《厄神が恐れる物は二つある。
一つは“忘却”。どんなに聖人だと謳われていようと命は何かの欲を持つ。人間も妖怪も霊も犬も花も関係は無い。幻想郷ではそれが顕著で、陽気に騒ぎながら酒盛りをする人妖達、つがいを求めて飛び回る小鳥、一切の加減を知らぬかの如く咲き誇る色鮮やかな花々はやはり欲に塗れている。
しかし彼ら自身は、自らが欲望を背負った命の子であることを忘れている。知らない訳では無い。欲を持っていることを自覚しているし、人里近くにある寺ではその欲望を消し去ろうとさえしている。それでも彼らは忘れているのだ。欲は常に纏わりつき、耳元で人生の行き先案内を囁き語りかけているのを。
欲とは厄である。厄い事は欲深い事から始まる――綺麗な因果関係を築いているのは自明の理だ。それなのに、自らに宿る欲を忘却し誘われた厄をその身に溜め込む“命”を、厄神は深く悲しんだ。
そして呟く『嗚呼、幸ならずは忘却の所以也』と。》
「……こんなこと言った憶え無いんだけどなぁ」
穏やかな熱を持った春の朝日が體を包む中、その瑞々しい唇から零れ出た呟きは誰にも聞こえない。
浅葱色の髪を揺らし深紅のドレスに身を包んだ少女――鍵山雛は朝のこの時間が好きであった。日のよく当たる我が家の縁側で茶を啜りながらその日の新聞を読み更かす。面白味の無い趣味だと友人の河童に笑われた事もあったが、雛は笑ってその『面白くない趣味』を河童に勧めた。それぐらい好きだった。
当然ながら河童はもちろん誰一人として彼女の趣味に付き合う者はおらず、結果として彼女は毎朝孤独に新聞を読んでいた。彼女は孤独が好きであった。
「まあ気にしないけど。文が書いたにしては珍しい事書いてあるし」
読んでいるのは随分と空白の目立つ鴉天狗の新聞、その紙面の端にある小さなコラムだ。必要な文字数に足らず、苦し紛れに書き殴られたのであろうその雑なコラム。今回は厄神の話題だった。
鴉天狗の書く新聞は大抵が真偽の分からない眉唾物の話か、異常なほどに誇大されてしまった史実かである。
そして今、彼女が読んでいるコラムも例に漏れず酷い内容であった。
「……別に忘れても忘れなくても、人間は欲深いままよ」
雛は脇に置かれていた緑茶を手に取りゆっくりと口元に寄せた。穏やかな香りと茶葉の渋みが彼女の心を穏やかにする。彼女自身が淹れた茶だったが、存外美味しく仕上がった事に満足気な笑みを漏らした。
「さて、じゃあ二つ目とやらは――」
雛の目線はコラムに戻り、そしてそのまま固まった。鴉天狗の書いた『厄神が恐れる二つ目のモノ』は彼女の視線と心を引き留め続けた。
「はっはっは! いやあ、厄神さんも意外な物で怖がるんだね」
「笑わないでよ、にとり……」
妖怪の山の麓。あらゆる魑魅魍魎が跋扈していると有名なこの樹海に、今も河童と厄神の二人の人外が将棋盤を挟んでいた。
盤面では既に決着が付いている。これで鍵山雛の一二連勝。彼女はこの手の遊戯には神懸かり的に強かった。勿論、勝利の秘訣は対戦相手に掛かる不幸の量が関係しているのだが。
「ごめんごめん、でも面白すぎるよ。長い付き合いだけどまさか雛が虫嫌いだとはねえ。しかも新聞に載るぐらいの、なんて」
《二つ目は、虫である。何を馬鹿な事を、と思う者が多いかもしれないが、これはれっきとした事実である。
この幻想郷には厄神は一人しか居ない。鍵山雛氏の事である。つまり厄神の事を知る為には彼女の事を知らねばならない。幻想郷に於いてはつまり、彼女の恐れる物こそ厄神の恐れる物なのだ。
虫という生き物はどのような場所だろうと現れる。そんな存在を恐れても恐れの対象は際限なく沸き続けるばかりである。彼女が虫を恐れる理由――次回はそれを説明する予定である。
それでは最後に、彼女が虫を恐れている証拠写真を載せてコラムを締めさせてもらおう。写真の掲載を快く承諾してくれた鍵山雛氏に深く感謝の念を表す。》
「それにしても良い写真。友人の写真写りが良すぎて羨しいよ」
「……馬鹿にしてるでしょ」
「まさか」
にとりは笑ってコラムに載せられた写真を指で弾いた。そこにはやはり、不幸と厄を扱う有難い神様が縁側から百足を火バサミで放り投げる姿が収められていた。腰は引けており、顔は蒼白。威厳も何もなかった。
「この時はなに、家に百足が入ってきて恐る恐る家から追い出したって感じ?」
「……どんな小さな虫でも私の近くに居たら不幸になるから助けてあげたの」
