ねえ、わたし覚えてるよ。
子宮って、ここにあるんだって。
◇ ◆ ◇
かの異変が本当に色々あってようやく収束した後。
旧灼熱地獄の管理は山の神に委託され、いよいよ本格的に幻想核融合計画は始動した。
山ノ神のみならず、地底の者たちも幻想核融合を喜んだ。主に酒の肴として。
“太陽は二つある。そのうち一つは地底にしかない”
誰が言い出したのか。そんな文句が酒場に溢れ、霊烏路空は地底の新しい象徴になった。核融合の原理を知るものは誰一人いなかったが、人工太陽の光は地底の影を退け、明るく照らした。
しかし、それによって新しくできた影もあった。
火焔猫燐は少しだけ憂鬱だった。幻想核融合の要たる八咫烏を身に宿した霊烏路空は、そのまま間欠泉地下センター勤めとなり、疎遠になっていた。
発端に問題があったにせよ、それが間違いなく栄転であることは燐もちゃんと理解していた。地獄の底の底の底。日の目を見ることのなかった廃炉の番人が、今や地上と地下の未来を担うキーパーソンだ。
燐が死体を運んで炉に放り込み、空が火を調節する。そんな当たり前だった日常は遠い日のことになっていた。何の起伏もない時間と言われれば、まったくその通り。しかし燐にとってそれは、気心の知れた友人と一緒にいられたかけがえのない時間だった。
しかし、友情が完全に途切れたわけではなかった。空は今でも燐と同じくさとりのペットで、休みの日には一緒にこっそり神社に遊びに行く。八咫烏を宿しても、空は変わらず燐の親友であり続けた。
たとえ神を飲み込んでも、霊烏路空は変わらない。
子供っぽくて、能天気で忘れっぽい、太陽のように笑う子。
最初に彼女の異常に気づいたのは、そう思っていた火焔猫燐だった。
◇ ◆ ◇
その日は、神社で巫女にせがんでお茶とお菓子をもらっていた。
「ねえ、おくう」
「なあに、おりん」
「あんた、食いすぎ」
「えっ?」
「金平糖、もうほとんどないじゃん。巫女のお姉さんに怒られるよ」
「うそ。もともとあんまりなかったよ」
「いや、あったから。瓶一杯あったから」
燐はため息をついて手元の茶をすすった。少し甘さが恋しいほろ苦さだった。
「なんでそんながっついてるのさ。あんまり金平糖好きじゃないって言ってたじゃん。お腹減ってるの?」
「う……」
空は自分の腹を手で隠した。
お、と燐は思った。
あの空が――湯浴み後も平然と全裸のままで徘徊する天然娘が――恥ずかしそうにしている。
八咫烏を宿してから最も変わったことの一つに、空の身体がある。前はさとりよりも小さな童女だったのだが、一夜で肉感あふれる大人の身体になってしまった。背丈は六尺にも届きそうなほど、胸には二つの超巨星、尻の弾力は暗黒物質、それでいて腰まわりは中性子星のように引き締まっているというコズミック・ボディである。擬音で表すなら『ボン☆! キュッ☆! ボン☆!』か。インフレーション理論も真っ青の劇的な変化だった。
しかし体の成長に心はついていかなかったらしく、つまるところ無防備極まりないのだった。もしも一人で旧都の色街に行こうものなら、地獄烏ならぬ地獄鴨葱として美味しく頂かれること必至である。
そんな空の貞操やら何やらが守られてきたのはひとえに八咫烏のおかげだった。邪な手で空に触れようとする者はごくごく自動的に神の火で丸焼きにされた。実際、燐は旧都の色ボケどもが火達磨になるところを幾度も目撃している。
しかし宇宙の魅力に男は抗えないのか、哀れなイカロスは未だに後を絶たない。ああ宇宙ヤバイ――。
そんな恐るべきコズミックボディの腹まわりが、少しだけ膨らんでいることに燐は気づいた。
にゃーるほど、と燐は猫の様に笑った。
「もしかして、太った?」
「ふ、太ったんじゃないよ」
「いやいやそんな照れなくてもいいよ。あたいも去年の秋に秋刀魚食べ過ぎてちょっとあれだったし。でもそっかー、ついにおくうも女の子になったんだねえ」
「ほ、ほんとだってば。ちゃんと燃えてるし。CNOサイクルは問題なく回転中」
「しーえぬ……え、何?」
「……うにゅ?」
空は不思議そうに首を傾げた。
空が何を不思議に思っているのかわからず、燐も首を傾げた。
二人は鏡写しのようだった――空だけが金平糖に手を伸ばしたことを除けば。
「ちょ、おま、だから食べるなって」
「うにゅにゅ」
かりこり。
「だから私の」
「うにゅにゅ」
かりこり。
「ああもう! それで太ったら死ぬほど笑ってやる! 地底中に響くくらい笑ってやるぅ!」
「うにゅにゅにゅにゅ」
そのとき燐が即座に妊娠を連想できなかったことを、いったい誰が責められるだろうか。
◇ ◆ ◇
光ったの。すっごく強い光。おなかの奥の奥で、ピカッて光った。
何かが爆発したのかなと思ったけど、違うみたい。炎の光はみんな赤。白い光を出すのは、やっぱり白い炎なのかなって。
光に触れるとね、消えちゃうの。でも影だけは残るの。みんな輪郭だけ影になって、残りは消えちゃうの。
それまで自分のおなかの中なんて考えたことも無かった。
最初に消えたの、子宮って言うんだって。後で教えてもらった。
◇ ◆ ◇
山ノ神、八坂神奈子は珍しく言葉に迷っていた。
どんな状況だろうとまずは威風堂々と。信仰が命の神にとって平常心と威厳は最重要であり、その点については自負もあった。
しかし神奈子の平常心以上に、目の前にいる空は危うかった。
「よく来た、霊烏路空よ」
「はい。かみさま」
「……うん、よく来た。よく来たね」
空の腹はもういつものシャツに収まる大きさを超えていた。胸より上のボタンだけがかろうじて乳房の露出を食い止めているだけだった。加えてもともと大きかった乳房も張ってきたらしく、少しでも跳ねれば最後の封印も弾けてしまいそうだった。
「あー……その、うん。まずは座りなさいな」
「はい」
空がちょこんと女の子座りをすると、その腹部が否が応にも強調されてしまう。それは言ってしまえば、むせ返るような母性の生々しさだった。しかしそれでいて、空自体は普段と変わらず無邪気にいるものだから、余計に混乱するのだった。
「こほん。さて、報告には聞いていたが……」
ごくりと早苗が唾を飲んだ音を聞いて、神奈子は己の沈黙が長かったことを知った。
いつもの調子が出ない神奈子は目線で隣の洩矢諏訪子に助けを求めた。
「お祝いの前に、まず服をどうにかしようかね。もうそんなに膨らんでるんだ。他所様に晒すもんじゃあないよ。早苗ーちょっと膝掛けか何か持ってきてー」
「……え、あ、はい。ただいま」
夢から覚めたばかりのような足取りで、早苗は部屋を後にした。やはり成人前の小娘には刺激が強すぎたようだった。
『たかが妊婦如きにどきまぎするのは軍神としてどうよ?』と諏訪子は目で訴えた。神奈子は『わかってるわよ』と目で答えつつ、言葉を繋げた。
「ま、まあ、突然で私もびっくりしたけれど。めでたいことよね。おめでとう空」
「ありがとうございます、かみさま」
「おめでと空」
神奈子や諏訪子は日常的とまではいかないものの、仕事の関係で定期的に空に会っていた。幻想核融合は守矢が技術革新の神として幻想郷での立場を確立していく上で外せない要諦だった。それ故、管理は慎重に行うべきだった。
とはいえ、両神が空についてほとんど心配していなかったのも事実だった。
霊烏路空は依代として最上だった。愚直で単純。事物に疎く、心も幼い。忘れやすく、信じやすい。それらは信仰される側としては無類の長所だった。そして、空と八咫烏の親和性は予想をはるかに超えていた。依代となってから拒絶反応は一度も無く、神霊との融合はすでに九割を終えていた。
幼心地の、神を象る偶像。それがまさか、こんなスキャンダルを持ってこようとは。
「でもほんと、いつの間に」
「……よく、わかりません」
「そ、そう。まあ、そういうこともあるかしら、ね」
歯切れが良いようで要領を得ない空の答えに、神奈子は危機を直感した。
愚直で単純。事物に疎く、心も幼い。忘れやすく、信じやすい。しかしそれらが頼もしいのは、向かう先が自分である場合に限る。もしもそれが他所に向いたなら。神奈子にとって今の空は核地雷に等しかった。信管はどこにあるかもわからず、万が一爆発させたら何もかもが台無しになりかねない。
慎重を期さねばと思いを巡らせている神奈子とは対照的に、諏訪子は楽観的だった。
諏訪子が考えるに、孕んだ女は須らく核地雷なのだ。そして世界はまだ核の炎に包まれていない。つまり空自体はそう問題ではないのだ……よほどのへまをしない限りは。
今この時の問題は別にある、と諏訪子は見ていた。それは空でも、腹の中の子でもなく――。
「で、空や」
「はい」
「それは誰との子?」
八咫烏が宿っている限り強姦の類は無いと断言できる。ということは、この妊娠は合意の結果だといえる。しかし両神の頭には、空の相手となり得る者の候補すら思い浮かばないのだった。
一体誰が、焼かれることなく太陽の最奥に至り、不動のはずの太陽を振り回しているのか。
その問いに対し、空の答えは簡潔だった。しかし、蚊の鳴くような声だった。
「誰の子でもないです」
諏訪子にとって予想していた答えではあった。
「答えたくないってことかい?」
「……」
空は俯いて、黙秘で応えた。まるで陽が落ちたような反応に、諏訪子は神奈子と顔を見合わし、そして今後の方針が決定された。
「まあ、答えたくないのなら、答えなくてもいいよ」
「ひとまず、仕事はお休みね。落ち着くまで産休取りなさい」
即ち、プライベートには干渉しない。
即ち、育児にも理解があることを示し信頼を勝ち取るべし。
「もう医者には見てもらった?」
「まだです」
「そう。なら竹林の医者を紹介するわ。一度行ってきなさい」
「はい。ありがと、かみさま」
「うん。さとりにも話を通しておくわ。本当に、仕事のことは気にしなくていいのよ。あなたはまず――」
さとりという単語を聞いた瞬間空の表情が翳ったのを両神は見逃さなかった。
どうやらまだ見ぬ父親のみならず、飼い主の方とも問題があるらしい。飼い主。よりにもよってあのサトリ妖怪! 敵にも味方にもしたくない、できれば関わらずに済ませたいのだが、管理者としてはそうもいかない。
両神の心が鉛のように重くなるのと、早苗が黒と茶色の縞々でできた膝掛けを持って部屋に戻ってきたのはほぼ同時だった。
「膝掛けお持ちしました。はい、空さん」
「ありがと」
早苗が自分で空の腹に巻こうとしたのは、空の腹に触れてみたかったかららしい。
早苗がへそのあたりをおっかなびっくり触れると、敏感になっているのか、空は少しだけくすぐったそうに身をよじった。
「わあ……あったかい」
「だって鳥だし」
「そんな身も蓋もない……でも、すごくあったかいです。動いたりするんですか?」
「うん。よく燃えてるよ」
「えっ」
「えっ」
娘二人(妊婦を娘に含めて良いかについては議論の余地があるだろう)の姦しい会話は、空の沈んだ雰囲気も引っ込ませたようだった。
ひとまず早苗に空を任せ、神奈子は頭のなかで今後の対応に思いを巡らせた。開発の進捗は多少融通が利く。やはりまずは身辺調査か――と、諏訪子に横から小突かれた。
「なによ」
「もうあの子もさ、あんな風になって良い年頃なんだがねえ」
諏訪子は早苗を見て言った。
神奈子は目を見開いた。
「何を言う。まだ早い」
「昔ならもう一回くらいはしてる年さ」
「時代が変わったのよ。まだ早い」
「しかし、そう遠くもない」
そう遠くもない、未来。
その未来は、今より豊かで、美しく、楽しくなっているだろう。今や核融合さえ実現した。きっとそうすると、神奈子たちは今も動いている。
そう、遠くもない未来を想って。
「……そうねぇ」
神奈子は少しだけ寂しそうに苦笑し、それを見た諏訪子は微笑した。
早苗はといえば、無邪気に空の腹に片耳を押し付けていた。
◇ ◆ ◇
消える。消える。わたしは影だけになった。何も無い、ただの影。
まわりはとっても明るくて、みんな真っ白だった。影になったのに、わたしも真っ白だったの。変なの。
あたまがぼーっとして、ふよふよ浮いてた。影なのに。
そうしてたらね――。
◇ ◆ ◇
一大スキャンダルは、広いようで狭い地底を席巻するに十分過ぎた。
――地獄の人工太陽、懐妊す!
――第三の太陽の誕生か!?
