「おはようございまーす!」
初夏。生命が息衝く春を越え、ようよう日も長く顔を覗かせる頃。生物は益々にその命を燃やし、躍動する命は、気温の上昇によく貢献していた。失われしモノの行く先。今だ日本の原風景が広がる幻想郷においては、特にそれが顕著である。
こと命蓮寺にしても、それは例外ではない。
だだっ広い敷地を囲む木々は、各々葉を目いっぱいに広げ、そこからは油の跳ねる音が響き渡る。雑音を退け、日差しに照らされる参道に耳を澄ますと、規則的な箒のリズムに交って快活たる挨拶が呼応していた。
「おはよう響子。今日は良く晴れたね」
「おはようございます、水蜜さん! いやぁ、暑くてかないませんよ」
もう夏ですねぇ。と額の汗を拭うのは山彦の妖怪、幽谷響子だ。
ここの寺で修行中の身にある少女は、今日もいつも通り。掃除に精を出しつつ、時たま聞こえてくる読経を繰り返したり、訪れる参拝客に挨拶を強要していた。
中には元気よく返してくれる人もいるのだが、大抵の人は苦笑い。それ故ただでさえ少ない客人を驚かせないように、と住職に注意されるのも、また日課である。
今回そんな彼女の標的となったのは、同じ寺に住まう者だった。
「ああ、ようやく私の季節になってきたってもんよ。それっ」
対象に汗の一粒浮かべない女性。すらりとした薄い肌の頭身を白のセーラーに包み、胸元を赤いリボンで彩った姿はまさに夏の装いにふさわしく。海のないこの土地にも、渚の潮風を漂わせてくれそうな彼女は、何処からともなく取り出した柄杓で桶から水を掬い、誠実に掃かれた石畳の上へと撒いた。
「それより。姐さん見てないかい?」
「ああ。聖さんでしたら、朝から一輪さんと檀家に経を上げに行かれましたよ」
「そうか」
「お昼までには帰られるそうですけど・・・。何か入用ですか?」
「いや、姿が見えなかったから気になっただけなんだ」
時たま柄杓をくるくると回しながら、気にしない風に答える。足元では、熱された石が万弁なく散った水を吸うことなく蒸発させていた。手慣れているのか種族柄なのか、彼女の打ち水は至極丁寧で、かつ良く涼まるのだ。
掃除中の妖怪小娘に対し、顔色変えず挨拶を交わすまでか、同じ屋根の下で寝食を共にするとなると、彼女もただの人ではない。気付いていると思うが、幻想郷に数所ある寺院の中でも特に大きな命蓮寺は、その実特に数奇な存在である。―――所謂、妖怪のための寺であった。
住職の聖白蓮は元人間であり、遥か昔時の人である。尼の身でありながら妖怪と人間の共存を望み、それ故一度人々によって封印された。長い時を法界で過ごした後、以前から聖を慕っていた妖怪たちに封印を解かれ、この地で改めて寺を構えて今に至る、というわけだ。
蘇ってなお聖が思想を捨てることはなく、箒を持つ山彦同様門下が化生ばかりなのも、彼女に救われ諭され、差し伸べられた手の暖かさを知った者が殆どだからである。
事実白肌の彼女もまた、住職が封じ込められる前に救い上げられた妖怪の一人なのだ。
―舟幽霊―。それが、この村紗水蜜に課せられた運命だった。
かつてはその柄杓を海で振るい、数多の船舶を沈め藻屑と変えてきた。水難事故で死んだであろう生前の事は記憶になく。理由も分からぬ衝動に身を任せ、殺した船乗りの数を数えることでしか快楽を得られない、そんな暗闇の中。溺れていた村紗を助けたのは、当時弟の跡を継ぎ命蓮寺を任されていた聖であった。
水に浸かり冷え切った体を包んでくれたあの温もりを、今も彼女は鮮明に覚えている。死に行く者の苦悶の表情ではない、あの笑顔を。人殺しのムラサとしてでなく、村紗水蜜として名前を読んでくれた、あの声を。忘れることはないだろう。
それからというもの。村紗は聖に絶対の信頼を置き、常に傍で支え続けた。
あの日託された舵。それを守り、仲間と恩人を乗せたこの船の船長(キャプテン)であり続けたのだ。
「よし・・・、っと。こんなもんでいいかな」
響子と駄弁りながら桶の中身をあらかた撒き終え、寺の入り口まで至る。話の内容は有体なもので、新勢力として現れた道教の奴等との宗教戦争とか、うちの裏墓地に相変わらず居座っている死体の話とか。何を振っても頷いて返してくれる彼女は、相手をしていて心地が良い。
「おーい! そこのお二人さーん!」
「あ、一輪さーんおかえりなさーい!」
門外からの声に、響子が大腕振って出迎える。見れば聖と里へ向かったはずの一輪が、何かを咥えてまま帰ってきた。
「あれ、あんた一人なの? 姐さんは?」
