古明地さとりが地上を出歩くのは実に百年ぶりのことであった。久方ぶりの青空は春の新緑に眩しく、すれ違う人々は言葉にならない躍動を感じている。さとりの正体に勘付いた者は誰一人おらず、それはさとりがいかにも幻想郷庶民的な和装を身に纏っているからであった。ヘアバンドから伸びる第三の目も今ではしっかりと袖の中にしまわれている。割合鮮やかな少女の多い幻想郷では、その他の特徴は大した問題ではないのであった。
さとりがわざわざ重い腰を上げて人里にまでやってきたのは、貸本屋、鈴奈庵に訪れるためである。インドア妖怪の例に漏れず読書家であるさとりは、自分で執筆してみる程度には本が好きだった。しかしながら、幻想郷で出回る書籍の数は決して多いとは言えず、しかも地底にまで流通する本といったらほんのささやかな量である。そのうえガサツな鬼が支配する旧都に仕入れられる本というのは酒の肴に読み飛ばすようなものばかりで、知的好奇心を刺激する本などは皆無であった。もっと色々な本に出会いたい。脳に汗をかく読書体験が欲しい。頼れるペットのお燐も、さとりの趣味がわかるほどの読書家ではない。つまり、この抑えがたい衝動を解決するには自分で足を運ぶしかなかったのである。
湿り気を帯びつつある風が大通りを吹き抜けると、鈴奈庵の藍色の暖簾がゆったりとひらめいた。そこに分け入ってみると、吊るされた鈴の音と、店内を満たすピアノの旋律がさとりを出迎えた。蓄音機の向こう側に座る少女は、丸眼鏡をくいと上げて、客人が顔見知りではないことを確かめた。
「いらっしゃいませ。ご案内はいかがですか?」
「なにか……わくわくするような本が読みたいの」
「わくわく、ですか」
小鈴は指先を口元に添えて思案顔になった。もちろん彼女の頭をよぎった数々の本をさとりは見逃さなかった。図鑑、冒険小説、外来本、そして――妖魔本。
「あら、本当に色々な本があるのね」
「そうなんです。絵巻から洋本までよりどりみどり」
さとりは妖魔本のことを聞き出したい衝動に駆られたが、どうやら内密に取り扱っているようなので、次善の選択をした。
「外来本もあるのかしら」
「ええもちろん。あちらの棚にございます」
「ありがとう」
小鈴に案内された先の書架には、一風変わった本が所狭しと並んでいた。さとりは指を背表紙の間で滑らせながら本を抜き取っては抱えていったが、ふと指を止める本があった。少々他とは毛色が違った様子である。
「こういうのもいいかもね」
さとりは独りごちると、一冊の本を手に取った。
霊烏路空が屋敷に戻るのは、大抵すっかり日が落ちた頃だった。彼女の仕事は、朝から夕方までひたすらに水素原子の核融合を制御し湯を沸かすことである。炉の温度を上げすぎても下げすぎてもいけない。以前からやっていた灼熱地獄跡の管理と同じ要領で、わかりやすい仕事だった。
「ただいまー!」
お空が地霊殿の大きな窓から飛び入ると、エントランスホールに丸まっている黒豹が尻尾をパタンと一振りした。階段の陰の闇からシベリアンハスキーがボールをくわえて駆け寄ってきて、その後ろから柴犬が追いかけてくる。お空が翼を広げて大理石の床に降り立つと、二匹はお空の足にグリグリと鼻面を押し付けて親愛を表現した。もちろんボールはくわえたままである。ボール遊びに付き合えるのは人の形をとれる四人だけで、お空はその中で一番付き合いがいいので犬たちに好かれていた。さとりは忙しいうえアクティブな遊びが好きではないし、こいしもお燐も気まぐれですぐどこかに行ってしまうのである。
お空はわしわしと二匹の頭を撫で付けて、ボールを受け取った。
「わかったわかった。ほらいっくよー!」
