身の丈四尺顔立ち端正、立てど座れど完全無欠。歩く百合すら頭を垂れる、遍く八百万が悉く羨む存在こそが私である。
一般に、世間はこれを賢将と呼んだ。
一言に「賢い」と言って見せてもその実は様々である所が厄介ではあろうが、ここでの提唱に於ける「賢将」とは、三千世界にありありと浮名を垂れ流す美貌、恐るべき智謀を湯水の如く生み続ける頭脳。そしてかの毘沙門天代理すらも尻に敷き、そればかりかその尻を蹴飛ばして馬車馬すらも震え上がるほどに使い倒す事が可能な絶大なる力。
これらを併せ持った、所謂完璧である存在を指すべきであろう事は、誰がどう考えても道理に叶っている疑いようのない事実な訳である。そう、どこをどう見てもこの私のことである。私ほどにもなれば、このように自然とそれに相応しい呼称が授けられるが道理であるがつまりそれはこの世全体から見て取ば賽の目の赤点でしかなく、物事という奴には何があろうとも反対側にこぼれた黒胡麻が六つ並んでしまう。一体全体ここで下らぬ弁を凝らして何を伝えたいかと申せば、それは非常に残念な事にこの世には全知全能を賜る「賢将」への対なる答えもまた自然と存在してしまうといった一点の真実に他ならない。
どのようなときにその忌み嫌われるに相対する言葉を並べるかと言えば、例を敢えて挙げるとするならば、成熟した一妖怪であるにも関わらず自分だけでは帯を締められない存在であり、例えば部下がいなければ炊事洗濯がまともに行えない愚かな上司であり、さらにいうならば事あるごとに接吻をせがんでくる破廉恥な毘沙門天代理などと、こうして一々論っていけば終わりが見えない。
このような極めて悪辣な者共がこの最後の楽園とも謳われる幻想郷に跳梁跋扈しているという悲観すべき事実は識者に代表される私には無論周知の事実であり、およそこれからきっと長い付き合いになるであろうこの唾棄すべき悪行を繰り返す黒胡麻を「賢将」である所の私は、畏怖と嘲りとを交えて「阿呆」とこう呼んだ。
つまり、寅丸星は稀代の阿呆なのである。
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かの絶対的支配者である聖白蓮はこう言った。「慈愛の精神こそが一番に取りざたされて然るべきである」と。
正直な所、率直に高尚すぎて俗にまみれた私では手に負えるべくもない大変ありがたい説法であったのだが、ここで「そこな老婆よ、何を血迷った事を言っているのであるか」とでも口を挟もうものならその瞬く間に我が御尊顔に物理的な愛が叩き込まれる可能性が僅かながら予見されたので、賢い私もその時ばかりは物が分からない稚児のように首を縦に振り続けて恭順の意を示して見せたものである。
いや、きっと彼女は心の底からそんな恐怖政治染みた思想は持ち合わせてはおるまいが、不思議な事に聖と私を中心として賑わっているこの命蓮寺の者は皆口を揃えて聖を褒め称えるのが通例なのであった。
であるから、先の私の反射的な追従も何ら奇異の目で見られるものではない事は明らかである。怖気づいた訳が無かろうとも。この流れは我らの中では一種の堅固に取り決められた習わしとなっており、ようは聖白蓮という女性は誰からもその背を追い縋られるに値する正に慈母の化身とでも例えられるべき、大層周囲に敬われる存在として命蓮寺に坐す御方であるという事しか言いようがないであろう。そうなれば必然、その様な者が命蓮寺の盟主ともなれば反対意見など埃ほども出て来やしないのが普通なのである。
しかしながら、命蓮寺を一歩外に出てみればそこは聖の素晴らしさを塵とも理解していない非常に野蛮な悪行が蔓延る幻想郷そのものなのだ。現に妖怪の山の付近では過去に我らを巻き込んだ揉め事が起きた事があった。
なんとも、こんな大層尊敬に厚い天女足り得る聖を捕まえては「怪力女」「血煙の発生源」「命蓮寺の動く殺生石」といった全くの心無い噂が、天狗の手によって里の人々の間に囁かれているらしい、との怒りの声が寺内に多数挙がったのである。その訴えのどれもが命蓮寺の門を叩く敬虔なる信徒達からの報告であり、ともなれば実際の真偽の定かは疑惑の渦中の者共に言質を取るまでもなく明らかであった。
最早一部の天狗共が里から得られる人気を目当てに捏造を繰り返しているのは明白、というのが我々命蓮寺一同が導き出したその時の最終的な結論である。
この、なんとも下衆の勘繰りに似合った極めて悪としか言いようのない天狗共の仕打ちに、これを耳に入れたる命蓮寺の門下はムラサから一輪やぬえを筆頭に妖怪の山へ焼き討ちを仕掛けようともする勢いであった事は記憶に新しい。特に一輪が相当に過激で、両手に松明を持参していたと言えばその勢いが伝わる事だろう。
このまま絶対的権化たる聖の門弟達の暴走を放っておけば新たな異変とも認知されかねない為、そうなる前にと私の自慢の情報収集能力を以って錯綜する情報を整理したところ、やはり極々少数の胡散臭い天狗がばら撒いた三文銭にも劣る新聞報が里の噂話の元凶となっていただけであったので、御阿礼の乙女に頼んで真実を流布して貰ったのだった。
冷静沈着な私でなければ思いも付かない考えであろう。その結果、野火の如く広がった馬鹿げた噂は静かな波が戻るようにゆっくりと沈静化していったのはここに語るまでもない。また、この騒動の根本である某天狗記者もかんかんに怒った紅白色による妖怪の山の襲撃という形で始末され、かくしてこの騒動は懸念されたよりも案外に早い大団円を迎えたのであった。
襲撃者曰く「最近あいつが神社に来る頻度が減ったから、きっと悪巧みでもしてるんでしょうと思って。それだけ。構ってほしかったとかじゃないし。いや違うし」らしい。それに付随する形として、射命丸文と言われれば成程そう見えなくもないような身元不明の重傷者が暫くの期間を永遠亭預かりになった事は些細な事柄であろう。
こうして、この一件は焼き討ち派の規模が拡大の一途を見せつつあった事を危惧した聡明なる私の情報操作と、予定外に早く動いた博麗の介入とが重なる形で一応の結末を迎えた訳である。
天狗方もこれにて手酷い釘を刺された形となり、以来命蓮寺、並びに聖に対する批判的な記事は大いに鳴りを潜める事となった。
これが世にいう「射命丸あわや三途を渡河事件」の全容だ。話し合えば武力を行使せずとも平和的な解決策を探りだせる、という事が今回の件で得た教訓であろう。なお、巫女は例外として扱う事とする。あれはきっと災害とも比肩する何かである。
話は変わるが、二百年程度前に酒に溺れて泥酔した一輪が(そもそも飲酒は御法度である。阿呆め)前後不覚に陥り、介抱に当たろうとした聖に破廉恥を及ぼうとした際、一夜にして一輪の自室の壁という壁と聖の拳とが朱色の染料で手早く塗りたくられた怪奇現象との関係性は一切ない。きっと聖はお茶目だから染物屋さんごっこでもしたのだろう。まぁ、物理的にはかなり距離が近づいたので一輪の判断は結果的に良かったと言えるのではないだろうか。その生死は別として、だが。
つまりこういう事もあるので聖、強いては命蓮寺についての余計な詮索はされないように重々注意するのは勿論のことながら、それを新たに天狗共に暴かれようものならさもなければ妖怪の山はどこかの名も知れぬ住職の怒りのげんこつで山肌を少なくとも半分は吹き飛ばされるだろうし、先の天狗は巫女と住職の板挟みによりきっと亡骸さえ残る事は無く、その余波ともいうべきとばっちりで多分一輪は今度こそ死ぬ。断言しよう。でなければ下手を打てば次はどこで染物問屋が開業されるか分かったものではない。下手に藪をつつく奴は大抵馬鹿を見るものである。
つまれば、何事も知り過ぎないことが長生きのコツなのだ。乙女に秘密は付き物であるし、それが照れ屋で乙女な住職ともなれば尚更である。
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日差しは強くなる一方で、いい加減にしなければ終いには畳の干物が出来てしまうほどの暑い日であった。硝子窓の向こうでは陽炎が揺らめき立ち、その奥で並々と繁茂する草木の姿を執拗に捉えさせまいとする。
まるで頭の悪い気候であり、これが年に一遍も廻って来るのかと思うとこれからの生涯に嫌気がさしてくる訳である。
四季の中でも夏を喜ぶ奇特な奴が童以外にいるとすればそいつは間違いなく珍妙奇天烈であり、これから推論するに勿論我が主人はきっと夏が大好きに違いはあるまい。
暑苦しい時期に暑苦しい阿呆が活動するだなどと、字面だけであったとしても殊更熱射病になりかねない。なんとも茹だるほど欝々とした気分になってくるものだ。
しかしながら、かといってこの六畳一間に一日中引きこもりを決め込んでしまえばその翌日には高い確率で鼠の干物が生み出されるであろうし、ならばこれから取るべき行動は明快であり、そうして私は仕方なしに重い腰を上げる訳なのであった。
なに、件の毘沙門天代理でも揶揄えば、少しはこの暑さも紛れるかもしれん。
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私がそうやって思索を巡らせていれば、日に焼けすぎてかつては穢れを知らなかったであろう白が最早黄金色になりかけつつある障子戸が力任せに引かれた。こんな雑な訪問を敢行する来訪者を私は一匹しか知らず、それについては諸氏諸兄らの想像に十分及ぶことであろう。
「ナズーリン!」
「愛想が尽きて出て行ったよ。どうも再度無縁塚あたりに住み込むらしいですね」
「酷い! いい加減許しては貰えないですか」
開幕早々になんとも喧しい阿呆である。これではおちおち不貞寝を決め込むことさえ難しい。仕方がないから私は顔だけを布団から向けて応対してみせた。
「貴女には言いたいことが山ほどありますが、まずはとっとと部屋に入って来るといい。でなければそこでは往来の邪魔として雑草と一緒に燃されて煙たがられても文句は言えまい」
「うう、雑草ですみません。生まれてきてすみません」
現在、我が待遇は命蓮寺の中では圧倒的な実力を評価されて六畳一間が恭しく与えられている。ちなみに響子は十畳であるが、これはきっとあの姑息な可愛さで媚びを売って回った結果であろうから私は羨ましいなどと思ったことは決してない。一回たりとも無い。風呂無し、台所無し。使い古されたイグサの臭いが仄かに漂うどうしようもない一室こそがこの賢将の唯一安息の地であり、その中心に据え置かれている使い古された万年床に昼間から堂々と寝転ぶのは勿論この私である。
そして先程到来してきた輩は、その使い道が無い程の上背をこれでもかと縮め切って我が前に正座を決め込んでみせた。
「これ、座ってなお私よりも目線の位置が高いのが非常に腹立たしい。どうにかしないか」
項垂れながら部屋に入って来てはいた毘沙門天代理を指して私が諫めれば「それはだってあなた、布団から出て来ないからではないですか」などと、この期に及んでなお言い訳を繰り出してくる。対した度胸である。読経は響子よりも下手糞なくせに。
「その上で言ってるんだよ。もっと私を敬うべきでは果たしてなかろうか」
「これ以上はうつ伏せくらいしか手立てがありませんが……、そしてナズーリンは平気でそうしろと言いそうでこの身が震えます。それ以前に私、一応ナズーリンの上司なんですけれど……」
「一般的な上司は部下が貸した書物を紛失したりはしないと思いませんか?」
出足が肝心とばかりにピシャリと叱責すれば彼女はなんとも情けない、まるで萎びた大根みたいな声で「うぅ、な、失くしていません、最近の本はきっと勝手に足が生えて何処かへ出かけていくのです。きっとそうです」などと嘯いて見せるではないか。
どこから見てもその顔は冷や汗が滝のように流れ落ちており、事情を知らぬ者が見た所で過失がこのおまぬけと私、どちらにあるかの判断は間違えようがないであろう。
「脚が生えて逃げられたなら、それこそ這い蹲ってでも探すべきではないのでしょうか。私なら親しいものから借り受けた物品に逃げられたとあっては恥も外聞かなぐり捨てて、額で床を磨ききる勢いで探すんだがなぁ。言っておくけれど、私はあの大作をそれはもう楽しみにして少しずつ少しずつ読んでいたのだよ。それを紛失された、この気持ちがわかるかい御主人よ」
「う、うぅ……」
言いながら依然として顔の青い誰かの目を覗き込んでやれば、なんとも緩やかに視線を逸らされる。気のせいではなく、正座で揃えられたつま先の間から伸びていた尻尾が萎びた大根になってきていた。なんとも嘘が付けない正直な我が主人である。その単純さに免じて今回はここいらで手打ちにしてやろうとも思えた。私も甘いものである。
「流石に冗談が過ぎたよ。なに、そこまで気にはしてはいないさ。どうせ古本屋から安く買っただけの陳腐な黄表紙だったもの」
「な、なんと、その一言で罪悪感から若干解放された気分です。かつてないほどに私の心は晴れやかでありますよ」
急に軽くなった室内の空気を敏感に察知してか、彼女は九死に一生を得た、とでも言いたげに心地を付いてみせた。許すといった手前、これ以上の追及は避けられるべきである事は理解しているのだが、それでもこの賢将を前にしてまるで閻魔から逃げ切ったかの笑顔を浮かべるのには甚だ疑問である。まるで私が閻魔だとでも言いたげな雰囲気ではなかろうか。
