Coolier - 新生・東方創想話

穢ノ対価

2017/04/06 08:53:05
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 老いた猪が、深い霧が満ちる森の中を歩いていた。

 悠然と闊歩するその身体は人間よりも遥かに大きく、巨大な岩かと見紛うだろう。また、木々たちもまるで彼を避けるように、その道を阻むものはなく、ゆっくりと少しづつ、彼は森を進み続ける。
 やがて霧の中からそれより小さな、しかし人よりはまだ大きい若猪が、まるで幽鬼のように現れ、彼の横、後ろへと連なった。
 一匹、二匹、三匹と数は増え続け、それらは大河となって森を征く。
 森は静かに、そして為されるがままに、彼らの蹄痕を地面に受け入れ続けた。


 
   一

「狩りに行きましょう」

 幻想郷、第一三一季、二月。
 紅魔館・本館二階、三番目の応接室にて。
 革張りの高級ソファに腰掛ける八雲紫がそう告げて、手に持っていた扇子を開いて口元を隠し、雲すらも分かつような鋭い目を向けた。
 それを受けたのは紅魔館当主の吸血鬼、レミリア・スカーレット。
 背筋を曲げて顔を突き出し、荒々しい刃のごとき目が八雲紫を迎え撃つ。

「……人間を、か?」
「いえ猪を」

 と、そんな紫の回答を聞いた途端、レミリアは剣呑な空気を霧散させてしまう。
 彼女は背筋をソファの背もたれに預けて失笑を浮かべた。

「はは、妖怪の大賢者ともあろう方がその歳でハンティングに目覚めたの? いい趣味だと認めたいところだけど、少しはお年を考えたらどう? せいぜい弱った足腰には気をつけるんだね! ははは!」

 余程気に入ったのか、手を叩いてそれを笑うようになったレミリアに、紫は気にせず微笑み返す。

「私は行きませんわ、返り血を浴びるような野蛮な行為なんて。でも何処かの貴族様はそういう行為をステータスだと思ってるみたいだけど……ねぇ、〝血塗れのお嬢ちゃん(ミス・スカーレット)〟?」
「咲夜、この客人には紅茶の代わりに熱湯をくれてやりな。茹でダコにするくらいのあつ~いやつをさ」
「嫌ですわお嬢様。この賢者様は煮ても食べれませんよ」

 そこで、少々の沈黙が訪れる。皮肉の応酬に一区切りが着く。

「……もちろん貴女の参加も期待していません。というより望みません。私が望むのは、そこのメイドさんもしくは門番さんの参加です」
「咲夜か美鈴? なんでまた?」
「貴女ぐらいの輩に、あまり大仰に暴れられても困るのです。まだあの区画は結界内に併呑したばかりで不安定なので。人間か、もしくはそれに近い形で動ける、制御の効く駒が欲しい」
「ん? 待て、併呑した区画だと?」

 レミリアは再び腰を折って、八雲紫の表情を射抜く目つきとなった。

「あぁそうか分かったぞ、お前の狙いが。要するにその場所を〝掃除〟して欲しいんだな?」
「飾らず言えばそうなります」

 するともう、レミリアの態度は呆れを通り越して最悪となった。
 わざとらしい大仰な溜息まで吐いて、疲れたようにソファにかけてどこでもない場所を睥睨する。彼女の興味が完全に失せていた。

「咲夜、客人がお帰りになる。見送りは適当でいい、土産もいらないだろうよ」
「あら冷たい。まだ話すべきことは有りますのに」
「その話が私の関心に触れるっていうのなら言ってみな。ただしつまらなかった場合は、アンタの眉間に私の槍をプレゼントだ」
「神の……」

 レミリアの眉が、ぴくりと反応する。
 紫がパチンと扇子を小気味よく閉じて、まるで花が咲くような温かい笑みを浮かべて言う。

「神様の肉を、食べてみたくはありませんか?」

 十六夜咲夜はそれを見ていた。片時も瞬きすることなく。
 主、レミリア・スカーレットの顔が歓喜に満ち満ちていく、その様を。



   二

「というわけで行って来い」

 八雲紫との会談から一時間後、紅魔館・本館三階、レミリア・スカーレットの執務室にて。
 レミリアの命令は、そのまままっすぐに紅美鈴にふっかけられた。
 美鈴は心の底から浮かんだ嫌そうな表情をまず消して、なけなしの忠誠心を絞り出し、愛想のいい笑みを薄く貼り付けてから答える。

「嫌です」
「えーなんでなんで!? だって神様の肉だよ!? 絶対美味いって! 珍味だよ珍味!」

 駄々をこね始める主に、やはり心底嫌そうな顔を再び浮かべて美鈴は視線を方々にやる。
 おおよその経緯は聞いた。
 〝新たに併呑された区画〟〝掃除〟〝狩り〟〝猪〟それに〝神〟。
 聞いただけでも胃凭れが起きるような素敵な単語たちに、さすがの楽天暢気・紅美鈴もそれを手放しで笑えはしなかった。 
 
「だってー、猪ってめちゃくちゃしぶといじゃないですか~。死体は重いし、肉は獣臭いし(まぁそれはそれで好きなんですけど)……しかも神って! どう考えたって狩りの範疇で収まらないでしょう!」

 神殺し。
 あぁなんたる甘美な響きだろうか。
 空から零れ堕ち、地べたを這いずり泥を啜る妖怪が、天に神に弓を引く。
 夜、魔、外道の類なら、その行為が何を意味するものか骨身に滲みて解ってる。
 本能が告げるだろう。憎め、殺せ、食らえ、そして権能を奪うのだと。
 それが悪党の最高の名誉だと、馬鹿のように信じ込んで。

「大丈夫だって! 話じゃ神格化した個体は一匹で、しかも年寄りらしいよ? 首をくいっと回してやれば終わるって!」
「年寄り!? 絶対美味しくないですよそんな肉!」
「天然熟成したイイ肉だと私は思うなぁ?」
「熟成し過ぎてもはや腐敗してるレベルだと私は思います!」
「アンタだって退屈な門番より身体を動かしてるほうが好きでしょ!? 乾いた人生にも潤いが必要なんじゃないかしら!?」
「ずいぶんと血生臭そうな潤いじゃありませんかねぇ!? 私は吸血鬼じゃないんですけど!」

 押し問答は五分ほど続いた。
 だがそうやってどんなに言い返していても、レミリアが意見を変えないことを、美鈴は骨身に染みて分かっていた。
 それでも拒絶したいと思ってしまう所が、考える者の愚かしい部分である。

「とにかく行ってきて! 成功すれば珍味も食べれてあの賢者に恩を売れるんだから! これは二重の意味で美味い仕事よ! 決行は明日! 早朝に迎えが来るからもう寝なさい!」

 と、そんな締めの文句で粘っていた美鈴が折れ、一人肩を落として自室へと去った。
 レミリアはその後、咲夜に改めて一杯の紅茶を淹れさせる。アッサムのミルクティーだ。
 それは期待に高ぶった精神を穏やかに静めてくれる。

「お嬢様、どうして私では駄目なのですか? 掃除は得意ですけど」

 淹れ終えた咲夜がそう尋ねると、レミリアは彼女を呆れた顔を向けた。「おいおいそんなことも分からないのか」という風に。

「八雲紫がどうして狩りに行きたがらなかったか、分かる?」
「……手を汚したくないからでは?」
「面倒だからよ。そもそも今は二月、あの冬眠妖怪が起きていて、うちにやってくる事自体がおかしい。それほどに状況は逼迫しているのか? いやそこは問題じゃない。だが懸念すべきは賢者が増員をお願いするほど面倒だと思っていることで、つまりそれはこの件が一日やそこらで終わるものじゃないかもしれないということよ」
 
 レミリアは咲夜が納得するしないに構わず、話を続けていく。

「加えてアイツは区画が不安定とか言っていたでしょ? もしも何かの弾みでそこが切り離されたりしたら危ないし、猪ってのも意外と力が強くて相手が面倒なのよ。神様を殺すってのも妙な話じゃないか。大方群れの意志が生み出した出来損ないなんだろうけど、そういう輩を殺すってのは人間たちも忌避する。酷い恨みを買うし、より濃い穢れを浴びるからね。だから、人間の咲夜にやらせるわけには行かないのさ」

 妖怪ならいいのだろうか、と咲夜は疑問に思った。
 レミリアは紅茶を飲んで話を締めくくる。

「それに咲夜がいなくなったら、こうして落ち着くためのミルクティーも飲めやしない。期待は高まるばかりなのにさ。私にそんな二重苦を受けろっていうの? 冗談でしょ」

 手のひらを上に向けて、やれやれという風に肩を竦めて吸血鬼は笑う。

「ま、咲夜は美味い猪肉の料理を考えておいてよ。私は鍋とかいいと思うなぁ。神様とかいう下らない存在の獣肉が、地に生える根菜と一緒くたになって煮込まれるなんて最高のジョークじゃん!」

 そのジョークを咲夜が理解することはなかったが、とりあえず咲夜は「はい」と頷いた。



 その夜、灯りの落ちた紅魔館の中庭で、美鈴が武術の套路を行っている姿を咲夜は偶然発見する。
 その套路が、普段行うものと違うことを咲夜はすぐに察した。
 窓縁に肘をついて、ぼんやりとそれを眺める。
 型や速度、そして美鈴の表情と纏う雰囲気がいつもの物ではなく、まるで何かの儀式をしているような、張り詰める気配が彼女に宿っていた。
 月光が作る影を相手取るような、神秘的だが何処か恐ろしさの宿るダンス。
 なんだかんだ文句を言いつつも、彼女もやる気になっているのだろう。
 咲夜は陶酔に近い感情を持って、しばらくそれを鑑賞し続けた。



   三

 明朝六時、空が白んできた頃。
 八雲紫の遣い、一人の式神が紅魔館を訪れた。

「や、門番殿」
「これは金毛九尾の式様。おはようございます」

 言わずと知れた賢者の右腕、八雲藍である。
 話ではどうやら、現場までは彼女が案内してくれるとのこと。
 世間話を経て、美鈴は準備していたバックパックを背負う。

「美鈴、これ」

 見送りに来ていた咲夜が笹で包まれたおにぎりを美鈴に手渡した。
 お昼用のお弁当も手に入れて、準備は万端だ。

「有難うございます咲夜さん」
「忘れ物はない? 水筒は持った? 手ぬぐいは?」
「いやいや子供じゃないんですから……」

 藍がスキマを開いてその中へと入った。バッグを背負い直して、美鈴もそれに続く。

「じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 スキマが閉じて美鈴の姿が見えなくなる。
 それから咲夜は踵を返して食堂へと向かった。いつも通り彼女の仕事が始まるのだ。
 少し違うのはお昼ごはんが少なくなることと、頭の片隅に猪料理の情報が並べられていくくらいだった。



 どこまでも続くような黒い三次元空間を、美鈴は藍に連れられて歩いていく。
 空間には目の模様が浮かび(厚みのない二次元的存在で一見壁に描かれているようだが、どれだけ視点が動いても遠近感が変わらないおかしな物)、その瞳が時たま動いて美鈴を見つめてきた。
 気味が悪いので、美鈴は極力目を合わせないようにする。

「酷い空間ですね、居るだけでおかしくなりそう」
「私も同意見だよ、もしも取り残されたらと思うと気が気じゃない」
「能力は使用者に似るってことね」

 不気味で、悍しくて、他者を不安にさせる――それが八雲紫のキャラクター。それを表す隙間空間。
 他愛無い会話をしながら(基本主人の愚痴)、二人は歩き続ける。
 
「それにしても、意外と歩くんですねぇ。スキマの入り口と出口って、もっと短いものかと思ってました」
「短くすることも出来るけどね。まぁ、これは時間稼ぎなのよ」

 訝しみ、目を細める美鈴。
 藍はすぐさま応えるように、後ろにいる美鈴にも見える位置で右人差し指を立てた。
 美鈴は思わずそれを注視してしまう。

「これから行く場所について、いくつか注意することがある」

 そういって指を振る。その言い方や仕草は、教師じみた雰囲気と手慣れさを思わせた。

「まず――これは私見的な言葉だが――これから先、恐らくお前は何もしなくて良いだろう」
「……と言いますと?」
「これは行けば分かる。次に、不用意に遠出をしない方がいいだろう。紫様ももう伝えているだろうが、今回の現場は新たに結界内に併呑した区画で、外との区切りがあやふやな部分が多い。歪みに巻き込まれて外界へ弾き出されると、少し面倒だ」
「スキマを繋げてくれれば戻れるのでは?」
「行き先がランダムなんだよ。さすがの紫様でも外界の何処にいるかまでは察知できない。とにかく歪みはバシルーラみたいなものだから気をつけてくれ」
「バシルーラって……なんでドラクエ……」
「それから最後に」

 ここの言葉だけは、やけに念を押す強い口調であった。

「余計な事を口にするな。どこで誰が聞いているか分からない。沈黙は金だろう?」
「……ふぅん。それはまたなんというか、穏やかでもない話のようで」

 藍が足を止め、それから振り返って美鈴に笑顔を向けた。
 それは薄い笑みの下に妖怪としての本性を滲ませる物だった。
 ゆらりと舌の代わりに舐めずるように、藍の尻尾が左右に揺れる。

「穏やかなものさ、表面上はね」
「だからそれを荒立てるなと?」
「その通り」

 言い終え、藍から妖怪の気配は霧散した。
 美鈴は少し考え込む。この式が何故こんな注意をしてくるのか、未だに掴めきれていない。
 だがやがて訪れるかもしれない危機の予感に、僅かに身と心を引き締めた。
 
「それから紫様から、もしお前が狩りに出る場合の伝言を預かっている」

 そのままの笑顔で彼女は言う。

「『貴女の人生にささやかな水を与えましょう』――だそうだ」
 
 美鈴は、レミリアにも似たような言葉をかけられた事を思い出した。
 そんなに自分は乾いているように見えるのだろうか?
 心配になって頬に触れてみるが、そこには皺一つない肌があるだけだった。



「ここだ」

 しばらくして藍が足を止めた。スキマを開いてその中へ踏み込んでいく。
 スキマから外の冷たい空気が一気に吹き込んできて、美鈴は外の温度、光と匂いを知覚する。
 胸いっぱいに息を吸い込んで、藍に続いてスキマの外へと踏み出した。

「……あれ?」

 美鈴たちは切り立った岩山の上に出た。
 周りを見渡すと同じように突き出た一枚岩の山がまるで一本角のようにいくつも聳え、その下には緑色の葉を旺盛に茂らせる樹海が広がっている。
 その光景は中国にある仙界や仙境を思わせて、美鈴は少し懐かしい気分になった。
 だが問題はそこではない。
 美鈴は藍に問う。

「あれは……?」
「〝白狼天狗〟たちの野営地だ」

 答えを聞いた瞬間、美鈴は八雲紫がどうして自分を指名したのか、そして藍が何故先ほどのような忠告をしたのかをおおよそ察してしまった。
 そして心底現状を嫌悪し、眉間に何十にもシワが寄るような苦み極まる表情を浮かべてしまう。

 美鈴が見る先、少し離れた岩山の頂上に、いくつかの白くて大きなテントが見える。

 付近で煙が立ち上り、幕で囲われ、幾人もの白狼天狗が歩き回っていた。
 それがまさしく彼女たちの〝城〟であることは、誰の目にも明らかなことだった。



   四

 美鈴たちがその野営地に飛びながら近づいていくと、にわかに慌ただしい気配が生まれて、幾人かの白狼天狗たちが二人を出迎えてきた。

「賢者の式様。お待ちしておりました」
「うむ。伝えていた通り、こちらが紅魔館の紅美鈴殿だ」

 紹介に預かり、美鈴が手を上げて「よろしく」と軽い会釈をする。
 が、白狼天狗は案の定それに応えることがなく、さっと嫌そうな目を一瞬だけ向けられてしまう。実に排他的な天狗らしい態度だ。美鈴は覚悟していたので気にしない。

「ではあとは任せた。私はこれで失礼するよ」
「あれ、帰っちゃうの?」

 美鈴からしてみれば、こんな敵地みたいな場所のど真ん中に置き去りにされるというのはなんというか酷く無情なことであり、是が非でもこの金毛九尾には残ってもらいたいし残ってくれるというのが人情であると思うのだが。
 藍はそんなことなど露ほども気にかけない、むしろ全てを分かっていて面白がっている風ですらいる清々しい笑顔を浮かべて告げる。

「ま、せいぜい息抜きしてくれ給えよ」

 スキマに消える非情な雌狐を睨み続ける美鈴だった。
 仲介役の式神が消えたことで、美鈴と白狼天狗たちの間に重苦しい沈黙の幕が下りる。

 そもそも実は、白狼天狗と紅魔館は少しばかり折り合いが悪い。

 吸血鬼異変にて天狗共と一悶着があり、それが尾を引いているのだ。
 排他的うんぬんを除いても、紅魔館の従業員である美鈴が彼女たちに歓迎されるはずがなかった。

「はぁ……それで、私はどうすればいいの?」

 取り敢えず、流れに身を任せようと白狼たちにそう尋ねる美鈴。
 彼女たちは言葉を交わさず、視線だけで何か意志疎通をし、一人が首を振るともう一人が陣地へと戻っていった。
 少しして、どこかで見たことのある顔の白狼天狗が連れてこられる。

「あ、紅美鈴じゃないか」
「こんにちは」

 やってきたのは犬走椛であった。
 一応、彼女は美鈴の顔見知りだった。彼女は最近射命丸のお供をし、他種族の集まる合同の宴会に顔を出している。
 そこで、二~三言だけ軽く会話をしたことがあった。

「よし。あとは私が引き継ぐから」

 他の白狼天狗たちはニヤニヤと嫌らしい笑みで頷き、陣へと戻っていく。
 残された椛が「はぁ……」と重い溜息を吐いて、美鈴は思わずムッと眉間にシワを寄せた。

「会って早々溜息って、そりゃちょっと非道いんじゃない?」
「吐きたくもなるさ溜息の一つくらい。見たでしょ、あいつらの顔。これからもうんざりするくらい見なくちゃならないし。溜息くらい吐かないとやってられないよ」
「嫌な感じでしたねぇ」
「まったくだ。最近じゃもっぱら、こういう余所者との交渉が私ばかりに押しつけられる。私を便利な窓口か何かだと勘違いしてるのよあいつら。それもこれも、あの傍迷惑な烏天狗の所為だけど」

