ゆったりとした挙動で、無数の光弾が空に広がりゆく。
それが弾け飛ぶと、色とりどりの光を伴った熱が、円を描くように散じる。
さながら花火を思わせる伊吹萃香の弾幕が、退治する相手の正面を埋め尽くしていた。
「……おう?」
しかし、その相手――鬼人正邪は眼前に迫る弾幕に怯むどころか、目を輝かせて正面から飛び込んでみせた。
花火がそうであるように、無数の光弾も全てが同時に炸裂するわけではなく、炸裂して少し経てばその光も消える。
だから、一見して隙間なく埋め尽くされた弾幕でも、実際には其処此処に空隙が生まれているのだ。
目まぐるしく移動するその空隙に身を滑り込ませ、正邪は弾幕を潜り抜ける。
その様は、まるで舞踏のようでもあった。
上下を逆さまにした正邪の顔が、萃香の眼前に迫る。
次の瞬間、後頭部に衝撃。
「あだっ!」
空中で身を翻し、萃香の頭を踏みつけて正邪はさらに跳躍。
広げた両手から、矢を模した弾幕を展開する。
それは眼下の萃香へと矢継ぎ早に降り注ぎ、その身体を捉えて地に叩き落とした。
「あっはっは! 天下の伊吹童子様も、タマのぶつけ合いじゃあこんなもんか!」
呵々大笑を響かせて、鬼人正邪は神社の空を飛び去っていく。未だお尋ね者の逃亡者である彼女だが、その背中は自身に満ち溢れてすらいた。
「むぐー」
一方、萃香は地面にうつ伏せに伸びて唸り声を上げる。小鬼とも言われる天邪鬼と、小さくともそのもの鬼。しかし今の姿は、彼女らそれぞれの由縁とはまるで逆の様相を見せていた。
「あいつも最近やるようになったというか、むしろ調子に乗って来てるわね」
「痛い目見たって、懲りること自体が自己否定になるようなヤツだからな」
のんきに茶をすすりながら、紅白と黒白の観客二人が口々に感想を述べる。
「むしろ、萃香のほうが最近なまってるんじゃないのか? 花火も派手なのはいいが、動いてこないしすぐ消えるからプレッシャーにならないよな」
「弾幕に追い詰められるからこそ、機転を利かせて切り抜けるのが劇的でいいのにねえ。追ってこないんじゃ飛び込んでいくだけで、単なるアトラクションだわ」
「勝手なこと言いやがってー」
思い思いに駄目出しする二人に、寝そべったまま萃香が文句を言う。
その頭の上では手のひらサイズの分身たちが、正邪が蹴りのついでに残していったサンダルを一生懸命どかしていた。
分身たちは「くらえー」と合唱し、持ち上げたサンダルを魔理沙に向けて投擲する。
「勝てば官軍は弾幕ごっこの常だろ」
ぺし、と飛んできたサンダルをはたき落としつつ魔理沙。
「実際、最近調子悪そうじゃないか。そんなんじゃ見くびられても文句は言えないぜ?」
その言葉に、ピクリと萃香の本体が反応する。
むく、と身体を起こし、ジロリと魔理沙を見やった。
「なんだよ……やる気か?」
魔理沙は少し腰を浮かせつつ、腰元の八卦炉に手を伸ばす。
霊夢はなんの反応も見せず、ただ茶をすすっていた。
「……そういうところが、ね」
聞かせると言うよりはポツリとこぼすように、萃香はそう言った。
おもむろに立ち上がると、服の砂を払って二人に背を向けて歩き出す。
べえ、と魔理沙に舌を出した分身たちがその後ろに続く。
「……なんだ? どうかしたのか、あいつ」
魔理沙は少しの間、浮かせかけた腰を下ろすこともなく、その背を眺めていた。
霊夢はその疑問に、茶をすする音を返した。
「やれやれ。私が鬼だってわかってんのかね、あいつらは」
(ああ、なんと呪わしき事か。かの如き雑魚を相手に苦汁をなめ、畏怖を知らぬ人間如きに見下されるとは)
萃香は神社を離れ、どこへともなく歩いていた。考え事をする時は、空を飛ぶよりも歩くことを萃香は好んだ。
「弾幕ごっこが広く知れ渡るのは良い事だが、おかげで強さとは恐怖ではなくなってしまった」
(何が良いものか。力あるものを抑えつけ、決死の覚悟もない腑抜けにでかい顔をさせるだけの悪習を)
「同じ退治されるでも、もうちょっと鬼らしくありたいもんだけど」
(死を賭して悪鬼に挑む勇猛はもはや失われた。腑抜けた人と堕落した妖ばかりの地に、なんの価値があろうか)
「……うるさいよ」
ああ、またやってしまった。小さく頭を抱えながら、萃香はうめく。
(全ては貴様の心の言葉よ。無視を決め込めぬがその証)
「私ゃそれなりにここを気に入ってるよ。でなければ」
(とうにこの地を見限り、風に散るを、地に眠るを選んだか? 我らと同じように!)
「……我らって、誰よ」
(見えぬとは言わせぬぞ。かつて傍にあった同胞の顔を。失われた栄華の時を、共に過ごした友らの顔を)
「勝手に仲間ヅラをするんじゃあないよ」
目の前が暗くなるような感覚を覚え、萃香は頭を振る。
傍らにあった木に頭の角が引っかかって、一瞬グラリと視界が揺らいだ。
それが契機か、声は頭の中から消え去った。
このところ、ずっとこうだ。萃香が何かをしている時、不意に頭の中で響く声があった。
声はいつでも、この幻想郷を「堕落の地」と誹り、現状を受け入れて日々を過ごす者たちをなじった。妖怪たちがその力を存分に振るって人の脅威となった時代を讃え、かつての栄華を取り戻せと迫った。
悪霊にでも取り憑かれただろうか、そう思いつつも、萃香はこの声の事を誰にも話していなかった。
霊夢に言えば祓えるのかもしれないし、冥界には悪霊の専門家もいる。なぜ話す気になれないのか、自分でもよく判らなかった。
「…………い、こらー」
「やれやれ、こんな気分じゃ楽しく酔えもしない。天人でもからかいに行こうかな」
「おい無視すんなー!」
「あん?」
そこでようやく、萃香は自分に向けられた声に気がついた。頭の中で響くいつもの声とは違う。やや舌足らずな少女の声。
「ようやくこっちを見たわね! まったく、反応がないとちょっと寂しいじゃないの」
びし、とポーズを取ってこちらを指差しつつ、微妙にかっこ悪い事を言う少女。
その姿は、気づくのが遅れるのも無理はないと萃香に思わせた。
何しろ、小さい。
背丈が低いという以前に、そもそものサイズが人間の半分にも満たない。
この大きさであれば、声量も相応に小さくなって当然だろう。
「小人か。懐かしいな」
はるか以前に人前から姿を消したという小人族。
どこへ行っていたのか萃香は知らなかったが、最近になって神社に一人現れるようになったと言うのは聞いていた。
「我が名は少名針妙丸! ようやく見つけたわ、疎密の鬼!」
「……小人に探される覚えはないんだけどねえ」
「そっちになくてもこっちにはあるの! 神社に鬼が寄り付いてるって聞いてから、ずっと探してたんだから!」
「寄り付いてる、ねえ」
それはそれで間違ってはいないが、それこそこの小人が現れだす以前から萃香は神社に姿を見せていた。何をか言わんや、と思う。
「鬼ともあろう者が人の拠り所である神社に通ってるなんて、いったい何を企んでいるのかしら!」
「企むとは人聞きの悪い。まるで人間みたいじゃあないか」
「鬼は人のものをたやすく奪っていく、人にとっての脅威そのもの。なんの企みもなく人のそばにいるなんて、信用できるものですか!」
小さな肩を精一杯いからせて、針妙丸は力説する。
お椀に乗ってふよふよと浮かびながら放つその言葉に、およそ迫力というものはない。
「さあ、弾幕で勝負よ! 私が勝ったら、なんの目論見があるのか、洗いざらい吐いてもらおうじゃないの!」
ビシ、と、針のような剣を萃香に向けて言い放つ。
何を言うべきか、萃香は言いよどんで頭を掻いた。
結局、出てきたのは単純な固辞の言葉だった。
「……やめとく。済まないね、気分じゃないんだ」
「……え? ちょっと……」
そのまま、てくてくと萃香は歩き去る。
針妙丸はしばし呆然として、それから慌てたようにその背を追う。
「ちょっとちょっと、何よその張り合いのない感じ。鬼ってのは挑発されたら受けるもんじゃあないの?」
「わかってて挑発してたわけ? 意外と嫌な奴ね、あんた」
「鬼に言われたくはないわよ」
悪態をつきながらも、ちらちらとこちらを伺う針妙丸。
無視を決め込んで歩く萃香の背を、針妙丸はふよふよと追い続けた。
旧都を訪れるのは、随分と久しいことだった。
かつての間欠泉異変の際に様子を見てはいたが、直接は訪れていない。随分と様変わりしてしまった事は、すでに見て知ってはいたが、直接に眺めると時の流れを否応なしに実感させられる。
(見よ、全ては失われゆくのだ。平穏を嘯いたとて、その様は長き時をもってする自殺と何ら変わらぬ。それを甘受せし者共の、なんと腑抜けた事よ)
「こ、ここが旧地獄……! なるほど、いかにもガラの悪い連中がたむろしてそうだわ」
「あんた適当に言ってるでしょ」
傍らの針妙丸がよくわからない納得をしているのに茶々を入れつつ、萃香は旧都を眺める。