「あんなへっぴり腰で? ほー、ふーん」
雛は大きく息を吸い、そして吐き出した。森の静かな空気が彼女の体を満たし、その心を落ち着けようと全身に巡るが、深呼吸程度では彼女の心労は癒えなかった。天狗の新聞の影響力は凄まじく、大抵の者はもうこの厄神様の間抜けな写真を見ているだろう。いやらしい笑みを浮かべる目の前の友人のように。
この時ばかりは雛は文の事を恨んだ。滅多に人を恨まない厄神だが――恨まれた人物の生命の保証にも関わるからだ――この写真を隠し撮りし、挙句には世に広めた鴉天狗に、正義の鉄槌を下してやりたい気分であった。
そんな事を考え雛が震えていると、静かな森に声が響いた。声の主は木々を跳ね、枝を揺らしながら二人の前にその姿を現した。
「よっと……にとり、雛、お早う御座います」
「おぉ、椛。今日はオフなの?」
「昨日は一日働き詰めでしたから。それでさっき“視えた”ので寄りました……あっ、早速やってますね」
服に付いた木の葉を払いながら、椛は将棋盤を覗き込んだ。するりと伸びた尻尾が暴れるようにして左右に振れる。雛は何となくその尻尾を目で追ってみたが、その動きに特に何かの意味がある訳でも無いのでやめた。
「もう詰んでるじゃないですか……にとり、最近なんか負け続けていませんか?」
「いやいや、雛が強すぎるんだって。私は弱くない」
「――と言ってますけど、雛はどう思います?」
「こほん、ズバリ……にとりが弱くなっています」
「ぅわーあんまりだぁ」
その時はたと雛は思いついた。それはとても斬新なアイデアで、文に一泡吹かせられるのではないかと。普段の彼女なら考え難い事だが、あの新聞を見てから少し彼女の考え方は変わっていた。
「ねえ椛、文の嫌いな物って知ってる? どんな物でも良いから」
「えっ、いきなりですね……うーん、私が思いつく限りでは無いと思いますよ。中々弱みを見せませんから」
「じゃあ、何かこう、文が避けてる物とか――」
そう聞いた時、椛が少し困ったような、それでいてどこか面白そうに笑みを浮かべたのを雛は見た。
「雛、やっぱりちょっと怒ってるんですね」
「――え?」
「新聞の事、でしょう?」
雛の脳に火花が散った。もう本当に、誰でも知っているのだ。壊れたように目を白黒させている雛を見てにとりは吹き出した。
「あっはは。可哀想に、雛の知名度が良いように上がっていく」
「悪いように、だと思うんですけど。雛しっかりして。虫嫌いは恥ずかしい事じゃないですよ」
「そうですよ、恥ずかしい事じゃありません。むしろ乙女チックです」
その声は椛と同じように木々の間から抜けて、そして目の前に降り立った。
文が恭しく頭を下げたのとほぼ同時に、にとりが呆れたように笑った。
「文はいつも登場が急だよ。急というか、唐突」
「これは失礼。私、日ごろから多忙でして……中々どうして早歩きの癖が抜けなくなってしまいましてね」
「……へぇ、鴉天狗は空を歩くんですね。知りませんでした」
「おや、椛も居たんですね。私の高尚な冗談も貴女には通じませんでしたか」
そのまま噛み付きそうな顔の椛を差し置いて、文は雛に歩きよった。ペンと手帖を取り出して、ゆっくりと詰め寄る。その顔はいつも通りの笑顔であった。
「雛さんこんにちは! 今日は少しばかり御用がありまして。少しお時間を頂けないかなぁ、と」
「奇遇ね、私も聞きたい事があったの」
「それは好都合ですね。とは言っても何を聞かれるかは想像付きますが」
にとりは今更になって後悔した。椛は文に会って苛立っているし、文は椛に会って苛立ち、雛は新聞の事で文に嫌疑の目を向けている。少し突けば爆発しそうな空気感だった事に気付くのが遅すぎたのだ。
「ズバリお聞きしたいのが『どうして貴女は虫嫌いなの?』です。次回の「文々。新聞」にどうしても必要な事でして……どうでしょうか?」
「答えてあげても良いけど、ちょっと交換。文の嫌いな物を教えてくれたら話す気になるかも」
「そうですね……団子とお茶でしょうか。なるべく高級な奴で」
刹那、椛が唸り文の前に飛び出た。牙を剥き出し、敵意を露わにしながら文に言い放つ。
「その何かと言えば鼻に付く言い方……もう我慢なりません! 文さん、いい加減貴女はその態度を改めるべきです」
「ちょ、ちょっと椛、落ち着きなって。文もニヤニヤしてないで説得とか――」