こっそりと侵入していた某天狗の暗躍もあって、地底はたちまち狂騒の坩堝と化した。
ただの慶事ではない。『まさかあの子が! 信じられない!』という意外性、そして未だ正体を現さぬ父親という謎は、格好の酒の肴となった。噂が噂を呼び、憶測が憶測を加速させた。今までほとんど省みられることの無かった空の身辺情報がどこからか浮かび、風に巻かれるように交錯していった。
そんな最中に当の本人が旧都に来たとあれば、騒ぎになるのは日を見るより明らかだったのだ。
◇ ◆ ◇
「おおい皆の衆! おくうちゃんだ! 身篭り金烏様がいるぞ!」
「何だって? おいほんとかよ」
竹林の医者に掛かった帰り道だった。空と燐は旧都の入り口で見つかり、あっという間に囲まれてしまった。
「久しぶりだなあ、おくうちゃん」「元気そうじゃないか。こんな所まで来て平気なのかい」「いやあ、しかしあのおくうちゃんがねえ。この目で見てもまだ信じられねえよ」「でっけえなあ。もうすぐ産まれるんじゃねえか」「二つの太陽か。なんとも豪勢な話だねえ」「誰かが弓で射落としに来るかもな」「あの子は地底のモンだぜ! 俺らがそんなことさせっかよ!」「お、よく言ったお前。乾杯!」「かんぱーい!」
取りとめのない野次馬たちの無数の視線に、空は怯えるように燐にすがりついた。
今まで見たことの無い弱気な親友の姿に、燐の感情が爆発した。
「ちょいとあんたら、騒ぎすぎだよ! おくうが戸惑っているじゃないか!」
燐の怒気を込めた一喝も、旧都の荒くれ者たちには効果が薄い。そも、ぐい呑み片手の無法妖怪にデリカシーやマナーなど求めるだけ無駄だった。
「おい、なんかおくうちゃん、ちょっと元気なくね?」「一段と色っぽくなったよな」「焼かれるぞ……」「懲りねえ奴だな」「生はやっぱ迫力が違うな。あの腹の丸み……たまんねえ」「お前、そういう趣味だったのか」「いや、でもよ。なんか、わかるっていうか……」「実は俺も」「おい誰かこの阿呆どもつまみだせ」「ガハハ」「ちょいとごめんよー。開けておくれ」
どん、と取り巻きの一角が花火のように吹っ飛び、また一つ歓声が上がった。
旧都の顔役、星熊勇儀だった。
「星熊の姐さん」
「やあ、おりん。おくうも久しぶりだね。そんな身重で、どこか行ってきたのかい?」
「医者に行った帰りだよ。私は付き添い」
「なるほど。順調だって?」
「まあね。それより姐さん、こいつらちょっと散らせてよ」
「あー? どうしたんだいおりん、そんな目くじら立てて」
「だから! 迷惑だって言ってるのさ!」
尻尾を逆立てて怒鳴る燐に対し、勇儀は憮然と盃を傾けた。
「まあまあ。そうカッカしなさんな。みんなおくうを祝いたいだけなのさ」
「おくうは今不安定なんだよ! 早く家に帰りたいのさ!」
「それならあんたが怒鳴っちゃ駄目だよ。よし、なら私が送っていこうかね」
――どんな歓声の只中にあっても、音が殺されたように消える瞬間は存在しうる。それはその中心に、有無を言わせぬ力があったときだ。
勇儀は一跳びで空の前まで跳び、
「うんうん、地底に太陽二つ、ってね――」
彼女の膝と背中に手を回してひょいっと持ち上げた。
いわゆる、お姫様だっこである。
「――私からすりゃ、軽い軽い」
そして喝采は万雷となって鳴り響いた。
「さっすが星熊の姐御!」「俺たちに出来ないことを平然とやってのける!」「いよっ! 怪力乱神!」「惚れる」「きゃー! 姐御ー!」「いいなあ、おくうちゃん」「私もあんな風に抱かれたいよ」「あんたが太陽じゃ夏が来ねえよ」「ガハハ、違いねえ」
地底に神はいなかった。今この場において力とは即ちノリと伊達と酔狂であり、星熊勇儀が神だった。
「ちょ、ちょっと姐さん!?」
「いかん。いかんよぉ、おりん。太陽が日陰を通るのは筋じゃあない。帰るなら堂々と帰ろうさ」
カラン、と鉄下駄が一鳴り。
シャラン、と鎖が一鳴り。
百鬼夜行の先頭が歩き出した。
「おらおら退きなおまえら! 天道を塞ぐ不届き者は私が踏み潰すよ!」
鬼の一声に人垣が割れ、割れた人垣が列を成す。旧都の妖怪で祭り好きでない奴はいない。一度始まった祭りは興から醒めるまで続いていく。
「身篭り金烏様のお通りじゃあ!」「続け続けぇ!」「ヒャッハー!」「親父、勘定ここに置いとくよー」「酒だ酒!」「おいてめえそれは俺の徳利だ」「何してんだ、置いてかれるぞ」「おくうちゃん、おめでとうねー」「しっかりやりなよ!」「体に気をつけてね」
皆続けと言わんばかりに人は群がり、燐はその波に飲まれてしまった。
だから燐には、ぼん、という爆音しか聞こえなかった。
「おくう!? おくう!」
――どんな歓声の只中にあっても、音が殺されたように消える瞬間は存在しうる。それはその中心に、有無を言わせぬ力があったときだ。
しかしそれは、勇儀のものとは違った。歓声は消え、そして空気がざわめき始めた。
「ちょっとどいてよ! おくうー!」
百鬼夜行を掻き分け、その先頭にたどり着いた燐は見た。
まず、空。地面に尻餅をついて座っていた。
そして、勇儀。
「お、おくう……?」
燐は即座に空に寄り添った。空はかたかたと震えながら、自分の腹を護るように抱きしめていた。
「姐さん……?」
勇儀は半裸だった。焦げ残った上の服が肩に少し残っているだけで、素肌にはうっすらと赤色が染み付いていた。火傷だった。
空が、勇儀を焼いたのだ。
「おい、何が起こったんだよ」「姉御が焼かれた」「何だって!?」「いや、大事じゃないみたいだが……」「なんで姉御が……そんなに嫌がることか」「馬鹿だね。おくうちゃんだってもう良人がいるんだよ。嫌に決まってるじゃないか」「そうだよな。おくうちゃん、もう生娘じゃないんだよな……」「おまえは何を言っているんだ」「でも確か、おくうちゃんの相手って出て来ねえんだろ?」「何やってんだ旦那は」「元同僚の地獄烏って話だぜ」「そりゃデマだよ」「え、新聞にはそう……」「でもそれにしたって……」
――もしかしたら、袋叩きにあうんじゃ?
地底の妖怪の名誉のために明言しておくが、彼らはそんなことは断じてしない。しかし燐は混乱していた。今までに胸の内に溜まった疑念が一気に噴出していた。
行進は止まり、喝采はなく、行き止まった事態の中で、なお声を上げるものがいたことは燐の、そしてその場にいた皆にとっての幸いだったと言える。
「ほら。ちょっと、どきなさいよ」
固まった人垣を割って出てきた水橋パルスィは、勇儀に自分の上着を頭からかぶせた。
「勇儀」
「……ああ、パルスィ」
「けがは?」
「ちょっとひりひりするだけ。大丈夫」
「そう、それは好都合ね」
そして快音で勇儀の頬を張り飛ばした。
「いったー……」
「私の張手なんて大して効かないでしょうに。で、何で叩かれたかわかる?」
「……いや、実はあんまりよくわかっていない。何かしくじったのだけはわかったけど」
「上出来ね。あなた、もう帰りなさい。私は帰るわ」
「ん、そうする。会食はまた別の日だね」
勇儀はすくりと立ち上がり「すまなかったね、おくう。後で改めて謝りに行くよ」とだけ言って、ゆっくりと歩いて去っていった。
それを見届けてから、溜息一つ、パルスィは燐と空へ振り返った。
「あんたたち、ひとまずうちに来なさい」
「え」
「今のは勇儀が悪かった。その子は何も悪くないわ」
そう言って、有無も言わさず座り込んだ空の手を引いた。
「行くわよ」
空は大人しく立ち上がった。燐が寄り添い、おもったよりもずっと小さなその背中をさすった。
パルスィは二人を連れて臆することなく大路の中心を進んだ。彼女を避けるように列は真っ二つに裂けた。それはまるで、星熊勇儀の真逆だった。
基本的に陽気な妖怪は思い至らず、であるが故に気圧されることがある。例えばそれは、つまらなそうに橋行く人々を見送る女の瞳が、あんなにも炯々と輝くのだということ。透徹とは程遠く、かと言って濁っているわけでもない。
翳る太陽に喚き立てるな――そう諭すような、あるいは庇うような緑色の眼光に当てられて、突発の百鬼夜行は是非もなくお開きとなった。
◇ ◆ ◇
一言で、古明地さとりの第一声は終了した。
「めでたいことね」
さとりは地霊殿のテラスでペットを撫でていた。最近やってきたばかりの大型犬で、彼に凭れ掛かるのが最近のさとりの楽しみだった。
燐はそのことを知らなかった。主と対面するのも、数週間ぶりだったからだ。
「そう。もう空は戻らないのね」
まるで外の天気でも聞いたような。
もともと淡白な性格だということは知っていても、その呆気なさに燐は怯えた。
「も、戻りますよ。今は、橋姫のお姉さんがこういうの詳しいから……」
「誤魔化す必要は無いわ。私を誰だと思っているの?」
さとりの第三の瞳が、睨んでいるように感じられた。
燐は恐ろしくなって、目を固く瞑った。
「……燐。目を開けて。別に怒ってなんかいないわ」
燐は少しだけ目を開け、すぐにまた伏せた。網膜に映ったさとりの笑みが、針のように心に刺さった。まぶたの裏に焼きついて、じくじくと痛んだ。
口がくるくる回った。何の意味も無いのに。
「あたい思うんです。おくう、子供できたの初めてだし。それに、仕事だって新しいことばかりで。だからちょっと参ってて。だから一人になりたいだけなんだと思います……」
「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。わからないことよ。サトリでないあなたには」
「……でも」
「ごめんなさい、意地悪を言ったわね。ええ、私にもわかりません。あなたがわかっている以上のことは、何も」
――そう言いながら、ぎろりと第三の目は覗く。
『……』
『おくう、相手は誰なのさ』
『……』
『ねえ、教えてよ』
『……』
『おくう、どうしちゃったのさ』
『……』
『あたいたち、友達じゃない』
『……』
――どれだけ覗いても、回想の中の誰かの心は読めないのだから。
「――会ってみなければ、わからないわね」
「じゃあ、会いに行きましょうよ」
「いいえ。行きませんよ。空が秘密にしたいのなら、私はそれを尊重します」
それはきっぱりとした言葉だった。心からの言葉だと、燐にもわかった。
『それは、おくうを思ってのことなのですか?』
『それとも、もうおくうのことはどうでもいいのですか?』
答えて欲しくない疑問もすべて、さとりには伝わってしまう。
だから燐は怖かった。求めていない答えを聞かされるかもしれないと思うと、怖かった。
怖くなんてなりたくないのに。それは、さとりの見えない所を傷つける。
「おいで」
さとりは燐を手招きした。燐は猫に変化して、するりとさとりの腕の中にもぐりこんだ。
「……戸惑っているのね、燐」
さとりが燐の背をさすると、燐の眦から涙がこぼれた。不安が、寂しさが、怒りが、みんな言葉にならないものへと還っていくのを感じた。
さとりの手は小さく、暖かかった。昔のように。
「誰も悪くないの。ただ、変わっていくの。それだけなのよ」
燐の記憶の中で、いつでもさとりの体温は高かった。地霊殿の床下暖房とペットの体温が彼女を満たしていた。さとり本来の暖かさを燐は知らない。
もしこの人を一人きりにしてしまったら、どこまでも冷たくなっていってしまうのではないかと、思った。
「優しい子。私のことは気にしなくていいのに」
燐はすぐ近くの、名前も知らない犬を見遣った。まだ言葉を持たない、ただの動物だった。好い夢でも見ているのか、気持ちよさそうに眠っていた。
少し昔までは燐も空もそうだったのだ。言葉は持っていなかった。思慮も何も無かった。しかし、暖かさと柔らかさだけは――言葉でも思慮でもないものは――持っていたはずたった。それだけは、惜しみなく捧げていたはずだった。
それ以外を得たのが誤りだったのだろうか。傍に寄り添い、体温を注ぎ込むこと以上に、報いる何か。怨霊を喰らって火車になったのは、少しでもさとりの役に立ちたかったからだった。空だって、きっと同じだ。
恩を返したかった。それなのに、得た言葉と思慮は暖かくも柔らかくもない。
「いつでも、いつからでも、自分の好きなように生きればいいの」
仕事を与えられたのは、遠ざけられただけなのかもしれない。
畏れを持っているのを、疎まれたのかもしれない。
隠しているけれど、隠せていないけれど、燐は何度もそう思ったことがある。
『さとり様に捨てられるのは、嫌です』
燐はにゃあと鳴いた。
涙は、言葉ではないから流れ続けた。
「捨てたりなんかしないわ。でも、巣立っていく子もいるの。何も悪いことではないのよ」
『でも、さとり様より大切なことなんて、どうしてできるんでしょう?』
◇ ◆ ◇
「……私にもわからないわ。どうして心は移ろうのか。でも、そうでないよりはずっといいのよ」
眠ってしまった燐を撫でるさとりの独白を、傍にいたペットたちだけが聞いていた。彼ら彼女らは意味を理解していたかもしれないし、そうでないかもしれない。わからない。
「たとえあなたたちが、私を畏れても」
だから、それは独白だった。
「あなたたちのことが好き。あなたたちが私を好きだからじゃなく。本当よ、嘘じゃない。どうしたら、わかってもらえるのかしら」
