その夜は夢を見なかったので、日々の断絶がいっそう深く感じられた。思えばここのところ、目覚めると共に夢の内容を思い出すことが習慣になっていた。ドレミー・スイート。彼女の名前が浮かぶ。「あれからずいぶんと経ちましたね」といつか彼女は言ったが、私はそう思わない。誰も同じ時間を過ごしてはいない。
永遠というのは、つねに現在にあることと等しい。われわれは不変の現実に存在している。たとえ地上から帰れなくなった兎がいたとしても、それは変化に数えられない。全体の数と役割とが十全であればそれで良いのだ。構造は三角形である。底を構成する無数の点のそれぞれを、果たして頂点が考慮するだろうか。
また、兎のみならず、時間と川の比喩にも同じことが言える。われわれは無限の水を区別しない。ただ川という集合の存在が重要なのだ。そして、月と地上もおそらくそうだ。
私は横になったまま、そうしたことを考えていた。時間の川に耳を澄まし、朝にはまだ早い時刻だと知った。夜と朝を隔てる川の向こうには、また別の三角形がある。そこでは私は頂点に立っていない。逆さまの三角形がそこにあるのだ。夢の世界、と私はそれを呼んでいる。
暗闇に仄かな火が灯りはじめる。見渡せば縦横無尽に連なる無数の六角形の回廊。私はふたたびあの図書館を訪れていた。ほとんど儀礼的に、目の前の棚から一冊の本を抜き取る。内容は予想通り、不明な記号の羅列で、私はこれ以上調べようとは思えなかった。まして歩き回って出口を探すことなど考えたくもない。
少し深呼吸をしてから、「ドレミー」と呼んでみる。
「またこんな所にいるんですか」
まもなく彼女は現れた。その微笑はすっかり見慣れたものとなっていた。
「呼んでも来ないと思っていたのに」
「まあそれも考えましたが、あなたは最近、しきりにここを訪れているので」
彼女も本を手に取るとそう言った。そして、「覚えていませんか」と尋ねる。
「私はこれで二度目だと記憶しているわ」
「それは良かったです」
会話の意味を私は理解できなかった。私の困惑に、彼女はただ黙っているだけだ。おそらく、この一方的な状況を面白がっているのだろう。対して私は退屈だった。奇妙な夢も、二度目はどうにも色褪せて見えるものだ。そう思いながら手すさびに本の背をなぞっていると、ドレミーが声を掛けた。
「何か良い物でも見つかりましたか」
彼女の言葉もまた、ある種の空白を埋めるためのものにすぎない。私はすでに退屈だと言ったが、仮にドレミーがこの図書館を何度も訪れているのだとしたら、私以上に飽いているのは彼女の方だろう。私は彼女の問いを否定してから、「ここから出してくれる?」と尋ねた。
「歩けば出られますよ」
私は疑いを持ったが、彼女に従って現在の回廊を出た。すると予想通り、また同じ六角形の回廊がその先にあった。私は振り向いてドレミーを呼んだ。
「ねえ、やっぱり駄目みたい」
「まだほとんど歩いていないでしょう」
「同じ風景と分かっている所を歩いたって、つまらないわ」
「同じかどうかなんて分かりませんよ」
「一度来たから分かるのよ」
彼女は回りくどい仕方を好むが、たまには簡潔に済ませたいという気持ちが私にはあった。いかに現実と遊離しているとはいえ、一つの夢の時間は限られているはずだ。
それだというのに、そうした有限性を鑑みている様子はいっさい見られない。果たしてこれは単なる性格の問題なのだろうか。
ドレミーは私の反論に際してしばらく考え込むと、やがてある提案をした。
「では、退屈を紛らわせるために私がお話をしましょう。それなら歩きながらできるでしょうから」
なぜここまでこだわるのか、私は気になったが、その理由を解明するには彼女の言に従うのが最も確実なのだろう。経験上、ドレミーに真正面から意図を尋ねて返答が得られた例はほとんど無い。私は視線を前に戻すと、「話が尽きるまでは付き合うわ」と答えた。
