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#01 車輪は巡る
夏の暑さなんてへっちゃらさ。
彼女はそう豪語していたが、翌日には溶けて川をくだり、湖の水と区別がつかなくなった。エタニティラルバは約束どおり、彼女の形見である「夏の離宮」に住まわせてもらった。しばらくは快適に過ごせたが、間もなくそれも溶け崩れてしまった。加護は消えていたのだ。
同じころ、里からひとりの男の子が湖まで通ってくるようになった。釣竿を垂らして日がな一日、動かぬ水面を眺めている。翅(はね)を畳んで隣に降り立ち、声をかけてやると、彼は驚いて釣竿を振り回した。エタニティラルバも驚いてひっくり返り、その拍子に臭角が飛び出した。男の子はひと嗅ぎで気絶してしまった。そのまま放置するのも悪いので、知り合いに頼んで全身を繭でくるみ、絞首刑をくらった海賊よろしく里の門に吊るしてもらった。これなら野犬に襲われることもないだろう。
彼女が戻ってきたのは暑さも和らぎを得たころだった。
あんた誰。
それが第一声だった。エタニティラルバは改めて自己紹介した。
長い名前ね、と彼女は云った。
ラルバは腰に手を当てて笑った。
サニーミルクにルナチャイルド、スターサファイア。妖精ならこれくらいの長さは普通だよ。
分かりづらい。
分かりづらいって、こいつらもあんたの知り合いじゃない。
そうだったかなぁ。
エタニティラルバは溜め息をついた。
……まぁ、休んじゃったもんね、仕方ないか。
彼女は真っ白な頬を爪でかいた。視線をそらして、湖畔に打ち寄せるさざ波を見ていた。
前は溶けちゃったらしいけど、次はもっと強くなってみせる。見ててよね。
男の子は懲りずにまたやってきた。今度は釣り道具だけでなく、スケッチブックやルーペ、臭い対策の手ぬぐいなどを持参していた。鉛筆の芯をむき出すまで削りこみ、人差し指と親指で長方形を作って切り取るべき風景の模索を始めた。ふらふら飛んでいるところを呼ばれたエタニティラルバは、指を唇に寄せて笑った。
男の子が横目でにらんできた。
どうしたのさ。
だって、子供のくせに恰好つけてるのが何だかおかしくて。
何事も型を大事にすべきなんだよ。始めが肝心なんだ。
学者だか職人みたいな物云いだね。
彼は刈り上げた髪をぱっと跳ねさせた。そうだよ、僕は将来学者になりたいんだ。
あの里で?
そう。――さ、その岩の上に立ってみて。
なんでさ。
昆虫をスケッチするんだ。
モデルになるのは初めての経験だった。エタニティラルバは思いつく限りのポーズをとってみたが、普通にしてて、と冷たくあしらわれたので頬を膨らませた。吐くまで鱗粉を吸わせてやろうかと思った。
男の子は真剣な表情でスケッチを続けながら云った。
面白いね、君の服装。
そうかしら。
翅は間違いなくアゲハチョウだけど、お腹のところは蛹(さなぎ)だし、スカートと触角は幼虫みたいだ。
うーん、褒め言葉として受け取っても好いのかな。
もちろん。とっても興味深いよ。――生き物の命、そのものだもん。
せっかく描き上げたスケッチを、彼は見せてくれなかった。まだ駄目、恥ずかしいからと云い訳して。
男の子は名前を訊ねてきた。エタニティラルバは名乗った。彼が指を動かしてスケッチブックに言霊を書き留めるのが見えた。
ラルバは呟いた。あんたは、ちゃんと憶えていてね。
え、何?
なんでもないよ。
#02 時は廻る
彼女は夏になる度にお天道様に戦いを挑み、はかなく散っていった。だが形見の「離宮」は長持ちするようになったし、進歩はあったのかもしれない。紅い霧の異変が起こったときは、巫女にまで戦いを挑んだらしい。二人の付き合いは続いていて、岩の影で涼んでいると、彼女は決まって声をかけてきた。
何してんのさ。
――私の名前。
うん?
とぼけないで。
アロマ?
ラルバよ、このバカチン!
私だってバカだけど、あんたはそれ以上だ、とエタニティラルバは云い放った。
さしもの彼女もカチンときたらしい。氷精が羽を広げると、冷気がラルバの背筋を這い上がってきた。自分の翅が、強風に煽られる凧のように頼りなく感じられた。寒さは痛みを通り越して眠気まで運んできた。
――あ、ごめん。
彼女は冷気を引っこめた。尻餅をついたエタニティラルバは、ぽろぽろと涙をこぼしながら、彼女の服の裾に鱗粉をこすりつけて復讐を果たした。
これがメビウスの帯。
しゃがんで目線の高さを合わせながら、青年は解説してくれた。半回転ひねって端っこを糊でくっつけただけの、紙の切れ端だ。三回目の説明で、ようやくラルバはその不思議に気がつくことができた。思わず手を叩いていた。
面白いね、これが「科学」なんだ。
そうだね、青年はうなずいた、往って、戻って、往って、また戻る。同じことの繰り返しなのは永久に変わらないけど、ほんの少しの工夫で世界の裏側に「こんにちは」することができるんだな。
大げさ。
彼は眼鏡を外してから、またかけた。「夏の離宮」の空間は狭く、ひんやりとしていて、青年の声は好く通った。
大げさだけど、大切なことなんだ。気づきというのは。
ラルバは広げた翅で青年の背中を覆った。二人分の息遣いが「離宮」の天井によどんだ。やがてエタニティラルバは云った。
君は、……賢くなったね。
彼は首を振った。まだまだこれからだよ。
私たち妖精は、ずっとこのまま。休めばスタートラインからやり直し。名前さえ忘れられる始末。――ま、別に好いんだけどさ。
青年は言葉を選びながら答えた。
……それでも、このかまくらは君の友達が頑張って作ってくれて、この暑さでも溶けずにちゃんと残ってる。並大抵のことじゃない。妖精だって成長するさ。強くなれるよ。僕が保証する。
エタニティラルバは返事をしなかった。顔をそらして聞かなかったふりをした。
やがて、夏の間中、「離宮」が溶けずに残り続けた年が訪れた。彼女は疲れ切りながらも、太陽に向けて勝利宣言を発した。おかげでエタニティラルバは、半ば別荘と化していたその場所を使うことはできなくなったが、彼女のふんぞり返った様子を見ていると、言葉は引っこんだ。彼女は真っ先に報告に来てくれたのだ。
今度こそ大丈夫だよ、ルンバ!
――やっぱり駄目じゃないの、このバカチン!
エタニティラルバはそう叫び返してから、彼女の胸に飛びこんだのだった。
秋が深まったころ、青年が久々に湖までやってきた。
結婚することになったんだ。
開口一番に、彼はそう云った。
結婚?
次の代に命を繋ぐための、大切な儀式だ。
そっか、思い出した。お嫁さんね。
うん。
綺麗なひと?