お空がだだっ広い廊下の奥に向かって思い切りボールを投げると、二匹の犬は弾丸のように駆け出した。それから少し経って、シベリアンハスキーがボールをくわえてお空の腕に飛び込んできた。柴犬は競争に負けたものの、楽しげにお空の腕の中に滑り込んだ。お空は二匹に頬を舐め取られてくすぐったい思いをした。
「そうだ、さとり様のところ行かなきゃ」
一日一回は顔を見せるということになっている。そのくらいの言いつけなら、壊滅的な記憶力のお空も覚えておけるのであった。
お空がさとりの部屋の扉を開くと、さとりは丸テーブルに本を広げて、せわしなく手を動かしているところだった。
「あらお空、ちょうどいいところに」
「にゅ、なんでしょう?」
怪訝に思ったお空が近付くと、さとりはお空の胸元に何かを押し付けた。
「はいプレゼント」
「わあ!これ、カラスですよね!?」
さとりが渡したものは、カラスを模した折り紙であった。立体的な造形が製作者の努力を伺わせる。
お空は思わず、作ったんですか?と問いかけた。
「ええ、思っていたよりも随分大変だったわ。そうだ、あなたにも折り方を教えてあげる」
さとりはテーブルの向かい側を軽く叩いて座るよう促した。お空は喜々として椅子に飛びこんだ。好奇心に満ちた心情を表すように、羽がひらひらと揺れている。
「折り紙って言うのよ」
「へー」
さとりは二枚の黒染めされた和紙を取り出し、一枚をお空に渡した。
「まず、こうやって三角形を作って。きっちり角と角を重ねて」
「こうですか?」
お空は長方形に折られた紙を自信なさげに差し出した。
「……まあ、角と角は重なってるわね。ええと、じゃあもう一度半分に折って」
「カラスっぽくなってきましたねえ」
お空はまっ黒い正方形を眺めて感慨深げに言った。
「そうね、色とかそっくり。あとは適当に折ったら完成よ」
「わかりました!」
お空は好き勝手に紙を折りたたんだ。すっと指を滑らせて折り目をつける様子はそれなりに様になっている。さとりは、お空の頭の中にある和紙が次第にカラスの形に近づいていくのを面白がって眺めた。
「できた!」
お空はしわくちゃの黒い紙をテーブルにそっと置いた。辺の長さがバラバラの八角形から、突起が一つ飛び出ている。題をつけるとすれば、『強情な寝癖』だろうか。
「立派なカラスね」
「いえいえ、さとり様の作ったものには及びませんよ」
そうは言いながらも、お空の心は「負けてないかも」とも考えていた。謙遜などというものを扱えるようになったお空の成長に、さとりは少しばかり驚き、また寂しくもなった。
「なんだい、その紙くずは」
ひょいと現れたお燐はテーブルの上にあるお空の作品を見るなり言い放った。
「紙くずじゃないよ!カラスだよ!」
お燐はちらと目線をよこして「あたいの分はないんですか」と心中で呼びかけた。わざわざ心の中で呼びかけたのは、お空に嫉妬心を気取られたくないようである。さとりは分厚い本をパラパラとめくって目次に目を通した。
「猫の折り方ね……あるわよ。どれ、ここは一つ折ってやりましょうか」
しかし、目次に従ってページを開いたさとりは仰天した。まともに折れば四刻はかかるであろう作業量なのである。その分完成度は高いが、日々の雑務を抱える地霊殿の主には少々荷が重い。
「お燐、向上心って大事よね」
「いきなりなんですか」
「出来ることは増やさないと」
「そうだよお燐。目指せ臨界状態!」
「秘伝の書はあなたに託します。頑張ってください」
「そんにゃあ」
お燐からすればさとりが作ったものが貰えるのなら何だってよかったし、自分で折る気はこれっぽっちも無かった。さとりはそこまでお燐の心中を読み取りつつ、無視した。たとえやって欲しいことを読み取られても、やってやる義務はないのである。
「なら私は、このカラスを極めてみせます。もっと折ればすごくなる気がするんです」
お燐と対象的に、お空は張り切っていた。
