「針妙丸」霊夢の声は落ちたものであった。
少名針妙丸はそれだけで、霊夢の声だけで分かった。
「正邪がまた何かを?」
良くない事である、そしてその良くない事の。霊夢が針妙丸に持ってくる良くない話、それは正邪が絡む事柄である。
いつだってそうであった、これならば掃除において行き届いていない部分があるとか、とにかく生活の上での至らない部分があると言われた方がマシである。
しかしそういった場合の霊夢の声は、厳しくなくて優しい。落ちたようなものでは無くて諭すような声色である。
「そうよ、鬼人正邪の事。厄介なことになったわ」
だから今回の事も、霊夢の口から正邪の名前を聞く前から。霊夢が自分の名前を呼んだ時点で、分かり切っていた事であったのだ。
「あの子……また何処かにご迷惑をかけてしまったのね」
小さな体を更にしぼませてしまいながら、針妙丸は正邪が関わっている厄介ごとをまるで自分の事のように恥じ入る表情をしていた。
「あの子、今度はどこにご迷惑をかけたの?霊夢、今すぐにでも謝りに行かなきゃならないから。教えてほしいの」
衣服の襟元をきつくしめ直して、針妙丸は霊夢に対して真っ直ぐとした目を向けた。
「関係ないと言い切って、知らぬ存ぜぬを決め込むことも可能だとは思うよ。でも私が甘言に乗ったことが、正邪が暴れまわる隙を与えてしまったんだ」
それだけは償う必要がある。霊夢からは、そこまで面倒を見る必要はないとは言われているが。
だとしても針妙丸自身の気持ちが落ち着かないのである。
「…………」
真っ直ぐな瞳をぶつけられている霊夢はと言うと、明らかに困った表情を浮かべていた。
いくらか以上に言葉も探しているようで、口元もムズムズとしていた。
「いいよ霊夢。天狗にでも聞けば、正邪の事は大なり小なりの差はあっても、調べることができるから」
だがいつもの事である。このまま飛び出して天狗に事情を聴きに行ったことも、これだって初めてではない。
「そうじゃないのよ、正邪が厄介な奴に好かれたのよ」
「は?」
だがここからの話が、針妙丸にとっては予想していない方向であった。
「含みも比喩も何もないわ。文字通りの意味よ。厄介な奴が、鬼人正邪を好いてしまったのよ」
「無明の存在……純狐にね」
「何なんだ、あいつは…………」
鬼神正邪は天邪鬼である。それ故、彼女は相手から非常に嫌われやすい性格と言うよりは、生き方をしている。
しかしその生き方こそが、天邪鬼である彼女を表現する最高の方法なのである。
その生き方故に、彼女は恨まれた相手から逃げることも多い。だがその逃げることも含めて、表現する上での最高の方法なのである。
「正邪ちゃーん!」
鬼神正邪は木々から木々へ、岩から岩へ、崖からも臆することなく飛び降りているが。
「正邪ちゃーん!」
あの女はどこまでもどこまでも付いてきた。
「お前一体何なんだよ!?何が楽しくて攻撃もせずに私を追いかける!?」
「だってこれは鬼ごっこでしょう?弾幕なんて危ない物は使わないでしょう?正邪ちゃんも使ってないじゃない」
違う、使わないのではない。使えないのである。
弾幕なり方々から集めた反則アイテムを使う事は、即ち対峙することを意味する。
対峙するという事は、すくなくとも勝利するための算段なりが見えているという事である。
だがこいつには。
「お前!お前!お前!!」
「あ、そうそう。私の名前はね、純狐っていうの。そういえば私の方は自己紹介まだやっていなかったわね。ごめんなさいね、正邪ちゃん」
そう、この純狐と言う相手に対しては。
勝つだの負けるではない、関わり合いになる事を避けるべきだ。それも徹底的に。
そう正邪の本能が強く強く訴えかけていた。
正邪は汚い言葉を用いて、敵意に満ちた表情を携えながらなおも飛び回っていた。
「お前、頭おかしいんじゃないか!?この私のような、お尋ね者を!!何でそこまで気に入れるんだ!!」
言葉だけではどうせカエルの面に小便をひっかけるような物だと思い。ツバも吐きかけてやった。
当たる事は無いにしても、良い気分なんざ絶対にしないはずだ。
「ああ、やっぱり可愛いわねぇ正邪ちゃんって。そういう強がりも含めて」
だが純狐は一味違った。
効くかどうかは五分五分だなと、最初に心の中に予防線を張っておいた正邪ですら。
ツバを吐きかける姿すらも可愛いなどと、しかもどうやら本心から言っているらしい純狐の顔には寒気がした。
その笑顔は決して好戦的な物では無くて、慈愛に満ちた物であったからだ。
鬼人正邪のような天邪鬼に向けられる感情の中では、最も似つかわしくないものであろう。
「どうしてそこまで私にこだわれる!?」
「そうやって必死に汚い言葉や声を出そうとしている辺りかしら?私って反抗期と言う者を味わった事がないから。何だか嬉しいの」
言っている意味がまるで分らなかった。反抗されて嬉しいだと?