慌てたにとりが止めに入るが、またしても彼女は気付くのが遅れた。この展開になった時、いつも結果は一つだけだった事に。
「ふふん、いつも通りの短絡的な思考、見ていて恥ずかしくなってきます。良いでしょう、私の取材を邪魔する無粋な白狼天狗には喝を入れてあげます。さあ、手加減してあげるから本気で掛かってきなさい!」
「あーもう! やっぱりこうなった!!」
唐突に始まる弾幕の宴。数秒経たず内に将棋盤はひっくり返り、空気が震え、地が抉られる。こうなると、にとりと雛はこの弾幕の嵐が早く終わる事を祈るだけだが、今日の雛は心の中で椛を応援していた。その事に雛自身が気付いた時、彼女は小さく自嘲的な笑みで笑っていた。
今日の雛はとことんいつもと変わっていた。
陽の色が橙色に変わり、辺りの木々が大分剥げてきた頃、ようやく即興で始まった弾幕ごっこは終わりを迎えた。
ボロボロになりながらも噛み付こうとする椛をにとりが抱き抱え、彼女らは帰っていった。雛も手伝おうかと声を掛けたが、今日はもう長く居過ぎたから、と断られてしまった。事実、丸一日厄神と共に過ごせば何が起こるかは皆が知っている事だった。これだけ長い時間を過ごしながらも、まだ大きな不幸が訪れていないというのはとても稀な事で――文と椛の衝突は別に雛が居なくても始まっていただろう。起こるべくして起きた事だ――それと同時に危うい状態だった。
そういう訳で鍵山雛も帰ろうとしていた。将棋盤を片付け、家に持ち帰ろうと持ち上げる。所々ひしゃげた地面に気を配りながら一歩踏み出す。
「雛さん」
声のした方に振り向けば、そこには傷一つない綺麗な格好で文が立っていた。椛の相手ぐらい、彼女には朝飯前なのだろう。その実力が逆に椛を苛つかせているのだろうに。雛は少し椛に同情した。
「まだ諦めないつもりなの?」
「まあまあ、ちょっと向こうに行きましょう。私、良い場所知ってるんですよ」
私と居て不幸になるのは彼女なのに――雛はそう考えながら、彼女の歩く方へと続いた。
夕焼けの森の中、特に会話も無く二人は進んで行く。不思議な空間だった。気が付けば麓から大分離れ、かなりの高さまで登っていた。
「此処です。どうですか、凄いでしょう!」
振り向き、文は雛にとっておきを見せた。遠慮するかのように脇に退いた木の葉が、まるで絢爛たる額縁のように沈み行く夕暮れと琥珀に染まり切った妖怪の山を飾っていた。
「……綺麗」
雛の呟きを聞いた文は得意げに口を開く。さながら自慢の玩具を語る子供のように。
「私のお気に入れです。記事で詰まるような事があれば、此処まで一っ飛びして……ぼうっとするんです。此処の風を肌に沿わせれば、そのまま詰まらない事も流してくれそうで」
文は地べたに座って隣に座るよう勧めた。雛はそれに答えて、彼女と少し離れた場所に腰を下ろした。
「で、こんなムードたっぷりな所で女の子の虫嫌いを根掘り葉掘り聞き倒す訳?」
「そう言われると耳が痛いですね」
暫くの沈黙。連れて来られた時のように不思議な静けさが辺りを包んだ。が、文がその沈黙を崩す。
「――私は別に雛さんの虫嫌いを世に広める為だけに記事にした訳じゃないんです。信じてくれるか分かりませんが、私は清く正しい射命丸です。その私の仕事は、真実を報せる事。そして真実を見つける事です。いやまあ、新聞を読んでもらうっていうのも大事ですけど」
「…………」
「欲深い事は厄い事……一つ目のあれ、まあ適当に書かせてもらいました。時間的な都合と文字数の都合ですが。でも雛さんの虫嫌いは……本当の事、ですよね?」
雛は特に何も言わず、ただ夕焼けを見ていた。只々、綺麗。
「最初は『あぁ文字数足りたし面白い写真撮れてラッキー。次号で書く事決まって万々歳』でしたよ。そこは否定しません。でもなんか……そう、貴女と居る内に、ふつふつと興味が沸いてきたんです。貴女の虫嫌いという真実を創り出したその一歩奥の真実が」
「……そう」
「そうなんです。もし貴女が望むなら記事にはしません。写真は……どうにもなりませんが次から控えるのは約束します。ですからお願いです。雛さんの真実を、お話しくださいませんか」
雛は薄々感付いていた。彼女がもう不幸の最中に落とされ、さらに底の奥深くまで引き摺り込まれそうな事に。
雛は少し上を向いて、口を開いた。
「――昔、まだ私が力を上手に扱えなかった頃にね、家に猫が住み着いたのよ」
「猫、ですか」