 あの烏天狗とは言わずもがな射命丸文のことである。
 彼女によって椛は妖怪の山の外へと連れ出され、そして他種族との交流に優れると勝手に思われ、そういうポジションに置かれてしまったのだろう。
 恨み事の一つも言いたくなる気持ちは美鈴にも分かった。

「それで自分たちは優雅に狩りに出る……私なんてここに来てずっと巡回させられているんだ。私だって、私だって狩りに出たいのに……」
「出ればいいじゃない」
「お前が狩りの終わりまでじっとしているなら、私は喜んで行くよ」

 疑いの目を掛けてくる椛だが、美鈴としてはじっとしているつもりなのでどうぞどうぞ、という感じである。

「取り敢えず、ついてこい」

 椛が先導して、白狼天狗たちの陣へと降り立つ。
 余所者の美鈴に奇異警戒の視線が浴びせられるが、美鈴はそれを無視して椛に追従するだけだ。
 さらっと天狗の陣を見渡す。どこも同じような四角く白いテントがずらずら並べられている。

「それで私はどうすればいいの?」
「賢者の式から聞いていないか? この狩りが終わるまではこの陣を拠点にしてもらう。我々の預かりという形だ」

 狩りが終わるまで――つまり、神殺しが済むまで。
 あまりに先の話な気がして、美鈴は目の前が真っ暗になる。
 誤魔化すように首を振って、辺りをきょろきょろと見回してみる。

「かなり広い陣を敷いてますね。ここにはどれくらいの天狗が?」
「白狼天狗のみで私を含めて三十二人。一個小隊でこの宿営地を使っている」
「狩りは何日目? 順調?」
「五日目だ。今のところ被害なし、すでに十六頭は狩っているよ」

 聞いている内に、二人は陣の外れの方へとやってくる。
 そこには一つ、仲間はずれのように他の物と離された大きめのテントが張られていた。

「ここがお前に過ごしてもらう天幕になる」

 テントの中は質素で一枚の絨毯とランタン、それにいくつかのキャンピング用品みたいなものが、一〇人位は寛げそうなスペースにぽつぽつ置かれている寂しい物だった。

「ベッドは……さすがにないよね」
「綿の布団を後で持ってくるから、それを使え」

 まさか用意されるとは思っておらず、美鈴は目を白黒させた。
 中に入ろうとして捲られた入り口の布を触ると、それに違和感を覚える。
 
「これ……ただの布じゃないね」
「河童が創りだした防風、防寒、防雨を兼ねる合成繊維だ。絹より安価に、しかも大量に生産できる。このテントも河童の設計で、麻と綿を重ねてどんなに厳しい冬も越せるってのが売り文句」
「ふぅん。実際どう? 使ってみた感想は」
「中々。少なくとも洞穴で眠るよりはずっとイイ」

 なるほど快適な生活になりそうだ、と美鈴は安堵する。
 絶壁の上に立てられた白狼天狗の牙城。
 ここを崩すのはどんな獣、いやさ人間だろうと無理だろう。
 それこそ空でも飛べない限りは、ここが落ちることはないのかもしれない。

「で、私はここに軟禁される?」
「行動の制限はない。ただ私が付いて回るだけで」

 椛は心底嫌そうに答えた。
 つまり監視である。
 首輪と言ってもいいかもしれないが、狼が首輪というのは少し無理のあるジョークか。 

「千里眼があるならいちいち後ろにいる理由もないのでは?」
「見えても止められなかったら意味が無いだろ」

 この場にレミリアが居ないことを美鈴は天に感謝する。
 この状況は彼女に相当の苛立ちを与え、そして留め金を外しかねない。
 そんなことになれば、ここは一瞬で焦土と化すに違いなく、そして第二次吸血鬼異変が始まるなんて愉快なことになったら面倒なことこの上ない。
 恐らく八雲紫もそれを(もしかしたら〝それも〟)見越してレミリアの参加を望まなかったのだ。

「つまり貴女は、今は私専用の付き人ってことですね」

 始まったことを考えてもしょうがないので、美鈴は加点できる良い部分を探して気を紛らわせることにした。
 椛は馴れ馴れしくする美鈴を気色悪そうに睨め付ける。どうやら彼女も美鈴を快くは思っていないらしい。

「よくそんな好意的な解釈ができるな。その気楽さを見習いたいくらいだ」
「物事を難しく考えることほど苦しい生き方はない。そういう奴は大抵足が遅くて早死する。世の中の物事ってのは意外とシンプルに出来てるのよ、それぞれ陰と陽でバランス取っているだけ」

 一つのものでも、良いことがあれば、悪いこともある。
 人生そんな物だ、というのが美鈴の考え方であった。

「陰陽説か。五行は含めないの?」
「それは性質であって本質じゃない。まずは芯を見極めることが大切なのですよ」
「ふぅん、でも妖怪に言われても有り難みはないなぁ」
「気にしない気にしない」

 美鈴はテントの中に持ってきたバックパックを置いた。
 ようやく荷から開放されて、清々しい気分だ。少し固まった肩の筋肉を、腕を回して解してやる。

「白狼天狗はどうしてここに? 貴女たちも賢者様から招待されて?」
「正確に言うなら、発端は守矢神社の連中だ。そこの蛙の方から天狗側に提案があったんだ。それが下りに下って、私たちの方へ流れ着いた」
「潤下だねぇ」
「私たち白狼天狗は受け皿なんだよ、天狗の荒事のさ。上の天狗様たちは血腥いことは嫌う質だし。まぁ、久々に山の外での仕事だし、今回の作戦も、むしろ同僚同士の息抜きみたいなものなんだが」
「ピクニックみたいな? 暢気ですねぇ、もしかして神殺しって聞いてない?」
「聞いてるよ。だから相応の準備はしてきてはいるんだが、実はまだその神ってのを見た奴が居ないんだよ。だからみんな、すっかり行楽気分になっている」
「ふぅん……あれ、そういえば私以外に参加者っている?」
「いない」

 美鈴は絶句し、絶望した。こんな苦境に仲間の一人もいないなんてあんまりだ。
 ますます八雲紫と藍への恨みが募っていく。
 今度会ったらまず「死ね」と言いながら顔面に渾身の一撃をお見舞いしてやろうと心に固く誓う美鈴だった。

「そもそも今の幻想郷に、こんな行事に参加する酔狂な輩がいると思うか?」
「……白玉楼の妖夢とか?」
「確かに猪肉を欲しがるかもしれないな、あの屋敷の美食家なら。でも、あそこは八雲紫に特に親しい奴らだ、何もせずとも回す約束があるんじゃないか?」
 
 共倒れしてくれる愉快な仲間はやはり何処にも居ないようで、美鈴はがっくりと肩を落とす。

「本格的に私の味方は〝もみちゃん〟だけみたいね」
「もみちゃんって、そんなに軽々しく呼ばないでほしいんだけど……」

 椛の嫌悪度が四割増しくらいに強まる。

「じゃあ〝もみにゃん〟?」
「私は猫じゃない狼だ!」
「〝もみわん〟」
「狼を犬と一緒にするんじゃない! いい加減噛み付くぞ!」

 がるると喉を鳴らせる椛を、美鈴は可愛がりたくてしょうがなかった。
 その衝動を辛うじて抑えるが、右手がぷるっと震えてしまう。

「ねぇ〝もみじん〟。頭撫でていい?」
「ダメ!」

 駄目だった。



「で、どうするんだ? ここでじっとしているなら、私は陣の巡警に行くが」
「一人で居てもつまんないから付き合いますよ」
「えぇ……」

 椛は相変わらず嫌そうだ。

「……止めておいた方がいいんじゃないか? 私が言うのも何だが、他の奴らは絶対お前にいい顔をしないぞ」
「いい顔をされる妖怪なんてこの世にいないのよ」
「いやまぁ、そうだろうけど……」

 仕方なく、二人は陣の見廻りを始めた。
 白狼天狗の敷いた陣は少し広い。猪を解体する場や使う道具を整備する区画、貯水塔のような物も設けられている。狩りの為の設備は一通り揃っているようだ。
 ふと、あるテントが美鈴の目に止まった。ドームのような形で、美鈴はこれを〝パオ〟(いわゆる遊牧民の家屋・ゲル)に似ているなと思った。昔、新疆や蒙古高原でそこの人々に世話になったことのある美鈴は、つくづく懐古の念に駆られる思いだ。
 だがそのテントは天辺から煙を立ち上らせている。
 中で火を焚いているのだろうが、さすがに煙の量が多すぎた。
 あれでは到底生活したり休むことなどできないだろうに。

「何あれ」
「あれは燻製用のテントだ。他にも熟成用の冷温テントなんかもある。あっちがそうだ」
 
 椛が続けざまに指を差したテントは、それの色違いのように灰色の布が被せられている。
 光沢のある、まるで金属みたいな布だ。

「え? 冷温? あれ自体が冷蔵庫になってる感じ?」
「そう」
「えぇ……河童って何でもありなの……?」
「見ろ。燃料式の小型発電機だ。これで取付式の冷却機械を動かして、このテントも冷蔵庫みたいに出来る。逆に暖房器具を着けてサウナにも出来る。発電機は他にもあってな、あそこの区画でソーラーパネルと風力発電機も……」
「もうやめて。驚きすぎて言葉が出ない」

 色々とレベルが違いすぎる。美鈴は理解できない難雑な美術品を見ているような気分だった。
 だが発明家の発明は、いつだって最初は奇怪に見えるものだ。

「この陣から五キロほど南に離れた場所に、第二陣を敷いている。そこから一〇キロほどさらに南下すれば、もう妖怪の山が見えてくるだろう」

 つまりこの仙境のような区画は幻想郷の北に位置しているらしい。

「広いなぁ」
「飛んでいけばすぐさ」

 足を進め、続いて陣の一角、白狼天狗が猪を捌いている様子を美鈴は見物する。

「見事なものねぇ」
「解体なんて子供の遊びみたいなものだ」
「違う違う、猪よ。かなり大きいじゃない」

 吊るした猪を捌いている天狗より、まだ猪のほうが大きい。
 人間よりも大きい個体など、そうそういないはずなのだが……。

「あれは今朝討ち取ったものだ。あれくらいはこの場所では珍しくもない。ここにいる猪はあれくらいの物ばかりだ」
「ほんと? こりゃ天狗たちも当分食糧に困らないで済みそうね」
「困ったことなんてないし、むしろ獲れるのが猪肉ばかりというのが困るけどな」
「贅沢な悩みだわ」

 捌かれた肉は調理場へ、そこで焼き肉などになって白狼天狗たちに振る舞われている。
 その料理の一つに大きな鍋が有った。山菜と猪肉が煮こまれ、味噌によって味付けされた汁物だ。
 美鈴がその鍋を覗きこむと、それをかき混ぜていた白狼天狗の顔が露骨に嫌そうな物に変わる。
 
「これ貰える?」

 美鈴は毛ほども気にせずそう尋ねた。

「余所者に出す飯じゃない。とっとと行け」

 美鈴と飯当番の白狼天狗が、視線をぶつける。
 含むように笑い、美鈴は目を細めた。それは表情に対して決して友好的な目ではない。
 白狼の目が何度か出入口の方を指したが、それを素直に聞く気配はなく、ただじっと美鈴は笑い掛け続ける。
 その意味を――美鈴が仕草に込めた意味を――やがて白狼天狗は感じ取った。
 驚いた表情になって目を丸くし、それから牙を向いてぐるぐると喉を鳴らし始めた。尻尾がぴんと逆立ち、警戒している。

「やめろ」

 そう言って椛の手が肩に置かれた。美鈴の目がそちらへ向けられる。

「行くぞ」

 美鈴は立ち上がり、素直にそれに従った。



 二人はそのまま客人用のテントまで戻ってきた。それまで一言も会話はなく、少しぴりぴりとした空気が漂っている。
 到着してまず、椛は重たい溜息を一つ吐いた。肩を落として、それから美鈴を睨む。

「知らないようだから教えておくが、あまり私以外の者の目を見詰めるな。威嚇していると間違えられる」
「あぁ、やっぱりアイコンタクトを使っているんですね」

 美鈴の答えに椛は驚き、それから視線に疑念を混ぜ込んだ。
 少しばかり苛立ちのこもった表情で、僅かに口角が下がり強張る。
 この微かな表情の差異も、恐らく彼女たち白狼天狗の間では重要な言語になっているに違いないのだろうと美鈴は察する。

「知っていたのか?」
「動物の狼がそういう〝言葉〟を持っているのはね。でもまさか白狼天狗がまだそれを使っているとは思ってなかったけど」
「つまりさっきはそれを確認していたのか。あんまり問題を起こすようなことはやめて欲しいのだが?」

 椛は苛立ちをなるべく抑えている風だ。彼女は美鈴に対してあまり強く出てこない。対外交渉役だからだろうか。
 美鈴は肩をすくめて皮肉っぽく笑い、おどけてみせる。

「私から手を出したりはしないし、手を出すつもりもないですよ。ただ〝嫌な態度を取ったら嫌な態度を返される〟のは当たり前のことでしょう?」
「む……」

 美鈴の言葉に、椛は返答できない。

「それにしても……ふふ」

 口を抑えるようにして、美鈴は笑いを堪えた。

「なんだ?」
「『私以外の目を見詰めるな』って……まるで妬いてる女の子みたいで可愛いですね」
「なっ!」

 椛の顔が見る見るうちに真っ赤になった。
 予想外の指摘に毛が逆立つ。椛は普段ならありえないほど、平静さをその一瞬で失った。

「ち、違う! そういう意味じゃない……!」
「あはは、照れてるの? 可愛すぎる~」
「か、可愛いとか、軽々しく言うな!」

 どうやら椛はこのような言葉に弱いらしかった。急所を見つけた美鈴は上機嫌で、白狼天狗から向けられる白眼視のことも、すっぽりと頭から消え去ってしまう。
 ただ唯一、心残りがあった。

「う~ん、あのイノシシ汁を食べれないのは残念です」
「……私が後で貰ってきてやるから」
「じゃあその時に昼食にしましょう」

 そう言って、テントの中に戻ろうと入り口の布を美鈴が分けた時だった。
 二人の耳に、遠くから小さく狼の吠え声が届いた。
 陣に居る白狼天狗たちも、その声を聞いて少し慌ただしくなる。

「何かあったの?」
「西のほう……あれは多分、狩りに成功したんだろう。かなり喜んでいるな。近いうちに獲物が運ばれてくるはずだ」
「へぇ……」

 美鈴たちは暇つぶしに将棋をしながら、狩りに成功したらしい白狼天狗の帰還を待つことに。

「全然勝てない……」
「ふふん、私の腕前は白狼天狗でも随一なんだ」

 椛は強かった。
 二戦ほどして、ついには美鈴が椛から戦法をレクチャーされる段になった頃、陣の物見櫓からけたたましい打鐘(鉄板を金槌で打つだけの物)が何度も響いた。どうやら帰還したようである。
 美鈴たちも戦果を確認する為に外へと出た。

「「おぉ~」」

 太い枝に四足を縛られて逆さに吊るされた大きな猪が、二人がかりの白狼天狗によって運ばれてきた。比較対象が側で並んでいるので、その大きさも測りやすい。
 体長はおおよそ四メートルほど。体高は二メートル弱はあろうか。
 もう命の宿りを感じさせない顔には、荒削りの太く鋭い牙が二本並んでいる。
 先ほどの解体中だった猪よりも、さらに大きい。まるで車のような大きさだ。

「ずいぶんでかいな。多分今まで一番でかい」

 獲物が地面へと置かれると、ずずんと鈍い衝撃が響いた。
 腹部はすでに開かれていて、恐らく内臓はもう取り除かれているようだ。それでもなお、運んできた天狗たちの疲労感からして相応の重量があったらしい。
 陣にいた白狼たちが帰ってきた者の健闘を歓喜で讃えた。抱き合って喜びを分かち合っている。狼のボディランゲージ。

「〝もみうじ〟も行きなよ」
「もみうじってなんだよ……いや、私はいい。お前を見張るのが仕事なんだから」
「もしかして〝もみやん〟って虐められてる?」
「そんなわけないだろ! 私は友人が多いことで有名なんだ!」
「じゃあ尚更行って来なさいよ。私はここでじっとしてるから」

 美鈴は椛の背中をそっと叩いて彼女を後押しした。
 少しだけ逡巡した後、渋々という感じで椛は帰ってきた班の元へ駆け寄っていった。それから彼女はその者たちと抱き合って喜びを分かち合う。
 誰も椛に否定的な顔をしていない。
 余所者担当だからと言って、嫌われるわけじゃない。
 それが本当だと分かって、美鈴は安堵する。
 彼女の姿を微笑ましく思いながら、一人、美鈴はテントの中へと戻っていった。



   五

 結局その日、美鈴は何もしなかった。
 時折外に出て、森に降りるでもなく陣を見廻って白狼天狗たちの様子を観察し続ける。
 白狼天狗たちは嫌そうに、時に不思議そうに、黙しつつ彼女を警戒していた。

 特に犬走椛は、そんな美鈴を一番不思議がっていただろう。

 忠告通り、彼女は白狼たちの目を凝視するようなことはなく、それどころか目を合わせるでもなく、ただにこやかに、漠然と風景でも眺めているような面持ちで居続けた。
 だが逆にそれは彼女の心情を悟らせないので、椛の不安は増していく一方だった。
 
「ニヤニヤするな、気持ち悪い」
「そんなこと言わないでくださいよ。悲しくて泣きそうです」

 夕方になって、白狼天狗たちは今日の戦果を讃える祝宴の準備を始めていた。
 当然、美鈴が参加しては台無しであろう。
 美鈴は椛に自分のことは気にせず参加するよう勧める。
 やはり椛は最初こそ渋ったが、美鈴がゲストテント付近から動かないと約束し、その上でしつこく勧めるので結局折れ、祝宴に参加することになった。



