渦の結女
一
誰にでも、噴火をもたらす逆鱗がある。どれほど柔和な者であっても、そうだろう。度胸と愚かに自信があるなら、例えば聖白蓮の前で、その弟を、どうぞ虚仮(コケ)にするがよい。彼女は和尚であるから、何も殺しはしないだろうが、それ相応の覚悟は必要だろう。
逆鱗の何が厄介か…どこに潜んでいるのか、果たして分からないことだろう。それは弱点でも、争いの種でもあるから、誰しも隠し、故にうっかり、他人に触れられてしまうのである。
「ま、白無垢ったって、私たちもうそんな歳じゃありませんけど」
「千歳だったな、確か」
「大体ですけどねえ」と村紗水蜜は雲居一輪の言葉を補足した。
霧雨魔理沙と一輪が宙空で鉢合わせたのは、今から少し前のことであった。好戦的な癖の強い二者は、流れで弾幕ごっこへと縺れ合って、終わると命蓮寺へと向かっていった。そして水蜜が、その輪の中に加わって、今の姦しさであった。
一輪と一緒にいた雲山だけが、屋根の上でぼうっとしていた。
「魔理沙さんなら、ほら…なんでしたっけね、毛唐の…」
「ウエデング・ドレスじゃないの」
「そうそれ! のほうが似合いますよ、きっと」
「おいおい、なんで私の話になるんだ」
「だってお若いでしょう」
「若いけど、魔女だぜ。そんなの着るかよ」
「でも金髪だし、きっといいですぜ」
「真似すんな!」
人里にある呉服商に、美しい白無垢がある。それは蚕の繭から紡がれた、正真の新品であった。
大抵の里人の女は、婚礼のとき、新品の白無垢を着ることがない。服職は限られているし、ましてや白無垢など、そう多くは織られない。それは共同財産であった…その純白の衣服は、次の婚儀が行われるまでは、着用した女の物になる。無論、汚してはならないので、また着る女はそう多くなかった。
呉服商に飾られたそれは、つまり成金のために存在していた。女たちが羨むその輝きは、今も買い手を待っているのだろう。一輪はその白無垢の眩さと値段に、深く溜め息をついたものだった。
手の届かないそれを、一輪はただ、話題とするばかりである
「村紗にねえ…きっと似合うと思うんですよ」
そう言って、一輪の視線は、少し熱を持った。
水蜜としても「この三人の中なら、確かにそうだろう」と思った。それは何より、日の国らしい、烏のような髪の色のためであった。けれども外見ではそうだとしても、別の観点から考えると、そうではない…「自分には滑稽だ」とも彼女は思った。
一輪にしても、水蜜が「自分には滑稽だ」と考えることは、分かっていて言ったのだ。それは悪意ではなく、いとおしく思うからこそであった。生か、死か、肉か、霊か…そんなことは、関係しない。海の深みのような、彼女の昏い霊魂と、あの白い穢れのない衣装の対比は、想像の中で、途方もなく美しいのだ。
「ふうん、まあ幽霊に白無垢ってのも変な話だ」
水蜜は咄嗟に「まずい」と考えた。魔理沙の軽口は、彼女の「自分には滑稽だ」と謂う想いを代弁していたのだが、そう考えても、絶対に口にしようとは思わなかった。分かるのだ…長年の連れ合いの、敏感な、その逆鱗の位置くらいは。
幼くも、危険な魔法の森で暮らす魔理沙は、とても反射に優れていた。その拳は、半ば本能とか呼ばれている力で動かされた、彼女の右腕に防がれ、顔面には至らなかった。それでもれっきとした妖怪の腕力は途方もなく、彼女は土の上をごろごろと転がった。
地面で朦朧とする魔理沙は、その消えそうな視界の端に、一輪の姿を捉えていた。そうして彼女の悪鬼のような表情に「ああ、あいつ、私を殴ったのか」と考え、次には「なんで、殴ったんだ」と考えられた。
誰にでも、噴火をもたらす逆鱗がある。温厚な一輪でさえ、そうなのだ。そして彼女の逆鱗には、決まって水蜜の陰があるのだった。
二
暑さに疎い水蜜でも、あまりにぎらぎらとしている夏の太陽は、今の気分と反していて、さすがに鬱陶しく思われた。
いくつかの雲が、地底に向かった一輪を想像させた。
今は雲山と、少し前の嵐で破損した屋根の修理をしていた…さなかに水蜜はぽつりと言った。
「…ごめんね」
別に水蜜が悪いわけではないのだが、それでも原因は自分であると、彼女は分かってしまうのだ。
あのあと、気を失った魔理沙は、一輪が永遠亭へと運んでいった。右腕は折れていたが、命の心配はいらなかった。
命蓮寺に戻った一輪は、水蜜に「地底に行ってくる」とだけ言うと、雲山も連れずに姿を消してしまうのだった。もう五日も前のことであった。
「わ…雲山?」
雲山が水蜜の頭を、水兵帽の上からがしがしと撫でた。無口の彼は「謝るな」とでも言いたげな表情であった。一輪もそうであるけれども、彼もまた、確かに千年の仲なのだ。話さずとも、その想いは届いていた。
「ありがとうね」
その想いに感謝して、水蜜は止まっていた腕を動かそうとしたが、急に聞こえた女の声に、彼女の腕はまた止まった。真上からの声であった。声の主は降下してきて、二妖の前でふわふわと留まった。
「よ」
「あら、箒がなくても飛べたんですか」
「当然だ、魔女だからな。らしくないけど、この腕じゃ箒は邪魔だし、まあ妥協だよ」
唐突に現れた魔理沙は、あんなことがあっても変わらずに朗らかであったが、包帯でぐるぐると固定された右腕は痛ましく、水蜜は罪悪の気配に少しの悲しみを覚えた。
「ほら」
魔理沙は当然、そんな水蜜の内心は知れなかった。左手に持っていた一つの大袋を彼女に渡した。
「なんですか」
「茸」
「茸ですか」
「ああ茸だよ」
「なんでまた…」
「なんでって、詫びだよ、詫び…ああ茸しか渡せる物はないんだ、嫌いだったか?」
「詫びって、詫びるのはこっちでしょうに」
「いいんだよ、別に」
魔理沙は宙に浮くのをやめて、屋根に腰を落ち着けて、一つふうっと息を吐いた。
「痛みますか」
「まあ大丈夫だよ、医家が優秀だから」
雲山も今は、腕を止めていた。かんかんと鳴る槌は、もう静かであった。
「あのあと巫女に話が伝わったらしくって、ここに来ましたよ」
「霊夢が?」
「ええ一輪を出せって」
「…そうか」
「殺されるかと思った、死んでるのに」
「ふん…そうだ一輪は? 本当はあいつと話そうと思ってたんだけどな」
「地底ですよ」
「地底? 急だな」
「いえ、私のためでしょう…きっと白無垢を買うお金を稼ぐためです」
魔理沙の驚きは大きかった。
「びっくりでしょう? 軽口の一つであんなに怒るなんて」