というか「泣いた烏がもう笑う」を地で行くこの精神が単純に腹立たしい。
次会う時までに覚えていれば向う脛を思い切り蹴飛ばしてしまうかもしれん。
そんな事とも知らずに、正面にそびえ立つ独活の大木はふわふわと笑顔を咲かせて見せていた。何とも味わい深い間の抜けた面で、まるで間抜け面の見事な習いのような顔だ。これはこれで、もしや学術的研究対象になるのではないだろうか。
「安心したからかは知りませんが、その気の抜けた笑みはとても気持ちが悪いので今すぐお止めになった方がいいでしょう。さもなくば即刻ぎゃふんと言って頂く破目に陥らせる」
布団の中に潜んでいた私の自慢の尻尾を外に出し、軽く靡かせて少しばかり脅しをかければ途端に日頃によく目にする容赦ない情けなさを溢れさせ、「暴力はいけません。痛ければ泣きます。私がめそめそと泣くという事は即ち猛々しき毘沙門天の威光を傷だらけにすると同義ですよ。そうなれば私の悠々自適の極楽代理生活は崩壊の一途です、破滅なのです。心優しい貴女にそんな惨いことをさせたくはありません」と両腕を拙く振り回しながら強弁らしきものを振るわせる。
なんとも類を見ない開き直り方であり、こういった細かい所からさえも阿呆の資質が伺えようというものだ。
「ふむ、確かによくよく考えると御主人がそうなれば我らが命蓮寺が単なる阿呆の巣窟だという醜聞が知れ渡ることに成りかねん。なんとも一大事ですね」
「そうなのです。私が阿呆だという事が里の皆々様に手広く知れ渡り……あれ、ちょっと待ってください、何かおかしくないですか。阿呆ってどこから出てきました?」
「いやいや、おかしくないさ。そして先程の理論展開を持ち出されては一介の部下でしかない私では、聖の様に愛のある拳骨という力に訴える事も残念ながら叶わなくなってしまう訳ですね。何せ貴女を打ち据えれば毘沙門天とやらの御威光が陰るようだから。しかしこのままでは暴力云々というよりも責任の取り方の問題に実はすり替わってきやしないだろうか」
「どういうことですか」と、主人が僅かに考えたような怪訝な面相を向けてくる。
「つまりだね。失礼を承知で具申すれば、貴女は粗相が多い訳だ。これは統計的にも明らかであるので、どうか認めて貰いたい。はっきりと事実だ。こら、唇を突き出して不満げにしないの。御行儀が悪いよ」
話の流れを俊敏に読み取った我が主人が、これは憤慨だとばかりに顔をしかめる御主人を先を打って制止する。私も自然と喉を鳴らし、この場に一拍の間が空いた。
「どこまで話したか。そう、失敗が頻発しているのだ。貴女の敬虔なる部下の私としては君には常あるくも素晴らしい毘沙門天代理様でいて欲しい。切なる願いである」
「あぁ、ナズーリン。まさかそんなに私のことを思っていたなんて私は幸せ者ですねぇ、およよ……」
ただ単に扱き下ろしていただけの筈であったのに、感動に溺れかけている単純な御主人を見る事で少しばかりの予期せぬむず痒さを尻尾の付け根に感じながら「であればこそ、防止せねばなるまい。対応していかなければなりません。二度と足袋を裏表間違えて履くことのないように学習するべきである。罪には罰。刑罰は罪人を更生に導くための足掛かりであるのだ。己の間違いから逃げるには容易いが、非を認めるのは今しかあるまい」と私は一気に捲し立てた。
我ながら見事に流暢な弁舌である。立て板に水とはまさにこの様を言い表すに違わずか。
「な、成程確かに。躾礼節を身につけなければ貴女の厚い期待に応えるには難しそうです」
「でしょう、そうでしょう。納得したようですね」
「では具体的にどういった方法を取って私を無欠の毘沙門天代理へと導くのですか。自慢ではありませんがこの寅丸、生半可な療治では矯正されない自信があります。宝塔を初めとしてあらゆる物品を失くしてみせましょうとも」
声高に我が上司は宣言をし、さらには得意気な顔で胸を握りこぶしで打って返事をしてみせる。ついでとばかりに、豊満な一対の果実が実に柔らかそうにゆっさゆっさと揺れやがるのであった。
誰でもいい、今すぐ炊事場から出刃包丁を持って来てはくれまいか。可及的速やかに。何故ならば早急に収穫せねばならん果実が眼前にぶらさがっているのだ。
「冗談も程々にしていただきたいね、御主人様。でなければ次は命を亡くすでしょう」
「またまた。ナズーリンってば冗談がお上手なんですから……え、冗談ですよねナズーリン! こら、私の目を見てください。ねぇ、ちょっと。怖いんですけれども!」
ついには正座の構えも崩して私の体に縋りついてくる我が主人ではあるけれど、勿論上下関係を弁えている私は「えぇ、冗談ですとも」と微笑み返すだけなのであった。巨なる乳は皆滅べばいい。くそぅ。
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暴力は諍いの火を煽ぐばかりであるならば何が平定の世を廻すのか。それを体現しうる言葉に「地獄の沙汰も金次第」という古来よりの大変ありがたい御言葉がある。これから見るに、いつの時代でもこの世は金が猛威を振るうのだ。それは何故か。
答えは単純で、金を欲するのはこれもまたいつの時代でも賢者や権力者ばかりだからであり、それらの目を眩ませられるほどの金を握らせてさえしまえば賢き者も阿呆の音頭を取り始める事だろう。私が阿呆に成りえてしまうと説明すれば金銭の威力が途方もなく恐ろしい事かは明白であり、考えるだけでも腹の底が冷えてしまう。つまり、金にはそれほどまでの魔力があるに違いがない。
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「その手はなんですか」
「今さっき説明してあげただろう、そういう事だよ」
「だと思いましたよ、貴女の事ですからね。私の先程の感動の涙を返してください、何ですか躾だの礼節だのと。結局はお駄賃欲しさの言い訳ではないですか、私はぷんぷんですよ、もう!」
そう言って胸に無駄な重みをくっつけている我が上司は、折角私が差し伸ばした手の平をぺいっ、と跳ねのけよった。この女神にも匹敵しうる我が御手を蔑ろにするとはとんでもない輩である。
私がわざわざ布団から這い出て会話をしてやってるというのにこの毘沙門天代理は全く以って有り難がろうとしないのは、これは一体どうしてなのか。これが私ならば涙を枯らして喜びを叫ぶに違いない。
「違うさ、誤解している。これは身分を超えし共通の決め事なのだ。この約定の前には上司も部下も、住職も入道も関係ない。悲しきことにこの世はとかくどこでも金が必要で、店屋物を食せば銭を出す、神よ頼むと銭を出す。挙句はあの世を渡るも銭が要る。ここまでくれば償いを弁えるにもきっと銭が御入用になることは閻魔も認める道理ではありましょうて」
にこやかに言う私とは対象的に目の前の上司は漸く私の言いたい事を飲み込めたようで先程の乱暴はどこ吹く風だったやら、顔色は湖の周辺の天候の様に見る見る悪化の一途を辿りつつあった。おぉ、まるで見事な茄色だ。晩の献立はなすびが食べたくなってきたではないか。
「い、言いたいことはわかります。だって私が貴女からの借りものである書物を失くしてしまったんですからね。弁償で済むのであれば誠意を見せるべきでしょう、えぇ。そこは違えるつもりはありません。で、ですがナズーリンってば時々意地が悪いからあとあとになるにつれて手酷い目に合うのではないかと、唯それだけが大きな懸念でならないのです」
と、胸が御立派に熟れ切ったなすびは心配そうに言う。きっと読者諸君らはこの窮状を眺めては「これこれ、ちょっと詰問が過ぎるのではないかねナズーリン殿よ」などと思われている事であろう。
だが少し待ってほしい、ここで私を責めるのは容易い。が、こういった叱責を怠らない事こそが凛々しき寅丸星を維持する秘訣なのである。それにこうすれば結構長々と御主人とお喋り出来て私は幸せなのだ。羨ましかろう。まぁ、その後にちょっとばかし意地悪をした事も果て、あったようななかったような事もどうだろうか。
「まさか、そんな訳あるものか。前々から思っていたけれど、貴女は私を慈悲を欠片も持たぬ悪鬼羅刹とでも御思いなのですか、いやそんな筈はないでしょう。何せ日頃から碌な駄賃も要求せずに汗水垂らして西へ東へ失せ物探し。挙句に朝から晩まで使い侍るは尊き御方の為なのだからと、泣き言の一つも洩らさないこの私を指して「底意地が大変悪く、性格が複雑に捻じれている」とかいった評価を貴女が下す訳はないと信じています」
こんな調子で周到に逃げ口上を防ぎながら私が弁を詰め寄れば、相手はそれはもう大いに途方に暮れた様子で「もう、聖には内緒ですよ。またもや物を紛失させたと知られれば私の立つ瀬がないのです」と諦めの付いた一言を放って投げたのだった。華麗なる我が頭脳の勝利である。
「勿論、そこはいつもの通りにです。ただ、今回ばかりは多少の金銭を貰い受けようというだけのこと。何せ前の月に着飾るための誠に華美な服を大いに買い漁った上に、件の黄表紙を買い上げたものだから合わせる事の、つまり今の私は文無しなのです。それはもう見事なまでの素寒貧でございます」
「貴女、そんなことに毘沙門天様からの御給金を散らして……」
「おいおい何だいその目は。そも私が正統なる手段で入手した賃金をどう使おうが自由ではないでしょうか、いや自由に決まっている。それに上司が着飾っていても部下がみすぼらしい恰好をしていてはそれこそ名折れというもの、この散財もが全ては貴女を想っての、清貧を信条とする私なりの精一杯のおめかしの為であるのだという事を理解して頂きたい」
「うーん、何だか言い包められている気が多分にあるのですが」
怪訝な面持ちで出し渋ろうとするもそこは流石の御本尊、渋々ではあるものの懐から可愛らしい刺繍があしらわれた蛙口の財布を取り出すのであった。こうも素直だと将来に、悪知恵が働いて希少品が好きそうな悪い女に引っ掛からないか少々不安になる。いや、その時はこの賢き頭脳を持つ私が助けてあげればいいだけなのだ。見返りは希少品か何かで結構だよ。
「そうだとしても貴女には払う義務がある。いや権利と言い換えてもいいでしょう。何故なら、こんなにも見目麗しく美しい部下が常に傍に付き従っているのだから、たまの御褒美くらいは支出しても御釣りが出るくらいだ」
「まったくもう、よくまわる口ですね。それで、例の足が生えて私の手から消えていった黄表紙はおいくらだったのですか」
「うむ、確か十文だった筈だ。森の傍に、営業してるんだか潰れてるんだか一見して判断が付かない古道具屋があったんだがそこの店主から買い叩いたときに値札の丁度十分の一になったからよく覚えているよ」
「鬼の様な値切りですね。あぁ、あとでその古本屋に謝りに行かなければ」
「余計な事はしなくて宜しい。代わりに店に巣食っていた鼠達を二、三匹引き連れてやったのだからそれでよいのです。それで、先立つものは見つかりましたか」
「ちょっと待ってください、口が小さくて……。えぇい、ひっくり返しましょう」
哀れにも逆さまにされた蛙の口からは、金属独特の甲高い音と共に出てきた七枚の貨幣。机に弾かれる音はそれ以降響く事は無かった。つまり、これが先程私に節制の重要さを説いたどこぞの御主人様の手持ちという事に他ならない。
まさか何かの間違いであろうと思い、「ほぉ、成程。冗談は私より御主人様の方が上手いという訳だ。まさか天下の毘沙門天代理ともあろう方がこれ程しか持ち合わせていない筈がなかろうて。さ、とっとと残りを出し給えよ」とやんわり詰問してみれば「え、ええっとですね。これで全部なんです、ゆ、許してにゃん」とのたまいよったのだった。
あぁ、なんと居合わせる皆々様よ、これが我が命蓮寺の御本尊である、どうか許してやって欲しい。諸兄らの怒りは私が責任をもって晴らしておこうとも。可愛さよりも間抜けさが大いに勝った、余りにもお粗末な返答を返されては幾ら愛嬌に溢れていると言おうが流石の賢将といえども一息には返せず、小さな口から漏れ出たのは「はぁ?」といった溜息ともつかぬものだけであった。
「ひぃっ、怖い。怖いですナズーリン。その目は敬愛している上司に向けていいようなものでは断じてありません、やめてください! 私だってそういえばこの月は実は甘味を沢山頬張ったのです。ですが私は悪くありません、美味しいから買ってよ、と私の心にそっと囁いてきた善哉や団子達が悪いのです!」
まさに怯え切った猫といった様相を呈しているソレではあったが、きっとこの姿は半ば演技の様な物であり、その根底には私と彼女との裏打ちされきった信頼関係があるからこその為せる御業である。つまりここで庇護欲をつつかれ、情に絆されては私の負けなのである。断固とした姿勢を取らねば毎度の如く同じ轍を踏む事になるのは過去の結果を省みても明らかであろう。
「落ち着いてください。当然、私は名高い智将でありますから先程から申し上げていますように暴力に訴えかける野蛮な手段は用いません。ですからその点では貴女は是非とも安心して然るべきでしょう。けれども、金銭というものは先程も論じて見せたように悪魔的である。血の契約と同義である。であるならばそれは何者よりも優先して履行されなければ悪魔の落ち度、名が廃る。おまんまの食い上げに他ならない」