 日が完全に落ちてから、白狼天狗たちの宴会が始まった。
 大きな焚き火を囲み、飯当番が用意した豪勢な食事と酒で、すぐに陽気な笑い声が生まれて、宴は大盛り上がりの様子だ。
 そんな祝宴を他所にして、ゲストテントの側で美鈴は一人、地面にあぐらをかいてぼんやりと景色を眺めている。
 寂しさはなく、ただ瞑想に暮れる仙人のような雰囲気だ。
 実際、美鈴は宴など気にもせず、漂う気を辿って森の様子を探っていた。

「う~ん……」

 成果は微妙である。
 この森に通る龍脈は大きい。それほどまでに霊験あらたかな土地だったのか、生い茂る植物たちの気も澄んでいて、まさしく仙境のようであった。
 仙境は、それこそ人手の入らない場所であり、森も動物たちも生き生きと暮らしている。
 この森もまた例に漏れず、多くの生物の気で満ちている。

 だが、それらの中で突出して巨大なものが見当たらなかった。

 少なくとも神様と崇められるような存在は、この拠点の近くにはいないのだろう。
 猪という生き物は本来、とても臆病で警戒心が強い。
 自らの縄張りに見知らぬ物があれば、それを避けようとする。
 このままどこぞなりに消えてしまったらどうしようか。それこそ結界の歪みに巻き込まれて外界へ消えてしまったら? 
 取り逃がしでもしたら、追うのは骨が折れるだろうが……。
 実のところ、そのことを美鈴は心配していた。

「おーい」

 掛けられた声は椛のものである。
 振り返ってみれば、いくらかの料理が載せられた黒い御膳を二つ、彼女は重ねて持っていた。それに茶黒の一升瓶(どう見ても酒だ!)が一本ついて来ている。

「余り物だが作ってきた。食べよう」
「宴会はもういいの?」
「あぁ、十分祝ったよ」

 美鈴は立ち上がり、椛をテントの中へと誘う。
 カーペットの上に御膳を二つ置いて、向かい合う形で二人は腰を落ち着けた。
 御膳には猪肉をふんだんに使っているだろう料理が並んでいた。眺めているだけで美鈴のお腹がくぅと可愛らしく鳴いた。空腹である。

「よかった~。ご飯出ないかと思って、内緒で山菜集めに行こうかと思ってたところだった」
「一人で行くのは勘弁してくれ……いきなり消えられるのは心臓に悪いから」

 お互いの御猪口に酒を注ぐ。

「まず謝らせて欲しい」

 椛が一度御猪口を降ろしてそんなことを言った。美鈴にはとんと心当たりの無い話で面食らう。

「何を?」
「本当は、お前をあんな風に邪険に扱うべきじゃないのは、みんなも分かっているんだ。洩矢諏訪子と上とで、客人を迎える話は着いていた。だが実際やって来たのはお前一人で、我々が多数。軽んじた所で問題ないという風潮がすぐに出てしまった」
「お嬢様じゃなくて私みたいな弱小妖怪が相手じゃあねぇ。誰だって舐めて掛かるでしょうよ」
「それに今回の件は、白狼天狗たちで団結意識を強めようという益体のないお題目が掲げられていてな。ひさびさの外での仕事に舞い上がっている連中ばかりで、それが白眼視に拍車を掛けている」

 実際、祝宴でも美鈴のことについて話が及んでいた。
 やれ陣から追い出せだの、簀巻きにして猪に喰わせてやれだのと物騒な話が飛び交った。
 こうして椛が美鈴を食事に誘わなければ、酒の勢いに任せてそれらが実行されたかもしれない。

「すまない。そして勝手なお願いだと思うが、どうか許してほしいんだ。私も出来る限りのことはする。だから彼女たちを恨まないでくれないか」

 椛が拳を地面に着けて頭を下げる。いや頭すらも地面に打ち付けんばかりの深さだ。
 よほどの真剣さだったが、美鈴は逆にそれを笑い飛ばした。

「客将客兵が歓待されないのと一緒ですよ! だから私も気にしないし、貴女も気にしないでください」

 美鈴は彼女の大変さを理解していた。これまでの態度から見ても彼女自身、美鈴に頭など下げたくないだろうに。
 彼女の立場がそれを強制していると思うと、むしろその行動は賞賛されるべきで、美鈴の中で彼女を尊敬する思いが強くなる。

「……そう言ってもらえると有り難い」
「他から嫌われるのなんて、生きてたら幾らでもあることなんだから。そんなの気にしたって何の得にもならないでしょう? それより早くご飯を食べましょう! そっちのがよっぽどお得ですもん!」

 ひとまず全てを忘れて、お互いが御猪口を掲げて乾杯。始まりの合図だ。
 酒を一口飲んで、美鈴はまず目を丸くして驚いた。

「うまっ……!」
「猪肉は癖が強いからこっちも強めの物を持ってきたんだが……良かったよ、口に合ったようで」

 鼻をつんざく芳醇な香り、鋭い辛みがあり、味は重めに喉を打つ。
 確かに強い。酒自体が苦手という者にとっては厳しいか。

「まぁ、妖怪で酒に好き嫌いがある奴は少ないんじゃない?」
「いや、最近は若い白狼天狗の間で酒が好まれない風潮もあるんだ。だからもしかしたらとな」
「へぇ? 天狗って呑兵衛だと思ってたから意外だわ。というか、もしかして貴女って若くない?」
「いや私は、若いといえば若いが……まぁ、酒は嫌いではないよ」

 椛は何かを言いたげに顔を歪めたが、それを飲み込むように酒を呷った。
 若いという割に仕草が疲れた老人にも見える。彼女が抱える不満もそのあたりに起因しているのだろうか?

「なんか、年寄りくさいですね」
「うぐっ……!」

 椛は呻く。

「……あんまり言うな。私はそう思われたくない」
「いいじゃん。老いは欠点なんかじゃない、むしろ美徳です」
「だが実際に歳を重ねているわけじゃない。恐縮するし、むしろ趣味嗜好で取り繕っているようで嫌なんだ。私は未熟者だから」
「そう思う事こそ未熟者の証だよ」

 ぴしゃりと言われて椛は思わず口を閉ざした。
 美鈴は料理に箸をつける。猪肉の醤油煮付けで、絶品だった。そうやって舌鼓を打ちながら、会話も続けていく。

「妖怪なんて化かして――いや馬鹿にしてナンボの輩なんだから。他人からの評価を気にしているようじゃあ半ナマでしょうよ。もちろん、白狼天狗がそうじゃないと言うのなら、この言葉は間違ってるだろうけど」
「……お前は気にならないのか? 一応、吸血鬼の従者なんだから、仕事の評価は大切なんじゃ?」
「あはは! お嬢様が私に期待していることなんて、せいぜい庭が荒れないようにつぶさに手入れすることと、面白い漫画について話し合うことくらいなものよ! それでご飯と寝床と衣服を貰えるから、あそこは最高なんだけどね」
「私はそこまで巫山戯られない……根が真面目なんだ」
「それもまた美徳である。肝心なのは呑まれないことね、死にも、流れにも、それから酒にも」

 美鈴は意味深に笑い、残っていた酒を一気に呷った。

「……時々、お前みたいな輩が羨ましく思えるよ。自由で、逞しい感じで」
「なんでよ、天狗は自由じゃないの?」
「少なくも勤務中に昼寝なんて出来やしない。そんなことしたら怒られるし、始末書を書かなくちゃいけなくなる。査定にも響く」
「私だって最初は怒られたし、ご飯を減らされたりしたよ。でも続けたら気にされなくなっちゃった」
「なんだそりゃ。馬鹿じゃないか」
「元々私は頭が弱いからねぇ。深く考えることなんて出来ないのですよ」
「……それだと、お前を羨ましがる私も馬鹿みたいになってしまうんだが」
「いいじゃないそれで。この世界はバカばっかりで、そう分かっていて自分まで馬鹿になれるんなら上等でしょう」

 馬鹿になれて上等とはどういうことだろうか。椛にはよく分からなかった。

「……適当な事をそれっぽく言っているだけのような気がする」
「んはは! 正解!」
「ったく……」 

 椛も酒を呷って料理を口に運ぶ。メニュー自体は祝宴に出ているものと変わらない。
 それでも少し味が違うように感じるのは、多分気のせいではないだろう。

「でもさぁ〝もみもみ〟もしっかり馬鹿なんだよねぇ。こうやって余所者をちゃんと気にかけてるんだからさぁ」
「もみもみってなんだ。仕方ないだろう仕事なんだから」
「仕事バカってことね」
「怠けバカに言われたくない」
「あはは! やっぱり馬鹿ばっかりじゃない!」
 
 ぐぬっと椛は悔しそうに呻く。不覚にも少し共感した。
 この妖怪にぴたりと物事を言い当てられてしまった気がして、どうにも面白くない。

 いや、そもそも真面目なことを馬鹿にされるのはおかしいじゃないか。

 だが酔っぱらい相手に詰問するのも馬鹿らしくなって、椛は黙った。
 バカ、バカという言葉が、酒精に浸かる椛の脳の中をぐるぐると回りだしていて、鬱陶しくなってくる。

「とはいえ正直、さっきはもっと怒られるかと思ったのよ」
「さっき?」
「私が飯当番の白狼を煽った時」
「あぁ……」
「どうして怒らなかったの? なんか大目に見てくれたみたいで、意外でしたけど」

 椛はその時のことを回顧する。
 仲間意識の高い白狼天狗にとってあれは、自分を誂われたのと同義ではないのか? つまり美鈴が気にしているのはそのようなことだろう。
 実際椛は腹を立てていた。でも、怒鳴ろうとは思っていなかった。

「ただ……」

 ただ私は、お前がそういう態度に出るのも仕方ないと思ったんだ。
 そう言おうとして、しかし椛は閉口する。
 嫌な態度を取ったら、嫌な態度で返される。
 その通りだと思った。だから彼女の探りに目を瞑った。
 あの場にいたのが他の白狼天狗であれば違っただろう。
 誰しもが怒鳴り、襲いかかる者すらいたかもしれない。
 椛は白狼らしくない自分を嘲って、そのままの笑みを浮かべた。

「私は逸れ者だからな。いや変わり者か……」
「ふぅん。〝もみがら〟ちゃんも大変だねぇ」
「私の名前をころころ変えるのはやめろ! 次はその喉に噛み付いてやるぞ!」
「いいじゃないですか~減るもんじゃなし~」
「私の尊厳が減っているんだ!」
「〝もみくしゃ〟ちゃん」
「やめろ!」
「〝もろみ〟ちゃん」
「もみですらなくなってるじゃないか!」
「愛称ですよ愛称。仲良くなるには愛称で呼び合うのがいいのです」

 本当に仲良くなりたいのか。おちょくってるだけじゃないのか。
 仲良くなるどころかさらに疑いの目を向ける始末の椛だった。



「なぁ、今日の猪をどう思う?」
「ん~? というと?」

 話の最中、不意に尋ねられたそんな事柄を、アルコールで麻痺した頭が処理できずに美鈴が聞き返した。

「率直に言うとな、お前はあれが猪神だと思うかってこと」
「あれ、もしかして白狼天狗たちはもうお疲れ様モードって感じなの?」
「いやなぁ、今日の獲物の大きさが相当だったんで、みんなそういう話で盛り上がっているんだ」

 確かに今日仕留められた猪は相当の大きさだった。それは美鈴も認めるところだ。
 だがあれが神のように崇め奉られるかと言われると……

「気分を害する気はないけどね、アレは違うと思うよ」
「そうか」

 椛はそれを平静に受け止めた。
 美鈴は意外そうな目で彼女を見る。もう少し落胆するかと思ったが、そんな素振りは彼女には一切なかった。
 むしろ予期していたかのように微動だにしない。
 美鈴の心情を察したように、椛は皮肉げな笑みを浮かべる。

「私はまだ一度も狩りに出てないからな。その分他の者達より冷めてるんだ」
「じゃあ明日は狩りに出ようか?」

 美鈴の提案に椛は真剣に悩む顔つきとなる。
 だが彼女自身狩りには行きたいはずだ。
 そして美鈴もこんな敵地のど真ん中でただ漫然と昼寝をするつもりなどない。

「いいじゃんいいじゃん。陣に居るより健全だって」
「そうか……まぁ、そうだな」

 酔っ払っているので、椛は深く考えられない。
 彼女の漠然とした首肯に、美鈴は満面の笑みを浮かべていた。
 


   六

 静かに。ただ静かに、動かずに、時を待つ。
 息を殺す。
 音を殺す。
 気を殺す。
 そうして虚空と化していく紅美鈴の隣で、椛がゆっくりと、筒から一本矢を取り出した。
 黒光りする玉鋼の鏃が、ぎらりと禍々しく光る。
 矢を弓に添えて、椛は弦をぎりぎりと引き絞っていく。
 粘り強い木の弓が音を立てて反っていく。全ての体勢に少しの震えもなく、それはまさしく力の貯蓄であり、今か今かと解放を待っている。

 そして時が来た。

 ぴっ――と風を斬る音が鳴って、真っ直ぐにその矢は飛翔した。
 生い茂る枝々の合間を正確に縫って、それは獣道を歩いていた猪の頭へと命中する。
 鏃は頭蓋を割って脳髄を貫き、悲鳴すら上げさせず瞬時に猪を〝物〟へと変えた。
 そんな犬走椛の一連の技を見て、美鈴は静かに戦慄し、また深い感嘆の念を抱いていた。



「いやぁお見事でした」

 美鈴がついに感想を漏らした。狩りを終えて、二人は仕留めた獲物の元へ。

「あのくらい朝飯前だ」

 それから二人は、仕留めた猪を沢の近くで解体することに。
 猪の大きさは並だった。だいぶ探し回ったが、さすがに昨日のような大物とは行かない。
 まず腹を捌いて無傷のまま、全てのはらわたを抜き出して土に埋めた。
 それから皮を剥ぐ。汚れがつかないように木の枝に縄で吊るす。猪は皮下脂肪が厚く、上手くやらねば刃が鈍り、難しい。
 だが、二人は慣れた手付きで猪の皮を剥いでいった。
 
「随分手馴れているな? 一日やそこらで備わるレベルじゃないぞ」
「昔はこれでご飯食べてたこともあったのですよ」

 猪は泥浴びをする為、それが固まって纏わりつく皮は重い。沼田うちまわるというやつだ。
 削ぎ終えた皮を美鈴が沢水にさらし、出来る限り泥を落としておく。皮も大切な素材となる。
 椛はそれが終わるまでに剥いた猪をさらに細かく枝肉にしていった。
 作業中、二人の会話は最初の二、三言ほどしか交わされていない。

 命を奪い、それを享受する――それは厳正な世の真理だ。

 二人はそれを心得ている。だから余計なお喋りはほとんどせずに作業していく。
 まるで祈りだ。辺りは厳粛な気に満ちていた。

 
  
 分けられた枝肉を真空パック(河童製品!)に入れ、頭や皮も一緒に二つのバッグに詰める。使った道具も水で洗って、帰り支度を整える。
 見上げれば日が傾き、空が焼け始めていた。
 
「さすがに水浴びは出来ないね」

 美鈴が言った。二人は解体中にいくらか血を浴びてしまっていた。

「陣に戻ればシャワーが使えるぞ」
「え? お湯の?」
「お湯の」
「服も洗濯できる?」
「できる」

 河童って凄い。
 二人は飛翔してその場を後にした。

「帰ったら祝勝会ですねぇ」
「おいおいもう満足したのか? 私はまだまだ狩り足りないぞ?」
「日々の些細なことに感謝を忘れない。これは長きを生きる上でとても大切なことなのですよ」
「とかなんとか言って、酒を飲みたいだけじゃないのか?」
「酒は百薬の長と言いますでしょう?」

 美鈴の言葉に椛は呆れ返っていた。
 しばらく陣を目指して飛んでいると、突然椛が「ん……?」と声を零して止まり、じっと地面を見詰め始めた。何事かと美鈴も制止して振り返る。

「どうしたの?」

 椛は答えることなく、じっと大地を見つめたまま、やがて静かに地面へ下降していった。
 美鈴は咄嗟に周囲の気を探り、索敵する。
 特に異常なものがないことを確認してから椛の後を追った。
 降り立つと、椛は倒れた猪の側に座り込み、その死体を検分しているようだった。

「おや……」

 パッと見て、美鈴もその死体の異様さに気付いた。椛もそれを気にしているのだろう。
 死体には傷が少なかった――というより、外傷が全くないのだ。
 狩られたわけではないのか。

「なんだろ、病気……?」
「いや、見ろ、頭部が荒れている」

 目を凝らせば頭部の毛髪に血が付着している。血はまだ赤く、猪が死んだばかりなのを思わせた。
 椛は頭部を触って具合を確かめる。

「頭蓋が割れているな……恐らく頭を強打さたれ、失血で死んだに違いない」
「となると根や金槌みたいな打撃系の得物?」
「違う。見ろ」

 猪から少し後方に離れた場所、そこにある一本の気を椛が指差した。
 不自然に傾き、根元の幹の方の樹皮が酷く荒れている。よく見れば地面にも蹄と血痕が残っている。この猪はその木からここまでフラフラとやってきたのだ。

(え? でもこれって、まさか……自殺?)