「がんばって」
さとりは二人に和紙と本を渡して、借りてきた残りの本の消化にかかった。なにせ、あと一週間で全部読まなければならないのである。
「本は買うのが一番ね」
「さとり様!来てください!」
明くる日のことである。さとりの部屋に飛び込んできたのは、目を爛々と輝かせたお空であった。さとりは嫌な予感しかしなかったが、どうせ手遅れなのだろうと観念してお空に引っ張られるがままにエントランスホールへとやってきた。
「……随分と天井が寒々しくなったわね」
「途中で足りなくなったのでぶち抜きました。そんなことよりこれ凄くないですか!?地上まで届いちゃったんですよ。折り紙って折るたびにどんどん長くなるんですねえ。核分裂みたいです」
地霊殿の天井、さらにはその先の岩盤をもぶち抜く大穴から、爽やかな青空が覗いていた。よく見るとその中央には、細く黒い糸のようなものがそびえている。どうやらそれが、お空の言う『折り紙』らしい。紙は一度折るごとに指数関数的に厚みを増していく。なるほど数十回居ればそれなりの高さになるだろう。もちろん物理的には不可能なはずである。
「この際どうやって折ったのかは聞かないわ。とにかく早く片付けて、穴を塞ぎましょう」
「ここまで折るのにものすごい頑張ったんですよ!」
頑張ったらしいということはさとりにもわかっていた。褒めてほしいらしいということもわかっていた。しかし、やはりさとりは無視した。ペットというのは甘やかしすぎると厄介になるものだ。
「駄目です。さあこれを片付けて」
「少しでいいんです!あともうちょっとだけ折らせてください!もう少しでカラスが!」
さとりにはこの細く長い塔のどこがカラスなのか皆目検討がつかなかったが、お空の頭の中には地上を飲み込まんとする巨大なカラスが存在しているようだった。さとりは少しの間、どうするべきか考えた。そして全てが面倒になった。この穴も、地上から何か言われるまでは放っておけばいいのだ。
「わかりました。一日だけ猶予を与えます。それと、月の民に会っても喧嘩しちゃだめよ」
「はいっ!」
翌日、さとりが目覚めて様子を見に行くと、例の塔はもはや視認するのが不可能なほど細く長くなっていた。そこにあるとわかったのは、触れると指先が切れたからである。
「さとり様」
さとりの頭の中に声が響いた。紛れもなくお空の思念であったが、お空の姿はない。
「お空?どこにいるの?」
「あれから折り紙を折り続けました。どこまでも、どこまでも……私は今、宇宙の端にいます。この通信は八咫烏様の力によるもので、太陽を介したワープ通信により、さとり様のサードアイに直接思念を送っています」
「何一つとして理解できないわ」
「私はもう帰れそうにありません。宇宙の外に広がる四次元超立方体の世界に取り込まれかけているからです」
「そんな」
「もう通信が……です……すみま……」
「お空!」
それからというもの、さとりは自室でお空の事を考え続けた。最初は、長い旅に行っただけだと自分に言い聞かせることもできた。しかし、お空がいなくなったという実感が湧くにつれ、喪失感と、あの時止めていればという自責の念に苦しんだ。さとりは自嘲した。結局、妹の時と同じことを繰り返している。
それでも、心のどこかで、お空なら帰ってくると信じる気持ちがあった。しかし依然として具体的な解決策は見えないままで、彼女の安否を確かめるすべすらもない。
突然、さとりの部屋の本棚から一冊の本が落ちた。続いて、幾つかの本が落ちて床に散らばった。
「……お空なの?」
「私だよ」
答えたのはこいしの声だった。さとりの妹にして、さとりから最も遠い存在。
「ねえお姉ちゃん。どうして皆に相談しないの?」
「それは……」
「異変のあと、お燐に言ったよね?『今度なにかあったら相談しなさい』って」
