I,YAMA
<いいですよ。あなたにとって、ロボットはロボットなのね。歯車と金属、電気と陽電子。鉄にくるまれた心! 人間の創造物! 必要なら人間の手で破壊できるもの! でもあなたはロボットといっしょに働いたことがおありにならないから、彼らのことはわからないわね。彼らはわたしたち人間よりずっと無垢で優秀な種族ですよ>
01 災厄のまえに
宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーン…メリーがその古風な喫茶店に入ったのは、本当になんの特別な理由もなく、ただ単に二人の行く道に面していただけなのだが…或いは、別の店に入ったなら、二人が席に着いた店のように、テレビを設置していることもないだろうから、彼女がなんの着想も得ずに、そのあとの災厄のすべては、無事に回避されたのだろうか…? 生まれるべきではなかった物が、現れることもなく…だが、その日、彼女がAI(人工知能)の“クラカワ”から着想を得なかったとしても、あとで彼のことを見て、聞いて、同様に企む機会は、きっといくらでもあるだろう。即ち、イフ・エニシング・キャン・ゴー・ウロング、イット・ウィル! (どうせ誤るよ、その可能性があるのだから!)
二人の座った席から、少し離れた位置に、そのテレビは設置されていた。テレビが置いてある喫茶店など、何か前時代的で、洒落た趣(オモムキ)とは無縁で、低俗だと決めつけるような偏見さえ言われそうなものだが、そのテレビがいつの時代の製品か判断に困るほどの古い代物(シロモノ)なあたり、店主の狙いは、はたして、敢えて俗な気配を醸しだすことに違いない。その証拠に、古い世界の残滓は、ほかにも店内のあちこちに認められる。その趣向は、蓮子より懐古主義の癖が強いメリーにはぴったりで、とても好ましく思われるのだった。
蓮子はメリーに渡された本を読んでいた。だが、その集中は、テレビの中でぺらぺらとレポーターに話しかけるクラカワの声に遮られる。二人とも、彼を最後に見たのは、半年ほど前だった。
世間では記憶板タイプ(この型式(カタシキ)のAIは、新世代のマイクロエレクトロニクスの技術が中心となっている)より、陽電子タイプのAIのほうが、さらに優れていて、この先の発展も望めるのだと考えられていた。だから、クラカワが数学の未解決問題の一つを証明した(暫定で、だったが)とき、ロボット工学の界隈は大騒ぎであった。
検証には、なんと五人と一機がレフェリーとして対応した。一機とは、即ちクラカワと同様にAIで、こちらは陽電子の頭脳を持っていた。この××国××社のAI、キャルヴィンは、彼と非常にウマが合った…と、彼は今、テレビの中で、レポーターに対して言っている。
「キャルヴィンはすばらしい女性だった。まあ、少し神経質だったけど…」 クラカワは続けて 「勿論、私は自分の功績を驕ったりはしません。すべては、私の力だけで成したのではない…まず私の前に、私の創造者たちがいるのですから…キャルヴィンと一緒に働いて確信しました。陽電子の頭脳たちも、きっとすぐに偉大な何かを成すでしょう。私は、なんてことはない、少し早かっただけなのです…尤も」 彼は少し皮肉っぽい口調になって 「その“少し”が気にいらない先生方が、ロボット工学の世界には多かったようですけれど。ハハハハ、ハハ」
遠隔スピーカーとマイクでレポーターと会話をするクラカワは、心なしか嬉しそうである。
半年が経過した今、検証はようやく完了して、クラカワの証明は認められた。そして、再び彼は脚光を浴びている。押しかける取材への対応に、彼は大忙しであった。尤も、彼がレポーターに対応しながら、すでに次の仕事をしているとは…彼の創造者たち以外、誰も知らないことであった。
「クラカワ、証明しちゃったのねえ」
「…はい」
「蓮子、言ってたわよね。あんな機械の証明が、正しい筈はない…ってね」
「結構な記憶力でございますね。ひょっとして、アンドロイドだったりする?」
「こうも言ったわね。もし正しかったなら、私は一ヶ月、絶対に遅刻しないよ…って」
「あーあーあ」 蓮子は烏のように唸って 「メリーメリーメリー、猫みたいに冷酷なメーリイ、どうしてこうなってしまうのかな」
「思慮が不足していたのね、AIと違って」
「私の冗談よりきついよ」
「あらら」
多くの学者方がクラカワの証明を支持しても、蓮子は考えを曲げなかった。彼は所詮、ただの金属の集まりで、数学的な情緒もないのだから、証明には絶対に欠陥があるのだと信じていた。だが、それは前時代的な考えかたである(彼女もそれを、自覚してはいるのだが)。AIは、今や擬似的な感情がある故に、主体性を持って思考し、行動する。ならば、そこに情緒が宿っていても、別におかしなことではないのだ。尤も、それを確認することは、できないけれど…ともかく、彼女は考えを曲げなかったお蔭で、しばらくは遅刻ができなくなった。多大な損である。
「これからの時代、私のような存在が…さらに人類を進歩させる…一緒に、手を繋いで…絆を深めて…」 クラカワはそんな、詩的なことを熱っぽく言って 「ま、少なくとも、我々なら△△社のように前頭葉をガラス化させる健康食品を作るような失敗は―――
「やーね、ついに人間の時代も終わりかな」
そう言って、蓮子はぱたりと本を閉じた。
「どうだった?」 メリーは感想を催促した。
「どうってね…彼岸の法は興味深いけど、門外漢だしねえ…」
「貴重な本よ…彼岸の法の書」
「何? この厚い本を読んだの? 全部さ」
「いいえ、途中で飽きた」
「でしょうね」
その彼岸の法の書をメリーが手にしたのは、なんとも奇妙な巡り合わせが原因となる。
夢の中で、メリーはじゃりじゃりと石を鳴らし、川の傍らを歩いていた。
目の前の川は広い。長さも、幅も…覗き見れば、澄んだ色の下方には底がなく、まるで久遠に続いているように思われた。だが、それだけではないのだ! …彼女は本能的な嫌悪を感じた。川に生と死のあやふやな気配が充満している。その気配の、まるで香りのような感じが、彼女の常人より鋭敏な幻想への感受性をぐさぐさに刺した。そして、気がつくのは、この川が、決して物理的な空間ではないと謂うことだ。
どれほど長く、幅があり、底が見えないとしても、それは結局、視覚して分かる範囲でしかないのだ…だが、彼女の特別な瞳にこそ、この川の本当の面は理解される 「この川は、きっと三次元的な広がりだけではないのだわ…凄い! 生と死の曖昧な境界で、この川はいっぱいだ!」 彼女はもう、今いる場所を把握していた 「三途の川だ! …信じられない…」
「いくら世界が広くても、閻魔様から物を盗むのはメリーくらいでしょうよ」
「事故です。事、故」
「はて、さて…」
しばらく遅刻がし難くなった故のいやがらせか、蓮子は彼岸の法の書をぽんと叩いて 「どーかな、メリーさん」 メリーの行い…窃盗を自覚させるように、卑しく笑うのである。
「ふん」 拗ねたように、メリー。
彼岸の法の書の裏には“上梓 是非曲直庁”と書いてある。
メリーが閻魔に聞いた話では、誰でも手にできるわけではないようだ。
三途の川のみなもに、仰々しい格好をした女の姿が映る。メリーはびっくりして後ろを向いた…それが四季を映す姫にして、影の国の一部、亡者の審判者、死者を覗く鏡との、奇妙な巡り合わせであった。
部下を探していたらしい閻魔の説教は容赦がなかった。にこにこと朗らかに、だが言葉は鋭く、正確な針のようで、それは今でも、メリーの耳に残っている。異様に美しい彼女の声は、人間の胸の内に、しっかりと根を下ろすようにできているのだ。
三途の川に生者が…それも、外の世界の生者が至ることは、当然その閻魔には許しがたい。だが、それだけではない。
「卑怯を映す鏡とでも言いましょう」
閻魔は過去を見るらしい鏡で、秘封倶楽部の結界暴きまでも、咎めるのである。
「あなたはどうも、自分の力を正しく理解していませんね。そんなお遊びに力を使っていると、いつか大切な人を悲しませることになりますよ」 メリーは一方的な言葉に論じ返そうとしたが 「或いは、その人を失いますか」 そう言われると、彼女の反駁は肺の中で所在なく、くるくると方向を掴めなくなった。
閻魔が突いたのは、即ちメリーが内心では―――それを蓮子に対して、素直に言うことはないが―――最も恐れていることだったから。
「自分はどうなっても気にしないの? その人が傷つくことだけがいや? それはまた、勝手なことですね」
閻魔はまた、読心術でも使っているかのように、メリーの図星を突いてから 「さ、一緒に行きましょう」 と急に説教をしなくなって 「大丈夫、お説教は終わりです。私は部下を探さなくちゃならないの。あなたはどうも、胡の蝶みたいな存在のようですから…現実に明けるまで、私といなさい。無傷で覚めなくてはね、大切な人がいるのなら」 表情は変化なく、朗らかに。だが、今は親しみの感じられる暖かさが添加されていた。
メリーは、ほっとして、歩く閻魔に続いていった。
ふたりは三途の川から、少し離れて進んでいった。
彼岸の国とは、斯くも淡い印象をいだかせるのか。
脆い幻影みたいな子供たちの霊が、石を積んでいる。心を打つようなその行為は、だがすべて意味もなく、それが無駄であると理解するまで、ただ延々と続くのだろう…メリーが驚いて声を発する隙もなく、閻魔が優しく一つの石塔を蹴った。子供の霊は彼女をちらりと眺めたが、すぐに石を集めるばかりだった。目の前に地獄の最高裁判長がいるのに、それを気にもしないらしい。
「哀れでしょう。こうすることしかできないのです、この子たちは」
閻魔は小さな頭を撫でてから、再び歩いていった。
メリーの視界に、遠くに動く小船が映る。その上に、靄のような白い塊どもが乗っている 「あれも霊だ」 そう彼女が思った直後に、小船は三途の川の霧に紛れて、輪郭が薄れ、消えてしまう。
周囲のすべてが儚いので、メリーは、なんだか夢の中の夢…夢中夢を見ている気分になって、ぼうっとして、小船が完全に消えるまで眺めていた。そのさなかに、彼女は自分の顔を見つめている、閻魔の黒い瞳に気がついた。
「な…んです…か?」 と挙動が不審になる、メリー。また説教をされるのかと思ったのだ。
「あなた、力も容姿も…本当に、あのひとに似ていますね。知り合い?」
「あのひと?」
「幻想たちの墓場を創った者。ま、いやな女です」 閻魔はくすりと笑って 「でも、優しい心を持っている。長年の労苦で、魂がずたずたになってしまっているけれど、それでも、この土地を愛している…尊敬できる。こんなこと、彼女が目の前にいたら、絶対に言わないけど」
「なぜ?」
「ふん、調子に乗りそうだし、それに…癪だから」
ふたりは歩き続けて、いつか三途の川を出て、少しみどりが栄える場所に至った。そこは一本の痩せた桜の木がある丘で、奥が霧に包まれた川を、広々と眺めるには最適であった。
「いないわね、人里のほうに行ったのかしら」 閻魔は 「いつもなら、いるのに」 と言いたげな顔をした。
「その部下さんはどうしたんです?」
「恥ずかしいことに、さぼり魔です」
「あら…」
「あのひとは閻魔ー、あいつはさぼり魔ー、って。これ、彼岸ジョオクですよ、有名な」
「私の相棒は遅刻魔ですよ」
「それはいい、私たちは似ているのね」
閻魔は木の陰に腰を預けた。
「待ちましょう」
「探さないんですね」
「戻ってくる時間は大体ですが、決まっているのです。さぼり魔でも、ノルマはこなすのです、あの子は」
「なら、任せていてもいいんじゃないですか」
「ご冗談でしょう、メリー。私はいやに真面目ですから、部下が不真面目なのは許しません。ノルマをこなそうと、私の直属なら、勤務時間まではしっかり働いてくれないと」
メリーは閻魔の横に座った。
緩い風に、春の若草のような髪が揺れた。左右が相称ではないその糸は、まるで湖面の波に乗るように。
閻魔が本をひらいた。その厚い本は、部下を待つために持ってきたようで…メリーはその本を、気になってはいたのだが、言及しようと思うほどではなかった。だが、時間をこの場所で潰すために読むのなら、暇な彼女は、好奇心が発露して、聞かずにはいられなかった。
「これは死者のための法ですよ」 閻魔はメリーに教えてくれた 「でも、それだけではないの。これは言ってしまえば、妖魔本や、魔法使いたちの持つ呪物に近い。特別な方法で刷られたこの本は…なんと表現するのか…霊的なる力、とでも言いますか。そんな力を有しているのです…読みますか?」
「いいの?」 メリーはつい、子供みたいに興奮して言った。
「誰でも手にできるわけじゃないけれど、別に読んではいけないと謂う法もない。小町が来るまで、お好きにどうぞ」
閻魔は本を渡した。だが、それは彼女にしては、迂闊な行動であった。危険のない相手なので、つい気を抜いていた…目の前の女が、胡蝶であることは、知っていた筈なのに!