ああ、もちろん。――式の当日、行列が柳の運河沿いを通る。好かったら、見に来てくれ。
エタニティラルバはうなずいた。
そっか、君もそんなに大きくなったんだね。
彼の言葉通り、その日、大勢の正装した人びとが里の門から出て行進を始めた。エタニティラルバは空から行列を見守った。太鼓の音に合わせるように、稲穂の波がそよいでいた。紅葉した山々は風景に彩りを添えていた。厳かな顔で彼は歩み続けた。隣の女性に眼を配りながらも、遂にこちらを見つけたらしく、一度だけうなずいてくれた。
エタニティラルバは片手を挙げたが、すぐに下ろして、指で眼尻を拭った。人間の結婚式を見るのは初めてではなかったが、その時分だけ、――照れた顔をごまかそうと表情を引き締めている、大人になった彼の姿を眺めているその時分だけ、目頭が熱くなったのだった。
立派になったね。エタニティラルバは呟いた。ほんとに立派になったよ。
#03 命は芽吹く
チルノを見つけたとき、エタニティラルバは胸が大きく膨らんだように感じられた。
「夏はサイコーだぜー!」
会ったのは久々だったが、彼女はただのチルノではなくなっていた。
「お、日焼けしたねぇ」
ラルバは声をかけた。チルノは両手を腰に当てて高笑いした。氷の妖精様は、夏にこそ本領を発揮するのだ。
「アゲハ蝶の妖精だって負けてないよ!」
エタニティラルバは腕を広げた。力が無限に湧いてきて、今なら弾幕を鱗粉のようにまき散らすことだってできるだろう。
――夏を賭けた勝負は、彼女の勝利に終わった。
チルノは自信を深めたようだ。「このまま幻想郷を支配してやんよ」とのたまった。
エタニティラルバは口角を上げた。
「私の分も頑張ってきてね! ――期待してるわ!」
去り際に彼女は笑顔で云った。「ありがとね、ラルバ」
彼女の帰りを待つ間、エタニティラルバは彼から受け取った思い出のスケッチブックを眺めていた。同封されていた写真には、彼とその家族が映されていた。幼い子供は昔の彼にそっくりだった。すこし生意気で、そして可能性を秘めていた。その可能性は人間にも妖精にも等しく与えられているはずのものだった。幼虫から蛹に変わり、やがて成長して翅を手に入れる。最後には、あの子のように種族の限界さえも塗りかえて、世界の裏側までひとっ飛び……。
彼が初めて写し取ってくれた自分の姿は、下手っぴながらも特徴を好く捉えていた。書き添えられた自分の名前が今にも紙から浮かび上がりそうに見えた。エタニティラルバはスケッチブックを閉じて胸に引き寄せた。安らかな寝息が天井まで昇っていった。身体を丸めて「離宮」に閉じこもったその姿は蛹のようだったし、その寝顔は幼虫のように幼かったが、誇らしげに広げられた翅は、まさに成虫の証なのだった。
#04 さらわれてきた娘
麓の村では胡瓜を作らない。ある娘が、収穫した胡瓜を川で洗っているうちに行方不明になったからだ。
彼女は坂田ネムノの近所にさらわれてきた「新入り」だった。「嫁入り」と云っても好い。新たに夫となった山男は、人さらいであることを除けば気の好い奴だった。時どき山を降りて川で魚を釣った。何匹かおすそ分けにもらったこともある。その日も娘が洗っていた胡瓜を何本か分けてくれた。背負われた彼女は呆然とした顔で涙も枯れていた。
ネムノは研いでいた鉈の調子を確かめながら声をかけた。
お前さん、また連れてきたのかい。
山男はうなずいた。
あまり乱暴しなさんなよ。山の生活は初めてなんだからな。
ネムノは冬の備えとなる柴を刈りに山へ分け入る。束ねた柴を草庵の天井に積み重ね、夜になれば囲炉裏の煙でいぶし、乾燥させる。朝になると鶏に餌をやり、頃合いになれば絞めてやる。朝陽を浴びながら畑に水をまき、山菜と鶏肉のスープを雑穀と共にいただく。食事の後はすこし眠る。天気の好いときには手製の椅子を庭に持ち出し、行き倒れた外の人間から拝借した雑誌を読み漁る。外の字はほとんど読めないが、掲載されている写真の女性が大変着飾ってべっぴんさんなことは分かる。赤いリボンが大層似合っている。ネムノは立ち上がって水面に顔を映しては、雑誌の女性と自分の服装とを比較する。指を濡らして髪をセットしたりする。そして溜め息をつく。
娘は物覚えが早く、要点を教えてやれば大抵のことはできた。茸とインゲンの乾かし方も問題なく覚えた。だが洗濯の度に涙を流していた。帰りたいと何度も訴えてきた。
悩みを聞かされたのがうちで好かったべ。
どういう意味ですか。
さらわれたら最後、あんたは山の人間。間違っても逃げ出そうとは思わない方が好い。
謝礼は何でもお支払いします。助けてくださいませんか。
ネムノは唇を尖らせた。波打つ灰青色の髪を指で梳いた。
うちが欲しいのは安寧な生活だけだべ。でもって、お前さんが欲しがってるのは、その平和をぶち壊しかねないことだ。
娘は洗濯の手を止めた。楓の葉が、川面を音も立てずに滑り降りていった。
でも、酷いです。残酷ですよ、こんな……。
ネムノはうなずくことも首を振ることもしなかった。娘が髪を縛るために使っている赤い帯をじっと見ていた。
御山は里に恵みをもたらすが、仏様ってわけじゃねぇ。ネムノは語った。それ相応の対価が課せられるんだ。お前さんはその対価として選ばれた何人かのうちのひとりだ。要するに運が悪かったんだべ。運は平等だ。受け容れるしかないんだよ。受け容れさえすれば、そして御山の決まりを守ってさえいれば、ここの生活も悪くない。
――悪くないんだべ、とネムノは云い聞かせた。
夜半になってネムノは夢から覚めた。枯草を詰めた敷布から転げ落ちていた。頬に触れると涙の跡があった。外に出て、秋の夜長の月を眺めた。肌寒さに身震いした。二の腕をさすりながら、ネムノは同じ言葉を繰り返し唱えた。
牝犬の子、牝犬の子、牝犬の子……。
首を振って呪詛を追い出すと、草庵に戻りかけた。くぐもった声が木立の奥から聴こえてきた。娘の声だ。堪忍してぇ、という悲鳴も。ネムノは様子を見ようと踵を返しかけたが、思い直して戸を閉めた。彼女の叫びを頭蓋から追い出して、両膝を引き寄せ、胎児のような恰好で再び眠りに落ちた。
#05 硝煙の匂い
鉄砲を担いだ男が、三人。
ネムノは鉈を下ろして敵意がないことを示した。だが陽光を反射する刃物のぎらつきは、彼らの警戒を解くには凶悪すぎたらしかった。普段から大切に研ぎすぎたのが裏目に出たな、と心のうちで反省した。ネムノは魚の入った壺を割らないよう慎重に岩場へ置き、血糊のついた指を洗い、水で顔を清め、服の裾を検めたあと、癖っ毛を直そうと無駄な抵抗を試みてから、彼らに向き直った。久々の来客に、少しでも品好く見せたかったのだ。
ひとりが歩み出てきた。
山を荒らそうってわけじゃないんだ。
手に持った皮袋を差し出してくる。受け取って中身を確かめると、それは真っ白な塩だった。
うちは甘いほうが好きなんだべ。
砂糖は用意できなかった。悪いな。
で、何の用だべ。ここはうちらの縄張りだ。
娘を探している。ちょうどあんたくらいの年頃だ。厩別家の大切なひとり娘なんだ。知っているのなら、案内してほしい。
コイツが喰らってなければの話だけどな。その場合、案内先はコイツの胃袋ン中ってことになるぜ。
これは別の男の言葉だ。彼だけは引き金から指を離していない。
ネムノは眼を細めた。彼らの銃には火縄がなかった。形も様変わりしていた。着火せずとも撃てるらしいことは見て取れた。里の技術は気づかぬうちにずいぶん進歩しているらしかった。思わず溜め息が漏れた。
娘のことは、知らない。天狗にさらわれたんじゃないのか。
嘘をつくな。三人目の男が云った。その鉈の柄についている赤い帯、見覚えがあるぞ。
ネムノは得物を取り落としそうになった。
――こ、これはあの娘からもらったんだべ。決して喰らったわけじゃない。
ほら、やっぱり知ってるじゃないか。
あ。
ネムノは、交渉事が得意ではない。
貴方も、さらわれてきたのですか。
以前に娘はそう訊ねてきた。ネムノは日向ぼっこをしながら例の雑誌を読んでいた。しゃぶっていた干し柿を飲みこんで半身を起こす。そんなこと訊いてどうすんだべ、と答えた。
里に戻りたいとは思わないんですか。
うちは自分の意思でここにいるんだ。人さらいに遭ったわけじゃない。
でも、こんな山奥で、毎日独りぼっちで暮らすなんて、私には耐えられません。
そう思っているうちは、山姥としてはまだまだだべ。
だから帰りたいんですよ。
うちらは本来同族とは暮らさない。お前もさっさと自立しろ。
そんな無茶な……。
今は仕方ない。でも、真っ当に生きることを考えるなら、独りっきりがいちばん好いんだべ。うちはそれを学んだから長生きできた。
娘は黙りこくった。ネムノが読んでいるぼろぼろの雑誌を横から見ていた。ネムノが同じ頁をずっと睨んでいると、娘は再び声をかけてきた。
やっぱり、本当は羨ましいんじゃないですか?
……おしゃれは、してみたいべ。
その言葉を聴いて、娘は髪の帯を解いたのだった。
山男が沢から帰ってきたとき、すでに一行は撤収準備を始めていた。彼は娘を、男たちを、そしてネムノを順番に睨みつけた。三人の男たちの間で一気に緊張が走った。山男は獣を打ちすえるための棍棒を持っていたが、その先端にはお誂え向きのように血液と肉片と獣毛がこびりついていた。里の男たちが銃を構え、山男は一歩前に踏み出した。ネムノは間に割って入って山男に向けて云った。
ねぇ、今回は諦めなよ。次があるよ。
――二度とやるな!