そうして、私たちは無限の回廊を巡りはじめた。ドレミーはつねに私の少し後ろにつきながら、一定の調子で話した。
「ある所に二人の姉妹がいました」
ありふれた導入を聞きながら、私は回廊を次々と進む。
「彼女たちはある日、両親とともに遊園地へ行きました。ジェットコースターや観覧車、様々なアトラクションに彼女たちは喜びましたが、二人はそうした乗り物よりも、遊園地の一角にある、煉瓦造りの街並みを再現した空間を特に好みました。道の左右に並ぶ家々の塀は高く、まるで迷路のようだと妹が言います。確かにある程度分け入ってみると、そこではもうジェットコースターに乗る人々の声もどこか遠い世界の出来事のようです」
もはや変わらない光景に視線をやることもなく、代わりに彼女の語る空間を私は想像の片隅で展開していた。この回廊を歩む行為と、ドレミーの話を想像する行為と……どちらが意識的なのか次第に分からなくなってくる。
「その煉瓦街のお店で昼食を済ませると、両親は『しばらくここで休んでいるから』と言って、姉妹は二人で街を巡りました。小さな二人にとっては巨大な街かもしれませんが、両親にとっては単なる一つのジオラマです。多少迷っても何とかなるさと考えていたのでしょう。姉妹は不意に得られた自由を素直に喜ぶばかりで、迷子の心配などもしかしたら忘れていたのかもしれません。あるいは両親のことすらも。しかし、その楽しい時間もいずれは覚めるものです。姉がふと声を上げました。『大変、もう夜よ!』」
おそらく、どちらの行為も結局は無意識的なのだ。この図書館の沈黙の中では、ドレミーの言葉が唯一の刺激だった。私はただ聞こえる彼女の言葉に対して、何らかの反応を返しているだけだ。
「空を見上げてみればすでに真っ暗で、赤々と燃える煉瓦の街並みも今ではただ黒に沈んでいます。『帰らなくちゃ』と、まるで羽の生えたように、彼女たちは実にめまぐるしい速度で黒い煉瓦の路地を行きました。それでも帰ることは叶いません。いくら分かれ道を選んでも、彼女たちは父にも母にも会えません」
回廊と回廊の連絡部分を、もう何度通っただろうか。やはり歩きつづけても無意味なのではないかと思ったが、それでも私は休むわけにはいかなかった。一度言った以上、約束は守らなければならない。
「そうして飛び回っているうちに、噴水のある広場に辿り着きました。二人はそこで気が抜けたのか、とうとう足を止めて座り込んでしまいます。『もう疲れたよ』と姉は言います。そのとき、黒い煉瓦の街に点々と光が現れました。七色の光が星のように輝きます。姉妹は立ち上がって、一番明るい星に向かってゆっくりと歩きはじめました。やがて星の元に扉があるのを二人は見つけました。見覚えのない家でしたが、姉妹はそれを思い切って開きます。すると夜は嘘のように朝に変わり、暖かい家で父と母が迎えてくれましたとさ。めでたし、めでたし」
ドレミーの声が途切れたのに気付いて、私は尋ねた。
「それで終わり?」
「終わりです。次の話に移りましょうか。ある所に三匹の山羊がいました……」
それから彼女は様々な話をした。四本の桜、五頭の獏、六羽の白鳥――数において法則性があるのではないかと私は思ったが、その次に彼女は三にまつわる話を始めた。それが終わると今度は一で、結局規則など無いのだと分かった。
彼女の話はどれも夢を見ているように曖昧で、一つの話が終わるとそれはもう正確に思い出すのが困難だった。率直に言って、話の質がそこまで良くないというのもその原因の一つだろう。特に期待はしていなかったので、わざわざ文句を言う気にはならなかったのだが。