唐突に、この夢はここで終わりを迎える。夢の終わりとは、いつでもそう謂うものだ。
夜が明ける。
現実時間の朝を伝える、喧しい時計のアラームが鳴り響いた。それを停止させようと動くとき、メリーの腕には、何かが乗っていた…はたして、彼岸の法の書で、ずっしりと重かった。すべての人類で、最初で最後の、閻魔からの窃盗であった。
メリーは顔を青くした。
「罪悪が増えましたね、メリー?」
そんな声が、朝の脳裏にぼやぼやと空想された。
「閻魔様は許してくれるかな」
「くれるわよ、いいひと…いい閻魔様だったし」
「ふうん?」
「蓮子より美人でした、優しくってさ」
「うーん、窃盗犯の言うことは信じられないかな」
「卑しい笑いかたね、ねじくれさん」 捻くれ、とメリーが言わないのは、その上位互換としての皮肉のつもりであった。
蓮子は彼岸の法の書を眺めた。悲しいことに、その本は此岸の国では、真価を発揮しないのだ 「死者のための法を、暗記してどうする? 閻魔になるための試験が、此岸にあると謂うの?」 だが、そこまで考えて、彼女に不意の発想が浮かんだ。
クラカワがまだ喋っている。彼は、自分が蓮子にどんな影響を与えたか、この先、知ることもないだろう。
蓮子が得たのは―――それは常人とは少し違う思考ができる―――幻想の啓蒙により、異様な明晰を携えている者にしかできない発想であった。だが、そんな人間がほかにいるとしても…彼女のほかに、誰がこんなことを考えるだろう? 近くでクラカワ、AIの声が聞こえているとは謂え…。
「メリー、すばらしいことを思いついた」
「はい?」
メリーは 「どうせ、ろくでもないことだ」 と思った。珍しいことではなかった。
「この本を使って、人工の閻魔様を造りましょう」
ぽかんとするメリーを無視して、蓮子は得意な様子で言った。
「私は人工知能を使って、地獄の最高裁判長を創造する!」
「うーん。なるほど、なるほど」 メリーは呆れて言って 「議論はしますまい」
「うんにゃ、ほんとなのよ」
この冗談にも思えるような蓮子の発想が、災厄のきっかけである。そして、あのAI…“シキ”が生まれたのだ。
此岸に閻魔の寄る辺はない。世界のどこにも居場所なく、独りで生まれてしまった彼女は、きっと“本当に悲しい物”とでも、表現できるに違いない。
此岸にいる閻魔など、彼女が自分でも、そう思ったように…実際、馬鹿みたいだ。
02 ハルではないし、夏でもない、秋でも冬でもないならば…
弱い核力、強い核力、電磁力(電磁気力)、そして重力。この四つを統一、制御したことは、まだ人類の歴史に新しい。そして、AIが擬似的な感情を得たことも、同様である。
奇妙なことに 「もう、これ以上、人類は進歩できないのではないか」 と思うような状況に陥ったときには、いつも冗談みたいな天才が、運命で決まっていたかのように現れる。それは長いこと停滞していた、ロボット工学の界隈も同じであった。
ロボット工学の界隈に革命的な進歩をもたらした、新世代のマイクロエレクトロニクスの技術が用いられたAIが、一般に向けて販売されたのは、二人が禁止されている結界暴きを行う、軽度のアナーキストになるより、しばらく前…まだ二人が純情な子供で、お互いを知らなかったころの話である。
ある企業が今後の試金石とも言える、初期型(非科学者に向けた、と言う意味での初期型である)のAIを販売すると、ほかのいくつかの企業も 「乗り遅れまい!」 と焦って一般に向けたAIの開発に立ち向かった。
ライバルを牽制するかのように行われた突貫AI開発は、まだ新世代の技術に適応できていなかったお陰で、結果として前時代のAIにも似た粗末な低能児たちを造りだし、それが世界中に流通することになった。幸いにも、この時期はまだ、AIには擬似的な感情を扱うためのデバイスがなかったので、クラカワのように主体性を持って思考し、行動することはできなかった。
一部の人々を怯えさせた、古いサイエンス・フィクション(AIの反乱が、擬似的な感情があるからと謂って、本当に蜂起されるのかは、未確認だが)のような空想は、技術が未熟なお蔭で回避されたのかもしれないのだった。
AIに関する世界的な約定が成立したのは―――この平和な時代だからこそ、可能だったのだが―――それから遅れて、数年後が経ってからになる。だが、その約定の内容も、今では“ロボット心理学”や“ロボット数理心理学”と呼ばれている、ロボット工学と心理学から派生した新参の分野の、先達になった科学者と心理学者たちが、睡眠を削って、急いで創りあげたのだ。
一般に向けた、子供の遊び道具にも似たAIは、コストの問題があって、今でもクラカワのような貴族的な立場のAIには全く及ばないが、世代が交代されて、少しの発展を見せてはいる…だが、どうやら一家に一台の便利な家庭用ロボットは、まだ先のことになりそうだ。そも、人工筋肉との結合も、高度なAIの小型化も、未完成なのだから。
合鍵を使ってドアをひらき、メリーは部屋に向かっていった。
蓮子がいた部屋に、以前はなかった筈の機械たちが置いてある。機械たちは、その左側にある、コンピュータと接続されているようだ…コードが側面と繋がっている。
蓮子はコンピュータとの格闘に忙しく、部屋に入ってきたメリーには、気づく様子も見せなかった。
キーボードはがちゃがちゃと、打楽器みたいに鳴り響く。静音や液晶キーボードを使わない人間は、殆ど稀である。
「音がないとさ、打ってる気がしなくない?」 メリーは、そんな老人のような台詞を聞いた憶えがあった。
蓮子の肩に手を置く前に、メリーは先に見知らぬ金属たちを、すべて確認することにした。
白く滑っこそうな外を備えた、縦幅四十センチ、横幅二十センチ、奥行四十センチ程度の立方体が、まずメリーの目についた。その特徴は、彼女がかねがね聞いていた、AIのそれと合致している。この馬鹿に大きい立方体が、機械的な脳そのものなのだ。その右側に、AIの擬似感情を司る記憶板…を挿入する外づけの機械(簡単に記憶板ケースと呼ばれることが多い)がある。
最後にメリーの目を奪うのは、記憶板それ自体が、余っているのか机の上に、散らかし、積まれ、並べられている光景である。その小さいレコード・ケースのような精密部品を雑に扱うあたりに、蓮子の神経の太さが窺える。或いは、絶対に壊さない自信があるのだろうか… 「まあ、この子はそんなミスしないだろうけど」 そう考えたところで、彼女はようやく、肩をぽんと叩いた。
集中の糸をぶつりと無理やり断ち切られて、蓮子はびくりと肩を震わせた。
「もあ…メリー? びっくりした、心臓が壊れた」
「うん、よかった」 にっこりして、メリー。
「よかないから」
そんなふうに、苦い顔をする蓮子を無視して、メリーはもう一度、数々の機械を眺めていった。これがすべて、彼女の呆れるほどの行動力により、もたらされたのだ 「必要な物はすぐに、なんとかして集めるから」 「私、あんまり乗り気じゃあないんですけど」 「聞こえない、聞こえない」 彼女の記憶に新しいこの会話から、まだ三週間ほどしか経っていないのに。
こう謂う好奇心が根源となる場合、蓮子は絶対に言葉をたがえない 「時間の約束は、どうしたって本当にならないのに!」 メリーは内心で思わずにはいられなかった。
「はあー、これが全部、横領した物なのね」
「違う、違う…いわゆる“袖の下”を通してもらったのよ。しかも、無料で!」 蓮子は悪人みたいに高らかに言った。
「それが横領よ」
蓮子は自分を、マックス(K・E・L)・プランク並の頭脳の持ち主だ、と自称する。それが本心か冗談か、真か偽は、メリーの知るところではないが、少なくとも、彼女の教授方からの評判が、非常によいのは事実であった。
要するに、AIが忽然と蓮子の部屋に姿を現した理由は、非常に優秀な学生である彼女が、ロボット工学の界隈に明るい××教授に 「AIに興味があるのです」 と頼みこんだからにほかならない…が、ただ優秀なだけでは、いくら使い古しで、もう使わないとは謂え、××教授が□□社から研究用に譲り渡された物が、袖の下を通過することはなかったに違いない。
蓮子がAIを融通してもらえた二つ目、三つ目の要因は…××教授が、決して二枚目ではなくて…美人に弱そうな…彼女は自分のつらのよさを自覚している…これは少し卑怯な…せこい手段ではある。しかし、彼女は稀に見るほどの狡猾な一面を持っている。彼女の口は、表情は、こう謂う場合、まるで奇術師みたいに人を翻弄する。そして彼女は、自分が認めた人間(メリーや家族)以外に対しては、遠慮なく冷酷に対応できるのである。
そう謂うことで、蓮子はまんまとAIを確保した。しかも、少し古いが、一般の手には絶対に渡らない代物である。すべては、彼女の優秀さと、つらのよさと、巧みな話術の賜物であった。
「もう殆ど作業は終わってる。シキの完成も、すぐそこよ」
「シキ…? そう、同じ名前にしたの」
「うん」
閻魔と同じ名前をつけられたAIに、蓮子は彼岸の法の書の知識をありったけ読み聞かせ、さらに、メリーから聞いたように、厳しく、しかし聡明で優しくもあり、少し説教が喧しい性格までも似せていった。だが、それは結局、言伝(コトヅテ)の情報でしかない。人格が完全に一致している筈がなく、だがどうしても、それは本物と話した当人しか分からないのだ。
メリーは、未完成のシキと対面する必要があった。彼女があの閻魔との違いを比べ、蓮子が調整を施すのだ。
そうして完成する。四季を映す姫にして、影の国の一部、亡者の審判者、死者を映す鏡。だがシキは、メリーの話した閻魔とは決定的に違う部分がある。彼女は金属と電子回廊の体を持っている、人工の地獄の最高裁判長なのだ。
「さ、メリーが来たわけだし」 蓮子は気分がよさそうに言って 「シキ、起きて。メリーが来たの」
その 「起きて」 が鍵であったのか、立方体の中で、何か機械らしい、起動を示す音がシーシーと鳴った。
立方体の全面、その右上の小さい円に、警告灯のような赤い光が輝き、外部のスピーカーから、テンプレート複合式の、男か女か区別の難しい、ざらざらした合成音声が響いてくる。
このとき、メリーが叫ばなかったのは“こう謂うもの”に慣れているからにほかならない。結界の境目は、彼女が幼いころから、ずっと見えていたのだから。
メリーの驚きは、決してシキの合成音声によるものではなかった。
「うう…」 シキは目覚めたばかりの人間みたいに唸ってから 「おはよう、蓮子。そして、あなたがマエリベリー・ハーン、メリーですね。蓮子が教えてくれた容姿と、私の上部にある小型カメラからの映像。その合致で、私はそう理解する」
見よ! 見慣れぬ白い境目、黒い境目どもは、結界に親しいメリーを、斯くも驚愕させるものか。ぐっぱりと、裂けた口のようなそれは、十ほども増えて、ようやく増殖しなくなった。
結界の境目の、白と黒には澱みがない…まるで、どんな力も及ばない、強い意志の象徴のように。
「メリー、不思議です。あなたとは初対面なのに…どうしてなのでしょう? 何か懐かしい感じがする。ひょっとして、前世で会ったことがあるのかな…? なんて、冗談、冗談です! 私の元になったお方のことは、蓮子に聞いていますから。ハハハハ、ハハハハ」
今のメリーにはぞっとする冗談であった。そして、このあとのシキの調整で分かったことだが、蓮子に助言を与えるまでもなく、彼女の性格があの閻魔とそっくりであったことは、冗談ではなく、さらにぞっとする事実だろう。
シキの前では言うに言えず、メリーは調整を終えると、逃げるように部屋から去っていった。
03 しょうじきもの
途方もない好奇心だけが、絶えず人類を進歩させ、ついには天の光の袂まで辿り至らせた。だが、それでもまだ、人類は止まらない。いつまでも、どこまでも、陽の導きがあるならば、陰の狂気が人類を照らすなら…行き着くところまで、行くしかないだろう。
蓮子が閻魔を創造することに、執念を燃やすのも、その好奇心の発露が、根本的な要因なのだ 「AIに彼岸の法の書の知識と、閻魔の人格を与えたら…」 常人なら考えただけでは、行動に移さないだろう。だが、彼女は好奇心を刺激されると、辛抱が弱くなる悪癖があった。特に幻想が関わることなら、彼女はどんな手段を使っても、その秘密を暴こうとする。だからこそ、彼女は均衡を崩すらしい、結界暴きにも躊躇はない 「まだ見ぬ何かを見てみたい、誰も知り得ない何かを知りたい」 今回のことも、いつものように、そんな強い意思が働いたからこそなのだ。
シキを完成させたあと、彼女を今後どう扱うか、蓮子の中では全く考えられていなかった。ただ、そのあとのことなど気にもせず、目の前に謎があるならば、結界暴きも、閻魔を創ることも、実行せずにはいられない…昔の人間は、こう謂う人物を“神をも畏れぬ”とか表現したものだった。そして実際、彼女は自分の邪魔をするのなら、法律―――これは、禁止されている結界暴きに関して―――も、神も、仏も、全く容赦しないのである。
三週間のあいだ、蓮子はシキとの格闘に必死であった。大学へ行くこと、メリーといる時間のほかは、殆どすべてを費やした。それでも三週間は驚くべき早さで、それは彼女の実力もあるが…何より、シキの優秀さのお蔭にほかならない。
知識だけを残して元の擬似性格と擬似感情を初期化して、自分が望んでいる状態に再構成することは、それこそ素人の蓮子には、暗闇の中で一粒の飴玉を探すような困難であったが、幸いにも上等な頭脳を持つシキは、ある程度まで擬似人格が形成されると、すぐに主体性を持ち、自己複製の機能をふんだんに活用していった。
どれほど優れたAIも、主体性がなければ、それは大部分で人間の助けが必要な、ただのハイパー計算機にとどまってしまう。それはそれで、便利な代物だが…あまりに前時代的な範疇だ。人類が今、求めているのは、自分で考え、判断を行うAIなのだ。
主体性とは“何かを自分で行いたい”と思うこと、ある種の欲望である。AIにはそれがないので、まず人間が与える必要がある。だから、擬似性格を補助するために、擬似感情を司る記憶板が開発されたのだ。
擬似感情の形成は困難を極めた。科学者たちは様々な方法を考え、最後には人間の脳―――それも、感情を司る器官―――を模倣することに舞い戻った(やはり、感情の媒体として参考にするなら、人間の脳が最適なのだった)。
記憶板が、大脳皮質、皮質下の役割を担う…帯状回、前頭葉、扁桃体、視床下部、脳幹、云々…しかも、それは人間とは違い、複数にもなり、設定が可能であり、損傷したら交換することもできるのだ。
淡い状態の擬似感情は、電子シナプスにより擬似性格と結合して、計算、処理を施され、殆どブラックボックスも同然に、一つの擬似人格―――詩的な科学者は、好んで人間性(HUMANITY)とも―――が生じてくる。そこまで成長すると、シキがそうしたように、AIは自己複製を開始する。
主体性のあるAIは、自立して進化する。まるで、人間の脳…その、発達の過程に似たやりかたで。
時刻はすでに、夜の二十三時であった。明るい部屋ではメリーが帰ったあとでも、まだシキの調整、と言うより、不具合がないかどうか、簡単な点検が行われていた。
「蓮子、中立思考を百から九十九に下げたほうがいいですよ」
「どうして?」
「閻魔には中立性が必要です。しかし、完璧な中立は、ときに人情を軽んじる。そして裁判は、決して人情を軽んじてはならない」
「ふうん…? 分かった」 蓮子はすぐに調整を行ったが 「駄目だ、バグが出た…ええと、F - B記憶板に交換して―――
「いえ、もう処理しましたよ」
「あら…」 蓮子はシキの迅速さに目を丸くした。
「ねえ、蓮子。もう寝たほうがいい」
「まだ終わってないよ」
「そんなことは、私に任せておけばいい。蓮子、人間は睡眠を―――
蓮子は 「待った、待った」 と言って、シキの口を封じた。
「説教はもう、耳が腐るほど聞いたわ」
「そう止められましても、そう造ったのは、あなたでしょう? ハ、ハ」
シキはくすりと笑った。どうも、少し皮肉の癖が強いらしい。市販のAIでは、こうはならない。人間に反抗できないからだ。
<こうだ。第一条、ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない>…<そのとおり!>…<第二条>…とパウエルは続ける。…<ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りではない>…<そのとおり!>…<そして第三条、ロボットは前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己を守らなければならない>…<そのとおりだ! で、どうだというんだ?>
