくして救急隊がやってきて、私たちは市内の病院へと運ばれた。
メリーはあまりの痛みに気を失っていた。
その方がいいだろう。
メリーの手術が行われた。
その間、私は警察に事情聴取をされ、私は背後から何かに襲われたと話した。
本当のことを話したところで、警察にはどうしようもないことだった。
メリーが回復したらまた来ると言って、警察はいなくなった。
メリーの手術が終わり、彼女は病室に運ばれた。
命に別状はなかった。
けれどもやはり、眼球は完全に失われていた。
メリーはベッドに寝かされていた。
すうすうと穏やかに寝息を立てていた。
麻酔が効いているのだろう。
目を覆い隠すように包帯が頭に巻かれていた。
医者の話では、人工眼球の移植は可能であるという。
人工眼球の技術はかなり進化しており、見た目も通常の眼球と遜色がない。
むしろ通常の瞳よりも数倍勝る性能を持つという。
そう悲観せずとも大丈夫だと、医者は慰めるように語った。
だが、そうではないのだ。
人工眼球を移植したとして、彼女の能力はどうなる?
彼女は生まれてからずっとあの能力とともに生きてきたのだ。
つまりは彼女の体の一部分と言える。
それを失ってしまったのだ。
人工眼球を移植しても、取り戻せるのは視力だけだ。
人工眼球にこの世ならざる物を視認する能力はない。
彼女はもう普通の少女になってしまったのだ。
……けれども。
果たしてそれは、本当に彼女に取って不幸なのだろうか?
忌々しい能力を取り払って、清々するのではないだろうか?
私は、彼女に捨てられるのではないか?
「う……あ……」
メリーが呻き声をあげた。
苦しそうに身悶えている。
「蓮子! 蓮子!」
今にも泣き出しそうな声で、彼女は私の名前を呼んだ。
そうだ。今はただ、彼女の為だけに。
私はメリーの手を握りしめた。
メリーはまるで絶対に離さないとでも言いたげに、私の手を痛いくらい強く握り返した。
蓮子に全てを聞かされて、私は深くうなだれた。
もう私にかつてのような能力はない。
秘封倶楽部にいる意味も、存在価値もない。
私は恐怖した。
私という存在が蓮子にとって必要のないものになる。
私自身の消失と言っても過言ではない。
私には何も見えなかった。
蓮子がどんな表情をして、私のことをどんな風に思っているのか。
何もわからない。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
私は暗闇の中を手探るように手を差し出した。
すると、それに気づいて蓮子が私の手を取ってくれる。
私はその腕を引き寄せ、蓮子にぎゅっと抱きついた。
「メリー?」
困惑した声を漏らす蓮子。
「お願い。いなくならないで」
「メリー、なに言ってるの? 私はいなくなったりはしないわ」
「今はそうかもしれない。けれど、目が見えない、結界暴きもできない、なんの役にも立たない私を、いつかきっとあなたは疎ましく思うわ」
「そんなことないわ。勝手に決めつけないでちょうだい」
「でも、わからないの。あなたがどう思っているのかも、どんな顔をしているのかも。私にはなにも見えないの。触れていないと永遠に一人ぼっちになってしまったの。怖いよ蓮子。とっても怖いよ」
「大丈夫よ。だーいじょうぶ」
蓮子はあやすような声色でそう言って、私の体をそっとベッドに押し倒した。
私は離れるのが怖くて、抱き枕みたいに蓮子に抱きついたまま寝転がった。
「心配ないわ。私たちはずっと一緒よ。死ぬまで、ずっと、ずっと……」
私は気づかなかった。
彼女の声が少し強張ったことに。
今にして思えば、きっとこの時に彼女は『覚悟』をしたのだろう。
それから数日、眼球の移植手術の日まで私は蓮子とともに過ごした。
彼女の手を取って、病院の中庭を散歩した。
空の色や、すれ違う人たちの様子や、咲き誇る花の美しさを蓮子が語った。
毎日三度の食事を、蓮子が食べさせてくれた。
蓮子がメニューを教えてくれて、私がそれを食べたいと伝えると、蓮子がそれを私の口元へと持ってきてくれた。