「えぇ、もうお婆ちゃんだったけど、変な愛嬌がある子でね。起きたら縁側でお腹出して寝てたのよ。最初は私の近くに居たら危ないと思ったけど、追い返しても追い返しても家にやってきて。しょうがないからその子の厄を抜きながら飼う事にしたの」
つらつらと語る雛の顔はどこか寂し気で、そして何かを抑えていた。文にとっても雛にとっても、その何かは分からない。
「一年ぐらい一緒に居たかな。元々年寄りの猫さんだったから、元気は無かったけど……でも、一年間は居てくれた」
「……成程、その一年間は幸せでしたか?」
「そうね、幸せだったかも。でもやっぱり、厄神の幸せなんて続かないんだなって……そう思った」
「まさかその猫の死因って――」
雛は静かに首を横に振った。やはりその顔はどこか愁いを帯びていて、遠くの夕焼けを見ている。儚くも美しい女神のような少女が、琥珀の世界を見つめていた。
「キチンと天寿を全うしたわ。そう、不幸なんて何一つない顔で……その子は眠った」
「……良かったですね。その猫に不幸が降り掛からなくて」
「ふふっ、ここからが笑い話。厄神が命に近付いても碌な事が起きないっていう教訓」
文はそんな厄神の話に聞き入っていた。何故こうも厄神の顔は儚く、そして悲しいのだ。
「……その子のお墓を作って、埋めてあげた次の日。そう、たった次の日、その子のお墓に大量の蟲が集ってた」
「え…………」
「蠅もいたし百足も何かの幼虫も、みんなその子の死体に群がっていた。なんで、そんな事になったのか。死んだからその体に溜まるべき厄が一気に侵入してきたのか――それは分からなかったけど、でも私は、私に幸せを与えてくれた子の亡き骸に群がる虫を、忘れる事は出来ない。厄に触れず、安らかに死んでいったその子を蝕んだ――」
「雛さん」
文に声を掛けられて、雛は自分が涙を流している事に気付いた。いつから泣いていたのか、気が付くと彼女の頬を伝っていた液体は首筋を伝っている。
「やだ私ったら……っ」
「雛さん、これを」
文は立ち上がり、真っ白なハンカチーフを雛に手渡した。彼女はそれを受け取らずに、手で制しながら手の甲で涙を掬った。文はハンカチーフを手にしたまま、もう一度座った。夕焼けは夜の黒へと変わろうとしている。風も冷たく文の肌を撫でていく。
「……ん。そういう訳で、私は虫が嫌い。自分から関係のない命を巻き込んで、それで自分が傷付いてる。ほんと、阿保な笑い話よ」
小さく息を吐いて、そうしてまた彼女は笑った。文が見た限りでは、一番に悲しい笑顔だった。
「……本日はお話してくれて有難う御座います」
「今の話、新聞に書く?」
「いえまさか。ですが、代わりに書くべき事が見つかりました。絶対に書かなくちゃいけない事です」
清々しい声で文は立ち上がった。その時、風が強まり、手に持っていた白いハンカチーフが宙を舞った。呆気なくそれは、既に闇と化した森の奥深くへと消えていった。
「長話してる間に、随分と厄が溜まったみたい。このまま居ると、もっと酷い不幸が貴女に降り掛かる。もう帰りましょう」
雛も立ち上がり、着いた土埃を払う。そして置いていた将棋盤を持ち上げ、更けた夜中の森へと一歩踏み入れる。
「雛さん」
同じ台詞で、またしても文が声を掛ける。
「……なに?」
「私はもう不幸でしょうか?」
答えは明確なのに、雛は最後に明るく笑ってからこう答えた。
「……そうね、とっても厄くて、とても不幸。だからこそ、文は幸せにならなければ為らない。その為の――鍵山雛ですから」
厄神は森の奥へと消えていった。厄い背中を背負ったまま。
翌朝、雛は起きると玄関に置いてある新聞を見つけた。昨日発行されたのに、一日で新しい部が発行されたのだ。週に一回か二回かの発行頻度だったのが、恐ろしい改善。雛はそれを手に取り、丁寧に茶を淹れてから縁側へと腰掛けた。朝の陽は厄神の体と心を包み込み、心を落ち着かせた。手に取った新聞を広げ、彼女は読み耽った。
「……良かったわね、ようやく報われて。おめでとう」
新聞から顔を上げた雛は、庭先へ声を掛けた。その声は微かに震えたが、彼女の顔は――厄神の顔は本当の意味での笑顔だった。
庭の端にある小さなお墓から聞こえた猫の鳴き声は、幸福な厄神にしか聞こえなかった。
