永琳が扉をくぐって振りかえり、小さく頭を下げるのに続いてから、鈴仙はげんなりと息を吐いた。掛ける言葉がない。投げやりな気分になってしまう自分にも嫌気がさした。誰が何が悪いという問題ではない。人の手の及ばぬ病とは確かに存在し、こちらは人の手の及ばないものに干渉する気は無い。残念ながらと言わざるをえないのだ。
1.
その日は清夏と呼ぶにふさわしいからりと晴れた日中。永遠亭の縁側でうちわを仰ぐ鈴仙と永琳のもとへ里の医師団からの要請があったのはつい三時間ほど前のこと。
まるで手の付けられない病があると聞いて駆け付けた二人の前に座っていたのは、まだ今年十歳になったばかりの少女だった。彼女は布団から身を起こし、癖っ毛の頭を深く下げた。
「こんにちは」
綺麗な声だ、意識せず鈴仙は思った。
少女は子狐のように目を細めて笑顔を見せた。まるで健康そのものに見えた。
「こんにちは」
永琳が丁寧にお辞儀をする。
薬売りをする時の恰好をした鈴仙は笠が脱げないよう頷くように頭を下げた。呼び出されたとはいえ人里の内部にいる以上、堂々と妖怪の姿を晒すわけにはいかない。なんとなく、少女と目を合わせる気もしなかった。
永琳は両親と里の医師に話を聞くと言って部屋を出た。残された鈴仙は少女の枕元に座布団を寄せて、彼女の容態を観察することにした。少女はそれを話し相手になる合図と思ったのか、目を輝かせて鈴仙の顔をまじまじと見つめた。笠の中を見られるわけにもいかないので、少女の癖っ毛を撫でて誤魔化した。
少女は歳に相応の快活さがあった。毎日のように他の子どもたちと蹴鞠や隠れん坊で遊んでいたらしい。それでいて気韻を理解しているようで、絵を描くことが好きだと言った。歌を歌うのもと。楽しげに話す姿は、とても病人のそれとは思えなかった。
「身体の具合はどうかしら」
鈴仙は極力優しい声で訊ねた。少女は少し表情を曇らせて話し出した。
いつからか走るのが上手くいかなくなった。けんけんぱも蹴鞠も思うようにいかなくなった。ついには歩くのもままならなくなったから、布団から出られなくなった。そこまで言うと少女は一瞬目を伏せた。しかしすぐに顔をあげ、でも手は動くから今は沢山絵を描けるし折り紙も楽しいから全然平気だと言って、目をきゅっと細めた。
鈴仙は肯定も否定もせず微笑み、もう一度少女の頭に手を乗せた。「素敵ね」それだけ言った。
少女の話は滝のようだった。あんまり熱心に話しかけてくるので、鈴仙の方もついつい乗せられて似顔絵のモデルになるだとか、隠れん坊の鬼には自信があるだとか、月には本当にうさぎがいるんだとか、疑うなら今度月のうさぎをみせてやるんだとか、むきになって話し込んだ。部屋に永琳達が入ってきたのにも気付かないほどであった。
呆れた近所のお姉さんような永琳の表情は、部屋から出るときには薬師、あるいは医師のそれへと変貌していた。射貫くような目を鈴仙に向けて永琳は奥歯を噛むように言った。
「帰りましょう」
2.
「また遊ぼうね、お姉さん」
少女は布団から乗り出すようにして手を振った。それに答えてから鈴仙は逃げるように背を向けた。作り笑顔すらする気になれない、みじめですらあった。
永琳から聞かされた少女の病は、がんに酷似したものだ。脳に腫瘍があり、かなり進行しているため、手術は不可能だと。
「そんなの、師匠の技術で治療する薬を作れるのではないですか」
いても立ってもいられないと鈴仙は口を挟んだ。縋るような気持ちで。なぜこうも必死になっているのか、鈴仙自身にも理解できないままで。
しかし永琳はかぶりを振った。
「症状を和らげるくらいならまだしも、治療することはできないわ。私達がここで受け入れられるためには、ね」
明らかに人を超えたものを、たとえ善意だとしても人里へ無闇に持ち込むことは許されないと。それはルール違反だと。永琳は含むように言った。
「でも」
「いい、優曇華。私達は人里に敵対はもちろん、過度に与するつもりもない。忘れないことね」
ぴしゃりと言い捨てた。鈴仙は拳を握りしめたが、すぐに溜息をついて頭を下げた。
「あの子はいつまで生きられるのでしょうか」
「……半年。いえ、三ヶ月がやっとね。冬を迎えられるかどうか、あの子次第でしょう」
短いと思ったが、人の命なんてどうせ短いものだ、とも思った。
3.
