0、
雪が舞っている。
白い花びらが、舞い散るように。
目障りに視界にちらついて。
風もない凍てついた空。
漂った白い綿は大地に降り、溶けて水へと還っていく。
消えていく。始めから存在しなかったかのように。
いつになったら止んでくれるのだろう。
空が答えてくれるわけもなかったが、ほかにできることもなかったので、欄干に寄りかかり首を持ち上げる。
はるか高空にどこまでも続く薄暗い雲は、ここではないどこかへ向かって、ゆったりと流れていく。
雲にさえ嫉妬する。
その気力すら尽きかけている。
それでも、見上げる。
冷えた空気に吐く息は白い霧となり、大気に散って溶ける。体温が奪われていく。
腕を抱く。けれど、そうしたところで暖めるものもなく。
何もない。
もう、何もない。
見つめる空に、変化があった。
黒い点。何かの影。
妖怪の一団。
十数名から成る彼らに急ぐ様子はなく、しかし遊覧をしているようでもなく。冬の雪空の中で暖め合うように寄り添い、ひとつの方角へと飛び去っていく。
彼らが何者なのか、行く先に何があるのかも私は知らない。それ以上に興味もない。どうせ私には。
沸き起こるのは嫉妬心ばかり。
彼らには行くところが、帰るところがあるのだと。
羨望の思いと悔しさをかみ殺し、彼らを目線で追う。ただただ、橋の上から見送る。
遠ざかっていく姿は、やがて視界から消えた。
また、何もない空。
静かに瞳を閉じる。
何もない世界が、色さえも失う。
「追われた妖怪たちが、地下へと潜るのです。あれはその一団」
とん
言葉の後に、橋板を叩く音が耳に届いた。
それは、しばらくぶりの来客の知らせ。
目を開き横を向くと、胸に3つ目の瞳を下げた特異な姿を持った妖怪が、舞う雪をも厭わずに立っていた。口元に微笑を作り、人のよさそうな顔を浮かべる、私の肩の高さほどの背丈をした少女。
こいつとは面識などない。だが、左胸部に下げられた三つ目というその容姿は風に伝え聞いていた。
「第三眼‥‥‥」
「はい。覚妖怪が一、古明地のさとりと申します」
会釈はせず、しかし覚妖怪は丁寧に言葉を並べ、微笑と3つの瞳をこちらに向けてきた。見上げる胸部の目玉は確かに特徴的ではあるが、それ以上にふたつの透き通る紫水晶の瞳が、負けん気の強そうな眼光が印象に残る。
他者の心を読むという妖怪、覚。その前ではいかなる隠し事もできないという。その力故に、人間はおろか妖怪内からも不評を浴びせられている種族。私の知識はそこまでで、実物を見たことさえ今日が初めてだった。
彼女は嫌われの妖怪だ。そして覚が語る地下とやらは、追われた妖怪が集まる場所だという。この人もきっと、空を飛んでいった彼らと同じ場所に住んでいるのだろう。
聞きもしないのに自らを名乗るあたり、私に用事あってのこととは想像に難くなかったが。
この私を哂いにきたのか。自分より下の存在を眺めるのはさぞかし気分の良いことだろう。
帰って。そう告げる前に、覚妖怪が口を開いてきた。
「私が、最後の客ですか」
断定とも取れる問いに静かに首を横に振って答えると、さらに言葉を続けてくる。
「折れた橋を利用する者はいないでしょうに」
憐憫の気配もなく、まったくの正論を淡々と突きつけてくる。
雨風にさらされ虫に食われた橋。橋脚も崩れ、橋自体も中ほどで折れ、誰も渡せなくなった屍。
形を失い、役目を終えて腐敗を待つばかりのそれに客も何もない。橋に至る道すら草木に浸食されていて、まるで獣道のよう。彼女の言う最後の客とやらが渡ったのは、どれほどに前のことだったろうか。思い起こすのも億劫だ。
彼女は視線を外し、私の背にある対岸へと目を向けた。
そこには祠が、小さい小さい祠があった。
永く捨てられ崩れてしまい、僅かに面影を残すだけの。
それは、かつてこの橋の為に作られたものだった。人が願い、自ら作り、恐れ忌み、祀り崇め。
そして、捨てた。
誰も来ない。誰も必要としない。
そんなことは、理解できている。
「ならば。あなたも、私達と共に来ませんか?」
思考を読んだのだろう。祠から視線を戻し、彼女は言葉を紡ぐ。
覚妖怪の誘いは魅力的であった。少なくとも、そう感じるほどには、私は。
けれど、横に振って答える。
ここに留まる。橋姫として、ここに生まれ落ちた橋に。連れ添った橋と最期を共にする責務。それが唯一私に残されたもの。
私の答えを受けても、彼女は立ち去らろうとしない。どころか静かに歩を進め、さらに近づいてきた。人のよさそうな造り顔をそのままに。
とん、とん、とん
ゆっくりとした足音。
少しずつ、近づいてくる。
「妖怪は橋など使わず空を飛びます。人間も、里より離れたこのような場所まで来ることはないでしょう」
「その辺鄙な土地の橋を歩く妖怪が、稀にいたりするもの。待つのは慣れているわ」
「‥‥‥それは、いよいよ好都合」
とん
数歩の距離を置いて、覚は立ち止まる。その身長差から私が頭ひとつ分を見下ろす形で、しかしその立場はまったくの逆だった。
「新しく、橋を架けようと思うのです。ここではない別の場所にはなりますが。その場を、是非あなたに預けたいと考えています」
「橋の橋姫は一つに一人。私にはこの橋がある」
「私は橋の作り方ひとつわからない。それでも壊れてしまっては困るものだから、私はあなたを見込んで選びます。この橋を、ここまで守り抜いたあなたに」
それに意味はあったのか。守りきったと言えるのか。
いいや、この場は終わっていない。橋はここに残っている、壊れていてもまだ橋としてここにある。そのための橋姫として、私は今日まで生き長らえてきたのだ。
そうでなければ、今日までの私が否定されてしまう。
「橋と共に在る。それが橋姫」
「その先に未来がないと知りながら、なお留まりますか」
「あなたには関係ない。私のことは私が決める」
「‥‥‥強情なのは、嫌いではありませんよ。面倒ではありますがね」
微笑をそのままに、しかし笑っていない彼女の瞳が鋭く私を射抜く。3つの瞳が私を貫き、強く押してくる。それだけで私は揺るがされ怯んでしまう。
物を失い役目を失くした私と、何か強い意志を持つ彼女。
語ることもなく黙していると、覚妖怪は行動を示してきた。小さな身を屈め、橋板の空いた穴に指を滑り込ませてその一枚を掴み。そして。
剥がし始めたのだ。
容赦もなく、力任せに。
脆くなった木材は割れるでも外れるでもなく、たやすく砕けた。
そしてそれが、彼女の手の中に納まる。長さ20センチほどの破片が、目に飛び込む。
私は彼女の服を裂かんばかりの勢いで胸ぐらを掴んで引き寄せ、欄干に叩きつけた。欄干の軋む音と共に手から橋の欠片が零れ落ち、背中を打ちつけた彼女は苦悶に少しだけ顔を歪める。
大切にしていたものをいきなり壊されれば誰だって怒る。当然の理論だ。
もう壊れているのに?
価値はあったのか。
この砕けた廃材に。
ただのゴミに。
これが私が守ってきたもの。
そんなこと、受け入れたくはなかった。
「人の橋を、橋姫の前で破壊するか。何のつもり?」
「何とは、移転させるに決まっているではありませんか。すればあなたもついて来てくださるのでしょう?」
「誰がお前のような者の為に!」
さらに捻り上げて猛った。
それで精一杯。これ以上腕に力が入らない、これだけで息切れする。力の源を失った死にかけの体で、それでも歯を食いしばる。私を守るために、嘘の理由を振りかざす。
何の為に?
何が残る?