「あたいたちだって、力になりたいんです」
「お燐まで……」
さとりは目を閉じて、この二人と共に存在することを許してくれた運命に感謝した。
「こいし、お燐。ありがとう」
力強く立ち上がったさとりの瞳は、揺るぎない意志をともしていた。
「作戦を立てましょう」
エントランスに仮設されたお空救出対策本部には、長テーブル、ホワイトボード、三つのパイプ椅子、さとり特性ふわふわパンケーキが運び込まれていた。
「まずはブレインストーミングです。こいし、何か考えはないかしら」
「新しい地獄鴉を拾ってきて、お空と名付ける」
「さっそく斬新なアイデアね」
ブレインストーミングの要は意見を否定しないことにある。
さとりはホワイトボードに『新たなるお空』と書き込んだ。
「……お燐はどう?」
「お空は折り紙を折り続けていたら宇宙の果てまで行ってしまったんですよね?それなら――」
「折り紙とつながってるかも!」
「言わせてくださいよー」
「なるほどね。ただ問題は、あの折り紙があまりに細すぎること。手で握れば血まみれ必至よ」
いくら妖怪と言えど、スプラッターな出血をしては命に関わる。それに痛い。早くも事態は暗礁に乗り上げたと思われた。
「お困りのようね」
「その声は、八雲紫!」
「『握ると危ない』と『握っても大丈夫』の境界を操っておいたわ」
八雲紫はどこからともなくやってきた。スキマ妖怪たる所以である。
「どうやら一つ借りを作ってしまったようね」
「あの大穴も含めて二つよ」
「……四季様には内緒にしておいてください」
「三つに増えたわね」
紫はクスクスという笑い声を残して消えていった。幻想郷では素っ頓狂な緊急事態は枚挙に暇がない。便利なチョイ役に大忙しなのである。
さとり達は一列になって紙を握っていた。さながら『おおきなかぶ』である。お空を慕っていた動物たちは、その様子をじっと眺めていた。
「みんな、準備はいい?」
さとりが振り返ると、お燐は決意をその目に宿して頷いた。こいしはどこか虚ろながらも、その手にはしっかりと折り紙が掴まれていた。
「せーのっ!」
さとりの掛け声とともに作戦は開始された。三人はひたすらに折り紙を引っ張り続けた。その先にお空がいるかはわからなかったが、万に一つの可能性を信じてみたかったのだ。そうさせるものがお空にはあったし、全員暇だった。そういえば地球から宇宙の端までというのは相当な距離である。それだけの長さの紙をひっぱろうというのだから、大変な時間がかかった。数年、数千年、数億年と時は過ぎていった。やがて、地球を再び氷と分厚い雲が覆った。気温の低下と太陽光の不足により幻想郷も地上暮らしが困難となり、地上の住民は皆地底に引っ越した。大変な人口過密により地底の治安は悪化し、星熊勇儀率いる自警団による厳しい管理社会が誕生した。その頃になって、ようやくお空は引っ張り込まれた。キョトンとした顔で大穴から飛び込んできたお空を、さとり達は言葉を忘れてもみくちゃにした。
「おうい!終わったんならその穴塞いじまうから、さっさとどいてくれよ!」
土蜘蛛であり現在は土木作業員の黒谷ヤマメが呼びかけると、四人はそこから立ち去った。そして、暗く湿った地底を見渡せる地霊殿の尖塔へと飛び乗った。
「お空」
「うん」
さとりが促すと、お空は頷いて制御棒を掲げた。すると制御棒の先端から火球がみるみるうちに膨れ上がって、輝く球体となり地底にひしめく街を照らし出した。住民たちは記憶から失われつつあった太陽光を目に焼き付け、その暖かさにまどろんだ。
――願わくば、本の延滞料金があらぬことを。