男たちが同時に叫んだ。なるほどごもっともだった。山男はうなった。一歩も引かない様子だった。男たちのうちのひとりは明らかに震えていた。先ほどネムノに対して挑戦的な態度をとってきた奴だ。こうした時に真っ先に引き金を引くのはいちばん怯えている奴なのだということを、ネムノは過去の経験から知っていた。
そして事実、その通りになった。
次に山男が足を動かした瞬間、銃口が火を噴いた。轟音でネムノはひっくり返った。起き上がったときには彼は斃れていた。紅葉の絨毯に赤い血が染みこんでいった。見開かれた眼には何が起こったのか分からないと云いたげな戸惑いがあった。彼の知識は前時代で止まっていたようだった。火縄がなくても、今の銃は撃てるのだ。
ネムノは鉈を放り出して彼に取りついたが、どう頑張っても手遅れだった。男たちは顔を見合わせてから、また戻した。娘は耳を塞ぎながら震えていた。ネムノは振り返らずに呟いた。
……さぁ、はやく山から出ていくんだべ。こんな山奥で鉄砲を使っちまったんだ。天狗共が黙っちゃいないよ。
今度、うちらの縄張りを荒らしてみろ。きっと腹を掻っ捌いてやる。
電流を喰らったように里の男たちは撤退を開始した。娘が何かを云った。ネムノは首を振った。黙って死骸の手を握り続けていた。
#06 流るる紅葉
「悪かった。領域を侵すつもりはなかったんだ」
「天狗はいつもそう云って有耶無耶にするんだべ」
坂田ネムノは腕を組んで闖入者の姿を見つめていた。白狼天狗の少女。盤刀と、紅葉の柄が鮮やかな盾を携えている。
「獲物を追っているうちに夢中になって、つい……」
「その甲斐はあったみたいだべな」
立派な体躯の猪だった。横っ腹に幾本もの矢と刀傷。だがいちばんの致命傷になったのは、騒動で叩き起こされたネムノが首筋に振り下ろした鉈の一撃だ。
「不可侵条約を破り、止めにも失敗したんだべ。この獲物はうちが貰い受ける」
「そんな、横暴だ!」彼女は途端に耳を垂れて声のトーンを落とした。「そいつ、久々にありつけるご馳走なんだよ。収穫ゼロなんて仲間になんと云われるか……」
「なんだいそりゃ、お前さん独りで喰っちまえば好いじゃないか」
「獲物はみんなで分け合うんだ。その方が結果的にはみんな幸せになれる」
「天狗の理屈はどうでもいいべ」ネムノは答えた。「さぁ、喰いたいならバラすのを手伝ってくんろ。こいつぁひと苦労だ」
解体作業を続けながら、自然と二人は打ち解けていった。白狼天狗は親しげに話しかけてくるようになった。
「意外だなぁ。山姥はもっと閉鎖的で、非友好的だと思っていたよ」
「今日は機嫌が好いだけだべ」
「どうして下の人間と関わらないんだい。悠々自適に暮らしながら、御山の恵みを卸して暮らす。素晴らしいじゃないか」
ネムノは少しだけ笑った。「……こんな辺鄙なところで暮らすのは、うちらだけで充分だべ」
さぁ、お茶にしよう。秋の日は鶴瓶落としと云うからね。休憩を入れたら、さっさと仕上げちまうべ。
ネムノはそう云いながら、血糊のついた鉈が輝くさまを見つめた。柄に結びつけられた赤い帯が、秋の風に吹かれて揺れていた。
#07 桜の巫女
神社に漂う香の匂いが変わった。桜の季節にあの子はやってきた。彼女が、新しい博麗の巫女だ。
高麗野あうんは頭をもたげた。伸びをしてから尻尾をひと払いし、鳥居に腰を落ち着けて境内の様子を眺めた。おぼつかない手つきで竹ぼうきを動かしている少女がひとり。あんな小さな子が独りぼっちで神社を任されている。でも、これはいつも通りだ。掃除を終えると戸棚からお茶っ葉とお煎餅を取り出す。巫女にとっては至福の時間。これも、いつも通り。異変が起これば彼女は出かけていく。見当なんて何もないはずなのに、視線はまっすぐ彼方を捉えている。これも、変わらない。
問題なのは、ここからだった。
無数のコウモリに姿を変じた悪魔が、ひと通りの弾幕を打ち出してしまえば、それで決着がついた。あうんはぼろぼろになって鳥居の下に這いつくばっていた。右手を伸ばして自慢の角が折れていないことを確かめると、安心して死んだフリをした。
ごめんなさいね、やり過ぎちゃったかしら。
吸血鬼の少女は云った。
ねぇ、巫女はどこ? 普段はここにいるって聞いたんだけど。
あうんは動かなかった。前方で障子が猛烈な勢いで開けられる音がした。すぐに指を鳴らして姿を消した。茂みから様子を窺っていると、巫女が悪魔を怒鳴りつけているのが見えた。誇り高い吸血鬼は、両手で頭をかばいながら彼女の説教を聞いていた。あうんは口を半開きにしてその様子を見ていた。
昼寝は巫女の日課だ。春の夕暮れは思いのほかに肌寒い。あうんはつま先立ちで縁側を忍び歩き、座布団を枕にして眠っている少女を見下ろした。臍(へそ)を丸出しにして、上着は頑として羽織らない。
社務所の中は竹馬の友のように知っている。押入れから毛布を一枚取り出すと、巫女の身体にそっとかけてやった。それから彼女が起き出すまで、あうんは寝顔を見守っていた。貴方は何者なの、という呟きが口から漏れた。
#08 月になった彼女
再び桜の季節になり、数日おきにお花見を兼ねた宴会が繰り返されたことがあった。あうんは居ても立ってもいられずに、宴もたけなわになったころ、酒と食事を少しばかり失敬した。これほどの数の妖怪が神社に集ったのは初めてだった。あうんは茂みの定位置で飲み食いしながら、宴の席に乗じて巫女に闇討ちする不届き者がいないかどうか、眼を光らせていた。万が一のために、大陸から伝わった秘蔵の書を久々に紐解き、項羽と劉邦の「鴻門之会」を始めとした謀略伝を徹底的に復習した。酔っぱらった半人半霊の少女が宴会芸と称して剣の舞を始めたときは、もう少しで茂みから躍り出るところだった。
結論から云うと、勝負はまたもや一瞬で片がついた。
なんだい、狛犬かい。珍しいね。
どうして、と地に伏したあうんはか細い声で云った。鬼はもう、幻想郷にいないはずなのに。
何事にも例外はあるもんだよ。今度の巫女は面白そうな奴だからね、挨拶しとこうと思ってさ。
あの子に、手を出さないで。
鬼の少女は片眉を上げた。
別に取って喰おうってわけじゃないよ。弾幕ごっこ、好いじゃないか。また昔みたいに遊べるんだ。こんなに嬉しいことはないよ。――お前さんもそろそろ、お役御免なんじゃないかい。
そんなことない……。
最初に接触してくるのは紫か幽々子あたりだと思ってたけど、真っ先に勘づくなんて、狛犬もやるじゃないか。
鬼は瓢箪の口を差し出してきた。伊吹瓢を味わえる機会なんてそうそうあるものではない。あうんは思わず飛びついていた。酒精は暴風雨のように思考を流し去った。へろへろになってひと吠えすると、鬼は嬉し気に笑った。
やれやれ、宴にも混じらずにずっと見守っているなんて、いじらしいったらありゃしない。たまには休んだらどうだい。
だめ、それだけはだめ。
どうしてだい。あの巫女、たとえ隕石が直撃したって死にそうにないよ。
だって、――前の子は護れなかったから。
…………あんたが護るのは、あくまで神社そのものだろ。巫女じゃない。
でも、それでも、護りたかったの。
鬼の少女は押し黙った。鼻をスンと云わせた。瓢箪を持っている右手がゆっくりと下ろされた。それから反対側の手で頭をなでてきた。あうんは眼を閉じて眠りに落ちる寸前に春の宵の月を視た。やわらかな光で周りの雲を浮かび上がらせているその姿は、自分よりもずっと頼りがいがありそうで、なにより優しげだった。
#09 貴方を護りたい
妖精だと思って油断していた。能力を活用したステルス・ジェットストリーム・アタックを仕掛けられたあうんは、ひとたまりもなく昏倒した。とうとう妖精にまで負けてしまった。奴らは並んでハイ・タッチを交わし、勝利の美酒代わりのヤクルトを味わっていやがる。
さぁ、約束は守ってもらおうかしら、といちばん元気な奴が云った。
ねぇ、聞いてる、栗みたいな口の妖精が云った。私たちが霊夢さんにイタズラするとき、貴方は手出しをしないこと。
腹黒そうな黒髪も続いて云う。もちろん、事前に警告するのも駄目よ。
あうんは突っ伏したまま答えなかった。
時は冬の季節だった。あうんは服にしみ込んでくる溶けた雪の冷たい感触に身を委ねながら、角を触ったり髪を引っ張ったり尻尾をもふもふしてくる妖精たちの暴虐に耐えていた。
それから数日もしないうちに、奴らは計画を実行に移した。
巫女は自慢の勘で屋根から落下してくる雪をかわした。あうんは胸をなで下ろした。だがその安堵も、雪のなかに隠されている大量の刃物が発見されるまでのことだった。あうんは今すぐ飛び出して妖精たちの首を締めあげてやろうかと思った。続いて巫女が拾い上げたのは導火線に火がついた真っ黒い球体だった。轟音と共に、あうんは爆風に吹き飛ばされて気絶した。
覚醒したとき、あうんは半泣きになりながら巫女の姿を探した。彼女はどてらを着こみ、炬燵に入って本を読んでいた。ちゃぶ台にはおすそ分けの新鮮な蜜柑があり、石炭ストーブの上ではお餅が焼かれていた。縁側から覗き見ていたあうんは、涎を垂らしながら再び安堵した。
日照り続きの夏。あうんは地震で倒壊した神社の前でぺたんと尻餅をついた。呼吸が戻ってくるのにたっぷり五分は経ったように思われた。唇が震えて言葉が出ず、腰が抜けて足が動かなかった。四つん這いになって神社の亡骸にたどり着くと、彼女の名前を呼びながら瓦礫のなかを引っかきまわした。梁を持ちあげようとして腕の筋肉がつった。数刻が過ぎたころになっても彼女は見つからない。ぽろぽろと涙をこぼしながら、あうんは何度も天に向かって吠えた。眼を開けると、青空に岩のようなものがぽつんと浮かんでいるのが見えた。
……へぇ、巫女が真っ先に殴りこんでくると思ったのに。
仇の女はそう云った。
何だかお怒りみたいね。本番のウォーミング・アップにはちょうど好いわ。かかってきなさい!