付きまとう自問に、後一歩が踏み出せない。
だから睨む。睨み続けて。
彼女の紫の瞳と私のそれが、交差した。
怯まず恐れず見返してくる、自信に満ちた瞳。
覚妖怪には私の心が分っている、薄っぺらい理由で抵抗していることを知っている。だから臆することをしないのだ。こいつは、私が逃げてきた現実を示してきただけ。
勝てない。
勝った所で、何も残りはしない。
どうしようもなく悔しくて、それでも事実は変えられない。
私は‥‥‥力なく手を離して、彼女を解放した。
「それほどに思い入れがあるのですか?」
乱暴をされたというのに怒っていないのだろうか。簡単に身だしなみを整えた彼女は、柔らかな声音で私の心に触れてくる。
この場を離れることに強い抵抗を感じていることは確かだった。橋姫だから執着しているのか、私が固執しているのかは、今の私にはわからないけれど。
だから、想いを口にする。せめて聞いてもらうために。
「‥‥‥この橋は、この道は、向こう里と隣町とを繋ぐ要衝だった。小さいけれど、相応の往来はあった。それだけの話」
たいした橋じゃない、華やかだった時代なんてない。人間が生活に最低限利便性を求めて作って、最低限使われただけ。
外の人間社会が妖怪を否定していったことで、辺境のここら一帯は妖怪の巣窟となり、外部の人間は近づかなくなった。自給自足くらいは出来ていた里も、隣町との連絡は重視せず。渡る人は減り、いなくなり、そうして時が過ぎ陸の孤島となった頃、妖怪の賢者によって土地は閉鎖され、封鎖空間内は幻想郷として新たに歴史を刻み始めた。この隔絶世界は人間と妖怪、二つの存在が形式として争いつつも共存する道を選び、新しい時代を迎えた。
里と隣町の間に線引きをして。
私に、断絶された交通と意義を失った建物をもたらして。
橋の価値などとうに失せていて手入れされることもなかったから、賢者の妖怪拡張計画はあくまでトドメにすぎない。だが、これによって私は居場所を完全に奪い取られ、明確に切り捨てられたのだ。
使う者は無くなり、時間が存在を忘れさせ、それでも壊れた橋は残った。
最低最悪の、地獄のような場所に。
何が妖怪の楽園だ。
「それでも留まり続けている。待っているのですね」
「何があるって言うの。命を終えてなおしがみ付いただけの亡霊よ」
「今日まで生き延びたではありませんか。その力を、貸してくださいませんか」
さとりが手を伸ばしてくる。
この人は機会を与えると言う。役を終え死に絶えた私に、橋と橋姫としての意義を。
この人は楽園を与えると言う。この地獄から救い出し、見返りに助力を求めて。
こんなところで、終わりたくない
片隅に残っていた欲求に火が灯る。
何も成せず誰からも捨てられ忘れ去られて、ただ消え行くなんて嫌だ。
彼女は橋を架けると言った。必要とされるのなら、そこには価値がある。彼女のために働けば得られる。私が、私として居ていい場所と理由を。
これが、私の最後の生。
礼儀に背筋を伸ばし、彼女と対面する。
「水橋、パルスィと言うわ」
名乗ってさとりの手を取り、そして強く握りしめる。彼女の手もまたこの寒さで冷えてはいたが、そこには確かなぬくもりがあった。
今は、それが世界のすべて。
「連れて行って頂戴」
「陽の届かぬ地の底だとしても?」
「あなたが求めるならば、どこへなりとも」
「‥‥‥では、行きましょうか」
こちらですと述べて、さとりは私の手をやさしく引いて歩み始めた。
彼女から一歩遅れて軋む橋を渡り、故郷に決別して土の大地を踏みしめる。急に野に放たれたような開放感と戸惑いが包むが、この手を握り引いてくれる人の体温は、私に安心感をもたらしてくれた。
さらに一歩を踏み出す。
背後で、終焉の音。
既に死んでいた橋は悲鳴を上げることもなく、木材の割れる音だけを響かせながら崩壊していった。
川底へ消えゆく古巣に一瞥だけくれて、僅かに残った未練を振り払い前へと向き直る。
もうここには何もない。
隣へと顔を向けると、先ほどよりさらに柔らかになった顔があった。
「最後の楽園、地底界へようこそ。あなたを歓迎します」
それが私の、新しい居場所。
1、
再開発もようやく終わり、旧都という呼称に釣り合う景観を手にした街を、私は颯爽と歩いていく。
京の都を模し碁盤の目状に整えられ、多くの妖怪が出歩く街は、去年来た時よりも活気付いている様に見える。食事処、書店、温泉、文具店、鍛冶屋と立ち並ぶ店たち。妖怪社会には無駄な物のオンパレードだが、無駄が溢れるというのは、無駄に興じれるくらい心身共にゆとりのある証拠でもある。無駄が無駄を呼び、暇人の力が娯楽へ注がれる。娯楽は我々を楽しませ活力を生み、そして地底は楽園となる。
外は夏真っ盛りであるが、外気の影響を強く受ける縦穴入り口と比べ、内部は比較的涼しく過ごしやすい。空間自体も広く、高さの低い所でも何百メートルとあるため圧迫感もない。それでいて、多くの火の灯りに照らされた壁面や街道は、きちんと遠くが見通せるほど明るく温かみがあるのである。空が常時真っ暗で月の光すら拝めないのは玉に瑕だが、いい加減に慣れた昨今では欠点にもならなかった。
街道では活きのいい声で行われる客引きが場を賑やかせていて、否応なしに気分を弾ませてくれる。気になるお店も散見したのでそれなりに見聞しつつとも思うのだが、まずはやるべきことをやってからであろう。
それなりに舗装された大通りを、小さな木箱片手にさらに進む。
道行く妖怪が時折こちらに視線と意識を向けてくる。
縦穴の見張りを始めてからというもの、地底にやってきた新参は必ず私と遭遇するので案外顔見知りも多い。また、旧都に私が来るということも珍しいのでそのあたりのこともあるのだろう。
理由はそれだけではない、というか、本当の理由はそれではない、ということはもちろん承知している。
誰にも聞かれぬよう、小さく嘆息をつく。
そろそろ出てくる頃ではなかろうかと、一刻ほど前からずっと周囲に気を配っているのだが、なかなかエンカウントしない。私が動いたことは、誰かしらを通して伝わっているはずなのだが。
と思っていたら。
「鬼女の人、ちょっとちょっと!」
まったく関係のない者に呼ばれた。手ぬぐいを頭に巻いた若い女性だ、見た目は。
街道の隅を占拠して、木箱の上に商品を並べているだけという簡易なお店。槌とか鉋とかを並べて工具屋さんごっこをしているように見える。
「ふぅん、金槌ね」
「丑の刻参りするのにどう、いっこ買って行ってよ」
「手に取っても良い?」
尋ねたら良いよとの返事を貰ったので、手短にあった先切り金鎚を掴んで二・三度振りバランスを確かめる。中々の質感で理想的な重量、そして握り心地だが、故に惜しい。
店主は営業スマイルを振りまいてくる。ひどく憎たらしい。
私は手にした獲物を振り上げ‥‥‥その店主の額に叩きつけた。
「ぎゃ!?」
驚きに悲鳴を上げる女だが、彼女は無傷である。金槌が、煙のように霧散してしまったからだ。
正体不明。こいつの特技によって作られたマヤカシ。いやぁ残念。
「こんな金槌じゃあ使えないわねぇ」
「だぁ~、またか! なんで水橋にはわかるのさ」
「何度も騙されたら誰でも対策講じるって」
「見破ってくるの水橋だけだよ!? 覚妖怪でもないくせに納得いかない」
正体不明を看破した結果、ご本人の姿になったガキんちょ封獣ぬえがふくれ面をする。
タネは簡単。一度ハメられた時に観察しておいた、ぬえの心にある緑眼の化物を覚えておく。あとは声を掛けてくる奴の心を観察すればすぐわかるので、不意を突かれなければなんとでもなる。そして、ドッキリをやりすぎて人様に迷惑をかけると、保護者役からもれなくアンカーとげんこつスマッシュが飛んでくるのであんまりしない。つまり私の圧勝というわけだ。
しかし手の内を見せてやる義理はない。得意げな嫌味たらしい顔をつくって見せびらかしてやる。
「精進が足りないわね」
「その顔ものすごく腹立つわ~‥‥‥でも、甘いねぇ水橋は」
「ん?」
「こうまでされて策を用意してないと思った?」
そしてぬえは、したり顔で指をパチンと鳴らす。
何を、と言おうとしたその瞬間。
ゴッ! という鈍い音と共に、頭に、頭頂部に衝撃が走り視界が揺れた。
数瞬遅れで痛覚が働く。すっごい痛みが走って、しかもその元凶は頭の上に居座り続けて凄く重い。
落ちてきた物体に手を伸ばせば、やはり木の感触。胸の前に持ってくるとそれは桶で、桶の中には案の定顔見知り。
「こんにちはパル」
「こんにちはじゃないわよ」
片手を上げて普通に挨拶してきやがるこの娘は、毎回毎回脳天への狙撃落下をしてくる釣瓶落とし、キスメである。いつもの相方は別にいるのだが、今日はぬえと悪巧みらしい。
そのぬえは腹を抱えて笑い転げている。こっちはもうちょっとで舌を噛む所だったんだけど、私、怒っていいわよねこれ?