さとりがわざわざ重い腰を上げて人里にまでやってきたのは、貸本屋、鈴奈庵に訪れるためである。インドア妖怪の例に漏れず読書家であるさとりは、自分で執筆してみる程度には本が好きだった。しかしながら、幻想郷で出回る書籍の数は決して多いとは言えず、しかも地底にまで流通する本といったらほんのささやかな量である。そのうえガサツな鬼が支配する旧都に仕入れられる本というのは酒の肴に読み飛ばすようなものばかりで、知的好奇心を刺激する本などは皆無であった。もっと色々な本に出会いたい。脳に汗をかく読書体験が欲しい。頼れるペットのお燐も、さとりの趣味がわかるほどの読書家ではない。つまり、この抑えがたい衝動を解決するには自分で足を運ぶしかなかったのである。
湿り気を帯びつつある風が大通りを吹き抜けると、鈴奈庵の藍色の暖簾がゆったりとひらめいた。そこに分け入ってみると、吊るされた鈴の音と、店内を満たすピアノの旋律がさとりを出迎えた。蓄音機の向こう側に座る少女は、丸眼鏡をくいと上げて、客人が顔見知りではないことを確かめた。
「いらっしゃいませ。ご案内はいかがですか?」
「なにか……わくわくするような本が読みたいの」
「わくわく、ですか」
小鈴は指先を口元に添えて思案顔になった。もちろん彼女の頭をよぎった数々の本をさとりは見逃さなかった。図鑑、冒険小説、外来本、そして――妖魔本。
「あら、本当に色々な本があるのね」
「そうなんです。絵巻から洋本までよりどりみどり」
さとりは妖魔本のことを聞き出したい衝動に駆られたが、どうやら内密に取り扱っているようなので、次善の選択をした。
「外来本もあるのかしら」
「ええもちろん。あちらの棚にございます」
「ありがとう」
小鈴に案内された先の書架には、一風変わった本が所狭しと並んでいた。さとりは指を背表紙の間で滑らせながら本を抜き取っては抱えていったが、ふと指を止める本があった。少々他とは毛色が違った様子である。
「こういうのもいいかもね」
さとりは独りごちると、一冊の本を手に取った。
霊烏路空が屋敷に戻るのは、大抵すっかり日が落ちた頃だった。彼女の仕事は、朝から夕方までひたすらに水素原子の核融合を制御し湯を沸かすことである。炉の温度を上げすぎても下げすぎてもいけない。以前からやっていた灼熱地獄跡の管理と同じ要領で、わかりやすい仕事だった。
「ただいまー!」
お空が地霊殿の大きな窓から飛び入ると、エントランスホールに丸まっている黒豹が尻尾をパタンと一振りした。階段の陰の闇からシベリアンハスキーがボールをくわえて駆け寄ってきて、その後ろから柴犬が追いかけてくる。お空が翼を広げて大理石の床に降り立つと、二匹はお空の足にグリグリと鼻面を押し付けて親愛を表現した。もちろんボールはくわえたままである。ボール遊びに付き合えるのは人の形をとれる四人だけで、お空はその中で一番付き合いがいいので犬たちに好かれていた。さとりは忙しいうえアクティブな遊びが好きではないし、こいしもお燐も気まぐれですぐどこかに行ってしまうのである。
お空はわしわしと二匹の頭を撫で付けて、ボールを受け取った。
「わかったわかった。ほらいっくよー!」
お空がだだっ広い廊下の奥に向かって思い切りボールを投げると、二匹の犬は弾丸のように駆け出した。それから少し経って、シベリアンハスキーがボールをくわえてお空の腕に飛び込んできた。柴犬は競争に負けたものの、楽しげにお空の腕の中に滑り込んだ。お空は二匹に頬を舐め取られてくすぐったい思いをした。
「そうだ、さとり様のところ行かなきゃ」
一日一回は顔を見せるということになっている。そのくらいの言いつけなら、壊滅的な記憶力のお空も覚えておけるのであった。
お空がさとりの部屋の扉を開くと、さとりは丸テーブルに本を広げて、せわしなく手を動かしているところだった。
「あらお空、ちょうどいいところに」
「にゅ、なんでしょう?」
怪訝に思ったお空が近付くと、さとりはお空の胸元に何かを押し付けた。