もし言葉以外でそれを伝えられていたなら。
ただ愛していると囁くことができていたなら。
さとりはそのとき泣いていなかっただろう。
◇ ◆ ◇
妊婦の腹にひっつくのがどんなに気持ちいいのか、燐は知らない。しかしこうも幸せそうな顔をしているのを見ると、なんだか羨ましくなってくる。
「あの、こいし様?」
「あ、おりんだー」
空が養生のためにパルスィの家に移ると、気づけばこいしも居ついていた。パルスィが何度か追い出したのだが徒労に終わり、こいしを引き剥がすのは燐の仕事になった。
「おりん、たすけてよー」
「ぽかぽかー」
「えーと。こいし様。その、ずっとそうしているとですね?」
「ぽよぽよー」
「ひゃ……」
「おくうも気が休まらないというか」
「ぺろぺろー」
「あふぅ………おへそだめぇ……」
「……金平糖持ってきたんですけれど、食べます?」
「食べるー」
持ってきた金平糖の半分を渡すと、こいしは金平糖を舐め始めた。噛まないで口溶けを待つ性質らしかった。
「ほら、おくうの分」
「わ。ありがと、おりん」
「これだけだからね。食べ過ぎは駄目」
「わかってるよ」
金平糖を一つ一つ摘んで口に運ぶ空を見て、燐は何とも言えない気持ちになった。
妊娠が発覚してもうすぐ一ヶ月になる。
空は日がな一日布団の上でゆっくりしていた。とにかく退屈なようで、どこかに出歩こうとするのをパルスィが口を酸っぱくして止めた。不思議なことに悪阻は一度も出たことがないらしい。神様がどうにかしているのかもしれない。
つまり概ね、空はいつもどおりの空だった。
「おくうさ」
「何?」
「そんなに金平糖好きだったっけ?」
「んー、あんまり。なんかちっちゃくて食べた気がしない」
「そうなの」
「あ、でもヤタ様は」
空はせわしなく手を動かしている。
金平糖をつまむ。
口に放る。
かりこり。
「ん? 何だって?」
「ヤタ様は金平糖好きだったよ」
「え、神様って金平糖好きなの?」
「小さくて食べやすいからだって」
「そういえば烏だったね」
「あたりまえじゃん。おりん何言ってるの」
「でもあんたも烏だよね。というか金平糖食べてるの、おくうだよね」
「あたりまえじゃん。おりん大丈夫?」
「おい」
そうして金平糖はすっかり食い尽くされた。「のどがかわいた」と言うので、コップに水差しの水を注いで渡してやった。それも一口で飲んでしまった。
空はごろんと寝転がった。薄ら赤みのある黒いぼさぼさ髪が布団の上に広がった。腹は露出したままだった。
燐もすることがなくて、なんとなく傍に寝そべった。
「おりん。さっき何て言った?」
燐が眠りこける寸前、突然空が口を開いた。
「えぁ……何て?」
「さっき何て言った?」
「さっきって何時のことさ」
「金平糖」
「あたい何か言ったっけ?」
「何か言った」
「もう覚えてないよ」
「思い出してよ」
忘れるのはいつもおくうの方なのに、となんだか調子が狂う燐だった。
「えっと、神様って金平糖好きなの?」
「ちがう、それじゃない」
「うーん。じゃあ……あんたも烏だよね?」
「ちーがーうー」
「えーっと。えーっと。金平糖食べてるの、おくうだよね?」
空は黙って天井を見つめたままだった。
艶のある黒くて大きな二つの瞳が、揺れたのを燐は見た。
「……ねぇ。おくう、大丈夫?」
「うん」
「体辛いの?」
「ううん」
「じゃあ、どうしてそんな――落ち込んでるのさ」
「……落ち込んでないもん」
意地を張っているのか、自覚が無いのか。以前なら後者だと思っていたかもしれない。
今はどうだろう。空はきっと変わってしまった。少なくとも、今目の前で、切なそうに瞳を細めているのは、燐の知らない空だった。
「……何か話したくなったら、話してよ」
「うん。ありがと、おりん」
「いいよ。親友じゃん」
そのとき、突然こいしの声がした。
「ここにいる」
「わっ」
「え、こいし様?」
恐るべきは無意識である。気づけば、金平糖を食べ終えたこいしがまた空の腹にひっついていた。
「ここにいる」
しっかりとした口調でそうは言っていても、柔らかそうな瞼は閉じられて、息が細く規則的に漏れていた。すっかり寝付いていた。
「……寝言、かな?」
「こいし様ってさ、どんな夢見てるんだろう」
「さあ。あたいたちにわかるわけないさ」
「わたしも寝よう」
「そうしな」
「おりんも一緒に寝ようよ」
「あたいは用があるから失礼するよ。おやすみ、おくう」
「おやすみ」
燐はパルスィの家を出て、仕事場への道を走った。
わからないことができて、一ヶ月になる。
先月の燐はどうしようもなく不安だった。この先自分たちがどうなってしまうのか、気が気じゃなかった。
それでも一ヶ月も過ぎれば、燐の心にも『なるようにしかならない』という諦観じみた落ち着きが戻ってきた。
それに、わかっていることも、ちゃんとあったことに気づいた。
空のことが大切で、あと仕事だって大事だ。
「ここにいる。そうだ。あたいもおくうも、ここにいるんだ」
ならばきっと、みんな良くなっていく。
両足に力が漲っていくのを燐は感じた。
◇ ◆ ◇
ヤタ様がいたの。
真っ黒だった。でも影じゃなかった。ゆらゆらしてた。
あ、これ炎なんだって、わたしすぐにわかったよ。白い光を出すのは、黒い炎だったの。
「あなたがわたしのなかで燃えているの?」って訊いたら「そうだ」って。
わたしの中にいるんなら、目の前にいるわけないのに。
わたしが「じゃあわたしのなかにいてよ」って言ったら、ヤタ様はこくんって頷いて、わたしのおなかに帰っていった。
◇ ◆ ◇
パルスィはいつものように橋の欄干に寄りかかっていた。
「橋姫のお姉さん。これ、金平糖」
「いらないわよ」
パルスィは燐に見向きもせずに言い捨てた。この手のやり取りはもう慣れっこだった。
燐はその場で袋を開けて、金平糖をつまんだ。
「あのさ、おくうの――」
「来てないわよ」
燐は肩を落とした。今一番空の身近にいるのは橋姫で、理由は良くわからないが親身に世話をしてくれている。彼女になら、何か手掛りの一つでも零していないかと思っていたのだ。
「おくう、お姉さんにも言ってないの……」
「あんたが聞いてないなら、私が聞いているわけないじゃない」
「お姉さんに、おくうから訊き出して欲しいんだ」
「そんなの、飼い主に言いなさいよ」
「駄目だよ。さとり様は、おくうと会ってくれないんだ」
パルスィが燐を見た。
驚いているのか、呆れているのか。形容し難い表情だった。
「……あっそう。でもお断り。訊く気は無いわ。聞きたくもないし」
「頼むよ」
「まっぴらごめんよ。もし聞いたら、私そいつ殺すわ」
瞬間、河の音が途絶えたような気がした。
「こ、殺すって……冗談だよね?」
「本気よ」
「なんでさ。だって、おくうの、大切な人なんだよ」
大切な人。自分の口から出たとは思えないほど胡乱で、空しい言葉だった。
「大切……そうね。そうでしょうね。でもだから何? 関係ないわ。あの子がどう思っていようと。だって殺したいくらい妬ましいんだもの。理由はそれで十分よ。太陽と懇ろになるなんて……妬ましい。今どこにいるのかしらね。此処じゃないどこか。あの子を置いて――」
パルスィは河を見ていた。少なくとも視線は暗く冷たい流れを見ていた。
緑の双眸は、濡れた宝石のようだった。
「必ず見つけ出してやる。妬ましい。妬ましい。妬ましい……殺してやる」
そう言って、パルスィは黙ってしまった。
やはりパルスィにこの金平糖をあげなければいけないように思われて、燐は中身がまだ半分以上残っている袋をそのまま橋に置いた。
「用が終わったなら帰りなさいよ」
「うん。ありがとう、お姉さん。おくうをお願いします」
燐はぺこりと頭を下げた。
パルスィは河を見つめたままだったが、きっとわかってくれたと燐は不思議と確信していた。
◇ ◆ ◇
星熊勇儀という鬼は損な役回りをすることが多い。本人は甲斐性と笑っているが、さとりは同情していた。社交辞令ではない。サトリ妖怪までお遣いに行かされるなんて可哀相だと、本気で思っていた。
「あなたは可哀相な人ですね」
「なんだい、いきなりだね」
「慰めているのです」
「それなら、愛想笑いでもいいから笑って出迎えて欲しいんだけれどね」
さとりは猫のように目元をこすった。さとりは鏡を見ない性質だった。目元がまだ腫れていることを、勇儀の心を読んではじめて気づいた。
「山の神様からの手紙だよ。あと、ほい、これはお土産」
差し出された一升瓶をさとりは受け取らず、冷ややかに返した。
「飼い主のあんたに、だって」
「……それはご丁寧に」
さんざん放置してきた自分が飼い主なんて言える体でないことは自覚できているだけに、勇儀の殊更に明るい調子が苦かった。
「そいつは本当にいい酒でね。せっかくだし一杯やろうよ、ねえ」
「そのつもりで持ってきたくせに。鬼は強引で困ります」
「まあまあ、許してよ。本当にいい酒なんだよ」
「はいはい」
さとりは勇儀をダイニングに通した。地霊殿にも応接間はあるのだが名ばかりで、たいていペットの遊び場になっているため酷い有様だからだ。
さとりが持ってきたグラスが一つだけだったので「あれ、私のは?」と勇儀が訊ねた。
「あなたは自分の盃があるでしょうに」
「他人様へのお土産を自分ので飲もうなんて横柄はしないよ」
「そうですか。でも家にはこういう小さいのしかありませんよ?」
「構わないって。うまい酒は量じゃあない」
それでもさとりは家で一番大きいグラスを渡した。勇儀がとくとくとグラスに注いだ。さとりのグラスは勇儀の大きな掌に比べてあんまり細くて、おもちゃのように見えた。
「はいよ」
「どうも」
どちらからともなく乾杯とグラスを合わせた。
ちりん。
「あら、本当においしい」
「こいつには塩辛が合うんだよ」
「じゃあ持ってきましょうか」
「え、あるの?」
「頂き物で。どうにもああいう辛いものは苦手なのです」
「うまいんだけれどねえ」
持ってきた鮎の塩辛を勇儀は「悪いねえ」と言いながら実に美味しそうに箸でつまんだ。
さとりはちらと時計を見た。話はすぐに終わるだろう。終わったら、旧都へ買い物に行こうと思った。
「……で、本題に移らないのですか」
「ありゃりゃ。もう少し堪能すればいいのに」
「もう十分堪能しました」
さとりは音を立てずにグラスを置いて「会いませんよ」ときっぱり言い放った。
「……おくうは、父親が誰か言わないんだよ」
「そうですか」
「秘密にしたがっているのはわかるんだけれどね」
「いいじゃないですか。無理に聞き出さなくても」
「でも、心配なのさ。騙されているんじゃないかって」
第三の瞳がぎろりと、忌々しそうに勇儀を睨んだ。さとり曰く、サトリ妖怪が騙すという事柄を殊更に嫌うのは、種族の性というよりも掟のようなものらしい。しかし今のさとりからは、明らかな激情を感じ取れた。
安心して、勇儀は続けた。
「……おりんも探っているみたいだよ。山の神の巫女と一緒に。まだ何もわかってないみたいだけれど」
「燐には教えたはずなのですけれど。好奇心は猫をも殺す、と」
「親友が心配なんだよ。あんたは心配じゃないのかい」
心外ですね、とはさとりは言わなかった。
「心配ですよ。ええ、心配です。貴女に言われるまでもない」
「そうかい」
勇儀は箸を置いた。
「おくうはあんたを待っているよ」
「嘘ですか? 鬼のあなたが?」
「違うよ」
「なら妄想ね。あなたにわかるはずがない。サトリでもないあなたが」
「私じゃない、パルスィがそう言っているんだ」
パルスィ。水橋パルスィ。
橋姫。
かつて愛した男に裏切られた女の怪。
「あんたを待っているって」
「あの子は私を畏れている」
「そういうこともあるさ、大切な相手ならね。助けて欲しいって思っても、口に出せない。面倒事を知られて、怒られるのが怖い。嫌われるのが怖い。愛想をつかされるのが怖い……」
「あなたの……いいえ、橋姫の妄想でしょう。わからないじゃないですか」
「……読んでみなきゃ、信じられないかい?」
「……いいえ、いいえ」
こちらが信じているかどうかは問題ですらないのですよ、とさとりは誰にも聞こえないように呟いた。陳腐だと笑わば笑え。“ひめごと”を暴くことが、暴かずにはいられないことが、原罪としてさとりの心を責め、戒めているのだった。
「……あなたは橋姫の言うことを信じていますね。何故ですか? 彼女が間違っているとは思わないのですか?」
「思わないよ。信じているからね。読めばわかるだろう?」
「ええ、わかります。でも訊きたい。何故です?」
だから、その戒めを破る言葉をずっと待っていたのだろう。
まるで駄々っ子のようだ、とさとりは力なく笑った。
「さあね。言葉にすれば色々あるんだろうけれど……つまりは愛しているからじゃないかな」
「――愛している」
「信じられないものは愛せないよ。あんたもね。おくうだってきっとそうさ」
観念するしかなった。こうもまっすぐに言われては、言い返せない。ここまでお膳立てされて、ようやく、観念できたのだ。
畏れられて、恐れて。
避けられて、逃げて。
愛していると、口にすることすら後ろめたいのに。
幸せを願わずにいられないのは、卑怯な独善に過ぎないとわかっていながら。