一つは“忘却”。どんなに聖人だと謳われていようと命は何かの欲を持つ。人間も妖怪も霊も犬も花も関係は無い。幻想郷ではそれが顕著で、陽気に騒ぎながら酒盛りをする人妖達、つがいを求めて飛び回る小鳥、一切の加減を知らぬかの如く咲き誇る色鮮やかな花々はやはり欲に塗れている。
しかし彼ら自身は、自らが欲望を背負った命の子であることを忘れている。知らない訳では無い。欲を持っていることを自覚しているし、人里近くにある寺ではその欲望を消し去ろうとさえしている。それでも彼らは忘れているのだ。欲は常に纏わりつき、耳元で人生の行き先案内を囁き語りかけているのを。
欲とは厄である。厄い事は欲深い事から始まる――綺麗な因果関係を築いているのは自明の理だ。それなのに、自らに宿る欲を忘却し誘われた厄をその身に溜め込む“命”を、厄神は深く悲しんだ。
そして呟く『嗚呼、幸ならずは忘却の所以也』と。》
「……こんなこと言った憶え無いんだけどなぁ」
穏やかな熱を持った春の朝日が體を包む中、その瑞々しい唇から零れ出た呟きは誰にも聞こえない。
浅葱色の髪を揺らし深紅のドレスに身を包んだ少女――鍵山雛は朝のこの時間が好きであった。日のよく当たる我が家の縁側で茶を啜りながらその日の新聞を読み更かす。面白味の無い趣味だと友人の河童に笑われた事もあったが、雛は笑ってその『面白くない趣味』を河童に勧めた。それぐらい好きだった。
当然ながら河童はもちろん誰一人として彼女の趣味に付き合う者はおらず、結果として彼女は毎朝孤独に新聞を読んでいた。彼女は孤独が好きであった。
「まあ気にしないけど。文が書いたにしては珍しい事書いてあるし」
読んでいるのは随分と空白の目立つ鴉天狗の新聞、その紙面の端にある小さなコラムだ。必要な文字数に足らず、苦し紛れに書き殴られたのであろうその雑なコラム。今回は厄神の話題だった。
鴉天狗の書く新聞は大抵が真偽の分からない眉唾物の話か、異常なほどに誇大されてしまった史実かである。
そして今、彼女が読んでいるコラムも例に漏れず酷い内容であった。
「……別に忘れても忘れなくても、人間は欲深いままよ」
雛は脇に置かれていた緑茶を手に取りゆっくりと口元に寄せた。穏やかな香りと茶葉の渋みが彼女の心を穏やかにする。彼女自身が淹れた茶だったが、存外美味しく仕上がった事に満足気な笑みを漏らした。
「さて、じゃあ二つ目とやらは――」
雛の目線はコラムに戻り、そしてそのまま固まった。鴉天狗の書いた『厄神が恐れる二つ目のモノ』は彼女の視線と心を引き留め続けた。
「はっはっは! いやあ、厄神さんも意外な物で怖がるんだね」
「笑わないでよ、にとり……」
妖怪の山の麓。あらゆる魑魅魍魎が跋扈していると有名なこの樹海に、今も河童と厄神の二人の人外が将棋盤を挟んでいた。
盤面では既に決着が付いている。これで鍵山雛の一二連勝。彼女はこの手の遊戯には神懸かり的に強かった。勿論、勝利の秘訣は対戦相手に掛かる不幸の量が関係しているのだが。
「ごめんごめん、でも面白すぎるよ。長い付き合いだけどまさか雛が虫嫌いだとはねえ。しかも新聞に載るぐらいの、なんて」
《二つ目は、虫である。何を馬鹿な事を、と思う者が多いかもしれないが、これはれっきとした事実である。
この幻想郷には厄神は一人しか居ない。鍵山雛氏の事である。つまり厄神の事を知る為には彼女の事を知らねばならない。幻想郷に於いてはつまり、彼女の恐れる物こそ厄神の恐れる物なのだ。
虫という生き物はどのような場所だろうと現れる。そんな存在を恐れても恐れの対象は際限なく沸き続けるばかりである。彼女が虫を恐れる理由――次回はそれを説明する予定である。
それでは最後に、彼女が虫を恐れている証拠写真を載せてコラムを締めさせてもらおう。写真の掲載を快く承諾してくれた鍵山雛氏に深く感謝の念を表す。》
「それにしても良い写真。友人の写真写りが良すぎて羨しいよ」
「……馬鹿にしてるでしょ」
「まさか」
にとりは笑ってコラムに載せられた写真を指で弾いた。そこにはやはり、不幸と厄を扱う有難い神様が縁側から百足を火バサミで放り投げる姿が収められていた。腰は引けており、顔は蒼白。威厳も何もなかった。
「この時はなに、家に百足が入ってきて恐る恐る家から追い出したって感じ?」
「……どんな小さな虫でも私の近くに居たら不幸になるから助けてあげたの」
「あんなへっぴり腰で? ほー、ふーん」