ぬえへのお返しは何にしようか、などと考えていると、腕の中から非難めいた声が上がってきたので視線を落とす。
「あ、あの、パル。離してくれるとうれしいかなって」
「あら、どうしたの。もうちょっとこのままでいましょうよ」
「いやいやわかってるよね!? 桶、桶が軋んでるからっ!」
「愛しているわよキスメ、ふふふ」
にこにこギリギリミシミシ。ただの桶でしかないキスメの乗り物は妖怪の腕力に抗えるわけもなく、悲痛な声を吐き出している。
キスメの顔が青ざめてきたのを確認してお仕置きは切り上げてやった。
「ぬえへのお礼参りを手伝ってもらおうかしら」
「はい何なりとパル様‥‥‥もう逃げちゃってるけど」
「あ?」
顔を上げれば、にっくきあん畜生の姿がどこにもない。見事な逃げ足の速さだと賞賛は送ろう、後で一輪に告げ口してやるから覚えておけ。
その代わりと言わんばかりに、背後から別の女の声がやってくる。
「ありゃあ、鵺っち行っちゃったか。レアなんだけどなぁ」
そう言って後ろ頭をかく金髪の小娘。キスメの悪友、土蜘蛛の黒谷ヤマメがそれはもう残念そうな顔でやってきた。
そんな彼女はもう一人女性を引き連れている。ご立派な一本角をもった長躯の鬼、名は星熊勇儀。
やっとお出ましか。
「レアとか言うな」
「と、同じくレアな鬼女が申しております」
「よっ、レアパルスィ」
「あんたらねぇ‥‥‥」
ぬえが街で姿を晒していたり、私が持ち場を離れて旧都にいるのは珍しいと言わせしめるに十分だけれど、地底に降りて百年はなろうかという今日に至っても珍品扱いされるのはいただけない。
「さっきそこで姐さんも捕まえた所なんだけど、今日は大漁だ。もう捕獲するしかないね」
「土蜘蛛に食われるのは勘弁だわー」
「食べに行くのはおっけー?」
「ん。でも先に、古明地への報告上げがあるから」
「そっかぁ」
手にしていた書簡入りの木箱を掲げて軽く振って見せると、ヤマメが納得しつつ彼女らしく陽気に応対してくる。
だが、一瞬だけヤマメが不服そうなひどい顔になったことは見逃さない。その奥では勇儀が、ヤマメの100倍わかりやすい顔で答えてくれたことも。
旧都連中の視線やこいつらの反応の原因は、これから会いに行く彼女にある。
古明地さとり。
それは地霊殿の主であり、灼熱地獄と怨霊管理者の名。
それだけではなく、地底における地位は天狗すら恐れる鬼の元四天王、力の勇儀よりもさらに偉い。事実上の地底のトップでありながら、地底妖怪の畏怖の対象として目の敵にされている嫌われの種族、覚妖怪であった。
そんな奴との用事が優先だと告げられては良い顔をするわけがなかったが、それでも気を使ってくる彼女は会話を続行する。
「後でよければご一緒したいわね」
「何遠慮してんのさ。いくらでも予定合わせるよ、うん。勇儀はいつでも大丈夫?」
「おう、私はいつでもどんとこいだ」
「よし、時間はどうしようかな。余裕持って暮六つでいいや。場所は雲親父がやってるトコ」
「一輪さんと雲山ね、ヤマメ」
「そうそう。そこなら鵺っちもいるかもしれないし」
「暮六つね、わかった」
やや暗くなった空気も持ち直し、予定も決まる。ヤマメがいると音頭を取ってくれるので大変ありがたい。
「ところで。それ、菓子折りってわけでもなさそうだが」
「ん? 彼岸からのだけど」
先日、縦穴を通ろうとした死神から預かった品に勇儀が食いついてきた。彼岸が好きだなんて答える奴はまずいないだろうが、彼女は眉をひそめてあからさまに嫌そうな顔をした。
この地底は、元は地獄だ。捨てられた地獄に、鬼などの妖怪が(勝手に)流入してきて今に至るわけである。彼岸からの書簡を預かるという経験は私も初めてだが、昔の管理者と何かしらやり取りがあっても不思議なことではないと思うが。
「もしや誓約の関係で、物品のやり取りもまずかったり?」
「あぁいや、普段荷物なんて持ってないから気になっただけだよ。誓約なんて厳しいもんじゃないし。仕事、頑張ってくれ」
「大したことじゃないわよ。じゃあまた後でね」
「おう」
交わして、そこで一行と別れた私はルートに戻った。
キスメ、黒谷ヤマメ、星熊勇儀。ここにぬえその他が挿入されるが、このあたりが私がよく絡む連中になる。年がら年中縦穴に張り付いているだけの私にすら、声を掛けてくれるいい奴らだ。いい奴らなのだが。
ある人物を挟むと、途端に相容れなくなってしまうのが頭を悩ませてくれる。
それは言わずもがな古明地さとりであり、こいつは旧都すべてと仲が悪く、そして私は、どちらかというとさとり側の立場だからだ。あいつらは、そのあたりも了承の上で付き合ってくれているのでありがたいことこの上ないのだが、私にとって旧都は、さほど居心地の良い場所でもない。
さとりの嫌われっぷりを示す一例として、彼女に纏わる噂話の一部を上げておこう。
身の丈二メートル余で、鬼に並ぶ豪腕を持つ。
その力で数多の動物妖怪を使役し、館で働かせている。
覚の機嫌を損ねたら最後、生きながらに灼熱地獄へ落とされる。
歯向かえば精神を壊され八つ裂きにされ、街灯上に吊るし上げられる。
他にも、鬼数人を同時に血祭りに上げたとか、地霊殿の怨霊を手篭めにして悪事を企てているとか、あのサードアイに睨まれただけで呪われるとか。事実と虚実と推測がごった煮となった話をこれまでに聞き及んでいるが、私が事実かどうか知っているのはわずか。全部の回答は当事者にしかできないし、さほど重要でもない。大切なのは、これが彼らの見解であり総意である、ということだ。
畏怖を具現したかのように、他の誰も差し置いて地底一嫌われ畏れられている彼女は、地底一の地位にある。実質鬼よりも偉いという、最高権力者だ。
それはなぜか。
‥‥‥不思議なことに、この問いに答えられる者はいない。
いや、答えはするが、結局推測の域を出ない不確かな情報でしかないのである。鬼の四天王が一騎打ちで負けただの、鬼の弱みを握って牛耳るようになっただの、覚妖怪は山神が零落した姿だから鬼も平伏しただの、実は覚妖怪の皮をかぶった魔眼イービルアイだからだの、ソロモンの指輪を持っていて逆らえないだの。そんなものばかりだ。
覚妖怪がやんごとない身分の妖怪だから、というのもまた違う。神ならともかく、妖怪の格付けは鬼や竜神・天狗などが上位を占めている。そしてそこに覚妖怪の名はない。むしろ、下から数えた方がはるかに早いだろう。
では権力の後ろ盾があるのか。ないことを私は知っている。
ならば、鬼を凌駕するほど強いのか。
地上時代に武勇勇名を馳せていたなら当時から頭角を現していたはずであるが、もちろんそれもない。鬼を倒せば後世にも語られるが、覚妖怪をやっつけて英雄扱いされる話がどこにあるだろうか。
鬼は絶対なのだ。だがその天下の鬼が、自尊心の塊みたいな鬼が、偉くもない権力もない強くもない上に大嫌いな覚妖怪に、地位を譲って黙って担いでる。山で天下を取ったボスの鬼を、弱小妖怪が従えている構図。赤子でも理解できようなこの異常さに、旧都民はどいつもこいつも「さとりはやばいから」という理論で納得している有様であった。
勇儀であればあるいは不可解な状況の真実も知っているだろうが、尋ねても彼女も当事者のさとりもしゃべりたがらない。私もそれ以上薮蛇を突く気分になれず、真実は闇ののまま、今日も変わらぬ毎日がやってくる。