こんなことをドレミーに言ったら怒るだろうか、と考えているうちにも、何度目か分からない「めでたし、めでたし」が聞こえてくる。いったい何のどんな話だったか、と思い出そうとしてみたが、今の話の内容もすでに忘れかけている。しばらく記憶を探っていると、そこで私はあることに気が付いた。ドレミーはもうこれ以上話を語ってはいなかった。
「ねえ、ドレミー」と呼びかけようと振り向くと、ドレミーは私の隣に立っていた。
「ほら、出られましたよ」
気付けば私たちは森の中にいた。木々はどれも深い緑の色をしているというのに、そこに生命的な気配はいっさい感じられない。この森が特別なのか、そもそも夢というものがそうなのか――少し考えたが、特に区別を付ける必要は無いという結論が最後に残った。
「図書館は無限に続いていると思っていたのだけれど」
「そんなの、誰かの妄想ですよ」
ドレミーらしいのかそうでないのかよく分からない台詞だ。そんな簡単に切り捨ててしまって良いのだろうか。私が答えに窮していると、ドレミーはそれを予想していたかのように薄い笑みを投げかける。
「あなたは無限を見たことがありますか」
私は普段の都での生活を思い浮かべた。無限や永遠といったイメージが想起させるのは、きまってそうした物事で、つまり、私にとってそれはつねにそこにあるのだ。
「あるかもしれないわ。ただ、気付いているかは分からないけど」
私の答えにドレミーは満足そうに頷いた。
「結局のところ、何を一つの集合として見るか、あるいは何を基準として物事を捉えるかという問題ですよ」
基準という言葉をわずかに強調して彼女は言った。われわれの認識は全体を把握しない。より正確に言うならば、われわれは無限定の事物を認識できない。仮にそうした無限の対象を捉えていると思っているなら、それは無限という枠組みをそこに想定しているのだ。
「認識に伴う限定の例としては、時間が挙げられるでしょうか。あなたがたは実に様々な方法でそれを規定します。たとえばあなたも時計を基準にして、日々の業務を消化しているのでしょう」
私が頷くと、「邯鄲の夢の故事がありましょう」とドレミーは続ける。
「盧生は一生の夢を一炊のあいだに見たと考えましたが、それは一つの解釈にすぎません。彼は別に、一炊の時間の方を基準にする必要はなかったのですよ」
ドレミーはいつになく饒舌だった。思い返してみれば、図書館を出てから彼女はやけに上機嫌に見える。
「時間を一炊と見ることは確かに一つの真理です。しかし、彼が夢見た一生も、彼にとっては否定できない体験です。では、この主観的な夢も真理と言って差し支えないはず」
「でも、盧生は客観的な――一炊の時間の方を唯一の真理と取った。これも主観的な判断なら、あなたの解釈は退けられるわ」
「ええ、ですからこれはあくまで可能性の話です。あなたがたが仮に別の客観を編み上げていたらの話であって」
「別の客観? それってどういう――」
「あら、客観は唯一だと思いましたか?」
尋ねかけた私の言葉を人差し指で封じ込めて、ドレミーはそう言った。
「主観も客観も、私から見れば同じことですよ。互いに影響しあい、改変しあう暫定的な枠組みにすぎない。客観的な基準に照らして主観的な判断を下すのも、主観が客観的な真理を仮想するのも、単なるそうした相互作用の現れです」
主観が変化するものならば、リジットな客観などありえない、と彼女は言った。あるいは、夢が曖昧なものならば、現もまたそうだとも。それらの区別は、公共空間で展開されるか否かの差異でしかない。夢は共有できない物――主観は覗き込めない物――私たちは一般にそう考えているからこそ、便宜上それらの境界を定めているのだ。
「真理が客観的であるというのは、ある種の分析判断にすぎません。その名詞に特別な価値など無いんですよ、本来ね」