「二件目があるからって残ったわ。私はお昼ごはんの準備をしなきゃだから、先にね」
「なんだ、昼飯くらい私達でどうにかなるのに。・・・響子もいるんだから」
隣でぶんぶん首を振って肯定するが、それを見ても一輪は駄目よ、と答えた。
「あんたたちに任せると手ェ抜くんだから。二人だけならまだしも、皆が食べる分も考えて欲しいわ。大体この間なんかも・・・・・・」
ああだこうだ文句を連ねる。確かに厨房を仕切っているのは一輪だが、少し小言が多くないか。自分は酷くガサツな癖に、こう細かいことには面倒臭い程喧しいんだから困ったものだ。記憶力だって余計な事ばかりに使っているし―――。
・・・・・・それにしても、私だって真面な料理の一つくらい作れるわい。
無言で同意した村紗と響子が、顔を合わせ膨れていると、気付いた一輪はゴホンと咳払いで濁す。
「・・・まぁ、料理はそのうち教えてあげるとして。暑かったからお言葉に甘えちゃった。今日は堪忍ね。その代わりといっちゃなんだけど・・・・・・」
そう言って一輪がパチンと指を鳴らすと、瞬く間に靄が集い桃色の雲を形成する。次第に大きくなり、遂には恐怖の頑固おやじの形相を浮かべたそれは、一輪を入道使いとさせる起因。見越し入道の雲山だった。
「・・・何これ。くれるの?」
濃い雲の中から現れた雲山の手がなにかを握っており、村紗と響子にそれぞれ一つずつ手渡される。棒状の乳白色体が持ち手である木の芯を覆った物体は、まさしく先ほど一輪が口にしていたのと同じものだ。
「まぁまぁ、一口かじってみなよ。ほら」
口を動かされるままに。もう一度見合って、同時に食す。
すると・・・
「!」
「! 甘ーい!」
シャリ、っと顎に快い感触が伝わり。同時に口中の冷感が一気に刺激される。雪とも氷とも違ったアプローチは、暑さで煮だるった唾液に一瞬で飽和すると、口の中いっぱいに柔らかい甘みが広がった。
噛めば消えてなくなる。が、咀嚼の楽しみは決して損なわせない。
初めての食感にともども目を丸くしている中、一輪はにやにやと二人を眺めて。
「・・・・・・おいしい」
「でっしょーう!?」
「何なのこれ。どうしたのよ」
「氷精に『協力』してもらって作ったの。果実水を凍らせたんだけど、思った以上にいい出来じゃない? これはもしかしたら一儲け・・・・・・」
ドヤ顔に悪どい笑みを浮かべ、指折り計算する。
「知ってます。それ、皮算用って言うんですよね。親分から教わりました」
「はぁ・・・。皮算用は勝手だけどさ。そんなことして、姐さんに見つかったら大目玉なの分かってるでしょ? この前禁酒破った事、まだ冷めてないと思うんだけど」
「へーきへーき。ちょっと小遣い・・・、じゃなかった。お布施を貰うだけだって。それにこれから暑くなるんだし、冷たい氷菓子は里の人の潤いになるはずだわ。これはれっきとした慈善活動なんだから」
方便巧みに逃げ道を作る一輪に、だからあんたたちは黙っておいて、と釘を刺される。村紗は既に口止め料を受け取ってしまったのだと気付き、彼女の周到さに小さく溜息を吐いた。これでは断ることもできないが、どうせそのうち人を通じて聖の耳に入るのは明確なので、とやかく言う必要もあるまい。経験上、彼女が講じた策が一週間と持った例がないのだ。
ほとほと稼ぎが波に乗ってきたころ、姐さんのありがたい説教を受けて。いざ南無三!
―――哀れ転覆。轟沈までが、一連の流れである。
生憎こればかりは流石の船長も、助け舟の一つも出せなかった。
「ふーん。なら、わかってるわよね?」
なのでここは早々に見切りをつけ、手を引くべきだろう。しかしそれでは面白くない。三人で参道を戻る道すがら、片手を差し伸べて要求する。
「ぐ・・・。仕方ない、一割なら・・・」
「駄目駄目。この子もいるんだから、二人合わせて二割よ」
ぽん、と響子の頭をさすって持ち掛け。当人は何の話か読めない様だが、一輪は唸りつつも、提案に渋々了解した。
利用する、とは人聞きの悪い。村紗はただ、正当な条件を提示して取引を成立させたに過ぎないのである。それに多少虫のいい交渉で良いのだ。どうせ謹慎になった一輪にこっそり差し入れを届ける役は、他でもなく村紗なのだから。
持ちつ持たれつ。長い付き合い、互いのことはよく知っているからこそ、こうして『いつも通り』の契約が結ばれる。今回は折角だから。まだ無垢な山彦にも、先輩として賢く生きる為の知恵を授けてやろう。と思ったまでのことだった。
「それじゃあ頑張ってね。言っておくけど・・・・・・」
ガッ!