薬売りの業務を終わらせて、鈴仙は少女の家へと足を運んだ。
「ごめんくださーい」
抗生剤を少女の母親に渡し、容態を聞いていると寝室の方から少女の呼ぶ声がした。最初の診察から折を見ては少女の様子を見に来ている。いつの間にか彼女とふれ合うのは日課になっていた。
二度目に訪れた時に名前を訊いた。
少女はおせいと言った。
「ねえねえ、これ見て」
画用紙いっぱいの風景画を鈴仙の眼前に突きつけて、おせいは自信満々に口を曲げた。緑や薄黄色に塗られた山、雲を省いて真っ青に塗り固められた空、それを背後に隆々とそびえ立つ大木は赤く赤く燃え盛っている。でたらめな色の使い方だ。しかし不思議と目を離せない力強さに鈴仙は圧倒された。
「わあ……」
思わずため息を漏らしたのを聞いて、少女は満足そうに目を細める。
「うちの庭にね、カエデの木が植えてあるんだ。ほらそこの窓から見えるでしょう?あれが秋になったら真っ赤にお化粧するの。すごく綺麗なんだ。だからね、私あの木が大好き。今年はどんな風になるんだろうって、今から楽しみだな」
おせいが指をさす先には、一本の青々とした細木がすくっと立っている。なるほど確かに、この絵は窓に映る景色をそのまま切り取った様子に見えた。
もう一度画用紙に目を移す。紙と色鉛筆の混ざる芳ばしい秋の匂いが鼻をくすぐる感じがした。
「なるほど。あなたは本当にあの木が好きなのね」
少女の言葉を繰り返して、鈴仙は優しく笑った。彼女の赤い瞳にも、絵の大木のようにたくましく根を張る大きなカエデが見えていた。
4.
その日はあいにくの小雨が里を覆っていた。いつの間にか秋は盛りを迎えようとしている。
人通りの少ない道を悠々と闊歩する唐傘妖怪には脇目もふらずに、鈴仙は小走りに目的の家へと急いだ。
「これが今週の分です。調子はどうですか?」
玄関先で暫く話をしていると、奥からかすかに声が聞こえた。歌声のようだった。
「秋の夕日に、照る山もみじ」
じめじめとした空気と裏腹に澄んだ声だ。しかし同時に吹けば飛ぶような弱々しい寂しさが感じられた。
寝室に入ると、おせいは鈴仙に気付かない様子で窓の方を見ていた。
「松を彩る、楓や蔦は」
「山のふもとの、裾模様」
続きを歌ってやると、おせいはゆっくりとこちらを向いた。
「お姉さん?」
十月の半ばに差し掛かり、彼女の症状は悲しいほど順調に進行していた。頬はそぎ落とされたように痩せ、服の袖から見える手首は細木の枝のようだった。
鈴仙は布団の傍に腰を下ろして同じように窓を眺めた。鉛色をした雲が押しつぶすように空を低くしている。
秋も深まってきた時節にも関わらず、庭の木は色付く様子もなく新緑を保っていた。
「元気そうね」
鈴仙はつとめて優しい声を繕った。医療に携わる者の礼儀のようなものだ。
ぱらぱらと雨が天井を叩きだした。「あちゃあ、しばらく雨宿りさせてもらおうっと」そうわざとらしく言ってみせた。
「私、きっと見捨てられちゃったんだ」
突然、おせいがぽつりと漏らした。決して大きくない雨音に、簡単にかき消されてしまいそうな小さな声だった。布団をきつく握りしめる手は震えていた。
「きっと、もう真っ赤な紅葉を見ることはできないんだ」
「そんなこと」
慌てて口を挟もうとした鈴仙ははっと口を閉ざした。少女の目から涙が溢れていた。
「……さび、しいなぁ」
彼女は肩を震わせて布団に顔を押し付けた。鈴仙はその背中を力なくさすることしか出来なかった。雨がこの空気を洗い流してしまえばいいのにと、柄にもない事を考えた。
「弱気になっちゃだめよ。病は気からって言葉もあるんだから」