「主観的な夢も、同じことだと言いたいのね」
「ええ。われわれは夢も現も生きていると考えている――それを疑い区別することに、いったい何の意味があるでしょうか」
不意に彼女の表情が寂しく映ったのは、気のせいだろうか。私の中では夢と現はまだ厳しく分かたれている――彼女との会話がいかに心地よくとも、これは所詮夢にすぎないのだ。
ゆえに私は、彼女に対して答えを返すことができなかった。彼女の言葉をどれだけ理解できたとしても、それは私の直感に反している。主観と客観、夢と現、どちらのヒエラルキーも背中合わせにあるだなんて、まったく破滅的な発想にしか思えなかった。
しばらく歩けば図書館と同じく森も終わり、灰色の砂漠が現れた。その中央には、同じ灰色をした円形の祭壇。色彩を欠いた同心円状の風景がそこには広がっていた。
「なんとなく、図書館に似ている気がする」と呟く。反復という点では、六角形も円形も変わらない。何よりこの無彩色の与える印象が、図書館の静けさを思い出させた。
「まあ似たような物ですよ」
ドレミーはあっさり肯定すると、「私はこうした空間を、『階梯』と呼んでいます」と言った。
「管理者というものはたいてい高い所にいるものです。それだけ色々と見渡せますから」
そうした一般論がほんとうに一般的なのか、私には疑問だったが、ここはひとまず了解しておくことにした。
「それで、この『階梯』はいくつあるの? どこまで行けば全部見えるのかしら」
尋ねてみてから自分の問いかけがなかなか陳腐な部類だということに気が付いたが、もう遅い。今更後悔しても無駄だろう。だから私は敢えて開き直ることにした。どれだけ遠回りをしても、いずれ私は同じことを聞くのだろうから。
「経験から答えるならば、分かりませんね。全部見えているかどうかなんて、簡単に分かったら苦労しませんよ」
質問に面白みがなければ、回答もまたありきたりだ。幾分気だるげな声色から察するに、おそらくドレミーも同じことを考えたのだろう。それなら少々突飛なことを言った方がまだ良いのではないか。私はそう考えて口を開いた。
「じゃあ、私がこの『階梯』を昇ることができたら、ドレミーの知る限り最も高い所へ連れて行って」
ドレミーは、彼女にしては珍しい困惑の色をわずかに見せたが、すぐに平静を繕って回答した。
「それはちょっとずるくないですか」
「どうして?」
「面倒なのは分かりますが、一気に飛ばすというのは何とも風情を欠きます」
「それに」と彼女は付け加える。「図書館を出るよりここを出る方がずっと楽ですよ。少なくとも、あなたにとってはね」
「どういう意味?」
「これ以上は自分で考えることです。階梯を昇るには何が必要か、それを知っていれば、答えは分かるはずです」
私は空へ飛び上がって、眼下の景色を一望した。祭壇を中心として、砂漠、森林と広がる同心円。どこまで高く飛んでも、森林の果てまでは見渡せない。おそらくそのようなものはどこにも無いのだ。
ゆえに、出口もそこには無いと考える。私はドレミーの言葉を思い返した。階梯――それを昇るには何が要るかを自問する。一般的には手足だろうが、ここは夢の世界だ。また、自分にとっては簡単な解法という言葉も不可解だった。夢の世界において、私に何らかの特別性があるのだろうか……碌に考えつかなかった。
思えば図書館からの脱出も、私にとっては唐突に訪れた現象にすぎない。階梯を昇るというのは、無意識的な出来事なのだろうか。違う。先のやり取りが成立する時点で、意識的な解法は存在するはずだ。問題は、何を意識するかということ。図書館の例を再現するなら、私は意識的に無意識的な対象を捉えなければならない――けど、どうやって?