「いてっ!」
しゃあしゃあ上手く話を進めた所で言いかけ、足元不注意。石畳の隙間に足を挟んでか盛大に転んでしまった。
「大丈夫ですか水蜜さん!」
「あ・・・、ああうん大丈夫。ありがとう雲山」
即座に伸ばされた手を主軸に起き上がり、腰から足周りを払う。手にした箒を投げ捨ててまで本気で心配してくれる後輩とは違って、一輪は高らかに笑い声を上げていた。
「アッハッハッハ! 幽霊が躓くなんて傑作じゃない!」
「・・・・・・うう。言っとくけど。ちょろまかすんじゃあないよ」
「分かってるって。それよりだいじょぶ? 浮かんでいればいいのに・・・・・・」
「私は足があるタイプなの。もう、笑いすぎよ。からかわないで頂戴」
指で髪をときなおす村紗をバシバシ叩きながら、一輪はごめんごめんと謝る。少し拗ねていた船長だったが、友の慣れ切った対応を吹き笑い飛ばすと、背を押す手に任せて歩き出した。
「さ、聖が返って来る前に作っちゃわないとね。・・・・・・勿論。あんた達も手伝ってくれるんでしょう?」
「「えー! それは一輪の仕事じゃんかー!(じゃないですかー!)」
「何言ってるの。良い機会だから、この一輪さんが料理の伊呂波をじっくり仕込んであげるわ」
覚悟なさい。なんて弾けそうな笑顔の籠る腕は、少し痛いくらいで。
「・・・・・・頼もしいなぁ」
「ん? なんか言った?」
「なーんでもない!」
すっ飛ばした口調で言い切り、怪訝な表情で尋ねる一輪を巻き込んで、歩を早める。
隣の山にも響かないほどの小声は、絶え間ない雑音にかき消された。
じゃれつきながら台所へ向かう三人を、一分の入道雲が見守る、夏の昼時。
後にはただ点々と、蒸発しきれなかった水溜りが残るばかりだった。
「村紗~! 次お風呂入っちゃって~!」
「はーい。今行くー」
居間で寝転ぶ村紗にお呼びが掛かった。烈々たる太陽の、ようやく地平の彼方でお休みになる時刻。順繰りに巡る入浴の番が、やっとこさ彼女に回ってきたのだ。
「よい、・・・しょっと」
既に夕食を済ませたので体が重い。机に手を置き立ち上がると、襖から廊下を経由して風呂へ向かう。命蓮寺の浴室は渡り場で繋がった離れにあるので、その途中で自室に寄って下着等着替えを用意しなければならなかった。流石にタオル一枚巻いて出てくるには遠いし、湯冷めしてしまっては元も子もない。
ところで、村紗は風呂が好きだった。寺には様々な出生の妖怪がいる中、その中で最も多い―――元獣の門下達には風呂を嫌がるものも多いのだが、元人間の一同様、村紗もまた入浴に楽しみを置いている。
やはり舟幽霊の性か。お湯の中、どうにもあの重力に反して、ふわふわ浮かぶ感触が堪らないのだ。石鹸を泡立てて体を洗うのも楽しいし、自慢の髪の指通りを確かめるのも気持ちが良い。浴室の程よい暖かさだって、毛布に包まれているみたいで安心する。
とにかく、湯船から上がるまでの一連の流れが、特に気に入っているのであった。
無論、星やナズのように同じく風呂を楽しむ妖怪もいるが、響子なんかはもっぱら苦手の部類だ。毎回どうにか逃れようするので、今日なんかは真っ先に聖につかまって、一番風呂に突っ込まれていた。
・・・・・・しかし。強制連行される響子の、しゅんと縮こまった顔を見たときは、なんと笑いをこらえるのに努めたことか。
一輪なぞは爆笑だったぞ。
「ふんふん ふふーん♪」
思い出し笑いに鼻歌混じり、揚々と縁側を滑りながら歩いてゆく。まだ夕色の空には、早くも星々がぽつりぽつりと浮かんでいた。
「ふぃー。ええ湯じゃったわい」
その途中、襖を開けて出てきたのは、最近うちの居候となった化け狸。佐渡の二ッ岩を名乗るマミゾウは、首にかけた手ぬぐいで髪を乾かしながら、風呂上がりで濡れた響子が撒き散らしたらしい水滴を避け、縁側のふちに胡坐を書いて座り込んだ。
よく見れば片手には、寺で御法度であるはずの酒瓶が一本と、徳利が握られている。
「こら、境内での飲酒は厳禁ですよ」
「ん、・・・なんじゃお主か。驚かせるでない、尼公かと思うたわ」
注ぎかけの酒を零しそうなほどに跳ね驚くと、私の顔を見て胸を撫で下ろす。特に憚る風でもないマミゾウは、息付いたそのまま盃に口をつけ、おととっと慌てて啜った。
「隠れてそんなことして。いくらあんたでも、聖に見つかったらただじゃすまないぞ」
「何を言うとるか。狸の長に酒を飲むなじゃと? それは殺生よりも無慈悲な事よ。老いた我が身。少しくらいの我儘は、仏の寛大な心で許してもらわんとのぅ。・・・んくっ・・・、っあーーー!
・・・生き返るわい」
「よく言うよ。現役バリバリのくせに」
「それもこの一杯のお蔭よ。言うではないか。『酒は百薬』、とな。これは治療じゃ治療」
どこかのお調子者以上に屁理屈を連ね。会話の合間にも、酒器はせわしなく瓶と口とを往復する。どうやら村紗が何を言ったところで無駄な様だ。
入門していないマミゾウをここに置いておく事を決めたのは、他でもない聖だった。以前なぜ居候などさせるのか、と問うたところ。多少年季の入った妖怪が寺に居てくれたほうが、門下の妖怪たちが安心するのだと答えられた。
確かに考えてみれば、現在寺に在籍している妖怪のほとんどは、この幻想郷で仏門に下った者たちである。聖の生前から、ともなると封印解除にかかわった私達くらいのものなので、妖怪まみれの寺とは言え、新参者達はもしかしたらまだ僧侶である聖を信用しきれない節があるのかもしれない。
いや。大方それも、聖の取り越し苦労なのだろう。だからマミゾウは、内で怯えている彼女の真意を大体察して、ここに身を置いてくれているのだ。
「いいかげんだね。狸鍋にされちゃうよ」
「はっはっは。肉は食わんじゃろ、お主ら」
「そうだね。私達に食われるんなら、まだ幸せだろうよー」
まぁ、気遣いどうあれ。命蓮寺の敷地に腰を据えるのであれば、戒律は守ってもらわねばならないのだが。
己に留める術無しと悟った村紗は、呆れの捨て台詞を機に立ち去ることに決めた。
そして呑兵衛を見限り、真っ直ぐに道を構えた瞬間―――
あれっ?
―――視界が大きく揺れたかと思えば、天地がひっくり返る異常。
彼女の頭はそれを理解することなく、痛みによって引き起こされるに、曰く。
ドタッ!