一輪は基本として、穏やかな性格をしている。騒ぎが好きなところもあるが、それでも彼女は尼らしく、聡明で明るい。だからこそ彼女は入道を連れていても、里人からの信頼も厚いのだった。
「ずっと前からそうですよ、一輪は。私のことになると、すぐに短気になるんだから」
一輪は自分が何を言われても、怒りを簡単に見せることはない。
地底にいたころ、一輪が命蓮寺を慕っていたことを、馬鹿にする妖怪たちがいた。その妖怪たちは彼女をけなし、あまつさえ寺までも罵倒したが、それでも彼女は平静であった。彼女はただ、自分の信じる道を進むだけ…誰が何を言ったとしても、関係がなかった。しかし、そんな彼女には二つ、絶対に許せないことがあった。それは水蜜を、ひどく言葉で辱めること、悪意を伴う危害を加えること。この二つに、彼女は必ず頭がかあっと熱くなって、相手がどれほど強力であっても、報復を望むのだった。
水蜜には悪癖と感じられたが、それを止めることはできなかった。
「地底にいたころの話ですけど」と水蜜は不意に思い出して「怒って鬼を殴ったことがあるんです」と言ったので、雲山は「懐かしいな」と目を細めた。
「鬼…」
「下っ端も下っ端ですけどね、それでも鬼は鬼。馬鹿ですよ、本当に」
水蜜の頭に浮かぶのは、もう曖昧な鬼の声。ひどい暴言であった。
雲山を無理やり操って戦う一輪は、最後には勝って、けれども血に濡れて痛々しかった。水蜜は理由も分からずに動けなくなって、その喧嘩を眺める観客どものあいだで、ぽろぽろと表情もなく涙が出た。嬉しいような、悲しいような、苦しいような…そんな想いが明滅した。
霊の涙には物質の束縛がない。即座に霧となった。
「悪かったな」
「いいんです、私も白無垢なんて変だって思いますし、実際あのとき思ってました。一輪がきちがいみたいになるから言わないだけ」
「それでも、悪かった」
水蜜は「繊細ね」といじらしく思った。
「お前は?」
「なんです?」
「お前はどうなんだ、一輪が何か言われたら」
「そりゃ、連れですから怒りますけど、そんな、すぐにはかっとなりません、よほどでなければ」
「そうか」
「まあ、ずっと海に閉じ込められてましたから、忍耐には自信があります」
それをきっかけに、話題が変わった。
「海ねえ」
「海がどうかしましたか」
「いや、ただな、知り合いの店の、外の雑誌でしか知らないから」
「ああ…」
「なあ海って実際どんなところだ」
「どうって、暗くて、冷たくて…でも家でもあったし、楽しいことも少しはありましたし…」
「楽しいこと?」
「おっと…」
「なんだ?」
「いえ、別に」
微妙そうな顔をして、水蜜が急に無口になったので、魔理沙は不思議に思った。けれども一つの発想が湧くと、少し口の中が酸っぱくなった。彼女は「殺しだ」と、そう分かった。
急に水蜜と話すのがいやになった。
三
地底は喧嘩が絶えないので、多くの家屋がすぐに壊れる。故に力仕事は山のようにある。
一輪はあの白無垢が売れてしまうかと、働きながらいらいらと気がかりであった。だから働いて、気晴らしに誰かと少し話して、少し寝て、また働いた。鬼気として、半分きちがいの様子だった。
馬鹿らしいことは、一輪も分かっている。それでも彼女は、魔理沙の言葉に悪意がないとしても悔しかった。連れ合いを辱められた気がした。故に実行しなければならなかった…「私の連れは、こんなにも美しくて、花嫁の姿が、似合わない筈がない」と証明しなければ気が済まなかった。
一輪の様子に、何も知らない妖怪の友人たちが、酒や阿片を分けてくれた。彼女はむかむかと無駄に金を使ってしまいそうだったので、とても嬉しく思った。ただ阿片を今の心境で吸うと、本当にきちがいになりそうだったので「戻ったら水蜜と鵺さんに分けよう」と考えた。雲山は頑固なので、吸わなかった。
「水蜜にしたってねえ、反論すりゃあいいのよ…ねえ?」
「そうねえ」
今、一輪は旧都の外、水橋パルスィのところにいて、ひどく酔っていた。短い眠りの前の楽しみであった。
パルスィは殆ど場を動かないので、愚痴を浴びせるサンド・バッグとして丁度だった。お詫びに阿片を渡す一輪であったが、彼女は阿片を吸わないので「そんなの、渡されても困る」と思うばかりであった。彼女は仕方なく、黒谷ヤマメに渡すことにした。
「水蜜が自分で怒るなら、私だって、私だって…」
一輪には、水蜜を言葉で辱めること、悪意を伴う危害を加えることのほかに、まだ腹が立つことがあった。それは彼女が、言葉で辱められても、何も言わないこと、当然のように受け入れること…それは視点を変えれば、自己の卑下にほかならなかった。そんな彼女が悲しくて、哀れで、自分を痛めつけるようで、不愉快だった。そして「考えかたを変えてほしい」と思ってしまう自分は、浅ましく、さらに不愉快に思われた。
「魔理沙さんに謝らなきゃ、帰ったらさ…くそ、くそ、くそ、面白くないことばっかり、ぐす、死んじゃいたい、私は馬鹿よ、屑みたい…もうお酒ないわ、パルスィ」
「持ってないわよ」
一輪が急にわあわあと泣いた。広い洞窟にどこまでも響いた。
「水蜜、ここに来てるでしょ?」
「さあ?」とパルスィは一輪を刺激しないように注意して答えた。
「知ってるんだから、知ってるんだから。あいつ、血の池でしょう、血の池の味が忘れられないんでしょう、分かるんだから、血の臭いで」
くたりと一輪は地に倒れた。
「私の血を飲めばいいのに」
さすがに白々と聞いていたパルスィも、ぎょっとしたが、一輪はついに眠ってしまって、もう静かだった。
しばらく静寂で洞窟は暗くなった。すうすうとパルスィの耳に息が聞こえていた。そこに一妖の虫が現れた。
「やアやア静かになりましたな」
「こっちはふざける気力もないわ」
ヤマメはにやにやと笑った。そうして一輪に触れて、酒の毒を抜いていった。力のちょっとした応用であった。
「最近はいつもここに来るね」
「鬱陶しいからやめてほしい」
「あんたがむっつりしてるから、話す相手にいいんでしょ」
「ふん、別にこいつ、今は話す相手なんて誰だっていいのよ。ただ、どうもいらいらして聞いてもらえないと気が済まないだけ」
ヤマメは終えると、立っているパルスィの横に座った。
「白無垢ね」
「聞いてたのね」
「あれだけの声じゃねえ」
「馬鹿らしい、妬ましいじゃなくて」
「嘘。妬ましい、でしょ」
「…何が」
「あんたにそんな絆はないもんね」
「ふん、妖怪なんて、みんなそうでしょう。二人は元人間だから…」と言葉を切って「千年も同じ相手を焦がれるなんて、狂ってる」