あうんはひと言、絶対に許さないっ、と叫んだ。そして天人が作り出した緋色の弾幕の嵐に正面から突っこんだ。
泣きながら神社に帰り着いたあうんは、せめて線香でも上げようと鳥居をくぐった。巫女と魔法使いが平然と話をしていたので、あうんはひっくり返った。二人はそのまま弾幕ごっこに移行してしまった。いつもの茂みに逃げこみながら、あうんは何度も彼女に向けて声援を送った。聴こえてはいけないのに、聴こえてしまいそうな声量で。
そうだ、貴方がこんなことで死ぬわけがない。鬼や吸血鬼を相手にしても無事だった。宇宙に往っても無事だった。爆弾テロを仕掛けられても無事だった。だから神社の屋根に潰されたって、天人の剣に斬られたって、スキマの電車に轢かれたって、無事に決まってる。私の出る幕なんてないのだろう。それでも、とあうんは叫びたかった。
――それでも、私は貴方を護りたい。
やがて、魔法使いの八卦炉が光を噴いた。巫女は結界を二重に敷いて攻勢を強めた。流れ弾を喰らったあうんは当然のように気絶した。
#10 二度とは戻らない日々
「霊夢さん、霊夢さんっ」
高麗野あうんが後ろからじゃれつくと、お玉を手にした巫女が振り向いた。
「何、味噌汁ならまだできてないわよ」
「違うんです、いや、それも大事なんですけど」あうんは彼女の背中に顔を埋めながら云った。「これから出かける用事とかありませんか。あるいは、異変解決とか!」
「なんでまた」
「お留守番するためです」
霊夢がお玉の柄で頭をぽかりと叩いてきた。「私が邪魔ってことかしら?」
「違います違います」
お役に立てることが嬉しいんです。
霊夢は鍋に視線を戻した。お玉で中身をかき混ぜながら呟いた。
「……あんた、ずっとこの神社を護ってきたんでしょう」
「ええ、今はここだけではありませんけど」
「私の前任とか、もっと前の巫女のこととか、知ってるわけだ」
「知ってますよ」あうんは声の調子を落とした。「でも、そのことは……」
いや、いい、と霊夢は遮った。「訊くべきじゃないわね、想い出なんて」
冬は続いていた。あうんと霊夢は昼餉を頂きながら、障子の向こうで降りしきる雪をじっと見ていた。息を吹きかけてお味噌汁を冷まし、豆腐やわかめを大事に咀嚼する。食べ終えると霊夢はお茶を淹れてくれた。あうんは炬燵に潜って反対側から顔を出すと、巫女の膝に頭を横たえた。
「こら、重いでしょうが」
「――私、これで好かったと思ってるんです」
「なにが」
「思わず姿を見せてしまいましたけど、こうして貴方と面と向かって話すことができて、今は幸せなんです」
「甘えん坊の守護神獣なんて頼りないわねぇ」
「きっと強くなりますから」
「どうだか」
「私は貴方が小さい頃からずっと見守っていたんですよ」
「…………」
「どんな形でも好いんです。ここに居させてもらえれば、護らせてくれれば、それだけで」
あうんからは霊夢の顔が見えなかった。彼女の息遣いが耳に届いた。ちゃぶ台に湯呑みを置く音が心地よかった。香は変わっていても、それでも彼女の服からは懐かしい匂いがした。桜の季節をこれほど待ち遠しいと思ったのは、生まれて初めてだった。あうんはより一層深く、霊夢の膝に頭をくっつけた。翡翠の色をした髪を、彼女はゆっくりとなでてくれた。
「そうだ、思い出した」霊夢は呟いた。「今日は、事八日だったわ」
「針供養ですか」
「そうそう。知り合いの妖怪に頼んで、針を新調してもらうのよ」
「妖怪にって、――本当に不思議なひとですね」
霊夢はしばらく黙っていた。あうんが顔を上げると、眼をそらした。
「……季節の節目は、ことに今日は、神様の力が弱まるのよ。おまけに針も使えないし。だから妖怪連中に狙われやすくなるの。今日なら巫女にも勝てそうだって、急所の日だって」
あうんはしばらく霊夢の横顔を見つめていたが、やがて笑みを浮かべて炬燵から這い出した。
「――分かりました! そういうことでしたら、張り切ってお護りいたしましょう!」
「調子づいちゃってまぁ」
里まで買い出しに行くという霊夢の護衛のため、あうんは一足先に境内に出た。建て直された神社と、年季の入った鳥居を見つめた。再び懐かしい香りがした。それはこの季節には咲かないはずの桜の香りだった。あうんはかけがえのない記憶を閉じこめようとするかのように、両腕を胸に引き寄せた。霊夢が呆れた顔で玄関口に現れると、頬を桃色に染めて、笑みを浮かべながら駆け寄った。
(引用元)
Truman Capote:The Grass Harp, Random House, 1951.
大澤薫 訳(邦題『草の竪琴』),新潮文庫,1993年。
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Never Coming Folklore
過去と未来とは一つの螺旋形をなしていて、一つのコイルには次のコイルが連なっており、またその中心主題をも包含しているということを、いつか本で読んだことがある。恐らくそのとおりなのであろう。だが、僕の人生は、むしろ閉じた円、つまり環の羅列であって、決して螺旋形のように次から次へと連なっていくことはなく、一つの環から次の環へ移行するには、すべるように伝わって移ることは不可能で、跳躍を試みるより他にない。そのような形に思えるのだった。僕の気をくじくのは、環と環の間に来る無風状態だった。つまりどこに跳んだらよいのかわかるまでの間、その間のことである。
――トルーマン・カポーティ『草の竪琴』より。
Table of Contents
車輪は巡る / 時は廻る / 命は芽吹く
さらわれてきた娘 / 硝煙の匂い / 流るる紅葉
桜の巫女 / 月になった彼女 / 貴方を護りたい / 二度とは戻らない日々
Story 01 メビウスの小旅行
#01 車輪は巡る
夏の暑さなんてへっちゃらさ。
彼女はそう豪語していたが、翌日には溶けて川をくだり、湖の水と区別がつかなくなった。エタニティラルバは約束どおり、彼女の形見である「夏の離宮」に住まわせてもらった。しばらくは快適に過ごせたが、間もなくそれも溶け崩れてしまった。加護は消えていたのだ。
同じころ、里からひとりの男の子が湖まで通ってくるようになった。釣竿を垂らして日がな一日、動かぬ水面を眺めている。翅(はね)を畳んで隣に降り立ち、声をかけてやると、彼は驚いて釣竿を振り回した。エタニティラルバも驚いてひっくり返り、その拍子に臭角が飛び出した。男の子はひと嗅ぎで気絶してしまった。そのまま放置するのも悪いので、知り合いに頼んで全身を繭でくるみ、絞首刑をくらった海賊よろしく里の門に吊るしてもらった。これなら野犬に襲われることもないだろう。
彼女が戻ってきたのは暑さも和らぎを得たころだった。
あんた誰。
それが第一声だった。エタニティラルバは改めて自己紹介した。
長い名前ね、と彼女は云った。
ラルバは腰に手を当てて笑った。
サニーミルクにルナチャイルド、スターサファイア。妖精ならこれくらいの長さは普通だよ。
分かりづらい。
分かりづらいって、こいつらもあんたの知り合いじゃない。
そうだったかなぁ。
エタニティラルバは溜め息をついた。
……まぁ、休んじゃったもんね、仕方ないか。
彼女は真っ白な頬を爪でかいた。視線をそらして、湖畔に打ち寄せるさざ波を見ていた。
前は溶けちゃったらしいけど、次はもっと強くなってみせる。見ててよね。
男の子は懲りずにまたやってきた。今度は釣り道具だけでなく、スケッチブックやルーペ、臭い対策の手ぬぐいなどを持参していた。鉛筆の芯をむき出すまで削りこみ、人差し指と親指で長方形を作って切り取るべき風景の模索を始めた。ふらふら飛んでいるところを呼ばれたエタニティラルバは、指を唇に寄せて笑った。
男の子が横目でにらんできた。
どうしたのさ。
だって、子供のくせに恰好つけてるのが何だかおかしくて。
何事も型を大事にすべきなんだよ。始めが肝心なんだ。
学者だか職人みたいな物云いだね。
彼は刈り上げた髪をぱっと跳ねさせた。そうだよ、僕は将来学者になりたいんだ。
あの里で?