蓮子がいれば、闇の中を歩くのも怖くなかった。
まるで、彼女の視界を通じて私の中に世界が広がるようだった。
このまま、ずっとこうしていられたらと思った。
いずれ訪れるであろう蓮子との別れを思えば、暗闇なんて怖くもない。
いつか、蓮子が私に付き合いきれなくなった時。
それが何よりも恐ろしかった。
そして、眼球の移植手術をする日がとうとう明日へと迫った。
その日は雨で、私と蓮子はずっと病室にいた。
「蓮子」
「なあに、メリー」
「手、またぎゅってして」
「ん……」
「あったかい」
「そう」
「……ね、蓮子」
「ん?」
「手術を終えて、視力が戻っても、結界の境目は見えないかもしれない」
「うん」
「それでも、蓮子は私のことーー」
ぴと、と蓮子の指が唇に触れた。
「関係ないよ」
蓮子が言った。
「なにが見えるとか、見えないとか、関係ないよ。メリーはメリーだもの。それだけ。でしょう?」
「……うん」
私は蓮子の手を握って、笑った。
きっと、蓮子も、笑っただろう。
そして、翌日。
手術当日。
蓮子は姿を現さなかった。
手術は滞りなく終わった。
顔には、目を覆うように包帯が巻かれている。
お医者さまがゆっくりと包帯を解く。
「ゆっくり、瞼を開いてください」
お医者さまが言った。
瞼を開くと、あまりの眩しさに思わず顔をしかめた。
真っ白なベッド。
真っ白なカーテン。
真っ白な部屋。
真っ白な服を着たお医者さまと看護師さん。
ベッド脇の窓からは真っ青な空が見えた。
そして、結界の境目も。
「どうですか。問題なさそうですか?」
お医者さまが言った。
私は疑問に思った。
どうして、結界の境目が見えるのだろうか。
移植に使われたのは人工眼球のはずだ。
見えるはずがない。
周囲を見回す。
なにも答えない私に怪訝そうな顔を浮かべるお医者さまと看護師さん。
いない。
蓮子がいない。
嫌な、予感がした。
もし、この世ならざる物を視認できる能力を持つ眼球が移植されたとしたら。
そんな瞳の持ち主を、私はたった一人、知っている。
例えば、私の目を移植してくれとお医者さまに懇願したとしても、そんなものは受け入れてもらえないだろう。
遺伝子の近しい近親者からの移植が必要である場合なら兎も角。
だが、もし遺書に『私の眼球を移植に使ってください』なんて書いて、自殺でもしたなら。
お医者さまがその意志を重んじて移植をする可能性は否定できない。
嘘だ。
まさか。
そんな。
私はベッドから飛び降りた。
お医者さまと看護師さんに捕まるが、振りほどいて廊下へと駆け出した。
蓮子。嫌だ。
結界の境目が見えたって、あなたがいないんじゃ意味がないのだ。
今までずっと気持ちの悪い能力だと思っていた。
それに意味を見出してくれたのが他でもない蓮子じゃないか。
その蓮子がいない世界に意味なんてない。
「嫌だ……蓮子……蓮子!」
私は病室の引き戸を開けた。
「ん? 呼んだかしら?」
そこには、病衣を着て、左目を覆うように包帯が巻かれた蓮子が立っていた。
「……へ?」
「……? どしたの、メリー?」
「あ……え……蓮子、なんで……?」
「なんでって、そりゃあ約束したじゃない。いつまでも一緒だって」
「でも……だって、私、結界の……」
「あ、気づいた?」
蓮子はいたずらっぽく笑った。
そして包帯で覆われた左目を指差した。
「左目、移植してもらったのよ」
「あ……はあ……」
膝の力が抜け、私は床にぺたんと座り込んだ。
蓮子は不思議そうに首を傾げていた。
そして、私と蓮子はまとめて看護師さんにしこたまお説教をされた。
メリーの手術当日、私は担当の医者の元を訪れた。
最初は駄目元で懇願した。
私の眼球をメリーに移植してほしい、と。
何を馬鹿なことを、と医者には一蹴された。
当たり前だ。
私は能力のことを医者に伝えていなかった。
よしんば伝えたところで信じてはもらえまい。
だけど、それでもメリーには私のこの『この世ならざる物を視認する眼球』を移植してもらう必要があった。