「そうかもね、でも美しいよ。あんたが妬むなら、美しいに決まってる」
ヤマメは一輪を眺めた。
「一輪が鬼と喧嘩したの、覚えてる?」
「知ってる、噂でね。勝ったらしいじゃない」
「じゃあ、鬼どもが報復しようとしたのは」
それは、一輪が喧嘩に勝ち、少し経ってからのことであった。その鬼は仲間を連れて、彼女を穢そうとして、失敗した。彼女の飛ぶ速度が、鬼より速かったことが幸いした。
伊吹萃香は「鬼は嘘をつかない」とか「鬼は卑怯が嫌いだ」と言うけれども、そんな者は、鬼にさえ少しはいるものだ。
「それも知ってる、でも失敗してそれで…どこかに消えた。村紗が殺したんだって、みんなは言ってたけど…」
「それさ、本当だよ。多分、知ってるのは私だけ」
パルスィはぞくりとして、一輪を見たが、起きてはいなかった。
「村紗が鬼を沈めているのを見たんだよ」
人気者のヤマメでも、誰もいない場所で、静かにしたいこともある。地底にある川の、下流の岩場。その裏が、彼女の気に入るところであった。
ばしゃばしゃと鳴る音で、ヤマメを眠りから覚ましたのは、川で溺れる鬼であった。一つ、二つ、三つ、四つ…頭が見えた。それを水蜜が三角座りで眺めていた。
鬼たちは、完全に沈んでも、少し経つと、また浮いてきた。そうして、また沈んでいった。そんなことが何度も続いて、永遠のようだった。
そのうち、一つの鬼が宙に浮いた。と謂うより、水の縄が鬼を絡めて、吊るしていた…そのあとのことを、ヤマメは忘れない。体のすべて、穴に水が入り込んで、最後には爆裂する、鬼の肉。花火のようだった。
「一輪!」
ヤマメが不意に名を呼んで、一輪を起こした。彼女は疲れていて、ぼうっとしたが、なんとか呼び声のほうを見た。
「…ヤマメ?」
「そおよ、おはよ」
「またお酒、抜いてくれたのね、ありがと」
「いいよ、それよりさ」
ヤマメはごそごそと袋を取り出した。じゃらりと鳴って、いかにも金色の響きであった。
「持っていきなよ」
あまりに唐突で、一輪は目が丸くなった。
「見てらんないから、貸してあげる。どんなに高くても、それだけあれば大丈夫でしょう?」
「でも…」
「自分の金で買いたいんでしょ。でもね、売れちゃってたら意味ないでしょ。そうなったら、いよいよ今より馬鹿だよ」
一輪はまた泣き出しそうになって、けれども「倍にして返すから」と、ぎゅうっと抱き締めた。倍にして返すのは、決してヤマメのためではない。それが自分の金で買えない故の、彼女の妥協点であった。
「期待してるよ」
「うん。ヤマメ、みんなに私が帰ったって、伝えてくれない?」
「いいよ」
「ありがとう、本当に」
ヤマメも、それが一輪の妥協点であると察して、断ることはなかった。
「さっさと帰りなさい」
「うん、ありがとね、パルスィ…あと、ごめんなさい」
一輪は、疲れが嘘のように消えた気がして、天狗のごとく飛んでいった。その風がなくなると、ヤマメがぼんやりと言った。
「いじらしいねえ」
「そうね」
「あの幽霊の何がいいんだか」
「何よ、鬼を少し殺しただけでしょう。それに女を犯そうとする鬼なんて、死んで清々する」
「別に私だって、鬼はどうでもいいよ、ただ…」
ヤマメが俯いた。
「ただ、村紗が、とても怖ろしかったから…」
「ヤマメ?」
「人の中には闇がある、そうは思わない」
血の花と消えた鬼よりも、ヤマメの脳裏に揺らめき残るのは、ひいっと声が漏れたとき、ぐるりと向いた水蜜の瞳。
霊には特有の気配がある、目の色がある。死んだ者の瞳の中には明るい命の光がなく、重みがない…筈なのに、誰かの命を遊ぶ水蜜には、切り離された肉体の、腐れた生命の残り火が見えた。その火は瞳の中心に宿り、辺りの緑の虹彩が、這う虫のように、灯った火を消そうと蠢くのだ。
河童、天狗、鬼…妖怪のすべては、人間の想いと、闇の中から現れる。それは、けれども、ひり出された破片だろう…「なら、その大本は? 人の心は…私たちより、闇じゃないのか」と、ヤマメは体の芯から動けなくなった。そんな彼女に水蜜は関心もなく、別の鬼がまた血の花となったとき、彼女の体はようやく動いた。飛ぶことも忘れて、ただ走った。
惨い殺しなど、ヤマメにさえ、簡単にできる。そんなことには怯えない。水蜜の剥き出しの、海の底の、光の届かない闇…そして、殺しの中でだけ、微かに戻る、生の気配。
ヤマメは、確かに“生きている霊”を見た。
「寺にいるなんて笑わせる。あいつが殺しを、反省なんて、しているものか」
他を殺めることで、足が地に着く。血の池を啜れば、生きる感覚を得る。大切なものが、完全に戻る筈はないのだけれど。
四
打掛、掛下、帯、小物…すべて紙箱に入っていた。
地上に帰って、一輪が呉服商のところへ急いで着くと、白無垢は、まだ残っていた。押しつけるように金を払って、何かに詰めるよう催促した。
雲が斜陽を隠していて、一輪が命蓮寺に帰るさなかに、雨が降ってきた。苦々しくも、寺にはまだ少し距離があった。近くの杉と自分の体で、彼女は紙箱を守るほかなかった。
空から滴り落ちる水は、一輪をけなすように、なおさら勢い強くなって、冷酷に肩を濡らしていった。彼女は「海の中よりは、いいだろう」と自分を鼓舞して、けれども辺りが段々と暗くなり、それでも夏のぬるい音は一向に終わらないので、枝から降りる水が、もう全身を叩いてしまったころ、彼女は前に屈んで歩いていった。なぜか、飛ぼうとしなかった。自分の足で水蜜のところに行くことに、祝うような神秘を覚えた。
水蜜の室と一輪の室は、ほかの命蓮寺の者たちと、少し離れている。白蓮は彼女たちが夜に鳴くことを許した。戒律よりも、絆のほうが大切だったのだ。しかし、彼女たちの仲が、地底に封印される前より歪(イビツ)になっていることには、無頓着であった。彼女は“惚れた腫れた”に疎かった。彼女よりも、寅丸星よりも、長い仲の雲山や封獣ぬえと、人心にとても敏感な二ッ岩マミゾウが、彼女たちの歪みを知っていた。幽谷響子には勿論、分からないが、あまり命蓮寺に顔を見せないナズーリンは鋭かった。
からからと水蜜の室の戸が鳴った。蝋燭(ロウソク)の赤が灯っていた。雨を聴いていたようで、畳の上に足を緩めていた。
「おかえり」
「うん…」
「どうしたの、入ったら」
「畳、濡れるから」
「そんなの、別にいいでしょう」
そう水蜜が言ったので、一輪はひたひたと畳を踏んで、彼女の前に立った。
両手に持った紙箱がひどく濡れていた。
「魔理沙さんが来たよ」
「そう」
「あと、巫女も。謝りなさいよ、一輪」
