刻々と明けてくる朝の色が嫌いだ。
それは、他者と私の境界が曖昧な時間帯だから。
それは、私というちっぽけな人間が清々しい空気で全て覆われる気がしているから。
理由はなんだっていい。どうせ、私は感性豊かでもなければ情緒的な表現もできない人間なのだから。
私が、私の人生においての主人公にはなれないと自覚したのは高校生の時だった。
クラスメイトにどうあがいても勝てない頭脳の持ち主がいた。その名は宇佐見蓮子。頭脳明晰、文武両道。おまけに容姿端麗ときた。そりゃクラスメイトが放っておく訳がない。男子なんか、特に宇佐見蓮子につきっきりだった。女子はいい顔をしない者もいた。しかし、宇佐見蓮子は人当たりがよく敵を作らないタイプだった。謙虚で、自分が人気者だという事を鼻にもかけない。それが、宇佐見蓮子の良さの一つでもあった。
一方私はというと、成績には多少なりとも自信はあったがやはり宇佐見蓮子には勝てないでいた。今、彼女が目の前にいたらきっとこう云うだろう。
「人間は勝ち負けなんかじゃないよ。生物はみんなニュートラルな存在だ」
確かに、観測範囲を狭めれば私は誰に負けている訳でもない。だけど、宇佐見蓮子は『宇佐見蓮子』という立場でしか物事を捉えられない。人気者になるという事は、それだけ発する言葉が人物像を克明に映し出す道具となる。しかし彼女は、その雄弁と平等な態度、しかし謙虚な目線で自らに影を落とすことなくクラスメイトの人気を勝ち得ていた。――どこからどう見ても、完璧な人間だった。
私は彼女に特段興味があった訳ではない。ただ、傍から見た彼女に対してそんなイメージを抱いていた。実際の人物像がどうだったかなんて、覚えていない。彼女の事を好きだった人間がいるかもしれない。彼女の事をよく思っていなかった人間がいるかもしれない。そういった人間に彼女の事を尋ねる方がきっと詳しい回答を得られるだろう。とにかく、クラスメイト、果ては学年全体にまで彼女の存在は知れ渡っていた。――そんな訳で、光り輝く彼女の取るに足らないクラスメイトである地味な私は、承認欲求など育つ訳もなく。その辺は随分と前から諦めている。
二年後、宇佐見蓮子は皆の期待に違わず都心の有名大学に合格した。私は地元のそこそこの短大に合格した。きっと彼女はこれからも輝かしい人生を送ってゆくのだろう。応援もしていなければ羨んでもいない。宇佐見蓮子とは、選択教科の都合で二年次にクラスが分かれていた。それより大切にすべき友達や人脈があるし、私はそちらに感情を傾けるべきなのだろう。地味な私は勉強以外、何をやってもパッとしない。運だって悪い。つくづく、主人公にはなれない人間なのだと、分かっていた。
卒業式の日、宇佐見蓮子は色んな人物に告白されていた。男子に限らず女子まで、学生生活の想いの丈をぶつけていた。否定はしないが、学生の本分は勉強なのではないか、と思う私はやはり頭が固いのだろうか。これからもっと柔軟に生きなければならない。私達は、今からたった二年間で大人になる事を強制される。本当はとっても嫌だけど、寸分違わず造られたその社会システムに背く勇気はなかった。
今年度も卒業式は恙なく終了した。在校生による体育館の後片付けが進む中、友達と一旦別れた私は一つの教室に辿り着いた。「文芸部」と上に大きく書かれた教室の中には、乱雑に積まれたコピー用紙や部誌が眠っている。これからもきっと、誰の人生においても取るに足らない存在であろう私が唯一属していた部活が文芸部だった。何かしら精力的に執筆活動をしていた訳ではない。むしろ、やる気のない方だった。けれど、他に属していた部員の作品を読むのは好きだった。年に数回しか顔を出さない部員ばかりだが、とても私には思いつかないような美しい文章を書く人が沢山いた。ここに来たのは、歴代の部誌を一冊ずつ回収して春休みのうちに読んでしまおうという目論見からだった。どうせ卒業してもここに来ない人間ばかりだろう。なにせ幽霊部員が半分ほどいる部活だ。
職員室から借りてきた鍵を差し、がらりと引き戸を開ける。埃っぽい。きっと掃除をしばらくしていないのだろう。――この際だから、少しでいいから掃除しておこうか。いつもなら、そんな事を考えもしないのだが、私が卒業したという小さな小さな爪痕を残しておきたかった。ひと月もすれば埃はまた積もってくるだろう。それでいい。私の存在など、この学校にももう残らない。掃除用具入れからほうきを手に取り、そっと床を撫でるとそこだけ真新しい色になった。使っていない教室特有のワックス仕上げだけは剝げていない現象。そのまま優しく床を撫でるように掃除してゆく。雑巾がけもしたいところだけど、なにせ水道の蛇口は遠い場所にある。