 美鈴はすぐにこの猪の死に際を悟ったが、にわかには信じられないという面持ちで椛に尋ねる視線を送った。
 椛もまた、怪訝な表情を浮かべている。
 二人は同じようなイノシシの末路を想像したのだが、それを信じようとは思えなかったのだ。
 しかし突然、美鈴がばっと後ろを振り向く。

「どうした?」

 呆気にとられる椛がそう尋ねるが、すぐさま美鈴が「しっ」と彼女に人差し指を立てて見せた。
 声を出すなという意図を椛が察し、何事かと周囲の気配を探ったが、特に異常は感じられない。

「来い」
 
 美鈴の口調がいきなりきつくなり、椛は面食らう。
 だが美鈴はすぐさま跳躍して樹上に消えてしまい、有無を言わせなかった。
 困惑したが、椛も仕方なく後を追う。
 葉っぱの中ですでに美鈴が息を殺し、じっと死体の向こう側を見つめている。
 さすがに普通ではないと椛も悟り、それに倣って気配を消した。

「…………」

 深い、深く深く美鈴は空気に沈み込んでいく。
 狩りの最中でも、これほどまでに気配を消してはいなかった。うっかりすれば彼女の存在を忘れてしまうような虚ろさだ。
 椛は事の異様さに驚いたが、それで身動ぎなどをすることもなく、追って気配を消していく。

 やがて、何の前触れもなく霧が出始めた。

 そんな気温では微塵もなかったはずなのに、濃い煙のような靄が辺り一帯に立ち込め、気温がぐんと下がっていく。
 椛が思わず息を吐くと、それは白い蒸気となって空気に散るので、彼女はますます驚いた。

 それから、のしり――という何かの音が、確かに二人の耳に届いた。

 椛はすぐにそれが獣の蹄の音だということを察した。
 だが問題は、その音から感じられる獣の大きさだった。
 酷く低く、鈍くて重々しい。
 聞いただけで、椛は身震いするほどの恐ろしさに襲われた。
 音のする方向に、巨大な岩が現れる。
 否、それは岩ではない。

 それは巨岩と見紛うような大きな白髪の猪だった。

 体長はおよそ一〇メートルと少し、体高は三~四メートル。口には大木のような牙が二本。
 のしり、のしりとゆっくり歩を進めるその姿は、どう見ても自然物とは思えない。

(間違いない! あれが〝猪神〟だ……!)

 椛の手に汗が滲んだ。
 幽鬼のように現れた猪神だが、彼から発せられる気は瀑布のようだった。まさしく霧のように辺りを一瞬で満たし、今まさに我が身を包んでいるかのごとき錯覚に椛を陥らせる。
 猪神は、ゆっくりと倒れている猪の死体に近づいていく。
 おかげで見比べすることができるが、しかし如何せん猪神は巨大すぎた。死んでいる猪の、軽く十倍はありそうだった。

 やがて、猪神はその猪の死体に鼻で触れ、深い呼吸をした。

 すると、死体の猪の毛が見る見るうちに白く染まっていった。
 一体何が起こったのか、椛には分からない。目を見開いてその光景に驚愕する。
 美鈴もまた、その光景には驚きを禁じ得なかった。

(気を吸い取った……)

 死体に残されていたはずの生気が完全に消えていた。
 猪神は死体に鼻を着けたまま、目を瞑り動かなくなる。
 それは、死者を偲ぶ黙祷に似た雰囲気を思わせた。そしてその印象に間違いはない。 
 美鈴たちは緊張の中、永遠とも思える数分を過ごした。
 それから、猪神の首が動く。
 
「――」

 椛はたまらず全身を強張らせて息を呑む。
 猪神が美鈴たちの方向をじっと見つめてきたのだ。

(見抜かれている……!)

 全身の毛を椛は恐ろしさで逆立てたが、辛うじて悲鳴を漏らすことはなかった。
 それでも息が詰まり、苦しさと恐ろしさで全身に珠ほどの汗がぶわりと吹き出した。
 こんなことは予想していなかった。
 あまりの緊張に体が強張り、身動ぎ一つ出来ない。
 美鈴は、ただじっと猪神と視線を交え続けた。その瞳からの心を見、出方を窺っていた。
 猪神もまた、美鈴たちをただじっと見詰めていた。

「…………」

 だが猪神は、ゆっくりと美鈴たちから顔を反らし、泰然と歩み出す。
 のしり、のしりとあの足音を低く響かせて、霧の中へ消えていく。
 それと当時に立ち込めていた濃霧もゆっくりと散っていく。

 その姿が完全に見えなくなってしばらくしても、二人は言葉を発せずにいた。

 何を話せばいいかも分からない。
 椛はただただ呆然とし、言葉を失っていた。
 
「あれが猪神ですかねぇ……」

 美鈴がそう零したことで、椛ははたと気付いて、声を出す切っ掛けを得た。
 何か話さねば気が済まない。すぐさま掛ける言葉を探したが、上手く思い浮かばない。

「……やれそうか?」

 結局口に出せたのは、そんな突拍子もない質問だった。
 自分でも呆れてしまうほど唐突な言葉だ。美鈴も当然面食らうだろうと椛は思った。
 だが、美鈴は言った。
 確かに固い、意志を宿らせた強い口調で。

「うん。アレならやれる」

 予想だにしなかった返答に椛が再び驚く。
 そこには、人外として笑う恐ろしい彼女の顔があって、椛はもう一度息を呑む羽目になった。



 二人は白髪化した猪をそのまま埋葬して、それから陣へ戻った。
 椛は白狼天狗たちへ猪神の件を話しに行く。
 ついでといっては何だが、椛が狩った猪肉も彼女らに預けることになっている。
 それが済む間、美鈴は預けるはずだった一本の枝肉を捌いて、肉の具合を確かめるために肉切れを金網で炙っていた。

「…………」

 焼けていく肉と盛る火を眺めながら、美鈴はぼんやりと猪神のことを思い出していた。 
 茫然と現れ、その存在を烈々と示したあの猪神と長く視線を交え、今美鈴の心はわずかに感動の域に踏み込んでいる。
 彼の目から感じる強い気力が、美鈴の内に秘める気を呼応させ、震わせた。
 場所や時期が違えば、彼を拝み、ぜひ知り合いたいという気持ちが溢れただろう。
 だが曲がりなりにも、自分は彼を狩りに来たのだ。
 白狼天狗が間にいようと、間違ってもあの猪神と和解することは出来ないだろう。

(神様かぁ……)
 
 異常な巨躯に、死体から生気を吸い出した技など、確かに尋常ならざる者であると美鈴も思う。
 猪の群れの中でも長寿で、さらに特異的な能力があるゆえに、彼の者は群れの内で神獣として奉り上げられているに違いない。
 先ほど見た、木に頭を打ち付けて自殺した猪。
 おそらくアレも、猪神に力を捧げるために自ら生贄になったのだろう。
 獣の群れといえど、その域にまで至るとは。
 あまりの異常さに美鈴の背筋が薄ら寒くなる。
 
(そもそも八雲紫は何で神殺しをしようと?)

 今回の件の全ての元凶、八雲紫。
 彼女は幻想郷にこの仙境を取り込んだ。
 多分、あの猪神は仙境の主で、賢者はそれが邪魔になったか。
 そんな考えを漠然と巡らせてみたが、いまいちピンとこない。
 いかんせん美鈴には学がない。
 超然絶後の頭脳を持つ大賢者の思惑など、到底及びつくはずもない。

(私は、あの猪神を殺したくない……?)

 違う。
 美鈴はその考えだけをすぐさま否定できた。
 あれの肉を吸血鬼に届ける事こそ美鈴の使命である。それだけは確かだった。


 
 炙った肉の味を確かめようとした所で、椛が戻ってきた。

「美味そうだな」

 椛が美鈴の隣に腰を下ろした。
 美鈴は焼き肉を皿に分けて箸を添え、彼女へと渡す。

「私もまだ食べてないよ。それで、どうだった? そっちの方は」
「大盛り上がりだ。ついにマトの尻尾を掴んだんからな。特徴を根掘り葉掘り聞かれたよ」
「ふぅん……の割に〝もみのき〟ちゃんは浮かない顔ですね」

 椛は呼び方に嫌そうな顔をしたが、もうどうこう言う気はなくなってしまっていた。

「あれは、私の手には負えないかもしれない……」

 暗い表情のまま、椛は焼き肉を口に運ぶ。
 美鈴も焼き肉を頬張ると、肉の旨味がじゅわっと広がって弾けた。
 焼いた後でも分かる瑞々しさがある。冬の猪は水分をよく含み美味とされるが、この仙境の猪は格別だ。通常であれば肉は寝かせるべきだが、そうでなくともこの肉は美味い。
 それに狩ったばかりで味もひとしおだろう。

「…………」

 だが、仕留めた張本人である椛はやはり浮かない顔でその肉をモソモソと咀嚼していた。
 完全にあの猪神に気勢を削がれている。

「どうして手に負えないの?」

 椛は言い辛いように口を噤んだ。
 まぁ、それは弱さを見せることに他ならないので、美鈴は椛が口を渋る理由も分かるつもりだった。親しくもないのに弱さを見せられるわけがない。

「大丈夫だって! 貴女一人じゃ確かに手に負えないかもしれないけど、仲間と一緒なら余裕でしょう! それとも何、狼は一匹で狩りをするのが習わしなの? 変わり者は狼の狩りの仕方も忘れちゃった?」

 そこまで言うと、椛は複雑な面持ちになる。
 慰めと煽りを同時に食らって混乱したが、おかげで言葉を返すくらいの気力が湧いてきた。

「……そうだな」

 それだけ言って、椛は残っていた焼き肉の一切れをまた口に詰め込んだ。
 今度は自然に口角を上げて、目つきが柔らかいものになる。

「美味い」
「神様の肉は、きっともっと美味いですよ」
「ああ、違いない」

 美鈴はまた一枚、肉の切り身を炙り始める。



   七

 シャワーを浴びてリフレッシュし、それから二人は改めて酒盛りを始めた。
 猪の焼き肉と酒の相性は最高だった。腹を満たし酔っ払った二人はたちまち上機嫌になり、猪神に対する恐怖やら感動やらはすっかりふっ飛んでいた。
 夜も更けて日付が変わる頃、美鈴は酔った勢いで衣服を脱いで下着姿のまま寝床に横になる。

「〝モミーヌ〟もおいで~」
「行けるかっ!」

 顔が赤く染まったのは、決して酒のせいだけではないだろう。
 
「なんでですか~」
「夫婦でもない輩と同衾なんて……破廉恥にも程があるだろう!」
「女同士じゃないですかぁ」
「例え女同士だろうと番でない奴と添い寝する気はない!」
「じゃあ人間同士じゃなかったらいい?」

 椛はそこで一度、質問の意味を察しかねて一拍の間を作った。

「どういう意味だ?」
「”モミアンヌ”は狼になってよ。それなら動物と人間で、嫌らしい同衾にはならない。まさか天狗はペットとの添い寝も許さないくらいの純潔主義なの?」
「ん、いや、まぁそんなことは……」と言い淀みかけた矢先、椛はすぐさま元の剣幕を取り戻して「ちょっと待て! つまり私がペットということか!?」と吼えた。
「言葉の綾ってやつですよ~。まぁ私がペットでも全然いいですけどネ。わんわん!」
「お前は人をおちょくっているのか説得しているのか分からない奴だなぁ」
「説得説得! 大真面目ですよ!」

 結局椛が「う~ん、まぁいいか……」と折れて、美しい白狼の姿に変身した。そして美鈴の横にやってきて伏せる。
 美鈴は彼女の毛並みを間近で見て、その美しさに惚れ惚れとし、思わず抱きついた。獣とは思えない優しい香りがふわりと漂って鼻孔をくすぐるのがたまらない。

「一度でいいから狼を抱いて寝るのが夢だったのですよー」
『なんだそれは。変な夢だな』
「狼の毛皮は暖かいでしょう? それが生きている時の暖かみで、一緒に狩りもできて、同じ食事を分け合って、グチグチ喧しくない……そんな相棒が寝床にいれば、どんな場所でも安心して眠れるじゃない?」
『残念だったな。私は口もきくし安々と寝所を共にしたりもしない』
「私の知る中では五月蝿くない方ですよ、貴女は……」

 それだけ言って、美鈴は椛に抱きついたまま寝息を立て始めてしまった。
 椛は彼女と会って以来、ずっと振り回されっぱなしで面白くない。
 そもそも最初はこんな事になるほど仲が良い訳では無かったはずだ。なのにいつの間にか床を共にしている。黙って眠る義理もないはずだ。
 だが不思議と、椛は寝床を離れようという気持ちにはならなかった。
 狩りで疲れが溜まっているとか、酒のせいで面倒だとか、そういう感情が主だったが、椛は今ひとつ美鈴が憎めないでいたのも確かだった。
 そして少しづつ彼女への心象が変わっていることを、しかし椛は自覚していなかった。



 どれほどの時間が経ったのだろう。
 不意に美鈴は目を覚ました。椛も同時に頭を持ち上げて、耳をぴんと立てた。
 二人を起こしたのは、遠くから響いた遠吠えだった。

「聞こえた?」
『ああ、助けを呼んでいる。多分、夜間哨戒に出ていた奴だ』

 白狼天狗たちの陣がにわかに慌ただしくなった。
 椛も元の人間の姿に戻り、外に駆け出ようとするが、美鈴の事を思い出してその足が止まってしまう。振り返った彼女の顔には、複雑な感情が滲んでいた。
 美鈴は何も言わず、しっしと椛に手を降って布団に横になる。

「……すまない」

 そう言って、彼女はテントを出て行った。なぜ謝られたのか美鈴にはわからなかった。
 横になりつつも事態が気になる美鈴は、周囲一帯に気を巡らせて状況を探る。
 だが、少なくとも陣の近くでは異常は見当たらなかった。

(まぁ、どう考えてもあの〝猪神〟が動き出したんでしょうけどね……)

 三人の白狼天狗が陣を出て、遠吠えの聞こえた方角へと向かったことを美鈴は察知する。
 美鈴は目を瞑り、監視を続けた。その三人は美鈴の気の範囲を飛び出して行った。

 暫くして、五つの気が美鈴の索敵網に引っ掛かる。

 内三つはこの陣を出た白狼天狗、そして残る二つが遠吠えを発した者たちに違いない。
 一つはまだいくらかの生気を感じるが、もう一つは絶え絶えだ。
 かなり肉体にダメージが入っているらしく、他の者に比べてもう多くの気を失くしてしまっている。
 美鈴は起き上がって衣服を羽織り、天幕の外へ出た。
 
「どけ! 道を開けろ!」
「治療の準備を早く!」

 迎えに行った白狼天狗の物だろう、そんな焦りの籠もる怒声が美鈴の耳にも届く。
 
「くそっ! 傷が酷すぎる!」

 美鈴は貯水塔の上に登って事態を見物する。
 陣の入口に天狗の集りが出来て、その中心に件の白狼二人が寝かされていた。

 だが二人は、気軽に見物などするべきではない、少なくとも二目と見れない惨い有様になっていた。

 一人は針のむしろ、もう一人は全身の殆どを焼け焦げにされている。
 見事に皺の無かった白狼天狗の制服も、一つはズタボロでもう一つは消し炭。相当の出血を伴っているので、なるほどあれなら気が無くなりかけるのも頷ける話だった。
 白狼天狗に幾千本と刺さっているものは、打製の鏃のように見える。

(あれは、猪神の仕業か……?)

 美鈴が見た猪神からは、それは少し離れた所業に思えた。 
 そもそもあの白い猪神が先制攻撃に出てきたこと自体が美鈴には信じられない。手を出してくるにしても、もっと後だと思っていた。
 いくつか考えていると、不意に人だかりの中の椛と目が合った。
 美鈴は思い立って椛に手招きをし、そのままゲストテントの側まで跳ぶ。
 少し悩んだが、椛は結局その誘いに乗ることにした。

「なんだ?」

 美鈴は既に客人用テントの中にいて、荷物を漁っている。

「二人の傷の具合はどう?」
「芳しくない。陣にある道具じゃすぐに復帰するのは難しいだろう」
「天狗には妙薬があるんじゃなかったっけ?」
「使用するには上への報告と許可が必要だ」
「うわぁお、お勤め人は大変ですね……」

 バックから錫製の筒缶を取り、美鈴はそれを椛へと差し出した。

「薬丸です。少しですが痛みが止められるはずです。使ってください」

 椛は顔を曇らせて受け取りを渋った。白狼天狗として、他者に借りを作りたくないのだ。

「もちろん貴女が持っていたという事にして構いません。別に恩を着せようというわけじゃないです。効能を信じられないなら、使わなくてもいい。その選択は貴女に任せます」
 
 美鈴は押し付けるようにそれを椛に渡した。
 落とすわけにもいかず慌ててそれを手の内に収めた椛は、少し逡巡してから頷き、それを持ってテントを出た。
 一仕事を終え、美鈴はぐいっと腕を上にあげて背筋を伸ばす。

(すっかり酔いが覚めちゃってるなぁ……もう一回飲もう)

 バックから今度は特製の白酒の入ったスキットルを取り出し、美鈴はそれを口に含む。



 しばらくして、椛は帰ってきた。

「ありがとう」

 それが第一声であった。どうやら薬丸を使い、その効果が発揮されたらしい。実際、丸薬を飲んだ二人の容態はかなり安定した。ただの痛み止めでなく、体内の気脈を整える美鈴手製の薬だった。
 椛の礼を聞いて、美鈴は柔和に微笑んだ。

「私は何もしていません。あれは貴女の物でしょう?」
「……ああ、そうだったな」

 椛はそれ以上何も言わずに座り込んでしまう。
 彼女からは話辛いだろうから、美鈴は多少強引に話を続けようとした。

「二人の具合はどんな感じですか」

 しかし椛は俯いて黙り、険しい雰囲気になっている。
 根掘り葉掘り聞いても仕方がないので美鈴がただじっと彼女からの返答を待っていると、やがて椛は絞り出すように声を出した。

「……あの二人は、呪われてしまった」

 その言葉は美鈴の意表を突く。
 思わず「え!」と声を上げるほどに。

「呪いって……まさか猪神の?」
「ああ。その通りだ」

 本格的に美鈴は事態の重さを知った。
 所詮獣神の一種と侮っていたが、まさか呪いまで使うとは。霊気吸収といい、あの天狗たちに使っただろう幾つかの攻撃といい、かなり高い段階に神化しているらしい。
 つまり猪神は、祟り神となったのだ。

「じゃあ、あの二人は……」
「少なくとも祟りを祓うまではもう猪神とは戦えないだろう。こればかりは薬でどうこう出来る話じゃない」

 呪い、詛い、祟り……それらの多くは怨念や遺恨と言った悪感情に基づく霊気障害だ。
 祟り神ともなれば天変地異ほどの災厄を起こすことは、よく知られているだろう。大きすぎる情念が莫大な霊力を呼び込んで、あるいはそのものとなって天地に作用する。
 獣神が齎す祟りは、主に肉を蝕むような物が多い。それは痛み、肉を腐らせる。
 そして祟りを喰らえば喰らうほど、それは深まり、やがて死に至る。