私は逃げるように歩を早める。考えていたら旧都に長居したくなくなってきたのだ。
□
彼女の家の場所は至極単純で、旧都の中心部へ向けてまっすぐ突き進むだけで辿り着ける。
地底界の大地はほぼ正円をしており、その全体に広がる都市を指して旧都と呼んでいる。そして視線の先にある町の中心部へと目を向けると、正円の中点となる位置は緩やかな丘でやや盛り上がった大地となっている。
町全体を見下ろすことができるなかなかにリッチなその場所はしかし、そこは旧都ではないといわんばかりに一切インフラ整備が行われていない。岩石が無造作に転がる荒れた丘が周囲数百メートルにわたって横たわり、地獄時代に捨てられた廃屋がそのままの姿で点在している。その真ん中にひとつ、旧都のどの建物とも一線を画す、和の旧都風景に似合わぬ立派な洋館が建っていた。
それが地霊殿と呼ばれる、彼女の居城。
だたひとつ孤立して存在するその建造物。両者の間に広がる無の空間。それがさとりと、旧都の妖怪達との距離であった。
心読まれることを嫌って、あのあたり一帯には誰も住んでいないのだろう。私とてプライバシー筒抜けはさすがに勘弁である。覚妖怪が住んでいるすぐ横に入居したいなどとは思わないから、その点では旧都の者を責めることなどできない。
当然の反応で、当たり前のようにのけ者にしている。仕方ないの一言で済ませてしまえばそれまでの話。
「仕方ないものね」
丘を登りながら口にする。
それは甘美な魔法の言葉。どんな事象もどんな不服も、その一言が丸め込んでくれる。
覚だから仕方ない。地底の主だから仕方ない。
仕方ないから諦めろ。
「仕方ない、ね」
もう一度単語を呟いて、頭を横に振る。今から会うさとりには心を読まれてしまうのだ。楽しくもないネタは思考の外に追いやっておかねばならない。一応、こうしておけばすぐには読まれないみたいだし。
気を取り直して丘を登り、四面楚歌の城へやってきた。四面を数メートルの高さの塀がぐるりと囲んでいる。
大げさな門をくぐって城壁のように囲った敷居の中へ入り、無意味なまでに広い庭を突っ切り、そうしてやっと4・5階建ての、お洒落なバルコニーつきの本館にたどり着く。
地底で唯一の洋風建築であるこれは、是非曲直庁が土地を放棄する際、置き土産に建てていった代物であるという。破棄したとはえ焦熱地獄の機能とそこに怨霊が生きていた為の措置だそうで、お洒落に飾ってはいるが、建物自体が灼熱の管理機能となっている。あるいは建物の名前から察するに、怨霊を閉じ込めるのが主目的なのかもしれない。件の灼熱は、普段は裏庭で蓋をしている天窓の開閉で調節されているそうだ。
万一何らかの形で灼熱地獄が暴走しても、地霊殿と城壁が炎やらを遮断して、旧都の者が避難する程度の時間を稼ぐ仕組みとなっているという。住むことを前提とした物件ではないのだから、その際の館住人の命は保障されていない楽しい仕様だ。実際は、そこまでの大暴走はよほどがあってもそうそう起こらないらしいが、建てた彼岸も住まわせた鬼もひどい奴らだよと、彼女の黒猫が嘆いていた。
是非曲直庁としては悪用を恐れたための措置であり、もしもの際の保険のつもりだったのかもしれない。鬼も、旧都にさとりを置くよりはよいと考え追いやったのだろう。過去の経緯など知らないが、「さとりの機嫌を損ねたら、灼熱で旧都を焼かれる」と、新たな尾ひれがついたことはここで追記しておく。
そんな館のご立派な扉。金獅子のドアノックで小気味よい音を鳴らして中の人を呼ぶ。
カチャリ
しばらく待つと、扉の大仰さにしては軽い音を立てて入り口が開かれる。その際に開錠の音はない。いつものことだ。
そして開いた隙間から、黒くて小さい、小動物的な大きさの何かが。
文字通り、飛び掛ってきた。
「クアァッ!」
「あ痛、痛っ!? 今日はお前か!」
飛び掛ってきた鴉がその鋭い嘴であちこちを突いてくる。一発懲らしめようと腕を振るうが、舞う鳥を捕らえるのは難しく軽やかに避けられてしまった。
屋敷の者から「空(うつほ)」あるいは「お空(おくう)」と呼ばれている、名前どおり頭がすっからかんな黒い塊、霊烏路空はなおも私の周りをバサバサと飛び回る。毎度毎度攻撃してきやがって、コイツは私に恨みでもあるのか。とんでもない鴉だ。
「この!」
「カァ」
拳をひらりとかわしたバ鴉は私の背後に回ると、今度は攻撃ではなく体を押し付け、羽をばたつかせながら館内部へと押し込もうとする。突いてきたかと思ったらこれなので、怒るに怒れず困っているのだ。
私を中に入れると鴉は妖力で扉を閉めて、そのまま廊下を泳いで行ってしまった。やっぱり施錠はしていかない。過去には、ノックすべき扉がフルオープンされている時もあった。外周門など常に開いている。これは、来る者拒まず去る者追わずの精神による地霊殿マナーであるというのが理由の0.5割、小動物では開錠がができないからわざとそうしているというのが0.5割。来る奴なんてどうせ家族しかいないので、するだけ無駄だからというのが9割だ。ソースはここに住む火車の黒猫。
やれやれと溜息して、私は鴉とは逆に左折して通路を歩んでいく。こっちがさとりの執務室へのルートとなる。私が訪問してくる理由なんてひとつしかないから、きっとお空もさとりを呼びに行ったのだろうし任せておこう。馬鹿鴉だが、そのあたりの仕事はできる。はず。あくまで推測。
で、ひとつの階段を上がろうかとした所で、今度は正面から一人の女の子の声がやってきた。
「いらっしゃい!」
炎のように紅く燃える髪と、それには不釣合いな濃緑と黒を基調とした洋服の少女が元気な声を上げる。館のペットの一人、お燐こと火焔猫燐という火車である。
若輩ではあるが実質的にさとりの懐刀であり、快活気さくな性格も合わさって、万年引き篭もりなご主人にかなり頼りにされているようだった。誓約で鬼がやるはずの怨霊管理、それを引き受けたさとりがすべてお燐に任せているあたり、信頼の厚さが伺える。
「こんにちは、お邪魔してるわ」
「今日はどうしたんだい、って、あ~、もうそんな時期かぁ。地底は季節感覚狂うねぇ」
「えぇ、お仕事でさとりにね」
「さとり様は今、仕事部屋には居ないよ。ほらほらこっち」
お燐はニコニコ笑顔で私の腕を掴んで引っ張る。
当然というかなんというか、お空の向かっていった方向へと。
「お空が呼びに行ったみたいだし、部屋で待ってるわよ」
「遠慮しなくていいから、さぁさぁ」
にこやかに強く引く手を無下に振りほどくわけにも行かず、されるがままに私は逆走を始めていく。
今向かってる方向には炊事場と食堂がある。何で知ってるのかって、それは何度か行ったことがあって成り行きでご馳走になったこともあるからだけど、昼を回ったくらいのこの時間なら丁度片づけをしているに違いなかった。そこにお邪魔するのは気が引けるし、今日の話は炊事場で話すようなことでもないのだが。関係ないが、お味はなかなかの物である。
「洗い物でもしてるんでしょ。お邪魔になるし、私は」
「何言ってるのさ。お姉さんが来るとさとり様もすっごく喜ぶんだよ」
「それはいいけど、私は仕事に来たんであって」
「うんうん。お茶ならすぐに用意するからね」
「そうじゃなくてさ」
などと戯れていたら。
ガシャーン!