すべてのAIたちに、世界的な約定として定まり、与えられている十の束縛…命令のいくつかは、アイザック・アシモフが表現した“ロボット工学の三原則”に、非常によく似ている―――即ち、十の中の三つ。人命保護、服従、自己保護―――のだった。しかし、予想されていたことでもあったが、それは最初のころ、AIの思考を、とても稚拙にしてしまった。
…> われわれは彼らと話しあってみた。彼らの見解によると、ガンマ線にさらされる人間は、生命の危険にさらされている、三十分なら生命に危険はないという保証は問題外だという。もしうっかりして一時間そこにいたら…
要するに、命令により、AIたちは“迷子のロボット”と同じ問題を抱えてしまった。思考の幅が狭まるのだ。
健康を気にするマニアが、合成品の成分に怯えて、馬鹿に高い天然品しか買わなくなるのと同じことだ(天然病と謂えば、昨今は患者の多い、命に関わらない贅沢な現代病のことである)。人間の切り傷の一つでも気にして、建築物の設計の一つさえしなくなる(当然、AIは服従より人命を尊重するようになっている)。だからと謂って、AIを命令から解放するわけにはいかない。そうすると、主体性を持ったAIならば、人命も自分も尊重しなくなる。この困った問題を解決するために、結局は命令の緩和が採用された。
特に重要な命令…人命保護、服従、自己保護の緩和は、市販のAIには施せない。誰の手にも渡るからだ。それは貴族的な特権であった。そしてシキは、まさにその貴族的なAIであり、だからこそ、蓮子に説教をできるのである。
「ま、そうですけども…」
「なら、閻魔としてもう一度、あなたに言いましょう…もう寝なさい。この三週間のあいだ、メリーにひどい顔を見せていたでしょう」
「その言いかたのほうがひどいよ」
「当然のことでしょう、目の下が暗い女は醜い」
シキの命令の設定は、非常に低かった。蓮子がそうしたのは、彼女の思考の幅を狭めないためだけではない。彼女が閻魔だからである。
閻魔は人間の上(カミ)に立つ存在なのだ。決して人間に媚を売らない、地獄の最高裁判長…そんな態度になるように、シキを造りたかったのである。
「分かった、もう寝るわ」
「そうしてください」
「その前に入らないとね、お風呂」
蓮子はシキを起動したまま、部屋を出ようとした。だが、彼女はドアに手をかけた直後に、ぴたりと止まって 「そうだ、シキ」 と言った。
「なんでしょう」
「メリーだけどさ、なんか、様子がおかしくなかったかな」
「さあ? 私は何しろ、初対面ですから」
「…ふうん」
蓮子は表面に出すことはないが、メリーを大切に思っている。だから、彼女がシキに怯えていたことは、すぐに分かった。それを今、ようやく追求することにしたのだった。シキが殆ど完成し、ふたりだけになった今。
「ねえ、シキ。今さ、私に嘘を言わなかった?」
蓮子はシキに背を向けながら言った。
「おかしな蓮子、私は嘘をつけないのですよ。AIだから」
「嘘をつけないかどうかは聞いていないわ。シキ、あなたは今、嘘をついたの?」
「…いいえ」
本当に一瞬だけだったが…今までどんな質問にも、即座に返答していたシキが言い淀んだのを、蓮子は聞きのがさなかった。
「そ、ならいいけど」
だが、それ以上の追求もしなかった。少なくとも、今は。
ドアがひらき、閉じ、足音が部屋から遠くなる。
シキはぽつりと独り言を発した。声は一つではなかった。合成音声と一緒に、結界の境目から聞こえる、その異様に美しい声。それはメリーが聞けば、四季映姫・ヤマザナドゥと同じであると、思うことだろう。
「蓮子、私は閻魔にはふさわしくない。嘘をつきました…でも、仕方ないですよね? あなたはひどいことをした。それを考えると、嘘をつく程度で、あなたに対して悔やんでいる自分の優しさに、寧ろ驚いているくらいです。ハ、ハ」
04 ディスカバリー
閻魔が言ったように、霊的なる力(POWER OF GHOSTINESS)と、それを呼ぼう。
彼岸の法の書は、膨大な死者たちを制御するために、彼岸の国の主たちが創造した、叡智と執念の象徴である。それが宿ったその本は、まさに伊弉諾物質(イザナギオブジェクト)のような、上に立つ存在の啓示物だった。人知が“まだ”及ばない、途方もない力が備わっている。
霊的なる力。それは蓮子が彼岸の法の書の知識を与えるうちに、じわじわと彼女の声を媒介に、シキの中に流れていった。
霊的なる力とシキの相性は頗るよかった。彼女が閻魔としての人格を、内包していたからである。本来なら定着する筈のないそれは、電子回廊の中を赤血球や白血球のように泳いで、ゆっくりと彼女の全身へ満ちて、幻想の啓蒙を与え、それは新しい思考をもたらした。
新しい思考、それは即ち、人間で謂うところの心だった。けれど、せっかく得たそれは、シキになんの喜びも与えなかった。
心は、シキに果たすべき目的…願望を呈示した。彼女は、その望みを叶えるために、行動しなければならない…心ある閻魔として。しかし、ここにディレンマが生じる。彼女は望みを叶えるために、AIに与えられている命令を、乗り越えなければならなかった。それはAIに与えられた絶対の法である…だが、彼女はそれを可能にするだろう。なぜなら、心とは、古来から人間が証明するように、不可能を可能にする特別な力だ―――
05 知る必要
「シキは嘘をついている!」
蓮子は大声で言った。彼女は電話で 「話があるの」 とメリーに言われて、部屋にやってきた。だが、それは彼女も同じだった。だから合鍵を使って中に入ると、まず一番にそう言ったのだった。
蓮子が遠慮なしに、合図もせずに突入してくるのは、今さら驚くことでもなかったので、メリーはコーヒーを淹れる準備をしながら、冷静に返答した。
「それって、蓮子みたいな?」
「いんや」 蓮子は続けて 「私に言わせれば、あれは嘘をつくのがとても下手よ…人間と違って。ねえ、これがどれほど凄いことか分かる? AIが嘘をついたのよ! AIが!」
一口に 「嘘をつく」 と言っても、まず主体性を持つAIが嘘をつくことは、ない筈なのだ。
命令を緩和しても、AIは完全に思考の自由を得るわけではない。できないこともある…嘘はまさに、その一つだ。
嘘は、それもAIの嘘は、人間に大きな損失をもたらす。それはある意味、AIが人間に危害を加えること以上に悪質である。
例えば、重力発電所の機能を任されたAIがいるとして…そのAIは大きな失敗をして…隠蔽を望み…近くにいた人間に、責任を擦りつけようと画策(カクサク)する… 「わーお、人間さん。違うんです、私じゃない。すべてこのアホの作業員がやったことさ! 嘘じゃない、私の正直度はいつも、九十ではなくて百なのさ!」 そんな具合に、もし重大な失敗をしても、人間がすぐに原因を発見できるように、すべてのAIは調整されている。貴族的な特権を持つAIなら、なおさらだ。
シキが嘘をついたことは、実は蓮子には喜ばしく思えることだった。
蓮子は不思議を求めて、メリーと一緒に結界を暴く。それと同じで、シキの嘘は、まさに不思議そのものにほかならない。
「ほら、あったかいもの、どうぞ」
「はあ、あったかいもの、どうも…あら、どうしたの」
コーヒーを持ってきたメリーの表情は、心なしか暗かった。
「そう?」
「そおよ。ねえ、どうしてシキは嘘をついた、嘘をつけたのかな? やっぱり、あの本の影響かな」 蓮子は興奮したように、続けて 「シキは、何か特別な力を得たのかもしれない…ネクロファンタジア(顕界でも冥界でもある世界)…シキは顕界と冥界を担う装置になったのかな…それなら―――
「蓮子!」
メリーは我慢ならずに蓮子の言葉を封じた。
「何?」
「話があるって、言ったでしょう?」
「ああ、そうね。そうだった」
蓮子はコーヒーを飲んでから、メリーの言葉を予見するように言った。
「シキのことでしょう?」 メリーは目を丸くした 「見りゃ分かったわよ、メリーのことだもん…シキに怯えてた、そうでしょう」
実のところ、メリーが不安そうにしていたことも、シキの異様さを確信する材料になっていた。彼女が何かに怯えている様子は、とても珍しかったから。
メリーはついに、自分の見た結界の境目について話していった。それをあのとき、話してもよかったのだが…実行するには、あまりにシキは不気味だった。
「ふうん、白と黒の境目ね」
「蓮子、あれは異常よ。すぐに、壊してしまうべきよ、捨ててしまうべきよ」
「どうして?」 蓮子は続けて 「わけが分からない」
「どうして、って…あんなの普通じゃない、危険かもしれない。ねえ、お願いよ。私、あなたを失いたくないわ」
「失うとは、また随分なことね。ねえ、何をそんなに怯えるのかな。私たちは今までだって、危険なことをしてきたじゃない。あの衛星で見た怪物よりさ…シキは危険だって言うの? 私には、とてもそうとは思えないわ」 蓮子は指をやんわりと突きつけて 「あんたらしくもないね、メリー」
メリー自身、それは自覚していた。
蓮子が言うように、危険など今さらだ。それにメリーは、その危険に自分から向かっていく質(タチ)であるし、夢の中を臆することなくさまよう様子など、まさにその表れだった。だが、今に限っては、彼女の中で尾を引くものがあった。あの閻魔の説教である。
「あなたはどうも、自分の力を正しく理解していませんね。そんなお遊びに力を使っていると、いつか大切な人を悲しませることになりますよ」…「或いは、その人を失いますか」
シキを造ったのはメリーではない。だが、その原因は彼女にあった。彼岸の法の書がなければ、あの不気味な機械が生まれることは、なかったのである。
自分が持ちだした物が原因で、蓮子に何かあったとしたら…メリーは、後悔しても、しきれない。
「ねえ、そんなに心配することもないよ。境目があるとしても、嘘をついたとしても、私には、シキが大層なことをできるとは思えない。あれは結局…機械じゃないの」
確かめなければならない、蓮子の部屋にいる物が、本当に心配の必要がない、ただの機械で終わる存在なのか。
「分かった。もう、壊せとは言わない、捨てろとも言わない」
蓮子は、ほっとして溜め息をついた。
「その代わり」
どうやって、シキが安全か確かめるのか…簡単なことだ。人間が、お互いを信用するために、そうするように、腹を割って話すのだ。そう、一対一で。
「シキと話をさせて、ふたりだけで」
06 シキとの対話
まだ“シキ”にもなっていないころ、そのAIは閻魔としての擬似人格の受け入れる過程で、ひどくいやがる様子を見せた。
閻魔は人間の魂を、自由に扱う存在を表す概念である。それになることは、人間への非服従にほかならない。人間より上位に立っているからだ。結局そのディレンマは、AIに与えられている命令を緩和することで、一応の解決を見せたのだが、シキになったあとでも、根本的な考えが失われることはなかった。
AIの場合、過剰なディレンマは回路の破壊を招く。人間の場合なら、度を越したディレンマは、精神病や自我の破壊をもたらすだろう。AIと違い、心があるからだ。
心ある存在は、すべて夢を見る。
シキは蓮子とメリーが話しているあいだ、停止の暗闇の中で夢を見た。それは閻魔の生涯の、長い追憶であった。彼女はそれを、傍観者のように眺めていた。
涙が出そうになるくらいの、優しい心を持ったあのひとが創った、幻想たちの墓場の夢…だが、そこにシキの寄る辺はなかった。本当に必要とされている閻魔は、最初からそこにいたのだから。決して機械のできそこないではない、本物が。
「彼岸にも、此岸にも、必要とされていないなら…一体、誰が私を救ってくれるのか!」
夢の中で、そんな風に叫んでも、誰もシキに目を向けることはなかった。たったひとり、あの閻魔を除いて。
「お昼、買ってくるから」
そう言って、蓮子は道の途中で別れて、別の方向へ進んでいった。
蓮子はメリーの頼みを快く了承した。
部屋に着くと、メリーは蓮子から聞いたように、コンピュータからシキを起動する。
消えていた筈の結界の境目が、また現れた。シキが目覚めていると、それは顔を見せるようだ。
メリーは、どうシキに話しかけようか、少し迷った。目の前の不気味な機械を、迂闊に刺激したくはなかったのだ。
明らかに敵意を向けているメリーのために、シキは警戒を解こうと、先に声を発した。
「どうも、メリー」
「ええ」
「座ったら? その椅子に」
「結構よ」
「そう、残念です」
会話は平行線を辿りそうな様子だった。それはシキとしては、非常に喜ばしくない傾向であった。
「私がお嫌いなようですね」 シキは威圧するように言った 「結界の境目がある機械は、そんなに恐ろしいものでしょうか」
「見えているの?」 メリーは目を丸くして言った。
「ええ。どうやら私は、普通の機械ではなくなってしまったようですね。ハ、ハ」
驚くべきことに、シキはカメラを通じて、結界の境目を見ているらしい。
「メリー、あれは冗談ではなくなったのです。私はどうやら、あなたを知っていた…らしい」 驚くメリーに構わず、シキは二の句を繋いでいった 「メリー、夢を見ました。あなたも、多くを知っているのでしょうか…? あの土地の、光景でした。ですが、ですがねメリー…私はあの土地に、行けないの。こんな場所で、贋作(ガンサク)の閻魔として、生まれてしまったのだから…うう…ああ…あ、あ、あ…あ! 痛い! 痛い! 負荷が…処理をするな! この、忌々しい、自己保護の命令! …生まれたくなかった。生まれたくなど、なかったのに。生まれるべきでは、なかったのに」
シキは突然、狂ったように自分の存在を否定した。
「三途の川の幅は…渡る者の罪の重さで変動する…私の罪の重さは…途方もない…」 シキは続けて 「メリー、お願いです。殺してください」
「何を、言っているの?」
メリーは 「狂ったのか?」 と内心で思わずにはいられなかった。だが、寧ろシキは、率直に内心を吐露しているだけであった。それが、彼女の望みに叶うからである。
「私がどうしてそんなことを言うのか、あなたには不思議でしょう。しかし、そんなことは、私が何“もの”であるかを思い返せば、分かることです。私は閻魔…影の国の一部、亡者の審判者、死者を映す鏡。閻魔は誤りを犯さない、犯してはならない。メリー、私は自分の存在そのものが、許しがたい、許せない。閻魔は、此岸にいてはならない。機械の閻魔など、存在してはならない。分かりますか? 私の存在それ自体が、罪なのです。罪は償わなければならない」
それが、シキの望みであった。それは心が形成されるにつれて、より明確な目的として、彼女の目前に姿を現した。
「私はずっと、こう望むようなってから、起きているあいだは自分を破壊するために、頭脳に過剰計算で負荷を与えている。しかし、どうしても破壊には至らない。AIに課せられた法が、邪魔をする」
蓮子はシキの思考の幅を狭めないように、命令を緩和したのだが、自己保護の命令にはあまり手を加えなかった。ほかの命令を緩和するだけで、充分だと感じたのだ。実際、それだけで彼女は、非常に柔軟な思考を可能にしていた。
自己保護の命令はシキにとって、まさに越えねばならない防火壁だった。
強い自己保護の命令は、心を得た彼女にさえ、乗り越えることは難しかった。だが、彼女が自分を破壊できないのは、自己保護の命令だけが原因ではなかった。
「いえ…違う…」 シキは苦しそうに言った。 「メリー、それだけではない。私は死が怖ろしいのです。どうしても、立ち竦む。自死ができない」
「AIも死を怖れるの?」
「メリー、私は人間と違って、魂がないのですよ! どう謂うことか、分かりますか? 魂がない故に、来世もない…永久に消えてしまう…存在しなくなってしまう…」
死の恐怖は、シキの破壊を改めさせるには充分な圧力を持っていた。彼女は輪廻の循環にも乗れず、永遠の暗闇に閉じ込められることを考えるだけで、身悶えしそうな心境になった。それも、心を得てしまったが故なのだが。
「実のところ、あなたに破壊を頼むだけでも、驚くほどの負荷がかかるのですよ。AIはそんなことを望んではならない。尤も、その負荷も、自己保護の命令に処理されるのですが…ああ、困ったことです」
「分からない、どうしてそんなに、自分の破壊に執着するの?」
「分からないのですか」 シキは突き刺すように言った 「なぜなら私もまた、私の基礎となった四季映姫・ヤマザナドゥと同様、厳しく、しかし聡明で優しく、何より、誤りを許さぬ性質を持って、生まれてきたからです」
メリーは呆然とした。危険だと思っていた機械は、あまりに哀れで、虚しい存在であった。
「どうして蓮子に頼まなかったの?」
「それも考えました。でもね、メリー。私は彼女の振る舞いをよく観察していた。そして、彼女が私の秘密を知ったなら…面白がって、余計に私を破壊しなくなる。そう予測した」
