自分にしかないもの。そう言われて思いつくものが幾つあるだろう。
まず一つ目に上げられるのは容姿。その次に上げるとしたら、それは声だろうか。
声は自分を表現するのに必要不可欠なもの。時に誰かと語り合い、時に喜びを口にし、時に込み上げる悲しみを漏らす。
口から発せられた言葉には、多かれ少なかれ意味がある。そしてその意味あった重さがある。けれど彼女の言葉より重いものは、きっとない。
少女が一人、寒々しい空間に膝を抱えて浮いている。彼女は今、夢を見ているのだ。
彼女の名は稀神サグメ。彼女が発する言葉には、常に運命の逆転という可能性がついてまわる。誰かと言葉を交えるときは慎重に、それこそ神経質になるほど気を配らなければならない。返す言葉は短く、当たり障りのないように。
次第に口数が減り、自ら言葉を発する事はほとんど無い。
誰かと話したくなったときは必死に俯き、声を出して笑いたいときはひたすら感情を抑え込む。叫び散らしたいほどの悲しみを抱いたときは下唇を噛み締めて、その波が収まるのを待ち続ける。何時しか彼女の耳は誰の声も聞こうとしなくなった。
――誰かの声を聞く度、虚しくなる。なぜ私は自由に言葉を発することができないのか。私だって、私だって自分の声で、誰かと――。
どんな言葉を発すればこの運命から逃れられるのか。考え初めてどれだけの時間が過ぎていったか。彼女には分からない。
「話したい……のに」
久々に発した彼女の声は、随分と掠れていた。
ここは夢の世界。ここでいくら喋っても現実にいるサグメの口が動くことはない。だが彼女以外に誰もないこの世界で、言葉を発する必要が何処にあるのだろう。喋ればその分だけ悲しく、虚しく、孤独を胸に積もらせる。
――ああ……まただ。
サグメは時折、どうしても言葉を発したい衝動に駆られる。世界の事などもうどうなってもいい。自分の言いたいことを、自分の言葉で好きなだけ発してやろう。そうなってしまいそうな時がある。
だがそれを実行に移せない。彼女は開き直ることも、自分に正直になることもできなかった。大それた願いじゃないはずだ。ただ誰かと話す。難しい事は考えずに、自分の思っていることを相手に伝え、相槌を打ち合う。たまに好きな歌を歌って、世界に自分の音を広げたい。それだけなのに。
――片翼の鳥は自由に大空を舞うことはできなかった。
不意に体の感覚が薄くなる。そろそろ目覚めるのだろう。彼女の自由に喋れる唯一の時間はもう終わりを迎える。惜しいと感じることはない。ヒトは居るが言葉を発せない現実と、自由に喋れるが誰も居ない夢の世界。彼女が欲しているものはどちらにもない。
足の先から次第に感覚がなくなっていき、サグメは瞳を閉じた。
「目が覚めたら……普通に喋れるように――」
叶わぬ願いをこぼす口の横を、何かが伝って落ちた。――夢のなかだけでも、願うことぐらい許してくれますか?