それこそが、彼女を不安から救い出す唯一の解決策だからだ。
やはり、駄目か。
私は観念した。
そして、ポケットの中からナイフを取り出した。
ぎょっとする医者。
私は右手にナイフを持つと、左手で左目の瞼をつまんで持ち上げた。
なにをしているのか理解できずに、呆然とした様子の医者。
私はナイフを眼球と眼窩の隙間に差し込んだ。
「あっ」と医者が声をあげた。
ナイフを奥まで差し込む。
眼球自体を傷つけないように、一番奥の視神経をぶちぶちとナイフで切る。
左目の視界が消え失せた。
痛い。死ぬほど痛い。
けれども、両目を失ったメリーに比べればましだ。
歯を喰いしばる。
喉の奥から唸り声が漏れ出す。
ぶちぶち。ぶちぶち。
私は叫んでいた。
まるで獣のように。
ぶちり。
視神経の最後の一片が完全に切断された。
ナイフをゆっくり抜き取る。
ナイフは血や体液に塗れていた。
医者は蒼白とした顔をしている。
私は左目に指を差し入れ、眼球を引っ張り出した。
ころんと眼球が手のひらの上に転がり出る。
切断された視神経がへその緒みたいに伸びていた。
私はそれを医者に差し出した。
「さあ……移植、してください。してくれないなら、今度は右目も、取り出すまでです……」
医者は蒼白とした顔のまま、壊れた自動人形みたく頷いた。
それから、私の左目には人工眼球が移植された。
メリーは右目に人工眼球、左目に私の左目の眼球が移植された。
手術後、目を覚ました私は病室を抜け出してメリーの病室に向かった。
扉の前に立つと、中から扉が開けられた。
そこにはメリーがいた。
メリーは私の姿を見て愕然とした表情を浮かべていた。
それから私の眼球を移植させたことを話すと、へなへなと床に座り込んでしまった。
一体どうしたのだろうか。
私は首を傾げた。
その後、メリーは看護師に説教をされ、なぜか私までもが巻き込まれてしまった。
私と蓮子は、中庭のベンチに並んで腰掛けた。
そして、蓮子から事の顛末を全て聞かされたのだ。
「馬鹿だわ」
「ええー」
「大馬鹿だわ」
「ふーん。馬鹿で結構よ。でも馬鹿なりにどうしたらメリーが幸せになれるのかを一生懸命考えたんだからね」
「それは……ありがとう。でも、今度またそんな無茶な真似しても、私は喜ばないからね」
「了承しましたー」
「まったく、本当にわかっているのかしら」
呟き、私は真っ直ぐに蓮子を見つめた。
蓮子は小さく仰け反り、それから顔を朱に染めた。
照れ臭そうに目を細める。
「なにかな、メリー君」
「……死ぬまで一緒って、こういう意味だったの?」
左目の瞼を指先で撫でながら言う。
蓮子はしばし呆然としていたが、やがてにやりと怪しく笑った。
「どう思う?」
「意地悪だわ」
「好きな子には意地悪したくなっちゃうのよ」
「もう」
そっと、蓮子の手に触れる。
私は少し身を乗り出して、左手で蓮子の頬に触れた。
「蓮子、死ぬまで一緒にいてくれる?」
「喜んで」
私は蓮子に顔を寄せ、目を閉じた。
真っ暗だった。何も見えなかった。
上も、下も、右も、左も、前も、後ろも、無い。
ただただどこまでも何重にも塗り潰された真っ黒だった。
両手で目を押さえ、唸った。
痛い。痛い。目玉を貫かれ、抉られたみたいだ。
助けて。助けて。私は叫んだ。
彼女の名前を叫んだ。
「蓮子! 蓮子!」
ひた、と私の手に何かが触れた。
温かくて、柔らかくて、ところどころが硬かった。
形を確かめるように指で撫でると、ふっくらとしていた。
それでいてシワがあって、途中で五本に細く分かれていた。
そしてそれぞれ先端に硬いものが張り付いていた。
これは手だ、と理解した。
誰かが私の手を優しく握っていた。
私はその手をぎゅっと強く握り返した。
どこまでも続く暗闇の中で、その手だけがはっきりとした形で浮かび上がっていた。
「メリー」
悲しそうに呟く声がした。
「蓮子?」
「そうだよ。蓮子だよ。大丈夫、私はずっとここにいるから」
