物には弱点が付きものだ。
炎は水に弱く、どうやら草は水に強いらしい。物事に強弱があるからこそ世界は何気なく廻ることができている。それがなければこの世界は物で溢れかえるか、たった一つの物しか存在しなくなるか、そのどちらかだ。
――そうと分かっていながらも、レミリア・スカーレットは不機嫌そうに鼻を鳴らして紅茶を啜る。頻りにテラスの向こう側を見ては、ため息をつくばかり。
レミリアの種族は吸血鬼。この種族は何かと弱点が多い。
にんにく、流水、十字架。招かれない家には入れず、鏡にその姿は映らない。
そして何より、吸血鬼の一番の弱点は日光だ。
今日は雲一つない青空が広がり、まさしく夏を感じさせる暑さが風に乗って流れてくる。レミリアがいるテラスには濃い影を落とし、彼女が動ける境界線をくっきりと示していた。日の光を知らないレミリアの白い肌は、その境界線を越えると焦げ、あげく炭になってしまう。吸血鬼の時間が来るまで後半日。まだまだ先は長い。
それから青空の向こうを眺めて何度が紅茶を啜った。細い指で持ったカップの紅茶は、既に空になってしまった。けれどレミリアは咲夜を呼ぼうとはしない。紅茶に飽きてしまったわけでもなく、咲夜に気を遣ったわけでもない。ただ、少しひとりになりたかった。
紅の瞳をそっと閉じて、風を感じながら瞼の裏の世界を覗く。
自分が知らない日差しの下の世界を想像する。きっと暖かいのだろう。痛みも感じず、どれほどかは分からないが肌で暑さを感じられる。風がある日は草原に寝転がり、その暖かさに微睡むのも悪くはないだろう。夕暮れ時には西の空に降りてゆく真っ赤な夕陽を眺めながら、黄昏てみたいものだ。
しかしそれらは全て机上の空論。実行に移すことはできない。
届きそうで届かない。境界線はすぐそこにあるのに、決して踏み越えることはできない。 何度目かになるため息をつくと、テラスに足音が広がった。
レミリアが足音に釣られて視線を向けると、アメジストのような紫色の長髪の少女が立っていた。薄紫色のパジャマのような服を着て、分厚い本を小脇に抱える彼女はレミリアの陰鬱な表情を見て何か感じたが、特に何も言わずに空いているレミリアの向かい側の席に腰を下ろした。
しばらく沈黙が二人を包む。彼女はレミリアの雰囲気を感じ取って何も言わずにいた。長い付き合いの中で、レミリアがこんな表情をすることは度々あった。
ここ数年はなかったことから、もうないと思っていたのに。貴女がこんな表情をするのは、決まって手が届かないものに手を伸ばそうとするとき。半分諦めて引っ込めようとしているのに、もう半分は諦めきれずに手を伸ばそうとする。
いつか紅い霧を幻想郷に広げたときと同じ顔――少女はテーブルに頬杖を付きながらレミリアが見ている館の外に視線を移す。
変わらずよく晴れた空が広がっていた。
晴れの日も雨の日も、彼女は館からできることはできない。曇りの日は日傘を差せばなんとか外出できる。でも彼女が望んでいることはそれではないことを少女は分かっていた。
――運命を操ることのできる貴女でも、自分に課せられたものは変えられない……か。
そう思うと、清々しいまでに蒼い空は何処か虚しく見える。彼女もそんな風に思ってこの空を見ているのか。
「どうかしたの?」
「……なんでもない」
問いかける優しい声色の主、パチュリー・ノーレッジにレミリアは視線を彼女に向け、素っ気なく返した。
見え透いた嘘。レミリアは館に暮らす家族にはそうそう弱音は吐かない。しかし親友であるパチュリーの前では、本心からの表情をのぞかせる。吸血鬼で換算すれば彼女の五百歳という年齢は、まだ子供に当たる。
そんなに強がらなくてもいいのに。パチュリーはそう思いながらも、それが彼女の長所なのだとも思っていた。いつも自信に満ちあふれ、活き活きと、そしていたずら悪魔のような顔で笑いかけてくる彼女には愛おしさを感じさせる。
だから似合わない顔をしている彼女を見ていると、パチュリーまで調子が狂ってしまう。
「何かあったんでしょ。顔にそう書いてあるわ」
「そうなのか……生憎、鏡には映らないからな」
「……それで?」
「大したことじゃない。いつものことさ」
「いつも……ね」
「最近は門の前が妙にうるさくてな。氷の妖精は夏でも元気すぎる」