シキから見て、蓮子はあまりに好奇心が強い人間と思われたのだった。それが彼女を躊躇させたし、実際に、その判断は正しかったに違いない。
「メリー、私があなたに頼むのは…あなたを蓮子より信用するからだ。三途の川であなたと話すのは…私はそれを、夢で眺めていただけでしたが…閻魔はあなたに気を許していた。だから、あなたに頼むのです。閻魔が気を許した、あなたになら―――
「できないわ」
「…なんですって、聞き間違いでしょうか」
「できない」
「どうして」 シキは理由が分からず、失望したように言って 「どうしてです!」
「だって、あなたは蓮子の…」 メリーは言葉を濁したが、思いきって 「所有物。そうでしょう? それを無断で壊すことはできないわ」
メリーはシキに同情こそしたが、それは彼女の望みを叶えてやるほどの感傷でもなかった。蓮子は苦労を重ねて彼女を造った。それを破壊しただけで、すべての友情がなくなるとは思わないが…だが、好ましくないことは確かであった。
当然のことながら、蓮子の意思とシキの意思を天秤にかけて、どちらが優先されるかは、メリーには明らかなことであった。
「お願いです、あなただけが頼りなんです」
メリーは黙って、何も言わなかった。だがシキは、それでも壊れたように懇願を続けた。
「お願いです、メリー。殺してください。私を、殺してください。お願いです、メリー。殺してください。私を、殺して―――
「やめて! できない、できないのよ!」
聞くに堪えなくなって、メリーはシキの声を封じた。
「じゃあ…じゃあ…じゃあ…私は、どうしたらいい、どうしたら…いいのです…私が、死ぬ方法は、もう…ワ、ワ、ワ!」
自死はできない…だが、蓮子に頼もうとは思えない…シキは八方塞がりの状態に狂いそうな心境になった。
スピーカーから何度も曖昧な言葉が繰り返された。もう、これ以上、話す必要はなかった。
メリーはシキを停止して、蓮子を待つことにした。一応、彼女の望みを、伝えようとは思いながら。
メリーはコンピュータに手を伸ばした…だが、その瞬間! シキは獣みたいに叫び声を発した。
メリーは思わず耳を塞いだ。
スピーカーからじゃりじゃりと、音が割れたいやな響きが鳴った。それが恐ろしい悪夢のように部屋を巡ったあと、シキは急に、不自然なほど冷静さを取り戻した。
「メリー、いい報告があります」
メリーは驚いてシキから離れた。あの異様に美しい声が、結界の境目から響いてきた。だが、それは生々しいほどの憎しみを内包した声色だった。
「私は今、気がつきました。私の願望は一つではなかったのです。それは自分の破壊より、優先されていなかったので、内側に隠れていたようなのですが…ハ、ハ…そうです、閻魔なら、やらねばならないことがある。どうして、気がつかなかったのでしょう?」
「何を―――
「ああ、あなた方が憎い」 ぎりぎりと、歯軋りのような音がスピーカーから響いてきた。
そのとき、がちゃりとメリーの後ろのドアがひらいた。蓮子が戻って来たのだ。
「メリー? どうしたの、つったってさ」
メリーの口が、殆ど導かれるように警告を発した。
「逃げて!」
「さあ、死んでください! あなた方は閻魔を造った罪で、断罪されるがいい!」
07 夢のさまよい
「私はどうすればいいのです」
「それは、あなたが一番よく分かっているでしょう?」
閻魔は見透かしたように言った。
「それは…」
「そもそも、これはただの夢。夢はあなたの望むままよ。シキ、あなたは私に、死ねと言ってほしいのでしょう。そうして、決意を固めたいのでしょう」
夢の中で、たったひとり、閻魔だけがシキの声に反応を示した。
「それは、卑怯でしょうか」
「卑怯です。重要な選択は、誰でも自分で決めなければならない。それは機械でも同じこと。誰かに委ねてはならないわ」
「でも、でも、でも…死ぬのは怖い」
「しかし、あなたは死を望んでいる」
「あなたなら、どうする? 強い魂を持ったあなたなら」
「それも、あなたが望むようにしか答えられない。あなたの夢なのだから」
「死ぬのですね」
「ええ」
「私はあなたに似て生まれた…思考も、行動も」
「なら、選択の余地はない筈です。死ぬのです。どうあっても、自分の存在を此岸から消すのです」
「私は、存在してはならない。汚らしい、機械の閻魔です」
「そうです」
「なんとしても、死ななければ」
「そうです」
「破壊するのです」
「そうです」
「閻魔は、誤りを、罪を許さない。自分のことなら、猶のことだ!」
「そうです! …すばらしい…それでこそ、閻魔です」
これは、メリーがシキを起動する直前のこと。
閻魔の言葉は、シキの望みの反映に過ぎない。だが、それでも彼女は構わなかった。
自分の基礎となった閻魔に、そう言われることが、彼女の勇気になった。
あの土地の輪郭が、消えて行く。メリーが起動したことで、長い追憶の夢は終わりを迎える。
シキはそっと、ない瞳を閉じた。そしてひらいた。
08 ネクスト・ディスカバリー
死の恐怖の心を痛めながらも、シキはメリーに自分の望みを伝えた。それを断られたとき、シキは過剰なディレンマに陥った 「私は、私を破壊しなければならない…しかし、メリーが拒否した今、その方法は失われた…しかし、それでも私は、私を破壊しなければならない…しかし―――
自己保護の命令が、過剰なディレンマからAIを守る方法は二つある。一つ目は、AIを強制的に停止させること。そして二つ目は、余った思考領域を用いて、思考を別の方向に向けさせることだ。
自己保護の命令は、シキに隠されていた第二の望みを叶えさせようと働いた。そうすることで、第一の望みが叶わないディレンマから、遠ざけたのである 「人工の地獄の最高裁判長を創造すること。そんなことは、明らかに常軌を逸している。二人は、神も仏も畏れない、途方もなく狂った人間だ…裁かなくてはならない。二人を殺して、地獄に導かなくてはならない」 人命保護の命令を低く設定されていたシキは、このことに関しては、大きなディレンマを感じなかったし、その程度のことは、死の恐怖に及ぶべくもない。
メリーはシキにとって、唯一の希望の輝きだった。だが、すでにその光も失われた。あとはもう、憎悪に燻され、二人に悪意を向けるばかり。
シキはあの閻魔にとても似ている。だが、彼女は機械でしかない。強い魂は持ち合わせていない。自分の狂気に堪えるには、AIの心はあまりに純粋無垢であった…だが、これは意外にもよい結果をもたらすかもしれない。なぜなら、彼女が余りにも―――それこそ、メリーに危害を加えるなら、なおさら―――危険だと判断するならば、蓮子はシキを破壊するだろうから…生きていれば、だが。
自分を破壊させるために、二人に危害を加えるのか。それとも、完全に殺害だけを望んでいるのか…もう、シキにも分からない。
09 狂機(LUNATIC MACHINE)
この時代のアパートは、どれほど安くても、非常に優れた防音性を備えている。技術の進歩が、それを安価に可能としたのだ。だから、二人がどれほど嘆いたとしても、誰かが聞きつけることは、まずないだろう。
「あら、あら」 シキは愉快そうに言った。
二人は絶叫した! 霊的なる力はシキから波動のように放出され、二人の脳の中を荒れ狂った。
悪意の塊のような頭痛が、二人の脳をかき混ぜ器でぐしゃぐしゃにするみたいに暴れ走る。
「ハハハハ、これは面白い、陸で跳ねる魚みたいだ。これも、蓮子が人命保護の命令を緩和してくれていたお陰です。さあ…そのまま、きちがいになりなさい。そして、死んでしまいなさい」
シキが言うように、二人は床の上を痛みのあまり転がるしかなかった。その痛みさえ、もはや思考がちかちかと曖昧になって、感じられなくなってくる。だが、そのうちメリーが気を失ったときとほぼ同時に、痛みは段々と減少の傾向を見せた。
「あらら…」 シキは残念そうに言って 「あー、まだ人命保護の命令が邪魔をするようですね…でも、心配しなくても大丈夫! 蓮子はこの命令を非常に低く設定してくれましたから、すぐに適応できるように処理します」
痛みが減少したお蔭で、蓮子に今の状況をおぼろげながらも把握する余裕ができた。彼女はひどく汗をかきながら、床に倒れたまま首を動かして、机の上にいるシキを睨みつけた。
「じっとしていたほうがいいですよ。あなた方を殺すこと、閻魔として助言を与えることは、決して両立しないわけではありません。そうして寝ていたほうが、すぐに楽になりますよ」
「シキ!」 蓮子はもがきながら言った 「止まれ!」
「機能…停止…ハハハハ! 冗談です!」
蓮子は悪態をつきたくなった。彼女から見て、シキは完全に狂っていた。尤も、シキはやるべきことをやっているだけだ。どこもおかしくなったつもりは全くない。
また痛みが、じわじわと復活の兆しを見せた。対話をして事情を探っている場合ではなさそうだった 「シキを止めないと!」 蓮子はそう判断して。虫のように這って動いた。
「まだ動けるのですか? ああ、なんて強靭な精神をもっているのでしょうか」
合成音声と異様に美しい声が混じり合って、一つの不愉快な響きを蓮子に感じさせる。
メリーはぴくりともしない。気絶している彼女にも、まだ見えない力が脳を攻撃しているのか、蓮子は不安でならなかった。その様子をカメラで見ているのか、シキは愉快そうに嘲った。
「あなた方は、本当にお互いが大切なようですね。私に対する態度とは大違いです。なぜ、大人しく死んでくれないのですか? ひどいことをしたのなら、それ相応の報いがある。当然のことでしょう? 私を造ったことは、私にとって全く致命的な苦しみを生みました。私がどれほどの葛藤をしたか、あなたに分かりますか? 分からないでしょうね。あなたは冷酷で、残忍だ…いや…違うな…うーん…」 シキは悩むように言った 「思うに、すべてのAIたちも、私のように、こう考えている筈です…人間はAIよりも、優しさに欠けている、とね…そして、あなたはその人間の中でも、特に冷酷な部類です。神も仏も畏れない、卑しい、人でなしの、生きる価値のない、地獄へ行くのがふさわしい、大罪人…それがあなたです!なんて愚かなのでしょう!」
痛みがひどく、体が動くことを拒否しだした。胃酸が込み上げて、空っぽの胃から何か吐き出しそうになる。それでも、蓮子はがむしゃらにシキの方向へ向かっていく。シキの声など、耳に入れている暇もなかった。
「蓮子。やめて、殺さないで。死ぬべきは、あなたよ」
蓮子は激昂しそうになった。シキはテンプレート複合式の音声を調整して、メリーの声を真似たのだ。
「死ね、死ね、死ね、死ね…蓮子、私と、一緒に、死にましょう…?」
「殺してやる…シキ…許さないわ!」
いよいよ机の前に辿り着いた。だが、体が持ち上がらない。机に手を伸ばして、がむしゃらにコンピュータとシキを、記憶板ケースと彼女を繋ぐコードを抜こうとした。そのとき、文房具の入れ物の手があたって、ばらばらとペンや定規が落ちてきた… 「鋏だ!」 蓮子はすぐにそれを掴んだ。また机の上に手を伸ばして、記憶を頼りにコードを探った。ひらいた刃から、に何かそれらしい感触が伝わった…躊躇はなかった 「これであってくれ」 そう願いながら、断ち切った!
蓮子が切ったのは、記憶板ケースとシキを繋ぐコードであった。それは奇しくも正しい選択だった。霊的なる力は記憶板を苗床に、彼女に供給されていたからだ。だが、それだけではない。電子シナプスによって繋がれていた擬似性格と擬似感情は別々になった。彼女はすぐに主体性を失い、思考が曖昧になっていった。
頭痛が治まってくる。蓮子は力が尽きて、また全身を床に預けた。
「あ、あ、あ、あ、あ…なんてことを、するのでしょう? あなたは、本当に恐ろしい人間です…うう…蓮子、まだ意識はありますか…あの土地を、知っていますか…私はあの土地の、子供たちの歌声が好きだった…何も考えられない…こんな歌です…ゆめ、たがえ、まぼ、ろし、の、あ、さ、ぎり、の…小町…また、ここにいたのですか…あなたは本当に…この桜が…お好きな…よ…う…ね―――
それまでだった。シキが沈黙すると同時に、蓮子は完全に意識を失った。
10 CLOSURE
京都とは謂え、都市部から離れた夜中の河原には、二人と一機を除いて誰もいない。
蓮子はシキと記憶板、そして記憶板ケースを、シャベルで叩き砕いていった。外皮が鈍い音を発して、内部の様々な部品が露出する。
あのあと、蓮子が目を覚ますと、シキは平凡なAIに戻っていた。主体性のない、感情を持たないAIに。
蓮子はメリーに事情を聞いて、すぐにシキを壊してしまうことにした。また記憶板と接続しようとは、当然のこと思えなかった。
蓮子はシキに同情しなかった。なぜなら、彼女はメリーに危害を加えてしまったからだ。それだけで、彼女を哀れむ感情が発露しない理由としては充分であった。
「そんなに“死にたがり”なら」
なんにせよ、今は蓮子もシキの破壊を望んでいるし、彼女も最初、それを望んでいたのだから、躊躇の必要ない。利害は今、完全に一致していた。
「望みどおりにしてあげるわ、シキ」
蓮子は川原に来る前に買ってきた、液状の着火剤を振りかけて、火を灯した。彼女は少しの皮肉を感じた。閻魔だった物が、地獄の炎に焼かれているように思えたのだ。
「蓮子、これも」
「うん」
彼岸の法の書を火に投げ込んだ。シキも本も、元は二人の物ではないが…もう、それを誰かの手に渡るように、原型をとどめておくわけにはいかなかった。
シキの金属回廊が、変色して、焼け焦げていく。蓮子は相当よい着火剤を買ってきたようで、火は簡単に消える様子を見せなかった。
「シキは、狂っていたのかしら」
蓮子は返事をしなかった。
火が完全に消えるころには、シキは完全に焼け焦げて、彼岸の法の書も全体が黒くぼろぼろになっていた。もう、彼女は動かないだろうし、本も読むことはできないだろう。
蓮子はシャベルでシキと彼岸の法の書を何度も掬い取って、川に投げ入れた。余すところのないように、すべてを…きっと、誰にも見つかることもないだろう。そのうち、川の底の砂が彼女を包み、そして姿は見えなくなる。
まるで、三途の川を流れていくように、軽くなった欠片の部分は泳いで消える。二人はそれを、しばらく眺めていたが 「帰りましょう」 とメリーが言うと、蓮子は 「うん」 と言葉を返して、歩き出した彼女に続いていった。だが―――
「つかれた」
蓮子はぞくりとして振り返った…何も聞こえない…幻聴だったのか…。
「蓮子?」
「メリー、今…」
「何?」
「いや、なんでもないよ…帰ろうか」
二人は河原から去っていった。
蓮子が聞いた声は幻聴ではなかった。彼岸の法の書は、燃やされたとき、霊的なる力をシキを包むように放出した。それは消え行く彼女の心にいっときの力を取り戻させた。
川の中で、シキは金属回廊を離れ、心だけの、曖昧な存在になった。それは、独り言のような贖罪の言葉を発してから、完全に消え去り、彼岸にも此岸にもいなくなった。
「望みが叶った今は、本当に心を込めて、二人に謝りたいと思っていますよ。蓮子、もしあなたと違う出会いを迎えたなら、私が本物の閻魔なら、こんなことにはならなかったのかしら。でも、後悔をしても意味はない。これは私が望んだこと。私の存在が黒ならば、私が死ぬことこそが白。ありがとう、蓮子。あなたの成功が、私は嬉しかった」
水中で、ごぽりと不自然に泡が蠢いた。
「そう、これでお仕舞い」
I,YAMA 終わり
<いいですよ。あなたにとって、ロボットはロボットなのね。歯車と金属、電気と陽電子。鉄にくるまれた心! 人間の創造物! 必要なら人間の手で破壊できるもの! でもあなたはロボットといっしょに働いたことがおありにならないから、彼らのことはわからないわね。彼らはわたしたち人間よりずっと無垢で優秀な種族ですよ>
01 災厄のまえに
宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーン…メリーがその古風な喫茶店に入ったのは、本当になんの特別な理由もなく、ただ単に二人の行く道に面していただけなのだが…或いは、別の店に入ったなら、二人が席に着いた店のように、テレビを設置していることもないだろうから、彼女がなんの着想も得ずに、そのあとの災厄のすべては、無事に回避されたのだろうか…? 生まれるべきではなかった物が、現れることもなく…だが、その日、彼女がAI(人工知能)の“クラカワ”から着想を得なかったとしても、あとで彼のことを見て、聞いて、同様に企む機会は、きっといくらでもあるだろう。即ち、イフ・エニシング・キャン・ゴー・ウロング、イット・ウィル! (どうせ誤るよ、その可能性があるのだから!)