悩み、私は天を仰いだ。そこには月があった。けっして手の届くことのない満月が。そのとき、私は解を直感した。
一瞬にして、私は月に立っていた。けっして華やかな都ではない、荒涼たる月の平原がそこにあった。傍らではドレミーが笑っている。どうやら正解だったらしい。
「答え合わせでもしましょうか」と彼女は言った。
「あなたはいつか、ここでは全身が夢を見るための感官だと言った。逆に言えば、ここにおいて夢を見ることは身体器官の働きに還元できるということ――つまり、月にいる自分を想像することは、実際に月へ昇ることと等しい」
「なぜ月へ昇ることが正解だと思いましたか」
「あの空間において、単なる運動によってはけっして辿り着けない地点が二つあった。一つは月、もう一つは森林の外。私はその内、想像の容易な方を採っただけよ」
「ええ、その通りです」
ドレミーは特に驚くこともなく、答えを予想していたかのように頷く。
「では、最後にもう一つだけ。図書館とこの空間――『砂時計』と私は呼んでいますが――の差異にもお気付きですか」
「それは、分からないわ。図書館の階梯の先に砂時計があるということは、こちらの方が上位なのだろうけど」
「単純に言えば、数の違いです。図書館は個人的な夢。砂時計は集合的な夢です」
そんなことを教えてしまって良いのだろうかと思ったが、私は黙っていた。余計な発言で知る機会を逃したくはない。
「個人的って、あの図書館には他の人の夢が収められていると思っていたのだけれど」
「そのような見方もできないこともありませんが、しかし、基本的にあなたはあなたの夢見たい物を見ています。もしや八意様の夢を覗いてしまったと、罪悪感を抱きでもしましたか?」
彼女は私の表情を窺う。全部分かっているくせに、まったく性格が悪いと思った。
「さて、どうかしらね」と私ははぐらかすことにした。仮に彼女の言うことが正しかったとしても、罪悪感は避けられないのだ。むしろ、そちらの方がより罪深いのかもしれない。他者の夢を覗き見ることと、他者に勝手な想像を投影することと、いったいどちらがより倫理的に近い行為なのか、私は迷った。
「それで、個人的と集合的とはどう違うの。私たちが普段見るのは、個人的な夢よね」
「そうですね。ですが、正確に言うと、純粋に個人的な夢を見る人など、どこにもいません。われわれにはある程度共通の元型が存在していて、それに応じて夢を見ると言えば分かりやすいでしょうか。要するに想像する労力の削減ですよ。ただ、いくら負担を軽くしたところで、個人の日常的な想像力などたかが知れています。長い夢が精神を蝕むというのは、そういうことです」
自分が誰かと夢の話をすることは無かったが、たとえば兎たちの噂などで、複数の者が同じような夢を見るという話は何度も聞いたことがあった。なるほど夢が究極に個人的な物ならば、そのような偶然はほとんど起きないはずだろう。
「一方、集合的な夢では、比較的長期に渡る夢を想像することができます。その代わり、個人的な夢に比べると内容の自由が限定されます。集合に共通のイメージによってしか、それは形成されえないので」
私はかつて夢の世界に創造された偽の都を思い出した。
「『階梯』を昇ることとは、この集合を全体に近づけることに似ています……まあ実際に体験してみるのが一番ですね」
ドレミーは私のすぐ傍にやって来ると、「目を閉じてください」と囁く。私は彼女の言う通りにした。まもなく、瞬間的な眩暈が私を襲った。
目を開けてまず、夜空だ、と私は思った。次に、彼方にある巨大なシルエットが視界に入る。それから視線を落としてみれば、雪があった。私たちの足元から遥か向こうの影まで広がる雪原が、天の星々を映していた。
「あのシルエット、何に見えますか?」
「木じゃないの」
「あなたにもそう見えますか」
「あなたも?」
ドレミーは頷いた。「もし異なる物に見えていたら、と思ったのですが」