陽の光の届かない地底。そこに築かれた都は、昼夜の区別なくいつでも行灯が道を照らし、大半の店は看板が出しっぱなしだ。時間の流れを明確にするものが存在しないため、店主の都合で準備中と営業中の看板が切り替わるだけで、その間隔も店ごとに一定ではない。いつでもどこかしらの店が開いており、いつでも誰かしらが店を探してぶらついている。そういう場所だ。
確かに、あまり上品な雰囲気とは言えない。その雑多さこそがここ旧都の特徴であり、店は決まった時間に開いて決まった時間に閉まるのが当然の人里とは、まるで違っている。
(反骨の魂さえも失った者どもが、慰みを求めてうつろう怠惰の地よ。乾き干からびた意思のみを携え、長らえることになんの意味があろうか)
特に選ぶ気にもならず、萃香は目についた適当な酒処に入る。
比較的新しく見えた外観とは裏腹に、店内の様相はそれなりに年季の入った雰囲気だ。とはいえ掃除は行き届いており、そう悪くもない。恐らく、誰かの畳んだ店を引き取って新しく開いた店なのだろう。
店員に熱燗を頼み、萃香はカウンターの席に腰掛ける。程なく酒と共に、二つのお猪口が運ばれてきた。一瞬訝しんで店員を見て、肩の上から降りる小人を見て嘆息する。
針妙丸は小さな身体に抱えるように徳利を持ち上げると、器用に二つのお猪口に酒を注いだ。
「ついさっき喧嘩を売ってきたくせに、随分と殊勝な事をするね」
「酒の席で喚くほど無粋じゃあないつもりだけど」
そっぽを向きつつそう言う針妙丸。萃香はお猪口を合わせて鳴らし、中身を一口に干した。
適当なつまみを、と店員に頼み、後はしばらく二人がお猪口を傾ける音だけが響いていた。
小さく切った茄子の浅漬けと、細かく刻んで味噌と和えた鯵のたたき。恐らくは小さな針妙丸に合わせて用意したのだろうつまみを口に運びながら、萃香は盃を干し続ける。針妙丸は最初に注いだ酒をちびちびと呑み続けていたが、サイズを考えればお猪口一杯でも相当な量になるだろう。案外、酒には強い方なのかもしれない。
徳利を空ける間、二人は何も話さなかった。この針妙丸という小人は、不躾ではあったが、言葉の通り無粋ではないようだった。
いったい自分はどうしてしまったのか。萃香は胸中で自問する。
萃香は喧騒が好きだった。酒の席は賑やかで姦しいのが良いと思うし、自身も色んなやつに絡んで騒ぐのが大好きだった。そうしないと、酔えないからだ。
鬼の酒力は並大抵のことではなく、参加者が全員潰れる中で一人平然としている事もよくある。酒豪で知られる天狗すらも、鬼の酒量にはかなわない。鬼という種族は酒を何よりも好みながら、同時に酔いからもっとも遠い種族でもあるのだ。
萃香に限らず、鬼は酒席にあっては賑やかに騒ぐのが常だった。呑むばかりでは酔えないから、鬼が酔いを楽しむためには雰囲気が何よりも大切なのだ。場の空気に当てられるように振る舞い、雰囲気に酔うことで、ようやく酒の回りを楽しむことができる。
こんな風に、黙ってひたすら盃を干すばかりでは、いくら呑んだって酔えはしない。
それがわかっているのに、同席する針妙丸と話そうとも、賑やかな他の客に混ざろうともしない。
(怒り。憎悪。安寧と堕落を唾棄すべきとする誇りに目を背け、虚栄ばかりを取り繕えば魂も濁ろう)
「おやおや。旧友の姿を見たと思ったが、どうやら人違いだったようだ」
不意に、声が届く。頭の中で響くものとは違う、力強く意気に溢れる声。
「私の友は賑やかさを何より愛するヤツでね。辛気臭い顔でちびちび酒をやるようなのは、きっと他人の空似というものだろう」
「……何の用さ」
「言うに事欠いてそれかい? 酒の席で会った旧知に。こりゃあいよいよ偽物を疑わなくちゃあならんな」
言いながらも、声の主はどっかりと大仰な仕草で萃香の隣の席に腰掛けた。
金の癖っ毛を無造作に伸ばし、額の上には雄々しい一本角。
鬼の四天王、星熊勇儀。萃香にとっての既知といえば、真っ先に思い浮かべる相手だ。
「そういう気分の時もあるって事だよ」
「人間みたいな事を言うようになったな。一人で人間の近くにあると、鬼ってのはそうなるのか? 天狗が聞いたら喜々として記事にしそうだな」
「鬼。あなたも鬼なの?」
「お、なんだこのちみっこいのは?」
それまで黙っていた針妙丸が、勇儀を見上げて声を割り込ませる。
勇儀が反応すると、針妙丸はトコトコと勇儀の前に歩み寄り、乱れていた着物の裾を直してからビシっと指差した。
「私は誇り高き小人族の末裔、少名針妙丸! あなたも鬼だというのなら、その企みはこの私が阻み、退治してあげましょう! 今は酔ってるから駄目だけど」
「はっはっは、なりに見合わずデカイことを言うヤツだ。いいだろう、いずれの時に相手をしてやるさ。星熊勇儀の名を覚えておきな」
「勇儀ね! いいわ、その内にあなたも、私の鬼退治列伝に名を連ねさせてやるから!」
威勢良く啖呵を切ると、針妙丸はまたトコトコと萃香の隣に戻り、お猪口を傾け始めた。
のっけから随分と喧嘩腰だが、鬼と小人の因縁を思えば、由来に根ざした体の良い挨拶という所だろう。
「鬼退治列伝って事は、こっちの萃香も標的の一人なのかい?」
「そうなんだけど、弾幕勝負を拒否されちゃったから、寝首でもかいてやろうと思って付きまとってる所よ」
「そんな理由だったのかよ」
「ははは、小人らしくていいじゃあないか。しかし……」
豪気に笑った勇儀は、ふと表情を引き締めて萃香を見つめた。
「お前、本当にどうした? 勝負を断っただと? 何度も言うのもアレだが、本当にお前は萃香なのか?」
その勇儀の表情は、疑念というよりは憂慮が伺えるものだった。
無理もないだろう。自分だって勇儀がこんな態度を取っていたら、病でも患ったのかと思う。でなければ、勇儀の言うように本物なのかと疑うだろう。
身体や気の病であれば、治るのを待てばよい。だが、何らかの心変わりがあってこのような態度を取るようになったのなら、それは嘆くべき事だ。旧友を失ったとすら思うだろう。いっそ、偽物であってくれたほうが良い。
(誇りを失い続ける時の中で、豪放磊落を謳われた魂は躯と化す。後に残るは、かつて豪傑の代名詞であった抜け殻の肉。まこと時の流れというものは恐ろしい)
「ここは、変わったね」
呟くような、絞り出すような、およそ力強さの欠片もない声音。
自分がそんな声を出しているのだと認めるのは、少しばかり覚悟のいる事だった。
「随分とおとなしくなったもんだ。昔はあんなに騒がしかったのにね」
いかにもガラの悪い連中がたむろしていそう。針妙丸はここをそう評した。
それは適当に言ったのだろうが、的を射た言葉でもある。ここは、ルールに馴染めない者や、脛に傷を持つ者が身を寄せ合う地だったからだ。
地獄より切り捨てられてしばし。無法者の土地として栄え始めた頃、騒ぎのない日というものはなかった。いつでも誰かしらが喧嘩をしており、刃傷沙汰は日常茶飯事。死者も当たり前のように出た。
ここに来る者の誰もが、怒りを胸に抱えていた。ここにいたのは、何かに追いやられ、あるいは何かを疎んじて、他にあるべき場所を見つけられなかった者たちだからだ。
諍いはその場にて収め、決して次の機会に持ち越すこと成らず。そういう鉄の掟があったから、些細な諍いでもどちらかが参るまで徹底的にやり合う事が多かった。
「自制心のない連中ばかりだったから、やり過ぎる事もよくあった」
「諍いそのものには関わらずとも、度を越せば周りが止めるし、やり過ぎれば相応の罰が下る。そうやって秩序化されていき、分をわきまえるようになっていく。自然なことだ」
「無法者がより合って法が生まれるって? 皮肉なもんだ」
(怒りを失うことは恐怖だ。不満を飲み込むことが秩序を産むと言うのなら、それは緩慢なる自殺であろう)
「皮肉とは思わんな。無法者とは、すなわち己の法に従う者の事だ。同じ法を胸に抱える者たちが寄り集まって、この街は始まったんだろう」
「身を寄せ合って、支え合って、その内に怒りを忘れて――」
そんなのは傷のなめ合いだ。
そう続けようとした口を、萃香は噤んだ。
「……ごめん、今日は帰るよ」
勘定を置き、席を立つ。
「おう、療養しとけ」
勇儀は顔を向ける事なく、ぶっきらぼうにそう言った。
戸惑った表情で針妙丸が萃香の背に追いつく。
「萃香」
店を出る直前、勇儀が声をかける。
静かな、穏やかとさえ言える声音。鬼らしさとは無縁の。
「何があったのか知らんが、片付いたら埋め合わせをしろよ。今日の酒は不味くてかなわん」
「わかったよ」
萃香もまた、勇儀を見る事なく、そのまま店を出た。
「……ちょっと、あんたホントに大丈夫なの?」
地上への道すがら、萃香の肩に乗った針妙丸が声をかける。
自分で飛べと思わないでもないが、赤ら顔でフラフラと頼りなく目の前を飛ばれるよりはマシかもしれない。
「別に病んじゃあいないよ」
心配する針妙丸に返した言葉は、嘘とまでは言わずとも、本音を隠した言葉ではあった。
自分がまともな状態でない事は、会って間もないこの小人にすらも見抜かれるほど。何でもないという顔をすることが、すでに欺瞞そのものだろう。