「×××さん」
急に声を掛けられ、びくっと身体が跳ね上がる。その特徴的な、しかし悪目立ちしない声には覚えがあった。
「宇佐見……さん?」
声の主は宇佐見蓮子だった。どうして彼女が、こんなところに。
「ごめんね、びっくりさせちゃって。……いや、私も文芸部に属してたから、ちょっと用事で」
ああ、そうだっけ? と言いそうになるのをこらえ、宇佐見蓮子を教室内に迎え入れる。
宇佐見蓮子が文芸部だなんて知らなかった。とことん他者に興味がないんだな、私。そしてよくよく考えると、宇佐見蓮子と二人きりになった記憶はない。彼女の周りにはいつだって誰かがいるから。しかし、私は恋に恋する男子生徒ではないので宇佐見蓮子と二人きりの教室でドキマギするいわれもない。レアな状況だなー、と能天気に考えている自分がいた。
「掃除してるんだ。偉いね」
「いや、ほんの気まぐれだよー。宇佐見さんはどうしてここに?」
「実は一番新しい部誌に寄稿しててね。もう卒業したから最初で最後の作品なんだけど。その部誌の受取を忘れてたから、ここに来たら何冊はあるかなーって。――あ、掃除してるのに邪魔しちゃってごめんね。手伝うよ」
本当なら、一人でやるつもりだったのだが宇佐見蓮子に申し出られると断れるはずがなく。結局、教室の雑巾がけを二人で行うことにした。
――といってもそこまで大きい教室ではないので、すぐに雑巾がけは終わった。わざわざ二人でやるような事でもなかったよな、と思っていると宇佐見蓮子はがさがさと袋の中から部誌を取り出してきた。そして、私に一冊手渡す。
「はい。×××さんもきっとまだ受け取ってないかなって」
うん、こういう気の利くところが人気の秘訣なのかなぁ。宇佐見蓮子の顔をまともに見たことがなかった私は、その美しさに一瞬見惚れそうになった。まだ成長途中でありながら整った顔立ちの彼女は、これまでどのような人生を送ってきたのだろう。どこかで私の知らない苦労があったのかもしれない。しかし、それを微塵も感じさせないような余裕と育ちの良さが感じられる振る舞いは、きっと彼女の才能の一つなのだろう。
「ありがとう宇佐見さん。じゃあね」
「じゃあね、×××さん。元気でね」
在学中、宇佐見蓮子と交わした言葉はそれっきりだった。
私の知らない文芸部員であった宇佐見蓮子の文章を後で読もうと部誌を机の隅に置いていたが、一日経てばそんな事はすっかり忘れ三月度の薄い部誌は日の目を見ることなく本棚の奥に仕舞われた。
宇佐見蓮子の噂を聞いたのは、三年ほど後の事だった。
とある休日、図書館からの帰りで電車に乗っていると元クラスメイトにばったり出くわした。特別仲が良い訳ではなかったが、気さくに話しかけられたので私もそれに応える事にした。大学の事、短大を卒業した後に就いた職場の事、時事ネタ。思ったより話が盛り上がったので、適当な喫茶店に入り続きを話す事にした。
私達は色んな事を話し、笑い、気づけば夜の帳が下りてくる時間帯になっていた。
「――そういや、宇佐見蓮子っていたじゃん。あの綺麗な子。いま京都で大学生やってるらしいんだけど素行めっちゃ悪くなってるらしいよ」
話題は高校の時にまで遡っていた。元クラスメイトは声を潜め、周りを見渡してから私にそう耳打ちした。宇佐見蓮子。ここのところ、ずっと忘却していた存在だ。けれど、他者からその名前を聞いた途端、なぜか卒業式の日、本を手渡してくれた時のあの顔を思い起こした。
「外国人と怪しいサークル作って、結界破りとかやってるらしいよ。高校の時はあんなに優等生だったのに、人って変わるもんだねぇ」
私は、彼女に永遠の優等生でいて欲しかったのかもしれない。私から目覚めるべき自我を奪っていった人物。色んな人から尊敬され、好かれ、クラスの主人公だと認められていた存在。それを、あっけなく自らの手で壊すなんて。認めたくなかった。
それから続きを聞く気にはなれず、元クラスメイトとはその場で連絡先を交換した後それぞれの家路についた。
自分が気付かなかっただけで、私は宇佐見蓮子に憧れていたのかもしれない。それとも、あの卒業式の日を思い出して、ノスタルジーに浸っているだけか。私にはわからない。こういう時、宇佐見蓮子はどうするだろうか。あの時優等生だった宇佐見蓮子は、どう言うだろうか。
元クラスメイトと話した日から心の靄が晴れない。どうしてだろう、宇佐見蓮子の話を聞くまではあんなに楽しい気分だったのに、心のつかえが取れない。
『宇佐見蓮子の話、本当なの?』
元クラスメイトの連絡先にそう送ろうとして、何度も迷って、やめた。元々そんなに親しくないし、宇佐見蓮子に執着していると思われるのが嫌だからだ。