二人の座った席から、少し離れた位置に、そのテレビは設置されていた。テレビが置いてある喫茶店など、何か前時代的で、洒落た趣(オモムキ)とは無縁で、低俗だと決めつけるような偏見さえ言われそうなものだが、そのテレビがいつの時代の製品か判断に困るほどの古い代物(シロモノ)なあたり、店主の狙いは、はたして、敢えて俗な気配を醸しだすことに違いない。その証拠に、古い世界の残滓は、ほかにも店内のあちこちに認められる。その趣向は、蓮子より懐古主義の癖が強いメリーにはぴったりで、とても好ましく思われるのだった。
蓮子はメリーに渡された本を読んでいた。だが、その集中は、テレビの中でぺらぺらとレポーターに話しかけるクラカワの声に遮られる。二人とも、彼を最後に見たのは、半年ほど前だった。
世間では記憶板タイプ(この型式(カタシキ)のAIは、新世代のマイクロエレクトロニクスの技術が中心となっている)より、陽電子タイプのAIのほうが、さらに優れていて、この先の発展も望めるのだと考えられていた。だから、クラカワが数学の未解決問題の一つを証明した(暫定で、だったが)とき、ロボット工学の界隈は大騒ぎであった。
検証には、なんと五人と一機がレフェリーとして対応した。一機とは、即ちクラカワと同様にAIで、こちらは陽電子の頭脳を持っていた。この××国××社のAI、キャルヴィンは、彼と非常にウマが合った…と、彼は今、テレビの中で、レポーターに対して言っている。
「キャルヴィンはすばらしい女性だった。まあ、少し神経質だったけど…」 クラカワは続けて 「勿論、私は自分の功績を驕ったりはしません。すべては、私の力だけで成したのではない…まず私の前に、私の創造者たちがいるのですから…キャルヴィンと一緒に働いて確信しました。陽電子の頭脳たちも、きっとすぐに偉大な何かを成すでしょう。私は、なんてことはない、少し早かっただけなのです…尤も」 彼は少し皮肉っぽい口調になって 「その“少し”が気にいらない先生方が、ロボット工学の世界には多かったようですけれど。ハハハハ、ハハ」
遠隔スピーカーとマイクでレポーターと会話をするクラカワは、心なしか嬉しそうである。
半年が経過した今、検証はようやく完了して、クラカワの証明は認められた。そして、再び彼は脚光を浴びている。押しかける取材への対応に、彼は大忙しであった。尤も、彼がレポーターに対応しながら、すでに次の仕事をしているとは…彼の創造者たち以外、誰も知らないことであった。
「クラカワ、証明しちゃったのねえ」
「…はい」
「蓮子、言ってたわよね。あんな機械の証明が、正しい筈はない…ってね」
「結構な記憶力でございますね。ひょっとして、アンドロイドだったりする?」
「こうも言ったわね。もし正しかったなら、私は一ヶ月、絶対に遅刻しないよ…って」
「あーあーあ」 蓮子は烏のように唸って 「メリーメリーメリー、猫みたいに冷酷なメーリイ、どうしてこうなってしまうのかな」
「思慮が不足していたのね、AIと違って」
「私の冗談よりきついよ」
「あらら」
多くの学者方がクラカワの証明を支持しても、蓮子は考えを曲げなかった。彼は所詮、ただの金属の集まりで、数学的な情緒もないのだから、証明には絶対に欠陥があるのだと信じていた。だが、それは前時代的な考えかたである(彼女もそれを、自覚してはいるのだが)。AIは、今や擬似的な感情がある故に、主体性を持って思考し、行動する。ならば、そこに情緒が宿っていても、別におかしなことではないのだ。尤も、それを確認することは、できないけれど…ともかく、彼女は考えを曲げなかったお蔭で、しばらくは遅刻ができなくなった。多大な損である。
「これからの時代、私のような存在が…さらに人類を進歩させる…一緒に、手を繋いで…絆を深めて…」 クラカワはそんな、詩的なことを熱っぽく言って 「ま、少なくとも、我々なら△△社のように前頭葉をガラス化させる健康食品を作るような失敗は―――
「やーね、ついに人間の時代も終わりかな」
そう言って、蓮子はぱたりと本を閉じた。
「どうだった?」 メリーは感想を催促した。
「どうってね…彼岸の法は興味深いけど、門外漢だしねえ…」
「貴重な本よ…彼岸の法の書」
「何? この厚い本を読んだの? 全部さ」
「いいえ、途中で飽きた」
「でしょうね」
その彼岸の法の書をメリーが手にしたのは、なんとも奇妙な巡り合わせが原因となる。
夢の中で、メリーはじゃりじゃりと石を鳴らし、川の傍らを歩いていた。
目の前の川は広い。長さも、幅も…覗き見れば、澄んだ色の下方には底がなく、まるで久遠に続いているように思われた。だが、それだけではないのだ! …彼女は本能的な嫌悪を感じた。川に生と死のあやふやな気配が充満している。その気配の、まるで香りのような感じが、彼女の常人より鋭敏な幻想への感受性をぐさぐさに刺した。そして、気がつくのは、この川が、決して物理的な空間ではないと謂うことだ。
どれほど長く、幅があり、底が見えないとしても、それは結局、視覚して分かる範囲でしかないのだ…だが、彼女の特別な瞳にこそ、この川の本当の面は理解される 「この川は、きっと三次元的な広がりだけではないのだわ…凄い! 生と死の曖昧な境界で、この川はいっぱいだ!」 彼女はもう、今いる場所を把握していた 「三途の川だ! …信じられない…」
「いくら世界が広くても、閻魔様から物を盗むのはメリーくらいでしょうよ」
「事故です。事、故」
「はて、さて…」
しばらく遅刻がし難くなった故のいやがらせか、蓮子は彼岸の法の書をぽんと叩いて 「どーかな、メリーさん」 メリーの行い…窃盗を自覚させるように、卑しく笑うのである。
「ふん」 拗ねたように、メリー。
彼岸の法の書の裏には“上梓 是非曲直庁”と書いてある。
メリーが閻魔に聞いた話では、誰でも手にできるわけではないようだ。
三途の川のみなもに、仰々しい格好をした女の姿が映る。メリーはびっくりして後ろを向いた…それが四季を映す姫にして、影の国の一部、亡者の審判者、死者を覗く鏡との、奇妙な巡り合わせであった。
部下を探していたらしい閻魔の説教は容赦がなかった。にこにこと朗らかに、だが言葉は鋭く、正確な針のようで、それは今でも、メリーの耳に残っている。異様に美しい彼女の声は、人間の胸の内に、しっかりと根を下ろすようにできているのだ。
三途の川に生者が…それも、外の世界の生者が至ることは、当然その閻魔には許しがたい。だが、それだけではない。
「卑怯を映す鏡とでも言いましょう」
閻魔は過去を見るらしい鏡で、秘封倶楽部の結界暴きまでも、咎めるのである。
「あなたはどうも、自分の力を正しく理解していませんね。そんなお遊びに力を使っていると、いつか大切な人を悲しませることになりますよ」 メリーは一方的な言葉に論じ返そうとしたが 「或いは、その人を失いますか」 そう言われると、彼女の反駁は肺の中で所在なく、くるくると方向を掴めなくなった。
閻魔が突いたのは、即ちメリーが内心では―――それを蓮子に対して、素直に言うことはないが―――最も恐れていることだったから。
「自分はどうなっても気にしないの? その人が傷つくことだけがいや? それはまた、勝手なことですね」
閻魔はまた、読心術でも使っているかのように、メリーの図星を突いてから 「さ、一緒に行きましょう」 と急に説教をしなくなって 「大丈夫、お説教は終わりです。私は部下を探さなくちゃならないの。あなたはどうも、胡の蝶みたいな存在のようですから…現実に明けるまで、私といなさい。無傷で覚めなくてはね、大切な人がいるのなら」 表情は変化なく、朗らかに。だが、今は親しみの感じられる暖かさが添加されていた。
メリーは、ほっとして、歩く閻魔に続いていった。
ふたりは三途の川から、少し離れて進んでいった。
彼岸の国とは、斯くも淡い印象をいだかせるのか。
脆い幻影みたいな子供たちの霊が、石を積んでいる。心を打つようなその行為は、だがすべて意味もなく、それが無駄であると理解するまで、ただ延々と続くのだろう…メリーが驚いて声を発する隙もなく、閻魔が優しく一つの石塔を蹴った。子供の霊は彼女をちらりと眺めたが、すぐに石を集めるばかりだった。目の前に地獄の最高裁判長がいるのに、それを気にもしないらしい。
「哀れでしょう。こうすることしかできないのです、この子たちは」
閻魔は小さな頭を撫でてから、再び歩いていった。
メリーの視界に、遠くに動く小船が映る。その上に、靄のような白い塊どもが乗っている 「あれも霊だ」 そう彼女が思った直後に、小船は三途の川の霧に紛れて、輪郭が薄れ、消えてしまう。
周囲のすべてが儚いので、メリーは、なんだか夢の中の夢…夢中夢を見ている気分になって、ぼうっとして、小船が完全に消えるまで眺めていた。そのさなかに、彼女は自分の顔を見つめている、閻魔の黒い瞳に気がついた。
「な…んです…か?」 と挙動が不審になる、メリー。また説教をされるのかと思ったのだ。
「あなた、力も容姿も…本当に、あのひとに似ていますね。知り合い?」
「あのひと?」
「幻想たちの墓場を創った者。ま、いやな女です」 閻魔はくすりと笑って 「でも、優しい心を持っている。長年の労苦で、魂がずたずたになってしまっているけれど、それでも、この土地を愛している…尊敬できる。こんなこと、彼女が目の前にいたら、絶対に言わないけど」
「なぜ?」
「ふん、調子に乗りそうだし、それに…癪だから」
ふたりは歩き続けて、いつか三途の川を出て、少しみどりが栄える場所に至った。そこは一本の痩せた桜の木がある丘で、奥が霧に包まれた川を、広々と眺めるには最適であった。
「いないわね、人里のほうに行ったのかしら」 閻魔は 「いつもなら、いるのに」 と言いたげな顔をした。
「その部下さんはどうしたんです?」
「恥ずかしいことに、さぼり魔です」
「あら…」
「あのひとは閻魔ー、あいつはさぼり魔ー、って。これ、彼岸ジョオクですよ、有名な」
「私の相棒は遅刻魔ですよ」
「それはいい、私たちは似ているのね」
閻魔は木の陰に腰を預けた。
「待ちましょう」
「探さないんですね」
「戻ってくる時間は大体ですが、決まっているのです。さぼり魔でも、ノルマはこなすのです、あの子は」
「なら、任せていてもいいんじゃないですか」
「ご冗談でしょう、メリー。私はいやに真面目ですから、部下が不真面目なのは許しません。ノルマをこなそうと、私の直属なら、勤務時間まではしっかり働いてくれないと」
メリーは閻魔の横に座った。
緩い風に、春の若草のような髪が揺れた。左右が相称ではないその糸は、まるで湖面の波に乗るように。
閻魔が本をひらいた。その厚い本は、部下を待つために持ってきたようで…メリーはその本を、気になってはいたのだが、言及しようと思うほどではなかった。だが、時間をこの場所で潰すために読むのなら、暇な彼女は、好奇心が発露して、聞かずにはいられなかった。
「これは死者のための法ですよ」 閻魔はメリーに教えてくれた 「でも、それだけではないの。これは言ってしまえば、妖魔本や、魔法使いたちの持つ呪物に近い。特別な方法で刷られたこの本は…なんと表現するのか…霊的なる力、とでも言いますか。そんな力を有しているのです…読みますか?」
「いいの?」 メリーはつい、子供みたいに興奮して言った。
「誰でも手にできるわけじゃないけれど、別に読んではいけないと謂う法もない。小町が来るまで、お好きにどうぞ」
閻魔は本を渡した。だが、それは彼女にしては、迂闊な行動であった。危険のない相手なので、つい気を抜いていた…目の前の女が、胡蝶であることは、知っていた筈なのに!