雛は大きく息を吸い、そして吐き出した。森の静かな空気が彼女の体を満たし、その心を落ち着けようと全身に巡るが、深呼吸程度では彼女の心労は癒えなかった。天狗の新聞の影響力は凄まじく、大抵の者はもうこの厄神様の間抜けな写真を見ているだろう。いやらしい笑みを浮かべる目の前の友人のように。
この時ばかりは雛は文の事を恨んだ。滅多に人を恨まない厄神だが――恨まれた人物の生命の保証にも関わるからだ――この写真を隠し撮りし、挙句には世に広めた鴉天狗に、正義の鉄槌を下してやりたい気分であった。
そんな事を考え雛が震えていると、静かな森に声が響いた。声の主は木々を跳ね、枝を揺らしながら二人の前にその姿を現した。
「よっと……にとり、雛、お早う御座います」
「おぉ、椛。今日はオフなの?」
「昨日は一日働き詰めでしたから。それでさっき“視えた”ので寄りました……あっ、早速やってますね」
服に付いた木の葉を払いながら、椛は将棋盤を覗き込んだ。するりと伸びた尻尾が暴れるようにして左右に振れる。雛は何となくその尻尾を目で追ってみたが、その動きに特に何かの意味がある訳でも無いのでやめた。
「もう詰んでるじゃないですか……にとり、最近なんか負け続けていませんか?」
「いやいや、雛が強すぎるんだって。私は弱くない」
「――と言ってますけど、雛はどう思います?」
「こほん、ズバリ……にとりが弱くなっています」
「ぅわーあんまりだぁ」
その時はたと雛は思いついた。それはとても斬新なアイデアで、文に一泡吹かせられるのではないかと。普段の彼女なら考え難い事だが、あの新聞を見てから少し彼女の考え方は変わっていた。
「ねえ椛、文の嫌いな物って知ってる? どんな物でも良いから」
「えっ、いきなりですね……うーん、私が思いつく限りでは無いと思いますよ。中々弱みを見せませんから」
「じゃあ、何かこう、文が避けてる物とか――」
そう聞いた時、椛が少し困ったような、それでいてどこか面白そうに笑みを浮かべたのを雛は見た。
「雛、やっぱりちょっと怒ってるんですね」
「――え?」
「新聞の事、でしょう?」
雛の脳に火花が散った。もう本当に、誰でも知っているのだ。壊れたように目を白黒させている雛を見てにとりは吹き出した。
「あっはは。可哀想に、雛の知名度が良いように上がっていく」
「悪いように、だと思うんですけど。雛しっかりして。虫嫌いは恥ずかしい事じゃないですよ」
「そうですよ、恥ずかしい事じゃありません。むしろ乙女チックです」
その声は椛と同じように木々の間から抜けて、そして目の前に降り立った。
文が恭しく頭を下げたのとほぼ同時に、にとりが呆れたように笑った。
「文はいつも登場が急だよ。急というか、唐突」
「これは失礼。私、日ごろから多忙でして……中々どうして早歩きの癖が抜けなくなってしまいましてね」
「……へぇ、鴉天狗は空を歩くんですね。知りませんでした」
「おや、椛も居たんですね。私の高尚な冗談も貴女には通じませんでしたか」
そのまま噛み付きそうな顔の椛を差し置いて、文は雛に歩きよった。ペンと手帖を取り出して、ゆっくりと詰め寄る。その顔はいつも通りの笑顔であった。
「雛さんこんにちは! 今日は少しばかり御用がありまして。少しお時間を頂けないかなぁ、と」
「奇遇ね、私も聞きたい事があったの」
「それは好都合ですね。とは言っても何を聞かれるかは想像付きますが」
にとりは今更になって後悔した。椛は文に会って苛立っているし、文は椛に会って苛立ち、雛は新聞の事で文に嫌疑の目を向けている。少し突けば爆発しそうな空気感だった事に気付くのが遅すぎたのだ。
「ズバリお聞きしたいのが『どうして貴女は虫嫌いなの?』です。次回の「文々。新聞」にどうしても必要な事でして……どうでしょうか?」
「答えてあげても良いけど、ちょっと交換。文の嫌いな物を教えてくれたら話す気になるかも」
「そうですね……団子とお茶でしょうか。なるべく高級な奴で」
刹那、椛が唸り文の前に飛び出た。牙を剥き出し、敵意を露わにしながら文に言い放つ。
「その何かと言えば鼻に付く言い方……もう我慢なりません! 文さん、いい加減貴女はその態度を改めるべきです」
「ちょ、ちょっと椛、落ち着きなって。文もニヤニヤしてないで説得とか――」
慌てたにとりが止めに入るが、またしても彼女は気付くのが遅れた。この展開になった時、いつも結果は一つだけだった事に。