携帯をベッドに放り投げ、私もそれと同じようにダイブする。寝っ転がって、ぼうっとしながらカレンダーを見遣ると丁度今週末に開催されるオールジャンルの即売会があった。私の唯一の趣味といえば、ネットで気になった人の小説本を買って読むことくらいだ。地味かもしれないけど、それしか楽しみがないのだから仕方ない。――今週末は行く気なかったけど、リフレッシュついでに顔出してみるか。
日曜日。イベント会場の人は多すぎず少なすぎず、まったりとした雰囲気で進行していた。目当てのサークルはあまり参加していなかったが、それでもそこそこに収穫を得ることができた。いつも本を買ってるサークルにも挨拶できたし、気分はまあまあ上向き。帰って、戦利品を読むとしようかな。よいしょ、とそれなりに重いバッグを背負い出口まで向かう。
瞬間、歩みが止まる。とある一つのサークルに目が留まったからだ。
――見間違えるはずもない、あの美しい横顔がそこにはあった。
「……宇佐見、さん?」
「……あ! ×××さん!? 久しぶり!」
宇佐見蓮子はすぐにレスポンスを返してくれた。――名前、覚えてくれてた。
「知り合い?」
隣にいた金髪の女性は、そう言って宇佐見蓮子に眼差しを向ける。――ああ、これが元クラスメイトから聞いたあの外国人なのか。その金髪の女性はとてもこのイベントの場に似つかわしくないような、人ならざる者の美しさを放っているように見えた。ごくりと喉を鳴らす。主人公級の美女同士が並んでるとこんなに壮観なんだな……。
「そうよ。高校の時のクラスメイトなの。あ、これ、知り合いのよしみで一冊どうぞ」
宇佐見蓮子はそう言うと、がさがさと袋から本を一冊取り出して私に手渡した。
『Dr.レイテンシーの眠れなくなる瞳』
そう書かれた本は、シンプルな装丁ながら惹きつけられるタイトルだった。
「いやー、×××さんと会うの本当に久しぶりだよね。あ、こっちはメリー。今やってるサークルの相方なのよ」
久しぶりに会った宇佐見蓮子は、僅かながら高校生の時より口調が砕け、親しみやすい雰囲気になっていた。高校生の時はもっと、高嶺の花のような存在だった気が――私が勝手に壁を作っていただけなのかもしれないが。
「ありがとう」
私は、宇佐見蓮子に対してそう言うのが精一杯だった。
「いやー、大学入ってから同人活動が楽しくなっちゃって。おかげで単位ギリギリ。×××さんは最近どう?」
「蓮子はそれなりに頑張れば単位取れるんだから真面目に出席なさいよ」
「うわ、メリーさんきびしい。れんこはつらい」
私が高校生の時彼女にどういう思いを抱いていたのか、やはり今になっても分からない。しかし、彼女も一人の人間である。――きっと私と同じような、ちっぽけで、本当は何も考えていないのかもしれない。彼女も人を羨む事があるのかもしれない。誰かを憎んで、誰かを愛する事があるのかもしれない。ただ、私達が宇佐見蓮子のそういった面に触れられなかっただけで。学校生活という小さな箱庭で、私は宇佐見蓮子に何かを見いだしたかっただけなのかもしれない。そして、宇佐見蓮子は今になって、やっとその檻から解放されたのだろう。
宇佐見蓮子とメリーさんと別れた帰りの電車の中で、貰った本を読んだ。どうも、宇佐見蓮子が文章の担当で一緒にいたメリーさんがイラストと解説、装丁の担当らしかった。難しい事を書いているが、興味を惹かれる内容だった。電車の中で、適度に乗り過ごさないかを気にしながら夢中で読んだ。
ふと、車窓から夕焼けが見えた。今までと特別違った色には見えなかったが、その時ばかりはもしかしたら今自分が過ごしている時間は美しいのかもしれないと感じられた。宇佐見蓮子がメリーさんといる時、ああいう風に笑えているだけで、この世の中には価値があるのかもしれない――なとど、臭いことを思った。
もしかしたらこの次のイベントにも二人は参加しているかもしれない。その時はまた、挨拶に行こう。今までの思い出話を差し入れに持っていこう。
刻々と降りてくる夜の色が好きだ。
それは、他者と私の境界が曖昧な時間帯だから。
それは、私というちっぽけな人間でさえ清々しい空気が全て包み込んでくれるような気がしているから。
理由はなんだっていい。どうせ、私は感性豊かでもなければ情緒的な表現もできない人間なのだから。
ー終ー
冒頭と最後の文が蓮子とくらべ、ただのクラスメイト感がでていいですねえ
高校の頃が懐かしい、出来る事なら戻りたい
久しぶりに会ったクラスメイトのイメージがバッサリ変わっているというのは現実でもあることですよね
蓮子がこうなったのはきっと岡崎教授の影響に違いない