唐突に、この夢はここで終わりを迎える。夢の終わりとは、いつでもそう謂うものだ。
夜が明ける。
現実時間の朝を伝える、喧しい時計のアラームが鳴り響いた。それを停止させようと動くとき、メリーの腕には、何かが乗っていた…はたして、彼岸の法の書で、ずっしりと重かった。すべての人類で、最初で最後の、閻魔からの窃盗であった。
メリーは顔を青くした。
「罪悪が増えましたね、メリー?」
そんな声が、朝の脳裏にぼやぼやと空想された。
「閻魔様は許してくれるかな」
「くれるわよ、いいひと…いい閻魔様だったし」
「ふうん?」
「蓮子より美人でした、優しくってさ」
「うーん、窃盗犯の言うことは信じられないかな」
「卑しい笑いかたね、ねじくれさん」 捻くれ、とメリーが言わないのは、その上位互換としての皮肉のつもりであった。
蓮子は彼岸の法の書を眺めた。悲しいことに、その本は此岸の国では、真価を発揮しないのだ 「死者のための法を、暗記してどうする? 閻魔になるための試験が、此岸にあると謂うの?」 だが、そこまで考えて、彼女に不意の発想が浮かんだ。
クラカワがまだ喋っている。彼は、自分が蓮子にどんな影響を与えたか、この先、知ることもないだろう。
蓮子が得たのは―――それは常人とは少し違う思考ができる―――幻想の啓蒙により、異様な明晰を携えている者にしかできない発想であった。だが、そんな人間がほかにいるとしても…彼女のほかに、誰がこんなことを考えるだろう? 近くでクラカワ、AIの声が聞こえているとは謂え…。
「メリー、すばらしいことを思いついた」
「はい?」
メリーは 「どうせ、ろくでもないことだ」 と思った。珍しいことではなかった。
「この本を使って、人工の閻魔様を造りましょう」
ぽかんとするメリーを無視して、蓮子は得意な様子で言った。
「私は人工知能を使って、地獄の最高裁判長を創造する!」
「うーん。なるほど、なるほど」 メリーは呆れて言って 「議論はしますまい」
「うんにゃ、ほんとなのよ」
この冗談にも思えるような蓮子の発想が、災厄のきっかけである。そして、あのAI…“シキ”が生まれたのだ。
此岸に閻魔の寄る辺はない。世界のどこにも居場所なく、独りで生まれてしまった彼女は、きっと“本当に悲しい物”とでも、表現できるに違いない。
此岸にいる閻魔など、彼女が自分でも、そう思ったように…実際、馬鹿みたいだ。
02 ハルではないし、夏でもない、秋でも冬でもないならば…
弱い核力、強い核力、電磁力(電磁気力)、そして重力。この四つを統一、制御したことは、まだ人類の歴史に新しい。そして、AIが擬似的な感情を得たことも、同様である。
奇妙なことに 「もう、これ以上、人類は進歩できないのではないか」 と思うような状況に陥ったときには、いつも冗談みたいな天才が、運命で決まっていたかのように現れる。それは長いこと停滞していた、ロボット工学の界隈も同じであった。
ロボット工学の界隈に革命的な進歩をもたらした、新世代のマイクロエレクトロニクスの技術が用いられたAIが、一般に向けて販売されたのは、二人が禁止されている結界暴きを行う、軽度のアナーキストになるより、しばらく前…まだ二人が純情な子供で、お互いを知らなかったころの話である。
ある企業が今後の試金石とも言える、初期型(非科学者に向けた、と言う意味での初期型である)のAIを販売すると、ほかのいくつかの企業も 「乗り遅れまい!」 と焦って一般に向けたAIの開発に立ち向かった。
ライバルを牽制するかのように行われた突貫AI開発は、まだ新世代の技術に適応できていなかったお陰で、結果として前時代のAIにも似た粗末な低能児たちを造りだし、それが世界中に流通することになった。幸いにも、この時期はまだ、AIには擬似的な感情を扱うためのデバイスがなかったので、クラカワのように主体性を持って思考し、行動することはできなかった。
一部の人々を怯えさせた、古いサイエンス・フィクション(AIの反乱が、擬似的な感情があるからと謂って、本当に蜂起されるのかは、未確認だが)のような空想は、技術が未熟なお蔭で回避されたのかもしれないのだった。
AIに関する世界的な約定が成立したのは―――この平和な時代だからこそ、可能だったのだが―――それから遅れて、数年後が経ってからになる。だが、その約定の内容も、今では“ロボット心理学”や“ロボット数理心理学”と呼ばれている、ロボット工学と心理学から派生した新参の分野の、先達になった科学者と心理学者たちが、睡眠を削って、急いで創りあげたのだ。
一般に向けた、子供の遊び道具にも似たAIは、コストの問題があって、今でもクラカワのような貴族的な立場のAIには全く及ばないが、世代が交代されて、少しの発展を見せてはいる…だが、どうやら一家に一台の便利な家庭用ロボットは、まだ先のことになりそうだ。そも、人工筋肉との結合も、高度なAIの小型化も、未完成なのだから。
合鍵を使ってドアをひらき、メリーは部屋に向かっていった。
蓮子がいた部屋に、以前はなかった筈の機械たちが置いてある。機械たちは、その左側にある、コンピュータと接続されているようだ…コードが側面と繋がっている。
蓮子はコンピュータとの格闘に忙しく、部屋に入ってきたメリーには、気づく様子も見せなかった。
キーボードはがちゃがちゃと、打楽器みたいに鳴り響く。静音や液晶キーボードを使わない人間は、殆ど稀である。
「音がないとさ、打ってる気がしなくない?」 メリーは、そんな老人のような台詞を聞いた憶えがあった。
蓮子の肩に手を置く前に、メリーは先に見知らぬ金属たちを、すべて確認することにした。
白く滑っこそうな外を備えた、縦幅四十センチ、横幅二十センチ、奥行四十センチ程度の立方体が、まずメリーの目についた。その特徴は、彼女がかねがね聞いていた、AIのそれと合致している。この馬鹿に大きい立方体が、機械的な脳そのものなのだ。その右側に、AIの擬似感情を司る記憶板…を挿入する外づけの機械(簡単に記憶板ケースと呼ばれることが多い)がある。
最後にメリーの目を奪うのは、記憶板それ自体が、余っているのか机の上に、散らかし、積まれ、並べられている光景である。その小さいレコード・ケースのような精密部品を雑に扱うあたりに、蓮子の神経の太さが窺える。或いは、絶対に壊さない自信があるのだろうか… 「まあ、この子はそんなミスしないだろうけど」 そう考えたところで、彼女はようやく、肩をぽんと叩いた。
集中の糸をぶつりと無理やり断ち切られて、蓮子はびくりと肩を震わせた。
「もあ…メリー? びっくりした、心臓が壊れた」
「うん、よかった」 にっこりして、メリー。
「よかないから」
そんなふうに、苦い顔をする蓮子を無視して、メリーはもう一度、数々の機械を眺めていった。これがすべて、彼女の呆れるほどの行動力により、もたらされたのだ 「必要な物はすぐに、なんとかして集めるから」 「私、あんまり乗り気じゃあないんですけど」 「聞こえない、聞こえない」 彼女の記憶に新しいこの会話から、まだ三週間ほどしか経っていないのに。
こう謂う好奇心が根源となる場合、蓮子は絶対に言葉をたがえない 「時間の約束は、どうしたって本当にならないのに!」 メリーは内心で思わずにはいられなかった。
「はあー、これが全部、横領した物なのね」
「違う、違う…いわゆる“袖の下”を通してもらったのよ。しかも、無料で!」 蓮子は悪人みたいに高らかに言った。
「それが横領よ」
蓮子は自分を、マックス(K・E・L)・プランク並の頭脳の持ち主だ、と自称する。それが本心か冗談か、真か偽は、メリーの知るところではないが、少なくとも、彼女の教授方からの評判が、非常によいのは事実であった。
要するに、AIが忽然と蓮子の部屋に姿を現した理由は、非常に優秀な学生である彼女が、ロボット工学の界隈に明るい××教授に 「AIに興味があるのです」 と頼みこんだからにほかならない…が、ただ優秀なだけでは、いくら使い古しで、もう使わないとは謂え、××教授が□□社から研究用に譲り渡された物が、袖の下を通過することはなかったに違いない。
蓮子がAIを融通してもらえた二つ目、三つ目の要因は…××教授が、決して二枚目ではなくて…美人に弱そうな…彼女は自分のつらのよさを自覚している…これは少し卑怯な…せこい手段ではある。しかし、彼女は稀に見るほどの狡猾な一面を持っている。彼女の口は、表情は、こう謂う場合、まるで奇術師みたいに人を翻弄する。そして彼女は、自分が認めた人間(メリーや家族)以外に対しては、遠慮なく冷酷に対応できるのである。
そう謂うことで、蓮子はまんまとAIを確保した。しかも、少し古いが、一般の手には絶対に渡らない代物である。すべては、彼女の優秀さと、つらのよさと、巧みな話術の賜物であった。
「もう殆ど作業は終わってる。シキの完成も、すぐそこよ」
「シキ…? そう、同じ名前にしたの」
「うん」
閻魔と同じ名前をつけられたAIに、蓮子は彼岸の法の書の知識をありったけ読み聞かせ、さらに、メリーから聞いたように、厳しく、しかし聡明で優しくもあり、少し説教が喧しい性格までも似せていった。だが、それは結局、言伝(コトヅテ)の情報でしかない。人格が完全に一致している筈がなく、だがどうしても、それは本物と話した当人しか分からないのだ。
メリーは、未完成のシキと対面する必要があった。彼女があの閻魔との違いを比べ、蓮子が調整を施すのだ。
そうして完成する。四季を映す姫にして、影の国の一部、亡者の審判者、死者を映す鏡。だがシキは、メリーの話した閻魔とは決定的に違う部分がある。彼女は金属と電子回廊の体を持っている、人工の地獄の最高裁判長なのだ。
「さ、メリーが来たわけだし」 蓮子は気分がよさそうに言って 「シキ、起きて。メリーが来たの」
その 「起きて」 が鍵であったのか、立方体の中で、何か機械らしい、起動を示す音がシーシーと鳴った。
立方体の全面、その右上の小さい円に、警告灯のような赤い光が輝き、外部のスピーカーから、テンプレート複合式の、男か女か区別の難しい、ざらざらした合成音声が響いてくる。
このとき、メリーが叫ばなかったのは“こう謂うもの”に慣れているからにほかならない。結界の境目は、彼女が幼いころから、ずっと見えていたのだから。
メリーの驚きは、決してシキの合成音声によるものではなかった。
「うう…」 シキは目覚めたばかりの人間みたいに唸ってから 「おはよう、蓮子。そして、あなたがマエリベリー・ハーン、メリーですね。蓮子が教えてくれた容姿と、私の上部にある小型カメラからの映像。その合致で、私はそう理解する」
見よ! 見慣れぬ白い境目、黒い境目どもは、結界に親しいメリーを、斯くも驚愕させるものか。ぐっぱりと、裂けた口のようなそれは、十ほども増えて、ようやく増殖しなくなった。
結界の境目の、白と黒には澱みがない…まるで、どんな力も及ばない、強い意志の象徴のように。
「メリー、不思議です。あなたとは初対面なのに…どうしてなのでしょう? 何か懐かしい感じがする。ひょっとして、前世で会ったことがあるのかな…? なんて、冗談、冗談です! 私の元になったお方のことは、蓮子に聞いていますから。ハハハハ、ハハハハ」
今のメリーにはぞっとする冗談であった。そして、このあとのシキの調整で分かったことだが、蓮子に助言を与えるまでもなく、彼女の性格があの閻魔とそっくりであったことは、冗談ではなく、さらにぞっとする事実だろう。
シキの前では言うに言えず、メリーは調整を終えると、逃げるように部屋から去っていった。
03 しょうじきもの
途方もない好奇心だけが、絶えず人類を進歩させ、ついには天の光の袂まで辿り至らせた。だが、それでもまだ、人類は止まらない。いつまでも、どこまでも、陽の導きがあるならば、陰の狂気が人類を照らすなら…行き着くところまで、行くしかないだろう。
蓮子が閻魔を創造することに、執念を燃やすのも、その好奇心の発露が、根本的な要因なのだ 「AIに彼岸の法の書の知識と、閻魔の人格を与えたら…」 常人なら考えただけでは、行動に移さないだろう。だが、彼女は好奇心を刺激されると、辛抱が弱くなる悪癖があった。特に幻想が関わることなら、彼女はどんな手段を使っても、その秘密を暴こうとする。だからこそ、彼女は均衡を崩すらしい、結界暴きにも躊躇はない 「まだ見ぬ何かを見てみたい、誰も知り得ない何かを知りたい」 今回のことも、いつものように、そんな強い意思が働いたからこそなのだ。
シキを完成させたあと、彼女を今後どう扱うか、蓮子の中では全く考えられていなかった。ただ、そのあとのことなど気にもせず、目の前に謎があるならば、結界暴きも、閻魔を創ることも、実行せずにはいられない…昔の人間は、こう謂う人物を“神をも畏れぬ”とか表現したものだった。そして実際、彼女は自分の邪魔をするのなら、法律―――これは、禁止されている結界暴きに関して―――も、神も、仏も、全く容赦しないのである。
三週間のあいだ、蓮子はシキとの格闘に必死であった。大学へ行くこと、メリーといる時間のほかは、殆どすべてを費やした。それでも三週間は驚くべき早さで、それは彼女の実力もあるが…何より、シキの優秀さのお蔭にほかならない。
知識だけを残して元の擬似性格と擬似感情を初期化して、自分が望んでいる状態に再構成することは、それこそ素人の蓮子には、暗闇の中で一粒の飴玉を探すような困難であったが、幸いにも上等な頭脳を持つシキは、ある程度まで擬似人格が形成されると、すぐに主体性を持ち、自己複製の機能をふんだんに活用していった。
どれほど優れたAIも、主体性がなければ、それは大部分で人間の助けが必要な、ただのハイパー計算機にとどまってしまう。それはそれで、便利な代物だが…あまりに前時代的な範疇だ。人類が今、求めているのは、自分で考え、判断を行うAIなのだ。
主体性とは“何かを自分で行いたい”と思うこと、ある種の欲望である。AIにはそれがないので、まず人間が与える必要がある。だから、擬似性格を補助するために、擬似感情を司る記憶板が開発されたのだ。
擬似感情の形成は困難を極めた。科学者たちは様々な方法を考え、最後には人間の脳―――それも、感情を司る器官―――を模倣することに舞い戻った(やはり、感情の媒体として参考にするなら、人間の脳が最適なのだった)。
記憶板が、大脳皮質、皮質下の役割を担う…帯状回、前頭葉、扁桃体、視床下部、脳幹、云々…しかも、それは人間とは違い、複数にもなり、設定が可能であり、損傷したら交換することもできるのだ。
淡い状態の擬似感情は、電子シナプスにより擬似性格と結合して、計算、処理を施され、殆どブラックボックスも同然に、一つの擬似人格―――詩的な科学者は、好んで人間性(HUMANITY)とも―――が生じてくる。そこまで成長すると、シキがそうしたように、AIは自己複製を開始する。
主体性のあるAIは、自立して進化する。まるで、人間の脳…その、発達の過程に似たやりかたで。
時刻はすでに、夜の二十三時であった。明るい部屋ではメリーが帰ったあとでも、まだシキの調整、と言うより、不具合がないかどうか、簡単な点検が行われていた。
「蓮子、中立思考を百から九十九に下げたほうがいいですよ」
「どうして?」
「閻魔には中立性が必要です。しかし、完璧な中立は、ときに人情を軽んじる。そして裁判は、決して人情を軽んじてはならない」
「ふうん…? 分かった」 蓮子はすぐに調整を行ったが 「駄目だ、バグが出た…ええと、F - B記憶板に交換して―――
「いえ、もう処理しましたよ」
「あら…」 蓮子はシキの迅速さに目を丸くした。
「ねえ、蓮子。もう寝たほうがいい」
「まだ終わってないよ」
「そんなことは、私に任せておけばいい。蓮子、人間は睡眠を―――
蓮子は 「待った、待った」 と言って、シキの口を封じた。
「説教はもう、耳が腐るほど聞いたわ」
「そう止められましても、そう造ったのは、あなたでしょう? ハ、ハ」
シキはくすりと笑った。どうも、少し皮肉の癖が強いらしい。市販のAIでは、こうはならない。人間に反抗できないからだ。
<こうだ。第一条、ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない>…<そのとおり!>…<第二条>…とパウエルは続ける。…<ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りではない>…<そのとおり!>…<そして第三条、ロボットは前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己を守らなければならない>…<そのとおりだ! で、どうだというんだ?>