「いっ・・・たぁ・・・・・・」
本日二度目の大転倒が、見事に決まった様だった。
「・・・なーにやっとるんじゃ。そこ、濡れとるから気を付けんか」
ジロリと引かれたような目で見るマミゾウだが、その視線は村紗の意識に入らない。何故だが仰向けに倒れた姿勢のまま、凍ったかの如く制止を続ける彼女の世界には、天井の景色だけが徐に映り込んでいる。
「すまなんだな。おおよそ響子辺りが体を拭かんまま走り回ったんじゃろうて。わしの監督不注意じゃ。後でよく言って聞かせ・・・」
マミゾウが手を縦に構えても、以前反応を見せず。ポカンと開かれた口からは呆けた声が漏れ、焦点の合わない瞳は小刻みだが震えていた。
黙りこくる舟幽霊。余裕に構える化け狸は、仄かに湧き上がってくる憂心を覚え。
「・・・あ・・・・・・」
「・・・・・・おい、大丈夫か。ボゥッとして魂でも抜けたようじゃぞ」
「・・・え? ・・・・・・ああ、何でもない。大丈夫」
ひらひら揺れる掌にやっとこさ目を覚まされ、後頭部をさすりながら安否を伝える。直ぐに戻ってきた普段の彼女の応対に、マミゾウはそれなら良いんじゃが、と安心したのかのように小さく息を吐いてから、また猪口を仰いだ。
そして、何を思ったのだろう。
「―――分かったわい。今後、聖殿の目の届く所で一杯やるのは自重しよう」
仕方なし、の声色と共に。背中で語らう親分は、起きかけに喰らった村紗の返事など聞かず、ならばそれなら、と続ける。
「・・・今日くらいは、お主が晩酌に付き合ってくれんかのぅ」
「・・・・・・・へ?」
「ええじゃろう? そうらっ」
「わわっ!」
言うや否や。是非も問わぬまま、後手付いた体に向けて徳利が一つ投げ込まれた。
割っては大変、反射的に慌てて受け取る。バランスを崩して再び伏せ込みそうな村紗をにやり眺めたマミゾウは、ちょちょいと拱きして。
「なぁに。一夜くらい羽目を外したところで、誰も咎めはせんよ」
「・・・・・・そんな。私は・・・」
「固いこと言うな。時には、こちら側に戻るのも必要だぞい。どうじゃ?」
漂う湯気と色香を添えた誘惑に、噎せ返るようなアルコールの匂いが漂ってくる。
久方ぶりの酒をチラつかされ、ごくり、と喉が鳴るのを感じた時には最早。
いくら戒めを叩き込んだこの体でも、抗う事は難しかった。
「・・・・・・ん」
黙ってマミゾウの横に座り、盃を差し出す。罪悪感からわざと目線を逸らしているつもりだったが、横目にしっかり波打つ酒を捉えているのが筒抜けだった。それでも狸の長は気付いていない振りを決めて、淵のギリギリまで注いでやる。
「それでこそ船乗りじゃ。臆することはない。ささ、一息に行ってくれ。ぐいいっと」
「・・・・・・」
躊躇いつつも。ここまで来たら今更引き返しては、格好がつかないから。村紗は半ば自ら意地を引きずり出して、一思いに煽った。
「・・・コク」
先ずは少しだけ、喉を通過する液体としてだけ感じるほどを流す。
「・・・ゴク・・・ンック・・・!」
が、すぐさま鼻腔へと昇る芳香は、眠りを完全に冷ますかに強く響き。
「ンッ・・・ンッ・・・・・・。ハァー!」
乾いた体の節々に染みるように溶けるように、酒気は一瞬して、村紗を包んだ。
こうなると予々、高く持ち上がる腕を自識で止めるのは不可能である。
「あぁ・・・・・・、旨い」
そうじゃろそうじゃろ、と乗せられる先は言うまでもなし。気付けば一杯、二杯と容赦なく重ね、終ぞ酌をする機会無く、あわや見事に酒に飲まれてしまった。
「・・・・・・んあぁ。これで私も同罪か・・・」
「いやいや、儂に無理矢理飲まされたと言えばよかろう。そう心配するな」
酔いが回ったのか、四肢を投げ出しかけた村紗の体を、マミゾウは大きな尻尾で引き寄せ、肩にもたれさせる。手から力無く落ちた徳利はというと、地面に触れる寸前でクルリとその身を翻し、二本の足で見事な着地を披露していた。
「大体、お主らは気を張りすぎなんじゃ。外の世界の僧侶は皆普通に肉を食うし、酒だって飲む。馬鹿正直に戒律守っとる者なんざ、この辺境の妖怪くらいじゃて。・・・いや、中にはあのお調子もおるから、実際は指折りじゃろうがの」
「うむぅ・・・・・・。一輪の奴ゥ、また隠れて飲んでたのかぁ・・・」
「週に一、二度くらいでな。かっかっか! お前さんより、よっぽど素直じゃったぞ?」
「裏切者ぉーーー!」
千鳥足で踊る器を捕まえ、自由な誰かに重ねて鬱憤を叫ぶ。いつしか村紗の中の罪悪感は、その場にいない者全員に対する不満に変わっていた。
それすらもよいよい、と受け入れるマミゾウの大きな尻尾は柔らかく。彼女はここに新たな温もりを知り、欲望のまま身を委ね。
「・・・・・・やれ、潰れてしもうたか。」
嫋やかな重みをその身に受けながら、手元でもがく付喪神をひょいと摘み上げ、深い吐息とともに逃がす。其実薄い幽霊の体、体躯以上に脆弱な加重を肌で感じたマミゾウは、細い寝息にかかる髪を、指先でのけてやった。
「―――ま。偶には布団に化けてやるのも一興、かの」
雲間に抜ける劫の重なった呟き一つ、夜の帳に吸い込まれ。