私は今一度そのシルエットを観察した。それは大雑把に捉えれば粗い線対称の三角形、あるいは上向きの矢印に見える。その周りには、雪とも流星ともつかない白光が尾を引いて降り、巡っている。そうした光源が影を照らしてくれれば解明の助けになったのだろうが、それは叶わない。影はどこまでも平板な黒色で、立体的な構造を持つか否かすら分からなかった。ただ美しい冬の夜の光景がそこにあるだけだ。
「ここがそうなの?」と私は尋ねる。
「ええ、約束通り、ここが『階梯』の果てです」
私は夜空を眺めた。天体は、単なる星にしてはその瞬きや運行がいささか激しく思われて、私は彼らの軌道に興味を引かれた。ドレミーはそれに気づいたのか、「私は」と切り出す。
「この星々のことを『時間』と呼んでいます」
「あるいは『可能性』と言った方が適切でしょうか。人は想像しうることを行為し、行為しうることを想像します。夢と現とは互いが互いを映す鏡なのですよ。ゆえに、すべての夢を見渡すということは、すべての現実を知ることに等しい」
私はドレミーの説明をまだ上手く理解できずにいた。そのような単純な関係で両者を結ぶには、睡眠という隔絶はあまりに深く感じられる。それでも、もしドレミーの説が正しいのなら、邯鄲の夢とはまさに盧生が階梯を昇る話に他ならない。彼は短い夢の中で、自らの未来のすべてを知った。同時にそれは、ある危険性を示唆しているのではないかと私は思った。個人的なものならまだしも、世界全体の未来を知るという途方もない予見など、誰が有しようと毒にしかならないはずだ。私がそう尋ねると、ドレミーは肯定した。
「ですから、『階梯』が無限や反復の形を取るのは必然的な話です。常識的な仕方では、まずここに辿り着くことなどできないようになっています。それらの概念への到達に際して、推論という方法はある不可能性に直面します。そして、その真理をいったん排することこそが、階梯を昇るということなのです」
私はそこまで聞いて、図書館や砂時計の構造について理解した。無限の六角形の配列を推測するのも、反復される同心円の空間を想像するのも、われわれの経験によってはけっして証明されえない仮定なのだ。
ドレミーはこれらの秘密を共有できたことが嬉しいのか、いつもより幾分素直な笑顔を見せている。私はしばらく悩んでから、どうしても気になっていたことを尋ねた。
「ねえ、どうして私を連れて来てくれたの」
本来なら、この場所にはドレミー以外何者も立ち入ってはいけないはずだ。私が階梯を昇る手助けをして、彼女に何の利益があるというのだろう。私には分からなかった。
しかし、私の予想に反して、彼女はたやすくそれに答えてみせた。
「あなたほど自制に長けている方を、私は知らないから」
「私がかつて何をしてきたか、知っているでしょう?」
「重要なのは今ですよ。それに、昔のあなたも十分理性的です」
率直に言って、それは身に余る評価だった。私は今まで口にした無数の言葉を思い出す。例外なく後悔を導いてきた言葉たちのことを。逆転しようがしまいが、運命など結局はいつか破滅へと向かうものなのだ。だから私は永遠の都を憧憬する。真にそれが叶ったのは、おそらくあの氷の刹那だけだ。車輪が凍り付いてしまえば、われわれはどこにも行かず、永遠に留まることができたはずなのに。私は自分の言葉と、それを口にせざるをえない運命を呪った。
そうした気後れのせいか、私は正面からドレミーに向き合う気になれず、彼方へ視線を逸らそうとした。そこにあるのは、巨大な三角形、あるいは矢印のシルエット……しかし、私はそれを直視した瞬間、慄いた。あれは木などではない。人の形――いや、それもおそらく正確な表現ではない。もっと恐ろしいものだ。直感したイメージを否定しようとするたびに、白の星々が弾けて輝き、私の逃避を嘲るようにあの影を彩る。
「ドレミー・スイート」
ついに私はその名前を口にしていた。
考えてみれば、それは至極当然の解答だった。ここが(少なくとも彼女にとって)すべての夢想の終着点ならば、それは彼女の形でなければならない。