「村紗、これ」と言って、一輪は紙箱を渡すのだが、濡れた冷たさよりも、別の要因で手が震えた。
水蜜は紙箱の蓋を動かした。中の白無垢は、あまり水っぽくはなかった。
水蜜はしばらく何も言わなかったが、沈黙が経ってから、にこりとした。
「一輪さあ、死人にこれを着せてどうしたいの」
一輪は怒りで心臓が止まりそうになった。自分の必死の想いを、軽んじられた。
水蜜は白無垢のために必死になった一輪をいとおしく思い、憎らしいとも思った。死人に白無垢を、そんな惨めな格好を望む彼女が、愉快ではなかった。だから、そうして煽って、彼女の火に闇を灯した。
「村紗、着て…着てよ」
「うん、いいよ」
水蜜は戸のほうを向いた。
「待ってて」
「ううん、見てるから。それに、一人じゃ着られないでしょう」
「ああ、そうね」
水蜜は着ていた襦袢(ジュバン)を脱いで、横に捨てた。
「下は? 脱いでほしい?」
「うん」
「分かった」
するすると、水蜜は白い肌だけになった。毛唐よりも白く、しかし死人のその色は、一輪には蝋燭の明かりで光って見えた。
髪は今、整えられないので、打掛と、掛下と、帯を着せた。水蜜だけで充分な程度であった。それだけでは、目には何か白ばかりで、面白くなかった。一輪は唇を噛んで、血を流して、彼女の唇に塗りたくった。白すぎる白と、赤すぎる赤の対照は、曼珠沙華のようだった。
「どうかなあ」
水蜜は手を広げて、笑顔だった。一輪が思ったように、美しかった。途方もなく…優雅な鶴のようだった。彼女は連れ合いの仕草に、顔を赤く染めた。
「いい、凄くいいよ、村紗」
「一輪、一輪」
「何?」
「それで? どうするの」
「どうって…」
その刹那だった。水蜜は白無垢の袖を使って、唇の血を拭い、さらに笑った。
一輪の息が止まった。頭を石で殴られる思いがした。
「死人にさ、こんなの着せて、いつもより、欲情でもしているものかな」
畳に何か、叩きつけられる音がした。水蜜は少しも痛くなかった。痛覚など、もう鈍かった。一輪の両手が、彼女の手首をぎりぎりと拘束した。そうして、互いの顔が近くなった。
血の拭われた唇が青白く、死人と等しかった。
「あんた、その口で血を飲んでるの…私のは!」
「一輪は…大切だから」
「抜いてやる!」
一輪は、水蜜の首を食って、皮膚が破れるまで噛んだ。血は確かに出て、白無垢さえも、赤く汚すのだが、それは涙と同じで、霊の幻の血液でしかなく、跡も残さず消えてしまった。
一輪の涙のほうは、本当であった。ぼろぼろと泣いて、下にいる水蜜を濡らした。雨のようだった。
一輪は白無垢の帯を無理やり脱がせて、どこかに放り捨てた。彼女は白無垢が左前であったと今さら気がついた。それも挑発だろう。
水蜜は、一輪に指を這わせるとき、長年の仲もあって、それは売女(バイタ)のように慣れた動きであるのに、立場が反転すると、おぼこのように幼く、大人しくなった。痛覚と同じで、性への感覚が鈍いからであった…「私は今から、着たくもない白無垢を着た、この娘(ムスメ)を、遊ぶのか…水蜜はいつも、あの微妙に残った感覚で、私の指に目を細め、身を捩る…こんな風に、歪で痛ましい関係は、駄目なのに、どうして私は、止まらないのだろう」と彼女は急に怒りが消えた。
水蜜の右手が、一輪の左目の涙を拭った。あまりに華奢で細く、棒のような、腕と指。
「一輪」
「何…?」
「この服、凄く嬉しい。幸せ…あんたがいてよかった、死んでよかった」
そう言った水蜜は、本当の、花の咲くような笑顔だった。一輪は、体が蕩けるように思われた。そうして「水蜜、好き、好き、好きなの」とがむしゃらになった。
「どれくらい…?」
「好きで、好きで、狂いそう…」
そんな言葉の交わりは、殆ど水蜜の誘導でしかないのだが、それでも一輪には、いとおしい…外の雨音が、また強さを増して、迂遠にも、なお悶え、ばつばつと屋根を叩く音がする。その音が、一輪の魂の芯のほうに響き、共鳴する。
蝋燭の火が隙間の風に揺らめき、影が二つ、明かりの前でめちゃくちゃに動いた。生と死…肉と霊…明と暗…空と海…そんな風に分かたれている、すべてのあやふやな境界が、壊れて、小刻みの、塵となる。
水蜜のぬるい瞳の闇が、一輪の瞼の、奥の、さらに奥に染み込んで、海の気配が、血管の隅々にまで侵食する…「こんな倒錯は、覚えがない…眩暈で、くらくらする」…どちらが、そう思ったのだろう…「もう、何を、考えればいいのだろう…?」…木片に、彼女はしがみついている。そうして海をたゆたっている。彼女でなくても、ずっと木片に縋ることはできないだろう。ならば、留まらず、流されてしまえ…「甘く、腐ってしまいたい」と、そう思った。
五
水蜜は、白蓮を助けてから、よく眠るようになった。それは規則がなく、一日も、二日も眠り続けたり、五分の場合もある。
地底にいたころ、水蜜は眠らなかった。そんな機能はなかったのだ。
水蜜の眠りが、彼女の成仏に関わっている気がして、一輪は不安で堪らなかった。いつか朝、目が覚めたとき、服を残して、彼女が消えてしまうのではないかと…おかしくはない、彼女は千年の望みを果たしてしまった。白蓮を、救ったのだ。
一輪が水蜜の髪を撫でる、白無垢が乱れていた。
けれども一輪は「成仏しないだろうな」とも、思ってしまうのだ。自分の存在が錨となって、水蜜を縛るからだ。
「私、聖を助けたら成仏するのかな」
地底にいたころ、そんなことを一輪は言われた。彼女は震えて「勝手に消えたら、死んでやる!」と大声で言った。はっとしても、もう遅く、ぽろぽろと泣かれて、彼女も泣いた。雲山が彼女たちを、ぎゅうっと慰めた。
眠りに沈む水蜜からは、潮の香りがする。海の夢を、見るのだろうか…? 命蓮寺のほかの者たちは、その香りが分からないと言った。それは一輪だけの幻香であった。
一輪は眠る水蜜に、海を連想した。白い肌は、砂の浜。唇は鮑(アワビ)、鼻は帆を。髪は海の草、耳は法螺(ホラ)貝。ならば瞼は貝の蓋。中にはきっと、真珠が入っているだろう。
渦の結女 終わり
一
誰にでも、噴火をもたらす逆鱗がある。どれほど柔和な者であっても、そうだろう。度胸と愚かに自信があるなら、例えば聖白蓮の前で、その弟を、どうぞ虚仮(コケ)にするがよい。彼女は和尚であるから、何も殺しはしないだろうが、それ相応の覚悟は必要だろう。
逆鱗の何が厄介か…どこに潜んでいるのか、果たして分からないことだろう。それは弱点でも、争いの種でもあるから、誰しも隠し、故にうっかり、他人に触れられてしまうのである。