それでも、応えなければならないことがあるのだと。
「……約束してくれたら、行きます」
「うん?」
「父親がわかったら、必ず橋姫を止めて」
「ああ……うん、それはやるよ。約束する」
そう、と応えた声音が震えたのが、さとりにはなんだか無性に恥ずかしかった。嫌われ者と開き直っていても、恥は知っているのだ。恥は、必要なその時のための勇気になることも。
「こんなやり取りも何度目かね?」
「さあ? 覚えていませんね」
「今回はあんまり泣いてないようだね。助かったよ。泣く子とさとりにゃ敵わん」
「泣いていませんよ……泣いてませんったら」
「うんうん。さとりが素直で、酒は美味い。私は嬉しいよ」
勇儀は一息にグラスを傾けて「ごちそうさん」と告げると、腰を上げた。
「じゃあ帰るよ。最近パルスィがうるさいんだ。おくうに近づくと怒るし、でも離れているとむくれるし。自分はおくうにつきっきりなのにさ。困ったもんだよ」
「まったくご苦労様です。爆発すればいいのに」
「何やら含んだ言い方だね」
「あなたは、本当に、可哀相な人ですね。同情しますよ」
しばらく会っていなかったからだろうか。勇儀に嫌味を返すと嫌味が帰ってこないことをさとりは忘れていた。
「そうかい。でも、こればっかりはね。どうしようもないさ。みんなみんな可愛いからね。甲斐性なんだよ。どうしようもない」
さとりの顔が真っ赤に染まった。
呑んだ酒は、そんなに度が高いものだったろうか。
◇ ◆ ◇
熱かった。熱いなんて思ったこと、灼熱地獄でも無かったのに。
白かった私は、真っ黒になって。わたしが黒くなったから、わたしの周りも黒くなったのかな。
知ってた? 死体とか、たいていのものは燃えるけれど、影だけは燃えないの。
わたしはあのとき影だったから、死ななかったんだと思う。
熱くて、熱くて、死んじゃうかもしれないって思ったけれど。
でも、それでも。
わたしは。
◇ ◆ ◇
「あんたの薄情さには驚いたわよ」
パルスィはさとりを憎んでいた――そう言われたら、少なくとも、見ず知らずのものが見たら十人が十人そう納得しそうな表情だった。
「このたびは、空がお世話になりました」
「あんたのためじゃないから」
「はい。読めていますから、わざわざ口にせずとも結構ですよ」
こういうことを言うから、余計にパルスィが目を合わせてくれなくなるのはさとりもわかっているのだけれど。これも、やはり、さとり自身の性質というより、サトリ妖怪という因果なのだった。
「勇儀さんをけしかけるの。あれ、やめてもらえませんかね」
「知らないわよ」
「あの人は……どうも、苦手なんですよ」
「でしょうね」
「……意地の悪い人。もっと傍にいてあげればいいのに」
パルスィが笑った。
「私が言わなくても勝手に行ってたわよ。甲斐性だって。なら私が何言ったって構わないじゃない。ふん、馬鹿馬鹿しいったらありゃしない」
嘲笑うような笑みだった。しかし心には切実な色をした想いもあって、さとりは不思議と嫌いになれなかった。
「今心を読んだら殺す」
「殺さないでくださいよ。まだ死ねませんから」
「なら殺すのは待ってあげるわ。さっさと行きなさいよ」
とつとつと、パルスィが爪先で欄干を叩いた。
さとりは「素直じゃない人」と言おうかと思ったが、言えば巡り巡って自分に返ってくるような気がしたのでやめた。
「ありがとうございます」
それだけ言って深く頭を下げ、さとりは橋を渡った。
◇ ◆ ◇
水橋家に入ると、最近聞いていなかった声を聞いた。
「あ、お姉ちゃんだー」
こいしがいた。さとりは驚いたが、すぐに落ち着いた。日常的にさとりを驚かすのはこいしくらいだったから、耐性ができていた。
肝心の空は膨らみきった腹を出したまま寝ていた。薄くぼんやりとした心象しか第三の瞳には映らなかった。さとりの能力は、夢の中までは解せない。
「こいし、せめて毛布くらいかけてあげなさい」
「あ、駄目よお姉ちゃん。それ、おくうが嫌がるの」
「……そうなの」
自分がさんざん思い悩んだことから開放されている妹に、さとりは少しだけ嫉妬した。
「こいし。あなたずっとここにいたの?」
「うん。お姉ちゃんを待ってたの」
「なら、たまには家に帰ってらっしゃい」
「もう! わかってないなあ、お姉ちゃん。私は家にいるお姉ちゃんじゃなくて、ここに来るお姉ちゃんを待ってたの」
こいしはふわりとさとりの前に来ると、背伸びをしてさとりの頭を撫でた。
「なでなでー」
「ちょ、ちょっとこいし」
振り払うに振り払えず頭をすくめていると、抱きつかれた。
背中に回ったこいしの手が、優しくさとりを叩いた。
「お姉ちゃん、がんばったね。えらいえらい」
不覚にも、涙腺が緩んだ。
「……ぜんぜんえらくないですよ」
「えらいよ」
「これはあなたにだけ言うのだけれど、何度か泣いたわ」
「知ってるよ」
「知ってたの?」
「わたしも昔はそうだったんじゃない? もうあんまり覚えてないけど。だから、お姉ちゃんはえらいのよ。わたし知ってるもの」
本当にそうなのだろうか。そう思っているのだろうか。さとりにはわからなかったが、妹の言葉だけは信じたいと心から思った。
「じゃあね、お姉ちゃん。おくうに『そこにいる』って伝えてあげて」
そう言うやいなや、気づけばこいしは消えていた。いつものことだった。またどこかへ遊びにいったのだろうか。
不思議と、今日は家に帰っているような気がした。
「……う?」
寝ていた空が夢から覚めた。
目をこすったあと、さとりは努めて普段どおりに空に微笑した。
「おはよう、空」
「……うあ!? さとり様!?」
「はいはい驚かない。深呼吸なさい」
「はい、さとり様。すー、はー……」
事の顛末をすべて拾うのに十分ほどかかっただろうか。さとりの能力は思考を読むことであり、読まれる思考が整然としていないと理解するのが難しい。
「……はぁ」
さとりは、深く息を吸い、吐いた。それだけで体の芯が解れたような気がした。緊張していたのだと今更ながら気づいた。深呼吸なさいなどとよくしたり顔で言えたものだ。
さとりは、安堵していた。ひとまず、恐れていたことは何も無かった。悲しいことも、怒れることも。それは、本当に良かったことだ。
しかし、寂しいことは、これからどうにかしていかなければいけない。
「あ、あの、さとり様……」
さとりは黙ったまま待った。空が言おうとしていることはわかっていたし、それを引き出すこともできたが、さとりはそうしなかった。空の中で渦巻いてるいくつかの言葉の、どれを最初に選ぶのか。そこに、さとりによって損なわれた空の“ひめごと”があるように思われた。
空は、言った。
「……この子、ヤタ様じゃないんですか」
紅蓮の瞳。八咫烏の眼。鋼玉のような。硬く細い瞳孔が、さとりのほうを向いているようで、しかし何も見ていなかった。
「そうね。あなたの胎内からは何も読み取れない」
「死んじゃったんですか?」
「たぶん、違うわ」
空の子宮に収まっているものが何なのか、さとりには見当がつかなかった。たとえ嬰児でも、微かに情動は見られるのに。
「……ヤタ様が何も言わなくなったんです」
「そう」
「もうすぐ一つになるんだって」
「そう」
「二度と会えないって」
「そう」
「さよならなんて、嫌です」
「そうね」
「だから、さよならしても、もう一度会えればいいなって」
その思いを。
何と名付けたらよいだろう。妊娠願望と呼ぶには捩れていた。慕情と呼ぶには滅裂だった。恋と呼ぶには大仰で、愛と呼ぶには幼すぎた。
しかしそれが、それとしか呼べないものが、何よりも尊いものだとさとりは知っていた。
「八咫烏はあなたの中にいるわ」
「……でも、応えてくれないんです」
「そうね」
「わたし、どうすればいいんでしょう?」
「一緒に考えましょう」
「ヤタ様がいないんです。さとり様。わたし、ばかだから、どうすればいいのか、わかんないんです」
空の目から大粒の涙が流れ落ちて、紅蓮の瞳で雫となった。まさしく堰を切ったようだった。誰にも言わず、ただ心の内で複雑に絡まり溜まっていた情念が奔流となって空を溺れさせていた。
「わ、かんない。わかんないです。さとり様、やたさまぁ……」
空は泣いた。恥も体裁もなく、泣きじゃくった。迷子になった幼子のように。
どれだけ体が大きくなっても、強い力を得ても、空はそうやって泣くのだ。
「空、聞いて」
そして今、さとりは、空の何もかもを信じられたのだ。
「八咫烏はあなたの中にいる。『そこにいる』わ。信じて」
「だ、だって、この子違、うんでしょ?」
「ええ、その子は違うけれど。でもいるわ、あなたの中に」
「さ、とり様には見、えるんですか」
「いいえ。でも、そこにいる。信じて」
「わ、かんない。わかんない。わたし、ばか、だから。ヤタさまがいないと」
「いるわ。今もあなたを支えている。信じて」
「さびし、い。ひとり、やぁ……」
「いいえ、独りじゃない。燐がいるわ。橋姫と勇儀も。こいしも……私も」
「わかんない、やたさま、やたさま、やたさまぁ……」
さとりは口を噤んだ。これ以上かける言葉は、もう何も無かった。
八咫烏を選んだのは、空だ。他のどんな者の思惑も知ったことではない。さとりが言って聞かせたわけでもない。空自身が彼を選んだのだ。
だから、この溢れる感情は、この流れる涙は、霊烏路空だけのものだ。空だけが、その意味と流れる先を決めることができるのだ。
そしてさとりは、それを見ていることしか出来ない。
「みんながいるわ。ねえ、空。忘れないで」
サトリは、心を読めても、癒やすことはできない。
愛することはなんて歯痒いのだろうと、さとりは泣いた。
◇ ◆ ◇
「ごめんなさい」
ひとしきり泣いて少し落ち着いた後、空が小さく言った。
「どうして謝るのかしら」
「……おこられる」
「怒ってなんかいないわ。どうしてそう思ったの?」
「……わかりません。でも、なんか」
空が、言葉を選ぼうとしているのをさとりは見ていた。しかしすぐに選べるだけの言葉が頭にないことに気づいたようだった。
出た答えは、空らしい、シンプルなものだった。
「変わってしまったような気がして」
それがどこから湧いた思いだったのか。さとりには見通せない。それはもう妹だけが知る領分だ。しかし、寂しさだけではなく嬉しさでもってそれを受け容れられたから、さとりは笑うことができた。
「ねえ、空。触ってもいい?」
空が頷いてから、さとりは空の胸の、紅蓮の瞳へ手を伸ばした。
手触りは硬く、磨いた宝石のように指が滑った。その表面に玉となって残った空の涙を指先で優しく拭った。涙は紅蓮の瞳によって暖められ、熱いくらいだった。それはさとりでは与えられない、太陽の暖かさだった。
この瞳の奥に宿っていた心を読んだのは、あの異変が終わった少し後だったか。さとりは思い出の糸を手繰った。八咫烏と交わった空と初めて会ったとき。しかし、印象らしい印象も記憶には残っていなかった。サトリ妖怪は巫女ではない。神霊の思考は、うまく読み取れない。
ちゃんと話をしてみたかった。
「ありがとうございます。あなたのおかげで、空はこんなに大きくなりました。本当に、ありがとう」
愛する人が愛されたことがこんなに嬉しいのだと、さとりの心は叫びたいほどだった。
◇ ◆ ◇
それからは、静かな日々が続いた。
空は水橋家に残り、さとりは地霊殿に帰っていった。空の相手について噂は絶えなかったが、さとりが火付け役の天狗をトラウマ漬けにしたためそれ以上加熱はしなかった。好奇心で水橋家を訪れるものは容赦なくパルスィが追い払った。
空にとって、静かで、穏やかな日々が続いた。
十月十日だったのはただの偶然だったが、それが彼女にとって必要な時間だった。
◇ ◆ ◇
覚えてるよ、覚えてる。ずっと忘れない。
わたしの黒い炎。
子宮って、ここにあるんだって。
◇ ◆ ◇
吹っ切れた、と言うには被害が大きすぎたといえる。
その日水橋家は爆心地となった。もしもパルスィがその場にいたなら比喩ではなしに蒸発していただろう。これは後に酒の席での笑い話となった。
ちなみにこの笑い話には続きがある。消えた水橋家は地霊殿が総力を挙げて弁償した。前よりも立派な造りの二階建て一軒家に「こんな立派な所に住めない」とパルスィは抗議した。しかしさとりの「そんなに照れなくとも」という鶴の一声により、抗議は周囲の生暖かい視線とともに流された。この話の教訓は二つある。一つ、ツンデレに拒否権はない。二つ、ニヤニヤしているさとりは相当に意地が悪い。
閑話休題。
旧地獄の端の端から飛び立った熱源は、矢のようにまっすぐに飛んだ。その軌跡のあまりの眩しさに誰も目を開けていられなかったほどだった。遮光眼鏡という便利な代物を誰も持っていなかったため、それがどこへ降り立ったのか見たものは一人もいなかった。
「さとり様ただいまぁー!」
何事かと駆けつけたさとりを見つけて、地獄の人工太陽は大きく羽ばたいた。
そして激突した。
さとりの体と意識が少しだけ宙を飛んだ。
「さとり様、ただいま!」
満面の笑みで笑う空に、さとりは目を細めた。第三の目で見るまでもなく、その心象は、さとりが遠い昔に見た快晴のようだった。
「……おかえりなさい、空」