陶器の割れる音に驚いて、私は口を噤んだ。複数個が割れたような、連続した大きい音だ。
発信源は丁度、お空が飛んでいった方向である。炊事場から破砕音とは、それもあの鴉が行った後となると、大方予想はつくというもの。黒猫からも嘆息の声が聞こえた。
「お空ったらまたやったね、これは」
「『また』なんだ」
「うんにゃ、『今日も』だね」
表現的に、まぁ、そういうことだ。
「お姉さんは先に行ってておくれ、あたいは箒取ってくるからさ」
「先にって。あ、ちょっと!」
呼び止める声を振り切って、鴉の親友は軽い身のこなしで踵を返して行ってしまった。私が本来向かうべき執務室の方角へ、通せんぼするように。
だから私は報告に来ただけであって行きたいのは炊事場じゃないんだけどそもそも私客人扱いされてないわよねどういうことなの。などと胸中で喚いておいて、結局炊事場に足を向ける意志の弱い妖怪がここに一人。だって仕方ないじゃないか、これは川の流れと同じだ、逆らい難い。
一度通った玄関を過ぎ、いくつかの部屋の扉と食堂を横目に進むと、炊事場であろう入り口から声がしたので様子をちらりと覗き込んでみた。
案の定、床には食器のかけらが散らばっている。傍では惨事を起こした黒い犯人が頭を垂れていて、私の目から見てもわかるほどにしょぼくれていた。
そんなお空の前に、一人の影。
「お空。これは何?」
「‥‥‥カァ」
「食器、はい正解。さて、どうして食器が砕けて床に散らばっているのかしら」
「クァ」
「えぇそうね‥‥‥何か言いたいことは?」
女性。いや、少女といっていい。
私より頭ひとつ分低い背丈。桜色の髪、アメシストの瞳。
華奢な体をいつもの水色とピンクのひらひらした衣装で包み、左胸部に忌まれたサードアイをさげたその人が、ふたつとひとつの瞳で厳しく鴉を見下ろしている。
彼女こそがこの地霊殿の主にして地底の顔役。
その名に種族のすべてを冠した、心を読む覚妖怪。
恐怖で旧都妖怪を圧倒し、地底を震撼させている人物。
古明地さとり。
その彼女が片手を腰にやり、ペットを叱りつけていた。
‥‥‥ひよこマーク入りのピンクのエプロンに、愛らしい猫顔をつけたアニマルスリッパを履いた姿で。
「そう、言い訳はないのね。あなたはこの前も暴れて花瓶を割ったわね、お灸が必要かしら」
声のトーンをひとつ落とし、眉間にしわを寄せてジト目に睨み。背格好に不釣合いな威圧感を纏っていたがしかし、そのファンシーな服装がすべてを跡形なく粉砕して別の何かを形成している。
まぁ怒られている側はそんな事など関係ない。必死なのか、鴉がぶんぶんと首を横に激しく振って答えている。
「反省した?」
「クァッ! クァッ!」
今度は縦に、何度も頷き羽を広げて見せた。ほぼノータイムで、元気よく。
私から見ても反省しているかどうか怪しいのだが、地霊殿の主は満足したらしい。険しい顔をやめた彼女は身を屈めて、鴉の頭を撫で始めた。
やさしく柔らかな表情。たったこれだけのお叱りとは甘やかしすぎとも言えるが、本当に大切に思っているのだろう。
「はしゃぐのもほどほどにね。それでは、箒と塵取りを持ってきて。あぁお空、痛い所はない? そう、大丈夫なのね、よかった」
「クァ」
「えぇ、いってらっしゃい‥‥‥えっ、パルスィが? あぁわかったわ。それを先に言いなさい、お空」
「クァッ」
おいまだ言ってなかったのかこのバ鴉。
今更過ぎる情報を主人に渡したお空は羽ばたき、滑空して炊事場を出て行く。
その姿を追った彼女の顔がこちらに向いてきて、綺麗なアメシストの瞳と目が合った。
何はなくとも、まずはあいさつだ。
「やっ」
「ひぁい!?」
片手を上げて声を投げただけなのに、さとりは素っ頓狂な悲鳴を上げて飛び上がり、一歩後ずさった。顔に付いた瞳も驚きに見開かれているのだが、サードアイは特に表情を変えないのがまたシュールである。
探知機のように周囲の心を探れる覚妖怪の世界に不意打ちは存在しない、はずだが、多分お空に意識が向いていて私に気づかなかったんだろう。
「そうですけど、お、脅かさないでください! いつも部屋で待っているのに何でここにいるんですか」
「何でって、まぁ」
「あぁお燐がですか‥‥‥いえ、聞き覚えのある声がするなとは思っていたんですが、つい意識の外に。いえ、こちらこそ見苦しいものを見せてしまいまして」
さとりが勝手に答えていくので変なやり取りに聞こえるが、当事者間では成り立っています。一応。
ぺこりと頭を下げる地霊殿の主。恐縮そうにする態度や言葉使いは身分不相応で、そのくせ当然のように心に踏み入ってくる。始めは不快に思わないでもなかったが、少し覚悟してから向かい合うとこれも案外慣れるもの。もはや恒例行事となったそれに新鮮味などない。
しかし、これは。
改めて彼女の姿を眺める。
この低身長とハートをちりばめた普段着に、オプションとして前述の二点セットが追加装備。旧都でこんな恥ずかしいのを売っているとは考えにくく、お手製の品と思われる。さらに頬の紅潮、焦り慌てたその姿。ここから導かれる答えは、そう。
私の意識がその服装に行っていることを覚ったらしいさとりはすばやく両腕を前に組んで、ない胸を覆い隠した。エプロン中央に描かれていたひよこマークが見えなくなる代わりに、可愛さがさらに1割ほど増す結果となる。こうなると、サードアイすら愛くるしいアクセントに見えてくるから恐ろしい。
「エプロンの事はいいですから、部屋で待っていてください。すぐに行きますので!」
「わかったわかった、向こうで待ってるわ」
地霊殿の主様をからかうのも程ほどに、手をひらひらと振りさっさとその場を退散する。なんで炊事場に行かなきゃいけないのかとぶーたれたけど、これはいいものが見れたわ。
旧都に蔓延した噂話との落差を楽しむのは、私のささやかな楽しみなのである。
□
ほんのりと甘い花の香りのする広い執務室。
デスクの背後にある大きなステンドグラス。その鳥の模様を眺めつつ、私は席に座って待っていた。
その昔、私はさとりに拾われた。
クソみたいな地上から連れ出してもらって、この地底へと招かれ。あまつさえ新居、つまり現在縦穴にある橋までさとりに作ってもらった。
橋といっても、別に川があるわけではない。縦穴を降り切った後にある旧都へ続く横穴は、歩いて通るには窪地があったりしていて不便であり、その一つを跨ぐ形で架けられたのだ。
見返りにといっては何だけれど、さとりの命令と言う形で、彼女の要望どおり縦穴の番をすることとなった。彼女は雇い主として給金を払い、私は雇われとして受け取ると言う一連の流れが出来上がり、その関係が百年ほど続いている。今日は、年一回と取り決めている定期報告も兼ねてここにやってきたのだ。
地霊殿の主、つまり実質的に地底の顔役である人物に、住処として立派な橋を作ってもらえたことは僥倖以外の何物でも。
‥‥‥訂正。料理はともかく橋の出来栄えについてはまぁ、その、うん。
「すみませんね、子供が作ったみたいなガタガタのボロボロで」
扉が開くと同時、声とともに不機嫌顔でさとりが入ってきた。
エプロンを脱いでいつもの私服姿となった彼女は、それでも水色の上着にはハート型のボタンと袖にフリル。ヘアバンドにもハートをあしらい、履き替えたスリッパと同じ色の薄ピンクのスカートは薔薇の刺繍入りという出で立ちである。伏し目がちのサードアイさえなければだいたい完璧だ。ただし威厳とは程遠い。
「アレを褒めろとは無理難題を」
声を殺して笑いながら冗談で返す。全長2メートル弱、幅1メートル、橋脚も欄干もない上にあちこちグラグラ揺れるどっきりびっくり木の板では、さすがの私もフォローしようがない。
デスクまで歩いていったさとりは引き出しから小袋を取り出し、それを持って私の元にやってくる。何とも情けない顔をしながら。
「本当に申し訳なく思っているんです」
「責めちゃいないってわかってるでしょう?」
「故に、です。あぁそのまま座っていてください」
立ち上がろうとした私を笑顔で制し、彼女は対面に腰を下ろす。
「それで報告ですが、いつも通り何もなし、というわけではなさそうですね。珍しい」
「死神の小野塚小町って奴に、閻魔からの書類を渡してくれって頼まれてね」
「小野塚ですか。もしかして、力づくで追い返そうとしましたか? あぁ、争いにはなっていないのですね」
「信用ないわね」
「逆です、あなたはどうにも職務に忠実すぎますから。怒ったら結構怖いですし」
そういえば最初の頃に頑張って見張り業務をしていたら、四六時中縦穴に張り付くなんて何考えてるんですか、もっと旧都で遊んでくださいとなぜか怒られた。橋にくっついてねちねちやって、いざのときは鬼になって襲い掛かる。橋姫ってそういう妖怪なので、怒られた理由がいまだにわからない。考えの違いは種族の壁なのだろうと思うことにしている。
しかし当人を前に怖いと吐露するとは。私はもう慣れたけど、そうやって読心以外でもずかずかものを言うから嫌われるんじゃないのだろうか。少しでも控えればいいのに。
「そうでしょうねぇ」
「わかってるんなら改めなさいよ」
「その気はさらさらないので何とも。覚妖怪に覚ることをやめろだなんて、和食で御飯と味噌汁を出すなと言っているようなものですよ」
「うん、今のは全面的に私が悪かった」
白旗を振る。そこでご飯を出すのをやめた彼女の妹がいたりもするが、『覚妖怪』という自分の存在を捨てる判断でもあるから強くは言えない。我々妖怪が、種族としてのシンボルや心の拠り所を失うというのはすなわち存在の否定であり、下手をすれば死に直結する。
「しかし妙ですね、なぜ小野塚は縦穴に回ったんでしょうか」
「なぜって、普段は違うところ通ってるみたいな物言いね」
「みたいではなく、実際にあるんですよ。あの縦穴ほど目立つものではありませんが。あら、初耳でしたか」
さとりは少し驚いてきたが、そういえば伝えていませんでしたねと続ける。
外と繋がる道がほかにあるとは旧都連中からも聞いたことはないのだが。なんだ、唯一の入り口ってわけじゃあないのね。
「幻想郷への道という点では実質的にそれで合っていますが、外界への道もあります。使われていないですし、細いので換気口と化してますがね。それと、元地獄なので是非曲直庁とを最短で結ぶ連絡線もありまして。裏口というか抜け道というか、そういうものです」
「なるほど、それは妙だわ」
「えぇ‥‥‥後で見に行く必要がありますね」
今まで使っていた連絡線を使わなかったということは、そういうことなのだろう。さとりは数瞬表情を曇らせたが、すぐにかき消すと箱を受け取り、紐を解いていく。
中から取り出した書類を慣れた動作で一枚ずつ捲って確認していくさとり。その様子は存外様になっていたが、手つきはやがてぱらぱらと適当感溢れるものになって、後半の書類には目も通さずに閉じてしまった。
怒気の混じった溜息。
彼女は私が怒ったら怖いと言ったが、普段タメ口を使うこともしない奴が静かに怒りを燃やしている今の姿のほうがよっぽどだ。
さとりが怖い、と感じたのはそれだけではない。
その感情を食らった彼女の緑眼の怪物が、薄く眼を開けたのが視えたからだ。
心の病みを体現した、宿主を食らう化物。緑目の怪物とか呼ばれるそれは嫉妬を体現したものである。
この嫉妬というものは、最初は羨望とか劣等感という形でしか発現せず、ぽっと出る感情ではない。喜怒哀楽と呼ばれる基本的な感情のうちの怒と哀、世間一般の判定では負の感情と言われているものを、奴らが食らって嫉妬というものに変質させるのだ。
この化け物は誰の心にもいるというものでもないが、それを彼女は飼っている。しかも、そこらの奴らの魔物をネズミとするなら、さとりのそれは虎であった。完全に規格外のそれは常人が持つような代物ではなく、それを持ちながら魔物に食われていない彼女の心の強さを示しているとも言えるが、ひどい危険性を内包している。
この書類が弦線に触れたようだが、幸い今回は再び眠りについてくれた。旧都とさとりの関係について深く踏み入らなかったのも、その話題を出しただけで獣が目覚めたからでもあった。
さとりと会うたびにこの化物も見ることになるのだが。この化物の正体を、いい加減に知りたいものだ。とは思うが、ぶしつけに触れるのもなと二の足を踏みつつ。
「よろしい内容ではなさそうね」
「はい、まったく」
心なしか声のトーンも低い。
が、しかしどうしたのだろう。
悪戯を思いついた子供のような顔で席を立った彼女は、書類を木箱ごと執務デスクまで持っていくと筆を手にし、書簡の一枚に筆を走らせ始めた。
こなれた動作で作業を終えると、さとりは満足げに筆を置く。手団扇で軽く乾かして箱の中へ。
そして、残りの書簡掴んで両手の指で端をつまむと。
ビリビリビリビリッ!