「ま、白無垢ったって、私たちもうそんな歳じゃありませんけど」
「千歳だったな、確か」
「大体ですけどねえ」と村紗水蜜は雲居一輪の言葉を補足した。
霧雨魔理沙と一輪が宙空で鉢合わせたのは、今から少し前のことであった。好戦的な癖の強い二者は、流れで弾幕ごっこへと縺れ合って、終わると命蓮寺へと向かっていった。そして水蜜が、その輪の中に加わって、今の姦しさであった。
一輪と一緒にいた雲山だけが、屋根の上でぼうっとしていた。
「魔理沙さんなら、ほら…なんでしたっけね、毛唐の…」
「ウエデング・ドレスじゃないの」
「そうそれ! のほうが似合いますよ、きっと」
「おいおい、なんで私の話になるんだ」
「だってお若いでしょう」
「若いけど、魔女だぜ。そんなの着るかよ」
「でも金髪だし、きっといいですぜ」
「真似すんな!」
人里にある呉服商に、美しい白無垢がある。それは蚕の繭から紡がれた、正真の新品であった。
大抵の里人の女は、婚礼のとき、新品の白無垢を着ることがない。服職は限られているし、ましてや白無垢など、そう多くは織られない。それは共同財産であった…その純白の衣服は、次の婚儀が行われるまでは、着用した女の物になる。無論、汚してはならないので、また着る女はそう多くなかった。
呉服商に飾られたそれは、つまり成金のために存在していた。女たちが羨むその輝きは、今も買い手を待っているのだろう。一輪はその白無垢の眩さと値段に、深く溜め息をついたものだった。
手の届かないそれを、一輪はただ、話題とするばかりである
「村紗にねえ…きっと似合うと思うんですよ」
そう言って、一輪の視線は、少し熱を持った。
水蜜としても「この三人の中なら、確かにそうだろう」と思った。それは何より、日の国らしい、烏のような髪の色のためであった。けれども外見ではそうだとしても、別の観点から考えると、そうではない…「自分には滑稽だ」とも彼女は思った。
一輪にしても、水蜜が「自分には滑稽だ」と考えることは、分かっていて言ったのだ。それは悪意ではなく、いとおしく思うからこそであった。生か、死か、肉か、霊か…そんなことは、関係しない。海の深みのような、彼女の昏い霊魂と、あの白い穢れのない衣装の対比は、想像の中で、途方もなく美しいのだ。
「ふうん、まあ幽霊に白無垢ってのも変な話だ」
水蜜は咄嗟に「まずい」と考えた。魔理沙の軽口は、彼女の「自分には滑稽だ」と謂う想いを代弁していたのだが、そう考えても、絶対に口にしようとは思わなかった。分かるのだ…長年の連れ合いの、敏感な、その逆鱗の位置くらいは。
幼くも、危険な魔法の森で暮らす魔理沙は、とても反射に優れていた。その拳は、半ば本能とか呼ばれている力で動かされた、彼女の右腕に防がれ、顔面には至らなかった。それでもれっきとした妖怪の腕力は途方もなく、彼女は土の上をごろごろと転がった。
地面で朦朧とする魔理沙は、その消えそうな視界の端に、一輪の姿を捉えていた。そうして彼女の悪鬼のような表情に「ああ、あいつ、私を殴ったのか」と考え、次には「なんで、殴ったんだ」と考えられた。
誰にでも、噴火をもたらす逆鱗がある。温厚な一輪でさえ、そうなのだ。そして彼女の逆鱗には、決まって水蜜の陰があるのだった。
二
暑さに疎い水蜜でも、あまりにぎらぎらとしている夏の太陽は、今の気分と反していて、さすがに鬱陶しく思われた。
いくつかの雲が、地底に向かった一輪を想像させた。
今は雲山と、少し前の嵐で破損した屋根の修理をしていた…さなかに水蜜はぽつりと言った。
「…ごめんね」
別に水蜜が悪いわけではないのだが、それでも原因は自分であると、彼女は分かってしまうのだ。
あのあと、気を失った魔理沙は、一輪が永遠亭へと運んでいった。右腕は折れていたが、命の心配はいらなかった。
命蓮寺に戻った一輪は、水蜜に「地底に行ってくる」とだけ言うと、雲山も連れずに姿を消してしまうのだった。もう五日も前のことであった。
「わ…雲山?」
雲山が水蜜の頭を、水兵帽の上からがしがしと撫でた。無口の彼は「謝るな」とでも言いたげな表情であった。一輪もそうであるけれども、彼もまた、確かに千年の仲なのだ。話さずとも、その想いは届いていた。
「ありがとうね」
その想いに感謝して、水蜜は止まっていた腕を動かそうとしたが、急に聞こえた女の声に、彼女の腕はまた止まった。真上からの声であった。声の主は降下してきて、二妖の前でふわふわと留まった。
「よ」
「あら、箒がなくても飛べたんですか」
「当然だ、魔女だからな。らしくないけど、この腕じゃ箒は邪魔だし、まあ妥協だよ」
唐突に現れた魔理沙は、あんなことがあっても変わらずに朗らかであったが、包帯でぐるぐると固定された右腕は痛ましく、水蜜は罪悪の気配に少しの悲しみを覚えた。
「ほら」
魔理沙は当然、そんな水蜜の内心は知れなかった。左手に持っていた一つの大袋を彼女に渡した。
「なんですか」
「茸」
「茸ですか」
「ああ茸だよ」
「なんでまた…」
「なんでって、詫びだよ、詫び…ああ茸しか渡せる物はないんだ、嫌いだったか?」
「詫びって、詫びるのはこっちでしょうに」
「いいんだよ、別に」
魔理沙は宙に浮くのをやめて、屋根に腰を落ち着けて、一つふうっと息を吐いた。
「痛みますか」
「まあ大丈夫だよ、医家が優秀だから」
雲山も今は、腕を止めていた。かんかんと鳴る槌は、もう静かであった。
「あのあと巫女に話が伝わったらしくって、ここに来ましたよ」
「霊夢が?」
「ええ一輪を出せって」
「…そうか」
「殺されるかと思った、死んでるのに」
「ふん…そうだ一輪は? 本当はあいつと話そうと思ってたんだけどな」
「地底ですよ」
「地底? 急だな」
「いえ、私のためでしょう…きっと白無垢を買うお金を稼ぐためです」
魔理沙の驚きは大きかった。
「びっくりでしょう? 軽口の一つであんなに怒るなんて」
一輪は基本として、穏やかな性格をしている。騒ぎが好きなところもあるが、それでも彼女は尼らしく、聡明で明るい。だからこそ彼女は入道を連れていても、里人からの信頼も厚いのだった。
「ずっと前からそうですよ、一輪は。私のことになると、すぐに短気になるんだから」
一輪は自分が何を言われても、怒りを簡単に見せることはない。