慰めにしかならないと分かっていても、何も言わないわけにはいかなかった。少なくとも礼儀は果たさなければならないと思った。
「私がこんな話するのも変だけどさ、ほら、八百万の神様って言うじゃない。神様って本当にどんなものにも宿っているんだから、それこそ紅葉の神だっているに違いないわ。それで、んっと……例えば一枚一枚にお化粧しなきゃいけないから、まだここまで手が回ってなかったり……。あっ、そうだ!きっとサプライズをしようとしてるのよ。あなたがちゃんと元気になったら、とびきり綺麗な紅葉にしてやろうって、わざと後回しにしてるんだ。ほら、神様ってお祭りとか、そういうの好きだから……。だから落ち込んじゃダメよ。ね?」
馬鹿げた作り話だと思いながらも、鈴仙は少女の肩を抱いて語りかけた。
おせいは少し落ち着いた様子で身を起こし、袖で涙を拭いた。
「ありがとう、お姉さん。その話、面白いね」
くすっと笑って鈴仙の手を握った。恐ろしいほどに細かった。
「でも」
おせいはその手に顔を向けたまま呟いた。
「私、もう目が見えないんだ」
いつの間にか雨は既に止んでいた。
少女の好きな細木は、二人の思いも、自らの役割も忘れてしまったかのように青く茂っている。
5.
雲の隙間に赤い夕空が切れ込みを入れていた。
鈴仙は、すくっと立つ緑色のカエデの葉に影が伸びるのをぼんやり眺めた。
「……なにが神様よ」
笠を深くかぶりなおして、里を出た。
6.
「もう限界でしょうね。今夜が山だと思うわ」
永琳は力なく、しかしはっきりと言った。医者というのは正直だ。
十一月初め、気温の低い夜だった。冬が出番を待ちきれないように乾燥した空気が里に満ちていた。
「あの子と、おせいと話をすることはできますか?」
鈴仙は懇願し、少しの間だけと寝室で二人にさせてもらった。笠を脱いで枕元に座った。
「……お姉さん?」
おせいは寝た姿勢のまま首を傾けた。相変わらず澄んだ声だったが、その顔はとても最初の頃の快活な少女のものとは思えなかった。
「元気そうね」
随分と減った癖っ毛に手を乗せて、鈴仙は微笑みかけた。
しばらくの間、お互い口を開くことなく時間が過ぎた。
「庭の木、もう紅くなってる?」
おせいが布団の中でもぞもぞと動いた。甘えるようでも、願うようでもあった。
「ええ、とっても綺麗。あなたの描いた絵の通りね」
鈴仙は窓の外を見ながら嘘をついた。相変わらず不気味に青いままの木は、風に揺られて数枚の葉を落としていた。嘘をついてでも、患者の気持ちには正直でありたいと思った。鈴仙は医者ではない。
「そっか。私も見たかったなぁ」
少女は満足げに口元を緩めた。目は閉じたままだったが、細く伸ばしているつもりだろう。
「この前、お姉さんが言ってくれた神様の話。私すごく好きだった」
おせいは窓の方を向いた。鈴仙の手の中で、くしゃりと髪がねじれた。
「ずっと考えてたんだ。そんな神様が本当にいたら素敵だなって。山を飛び回って、一枚一枚どんな色にしようって頭をひねって、いっぱいの紅葉を彩るの。たまに色にムラが出ちゃったり、数えきれないほどの木があって大変そうだけど。すごく楽しそうだなあって。もし生まれ変われるんだったら、私そんな神様になりたいなって」
心底楽しそうに、彼女は言葉を繋いだ。少女の頭の中で、踊るように神様が飛び回っているのだろうか。
「あなたならきっと似合いそうね。あんなに素敵な絵を描けるんだから」
自身の声が微かに震えているのを、鈴仙はぐっと唇を噛んでこらえた。
「お姉さん、今までありがとう。とっても楽しかった」
乾いた空気に、いくつもの水滴が顔を覗かせては跡を残していった。
7.