(病むというのならば、はるか以前よりの事。停滞。怠惰。魂が腐りゆく不治の病よ)
太陽は西日となり、じきに黄昏時を迎える。
その日差しを浴びて空を飛びながら、やはり萃香は何も言わず、針妙丸もそれ以上は何も聞かなかった。
それでも離れていかないのは、放っておけないとでも思われているのだろうか。
こうまで心配をさせている自分の有様に、思うところがないではない。
けれど、どうにもやり場がなく、名前さえわからずただ滅入るばかりのこの気持ちを、どのようにすれば良いのかは皆目見当がつかない。
(畏れ。脅威。かくあるべき姿を見失って幾年月か。全てはうつろいゆくものと観念するならば、誇りとともに消え行くを受け入れた方がまだ救いもあろう)
やめてくれ。
やめてくれよ。
胸中に呟く言葉に、何ほどの力もない事は知っていた。
だから、口に上らせる事はしなかった。
声に出して喚く気力さえもないのだとは、思いたくない。
夕焼けに紅く染まる空の下、萃香と針妙丸は博麗神社に降り立つ。
特に理由があっての訪問ではない。むしろ、できるなら誰とも会いたくないとさえ思っている。
「あら、萃香と針妙丸? 変な組み合わせね」
ただ、今の自分を誰かに見られてしまうとして、ここにいる者であればいくらかマシだろうとは思ったかも知れない。
「今日宴会とか予定あったっけ?」
「いんや、なんとなく寄っただけさ」
「妖怪がなんとなくで神社に寄るんじゃないわよ。……ま、適当にしていきなさい。お茶は出ないけど」
博麗霊夢は誰も拒まない。
裏を返せば、それは誰をも受け入れていないのにも通じる。
彼女はただそこにあり、そして、他者もまたそこにいる事を許すだけだ。
けれど、暖かく迎え入れられる事の方が、かえって辛くなる時もある。
「そういや、あの後魔理沙に会った?」
「いや、会ってないけど……なんで?」
「なんか心配してるみたいだったから。天邪鬼に負けたのがそんなに堪えたのかなあ、って」
やっぱり、と萃香は思った。
嘘つきで生意気で自分勝手な癖に、他人の様子には妙に勘が働く魔理沙のことだ。自分の消沈した様など、少しの会話でもすぐに気がついただろう。
(人間に恐縮されるどころか、気遣われてそれを屈辱とすらも思わぬ。かような有様は、かつての同胞にすれば悲劇ですらあろう)
「別に大したことじゃあないんだ。大丈夫だよ」
「そう?」
井戸端での会話のように、軽い返事。
それと共に放たれた針弾は、萃香の耳のすぐ側を通り過ぎて、境内の樹木に突き刺さった。
萃香は全く動かなかった。反応できなかったわけではない。見えていたからだ。
放たれた弾は正確に萃香の耳をかすめ、決して直撃はしないであろう事を。
「だったら、少し付き合いなさい」
「……異変でもないのに、あんたの方からってのは珍しいね」
「気持ち悪いのよ。そんな塞いだ表情でうろつかれたら、参拝客も逃げるわ」
「もともといない者が逃げるとは、不思議な事もあるもんだ」
「うっさい。私が勝ったらしばらく神社は立入禁止。宴会にも呼ばないからね」
「ちょっ……そりゃいくらなんでも殺生じゃないか?」
「あら、やる前から負ける気でいるわけ?」
ニヤと笑う霊夢。あまりにもわかりやすい挑発。
わかりやすいからこそ、これを無視しては、それこそ腑抜けた己の有様を晒す事になる。
「……しゃーないね。それじゃ、ちょいと真面目にやらせてもらおうか」
ぐ、と拳を握る。力のみなぎる様子を見て取った針妙丸が肩から離れる。
いささか不満げな表情からは『自分の挑戦は固辞したくせに』という感情が窺えた。
もう一人、埋め合わせをしなければならない相手が増えたようだ。
霊夢の弾幕は多角的で、弾量が非常に多い。
規則的に配された弾が視界を埋め尽くす様は、まるで絵画の一風景のように、見る者を圧倒する。
弾幕の美しさは外から見るよりも、向かい合ってこそ。
これに親しんで長い者は、そのことをよく知っている。
(美を競い倒すを目指さぬ、まさしく児戯。それを戦いと呼ぶか?)
放射状に展開されたお札が、一度静止した後に萃香の位置をめがけて収束する。避けた位置をめがけて、次の御札がまた集う。絶えず移動し続ける事を強いる、霊夢の得意とするホーミング弾だ。そして、その隙間を埋めるように放たれた針弾が、幾度となく萃香の身体をかすめる。
弾幕ごっこは技をぶつけ合うか、片方が相手の技の攻略に挑むかのどちらかだ。
今回は後者。萃香は弾幕を展開せず、身一つで霊夢の技に相対していた。
まるで凶悪な鬼に挑む、英雄のように。
「……鬼はこっちだっての」
(本当にそうか?)
収束するホーミング弾に対し、前に出て収束前の隙間を抜ける。
それを予見していたかのように、人が隠れるほどに大きい陰陽弾がフラフラと不規則な軌道で迫る。
前に出るのを諦めて横にそれると、針弾が周囲に撃ち出されて進路を塞がれる。
やむを得ず止まったところで、またホーミング弾が襲い来る。
淀みなく流れる矢継ぎ早の攻撃が、数多の経験を物語る。博麗霊夢は、この地でもっとも弾幕ごっこに慣れ親しんだ者の一人だ。
――神霊「夢想封印」――
何度めかのホーミング弾をくぐり抜けた所で、スペルカードの宣言が耳に届く。
色とりどりに輝く巨大な光弾が霊夢の周囲に展開され、続けざまに萃香へと迫りくる。
眼前へと迫った一つの光弾を、素早く横に逸れて回避する。
この技の恐るべきは、その圧倒的な誘導性にある。先んじて身をかわせば、どこまでも追いすがってくる。回避のために速度を出せば急激な方向転換は難しくなり、背後に迫る弾を避ける術も失われる。
無論、一つ避けただけで終わるわけでもない。
次に迫る弾を、またぎりぎりまで引きつけて回避。早く避けすぎれば追いつかれ、遅すぎれば当たる。小さく避けすぎれば霊圧の余波に煽られ態勢を崩し、大きすぎれば次の回避が間に合わない。最適のタイミングで最小の動き。それができなければ、これを回避する事は叶わない。
何度挑んでも、慣れない技だ。
(無視すれば良かろう)
何故かその声は、普段よりもはっきりと頭に響いた。
(所詮、相手を殺傷せしめぬよう手心を加えた技。喰らっても死なぬのならば当たれば良い。正面を抜けて一撃、それで終わりよ)
弾幕ごっこのルールを、妖怪と人間の約定を、まるで否定する言葉。
(本来制約などありえぬ闘争の場に、弱者の論理を持ち込んであてがったに過ぎぬ。強者たる者にそれを遵守する意義があろうか。強者が強者の倫理を否定する事によって守られるものに、なんの価値を見出すというのか)
それこそ、なんの価値もない。今の自分を、この楽園を、守るべき全てのものを否定する言葉。
(死を賭して為す、故に闘争は美しくあった。弱きが淘汰され強きが洗練されゆく事こそ、我らのあり方だった。華美の装飾で彩るとも、その内にあるのは己を忘れ腐りゆく敗北者の躯よ)
いつまでも夢を見ているような。望みを捨てられずにあがくような。
(なぜそんなに腑抜けた?)
何も見ていない、ただ喚き散らすだけの言葉だ。
(あの尊き死闘を、燃えゆく生命の輝きを、なぜ忘れた?)
そうだ。その言葉に、何も意義などない。
(ただ生きていれば良いと、なぜ思うようになった?)
だから、やめろ、もう聞きたくないんだ。
(臆病者め)
やめろ。
(堕落者め)
やめろ。
(貴様など、鬼ではない!)
「――――やめろ!!!!!」
その悲鳴のような声は、同時に迸った妖力の本流に飲み込まれ、誰の耳にも届かなかった。
「――!? ちょっ――」
俯いた萃香、その身体の内から爆発するように、鬼の妖力が物理的な圧力を伴って博麗神社を揺らした。
とっさの事に防御も間に合わず、霊夢はその威力をもろに浴びた。
境内のありとあらゆるものを吹き飛ばし、あるいはなぎ倒して、その力は渦を巻いて立ち上った。
「――う、ぐっ……が……」
立ち上がろうと手をついて、あまりの頭痛に断念する。
耳が遠い。吐き気がする。頭の奥で鐘が鳴り響いているかのようだ。
声は聞こえない。聞こえても、多分認識できない。
ただ、胸の奥がねじれて引きちぎられたような。
腹の奥が抉られて中身がごっそり抜け落ちてしまったような。
今ここにいるのが、まるで自分ではないような。
かつて自分だった、抜け殻のような。
なぜ、こんなに苦しいのだろう。
滅茶苦茶に暴れまわりたいのに、拳をぶつけるべきものが何もなくて、ただ歯がゆさを噛みしめる。
何が、私をこんな風にした?
誰のせいだ?
そんな風に思った瞬間、視界に写る人の姿。
紅白の衣装をまとったその人影は、気を失っているのか動く様子はない。
そいつのことを知っている。
この地を守り、継ぐ者。楽園の守護者。
そして、私を苦しめる者。
そうだ。こいつがいなければ、私は帰る事ができる。
多くのものが輝いていた、あの時へ。
こいつがいなければ。
何も難しい事じゃあない。
ほら、首に手を添えて、少し力を加えれば良い。
小枝を折るより簡単だ。
そうだ。
やれ。
殺せ!!!!!