地底にいたころ、一輪が命蓮寺を慕っていたことを、馬鹿にする妖怪たちがいた。その妖怪たちは彼女をけなし、あまつさえ寺までも罵倒したが、それでも彼女は平静であった。彼女はただ、自分の信じる道を進むだけ…誰が何を言ったとしても、関係がなかった。しかし、そんな彼女には二つ、絶対に許せないことがあった。それは水蜜を、ひどく言葉で辱めること、悪意を伴う危害を加えること。この二つに、彼女は必ず頭がかあっと熱くなって、相手がどれほど強力であっても、報復を望むのだった。
水蜜には悪癖と感じられたが、それを止めることはできなかった。
「地底にいたころの話ですけど」と水蜜は不意に思い出して「怒って鬼を殴ったことがあるんです」と言ったので、雲山は「懐かしいな」と目を細めた。
「鬼…」
「下っ端も下っ端ですけどね、それでも鬼は鬼。馬鹿ですよ、本当に」
水蜜の頭に浮かぶのは、もう曖昧な鬼の声。ひどい暴言であった。
雲山を無理やり操って戦う一輪は、最後には勝って、けれども血に濡れて痛々しかった。水蜜は理由も分からずに動けなくなって、その喧嘩を眺める観客どものあいだで、ぽろぽろと表情もなく涙が出た。嬉しいような、悲しいような、苦しいような…そんな想いが明滅した。
霊の涙には物質の束縛がない。即座に霧となった。
「悪かったな」
「いいんです、私も白無垢なんて変だって思いますし、実際あのとき思ってました。一輪がきちがいみたいになるから言わないだけ」
「それでも、悪かった」
水蜜は「繊細ね」といじらしく思った。
「お前は?」
「なんです?」
「お前はどうなんだ、一輪が何か言われたら」
「そりゃ、連れですから怒りますけど、そんな、すぐにはかっとなりません、よほどでなければ」
「そうか」
「まあ、ずっと海に閉じ込められてましたから、忍耐には自信があります」
それをきっかけに、話題が変わった。
「海ねえ」
「海がどうかしましたか」
「いや、ただな、知り合いの店の、外の雑誌でしか知らないから」
「ああ…」
「なあ海って実際どんなところだ」
「どうって、暗くて、冷たくて…でも家でもあったし、楽しいことも少しはありましたし…」
「楽しいこと?」
「おっと…」
「なんだ?」
「いえ、別に」
微妙そうな顔をして、水蜜が急に無口になったので、魔理沙は不思議に思った。けれども一つの発想が湧くと、少し口の中が酸っぱくなった。彼女は「殺しだ」と、そう分かった。
急に水蜜と話すのがいやになった。
三
地底は喧嘩が絶えないので、多くの家屋がすぐに壊れる。故に力仕事は山のようにある。
一輪はあの白無垢が売れてしまうかと、働きながらいらいらと気がかりであった。だから働いて、気晴らしに誰かと少し話して、少し寝て、また働いた。鬼気として、半分きちがいの様子だった。
馬鹿らしいことは、一輪も分かっている。それでも彼女は、魔理沙の言葉に悪意がないとしても悔しかった。連れ合いを辱められた気がした。故に実行しなければならなかった…「私の連れは、こんなにも美しくて、花嫁の姿が、似合わない筈がない」と証明しなければ気が済まなかった。
一輪の様子に、何も知らない妖怪の友人たちが、酒や阿片を分けてくれた。彼女はむかむかと無駄に金を使ってしまいそうだったので、とても嬉しく思った。ただ阿片を今の心境で吸うと、本当にきちがいになりそうだったので「戻ったら水蜜と鵺さんに分けよう」と考えた。雲山は頑固なので、吸わなかった。
「水蜜にしたってねえ、反論すりゃあいいのよ…ねえ?」
「そうねえ」
今、一輪は旧都の外、水橋パルスィのところにいて、ひどく酔っていた。短い眠りの前の楽しみであった。
パルスィは殆ど場を動かないので、愚痴を浴びせるサンド・バッグとして丁度だった。お詫びに阿片を渡す一輪であったが、彼女は阿片を吸わないので「そんなの、渡されても困る」と思うばかりであった。彼女は仕方なく、黒谷ヤマメに渡すことにした。
「水蜜が自分で怒るなら、私だって、私だって…」
一輪には、水蜜を言葉で辱めること、悪意を伴う危害を加えることのほかに、まだ腹が立つことがあった。それは彼女が、言葉で辱められても、何も言わないこと、当然のように受け入れること…それは視点を変えれば、自己の卑下にほかならなかった。そんな彼女が悲しくて、哀れで、自分を痛めつけるようで、不愉快だった。そして「考えかたを変えてほしい」と思ってしまう自分は、浅ましく、さらに不愉快に思われた。
「魔理沙さんに謝らなきゃ、帰ったらさ…くそ、くそ、くそ、面白くないことばっかり、ぐす、死んじゃいたい、私は馬鹿よ、屑みたい…もうお酒ないわ、パルスィ」
「持ってないわよ」
一輪が急にわあわあと泣いた。広い洞窟にどこまでも響いた。
「水蜜、ここに来てるでしょ?」
「さあ?」とパルスィは一輪を刺激しないように注意して答えた。
「知ってるんだから、知ってるんだから。あいつ、血の池でしょう、血の池の味が忘れられないんでしょう、分かるんだから、血の臭いで」
くたりと一輪は地に倒れた。
「私の血を飲めばいいのに」
さすがに白々と聞いていたパルスィも、ぎょっとしたが、一輪はついに眠ってしまって、もう静かだった。
しばらく静寂で洞窟は暗くなった。すうすうとパルスィの耳に息が聞こえていた。そこに一妖の虫が現れた。
「やアやア静かになりましたな」
「こっちはふざける気力もないわ」
ヤマメはにやにやと笑った。そうして一輪に触れて、酒の毒を抜いていった。力のちょっとした応用であった。
「最近はいつもここに来るね」
「鬱陶しいからやめてほしい」
「あんたがむっつりしてるから、話す相手にいいんでしょ」
「ふん、別にこいつ、今は話す相手なんて誰だっていいのよ。ただ、どうもいらいらして聞いてもらえないと気が済まないだけ」
ヤマメは終えると、立っているパルスィの横に座った。
「白無垢ね」
「聞いてたのね」
「あれだけの声じゃねえ」
「馬鹿らしい、妬ましいじゃなくて」
「嘘。妬ましい、でしょ」
「…何が」
「あんたにそんな絆はないもんね」
「ふん、妖怪なんて、みんなそうでしょう。二人は元人間だから…」と言葉を切って「千年も同じ相手を焦がれるなんて、狂ってる」
「そうかもね、でも美しいよ。あんたが妬むなら、美しいに決まってる」
ヤマメは一輪を眺めた。
「一輪が鬼と喧嘩したの、覚えてる?」
「知ってる、噂でね。勝ったらしいじゃない」
「じゃあ、鬼どもが報復しようとしたのは」
それは、一輪が喧嘩に勝ち、少し経ってからのことであった。その鬼は仲間を連れて、彼女を穢そうとして、失敗した。彼女の飛ぶ速度が、鬼より速かったことが幸いした。