おもむろに鈴仙は少女の肩を掴んだ。そうして、静かに言った。
「目を開けて」
戸惑う彼女の顔に手を添えて、こちらを向けさせる。おせいは恐る恐る目を開いた。焦点はあっていなかった。
無理やりに目を合わせると、自らの能力を解放する。
「見えないとは思わないで、私の瞳をしっかり捉えなさい。いい、もう明日には何もかんも終わってるんだ。師匠のこともあなたのことも構うもんか。これが最期なんだ。本当に。待ちに待ったもの見せてあげるから、私の瞳で狂いなさい」
早口でそう言い聞かせた。少女の瞳が次第に赤く光りだす。その波長を読み取ると、慎重に歪ませた。しばらくおせいが苦しそうにもがくのを押さえつけると、やがて目を閉じて力なく倒れた。
おせいは少しの間気を失ったように横たわっていたが、急に長いトンネル抜けて眩しい景色が現れたかのように、驚きとも感慨ともつかない顔をした。
「わぁ……」
そうため息を漏らして笑った。
そして、その表情は二度と変わることは無くなった。
8.
その日は抜けるような晴天だった。山々は真っ赤に盛りを迎え、雲の無い群青色の空とコントラストをなしていた。
葬式の行われる日としては、幾分不釣り合いのようだと、鈴仙は複雑な気持ちで空を仰いだ。
永遠亭の方にも葬儀参列の報は届いていたが、里外の者であるという理由で辞退していた。普段通りに薬売りの仕事をこなしていた鈴仙は、少女の家の前も素通りしようとした。
ふと聴こえてくる声に彼女は思わず足を止めた。
「秋の夕日に、照る山もみじ
濃いも薄いも、数ある中に」
儚げな、美しい歌声だった。そして聞き覚えのある声だと気付き、その方向へ目をやった。
癖っ毛の特徴的な少女が、庭の木の枝に座っていた。人が乗ればたちまち折れてしまいそうな細木は、まるで体重を感じないように立っている。
鈴仙は、その葉が半分ほど紅く染まっているのを見て目を見開いた。
「松を彩る、楓や蔦は
山のふもとの、裾模様」
少女は歌いながら木の葉に一枚ずつ触れていく。するとその葉は、これまで青く揺れていたことを恥じるように紅色へと移り変わっていった。それを見て目を細める少女が、次の枝へと飛び移る。
頑固だった木は、たちまち秋の様相を呈していた。その中心で踊るように飛び回っていた少女は、最初に座っていた枝に立つと慈しみ撫でるように両手で幹へと触れた。
少女の纏っていた服が、紅葉と同じように赤く染められていく。同時にその髪は輝く黄金色へと色を変えた。空に燃える葉と風に揺れる稲穂の織りなす一粒の秋が、そこに浮かんでいた。
全てを終えた少女は、呆気に取られている鈴仙の方へと向いて、寂しそうに微笑んだ。そうして、軽やかに枝を蹴って空へと飛んだ。
一陣の風が吹き、木に貼り付いていた葉が、地面に横たわっていた葉が、少女を追うように舞い上がる。紅いものは彼女を包み、黄色いものは彼女の周囲を取り囲み、それら全てが鮮やかなグラデーションを描いて青空に踊り狂っていた。
風と葉の擦れあう静かな音階が、終わりゆく季節に名残惜しい別れを告げている。叶うならどうか終わらないでと。終焉を寂しがる晩秋の饗宴が、人里を埋め尽くした。
狂気に魅せられた秋の終わり、それは言うなれば、狂いの落ち葉と呼ぶべきか。
空を一面に覆い尽くす葉の中心に、気高く根を張る大木が見えた気がした。
9.
舞いながら山の方へと去っていく少女を見送った鈴仙は、しばらく惚けたように口を開いていた。その目の前にひらひらと落ちてくる葉を受け止めると、思わず笑みが零れた。
「……なにが神様よ」
笠を深くかぶりなおして、里を出た。
近いうちに紅葉狩りでもしようと思った。秋の終わりに、散りゆく名残を見るのも一興ではないか。今日は晴れてよかった。
一本の細木はようやく自らの役割を終えて、眠るように立っている。
1.