「ああ、蓮子。怖いの。私、真っ暗で、何も見えないのよ。ねえ、明かりはどこ? どうして真っ暗なの?」
「メリー……ああ、それは……かわいそうに。こんな、こんな真実を、伝えなきゃいけないなんて……」
「蓮子? ねえ、明かりをつけて? 私、あなたの顔が見たいわ。ひどく不安になるの。なんだかとてもおっかないものを見た気がして。ねえ、蓮子?」
「……電気は、ついているのよ」
「嘘。真っ暗よ」
「カーテンも開いているわ。それに今はお昼なの。陽の光が差し込んで眩しいわ」
「嘘。真っ暗よ。全然嘘よ。蓮子、私を脅かそうって魂胆ね。でも、今は本当に不安なの。ね、蓮子。意地悪しないで。あなたの顔を見せて」
「………………」
蓮子は何も言わずに、私の手を引いた。
私は寝ていたらしく、蓮子に背中を支えられてゆっくりと上半身を起こした。
私はベッドの上にいるらしく、蓮子に促されてベッドの縁から足を床に垂らした。
蓮子に支えられて立ち上がる。
真っ暗で何も見えなくて、とても怖かった。
「こっち。窓のそばよ」
蓮子が言って、私の手を引いた。
指先が硬いものに触れた。
指先でなぞっていくと、そこは窓の縁で、ひんやりとしてつるっとした板は窓ガラスだった。
そして、ああ、真っ暗なはずなのに、なんでだろうか。
とても暖かかった。
まるで強い日差しが照りつけているみたいに。
「……わかった? メリー、今はお昼なの。夜じゃないのよ」
「でも、それじゃあ、なんで。真っ暗なのよ。嘘じゃないの。本当に何も見えないのよ。本当に……」
私はゆっくりと指先を顔に触れて、顔に何かが巻かれているのに気づいた。
布だ。包帯だ。包帯が目を隠すようにぐるぐると頭に巻かれているのだ。
私はそれを外そうとした。
「駄目」
蓮子が私の腕を掴んだ。
私は蓮子の腕を跳ね除けた。
真っ暗なんだ。ずっとずっと真っ暗で、何も見えなくて。
真の闇はこんなにも怖いものなのか。
早く。早く光が、光が見たい。
私は包帯を無理矢理に引っ張り、解いた。
「……っ」
蓮子の息を飲む音がした。
世界は、真っ暗のままだった。
包帯は解いたのに。
なのに、真っ暗のままだった。
「ああ、メリー」
蓮子が半分泣きながら私の名前を呼んだ。
「かわいそうに。メリー、あなたは……あなたの目は、もう……」
私の目?
私の目がどうしたんだろうか。
私はそっと顔を触った。
頬。鼻。口。耳。顎。髪。眉。目。目。……目。
本来であれば、瞼に触れた時のあのころっとした丸い形のものが、そこにはなかった。
ただぺらぺらとした薄い皮がふにゃっとくしゃくしゃになっただけだった。
さらに指を差し入れる。
じっとりと湿った空洞がそこにあった。
本来であれば眼球が収まっていなければならない空間。
そこがぽっかりを口を開けていたのだ。
ああ、そんな、そんな……。
地面がぐにゃりと揺れ、私はバランスを崩した。
蓮子に体を支えられて、ベッドに座る。
私の両目は失われてしまった。
その事実が、ぐしゃりと私の体を押し潰した。
「私は……一体なにがあったの……?」
私は蓮子に尋ねた。
蓮子は苦しそうにしながら、ぽつりぽつりと昨日の出来事を話してくれた。
昨日、私と蓮子は一緒に結界の境目の向こう側へと侵入したのだ。
向こう側は鬱蒼とした森の中だった。
そこで私たちは……そうだ。
怪物に出会ったのだ。
怪物。あれは怪物だった。
私たちは逃げた。必死に森の中を走って逃げた。
そして、元の世界へと戻る直前、奴が……。
気がつくと、私たちは元の世界に戻ってきていた。
死に物狂いで走ったのと、恐怖のせいか、心臓が悲鳴をあげていた。
空を見上げる。時間は一時間も経っていない。
あの怪物はなんだったのだろうか。
人のような形をしていた。
それでも明らかに人ではなかった。
目がいくつもあったのだ。
身体中に、いくつも、いくつも。
全ての目がぱちぱちと瞬きをし、ぎょろりと周囲を見回していた。
そして、それらの目が私たちを捉えるのと同時に、怪物はとんでもないスピードでこちらへ向かって走り出したのだ。