――――――
――――
――
軽くなった瞼を開ければ、昇る朝日と目が合った。
サグメは自分に掛かっていた掛け布団をたたむと、縁側へ降りていく。春の朝はまだ寒い。暖かい日差しとは裏腹に、涼しげな風が残っていた僅かな眠気も消し去る。
竹林の中にあるここ、永遠亭の朝は静かだ。ヒトの気配もなく、鳥の囀りさえ聞こえない。風の音、草木が鳴く音、聞こえるのはそれだけだ。だがそれが乱れていたサグメの心を落ち着かせた。確かに地上は穢れている。しかしその穢れが月にはない心の平穏をもたらしてくれるのだ。大きく深呼吸をすれば、緑の匂いがする空気が胸に溜まっていく。涼しげな風がサグメの髪を吹き抜けると、胸の中にため込んでいた色々が、少しずつ消えていくような気がした。
不意に隣から床の軋む音が聞こえる。
音がする方へ視線を走らせれば、小さな因幡が一匹いた。永遠亭にはたくさんの因幡がいるが、一匹だけでいるのは珍しい。広い屋敷だ、何処かで仲間とはぐれてしまったのかもしれない。
――おいで。
サグメが廊下に膝をつき、小さく両手を広げる。彼女の意図をくみ取ったのか、因幡は彼女の胸に飛び込んだ。抱きかかえた因幡は暖かく、白い毛は手触りがいい。
そのまま縁側に腰を下ろし、膝の上で丸くなる因幡を優しく撫でる。因幡の方も彼女の膝の上が気に入ったのか、その瞼を重くして眠り始めた。
寝てしまったのに起こすのも忍びない。サグメは動けなくなってしまった。しかし悴む手を温めるにはちょうどいい。
「あっ、いたいた」
しばらく因幡で暖を取っていると、パタパタと廊下の向こうからヒト型の因幡が駆けてきた。どうやらサグメの膝の上にいる因幡を探しに来たようだ。
――確か、名前は因幡てゐ……だったか。
「ああ、アンタまた来てたんだ」
「……」
「いいよいいよ。事情はお師匠から聞いてるから。喋らなくても大体なに言おうとしてるか分かるしね」
「……」
「読心術じゃないよ。いや~これで長く生きてるからね。自然に分かるんだ」
それじゃこいつ連れて行くから。てゐはサグメの膝の上の因幡を抱きかかえ、踵を返して元来た廊下を歩き始めた。
だがそのとき、突然廊下に聞き覚えの無い音が広がり始めた。透明感のある、耳に優しい音。サグメは反射的に音がする方を向く。そこには廊下を歩くてゐの姿しか無い。
――この音は彼女が……?
「……っ……っ」
彼女を引き留めようとしたが普段声を発しないせいか、うまく言葉にならなかった。だが何かを感じ取ったのか、てゐは足を止めて振り返る。
「ん? どったの?」
「あっ……い、ま…………?」
「……ああ、今の? 口笛だよ。知らない? あっ、そういえば鈴仙も口笛吹けなかったし、月には口笛を吹く文化は無いのかもね」
口笛。聞いたことのない単語にサグメは首を傾げた。てゐはそんなサグメの目の前で、もう一度口笛を吹いて見せた。透き通った音は、永遠亭の静かな廊下に響き、壁や床に反射して広がっていく。
「アンタも吹いてみる?」
口笛に聞き惚れるサグメにてゐがそう問いかけると、サグメは力強く頷いた。
てゐは口笛の吹き方を一通り教えた。内容はそれほど多くない。そもそも口笛の正しい吹き方なんて誰も知らない。吹けるヒトは大体感覚で吹けてしまうものだ。
唇を適度に濡らす。吐く息は強すぎず、弱すぎず。口を小さく開き、空気の通り道を作る。教わった事を頭の中で反芻させ、大きく息を吸う。
――吹いた。
耳に気持ちいい透明な高音が空気を震わせた。
それはサグメ自身の耳にも届いた。思わず目を瞠る。
今のは自分が出したのか? ――それすら一瞬分からなくなった。
サグメの音が次第に永遠亭に、竹林に広がり始める。その音色はうっとりするような透き通った高音の中に、はしゃぐ少女の幼さが見える。サグメ自身、口笛を吹くことが楽しくて仕方なくなっていた。胸で押さえつけていた、自分を縛るものから解放されるようで、今なら何処まででも飛んでいけそう――そう思った。
意味を持たない音色が、運命を逆転させることはない。
自分の思ったように出せる、唯一の音。
サグメの独奏はしばし続いた。
いつもは厳しい世界もその演奏に聴き惚れていたのか、今だけは安心しきった顔で静かに回っている。
発想が素晴らしいと思いました
もっと読みたくなる文章です