その日は清夏と呼ぶにふさわしいからりと晴れた日中。永遠亭の縁側でうちわを仰ぐ鈴仙と永琳のもとへ里の医師団からの要請があったのはつい三時間ほど前のこと。
まるで手の付けられない病があると聞いて駆け付けた二人の前に座っていたのは、まだ今年十歳になったばかりの少女だった。彼女は布団から身を起こし、癖っ毛の頭を深く下げた。
「こんにちは」
綺麗な声だ、意識せず鈴仙は思った。
少女は子狐のように目を細めて笑顔を見せた。まるで健康そのものに見えた。
「こんにちは」
永琳が丁寧にお辞儀をする。
薬売りをする時の恰好をした鈴仙は笠が脱げないよう頷くように頭を下げた。呼び出されたとはいえ人里の内部にいる以上、堂々と妖怪の姿を晒すわけにはいかない。なんとなく、少女と目を合わせる気もしなかった。
永琳は両親と里の医師に話を聞くと言って部屋を出た。残された鈴仙は少女の枕元に座布団を寄せて、彼女の容態を観察することにした。少女はそれを話し相手になる合図と思ったのか、目を輝かせて鈴仙の顔をまじまじと見つめた。笠の中を見られるわけにもいかないので、少女の癖っ毛を撫でて誤魔化した。
少女は歳に相応の快活さがあった。毎日のように他の子どもたちと蹴鞠や隠れん坊で遊んでいたらしい。それでいて気韻を理解しているようで、絵を描くことが好きだと言った。歌を歌うのもと。楽しげに話す姿は、とても病人のそれとは思えなかった。
「身体の具合はどうかしら」
鈴仙は極力優しい声で訊ねた。少女は少し表情を曇らせて話し出した。
いつからか走るのが上手くいかなくなった。けんけんぱも蹴鞠も思うようにいかなくなった。ついには歩くのもままならなくなったから、布団から出られなくなった。そこまで言うと少女は一瞬目を伏せた。しかしすぐに顔をあげ、でも手は動くから今は沢山絵を描けるし折り紙も楽しいから全然平気だと言って、目をきゅっと細めた。
鈴仙は肯定も否定もせず微笑み、もう一度少女の頭に手を乗せた。「素敵ね」それだけ言った。
少女の話は滝のようだった。あんまり熱心に話しかけてくるので、鈴仙の方もついつい乗せられて似顔絵のモデルになるだとか、隠れん坊の鬼には自信があるだとか、月には本当にうさぎがいるんだとか、疑うなら今度月のうさぎをみせてやるんだとか、むきになって話し込んだ。部屋に永琳達が入ってきたのにも気付かないほどであった。
呆れた近所のお姉さんような永琳の表情は、部屋から出るときには薬師、あるいは医師のそれへと変貌していた。射貫くような目を鈴仙に向けて永琳は奥歯を噛むように言った。
「帰りましょう」
2.
「また遊ぼうね、お姉さん」
少女は布団から乗り出すようにして手を振った。それに答えてから鈴仙は逃げるように背を向けた。作り笑顔すらする気になれない、みじめですらあった。
永琳から聞かされた少女の病は、がんに酷似したものだ。脳に腫瘍があり、かなり進行しているため、手術は不可能だと。
「そんなの、師匠の技術で治療する薬を作れるのではないですか」
いても立ってもいられないと鈴仙は口を挟んだ。縋るような気持ちで。なぜこうも必死になっているのか、鈴仙自身にも理解できないままで。
しかし永琳はかぶりを振った。
「症状を和らげるくらいならまだしも、治療することはできないわ。私達がここで受け入れられるためには、ね」
明らかに人を超えたものを、たとえ善意だとしても人里へ無闇に持ち込むことは許されないと。それはルール違反だと。永琳は含むように言った。
「でも」
「いい、優曇華。私達は人里に敵対はもちろん、過度に与するつもりもない。忘れないことね」
ぴしゃりと言い捨てた。鈴仙は拳を握りしめたが、すぐに溜息をついて頭を下げた。
「あの子はいつまで生きられるのでしょうか」
「……半年。いえ、三ヶ月がやっとね。冬を迎えられるかどうか、あの子次第でしょう」
短いと思ったが、人の命なんてどうせ短いものだ、とも思った。
3.