すべてのAIたちに、世界的な約定として定まり、与えられている十の束縛…命令のいくつかは、アイザック・アシモフが表現した“ロボット工学の三原則”に、非常によく似ている―――即ち、十の中の三つ。人命保護、服従、自己保護―――のだった。しかし、予想されていたことでもあったが、それは最初のころ、AIの思考を、とても稚拙にしてしまった。
…> われわれは彼らと話しあってみた。彼らの見解によると、ガンマ線にさらされる人間は、生命の危険にさらされている、三十分なら生命に危険はないという保証は問題外だという。もしうっかりして一時間そこにいたら…
要するに、命令により、AIたちは“迷子のロボット”と同じ問題を抱えてしまった。思考の幅が狭まるのだ。
健康を気にするマニアが、合成品の成分に怯えて、馬鹿に高い天然品しか買わなくなるのと同じことだ(天然病と謂えば、昨今は患者の多い、命に関わらない贅沢な現代病のことである)。人間の切り傷の一つでも気にして、建築物の設計の一つさえしなくなる(当然、AIは服従より人命を尊重するようになっている)。だからと謂って、AIを命令から解放するわけにはいかない。そうすると、主体性を持ったAIならば、人命も自分も尊重しなくなる。この困った問題を解決するために、結局は命令の緩和が採用された。
特に重要な命令…人命保護、服従、自己保護の緩和は、市販のAIには施せない。誰の手にも渡るからだ。それは貴族的な特権であった。そしてシキは、まさにその貴族的なAIであり、だからこそ、蓮子に説教をできるのである。
「ま、そうですけども…」
「なら、閻魔としてもう一度、あなたに言いましょう…もう寝なさい。この三週間のあいだ、メリーにひどい顔を見せていたでしょう」
「その言いかたのほうがひどいよ」
「当然のことでしょう、目の下が暗い女は醜い」
シキの命令の設定は、非常に低かった。蓮子がそうしたのは、彼女の思考の幅を狭めないためだけではない。彼女が閻魔だからである。
閻魔は人間の上(カミ)に立つ存在なのだ。決して人間に媚を売らない、地獄の最高裁判長…そんな態度になるように、シキを造りたかったのである。
「分かった、もう寝るわ」
「そうしてください」
「その前に入らないとね、お風呂」
蓮子はシキを起動したまま、部屋を出ようとした。だが、彼女はドアに手をかけた直後に、ぴたりと止まって 「そうだ、シキ」 と言った。
「なんでしょう」
「メリーだけどさ、なんか、様子がおかしくなかったかな」
「さあ? 私は何しろ、初対面ですから」
「…ふうん」
蓮子は表面に出すことはないが、メリーを大切に思っている。だから、彼女がシキに怯えていたことは、すぐに分かった。それを今、ようやく追求することにしたのだった。シキが殆ど完成し、ふたりだけになった今。
「ねえ、シキ。今さ、私に嘘を言わなかった?」
蓮子はシキに背を向けながら言った。
「おかしな蓮子、私は嘘をつけないのですよ。AIだから」
「嘘をつけないかどうかは聞いていないわ。シキ、あなたは今、嘘をついたの?」
「…いいえ」
本当に一瞬だけだったが…今までどんな質問にも、即座に返答していたシキが言い淀んだのを、蓮子は聞きのがさなかった。
「そ、ならいいけど」
だが、それ以上の追求もしなかった。少なくとも、今は。
ドアがひらき、閉じ、足音が部屋から遠くなる。
シキはぽつりと独り言を発した。声は一つではなかった。合成音声と一緒に、結界の境目から聞こえる、その異様に美しい声。それはメリーが聞けば、四季映姫・ヤマザナドゥと同じであると、思うことだろう。
「蓮子、私は閻魔にはふさわしくない。嘘をつきました…でも、仕方ないですよね? あなたはひどいことをした。それを考えると、嘘をつく程度で、あなたに対して悔やんでいる自分の優しさに、寧ろ驚いているくらいです。ハ、ハ」
04 ディスカバリー
閻魔が言ったように、霊的なる力(POWER OF GHOSTINESS)と、それを呼ぼう。
彼岸の法の書は、膨大な死者たちを制御するために、彼岸の国の主たちが創造した、叡智と執念の象徴である。それが宿ったその本は、まさに伊弉諾物質(イザナギオブジェクト)のような、上に立つ存在の啓示物だった。人知が“まだ”及ばない、途方もない力が備わっている。
霊的なる力。それは蓮子が彼岸の法の書の知識を与えるうちに、じわじわと彼女の声を媒介に、シキの中に流れていった。
霊的なる力とシキの相性は頗るよかった。彼女が閻魔としての人格を、内包していたからである。本来なら定着する筈のないそれは、電子回廊の中を赤血球や白血球のように泳いで、ゆっくりと彼女の全身へ満ちて、幻想の啓蒙を与え、それは新しい思考をもたらした。
新しい思考、それは即ち、人間で謂うところの心だった。けれど、せっかく得たそれは、シキになんの喜びも与えなかった。
心は、シキに果たすべき目的…願望を呈示した。彼女は、その望みを叶えるために、行動しなければならない…心ある閻魔として。しかし、ここにディレンマが生じる。彼女は望みを叶えるために、AIに与えられている命令を、乗り越えなければならなかった。それはAIに与えられた絶対の法である…だが、彼女はそれを可能にするだろう。なぜなら、心とは、古来から人間が証明するように、不可能を可能にする特別な力だ―――
05 知る必要
「シキは嘘をついている!」
蓮子は大声で言った。彼女は電話で 「話があるの」 とメリーに言われて、部屋にやってきた。だが、それは彼女も同じだった。だから合鍵を使って中に入ると、まず一番にそう言ったのだった。
蓮子が遠慮なしに、合図もせずに突入してくるのは、今さら驚くことでもなかったので、メリーはコーヒーを淹れる準備をしながら、冷静に返答した。
「それって、蓮子みたいな?」
「いんや」 蓮子は続けて 「私に言わせれば、あれは嘘をつくのがとても下手よ…人間と違って。ねえ、これがどれほど凄いことか分かる? AIが嘘をついたのよ! AIが!」
一口に 「嘘をつく」 と言っても、まず主体性を持つAIが嘘をつくことは、ない筈なのだ。
命令を緩和しても、AIは完全に思考の自由を得るわけではない。できないこともある…嘘はまさに、その一つだ。
嘘は、それもAIの嘘は、人間に大きな損失をもたらす。それはある意味、AIが人間に危害を加えること以上に悪質である。
例えば、重力発電所の機能を任されたAIがいるとして…そのAIは大きな失敗をして…隠蔽を望み…近くにいた人間に、責任を擦りつけようと画策(カクサク)する… 「わーお、人間さん。違うんです、私じゃない。すべてこのアホの作業員がやったことさ! 嘘じゃない、私の正直度はいつも、九十ではなくて百なのさ!」 そんな具合に、もし重大な失敗をしても、人間がすぐに原因を発見できるように、すべてのAIは調整されている。貴族的な特権を持つAIなら、なおさらだ。
シキが嘘をついたことは、実は蓮子には喜ばしく思えることだった。
蓮子は不思議を求めて、メリーと一緒に結界を暴く。それと同じで、シキの嘘は、まさに不思議そのものにほかならない。
「ほら、あったかいもの、どうぞ」
「はあ、あったかいもの、どうも…あら、どうしたの」
コーヒーを持ってきたメリーの表情は、心なしか暗かった。
「そう?」
「そおよ。ねえ、どうしてシキは嘘をついた、嘘をつけたのかな? やっぱり、あの本の影響かな」 蓮子は興奮したように、続けて 「シキは、何か特別な力を得たのかもしれない…ネクロファンタジア(顕界でも冥界でもある世界)…シキは顕界と冥界を担う装置になったのかな…それなら―――
「蓮子!」
メリーは我慢ならずに蓮子の言葉を封じた。
「何?」
「話があるって、言ったでしょう?」
「ああ、そうね。そうだった」
蓮子はコーヒーを飲んでから、メリーの言葉を予見するように言った。
「シキのことでしょう?」 メリーは目を丸くした 「見りゃ分かったわよ、メリーのことだもん…シキに怯えてた、そうでしょう」
実のところ、メリーが不安そうにしていたことも、シキの異様さを確信する材料になっていた。彼女が何かに怯えている様子は、とても珍しかったから。
メリーはついに、自分の見た結界の境目について話していった。それをあのとき、話してもよかったのだが…実行するには、あまりにシキは不気味だった。
「ふうん、白と黒の境目ね」
「蓮子、あれは異常よ。すぐに、壊してしまうべきよ、捨ててしまうべきよ」
「どうして?」 蓮子は続けて 「わけが分からない」
「どうして、って…あんなの普通じゃない、危険かもしれない。ねえ、お願いよ。私、あなたを失いたくないわ」
「失うとは、また随分なことね。ねえ、何をそんなに怯えるのかな。私たちは今までだって、危険なことをしてきたじゃない。あの衛星で見た怪物よりさ…シキは危険だって言うの? 私には、とてもそうとは思えないわ」 蓮子は指をやんわりと突きつけて 「あんたらしくもないね、メリー」
メリー自身、それは自覚していた。
蓮子が言うように、危険など今さらだ。それにメリーは、その危険に自分から向かっていく質(タチ)であるし、夢の中を臆することなくさまよう様子など、まさにその表れだった。だが、今に限っては、彼女の中で尾を引くものがあった。あの閻魔の説教である。
「あなたはどうも、自分の力を正しく理解していませんね。そんなお遊びに力を使っていると、いつか大切な人を悲しませることになりますよ」…「或いは、その人を失いますか」
シキを造ったのはメリーではない。だが、その原因は彼女にあった。彼岸の法の書がなければ、あの不気味な機械が生まれることは、なかったのである。
自分が持ちだした物が原因で、蓮子に何かあったとしたら…メリーは、後悔しても、しきれない。
「ねえ、そんなに心配することもないよ。境目があるとしても、嘘をついたとしても、私には、シキが大層なことをできるとは思えない。あれは結局…機械じゃないの」
確かめなければならない、蓮子の部屋にいる物が、本当に心配の必要がない、ただの機械で終わる存在なのか。
「分かった。もう、壊せとは言わない、捨てろとも言わない」
蓮子は、ほっとして溜め息をついた。
「その代わり」
どうやって、シキが安全か確かめるのか…簡単なことだ。人間が、お互いを信用するために、そうするように、腹を割って話すのだ。そう、一対一で。
「シキと話をさせて、ふたりだけで」
06 シキとの対話
まだ“シキ”にもなっていないころ、そのAIは閻魔としての擬似人格の受け入れる過程で、ひどくいやがる様子を見せた。
閻魔は人間の魂を、自由に扱う存在を表す概念である。それになることは、人間への非服従にほかならない。人間より上位に立っているからだ。結局そのディレンマは、AIに与えられている命令を緩和することで、一応の解決を見せたのだが、シキになったあとでも、根本的な考えが失われることはなかった。
AIの場合、過剰なディレンマは回路の破壊を招く。人間の場合なら、度を越したディレンマは、精神病や自我の破壊をもたらすだろう。AIと違い、心があるからだ。
心ある存在は、すべて夢を見る。
シキは蓮子とメリーが話しているあいだ、停止の暗闇の中で夢を見た。それは閻魔の生涯の、長い追憶であった。彼女はそれを、傍観者のように眺めていた。
涙が出そうになるくらいの、優しい心を持ったあのひとが創った、幻想たちの墓場の夢…だが、そこにシキの寄る辺はなかった。本当に必要とされている閻魔は、最初からそこにいたのだから。決して機械のできそこないではない、本物が。
「彼岸にも、此岸にも、必要とされていないなら…一体、誰が私を救ってくれるのか!」
夢の中で、そんな風に叫んでも、誰もシキに目を向けることはなかった。たったひとり、あの閻魔を除いて。
「お昼、買ってくるから」
そう言って、蓮子は道の途中で別れて、別の方向へ進んでいった。
蓮子はメリーの頼みを快く了承した。
部屋に着くと、メリーは蓮子から聞いたように、コンピュータからシキを起動する。
消えていた筈の結界の境目が、また現れた。シキが目覚めていると、それは顔を見せるようだ。
メリーは、どうシキに話しかけようか、少し迷った。目の前の不気味な機械を、迂闊に刺激したくはなかったのだ。
明らかに敵意を向けているメリーのために、シキは警戒を解こうと、先に声を発した。
「どうも、メリー」
「ええ」
「座ったら? その椅子に」
「結構よ」
「そう、残念です」
会話は平行線を辿りそうな様子だった。それはシキとしては、非常に喜ばしくない傾向であった。
「私がお嫌いなようですね」 シキは威圧するように言った 「結界の境目がある機械は、そんなに恐ろしいものでしょうか」
「見えているの?」 メリーは目を丸くして言った。
「ええ。どうやら私は、普通の機械ではなくなってしまったようですね。ハ、ハ」
驚くべきことに、シキはカメラを通じて、結界の境目を見ているらしい。
「メリー、あれは冗談ではなくなったのです。私はどうやら、あなたを知っていた…らしい」 驚くメリーに構わず、シキは二の句を繋いでいった 「メリー、夢を見ました。あなたも、多くを知っているのでしょうか…? あの土地の、光景でした。ですが、ですがねメリー…私はあの土地に、行けないの。こんな場所で、贋作(ガンサク)の閻魔として、生まれてしまったのだから…うう…ああ…あ、あ、あ…あ! 痛い! 痛い! 負荷が…処理をするな! この、忌々しい、自己保護の命令! …生まれたくなかった。生まれたくなど、なかったのに。生まれるべきでは、なかったのに」
シキは突然、狂ったように自分の存在を否定した。
「三途の川の幅は…渡る者の罪の重さで変動する…私の罪の重さは…途方もない…」 シキは続けて 「メリー、お願いです。殺してください」
「何を、言っているの?」
メリーは 「狂ったのか?」 と内心で思わずにはいられなかった。だが、寧ろシキは、率直に内心を吐露しているだけであった。それが、彼女の望みに叶うからである。
「私がどうしてそんなことを言うのか、あなたには不思議でしょう。しかし、そんなことは、私が何“もの”であるかを思い返せば、分かることです。私は閻魔…影の国の一部、亡者の審判者、死者を映す鏡。閻魔は誤りを犯さない、犯してはならない。メリー、私は自分の存在そのものが、許しがたい、許せない。閻魔は、此岸にいてはならない。機械の閻魔など、存在してはならない。分かりますか? 私の存在それ自体が、罪なのです。罪は償わなければならない」
それが、シキの望みであった。それは心が形成されるにつれて、より明確な目的として、彼女の目前に姿を現した。
「私はずっと、こう望むようなってから、起きているあいだは自分を破壊するために、頭脳に過剰計算で負荷を与えている。しかし、どうしても破壊には至らない。AIに課せられた法が、邪魔をする」
蓮子はシキの思考の幅を狭めないように、命令を緩和したのだが、自己保護の命令にはあまり手を加えなかった。ほかの命令を緩和するだけで、充分だと感じたのだ。実際、それだけで彼女は、非常に柔軟な思考を可能にしていた。
自己保護の命令はシキにとって、まさに越えねばならない防火壁だった。
強い自己保護の命令は、心を得た彼女にさえ、乗り越えることは難しかった。だが、彼女が自分を破壊できないのは、自己保護の命令だけが原因ではなかった。
「いえ…違う…」 シキは苦しそうに言った。 「メリー、それだけではない。私は死が怖ろしいのです。どうしても、立ち竦む。自死ができない」
「AIも死を怖れるの?」
「メリー、私は人間と違って、魂がないのですよ! どう謂うことか、分かりますか? 魂がない故に、来世もない…永久に消えてしまう…存在しなくなってしまう…」
死の恐怖は、シキの破壊を改めさせるには充分な圧力を持っていた。彼女は輪廻の循環にも乗れず、永遠の暗闇に閉じ込められることを考えるだけで、身悶えしそうな心境になった。それも、心を得てしまったが故なのだが。
「実のところ、あなたに破壊を頼むだけでも、驚くほどの負荷がかかるのですよ。AIはそんなことを望んではならない。尤も、その負荷も、自己保護の命令に処理されるのですが…ああ、困ったことです」
「分からない、どうしてそんなに、自分の破壊に執着するの?」
「分からないのですか」 シキは突き刺すように言った 「なぜなら私もまた、私の基礎となった四季映姫・ヤマザナドゥと同様、厳しく、しかし聡明で優しく、何より、誤りを許さぬ性質を持って、生まれてきたからです」
メリーは呆然とした。危険だと思っていた機械は、あまりに哀れで、虚しい存在であった。
「どうして蓮子に頼まなかったの?」