「つ、つまりどういうことなのでしょうか」
彼女は出来る限り慎重に私に弁の続きを求めてきた。よくよく見ればかつては凛々しかった尻尾はいつの間にやら股を潜り抜け、ぐるっとお腹の手前まで回っている。ここまでくれば虎というよりかは立派な猫の出来上がりではないか。そんな他愛もない事を感じつつ、私は本題を語るべく口を開いた。
「武に訴えず、さりとてめぼしき金品も受け取れぬ。となればそれはもう、そのご自慢の体で対価とするしか道はないでしょう」
「か、体! なんですって、破廉恥な!」
何を勘違いしたか、自身の体を抱きすくめていきなり声を荒げる御主人。おいやめろ、衆目があっては到底誤解されそうな言動は慎みなさい。私の手首のお縄が回ってしまうぞ。
その不審な挙動の真意に気づいた私が負けじと「ち、違う、早合点です! そういう意味で言ったのではないよ!」などと釈明を試みれば少しは落ち着きを取り戻したのか、それでも怪訝な面持ちではあるが再度の確認を迫ってきた。あぁ、今日は厄日に違いない。
「でもでも、ナズーリン、貴女ってば私の体が目当てだと言ったではないですか。確かに聞きましたよ」
「そういう意味ではなくて、肉体労働で手を打ってあげましょうという意図で言ったんです。なのにこんな勘違いをするだなんて、普段からそんな妄想に耽っている訳でもないでしょうに。それでは我が主人こそが破廉恥と呼ばれるよ、全く」
「そ、そういう事でしたか。いえ、私もそうではないかなと思っていたんですよ。ただ相互の齟齬があってはこれはいけないと思いまして一応の確認をですね……」
一体落ち着いたのかそうでないのか、そわそわとしながらも私が言いたかった事はどうやら御主人に伝わったようであった。
「つまり小柄な貴女では難しい、そう、例えば家具の移動や高所の荷物を動かすといった事態に対しての助けを求めているのですね」
「そういう事だよ。いやに察しが良いね、まぁいいけれど。そう、少しばかり模様替えをしたくてね。これでこの一件は水に流してあげますよ、感謝してください」
妙な焦りを覚えさせられてしまった手前、少し横柄かもしれぬ態度で受け答えをしてしまったが、それでも我が上司は「有難う御座います、良い部下を持てて私は幸せ者ですね」とどこ吹く風であっけらかんと答えて見せたのであった。本当に、これではどうにも敵わない。悔しいけれども、こういう所が恰好良いのだこの阿呆は。阿呆の癖に生意気である。
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恰好いいと言えば、我らが聖の唯一の趣味とも特技とも言うべきものにお裁縫がある。
これが単なる手芸と馬鹿にするのは簡単な事だが、果たしてその腕前は並み居る反物を瞬きの間に様々な衣服類へと昇華させ、採寸という過程さえ消し飛ばしてそれぞれの門徒へと贈られるのは命蓮寺では周知に及ぶ事実である。かくいう私もこの夏に丁度の薄手の服は聖のお手製なのであった。そんな聖は命蓮寺に置いての組織活動を通した交流を盛んに推奨しており、この狙いとして、照れ屋であったり人見知りをしてしまう妖怪達を皆で支えてあげようという考えがあるのだ。
察しのいい方ならばもうお分かりであろうが、そう、聖もそ率先してそういった組織を運営しているのであった。
その名を「南無南無手芸倶楽部」と言う。長ったらしい看板を縮めて「無手倶楽部」というのが通称で、これではまるで物騒で聖には全く似つかわしくない名前であった。活動内容としては至って単純で、聖のお手伝いをしたり、お針子仕事を習う事で聖お手製の手ぬぐいや、右腕として恐れられる一輪のこれまた特性頭巾等が優先的に配布されるのである。
しかし悲しい事に、不器用な子や倶楽部の大袈裟な名前に及び腰になる妖怪が多数出ており、運営を困に窮する一輪は裏家業として雲山を活かした引っ越し仕事や家具移動の小銭稼ぎを働いているのであった。まさに愛とはかくもあるべし。
どうか一輪の恋路に苦難が腹一杯に待ち受けている事を私は切に願ってやまないぞ。真なる愛に立ち塞がる壁は重要不可欠なのだから。
引っ越しといえば、私も何故御主人を小突いてまで模様替えをしたかったのだろうか、私にも不思議と思い出せなかった。
何か、途轍もない事を忘却の彼方に追いやってしまったような、そんな漠然とした不安は僅かにもあったが隣でその大きな口を開けては呑気な顔をしている毘沙門天代理を見ていると、そういった気持ちもきっと気のせいだろうと思えてくるものだから面白いものである。この顔を活版印刷して幻想郷中にばらまいてしまえば、たったそれだけで平和な世が訪れる気さえしてくるとは思わんか。
それにしても、何か忘れているような。
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肉体と、ついでに精神の講釈をしよう。
健全な精神は健全な肉体に宿る。いいや、真っ赤な嘘っぱちである。
これについては博学であろう貴君等には話すまでもない事ではあるのだが、何事も実体験無くしては愚者は悟れぬものであり、だからこそその証左をここに示して見せよう。健全な精神とはつまり、まるで私の様に高潔な信念と、理性ばかりで満たされた博愛的主義の行使を正しく行える表れを指す。
まぁ、私に代表される事は間違い様がないであろう。
一方、健全な肉体とはまさに肉体美とも謂わんばかりの圧倒的なそれであり、然るに母なる大地を想起させる豊満な一対の丘陵、乙女的なほっそりとした腰付き、押し付けた指先が沈み込んでしまいそうな肌色の桃の果実。これらが主たる代表に挙げられる。所謂ないすばでいという奴だ。この分野に於いては残念ながら我が上司が該当してまかり通る。大変けしからん、目の毒である。
一見してまるで正反対の私達ではあるかの様に見えるが実は共通する部分があり、それはもうご察しの通りで、成程どちらもがどちらかを持たざる者としてこの世に産声を上げた点であろう。
やはり神は二物を与え給う事は決してないのである。
そんな事をしてしまえばだって、大変賢くてそれでいて至極の色香を操る賢将が生まれていただろうし、余り物で組みにされればそれは惨憺たる結果である。
そう、であるからこそ私は小柄で控えめなしなやかな肢体を良しとして生まれ出でた訳であり、なのでその事を御主人はこれでもかと言わんばかりに感謝して欲しいのが正直な所なのである。
そうでなければ、きっと命蓮寺の毘沙門天代理は貧相な体躯で、幼稚で破廉恥で、そしてやっぱり阿呆であったこと受けあいだろう。
●
「それにしてもなんで急に模様替えだなどと。貴女の部屋はたったの六畳ぽっちしかないのですから対して景色は変化しないでしょうに」
先程の応酬からやや日は少し陰った夏場の午後。我が六畳の居城で唯一の窓は早々に限界まで開け放たれており、されども元が小さな硝子窓なものだから吹き抜ける風は微風よりもなお心許なかった。
しかし身体に滲んでくる汗の量は午前中よりは余程少なく、こうして改めて体験することで我々は自然の偉大さを実に素直に感じる事が出来るに違いない。
そうとでも言い聞かせなければ今年の夏は乗り越えられない雰囲気が確かにあったし、でなければ現状、この高貴なる私が職場の上司と一緒に自室で力仕事に勤しんでいるなどとは到底唾棄すべき光景に他ならない。
「たまには家具を動かさないと畳が傷みやすいのですよ。それくらい常識の範疇です。そもそも口を動かす暇があるなら失くしてしまった本の分を取り返すつもりで、それはもう馬車馬のように働いてください」
「はいはい、上司使いの荒い部下を持つと大変ですねぇ」
「なにを仰る、世が世なら貸借事での失態など打ち首も打ち首。そこを単なる奉仕労働に押し止めている手前、この私は貴女にとっての唯一の女神と呼んでも最早大して差し支えは無いのですが」
「まぁ、確かにそうなんですよね。私の些細な失敗で貴女との信頼関係を失いかけたのは事実。ナズーリンの寛大な御心あってと考えれば確かに私だけの女神さまなのかもしれませんね」
「えぇい、恥ずかしい。自慢の我が耳に雑念が埋まりこむ勢いだ、やめないか。そんな事を言われてしまっては、歯がそれはもう浮いて浮いて噛み合わせが非常に宜しくない事この上ない。私はまだ美味しい御飯を食べたいのだからしっかりして欲しい。口より前に手を動かさないか」
文机を横に動かし始めた御主人は「酷くないですか。もうちょっと、こう、私に酔ってくれてもいいのではないでしょうか。部下が冷たくて今にも泣いてしまいそうです、およよ」などと相変わらず幅の無い小芝居を始めてはいたが私はこれを一切無視した。まともに応対をすれば今度こそ顔から火が出るまで朗々と謳いあげる事は明確であると長年の付き合いで分かっているからであり、そんな事をされてしまえば今度こそ赤い顔を隠し切れん。
無垢な阿呆ほど厄介極まりないとは成程その通りなのであった。触らぬとも触らず、障りなく、余計な藪をつつく役など御免被り極まれり。
「ほら、次はそこの書棚を動かす。私の可愛いお手てではとても持ち上がりそうにはないもの。是非役に立ってください、でなければ貴女の腕っ節なんぞ埃の肥やしでしかないかもしれんよ」
「えぇっ、これ程大きい棚も私だけで動かすんですか! さっきから貴女ってばこれそこここにといった指示ばっかりで大変に楽をし過ぎでは無いでしょうか。幾ら私が悪かったからと言っても、それでもここはナズーリンのお部屋なのですから多少の手伝いは、六畳一間の城主としては義務ではありませんか」
「駄目駄目、わかってないね御主人様。もしも万が一に箪笥が不意に倒れたりでもして私に何かあって御覧なさい。七福神坐すは夢の地から遠路遥々貴女に下り、手足となって滅私奉公するは絶世の美女。生粋の知恵者。賢将ナズーリン。そんな部下が怪我をしたらしいとの噂が新聞記者に嗅ぎ付けられでもすればものの数刻で尾ひれを頭から生やして里中を噂が疾走する破目になる。そうして真っ先に疑われるべきは我が上司である貴女であり、盛大に出回る号外の一面には「毘沙門天の過剰な躾。最先端の家庭内暴力を記者が暴く」なんて過激な見出し。こうなってしまえば君は身の破滅、生涯を棒に振りかねない事態に発展するに決まっているよ」
散々に捲し立てて見せれば行先は上々で、私の目の前にはまんまとまるめこまれた上司がいるだけであった。愚か者は賢者に使われるばかり、とはよくも言ったものではないか。
「むむむ、そう言われればそんな気がしてきました。仕方がありませんね、優秀なる部下の為、もうひと踏ん張りしましょうか」
「うむ。いい心がけである。きっと死後は極楽行脚間違いなしでしょう。なんなら私から毘沙門天に口利きしておいてあげよう」
「えぇ……なんて安易な。まったく、冗談にしては罰当たりですよ、っとと!」
軽口を叩きながらも作業は着々と進んでいるようで、抱え込んでみせた書棚をまるで空の蜜柑箱でも持ち上げるかのごとく軽々とどかせてみせた。こうやって間近で見るとやっぱり膂力には圧倒的な開きがあるのだと悉く理解できる。まぁ私は命蓮寺きっての頭脳派であるからあんな力こぶはこれっぽっちも必要ないのだ。けれど、もしも彼女の手によって何かの拍子に組み伏せられてしまったならそれはきっと今の私では脱出不可能に決まっている筈なので、それを思えばこれからは鍛える事を念頭に置いてみてもいいのではないだろうか。
でなければ、反撃を恐れるあまりに無闇矢鱈に御主人様を揶揄う事が出来ないのだから。そんな事態に陥っては我が趣味が大暴落である。
「流石毘沙門天代理たる我が御主人様である。こんなに便利で神徳もある本尊なのだからさぞかし優秀な部下を持っているのだろう」
「部下って、それはもう貴女の事ではないですか。もう、ちょっとはお疲れの私を労って下さいな。その鈴の様な声でもって一時の間、可愛らしい声援を送ってみるだけでも劇的な変化を遂げて見せましょうとも。下手をすれば心身のすべらかな快復は約束されています」
「おだてても駄賃は出ませんよ。それに私は上司には厳しく辛く当たって成長を促す方が得意ですのでね。むしろ美声目当ての拝聴料を取る勢いです。でも、まぁ助かりました。有難う御座います。貴女がいてくれて助かった。本当さ。こんな重そうな書棚なんて持つことすらも難しいもの」
しかし、折角私が恥を忍んで礼を尽くしたというのに当の御主人とくればただ只管に口を開けっ広げて私を見つめているばかりで何も喋らず、これでは私が何もしてないのに顔が赤くなる不審者と化しているではないか。こら。その視線の目的を告げよ、さもなければ今すぐに退出を許可して頂きたい所存である。
「おい。おい、御主人。何か喋らないか。豆鉄砲喰らった阿呆みたいなその御尊顔をとっとと引込めてしまえよ、お願いだから」
何か恥ずかし気な流れを敏感に察した私は、これぞ賢将ともいうべき華麗な話題転換を試みるが何故だろう、こういう時の御主人様はどうにも私の術中には絶対に嵌まってはくれやしないのであり、そしてそれは今回この場においても遺憾なく発揮されてしまっていた。あぁ、神よ我を見捨てたもうたか!