さとりはそっと空の腹に触れた。大きかった腹は元に戻っていた。ぴんと張られた胸。すらりと伸びた背筋。背中の羽は天を覆うように広く大きく。
そして紅蓮の瞳は、色褪せることなく、翳ることなくそこにあった。
「あなた、そんな生まれたままの姿で飛んできたのね」
「……ふぇ?」
言われて初めて気づいたのか、空は「きゃっ」という小さな悲鳴を上げて、慌てて手で体を覆った。それでもその豊満な乳房を隠しきれるはずもなく、空は背を丸めるしかなかった。
馬乗りになった空が立ち上がれないのだから、さとりは下敷きのままだった。
仕方がないので、大きな声で燐を呼んだ。空が着れるような大きな服はタンスになかったので、バスタオルを持って来るよう言った。
固く目を瞑った空の顔は羞恥でいよいよ燃え上がるような色と熱で、それがあんまり眩しくて、さとりも目を瞑った。
視界が閉じても、瞼の裏には白い影のような尊さが残っていた。
子宮って、ここにあるんだって。
◇ ◆ ◇
かの異変が本当に色々あってようやく収束した後。
旧灼熱地獄の管理は山の神に委託され、いよいよ本格的に幻想核融合計画は始動した。
山ノ神のみならず、地底の者たちも幻想核融合を喜んだ。主に酒の肴として。
“太陽は二つある。そのうち一つは地底にしかない”
誰が言い出したのか。そんな文句が酒場に溢れ、霊烏路空は地底の新しい象徴になった。核融合の原理を知るものは誰一人いなかったが、人工太陽の光は地底の影を退け、明るく照らした。
しかし、それによって新しくできた影もあった。
火焔猫燐は少しだけ憂鬱だった。幻想核融合の要たる八咫烏を身に宿した霊烏路空は、そのまま間欠泉地下センター勤めとなり、疎遠になっていた。
発端に問題があったにせよ、それが間違いなく栄転であることは燐もちゃんと理解していた。地獄の底の底の底。日の目を見ることのなかった廃炉の番人が、今や地上と地下の未来を担うキーパーソンだ。
燐が死体を運んで炉に放り込み、空が火を調節する。そんな当たり前だった日常は遠い日のことになっていた。何の起伏もない時間と言われれば、まったくその通り。しかし燐にとってそれは、気心の知れた友人と一緒にいられたかけがえのない時間だった。
しかし、友情が完全に途切れたわけではなかった。空は今でも燐と同じくさとりのペットで、休みの日には一緒にこっそり神社に遊びに行く。八咫烏を宿しても、空は変わらず燐の親友であり続けた。
たとえ神を飲み込んでも、霊烏路空は変わらない。
子供っぽくて、能天気で忘れっぽい、太陽のように笑う子。
最初に彼女の異常に気づいたのは、そう思っていた火焔猫燐だった。
◇ ◆ ◇
その日は、神社で巫女にせがんでお茶とお菓子をもらっていた。
「ねえ、おくう」
「なあに、おりん」
「あんた、食いすぎ」
「えっ?」
「金平糖、もうほとんどないじゃん。巫女のお姉さんに怒られるよ」
「うそ。もともとあんまりなかったよ」
「いや、あったから。瓶一杯あったから」
燐はため息をついて手元の茶をすすった。少し甘さが恋しいほろ苦さだった。
「なんでそんながっついてるのさ。あんまり金平糖好きじゃないって言ってたじゃん。お腹減ってるの?」
「う……」
空は自分の腹を手で隠した。
お、と燐は思った。
あの空が――湯浴み後も平然と全裸のままで徘徊する天然娘が――恥ずかしそうにしている。
八咫烏を宿してから最も変わったことの一つに、空の身体がある。前はさとりよりも小さな童女だったのだが、一夜で肉感あふれる大人の身体になってしまった。背丈は六尺にも届きそうなほど、胸には二つの超巨星、尻の弾力は暗黒物質、それでいて腰まわりは中性子星のように引き締まっているというコズミック・ボディである。擬音で表すなら『ボン☆! キュッ☆! ボン☆!』か。インフレーション理論も真っ青の劇的な変化だった。
しかし体の成長に心はついていかなかったらしく、つまるところ無防備極まりないのだった。もしも一人で旧都の色街に行こうものなら、地獄烏ならぬ地獄鴨葱として美味しく頂かれること必至である。
そんな空の貞操やら何やらが守られてきたのはひとえに八咫烏のおかげだった。邪な手で空に触れようとする者はごくごく自動的に神の火で丸焼きにされた。実際、燐は旧都の色ボケどもが火達磨になるところを幾度も目撃している。
しかし宇宙の魅力に男は抗えないのか、哀れなイカロスは未だに後を絶たない。ああ宇宙ヤバイ――。
そんな恐るべきコズミックボディの腹まわりが、少しだけ膨らんでいることに燐は気づいた。
にゃーるほど、と燐は猫の様に笑った。
「もしかして、太った?」
「ふ、太ったんじゃないよ」
「いやいやそんな照れなくてもいいよ。あたいも去年の秋に秋刀魚食べ過ぎてちょっとあれだったし。でもそっかー、ついにおくうも女の子になったんだねえ」
「ほ、ほんとだってば。ちゃんと燃えてるし。CNOサイクルは問題なく回転中」
「しーえぬ……え、何?」
「……うにゅ?」
空は不思議そうに首を傾げた。
空が何を不思議に思っているのかわからず、燐も首を傾げた。
二人は鏡写しのようだった――空だけが金平糖に手を伸ばしたことを除けば。
「ちょ、おま、だから食べるなって」
「うにゅにゅ」
かりこり。
「だから私の」
「うにゅにゅ」
かりこり。
「ああもう! それで太ったら死ぬほど笑ってやる! 地底中に響くくらい笑ってやるぅ!」
「うにゅにゅにゅにゅ」
そのとき燐が即座に妊娠を連想できなかったことを、いったい誰が責められるだろうか。
◇ ◆ ◇
光ったの。すっごく強い光。おなかの奥の奥で、ピカッて光った。
何かが爆発したのかなと思ったけど、違うみたい。炎の光はみんな赤。白い光を出すのは、やっぱり白い炎なのかなって。
光に触れるとね、消えちゃうの。でも影だけは残るの。みんな輪郭だけ影になって、残りは消えちゃうの。
それまで自分のおなかの中なんて考えたことも無かった。
最初に消えたの、子宮って言うんだって。後で教えてもらった。
◇ ◆ ◇
山ノ神、八坂神奈子は珍しく言葉に迷っていた。
どんな状況だろうとまずは威風堂々と。信仰が命の神にとって平常心と威厳は最重要であり、その点については自負もあった。
しかし神奈子の平常心以上に、目の前にいる空は危うかった。
「よく来た、霊烏路空よ」
「はい。かみさま」
「……うん、よく来た。よく来たね」
空の腹はもういつものシャツに収まる大きさを超えていた。胸より上のボタンだけがかろうじて乳房の露出を食い止めているだけだった。加えてもともと大きかった乳房も張ってきたらしく、少しでも跳ねれば最後の封印も弾けてしまいそうだった。
「あー……その、うん。まずは座りなさいな」
「はい」
空がちょこんと女の子座りをすると、その腹部が否が応にも強調されてしまう。それは言ってしまえば、むせ返るような母性の生々しさだった。しかしそれでいて、空自体は普段と変わらず無邪気にいるものだから、余計に混乱するのだった。
「こほん。さて、報告には聞いていたが……」
ごくりと早苗が唾を飲んだ音を聞いて、神奈子は己の沈黙が長かったことを知った。
いつもの調子が出ない神奈子は目線で隣の洩矢諏訪子に助けを求めた。
「お祝いの前に、まず服をどうにかしようかね。もうそんなに膨らんでるんだ。他所様に晒すもんじゃあないよ。早苗ーちょっと膝掛けか何か持ってきてー」
「……え、あ、はい。ただいま」
夢から覚めたばかりのような足取りで、早苗は部屋を後にした。やはり成人前の小娘には刺激が強すぎたようだった。
『たかが妊婦如きにどきまぎするのは軍神としてどうよ?』と諏訪子は目で訴えた。神奈子は『わかってるわよ』と目で答えつつ、言葉を繋げた。
「ま、まあ、突然で私もびっくりしたけれど。めでたいことよね。おめでとう空」
「ありがとうございます、かみさま」
「おめでと空」
神奈子や諏訪子は日常的とまではいかないものの、仕事の関係で定期的に空に会っていた。幻想核融合は守矢が技術革新の神として幻想郷での立場を確立していく上で外せない要諦だった。それ故、管理は慎重に行うべきだった。
とはいえ、両神が空についてほとんど心配していなかったのも事実だった。
霊烏路空は依代として最上だった。愚直で単純。事物に疎く、心も幼い。忘れやすく、信じやすい。それらは信仰される側としては無類の長所だった。そして、空と八咫烏の親和性は予想をはるかに超えていた。依代となってから拒絶反応は一度も無く、神霊との融合はすでに九割を終えていた。
幼心地の、神を象る偶像。それがまさか、こんなスキャンダルを持ってこようとは。
「でもほんと、いつの間に」
「……よく、わかりません」
「そ、そう。まあ、そういうこともあるかしら、ね」
歯切れが良いようで要領を得ない空の答えに、神奈子は危機を直感した。
愚直で単純。事物に疎く、心も幼い。忘れやすく、信じやすい。しかしそれらが頼もしいのは、向かう先が自分である場合に限る。もしもそれが他所に向いたなら。神奈子にとって今の空は核地雷に等しかった。信管はどこにあるかもわからず、万が一爆発させたら何もかもが台無しになりかねない。
慎重を期さねばと思いを巡らせている神奈子とは対照的に、諏訪子は楽観的だった。
諏訪子が考えるに、孕んだ女は須らく核地雷なのだ。そして世界はまだ核の炎に包まれていない。つまり空自体はそう問題ではないのだ……よほどのへまをしない限りは。
今この時の問題は別にある、と諏訪子は見ていた。それは空でも、腹の中の子でもなく――。
「で、空や」
「はい」
「それは誰との子?」
八咫烏が宿っている限り強姦の類は無いと断言できる。ということは、この妊娠は合意の結果だといえる。しかし両神の頭には、空の相手となり得る者の候補すら思い浮かばないのだった。
一体誰が、焼かれることなく太陽の最奥に至り、不動のはずの太陽を振り回しているのか。
その問いに対し、空の答えは簡潔だった。しかし、蚊の鳴くような声だった。
「誰の子でもないです」
諏訪子にとって予想していた答えではあった。
「答えたくないってことかい?」
「……」
空は俯いて、黙秘で応えた。まるで陽が落ちたような反応に、諏訪子は神奈子と顔を見合わし、そして今後の方針が決定された。
「まあ、答えたくないのなら、答えなくてもいいよ」
「ひとまず、仕事はお休みね。落ち着くまで産休取りなさい」
即ち、プライベートには干渉しない。
即ち、育児にも理解があることを示し信頼を勝ち取るべし。
「もう医者には見てもらった?」
「まだです」
「そう。なら竹林の医者を紹介するわ。一度行ってきなさい」
「はい。ありがと、かみさま」
「うん。さとりにも話を通しておくわ。本当に、仕事のことは気にしなくていいのよ。あなたはまず――」
さとりという単語を聞いた瞬間空の表情が翳ったのを両神は見逃さなかった。
どうやらまだ見ぬ父親のみならず、飼い主の方とも問題があるらしい。飼い主。よりにもよってあのサトリ妖怪! 敵にも味方にもしたくない、できれば関わらずに済ませたいのだが、管理者としてはそうもいかない。
両神の心が鉛のように重くなるのと、早苗が黒と茶色の縞々でできた膝掛けを持って部屋に戻ってきたのはほぼ同時だった。
「膝掛けお持ちしました。はい、空さん」
「ありがと」
早苗が自分で空の腹に巻こうとしたのは、空の腹に触れてみたかったかららしい。
早苗がへそのあたりをおっかなびっくり触れると、敏感になっているのか、空は少しだけくすぐったそうに身をよじった。
「わあ……あったかい」
「だって鳥だし」
「そんな身も蓋もない……でも、すごくあったかいです。動いたりするんですか?」
「うん。よく燃えてるよ」
「えっ」
「えっ」
娘二人(妊婦を娘に含めて良いかについては議論の余地があるだろう)の姦しい会話は、空の沈んだ雰囲気も引っ込ませたようだった。
ひとまず早苗に空を任せ、神奈子は頭のなかで今後の対応に思いを巡らせた。開発の進捗は多少融通が利く。やはりまずは身辺調査か――と、諏訪子に横から小突かれた。
「なによ」
「もうあの子もさ、あんな風になって良い年頃なんだがねえ」
諏訪子は早苗を見て言った。
神奈子は目を見開いた。
「何を言う。まだ早い」
「昔ならもう一回くらいはしてる年さ」
「時代が変わったのよ。まだ早い」
「しかし、そう遠くもない」
そう遠くもない、未来。
その未来は、今より豊かで、美しく、楽しくなっているだろう。今や核融合さえ実現した。きっとそうすると、神奈子たちは今も動いている。
そう、遠くもない未来を想って。
「……そうねぇ」
神奈子は少しだけ寂しそうに苦笑し、それを見た諏訪子は微笑した。
早苗はといえば、無邪気に空の腹に片耳を押し付けていた。
◇ ◆ ◇
消える。消える。わたしは影だけになった。何も無い、ただの影。
まわりはとっても明るくて、みんな真っ白だった。影になったのに、わたしも真っ白だったの。変なの。
あたまがぼーっとして、ふよふよ浮いてた。影なのに。
そうしてたらね――。
◇ ◆ ◇
一大スキャンダルは、広いようで狭い地底を席巻するに十分過ぎた。
――地獄の人工太陽、懐妊す!
――第三の太陽の誕生か!?