そして、追いつかれそうになった時、私たちはこちらの世界へと戻ってきたのだ。
私は安堵し、大きく息を吐いた。
ふと、メリーの方に目を向ける。
メリーはまるで胎児のように体を丸めて地面にうずくまっていた。
「メリー?」
声をかける。返事はない。
私は四つん這いのままメリーのそばへと這い寄った。
「うう……ううう……」
メリーは苦しそうに呻き声をあげていた。
これはまずいかもしれない。
そう思って私はメリーを仰向けにさせた。
「ひっ……」
私は声にならない悲鳴をあげていた。
眼球を失い、ぽっかりと空いた眼窩。
そこからはまるで涙のように血が溢れ出ていた。
「ああ……痛い……助けて……痛い……」
譫言のように言いながら、メリーは顔を手で覆った。
私は慌てて救急車を呼んだ。
しばらくして救急隊がやってきて、私たちは市内の病院へと運ばれた。
メリーはあまりの痛みに気を失っていた。
その方がいいだろう。
メリーの手術が行われた。
その間、私は警察に事情聴取をされ、私は背後から何かに襲われたと話した。
本当のことを話したところで、警察にはどうしようもないことだった。
メリーが回復したらまた来ると言って、警察はいなくなった。
メリーの手術が終わり、彼女は病室に運ばれた。
命に別状はなかった。
けれどもやはり、眼球は完全に失われていた。
メリーはベッドに寝かされていた。
すうすうと穏やかに寝息を立てていた。
麻酔が効いているのだろう。
目を覆い隠すように包帯が頭に巻かれていた。
医者の話では、人工眼球の移植は可能であるという。
人工眼球の技術はかなり進化しており、見た目も通常の眼球と遜色がない。
むしろ通常の瞳よりも数倍勝る性能を持つという。
そう悲観せずとも大丈夫だと、医者は慰めるように語った。
だが、そうではないのだ。
人工眼球を移植したとして、彼女の能力はどうなる?
彼女は生まれてからずっとあの能力とともに生きてきたのだ。
つまりは彼女の体の一部分と言える。
それを失ってしまったのだ。
人工眼球を移植しても、取り戻せるのは視力だけだ。
人工眼球にこの世ならざる物を視認する能力はない。
彼女はもう普通の少女になってしまったのだ。
……けれども。
果たしてそれは、本当に彼女に取って不幸なのだろうか?
忌々しい能力を取り払って、清々するのではないだろうか?
私は、彼女に捨てられるのではないか?
「う……あ……」
メリーが呻き声をあげた。
苦しそうに身悶えている。
「蓮子! 蓮子!」
今にも泣き出しそうな声で、彼女は私の名前を呼んだ。
そうだ。今はただ、彼女の為だけに。
私はメリーの手を握りしめた。
メリーはまるで絶対に離さないとでも言いたげに、私の手を痛いくらい強く握り返した。
蓮子に全てを聞かされて、私は深くうなだれた。
もう私にかつてのような能力はない。
秘封倶楽部にいる意味も、存在価値もない。
私は恐怖した。
私という存在が蓮子にとって必要のないものになる。
私自身の消失と言っても過言ではない。
私には何も見えなかった。
蓮子がどんな表情をして、私のことをどんな風に思っているのか。
何もわからない。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
私は暗闇の中を手探るように手を差し出した。
すると、それに気づいて蓮子が私の手を取ってくれる。
私はその腕を引き寄せ、蓮子にぎゅっと抱きついた。
「メリー?」
困惑した声を漏らす蓮子。
「お願い。いなくならないで」
「メリー、なに言ってるの? 私はいなくなったりはしないわ」
「今はそうかもしれない。けれど、目が見えない、結界暴きもできない、なんの役にも立たない私を、いつかきっとあなたは疎ましく思うわ」
「そんなことないわ。勝手に決めつけないでちょうだい」
「でも、わからないの。あなたがどう思っているのかも、どんな顔をしているのかも。私にはなにも見えないの。触れていないと永遠に一人ぼっちになってしまったの。怖いよ蓮子。とっても怖いよ」