もしそうだとすれば、この女は自分以上の天邪鬼かもしれなかった。そうでなくともこいつは天邪鬼の天敵である。
少名針妙丸にすらここまでの感情は味わう事は無かった。アイツの場合は自分のケツを拭くと言う感情が行動の源である。
でもこいつは?この純狐と言う女は一体何を言っているのだ?何が目的で正邪にうっとうしがられることで喜んでいるのだ?
まるで分らなかった。
こいつは、純狐とは一体何なのだ?何が目的でこの私、鬼人正邪に付きまとうのだ?
お尋ね者が近くにいるから、ご褒美狙いでもなければ名声が狙いでもない。
この純狐と言う女からは、そういう欲求はまったく見えてこない。
強いて言うのならば…………この私、鬼人正邪と関わっている事でもう既に目的を達成している。後はその状態を少しでも長くするだけ。
この結論に達したとき、正邪はその意識がほんの少しの間だけ宙をさまよった。
そんなはずがあるか!!と言う喝破するための材料を探す為とはいえ、木々の間や空中を飛び回り跳ねまわっている状態でそれを行う事は。
「正邪ちゃん危ない!!」純狐の言う通り極めて危険であるが、それに気づけたのは純狐の鬼気迫る声を聴いた時であった。
正邪が純狐に危ないと言われたと知覚したときには、彼女の体はくるくると回るようにして……それ以上に誰かに抱きかかえられながら、落下していた。
「大丈夫よ正邪ちゃん、お母さんが助けたから」
「はぁ!?」
くるくると回っているから、上下左右の感覚もおぼろげではあるが。純狐が正邪に向かって“お母さん”等と優しく語りかける声だけは。
尋常ではない寒気と共に、正邪の鼓膜をふるわせてくれた。
「…………ッ」
確かどこら辺を飛んでいたんだったか……それを確認するために頭上を見上げたら、見落としようがない物が一直線に並んでいた。
何本かの木々の枝が……恐ろしく鋭利な刃物でスパスパと切られてしまったような状態を晒していた。
その太さも、腕ほどの物ならばまだ納得を無理にでも自分自身に言い聞かせられるが。
スパスパと切られてしまった物の中には、枝どころか木の幹の一部をくり抜いたような、半円状の物が出来上がった物まであったのだ。
……強がりを言えば、木の幹の一部をくり抜くような弾幕。正邪にも出せないことは無い。
しかしそれは、誰かを抱きかかえてしかもくるくると落ちながらではない。
仁王立ちしながら、しっかりと狙いを定めながらやるものである。
純狐と言う女はそれを正邪を抱きかかえながら、しかも落ちながら正確にやってのけたのだ。
「正邪ちゃん、怪我は無い?ちゃんと正邪ちゃんとお母さんの間にあるものは綺麗に消し飛ばしたはずなのだけど」
またこいつは、純狐は自分の事をお母さんと……それを正邪に対して言った。
「うっせーババァ!!触るんじゃねぇよ!!」
正邪に怪我がないかを丹念に調べる純狐の手を彼女は『ババァ』と表現して払いのけたが。
肝心の純狐はと言うと、頬に手を当てて何かをかみしめる様な表情で。
「あぁ……心がチクチクとするわ。でもこれも言われてみたかったのよね…………あの子は反抗期なんて言う感情を持つ前に…………持つ前に、嫦娥に」
要するに、まったく堪えていないのである。
「嫦娥……」
正邪の言葉や行動には、全く堪えないのである。
「……嫦娥」
正邪の知らない人物の名前が、純狐の心を激しくかき乱していた。
これに対して正邪は苛立たなかった、それよりも怖かった。
目の前にいない者に対する恨み辛みの方が、負の方向へと感情を傾けやすい。
天邪鬼として方々で嫌われ続けた正邪には、その事はようく分かっている。
十年以上かけてお前の事を探したぞと、怒鳴りながら刃を向けてきた者など正邪はいくらでも思い出すことが出来る。
だがこいつは、純狐はどう考えても長命な存在である。
十年では済まない、何百年……下手をすればもっと長い・それだけの期間誰かを恨んでいる。その感情のどす黒さは、もはや正邪には想像できなかった。
反則アイテムとして手に入れておいた身代わり地蔵を、正邪は服の下で強く握って後ずさりした。
「駄目よ正邪ちゃん!!危ないやつがいるのよ!!」