こっそりと侵入していた某天狗の暗躍もあって、地底はたちまち狂騒の坩堝と化した。
ただの慶事ではない。『まさかあの子が! 信じられない!』という意外性、そして未だ正体を現さぬ父親という謎は、格好の酒の肴となった。噂が噂を呼び、憶測が憶測を加速させた。今までほとんど省みられることの無かった空の身辺情報がどこからか浮かび、風に巻かれるように交錯していった。
そんな最中に当の本人が旧都に来たとあれば、騒ぎになるのは日を見るより明らかだったのだ。
◇ ◆ ◇
「おおい皆の衆! おくうちゃんだ! 身篭り金烏様がいるぞ!」
「何だって? おいほんとかよ」
竹林の医者に掛かった帰り道だった。空と燐は旧都の入り口で見つかり、あっという間に囲まれてしまった。
「久しぶりだなあ、おくうちゃん」「元気そうじゃないか。こんな所まで来て平気なのかい」「いやあ、しかしあのおくうちゃんがねえ。この目で見てもまだ信じられねえよ」「でっけえなあ。もうすぐ産まれるんじゃねえか」「二つの太陽か。なんとも豪勢な話だねえ」「誰かが弓で射落としに来るかもな」「あの子は地底のモンだぜ! 俺らがそんなことさせっかよ!」「お、よく言ったお前。乾杯!」「かんぱーい!」
取りとめのない野次馬たちの無数の視線に、空は怯えるように燐にすがりついた。
今まで見たことの無い弱気な親友の姿に、燐の感情が爆発した。
「ちょいとあんたら、騒ぎすぎだよ! おくうが戸惑っているじゃないか!」
燐の怒気を込めた一喝も、旧都の荒くれ者たちには効果が薄い。そも、ぐい呑み片手の無法妖怪にデリカシーやマナーなど求めるだけ無駄だった。
「おい、なんかおくうちゃん、ちょっと元気なくね?」「一段と色っぽくなったよな」「焼かれるぞ……」「懲りねえ奴だな」「生はやっぱ迫力が違うな。あの腹の丸み……たまんねえ」「お前、そういう趣味だったのか」「いや、でもよ。なんか、わかるっていうか……」「実は俺も」「おい誰かこの阿呆どもつまみだせ」「ガハハ」「ちょいとごめんよー。開けておくれ」
どん、と取り巻きの一角が花火のように吹っ飛び、また一つ歓声が上がった。
旧都の顔役、星熊勇儀だった。
「星熊の姐さん」
「やあ、おりん。おくうも久しぶりだね。そんな身重で、どこか行ってきたのかい?」
「医者に行った帰りだよ。私は付き添い」
「なるほど。順調だって?」
「まあね。それより姐さん、こいつらちょっと散らせてよ」
「あー? どうしたんだいおりん、そんな目くじら立てて」
「だから! 迷惑だって言ってるのさ!」
尻尾を逆立てて怒鳴る燐に対し、勇儀は憮然と盃を傾けた。
「まあまあ。そうカッカしなさんな。みんなおくうを祝いたいだけなのさ」
「おくうは今不安定なんだよ! 早く家に帰りたいのさ!」
「それならあんたが怒鳴っちゃ駄目だよ。よし、なら私が送っていこうかね」
――どんな歓声の只中にあっても、音が殺されたように消える瞬間は存在しうる。それはその中心に、有無を言わせぬ力があったときだ。
勇儀は一跳びで空の前まで跳び、
「うんうん、地底に太陽二つ、ってね――」
彼女の膝と背中に手を回してひょいっと持ち上げた。
いわゆる、お姫様だっこである。
「――私からすりゃ、軽い軽い」
そして喝采は万雷となって鳴り響いた。
「さっすが星熊の姐御!」「俺たちに出来ないことを平然とやってのける!」「いよっ! 怪力乱神!」「惚れる」「きゃー! 姐御ー!」「いいなあ、おくうちゃん」「私もあんな風に抱かれたいよ」「あんたが太陽じゃ夏が来ねえよ」「ガハハ、違いねえ」
地底に神はいなかった。今この場において力とは即ちノリと伊達と酔狂であり、星熊勇儀が神だった。
「ちょ、ちょっと姐さん!?」
「いかん。いかんよぉ、おりん。太陽が日陰を通るのは筋じゃあない。帰るなら堂々と帰ろうさ」
カラン、と鉄下駄が一鳴り。
シャラン、と鎖が一鳴り。
百鬼夜行の先頭が歩き出した。
「おらおら退きなおまえら! 天道を塞ぐ不届き者は私が踏み潰すよ!」
鬼の一声に人垣が割れ、割れた人垣が列を成す。旧都の妖怪で祭り好きでない奴はいない。一度始まった祭りは興から醒めるまで続いていく。
「身篭り金烏様のお通りじゃあ!」「続け続けぇ!」「ヒャッハー!」「親父、勘定ここに置いとくよー」「酒だ酒!」「おいてめえそれは俺の徳利だ」「何してんだ、置いてかれるぞ」「おくうちゃん、おめでとうねー」「しっかりやりなよ!」「体に気をつけてね」
皆続けと言わんばかりに人は群がり、燐はその波に飲まれてしまった。
だから燐には、ぼん、という爆音しか聞こえなかった。
「おくう!? おくう!」
――どんな歓声の只中にあっても、音が殺されたように消える瞬間は存在しうる。それはその中心に、有無を言わせぬ力があったときだ。
しかしそれは、勇儀のものとは違った。歓声は消え、そして空気がざわめき始めた。
「ちょっとどいてよ! おくうー!」
百鬼夜行を掻き分け、その先頭にたどり着いた燐は見た。
まず、空。地面に尻餅をついて座っていた。
そして、勇儀。
「お、おくう……?」
燐は即座に空に寄り添った。空はかたかたと震えながら、自分の腹を護るように抱きしめていた。
「姐さん……?」
勇儀は半裸だった。焦げ残った上の服が肩に少し残っているだけで、素肌にはうっすらと赤色が染み付いていた。火傷だった。
空が、勇儀を焼いたのだ。
「おい、何が起こったんだよ」「姉御が焼かれた」「何だって!?」「いや、大事じゃないみたいだが……」「なんで姉御が……そんなに嫌がることか」「馬鹿だね。おくうちゃんだってもう良人がいるんだよ。嫌に決まってるじゃないか」「そうだよな。おくうちゃん、もう生娘じゃないんだよな……」「おまえは何を言っているんだ」「でも確か、おくうちゃんの相手って出て来ねえんだろ?」「何やってんだ旦那は」「元同僚の地獄烏って話だぜ」「そりゃデマだよ」「え、新聞にはそう……」「でもそれにしたって……」
――もしかしたら、袋叩きにあうんじゃ?
地底の妖怪の名誉のために明言しておくが、彼らはそんなことは断じてしない。しかし燐は混乱していた。今までに胸の内に溜まった疑念が一気に噴出していた。
行進は止まり、喝采はなく、行き止まった事態の中で、なお声を上げるものがいたことは燐の、そしてその場にいた皆にとっての幸いだったと言える。
「ほら。ちょっと、どきなさいよ」
固まった人垣を割って出てきた水橋パルスィは、勇儀に自分の上着を頭からかぶせた。
「勇儀」
「……ああ、パルスィ」
「けがは?」
「ちょっとひりひりするだけ。大丈夫」
「そう、それは好都合ね」
そして快音で勇儀の頬を張り飛ばした。
「いったー……」
「私の張手なんて大して効かないでしょうに。で、何で叩かれたかわかる?」
「……いや、実はあんまりよくわかっていない。何かしくじったのだけはわかったけど」
「上出来ね。あなた、もう帰りなさい。私は帰るわ」
「ん、そうする。会食はまた別の日だね」
勇儀はすくりと立ち上がり「すまなかったね、おくう。後で改めて謝りに行くよ」とだけ言って、ゆっくりと歩いて去っていった。
それを見届けてから、溜息一つ、パルスィは燐と空へ振り返った。
「あんたたち、ひとまずうちに来なさい」
「え」
「今のは勇儀が悪かった。その子は何も悪くないわ」
そう言って、有無も言わさず座り込んだ空の手を引いた。
「行くわよ」
空は大人しく立ち上がった。燐が寄り添い、おもったよりもずっと小さなその背中をさすった。
パルスィは二人を連れて臆することなく大路の中心を進んだ。彼女を避けるように列は真っ二つに裂けた。それはまるで、星熊勇儀の真逆だった。
基本的に陽気な妖怪は思い至らず、であるが故に気圧されることがある。例えばそれは、つまらなそうに橋行く人々を見送る女の瞳が、あんなにも炯々と輝くのだということ。透徹とは程遠く、かと言って濁っているわけでもない。
翳る太陽に喚き立てるな――そう諭すような、あるいは庇うような緑色の眼光に当てられて、突発の百鬼夜行は是非もなくお開きとなった。
◇ ◆ ◇
一言で、古明地さとりの第一声は終了した。
「めでたいことね」
さとりは地霊殿のテラスでペットを撫でていた。最近やってきたばかりの大型犬で、彼に凭れ掛かるのが最近のさとりの楽しみだった。
燐はそのことを知らなかった。主と対面するのも、数週間ぶりだったからだ。
「そう。もう空は戻らないのね」
まるで外の天気でも聞いたような。
もともと淡白な性格だということは知っていても、その呆気なさに燐は怯えた。
「も、戻りますよ。今は、橋姫のお姉さんがこういうの詳しいから……」
「誤魔化す必要は無いわ。私を誰だと思っているの?」
さとりの第三の瞳が、睨んでいるように感じられた。
燐は恐ろしくなって、目を固く瞑った。
「……燐。目を開けて。別に怒ってなんかいないわ」
燐は少しだけ目を開け、すぐにまた伏せた。網膜に映ったさとりの笑みが、針のように心に刺さった。まぶたの裏に焼きついて、じくじくと痛んだ。
口がくるくる回った。何の意味も無いのに。
「あたい思うんです。おくう、子供できたの初めてだし。それに、仕事だって新しいことばかりで。だからちょっと参ってて。だから一人になりたいだけなんだと思います……」
「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。わからないことよ。サトリでないあなたには」
「……でも」
「ごめんなさい、意地悪を言ったわね。ええ、私にもわかりません。あなたがわかっている以上のことは、何も」
――そう言いながら、ぎろりと第三の目は覗く。
『……』
『おくう、相手は誰なのさ』
『……』
『ねえ、教えてよ』
『……』
『おくう、どうしちゃったのさ』
『……』
『あたいたち、友達じゃない』
『……』
――どれだけ覗いても、回想の中の誰かの心は読めないのだから。
「――会ってみなければ、わからないわね」
「じゃあ、会いに行きましょうよ」
「いいえ。行きませんよ。空が秘密にしたいのなら、私はそれを尊重します」
それはきっぱりとした言葉だった。心からの言葉だと、燐にもわかった。
『それは、おくうを思ってのことなのですか?』
『それとも、もうおくうのことはどうでもいいのですか?』
答えて欲しくない疑問もすべて、さとりには伝わってしまう。
だから燐は怖かった。求めていない答えを聞かされるかもしれないと思うと、怖かった。
怖くなんてなりたくないのに。それは、さとりの見えない所を傷つける。
「おいで」
さとりは燐を手招きした。燐は猫に変化して、するりとさとりの腕の中にもぐりこんだ。
「……戸惑っているのね、燐」
さとりが燐の背をさすると、燐の眦から涙がこぼれた。不安が、寂しさが、怒りが、みんな言葉にならないものへと還っていくのを感じた。
さとりの手は小さく、暖かかった。昔のように。
「誰も悪くないの。ただ、変わっていくの。それだけなのよ」
燐の記憶の中で、いつでもさとりの体温は高かった。地霊殿の床下暖房とペットの体温が彼女を満たしていた。さとり本来の暖かさを燐は知らない。
もしこの人を一人きりにしてしまったら、どこまでも冷たくなっていってしまうのではないかと、思った。
「優しい子。私のことは気にしなくていいのに」
燐はすぐ近くの、名前も知らない犬を見遣った。まだ言葉を持たない、ただの動物だった。好い夢でも見ているのか、気持ちよさそうに眠っていた。
少し昔までは燐も空もそうだったのだ。言葉は持っていなかった。思慮も何も無かった。しかし、暖かさと柔らかさだけは――言葉でも思慮でもないものは――持っていたはずたった。それだけは、惜しみなく捧げていたはずだった。
それ以外を得たのが誤りだったのだろうか。傍に寄り添い、体温を注ぎ込むこと以上に、報いる何か。怨霊を喰らって火車になったのは、少しでもさとりの役に立ちたかったからだった。空だって、きっと同じだ。
恩を返したかった。それなのに、得た言葉と思慮は暖かくも柔らかくもない。
「いつでも、いつからでも、自分の好きなように生きればいいの」
仕事を与えられたのは、遠ざけられただけなのかもしれない。
畏れを持っているのを、疎まれたのかもしれない。
隠しているけれど、隠せていないけれど、燐は何度もそう思ったことがある。
『さとり様に捨てられるのは、嫌です』
燐はにゃあと鳴いた。
涙は、言葉ではないから流れ続けた。
「捨てたりなんかしないわ。でも、巣立っていく子もいるの。何も悪いことではないのよ」
『でも、さとり様より大切なことなんて、どうしてできるんでしょう?』
◇ ◆ ◇
「……私にもわからないわ。どうして心は移ろうのか。でも、そうでないよりはずっといいのよ」
眠ってしまった燐を撫でるさとりの独白を、傍にいたペットたちだけが聞いていた。彼ら彼女らは意味を理解していたかもしれないし、そうでないかもしれない。わからない。
「たとえあなたたちが、私を畏れても」
だから、それは独白だった。
「あなたたちのことが好き。あなたたちが私を好きだからじゃなく。本当よ、嘘じゃない。どうしたら、わかってもらえるのかしら」
もし言葉以外でそれを伝えられていたなら。
ただ愛していると囁くことができていたなら。
さとりはそのとき泣いていなかっただろう。
◇ ◆ ◇
妊婦の腹にひっつくのがどんなに気持ちいいのか、燐は知らない。しかしこうも幸せそうな顔をしているのを見ると、なんだか羨ましくなってくる。
「あの、こいし様?」
「あ、おりんだー」