新円が放つ月光の下。果たして佐渡の二ツ岩は、地蔵のように動かなかった。
初夏。生命が息衝く春を越え、ようよう日も長く顔を覗かせる頃。生物は益々にその命を燃やし、躍動する命は、気温の上昇によく貢献していた。失われしモノの行く先。今だ日本の原風景が広がる幻想郷においては、特にそれが顕著である。
こと命蓮寺にしても、それは例外ではない。
だだっ広い敷地を囲む木々は、各々葉を目いっぱいに広げ、そこからは油の跳ねる音が響き渡る。雑音を退け、日差しに照らされる参道に耳を澄ますと、規則的な箒のリズムに交って快活たる挨拶が呼応していた。
「おはよう響子。今日は良く晴れたね」
「おはようございます、水蜜さん! いやぁ、暑くてかないませんよ」
もう夏ですねぇ。と額の汗を拭うのは山彦の妖怪、幽谷響子だ。
ここの寺で修行中の身にある少女は、今日もいつも通り。掃除に精を出しつつ、時たま聞こえてくる読経を繰り返したり、訪れる参拝客に挨拶を強要していた。
中には元気よく返してくれる人もいるのだが、大抵の人は苦笑い。それ故ただでさえ少ない客人を驚かせないように、と住職に注意されるのも、また日課である。
今回そんな彼女の標的となったのは、同じ寺に住まう者だった。
「ああ、ようやく私の季節になってきたってもんよ。それっ」
対象に汗の一粒浮かべない女性。すらりとした薄い肌の頭身を白のセーラーに包み、胸元を赤いリボンで彩った姿はまさに夏の装いにふさわしく。海のないこの土地にも、渚の潮風を漂わせてくれそうな彼女は、何処からともなく取り出した柄杓で桶から水を掬い、誠実に掃かれた石畳の上へと撒いた。
「それより。姐さん見てないかい?」
「ああ。聖さんでしたら、朝から一輪さんと檀家に経を上げに行かれましたよ」
「そうか」
「お昼までには帰られるそうですけど・・・。何か入用ですか?」
「いや、姿が見えなかったから気になっただけなんだ」
時たま柄杓をくるくると回しながら、気にしない風に答える。足元では、熱された石が万弁なく散った水を吸うことなく蒸発させていた。手慣れているのか種族柄なのか、彼女の打ち水は至極丁寧で、かつ良く涼まるのだ。
掃除中の妖怪小娘に対し、顔色変えず挨拶を交わすまでか、同じ屋根の下で寝食を共にするとなると、彼女もただの人ではない。気付いていると思うが、幻想郷に数所ある寺院の中でも特に大きな命蓮寺は、その実特に数奇な存在である。―――所謂、妖怪のための寺であった。
住職の聖白蓮は元人間であり、遥か昔時の人である。尼の身でありながら妖怪と人間の共存を望み、それ故一度人々によって封印された。長い時を法界で過ごした後、以前から聖を慕っていた妖怪たちに封印を解かれ、この地で改めて寺を構えて今に至る、というわけだ。
蘇ってなお聖が思想を捨てることはなく、箒を持つ山彦同様門下が化生ばかりなのも、彼女に救われ諭され、差し伸べられた手の暖かさを知った者が殆どだからである。
事実白肌の彼女もまた、住職が封じ込められる前に救い上げられた妖怪の一人なのだ。
―舟幽霊―。それが、この村紗水蜜に課せられた運命だった。
かつてはその柄杓を海で振るい、数多の船舶を沈め藻屑と変えてきた。水難事故で死んだであろう生前の事は記憶になく。理由も分からぬ衝動に身を任せ、殺した船乗りの数を数えることでしか快楽を得られない、そんな暗闇の中。溺れていた村紗を助けたのは、当時弟の跡を継ぎ命蓮寺を任されていた聖であった。
水に浸かり冷え切った体を包んでくれたあの温もりを、今も彼女は鮮明に覚えている。死に行く者の苦悶の表情ではない、あの笑顔を。人殺しのムラサとしてでなく、村紗水蜜として名前を読んでくれた、あの声を。忘れることはないだろう。
それからというもの。村紗は聖に絶対の信頼を置き、常に傍で支え続けた。
あの日託された舵。それを守り、仲間と恩人を乗せたこの船の船長(キャプテン)であり続けたのだ。
「よし・・・、っと。こんなもんでいいかな」
響子と駄弁りながら桶の中身をあらかた撒き終え、寺の入り口まで至る。話の内容は有体なもので、新勢力として現れた道教の奴等との宗教戦争とか、うちの裏墓地に相変わらず居座っている死体の話とか。何を振っても頷いて返してくれる彼女は、相手をしていて心地が良い。
「おーい! そこのお二人さーん!」
「あ、一輪さーんおかえりなさーい!」
門外からの声に、響子が大腕振って出迎える。見れば聖と里へ向かったはずの一輪が、何かを咥えてまま帰ってきた。
「あれ、あんた一人なの? 姐さんは?」
「二件目があるからって残ったわ。私はお昼ごはんの準備をしなきゃだから、先にね」
「なんだ、昼飯くらい私達でどうにかなるのに。・・・響子もいるんだから」
隣でぶんぶん首を振って肯定するが、それを見ても一輪は駄目よ、と答えた。
「あんたたちに任せると手ェ抜くんだから。二人だけならまだしも、皆が食べる分も考えて欲しいわ。大体この間なんかも・・・・・・」
ああだこうだ文句を連ねる。確かに厨房を仕切っているのは一輪だが、少し小言が多くないか。自分は酷くガサツな癖に、こう細かいことには面倒臭い程喧しいんだから困ったものだ。記憶力だって余計な事ばかりに使っているし―――。