そう。――さ、その岩の上に立ってみて。
なんでさ。
昆虫をスケッチするんだ。
モデルになるのは初めての経験だった。エタニティラルバは思いつく限りのポーズをとってみたが、普通にしてて、と冷たくあしらわれたので頬を膨らませた。吐くまで鱗粉を吸わせてやろうかと思った。
男の子は真剣な表情でスケッチを続けながら云った。
面白いね、君の服装。
そうかしら。
翅は間違いなくアゲハチョウだけど、お腹のところは蛹(さなぎ)だし、スカートと触角は幼虫みたいだ。
うーん、褒め言葉として受け取っても好いのかな。
もちろん。とっても興味深いよ。――生き物の命、そのものだもん。
せっかく描き上げたスケッチを、彼は見せてくれなかった。まだ駄目、恥ずかしいからと云い訳して。
男の子は名前を訊ねてきた。エタニティラルバは名乗った。彼が指を動かしてスケッチブックに言霊を書き留めるのが見えた。
ラルバは呟いた。あんたは、ちゃんと憶えていてね。
え、何?
なんでもないよ。
#02 時は廻る
彼女は夏になる度にお天道様に戦いを挑み、はかなく散っていった。だが形見の「離宮」は長持ちするようになったし、進歩はあったのかもしれない。紅い霧の異変が起こったときは、巫女にまで戦いを挑んだらしい。二人の付き合いは続いていて、岩の影で涼んでいると、彼女は決まって声をかけてきた。
何してんのさ。
――私の名前。
うん?
とぼけないで。
アロマ?
ラルバよ、このバカチン!
私だってバカだけど、あんたはそれ以上だ、とエタニティラルバは云い放った。
さしもの彼女もカチンときたらしい。氷精が羽を広げると、冷気がラルバの背筋を這い上がってきた。自分の翅が、強風に煽られる凧のように頼りなく感じられた。寒さは痛みを通り越して眠気まで運んできた。
――あ、ごめん。
彼女は冷気を引っこめた。尻餅をついたエタニティラルバは、ぽろぽろと涙をこぼしながら、彼女の服の裾に鱗粉をこすりつけて復讐を果たした。
これがメビウスの帯。
しゃがんで目線の高さを合わせながら、青年は解説してくれた。半回転ひねって端っこを糊でくっつけただけの、紙の切れ端だ。三回目の説明で、ようやくラルバはその不思議に気がつくことができた。思わず手を叩いていた。
面白いね、これが「科学」なんだ。
そうだね、青年はうなずいた、往って、戻って、往って、また戻る。同じことの繰り返しなのは永久に変わらないけど、ほんの少しの工夫で世界の裏側に「こんにちは」することができるんだな。
大げさ。
彼は眼鏡を外してから、またかけた。「夏の離宮」の空間は狭く、ひんやりとしていて、青年の声は好く通った。
大げさだけど、大切なことなんだ。気づきというのは。
ラルバは広げた翅で青年の背中を覆った。二人分の息遣いが「離宮」の天井によどんだ。やがてエタニティラルバは云った。
君は、……賢くなったね。
彼は首を振った。まだまだこれからだよ。
私たち妖精は、ずっとこのまま。休めばスタートラインからやり直し。名前さえ忘れられる始末。――ま、別に好いんだけどさ。
青年は言葉を選びながら答えた。
……それでも、このかまくらは君の友達が頑張って作ってくれて、この暑さでも溶けずにちゃんと残ってる。並大抵のことじゃない。妖精だって成長するさ。強くなれるよ。僕が保証する。
エタニティラルバは返事をしなかった。顔をそらして聞かなかったふりをした。
やがて、夏の間中、「離宮」が溶けずに残り続けた年が訪れた。彼女は疲れ切りながらも、太陽に向けて勝利宣言を発した。おかげでエタニティラルバは、半ば別荘と化していたその場所を使うことはできなくなったが、彼女のふんぞり返った様子を見ていると、言葉は引っこんだ。彼女は真っ先に報告に来てくれたのだ。
今度こそ大丈夫だよ、ルンバ!
――やっぱり駄目じゃないの、このバカチン!
エタニティラルバはそう叫び返してから、彼女の胸に飛びこんだのだった。
秋が深まったころ、青年が久々に湖までやってきた。
結婚することになったんだ。
開口一番に、彼はそう云った。
結婚?
次の代に命を繋ぐための、大切な儀式だ。
そっか、思い出した。お嫁さんね。
うん。
綺麗なひと?
ああ、もちろん。――式の当日、行列が柳の運河沿いを通る。好かったら、見に来てくれ。
エタニティラルバはうなずいた。
そっか、君もそんなに大きくなったんだね。
彼の言葉通り、その日、大勢の正装した人びとが里の門から出て行進を始めた。エタニティラルバは空から行列を見守った。太鼓の音に合わせるように、稲穂の波がそよいでいた。紅葉した山々は風景に彩りを添えていた。厳かな顔で彼は歩み続けた。隣の女性に眼を配りながらも、遂にこちらを見つけたらしく、一度だけうなずいてくれた。
エタニティラルバは片手を挙げたが、すぐに下ろして、指で眼尻を拭った。人間の結婚式を見るのは初めてではなかったが、その時分だけ、――照れた顔をごまかそうと表情を引き締めている、大人になった彼の姿を眺めているその時分だけ、目頭が熱くなったのだった。
立派になったね。エタニティラルバは呟いた。ほんとに立派になったよ。
#03 命は芽吹く
チルノを見つけたとき、エタニティラルバは胸が大きく膨らんだように感じられた。
「夏はサイコーだぜー!」
会ったのは久々だったが、彼女はただのチルノではなくなっていた。
「お、日焼けしたねぇ」
ラルバは声をかけた。チルノは両手を腰に当てて高笑いした。氷の妖精様は、夏にこそ本領を発揮するのだ。
「アゲハ蝶の妖精だって負けてないよ!」
エタニティラルバは腕を広げた。力が無限に湧いてきて、今なら弾幕を鱗粉のようにまき散らすことだってできるだろう。
――夏を賭けた勝負は、彼女の勝利に終わった。
チルノは自信を深めたようだ。「このまま幻想郷を支配してやんよ」とのたまった。
エタニティラルバは口角を上げた。
「私の分も頑張ってきてね! ――期待してるわ!」
去り際に彼女は笑顔で云った。「ありがとね、ラルバ」
彼女の帰りを待つ間、エタニティラルバは彼から受け取った思い出のスケッチブックを眺めていた。同封されていた写真には、彼とその家族が映されていた。幼い子供は昔の彼にそっくりだった。すこし生意気で、そして可能性を秘めていた。その可能性は人間にも妖精にも等しく与えられているはずのものだった。幼虫から蛹に変わり、やがて成長して翅を手に入れる。最後には、あの子のように種族の限界さえも塗りかえて、世界の裏側までひとっ飛び……。
彼が初めて写し取ってくれた自分の姿は、下手っぴながらも特徴を好く捉えていた。書き添えられた自分の名前が今にも紙から浮かび上がりそうに見えた。エタニティラルバはスケッチブックを閉じて胸に引き寄せた。安らかな寝息が天井まで昇っていった。身体を丸めて「離宮」に閉じこもったその姿は蛹のようだったし、その寝顔は幼虫のように幼かったが、誇らしげに広げられた翅は、まさに成虫の証なのだった。