「すぐに祓えないの? ほら、妖怪の山には祟り神や厄神がいるじゃない」
「こんな場所には呼べない。祓うにしてもまず上への報告と許可が必要になる」
「まどろっこしすぎる!」

 本当に会社勤めは大変だ。
 だが、これくらいの被害は八雲紫も予見できたはずだ。
 現に美鈴の主レミリア・スカーレットは人間である十六夜咲夜を慮って同行を許さなかった。
 他に誘われた者たちも、きっと同様だったに違いない。
 そして八雲紫が洩矢諏訪子に声を掛けたのは、彼女が祟りに精通しているからか。
 だから彼女は動かない。対策は万全ということか。

「……どう思う」

 椛が突然出したその質問は、どれほどの意味があったのだろう。
 美鈴はその全てを汲み取ることは出来なかったが、なるべく答えを吟味し、

「率直に申し上げますが、負けます」

 そして叩き切るようにそう言った。言い切ったのだ。
 椛は目を見開いて驚いた。

「そうやって気負っているうちはね」

 美鈴に指差されて、椛は益々言葉を失ってしまう。

「他の白狼天狗たちもそう。これで復讐だとか報復だとかに燃えたなら、このまま猪神の餌食になるだけですよ」
「ならばどうすればいい!? お前はどうするんだ!?」

 実際、白狼天狗たちは復讐の念に駆られていた。
 天狗は仲間意識が非常に強い。
 そして猪神は完全にこの陣の着火に成功していた。後はもう、泡を食う白狼を燻り出すだけだ。
 椛は一人、猪神について知っている。
 だから臆している。
 それでも仲間を危険に晒すまいと美鈴に詰め寄ったのだ。
 だが、美鈴は溜息を吐いて肩を落とす。

「来い」

 美鈴が椛に手招きした。
 どういう事か分からず不審がった椛は、しかしそれでも美鈴の誘導に従って近づいた。
 突然、美鈴は椛の頭を掴んで胸へと抱き寄せる。何事かと椛は混乱した。

「なっ!?」
「静かに。何もしない」

 そう言われても椛には何がなんだか分からない。慌ててその拘束を逃れようとするが、美鈴の力がさらに強まった。簡単には解けないほどだ。

「私の心臓の音を聞け」

 その言葉は、何故か椛の耳にすんなりと入る。
 椛は抵抗を止め、彼女の鼓動に聞き耳を立てた。
 温かさの中で確かに力を感じる音がある。強くも優しげな心音だ。
 深くゆっくりと刻まれるそんな音に同調して、自然と椛の昂っていた感情も静まってくる。
 その鼓動には有無を言わせない広さがあった。

「そうだ、落ち着け。まず落ち着け。何も考えるな。全てを忘れて、それから物を考えろ」

 彼女の言葉が全て耳に入ってくる。
 やがて美鈴が手を離して拘束を解いた。
 椛もゆっくりとその場から元の位置に戻った。もう、完全に頭が覚めていた。

「……それで、どうすればいい」

 落ち着き払った様子で、椛は聞いた。

「どちらにせよ我々は狩りに出る。報復に燃える。それを収めることなど私一人には不可能で、もちろんお前でも不可能だ」
「分かってます。そしてこれは単なる助言ですが、貴女は部隊の皆さんをまず落ち着かせるべきです。それから行動の見直しを促すのが良いかと。人数、武装、作戦の全てを。そうして初めて勝つ目が生まれると私は思います」
「そうか」

 当然の言葉であった。椛もそれに賛同する思いだ。

「それと、お腹が空きませんか?」

 続いてそんなことを美鈴が言った。
 彼女の言葉が理解できなくなって、椛は呆気に取られる。

「は?」
「こんな夜中じゃお腹が空いたでしょう。肉を焼いて腹を満たしましょう。それでよく寝て、英気を養う。それ以上に、やるべき事がありますか?」

 励ますための馬鹿話か、それとも大真面目に言っているのだろうか。
 だが少なくとも気が楽になって、椛は苦笑してそれに頷いた。



   八

 翌日明朝。
 陣の入り口広場に白狼天狗たちが集結した。
 誰もが昨晩の仇討ちに燃えている面持ちだ。行楽気分が一変して、今や陣は酷い熱に魘されていた。だが激情を押さえ込んでもいる。
 無闇に先走るような気配はない。
 その熱源を、美鈴と椛が遠巻きに眺めていた。

「行かないの?」

 美鈴が椛にそう尋ねるが、椛は眉を顰めて目を瞑った。

「……私には監視の任務があるからな」

 本当ならばあの場に立って先導したいくらいの心情が椛にあることは、美鈴にも分かっていることだ。
 だが椛は、これだけは頑として譲ろうとしない。

「心配しなくても私は何も出来ないですよ」

 そう告げても、椛は動こうとはしなかった。
 白狼たちは話し合い、作戦を立てて行動を始めた。その行動は例え仇討ちであろうと規律規範に沿い、足並みが揃っている。
 美鈴は彼女たちのそんな様に、戦慄と惜しみない賞賛の念を送っていた。
 彼女たちは間違いなく、よく訓練された強者たちだ。
 
「さて、どうなるかな……」

 白狼天狗は椛を除いて三十一人。さらに昨日の負傷者を除いて二十九人。
 もはや行動できる人員は一個小隊以下だ。
 これを四人一組の四班、計十六人を行動部隊、残り十三人を陣において防衛に当て、それらを時間交代で運用する。
 武装は、弓矢を木製から金属製に変えた。滑車とワイヤー、複合金属を使ってより強力な矢を放つコンパウンドボウだ。
 そして男の太腿ほどの大きさはありそうな刀剣を佩く。衣服の下に金属板を縫合した帷子を着込み、同様の素材で出来た大きな盾を背負う。
 まさしく一分の隙もない完全武装といった様相だ。
 ちなみに、負傷した二人は後方にある第二陣へと護送された。応急手当ぐらいの医療品しかないこの陣地よりも、そちらのほうが遥かに良い。その報告も、今日中に済むだろうとのこと。
 
「お前はどうするんだ?」 
「だから、何もしませんて」

 椛の質問にそう答えて、美鈴はゲストテントの側で太極拳を始めた。
 白狼天狗たちも大勢いるので、今は事態を静観するのが美鈴の方針だった。
 狩りに出るつもりは毛頭ない。

「またその体操か、昨日の朝もやっていたな。飽きないのか?」
「〝もみあい〟ちゃんも一緒にやりますか? 教えますよ」
「……その体操は本当に効果があるのか? イマイチ凄さを感じないのだが」
「深い呼吸と緩やかな動きが肝要です。私の動きに合わせてください」

 渋々椛も美鈴の真似をし始める。
 彼女もまた、他にすることがなかった。
 だが最初こそ訝しんでいた椛も、やがてはその動きに顔を顰めて、集中し始める。

 重いのだ。まず体感として。

 全ての動きを緩く遅くすることで、体に熱と疲労がじわじわ作られていくのを実感する。深い呼吸によって取り込まれた空気が、すぐさま熱せられて吐き出される。
 それらの繰り返しの難しさ、重さに、椛は思いの外苦しんだ。
 短時間のものだったが、軽い汗が彼女の背中に浮かんでいた。

「とまぁ、これが簡易版です」

 これで簡易と言われて椛は驚愕した。
 椛は息を整え、改めて美鈴に問う。
 
「これが武術にもなるのか……そういう話も聞くが」
「ええ。今やったのは気の整調が主ですけどねー」

 気を使う美鈴にとって、導引術、吐納法などを駆使し仙道を根源とする太極拳は非常に相性が良く、一番のお気に入りだ。
 美鈴が拱手し、そしてもう一度構えてから、今度はかなり速めの套路を始めた。
 激しい動きに、目の覚める大きな音が鳴る。
 美鈴が発する真剣な雰囲気に、椛が目を丸くした。
 先ほどとはまるで印象が違う。
 前の物が水だとすれば、こちらは風だ。吹き荒ぶ嵐のようだ。
 套路を終えて最後に、美鈴は再び拱手と礼。

「型も古くて我流な部分も多々ありますが、ご容赦を」

 椛は唖然とし、しばらく言葉を失っていた。

「稽古代は五千円です」
「おい」

 感動は吹き飛んだ。
 


 そうして美鈴と椛が太極拳をしながら時間を潰していると、北の方角から遠吠えが届いた。

「これは……」
「…………」

 椛の顔がまた酷く険しい物になっている。
 美鈴も昨日聞いた救援の遠吠えに似ていることを感じ取っていたが、彼女の面持ちで確信を得た。猪神と遭遇し、何か拙いことがあったのだ。
 少しして、負傷者を一人づつ背負った白狼天狗たちが大慌てで帰ってきた。四人の内二人がやられてしまったのだ。
 美鈴が後押しするまでもなく、椛は彼女たちの元へ駆け寄っていく。

「大丈夫か!」
「手当を頼む!」

 負傷した二人が医療用テントへ運び込まれる。
 美鈴が見たところ、一人は昨日と同じく火傷が酷く、もう一人は全身打撲という感じだ。
 そしてきっと、例外なく呪われているに違いない。

「何があったんだ?」

 負傷者を連れてきた白狼天狗に、他の者たちが尋ねた。
 疲弊した顔で俯く彼女は、やがて重い口を開く。

「……猪神を見つけられないから、私たちは二手に別れたんだ。それからすぐにあいつらが襲われたらしい。そんなに離れていなかったのに、私たちが駆けつけた時にはもうあのざまだったんだ!」
 
 天狗たちが一様に沈痛な面持ちを浮かべる。
 一方でそれを遠巻きに聞いていた美鈴は、ただただ驚愕していた。

(数が減ったところを狙った……?)

 それは狩りの基本でもある。
 だが猪が使うものではない。
 そもそも猪は狩りをする動物ではないはずだ。虫やキノコ、果実を食べる。しかも草食に偏った食性であり、狩りをするほど肉が必要なわけじゃない。
 その猪が、何故か狩りの手法を使って白狼天狗を攻撃した。

(完全に立場が逆転してる……)

 狩る側と狩られる側。
 もしかしたらあの猪神には高い知性があるのかもしれない。白狼天狗の手法を学習し真似しているのか。その内自我を持ち、言葉が話せるようになるのだろうか。それとも話せるのか。
 だがそうだとしても、多分この話は収まらないだろう。
 猪神はきっと、これまで狩られた猪の無念を晴らすべく奔走する。
 そして白狼天狗も祟られた仲間の仇を討つべく牙を剥く。
 その全てを仕組んだであろう八雲紫は、一向に動く気配がない。
 
「なーんか、雲行きが怪しくなってきたなぁ……?」

 そうボヤきつつも白狼天狗はまだ数が上であると誤魔化して、美鈴は昼寝するためにテントの中へ引っ込んだ。



 だが、美鈴の誤魔化しとは裏腹に、一人、また一人と負傷が出てては医療用テントへと担ぎ込まれていく。そのたびに椛は気を落とし、美鈴は頭を抱えたくなっていた。

 結局日が沈み、白狼天狗たちが再び陣に集結する頃には、負傷者は半数を超えた。

 つまり、負傷者は後方に下げた二人を含めて合計十七人。
 残りの天狗は椛を含めて十五人。
 さすがにここまで仲間がやられてしまったとなると、陣にいる白狼天狗の顔色も酷く沈む一方だった。
 集まってなお、誰も口を開けずにいるとなれば、その空気は深みへ嵌っていくしかない。
 
「……もう、ダメだ」

 誰かが漏らした。
 それに責めるような目線を浮かべる者、悲痛に顔を歪める者、同意する者それぞれの反応があった。
 椛はそれに対し怒りつつも、だが同情するような憐憫の籠もる面持ちになる。
 実際、掛ける言葉が見つからない。
 椛はずっと陣にいたのだ。だからどうこう言える立場ではなかったのだ。
 誰も、何も言えなかった。

「取り敢えず負傷者を第二陣へ移せばいいのではありませんか?」

 そこで。
 そこでただ一人だけ、場違いなほどの気楽さを感じさせるほどさらりと、そんな声を出す者がいた。
 美鈴である。

「こうやって黙っていても、どうしようもないでしょうし」

 だが、部外者の言葉を素直に聞くほど白狼たちも気落ちはしていない。
 むしろ勝手に口を出されて怒り心頭となった。猪神に対する怒りがそのまま美鈴へと向いた。
 椛が慌てて仲裁しようと進み出たが、それを美鈴の掌が制する。

「そうやって怒れるならまだ上等ね。その怒りを使ってさっさと負傷者を運びなさいよ。ここに置いたままでも祟りがなくなるわけじゃないし、第二陣だったら妖怪の山から専門家を呼んで、より早く治療に当たらせるなり出来るのでは? あ、それとも現状を上に報告して指示を仰ぐんですかね。まぁ諦めて呆然とするより今は動くべきですよ。そうでしょ?」

 美鈴の語勢は落ち着いていたが、どこか強く天狗たちに叩きつけられる。
 詰め寄ろうとした白狼たちもたじろいでしまうほどだった。
 その様は天狗に負けないほどの気迫を内に感じさせた。

 実のところ、この事態により怒りを抱いているのは美鈴の方だった。

 それは、このままでは猪神の肉をレミリア・スカーレットに届けられないこと、数の上では勝っているのに追い詰められ、そしてそれに戦意喪失する天狗に起因している。
 あとは、まるで動く気配のない元凶の賢者(これが一番大きいかもしれない)など。
 とにかくこのままでは埒が明かない。

「さぁどうする。このままじっと猪神に狩られるのを待つか、仲間の仇を取るために止まらず進むか。二つに一つだ」

 白狼天狗たちが顔を見合わせて美鈴の言葉を考える。
 すでに彼女たちの美鈴への怒りは、行動への気力に転化しつつあった。
 美鈴は椛に目配せをして切っ掛けを頼む。
 椛はその意を汲み取り、改めて白狼天狗たちの前に進み出た。

「……まずは負傷者を後方へ下げよう。それから山に戻って新しい武器を」
「負傷者は十五人だ。どう運ぶ」
「陣を空けてもいい。猪神に用心しながら飛行し、確実に負傷者を後方へ下げろ」
「もぬけの殻はさすがに……」
「いや、私は陣に残る。だが今大切なのは負傷した仲間をより安全な場所に移すことだ。違うか?」
「その通りだ。行こう」

 椛以外の白狼天狗が、ついに動き出した。
 武装を固め、灯りを持つ者が数名。あとは消毒のために身と衣服を清めて、伏せる仲間たちを背負った。
 そうしてようやく動き出した一同をしばらく眺めてから、美鈴は踵を返してゲストテントに戻る。
 その後を椛が追う。
 テントの前まで来た所で、椛が声を掛けて美鈴を引き止めた。

「お前はこれからどうする」
「寝ます。どうせなら明るくなってからの方が、向こうもこっちも見つけやすいでしょうから」
 
 椛はその言葉の意味を一瞬図りかねたが、すぐさま理解して声を上げた。

「猪神と戦うのか!?」
「ええ」

 肯定されて椛は益々驚いた。
 美鈴はさも当然という風で、椛には目もくれずテントへと入った。椛は慌ててそれに続く。

「待て待て! 直に援軍がくる! そうなれば猪神狩りも成功する! 早まるな!」

 椛からしてみれば、既に十五人の仲間が倒されている猪神に挑むなど無謀にしか思えなかった。それは純粋に美鈴を心配しての事だったが、とにかく焦った椛はそれを自覚していない。
 自覚していれば、抱く羞恥ゆえに口を噤んだろうに。
 だが美鈴は気にせず椛に尋ね返す。

「私がこの陣に来て、もう三日が経ちます。これから猪神の討伐が成されるまでどれくらいの日が必要ですか?」
「え、えっと、それは……」
 
 椛に即答できる質問ではない。
 報告と指示が出るまでにどれほどの人数が経由されるか。
 新たな作戦が出るまでの時間は? それが配備されるまでの日数は? 
 しかしそうして考えうる可能性を洗わずとも、この戦いがあと二、三日で終わるわけがないことは誰もが分かることだった。

「さすがにお嬢様を一週間も待たせたら、私の身が危ないのですよ~」

 堪え性のないレミリア・スカーレットにどやされるのは慣れているが、それでもお仕置きは勘弁願いたいものだ。
 納得の行かない椛に、美鈴はやれやれと子供をあやすような笑みを浮かべて話を続けた。

「〝モミザベス〟ちゃんの懸念も分かります。さすがに私も猪神にただで勝てるとは思ってません。けど今回の白狼天狗の大敗は、ちょっと彼女たちにも原因があると思います」
「……何?」
 
 変なあだ名はともかくとして、椛は仲間のことに口を出されてむっとした。
 美鈴は獲物を罠にかけたようなしたり顔になる。
 
「気になりますか? 教えてあげましょうか?」
「お前にはそれなりに感謝していたんだがな、仲間を馬鹿にするならそれもこれまでだぞ……」
「なら貴女は今日これまでの白狼天狗が完全無欠の完璧無傷に見えていたの?」
 
 突然目つきと口調が厳しくなって、椛はたじろいでしまう。
 それからこれまでの仲間の美鈴に対する所業を思い出し、全く完璧ではないこと、そしてそれ自体を自らが彼女に謝罪したことを思い出して、閉口した。
 美鈴はまた子供をあやす微笑みを浮かべる。

「勘違いしないで欲しいのですが、私は白狼天狗を馬鹿にする気は全くありませんよ。そりゃあまあ蔑ろにされて思う所がないといえば嘘になりますけど、それとこれとは話が別です」

 椛はしばらく考え、やがて溜息を吐いて観念したというふうに肩を落とした。

「分かった。教えてくれ」
「簡単ですよ。リーダーがいないんです」
「あっ!」

 確かにそうだった。この猪神狩りは面目上《団結を深める親睦会》の体をなしていて、そこに指揮する者などはいなかった。作戦だ何だと言いつつ、明確な命令系統はなく、誰が誰に頼み事をするようなお気楽な物ばかりだった。
 群れの中に頭がいないとなれば、それは烏合の衆も同然か。
 狼だなんだと、聞いて呆れる話じゃないか。