追い打ちをかけるように「いや、なんといいますか。素直なナズーリンはやっぱり一番可愛いのだなと改めて感じ入った次第でして。えへへ、私は果報者ですねぇ」とは阿呆の弁であり、なのだがこんな陳腐な文句でも今の私には致命傷になりかねない。永遠亭に今から予約を入れられまいか。
「す、素直になって何が悪いというのです。私は、君は知らないかもしれないけれど御主人様以外には常々素直なのだ。素直の塊としては一家言ある程である。だから可愛いとか可愛くないとかは問題にならないのです、いいですか」
「あれれ、ナズーリンってば。もしかしたらナズーリン、照れてませんか。気のせいでしょうか、お顔が赤くないですか」
形勢は既に決したとでも言わんばかりに攻勢へと転じる我が御主人は、その横縞模様に相応しい邪な気持ちを込めて囁きかけてくる。その口元がこれでもかとにやついているのが大層に腹立たしい、私は恨みが深い方である。覚えておけよぅ……。
「えぇい、煩い奴だな君は。とっとと書棚をどかさないか。このっ、このっ!」
「いたっ、痛い! やめなさい、やめてくださいっ。私のお尻は足蹴にするものではありませんよ、いたた!」
「知るものか。こんなにも献身的で魅力的な部下を茶化すだなんて君は毘沙門天の代理には絶対向いていないのだ! 精々大人しく私に蹴られているのがお似合い、貴女に代理なんて勤まるものか。意地悪な御主人様なんて大嫌いですからね、ふんっ!」
「あぁナズーリン、ごめんなさい。言い過ぎましたね。私ってば少し楽しくなってしまったみたいで、ほら可愛いお顔が台無しですよ。拗ねないでください、ね。ね?」
「もう知りませんから。この賢い私をここまで貶めた罪は重いのです。これから一生、貴女の献立から一品が消え去ることを約束してあげます。我が頬は既に手遅れな程にぷくぷくぷぅなのだ!」
ようやく、優秀な部下を失ってしまうかもしれないという危機感に気づいてしまった哀れな虎妖怪ではあったが、そんな下手糞な謝罪では私の曲がりに曲がったおへそは決して元に戻る事は無いのである。
私がこうもなってしまった以上、この先に待ち受ける御主人の未来は絶望的なまでの灰色しか有りえないことは、今この場に駆けつけておられる先達諸氏には重々承知の事と思われる。私の意思は堅牢、崩されることは今後永劫とあり得まい。
「この通りです。ね、こっちにいらっしゃい、頭を撫でてあげますから。耳かきだってやってあげますよ。なんなら明日のおやつは私の分をあげますから。ほらあそこの壁の献立を見てください、なんと明日は聖特性の葛餅です、美味しいに決まっています」
「ほんとに?」
「本当も本当、今なら「あーん」までしてあげますよ。今だけの特典です。ですからどうか機嫌を直してはくれませんか」
「お膝の上がいいんだが……」
「勿論です! 私のお膝の上で「あーん」する、ただのそれだけで優秀な部下の心が晴れるというならばこの寅丸星、喜んでそうしましょうとも」
「し、仕方ない、そこまで泣き付かれては許してあげようかな。明日、約束だからね。忘れたら酷いのですからねっ」
私がそう轟轟と啖呵を切れば御主人様はそれはもう怯えた様子で「はいはい。これで一安心、まあるく事が収まりました」と呟いたのであった。全く、流石は私である。いくら上司と部下との関係と言えども礼節は大事であるから、彼女が失礼をしたならば涙を飲んで言葉を尽くさねばならないのだ。私だってやりたくはない、ただ、立派な方になって欲しいという精一杯もの愛の鞭なのだ。絶対そうだ。
……なんだ君らは。言いたい事があるのか。その目をやめないか!
い、良いではないか! だって御主人の耳掃除は筆舌に尽くしがたいし、その上「あーん」だなんて最早天上への誘いにも勝るとも劣らないし、これくらいの役得が部下たる私にあったって別に良いではないか! なんだ、御主人の膝の上が羨ましいのか。絶対に譲ってやらんからな。貴君らはそこでゴボウをかじるが如く指をくわえておればいいのだ。一切の批判は最早受付終了、時間外である!
それにほら見たまえ、御主人を。冷静に模様替えを再開しているではないか。やはり有象無象とは違うのだよ。流石は我が上司ではないか。機会があれば爪の垢を煎じて百遍飲み干すが宜しい。そうすれば、多少は彼女の様な慈愛が身に着くやも知れまいて。
「おーい、御主人。少し悶着した手前、お互い疲れが溜まったであろう。まぁ私は少しも動いてないけれどもね。ほら、書棚の横で突っ立ってないでこちらへ来てはどうでしょう。幸いにも自慢の煎餅布団一枚くらいの足の踏み場がこちらにはある、一緒に座りはしませんか。何なら今ここで耳かきをして貰っても私としては一向に構わないのだ」
出来る部下は気遣いを忘れる事は無く、その習い通りに、まぁ一時の言い合いはあったけれども仕事をせっせと続けていた御主人に声をかけた訳である。しかしそんな我が一声をまるで聞こえなかったかのように御主人はぽつりと呟いたのだった。
「ねぇ、ナズーリン。私が失くした書物の表題って、なんでしたっけ」
「おかしな事をおかしな時に聞きますね。まぁいいが。えーっと、『鼠小僧捕物帖第三幕、縞々長屋の怪』だったか。確かそういった題だったと記憶してるけれど。それが今何か関係が……」
私がそう言いかけた所で先程から滔々と喋っていた御主人がゆっくりと振り返り、そこで初めて私は彼女の手元と、そして御尊顔が拝見できたのである。
詭弁を弄することなく表すならば、それは笑顔を無理矢理五寸釘で面に張り付けた悪鬼羅刹であった。そして、手元にはどこかで見た事のある一冊の本が握られていた。誰か、この鬼を打ち取るものはいないのか。控えめに言って、これは多分我が命の危機である。
「これ、棚の裏に落ちていたのですけれど。何故でしょう、先程ナズーリンが挙げて頂いた書題にそっくりな題が記してあるのです。全く不思議で、貴女の様に賢くない私では見当もつきません。是非とも優秀であらせられる貴女の意見を聞いてみたい所存ですよ、私は」
笑みを絶やさずに彼女はそう、静かたる柳の様に問いかけてきたのであった。手には、どうにも見覚えのある黄色の表紙。
そういえば先日の事である。御主人に貸したはいいものの、自作の虎縞の栞を挟んだままだった事を思い出し、恥ずかしさの余りにすぐさま取り返したのではなかったか。
そしてそれを無造作に棚の上に放ったような気がしないでもないではないか。
更に言えば、もしやその際に本が書棚の裏に落ちたという事も無きにしも非ずんばこれいかに。
しかし、愚かなる御主人様は私が取り返したことを忘却してしまう所か、破滅的な勘違いの末になんと本を失くしてしまったと私に泣き付いてきたという事は考えられないだろうか。
以上の事柄を我が知恵を用いてを鑑みるに、つまりこれは、絶体絶命という状態に違いないのだと推測される。どうしてこうなってしまったのか、私は賢い筈なのだ。幻想郷切っての知恵者なのではなかったか。でなければ我が尊厳は最早風前の灯である!
「うむ、それはだね……。その、つまるところ、消失したと思われていた黄表紙に間違いありません、ね。ただ、あの……。そう、そうだ! 脚が生えた書物がこれは成程、なんとか持ち主の我が元へ戻ろうとするも悲しいかな、書棚の裏に挟まってしまいそのまま息を引き取ったのだ! そう考えられはしないだろうか!」
「ナ、ズ?」
「ひえっ」
駄目であった。完膚なきまでに駄目である。渾身の理論構築はあっさりと打ち砕かれた。だって御主人、笑ってるのに笑ってない! 余りの威圧に丸まりたくもない尻尾は既にぎゅうぎゅうに丸まってしまっている訳である。ここは慈母の腕に抱かれし命蓮寺ではなかったのか。
「おや、何を怯えているのです。これってつまり、お互いの不幸な行き違いから起こってしまった事件ですよね。そうです、誰も悪くはないのですもの。そうは思いませんか?」
「そ、そうでしょうね。この件に関してはきっとそうだよ。誰しもが起こし得る残念な事件だったのだ。よかったよ、これで教訓を得ることが出来た訳だものね。はい、お終い」
「ただ、そう。なんでしたっけ、罪には罰。でしたよね。ねぇナズーリン」
「あ、いやそれはその……」
私の手の平は既にしとしとに濡れており、このままでは手から水を生み出す奇跡を修めた者として崇め奉られてしまうかもしれない。しかしそんな事を言いだした所で目の前の獣は止まる事は無いだろうし、あぁ哀れにも我が一生はここで幕を閉じてしまうのだろうか。
目の前をこれは暗雲に阻まれたるかと肩を落としかけた矢先、なんとこれはまるで福音とも呼べるべき御主人様の澄んだ声が光明を引き連れて舞い降りたのだった。
「大丈夫ですよ、何故ならここは聖の守護に置かれし気高き命蓮寺。そんなただ中で争いで事を終結させようだなどとの不届き者は、存在を許される筈が無いのですから」
「おぉ御主人、私は信じていたとも。流石は高潔で名を馳せる毘沙門天代理ではないか!」
落ち着いた声色で語り掛ける彼女に対し、私はこれは許されたに違いないと思い歓喜の余りに手を叩き耳を振っては安堵をし、そして御主人様はそんな私に向ってより深い笑顔で、「ではここは閻魔様もが認める公明正大たるお金に判決をゆだねましょう」と一言を告げたのであった。
「それは、つまり……もしかして」
「失くした本を見つけました。そうです私が見つけました。ですからこれを見つけた対価を、貴女は払わなくてはいけません。それが、ナズーリンの理論でしたよね?」
閻魔様、どうしてでしょうか。我が目前には虎柄の、まるで乙女の様ににこやかに笑いかけては質問を投げかけてくる鬼が立ちはだかっている。
助けはどこか、早くしなければ取り返しはつきますまい。
●
ここで一つ、寺子屋宜しく数の勉強をしてみよう。
ある所にそれはもう途方もない美貌と知啓を携えた賢将がいたのである。その賢将は趣味に装飾にとお給金をつぎ込むあまり、気づいた時には財布の中には十文しかなく、けれど店に並ぶ魅力的な題名の『鼠小僧捕物帳第三幕、縞々長屋の怪』は百文もするのであった。
なんとも可哀想なナズーリン。けれど店主はその賢将の沈痛な面持ちに自身の悪逆非道な価格設定を気づかされ、「十文でいいよお嬢さん」と言った訳である。詳細はきっとこうであったと記憶している。
さて、上手くせしめる事が出来たナズーリンはお寺への帰路を辿る足取りも軽く、玄関をくぐった先になんと鉢合わせた毘沙門天の代理に「いいものを手に入れたよ、羨ましかろう。読み終わったら貸してあげよう。目一杯に感謝するが宜しい」とも言って見せたかもしれない。
それを受けた御主人は勿論本を借りに我が部屋を訪ねるも、まぁこの先は諸兄らが見聞してきたとおりの有り様である。
ここで問題なのが、果たしてそのナズーリンこと私は御主人に、本を発見した手柄への対価を支払えるのかというその一点に他ならん。設問を解くにあたっての重要な部分は十文から引くことの十文、である。
何故だろう、賢将とも呼ばれるこの私ではあるけれど計算すれども計算すれど我が算盤は無慈悲な零をはじき出すだけなのであった。
「ご、御主人様よ。残念なことに今は手持ちが無いのだ。ほらこの通り」
慌ててそこらに転がっていた御主人と御揃いの蛙口を開いてみせれば、蛙の口には確かに一つも残ってはいなかった。自分でも恥ずかしい事とは思うが、そうでもしなければきっと彼女は許してはくれんだろうと思ったからである。
「ふむ、確かに。これではお金を要求する私が悪者になってしまいます、これはいけませんね」
「その通り。弱きを助けるが貴女の本懐であるべきで、このように儚き部下を糾弾するのはやってはいけないと私は思うのです」
「何を言っているのです。糾弾などする気はありませんとも。ただ、貴女の失くしものを見つけたのですから御褒美が欲しいと思っている次第でして」
「だ、だからさっきからいっているではないか。私は今無一文で……」
「武に訴えず、金品も受け取れず。であれば、体を対価とするしか道はない、でしたか。どこぞの大変高名な部下の言葉だそうですよ。なんと素晴らしい文句ではありませんか。ねぇナズーリン」
「あっ、あぁっ、……いやそれは言葉のあやと言いますか、ただ意地悪な悪戯をしていただけと言いますか」
「もう、やっぱりナズーリンってば意地悪なんですから。あぁ、これでは私も意地悪をしてみたい誘惑に駆られても仕方がありませんよねぇ」
私はこの窮地をどうにか脱しようと必死に言葉を尽くして言い訳を敢行するも、一向に旗色が良くなる気配はとんと来ず、それどころか目の前の寅丸星はじわりじわりと、危険な言動を伴って容赦なく私へと近づいてきており、それはさながら獲物を前にした虎と言うべきものであった。
「あ、あの、御主人様。ちなみにだけれども、肉体で払うと言ってもその手段は千差万別、千変万化もある訳で、例えば私が君の部屋の模様替えを代わりに行って気持ちの良い汗を流す、という事で今回は手を打たないだろうか。私はこうみえても勤労には目が無くてだね……」
「ナズ、私の顔になんて書いてあります?」
「お、お手柔らかにお願いしますぅ……」
●
幾ら夏は陽が沈むのが遅いと言っても、残念ながらこの幻想郷は決して不夜城ではないので夜は訪れてしまうのだ。とは言っても現在は蝉もまだまだ頑張る夕暮れ時で、西日に彩られる我が六畳一間のくたびれた障子襖は赤々と頬が染まり、それを真似るかのように御主人の背中と、ついでに寄り添う私のお顔も真っ赤に彩られているのがどうにも釈然としないとは思わないだろうか。
おやつはきっと明日貰えるだろうし、お膝の上もこの様子では乗せてくれるだろう。勿論「あーん」だってあるに決まっている。だが、何か大事なものを失ってしまった気がしてならない。具体的には、今後の夜での優先権を失ってしまったかのような、そんな気がかりが我が心の中に残ってしまった。これでよかったのか賢将よ!