「え、ちょ!?」
古明地さとりさん。ただいま閻魔よりの書簡を、手で引き裂いております。
一破り、二破り、三破り。手のひらに収まる程度に小さくなったそれらをなんら迷いなく木箱の中へ捨てていき、蓋をして手早く紐で括る。
そして戻ってきて、その箱を私に突き出してきた。
それはもう、一風呂頂いた後のような清清しい笑顔で。
「では受け渡しをお願いします」
「やめて、わたし死神にころされちゃう」
「私のサインも入れておきましたからその心配は無用です」
「その言葉をどう真に受けろっていうのよ、閻魔からのでしょ、まずいでしょう!?」
「四季閻魔も承知で渡しているのでお気になさらず。ずっと同じやり取りの繰り返しですからね」
なんだかスカッとしますねといわんばかりに笑顔で箱を押し出してくるので、心底手にしたくないが受け取る。仕方ない、これも仕事だ。
しかし、さとりがここまでするような書類とは一体。
「中身は聞いていいのかな、ですか。構いませんよ」
「大したことじゃないの?」
「そうですね。簡潔に言いますと、お前を是非曲直庁付の役人に仕立てるから今後も地獄管理をよろしく、というものです。えぇはい、右に左に針のむしろなんです」
さとりは肩をすくめる。
元地獄管轄の施設ですけど、地底って自治認められちゃっててこれ以上干渉できないし。後釜はちゃんと任命しましたよ、もし暴走しちゃったら悪いのはあの管理者です。というわけか。責任の所在をさとり一人に押し付けたいらしい。
「将来の再開を見越して火種を残していたら、鬼の流入でできなくなった上に暖房代わりに使うことになって、消すに消せず慌てているようですよ。堅苦しい庁とお気楽な鬼なので、その管理責任とかで揉めていたようで、解決しないうちに私が着任したのですが」
「フラグね」
「ばっちり回収させられました。あげく私と鬼が不仲なのを知って、だったら正式に庁の役人になれ、待遇は約束すると言われてしまいましてね。スリム化とはいえ、管理者がいれば使える地獄の窯が一つ増えるわけですから、どうせ動かすのなら庁管理下の施設として欲しいのでしょう」
だがそれは受けられない。
仮にも一国の王になっているさとりが庁の役人となったら、形式的には旧都は庁の保護領とか管轄領になってしまう。地上の賢者とのやり取りで地底の自治が認められたのに、灼熱や怨霊周りについてだけとはいえ彼岸に首根っこを押さえられる。しかも相手は閻魔王である。それ以上の要求が来たとしても、さとりは拒否できない立場になるのだ。
「鬼の意向でもありますし、四季閻魔と組んで突っぱねてますが。交渉失敗とあれば、裏取引とはいえあちらの面目丸潰れですから、なかなかしつこいです。しかしお役所は大変ですよねぇ。爆弾を持って勝手に自爆して、非常に滑稽です」
「案外黒いわね、あんた」
「その意見は心外です。私は花火を四季閻魔と一緒に楽しんでいるだけですよ。破片が飛んでくるのは困りものですが」
「閻魔、ね。そのシキとやらだって結局庁の奴でしょう。信用していいの?」
「お会いして心を見させてもらったことがありますが、こちらに理解のある方ですよ。四季閻魔と、直属の部下に当たる小野塚だけですが」
困った笑いを浮かべてくる。館に立て篭もり、四方を包囲する鬼から矛を向けられ、彼岸からも矢が飛んでくるのでは笑うしかなかろう。
改めて述べるまでもなく、さとりは嫌われている。尋常じゃなく嫌われていて、彼女の味方と言えば本当にこの館の住人だけで、その動物妖怪達だってさとりが守る立場。負担はかなりのものなのだ。
そんな考えで、考えなしについ私は彼女に提言していた。
「なら、閻魔側に逃げても良かったんじゃない? どうせ鬼とは仲悪いんだし、保護くらいは期待できるんじゃあ」
「その閻魔たちに見捨てられた、お燐達の心情を無視してですか」
「うぅん、それは確かにそうなんだけどさ。それ以上に、その、ねぇ?」
読心してるんだから言い淀んでも伝わっているのだけど。顔は笑ったままだが、また少し不機嫌声になったさとりには同意せざるを得ない。
火焔猫燐。霊烏路空。
今現在さとりのペットとなっている彼女らは元からそうだったのではなく、その出身は地獄。この地底が焦熱地獄として機能していた頃から住んでおり、しかし規模縮小に伴い地獄もろともこの地に捨てられた動物たちであった。
引越しの為に、そこらへんにいる野良妖怪たちまで連れて行けるわけもない。これも仕方ないの一言であるが、親となる老練な火車などは役人として取り立てていったという。お燐のような若者が地霊殿で右腕扱いなのも、より上の年齢層の者がいないため。そんな子供達ばかり残されたのだ、あんまりな仕打ちであろう。
かくして地底先住民となった彼女たちは、やがて鬼の入植で旧地獄街すら追い出され、庁が建て逃げした屋敷で何とか灼熱を燃やして暖を取り、飢餓と寒さに耐え。身を寄せ合っていた所にさとりが、動物とさえ言葉を交わせる覚妖怪がやってきて、彼女たちを拾った。一つの館で共に住むことになった。
お燐たちがこうして働いているのは、暖かい寝床と食事をくださった飼い主への恩返しであるのだ。もちろん親としてのさとりにも相応以上に敬愛しているし、さとりとしてもペットの存在は心の支えになったんじゃないかと思う。
「可能性として保護はいただけるかもしれません。けど、私を管理官に任命するにあたり焦熱地獄としての再開もありうるなんて言われては。含ませていますが、再開する気満々」
「館に罪人が溢れるわね」
「ついでに焼かれる罪人の悲鳴とかも。仮定として彼岸の影響範囲が地霊殿だけで、鬼が納得したとしても、それはとても嫌です。住む身として」
「そんな苦痛の心を読まされるおまけ付きか、たまったものじゃないわ」
「まったく、私は静かに暮らしたいだけなのに、どうしてこう」
そこまで口走ったさとりは、急に表情を硬くして「すみません」と謝ってきた。愚痴なら聞いてやるのに何で謝るんだか、と考えたら、これまた「ごめんなさい」と謝罪を繰り返す。だから謝るなって‥‥‥もういいや。
こんなへなちょこもやしチビが何で地霊殿の主なんだろうか。何でああも皆に嫌われているのだろうか。疑問は付きまとうが、楽しくない話題なので黙っておく。
「私のことは良いのです。パルスィこそ、困り事などはありませんか?」
「ん、こっちは特にはないかな」
「そうですか。ではどうぞ、今年もよろしくお願いします」
「うん、こちらこそ」
言って手渡された賃金入りの小袋を両手で受け取る。これで契約更新完了だ。
これはあくまで形式。月ごとに彼女のペットが給金を持ってきてくれる。なので大した金額の入っていない袋を懐に収めて。
「‥‥‥」
「‥‥‥」
そして、会話が切れた。
報告といっても、さとりに影響するような出来事はいつも何もない。移住希望者はさっさと地底に下りてしまって今はいないし、誓約で地上妖怪の出入りが禁じられているため侵入者もゼロである。本当に、形だけの報告会だ。
契約の印として賃金を貰ってはいるけど、街に遊びに行ったりとかはしないのでほとんど使わない。目当てでもないものを貰ってさっさと帰るというのもおかしな話だ。一方のさとりも特別話題はないけど、追い出すみたいに帰ってどうぞとは口に出来ないと、以前本人が言っていた。
普通、このようにぎこちなくなるのは初対面の時だと思うのだが、最近になってこういう形になることが多い気がする。昔は「帰る」「ではまた」であっさりしていたと思うのだが。
「‥‥‥えっと」
「そ、そうですね」
「うん。また」
さとりも頷いてくれた。ギクシャクしてるけど、とりあえずさとりが覚ってくれたので決まりだ。
私は席を立って、さとりも追いかけるように腰を上げて。
コンコン
「開けるよ~」
「あっ、こいし。えぇいいわよ」
ノックする音とその声に、さとりは弾んだ声で返し、表情もぱっと明るくなる。
扉が開かれる。盆を片手にやってきたのは、古明地こいしというさとりの妹。まるで鏡合わせの向こう側にいるように、背格好以外に姉との共通点がないこの妹は、その第三の瞳も堅く閉じられていて、彼女は覚妖怪でありながら覚妖怪ではなかった。私も何度か話したこともあるが、まぁなんというか、ふわふわとした子で人物像すら掴みかねる。ただまぁ、お燐たちを含む家族とは相応の絆があるようだ。
その彼女がお盆を掲げて見せてくる。持ってくるのは緑茶だが、茶請けにクッキーも運んできている。
「はいお茶~」