Story 02 山の唄
#04 さらわれてきた娘
麓の村では胡瓜を作らない。ある娘が、収穫した胡瓜を川で洗っているうちに行方不明になったからだ。
彼女は坂田ネムノの近所にさらわれてきた「新入り」だった。「嫁入り」と云っても好い。新たに夫となった山男は、人さらいであることを除けば気の好い奴だった。時どき山を降りて川で魚を釣った。何匹かおすそ分けにもらったこともある。その日も娘が洗っていた胡瓜を何本か分けてくれた。背負われた彼女は呆然とした顔で涙も枯れていた。
ネムノは研いでいた鉈の調子を確かめながら声をかけた。
お前さん、また連れてきたのかい。
山男はうなずいた。
あまり乱暴しなさんなよ。山の生活は初めてなんだからな。
ネムノは冬の備えとなる柴を刈りに山へ分け入る。束ねた柴を草庵の天井に積み重ね、夜になれば囲炉裏の煙でいぶし、乾燥させる。朝になると鶏に餌をやり、頃合いになれば絞めてやる。朝陽を浴びながら畑に水をまき、山菜と鶏肉のスープを雑穀と共にいただく。食事の後はすこし眠る。天気の好いときには手製の椅子を庭に持ち出し、行き倒れた外の人間から拝借した雑誌を読み漁る。外の字はほとんど読めないが、掲載されている写真の女性が大変着飾ってべっぴんさんなことは分かる。赤いリボンが大層似合っている。ネムノは立ち上がって水面に顔を映しては、雑誌の女性と自分の服装とを比較する。指を濡らして髪をセットしたりする。そして溜め息をつく。
娘は物覚えが早く、要点を教えてやれば大抵のことはできた。茸とインゲンの乾かし方も問題なく覚えた。だが洗濯の度に涙を流していた。帰りたいと何度も訴えてきた。
悩みを聞かされたのがうちで好かったべ。
どういう意味ですか。
さらわれたら最後、あんたは山の人間。間違っても逃げ出そうとは思わない方が好い。
謝礼は何でもお支払いします。助けてくださいませんか。
ネムノは唇を尖らせた。波打つ灰青色の髪を指で梳いた。
うちが欲しいのは安寧な生活だけだべ。でもって、お前さんが欲しがってるのは、その平和をぶち壊しかねないことだ。
娘は洗濯の手を止めた。楓の葉が、川面を音も立てずに滑り降りていった。
でも、酷いです。残酷ですよ、こんな……。
ネムノはうなずくことも首を振ることもしなかった。娘が髪を縛るために使っている赤い帯をじっと見ていた。
御山は里に恵みをもたらすが、仏様ってわけじゃねぇ。ネムノは語った。それ相応の対価が課せられるんだ。お前さんはその対価として選ばれた何人かのうちのひとりだ。要するに運が悪かったんだべ。運は平等だ。受け容れるしかないんだよ。受け容れさえすれば、そして御山の決まりを守ってさえいれば、ここの生活も悪くない。
――悪くないんだべ、とネムノは云い聞かせた。
夜半になってネムノは夢から覚めた。枯草を詰めた敷布から転げ落ちていた。頬に触れると涙の跡があった。外に出て、秋の夜長の月を眺めた。肌寒さに身震いした。二の腕をさすりながら、ネムノは同じ言葉を繰り返し唱えた。
牝犬の子、牝犬の子、牝犬の子……。
首を振って呪詛を追い出すと、草庵に戻りかけた。くぐもった声が木立の奥から聴こえてきた。娘の声だ。堪忍してぇ、という悲鳴も。ネムノは様子を見ようと踵を返しかけたが、思い直して戸を閉めた。彼女の叫びを頭蓋から追い出して、両膝を引き寄せ、胎児のような恰好で再び眠りに落ちた。
#05 硝煙の匂い
鉄砲を担いだ男が、三人。
ネムノは鉈を下ろして敵意がないことを示した。だが陽光を反射する刃物のぎらつきは、彼らの警戒を解くには凶悪すぎたらしかった。普段から大切に研ぎすぎたのが裏目に出たな、と心のうちで反省した。ネムノは魚の入った壺を割らないよう慎重に岩場へ置き、血糊のついた指を洗い、水で顔を清め、服の裾を検めたあと、癖っ毛を直そうと無駄な抵抗を試みてから、彼らに向き直った。久々の来客に、少しでも品好く見せたかったのだ。
ひとりが歩み出てきた。
山を荒らそうってわけじゃないんだ。
手に持った皮袋を差し出してくる。受け取って中身を確かめると、それは真っ白な塩だった。
うちは甘いほうが好きなんだべ。
砂糖は用意できなかった。悪いな。
で、何の用だべ。ここはうちらの縄張りだ。
娘を探している。ちょうどあんたくらいの年頃だ。厩別家の大切なひとり娘なんだ。知っているのなら、案内してほしい。
コイツが喰らってなければの話だけどな。その場合、案内先はコイツの胃袋ン中ってことになるぜ。
これは別の男の言葉だ。彼だけは引き金から指を離していない。
ネムノは眼を細めた。彼らの銃には火縄がなかった。形も様変わりしていた。着火せずとも撃てるらしいことは見て取れた。里の技術は気づかぬうちにずいぶん進歩しているらしかった。思わず溜め息が漏れた。
娘のことは、知らない。天狗にさらわれたんじゃないのか。
嘘をつくな。三人目の男が云った。その鉈の柄についている赤い帯、見覚えがあるぞ。
ネムノは得物を取り落としそうになった。
――こ、これはあの娘からもらったんだべ。決して喰らったわけじゃない。
ほら、やっぱり知ってるじゃないか。
あ。
ネムノは、交渉事が得意ではない。
貴方も、さらわれてきたのですか。
以前に娘はそう訊ねてきた。ネムノは日向ぼっこをしながら例の雑誌を読んでいた。しゃぶっていた干し柿を飲みこんで半身を起こす。そんなこと訊いてどうすんだべ、と答えた。
里に戻りたいとは思わないんですか。
うちは自分の意思でここにいるんだ。人さらいに遭ったわけじゃない。
でも、こんな山奥で、毎日独りぼっちで暮らすなんて、私には耐えられません。
そう思っているうちは、山姥としてはまだまだだべ。
だから帰りたいんですよ。
うちらは本来同族とは暮らさない。お前もさっさと自立しろ。
そんな無茶な……。
今は仕方ない。でも、真っ当に生きることを考えるなら、独りっきりがいちばん好いんだべ。うちはそれを学んだから長生きできた。
娘は黙りこくった。ネムノが読んでいるぼろぼろの雑誌を横から見ていた。ネムノが同じ頁をずっと睨んでいると、娘は再び声をかけてきた。
やっぱり、本当は羨ましいんじゃないですか?
……おしゃれは、してみたいべ。
その言葉を聴いて、娘は髪の帯を解いたのだった。
山男が沢から帰ってきたとき、すでに一行は撤収準備を始めていた。彼は娘を、男たちを、そしてネムノを順番に睨みつけた。三人の男たちの間で一気に緊張が走った。山男は獣を打ちすえるための棍棒を持っていたが、その先端にはお誂え向きのように血液と肉片と獣毛がこびりついていた。里の男たちが銃を構え、山男は一歩前に踏み出した。ネムノは間に割って入って山男に向けて云った。
ねぇ、今回は諦めなよ。次があるよ。
――二度とやるな!