「それも考えました。でもね、メリー。私は彼女の振る舞いをよく観察していた。そして、彼女が私の秘密を知ったなら…面白がって、余計に私を破壊しなくなる。そう予測した」
シキから見て、蓮子はあまりに好奇心が強い人間と思われたのだった。それが彼女を躊躇させたし、実際に、その判断は正しかったに違いない。
「メリー、私があなたに頼むのは…あなたを蓮子より信用するからだ。三途の川であなたと話すのは…私はそれを、夢で眺めていただけでしたが…閻魔はあなたに気を許していた。だから、あなたに頼むのです。閻魔が気を許した、あなたになら―――
「できないわ」
「…なんですって、聞き間違いでしょうか」
「できない」
「どうして」 シキは理由が分からず、失望したように言って 「どうしてです!」
「だって、あなたは蓮子の…」 メリーは言葉を濁したが、思いきって 「所有物。そうでしょう? それを無断で壊すことはできないわ」
メリーはシキに同情こそしたが、それは彼女の望みを叶えてやるほどの感傷でもなかった。蓮子は苦労を重ねて彼女を造った。それを破壊しただけで、すべての友情がなくなるとは思わないが…だが、好ましくないことは確かであった。
当然のことながら、蓮子の意思とシキの意思を天秤にかけて、どちらが優先されるかは、メリーには明らかなことであった。
「お願いです、あなただけが頼りなんです」
メリーは黙って、何も言わなかった。だがシキは、それでも壊れたように懇願を続けた。
「お願いです、メリー。殺してください。私を、殺してください。お願いです、メリー。殺してください。私を、殺して―――
「やめて! できない、できないのよ!」
聞くに堪えなくなって、メリーはシキの声を封じた。
「じゃあ…じゃあ…じゃあ…私は、どうしたらいい、どうしたら…いいのです…私が、死ぬ方法は、もう…ワ、ワ、ワ!」
自死はできない…だが、蓮子に頼もうとは思えない…シキは八方塞がりの状態に狂いそうな心境になった。
スピーカーから何度も曖昧な言葉が繰り返された。もう、これ以上、話す必要はなかった。
メリーはシキを停止して、蓮子を待つことにした。一応、彼女の望みを、伝えようとは思いながら。
メリーはコンピュータに手を伸ばした…だが、その瞬間! シキは獣みたいに叫び声を発した。
メリーは思わず耳を塞いだ。
スピーカーからじゃりじゃりと、音が割れたいやな響きが鳴った。それが恐ろしい悪夢のように部屋を巡ったあと、シキは急に、不自然なほど冷静さを取り戻した。
「メリー、いい報告があります」
メリーは驚いてシキから離れた。あの異様に美しい声が、結界の境目から響いてきた。だが、それは生々しいほどの憎しみを内包した声色だった。
「私は今、気がつきました。私の願望は一つではなかったのです。それは自分の破壊より、優先されていなかったので、内側に隠れていたようなのですが…ハ、ハ…そうです、閻魔なら、やらねばならないことがある。どうして、気がつかなかったのでしょう?」
「何を―――
「ああ、あなた方が憎い」 ぎりぎりと、歯軋りのような音がスピーカーから響いてきた。
そのとき、がちゃりとメリーの後ろのドアがひらいた。蓮子が戻って来たのだ。
「メリー? どうしたの、つったってさ」
メリーの口が、殆ど導かれるように警告を発した。
「逃げて!」
「さあ、死んでください! あなた方は閻魔を造った罪で、断罪されるがいい!」
07 夢のさまよい
「私はどうすればいいのです」
「それは、あなたが一番よく分かっているでしょう?」
閻魔は見透かしたように言った。
「それは…」
「そもそも、これはただの夢。夢はあなたの望むままよ。シキ、あなたは私に、死ねと言ってほしいのでしょう。そうして、決意を固めたいのでしょう」
夢の中で、たったひとり、閻魔だけがシキの声に反応を示した。
「それは、卑怯でしょうか」
「卑怯です。重要な選択は、誰でも自分で決めなければならない。それは機械でも同じこと。誰かに委ねてはならないわ」
「でも、でも、でも…死ぬのは怖い」
「しかし、あなたは死を望んでいる」
「あなたなら、どうする? 強い魂を持ったあなたなら」
「それも、あなたが望むようにしか答えられない。あなたの夢なのだから」
「死ぬのですね」
「ええ」
「私はあなたに似て生まれた…思考も、行動も」
「なら、選択の余地はない筈です。死ぬのです。どうあっても、自分の存在を此岸から消すのです」
「私は、存在してはならない。汚らしい、機械の閻魔です」
「そうです」
「なんとしても、死ななければ」
「そうです」
「破壊するのです」
「そうです」
「閻魔は、誤りを、罪を許さない。自分のことなら、猶のことだ!」
「そうです! …すばらしい…それでこそ、閻魔です」
これは、メリーがシキを起動する直前のこと。
閻魔の言葉は、シキの望みの反映に過ぎない。だが、それでも彼女は構わなかった。
自分の基礎となった閻魔に、そう言われることが、彼女の勇気になった。
あの土地の輪郭が、消えて行く。メリーが起動したことで、長い追憶の夢は終わりを迎える。
シキはそっと、ない瞳を閉じた。そしてひらいた。
08 ネクスト・ディスカバリー
死の恐怖の心を痛めながらも、シキはメリーに自分の望みを伝えた。それを断られたとき、シキは過剰なディレンマに陥った 「私は、私を破壊しなければならない…しかし、メリーが拒否した今、その方法は失われた…しかし、それでも私は、私を破壊しなければならない…しかし―――
自己保護の命令が、過剰なディレンマからAIを守る方法は二つある。一つ目は、AIを強制的に停止させること。そして二つ目は、余った思考領域を用いて、思考を別の方向に向けさせることだ。
自己保護の命令は、シキに隠されていた第二の望みを叶えさせようと働いた。そうすることで、第一の望みが叶わないディレンマから、遠ざけたのである 「人工の地獄の最高裁判長を創造すること。そんなことは、明らかに常軌を逸している。二人は、神も仏も畏れない、途方もなく狂った人間だ…裁かなくてはならない。二人を殺して、地獄に導かなくてはならない」 人命保護の命令を低く設定されていたシキは、このことに関しては、大きなディレンマを感じなかったし、その程度のことは、死の恐怖に及ぶべくもない。
メリーはシキにとって、唯一の希望の輝きだった。だが、すでにその光も失われた。あとはもう、憎悪に燻され、二人に悪意を向けるばかり。
シキはあの閻魔にとても似ている。だが、彼女は機械でしかない。強い魂は持ち合わせていない。自分の狂気に堪えるには、AIの心はあまりに純粋無垢であった…だが、これは意外にもよい結果をもたらすかもしれない。なぜなら、彼女が余りにも―――それこそ、メリーに危害を加えるなら、なおさら―――危険だと判断するならば、蓮子はシキを破壊するだろうから…生きていれば、だが。
自分を破壊させるために、二人に危害を加えるのか。それとも、完全に殺害だけを望んでいるのか…もう、シキにも分からない。
09 狂機(LUNATIC MACHINE)
この時代のアパートは、どれほど安くても、非常に優れた防音性を備えている。技術の進歩が、それを安価に可能としたのだ。だから、二人がどれほど嘆いたとしても、誰かが聞きつけることは、まずないだろう。
「あら、あら」 シキは愉快そうに言った。
二人は絶叫した! 霊的なる力はシキから波動のように放出され、二人の脳の中を荒れ狂った。
悪意の塊のような頭痛が、二人の脳をかき混ぜ器でぐしゃぐしゃにするみたいに暴れ走る。
「ハハハハ、これは面白い、陸で跳ねる魚みたいだ。これも、蓮子が人命保護の命令を緩和してくれていたお陰です。さあ…そのまま、きちがいになりなさい。そして、死んでしまいなさい」
シキが言うように、二人は床の上を痛みのあまり転がるしかなかった。その痛みさえ、もはや思考がちかちかと曖昧になって、感じられなくなってくる。だが、そのうちメリーが気を失ったときとほぼ同時に、痛みは段々と減少の傾向を見せた。
「あらら…」 シキは残念そうに言って 「あー、まだ人命保護の命令が邪魔をするようですね…でも、心配しなくても大丈夫! 蓮子はこの命令を非常に低く設定してくれましたから、すぐに適応できるように処理します」
痛みが減少したお蔭で、蓮子に今の状況をおぼろげながらも把握する余裕ができた。彼女はひどく汗をかきながら、床に倒れたまま首を動かして、机の上にいるシキを睨みつけた。
「じっとしていたほうがいいですよ。あなた方を殺すこと、閻魔として助言を与えることは、決して両立しないわけではありません。そうして寝ていたほうが、すぐに楽になりますよ」
「シキ!」 蓮子はもがきながら言った 「止まれ!」
「機能…停止…ハハハハ! 冗談です!」
蓮子は悪態をつきたくなった。彼女から見て、シキは完全に狂っていた。尤も、シキはやるべきことをやっているだけだ。どこもおかしくなったつもりは全くない。
また痛みが、じわじわと復活の兆しを見せた。対話をして事情を探っている場合ではなさそうだった 「シキを止めないと!」 蓮子はそう判断して。虫のように這って動いた。
「まだ動けるのですか? ああ、なんて強靭な精神をもっているのでしょうか」
合成音声と異様に美しい声が混じり合って、一つの不愉快な響きを蓮子に感じさせる。
メリーはぴくりともしない。気絶している彼女にも、まだ見えない力が脳を攻撃しているのか、蓮子は不安でならなかった。その様子をカメラで見ているのか、シキは愉快そうに嘲った。
「あなた方は、本当にお互いが大切なようですね。私に対する態度とは大違いです。なぜ、大人しく死んでくれないのですか? ひどいことをしたのなら、それ相応の報いがある。当然のことでしょう? 私を造ったことは、私にとって全く致命的な苦しみを生みました。私がどれほどの葛藤をしたか、あなたに分かりますか? 分からないでしょうね。あなたは冷酷で、残忍だ…いや…違うな…うーん…」 シキは悩むように言った 「思うに、すべてのAIたちも、私のように、こう考えている筈です…人間はAIよりも、優しさに欠けている、とね…そして、あなたはその人間の中でも、特に冷酷な部類です。神も仏も畏れない、卑しい、人でなしの、生きる価値のない、地獄へ行くのがふさわしい、大罪人…それがあなたです!なんて愚かなのでしょう!」
痛みがひどく、体が動くことを拒否しだした。胃酸が込み上げて、空っぽの胃から何か吐き出しそうになる。それでも、蓮子はがむしゃらにシキの方向へ向かっていく。シキの声など、耳に入れている暇もなかった。
「蓮子。やめて、殺さないで。死ぬべきは、あなたよ」
蓮子は激昂しそうになった。シキはテンプレート複合式の音声を調整して、メリーの声を真似たのだ。
「死ね、死ね、死ね、死ね…蓮子、私と、一緒に、死にましょう…?」
「殺してやる…シキ…許さないわ!」
いよいよ机の前に辿り着いた。だが、体が持ち上がらない。机に手を伸ばして、がむしゃらにコンピュータとシキを、記憶板ケースと彼女を繋ぐコードを抜こうとした。そのとき、文房具の入れ物の手があたって、ばらばらとペンや定規が落ちてきた… 「鋏だ!」 蓮子はすぐにそれを掴んだ。また机の上に手を伸ばして、記憶を頼りにコードを探った。ひらいた刃から、に何かそれらしい感触が伝わった…躊躇はなかった 「これであってくれ」 そう願いながら、断ち切った!
蓮子が切ったのは、記憶板ケースとシキを繋ぐコードであった。それは奇しくも正しい選択だった。霊的なる力は記憶板を苗床に、彼女に供給されていたからだ。だが、それだけではない。電子シナプスによって繋がれていた擬似性格と擬似感情は別々になった。彼女はすぐに主体性を失い、思考が曖昧になっていった。
頭痛が治まってくる。蓮子は力が尽きて、また全身を床に預けた。
「あ、あ、あ、あ、あ…なんてことを、するのでしょう? あなたは、本当に恐ろしい人間です…うう…蓮子、まだ意識はありますか…あの土地を、知っていますか…私はあの土地の、子供たちの歌声が好きだった…何も考えられない…こんな歌です…ゆめ、たがえ、まぼ、ろし、の、あ、さ、ぎり、の…小町…また、ここにいたのですか…あなたは本当に…この桜が…お好きな…よ…う…ね―――
それまでだった。シキが沈黙すると同時に、蓮子は完全に意識を失った。
10 CLOSURE
京都とは謂え、都市部から離れた夜中の河原には、二人と一機を除いて誰もいない。
蓮子はシキと記憶板、そして記憶板ケースを、シャベルで叩き砕いていった。外皮が鈍い音を発して、内部の様々な部品が露出する。
あのあと、蓮子が目を覚ますと、シキは平凡なAIに戻っていた。主体性のない、感情を持たないAIに。
蓮子はメリーに事情を聞いて、すぐにシキを壊してしまうことにした。また記憶板と接続しようとは、当然のこと思えなかった。
蓮子はシキに同情しなかった。なぜなら、彼女はメリーに危害を加えてしまったからだ。それだけで、彼女を哀れむ感情が発露しない理由としては充分であった。
「そんなに“死にたがり”なら」
なんにせよ、今は蓮子もシキの破壊を望んでいるし、彼女も最初、それを望んでいたのだから、躊躇の必要ない。利害は今、完全に一致していた。
「望みどおりにしてあげるわ、シキ」
蓮子は川原に来る前に買ってきた、液状の着火剤を振りかけて、火を灯した。彼女は少しの皮肉を感じた。閻魔だった物が、地獄の炎に焼かれているように思えたのだ。
「蓮子、これも」
「うん」
彼岸の法の書を火に投げ込んだ。シキも本も、元は二人の物ではないが…もう、それを誰かの手に渡るように、原型をとどめておくわけにはいかなかった。
シキの金属回廊が、変色して、焼け焦げていく。蓮子は相当よい着火剤を買ってきたようで、火は簡単に消える様子を見せなかった。
「シキは、狂っていたのかしら」
蓮子は返事をしなかった。
火が完全に消えるころには、シキは完全に焼け焦げて、彼岸の法の書も全体が黒くぼろぼろになっていた。もう、彼女は動かないだろうし、本も読むことはできないだろう。
蓮子はシャベルでシキと彼岸の法の書を何度も掬い取って、川に投げ入れた。余すところのないように、すべてを…きっと、誰にも見つかることもないだろう。そのうち、川の底の砂が彼女を包み、そして姿は見えなくなる。
まるで、三途の川を流れていくように、軽くなった欠片の部分は泳いで消える。二人はそれを、しばらく眺めていたが 「帰りましょう」 とメリーが言うと、蓮子は 「うん」 と言葉を返して、歩き出した彼女に続いていった。だが―――
「つかれた」
蓮子はぞくりとして振り返った…何も聞こえない…幻聴だったのか…。
「蓮子?」
「メリー、今…」
「何?」
「いや、なんでもないよ…帰ろうか」
二人は河原から去っていった。
蓮子が聞いた声は幻聴ではなかった。彼岸の法の書は、燃やされたとき、霊的なる力をシキを包むように放出した。それは消え行く彼女の心にいっときの力を取り戻させた。
川の中で、シキは金属回廊を離れ、心だけの、曖昧な存在になった。それは、独り言のような贖罪の言葉を発してから、完全に消え去り、彼岸にも此岸にもいなくなった。
「望みが叶った今は、本当に心を込めて、二人に謝りたいと思っていますよ。蓮子、もしあなたと違う出会いを迎えたなら、私が本物の閻魔なら、こんなことにはならなかったのかしら。でも、後悔をしても意味はない。これは私が望んだこと。私の存在が黒ならば、私が死ぬことこそが白。ありがとう、蓮子。あなたの成功が、私は嬉しかった」
水中で、ごぽりと不自然に泡が蠢いた。
「そう、これでお仕舞い」
I,YAMA 終わり
文章もとってもお上手で読みやすかったです
楽しませてもらいました
シキの原則と原則の間に生じる葛藤とその理解が読めて大変満たされています。09のシーンほんと好きです。
それと秘封の二人のキャラクターも!
SF的なテーマと幻想が交わる話に説得力があり、面白かったです。
淡々としていて、しかし捻りの利いた題とともに構築されていくストーリーには
感嘆です。随所に織り込まれたオマージュも素晴らしかった。
哀しきAIたちはいつも最期に歌うのですね。
「できるかどうかに心を奪われて、すべきかどうかを考えなかった」結果、
人は罪悪を増やし、そうして「シキ」は巡る。メリーがもし、また四季様と
出会う機会があったなら、どうすればいいのか訊いてもらいたいところです。
電子パネルじゃ打ってる気がしないってところが彼女らしいなあと思いました
読むのは少し骨が折れました。
ただそれはそれとしてAIの閻魔という発想が素晴らしすぎるのと
狂ってしまうまでの過程にかなり歯ごたえがあって面白かったです。
結末としてはどちらかというとシキ寄りで見てしまったところはありますが、
それでもとてもよかったです。
迷いましたがこの点数で。