「大丈夫よ。だーいじょうぶ」
蓮子はあやすような声色でそう言って、私の体をそっとベッドに押し倒した。
私は離れるのが怖くて、抱き枕みたいに蓮子に抱きついたまま寝転がった。
「心配ないわ。私たちはずっと一緒よ。死ぬまで、ずっと、ずっと……」
私は気づかなかった。
彼女の声が少し強張ったことに。
今にして思えば、きっとこの時に彼女は『覚悟』をしたのだろう。
それから数日、眼球の移植手術の日まで私は蓮子とともに過ごした。
彼女の手を取って、病院の中庭を散歩した。
空の色や、すれ違う人たちの様子や、咲き誇る花の美しさを蓮子が語った。
毎日三度の食事を、蓮子が食べさせてくれた。
蓮子がメニューを教えてくれて、私がそれを食べたいと伝えると、蓮子がそれを私の口元へと持ってきてくれた。
蓮子がいれば、闇の中を歩くのも怖くなかった。
まるで、彼女の視界を通じて私の中に世界が広がるようだった。
このまま、ずっとこうしていられたらと思った。
いずれ訪れるであろう蓮子との別れを思えば、暗闇なんて怖くもない。
いつか、蓮子が私に付き合いきれなくなった時。
それが何よりも恐ろしかった。
そして、眼球の移植手術をする日がとうとう明日へと迫った。
その日は雨で、私と蓮子はずっと病室にいた。
「蓮子」
「なあに、メリー」
「手、またぎゅってして」
「ん……」
「あったかい」
「そう」
「……ね、蓮子」
「ん?」
「手術を終えて、視力が戻っても、結界の境目は見えないかもしれない」
「うん」
「それでも、蓮子は私のことーー」
ぴと、と蓮子の指が唇に触れた。
「関係ないよ」
蓮子が言った。
「なにが見えるとか、見えないとか、関係ないよ。メリーはメリーだもの。それだけ。でしょう?」
「……うん」
私は蓮子の手を握って、笑った。
きっと、蓮子も、笑っただろう。
そして、翌日。
手術当日。
蓮子は姿を現さなかった。
手術は滞りなく終わった。
顔には、目を覆うように包帯が巻かれている。
お医者さまがゆっくりと包帯を解く。
「ゆっくり、瞼を開いてください」
お医者さまが言った。
瞼を開くと、あまりの眩しさに思わず顔をしかめた。
真っ白なベッド。
真っ白なカーテン。
真っ白な部屋。
真っ白な服を着たお医者さまと看護師さん。
ベッド脇の窓からは真っ青な空が見えた。
そして、結界の境目も。
「どうですか。問題なさそうですか?」
お医者さまが言った。
私は疑問に思った。
どうして、結界の境目が見えるのだろうか。
移植に使われたのは人工眼球のはずだ。
見えるはずがない。
周囲を見回す。
なにも答えない私に怪訝そうな顔を浮かべるお医者さまと看護師さん。
いない。
蓮子がいない。
嫌な、予感がした。
もし、この世ならざる物を視認できる能力を持つ眼球が移植されたとしたら。
そんな瞳の持ち主を、私はたった一人、知っている。
例えば、私の目を移植してくれとお医者さまに懇願したとしても、そんなものは受け入れてもらえないだろう。
遺伝子の近しい近親者からの移植が必要である場合なら兎も角。
だが、もし遺書に『私の眼球を移植に使ってください』なんて書いて、自殺でもしたなら。
お医者さまがその意志を重んじて移植をする可能性は否定できない。
嘘だ。
まさか。
そんな。
私はベッドから飛び降りた。
お医者さまと看護師さんに捕まるが、振りほどいて廊下へと駆け出した。
蓮子。嫌だ。
結界の境目が見えたって、あなたがいないんじゃ意味がないのだ。
今までずっと気持ちの悪い能力だと思っていた。
それに意味を見出してくれたのが他でもない蓮子じゃないか。
その蓮子がいない世界に意味なんてない。
「嫌だ……蓮子……蓮子!」
私は病室の引き戸を開けた。
「ん? 呼んだかしら?」
そこには、病衣を着て、左目を覆うように包帯が巻かれた蓮子が立っていた。
「……へ?」
「……? どしたの、メリー?」
「あ……え……蓮子、なんで……?」
「なんでって、そりゃあ約束したじゃない。いつまでも一緒だって」