言ってやりたかった、お前が危ないと。
「ひぃ……!!」
しかし目を向いて迫ってきた純狐に、正邪は恐怖して何も言う事もやる事も出来なかった。
せっかくいつでも使えるように握っていた身代わり地蔵も、純狐の剣幕に気圧されて手を放してしまった。
ゴトリと地蔵が地面に落ちたが、純狐はそれに気付くことは無く。
「いい、正邪ちゃん。嫦娥にだけは気を付けるのよ!嫦娥と言う女が近くにいたら、すぐ逃げなさい!!」
正邪は黙って首を上下に振る事しか出来なかった。
「そうよ、やっぱり何だかんだ言っても正邪ちゃんはいい子ね。さっきの言葉も、本心じゃないって分かってるから」
そうかと思えば純狐はまた優しい顔に戻った。正邪の聞き分けの良さに機嫌を良くしたのであろうが、この感情の振れ幅の大きさは恐怖以外の何物でもない。
しかしこれは、ようやくめぐってきた好機でもあった。
正邪は……本音を言えば今すぐにでも後ろに向かって走り出したかったが、それをやれば純狐は追いかけてくるのは明白。
なので、あえて純狐の目を見ながら。
「あらどうしたの正邪ちゃん」
ゆっくりと腰を深く落として……手探りで先ほど落とした身代わり地蔵を探し当て。
「何か落としたの正邪ちゃん……あらお地蔵様ね」
純狐に気付かれたが……正邪は何も答えずに身代わり地蔵を拾い上げた。むしろやりやすくなったぐらいである、純狐から目線を外すことが出来た。
「正邪ちゃんって信心深いのねぇ、お母さん関心しちゃうわぁ」
そう言いながら純狐が正邪に抱きつこうとする際、正邪は全身から嫌な汗だけではなく嘔吐感まで覚えたが。必死で堪えた。
「あらぁ……?正邪ちゃん?」
純狐が正邪を完全に抱きしめる……つまりは“正邪にとっての被弾”がやってくるまで必死に堪えた。
「……何でかしら?お地蔵様しか抱きしめていないなんて……正邪ちゃーん?どこに行ったのぉ?」
正邪がどこかに行ったことを理解した純狐の声は、間延びしているが悲しげな声である……
しかし追われ続けて、罵声や悪態を付き続けても優しかった純狐に対して正邪は、この悲しげな声ですら恐怖を増幅させる材料の1つであった。
正邪は一心不乱で逃げ続けた。
逃げ続けながらも抵抗し続けた時とは全く違った。
逃げながら戦うのではない、逃げ続けなければならないのだ、純狐に対しては。
だが。
「こんばんは、鬼人正邪ちゃん。私はヘカーティア・ラピスラズリと言うの。純狐のお友達なのよん?」
追いつかれてしまった、しかも第三者ではない。純狐を知る関係者にである。
ふざけた語尾ではあるが、純狐の友人と言うだけで正邪への脅しとなる。
「心配しなくてもいいわぁ、今日はごあいさつに来ただけだから。純狐が貴女の事を気に入ったから、気になったのよん」
正邪は何も喋る事が出来なくなってしまった。
「ふぅん……跳ね返りの強そうな性格ねぇ、顔を見ればわかるわぁ。あのウサギちゃんが素直だから、こういう子が気になったのねぇ」
正邪は頭を撫でられながら品定めをされると言う、彼女にとっては屈辱的な仕打ちを受けているが。
「でも私も好きよぉ、貴女みたいな跳ね返った性格。私の部下にいる、クラピちゃんもイケイケな性格だから」
ヘカーティアの実力を、純狐と相対したが故に理解しやすくなっている正邪は。恐怖の底を除いた数多の人間と同じように。
引きつった笑顔を浮かべていた。何故引きつるのか、それは正邪にもわからなかった。
少名針妙丸はそれだけで、霊夢の声だけで分かった。
「正邪がまた何かを?」
良くない事である、そしてその良くない事の。霊夢が針妙丸に持ってくる良くない話、それは正邪が絡む事柄である。
いつだってそうであった、これならば掃除において行き届いていない部分があるとか、とにかく生活の上での至らない部分があると言われた方がマシである。
しかしそういった場合の霊夢の声は、厳しくなくて優しい。落ちたようなものでは無くて諭すような声色である。
「そうよ、鬼人正邪の事。厄介なことになったわ」
だから今回の事も、霊夢の口から正邪の名前を聞く前から。霊夢が自分の名前を呼んだ時点で、分かり切っていた事であったのだ。