空が養生のためにパルスィの家に移ると、気づけばこいしも居ついていた。パルスィが何度か追い出したのだが徒労に終わり、こいしを引き剥がすのは燐の仕事になった。
「おりん、たすけてよー」
「ぽかぽかー」
「えーと。こいし様。その、ずっとそうしているとですね?」
「ぽよぽよー」
「ひゃ……」
「おくうも気が休まらないというか」
「ぺろぺろー」
「あふぅ………おへそだめぇ……」
「……金平糖持ってきたんですけれど、食べます?」
「食べるー」
持ってきた金平糖の半分を渡すと、こいしは金平糖を舐め始めた。噛まないで口溶けを待つ性質らしかった。
「ほら、おくうの分」
「わ。ありがと、おりん」
「これだけだからね。食べ過ぎは駄目」
「わかってるよ」
金平糖を一つ一つ摘んで口に運ぶ空を見て、燐は何とも言えない気持ちになった。
妊娠が発覚してもうすぐ一ヶ月になる。
空は日がな一日布団の上でゆっくりしていた。とにかく退屈なようで、どこかに出歩こうとするのをパルスィが口を酸っぱくして止めた。不思議なことに悪阻は一度も出たことがないらしい。神様がどうにかしているのかもしれない。
つまり概ね、空はいつもどおりの空だった。
「おくうさ」
「何?」
「そんなに金平糖好きだったっけ?」
「んー、あんまり。なんかちっちゃくて食べた気がしない」
「そうなの」
「あ、でもヤタ様は」
空はせわしなく手を動かしている。
金平糖をつまむ。
口に放る。
かりこり。
「ん? 何だって?」
「ヤタ様は金平糖好きだったよ」
「え、神様って金平糖好きなの?」
「小さくて食べやすいからだって」
「そういえば烏だったね」
「あたりまえじゃん。おりん何言ってるの」
「でもあんたも烏だよね。というか金平糖食べてるの、おくうだよね」
「あたりまえじゃん。おりん大丈夫?」
「おい」
そうして金平糖はすっかり食い尽くされた。「のどがかわいた」と言うので、コップに水差しの水を注いで渡してやった。それも一口で飲んでしまった。
空はごろんと寝転がった。薄ら赤みのある黒いぼさぼさ髪が布団の上に広がった。腹は露出したままだった。
燐もすることがなくて、なんとなく傍に寝そべった。
「おりん。さっき何て言った?」
燐が眠りこける寸前、突然空が口を開いた。
「えぁ……何て?」
「さっき何て言った?」
「さっきって何時のことさ」
「金平糖」
「あたい何か言ったっけ?」
「何か言った」
「もう覚えてないよ」
「思い出してよ」
忘れるのはいつもおくうの方なのに、となんだか調子が狂う燐だった。
「えっと、神様って金平糖好きなの?」
「ちがう、それじゃない」
「うーん。じゃあ……あんたも烏だよね?」
「ちーがーうー」
「えーっと。えーっと。金平糖食べてるの、おくうだよね?」
空は黙って天井を見つめたままだった。
艶のある黒くて大きな二つの瞳が、揺れたのを燐は見た。
「……ねぇ。おくう、大丈夫?」
「うん」
「体辛いの?」
「ううん」
「じゃあ、どうしてそんな――落ち込んでるのさ」
「……落ち込んでないもん」
意地を張っているのか、自覚が無いのか。以前なら後者だと思っていたかもしれない。
今はどうだろう。空はきっと変わってしまった。少なくとも、今目の前で、切なそうに瞳を細めているのは、燐の知らない空だった。
「……何か話したくなったら、話してよ」
「うん。ありがと、おりん」
「いいよ。親友じゃん」
そのとき、突然こいしの声がした。
「ここにいる」
「わっ」
「え、こいし様?」
恐るべきは無意識である。気づけば、金平糖を食べ終えたこいしがまた空の腹にひっついていた。
「ここにいる」
しっかりとした口調でそうは言っていても、柔らかそうな瞼は閉じられて、息が細く規則的に漏れていた。すっかり寝付いていた。
「……寝言、かな?」
「こいし様ってさ、どんな夢見てるんだろう」
「さあ。あたいたちにわかるわけないさ」
「わたしも寝よう」
「そうしな」
「おりんも一緒に寝ようよ」
「あたいは用があるから失礼するよ。おやすみ、おくう」
「おやすみ」
燐はパルスィの家を出て、仕事場への道を走った。
わからないことができて、一ヶ月になる。
先月の燐はどうしようもなく不安だった。この先自分たちがどうなってしまうのか、気が気じゃなかった。
それでも一ヶ月も過ぎれば、燐の心にも『なるようにしかならない』という諦観じみた落ち着きが戻ってきた。
それに、わかっていることも、ちゃんとあったことに気づいた。
空のことが大切で、あと仕事だって大事だ。
「ここにいる。そうだ。あたいもおくうも、ここにいるんだ」
ならばきっと、みんな良くなっていく。
両足に力が漲っていくのを燐は感じた。
◇ ◆ ◇
ヤタ様がいたの。
真っ黒だった。でも影じゃなかった。ゆらゆらしてた。
あ、これ炎なんだって、わたしすぐにわかったよ。白い光を出すのは、黒い炎だったの。
「あなたがわたしのなかで燃えているの?」って訊いたら「そうだ」って。
わたしの中にいるんなら、目の前にいるわけないのに。
わたしが「じゃあわたしのなかにいてよ」って言ったら、ヤタ様はこくんって頷いて、わたしのおなかに帰っていった。
◇ ◆ ◇
パルスィはいつものように橋の欄干に寄りかかっていた。
「橋姫のお姉さん。これ、金平糖」
「いらないわよ」
パルスィは燐に見向きもせずに言い捨てた。この手のやり取りはもう慣れっこだった。
燐はその場で袋を開けて、金平糖をつまんだ。
「あのさ、おくうの――」
「来てないわよ」
燐は肩を落とした。今一番空の身近にいるのは橋姫で、理由は良くわからないが親身に世話をしてくれている。彼女になら、何か手掛りの一つでも零していないかと思っていたのだ。
「おくう、お姉さんにも言ってないの……」
「あんたが聞いてないなら、私が聞いているわけないじゃない」
「お姉さんに、おくうから訊き出して欲しいんだ」
「そんなの、飼い主に言いなさいよ」
「駄目だよ。さとり様は、おくうと会ってくれないんだ」
パルスィが燐を見た。
驚いているのか、呆れているのか。形容し難い表情だった。
「……あっそう。でもお断り。訊く気は無いわ。聞きたくもないし」
「頼むよ」
「まっぴらごめんよ。もし聞いたら、私そいつ殺すわ」
瞬間、河の音が途絶えたような気がした。
「こ、殺すって……冗談だよね?」
「本気よ」
「なんでさ。だって、おくうの、大切な人なんだよ」
大切な人。自分の口から出たとは思えないほど胡乱で、空しい言葉だった。
「大切……そうね。そうでしょうね。でもだから何? 関係ないわ。あの子がどう思っていようと。だって殺したいくらい妬ましいんだもの。理由はそれで十分よ。太陽と懇ろになるなんて……妬ましい。今どこにいるのかしらね。此処じゃないどこか。あの子を置いて――」
パルスィは河を見ていた。少なくとも視線は暗く冷たい流れを見ていた。
緑の双眸は、濡れた宝石のようだった。
「必ず見つけ出してやる。妬ましい。妬ましい。妬ましい……殺してやる」
そう言って、パルスィは黙ってしまった。
やはりパルスィにこの金平糖をあげなければいけないように思われて、燐は中身がまだ半分以上残っている袋をそのまま橋に置いた。
「用が終わったなら帰りなさいよ」
「うん。ありがとう、お姉さん。おくうをお願いします」
燐はぺこりと頭を下げた。
パルスィは河を見つめたままだったが、きっとわかってくれたと燐は不思議と確信していた。
◇ ◆ ◇
星熊勇儀という鬼は損な役回りをすることが多い。本人は甲斐性と笑っているが、さとりは同情していた。社交辞令ではない。サトリ妖怪までお遣いに行かされるなんて可哀相だと、本気で思っていた。
「あなたは可哀相な人ですね」
「なんだい、いきなりだね」
「慰めているのです」
「それなら、愛想笑いでもいいから笑って出迎えて欲しいんだけれどね」
さとりは猫のように目元をこすった。さとりは鏡を見ない性質だった。目元がまだ腫れていることを、勇儀の心を読んではじめて気づいた。
「山の神様からの手紙だよ。あと、ほい、これはお土産」
差し出された一升瓶をさとりは受け取らず、冷ややかに返した。
「飼い主のあんたに、だって」
「……それはご丁寧に」
さんざん放置してきた自分が飼い主なんて言える体でないことは自覚できているだけに、勇儀の殊更に明るい調子が苦かった。
「そいつは本当にいい酒でね。せっかくだし一杯やろうよ、ねえ」
「そのつもりで持ってきたくせに。鬼は強引で困ります」
「まあまあ、許してよ。本当にいい酒なんだよ」
「はいはい」
さとりは勇儀をダイニングに通した。地霊殿にも応接間はあるのだが名ばかりで、たいていペットの遊び場になっているため酷い有様だからだ。
さとりが持ってきたグラスが一つだけだったので「あれ、私のは?」と勇儀が訊ねた。
「あなたは自分の盃があるでしょうに」
「他人様へのお土産を自分ので飲もうなんて横柄はしないよ」
「そうですか。でも家にはこういう小さいのしかありませんよ?」
「構わないって。うまい酒は量じゃあない」
それでもさとりは家で一番大きいグラスを渡した。勇儀がとくとくとグラスに注いだ。さとりのグラスは勇儀の大きな掌に比べてあんまり細くて、おもちゃのように見えた。
「はいよ」
「どうも」
どちらからともなく乾杯とグラスを合わせた。
ちりん。
「あら、本当においしい」
「こいつには塩辛が合うんだよ」
「じゃあ持ってきましょうか」
「え、あるの?」
「頂き物で。どうにもああいう辛いものは苦手なのです」
「うまいんだけれどねえ」
持ってきた鮎の塩辛を勇儀は「悪いねえ」と言いながら実に美味しそうに箸でつまんだ。
さとりはちらと時計を見た。話はすぐに終わるだろう。終わったら、旧都へ買い物に行こうと思った。
「……で、本題に移らないのですか」
「ありゃりゃ。もう少し堪能すればいいのに」
「もう十分堪能しました」
さとりは音を立てずにグラスを置いて「会いませんよ」ときっぱり言い放った。
「……おくうは、父親が誰か言わないんだよ」
「そうですか」
「秘密にしたがっているのはわかるんだけれどね」
「いいじゃないですか。無理に聞き出さなくても」
「でも、心配なのさ。騙されているんじゃないかって」
第三の瞳がぎろりと、忌々しそうに勇儀を睨んだ。さとり曰く、サトリ妖怪が騙すという事柄を殊更に嫌うのは、種族の性というよりも掟のようなものらしい。しかし今のさとりからは、明らかな激情を感じ取れた。
安心して、勇儀は続けた。
「……おりんも探っているみたいだよ。山の神の巫女と一緒に。まだ何もわかってないみたいだけれど」
「燐には教えたはずなのですけれど。好奇心は猫をも殺す、と」
「親友が心配なんだよ。あんたは心配じゃないのかい」
心外ですね、とはさとりは言わなかった。
「心配ですよ。ええ、心配です。貴女に言われるまでもない」
「そうかい」
勇儀は箸を置いた。
「おくうはあんたを待っているよ」
「嘘ですか? 鬼のあなたが?」
「違うよ」
「なら妄想ね。あなたにわかるはずがない。サトリでもないあなたが」
「私じゃない、パルスィがそう言っているんだ」
パルスィ。水橋パルスィ。
橋姫。
かつて愛した男に裏切られた女の怪。
「あんたを待っているって」
「あの子は私を畏れている」
「そういうこともあるさ、大切な相手ならね。助けて欲しいって思っても、口に出せない。面倒事を知られて、怒られるのが怖い。嫌われるのが怖い。愛想をつかされるのが怖い……」
「あなたの……いいえ、橋姫の妄想でしょう。わからないじゃないですか」
「……読んでみなきゃ、信じられないかい?」
「……いいえ、いいえ」
こちらが信じているかどうかは問題ですらないのですよ、とさとりは誰にも聞こえないように呟いた。陳腐だと笑わば笑え。“ひめごと”を暴くことが、暴かずにはいられないことが、原罪としてさとりの心を責め、戒めているのだった。
「……あなたは橋姫の言うことを信じていますね。何故ですか? 彼女が間違っているとは思わないのですか?」
「思わないよ。信じているからね。読めばわかるだろう?」
「ええ、わかります。でも訊きたい。何故です?」
だから、その戒めを破る言葉をずっと待っていたのだろう。
まるで駄々っ子のようだ、とさとりは力なく笑った。
「さあね。言葉にすれば色々あるんだろうけれど……つまりは愛しているからじゃないかな」
「――愛している」
「信じられないものは愛せないよ。あんたもね。おくうだってきっとそうさ」
観念するしかなった。こうもまっすぐに言われては、言い返せない。ここまでお膳立てされて、ようやく、観念できたのだ。
畏れられて、恐れて。
避けられて、逃げて。
愛していると、口にすることすら後ろめたいのに。
幸せを願わずにいられないのは、卑怯な独善に過ぎないとわかっていながら。
それでも、応えなければならないことがあるのだと。
「……約束してくれたら、行きます」
「うん?」
「父親がわかったら、必ず橋姫を止めて」
「ああ……うん、それはやるよ。約束する」
そう、と応えた声音が震えたのが、さとりにはなんだか無性に恥ずかしかった。嫌われ者と開き直っていても、恥は知っているのだ。恥は、必要なその時のための勇気になることも。
「こんなやり取りも何度目かね?」
「さあ? 覚えていませんね」
「今回はあんまり泣いてないようだね。助かったよ。泣く子とさとりにゃ敵わん」
「泣いていませんよ……泣いてませんったら」
「うんうん。さとりが素直で、酒は美味い。私は嬉しいよ」
勇儀は一息にグラスを傾けて「ごちそうさん」と告げると、腰を上げた。
