Coolier - 新生・東方創想話

薄氷

2017/05/13 16:37:02
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 水面に薄く張った氷を靴の底で踏めば、わずかな抵抗とともに靴の中は冷たい水に浸される。靴にこもる熱と、圧力にまったく無事で済む氷はない。
 彼女は一面に凍った霧の湖へと足を踏み出した。氷は割れない。ひびの入る気配も見せなかった。彼女に質量がないからではない。雪女である彼女には空を気ままに飛ぶことは造作ないことだが、今は重力のままに身を任せていた。ほんの数ミリの雄大な薄氷は、彼女の全体重をかけてもなお頑固だった。
 レティ・ホワイトロックの体温は氷点下である。
 彼女の身体からは、その意識にかかわらず触れたものを冬にする性質がある。ゆえに踏んだ氷が融けることはなく、ますますその強度を増すだけである。
 彼女には氷を融かすことができない。
 彼女はどこか落胆したようにため息をついた。周囲に突発的な吹雪が起こり、その温度を彼女に近いものにした。畔に立つ無人の赤い館はそれを咎めるように妖しく輝いていた。


「咲夜は好い人間だったと思う」
 幾十年か前に、レミリアはそう言った。彼女は人間のよしあしが分からないと言った。
「それでいい」
 レミリアはうすら笑いを浮かべていた。死に際の人間の中に同じような笑顔を見せるものがいる。満足した、好い人生だった、または悪くない人生だった。そう言う人間の顔だ。彼女がその顔に触れると、その感触を言葉で表現する人間はいなかった。
「あなたは満足しているの」
「さあ、どうかな」
「悪くない人生だった」
「私は人間じゃあないが」
 レミリアは顔をしかめた。彼女よりも幼い顔に、燃えるような赤い瞳は不釣り合いだと思った。
「まあ多分、悪くはなかったんだろうね」
 その日から紅魔館は無人になった。人だけでなく、魔法使いも、悪魔の名を冠するものも、そうでないものも居なくなった。
 館は凍り付いた。


 名前を呼ばれて、彼女は意識を引き戻した。天然のスケートリングを滑りながらチルノが向かってきた。彼女は右手を挙げた。
 今となっては、チルノの遊び相手は彼女一人だった。自然そのものである妖精も、その依りかが無くなれば存在を失う。チルノはそれを気にも留めていなかった。彼女がいる限り、氷の妖精は生き続ける。
 雪玉を転がしながら、チルノはあっと声を出した。
「ねえレティ」
 後ろに付いて歩いていた彼女は黙ったまま先を促した。
「人間らしさってなんだと思う」
 彼女は足を止めた。妖精は、時折核心を飛び越えてくる。
「満足したと言って死ぬことかしら」
「満足しなかったら死んじゃいけないの」
「人間はいつかは死ぬ生き物よ」
「じゃあ死ぬことが人間らしさ」
「どうだろう」
 人間じゃなくても死ぬものはいる。そう言いかけてやめた。
「あたいは死なないよ」
「あなたに先を越されたら困るわ」
 彼女は小さな妖精を抱きしめた。
「レティ、歩きづらいよ」
「妖精は歩かないものよ」
「レティ、あたたかい」
「雪女は冷たいものなのに」
 彼女の感触を言葉にするのはチルノだけだ。
 彼女には氷を融かすことができない。


 ずうっと前に誰かに言われた言葉だ。水際の石に腰掛けた彼女に、チルノは打ち明けた。
「ちょうどこんなふうに、あたいが襲い掛かった」
 チルノの息が鼻をくすぐった。自分からも顔を近づけようと腰を浮かすと、チルノはあっさり離れて雪の上に胡坐をかいた。
「それでね、暇なら遊び相手になってあげるよって言ったんだ。でも断られちゃった」
 面白くなさそうに大の字に寝転がるチルノを、彼女は見下ろす形になった。
「そしたら急にあいつは言ったんだ。人間らしさってなんだって」
「なんて答えたの」
「知らない。憶えてない」
 チルノは指先で結晶を受け止めた。
「多分、よしあしがあるってことなんじゃない」
「うん」
「人間らしさ」
「なるほど、人間は歩く生き物だからね」
 彼女には人間のよしあしが分からない。分からないまま、それを知る機会は失われた。彼女の心には薄い氷の張ったままだ。


「本当に行っちゃうの」
 チルノは悲痛な顔をした。
「もう居場所はないのよ。私には」
 私達には、とは言わなかった。それを伝える勇気を、彼女は持ち合わせていない。
 永遠の冬を迎えたこの箱庭で、彼女は最後の忘れ物だった。彼女が消えれば、いつか春が訪れるだろう。
 彼女は目を充血させる小さな妖精を抱きしめた。
「レティ」
 彼女は目を閉じた。
「私には、氷を融かすことができないわ。でも」
 あなたならば。その声は口を閉じたまま言った。
 彼女達を包む空気が、少しだけ暖かくなった。


 幻想郷に春が訪れた。
 白銀だった芝生は緑へと色を変え、一部の木々は鮮やかな桜の花を開かせた。
「私を見つけようなんて百年ちょっと早いわ」
 サニーミルクの誇らしげな声にチルノは奥歯を噛む。
「ふざけやがって~」
 姿の見えない相手に躍起となってがむしゃらに弾幕を飛ばした。
「あんたなんて、英吉利牛と一緒に冷凍保存してやるわ」
 毒づくチルノは、ふと桜に混じって透明な結晶が風に揺られているのを見つけた。
「あら、冬の忘れ物かしら」
 掌で受け止めると、幾何学的な氷の結晶は跡形もなく融けて消えた。
 チルノは少しの間首をかしげていたが、すぐに弾幕ごっこの続きに取り掛かった。
 霧の湖の水面に、桜の花びらが一枚浮いていた。
今年の桜は綺麗でした。
冬の箱庭
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コメント



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良いチルノでした