薬売りの業務を終わらせて、鈴仙は少女の家へと足を運んだ。
「ごめんくださーい」
抗生剤を少女の母親に渡し、容態を聞いていると寝室の方から少女の呼ぶ声がした。最初の診察から折を見ては少女の様子を見に来ている。いつの間にか彼女とふれ合うのは日課になっていた。
二度目に訪れた時に名前を訊いた。
少女はおせいと言った。
「ねえねえ、これ見て」
画用紙いっぱいの風景画を鈴仙の眼前に突きつけて、おせいは自信満々に口を曲げた。緑や薄黄色に塗られた山、雲を省いて真っ青に塗り固められた空、それを背後に隆々とそびえ立つ大木は赤く赤く燃え盛っている。でたらめな色の使い方だ。しかし不思議と目を離せない力強さに鈴仙は圧倒された。
「わあ……」
思わずため息を漏らしたのを聞いて、少女は満足そうに目を細める。
「うちの庭にね、カエデの木が植えてあるんだ。ほらそこの窓から見えるでしょう?あれが秋になったら真っ赤にお化粧するの。すごく綺麗なんだ。だからね、私あの木が大好き。今年はどんな風になるんだろうって、今から楽しみだな」
おせいが指をさす先には、一本の青々とした細木がすくっと立っている。なるほど確かに、この絵は窓に映る景色をそのまま切り取った様子に見えた。
もう一度画用紙に目を移す。紙と色鉛筆の混ざる芳ばしい秋の匂いが鼻をくすぐる感じがした。
「なるほど。あなたは本当にあの木が好きなのね」
少女の言葉を繰り返して、鈴仙は優しく笑った。彼女の赤い瞳にも、絵の大木のようにたくましく根を張る大きなカエデが見えていた。
4.
その日はあいにくの小雨が里を覆っていた。いつの間にか秋は盛りを迎えようとしている。
人通りの少ない道を悠々と闊歩する唐傘妖怪には脇目もふらずに、鈴仙は小走りに目的の家へと急いだ。
「これが今週の分です。調子はどうですか?」
玄関先で暫く話をしていると、奥からかすかに声が聞こえた。歌声のようだった。
「秋の夕日に、照る山もみじ」
じめじめとした空気と裏腹に澄んだ声だ。しかし同時に吹けば飛ぶような弱々しい寂しさが感じられた。
寝室に入ると、おせいは鈴仙に気付かない様子で窓の方を見ていた。
「松を彩る、楓や蔦は」
「山のふもとの、裾模様」
続きを歌ってやると、おせいはゆっくりとこちらを向いた。
「お姉さん?」
十月の半ばに差し掛かり、彼女の症状は悲しいほど順調に進行していた。頬はそぎ落とされたように痩せ、服の袖から見える手首は細木の枝のようだった。
鈴仙は布団の傍に腰を下ろして同じように窓を眺めた。鉛色をした雲が押しつぶすように空を低くしている。
秋も深まってきた時節にも関わらず、庭の木は色付く様子もなく新緑を保っていた。
「元気そうね」
鈴仙はつとめて優しい声を繕った。医療に携わる者の礼儀のようなものだ。
ぱらぱらと雨が天井を叩きだした。「あちゃあ、しばらく雨宿りさせてもらおうっと」そうわざとらしく言ってみせた。
「私、きっと見捨てられちゃったんだ」
突然、おせいがぽつりと漏らした。決して大きくない雨音に、簡単にかき消されてしまいそうな小さな声だった。布団をきつく握りしめる手は震えていた。
「きっと、もう真っ赤な紅葉を見ることはできないんだ」
「そんなこと」
慌てて口を挟もうとした鈴仙ははっと口を閉ざした。少女の目から涙が溢れていた。
「……さび、しいなぁ」
彼女は肩を震わせて布団に顔を押し付けた。鈴仙はその背中を力なくさすることしか出来なかった。雨がこの空気を洗い流してしまえばいいのにと、柄にもない事を考えた。
「弱気になっちゃだめよ。病は気からって言葉もあるんだから」
慰めにしかならないと分かっていても、何も言わないわけにはいかなかった。少なくとも礼儀は果たさなければならないと思った。
「私がこんな話するのも変だけどさ、ほら、八百万の神様って言うじゃない。神様って本当にどんなものにも宿っているんだから、それこそ紅葉の神だっているに違いないわ。それで、んっと……例えば一枚一枚にお化粧しなきゃいけないから、まだここまで手が回ってなかったり……。あっ、そうだ!きっとサプライズをしようとしてるのよ。あなたがちゃんと元気になったら、とびきり綺麗な紅葉にしてやろうって、わざと後回しにしてるんだ。ほら、神様ってお祭りとか、そういうの好きだから……。だから落ち込んじゃダメよ。ね?」
馬鹿げた作り話だと思いながらも、鈴仙は少女の肩を抱いて語りかけた。
おせいは少し落ち着いた様子で身を起こし、袖で涙を拭いた。
「ありがとう、お姉さん。その話、面白いね」
くすっと笑って鈴仙の手を握った。恐ろしいほどに細かった。
「でも」
おせいはその手に顔を向けたまま呟いた。
「私、もう目が見えないんだ」
いつの間にか雨は既に止んでいた。
少女の好きな細木は、二人の思いも、自らの役割も忘れてしまったかのように青く茂っている。
5.