・・・・・・それにしても、私だって真面な料理の一つくらい作れるわい。
無言で同意した村紗と響子が、顔を合わせ膨れていると、気付いた一輪はゴホンと咳払いで濁す。
「・・・まぁ、料理はそのうち教えてあげるとして。暑かったからお言葉に甘えちゃった。今日は堪忍ね。その代わりといっちゃなんだけど・・・・・・」
そう言って一輪がパチンと指を鳴らすと、瞬く間に靄が集い桃色の雲を形成する。次第に大きくなり、遂には恐怖の頑固おやじの形相を浮かべたそれは、一輪を入道使いとさせる起因。見越し入道の雲山だった。
「・・・何これ。くれるの?」
濃い雲の中から現れた雲山の手がなにかを握っており、村紗と響子にそれぞれ一つずつ手渡される。棒状の乳白色体が持ち手である木の芯を覆った物体は、まさしく先ほど一輪が口にしていたのと同じものだ。
「まぁまぁ、一口かじってみなよ。ほら」
口を動かされるままに。もう一度見合って、同時に食す。
すると・・・
「!」
「! 甘ーい!」
シャリ、っと顎に快い感触が伝わり。同時に口中の冷感が一気に刺激される。雪とも氷とも違ったアプローチは、暑さで煮だるった唾液に一瞬で飽和すると、口の中いっぱいに柔らかい甘みが広がった。
噛めば消えてなくなる。が、咀嚼の楽しみは決して損なわせない。
初めての食感にともども目を丸くしている中、一輪はにやにやと二人を眺めて。
「・・・・・・おいしい」
「でっしょーう!?」
「何なのこれ。どうしたのよ」
「氷精に『協力』してもらって作ったの。果実水を凍らせたんだけど、思った以上にいい出来じゃない? これはもしかしたら一儲け・・・・・・」
ドヤ顔に悪どい笑みを浮かべ、指折り計算する。
「知ってます。それ、皮算用って言うんですよね。親分から教わりました」
「はぁ・・・。皮算用は勝手だけどさ。そんなことして、姐さんに見つかったら大目玉なの分かってるでしょ? この前禁酒破った事、まだ冷めてないと思うんだけど」
「へーきへーき。ちょっと小遣い・・・、じゃなかった。お布施を貰うだけだって。それにこれから暑くなるんだし、冷たい氷菓子は里の人の潤いになるはずだわ。これはれっきとした慈善活動なんだから」
方便巧みに逃げ道を作る一輪に、だからあんたたちは黙っておいて、と釘を刺される。村紗は既に口止め料を受け取ってしまったのだと気付き、彼女の周到さに小さく溜息を吐いた。これでは断ることもできないが、どうせそのうち人を通じて聖の耳に入るのは明確なので、とやかく言う必要もあるまい。経験上、彼女が講じた策が一週間と持った例がないのだ。
ほとほと稼ぎが波に乗ってきたころ、姐さんのありがたい説教を受けて。いざ南無三!
―――哀れ転覆。轟沈までが、一連の流れである。
生憎こればかりは流石の船長も、助け舟の一つも出せなかった。
「ふーん。なら、わかってるわよね?」
なのでここは早々に見切りをつけ、手を引くべきだろう。しかしそれでは面白くない。三人で参道を戻る道すがら、片手を差し伸べて要求する。
「ぐ・・・。仕方ない、一割なら・・・」
「駄目駄目。この子もいるんだから、二人合わせて二割よ」
ぽん、と響子の頭をさすって持ち掛け。当人は何の話か読めない様だが、一輪は唸りつつも、提案に渋々了解した。
利用する、とは人聞きの悪い。村紗はただ、正当な条件を提示して取引を成立させたに過ぎないのである。それに多少虫のいい交渉で良いのだ。どうせ謹慎になった一輪にこっそり差し入れを届ける役は、他でもなく村紗なのだから。
持ちつ持たれつ。長い付き合い、互いのことはよく知っているからこそ、こうして『いつも通り』の契約が結ばれる。今回は折角だから。まだ無垢な山彦にも、先輩として賢く生きる為の知恵を授けてやろう。と思ったまでのことだった。
「それじゃあ頑張ってね。言っておくけど・・・・・・」
ガッ!
「いてっ!」
しゃあしゃあ上手く話を進めた所で言いかけ、足元不注意。石畳の隙間に足を挟んでか盛大に転んでしまった。
「大丈夫ですか水蜜さん!」
「あ・・・、ああうん大丈夫。ありがとう雲山」
即座に伸ばされた手を主軸に起き上がり、腰から足周りを払う。手にした箒を投げ捨ててまで本気で心配してくれる後輩とは違って、一輪は高らかに笑い声を上げていた。
「アッハッハッハ! 幽霊が躓くなんて傑作じゃない!」
「・・・・・・うう。言っとくけど。ちょろまかすんじゃあないよ」
「分かってるって。それよりだいじょぶ? 浮かんでいればいいのに・・・・・・」
「私は足があるタイプなの。もう、笑いすぎよ。からかわないで頂戴」
指で髪をときなおす村紗をバシバシ叩きながら、一輪はごめんごめんと謝る。少し拗ねていた船長だったが、友の慣れ切った対応を吹き笑い飛ばすと、背を押す手に任せて歩き出した。
「さ、聖が返って来る前に作っちゃわないとね。・・・・・・勿論。あんた達も手伝ってくれるんでしょう?」
「「えー! それは一輪の仕事じゃんかー!(じゃないですかー!)」