あらゆる色の混合の果てとしての白と黒。あらゆる図形の拡張の果てとしての球体。あらゆる主観が反響し合う夢の果てを、彼女は最初から示していたのだ。
そして私は知った。盧生と同じく、星々の語る『時間』のすべてについて。彼と異なるのは、それが個人的なものではなく、私と彼女に関わるものだったという点だ。私は改めてドレミーの方へ向き直り、問うた。
「ねえ、ドレミー。あなた、ほんとうは何を考えているの?」
今度は彼女が目を逸らす番だった。口ごもり、唸り、沈黙し、そうしたささやかな抵抗を経て、彼女はようやく口を開いた。
「ああ、まったく――これだから未来なんて知るものじゃない」
力なく空を仰ぎ、彼女は私を恨めしそうに睨む。
「見ましたか」
「私はドレミーの言葉が聞きたい」と答えた。
「全部分かっているくせに」
彼女は不満そうにそう漏らしたが、私に意志を曲げる気はなかった。ドレミーはしばらく迷っているようだったが、おもむろに腕を持ち上げて夜空を指した。
「綺麗でしょう?」と彼女はうわごとのように呟く。
「ええ、そうね」
「私は長いあいだ、ここにいました。今のように、様々な階層を自在に行き来できるようになったのは、体感としてはつい最近の話です。
ここで独り夢の観測をし、たまに悪夢が現れれば処理をして、私は過ごしていました」
ドレミーの視線を追うと、星空の一隅が赤い闇に引き裂かれつつあった。「あれですね」と彼女が呟く。次の瞬間には、それはすっかり消失していた。
「端的に言って、私はひどく退屈でした。いくら澄んでいるとはいえ、ほとんど変化のない夜空の観測などすぐに飽きるものですよ」
凍り付いた都で待機していたあのわずかな期間を思い返す。いつ終わるか知れない孤独というものは、きっと彼女にとって恐ろしいものだったのだろう。まして、孤独以外の状態をはじめから知らないとなればなおさらだ。
「しかしある時、私は驚くべき光景を目にしました。星空全体が振動したのです。それも並大抵の規模ではありません。ほとんどの星座は散り散りになり、静止していた星々も降るように空間を巡るようになりました」
私はシルエットの周囲を巡る無数の星々を眺めた。彼らの運動が無ければ、この夜空は確かに、凍り付いた単なる絵画的な空間であったに違いない。
「それから私は、この空震を待ちながら日々を過ごしました。はじめの方こそ、それはしきりに観測されましたが、次第に疎らになりました。私はこの現象の原因を知りたいと思いました。そして、できることならそれを自由にしたいとも」
そこでドレミーは言葉を切って、私を見つめた。私も視線を返す。ようやく互いに向き合うことができた。
「やがて、私はあなたを見つけました。稀神サグメ――あなたの言葉こそが、すべての空震の正体だと、私は理解しました」
私は頷く。偽の都を創る計画を告げたとき、「まあ、義理みたいなものですよ」と彼女は引き受けた。あのときは急いでいたため気にも留めなかったが、今になってその意味が分かった。
「あなたが私を訪ねてきたとき、私はひそかに喜びました。ずっと求めていたものに出会えたのですから。しかし、一方で私はひどく絶望しました。その頃のあなたはもはや、自由を捨てていたのですから」
ドレミーの言葉にいっさい嘘はなかった。それは先に知った未来と照らし合わせなくとも、容易に分かることだ。
「私はもう一度、あなたに自由に話してほしかった」
彼女がここまで切実な声で打ち明けるのを、私は今まで聞いたことがない。ゆえに私は答えに窮した。彼女の求めに応じるか否かを迷ったのではない。ただ、私は今の彼女に釣り合うだけの切実さを持っていなかったのだ。
「嫌われることを覚悟で言いますが、私はそうした利己心であなたと付き合ってきたにすぎないんですよ」
彼女が私と交友関係を持っていたのは、単なる自分の欲望のためにすぎない――彼女は偽悪的な態度を崩さぬまま、これまでの出来事を辿りはじめた。