雲の隙間に赤い夕空が切れ込みを入れていた。
鈴仙は、すくっと立つ緑色のカエデの葉に影が伸びるのをぼんやり眺めた。
「……なにが神様よ」
笠を深くかぶりなおして、里を出た。
6.
「もう限界でしょうね。今夜が山だと思うわ」
永琳は力なく、しかしはっきりと言った。医者というのは正直だ。
十一月初め、気温の低い夜だった。冬が出番を待ちきれないように乾燥した空気が里に満ちていた。
「あの子と、おせいと話をすることはできますか?」
鈴仙は懇願し、少しの間だけと寝室で二人にさせてもらった。笠を脱いで枕元に座った。
「……お姉さん?」
おせいは寝た姿勢のまま首を傾けた。相変わらず澄んだ声だったが、その顔はとても最初の頃の快活な少女のものとは思えなかった。
「元気そうね」
随分と減った癖っ毛に手を乗せて、鈴仙は微笑みかけた。
しばらくの間、お互い口を開くことなく時間が過ぎた。
「庭の木、もう紅くなってる?」
おせいが布団の中でもぞもぞと動いた。甘えるようでも、願うようでもあった。
「ええ、とっても綺麗。あなたの描いた絵の通りね」
鈴仙は窓の外を見ながら嘘をついた。相変わらず不気味に青いままの木は、風に揺られて数枚の葉を落としていた。嘘をついてでも、患者の気持ちには正直でありたいと思った。鈴仙は医者ではない。
「そっか。私も見たかったなぁ」
少女は満足げに口元を緩めた。目は閉じたままだったが、細く伸ばしているつもりだろう。
「この前、お姉さんが言ってくれた神様の話。私すごく好きだった」
おせいは窓の方を向いた。鈴仙の手の中で、くしゃりと髪がねじれた。
「ずっと考えてたんだ。そんな神様が本当にいたら素敵だなって。山を飛び回って、一枚一枚どんな色にしようって頭をひねって、いっぱいの紅葉を彩るの。たまに色にムラが出ちゃったり、数えきれないほどの木があって大変そうだけど。すごく楽しそうだなあって。もし生まれ変われるんだったら、私そんな神様になりたいなって」
心底楽しそうに、彼女は言葉を繋いだ。少女の頭の中で、踊るように神様が飛び回っているのだろうか。
「あなたならきっと似合いそうね。あんなに素敵な絵を描けるんだから」
自身の声が微かに震えているのを、鈴仙はぐっと唇を噛んでこらえた。
「お姉さん、今までありがとう。とっても楽しかった」
乾いた空気に、いくつもの水滴が顔を覗かせては跡を残していった。
7.