伊吹萃香は「鬼は嘘をつかない」とか「鬼は卑怯が嫌いだ」と言うけれども、そんな者は、鬼にさえ少しはいるものだ。
「それも知ってる、でも失敗してそれで…どこかに消えた。村紗が殺したんだって、みんなは言ってたけど…」
「それさ、本当だよ。多分、知ってるのは私だけ」
パルスィはぞくりとして、一輪を見たが、起きてはいなかった。
「村紗が鬼を沈めているのを見たんだよ」
人気者のヤマメでも、誰もいない場所で、静かにしたいこともある。地底にある川の、下流の岩場。その裏が、彼女の気に入るところであった。
ばしゃばしゃと鳴る音で、ヤマメを眠りから覚ましたのは、川で溺れる鬼であった。一つ、二つ、三つ、四つ…頭が見えた。それを水蜜が三角座りで眺めていた。
鬼たちは、完全に沈んでも、少し経つと、また浮いてきた。そうして、また沈んでいった。そんなことが何度も続いて、永遠のようだった。
そのうち、一つの鬼が宙に浮いた。と謂うより、水の縄が鬼を絡めて、吊るしていた…そのあとのことを、ヤマメは忘れない。体のすべて、穴に水が入り込んで、最後には爆裂する、鬼の肉。花火のようだった。
「一輪!」
ヤマメが不意に名を呼んで、一輪を起こした。彼女は疲れていて、ぼうっとしたが、なんとか呼び声のほうを見た。
「…ヤマメ?」
「そおよ、おはよ」
「またお酒、抜いてくれたのね、ありがと」
「いいよ、それよりさ」
ヤマメはごそごそと袋を取り出した。じゃらりと鳴って、いかにも金色の響きであった。
「持っていきなよ」
あまりに唐突で、一輪は目が丸くなった。
「見てらんないから、貸してあげる。どんなに高くても、それだけあれば大丈夫でしょう?」
「でも…」
「自分の金で買いたいんでしょ。でもね、売れちゃってたら意味ないでしょ。そうなったら、いよいよ今より馬鹿だよ」
一輪はまた泣き出しそうになって、けれども「倍にして返すから」と、ぎゅうっと抱き締めた。倍にして返すのは、決してヤマメのためではない。それが自分の金で買えない故の、彼女の妥協点であった。
「期待してるよ」
「うん。ヤマメ、みんなに私が帰ったって、伝えてくれない?」
「いいよ」
「ありがとう、本当に」
ヤマメも、それが一輪の妥協点であると察して、断ることはなかった。
「さっさと帰りなさい」
「うん、ありがとね、パルスィ…あと、ごめんなさい」
一輪は、疲れが嘘のように消えた気がして、天狗のごとく飛んでいった。その風がなくなると、ヤマメがぼんやりと言った。
「いじらしいねえ」
「そうね」
「あの幽霊の何がいいんだか」
「何よ、鬼を少し殺しただけでしょう。それに女を犯そうとする鬼なんて、死んで清々する」
「別に私だって、鬼はどうでもいいよ、ただ…」
ヤマメが俯いた。
「ただ、村紗が、とても怖ろしかったから…」
「ヤマメ?」
「人の中には闇がある、そうは思わない」
血の花と消えた鬼よりも、ヤマメの脳裏に揺らめき残るのは、ひいっと声が漏れたとき、ぐるりと向いた水蜜の瞳。
霊には特有の気配がある、目の色がある。死んだ者の瞳の中には明るい命の光がなく、重みがない…筈なのに、誰かの命を遊ぶ水蜜には、切り離された肉体の、腐れた生命の残り火が見えた。その火は瞳の中心に宿り、辺りの緑の虹彩が、這う虫のように、灯った火を消そうと蠢くのだ。
河童、天狗、鬼…妖怪のすべては、人間の想いと、闇の中から現れる。それは、けれども、ひり出された破片だろう…「なら、その大本は? 人の心は…私たちより、闇じゃないのか」と、ヤマメは体の芯から動けなくなった。そんな彼女に水蜜は関心もなく、別の鬼がまた血の花となったとき、彼女の体はようやく動いた。飛ぶことも忘れて、ただ走った。
惨い殺しなど、ヤマメにさえ、簡単にできる。そんなことには怯えない。水蜜の剥き出しの、海の底の、光の届かない闇…そして、殺しの中でだけ、微かに戻る、生の気配。
ヤマメは、確かに“生きている霊”を見た。
「寺にいるなんて笑わせる。あいつが殺しを、反省なんて、しているものか」
他を殺めることで、足が地に着く。血の池を啜れば、生きる感覚を得る。大切なものが、完全に戻る筈はないのだけれど。
四
打掛、掛下、帯、小物…すべて紙箱に入っていた。
地上に帰って、一輪が呉服商のところへ急いで着くと、白無垢は、まだ残っていた。押しつけるように金を払って、何かに詰めるよう催促した。
雲が斜陽を隠していて、一輪が命蓮寺に帰るさなかに、雨が降ってきた。苦々しくも、寺にはまだ少し距離があった。近くの杉と自分の体で、彼女は紙箱を守るほかなかった。
空から滴り落ちる水は、一輪をけなすように、なおさら勢い強くなって、冷酷に肩を濡らしていった。彼女は「海の中よりは、いいだろう」と自分を鼓舞して、けれども辺りが段々と暗くなり、それでも夏のぬるい音は一向に終わらないので、枝から降りる水が、もう全身を叩いてしまったころ、彼女は前に屈んで歩いていった。なぜか、飛ぼうとしなかった。自分の足で水蜜のところに行くことに、祝うような神秘を覚えた。
水蜜の室と一輪の室は、ほかの命蓮寺の者たちと、少し離れている。白蓮は彼女たちが夜に鳴くことを許した。戒律よりも、絆のほうが大切だったのだ。しかし、彼女たちの仲が、地底に封印される前より歪(イビツ)になっていることには、無頓着であった。彼女は“惚れた腫れた”に疎かった。彼女よりも、寅丸星よりも、長い仲の雲山や封獣ぬえと、人心にとても敏感な二ッ岩マミゾウが、彼女たちの歪みを知っていた。幽谷響子には勿論、分からないが、あまり命蓮寺に顔を見せないナズーリンは鋭かった。
からからと水蜜の室の戸が鳴った。蝋燭(ロウソク)の赤が灯っていた。雨を聴いていたようで、畳の上に足を緩めていた。
「おかえり」
「うん…」
「どうしたの、入ったら」
「畳、濡れるから」
「そんなの、別にいいでしょう」
そう水蜜が言ったので、一輪はひたひたと畳を踏んで、彼女の前に立った。
両手に持った紙箱がひどく濡れていた。
「魔理沙さんが来たよ」
「そう」
「あと、巫女も。謝りなさいよ、一輪」
「村紗、これ」と言って、一輪は紙箱を渡すのだが、濡れた冷たさよりも、別の要因で手が震えた。
水蜜は紙箱の蓋を動かした。中の白無垢は、あまり水っぽくはなかった。
水蜜はしばらく何も言わなかったが、沈黙が経ってから、にこりとした。
「一輪さあ、死人にこれを着せてどうしたいの」
一輪は怒りで心臓が止まりそうになった。自分の必死の想いを、軽んじられた。