レミリアが指さす先。この館の門前には、文字通り飛んだり跳ねたりする妖精の姿が見える。楽しげな声に混ざり、笑っている門番の声も聞こえてくる。
彼女が求めているものが、そこにはあった。
「咲夜」
しばしその光景を眺めていると、不意にレミリアは従者の名を呼んだ。
すると音もなく、空気の揺れもなく、レミリアの後ろに銀髪の女性が現れる。メイド服を着た女性、十六夜咲夜は一歩レミリアに歩み寄る。
涼しげな顔で門前の光景に肩を竦めた。
「ティータイムのラストはかき氷でしめますか?」
「やめてやれ。かき氷が不味くなる」
「ではどうされましたか?」
首をかしげる咲夜に、レミリアはちょうど日陰と日向の境界線を指さす。
「そこに立ってくれ」
「……わかりました」
困惑の色を強めながらもレミリアの指示に頷いた咲夜は、その境界線の上に立つ。
燦々と昇っている太陽と目が合い、咲夜は目を細めた。今日は一段と日差しが強い。じわり指す日差しが自分の肌を焼いていく感覚がよく分かる。熱の篭もった風は、短い咲夜の髪を揺らし、呼吸をすれば夏の気配を濃く感じられた。
「もういいぞ」
レミリアの声に咲夜が振り向くと、彼女見慣れた表情で自分を手招きしている。
今度は一体何を考えているのか。咲夜がレミリアの前まで行くと、レミリアは咲夜に「どうだった?」と尋ねる。咲夜は若干言葉を詰まらせながら「暑かったです」と返した。
するとレミリアは不意に咲夜の手をそっと取り、自分の頬へ手の甲をくっつけた。
「……暖かいな」
「え、ええ……日向にいましたから」
目を白黒させる咲夜を置いて、レミリアは頬を伝ってくる咲夜の暖かさに浸っていた。
これが太陽の暖かさ、なのだろうか。自分がその肌で一生感じることのない感覚。
――このまま寝れたら、どんなに気持ちだろう。
咲夜の手から温かさが引くと、レミリアは咲夜の手を解放して席を立った。
「まあ、悪くないな」
「お嬢様?」
「私は部屋に戻る。後片付けを頼むぞ」
振り返らず、日光の入る余地のない館の中に、その姿が消える。
残された咲夜は、まだ手に残る彼女の頬の冷たさにまた一つ首を傾げた。ただの悪戯にしては意味がなさ過ぎる。かといって咲夜の反応を面白がっているようにも見えなかった。 その顔はむしろ――。
「そっとしといてあげて」
夏の風が舞い込むテラスに、紙の擦れる音が広がる。長い髪をたくし上げ、パチュリーは本を読み始めた。彼女がそれでいいと思うなら、今日の晩辺りにでも元に戻るだろう。
もしそうじゃなかったら、そのときは……忙しくなりそうだ。
「何事もなければいいのですが」
「何事もない方が私は嫌ね。そんなのレミィらしくないもの」
「そうですね……まあ、事が起こったら付き合いますよ。仕事が速く終わればですけど」
「あらそう。なら今日中に仕事を終わらせないとね」
「私の役割は大体無茶が過ぎますから。食事と寝床だけじゃ割に合いません」
「でも足りない分を忠誠心で埋めればお釣りが返ってくるでしょ?」
「……そうかもしれません」
テーブルに残ったティーカップを持ち上げると、咲夜は音もなく消える。
しかしテーブルには新しいティーカップが湯気を上げていた。手に取って啜れば、味わったことのない渋みを感じる。
――ああ、あの子の趣味か。
食器の触れ合う高い音がその場に響く。もう辺りに人気はなく、風に揺れる草木の声しか聞こえない。強がりな親友と、それに従う瀟洒だが何処か抜けている彼女。見ていると退屈しないこの館の住人たちだ。
この先なにが起こるのか、不安半分……楽しさ半分。
先のことはあまり考えない。私の親友はレミリア・スカーレットなのだ。ただ待っていればそのうちやってくるだろう。きっと彼女から話を持ちかけられて、私はそれに答えようと何かしらの策を練る。いつものことだ。
透き通ったような空模様が続いていく。
今日は風がよく吹くが、それが雲を連れてくることはなさそうだ。
本のページがまた一つ進む。
時間の流れもこの陽気につられてか、いつもよりゆっくりな気がする。
朝の涼しさも薄れ始めた午前十時のことだった。
もっと読みたいですね
届かない物に手を伸ばしかけつつもそれをしないお嬢様が大人びていてカリスマでした
咲夜の手を取るレミリアのあのシーンがなんともいえません
ほのぼのとして、でもどこかしんみりした雰囲気が実に心地いい。