おっと、ご期待の所を非常に申し訳ないのだがあの後の事を鮮明に皆々様に語ってみせる元気などは私の何処にも既に無く、であるからどうか詳細を知りたい者共は潔く諦めて欲しいというのが賢将たる私からの切なる忠告である。
既に勝敗の決した勝負を言い訳がましく解説する事ほどみっともない事はここにあるまい。
そう、語るに落ちた恋路の結末などは、書棚の裏にでも忘れ去られるくらいが丁度いいのだから。
賢いナズーリン。 -了-
一般に、世間はこれを賢将と呼んだ。
一言に「賢い」と言って見せてもその実は様々である所が厄介ではあろうが、ここでの提唱に於ける「賢将」とは、三千世界にありありと浮名を垂れ流す美貌、恐るべき智謀を湯水の如く生み続ける頭脳。そしてかの毘沙門天代理すらも尻に敷き、そればかりかその尻を蹴飛ばして馬車馬すらも震え上がるほどに使い倒す事が可能な絶大なる力。
これらを併せ持った、所謂完璧である存在を指すべきであろう事は、誰がどう考えても道理に叶っている疑いようのない事実な訳である。そう、どこをどう見てもこの私のことである。私ほどにもなれば、このように自然とそれに相応しい呼称が授けられるが道理であるがつまりそれはこの世全体から見て取ば賽の目の赤点でしかなく、物事という奴には何があろうとも反対側にこぼれた黒胡麻が六つ並んでしまう。一体全体ここで下らぬ弁を凝らして何を伝えたいかと申せば、それは非常に残念な事にこの世には全知全能を賜る「賢将」への対なる答えもまた自然と存在してしまうといった一点の真実に他ならない。
どのようなときにその忌み嫌われるに相対する言葉を並べるかと言えば、例を敢えて挙げるとするならば、成熟した一妖怪であるにも関わらず自分だけでは帯を締められない存在であり、例えば部下がいなければ炊事洗濯がまともに行えない愚かな上司であり、さらにいうならば事あるごとに接吻をせがんでくる破廉恥な毘沙門天代理などと、こうして一々論っていけば終わりが見えない。
このような極めて悪辣な者共がこの最後の楽園とも謳われる幻想郷に跳梁跋扈しているという悲観すべき事実は識者に代表される私には無論周知の事実であり、およそこれからきっと長い付き合いになるであろうこの唾棄すべき悪行を繰り返す黒胡麻を「賢将」である所の私は、畏怖と嘲りとを交えて「阿呆」とこう呼んだ。
つまり、寅丸星は稀代の阿呆なのである。
●
かの絶対的支配者である聖白蓮はこう言った。「慈愛の精神こそが一番に取りざたされて然るべきである」と。
正直な所、率直に高尚すぎて俗にまみれた私では手に負えるべくもない大変ありがたい説法であったのだが、ここで「そこな老婆よ、何を血迷った事を言っているのであるか」とでも口を挟もうものならその瞬く間に我が御尊顔に物理的な愛が叩き込まれる可能性が僅かながら予見されたので、賢い私もその時ばかりは物が分からない稚児のように首を縦に振り続けて恭順の意を示して見せたものである。
いや、きっと彼女は心の底からそんな恐怖政治染みた思想は持ち合わせてはおるまいが、不思議な事に聖と私を中心として賑わっているこの命蓮寺の者は皆口を揃えて聖を褒め称えるのが通例なのであった。
であるから、先の私の反射的な追従も何ら奇異の目で見られるものではない事は明らかである。怖気づいた訳が無かろうとも。この流れは我らの中では一種の堅固に取り決められた習わしとなっており、ようは聖白蓮という女性は誰からもその背を追い縋られるに値する正に慈母の化身とでも例えられるべき、大層周囲に敬われる存在として命蓮寺に坐す御方であるという事しか言いようがないであろう。そうなれば必然、その様な者が命蓮寺の盟主ともなれば反対意見など埃ほども出て来やしないのが普通なのである。
しかしながら、命蓮寺を一歩外に出てみればそこは聖の素晴らしさを塵とも理解していない非常に野蛮な悪行が蔓延る幻想郷そのものなのだ。現に妖怪の山の付近では過去に我らを巻き込んだ揉め事が起きた事があった。
なんとも、こんな大層尊敬に厚い天女足り得る聖を捕まえては「怪力女」「血煙の発生源」「命蓮寺の動く殺生石」といった全くの心無い噂が、天狗の手によって里の人々の間に囁かれているらしい、との怒りの声が寺内に多数挙がったのである。その訴えのどれもが命蓮寺の門を叩く敬虔なる信徒達からの報告であり、ともなれば実際の真偽の定かは疑惑の渦中の者共に言質を取るまでもなく明らかであった。
最早一部の天狗共が里から得られる人気を目当てに捏造を繰り返しているのは明白、というのが我々命蓮寺一同が導き出したその時の最終的な結論である。
この、なんとも下衆の勘繰りに似合った極めて悪としか言いようのない天狗共の仕打ちに、これを耳に入れたる命蓮寺の門下はムラサから一輪やぬえを筆頭に妖怪の山へ焼き討ちを仕掛けようともする勢いであった事は記憶に新しい。特に一輪が相当に過激で、両手に松明を持参していたと言えばその勢いが伝わる事だろう。
このまま絶対的権化たる聖の門弟達の暴走を放っておけば新たな異変とも認知されかねない為、そうなる前にと私の自慢の情報収集能力を以って錯綜する情報を整理したところ、やはり極々少数の胡散臭い天狗がばら撒いた三文銭にも劣る新聞報が里の噂話の元凶となっていただけであったので、御阿礼の乙女に頼んで真実を流布して貰ったのだった。
冷静沈着な私でなければ思いも付かない考えであろう。その結果、野火の如く広がった馬鹿げた噂は静かな波が戻るようにゆっくりと沈静化していったのはここに語るまでもない。また、この騒動の根本である某天狗記者もかんかんに怒った紅白色による妖怪の山の襲撃という形で始末され、かくしてこの騒動は懸念されたよりも案外に早い大団円を迎えたのであった。
襲撃者曰く「最近あいつが神社に来る頻度が減ったから、きっと悪巧みでもしてるんでしょうと思って。それだけ。構ってほしかったとかじゃないし。いや違うし」らしい。それに付随する形として、射命丸文と言われれば成程そう見えなくもないような身元不明の重傷者が暫くの期間を永遠亭預かりになった事は些細な事柄であろう。
こうして、この一件は焼き討ち派の規模が拡大の一途を見せつつあった事を危惧した聡明なる私の情報操作と、予定外に早く動いた博麗の介入とが重なる形で一応の結末を迎えた訳である。
天狗方もこれにて手酷い釘を刺された形となり、以来命蓮寺、並びに聖に対する批判的な記事は大いに鳴りを潜める事となった。
これが世にいう「射命丸あわや三途を渡河事件」の全容だ。話し合えば武力を行使せずとも平和的な解決策を探りだせる、という事が今回の件で得た教訓であろう。なお、巫女は例外として扱う事とする。あれはきっと災害とも比肩する何かである。
話は変わるが、二百年程度前に酒に溺れて泥酔した一輪が(そもそも飲酒は御法度である。阿呆め)前後不覚に陥り、介抱に当たろうとした聖に破廉恥を及ぼうとした際、一夜にして一輪の自室の壁という壁と聖の拳とが朱色の染料で手早く塗りたくられた怪奇現象との関係性は一切ない。きっと聖はお茶目だから染物屋さんごっこでもしたのだろう。まぁ、物理的にはかなり距離が近づいたので一輪の判断は結果的に良かったと言えるのではないだろうか。その生死は別として、だが。
つまりこういう事もあるので聖、強いては命蓮寺についての余計な詮索はされないように重々注意するのは勿論のことながら、それを新たに天狗共に暴かれようものならさもなければ妖怪の山はどこかの名も知れぬ住職の怒りのげんこつで山肌を少なくとも半分は吹き飛ばされるだろうし、先の天狗は巫女と住職の板挟みによりきっと亡骸さえ残る事は無く、その余波ともいうべきとばっちりで多分一輪は今度こそ死ぬ。断言しよう。でなければ下手を打てば次はどこで染物問屋が開業されるか分かったものではない。下手に藪をつつく奴は大抵馬鹿を見るものである。
つまれば、何事も知り過ぎないことが長生きのコツなのだ。乙女に秘密は付き物であるし、それが照れ屋で乙女な住職ともなれば尚更である。
●
日差しは強くなる一方で、いい加減にしなければ終いには畳の干物が出来てしまうほどの暑い日であった。硝子窓の向こうでは陽炎が揺らめき立ち、その奥で並々と繁茂する草木の姿を執拗に捉えさせまいとする。
まるで頭の悪い気候であり、これが年に一遍も廻って来るのかと思うとこれからの生涯に嫌気がさしてくる訳である。
四季の中でも夏を喜ぶ奇特な奴が童以外にいるとすればそいつは間違いなく珍妙奇天烈であり、これから推論するに勿論我が主人はきっと夏が大好きに違いはあるまい。
暑苦しい時期に暑苦しい阿呆が活動するだなどと、字面だけであったとしても殊更熱射病になりかねない。なんとも茹だるほど欝々とした気分になってくるものだ。
しかしながら、かといってこの六畳一間に一日中引きこもりを決め込んでしまえばその翌日には高い確率で鼠の干物が生み出されるであろうし、ならばこれから取るべき行動は明快であり、そうして私は仕方なしに重い腰を上げる訳なのであった。
なに、件の毘沙門天代理でも揶揄えば、少しはこの暑さも紛れるかもしれん。
●
私がそうやって思索を巡らせていれば、日に焼けすぎてかつては穢れを知らなかったであろう白が最早黄金色になりかけつつある障子戸が力任せに引かれた。こんな雑な訪問を敢行する来訪者を私は一匹しか知らず、それについては諸氏諸兄らの想像に十分及ぶことであろう。
「ナズーリン!」
「愛想が尽きて出て行ったよ。どうも再度無縁塚あたりに住み込むらしいですね」
「酷い! いい加減許しては貰えないですか」
開幕早々になんとも喧しい阿呆である。これではおちおち不貞寝を決め込むことさえ難しい。仕方がないから私は顔だけを布団から向けて応対してみせた。
「貴女には言いたいことが山ほどありますが、まずはとっとと部屋に入って来るといい。でなければそこでは往来の邪魔として雑草と一緒に燃されて煙たがられても文句は言えまい」
「うう、雑草ですみません。生まれてきてすみません」
現在、我が待遇は命蓮寺の中では圧倒的な実力を評価されて六畳一間が恭しく与えられている。ちなみに響子は十畳であるが、これはきっとあの姑息な可愛さで媚びを売って回った結果であろうから私は羨ましいなどと思ったことは決してない。一回たりとも無い。風呂無し、台所無し。使い古されたイグサの臭いが仄かに漂うどうしようもない一室こそがこの賢将の唯一安息の地であり、その中心に据え置かれている使い古された万年床に昼間から堂々と寝転ぶのは勿論この私である。
そして先程到来してきた輩は、その使い道が無い程の上背をこれでもかと縮め切って我が前に正座を決め込んでみせた。
「これ、座ってなお私よりも目線の位置が高いのが非常に腹立たしい。どうにかしないか」
項垂れながら部屋に入って来てはいた毘沙門天代理を指して私が諫めれば「それはだってあなた、布団から出て来ないからではないですか」などと、この期に及んでなお言い訳を繰り出してくる。対した度胸である。読経は響子よりも下手糞なくせに。
「その上で言ってるんだよ。もっと私を敬うべきでは果たしてなかろうか」
「これ以上はうつ伏せくらいしか手立てがありませんが……、そしてナズーリンは平気でそうしろと言いそうでこの身が震えます。それ以前に私、一応ナズーリンの上司なんですけれど……」
「一般的な上司は部下が貸した書物を紛失したりはしないと思いませんか?」
出足が肝心とばかりにピシャリと叱責すれば彼女はなんとも情けない、まるで萎びた大根みたいな声で「うぅ、な、失くしていません、最近の本はきっと勝手に足が生えて何処かへ出かけていくのです。きっとそうです」などと嘯いて見せるではないか。
どこから見てもその顔は冷や汗が滝のように流れ落ちており、事情を知らぬ者が見た所で過失がこのおまぬけと私、どちらにあるかの判断は間違えようがないであろう。
「脚が生えて逃げられたなら、それこそ這い蹲ってでも探すべきではないのでしょうか。私なら親しいものから借り受けた物品に逃げられたとあっては恥も外聞かなぐり捨てて、額で床を磨ききる勢いで探すんだがなぁ。言っておくけれど、私はあの大作をそれはもう楽しみにして少しずつ少しずつ読んでいたのだよ。それを紛失された、この気持ちがわかるかい御主人よ」
「う、うぅ……」
言いながら依然として顔の青い誰かの目を覗き込んでやれば、なんとも緩やかに視線を逸らされる。気のせいではなく、正座で揃えられたつま先の間から伸びていた尻尾が萎びた大根になってきていた。なんとも嘘が付けない正直な我が主人である。その単純さに免じて今回はここいらで手打ちにしてやろうとも思えた。私も甘いものである。
「流石に冗談が過ぎたよ。なに、そこまで気にはしてはいないさ。どうせ古本屋から安く買っただけの陳腐な黄表紙だったもの」
「な、なんと、その一言で罪悪感から若干解放された気分です。かつてないほどに私の心は晴れやかでありますよ」