「何言ってるの。良い機会だから、この一輪さんが料理の伊呂波をじっくり仕込んであげるわ」
覚悟なさい。なんて弾けそうな笑顔の籠る腕は、少し痛いくらいで。
「・・・・・・頼もしいなぁ」
「ん? なんか言った?」
「なーんでもない!」
すっ飛ばした口調で言い切り、怪訝な表情で尋ねる一輪を巻き込んで、歩を早める。
隣の山にも響かないほどの小声は、絶え間ない雑音にかき消された。
じゃれつきながら台所へ向かう三人を、一分の入道雲が見守る、夏の昼時。
後にはただ点々と、蒸発しきれなかった水溜りが残るばかりだった。
「村紗~! 次お風呂入っちゃって~!」
「はーい。今行くー」
居間で寝転ぶ村紗にお呼びが掛かった。烈々たる太陽の、ようやく地平の彼方でお休みになる時刻。順繰りに巡る入浴の番が、やっとこさ彼女に回ってきたのだ。
「よい、・・・しょっと」
既に夕食を済ませたので体が重い。机に手を置き立ち上がると、襖から廊下を経由して風呂へ向かう。命蓮寺の浴室は渡り場で繋がった離れにあるので、その途中で自室に寄って下着等着替えを用意しなければならなかった。流石にタオル一枚巻いて出てくるには遠いし、湯冷めしてしまっては元も子もない。
ところで、村紗は風呂が好きだった。寺には様々な出生の妖怪がいる中、その中で最も多い―――元獣の門下達には風呂を嫌がるものも多いのだが、元人間の一同様、村紗もまた入浴に楽しみを置いている。
やはり舟幽霊の性か。お湯の中、どうにもあの重力に反して、ふわふわ浮かぶ感触が堪らないのだ。石鹸を泡立てて体を洗うのも楽しいし、自慢の髪の指通りを確かめるのも気持ちが良い。浴室の程よい暖かさだって、毛布に包まれているみたいで安心する。
とにかく、湯船から上がるまでの一連の流れが、特に気に入っているのであった。
無論、星やナズのように同じく風呂を楽しむ妖怪もいるが、響子なんかはもっぱら苦手の部類だ。毎回どうにか逃れようするので、今日なんかは真っ先に聖につかまって、一番風呂に突っ込まれていた。
・・・・・・しかし。強制連行される響子の、しゅんと縮こまった顔を見たときは、なんと笑いをこらえるのに努めたことか。
一輪なぞは爆笑だったぞ。
「ふんふん ふふーん♪」
思い出し笑いに鼻歌混じり、揚々と縁側を滑りながら歩いてゆく。まだ夕色の空には、早くも星々がぽつりぽつりと浮かんでいた。
「ふぃー。ええ湯じゃったわい」
その途中、襖を開けて出てきたのは、最近うちの居候となった化け狸。佐渡の二ッ岩を名乗るマミゾウは、首にかけた手ぬぐいで髪を乾かしながら、風呂上がりで濡れた響子が撒き散らしたらしい水滴を避け、縁側のふちに胡坐を書いて座り込んだ。
よく見れば片手には、寺で御法度であるはずの酒瓶が一本と、徳利が握られている。
「こら、境内での飲酒は厳禁ですよ」
「ん、・・・なんじゃお主か。驚かせるでない、尼公かと思うたわ」
注ぎかけの酒を零しそうなほどに跳ね驚くと、私の顔を見て胸を撫で下ろす。特に憚る風でもないマミゾウは、息付いたそのまま盃に口をつけ、おととっと慌てて啜った。
「隠れてそんなことして。いくらあんたでも、聖に見つかったらただじゃすまないぞ」
「何を言うとるか。狸の長に酒を飲むなじゃと? それは殺生よりも無慈悲な事よ。老いた我が身。少しくらいの我儘は、仏の寛大な心で許してもらわんとのぅ。・・・んくっ・・・、っあーーー!
・・・生き返るわい」
「よく言うよ。現役バリバリのくせに」
「それもこの一杯のお蔭よ。言うではないか。『酒は百薬』、とな。これは治療じゃ治療」
どこかのお調子者以上に屁理屈を連ね。会話の合間にも、酒器はせわしなく瓶と口とを往復する。どうやら村紗が何を言ったところで無駄な様だ。
入門していないマミゾウをここに置いておく事を決めたのは、他でもない聖だった。以前なぜ居候などさせるのか、と問うたところ。多少年季の入った妖怪が寺に居てくれたほうが、門下の妖怪たちが安心するのだと答えられた。
確かに考えてみれば、現在寺に在籍している妖怪のほとんどは、この幻想郷で仏門に下った者たちである。聖の生前から、ともなると封印解除にかかわった私達くらいのものなので、妖怪まみれの寺とは言え、新参者達はもしかしたらまだ僧侶である聖を信用しきれない節があるのかもしれない。
いや。大方それも、聖の取り越し苦労なのだろう。だからマミゾウは、内で怯えている彼女の真意を大体察して、ここに身を置いてくれているのだ。
「いいかげんだね。狸鍋にされちゃうよ」
「はっはっは。肉は食わんじゃろ、お主ら」
「そうだね。私達に食われるんなら、まだ幸せだろうよー」
まぁ、気遣いどうあれ。命蓮寺の敷地に腰を据えるのであれば、戒律は守ってもらわねばならないのだが。
己に留める術無しと悟った村紗は、呆れの捨て台詞を機に立ち去ることに決めた。
そして呑兵衛を見限り、真っ直ぐに道を構えた瞬間―――
あれっ?
―――視界が大きく揺れたかと思えば、天地がひっくり返る異常。
彼女の頭はそれを理解することなく、痛みによって引き起こされるに、曰く。
ドタッ!