「あとはまぁ、これは猪神の問題でもあるんですけど、装備が猪神に対して弱いのと、戦術を学習されてますね、完全に」

 どういう意味か理解できず、椛はその言葉に返事ができない。

「あの猪神は相当頭がいいと思うのですよ、対策も早いし。それに技も豊富ですから、もう一筋二筋程度の縄じゃどうにもならないでしょうね」

 美鈴があまりに猪神を褒めそやすので、情報を飲み込めなかった椛も猪神の凄さだけは理解できた。
 そして同時に、美鈴が抱く猪神への警戒にも思い至る。
 彼女が語れば語るほど、注意深くその動向に気を配っているという証拠となるのだから。
 
「そんな奴に、挑むのか……?」
「はい」

 美鈴は淀みなく言った。
 あまりに邪気のない声と視線に、もう椛も言葉を返せなくなる。
 彼女の様子は、まるで遊びを待ち遠しく思う子供のようだ。
 どうして彼女がそんなにも活き活きとしているのか椛には全く理解できない。
 美鈴はまた衣服を脱ぎ去って下着姿になり、寝床へと伏せる。
 そして椛の疑問を察したように、それに笑って答えた。

「やっぱり、そういう奴と一度くらいは戦ってみたいというのが、妖怪の免れない性というものではありませんか?」

 それから自分の横をぽんぽんと叩いて、椛に同衾を促してくる美鈴。
 だが椛はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
 何故なら美鈴が浮かべていた笑顔が、到底人のそれではない、ひどく妖しく、また凄まじい怖気を生む物で、それが静かに椛の背筋を冷たくさせていたからだった。
 暗闇の中で、爬虫類のような青い炯眼が二つ、椛を見据えている。
 
「……私は、そうは思えない」

 精一杯の気力を振り絞った反論の後、椛は狼へと変化して美鈴の横に伏せる。
 断る気には、全くなれなかった。



   九

 翌日明朝、空が白んでくる頃。
 美鈴は起床して太極拳を行った。複雑で長い套路、気の遠くなるような遅さの中で、美鈴は己の中を巡る気を狂いなく整えていく。
 椛はすでに床にはいない。
 同衾はしたが、すぐに起きて陣の警邏に当たっていた。
 もう白狼天狗の陣には美鈴と椛以外の妖怪はいなかった。皆第二陣へと下がっていた。
 
「ふぅ」
 
 太極拳を終えた美鈴は、改めて戦いの準備をする。
 と言ってもシャワーを浴びて汗を流し、衣服を変えるだけだ。
 いつも着ている緑のチャイナドレスではなく、真っ赤に染まった布地に梵字、八卦、タオの描かれた麻布の道士服である。
 それは襟元が高く、飛頭蛮のマントのような上着で、美鈴の髪色と相まって、着こめば肌色がほとんど見えなくなった。彼女自身が烈火と化したように見える。
 帯を結び、頭髪を後頭部に纏め、動きやすい身なりとなった美鈴がテントを出る。

「うわ」

 外で待っていた椛が、美鈴の異様な姿に思わず声を上げた。

「凄いな、まるで鬼だ」
「ぶっは! そんな馬鹿な!」

 美鈴は自分を鬼と例えられて腹を抱えて大笑いした。
 美鈴が知る中で真紅の鬼といえば吸血鬼レミリア・スカーレットをおいて他にいない。
 自分と彼女を比べては天と地の差がある話だと思い、それが笑いのツボに入ってしまった。
 ひとしきり笑った後、美鈴は涙を拭いて向き直る。

「じゃ、行きましょうか」
「私は行けない。陣を護らなければ」
「今更こんなもぬけの殻の陣を気にかけなくてもいいでしょう。それよりもやられた仲間の仇を討つべきではありませんか?」

 美鈴の言葉は筋が通っていた。
 彼女の言うことの多くが道理に適っているので、椛はもう反論する気にすらなれない。
 
「……その通りだな。私も行こう」

 椛はふと、美鈴が手ぶらなことを疑問に思った。

「武器は持たないのか?」
「私にはこれがありますから」

 美鈴はひらひらと手を降って見せる。椛はよく分からず首を捻る。
 しかし、その手こそが紛れもなく彼女の牙であり、剣であった。



 そして間もなく、二人は陣を出立した。
 明けていく空と深緑に満ちる地の狭間を飛びながら、美鈴が安堵するように笑う。

「正直私一人じゃ絶対勝てないと思っていたので、貴女が一緒に来てくれて良かったです」
「そうなのか? 昨日は自信満々という感じだったのに。てっきり私は証人か何かで呼ばれているのかと思ったぞ」
「そんな訳ないでしょう。私がそんな強そうに見えますか?」

 少なくとも椛には、彼女の言葉を真に受けることは出来なかった。
 美鈴は手頃な広さがあって、視界の広い場所を探す。
 しばらくすると森の一部に窪んでいる部分を発見、二人はそこへ降り立つ。
 現れたのは静かな湖で、畔は巨大な大木の影になっている。水はどこまでも澄み渡り、底は浅い。
 ここなら丁度いいだろう。

「狩りを始める前にお願いしてもいいですか?」
「なんだ?」
「武器や妖術は使ってもいいですが、人の姿ではなく狼で戦って欲しいんです」
「何?」

 椛は美鈴の言葉を訝しんだ。
 狼姿で戦うのは大変だ。椛としては人間型のほうが動きやすい。
 何故そんな手間をしなければ行けないのか?

「ほら、前に言ったでしょう? 狼と一緒に戦いたかったって」

 一昨日の寝床での言葉だ。
 だがそんな下らないことのために手間を掛けるほど、椛も酔狂ではない。
 ふざけるなと怒鳴ろうとしたが、それを見た美鈴が苦笑して掌をこちらに向ける。

「というのはもちろん冗談でして、恐らく猪神は白狼天狗の戦法を熟知していますから、そのままではそっちも不利だと思うのですよ」
「う……確かに」
「まぁ、無理強いはしません。ただ、私に何があっても助太刀はやめてください。無視して、猪神に集中して、危なくなれば飛んで逃げてください。間違っても私を助けようとはしないで。いい?」

 念を押すように強くきつく言われる椛だったが、疑問を挟めずにはいられない。

「何故だ?」
「なんででもです。私も貴女がどうなったところで助けはしません。いいですね?」

 美鈴は既に問答無用という風だ。椛は渋々それらを首肯した。

「ありがとう。それじゃあ遠吠えをお願いします」

 言われるがまま、椛は武器を置いて狼に化けた。
 今度は今までよりも二回りは大きい体格の巨狼だ。人なんて丸呑みに出来そうなほど大きい。
 その美麗で見事な巨躯に、美鈴は言葉も発せないほど見惚れていた。

 椛は地面を踏みしめて、大気が震えるほどの遠吠えを発する。

 どこまでもどこまでも届くよう、椛は腹の底から声を出し、喉を震わせた。
 染み渡っていく椛の声に、美鈴は感動して聞き浸る。
 幾度かの遠吠えの後、やがてその場にうっすらと霧が立ち込み始めた。

(来たな……)

 美鈴と椛は同時に身構える。
 のしり、のしりと重厚な蹄の音が響く。木の根が踏み潰されて悲鳴を上げる。
 鳥や獣の怒号や悲鳴が木霊して、恐ろしい何かがこちらに向かっていることを知らせていた。
 そして、より一層霧が濃くなった頃、猪神が姿を表した。

『何……!?』

 思わず椛が驚きの声を発した。
 猪神の姿が、以前とは全く異なっていたのだ。
 老いて無残に白髪となっていたはずのその体毛は、今や艶やかな黒炭に染まっている。
 足腰には力が漲り、目には活力が満ち満ちて、確かな霊気が宿っていた。
 白髪の老人という風だった猪神が、今や黒鉄の鎧を着込む武者のよう。

「多分、猪たちの霊気を吸って若返ったんでしょう」

 美鈴の説明で、椛は初めて猪神と遭遇した時のことを思い出した。頭をぶつけて死んだ猪が、猪神によって一瞬で白髪化していった時のことだ。
 だが説明されてなお、椛は信じられないという心境にいた。
 美鈴と猪神の視線が交わり、すかさず美鈴が叫ぶ。

「猪神よ! お前の首を狙う者がここにいるぞ!」

 その声は轟き、よく響く。大きな内力の籠もった声だ。
 猪神は静かに美鈴を見据えている。まるで巨大な湖のように、美鈴の叫びを小さな波紋として吸収し、微動だにしない。

『おい、どんな作戦で行くんだ?』
「作戦? ありませんけど」
『え!? おま、お前! あれだけ自信満々に殺せるって言ってたじゃないか!?』
「あれは猪神が肉体を持ってるから、なら息の根を止められるねって話です」
『えぇ、そういう……』

 美鈴のあまりの無計画さに、椛は天を仰ぎたくなった。
 だが後悔してももう遅い。もう賽は投げられてしまっている。どうすることもできない。

「とりあえず当たって砕ける感じで!」

 身を屈めて突撃体勢を取り、美鈴は好戦的に笑う。
 それはおよそ人でも、ましてや獣でもない。獰猛と戦意を綯い交ぜにした、正しく怪物の笑みだ。
 
「犬走椛、武運を祈る!」

 そう叫んで美鈴が疾駆する。
 凄まじい力の籠められたスタートに、突風が巻き起こって彼女の蹴った地面が思い切り抉れた。
 そして美鈴は風のように走り、そのままの勢いを乗せ猪神に向かって跳躍する。
 その全ての動作に、虹色の燐光が零れ、舞う――それはひどく幻想的な光景だった。
 だが椛はそのことよりも、美鈴にしっかりと名を呼ばれたことに、感動のような物を覚えていた。
 今まで碌でもないあだ名で呼ばれ続けただけに、その感動は殊更だ。

『ふん! お前もな!』

 美鈴が猪神に仕掛ける。瞬時に距離を詰めて右足による飛び蹴りだ。
 彼女の足底が、確かに猪神の眉間を捉える。

「おぐっ、固……!?」

 ばん、と鈍い音が響いた。足底は確かに捉えたものの、だが猪神は依然として微動だにしない。
 まるで大きな鉄塊を蹴ったような感覚があった。
 力の何割かが反動として美鈴の足に返ってくる。膝を折って吸収を試みるが、わずかな痛みが走って美鈴は呻く。
 すぐさま猪神の頭を蹴って後退、距離を取った。
 様子見とは言え、岩を砕く程度の威力は込めたつもりの蹴撃が全く通用しないことに、美鈴は愕然とする。

(とんでもない内力だ、生半可な力じゃこっちがやられる……!)

 気を改めようとした時、猪神が深重な哮りを発した。
 それから上半身を振り上げて、前足を地面へ叩きつける。
 どどんっと、凄まじい音と衝撃が駆け巡った。
 猪神は地を蹴って走り出す。蹄の重々しく、また何度も地を打つ音が轟く。その牙は真っ直ぐに美鈴を向いている。

(速い!?)

 三〇メートルはあっただろう距離が、数拍で詰められてしまう。猪神の巨体も相まって尋常ではない威圧感だ。美鈴は慌てて横に飛んで突進の軌道から退いた。
 豪風が駆け抜けて美鈴の髪を掠めていく。
 もし喰らえば一溜まりもなかったろう。思わず背筋がどっと冷たくなる。
 回避する間にも、猪神を視界内に捉え続けた美鈴。
 しかしどれくらいの力が通るかをいまだ図りかね、もう一度後退して距離を取る。
 ふと椛の所在を気にしてぱっと周りを見るが、見当たらなかった。身を隠して機を窺っているのか。

(さて、どうしたものか……)
 
 猪神は急停止、前足を振り上げて後ろ足を軸に身体を回転させて方向転換し、美鈴の方を向く。
 猪神の目は、変わらず落ち着き払っていて何の激情も宿らせては居ない。
 そういう相手が一番厄介だということは、美鈴もよく知っていた。
 睨み合いはすぐに終わる。
 変化だ。猪神の全身の毛がぞわぞわと蠢いて、大きく纏まり始めた。毛並みは硬質な刃となってギラギラと光り、まるで針鼠のようだ。
 だが猪神ほどの大きさともなれば、それは剣山に等しく、人を安易に寄せ付けない。
 これは明らかに、美鈴のスタイル(近接戦闘)に合わせて取った形態であろう。学習し、対応したのだ。

「だからどうしたっ!」

 美鈴が吼えて吶喊する。彼女にとってはそんなものは何の障害にもならない。
 疾走と跳躍、そして猪神の眉間に飛びついて拳打を放つ。
 強かに、そして深く。剣山ががしゃんとガラス質な音を立てて砕け散る。硬気功によって拳は鋼以上の硬度まで高まっている。美鈴は何度も何度もその拳で相手を撃つ。
 猪神の体が衝撃で揺れた。攻撃にも先ほどとは比較にならないほどの力を籠めていた。
 さすがにこれは堪えかね、猪神が頭を大きく振るって美鈴を投げ飛ばす。
 剥がされた美鈴がそのまま空中で体勢を整えて着地、猪神と距離を取る形となった。
 すぐに美鈴は追撃しようとするが、拳に痛みを感じて思わず呻き、足が止まる。
 見れば、手に刺さっていた剣毛の欠片が、どろりと溶けて黒い泥となり、皮膚に染み込んでいる。
 毒――いやこれが祟りか。 

「くそ……」

 慌ててその泥を払い落とし、美鈴は経絡を静めて祟りが侵攻するのを防いだ。それでもいくらかはもう肉に染み込んでしまっている。
 まだ付着した部分がひりひりしびれる程度だが、さらに喰らえばやがて激痛へと変わる。
 あの全身に纏う針山も、全て祟りが篭められているのかと思うと、もう迂闊には手を出せない。

(捨て身でやるなら気にしないんだけど……)

 まだ捨て身になるほど美鈴は窮していない。
 美鈴が猪神に向かって構える。猪神もまた、応えるように咆哮する。
 振り上げた前足を叩きつけて、猪神は美鈴に向かって突撃した。ど、ど、ど、とまるで心臓のように蹄の撃が響く。がしゃがしゃと剣の体毛がけたたましく喚く。
 美鈴は飛翔してその突進軌道から退避した。
 空を飛べば猪神は追ってこれないだろう。
 猪神は美鈴の下をそのまま素通りするが、立ち止まることはせず、速度を落として方向を変えて、美鈴を中心としてその周りを円周上にぐるぐると歩いていく。

「まだ飛べないのはラッキーだわ」

 何周かすると、美鈴が降りてこないことを悟った猪神は足を止め、頭を大きく振るった。
 すると黒い物体が夥しい水飛沫のように放たれる。
 それは白狼天狗に刺さっていた鏃だった。
 弾幕ごっこの要領でそれを大きく躱していく美鈴。ごっこ遊びと違って容赦のない攻撃だが、空中にいる分回避するスペースには事欠かない。それに密度も低い。
 通用しないので、猪神も鏃を飛ばすのを止めた。
 代わりに低く重い唸り声を発する。

 すると、猪神の身体から蒸気のように噴出した。

 蒸気というよりそれは霧だ。
 ひんやりと冷たい霧が、立ち所に美鈴の周りさえも覆ってしまう。煙幕のように辺り一帯を白く染め上げる。

「まずい……」

 気を探るが、そこら中に猪神の気配があって頼りにならない。全てはこの霧のせいだ。
 心を落ち着けて、美鈴は周囲の気を探り続ける。
 だがどれだけやっても手応えはない。完全に見失った。
 焦り、大粒の汗が一滴、美鈴の頬を伝う。
 そして不意に、背筋に凄まじい悪寒が走った。悪寒に成されるがまま、美鈴は後ろを振り返る。

 そこには猪神の牙が迫っていた。

 空中なのに。何故? どうやって? 意味のない疑問が駆け巡り、体を捻って躱そうとするが避け切れない。全てが遅すぎた。
 牙の先端が美鈴に突き刺さる。
 白い荒削りな太牙をもろに腹に喰らってしまう。

「うっ、ぐぅ……!」

 遅れはしたがなんとか硬気功で身を固めた美鈴。しかし空中では力が流せずそのまま吹き飛ばされてしまう。
 やがて美鈴の背中を、どんっと大木の幹が強かに打った。
 美鈴は抵抗できずに地面へと落下し、そこに猪神が空中を蹄で叩きながら追撃してくる。
 逃げようしたが、胸に詰まりを覚えて咳き込んでしまう。
 胸の違和感はどうやら祟りのようだ。再び一歩行動が遅れて、猪神は目前まで接近していた。

 もうダメだと思って、美鈴は目を瞑る。

 なけなしの力で硬気功を使って身を固めたが、気息が乱れた上で果たしてどれほどの効果があるのか。
 いくつもの不安が胸をよぎり、やがて無心となる。
 訪れるだろう痛みに対して身を強張らせているが、突然襟を引っ張られるような感覚に襲われた。
 遅れて猪神の突進が大木に突き刺さり、激しい破砕音が轟く。
 浮遊感、荒い息遣いが近い。逆に、猪神の気配が物凄い速さで遠のいていく。
 目を開ければ、美鈴は白い大狼に襟を咥えられて引き吊り回されていた。
 
「椛!」

 あまりに嬉しくて美鈴は叫ぶように彼女の名を呼んだ。
 だが同時に驚愕もしていた。今まで何をしていたのか。それに、まさか助けてくれるとは思ってもみなかった。嬉しい誤算である。
 やがて猪神から距離を取った椛が、口を離して美鈴を地面に下ろす。

『全く……お前の所為で奇襲が台無しだ』
「面目ない。大きな借りが出来ました」
『ふふん、高く付くぞ』

 得意げに鼻を鳴らす椛の首上を、美鈴がなんともなしに撫でる。思いの外気持ちよかったが、そこまで許してないと椛は首を振って彼女の手を払う。
 椛は周囲を見回して、猪神の位置を探った。

『まだ遠いな……』
「分かるんですか? この霧の中で? どうやって……」
『臭いだ。猪神の臭いは独特過ぎて分かりやすい』

 盲点だった。早速内功を使って嗅覚を高めてみる。
 が、思ったような臭いは感じられなかった。
 狼は優れた嗅覚を持っている。それは三キロ先の獲物の臭いを察知するほどだ。それと比べれば人間の鼻を多少高めたところで比較にはならないのだろう。

「う~ん、白狼天狗が手を焼くわけですよ。強過ぎる……私じゃ駄目みたいです、椛は勝てそうですか?」
『ぶっちゃけるが無理だと思う。仕留めるビジョンが浮かばない』
「さっき言ったじゃないですか。肉があるんですから息の根を止めれば勝てます」
『どうやって息の根を止める? 首絞めか? 失血死か? 猪神は未だに傷一つ無いんだぞ』

 と反論しながら、椛は猪神が動き出したことを察知する。

「じゃあまずは、傷を付けるところを目標にしましょうか」
『お前、フザケているのか?』

 あまりにも軽く言ってのける美鈴に、椛が苛立ちを覚えた。苦戦していたくせに偉く軽い口調である。
 あんな目にあってまだ状況を理解できていないのか。楽観視にもほどがあるんじゃないか。

「とりあえず霧が邪魔なんで晴らしますね」

 美鈴は跳躍した。そして空中で体を大きく、そして高速で回転させる。
 虹色の光が舞った。
 その回転は風を呼び込み、霧を巻き込み、吹き飛ばす。
 周囲に漂う気すらも使って、美鈴は一個の台風と化す――スペル《彩光乱舞》だ。
 もっとも弾幕用などでなく、それこそ台風のように激しく巨大な渦を作るために一切の制限をかけていない。力を込めればいくらでも風を掴める。たちまち白夢は竜巻に吸い込まれて霧散する。
 そして猪神の姿が露わになった。

「見つけた!」

 美鈴は回転を止め、そのまま空中を蹴って降り立ち、すぐさま猪神に向かって距離を詰める。
 瞬く間に眼前に迫った美鈴に、猪神は慌てて前足を振り上げて踏み潰そうとした。
 だがそうして猪神の腹が見えた瞬間、美鈴はさらに地を蹴って加速、懐へと飛び込み、猪神の胸部へ両掌撃を見舞った。
 ばちり、と猪神の全身から虹色の電光が弾ける。
 大量の霊力を流し込んで、それを暴発させる技――《彩光蓮華掌》。
 経絡にダメージを加え、なおかつ猪神の体勢を仰け反らせる形で固定する美鈴。ダメ押しで膝蹴りも食らわせる。猪神は抗えず、そのまま後ろに転倒した。
 
(やっぱり狙うなら腹かぁ……)

 美鈴は一度猪神から離れる。腹のことを椛に伝えようとしたが、もう彼女の姿はどこにも見当たらなかった。きっと息を潜めてまた機を窺っているに違いない。
 それほどダメージの入ってない猪神が、身体を捻って起き上がった。
 美鈴も素早く地面に掌を着けて、次の攻撃の準備をする。

(《激龍内勁》……!)