急に軽くなった室内の空気を敏感に察知してか、彼女は九死に一生を得た、とでも言いたげに心地を付いてみせた。許すといった手前、これ以上の追及は避けられるべきである事は理解しているのだが、それでもこの賢将を前にしてまるで閻魔から逃げ切ったかの笑顔を浮かべるのには甚だ疑問である。まるで私が閻魔だとでも言いたげな雰囲気ではなかろうか。
というか「泣いた烏がもう笑う」を地で行くこの精神が単純に腹立たしい。
次会う時までに覚えていれば向う脛を思い切り蹴飛ばしてしまうかもしれん。
そんな事とも知らずに、正面にそびえ立つ独活の大木はふわふわと笑顔を咲かせて見せていた。何とも味わい深い間の抜けた面で、まるで間抜け面の見事な習いのような顔だ。これはこれで、もしや学術的研究対象になるのではないだろうか。
「安心したからかは知りませんが、その気の抜けた笑みはとても気持ちが悪いので今すぐお止めになった方がいいでしょう。さもなくば即刻ぎゃふんと言って頂く破目に陥らせる」
布団の中に潜んでいた私の自慢の尻尾を外に出し、軽く靡かせて少しばかり脅しをかければ途端に日頃によく目にする容赦ない情けなさを溢れさせ、「暴力はいけません。痛ければ泣きます。私がめそめそと泣くという事は即ち猛々しき毘沙門天の威光を傷だらけにすると同義ですよ。そうなれば私の悠々自適の極楽代理生活は崩壊の一途です、破滅なのです。心優しい貴女にそんな惨いことをさせたくはありません」と両腕を拙く振り回しながら強弁らしきものを振るわせる。
なんとも類を見ない開き直り方であり、こういった細かい所からさえも阿呆の資質が伺えようというものだ。
「ふむ、確かによくよく考えると御主人がそうなれば我らが命蓮寺が単なる阿呆の巣窟だという醜聞が知れ渡ることに成りかねん。なんとも一大事ですね」
「そうなのです。私が阿呆だという事が里の皆々様に手広く知れ渡り……あれ、ちょっと待ってください、何かおかしくないですか。阿呆ってどこから出てきました?」
「いやいや、おかしくないさ。そして先程の理論展開を持ち出されては一介の部下でしかない私では、聖の様に愛のある拳骨という力に訴える事も残念ながら叶わなくなってしまう訳ですね。何せ貴女を打ち据えれば毘沙門天とやらの御威光が陰るようだから。しかしこのままでは暴力云々というよりも責任の取り方の問題に実はすり替わってきやしないだろうか」
「どういうことですか」と、主人が僅かに考えたような怪訝な面相を向けてくる。
「つまりだね。失礼を承知で具申すれば、貴女は粗相が多い訳だ。これは統計的にも明らかであるので、どうか認めて貰いたい。はっきりと事実だ。こら、唇を突き出して不満げにしないの。御行儀が悪いよ」
話の流れを俊敏に読み取った我が主人が、これは憤慨だとばかりに顔をしかめる御主人を先を打って制止する。私も自然と喉を鳴らし、この場に一拍の間が空いた。
「どこまで話したか。そう、失敗が頻発しているのだ。貴女の敬虔なる部下の私としては君には常あるくも素晴らしい毘沙門天代理様でいて欲しい。切なる願いである」
「あぁ、ナズーリン。まさかそんなに私のことを思っていたなんて私は幸せ者ですねぇ、およよ……」
ただ単に扱き下ろしていただけの筈であったのに、感動に溺れかけている単純な御主人を見る事で少しばかりの予期せぬむず痒さを尻尾の付け根に感じながら「であればこそ、防止せねばなるまい。対応していかなければなりません。二度と足袋を裏表間違えて履くことのないように学習するべきである。罪には罰。刑罰は罪人を更生に導くための足掛かりであるのだ。己の間違いから逃げるには容易いが、非を認めるのは今しかあるまい」と私は一気に捲し立てた。
我ながら見事に流暢な弁舌である。立て板に水とはまさにこの様を言い表すに違わずか。
「な、成程確かに。躾礼節を身につけなければ貴女の厚い期待に応えるには難しそうです」
「でしょう、そうでしょう。納得したようですね」
「では具体的にどういった方法を取って私を無欠の毘沙門天代理へと導くのですか。自慢ではありませんがこの寅丸、生半可な療治では矯正されない自信があります。宝塔を初めとしてあらゆる物品を失くしてみせましょうとも」
声高に我が上司は宣言をし、さらには得意気な顔で胸を握りこぶしで打って返事をしてみせる。ついでとばかりに、豊満な一対の果実が実に柔らかそうにゆっさゆっさと揺れやがるのであった。
誰でもいい、今すぐ炊事場から出刃包丁を持って来てはくれまいか。可及的速やかに。何故ならば早急に収穫せねばならん果実が眼前にぶらさがっているのだ。
「冗談も程々にしていただきたいね、御主人様。でなければ次は命を亡くすでしょう」
「またまた。ナズーリンってば冗談がお上手なんですから……え、冗談ですよねナズーリン! こら、私の目を見てください。ねぇ、ちょっと。怖いんですけれども!」
ついには正座の構えも崩して私の体に縋りついてくる我が主人ではあるけれど、勿論上下関係を弁えている私は「えぇ、冗談ですとも」と微笑み返すだけなのであった。巨なる乳は皆滅べばいい。くそぅ。
●
暴力は諍いの火を煽ぐばかりであるならば何が平定の世を廻すのか。それを体現しうる言葉に「地獄の沙汰も金次第」という古来よりの大変ありがたい御言葉がある。これから見るに、いつの時代でもこの世は金が猛威を振るうのだ。それは何故か。
答えは単純で、金を欲するのはこれもまたいつの時代でも賢者や権力者ばかりだからであり、それらの目を眩ませられるほどの金を握らせてさえしまえば賢き者も阿呆の音頭を取り始める事だろう。私が阿呆に成りえてしまうと説明すれば金銭の威力が途方もなく恐ろしい事かは明白であり、考えるだけでも腹の底が冷えてしまう。つまり、金にはそれほどまでの魔力があるに違いがない。
●
「その手はなんですか」
「今さっき説明してあげただろう、そういう事だよ」
「だと思いましたよ、貴女の事ですからね。私の先程の感動の涙を返してください、何ですか躾だの礼節だのと。結局はお駄賃欲しさの言い訳ではないですか、私はぷんぷんですよ、もう!」
そう言って胸に無駄な重みをくっつけている我が上司は、折角私が差し伸ばした手の平をぺいっ、と跳ねのけよった。この女神にも匹敵しうる我が御手を蔑ろにするとはとんでもない輩である。
私がわざわざ布団から這い出て会話をしてやってるというのにこの毘沙門天代理は全く以って有り難がろうとしないのは、これは一体どうしてなのか。これが私ならば涙を枯らして喜びを叫ぶに違いない。
「違うさ、誤解している。これは身分を超えし共通の決め事なのだ。この約定の前には上司も部下も、住職も入道も関係ない。悲しきことにこの世はとかくどこでも金が必要で、店屋物を食せば銭を出す、神よ頼むと銭を出す。挙句はあの世を渡るも銭が要る。ここまでくれば償いを弁えるにもきっと銭が御入用になることは閻魔も認める道理ではありましょうて」
にこやかに言う私とは対象的に目の前の上司は漸く私の言いたい事を飲み込めたようで先程の乱暴はどこ吹く風だったやら、顔色は湖の周辺の天候の様に見る見る悪化の一途を辿りつつあった。おぉ、まるで見事な茄色だ。晩の献立はなすびが食べたくなってきたではないか。
「い、言いたいことはわかります。だって私が貴女からの借りものである書物を失くしてしまったんですからね。弁償で済むのであれば誠意を見せるべきでしょう、えぇ。そこは違えるつもりはありません。で、ですがナズーリンってば時々意地が悪いからあとあとになるにつれて手酷い目に合うのではないかと、唯それだけが大きな懸念でならないのです」
と、胸が御立派に熟れ切ったなすびは心配そうに言う。きっと読者諸君らはこの窮状を眺めては「これこれ、ちょっと詰問が過ぎるのではないかねナズーリン殿よ」などと思われている事であろう。
だが少し待ってほしい、ここで私を責めるのは容易い。が、こういった叱責を怠らない事こそが凛々しき寅丸星を維持する秘訣なのである。それにこうすれば結構長々と御主人とお喋り出来て私は幸せなのだ。羨ましかろう。まぁ、その後にちょっとばかし意地悪をした事も果て、あったようななかったような事もどうだろうか。
「まさか、そんな訳あるものか。前々から思っていたけれど、貴女は私を慈悲を欠片も持たぬ悪鬼羅刹とでも御思いなのですか、いやそんな筈はないでしょう。何せ日頃から碌な駄賃も要求せずに汗水垂らして西へ東へ失せ物探し。挙句に朝から晩まで使い侍るは尊き御方の為なのだからと、泣き言の一つも洩らさないこの私を指して「底意地が大変悪く、性格が複雑に捻じれている」とかいった評価を貴女が下す訳はないと信じています」
こんな調子で周到に逃げ口上を防ぎながら私が弁を詰め寄れば、相手はそれはもう大いに途方に暮れた様子で「もう、聖には内緒ですよ。またもや物を紛失させたと知られれば私の立つ瀬がないのです」と諦めの付いた一言を放って投げたのだった。華麗なる我が頭脳の勝利である。
「勿論、そこはいつもの通りにです。ただ、今回ばかりは多少の金銭を貰い受けようというだけのこと。何せ前の月に着飾るための誠に華美な服を大いに買い漁った上に、件の黄表紙を買い上げたものだから合わせる事の、つまり今の私は文無しなのです。それはもう見事なまでの素寒貧でございます」
「貴女、そんなことに毘沙門天様からの御給金を散らして……」
「おいおい何だいその目は。そも私が正統なる手段で入手した賃金をどう使おうが自由ではないでしょうか、いや自由に決まっている。それに上司が着飾っていても部下がみすぼらしい恰好をしていてはそれこそ名折れというもの、この散財もが全ては貴女を想っての、清貧を信条とする私なりの精一杯のおめかしの為であるのだという事を理解して頂きたい」
「うーん、何だか言い包められている気が多分にあるのですが」
怪訝な面持ちで出し渋ろうとするもそこは流石の御本尊、渋々ではあるものの懐から可愛らしい刺繍があしらわれた蛙口の財布を取り出すのであった。こうも素直だと将来に、悪知恵が働いて希少品が好きそうな悪い女に引っ掛からないか少々不安になる。いや、その時はこの賢き頭脳を持つ私が助けてあげればいいだけなのだ。見返りは希少品か何かで結構だよ。
「そうだとしても貴女には払う義務がある。いや権利と言い換えてもいいでしょう。何故なら、こんなにも見目麗しく美しい部下が常に傍に付き従っているのだから、たまの御褒美くらいは支出しても御釣りが出るくらいだ」
「まったくもう、よくまわる口ですね。それで、例の足が生えて私の手から消えていった黄表紙はおいくらだったのですか」
「うむ、確か十文だった筈だ。森の傍に、営業してるんだか潰れてるんだか一見して判断が付かない古道具屋があったんだがそこの店主から買い叩いたときに値札の丁度十分の一になったからよく覚えているよ」
「鬼の様な値切りですね。あぁ、あとでその古本屋に謝りに行かなければ」
「余計な事はしなくて宜しい。代わりに店に巣食っていた鼠達を二、三匹引き連れてやったのだからそれでよいのです。それで、先立つものは見つかりましたか」
「ちょっと待ってください、口が小さくて……。えぇい、ひっくり返しましょう」
哀れにも逆さまにされた蛙の口からは、金属独特の甲高い音と共に出てきた七枚の貨幣。机に弾かれる音はそれ以降響く事は無かった。つまり、これが先程私に節制の重要さを説いたどこぞの御主人様の手持ちという事に他ならない。
まさか何かの間違いであろうと思い、「ほぉ、成程。冗談は私より御主人様の方が上手いという訳だ。まさか天下の毘沙門天代理ともあろう方がこれ程しか持ち合わせていない筈がなかろうて。さ、とっとと残りを出し給えよ」とやんわり詰問してみれば「え、ええっとですね。これで全部なんです、ゆ、許してにゃん」とのたまいよったのだった。
あぁ、なんと居合わせる皆々様よ、これが我が命蓮寺の御本尊である、どうか許してやって欲しい。諸兄らの怒りは私が責任をもって晴らしておこうとも。可愛さよりも間抜けさが大いに勝った、余りにもお粗末な返答を返されては幾ら愛嬌に溢れていると言おうが流石の賢将といえども一息には返せず、小さな口から漏れ出たのは「はぁ?」といった溜息ともつかぬものだけであった。
「ひぃっ、怖い。怖いですナズーリン。その目は敬愛している上司に向けていいようなものでは断じてありません、やめてください! 私だってそういえばこの月は実は甘味を沢山頬張ったのです。ですが私は悪くありません、美味しいから買ってよ、と私の心にそっと囁いてきた善哉や団子達が悪いのです!」
まさに怯え切った猫といった様相を呈しているソレではあったが、きっとこの姿は半ば演技の様な物であり、その根底には私と彼女との裏打ちされきった信頼関係があるからこその為せる御業である。つまりここで庇護欲をつつかれ、情に絆されては私の負けなのである。断固とした姿勢を取らねば毎度の如く同じ轍を踏む事になるのは過去の結果を省みても明らかであろう。
「落ち着いてください。当然、私は名高い智将でありますから先程から申し上げていますように暴力に訴えかける野蛮な手段は用いません。ですからその点では貴女は是非とも安心して然るべきでしょう。けれども、金銭というものは先程も論じて見せたように悪魔的である。血の契約と同義である。であるならばそれは何者よりも優先して履行されなければ悪魔の落ち度、名が廃る。おまんまの食い上げに他ならない」