男たちが同時に叫んだ。なるほどごもっともだった。山男はうなった。一歩も引かない様子だった。男たちのうちのひとりは明らかに震えていた。先ほどネムノに対して挑戦的な態度をとってきた奴だ。こうした時に真っ先に引き金を引くのはいちばん怯えている奴なのだということを、ネムノは過去の経験から知っていた。
そして事実、その通りになった。
次に山男が足を動かした瞬間、銃口が火を噴いた。轟音でネムノはひっくり返った。起き上がったときには彼は斃れていた。紅葉の絨毯に赤い血が染みこんでいった。見開かれた眼には何が起こったのか分からないと云いたげな戸惑いがあった。彼の知識は前時代で止まっていたようだった。火縄がなくても、今の銃は撃てるのだ。
ネムノは鉈を放り出して彼に取りついたが、どう頑張っても手遅れだった。男たちは顔を見合わせてから、また戻した。娘は耳を塞ぎながら震えていた。ネムノは振り返らずに呟いた。
……さぁ、はやく山から出ていくんだべ。こんな山奥で鉄砲を使っちまったんだ。天狗共が黙っちゃいないよ。
今度、うちらの縄張りを荒らしてみろ。きっと腹を掻っ捌いてやる。
電流を喰らったように里の男たちは撤退を開始した。娘が何かを云った。ネムノは首を振った。黙って死骸の手を握り続けていた。
#06 流るる紅葉
「悪かった。領域を侵すつもりはなかったんだ」
「天狗はいつもそう云って有耶無耶にするんだべ」
坂田ネムノは腕を組んで闖入者の姿を見つめていた。白狼天狗の少女。盤刀と、紅葉の柄が鮮やかな盾を携えている。
「獲物を追っているうちに夢中になって、つい……」
「その甲斐はあったみたいだべな」
立派な体躯の猪だった。横っ腹に幾本もの矢と刀傷。だがいちばんの致命傷になったのは、騒動で叩き起こされたネムノが首筋に振り下ろした鉈の一撃だ。
「不可侵条約を破り、止めにも失敗したんだべ。この獲物はうちが貰い受ける」
「そんな、横暴だ!」彼女は途端に耳を垂れて声のトーンを落とした。「そいつ、久々にありつけるご馳走なんだよ。収穫ゼロなんて仲間になんと云われるか……」
「なんだいそりゃ、お前さん独りで喰っちまえば好いじゃないか」
「獲物はみんなで分け合うんだ。その方が結果的にはみんな幸せになれる」
「天狗の理屈はどうでもいいべ」ネムノは答えた。「さぁ、喰いたいならバラすのを手伝ってくんろ。こいつぁひと苦労だ」
解体作業を続けながら、自然と二人は打ち解けていった。白狼天狗は親しげに話しかけてくるようになった。
「意外だなぁ。山姥はもっと閉鎖的で、非友好的だと思っていたよ」
「今日は機嫌が好いだけだべ」
「どうして下の人間と関わらないんだい。悠々自適に暮らしながら、御山の恵みを卸して暮らす。素晴らしいじゃないか」
ネムノは少しだけ笑った。「……こんな辺鄙なところで暮らすのは、うちらだけで充分だべ」
さぁ、お茶にしよう。秋の日は鶴瓶落としと云うからね。休憩を入れたら、さっさと仕上げちまうべ。
ネムノはそう云いながら、血糊のついた鉈が輝くさまを見つめた。柄に結びつけられた赤い帯が、秋の風に吹かれて揺れていた。
Story 03 狛犬敢闘録
#07 桜の巫女
神社に漂う香の匂いが変わった。桜の季節にあの子はやってきた。彼女が、新しい博麗の巫女だ。
高麗野あうんは頭をもたげた。伸びをしてから尻尾をひと払いし、鳥居に腰を落ち着けて境内の様子を眺めた。おぼつかない手つきで竹ぼうきを動かしている少女がひとり。あんな小さな子が独りぼっちで神社を任されている。でも、これはいつも通りだ。掃除を終えると戸棚からお茶っ葉とお煎餅を取り出す。巫女にとっては至福の時間。これも、いつも通り。異変が起これば彼女は出かけていく。見当なんて何もないはずなのに、視線はまっすぐ彼方を捉えている。これも、変わらない。
問題なのは、ここからだった。
無数のコウモリに姿を変じた悪魔が、ひと通りの弾幕を打ち出してしまえば、それで決着がついた。あうんはぼろぼろになって鳥居の下に這いつくばっていた。右手を伸ばして自慢の角が折れていないことを確かめると、安心して死んだフリをした。
ごめんなさいね、やり過ぎちゃったかしら。
吸血鬼の少女は云った。
ねぇ、巫女はどこ? 普段はここにいるって聞いたんだけど。
あうんは動かなかった。前方で障子が猛烈な勢いで開けられる音がした。すぐに指を鳴らして姿を消した。茂みから様子を窺っていると、巫女が悪魔を怒鳴りつけているのが見えた。誇り高い吸血鬼は、両手で頭をかばいながら彼女の説教を聞いていた。あうんは口を半開きにしてその様子を見ていた。
昼寝は巫女の日課だ。春の夕暮れは思いのほかに肌寒い。あうんはつま先立ちで縁側を忍び歩き、座布団を枕にして眠っている少女を見下ろした。臍(へそ)を丸出しにして、上着は頑として羽織らない。
社務所の中は竹馬の友のように知っている。押入れから毛布を一枚取り出すと、巫女の身体にそっとかけてやった。それから彼女が起き出すまで、あうんは寝顔を見守っていた。貴方は何者なの、という呟きが口から漏れた。
#08 月になった彼女
再び桜の季節になり、数日おきにお花見を兼ねた宴会が繰り返されたことがあった。あうんは居ても立ってもいられずに、宴もたけなわになったころ、酒と食事を少しばかり失敬した。これほどの数の妖怪が神社に集ったのは初めてだった。あうんは茂みの定位置で飲み食いしながら、宴の席に乗じて巫女に闇討ちする不届き者がいないかどうか、眼を光らせていた。万が一のために、大陸から伝わった秘蔵の書を久々に紐解き、項羽と劉邦の「鴻門之会」を始めとした謀略伝を徹底的に復習した。酔っぱらった半人半霊の少女が宴会芸と称して剣の舞を始めたときは、もう少しで茂みから躍り出るところだった。
結論から云うと、勝負はまたもや一瞬で片がついた。
なんだい、狛犬かい。珍しいね。
どうして、と地に伏したあうんはか細い声で云った。鬼はもう、幻想郷にいないはずなのに。
何事にも例外はあるもんだよ。今度の巫女は面白そうな奴だからね、挨拶しとこうと思ってさ。
あの子に、手を出さないで。
鬼の少女は片眉を上げた。
別に取って喰おうってわけじゃないよ。弾幕ごっこ、好いじゃないか。また昔みたいに遊べるんだ。こんなに嬉しいことはないよ。――お前さんもそろそろ、お役御免なんじゃないかい。
そんなことない……。
最初に接触してくるのは紫か幽々子あたりだと思ってたけど、真っ先に勘づくなんて、狛犬もやるじゃないか。
鬼は瓢箪の口を差し出してきた。伊吹瓢を味わえる機会なんてそうそうあるものではない。あうんは思わず飛びついていた。酒精は暴風雨のように思考を流し去った。へろへろになってひと吠えすると、鬼は嬉し気に笑った。
やれやれ、宴にも混じらずにずっと見守っているなんて、いじらしいったらありゃしない。たまには休んだらどうだい。
だめ、それだけはだめ。
どうしてだい。あの巫女、たとえ隕石が直撃したって死にそうにないよ。
だって、――前の子は護れなかったから。
…………あんたが護るのは、あくまで神社そのものだろ。巫女じゃない。
でも、それでも、護りたかったの。
鬼の少女は押し黙った。鼻をスンと云わせた。瓢箪を持っている右手がゆっくりと下ろされた。それから反対側の手で頭をなでてきた。あうんは眼を閉じて眠りに落ちる寸前に春の宵の月を視た。やわらかな光で周りの雲を浮かび上がらせているその姿は、自分よりもずっと頼りがいがありそうで、なにより優しげだった。
#09 貴方を護りたい
妖精だと思って油断していた。能力を活用したステルス・ジェットストリーム・アタックを仕掛けられたあうんは、ひとたまりもなく昏倒した。とうとう妖精にまで負けてしまった。奴らは並んでハイ・タッチを交わし、勝利の美酒代わりのヤクルトを味わっていやがる。
さぁ、約束は守ってもらおうかしら、といちばん元気な奴が云った。
ねぇ、聞いてる、栗みたいな口の妖精が云った。私たちが霊夢さんにイタズラするとき、貴方は手出しをしないこと。
腹黒そうな黒髪も続いて云う。もちろん、事前に警告するのも駄目よ。
あうんは突っ伏したまま答えなかった。
時は冬の季節だった。あうんは服にしみ込んでくる溶けた雪の冷たい感触に身を委ねながら、角を触ったり髪を引っ張ったり尻尾をもふもふしてくる妖精たちの暴虐に耐えていた。
それから数日もしないうちに、奴らは計画を実行に移した。
巫女は自慢の勘で屋根から落下してくる雪をかわした。あうんは胸をなで下ろした。だがその安堵も、雪のなかに隠されている大量の刃物が発見されるまでのことだった。あうんは今すぐ飛び出して妖精たちの首を締めあげてやろうかと思った。続いて巫女が拾い上げたのは導火線に火がついた真っ黒い球体だった。轟音と共に、あうんは爆風に吹き飛ばされて気絶した。
覚醒したとき、あうんは半泣きになりながら巫女の姿を探した。彼女はどてらを着こみ、炬燵に入って本を読んでいた。ちゃぶ台にはおすそ分けの新鮮な蜜柑があり、石炭ストーブの上ではお餅が焼かれていた。縁側から覗き見ていたあうんは、涎を垂らしながら再び安堵した。
日照り続きの夏。あうんは地震で倒壊した神社の前でぺたんと尻餅をついた。呼吸が戻ってくるのにたっぷり五分は経ったように思われた。唇が震えて言葉が出ず、腰が抜けて足が動かなかった。四つん這いになって神社の亡骸にたどり着くと、彼女の名前を呼びながら瓦礫のなかを引っかきまわした。梁を持ちあげようとして腕の筋肉がつった。数刻が過ぎたころになっても彼女は見つからない。ぽろぽろと涙をこぼしながら、あうんは何度も天に向かって吠えた。眼を開けると、青空に岩のようなものがぽつんと浮かんでいるのが見えた。
……へぇ、巫女が真っ先に殴りこんでくると思ったのに。
仇の女はそう云った。
何だかお怒りみたいね。本番のウォーミング・アップにはちょうど好いわ。かかってきなさい!