 激しい気が渦巻いて、美鈴の髪を炎のように激しく立ち上らせた。それはスペル《猛虎内勁》の強化版。地下を流れる龍脈と繋がり、数十倍の気を練り上げる。
 強力だが、その実、身体にくる反動も大きい。
 莫大な気が身に流れ込んで、美鈴は軽く目眩と吐き気を覚えた。身体が割れるように痛み、丹田や脳が沸騰するような感覚に襲われる。
 だがもう後戻りはできない。
 気息を整えて美鈴は猪神に拳を構える。
 
「来い!」

 美鈴が吼える。猪神も応えるように嘶いて地を蹴った。
 大地が震えるほどの力と勢いで猪神が突撃する。
 すると美鈴の構えが、猪神を正面に見据えて仁王立ちという、まるで猪神を受け止めようとするような形に変わった。
 猪神との間がもう数歩という距離で、美鈴が右足を出して震脚を行う。そして両手を突き出して猪神の牙に合わせる。完全に猪神を受け止める体勢が整う。
 十分に接近した猪神も、頭を振るって牙を美鈴に突き出した。

 ばん、と激しい衝突音が轟く。

 空気が弾けて風となり、力が流れて美鈴の髪がたなびく。
 踏みしめていた足が地面を抉って、その身を後退させる。すぐさま触れている手にも祟りが侵攻してくる。
 だが、数メートル滑ったところでその動きが止まってしまった。
 猪神の眼が見開かれた。
 美鈴は、まるで大木や巨岩のようにもうびくともしない。
 何度か足で地面を蹴っても、これを動かすことが出来ない。

「ニィ……!」

 美鈴の目は蒼く煌々と輝いていた。その内には彼女に内包された莫大な霊力が見える。
 それを使って、美鈴は下げていた左足の膝を思い切り猪神の顎にぶつけた。
 ばきりと猪神の骨が砕ける。
 同時に美鈴の足骨にも亀裂が走る。

 それでも猪神の前足は地面を離れ、前身が軽く浮き上がった。

 その僅かのスキマを美鈴は見逃さない。
 膝蹴りによって振り上げた左足で再び震脚。足がみしりと悲鳴を上げるが構いはしない。身を一気に屈めて、下半身に勁を集める。

「《地龍天龍脚》……!」

 白色の光が氾濫する。
 虹色の燐光が乱舞する。
 霊力は漣となり、美鈴は地面を蹴って飛翔、右前足を突き出した。

 それは白光の線を描き、うねり、正しく龍が如く。

 龍頭が猪神の腹部を捉えると、余りの力に猪神は成す術がなく、蹴り飛ばされてしまう。
 空中で横に錐揉みしながら地面にもんどりをうち、美鈴の前から五〇メートル以上は飛ばされた。
 まるで丸太が転がるようだ。だがもちろん、猪神は丸太のような大きさではない。猪神は最後に横這いとなって地面を滑る。

「椛!」 

 美鈴の叫びよりも速く、椛が茂みから飛び出した。口には白狼天狗の大剣を咥えている。
 椛も美鈴の意図をしっかりと汲んでいた。
 だからこそ身を隠し、今こそ好機と見て飛び出してきた。
 横這いで痛みにもがいている猪神に、全速力で迫る。その勢いとともに首を振って大剣の切っ先を見えている猪神の胸部に向け、最後の一歩を跳ぶ。

 そして肉を貫く音とともに、猪神の叫び声が轟いた。

 剣は胸骨を貫いて猪神の心臓へ達する。
 傷口から吹き出た返り血が、椛の頬に飛散した。 
 仕留めたと椛は確信した。返り血が祟りとなって白い毛並みに染みこんでいくが、どうでもよかった。
 
「離れろ!」

 だが美鈴がそう叫ぶ。椛は『何?』と一瞬呆けたが、直感が働いてすぐさま剣を引き抜いて後ろに飛び退く。
 少し遅れて、椛にいた場所が突然発火した。
 小さな火が勢いを増し、やがて土も雑草も燃やしていく。
 猪神の周りで、幾つもの篝火が生まれて、燃え盛った。
 椛が慌てて美鈴のいる場所まで後退する。
 
『あれも猪神の力か!?』
「ええ多分……」

 猪神がよろりと身を起こす。胸部の傷から血が溢れるが、その勢いが次第に静まっていった。
 その様子から美鈴は状態を把握する。

(心臓に力を籠めて傷を閉じた……心臓旺盛ゆえに火行旺盛ってこと?)

 元々全身にやけどを負った白狼天狗がいたため、そういう技も持っているだろうと美鈴は推測していたが、予想よりも勢いがずっと激しい。若返ることで力が増しているのだ。
  
『また易々とは近付けなくなったな……』
「炎は嫌いですか?」
『夏の虫は御免だね』
「ですが火中の栗は火傷しても拾えと言いますし」
『……それは虎穴の諺の方が正しいのでは?』
「そうでしょうか……そうかもしれませんね」

 猪神が咆える。その口が真っ赤に燃えて、そこから火弾が数発放たれる。
 美鈴たちはそれぞれの方向に飛び、それを躱した。

「まぁ唆されてあげますよ! 他でもない貴女のために!」

 そう叫んで美鈴が猪神に突撃する。
 椛は美鈴の言葉の意味を察しかねた。それよりも炎の中に飛び込もうとする彼女の無謀さに心臓がひどく収縮する。
 猪神はなおも火弾を美鈴に向かって吐き続けたが、そのことごとくを美鈴が躱し、距離を詰めていく。この程度は簡単以下だ。
 あと一〇メートルもないくらいにまで接近されると、さすがに猪神も火弾を止めた。
 
 しかし代わりに口から火炎を放射する。
 
 なぎ払うように振るわれた火炎の剣だった。避けようと美鈴が足に力を入れたが、ずきりと左足に痛みが走って遅れを取る。もう避けきれない。

「くそっ!」

 慌てて美鈴は歩型を整えて両手を火炎に突き出す。
 それを円形に動かすと、気が溢れ、虹色の渦が、まるで盾のように美鈴の前に現れた。
 《水形太極拳》――火炎が渦に当たると、その一部が渦に呑み込まれていく。
 火炎は弾幕のように霊気によって象られているため、美鈴はそれを水形太極拳で吸収、無効化出来たのだ。
 だが火炎は並みの勢いではない。
 すぐに渦に留め切れなかった霊気が身体に流れ込んでくる。
 元々龍脈に繋がって気を貯めていた美鈴の許容量は限界に近い。電撃のような激痛が腕から全身を駆け巡った。
 やがて美鈴の腕に亀裂が走り、白光の霊気が漏出する。完全に容量オーバーだ。

「ぐぅぅぅ――っ!」

 傷口からさらに黒い色が迫り上がってくる。
 祟りだ。
 霊気障害なのだから、猪神の霊力を得れば必然それも取り込むことになる。
 失神しそうになるが、美鈴は下唇を噛んで必死に踏ん張る。
 やがて、猪神が火炎放射を止めた。
 だが立っている美鈴を見て、彼は思わず一歩後ろに足を下げた。まるで人間らしい驚きの仕方に美鈴が嗤笑する。

「もっと驚け! お返しだ!」

 回していた手を逆回転させる。溜め込んだ霊力を使って気弾を作る。通常であれば《水形太極拳》は簡単な気弾返しだが、ここで美鈴は一つアレンジを加えた。
 圧縮を繰り返して何倍もの気を籠めて、それを猪神に向けて放つ。

 虹色の渦とともに飛ぶ巨大気弾――《星脈地転弾》へと繋げたのだ。

 何重にも圧縮され小球となったそれは光線のように尾を引いて猪神に着弾する。
 弾丸は暴発し、その場に嵐を生み出した。
 龍が呼ぶような烈風と豪雷だ。その爆発が猪神の巨体を吹っ飛ばす。
 猪神はまた丸太のようにごろごろと転がった。大木に背中を打ち付けて、それでも勢いが止まらずに何本かを薙ぎ倒した。粉塵が上がって、木の割れる音が轟く。

 だが猪神もそれで終わるはずがない。

 血を吐き出すほど強烈な怒号を発して、なぎ倒された大木を頭の一振りで彼方へと放って道を拓き、粉塵を破って美鈴へと突撃してくる。

「全くタフだなぁ……」

 美鈴はぼやいて苦笑した。
 両腕は既に感覚がなくなり、足の骨はいつの間にか折れていた。気功術で治している暇もない。
 もう無理か。
 そう思うと、全身からすっと力が抜けてしまった。

 それはまるで、死刑を待つ哀れな罪人と無慈悲な執行人のように見えただろう。

 美鈴の顔に少しの悔いはなく、ただじっと猪神を見つめて微笑んでいる。訪れる力の塊に対して、何ら恐怖も後悔も抱いてはいない。
 猪神の目に容赦はなく、全力を持って大地を駆ける。
 風の唸り、土の軋み、その全てが渾然一体となって分からなくなり、美鈴はただ、怒りに満ちる猪神の目を、じっと見詰めていた。
 
 そして肉を打つ音が鳴る。

 血の匂いが飛び込んでくる。
 猪神の声が轟く。
 だたしそれは勝鬨ではなく、苦痛を伴っていた。

「椛……っ!?」

 白い巨狼が、猪神の剣山に構うことなくその横腹に体当たりをして、猪神の突進を阻止した。
 そうして猪神を押し倒した椛は、猪神に胸に刻まれた傷に噛み付いて、肉を引き千切るべく首を振るう。
 猪神は痛みに悶え、後ろ足を我武者羅に動かした。それが偶然、椛の胴に当たって骨を砕く。一発、二発三発。堪らず椛は牙を離し、後ろに転がされてしまう。
 
 だが、椛が作ったその一瞬を美鈴は無駄にしたりはしない。

 美鈴の目が炯々と輝く。蒼き龍眼を獲物に向けて美鈴が吼える。
 突風のように飛び出して猪神の腹の傷に接近し、そこに右手を剣のように象って貫くように差し込んだ。

 その手はやがて心臓を探り当て、それを鷲掴みにする。

 爪を牙のように肉に食い込ませ、決して離すまいとする。
 さらに最後の力を振り絞り、美鈴は手を抜いて心臓の一部を引き千切った。
 傷口から血が猛然と吹き出し、その返り血が美鈴に振りかかる。
 猪神が断末魔の叫びを上げた。もがくほどに血が傷口から滝のように流出した。
 それでも、猪神は暴れた。
 最後の力を振り絞って何とか美鈴に一矢報いようと足を振るった。
 だが美鈴は既に後ろに飛び退いて、その場にはいなかった。
 もう、勝敗は決していたのだ。



 後退した美鈴は足を引きずりながら椛の側に寄り、彼女の容態を確かめる。
 
「大丈夫?」
『まぁ、なんとかな……』
 
 喀血し、絶え絶えの息を吐きながら椛が言う。肋骨は砕け、顔のほとんどには祟りの黒い痣が浮かんでいるが、全てが終わった今では憂慮することではない。
 二人は今にも立ち上がろうとする猪神の前に移動する。
 美鈴は血に染まった顔を大まかに拭って、彼に引き千切った心臓の一部を差し出して、見せつけた。

「猪神よ、お前の心臓を手に入れたぞ。これで決着はついた」

 そう告げる美鈴の声に、だが喜楽の感情は宿っていない。
 むしろその声には悲痛な嘆きが込められているように椛は感じ取った。

「お前との戦いは熾烈だった。お前の力は果てしなかった。お前と戦えた事を、私は誇ろう」

 毅然とした態度で、美鈴は告げる。
 その目はどこまでも猪神を見詰めていた。
 その言葉はどこまでも猪神を向いていた。

 文言はまるで神に捧げる祝詞のようで、空気は厳粛で、穏やかな気が満ちている。

 だがやがて、美鈴の目には耐えられなかった涙が浮かび、頬へと流れ落ちた。
 椛はただじっと、猪神を見つめて声を出したりはしなかった。

「お前の血肉を無駄にはしない。その全てを力と成そう。私は塚を築いてお前を祀り、お前はやがて神霊となるだろう。その時まで、どうか安らかに眠れ、誇り高き獣の神よ」

 美鈴は拳を掌で包んで拱手する。合わせて椛も頭を垂れた。
 猪神はそこで目を瞑り、やがてゆっくりと横に倒れて動かなくなった。
 結局猪神は言葉を理解していたのだろうか? それは誰にも分からないことだった。

『…………』

 感謝を表す礼の間、永遠とも思えるその時間で、椛はここに至るまでの一切を回顧し、頭の中で反芻した。
 猪神の姿。仲間の負傷。美鈴との共闘。
 そして椛の中で、猪神への感謝と尊敬の念が湧き出てくる。

 彼は正しく神であった。猪たちが信仰する群れの長、そして力の権化だ。

 狩られていく同胞のために立ち上がった老獣。
 美鈴の言葉を思い出す。
 老いは欠点ではなく美徳なのだ。
 やがて、美鈴が頭を上げる気配を知り、椛も頭を上げた。

「じゃあ、勝鬨を上げましょうか」

 椛は頷いて、痛みを堪えて遠吠えを発した。
 どこまでも響く狼の声は、この仙境に染み込んでいく。
 痛みで咳き込んでも、椛はしばらく遠吠えを続けた。
 やがて、美鈴は徐ろに猪神の心臓を口に入れて、それを噛みちぎった。
 そして残りを椛の方へと差し出してくる。血肉を無駄にはしない。力を成す。これがそういう事か。そう理解した椛は残りの全てを口に入れた。血の匂いと生の心臓、獣の食事だったが、それを嫌だとは思わない。
 美鈴はずっと泣いていた。
 嗚咽こそ漏らさなかったが、その透明な涙が止まることはなかった。



   終

「というのが、今回の事の顛末です」

 次の日、夜。
 紅魔館・本館二階、再び三番目の応接室にて。
 美鈴は赤い布のプレースマットが敷かれた円卓について、対面に座るレミリア・スカーレットに経緯を報告していた。
 その報告は個人的な部分は極力排し、よりドラマティックでアクロバティックに(あと多少の嘘を混ぜて)語った。美鈴の両腕と足はまだ治療中で、身振り手振りを加えられないのが非常に悔やまれたが、それが逆に美鈴の話術の腕を光らせた。
 レミリアはそれを面白そうに、また不安そうに、時には身を乗り出して聞き入っていた。
 だが結末を聞いた時、レミリアは不満そうに頬を膨らませて椅子の背に靠れる。

「待て待て、肝心なのはその後だろう。聞いた限りじゃお前は、白狼天狗の窮地を救った功労者、英雄じゃないか。なのになんで感謝状や品も、讃える者さえもウチに来ないんだよ? おかしいじゃないか」
「あー、まぁそれは……」

 正直言ってこの後の話は蛇足だと思っていた美鈴は、あまり進んで言おうとは考えていなかった。だが彼女に追及されてしまえば、それを明かさないわけにはいかないだろう。

「実は、今回の猪神討伐の功績は、全部椛に譲っちゃったんです」
「えー! なんでよ!? その心は!?」
「私の危機を救ってくれたといえば美談になりますけど、切っ掛けは八雲紫の提案です」

 そして補足し始める。猪神を討ち倒してから起きた出来事を。



 心臓を食んだ後、美鈴と椛は猪神の肉をどうするべきか検討していた。
 解体して塚を築くという点で意見は一致している。段取りとして、椛が陣へ戻り、幾つか道具を持ってくるということになった。早速椛が人型に戻り、陣へ飛んでいこうとした。
 