「つ、つまりどういうことなのでしょうか」
彼女は出来る限り慎重に私に弁の続きを求めてきた。よくよく見ればかつては凛々しかった尻尾はいつの間にやら股を潜り抜け、ぐるっとお腹の手前まで回っている。ここまでくれば虎というよりかは立派な猫の出来上がりではないか。そんな他愛もない事を感じつつ、私は本題を語るべく口を開いた。
「武に訴えず、さりとてめぼしき金品も受け取れぬ。となればそれはもう、そのご自慢の体で対価とするしか道はないでしょう」
「か、体! なんですって、破廉恥な!」
何を勘違いしたか、自身の体を抱きすくめていきなり声を荒げる御主人。おいやめろ、衆目があっては到底誤解されそうな言動は慎みなさい。私の手首のお縄が回ってしまうぞ。
その不審な挙動の真意に気づいた私が負けじと「ち、違う、早合点です! そういう意味で言ったのではないよ!」などと釈明を試みれば少しは落ち着きを取り戻したのか、それでも怪訝な面持ちではあるが再度の確認を迫ってきた。あぁ、今日は厄日に違いない。
「でもでも、ナズーリン、貴女ってば私の体が目当てだと言ったではないですか。確かに聞きましたよ」
「そういう意味ではなくて、肉体労働で手を打ってあげましょうという意図で言ったんです。なのにこんな勘違いをするだなんて、普段からそんな妄想に耽っている訳でもないでしょうに。それでは我が主人こそが破廉恥と呼ばれるよ、全く」
「そ、そういう事でしたか。いえ、私もそうではないかなと思っていたんですよ。ただ相互の齟齬があってはこれはいけないと思いまして一応の確認をですね……」
一体落ち着いたのかそうでないのか、そわそわとしながらも私が言いたかった事はどうやら御主人に伝わったようであった。
「つまり小柄な貴女では難しい、そう、例えば家具の移動や高所の荷物を動かすといった事態に対しての助けを求めているのですね」
「そういう事だよ。いやに察しが良いね、まぁいいけれど。そう、少しばかり模様替えをしたくてね。これでこの一件は水に流してあげますよ、感謝してください」
妙な焦りを覚えさせられてしまった手前、少し横柄かもしれぬ態度で受け答えをしてしまったが、それでも我が上司は「有難う御座います、良い部下を持てて私は幸せ者ですね」とどこ吹く風であっけらかんと答えて見せたのであった。本当に、これではどうにも敵わない。悔しいけれども、こういう所が恰好良いのだこの阿呆は。阿呆の癖に生意気である。
●
恰好いいと言えば、我らが聖の唯一の趣味とも特技とも言うべきものにお裁縫がある。
これが単なる手芸と馬鹿にするのは簡単な事だが、果たしてその腕前は並み居る反物を瞬きの間に様々な衣服類へと昇華させ、採寸という過程さえ消し飛ばしてそれぞれの門徒へと贈られるのは命蓮寺では周知に及ぶ事実である。かくいう私もこの夏に丁度の薄手の服は聖のお手製なのであった。そんな聖は命蓮寺に置いての組織活動を通した交流を盛んに推奨しており、この狙いとして、照れ屋であったり人見知りをしてしまう妖怪達を皆で支えてあげようという考えがあるのだ。
察しのいい方ならばもうお分かりであろうが、そう、聖もそ率先してそういった組織を運営しているのであった。
その名を「南無南無手芸倶楽部」と言う。長ったらしい看板を縮めて「無手倶楽部」というのが通称で、これではまるで物騒で聖には全く似つかわしくない名前であった。活動内容としては至って単純で、聖のお手伝いをしたり、お針子仕事を習う事で聖お手製の手ぬぐいや、右腕として恐れられる一輪のこれまた特性頭巾等が優先的に配布されるのである。
しかし悲しい事に、不器用な子や倶楽部の大袈裟な名前に及び腰になる妖怪が多数出ており、運営を困に窮する一輪は裏家業として雲山を活かした引っ越し仕事や家具移動の小銭稼ぎを働いているのであった。まさに愛とはかくもあるべし。
どうか一輪の恋路に苦難が腹一杯に待ち受けている事を私は切に願ってやまないぞ。真なる愛に立ち塞がる壁は重要不可欠なのだから。
引っ越しといえば、私も何故御主人を小突いてまで模様替えをしたかったのだろうか、私にも不思議と思い出せなかった。
何か、途轍もない事を忘却の彼方に追いやってしまったような、そんな漠然とした不安は僅かにもあったが隣でその大きな口を開けては呑気な顔をしている毘沙門天代理を見ていると、そういった気持ちもきっと気のせいだろうと思えてくるものだから面白いものである。この顔を活版印刷して幻想郷中にばらまいてしまえば、たったそれだけで平和な世が訪れる気さえしてくるとは思わんか。
それにしても、何か忘れているような。
●
肉体と、ついでに精神の講釈をしよう。
健全な精神は健全な肉体に宿る。いいや、真っ赤な嘘っぱちである。
これについては博学であろう貴君等には話すまでもない事ではあるのだが、何事も実体験無くしては愚者は悟れぬものであり、だからこそその証左をここに示して見せよう。健全な精神とはつまり、まるで私の様に高潔な信念と、理性ばかりで満たされた博愛的主義の行使を正しく行える表れを指す。
まぁ、私に代表される事は間違い様がないであろう。
一方、健全な肉体とはまさに肉体美とも謂わんばかりの圧倒的なそれであり、然るに母なる大地を想起させる豊満な一対の丘陵、乙女的なほっそりとした腰付き、押し付けた指先が沈み込んでしまいそうな肌色の桃の果実。これらが主たる代表に挙げられる。所謂ないすばでいという奴だ。この分野に於いては残念ながら我が上司が該当してまかり通る。大変けしからん、目の毒である。
一見してまるで正反対の私達ではあるかの様に見えるが実は共通する部分があり、それはもうご察しの通りで、成程どちらもがどちらかを持たざる者としてこの世に産声を上げた点であろう。
やはり神は二物を与え給う事は決してないのである。
そんな事をしてしまえばだって、大変賢くてそれでいて至極の色香を操る賢将が生まれていただろうし、余り物で組みにされればそれは惨憺たる結果である。
そう、であるからこそ私は小柄で控えめなしなやかな肢体を良しとして生まれ出でた訳であり、なのでその事を御主人はこれでもかと言わんばかりに感謝して欲しいのが正直な所なのである。
そうでなければ、きっと命蓮寺の毘沙門天代理は貧相な体躯で、幼稚で破廉恥で、そしてやっぱり阿呆であったこと受けあいだろう。
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「それにしてもなんで急に模様替えだなどと。貴女の部屋はたったの六畳ぽっちしかないのですから対して景色は変化しないでしょうに」
先程の応酬からやや日は少し陰った夏場の午後。我が六畳の居城で唯一の窓は早々に限界まで開け放たれており、されども元が小さな硝子窓なものだから吹き抜ける風は微風よりもなお心許なかった。
しかし身体に滲んでくる汗の量は午前中よりは余程少なく、こうして改めて体験することで我々は自然の偉大さを実に素直に感じる事が出来るに違いない。
そうとでも言い聞かせなければ今年の夏は乗り越えられない雰囲気が確かにあったし、でなければ現状、この高貴なる私が職場の上司と一緒に自室で力仕事に勤しんでいるなどとは到底唾棄すべき光景に他ならない。
「たまには家具を動かさないと畳が傷みやすいのですよ。それくらい常識の範疇です。そもそも口を動かす暇があるなら失くしてしまった本の分を取り返すつもりで、それはもう馬車馬のように働いてください」
「はいはい、上司使いの荒い部下を持つと大変ですねぇ」
「なにを仰る、世が世なら貸借事での失態など打ち首も打ち首。そこを単なる奉仕労働に押し止めている手前、この私は貴女にとっての唯一の女神と呼んでも最早大して差し支えは無いのですが」
「まぁ、確かにそうなんですよね。私の些細な失敗で貴女との信頼関係を失いかけたのは事実。ナズーリンの寛大な御心あってと考えれば確かに私だけの女神さまなのかもしれませんね」
「えぇい、恥ずかしい。自慢の我が耳に雑念が埋まりこむ勢いだ、やめないか。そんな事を言われてしまっては、歯がそれはもう浮いて浮いて噛み合わせが非常に宜しくない事この上ない。私はまだ美味しい御飯を食べたいのだからしっかりして欲しい。口より前に手を動かさないか」
文机を横に動かし始めた御主人は「酷くないですか。もうちょっと、こう、私に酔ってくれてもいいのではないでしょうか。部下が冷たくて今にも泣いてしまいそうです、およよ」などと相変わらず幅の無い小芝居を始めてはいたが私はこれを一切無視した。まともに応対をすれば今度こそ顔から火が出るまで朗々と謳いあげる事は明確であると長年の付き合いで分かっているからであり、そんな事をされてしまえば今度こそ赤い顔を隠し切れん。
無垢な阿呆ほど厄介極まりないとは成程その通りなのであった。触らぬとも触らず、障りなく、余計な藪をつつく役など御免被り極まれり。
「ほら、次はそこの書棚を動かす。私の可愛いお手てではとても持ち上がりそうにはないもの。是非役に立ってください、でなければ貴女の腕っ節なんぞ埃の肥やしでしかないかもしれんよ」
「えぇっ、これ程大きい棚も私だけで動かすんですか! さっきから貴女ってばこれそこここにといった指示ばっかりで大変に楽をし過ぎでは無いでしょうか。幾ら私が悪かったからと言っても、それでもここはナズーリンのお部屋なのですから多少の手伝いは、六畳一間の城主としては義務ではありませんか」
「駄目駄目、わかってないね御主人様。もしも万が一に箪笥が不意に倒れたりでもして私に何かあって御覧なさい。七福神坐すは夢の地から遠路遥々貴女に下り、手足となって滅私奉公するは絶世の美女。生粋の知恵者。賢将ナズーリン。そんな部下が怪我をしたらしいとの噂が新聞記者に嗅ぎ付けられでもすればものの数刻で尾ひれを頭から生やして里中を噂が疾走する破目になる。そうして真っ先に疑われるべきは我が上司である貴女であり、盛大に出回る号外の一面には「毘沙門天の過剰な躾。最先端の家庭内暴力を記者が暴く」なんて過激な見出し。こうなってしまえば君は身の破滅、生涯を棒に振りかねない事態に発展するに決まっているよ」
散々に捲し立てて見せれば行先は上々で、私の目の前にはまんまとまるめこまれた上司がいるだけであった。愚か者は賢者に使われるばかり、とはよくも言ったものではないか。
「むむむ、そう言われればそんな気がしてきました。仕方がありませんね、優秀なる部下の為、もうひと踏ん張りしましょうか」
「うむ。いい心がけである。きっと死後は極楽行脚間違いなしでしょう。なんなら私から毘沙門天に口利きしておいてあげよう」
「えぇ……なんて安易な。まったく、冗談にしては罰当たりですよ、っとと!」
軽口を叩きながらも作業は着々と進んでいるようで、抱え込んでみせた書棚をまるで空の蜜柑箱でも持ち上げるかのごとく軽々とどかせてみせた。こうやって間近で見るとやっぱり膂力には圧倒的な開きがあるのだと悉く理解できる。まぁ私は命蓮寺きっての頭脳派であるからあんな力こぶはこれっぽっちも必要ないのだ。けれど、もしも彼女の手によって何かの拍子に組み伏せられてしまったならそれはきっと今の私では脱出不可能に決まっている筈なので、それを思えばこれからは鍛える事を念頭に置いてみてもいいのではないだろうか。
でなければ、反撃を恐れるあまりに無闇矢鱈に御主人様を揶揄う事が出来ないのだから。そんな事態に陥っては我が趣味が大暴落である。
「流石毘沙門天代理たる我が御主人様である。こんなに便利で神徳もある本尊なのだからさぞかし優秀な部下を持っているのだろう」
「部下って、それはもう貴女の事ではないですか。もう、ちょっとはお疲れの私を労って下さいな。その鈴の様な声でもって一時の間、可愛らしい声援を送ってみるだけでも劇的な変化を遂げて見せましょうとも。下手をすれば心身のすべらかな快復は約束されています」
「おだてても駄賃は出ませんよ。それに私は上司には厳しく辛く当たって成長を促す方が得意ですのでね。むしろ美声目当ての拝聴料を取る勢いです。でも、まぁ助かりました。有難う御座います。貴女がいてくれて助かった。本当さ。こんな重そうな書棚なんて持つことすらも難しいもの」
しかし、折角私が恥を忍んで礼を尽くしたというのに当の御主人とくればただ只管に口を開けっ広げて私を見つめているばかりで何も喋らず、これでは私が何もしてないのに顔が赤くなる不審者と化しているではないか。こら。その視線の目的を告げよ、さもなければ今すぐに退出を許可して頂きたい所存である。
「おい。おい、御主人。何か喋らないか。豆鉄砲喰らった阿呆みたいなその御尊顔をとっとと引込めてしまえよ、お願いだから」
何か恥ずかし気な流れを敏感に察した私は、これぞ賢将ともいうべき華麗な話題転換を試みるが何故だろう、こういう時の御主人様はどうにも私の術中には絶対に嵌まってはくれやしないのであり、そしてそれは今回この場においても遺憾なく発揮されてしまっていた。あぁ、神よ我を見捨てたもうたか!