「じゃあ帰るよ。最近パルスィがうるさいんだ。おくうに近づくと怒るし、でも離れているとむくれるし。自分はおくうにつきっきりなのにさ。困ったもんだよ」
「まったくご苦労様です。爆発すればいいのに」
「何やら含んだ言い方だね」
「あなたは、本当に、可哀相な人ですね。同情しますよ」
しばらく会っていなかったからだろうか。勇儀に嫌味を返すと嫌味が帰ってこないことをさとりは忘れていた。
「そうかい。でも、こればっかりはね。どうしようもないさ。みんなみんな可愛いからね。甲斐性なんだよ。どうしようもない」
さとりの顔が真っ赤に染まった。
呑んだ酒は、そんなに度が高いものだったろうか。
◇ ◆ ◇
熱かった。熱いなんて思ったこと、灼熱地獄でも無かったのに。
白かった私は、真っ黒になって。わたしが黒くなったから、わたしの周りも黒くなったのかな。
知ってた? 死体とか、たいていのものは燃えるけれど、影だけは燃えないの。
わたしはあのとき影だったから、死ななかったんだと思う。
熱くて、熱くて、死んじゃうかもしれないって思ったけれど。
でも、それでも。
わたしは。
◇ ◆ ◇
「あんたの薄情さには驚いたわよ」
パルスィはさとりを憎んでいた――そう言われたら、少なくとも、見ず知らずのものが見たら十人が十人そう納得しそうな表情だった。
「このたびは、空がお世話になりました」
「あんたのためじゃないから」
「はい。読めていますから、わざわざ口にせずとも結構ですよ」
こういうことを言うから、余計にパルスィが目を合わせてくれなくなるのはさとりもわかっているのだけれど。これも、やはり、さとり自身の性質というより、サトリ妖怪という因果なのだった。
「勇儀さんをけしかけるの。あれ、やめてもらえませんかね」
「知らないわよ」
「あの人は……どうも、苦手なんですよ」
「でしょうね」
「……意地の悪い人。もっと傍にいてあげればいいのに」
パルスィが笑った。
「私が言わなくても勝手に行ってたわよ。甲斐性だって。なら私が何言ったって構わないじゃない。ふん、馬鹿馬鹿しいったらありゃしない」
嘲笑うような笑みだった。しかし心には切実な色をした想いもあって、さとりは不思議と嫌いになれなかった。
「今心を読んだら殺す」
「殺さないでくださいよ。まだ死ねませんから」
「なら殺すのは待ってあげるわ。さっさと行きなさいよ」
とつとつと、パルスィが爪先で欄干を叩いた。
さとりは「素直じゃない人」と言おうかと思ったが、言えば巡り巡って自分に返ってくるような気がしたのでやめた。
「ありがとうございます」
それだけ言って深く頭を下げ、さとりは橋を渡った。
◇ ◆ ◇
水橋家に入ると、最近聞いていなかった声を聞いた。
「あ、お姉ちゃんだー」
こいしがいた。さとりは驚いたが、すぐに落ち着いた。日常的にさとりを驚かすのはこいしくらいだったから、耐性ができていた。
肝心の空は膨らみきった腹を出したまま寝ていた。薄くぼんやりとした心象しか第三の瞳には映らなかった。さとりの能力は、夢の中までは解せない。
「こいし、せめて毛布くらいかけてあげなさい」
「あ、駄目よお姉ちゃん。それ、おくうが嫌がるの」
「……そうなの」
自分がさんざん思い悩んだことから開放されている妹に、さとりは少しだけ嫉妬した。
「こいし。あなたずっとここにいたの?」
「うん。お姉ちゃんを待ってたの」
「なら、たまには家に帰ってらっしゃい」
「もう! わかってないなあ、お姉ちゃん。私は家にいるお姉ちゃんじゃなくて、ここに来るお姉ちゃんを待ってたの」
こいしはふわりとさとりの前に来ると、背伸びをしてさとりの頭を撫でた。
「なでなでー」
「ちょ、ちょっとこいし」
振り払うに振り払えず頭をすくめていると、抱きつかれた。
背中に回ったこいしの手が、優しくさとりを叩いた。
「お姉ちゃん、がんばったね。えらいえらい」
不覚にも、涙腺が緩んだ。
「……ぜんぜんえらくないですよ」
「えらいよ」
「これはあなたにだけ言うのだけれど、何度か泣いたわ」
「知ってるよ」
「知ってたの?」
「わたしも昔はそうだったんじゃない? もうあんまり覚えてないけど。だから、お姉ちゃんはえらいのよ。わたし知ってるもの」
本当にそうなのだろうか。そう思っているのだろうか。さとりにはわからなかったが、妹の言葉だけは信じたいと心から思った。
「じゃあね、お姉ちゃん。おくうに『そこにいる』って伝えてあげて」
そう言うやいなや、気づけばこいしは消えていた。いつものことだった。またどこかへ遊びにいったのだろうか。
不思議と、今日は家に帰っているような気がした。
「……う?」
寝ていた空が夢から覚めた。
目をこすったあと、さとりは努めて普段どおりに空に微笑した。
「おはよう、空」
「……うあ!? さとり様!?」
「はいはい驚かない。深呼吸なさい」
「はい、さとり様。すー、はー……」
事の顛末をすべて拾うのに十分ほどかかっただろうか。さとりの能力は思考を読むことであり、読まれる思考が整然としていないと理解するのが難しい。
「……はぁ」
さとりは、深く息を吸い、吐いた。それだけで体の芯が解れたような気がした。緊張していたのだと今更ながら気づいた。深呼吸なさいなどとよくしたり顔で言えたものだ。
さとりは、安堵していた。ひとまず、恐れていたことは何も無かった。悲しいことも、怒れることも。それは、本当に良かったことだ。
しかし、寂しいことは、これからどうにかしていかなければいけない。
「あ、あの、さとり様……」
さとりは黙ったまま待った。空が言おうとしていることはわかっていたし、それを引き出すこともできたが、さとりはそうしなかった。空の中で渦巻いてるいくつかの言葉の、どれを最初に選ぶのか。そこに、さとりによって損なわれた空の“ひめごと”があるように思われた。
空は、言った。
「……この子、ヤタ様じゃないんですか」
紅蓮の瞳。八咫烏の眼。鋼玉のような。硬く細い瞳孔が、さとりのほうを向いているようで、しかし何も見ていなかった。
「そうね。あなたの胎内からは何も読み取れない」
「死んじゃったんですか?」
「たぶん、違うわ」
空の子宮に収まっているものが何なのか、さとりには見当がつかなかった。たとえ嬰児でも、微かに情動は見られるのに。
「……ヤタ様が何も言わなくなったんです」
「そう」
「もうすぐ一つになるんだって」
「そう」
「二度と会えないって」
「そう」
「さよならなんて、嫌です」
「そうね」
「だから、さよならしても、もう一度会えればいいなって」
その思いを。
何と名付けたらよいだろう。妊娠願望と呼ぶには捩れていた。慕情と呼ぶには滅裂だった。恋と呼ぶには大仰で、愛と呼ぶには幼すぎた。
しかしそれが、それとしか呼べないものが、何よりも尊いものだとさとりは知っていた。
「八咫烏はあなたの中にいるわ」
「……でも、応えてくれないんです」
「そうね」
「わたし、どうすればいいんでしょう?」
「一緒に考えましょう」
「ヤタ様がいないんです。さとり様。わたし、ばかだから、どうすればいいのか、わかんないんです」
空の目から大粒の涙が流れ落ちて、紅蓮の瞳で雫となった。まさしく堰を切ったようだった。誰にも言わず、ただ心の内で複雑に絡まり溜まっていた情念が奔流となって空を溺れさせていた。
「わ、かんない。わかんないです。さとり様、やたさまぁ……」
空は泣いた。恥も体裁もなく、泣きじゃくった。迷子になった幼子のように。
どれだけ体が大きくなっても、強い力を得ても、空はそうやって泣くのだ。
「空、聞いて」
そして今、さとりは、空の何もかもを信じられたのだ。
「八咫烏はあなたの中にいる。『そこにいる』わ。信じて」
「だ、だって、この子違、うんでしょ?」
「ええ、その子は違うけれど。でもいるわ、あなたの中に」
「さ、とり様には見、えるんですか」
「いいえ。でも、そこにいる。信じて」
「わ、かんない。わかんない。わたし、ばか、だから。ヤタさまがいないと」
「いるわ。今もあなたを支えている。信じて」
「さびし、い。ひとり、やぁ……」
「いいえ、独りじゃない。燐がいるわ。橋姫と勇儀も。こいしも……私も」
「わかんない、やたさま、やたさま、やたさまぁ……」
さとりは口を噤んだ。これ以上かける言葉は、もう何も無かった。
八咫烏を選んだのは、空だ。他のどんな者の思惑も知ったことではない。さとりが言って聞かせたわけでもない。空自身が彼を選んだのだ。
だから、この溢れる感情は、この流れる涙は、霊烏路空だけのものだ。空だけが、その意味と流れる先を決めることができるのだ。
そしてさとりは、それを見ていることしか出来ない。
「みんながいるわ。ねえ、空。忘れないで」
サトリは、心を読めても、癒やすことはできない。
愛することはなんて歯痒いのだろうと、さとりは泣いた。
◇ ◆ ◇
「ごめんなさい」
ひとしきり泣いて少し落ち着いた後、空が小さく言った。
「どうして謝るのかしら」
「……おこられる」
「怒ってなんかいないわ。どうしてそう思ったの?」
「……わかりません。でも、なんか」
空が、言葉を選ぼうとしているのをさとりは見ていた。しかしすぐに選べるだけの言葉が頭にないことに気づいたようだった。
出た答えは、空らしい、シンプルなものだった。
「変わってしまったような気がして」
それがどこから湧いた思いだったのか。さとりには見通せない。それはもう妹だけが知る領分だ。しかし、寂しさだけではなく嬉しさでもってそれを受け容れられたから、さとりは笑うことができた。
「ねえ、空。触ってもいい?」
空が頷いてから、さとりは空の胸の、紅蓮の瞳へ手を伸ばした。
手触りは硬く、磨いた宝石のように指が滑った。その表面に玉となって残った空の涙を指先で優しく拭った。涙は紅蓮の瞳によって暖められ、熱いくらいだった。それはさとりでは与えられない、太陽の暖かさだった。
この瞳の奥に宿っていた心を読んだのは、あの異変が終わった少し後だったか。さとりは思い出の糸を手繰った。八咫烏と交わった空と初めて会ったとき。しかし、印象らしい印象も記憶には残っていなかった。サトリ妖怪は巫女ではない。神霊の思考は、うまく読み取れない。
ちゃんと話をしてみたかった。
「ありがとうございます。あなたのおかげで、空はこんなに大きくなりました。本当に、ありがとう」
愛する人が愛されたことがこんなに嬉しいのだと、さとりの心は叫びたいほどだった。
◇ ◆ ◇
それからは、静かな日々が続いた。
空は水橋家に残り、さとりは地霊殿に帰っていった。空の相手について噂は絶えなかったが、さとりが火付け役の天狗をトラウマ漬けにしたためそれ以上加熱はしなかった。好奇心で水橋家を訪れるものは容赦なくパルスィが追い払った。
空にとって、静かで、穏やかな日々が続いた。
十月十日だったのはただの偶然だったが、それが彼女にとって必要な時間だった。
◇ ◆ ◇
覚えてるよ、覚えてる。ずっと忘れない。
わたしの黒い炎。
子宮って、ここにあるんだって。
◇ ◆ ◇
吹っ切れた、と言うには被害が大きすぎたといえる。
その日水橋家は爆心地となった。もしもパルスィがその場にいたなら比喩ではなしに蒸発していただろう。これは後に酒の席での笑い話となった。
ちなみにこの笑い話には続きがある。消えた水橋家は地霊殿が総力を挙げて弁償した。前よりも立派な造りの二階建て一軒家に「こんな立派な所に住めない」とパルスィは抗議した。しかしさとりの「そんなに照れなくとも」という鶴の一声により、抗議は周囲の生暖かい視線とともに流された。この話の教訓は二つある。一つ、ツンデレに拒否権はない。二つ、ニヤニヤしているさとりは相当に意地が悪い。
閑話休題。
旧地獄の端の端から飛び立った熱源は、矢のようにまっすぐに飛んだ。その軌跡のあまりの眩しさに誰も目を開けていられなかったほどだった。遮光眼鏡という便利な代物を誰も持っていなかったため、それがどこへ降り立ったのか見たものは一人もいなかった。
「さとり様ただいまぁー!」
何事かと駆けつけたさとりを見つけて、地獄の人工太陽は大きく羽ばたいた。
そして激突した。
さとりの体と意識が少しだけ宙を飛んだ。
「さとり様、ただいま!」
満面の笑みで笑う空に、さとりは目を細めた。第三の目で見るまでもなく、その心象は、さとりが遠い昔に見た快晴のようだった。
「……おかえりなさい、空」
さとりはそっと空の腹に触れた。大きかった腹は元に戻っていた。ぴんと張られた胸。すらりと伸びた背筋。背中の羽は天を覆うように広く大きく。
そして紅蓮の瞳は、色褪せることなく、翳ることなくそこにあった。
「あなた、そんな生まれたままの姿で飛んできたのね」
「……ふぇ?」
言われて初めて気づいたのか、空は「きゃっ」という小さな悲鳴を上げて、慌てて手で体を覆った。それでもその豊満な乳房を隠しきれるはずもなく、空は背を丸めるしかなかった。
馬乗りになった空が立ち上がれないのだから、さとりは下敷きのままだった。
仕方がないので、大きな声で燐を呼んだ。空が着れるような大きな服はタンスになかったので、バスタオルを持って来るよう言った。
固く目を瞑った空の顔は羞恥でいよいよ燃え上がるような色と熱で、それがあんまり眩しくて、さとりも目を瞑った。
視界が閉じても、瞼の裏には白い影のような尊さが残っていた。
変わるもの、変わらないもの。ヤタガラスは、お空にとって、親か、子か。
それぞれのキャラクターがらしくて、暖かくて、いい地底でした。氏の作品を読むのはこれが二作目ですが、これからも、書いてくださることを、どうかと、願います。
感情の籠る文章っていいなあ
良い感じです