「……何、やってんの?」
自分が出したとは思えない、冷たく覇気のない声。
けれど、最近はこんな声ばかり出していたような気もする。
その思考と共に、萃香はいくらか我に返った自分を自覚する。
我を取り戻させたのは、首筋にあてがわれた冷たい金属の感触だった。
ちらと視界の端に写る、肩に乗った小人の姿。
針のような――実際針なのだろう、およそ殺傷に向くとも思えない武器を、固く握りしめて突き立てようとする姿。
針の先端は、正確に動脈の位置を捉えている。
強く突き刺せば大量の出血は免れず、人であればそれが致命傷にもなるだろうが。
「そんなんで、鬼は殺せないよ」
「でも、弱らせる事はできる」
淀みのない声だった。
決して揺らがぬと言外に語るような。
「私を殺しても、次の者が来る。そいつが、またあんたを弱らせる。また次の者が来る。何度でも。そうやって、いつかあんたは敗れる」
そいつは魅力的だ。
喉元まで出かかったその言葉を、萃香はかろうじて飲み込んだ。
「それはやってはいけない事だ。その子を死なせるのも、あんたが死ぬのも。そうじゃないの?」
針妙丸の声には、決意があった。
たとえ死んでもそれを為すという、決死の覚悟が。
「それでもやるって言うなら、私が相手をする」
小さく、脆い身体を抱えて。
怯えも逡巡も見せず、針妙丸は断言する。
「……いいな、お前は」
ぽつりと漏らした言葉に、針妙丸は怪訝な表情を浮かべる。
ゆっくりと、萃香は手を離した。
ややもすれば、力の限り眼前の相手を絞殺しようとするその手を。
冗談だよ、と、力なく呟いた言葉を信じたかどうか。
萃香が立ち上がると、針妙丸は肩から降りて霊夢の側に駆け寄った。
振り向いてこちらに向けるその目は、些かの戸惑いが含まれていたが、揺らがぬ決意と覚悟を宿している。
その視線を背中に受けながら、萃香はとぼとぼと歩いて神社を後にした。
どれくらい歩いているのか。
森をくぐり、草原を踏みしめ、河原を渡った。
いつの間にか夜の帳が下り、いつの間にか明けた。
雨が降っていた。
誰かとすれ違い、いくらか言葉を交わして別れた。
誰かが、遠巻きに自分を眺めていた。
誰とも会いたくなかった。
そんな気分の時、決まってあいつは現れる。
「……出てきたらどうなのさ」
その言葉に応えるように、空間に一筋の亀裂が生まれる。
それがにゅるりと開き、隙間から道士服の女性が姿を見せた。
八雲紫は柔和に微笑み、萃香の側に降り立つ。
「どうして何もしなかったんだい? 幻想郷の危機だったっていうのに」
「止めるとわかっていましたから」
「……あの小人が、命をかけて立ちはだかる事を? 随分評価しているようじゃあないか」
「ええ。それに、貴女がそれを見て手を引く事も」
小さな傘で雨を遮りながら、紫は萃香を見つめる。
慈悲さえ感じさせるような、優しい眼差し。
普段は、こんな表情をする奴ではないのに。
「貴女は強く賢いから、最善を理解してしまう」
たとえ、それが自分を苦しめると知っていても。
そう紫は続けた。
「……鬼の中にもいたよ。誇りに殉じて消えゆこうと語るヤツが」
針妙丸が、萃香の身体に僅かばかりの傷を残すためだけに、死をも賭したように。
叶わぬまでも挑むこと。
そのために生命を賭けること。
想いのために未来を捨てること。
誰かに後を委ねて消え行くこと。
それは、弱い者の特権だ。
限りある生命を精一杯に燃やし、輝くための。
「そいつらの声が、ずっと聞こえていた気がするんだ」
あれほどに萃香を苛んだあの声は、もう聞こえない。
どうしてか、見捨てられたような心地がする。
「彼らではない。それは、貴女自身の声です」
「私の?」
「過去を望み、現在を疎む。誰にでもあるその感情が、今の自分を否定せずにはいられない。古き都。懐かしき友。『かつて』を想起させる様々なものに触れた事が、胸の奥にしまいこんだ感情を揺り動かす契機となったのかもしれません」
「……あんなにはっきりと聞こえたのに」
「細い火種も、消えゆかずくすぶり続ければ、やがて山をも焼く大火と成りえましょう」
「火種、ねえ」
そうだ、かつての自分の内には、炎があった。
我を誇示し、畏れを集め、それを乗り越える多くの者と戦った。
知恵に嵌められた事もあるし、数に退けられた事もある。
熱とともに打たれて形をなす鉄のように、その炎の日々が、伊吹萃香を作り上げた。
同じように炎を抱いた者たちは、ある者はその火を絶やし、ある者は異なる地で燃え盛る事を選んだ。
自分は、どちらも選ばなかった。
人を襲えなくなっても、畏怖を失っても、楽園を守るためなら致し方あるまいと、そう思った。
今も、思っている。それが正しいと。
そうやって、僅かな残り火を抱えたまま、今もここにいる。
「……泣いてるの? 萃香」
「雨だよ」
紫は傘を差し出さない。萃香が雨に打たれるに任せている。
「……今を嘆く必要なんか、なにもないんだ。そんなことしても意味ない。ここは楽園で、残された最後の地で、ここにあって絶えずあり続ける事が、私たちのあるべき理由だろう。過去を、ただ過去のままにしないために」
それは理屈で、心ではなかった。それでも意義がある。
意義があると理解できるから、そうしなければならないと思うから、私は。
「貴女がいなければ、今の幻想郷はなかったかもしれない」
紫が傘を閉じる。雨は、まだ降っている。
「天狗を始めとした多くの反対勢力があり、反抗して地底に潜った者があった。今に至るまでにあった無数の懸案、その幾つかは、貴女がいなければ解決し得なかったでしょう」
萃香は紫へと振り向かない。それでも、紫が全身で萃香に向き直ったのがわかった。
「だから、貴女には私を殺す権利がある」
それは何時になく穏やかな声だった。
子供を優しく諭すような。恋人に甘く囁くような。
炎の名残を持て余すくらいなら、私にぶつければ良いと。
「貴女になら、殺されてもいいと思っているの。本当よ」
萃香は、あくまでも振り向かなかった。紫の顔を見てはいけないと思った。
自分の顔も見られたくなかった。
「……そうしたら、色んなやつから『よくやってくれた』と讃えられちゃうね」
「伊吹童子の伝説がまた一つ増えるわね」
「これ以上箔をつけてもなあ」
振り向かないままに軽く返し、萃香は大地を蹴る。
雨が全身を打つのに構わず空高く飛翔し、我らの楽園を振り仰ぐ。
昨今の妖怪は、人間を襲うという原則すらも怠けたがるという。
己の根源たる意義すらも怠けていられるほどに、この郷は完成されてしまった。
過去はやがて失われる。
いつか、この想いも。
「……だからさ、たまには思い出してあげないと、可哀想じゃないか」
ただ失われるだけでは、悲しいから。
そのために、この郷はあるのだから。
「ひどい目にあったわ、全く」
「悪かったって。だからこうして埋め合わせをしてるんじゃないか」
「あんたがもってきたあのお酒? 強すぎて飲めないんだけど。何よ度数95%って」
がやがやと声の飛び交う宴会の席。博麗神社の境内である。
萃香と霊夢の弾幕勝負によって、台風の吹き荒れたが如き有様となった神社の復活祝として、萃香が人を集めたのだ。
ちなみに直したのも萃香で、霊夢は茶を飲んでいただけである。
「あんたが壊したんだから当然でしょ」
そう言う霊夢は、紫に持ってこさせた風変わりな食材たちに舌鼓を打ち、上機嫌である。
マウンテンオイスターとか言っていたが、いったい何の食材なのかは萃香も知らない。
一歩間違えば死ぬ所だったというのに、呑気なことだ。
そうでなくては、博麗霊夢ではないのだろうが。
「よう、今日はいつもと変わらん感じだなあ」
すっかり赤ら顔の魔理沙が、おぼつかない足取りで寄ってくる。
「ちょっと、出来上がるの早いんじゃないの?」
「仕方ないだろ、ほら、あれ」
魔理沙が片手に持った升で示した先に、その倍の大きさの升を手にした星熊勇儀がいた。
「今日の萃香のやつほどじゃあないが、あいつの酒も結構ヤバイな」
「そりゃあ鬼だからねえ」
「隣にいるのは……正邪? なんか泣きそうな顔でこっち見てるけど」
萃香が見やると、勇儀は升の中身を干して見返し、ニヤリと笑った。
何人潰す気なのやら。
「…………お?」
ふと違和感を覚えて周囲を見ると、いつの間にか寄ってきた針妙丸が傍らに立っていた。
萃香の左手をじっと見ている。
何事かと声をかけようとした瞬間、
「えいっ」
「あいたっ!?」
針妙丸が手に持った剣――傍目には針――を、萃香の左手に突き刺した。
「ふっふっふ、やはり我が愛刀輝針剣をもってすれば、鬼の身体をも切り裂く事ができるわね」
「痛ったぁ……何すんのよまったく」
「これは挨拶代わりよ! この間は断られたけど、今度こそアナタをこの剣の錆にしてあげるわ! 今は酔ってるから無理だけど」
「酔ってない時に言いなよ」
「こいつはいいな。鬼退治の英雄の末裔と、伝説の鬼の一騎打ち! 賭けでも企画してみるか」
「場所はここを使っていいわよ。売上の半分はもらうけど」
霊夢と魔理沙が勝手なことを言うのを尻目に、針妙丸は胸を張って去っていった。