追い打ちをかけるように「いや、なんといいますか。素直なナズーリンはやっぱり一番可愛いのだなと改めて感じ入った次第でして。えへへ、私は果報者ですねぇ」とは阿呆の弁であり、なのだがこんな陳腐な文句でも今の私には致命傷になりかねない。永遠亭に今から予約を入れられまいか。
「す、素直になって何が悪いというのです。私は、君は知らないかもしれないけれど御主人様以外には常々素直なのだ。素直の塊としては一家言ある程である。だから可愛いとか可愛くないとかは問題にならないのです、いいですか」
「あれれ、ナズーリンってば。もしかしたらナズーリン、照れてませんか。気のせいでしょうか、お顔が赤くないですか」
形勢は既に決したとでも言わんばかりに攻勢へと転じる我が御主人は、その横縞模様に相応しい邪な気持ちを込めて囁きかけてくる。その口元がこれでもかとにやついているのが大層に腹立たしい、私は恨みが深い方である。覚えておけよぅ……。
「えぇい、煩い奴だな君は。とっとと書棚をどかさないか。このっ、このっ!」
「いたっ、痛い! やめなさい、やめてくださいっ。私のお尻は足蹴にするものではありませんよ、いたた!」
「知るものか。こんなにも献身的で魅力的な部下を茶化すだなんて君は毘沙門天の代理には絶対向いていないのだ! 精々大人しく私に蹴られているのがお似合い、貴女に代理なんて勤まるものか。意地悪な御主人様なんて大嫌いですからね、ふんっ!」
「あぁナズーリン、ごめんなさい。言い過ぎましたね。私ってば少し楽しくなってしまったみたいで、ほら可愛いお顔が台無しですよ。拗ねないでください、ね。ね?」
「もう知りませんから。この賢い私をここまで貶めた罪は重いのです。これから一生、貴女の献立から一品が消え去ることを約束してあげます。我が頬は既に手遅れな程にぷくぷくぷぅなのだ!」
ようやく、優秀な部下を失ってしまうかもしれないという危機感に気づいてしまった哀れな虎妖怪ではあったが、そんな下手糞な謝罪では私の曲がりに曲がったおへそは決して元に戻る事は無いのである。
私がこうもなってしまった以上、この先に待ち受ける御主人の未来は絶望的なまでの灰色しか有りえないことは、今この場に駆けつけておられる先達諸氏には重々承知の事と思われる。私の意思は堅牢、崩されることは今後永劫とあり得まい。
「この通りです。ね、こっちにいらっしゃい、頭を撫でてあげますから。耳かきだってやってあげますよ。なんなら明日のおやつは私の分をあげますから。ほらあそこの壁の献立を見てください、なんと明日は聖特性の葛餅です、美味しいに決まっています」
「ほんとに?」
「本当も本当、今なら「あーん」までしてあげますよ。今だけの特典です。ですからどうか機嫌を直してはくれませんか」
「お膝の上がいいんだが……」
「勿論です! 私のお膝の上で「あーん」する、ただのそれだけで優秀な部下の心が晴れるというならばこの寅丸星、喜んでそうしましょうとも」
「し、仕方ない、そこまで泣き付かれては許してあげようかな。明日、約束だからね。忘れたら酷いのですからねっ」
私がそう轟轟と啖呵を切れば御主人様はそれはもう怯えた様子で「はいはい。これで一安心、まあるく事が収まりました」と呟いたのであった。全く、流石は私である。いくら上司と部下との関係と言えども礼節は大事であるから、彼女が失礼をしたならば涙を飲んで言葉を尽くさねばならないのだ。私だってやりたくはない、ただ、立派な方になって欲しいという精一杯もの愛の鞭なのだ。絶対そうだ。
……なんだ君らは。言いたい事があるのか。その目をやめないか!
い、良いではないか! だって御主人の耳掃除は筆舌に尽くしがたいし、その上「あーん」だなんて最早天上への誘いにも勝るとも劣らないし、これくらいの役得が部下たる私にあったって別に良いではないか! なんだ、御主人の膝の上が羨ましいのか。絶対に譲ってやらんからな。貴君らはそこでゴボウをかじるが如く指をくわえておればいいのだ。一切の批判は最早受付終了、時間外である!
それにほら見たまえ、御主人を。冷静に模様替えを再開しているではないか。やはり有象無象とは違うのだよ。流石は我が上司ではないか。機会があれば爪の垢を煎じて百遍飲み干すが宜しい。そうすれば、多少は彼女の様な慈愛が身に着くやも知れまいて。
「おーい、御主人。少し悶着した手前、お互い疲れが溜まったであろう。まぁ私は少しも動いてないけれどもね。ほら、書棚の横で突っ立ってないでこちらへ来てはどうでしょう。幸いにも自慢の煎餅布団一枚くらいの足の踏み場がこちらにはある、一緒に座りはしませんか。何なら今ここで耳かきをして貰っても私としては一向に構わないのだ」
出来る部下は気遣いを忘れる事は無く、その習い通りに、まぁ一時の言い合いはあったけれども仕事をせっせと続けていた御主人に声をかけた訳である。しかしそんな我が一声をまるで聞こえなかったかのように御主人はぽつりと呟いたのだった。
「ねぇ、ナズーリン。私が失くした書物の表題って、なんでしたっけ」
「おかしな事をおかしな時に聞きますね。まぁいいが。えーっと、『鼠小僧捕物帖第三幕、縞々長屋の怪』だったか。確かそういった題だったと記憶してるけれど。それが今何か関係が……」
私がそう言いかけた所で先程から滔々と喋っていた御主人がゆっくりと振り返り、そこで初めて私は彼女の手元と、そして御尊顔が拝見できたのである。
詭弁を弄することなく表すならば、それは笑顔を無理矢理五寸釘で面に張り付けた悪鬼羅刹であった。そして、手元にはどこかで見た事のある一冊の本が握られていた。誰か、この鬼を打ち取るものはいないのか。控えめに言って、これは多分我が命の危機である。
「これ、棚の裏に落ちていたのですけれど。何故でしょう、先程ナズーリンが挙げて頂いた書題にそっくりな題が記してあるのです。全く不思議で、貴女の様に賢くない私では見当もつきません。是非とも優秀であらせられる貴女の意見を聞いてみたい所存ですよ、私は」
笑みを絶やさずに彼女はそう、静かたる柳の様に問いかけてきたのであった。手には、どうにも見覚えのある黄色の表紙。
そういえば先日の事である。御主人に貸したはいいものの、自作の虎縞の栞を挟んだままだった事を思い出し、恥ずかしさの余りにすぐさま取り返したのではなかったか。
そしてそれを無造作に棚の上に放ったような気がしないでもないではないか。
更に言えば、もしやその際に本が書棚の裏に落ちたという事も無きにしも非ずんばこれいかに。
しかし、愚かなる御主人様は私が取り返したことを忘却してしまう所か、破滅的な勘違いの末になんと本を失くしてしまったと私に泣き付いてきたという事は考えられないだろうか。
以上の事柄を我が知恵を用いてを鑑みるに、つまりこれは、絶体絶命という状態に違いないのだと推測される。どうしてこうなってしまったのか、私は賢い筈なのだ。幻想郷切っての知恵者なのではなかったか。でなければ我が尊厳は最早風前の灯である!
「うむ、それはだね……。その、つまるところ、消失したと思われていた黄表紙に間違いありません、ね。ただ、あの……。そう、そうだ! 脚が生えた書物がこれは成程、なんとか持ち主の我が元へ戻ろうとするも悲しいかな、書棚の裏に挟まってしまいそのまま息を引き取ったのだ! そう考えられはしないだろうか!」
「ナ、ズ?」
「ひえっ」
駄目であった。完膚なきまでに駄目である。渾身の理論構築はあっさりと打ち砕かれた。だって御主人、笑ってるのに笑ってない! 余りの威圧に丸まりたくもない尻尾は既にぎゅうぎゅうに丸まってしまっている訳である。ここは慈母の腕に抱かれし命蓮寺ではなかったのか。
「おや、何を怯えているのです。これってつまり、お互いの不幸な行き違いから起こってしまった事件ですよね。そうです、誰も悪くはないのですもの。そうは思いませんか?」
「そ、そうでしょうね。この件に関してはきっとそうだよ。誰しもが起こし得る残念な事件だったのだ。よかったよ、これで教訓を得ることが出来た訳だものね。はい、お終い」
「ただ、そう。なんでしたっけ、罪には罰。でしたよね。ねぇナズーリン」
「あ、いやそれはその……」
私の手の平は既にしとしとに濡れており、このままでは手から水を生み出す奇跡を修めた者として崇め奉られてしまうかもしれない。しかしそんな事を言いだした所で目の前の獣は止まる事は無いだろうし、あぁ哀れにも我が一生はここで幕を閉じてしまうのだろうか。
目の前をこれは暗雲に阻まれたるかと肩を落としかけた矢先、なんとこれはまるで福音とも呼べるべき御主人様の澄んだ声が光明を引き連れて舞い降りたのだった。
「大丈夫ですよ、何故ならここは聖の守護に置かれし気高き命蓮寺。そんなただ中で争いで事を終結させようだなどとの不届き者は、存在を許される筈が無いのですから」
「おぉ御主人、私は信じていたとも。流石は高潔で名を馳せる毘沙門天代理ではないか!」
落ち着いた声色で語り掛ける彼女に対し、私はこれは許されたに違いないと思い歓喜の余りに手を叩き耳を振っては安堵をし、そして御主人様はそんな私に向ってより深い笑顔で、「ではここは閻魔様もが認める公明正大たるお金に判決をゆだねましょう」と一言を告げたのであった。
「それは、つまり……もしかして」
「失くした本を見つけました。そうです私が見つけました。ですからこれを見つけた対価を、貴女は払わなくてはいけません。それが、ナズーリンの理論でしたよね?」
閻魔様、どうしてでしょうか。我が目前には虎柄の、まるで乙女の様ににこやかに笑いかけては質問を投げかけてくる鬼が立ちはだかっている。
助けはどこか、早くしなければ取り返しはつきますまい。
●
ここで一つ、寺子屋宜しく数の勉強をしてみよう。
ある所にそれはもう途方もない美貌と知啓を携えた賢将がいたのである。その賢将は趣味に装飾にとお給金をつぎ込むあまり、気づいた時には財布の中には十文しかなく、けれど店に並ぶ魅力的な題名の『鼠小僧捕物帳第三幕、縞々長屋の怪』は百文もするのであった。
なんとも可哀想なナズーリン。けれど店主はその賢将の沈痛な面持ちに自身の悪逆非道な価格設定を気づかされ、「十文でいいよお嬢さん」と言った訳である。詳細はきっとこうであったと記憶している。
さて、上手くせしめる事が出来たナズーリンはお寺への帰路を辿る足取りも軽く、玄関をくぐった先になんと鉢合わせた毘沙門天の代理に「いいものを手に入れたよ、羨ましかろう。読み終わったら貸してあげよう。目一杯に感謝するが宜しい」とも言って見せたかもしれない。
それを受けた御主人は勿論本を借りに我が部屋を訪ねるも、まぁこの先は諸兄らが見聞してきたとおりの有り様である。
ここで問題なのが、果たしてそのナズーリンこと私は御主人に、本を発見した手柄への対価を支払えるのかというその一点に他ならん。設問を解くにあたっての重要な部分は十文から引くことの十文、である。
何故だろう、賢将とも呼ばれるこの私ではあるけれど計算すれども計算すれど我が算盤は無慈悲な零をはじき出すだけなのであった。
「ご、御主人様よ。残念なことに今は手持ちが無いのだ。ほらこの通り」
慌ててそこらに転がっていた御主人と御揃いの蛙口を開いてみせれば、蛙の口には確かに一つも残ってはいなかった。自分でも恥ずかしい事とは思うが、そうでもしなければきっと彼女は許してはくれんだろうと思ったからである。
「ふむ、確かに。これではお金を要求する私が悪者になってしまいます、これはいけませんね」
「その通り。弱きを助けるが貴女の本懐であるべきで、このように儚き部下を糾弾するのはやってはいけないと私は思うのです」
「何を言っているのです。糾弾などする気はありませんとも。ただ、貴女の失くしものを見つけたのですから御褒美が欲しいと思っている次第でして」
「だ、だからさっきからいっているではないか。私は今無一文で……」
「武に訴えず、金品も受け取れず。であれば、体を対価とするしか道はない、でしたか。どこぞの大変高名な部下の言葉だそうですよ。なんと素晴らしい文句ではありませんか。ねぇナズーリン」
「あっ、あぁっ、……いやそれは言葉のあやと言いますか、ただ意地悪な悪戯をしていただけと言いますか」
「もう、やっぱりナズーリンってば意地悪なんですから。あぁ、これでは私も意地悪をしてみたい誘惑に駆られても仕方がありませんよねぇ」
私はこの窮地をどうにか脱しようと必死に言葉を尽くして言い訳を敢行するも、一向に旗色が良くなる気配はとんと来ず、それどころか目の前の寅丸星はじわりじわりと、危険な言動を伴って容赦なく私へと近づいてきており、それはさながら獲物を前にした虎と言うべきものであった。
「あ、あの、御主人様。ちなみにだけれども、肉体で払うと言ってもその手段は千差万別、千変万化もある訳で、例えば私が君の部屋の模様替えを代わりに行って気持ちの良い汗を流す、という事で今回は手を打たないだろうか。私はこうみえても勤労には目が無くてだね……」
「ナズ、私の顔になんて書いてあります?」
「お、お手柔らかにお願いしますぅ……」
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幾ら夏は陽が沈むのが遅いと言っても、残念ながらこの幻想郷は決して不夜城ではないので夜は訪れてしまうのだ。とは言っても現在は蝉もまだまだ頑張る夕暮れ時で、西日に彩られる我が六畳一間のくたびれた障子襖は赤々と頬が染まり、それを真似るかのように御主人の背中と、ついでに寄り添う私のお顔も真っ赤に彩られているのがどうにも釈然としないとは思わないだろうか。
おやつはきっと明日貰えるだろうし、お膝の上もこの様子では乗せてくれるだろう。勿論「あーん」だってあるに決まっている。だが、何か大事なものを失ってしまった気がしてならない。具体的には、今後の夜での優先権を失ってしまったかのような、そんな気がかりが我が心の中に残ってしまった。これでよかったのか賢将よ!
おっと、ご期待の所を非常に申し訳ないのだがあの後の事を鮮明に皆々様に語ってみせる元気などは私の何処にも既に無く、であるからどうか詳細を知りたい者共は潔く諦めて欲しいというのが賢将たる私からの切なる忠告である。
既に勝敗の決した勝負を言い訳がましく解説する事ほどみっともない事はここにあるまい。
そう、語るに落ちた恋路の結末などは、書棚の裏にでも忘れ去られるくらいが丁度いいのだから。
賢いナズーリン。 -了-
時々ナズーリンが読者の方を振り向く?ときも、愛嬌の一端が見え隠れしているようですごくかわいいし。
冒頭からの堅い文章の風な割にはすっと読めました。面白かったです!
頭いいアピールの割には全てが上手くいっていないのもまさか計算!?
何が申したいかと言いますと、超絶毒舌ナズーリンかと思いきやクッソデレデレでとても可愛い。ともすれば長ったらしい台詞回しも癖のある地の文も、全て魅力として片付けられる、とてもきもちいい作品でした!