「その必要はありません」

 そこで待ったを掛けたのが、何を隠そう八雲紫である。
 彼女は、何故かいつもよりも幼い姿で登場した。紫色のドレスに白い手袋とキャップ、真っ赤なリボンはそのままだが、肝心の本体は見た目が七歳ほどの幼女になっている。
 だが美鈴が迷わず彼女に向かって跳びかかり、拳を顔面に叩き込もうとした。

「死ね!」

 八雲紫は地面にスキマを作ってそれに落ち、美鈴の攻撃を華麗に回避。
 椛は突然のことに目を白黒させる。スキマから再び出てきた八雲紫は美鈴のことなど気にも留めない。

「お二人とも、お疲れ様でした。そろそろ終わる頃だと思っていましたよ」
「嘘つけ絶対覗いてたくせに……」

 苦々しく美鈴がぼやいた。小声で椛に「嫌だねぇ性悪女はさ。ああやって子供の格好してれば私たちが油断すると思ってるんだよきっと」と耳打ちする。
 八雲紫に対して特に嫌悪感のない椛は、その耳打ちに少し戸惑った。彼女がここまで憎々しげに人物と接することもあるとは思わなかった。

「失礼ね、これは冬眠を我慢している副作用よ。そもそも何故そんなに邪険にされなければならないの? 私は何も悪いことはしてないでしょう?」
「貴女がウチのお嬢様に変なことを吹き込まなければ、今頃私はのんびり昼寝できていたのよ。全く余計な事をしてくれたものですね」
「でも私がいなければ貴方達が共闘することもなく、知り合うこともなかったでしょう。むしろ感謝して欲しいくらい」
「結果論です。椛とは気が合うんだからいずれ仲良くなってました~」

 そうかも知れないと内心で思った椛だが、とにかくこのままでは話が進まない。

「で、私たちはどうすればいいんだ?」
「後は私が処理をします。あなた達は陣に戻り休息をとってください。あの激闘で、さぞお疲れでしょう」
「それは、まぁ有り難いことだが……」

 椛はそれでもいいと思ったが、美鈴はどうだろうか? そう思って彼女を見遣ると、訝しげに眉を顰めていた。
 何か不満があるのだろうか。
 だがあれだけの戦いがあったのだ、最後まで自分の手でやりたいと思っていても、不思議ではない。

「何か御不満が?」

 紫が尋ねると、美鈴は腰に手を当てて荒い鼻息を吐く。

「不満じゃなくて疑問がいくつか」
「答えましょう」
「猪神の肉の取り分は?」
「まだ決めていませんが、部位などにお望みがあれば優先しましょう」
「結構。この後の具体的な流れは?」
「猪神は白狼天狗によって解体、適切に処理、肉は私の管理下に置かれます。そして霊魂は、この地に腸を埋め、骨で塚を築き、守護神霊として祀り、霊脈、結界の要としてこの地を安定化させます。全て貴女の言った通りです」
「結構。洩矢の神様は祟りを祓える?」
「祓えます。元々そのつもりでした。さらに言えば猪神はしばらくは彼女の管轄となるでしょう。あなた達に降りかかったその呪いも、彼女が解いてくれます」
「重ねて結構。まぁこんなものですかね」

 大体美鈴が想像していた通りである。
 
「そういえば、なんで今になって新しい区画をくっつけたのですか?」
「最近人外の数が増えてきているでしょう? それに迷い込む動物も年々減っています。つまり食糧事情に予め手を打っておきたかったのです。これで外から来る獣も増える。この場所はやがて動物の楽園となり、溢れた獣を私たちが頂くという寸法です」
「つまり巨大な食肉生産工場というわけですね……」
「卵を産む鶏と言って欲しいですわ。まぁ、頭は猪ですけど」

 ぱん、と八雲紫が曙色の扇子を広げて口元を隠す。

「私からもいいでしょうか?」
「確認を取るなんてらしくないですね。何か企んでる?」
「ええまぁ些細な物ですけど」

 彼女の目が、怪しく細まる。

「実は今回の手柄、全て白狼天狗に譲っていただきたいのです」
「何?」

 聞き返したのは椛だった。信じられないという面持ちだ。美鈴は、口をへの字に曲げて答えなかった。

「猪神討伐の手柄を、白狼天狗と紅魔館の二つで分け合うのは後々面倒になると思いませんか?」

 確かに、狩りの主導はあくまで白狼天狗側であって、美鈴は本当に、最後の最後でそれを掻っ攫ったような物だ。
 事情を知らないものが不満を抱く種になることは間違いない。
 元々天狗と紅魔館には遺恨がある。今回のことでそれを深めることになるかもしれない。それに天狗は他の勢力が大嫌いだ。こんな結末は誰が納得するだろう。
 それでも、椛は頷くことが出来なかった。
 結果を誤魔化すことは、まるであの戦いを否定、侮辱されたように思えてならなかったからだ。

「いいですよ」
 
 だが美鈴はそう言ってしまった。
 あっけらかん、なんて事のない待ち合わせの口約束をするみたいに簡単に、平然と。
 それが椛には信じられなかった。開いた口が塞がらなくなるくらいに。

「ただし、条件があります賢者様」

 切り返すように美鈴の声が鋭くなる。
 八雲紫の目が、真意を確かめるべくじろりと動く。

「どうぞ」
「私の願いを一個何でも聞け。それで手を打ってやる」
「……内容に依りますが」
「まぁ、別に困難なお願いをするつもりはないのですよ。ただ、猪神の牙をほんの少し使わせてください。それでいいなら、私は喜んで手柄を渡します」
「…………」

 八雲紫は扇子と目を閉じて唸り始めた。両手の人差し指でこめかみを抑えながら「うーんうーん」と零し、眉間に皺を寄せて美鈴の思惑を考えている。
 十秒ほどのそんな光景が続いて、やがて八雲紫は目を開く。

「分かりました。それで手を打ちます」
「はい、確かに。椛が証人ね」
「お、おい……お前は本当にそれでいいのか?」

 信じられず、椛が美鈴に尋ねるが、彼女はお気楽そうに笑うだけだ。

「元々こうするつもりだったのですよ。椛には二度も助けて貰いましたから」
「ちょっと~だったらお願い聞く必要ないでしょ~?」
「貴女から提案されたのが癪なんですよ賢者様。あとで反故にしたらスキマ妖怪は陰湿な二枚舌女だって全力で言い触らしますからね」
「そういうのこそ陰湿だと思いますけれど」

 八雲紫の反論を無視して、美鈴は椛に向き直る。

「別に誰かに褒められたいから戦ったんじゃないんです。私はただ猪神のお肉が手に入ればいいだけで、手柄を見せびらかす気はないのですよ」
「待て待て! 私だって名誉が欲しい訳じゃない! それに、お前だって薬で私たちを助けてくれただろう!?」
「あれは私のではなく、貴女のものでしょう?」
「違うお前のだ! みんなの前で証言したっていい!」
「でも証言して、救われた白狼天狗や他の人が納得しますか?」

 椛は言葉に詰まった。確かに打ち明けても、すぐさま納得は得られない。それどころか余計に事態をややこしくしてしまうだろう。

「だが、困るんだ……そういうのは! 私は嘘が苦手だし……下手に誤魔化せば嘘はすぐにバレる!」
「下手に誤魔化して駄目なら、上手く誤魔化さなくちゃいけませんね」
「そういう言葉遊びは……!」
「大丈夫大丈夫。きっとそこのスキマ妖怪が、出来のいい嘘話を考えてくれますって。私たちはそれに乗っかるだけでいいのです。それに、この手柄は椛一人だけのものじゃない、狩りに参加した白狼天狗のみなさんの物ですよ」

 だが確実に、白狼天狗の間では椛が持て囃される。猪神に直接手をかけた者なのだから。
 そんなことに耐えなければならないのかと思うと、椛は恥ずかしいやら情けないやらで嫌だった。
 それに、あの戦いはどちらが欠けても勝てはしなかっただろう。
 それを公に共有できないというのも悔しく、椛には我慢ならなかった。

「どうしてもというのなら、いっそ記憶を弄るという手も有りますけれど」
 
 と、八雲紫は言うが、そんなことは以ての外だ。
 椛は彼女を睨み据えて唸り、威嚇する。
 美鈴はまぁまぁと椛の肩を抑えた。
 
「誰がどう言おうが何を言おうが、気にすることなんてありませんよ。それに多くを語らなければボロが出ることもありません。椛はそんなにお喋りでもないでしょう? 沈黙は金といいますし」
「いやまぁ、そうだけど……」
「じゃあ、大丈夫ですよね?」

 まるで子供を諭すみたいに、美鈴は言った。
 椛は、だがもうどうやって反論すれば良いか分からなくなった。
 諦めてため息を吐く。疲れているので頭も回らない。
 それに、これ以上美鈴の言葉を聞かないのは失礼に値すると思った。椛は、そんなことを彼女にしたくなかった。

「……分かった。もう好きにしてくれ」
「では賢者様。後はお任せします」
「はい。お二人共、お疲れ様でした」

 八雲紫が閉じた扇子でスキマを作る。それは陣へと戻る道で、言われずとも二人には分かった。
 椛が足早にそのスキマに入った。一刻も早く休みを取って、心を落ち着けたかった。
 美鈴もその後を追う。

「あ、そうだ」

 だがスキマに一歩踏み込んだ所で、八雲紫がそう声を漏らしたので、思わず美鈴は足を止めた。

「〝貴女の乾きは癒えましたか?〟」
「……まさか血を飲めと?」
「いえいえ。ただこの土地の水が、貴女に合えばと思っていただけですわ」

 その言葉が、そのままの意味なのか何か含意があるのか、美鈴には分からなかった。
 八雲紫はいつも混沌のように捉え所がなく、深く、先が見えない。
 
「まぁ、悪くはなかったです。また遊びに来ようと思える程度には」
「それは良かった。ちなみに猪神の牙は何に使うのですか?」
「小刀を作りたいんです。記念品として」 
「あら、それはそれは……中々、良い趣味をお持ちで」
「よろしくお願いします。では、また」

 美鈴はスキマに入り陣へと向かった。
 その後、八雲紫とは会っていない。



「で、白狼天狗の陣で手当と休息で一日を費やし、今日は昼まで解体の様子を見学。それから帰路につきました」
「ふーむ……」

 補足と言っても、会話なども省き、大まかな流れだけを話した美鈴。
 レミリアはそれを聞き、腕を組んで神妙に頷く。

「遺骨で小刀か、ロマンだねぇ」
「工芸は苦手なんで、ちょっと不格好になっちゃいましたけどね」

 苦笑して、美鈴が件の小刀を卓上に置いた。
 それは人差し指ほどの大きさで、荒削りだが滑らかな材面の刃、三個の鉄輪が通され、首掛け用の赤染め紐で装飾されている。
 一見なんて事のない普通の工芸品に見えるが、それに宿る霊力は本物だった。
 感覚を澄ませば、清水のような澄んだ力を感じることが出来る。
 レミリアはその小刀から感じる霊気で、改めて猪神の姿を夢想した。

「差し上げましょうか?」

 小刀に見惚れるレミリアの様子に、美鈴がいたずらっぽく笑う。

「ばぁか。お前が作ったのなら、それは私の物だろう?」
「ええ、その通りです」
「でも陳腐なケースに仕舞って眠らしておくのも勿体無いし、それの管理はお前に任せるよ。せいぜい見せびらかしてやりな」

 こういう所があるから、美鈴は彼女の下にいるのが止められない。
 美鈴は頷いて、それを首に掛けた。
 宝石で綺羅びやかに着飾るよりも、自分にはこういう物のほうが似合っているだろう。
 それから少しして、咲夜が現れる。
 妖精メイドも給仕の銀ワゴンを押して追従している。微かだが、料理の匂いが部屋に漂った。

「お待たせしました。お食事の準備が整いましたわ」
「やった! 待ちかねたわ!」

 咲夜が机に鍋を置く。目前に迫ると匂いが増して胃の底がくすぐったくなる。彼女の料理の腕は誰もが認める所なので、それもまた空腹に拍車を掛けていた。

 鍋の蓋を取れば、山の幸が湯気とともに露わになる。

 猪神の肉と山菜を、醤油などで和風に味付けしたぼたん鍋だ。
 色濃くなった具材を小皿に取って、咲夜が主の前に差し出す。始めに食べるのはレミリアのみだ。
 
「いただきます」

 レミリアが薄切りにされた猪神の肉を口に入れる。一噛み、二噛みすると、思わず顔の筋肉がぎゅーっと収縮した。

「美味しい!」

 冬の、しかも多くの猪の霊気を吸収して蓄えた猪神の肉は、レミリアの口に大きな衝撃を与えた。香り、味、舌触り、全てが新鮮で、奥深い。様々な美味を食べてきた彼女の舌を唸らせるのは並大抵のことではない。
 まだ寝かせてもいない肉がこれほどの味なら、熟成させた肉はどれほど美味くなる事か。
 主の様子を見て、美鈴も咲夜も満足そうに微笑んだ。

「フランたちも食べればいいのに」

 この部屋に、フランドール・スカーレットとパチュリー・ノーレッジの為の席はない。レミリアは誘ったが、断られてしまったのだ。何でも、現行している共同研究が大詰めを迎えており、しばらくはそれに掛りきりになるとのこと。

「あとで軽食として届けておきますわ」
「感想は期待できそうにないだろうけどね」
「肉にとっては、食べてもらえる事こそ本望でしょう?」
 
 それもそうだと、レミリアは笑った。
 猪神の肉の鍋にお酒が添えられて、美鈴もぼたん鍋を食べ始めて、食事は賑やかに進んでいく。
 元々レミリアは小食なのでその時間こそ多くなかったが、美鈴にとっては満足の行く結末だった。
 苦労して狩った猪神の肉を、美味しく調理してもらえる。喜んで食べてもらえる。狩りの結末にこれ以上何を望むだろうか?

「ご馳走様でした」

 食事が終わり、咲夜が後片付けをする。美鈴とレミリアは食後酒と共に歓談した。猪神のことだけではなく、白狼天狗や八雲紫、そして犬走椛について語る。

 ふと、美鈴は窓の外へと視線を向けた。

 夜空に浮かぶ月が悠々と光っている。なんて事のない風景だが、美しく、心奪われるものがある。その美しさは、あの白い狼の毛並みを思い出させる。
 これを、彼女も見ているだろうか。
 幸い療養のため、数日の休暇が貰えている。それを使って今度、会いに行くとしよう。
 彼女と出会えた奇妙な運命に感謝しながら、美鈴は月に向かって微笑んだ。
 
 

 喜ぶ声が聴こえる。
 誰もが酒に酔いしれ、料理に舌鼓を打って、今回の出来事を祝っている。
 それらを背にして、椛は一人、酔い覚ましのように夜風に当たっていた。

(……本当にこれで良かったのだろうか)

 今でもずっと、考えている。
 この疑問は、すぐには解けそうにない。
 ぼんやり月を眺めると、なんだか彼女に笑われている気がして不思議な気分だ。

(過ぎたことをくよくよ悩むのは馬鹿か? でも私はそういう馬鹿なんだよ)

 今度会ったらそれについて聞いてみよう。会えるかどうかは分からないが。
 椛は踵を返して祝宴の会場に戻る。
 彼女の首元で、荒削りな白い小刀の首飾りが、静かに音を鳴らした。


 
 了
これは…シリアスバトル物に見せかけた、めーもみじゃな…?

文果真報を読んで椛の口調を再考しましたが、キャラクターから変わってしまい纏まらなかったので、これは求聞口授にある新聞の固めな椛がベースです。ちなみに私は「白狼天狗耳は収納可能派」です。

原作の設定や性格を重んじておりますが、時系列や把握ミス、誤字脱字などの抜けがあるかもしれません。発見された際には、コメント等ご指摘のほどをお願い致します。

8/22 ご指摘いただいた誤字を修正しました(たぶんまだある)。
8/26 ご指摘いただいた誤字を修正しました。昭奈様、再掲載ありがとうございました。
泥船ウサギ
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コメント



0.410簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
軸となっている物語は大変面白いのですが、ストーリーの中に入り込むには描写が不足している気がします。これは私見なのですが、この作品は五感をもっと描写するように心がければ、もうちょっと文章が膨らんだのではないでしょうか。
勝手な意見ですけど、ふと物足りなさに気付いたので、ここに書きました。不興でしたら、ごめんなさい。面白い話でした。文句なしに満点です。
3.100名前が無い程度の能力削除
めーもみはいいものだ
4.90奇声を発する程度の能力削除
組み合わせも良く面白かったです
6.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです
7.100名前が無い程度の能力削除
魅力的な美鈴が見れて良かった。相変わらず胡散臭い紫様のちんまい姿も見れて良かった。
9.90名前が無い程度の能力削除
原作では絡まないキャラが絡むのも二次創作の醍醐味の一つだと思う。
面白かったです。
11.100名前が無い程度の能力削除
夢中で一気に読んじゃいました、面白かったです!
めーもみって本当に初めて見た組み合わせなんですけど、これはたいへんいいものだ。
12.100名前が無い程度の能力削除
面白い!
13.90名前が無い程度の能力削除
めーもみかなと思ったらめーもみでしたやったぜ
大変面白いお話でした。
14.100怠惰流波削除
めーもみ…そういうのもあるのか…!、かっこよくてつよーい、けどどこか飄々としためーりんが大好きなのでツボでした。モミザベスもかわいかった。そして脳裏に流れるアシタカせっ記のBGM。乙事主は幻想入りしていたのか…!
19.90名前が無い程度の能力削除
正直者の椛が大変可愛らしく、適当だけどかっこいい美鈴との掛け合いが楽しかったです。
ごちそうさまでした。
21.100昭奈削除
凄く面白かったです。
天狗の排他性や紅魔館との確執について描かれたことで、生真面目な椛が美鈴に振り回される様が実に可笑しく、可愛く見え、彼女が段々と気を許していくことに深い喜びを覚えました。
二人が初めて猪神に遭遇した場面がとても好きです。思わず息を呑みました。
めーもみはいいぞ!
23.無評価昭奈削除
誤字修正お疲れ様でした。他所で御作のレビューを書かせていただいたものですから、誤字指摘の長文がお見苦しいかと思い一時コメントを削除しておりました。
修正された事を以て、改めて削除させていただきました。
24.100名前が無い程度の能力削除
おもちろい。