去り際にちらりと、気遣うような目で萃香を見て。
生ぬるい停滞。堕落。緩慢なる死。
多分、それは間違っていないのだろう。
それを否定しなかったから、今の自分がある。この場所がある。
ここは幻想郷。忘れられたものたちの楽園。
やがて失われゆくものが、最後の時を過ごす場所。
それが弾け飛ぶと、色とりどりの光を伴った熱が、円を描くように散じる。
さながら花火を思わせる伊吹萃香の弾幕が、退治する相手の正面を埋め尽くしていた。
「……おう?」
しかし、その相手――鬼人正邪は眼前に迫る弾幕に怯むどころか、目を輝かせて正面から飛び込んでみせた。
花火がそうであるように、無数の光弾も全てが同時に炸裂するわけではなく、炸裂して少し経てばその光も消える。
だから、一見して隙間なく埋め尽くされた弾幕でも、実際には其処此処に空隙が生まれているのだ。
目まぐるしく移動するその空隙に身を滑り込ませ、正邪は弾幕を潜り抜ける。
その様は、まるで舞踏のようでもあった。
上下を逆さまにした正邪の顔が、萃香の眼前に迫る。
次の瞬間、後頭部に衝撃。
「あだっ!」
空中で身を翻し、萃香の頭を踏みつけて正邪はさらに跳躍。
広げた両手から、矢を模した弾幕を展開する。
それは眼下の萃香へと矢継ぎ早に降り注ぎ、その身体を捉えて地に叩き落とした。
「あっはっは! 天下の伊吹童子様も、タマのぶつけ合いじゃあこんなもんか!」
呵々大笑を響かせて、鬼人正邪は神社の空を飛び去っていく。未だお尋ね者の逃亡者である彼女だが、その背中は自身に満ち溢れてすらいた。
「むぐー」
一方、萃香は地面にうつ伏せに伸びて唸り声を上げる。小鬼とも言われる天邪鬼と、小さくともそのもの鬼。しかし今の姿は、彼女らそれぞれの由縁とはまるで逆の様相を見せていた。
「あいつも最近やるようになったというか、むしろ調子に乗って来てるわね」
「痛い目見たって、懲りること自体が自己否定になるようなヤツだからな」
のんきに茶をすすりながら、紅白と黒白の観客二人が口々に感想を述べる。
「むしろ、萃香のほうが最近なまってるんじゃないのか? 花火も派手なのはいいが、動いてこないしすぐ消えるからプレッシャーにならないよな」
「弾幕に追い詰められるからこそ、機転を利かせて切り抜けるのが劇的でいいのにねえ。追ってこないんじゃ飛び込んでいくだけで、単なるアトラクションだわ」
「勝手なこと言いやがってー」
思い思いに駄目出しする二人に、寝そべったまま萃香が文句を言う。
その頭の上では手のひらサイズの分身たちが、正邪が蹴りのついでに残していったサンダルを一生懸命どかしていた。
分身たちは「くらえー」と合唱し、持ち上げたサンダルを魔理沙に向けて投擲する。
「勝てば官軍は弾幕ごっこの常だろ」
ぺし、と飛んできたサンダルをはたき落としつつ魔理沙。
「実際、最近調子悪そうじゃないか。そんなんじゃ見くびられても文句は言えないぜ?」
その言葉に、ピクリと萃香の本体が反応する。
むく、と身体を起こし、ジロリと魔理沙を見やった。
「なんだよ……やる気か?」
魔理沙は少し腰を浮かせつつ、腰元の八卦炉に手を伸ばす。
霊夢はなんの反応も見せず、ただ茶をすすっていた。
「……そういうところが、ね」
聞かせると言うよりはポツリとこぼすように、萃香はそう言った。
おもむろに立ち上がると、服の砂を払って二人に背を向けて歩き出す。
べえ、と魔理沙に舌を出した分身たちがその後ろに続く。
「……なんだ? どうかしたのか、あいつ」
魔理沙は少しの間、浮かせかけた腰を下ろすこともなく、その背を眺めていた。
霊夢はその疑問に、茶をすする音を返した。
「やれやれ。私が鬼だってわかってんのかね、あいつらは」
(ああ、なんと呪わしき事か。かの如き雑魚を相手に苦汁をなめ、畏怖を知らぬ人間如きに見下されるとは)
萃香は神社を離れ、どこへともなく歩いていた。考え事をする時は、空を飛ぶよりも歩くことを萃香は好んだ。
「弾幕ごっこが広く知れ渡るのは良い事だが、おかげで強さとは恐怖ではなくなってしまった」
(何が良いものか。力あるものを抑えつけ、決死の覚悟もない腑抜けにでかい顔をさせるだけの悪習を)
「同じ退治されるでも、もうちょっと鬼らしくありたいもんだけど」
(死を賭して悪鬼に挑む勇猛はもはや失われた。腑抜けた人と堕落した妖ばかりの地に、なんの価値があろうか)
「……うるさいよ」
ああ、またやってしまった。小さく頭を抱えながら、萃香はうめく。
(全ては貴様の心の言葉よ。無視を決め込めぬがその証)
「私ゃそれなりにここを気に入ってるよ。でなければ」
(とうにこの地を見限り、風に散るを、地に眠るを選んだか? 我らと同じように!)
「……我らって、誰よ」
(見えぬとは言わせぬぞ。かつて傍にあった同胞の顔を。失われた栄華の時を、共に過ごした友らの顔を)
「勝手に仲間ヅラをするんじゃあないよ」
目の前が暗くなるような感覚を覚え、萃香は頭を振る。
傍らにあった木に頭の角が引っかかって、一瞬グラリと視界が揺らいだ。
それが契機か、声は頭の中から消え去った。
このところ、ずっとこうだ。萃香が何かをしている時、不意に頭の中で響く声があった。
声はいつでも、この幻想郷を「堕落の地」と誹り、現状を受け入れて日々を過ごす者たちをなじった。妖怪たちがその力を存分に振るって人の脅威となった時代を讃え、かつての栄華を取り戻せと迫った。
悪霊にでも取り憑かれただろうか、そう思いつつも、萃香はこの声の事を誰にも話していなかった。
霊夢に言えば祓えるのかもしれないし、冥界には悪霊の専門家もいる。なぜ話す気になれないのか、自分でもよく判らなかった。
「…………い、こらー」
「やれやれ、こんな気分じゃ楽しく酔えもしない。天人でもからかいに行こうかな」
「おい無視すんなー!」
「あん?」
そこでようやく、萃香は自分に向けられた声に気がついた。頭の中で響くいつもの声とは違う。やや舌足らずな少女の声。
「ようやくこっちを見たわね! まったく、反応がないとちょっと寂しいじゃないの」
びし、とポーズを取ってこちらを指差しつつ、微妙にかっこ悪い事を言う少女。
その姿は、気づくのが遅れるのも無理はないと萃香に思わせた。
何しろ、小さい。
背丈が低いという以前に、そもそものサイズが人間の半分にも満たない。
この大きさであれば、声量も相応に小さくなって当然だろう。
「小人か。懐かしいな」
はるか以前に人前から姿を消したという小人族。
どこへ行っていたのか萃香は知らなかったが、最近になって神社に一人現れるようになったと言うのは聞いていた。
「我が名は少名針妙丸! ようやく見つけたわ、疎密の鬼!」
「……小人に探される覚えはないんだけどねえ」
「そっちになくてもこっちにはあるの! 神社に鬼が寄り付いてるって聞いてから、ずっと探してたんだから!」
「寄り付いてる、ねえ」
それはそれで間違ってはいないが、それこそこの小人が現れだす以前から萃香は神社に姿を見せていた。何をか言わんや、と思う。
「鬼ともあろう者が人の拠り所である神社に通ってるなんて、いったい何を企んでいるのかしら!」
「企むとは人聞きの悪い。まるで人間みたいじゃあないか」
「鬼は人のものをたやすく奪っていく、人にとっての脅威そのもの。なんの企みもなく人のそばにいるなんて、信用できるものですか!」
小さな肩を精一杯いからせて、針妙丸は力説する。
お椀に乗ってふよふよと浮かびながら放つその言葉に、およそ迫力というものはない。
「さあ、弾幕で勝負よ! 私が勝ったら、なんの目論見があるのか、洗いざらい吐いてもらおうじゃないの!」
ビシ、と、針のような剣を萃香に向けて言い放つ。
何を言うべきか、萃香は言いよどんで頭を掻いた。
結局、出てきたのは単純な固辞の言葉だった。
「……やめとく。済まないね、気分じゃないんだ」
「……え? ちょっと……」
そのまま、てくてくと萃香は歩き去る。
針妙丸はしばし呆然として、それから慌てたようにその背を追う。
「ちょっとちょっと、何よその張り合いのない感じ。鬼ってのは挑発されたら受けるもんじゃあないの?」
「わかってて挑発してたわけ? 意外と嫌な奴ね、あんた」
「鬼に言われたくはないわよ」
悪態をつきながらも、ちらちらとこちらを伺う針妙丸。
無視を決め込んで歩く萃香の背を、針妙丸はふよふよと追い続けた。
旧都を訪れるのは、随分と久しいことだった。
かつての間欠泉異変の際に様子を見てはいたが、直接は訪れていない。随分と様変わりしてしまった事は、すでに見て知ってはいたが、直接に眺めると時の流れを否応なしに実感させられる。
(見よ、全ては失われゆくのだ。平穏を嘯いたとて、その様は長き時をもってする自殺と何ら変わらぬ。それを甘受せし者共の、なんと腑抜けた事よ)
「こ、ここが旧地獄……! なるほど、いかにもガラの悪い連中がたむろしてそうだわ」
「あんた適当に言ってるでしょ」
傍らの針妙丸がよくわからない納得をしているのに茶々を入れつつ、萃香は旧都を眺める。