「でも……だって、私、結界の……」
「あ、気づいた?」
蓮子はいたずらっぽく笑った。
そして包帯で覆われた左目を指差した。
「左目、移植してもらったのよ」
「あ……はあ……」
膝の力が抜け、私は床にぺたんと座り込んだ。
蓮子は不思議そうに首を傾げていた。
そして、私と蓮子はまとめて看護師さんにしこたまお説教をされた。
メリーの手術当日、私は担当の医者の元を訪れた。
最初は駄目元で懇願した。
私の眼球をメリーに移植してほしい、と。
何を馬鹿なことを、と医者には一蹴された。
当たり前だ。
私は能力のことを医者に伝えていなかった。
よしんば伝えたところで信じてはもらえまい。
だけど、それでもメリーには私のこの『この世ならざる物を視認する眼球』を移植してもらう必要があった。
それこそが、彼女を不安から救い出す唯一の解決策だからだ。
やはり、駄目か。
私は観念した。
そして、ポケットの中からナイフを取り出した。
ぎょっとする医者。
私は右手にナイフを持つと、左手で左目の瞼をつまんで持ち上げた。
なにをしているのか理解できずに、呆然とした様子の医者。
私はナイフを眼球と眼窩の隙間に差し込んだ。
「あっ」と医者が声をあげた。
ナイフを奥まで差し込む。
眼球自体を傷つけないように、一番奥の視神経をぶちぶちとナイフで切る。
左目の視界が消え失せた。
痛い。死ぬほど痛い。
けれども、両目を失ったメリーに比べればましだ。
歯を喰いしばる。
喉の奥から唸り声が漏れ出す。
ぶちぶち。ぶちぶち。
私は叫んでいた。
まるで獣のように。
ぶちり。
視神経の最後の一片が完全に切断された。
ナイフをゆっくり抜き取る。
ナイフは血や体液に塗れていた。
医者は蒼白とした顔をしている。
私は左目に指を差し入れ、眼球を引っ張り出した。
ころんと眼球が手のひらの上に転がり出る。
切断された視神経がへその緒みたいに伸びていた。
私はそれを医者に差し出した。
「さあ……移植、してください。してくれないなら、今度は右目も、取り出すまでです……」
医者は蒼白とした顔のまま、壊れた自動人形みたく頷いた。
それから、私の左目には人工眼球が移植された。
メリーは右目に人工眼球、左目に私の左目の眼球が移植された。
手術後、目を覚ました私は病室を抜け出してメリーの病室に向かった。
扉の前に立つと、中から扉が開けられた。
そこにはメリーがいた。
メリーは私の姿を見て愕然とした表情を浮かべていた。
それから私の眼球を移植させたことを話すと、へなへなと床に座り込んでしまった。
一体どうしたのだろうか。
私は首を傾げた。
その後、メリーは看護師に説教をされ、なぜか私までもが巻き込まれてしまった。
私と蓮子は、中庭のベンチに並んで腰掛けた。
そして、蓮子から事の顛末を全て聞かされたのだ。
「馬鹿だわ」
「ええー」
「大馬鹿だわ」
「ふーん。馬鹿で結構よ。でも馬鹿なりにどうしたらメリーが幸せになれるのかを一生懸命考えたんだからね」
「それは……ありがとう。でも、今度またそんな無茶な真似しても、私は喜ばないからね」
「了承しましたー」
「まったく、本当にわかっているのかしら」
呟き、私は真っ直ぐに蓮子を見つめた。
蓮子は小さく仰け反り、それから顔を朱に染めた。
照れ臭そうに目を細める。
「なにかな、メリー君」
「……死ぬまで一緒って、こういう意味だったの?」
左目の瞼を指先で撫でながら言う。
蓮子はしばし呆然としていたが、やがてにやりと怪しく笑った。
「どう思う?」
「意地悪だわ」
「好きな子には意地悪したくなっちゃうのよ」
「もう」
そっと、蓮子の手に触れる。
私は少し身を乗り出して、左手で蓮子の頬に触れた。
「蓮子、死ぬまで一緒にいてくれる?」
「喜んで」
私は蓮子に顔を寄せ、目を閉じた。
蓮子の献身が痛々しくも妙に晴れやかで素敵でした
でも専門知識なけりゃできないよね…。
そこだけ一番さんに同意。
ほんとによかった。
科学世紀だから目ん玉くらい取り出してもヘーキヘーキ。