「あの子……また何処かにご迷惑をかけてしまったのね」
小さな体を更にしぼませてしまいながら、針妙丸は正邪が関わっている厄介ごとをまるで自分の事のように恥じ入る表情をしていた。
「あの子、今度はどこにご迷惑をかけたの?霊夢、今すぐにでも謝りに行かなきゃならないから。教えてほしいの」
衣服の襟元をきつくしめ直して、針妙丸は霊夢に対して真っ直ぐとした目を向けた。
「関係ないと言い切って、知らぬ存ぜぬを決め込むことも可能だとは思うよ。でも私が甘言に乗ったことが、正邪が暴れまわる隙を与えてしまったんだ」
それだけは償う必要がある。霊夢からは、そこまで面倒を見る必要はないとは言われているが。
だとしても針妙丸自身の気持ちが落ち着かないのである。
「…………」
真っ直ぐな瞳をぶつけられている霊夢はと言うと、明らかに困った表情を浮かべていた。
いくらか以上に言葉も探しているようで、口元もムズムズとしていた。
「いいよ霊夢。天狗にでも聞けば、正邪の事は大なり小なりの差はあっても、調べることができるから」
だがいつもの事である。このまま飛び出して天狗に事情を聴きに行ったことも、これだって初めてではない。
「そうじゃないのよ、正邪が厄介な奴に好かれたのよ」
「は?」
だがここからの話が、針妙丸にとっては予想していない方向であった。
「含みも比喩も何もないわ。文字通りの意味よ。厄介な奴が、鬼人正邪を好いてしまったのよ」
「無明の存在……純狐にね」
「何なんだ、あいつは…………」
鬼神正邪は天邪鬼である。それ故、彼女は相手から非常に嫌われやすい性格と言うよりは、生き方をしている。
しかしその生き方こそが、天邪鬼である彼女を表現する最高の方法なのである。
その生き方故に、彼女は恨まれた相手から逃げることも多い。だがその逃げることも含めて、表現する上での最高の方法なのである。
「正邪ちゃーん!」
鬼神正邪は木々から木々へ、岩から岩へ、崖からも臆することなく飛び降りているが。
「正邪ちゃーん!」
あの女はどこまでもどこまでも付いてきた。
「お前一体何なんだよ!?何が楽しくて攻撃もせずに私を追いかける!?」
「だってこれは鬼ごっこでしょう?弾幕なんて危ない物は使わないでしょう?正邪ちゃんも使ってないじゃない」
違う、使わないのではない。使えないのである。
弾幕なり方々から集めた反則アイテムを使う事は、即ち対峙することを意味する。
対峙するという事は、すくなくとも勝利するための算段なりが見えているという事である。
だがこいつには。
「お前!お前!お前!!」
「あ、そうそう。私の名前はね、純狐っていうの。そういえば私の方は自己紹介まだやっていなかったわね。ごめんなさいね、正邪ちゃん」
そう、この純狐と言う相手に対しては。
勝つだの負けるではない、関わり合いになる事を避けるべきだ。それも徹底的に。
そう正邪の本能が強く強く訴えかけていた。
正邪は汚い言葉を用いて、敵意に満ちた表情を携えながらなおも飛び回っていた。
「お前、頭おかしいんじゃないか!?この私のような、お尋ね者を!!何でそこまで気に入れるんだ!!」
言葉だけではどうせカエルの面に小便をひっかけるような物だと思い。ツバも吐きかけてやった。
当たる事は無いにしても、良い気分なんざ絶対にしないはずだ。
「ああ、やっぱり可愛いわねぇ正邪ちゃんって。そういう強がりも含めて」
だが純狐は一味違った。
効くかどうかは五分五分だなと、最初に心の中に予防線を張っておいた正邪ですら。
ツバを吐きかける姿すらも可愛いなどと、しかもどうやら本心から言っているらしい純狐の顔には寒気がした。
その笑顔は決して好戦的な物では無くて、慈愛に満ちた物であったからだ。
鬼人正邪のような天邪鬼に向けられる感情の中では、最も似つかわしくないものであろう。
「どうしてそこまで私にこだわれる!?」
「そうやって必死に汚い言葉や声を出そうとしている辺りかしら?私って反抗期と言う者を味わった事がないから。何だか嬉しいの」
言っている意味がまるで分らなかった。反抗されて嬉しいだと?