あうんはひと言、絶対に許さないっ、と叫んだ。そして天人が作り出した緋色の弾幕の嵐に正面から突っこんだ。
泣きながら神社に帰り着いたあうんは、せめて線香でも上げようと鳥居をくぐった。巫女と魔法使いが平然と話をしていたので、あうんはひっくり返った。二人はそのまま弾幕ごっこに移行してしまった。いつもの茂みに逃げこみながら、あうんは何度も彼女に向けて声援を送った。聴こえてはいけないのに、聴こえてしまいそうな声量で。
そうだ、貴方がこんなことで死ぬわけがない。鬼や吸血鬼を相手にしても無事だった。宇宙に往っても無事だった。爆弾テロを仕掛けられても無事だった。だから神社の屋根に潰されたって、天人の剣に斬られたって、スキマの電車に轢かれたって、無事に決まってる。私の出る幕なんてないのだろう。それでも、とあうんは叫びたかった。
――それでも、私は貴方を護りたい。
やがて、魔法使いの八卦炉が光を噴いた。巫女は結界を二重に敷いて攻勢を強めた。流れ弾を喰らったあうんは当然のように気絶した。
#10 二度とは戻らない日々
「霊夢さん、霊夢さんっ」
高麗野あうんが後ろからじゃれつくと、お玉を手にした巫女が振り向いた。
「何、味噌汁ならまだできてないわよ」
「違うんです、いや、それも大事なんですけど」あうんは彼女の背中に顔を埋めながら云った。「これから出かける用事とかありませんか。あるいは、異変解決とか!」
「なんでまた」
「お留守番するためです」
霊夢がお玉の柄で頭をぽかりと叩いてきた。「私が邪魔ってことかしら?」
「違います違います」
お役に立てることが嬉しいんです。
霊夢は鍋に視線を戻した。お玉で中身をかき混ぜながら呟いた。
「……あんた、ずっとこの神社を護ってきたんでしょう」
「ええ、今はここだけではありませんけど」
「私の前任とか、もっと前の巫女のこととか、知ってるわけだ」
「知ってますよ」あうんは声の調子を落とした。「でも、そのことは……」
いや、いい、と霊夢は遮った。「訊くべきじゃないわね、想い出なんて」
冬は続いていた。あうんと霊夢は昼餉を頂きながら、障子の向こうで降りしきる雪をじっと見ていた。息を吹きかけてお味噌汁を冷まし、豆腐やわかめを大事に咀嚼する。食べ終えると霊夢はお茶を淹れてくれた。あうんは炬燵に潜って反対側から顔を出すと、巫女の膝に頭を横たえた。
「こら、重いでしょうが」
「――私、これで好かったと思ってるんです」
「なにが」
「思わず姿を見せてしまいましたけど、こうして貴方と面と向かって話すことができて、今は幸せなんです」
「甘えん坊の守護神獣なんて頼りないわねぇ」
「きっと強くなりますから」
「どうだか」
「私は貴方が小さい頃からずっと見守っていたんですよ」
「…………」
「どんな形でも好いんです。ここに居させてもらえれば、護らせてくれれば、それだけで」
あうんからは霊夢の顔が見えなかった。彼女の息遣いが耳に届いた。ちゃぶ台に湯呑みを置く音が心地よかった。香は変わっていても、それでも彼女の服からは懐かしい匂いがした。桜の季節をこれほど待ち遠しいと思ったのは、生まれて初めてだった。あうんはより一層深く、霊夢の膝に頭をくっつけた。翡翠の色をした髪を、彼女はゆっくりとなでてくれた。
「そうだ、思い出した」霊夢は呟いた。「今日は、事八日だったわ」
「針供養ですか」
「そうそう。知り合いの妖怪に頼んで、針を新調してもらうのよ」
「妖怪にって、――本当に不思議なひとですね」
霊夢はしばらく黙っていた。あうんが顔を上げると、眼をそらした。
「……季節の節目は、ことに今日は、神様の力が弱まるのよ。おまけに針も使えないし。だから妖怪連中に狙われやすくなるの。今日なら巫女にも勝てそうだって、急所の日だって」
あうんはしばらく霊夢の横顔を見つめていたが、やがて笑みを浮かべて炬燵から這い出した。
「――分かりました! そういうことでしたら、張り切ってお護りいたしましょう!」
「調子づいちゃってまぁ」
里まで買い出しに行くという霊夢の護衛のため、あうんは一足先に境内に出た。建て直された神社と、年季の入った鳥居を見つめた。再び懐かしい香りがした。それはこの季節には咲かないはずの桜の香りだった。あうんはかけがえのない記憶を閉じこめようとするかのように、両腕を胸に引き寄せた。霊夢が呆れた顔で玄関口に現れると、頬を桃色に染めて、笑みを浮かべながら駆け寄った。
~ おしまい ~
(引用元)
Truman Capote:The Grass Harp, Random House, 1951.
大澤薫 訳(邦題『草の竪琴』),新潮文庫,1993年。
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どのお話も良かったです。
冒頭で示されたように、飛び石のようにして並ぶ過去の断片が今に繋がる構成は、文面を可能な限り削ぐことでその背景を浮き彫りにする作者さんの手腕が見て取れて、唸らされます。
・メビウスの小旅行
妖怪じみた強さを誇るチルノの妖精らしい時代から付き合いのあったエタニティラルバという始まりに、まずは興味を惹かれました。
メビウスの帯を、全身の意匠が幼虫から成虫までの一生を表すラルバに重ねるところが好みです。変化それ自身を表しているからこそ、そこに留まっているという思いのあるラルバが、幼かった男の子が立派な男性に成長した姿に憧憬を抱き、同族でありながら前へ進んでいくチルノに希望を見出す構図はなんとも晴れやかな気持ちにさせられます。
ラストの「離宮」で眠るラルバの情景も、その満たされた心地が伝わってくるようでした。
それにしても、「夏の離宮」という言葉のチョイスは絶妙に思えます。
・山の唄
山の異界さといいますか、人と妖怪、麓と山、その境目のようなものを改めてじっくりと眺めたような気になりました。
一人で生きていくその暮らしぶりが短くもよく書き込まれていて、その点も読んでいて面白かったですし、「新入り」の娘とかつては自分もそうだったネムノの交流に見られる奥行は特に好みです。
この一篇は作中の中で最も、語らない面白さが込められたものでした。
・狛犬敢闘録
最高です。これはとても良いものです。
敵わないことがわかっても、どれだけ痛い目に遭っても、自分の頼りなさを自覚しても、ただただ護りたいがために立ち向かう忠犬もののバリエーション。ところが当の巫女は自分ひとりで万難を退けてしまい、歴代との違いに戸惑い、やがて月のように手の届かない、届かせる必要のない彼女を理解し、それでもと言ってみせるところには胸を打たれます。
一貫して綴られるあうんの巫女に向けられた思いの強さは、作中で萃香が言ったように真にいじらしい。全ての文面が、そのひとを十分に愛していることを伝えてきます。
過去の護れなかった後ろめたさが動機の全てでは勿論ないのでしょうけど、それが一部ではあったはずで、霊夢の強さがあうんの後悔を解放し、そうした上で護りたいという想いを示す、シーン08から09は本当に素晴らしいと思えます。
あうんは自分の気持ちを表明し、霊夢はその心を受け入れたラストからは、この二人はまさしくパートナーなのだと感じられました。
これらは本当に素敵な、"二度とは戻らない日々を噛みしめながら生きてゆく"物語だと思います。ありがとうございました。
素晴らしい作品でした
特に「桜の季節にあの子はやってきた」の一文がとても好きです
あなたの作品は曇天みたいな雰囲気の作品(明るくもないが暗くも無い話)がピカイチだと個人的に思っているのですが、ネムノの話とか絶対曇り空ですよねみたいな感じが良かったです
綺麗な文章で大変ありがたかったです。
ありがとうございます。
てんくうしょうは未プレイですが、多分これが私のスタンダードになってしまうのでしょう。あうんちゃんがかわいかったです。
山の唄が特に好きで(いやもう全部素敵過ぎるのですけど!)、秘めている影が周りを通してうかがえる山姥としての彼女がもう、素敵すぎます。
とてもとても楽しめました、ありがとうございました
静かな笑いと甘酸っぱさがあって好きです ラルバちゃんかわいい
おっかないけどネムノさん女子力高いですね
おっかないけど自分のルール内で優しいネムノさん いいですね
実力が伴わないのに保護欲の塊で
めげないあうんちゃん可愛すぎる
直接会話できるようになって触れられるようになって よかったね
あうんちゃんの真っ直ぐな健気さが最高でした