水蜜は白無垢のために必死になった一輪をいとおしく思い、憎らしいとも思った。死人に白無垢を、そんな惨めな格好を望む彼女が、愉快ではなかった。だから、そうして煽って、彼女の火に闇を灯した。
「村紗、着て…着てよ」
「うん、いいよ」
水蜜は戸のほうを向いた。
「待ってて」
「ううん、見てるから。それに、一人じゃ着られないでしょう」
「ああ、そうね」
水蜜は着ていた襦袢(ジュバン)を脱いで、横に捨てた。
「下は? 脱いでほしい?」
「うん」
「分かった」
するすると、水蜜は白い肌だけになった。毛唐よりも白く、しかし死人のその色は、一輪には蝋燭の明かりで光って見えた。
髪は今、整えられないので、打掛と、掛下と、帯を着せた。水蜜だけで充分な程度であった。それだけでは、目には何か白ばかりで、面白くなかった。一輪は唇を噛んで、血を流して、彼女の唇に塗りたくった。白すぎる白と、赤すぎる赤の対照は、曼珠沙華のようだった。
「どうかなあ」
水蜜は手を広げて、笑顔だった。一輪が思ったように、美しかった。途方もなく…優雅な鶴のようだった。彼女は連れ合いの仕草に、顔を赤く染めた。
「いい、凄くいいよ、村紗」
「一輪、一輪」
「何?」
「それで? どうするの」
「どうって…」
その刹那だった。水蜜は白無垢の袖を使って、唇の血を拭い、さらに笑った。
一輪の息が止まった。頭を石で殴られる思いがした。
「死人にさ、こんなの着せて、いつもより、欲情でもしているものかな」
畳に何か、叩きつけられる音がした。水蜜は少しも痛くなかった。痛覚など、もう鈍かった。一輪の両手が、彼女の手首をぎりぎりと拘束した。そうして、互いの顔が近くなった。
血の拭われた唇が青白く、死人と等しかった。
「あんた、その口で血を飲んでるの…私のは!」
「一輪は…大切だから」
「抜いてやる!」
一輪は、水蜜の首を食って、皮膚が破れるまで噛んだ。血は確かに出て、白無垢さえも、赤く汚すのだが、それは涙と同じで、霊の幻の血液でしかなく、跡も残さず消えてしまった。
一輪の涙のほうは、本当であった。ぼろぼろと泣いて、下にいる水蜜を濡らした。雨のようだった。
一輪は白無垢の帯を無理やり脱がせて、どこかに放り捨てた。彼女は白無垢が左前であったと今さら気がついた。それも挑発だろう。
水蜜は、一輪に指を這わせるとき、長年の仲もあって、それは売女(バイタ)のように慣れた動きであるのに、立場が反転すると、おぼこのように幼く、大人しくなった。痛覚と同じで、性への感覚が鈍いからであった…「私は今から、着たくもない白無垢を着た、この娘(ムスメ)を、遊ぶのか…水蜜はいつも、あの微妙に残った感覚で、私の指に目を細め、身を捩る…こんな風に、歪で痛ましい関係は、駄目なのに、どうして私は、止まらないのだろう」と彼女は急に怒りが消えた。
水蜜の右手が、一輪の左目の涙を拭った。あまりに華奢で細く、棒のような、腕と指。
「一輪」
「何…?」
「この服、凄く嬉しい。幸せ…あんたがいてよかった、死んでよかった」
そう言った水蜜は、本当の、花の咲くような笑顔だった。一輪は、体が蕩けるように思われた。そうして「水蜜、好き、好き、好きなの」とがむしゃらになった。
「どれくらい…?」
「好きで、好きで、狂いそう…」
そんな言葉の交わりは、殆ど水蜜の誘導でしかないのだが、それでも一輪には、いとおしい…外の雨音が、また強さを増して、迂遠にも、なお悶え、ばつばつと屋根を叩く音がする。その音が、一輪の魂の芯のほうに響き、共鳴する。
蝋燭の火が隙間の風に揺らめき、影が二つ、明かりの前でめちゃくちゃに動いた。生と死…肉と霊…明と暗…空と海…そんな風に分かたれている、すべてのあやふやな境界が、壊れて、小刻みの、塵となる。
水蜜のぬるい瞳の闇が、一輪の瞼の、奥の、さらに奥に染み込んで、海の気配が、血管の隅々にまで侵食する…「こんな倒錯は、覚えがない…眩暈で、くらくらする」…どちらが、そう思ったのだろう…「もう、何を、考えればいいのだろう…?」…木片に、彼女はしがみついている。そうして海をたゆたっている。彼女でなくても、ずっと木片に縋ることはできないだろう。ならば、留まらず、流されてしまえ…「甘く、腐ってしまいたい」と、そう思った。
五
水蜜は、白蓮を助けてから、よく眠るようになった。それは規則がなく、一日も、二日も眠り続けたり、五分の場合もある。
地底にいたころ、水蜜は眠らなかった。そんな機能はなかったのだ。
水蜜の眠りが、彼女の成仏に関わっている気がして、一輪は不安で堪らなかった。いつか朝、目が覚めたとき、服を残して、彼女が消えてしまうのではないかと…おかしくはない、彼女は千年の望みを果たしてしまった。白蓮を、救ったのだ。
一輪が水蜜の髪を撫でる、白無垢が乱れていた。
けれども一輪は「成仏しないだろうな」とも、思ってしまうのだ。自分の存在が錨となって、水蜜を縛るからだ。
「私、聖を助けたら成仏するのかな」
地底にいたころ、そんなことを一輪は言われた。彼女は震えて「勝手に消えたら、死んでやる!」と大声で言った。はっとしても、もう遅く、ぽろぽろと泣かれて、彼女も泣いた。雲山が彼女たちを、ぎゅうっと慰めた。
眠りに沈む水蜜からは、潮の香りがする。海の夢を、見るのだろうか…? 命蓮寺のほかの者たちは、その香りが分からないと言った。それは一輪だけの幻香であった。
一輪は眠る水蜜に、海を連想した。白い肌は、砂の浜。唇は鮑(アワビ)、鼻は帆を。髪は海の草、耳は法螺(ホラ)貝。ならば瞼は貝の蓋。中にはきっと、真珠が入っているだろう。
渦の結女 終わり
「愛(いと)おしい」のことですか?
あと、最後の締めがとてもいい。その真珠が2人の幸せに光れば、尚とてもいい。
表現力もさることながら、この文体がすんばらしい。
なので、もっと地の文多めで小説みたいにしても良いんじゃないでしょうか。
重いテーマながらも嫌らしさをそう強く感じずよかったです。
楽しみをこぼす村紗とそれを悟ってしまう魔理沙のらしさがもうツボでした
感情的な一輪は個人的に新鮮で、ふたりの間柄や妖怪(幽霊)として抱えた本質に度々にぞくりとくるものがありました
秘められることもない痴情とその積み重ねに果たして客観的に見たふたりの実情や距離感が、文中から頭や体に染み込んでくるこの感覚はなかなか得られないものだと感ずるだけに、ほんとにもうたまりません
いや楽しませてもらいました、100点じゃ物足りないくらいです
よき時間をありがとうございました