「はいプレゼント」
「わあ!これ、カラスですよね!?」
さとりが渡したものは、カラスを模した折り紙であった。立体的な造形が製作者の努力を伺わせる。
お空は思わず、作ったんですか?と問いかけた。
「ええ、思っていたよりも随分大変だったわ。そうだ、あなたにも折り方を教えてあげる」
さとりはテーブルの向かい側を軽く叩いて座るよう促した。お空は喜々として椅子に飛びこんだ。好奇心に満ちた心情を表すように、羽がひらひらと揺れている。
「折り紙って言うのよ」
「へー」
さとりは二枚の黒染めされた和紙を取り出し、一枚をお空に渡した。
「まず、こうやって三角形を作って。きっちり角と角を重ねて」
「こうですか?」
お空は長方形に折られた紙を自信なさげに差し出した。
「……まあ、角と角は重なってるわね。ええと、じゃあもう一度半分に折って」
「カラスっぽくなってきましたねえ」
お空はまっ黒い正方形を眺めて感慨深げに言った。
「そうね、色とかそっくり。あとは適当に折ったら完成よ」
「わかりました!」
お空は好き勝手に紙を折りたたんだ。すっと指を滑らせて折り目をつける様子はそれなりに様になっている。さとりは、お空の頭の中にある和紙が次第にカラスの形に近づいていくのを面白がって眺めた。
「できた!」
お空はしわくちゃの黒い紙をテーブルにそっと置いた。辺の長さがバラバラの八角形から、突起が一つ飛び出ている。題をつけるとすれば、『強情な寝癖』だろうか。
「立派なカラスね」
「いえいえ、さとり様の作ったものには及びませんよ」
そうは言いながらも、お空の心は「負けてないかも」とも考えていた。謙遜などというものを扱えるようになったお空の成長に、さとりは少しばかり驚き、また寂しくもなった。
「なんだい、その紙くずは」
ひょいと現れたお燐はテーブルの上にあるお空の作品を見るなり言い放った。
「紙くずじゃないよ!カラスだよ!」
お燐はちらと目線をよこして「あたいの分はないんですか」と心中で呼びかけた。わざわざ心の中で呼びかけたのは、お空に嫉妬心を気取られたくないようである。さとりは分厚い本をパラパラとめくって目次に目を通した。
「猫の折り方ね……あるわよ。どれ、ここは一つ折ってやりましょうか」
しかし、目次に従ってページを開いたさとりは仰天した。まともに折れば四刻はかかるであろう作業量なのである。その分完成度は高いが、日々の雑務を抱える地霊殿の主には少々荷が重い。
「お燐、向上心って大事よね」
「いきなりなんですか」
「出来ることは増やさないと」
「そうだよお燐。目指せ臨界状態!」
「秘伝の書はあなたに託します。頑張ってください」
「そんにゃあ」
お燐からすればさとりが作ったものが貰えるのなら何だってよかったし、自分で折る気はこれっぽっちも無かった。さとりはそこまでお燐の心中を読み取りつつ、無視した。たとえやって欲しいことを読み取られても、やってやる義務はないのである。
「なら私は、このカラスを極めてみせます。もっと折ればすごくなる気がするんです」
お燐と対象的に、お空は張り切っていた。
「がんばって」
さとりは二人に和紙と本を渡して、借りてきた残りの本の消化にかかった。なにせ、あと一週間で全部読まなければならないのである。
「本は買うのが一番ね」
「さとり様!来てください!」
明くる日のことである。さとりの部屋に飛び込んできたのは、目を爛々と輝かせたお空であった。さとりは嫌な予感しかしなかったが、どうせ手遅れなのだろうと観念してお空に引っ張られるがままにエントランスホールへとやってきた。
「……随分と天井が寒々しくなったわね」
「途中で足りなくなったのでぶち抜きました。そんなことよりこれ凄くないですか!?地上まで届いちゃったんですよ。折り紙って折るたびにどんどん長くなるんですねえ。核分裂みたいです」