陽の光の届かない地底。そこに築かれた都は、昼夜の区別なくいつでも行灯が道を照らし、大半の店は看板が出しっぱなしだ。時間の流れを明確にするものが存在しないため、店主の都合で準備中と営業中の看板が切り替わるだけで、その間隔も店ごとに一定ではない。いつでもどこかしらの店が開いており、いつでも誰かしらが店を探してぶらついている。そういう場所だ。
確かに、あまり上品な雰囲気とは言えない。その雑多さこそがここ旧都の特徴であり、店は決まった時間に開いて決まった時間に閉まるのが当然の人里とは、まるで違っている。
(反骨の魂さえも失った者どもが、慰みを求めてうつろう怠惰の地よ。乾き干からびた意思のみを携え、長らえることになんの意味があろうか)
特に選ぶ気にもならず、萃香は目についた適当な酒処に入る。
比較的新しく見えた外観とは裏腹に、店内の様相はそれなりに年季の入った雰囲気だ。とはいえ掃除は行き届いており、そう悪くもない。恐らく、誰かの畳んだ店を引き取って新しく開いた店なのだろう。
店員に熱燗を頼み、萃香はカウンターの席に腰掛ける。程なく酒と共に、二つのお猪口が運ばれてきた。一瞬訝しんで店員を見て、肩の上から降りる小人を見て嘆息する。
針妙丸は小さな身体に抱えるように徳利を持ち上げると、器用に二つのお猪口に酒を注いだ。
「ついさっき喧嘩を売ってきたくせに、随分と殊勝な事をするね」
「酒の席で喚くほど無粋じゃあないつもりだけど」
そっぽを向きつつそう言う針妙丸。萃香はお猪口を合わせて鳴らし、中身を一口に干した。
適当なつまみを、と店員に頼み、後はしばらく二人がお猪口を傾ける音だけが響いていた。
小さく切った茄子の浅漬けと、細かく刻んで味噌と和えた鯵のたたき。恐らくは小さな針妙丸に合わせて用意したのだろうつまみを口に運びながら、萃香は盃を干し続ける。針妙丸は最初に注いだ酒をちびちびと呑み続けていたが、サイズを考えればお猪口一杯でも相当な量になるだろう。案外、酒には強い方なのかもしれない。
徳利を空ける間、二人は何も話さなかった。この針妙丸という小人は、不躾ではあったが、言葉の通り無粋ではないようだった。
いったい自分はどうしてしまったのか。萃香は胸中で自問する。
萃香は喧騒が好きだった。酒の席は賑やかで姦しいのが良いと思うし、自身も色んなやつに絡んで騒ぐのが大好きだった。そうしないと、酔えないからだ。
鬼の酒力は並大抵のことではなく、参加者が全員潰れる中で一人平然としている事もよくある。酒豪で知られる天狗すらも、鬼の酒量にはかなわない。鬼という種族は酒を何よりも好みながら、同時に酔いからもっとも遠い種族でもあるのだ。
萃香に限らず、鬼は酒席にあっては賑やかに騒ぐのが常だった。呑むばかりでは酔えないから、鬼が酔いを楽しむためには雰囲気が何よりも大切なのだ。場の空気に当てられるように振る舞い、雰囲気に酔うことで、ようやく酒の回りを楽しむことができる。
こんな風に、黙ってひたすら盃を干すばかりでは、いくら呑んだって酔えはしない。
それがわかっているのに、同席する針妙丸と話そうとも、賑やかな他の客に混ざろうともしない。
(怒り。憎悪。安寧と堕落を唾棄すべきとする誇りに目を背け、虚栄ばかりを取り繕えば魂も濁ろう)
「おやおや。旧友の姿を見たと思ったが、どうやら人違いだったようだ」
不意に、声が届く。頭の中で響くものとは違う、力強く意気に溢れる声。
「私の友は賑やかさを何より愛するヤツでね。辛気臭い顔でちびちび酒をやるようなのは、きっと他人の空似というものだろう」
「……何の用さ」
「言うに事欠いてそれかい? 酒の席で会った旧知に。こりゃあいよいよ偽物を疑わなくちゃあならんな」
言いながらも、声の主はどっかりと大仰な仕草で萃香の隣の席に腰掛けた。
金の癖っ毛を無造作に伸ばし、額の上には雄々しい一本角。
鬼の四天王、星熊勇儀。萃香にとっての既知といえば、真っ先に思い浮かべる相手だ。
「そういう気分の時もあるって事だよ」
「人間みたいな事を言うようになったな。一人で人間の近くにあると、鬼ってのはそうなるのか? 天狗が聞いたら喜々として記事にしそうだな」
「鬼。あなたも鬼なの?」
「お、なんだこのちみっこいのは?」
それまで黙っていた針妙丸が、勇儀を見上げて声を割り込ませる。
勇儀が反応すると、針妙丸はトコトコと勇儀の前に歩み寄り、乱れていた着物の裾を直してからビシっと指差した。
「私は誇り高き小人族の末裔、少名針妙丸! あなたも鬼だというのなら、その企みはこの私が阻み、退治してあげましょう! 今は酔ってるから駄目だけど」
「はっはっは、なりに見合わずデカイことを言うヤツだ。いいだろう、いずれの時に相手をしてやるさ。星熊勇儀の名を覚えておきな」
「勇儀ね! いいわ、その内にあなたも、私の鬼退治列伝に名を連ねさせてやるから!」
威勢良く啖呵を切ると、針妙丸はまたトコトコと萃香の隣に戻り、お猪口を傾け始めた。
のっけから随分と喧嘩腰だが、鬼と小人の因縁を思えば、由来に根ざした体の良い挨拶という所だろう。
「鬼退治列伝って事は、こっちの萃香も標的の一人なのかい?」
「そうなんだけど、弾幕勝負を拒否されちゃったから、寝首でもかいてやろうと思って付きまとってる所よ」
「そんな理由だったのかよ」
「ははは、小人らしくていいじゃあないか。しかし……」
豪気に笑った勇儀は、ふと表情を引き締めて萃香を見つめた。
「お前、本当にどうした? 勝負を断っただと? 何度も言うのもアレだが、本当にお前は萃香なのか?」
その勇儀の表情は、疑念というよりは憂慮が伺えるものだった。
無理もないだろう。自分だって勇儀がこんな態度を取っていたら、病でも患ったのかと思う。でなければ、勇儀の言うように本物なのかと疑うだろう。
身体や気の病であれば、治るのを待てばよい。だが、何らかの心変わりがあってこのような態度を取るようになったのなら、それは嘆くべき事だ。旧友を失ったとすら思うだろう。いっそ、偽物であってくれたほうが良い。
(誇りを失い続ける時の中で、豪放磊落を謳われた魂は躯と化す。後に残るは、かつて豪傑の代名詞であった抜け殻の肉。まこと時の流れというものは恐ろしい)
「ここは、変わったね」
呟くような、絞り出すような、およそ力強さの欠片もない声音。
自分がそんな声を出しているのだと認めるのは、少しばかり覚悟のいる事だった。
「随分とおとなしくなったもんだ。昔はあんなに騒がしかったのにね」
いかにもガラの悪い連中がたむろしていそう。針妙丸はここをそう評した。
それは適当に言ったのだろうが、的を射た言葉でもある。ここは、ルールに馴染めない者や、脛に傷を持つ者が身を寄せ合う地だったからだ。
地獄より切り捨てられてしばし。無法者の土地として栄え始めた頃、騒ぎのない日というものはなかった。いつでも誰かしらが喧嘩をしており、刃傷沙汰は日常茶飯事。死者も当たり前のように出た。
ここに来る者の誰もが、怒りを胸に抱えていた。ここにいたのは、何かに追いやられ、あるいは何かを疎んじて、他にあるべき場所を見つけられなかった者たちだからだ。
諍いはその場にて収め、決して次の機会に持ち越すこと成らず。そういう鉄の掟があったから、些細な諍いでもどちらかが参るまで徹底的にやり合う事が多かった。
「自制心のない連中ばかりだったから、やり過ぎる事もよくあった」
「諍いそのものには関わらずとも、度を越せば周りが止めるし、やり過ぎれば相応の罰が下る。そうやって秩序化されていき、分をわきまえるようになっていく。自然なことだ」
「無法者がより合って法が生まれるって? 皮肉なもんだ」
(怒りを失うことは恐怖だ。不満を飲み込むことが秩序を産むと言うのなら、それは緩慢なる自殺であろう)
「皮肉とは思わんな。無法者とは、すなわち己の法に従う者の事だ。同じ法を胸に抱える者たちが寄り集まって、この街は始まったんだろう」
「身を寄せ合って、支え合って、その内に怒りを忘れて――」
そんなのは傷のなめ合いだ。
そう続けようとした口を、萃香は噤んだ。
「……ごめん、今日は帰るよ」
勘定を置き、席を立つ。
「おう、療養しとけ」
勇儀は顔を向ける事なく、ぶっきらぼうにそう言った。
戸惑った表情で針妙丸が萃香の背に追いつく。
「萃香」
店を出る直前、勇儀が声をかける。
静かな、穏やかとさえ言える声音。鬼らしさとは無縁の。
「何があったのか知らんが、片付いたら埋め合わせをしろよ。今日の酒は不味くてかなわん」
「わかったよ」
萃香もまた、勇儀を見る事なく、そのまま店を出た。
「……ちょっと、あんたホントに大丈夫なの?」
地上への道すがら、萃香の肩に乗った針妙丸が声をかける。
自分で飛べと思わないでもないが、赤ら顔でフラフラと頼りなく目の前を飛ばれるよりはマシかもしれない。
「別に病んじゃあいないよ」
心配する針妙丸に返した言葉は、嘘とまでは言わずとも、本音を隠した言葉ではあった。