一度目の図書館の夢は、悪夢を利用して私の言葉を引き出そうとする試みだった。
地底での出来事はイレギュラーではあったものの、結果として私の能力が夢にも通じうることが証明された。
天狗にまつわる一連の事件では、その効果が過去にまで及ぶことが確認された。
そして今、それらで自覚された能力は、夢の世界における更なる上位階層への移行のために用いられるはずだった。結果としては、先に私が『時間』を理解したために、その計画は未遂に終わっているのだが。
「いや、覚悟なんて嘘でしたね。どうせあなたはもう全部知っているのですから、わざわざ告げずとも同じことです」
「失望しましたか?」とでも言いたげに彼女は私を見る。対して私は驚くほど冷静に彼女の言葉を受け止めることができていた。予見を得ていたからというのもその理由の一つだろうが、さらに重大な要因が別にある気もした。
「ドレミー」と私は呼ぶ。
「あなたが何を深刻に考えているのか、私には分からない」
ドレミーは純粋な驚きを呈した。
「確かに利己心のために他者を利用するというのは、倫理的ではないかもしれない。だけど、あなたは私を助けてくれたでしょう?」
「さっきまでの話を聞いていなかったんですか」
「だって、私もあなたの言葉に救われたもの」
「……どうにも理解できません」
そう零したきり俯いて、彼女は何やら考え込んでいた。これ以上教えてやるのは何だか気が進まなかったので、私も黙って雪原の果てを眺めた。向こうのドレミー・スイートと目が合った気がした。
私は次に発すべき言葉を考えながら、それをしばらく見つめていた。対称性のシルエットが曖昧に掠れていく。あるときは木に、あるときは単なる図形に、そしてあるときはドレミー・スイートに……多数の像がそこに重なって流星に攪拌されるのを私は見た。
そして私は口を開いた。
「ねえ、この『階梯』を昇る方法が、分かったかもしれない」
努めて冷静な素振りを装って、ドレミーが長い沈黙から顔を上げた。
「ほんとうですか」
「ええ」と私は微笑みかける。「ここに立って、あのシルエットを見て」
ドレミーが指示の通りの位置に移動したのを確認して、その隣に私も立つ。シルエットの対称軸がちょうど二人のあいだにあるような形で、私たちはそれと向き合った。
解に気付いた今となっては、ドレミーがこれより上の階層を知らないのはきわめて当然のことに思われた。ここには二人いなくてはならないのだ。それが意味するのは、対称をなす相手であり、そして――
そして、私は本を閉じて顔を上げた。図書館でも砂時計でも雪の夜でもなく、それらへ旅立つ前の洋室に私たちはいた。
「お見事です」と傍らでドレミーが笑う。
「シンメトリカルな風景それ自体がヒントだったというわけですか。夢の中でも本ばかり読んでいた甲斐がありましたね」
感嘆なのか皮肉なのかよく分からないことを彼女は呟いている。できればどちらかにしてほしい。だが、その指摘はひとまず後回しだ。
「まだ解決したわけじゃないわ」と私は部屋の奥を指した。そこには扉があった。
「あの向こうには、また図書館があるかもしれない」
「なるほど」とドレミーは頷いて、「あなたはそう思っているんですか」と問うた。
「今はまだ、分からないとしか思っていないわ」
「まあ、それはそうですね」
私は立ち上がった。そのまま扉へと歩を進める。
「だから、確かめに行きましょう」
ドレミーの方を見遣って、手を伸ばした。向こうが図書館なら、この本を収めてきてやればいい。そうでないならば、この夢には更なる奥行きがあると知ることができる。どちらにせよ、この先を知らないまま終わるなんて、まったく夢が無い話だと私は思う。
二人で扉に手を掛ける。もはやためらいを重ねる必要は無い。
「ドレミー、これからもよろしくね」
「あなたが望むなら、それこそ無限に付き合いましょう」
せめて夢から覚めるまでは――零れかけた言葉は扉の向こうに閉じ込めて、今はただ目の前の幻想だけを夢見ようと私は思った。