地霊殿の天井、さらにはその先の岩盤をもぶち抜く大穴から、爽やかな青空が覗いていた。よく見るとその中央には、細く黒い糸のようなものがそびえている。どうやらそれが、お空の言う『折り紙』らしい。紙は一度折るごとに指数関数的に厚みを増していく。なるほど数十回居ればそれなりの高さになるだろう。もちろん物理的には不可能なはずである。
「この際どうやって折ったのかは聞かないわ。とにかく早く片付けて、穴を塞ぎましょう」
「ここまで折るのにものすごい頑張ったんですよ!」
頑張ったらしいということはさとりにもわかっていた。褒めてほしいらしいということもわかっていた。しかし、やはりさとりは無視した。ペットというのは甘やかしすぎると厄介になるものだ。
「駄目です。さあこれを片付けて」
「少しでいいんです!あともうちょっとだけ折らせてください!もう少しでカラスが!」
さとりにはこの細く長い塔のどこがカラスなのか皆目検討がつかなかったが、お空の頭の中には地上を飲み込まんとする巨大なカラスが存在しているようだった。さとりは少しの間、どうするべきか考えた。そして全てが面倒になった。この穴も、地上から何か言われるまでは放っておけばいいのだ。
「わかりました。一日だけ猶予を与えます。それと、月の民に会っても喧嘩しちゃだめよ」
「はいっ!」
翌日、さとりが目覚めて様子を見に行くと、例の塔はもはや視認するのが不可能なほど細く長くなっていた。そこにあるとわかったのは、触れると指先が切れたからである。
「さとり様」
さとりの頭の中に声が響いた。紛れもなくお空の思念であったが、お空の姿はない。
「お空?どこにいるの?」
「あれから折り紙を折り続けました。どこまでも、どこまでも……私は今、宇宙の端にいます。この通信は八咫烏様の力によるもので、太陽を介したワープ通信により、さとり様のサードアイに直接思念を送っています」
「何一つとして理解できないわ」
「私はもう帰れそうにありません。宇宙の外に広がる四次元超立方体の世界に取り込まれかけているからです」
「そんな」
「もう通信が……です……すみま……」
「お空!」
それからというもの、さとりは自室でお空の事を考え続けた。最初は、長い旅に行っただけだと自分に言い聞かせることもできた。しかし、お空がいなくなったという実感が湧くにつれ、喪失感と、あの時止めていればという自責の念に苦しんだ。さとりは自嘲した。結局、妹の時と同じことを繰り返している。
それでも、心のどこかで、お空なら帰ってくると信じる気持ちがあった。しかし依然として具体的な解決策は見えないままで、彼女の安否を確かめるすべすらもない。
突然、さとりの部屋の本棚から一冊の本が落ちた。続いて、幾つかの本が落ちて床に散らばった。
「……お空なの?」
「私だよ」
答えたのはこいしの声だった。さとりの妹にして、さとりから最も遠い存在。
「ねえお姉ちゃん。どうして皆に相談しないの?」
「それは……」
「異変のあと、お燐に言ったよね?『今度なにかあったら相談しなさい』って」
「あたいたちだって、力になりたいんです」
「お燐まで……」
さとりは目を閉じて、この二人と共に存在することを許してくれた運命に感謝した。
「こいし、お燐。ありがとう」
力強く立ち上がったさとりの瞳は、揺るぎない意志をともしていた。
「作戦を立てましょう」
エントランスに仮設されたお空救出対策本部には、長テーブル、ホワイトボード、三つのパイプ椅子、さとり特性ふわふわパンケーキが運び込まれていた。
「まずはブレインストーミングです。こいし、何か考えはないかしら」
「新しい地獄鴉を拾ってきて、お空と名付ける」
「さっそく斬新なアイデアね」