「ありがとうこいし」
ニコニコ笑顔のさとり。しかし、妹溺愛中の姉の視線をジト目で返すこいし。
さらに私まで睨まれる。緑眼の魔物が好む敵意の睨みではなく、なんというか、呆れ的なそれだ。
そしてこいしはわざとらしく、大きな大きなため息を吐き出した。
「はぁ~‥‥‥」
「あら、どうしたの?」
「知りたかったら私の心を読むといいよ」
「知りたいから開眼してもらえるかしら」
「無理。じゃあがんばってね」
姉に向けて目から冷凍光線を放ったこいしに、さとりはよくわからないと首をかしげて回避。さとりの読心が通用しないんだから、無論私などが理解できるわけもない。
そのままお茶会にしれっと混ざることもあるのだが、今日は何か用事でもあるのだろうか、二人分のお茶を並べてそのまま去ってゆくこいしの背中を棒立ちで見送る私たち二人。そして扉はやや乱暴に閉じられるのであった。
静寂の戻ってきた部屋で、また、二人きり。
先ほど方針が決まったばかりだが、お茶まで持ってきてもらっては申し訳ない。
「‥‥‥飲んで、いきませんか?」
「うん」
そして、弱気なお誘いに相槌を打って同意する。今日はさとりと二人きりだが、日によってはお燐お空、こいしを交えてのお遊戯会やお茶会へと発展していくのが常だった。これが、この報告会の全行程なのである。
何十回とやってきているのに、さとりはおずおずと対面に座る。私など慣れたものでさっさと席についてしまっているのだが、恐縮そうにするその動作がいじらしい。
「す、すみません。帰ると決めた後なのでつい」
「まぁ細かいことは気にしない。この菓子はさとりが?」
「いいえ、今日のはお燐が焼いたんですよ」
「んむ‥‥‥うまいもんじゃない」
一つつまんで口に放る。形といい焼き加減といいさすがに飼い主には届かないが、くどさのない甘みが舌を楽しませてくれた。
さとりも、我が事のように笑顔で喜びを示してくる。
「包んでいきますか?」
「あら、いいの?」
「はい。お燐も喜びますよ‥‥‥黒谷達と、この後約束があるのですか。ならば荷物になってしまいますね、後で届けさせましょう」
「ううん、そこまでしてもらうのは申し訳ないからここで貰って帰る。どっちにしろ店回ってから一回縦穴まで戻るつもりでいたし、これもあるからね」
「そうですか。では帰りに用意しますね」
返書と言う名の燃えるゴミを詰めた箱を叩くと、さとりも頷いた。友人達との食事にこれは持っていけない。
さとりもカップの茶を一口。書類を確認する時といい、なぜかそのあたりの仕草は様になっていて外見以上の威厳というか高貴さというか、そういうものが漏れ出ている。
「あぁ、縦穴で思い出しました。橋はまだ大丈夫ですか?」
「四十年くらい前だったっけ。あと十年はいけるでしょ」
「でも年季相応にガタは来ている、ですか。私の眼にはかなりボロボロに見えるんですが」
心を読む能力であるが、読心は映像情報としても得られるらしい。
「そうですね‥‥‥この通り手は空いているので、今日にでも修繕しに伺います」
「随分性急ね。バタバタやらなくても、すぐ壊れるってわけでもなし。大丈夫よ。壊れたらその時言うわ」
「ただでさえ褒められない品物ですから、せめて新しいものを渡したいんです。早めに換えさせてください。と言いますか、橋姫ならもう少し頓着してください」
「まぁその、それはありがたいけどね」
ありがたいが、二つ返事で承服しかねて言葉に窮する。
修繕の話はこれで二度目となる。
二度目ということは当然ながら一度目があったわけで。修理するってことはさとりが縦穴に来るわけであり、その為には旧都を通らねばならない。
一度目の時は、旧都で小競り合いがあったと勇儀から聞いていた。心の中で悪態をついた鬼の思考を読んださとりが睨みで返して、その生意気な目線が気に食わないといって衝突しかけたというものだそうだ。別の鬼が宥めに入って事なきにはなったそうだが、さとりは覚妖怪たることに誇りでもあるのか一切隠さないし、鬼は鬼でどこまでも誇り高くまっすぐなので衝突は不可避なのだ。
何にせよ、互いの為にも旧都を通らないに越したことはない。修繕くらいだったらこちらでやってしまおうか。
‥‥‥。
しまった。
考えてしまった。
「ふむ。面倒は御免だし、自分で修理したほうがよいかな、ですか」
「て、提案のひとつとしてね?」
相変わらずさとりとの会話には苦労する。ここに至っては開き直るしかない。が、そうしたところで何が好転するわけでもなく。
さとりは眉を吊り上げ身を乗り出し、「これは譲りません」と強気に押してきた。そのへなちょこさからは想像できないほど勢いのある動きと声で。
「いいですかパルスィ。橋を作るという条件で、私が、あなたを呼んだんです。わかりますね?」
「は、はい。わかります‥‥‥」
「私が干渉しているという事実を知らしめることにもなるんです。街ではパルスィが、私に無理矢理やらされているという噂が流れているようですが、それでいいんです。私が矢面に立てば丸く収まります。これ以上の負担はかけたくないんです。絶対に行きますからね」
丸くした所に千本の針が刺さって、毬栗みたいにトゲトゲが立ってるんじゃないかなぁ、とは考えても言わない。
状況が状況だけに今回はありがた迷惑な面もあるが、彼女のこういうところは嫌いではない。何かをしてもらえる、というのは嬉しいことだ。彼女はきちんと汲み取ってくれる。こちらの考えを理解しようとしてくれる。表裏もなく、それを包み隠さず言葉にしてくれる。
だから、サードアイのせいでやり取りが面倒だし困るけど、嫌じゃない。
「なるべく人のいない時間を選びますから」
「じゃあ、まぁ、お願いするわ」
「はい」
こんな奴が嫌いとか、旧都の奴らは随分風変りよね。と思いながら、私はにこりと笑うさとりの顔を眺めた。
□
地底妖怪達との宴も終わり、雄大な旧都を背にして静やかで暗い横穴へ。
縦穴の付近ともなると喧騒とは無縁で、人間の世捨て人が好みそうな具合に寂れている。旧都の彼らは縦穴を通路とは認識していないので、ここら一帯が整備されることはないだろう。地底という暗いイメージ通りに、物悲しいだけの辺境である。
「ん~気持ちいい~」
そんな場所でガラにもない言葉を無意識に口にして、地上へ繋がる道を土産の焼酎一升瓶片手にふらふらと。お酒で高揚していながらも程よく眠くって、浮遊感ををもった体に縦穴から吹き降ろされる涼やかな風を浴びる。なんという贅沢か。
普段は縦穴から動かない分、ヤマメ達と交わすこういう宴は格別だ。今の私は、何が目新しいでもないコツゴツとした岩肌も愛おしく感じてしまうほどに上機嫌である。いいね地底、最高だわ。
しかも、家に戻ればさとりまでいる。
彼女が橋を作ってくれたので、たとえ私自身が縦穴を離れていても通行者の探知だけはできる。ヤマメ達との宴もたけなわになろうかという時に橋にやってきて、なにやら手を加えている人が一人把握できるから彼女が修繕に来たのだろう。
帰ったら誰かが居る。誰も通らないから縦穴は案外寂しく、そんな些細なことでもうれしくて、ますます浮かれた気分にさせてくれる。さとり様様だ。妖怪の楽園からつまはじきにされた私を、この最後の楽園に連れてきてくれて、こんなにも良い生活が送れている。
さとり。
さとり。その三文字は、私にとって大きい意味を持つ。
何をするにも、どこに向かうにも、その名前が付きまとう。良いことも、悪いことも。
随分いい子ぶっているように思うかもしれないが、私とて、正直に言って、さとりとの会話は面倒くさい。
覚るのが当たり前であり、覚られるのもまた当然の彼女らにとって、発声による意思伝達など何の意味もなさない。生物である以上伝達手段に言葉を扱うのに、あいつらはその当たり前と思える根本をひっくり返す。「覚」はそういう妖怪。とはいえ、免罪符にはならない。とんでもない奴だ、是非とも係わり合いたくない。と言うのが反応となるのは仕方ないだろう。
おかげで言葉を媒体とする者達には嫌われ、言葉を使えなかった動物には好かれた。
でも、こうは考えられないだろうか。
その動物。つまりはお燐たち。
動物妖怪だからといって、式神でもない以上は他人に尽くす義理などない。飼い主さとりも首輪など一切使わず完全放し飼いで、明確な使役をしているわけではないようだった。
けれど動物たちは地霊殿にいる。自ら選んでさとりの元にいる。お燐みたいに働いている者さえ。
恐怖で縛っている?