もしそうだとすれば、この女は自分以上の天邪鬼かもしれなかった。そうでなくともこいつは天邪鬼の天敵である。
少名針妙丸にすらここまでの感情は味わう事は無かった。アイツの場合は自分のケツを拭くと言う感情が行動の源である。
でもこいつは?この純狐と言う女は一体何を言っているのだ?何が目的で正邪にうっとうしがられることで喜んでいるのだ?
まるで分らなかった。
こいつは、純狐とは一体何なのだ?何が目的でこの私、鬼人正邪に付きまとうのだ?
お尋ね者が近くにいるから、ご褒美狙いでもなければ名声が狙いでもない。
この純狐と言う女からは、そういう欲求はまったく見えてこない。
強いて言うのならば…………この私、鬼人正邪と関わっている事でもう既に目的を達成している。後はその状態を少しでも長くするだけ。
この結論に達したとき、正邪はその意識がほんの少しの間だけ宙をさまよった。
そんなはずがあるか!!と言う喝破するための材料を探す為とはいえ、木々の間や空中を飛び回り跳ねまわっている状態でそれを行う事は。
「正邪ちゃん危ない!!」純狐の言う通り極めて危険であるが、それに気づけたのは純狐の鬼気迫る声を聴いた時であった。
正邪が純狐に危ないと言われたと知覚したときには、彼女の体はくるくると回るようにして……それ以上に誰かに抱きかかえられながら、落下していた。
「大丈夫よ正邪ちゃん、お母さんが助けたから」
「はぁ!?」
くるくると回っているから、上下左右の感覚もおぼろげではあるが。純狐が正邪に向かって“お母さん”等と優しく語りかける声だけは。
尋常ではない寒気と共に、正邪の鼓膜をふるわせてくれた。
「…………ッ」
確かどこら辺を飛んでいたんだったか……それを確認するために頭上を見上げたら、見落としようがない物が一直線に並んでいた。
何本かの木々の枝が……恐ろしく鋭利な刃物でスパスパと切られてしまったような状態を晒していた。
その太さも、腕ほどの物ならばまだ納得を無理にでも自分自身に言い聞かせられるが。
スパスパと切られてしまった物の中には、枝どころか木の幹の一部をくり抜いたような、半円状の物が出来上がった物まであったのだ。
……強がりを言えば、木の幹の一部をくり抜くような弾幕。正邪にも出せないことは無い。
しかしそれは、誰かを抱きかかえてしかもくるくると落ちながらではない。
仁王立ちしながら、しっかりと狙いを定めながらやるものである。
純狐と言う女はそれを正邪を抱きかかえながら、しかも落ちながら正確にやってのけたのだ。
「正邪ちゃん、怪我は無い?ちゃんと正邪ちゃんとお母さんの間にあるものは綺麗に消し飛ばしたはずなのだけど」
またこいつは、純狐は自分の事をお母さんと……それを正邪に対して言った。
「うっせーババァ!!触るんじゃねぇよ!!」
正邪に怪我がないかを丹念に調べる純狐の手を彼女は『ババァ』と表現して払いのけたが。
肝心の純狐はと言うと、頬に手を当てて何かをかみしめる様な表情で。
「あぁ……心がチクチクとするわ。でもこれも言われてみたかったのよね…………あの子は反抗期なんて言う感情を持つ前に…………持つ前に、嫦娥に」
要するに、まったく堪えていないのである。
「嫦娥……」
正邪の言葉や行動には、全く堪えないのである。
「……嫦娥」
正邪の知らない人物の名前が、純狐の心を激しくかき乱していた。
これに対して正邪は苛立たなかった、それよりも怖かった。
目の前にいない者に対する恨み辛みの方が、負の方向へと感情を傾けやすい。
天邪鬼として方々で嫌われ続けた正邪には、その事はようく分かっている。
十年以上かけてお前の事を探したぞと、怒鳴りながら刃を向けてきた者など正邪はいくらでも思い出すことが出来る。
だがこいつは、純狐はどう考えても長命な存在である。
十年では済まない、何百年……下手をすればもっと長い・それだけの期間誰かを恨んでいる。その感情のどす黒さは、もはや正邪には想像できなかった。