ブレインストーミングの要は意見を否定しないことにある。
さとりはホワイトボードに『新たなるお空』と書き込んだ。
「……お燐はどう?」
「お空は折り紙を折り続けていたら宇宙の果てまで行ってしまったんですよね?それなら――」
「折り紙とつながってるかも!」
「言わせてくださいよー」
「なるほどね。ただ問題は、あの折り紙があまりに細すぎること。手で握れば血まみれ必至よ」
いくら妖怪と言えど、スプラッターな出血をしては命に関わる。それに痛い。早くも事態は暗礁に乗り上げたと思われた。
「お困りのようね」
「その声は、八雲紫!」
「『握ると危ない』と『握っても大丈夫』の境界を操っておいたわ」
八雲紫はどこからともなくやってきた。スキマ妖怪たる所以である。
「どうやら一つ借りを作ってしまったようね」
「あの大穴も含めて二つよ」
「……四季様には内緒にしておいてください」
「三つに増えたわね」
紫はクスクスという笑い声を残して消えていった。幻想郷では素っ頓狂な緊急事態は枚挙に暇がない。便利なチョイ役に大忙しなのである。
さとり達は一列になって紙を握っていた。さながら『おおきなかぶ』である。お空を慕っていた動物たちは、その様子をじっと眺めていた。
「みんな、準備はいい?」
さとりが振り返ると、お燐は決意をその目に宿して頷いた。こいしはどこか虚ろながらも、その手にはしっかりと折り紙が掴まれていた。
「せーのっ!」
さとりの掛け声とともに作戦は開始された。三人はひたすらに折り紙を引っ張り続けた。その先にお空がいるかはわからなかったが、万に一つの可能性を信じてみたかったのだ。そうさせるものがお空にはあったし、全員暇だった。そういえば地球から宇宙の端までというのは相当な距離である。それだけの長さの紙をひっぱろうというのだから、大変な時間がかかった。数年、数千年、数億年と時は過ぎていった。やがて、地球を再び氷と分厚い雲が覆った。気温の低下と太陽光の不足により幻想郷も地上暮らしが困難となり、地上の住民は皆地底に引っ越した。大変な人口過密により地底の治安は悪化し、星熊勇儀率いる自警団による厳しい管理社会が誕生した。その頃になって、ようやくお空は引っ張り込まれた。キョトンとした顔で大穴から飛び込んできたお空を、さとり達は言葉を忘れてもみくちゃにした。
「おうい!終わったんならその穴塞いじまうから、さっさとどいてくれよ!」
土蜘蛛であり現在は土木作業員の黒谷ヤマメが呼びかけると、四人はそこから立ち去った。そして、暗く湿った地底を見渡せる地霊殿の尖塔へと飛び乗った。
「お空」
「うん」
さとりが促すと、お空は頷いて制御棒を掲げた。すると制御棒の先端から火球がみるみるうちに膨れ上がって、輝く球体となり地底にひしめく街を照らし出した。住民たちは記憶から失われつつあった太陽光を目に焼き付け、その暖かさにまどろんだ。
――願わくば、本の延滞料金があらぬことを。
エンターテイメント的狂気とナンセンスなセンテンスが操るべき境界はもっと他にあったはずだという叫びを飲み込んで広がっていて、いんたーですてらーな作品でした。
気になる誤字が二箇所.
自体→事態
貸し→借り
この世のはしっこまで到達した辺りで、考えずに感じることにした
救出の理由にひまだったからがあるのも良い脱力感を覚えました
文章にユーモアがありオチも完璧で面白い
おくうならやるかもと思える辺り凄い
緩いけどSF入ってる感じは青狸チックかもしれん
こんなの読んだら感想したくなりますって‼
書き口が大雑把にならなかったのが気持ちよかったです
SSでここまでびっくりしたのは初めてです、これは予測できなかった…w
違和感なく読めてしまうのが恐ろしいです
本の延滞料金、マジでどうなっているんでしょうかね。