自分がまともな状態でない事は、会って間もないこの小人にすらも見抜かれるほど。何でもないという顔をすることが、すでに欺瞞そのものだろう。
(病むというのならば、はるか以前よりの事。停滞。怠惰。魂が腐りゆく不治の病よ)
太陽は西日となり、じきに黄昏時を迎える。
その日差しを浴びて空を飛びながら、やはり萃香は何も言わず、針妙丸もそれ以上は何も聞かなかった。
それでも離れていかないのは、放っておけないとでも思われているのだろうか。
こうまで心配をさせている自分の有様に、思うところがないではない。
けれど、どうにもやり場がなく、名前さえわからずただ滅入るばかりのこの気持ちを、どのようにすれば良いのかは皆目見当がつかない。
(畏れ。脅威。かくあるべき姿を見失って幾年月か。全てはうつろいゆくものと観念するならば、誇りとともに消え行くを受け入れた方がまだ救いもあろう)
やめてくれ。
やめてくれよ。
胸中に呟く言葉に、何ほどの力もない事は知っていた。
だから、口に上らせる事はしなかった。
声に出して喚く気力さえもないのだとは、思いたくない。
夕焼けに紅く染まる空の下、萃香と針妙丸は博麗神社に降り立つ。
特に理由があっての訪問ではない。むしろ、できるなら誰とも会いたくないとさえ思っている。
「あら、萃香と針妙丸? 変な組み合わせね」
ただ、今の自分を誰かに見られてしまうとして、ここにいる者であればいくらかマシだろうとは思ったかも知れない。
「今日宴会とか予定あったっけ?」
「いんや、なんとなく寄っただけさ」
「妖怪がなんとなくで神社に寄るんじゃないわよ。……ま、適当にしていきなさい。お茶は出ないけど」
博麗霊夢は誰も拒まない。
裏を返せば、それは誰をも受け入れていないのにも通じる。
彼女はただそこにあり、そして、他者もまたそこにいる事を許すだけだ。
けれど、暖かく迎え入れられる事の方が、かえって辛くなる時もある。
「そういや、あの後魔理沙に会った?」
「いや、会ってないけど……なんで?」
「なんか心配してるみたいだったから。天邪鬼に負けたのがそんなに堪えたのかなあ、って」
やっぱり、と萃香は思った。
嘘つきで生意気で自分勝手な癖に、他人の様子には妙に勘が働く魔理沙のことだ。自分の消沈した様など、少しの会話でもすぐに気がついただろう。
(人間に恐縮されるどころか、気遣われてそれを屈辱とすらも思わぬ。かような有様は、かつての同胞にすれば悲劇ですらあろう)
「別に大したことじゃあないんだ。大丈夫だよ」
「そう?」
井戸端での会話のように、軽い返事。
それと共に放たれた針弾は、萃香の耳のすぐ側を通り過ぎて、境内の樹木に突き刺さった。
萃香は全く動かなかった。反応できなかったわけではない。見えていたからだ。
放たれた弾は正確に萃香の耳をかすめ、決して直撃はしないであろう事を。
「だったら、少し付き合いなさい」
「……異変でもないのに、あんたの方からってのは珍しいね」
「気持ち悪いのよ。そんな塞いだ表情でうろつかれたら、参拝客も逃げるわ」
「もともといない者が逃げるとは、不思議な事もあるもんだ」
「うっさい。私が勝ったらしばらく神社は立入禁止。宴会にも呼ばないからね」
「ちょっ……そりゃいくらなんでも殺生じゃないか?」
「あら、やる前から負ける気でいるわけ?」
ニヤと笑う霊夢。あまりにもわかりやすい挑発。
わかりやすいからこそ、これを無視しては、それこそ腑抜けた己の有様を晒す事になる。
「……しゃーないね。それじゃ、ちょいと真面目にやらせてもらおうか」
ぐ、と拳を握る。力のみなぎる様子を見て取った針妙丸が肩から離れる。
いささか不満げな表情からは『自分の挑戦は固辞したくせに』という感情が窺えた。
もう一人、埋め合わせをしなければならない相手が増えたようだ。
霊夢の弾幕は多角的で、弾量が非常に多い。
規則的に配された弾が視界を埋め尽くす様は、まるで絵画の一風景のように、見る者を圧倒する。
弾幕の美しさは外から見るよりも、向かい合ってこそ。
これに親しんで長い者は、そのことをよく知っている。
(美を競い倒すを目指さぬ、まさしく児戯。それを戦いと呼ぶか?)
放射状に展開されたお札が、一度静止した後に萃香の位置をめがけて収束する。避けた位置をめがけて、次の御札がまた集う。絶えず移動し続ける事を強いる、霊夢の得意とするホーミング弾だ。そして、その隙間を埋めるように放たれた針弾が、幾度となく萃香の身体をかすめる。
弾幕ごっこは技をぶつけ合うか、片方が相手の技の攻略に挑むかのどちらかだ。
今回は後者。萃香は弾幕を展開せず、身一つで霊夢の技に相対していた。
まるで凶悪な鬼に挑む、英雄のように。
「……鬼はこっちだっての」
(本当にそうか?)
収束するホーミング弾に対し、前に出て収束前の隙間を抜ける。
それを予見していたかのように、人が隠れるほどに大きい陰陽弾がフラフラと不規則な軌道で迫る。
前に出るのを諦めて横にそれると、針弾が周囲に撃ち出されて進路を塞がれる。
やむを得ず止まったところで、またホーミング弾が襲い来る。
淀みなく流れる矢継ぎ早の攻撃が、数多の経験を物語る。博麗霊夢は、この地でもっとも弾幕ごっこに慣れ親しんだ者の一人だ。
――神霊「夢想封印」――
何度めかのホーミング弾をくぐり抜けた所で、スペルカードの宣言が耳に届く。
色とりどりに輝く巨大な光弾が霊夢の周囲に展開され、続けざまに萃香へと迫りくる。
眼前へと迫った一つの光弾を、素早く横に逸れて回避する。
この技の恐るべきは、その圧倒的な誘導性にある。先んじて身をかわせば、どこまでも追いすがってくる。回避のために速度を出せば急激な方向転換は難しくなり、背後に迫る弾を避ける術も失われる。
無論、一つ避けただけで終わるわけでもない。
次に迫る弾を、またぎりぎりまで引きつけて回避。早く避けすぎれば追いつかれ、遅すぎれば当たる。小さく避けすぎれば霊圧の余波に煽られ態勢を崩し、大きすぎれば次の回避が間に合わない。最適のタイミングで最小の動き。それができなければ、これを回避する事は叶わない。
何度挑んでも、慣れない技だ。
(無視すれば良かろう)
何故かその声は、普段よりもはっきりと頭に響いた。
(所詮、相手を殺傷せしめぬよう手心を加えた技。喰らっても死なぬのならば当たれば良い。正面を抜けて一撃、それで終わりよ)
弾幕ごっこのルールを、妖怪と人間の約定を、まるで否定する言葉。
(本来制約などありえぬ闘争の場に、弱者の論理を持ち込んであてがったに過ぎぬ。強者たる者にそれを遵守する意義があろうか。強者が強者の倫理を否定する事によって守られるものに、なんの価値を見出すというのか)
それこそ、なんの価値もない。今の自分を、この楽園を、守るべき全てのものを否定する言葉。
(死を賭して為す、故に闘争は美しくあった。弱きが淘汰され強きが洗練されゆく事こそ、我らのあり方だった。華美の装飾で彩るとも、その内にあるのは己を忘れ腐りゆく敗北者の躯よ)
いつまでも夢を見ているような。望みを捨てられずにあがくような。
(なぜそんなに腑抜けた?)
何も見ていない、ただ喚き散らすだけの言葉だ。
(あの尊き死闘を、燃えゆく生命の輝きを、なぜ忘れた?)
そうだ。その言葉に、何も意義などない。
(ただ生きていれば良いと、なぜ思うようになった?)
だから、やめろ、もう聞きたくないんだ。
(臆病者め)
やめろ。
(堕落者め)
やめろ。
(貴様など、鬼ではない!)
「――――やめろ!!!!!」
その悲鳴のような声は、同時に迸った妖力の本流に飲み込まれ、誰の耳にも届かなかった。
「――!? ちょっ――」
俯いた萃香、その身体の内から爆発するように、鬼の妖力が物理的な圧力を伴って博麗神社を揺らした。
とっさの事に防御も間に合わず、霊夢はその威力をもろに浴びた。
境内のありとあらゆるものを吹き飛ばし、あるいはなぎ倒して、その力は渦を巻いて立ち上った。
「――う、ぐっ……が……」
立ち上がろうと手をついて、あまりの頭痛に断念する。
耳が遠い。吐き気がする。頭の奥で鐘が鳴り響いているかのようだ。
声は聞こえない。聞こえても、多分認識できない。
ただ、胸の奥がねじれて引きちぎられたような。
腹の奥が抉られて中身がごっそり抜け落ちてしまったような。
今ここにいるのが、まるで自分ではないような。
かつて自分だった、抜け殻のような。
なぜ、こんなに苦しいのだろう。
滅茶苦茶に暴れまわりたいのに、拳をぶつけるべきものが何もなくて、ただ歯がゆさを噛みしめる。
何が、私をこんな風にした?
誰のせいだ?
そんな風に思った瞬間、視界に写る人の姿。
紅白の衣装をまとったその人影は、気を失っているのか動く様子はない。
そいつのことを知っている。
この地を守り、継ぐ者。楽園の守護者。
そして、私を苦しめる者。
そうだ。こいつがいなければ、私は帰る事ができる。
多くのものが輝いていた、あの時へ。
こいつがいなければ。
何も難しい事じゃあない。
ほら、首に手を添えて、少し力を加えれば良い。
小枝を折るより簡単だ。
そうだ。
やれ。
殺せ!!!!!