「ふふん、いつも通りの短絡的な思考、見ていて恥ずかしくなってきます。良いでしょう、私の取材を邪魔する無粋な白狼天狗には喝を入れてあげます。さあ、手加減してあげるから本気で掛かってきなさい!」
「あーもう! やっぱりこうなった!!」
唐突に始まる弾幕の宴。数秒経たず内に将棋盤はひっくり返り、空気が震え、地が抉られる。こうなると、にとりと雛はこの弾幕の嵐が早く終わる事を祈るだけだが、今日の雛は心の中で椛を応援していた。その事に雛自身が気付いた時、彼女は小さく自嘲的な笑みで笑っていた。
今日の雛はとことんいつもと変わっていた。
陽の色が橙色に変わり、辺りの木々が大分剥げてきた頃、ようやく即興で始まった弾幕ごっこは終わりを迎えた。
ボロボロになりながらも噛み付こうとする椛をにとりが抱き抱え、彼女らは帰っていった。雛も手伝おうかと声を掛けたが、今日はもう長く居過ぎたから、と断られてしまった。事実、丸一日厄神と共に過ごせば何が起こるかは皆が知っている事だった。これだけ長い時間を過ごしながらも、まだ大きな不幸が訪れていないというのはとても稀な事で――文と椛の衝突は別に雛が居なくても始まっていただろう。起こるべくして起きた事だ――それと同時に危うい状態だった。
そういう訳で鍵山雛も帰ろうとしていた。将棋盤を片付け、家に持ち帰ろうと持ち上げる。所々ひしゃげた地面に気を配りながら一歩踏み出す。
「雛さん」
声のした方に振り向けば、そこには傷一つない綺麗な格好で文が立っていた。椛の相手ぐらい、彼女には朝飯前なのだろう。その実力が逆に椛を苛つかせているのだろうに。雛は少し椛に同情した。
「まだ諦めないつもりなの?」
「まあまあ、ちょっと向こうに行きましょう。私、良い場所知ってるんですよ」
私と居て不幸になるのは彼女なのに――雛はそう考えながら、彼女の歩く方へと続いた。
夕焼けの森の中、特に会話も無く二人は進んで行く。不思議な空間だった。気が付けば麓から大分離れ、かなりの高さまで登っていた。
「此処です。どうですか、凄いでしょう!」
振り向き、文は雛にとっておきを見せた。遠慮するかのように脇に退いた木の葉が、まるで絢爛たる額縁のように沈み行く夕暮れと琥珀に染まり切った妖怪の山を飾っていた。
「……綺麗」
雛の呟きを聞いた文は得意げに口を開く。さながら自慢の玩具を語る子供のように。
「私のお気に入れです。記事で詰まるような事があれば、此処まで一っ飛びして……ぼうっとするんです。此処の風を肌に沿わせれば、そのまま詰まらない事も流してくれそうで」
文は地べたに座って隣に座るよう勧めた。雛はそれに答えて、彼女と少し離れた場所に腰を下ろした。
「で、こんなムードたっぷりな所で女の子の虫嫌いを根掘り葉掘り聞き倒す訳?」
「そう言われると耳が痛いですね」
暫くの沈黙。連れて来られた時のように不思議な静けさが辺りを包んだ。が、文がその沈黙を崩す。
「――私は別に雛さんの虫嫌いを世に広める為だけに記事にした訳じゃないんです。信じてくれるか分かりませんが、私は清く正しい射命丸です。その私の仕事は、真実を報せる事。そして真実を見つける事です。いやまあ、新聞を読んでもらうっていうのも大事ですけど」
「…………」
「欲深い事は厄い事……一つ目のあれ、まあ適当に書かせてもらいました。時間的な都合と文字数の都合ですが。でも雛さんの虫嫌いは……本当の事、ですよね?」
雛は特に何も言わず、ただ夕焼けを見ていた。只々、綺麗。
「最初は『あぁ文字数足りたし面白い写真撮れてラッキー。次号で書く事決まって万々歳』でしたよ。そこは否定しません。でもなんか……そう、貴女と居る内に、ふつふつと興味が沸いてきたんです。貴女の虫嫌いという真実を創り出したその一歩奥の真実が」
「……そう」
「そうなんです。もし貴女が望むなら記事にはしません。写真は……どうにもなりませんが次から控えるのは約束します。ですからお願いです。雛さんの真実を、お話しくださいませんか」
雛は薄々感付いていた。彼女がもう不幸の最中に落とされ、さらに底の奥深くまで引き摺り込まれそうな事に。
雛は少し上を向いて、口を開いた。
「――昔、まだ私が力を上手に扱えなかった頃にね、家に猫が住み着いたのよ」
「猫、ですか」
「えぇ、もうお婆ちゃんだったけど、変な愛嬌がある子でね。起きたら縁側でお腹出して寝てたのよ。最初は私の近くに居たら危ないと思ったけど、追い返しても追い返しても家にやってきて。しょうがないからその子の厄を抜きながら飼う事にしたの」