反則アイテムとして手に入れておいた身代わり地蔵を、正邪は服の下で強く握って後ずさりした。
「駄目よ正邪ちゃん!!危ないやつがいるのよ!!」
言ってやりたかった、お前が危ないと。
「ひぃ……!!」
しかし目を向いて迫ってきた純狐に、正邪は恐怖して何も言う事もやる事も出来なかった。
せっかくいつでも使えるように握っていた身代わり地蔵も、純狐の剣幕に気圧されて手を放してしまった。
ゴトリと地蔵が地面に落ちたが、純狐はそれに気付くことは無く。
「いい、正邪ちゃん。嫦娥にだけは気を付けるのよ!嫦娥と言う女が近くにいたら、すぐ逃げなさい!!」
正邪は黙って首を上下に振る事しか出来なかった。
「そうよ、やっぱり何だかんだ言っても正邪ちゃんはいい子ね。さっきの言葉も、本心じゃないって分かってるから」
そうかと思えば純狐はまた優しい顔に戻った。正邪の聞き分けの良さに機嫌を良くしたのであろうが、この感情の振れ幅の大きさは恐怖以外の何物でもない。
しかしこれは、ようやくめぐってきた好機でもあった。
正邪は……本音を言えば今すぐにでも後ろに向かって走り出したかったが、それをやれば純狐は追いかけてくるのは明白。
なので、あえて純狐の目を見ながら。
「あらどうしたの正邪ちゃん」
ゆっくりと腰を深く落として……手探りで先ほど落とした身代わり地蔵を探し当て。
「何か落としたの正邪ちゃん……あらお地蔵様ね」
純狐に気付かれたが……正邪は何も答えずに身代わり地蔵を拾い上げた。むしろやりやすくなったぐらいである、純狐から目線を外すことが出来た。
「正邪ちゃんって信心深いのねぇ、お母さん関心しちゃうわぁ」
そう言いながら純狐が正邪に抱きつこうとする際、正邪は全身から嫌な汗だけではなく嘔吐感まで覚えたが。必死で堪えた。
「あらぁ……?正邪ちゃん?」
純狐が正邪を完全に抱きしめる……つまりは“正邪にとっての被弾”がやってくるまで必死に堪えた。
「……何でかしら?お地蔵様しか抱きしめていないなんて……正邪ちゃーん?どこに行ったのぉ?」
正邪がどこかに行ったことを理解した純狐の声は、間延びしているが悲しげな声である……
しかし追われ続けて、罵声や悪態を付き続けても優しかった純狐に対して正邪は、この悲しげな声ですら恐怖を増幅させる材料の1つであった。
正邪は一心不乱で逃げ続けた。
逃げ続けながらも抵抗し続けた時とは全く違った。
逃げながら戦うのではない、逃げ続けなければならないのだ、純狐に対しては。
だが。
「こんばんは、鬼人正邪ちゃん。私はヘカーティア・ラピスラズリと言うの。純狐のお友達なのよん?」
追いつかれてしまった、しかも第三者ではない。純狐を知る関係者にである。
ふざけた語尾ではあるが、純狐の友人と言うだけで正邪への脅しとなる。
「心配しなくてもいいわぁ、今日はごあいさつに来ただけだから。純狐が貴女の事を気に入ったから、気になったのよん」
正邪は何も喋る事が出来なくなってしまった。
「ふぅん……跳ね返りの強そうな性格ねぇ、顔を見ればわかるわぁ。あのウサギちゃんが素直だから、こういう子が気になったのねぇ」
正邪は頭を撫でられながら品定めをされると言う、彼女にとっては屈辱的な仕打ちを受けているが。
「でも私も好きよぉ、貴女みたいな跳ね返った性格。私の部下にいる、クラピちゃんもイケイケな性格だから」
ヘカーティアの実力を、純狐と相対したが故に理解しやすくなっている正邪は。恐怖の底を除いた数多の人間と同じように。
引きつった笑顔を浮かべていた。何故引きつるのか、それは正邪にもわからなかった。
下克上を企む者と復讐に燃える者……改めて絡ませてみると面白そうですね。そして純狐さんスゴイわ(笑)
さしもの天邪鬼も相手が悪かった
翻弄され続ける正邪が新鮮で良かったです
純狐さんの狂気っぷりがよかったです