おもむろに鈴仙は少女の肩を掴んだ。そうして、静かに言った。
「目を開けて」
戸惑う彼女の顔に手を添えて、こちらを向けさせる。おせいは恐る恐る目を開いた。焦点はあっていなかった。
無理やりに目を合わせると、自らの能力を解放する。
「見えないとは思わないで、私の瞳をしっかり捉えなさい。いい、もう明日には何もかんも終わってるんだ。師匠のこともあなたのことも構うもんか。これが最期なんだ。本当に。待ちに待ったもの見せてあげるから、私の瞳で狂いなさい」
早口でそう言い聞かせた。少女の瞳が次第に赤く光りだす。その波長を読み取ると、慎重に歪ませた。しばらくおせいが苦しそうにもがくのを押さえつけると、やがて目を閉じて力なく倒れた。
おせいは少しの間気を失ったように横たわっていたが、急に長いトンネル抜けて眩しい景色が現れたかのように、驚きとも感慨ともつかない顔をした。
「わぁ……」
そうため息を漏らして笑った。
そして、その表情は二度と変わることは無くなった。
8.
その日は抜けるような晴天だった。山々は真っ赤に盛りを迎え、雲の無い群青色の空とコントラストをなしていた。
葬式の行われる日としては、幾分不釣り合いのようだと、鈴仙は複雑な気持ちで空を仰いだ。
永遠亭の方にも葬儀参列の報は届いていたが、里外の者であるという理由で辞退していた。普段通りに薬売りの仕事をこなしていた鈴仙は、少女の家の前も素通りしようとした。
ふと聴こえてくる声に彼女は思わず足を止めた。
「秋の夕日に、照る山もみじ
濃いも薄いも、数ある中に」
儚げな、美しい歌声だった。そして聞き覚えのある声だと気付き、その方向へ目をやった。
癖っ毛の特徴的な少女が、庭の木の枝に座っていた。人が乗ればたちまち折れてしまいそうな細木は、まるで体重を感じないように立っている。
鈴仙は、その葉が半分ほど紅く染まっているのを見て目を見開いた。
「松を彩る、楓や蔦は
山のふもとの、裾模様」
少女は歌いながら木の葉に一枚ずつ触れていく。するとその葉は、これまで青く揺れていたことを恥じるように紅色へと移り変わっていった。それを見て目を細める少女が、次の枝へと飛び移る。
頑固だった木は、たちまち秋の様相を呈していた。その中心で踊るように飛び回っていた少女は、最初に座っていた枝に立つと慈しみ撫でるように両手で幹へと触れた。
少女の纏っていた服が、紅葉と同じように赤く染められていく。同時にその髪は輝く黄金色へと色を変えた。空に燃える葉と風に揺れる稲穂の織りなす一粒の秋が、そこに浮かんでいた。
全てを終えた少女は、呆気に取られている鈴仙の方へと向いて、寂しそうに微笑んだ。そうして、軽やかに枝を蹴って空へと飛んだ。
一陣の風が吹き、木に貼り付いていた葉が、地面に横たわっていた葉が、少女を追うように舞い上がる。紅いものは彼女を包み、黄色いものは彼女の周囲を取り囲み、それら全てが鮮やかなグラデーションを描いて青空に踊り狂っていた。
風と葉の擦れあう静かな音階が、終わりゆく季節に名残惜しい別れを告げている。叶うならどうか終わらないでと。終焉を寂しがる晩秋の饗宴が、人里を埋め尽くした。
狂気に魅せられた秋の終わり、それは言うなれば、狂いの落ち葉と呼ぶべきか。
空を一面に覆い尽くす葉の中心に、気高く根を張る大木が見えた気がした。
9.
舞いながら山の方へと去っていく少女を見送った鈴仙は、しばらく惚けたように口を開いていた。その目の前にひらひらと落ちてくる葉を受け止めると、思わず笑みが零れた。
「……なにが神様よ」
笠を深くかぶりなおして、里を出た。
近いうちに紅葉狩りでもしようと思った。秋の終わりに、散りゆく名残を見るのも一興ではないか。今日は晴れてよかった。
一本の細木はようやく自らの役割を終えて、眠るように立っている。
紅葉が舞い踊るラストシーンが寂しい中にもとても綺麗で印象的でした。
静葉は信仰が不足しがちでともすれば消えそうになっているという話もありますが、こうして秋を愛した子どもが亡くなったとき、秋の神様としての静葉の中にその姿を残して生き続けるのかもしれませんね
少女は狂気の瞳に、狂い落ち葉を見たのでしょうか。
献身的なうどんげが優しくて良かったです
静葉様の儚げな神々しさも伝わってきました
哀しくも美しいお話でした