「……何、やってんの?」
自分が出したとは思えない、冷たく覇気のない声。
けれど、最近はこんな声ばかり出していたような気もする。
その思考と共に、萃香はいくらか我に返った自分を自覚する。
我を取り戻させたのは、首筋にあてがわれた冷たい金属の感触だった。
ちらと視界の端に写る、肩に乗った小人の姿。
針のような――実際針なのだろう、およそ殺傷に向くとも思えない武器を、固く握りしめて突き立てようとする姿。
針の先端は、正確に動脈の位置を捉えている。
強く突き刺せば大量の出血は免れず、人であればそれが致命傷にもなるだろうが。
「そんなんで、鬼は殺せないよ」
「でも、弱らせる事はできる」
淀みのない声だった。
決して揺らがぬと言外に語るような。
「私を殺しても、次の者が来る。そいつが、またあんたを弱らせる。また次の者が来る。何度でも。そうやって、いつかあんたは敗れる」
そいつは魅力的だ。
喉元まで出かかったその言葉を、萃香はかろうじて飲み込んだ。
「それはやってはいけない事だ。その子を死なせるのも、あんたが死ぬのも。そうじゃないの?」
針妙丸の声には、決意があった。
たとえ死んでもそれを為すという、決死の覚悟が。
「それでもやるって言うなら、私が相手をする」
小さく、脆い身体を抱えて。
怯えも逡巡も見せず、針妙丸は断言する。
「……いいな、お前は」
ぽつりと漏らした言葉に、針妙丸は怪訝な表情を浮かべる。
ゆっくりと、萃香は手を離した。
ややもすれば、力の限り眼前の相手を絞殺しようとするその手を。
冗談だよ、と、力なく呟いた言葉を信じたかどうか。
萃香が立ち上がると、針妙丸は肩から降りて霊夢の側に駆け寄った。
振り向いてこちらに向けるその目は、些かの戸惑いが含まれていたが、揺らがぬ決意と覚悟を宿している。
その視線を背中に受けながら、萃香はとぼとぼと歩いて神社を後にした。
どれくらい歩いているのか。
森をくぐり、草原を踏みしめ、河原を渡った。
いつの間にか夜の帳が下り、いつの間にか明けた。
雨が降っていた。
誰かとすれ違い、いくらか言葉を交わして別れた。
誰かが、遠巻きに自分を眺めていた。
誰とも会いたくなかった。
そんな気分の時、決まってあいつは現れる。
「……出てきたらどうなのさ」
その言葉に応えるように、空間に一筋の亀裂が生まれる。
それがにゅるりと開き、隙間から道士服の女性が姿を見せた。
八雲紫は柔和に微笑み、萃香の側に降り立つ。
「どうして何もしなかったんだい? 幻想郷の危機だったっていうのに」
「止めるとわかっていましたから」
「……あの小人が、命をかけて立ちはだかる事を? 随分評価しているようじゃあないか」
「ええ。それに、貴女がそれを見て手を引く事も」
小さな傘で雨を遮りながら、紫は萃香を見つめる。
慈悲さえ感じさせるような、優しい眼差し。
普段は、こんな表情をする奴ではないのに。
「貴女は強く賢いから、最善を理解してしまう」
たとえ、それが自分を苦しめると知っていても。
そう紫は続けた。
「……鬼の中にもいたよ。誇りに殉じて消えゆこうと語るヤツが」
針妙丸が、萃香の身体に僅かばかりの傷を残すためだけに、死をも賭したように。
叶わぬまでも挑むこと。
そのために生命を賭けること。
想いのために未来を捨てること。
誰かに後を委ねて消え行くこと。
それは、弱い者の特権だ。
限りある生命を精一杯に燃やし、輝くための。
「そいつらの声が、ずっと聞こえていた気がするんだ」
あれほどに萃香を苛んだあの声は、もう聞こえない。
どうしてか、見捨てられたような心地がする。
「彼らではない。それは、貴女自身の声です」
「私の?」
「過去を望み、現在を疎む。誰にでもあるその感情が、今の自分を否定せずにはいられない。古き都。懐かしき友。『かつて』を想起させる様々なものに触れた事が、胸の奥にしまいこんだ感情を揺り動かす契機となったのかもしれません」
「……あんなにはっきりと聞こえたのに」
「細い火種も、消えゆかずくすぶり続ければ、やがて山をも焼く大火と成りえましょう」
「火種、ねえ」
そうだ、かつての自分の内には、炎があった。
我を誇示し、畏れを集め、それを乗り越える多くの者と戦った。
知恵に嵌められた事もあるし、数に退けられた事もある。
熱とともに打たれて形をなす鉄のように、その炎の日々が、伊吹萃香を作り上げた。
同じように炎を抱いた者たちは、ある者はその火を絶やし、ある者は異なる地で燃え盛る事を選んだ。
自分は、どちらも選ばなかった。
人を襲えなくなっても、畏怖を失っても、楽園を守るためなら致し方あるまいと、そう思った。
今も、思っている。それが正しいと。
そうやって、僅かな残り火を抱えたまま、今もここにいる。
「……泣いてるの? 萃香」
「雨だよ」
紫は傘を差し出さない。萃香が雨に打たれるに任せている。
「……今を嘆く必要なんか、なにもないんだ。そんなことしても意味ない。ここは楽園で、残された最後の地で、ここにあって絶えずあり続ける事が、私たちのあるべき理由だろう。過去を、ただ過去のままにしないために」
それは理屈で、心ではなかった。それでも意義がある。
意義があると理解できるから、そうしなければならないと思うから、私は。
「貴女がいなければ、今の幻想郷はなかったかもしれない」
紫が傘を閉じる。雨は、まだ降っている。
「天狗を始めとした多くの反対勢力があり、反抗して地底に潜った者があった。今に至るまでにあった無数の懸案、その幾つかは、貴女がいなければ解決し得なかったでしょう」
萃香は紫へと振り向かない。それでも、紫が全身で萃香に向き直ったのがわかった。
「だから、貴女には私を殺す権利がある」
それは何時になく穏やかな声だった。
子供を優しく諭すような。恋人に甘く囁くような。
炎の名残を持て余すくらいなら、私にぶつければ良いと。
「貴女になら、殺されてもいいと思っているの。本当よ」
萃香は、あくまでも振り向かなかった。紫の顔を見てはいけないと思った。
自分の顔も見られたくなかった。
「……そうしたら、色んなやつから『よくやってくれた』と讃えられちゃうね」
「伊吹童子の伝説がまた一つ増えるわね」
「これ以上箔をつけてもなあ」
振り向かないままに軽く返し、萃香は大地を蹴る。
雨が全身を打つのに構わず空高く飛翔し、我らの楽園を振り仰ぐ。
昨今の妖怪は、人間を襲うという原則すらも怠けたがるという。
己の根源たる意義すらも怠けていられるほどに、この郷は完成されてしまった。
過去はやがて失われる。
いつか、この想いも。
「……だからさ、たまには思い出してあげないと、可哀想じゃないか」
ただ失われるだけでは、悲しいから。
そのために、この郷はあるのだから。
「ひどい目にあったわ、全く」
「悪かったって。だからこうして埋め合わせをしてるんじゃないか」
「あんたがもってきたあのお酒? 強すぎて飲めないんだけど。何よ度数95%って」
がやがやと声の飛び交う宴会の席。博麗神社の境内である。
萃香と霊夢の弾幕勝負によって、台風の吹き荒れたが如き有様となった神社の復活祝として、萃香が人を集めたのだ。
ちなみに直したのも萃香で、霊夢は茶を飲んでいただけである。
「あんたが壊したんだから当然でしょ」
そう言う霊夢は、紫に持ってこさせた風変わりな食材たちに舌鼓を打ち、上機嫌である。
マウンテンオイスターとか言っていたが、いったい何の食材なのかは萃香も知らない。
一歩間違えば死ぬ所だったというのに、呑気なことだ。
そうでなくては、博麗霊夢ではないのだろうが。
「よう、今日はいつもと変わらん感じだなあ」
すっかり赤ら顔の魔理沙が、おぼつかない足取りで寄ってくる。
「ちょっと、出来上がるの早いんじゃないの?」
「仕方ないだろ、ほら、あれ」
魔理沙が片手に持った升で示した先に、その倍の大きさの升を手にした星熊勇儀がいた。
「今日の萃香のやつほどじゃあないが、あいつの酒も結構ヤバイな」
「そりゃあ鬼だからねえ」
「隣にいるのは……正邪? なんか泣きそうな顔でこっち見てるけど」
萃香が見やると、勇儀は升の中身を干して見返し、ニヤリと笑った。
何人潰す気なのやら。
「…………お?」
ふと違和感を覚えて周囲を見ると、いつの間にか寄ってきた針妙丸が傍らに立っていた。
萃香の左手をじっと見ている。
何事かと声をかけようとした瞬間、
「えいっ」
「あいたっ!?」
針妙丸が手に持った剣――傍目には針――を、萃香の左手に突き刺した。
「ふっふっふ、やはり我が愛刀輝針剣をもってすれば、鬼の身体をも切り裂く事ができるわね」
「痛ったぁ……何すんのよまったく」
「これは挨拶代わりよ! この間は断られたけど、今度こそアナタをこの剣の錆にしてあげるわ! 今は酔ってるから無理だけど」
「酔ってない時に言いなよ」
「こいつはいいな。鬼退治の英雄の末裔と、伝説の鬼の一騎打ち! 賭けでも企画してみるか」
「場所はここを使っていいわよ。売上の半分はもらうけど」
霊夢と魔理沙が勝手なことを言うのを尻目に、針妙丸は胸を張って去っていった。
去り際にちらりと、気遣うような目で萃香を見て。
生ぬるい停滞。堕落。緩慢なる死。
多分、それは間違っていないのだろう。
それを否定しなかったから、今の自分がある。この場所がある。
ここは幻想郷。忘れられたものたちの楽園。
やがて失われゆくものが、最後の時を過ごす場所。
色々書こうと思ったけどまとまらない。
葛藤というか蟠りというか、どうしたいいんだろうね。
自分の心の中なんて他人からは知れない部分なわけだし。
鬼だろうが人だろうが妖怪だろうが、生きてるんだし。
いや、一部の例外が幻想郷にはいるけどw
読んでてすごく物語に引き込まれました。
共感できるというか、現実にもそういうことあるよね、と。
色々考えさせられる話でした
面白かったです
やっぱりそういうものなのかなあ?って感じですね
楽園を苦しむ鬼の心情がしっとりとしていてよかったです
よかったです