つらつらと語る雛の顔はどこか寂し気で、そして何かを抑えていた。文にとっても雛にとっても、その何かは分からない。
「一年ぐらい一緒に居たかな。元々年寄りの猫さんだったから、元気は無かったけど……でも、一年間は居てくれた」
「……成程、その一年間は幸せでしたか?」
「そうね、幸せだったかも。でもやっぱり、厄神の幸せなんて続かないんだなって……そう思った」
「まさかその猫の死因って――」
雛は静かに首を横に振った。やはりその顔はどこか愁いを帯びていて、遠くの夕焼けを見ている。儚くも美しい女神のような少女が、琥珀の世界を見つめていた。
「キチンと天寿を全うしたわ。そう、不幸なんて何一つない顔で……その子は眠った」
「……良かったですね。その猫に不幸が降り掛からなくて」
「ふふっ、ここからが笑い話。厄神が命に近付いても碌な事が起きないっていう教訓」
文はそんな厄神の話に聞き入っていた。何故こうも厄神の顔は儚く、そして悲しいのだ。
「……その子のお墓を作って、埋めてあげた次の日。そう、たった次の日、その子のお墓に大量の蟲が集ってた」
「え…………」
「蠅もいたし百足も何かの幼虫も、みんなその子の死体に群がっていた。なんで、そんな事になったのか。死んだからその体に溜まるべき厄が一気に侵入してきたのか――それは分からなかったけど、でも私は、私に幸せを与えてくれた子の亡き骸に群がる虫を、忘れる事は出来ない。厄に触れず、安らかに死んでいったその子を蝕んだ――」
「雛さん」
文に声を掛けられて、雛は自分が涙を流している事に気付いた。いつから泣いていたのか、気が付くと彼女の頬を伝っていた液体は首筋を伝っている。
「やだ私ったら……っ」
「雛さん、これを」
文は立ち上がり、真っ白なハンカチーフを雛に手渡した。彼女はそれを受け取らずに、手で制しながら手の甲で涙を掬った。文はハンカチーフを手にしたまま、もう一度座った。夕焼けは夜の黒へと変わろうとしている。風も冷たく文の肌を撫でていく。
「……ん。そういう訳で、私は虫が嫌い。自分から関係のない命を巻き込んで、それで自分が傷付いてる。ほんと、阿保な笑い話よ」
小さく息を吐いて、そうしてまた彼女は笑った。文が見た限りでは、一番に悲しい笑顔だった。
「……本日はお話してくれて有難う御座います」
「今の話、新聞に書く?」
「いえまさか。ですが、代わりに書くべき事が見つかりました。絶対に書かなくちゃいけない事です」
清々しい声で文は立ち上がった。その時、風が強まり、手に持っていた白いハンカチーフが宙を舞った。呆気なくそれは、既に闇と化した森の奥深くへと消えていった。
「長話してる間に、随分と厄が溜まったみたい。このまま居ると、もっと酷い不幸が貴女に降り掛かる。もう帰りましょう」
雛も立ち上がり、着いた土埃を払う。そして置いていた将棋盤を持ち上げ、更けた夜中の森へと一歩踏み入れる。
「雛さん」
同じ台詞で、またしても文が声を掛ける。
「……なに?」
「私はもう不幸でしょうか?」
答えは明確なのに、雛は最後に明るく笑ってからこう答えた。
「……そうね、とっても厄くて、とても不幸。だからこそ、文は幸せにならなければ為らない。その為の――鍵山雛ですから」
厄神は森の奥へと消えていった。厄い背中を背負ったまま。
翌朝、雛は起きると玄関に置いてある新聞を見つけた。昨日発行されたのに、一日で新しい部が発行されたのだ。週に一回か二回かの発行頻度だったのが、恐ろしい改善。雛はそれを手に取り、丁寧に茶を淹れてから縁側へと腰掛けた。朝の陽は厄神の体と心を包み込み、心を落ち着かせた。手に取った新聞を広げ、彼女は読み耽った。
「……良かったわね、ようやく報われて。おめでとう」
新聞から顔を上げた雛は、庭先へ声を掛けた。その声は微かに震えたが、彼女の顔は――厄神の顔は本当の意味での笑顔だった。
庭の端にある小さなお墓から聞こえた猫の鳴き声は、幸福な厄神にしか聞こえなかった。
私の家にも2匹の猫のお墓があり、いつのまにか住み着いた3匹目の猫がいます。
その猫が生んだ2匹の子供を、私は川に投げ込みました。
私の厄は重いでしょう。
一生忘れない、そんな事を考えながらお話を楽しみました。
ごちそうさま。
堪能させていただきました。