「いっ・・・たぁ・・・・・・」
本日二度目の大転倒が、見事に決まった様だった。
「・・・なーにやっとるんじゃ。そこ、濡れとるから気を付けんか」
ジロリと引かれたような目で見るマミゾウだが、その視線は村紗の意識に入らない。何故だが仰向けに倒れた姿勢のまま、凍ったかの如く制止を続ける彼女の世界には、天井の景色だけが徐に映り込んでいる。
「すまなんだな。おおよそ響子辺りが体を拭かんまま走り回ったんじゃろうて。わしの監督不注意じゃ。後でよく言って聞かせ・・・」
マミゾウが手を縦に構えても、以前反応を見せず。ポカンと開かれた口からは呆けた声が漏れ、焦点の合わない瞳は小刻みだが震えていた。
黙りこくる舟幽霊。余裕に構える化け狸は、仄かに湧き上がってくる憂心を覚え。
「・・・あ・・・・・・」
「・・・・・・おい、大丈夫か。ボゥッとして魂でも抜けたようじゃぞ」
「・・・え? ・・・・・・ああ、何でもない。大丈夫」
ひらひら揺れる掌にやっとこさ目を覚まされ、後頭部をさすりながら安否を伝える。直ぐに戻ってきた普段の彼女の応対に、マミゾウはそれなら良いんじゃが、と安心したのかのように小さく息を吐いてから、また猪口を仰いだ。
そして、何を思ったのだろう。
「―――分かったわい。今後、聖殿の目の届く所で一杯やるのは自重しよう」
仕方なし、の声色と共に。背中で語らう親分は、起きかけに喰らった村紗の返事など聞かず、ならばそれなら、と続ける。
「・・・今日くらいは、お主が晩酌に付き合ってくれんかのぅ」
「・・・・・・・へ?」
「ええじゃろう? そうらっ」
「わわっ!」
言うや否や。是非も問わぬまま、後手付いた体に向けて徳利が一つ投げ込まれた。
割っては大変、反射的に慌てて受け取る。バランスを崩して再び伏せ込みそうな村紗をにやり眺めたマミゾウは、ちょちょいと拱きして。
「なぁに。一夜くらい羽目を外したところで、誰も咎めはせんよ」
「・・・・・・そんな。私は・・・」
「固いこと言うな。時には、こちら側に戻るのも必要だぞい。どうじゃ?」
漂う湯気と色香を添えた誘惑に、噎せ返るようなアルコールの匂いが漂ってくる。
久方ぶりの酒をチラつかされ、ごくり、と喉が鳴るのを感じた時には最早。
いくら戒めを叩き込んだこの体でも、抗う事は難しかった。
「・・・・・・ん」
黙ってマミゾウの横に座り、盃を差し出す。罪悪感からわざと目線を逸らしているつもりだったが、横目にしっかり波打つ酒を捉えているのが筒抜けだった。それでも狸の長は気付いていない振りを決めて、淵のギリギリまで注いでやる。
「それでこそ船乗りじゃ。臆することはない。ささ、一息に行ってくれ。ぐいいっと」
「・・・・・・」
躊躇いつつも。ここまで来たら今更引き返しては、格好がつかないから。村紗は半ば自ら意地を引きずり出して、一思いに煽った。
「・・・コク」
先ずは少しだけ、喉を通過する液体としてだけ感じるほどを流す。
「・・・ゴク・・・ンック・・・!」
が、すぐさま鼻腔へと昇る芳香は、眠りを完全に冷ますかに強く響き。
「ンッ・・・ンッ・・・・・・。ハァー!」
乾いた体の節々に染みるように溶けるように、酒気は一瞬して、村紗を包んだ。
こうなると予々、高く持ち上がる腕を自識で止めるのは不可能である。
「あぁ・・・・・・、旨い」
そうじゃろそうじゃろ、と乗せられる先は言うまでもなし。気付けば一杯、二杯と容赦なく重ね、終ぞ酌をする機会無く、あわや見事に酒に飲まれてしまった。
「・・・・・・んあぁ。これで私も同罪か・・・」
「いやいや、儂に無理矢理飲まされたと言えばよかろう。そう心配するな」
酔いが回ったのか、四肢を投げ出しかけた村紗の体を、マミゾウは大きな尻尾で引き寄せ、肩にもたれさせる。手から力無く落ちた徳利はというと、地面に触れる寸前でクルリとその身を翻し、二本の足で見事な着地を披露していた。
「大体、お主らは気を張りすぎなんじゃ。外の世界の僧侶は皆普通に肉を食うし、酒だって飲む。馬鹿正直に戒律守っとる者なんざ、この辺境の妖怪くらいじゃて。・・・いや、中にはあのお調子もおるから、実際は指折りじゃろうがの」
「うむぅ・・・・・・。一輪の奴ゥ、また隠れて飲んでたのかぁ・・・」
「週に一、二度くらいでな。かっかっか! お前さんより、よっぽど素直じゃったぞ?」
「裏切者ぉーーー!」
千鳥足で踊る器を捕まえ、自由な誰かに重ねて鬱憤を叫ぶ。いつしか村紗の中の罪悪感は、その場にいない者全員に対する不満に変わっていた。
それすらもよいよい、と受け入れるマミゾウの大きな尻尾は柔らかく。彼女はここに新たな温もりを知り、欲望のまま身を委ね。
「・・・・・・やれ、潰れてしもうたか。」
嫋やかな重みをその身に受けながら、手元でもがく付喪神をひょいと摘み上げ、深い吐息とともに逃がす。其実薄い幽霊の体、体躯以上に脆弱な加重を肌で感じたマミゾウは、細い寝息にかかる髪を、指先でのけてやった。
「―――ま。偶には布団に化けてやるのも一興、かの」
雲間に抜ける劫の重なった呟き一つ、夜の帳に吸い込まれ。
新円が放つ月光の下。果たして佐渡の二ツ岩は、地蔵のように動かなかった。
イメージ通りの親父臭さです
確かに酒には謎の魅力があるし
一輪にもマミゾウにはもっと魅力がありました!
寺の日常風景の描写も良い雰囲気で、この小説の中に入りたいぐらいです!
あくどい一輪が不敵で素敵でした。
描写が丁寧で場面が脳裏に浮かんでくるようでした
皆優しくて素晴らしかったです