完全な否定はできないかもしれない。それでも、彼女達は飼い主さとりを愛しているのだ。だから尽くしている。さとりもまた、彼らを慈しんでいる。私も、別にさとりのことは嫌いじゃない。なぜかって? それは多分。
あいつが、笑うからだと思う。
地霊殿の主としての営業スマイルはもとより、お茶会でペットのことを話す時、ペットを叱って不機嫌なはずなのにその直後にも。
ただの部下にそんな顔を向ける。作り笑いだとしても、繕っていようが本気だろうが関係はない。お店で仏頂面で接客されるより、快活に笑いながらしてもらったほうが気分も良いのと同じで、さとりがそういう空間を作ってくれるから楽しくなるのだ。言う通りに働いてあげれば喜んでくれる、それが少しだけ幸せな気分にさせてくれる。
少なからず、彼女は誰かに優しく出来る。旧都で噂にされるような凶悪能力で粗暴を働くだけの人物なら、地霊殿が動物屋敷になどになったりはしないだろう。
これは、古明地さとりには見るべき点があると言えないだろうか。
旧都の者達が彼女を理解していないだけではないのか。三つ目が、想起が、覚がと言いながら。そうとすら考えてしまう。
(お?)
つらつら考えて歩くうちに、私は前方の異変に気づいた。通路の奥から、たどたどしい建設の演奏が聞こえてきたのだ。
やっと見えてきた橋。そこで、ただでさえちっこい体をさらに丸めて、橋板を架けていくさとりの姿が目に入った。がんばって釘を打ち付けているようだが、いろいろと不器用な彼女だから苦戦しているのがよくわかる。
彼女は、いつも最低限つけている松明の灯りだけで作業をやりくりしている。妖怪だし夜目は利いているのだろうが、こんな暗がりで作業しなくてもいいのに。彼女の性格が窺える一幕を横目に、普段は壁に飾ったままオブジェと化している予備の松明に妖力で火を入れながら近づいていく。
手元が明るくなったことに気づいたか、それとも心の声で察知したか、さとりはこちらに振り向いてまた笑顔を作って見せてくれた。
「お帰りなさい」
「ただいま。順調に難航してるわね」
「想定の範囲内です」
ナナメに突き立った釘を眺めて、手を振ってさらにひとつ灯火。これでそれなりに明るくなっただろう。
さとりは釘を引き抜くこともなく金槌で叩き押し込んでいく。釘抜きなどというものは用意しておらず、このへっぽこ妖怪は素手で釘を引き抜く腕力もないので致し方ないが、おかげで早くも橋板に亀裂が入った。あぁ、私の橋を作っているはずなのに、架ける傍から壊れていく。
改めて作業の進展具合を確認。橋板を釘で縫い付けるだけだから、いくらさとりといえど一時間もあれば終わるだろう。
「先ほどからひどい言い草ですね。反論できませんけど」
「ごめんごめん。そうだ、土産もあるし、終わったら一緒に一杯どう?」
手にしていた土産の酒瓶の存在を思い出して、軽く掲げてみせる。今の失礼な思考へのお詫びと、さとりの作業もすぐに終わりそうだからという、その場の思い付きだった。
するとさとりは、申し訳なさそうな顔をして。
「いえ、そんな。悪いです」
「迷惑だった?」
「そんな事はないですが!」
そこは強く否定してくるさとり。
じゃあいいじゃん。お茶会はあっても飲み会はしたことないんだし、仕事以外で話せる折角の機会なのだ。酒は一人ちびちび飲むよりうまいに決まってる。普段なら口にしないであろう台詞だが、酒に冒された頭は愉快で一杯だ。
「誘いは受けておくものよ」
「そ、そうですね‥‥‥では、後で頂きます」
困惑しつつもはにかむように口元を緩める彼女を見て、また少しこちらも幸せになる。
さとりは作業に戻った。不規則で音程も外す下手くそな演奏が、それでも私には心地よくて、しばし聞き入る。
「音が好きなんですか」
「うん。なんだか賑やかになったみたいでね」
「意外です、騒がしいのが純粋に好きなんですか。嫉妬掻き立てられるのが卑屈に好きなのかなと思っていました」
「卑屈っておい。いやまぁそういう面もなくはないけど」
とんだ言われようだが、嫉妬の妖怪なので否定もできず。
音もなく静かで冷たくて真っ暗で、時折旧都からの音が小さく響いたりヤマメ達が通るだけの場所。橋である以上は誰かに使ってほしいという願望はどこかにあって、そんな所に音がやってくると少し嬉しかったりする。
「そうだ。彼岸との連絡通路は見に行ったの?」
「はい、やはり崩落していました。表向き、彼岸とは何の縁もないことになっているので、復旧の口実もありません」
「こっそりやるってわけにもいかないか。ってことは今後は私が受付窓口ね」
「お仕事が増えて暇が潰せますね」
「それはそうなんだけど」
それって橋姫のする仕事かなぁと内心首をひねるが、その都度さとりに報告上げが必要と考えたら、それも吝かじゃないなと思った。死にそうなほど暇してるよりは、遠くても地霊殿に出かけるほうが面白い。ついでの旧都観光もできる。
すると、さとりが小首をかしげてきた。
「面白いとは。お空達ですか?」
「お空ねぇ。あのカラスには嫌われてるっぽいのよね、どうしたものかしら」
「今日も突き回されたし、ですか。違いますよ、あの子なりのスキンシップなんです。許してあげてください」
「本当かしら。さとりが言うんだからそうなんだろうけど」
「お空から聞きました。私が来るのを待つ間、遊んでくださったことがあるそうですね。人見知りする子ですが、構ってあげると喜ぶんです。人型の姿を見せないのも、今更だからと恥ずかしがっているんだと思います」
「そんなキャラだったんだあいつ。もっとバカっぽく快活なのかと思ってた」
「知り合うとすぐに打ち解けるんですがね。まぁ、そうなったらそうなったで、加減を知らない子なのであちらこちらでトラブルを」
遠い目をするさとり。食器を割られる程度のことは序の口ということか。
会話もそこそこに、さとりは作業に集中する。
不慣れで不定期に鳴らされる釘打ちの音。たまに打ち損じてしょっぱい音になったり、かと思えば調子よくなったり、腕が疲れたのかテンポが落ちたり。
彼女は無言で作業を続ける。
橋姫よりも橋に頓着している姿は、中々に滑稽で。
おかしい。
疑問。
変だと思うのは、さとりがここまで固執するこの橋の存在意義だ。
橋を作るから橋姫に来て欲しい。なるほどわからないではない。妖怪が空を飛べる以上は橋の必要性などまったくの皆無だが、あれは見張り役として私を引っ張るための虚言。川もない地底の洞窟に橋を架けたいだなんて、本気で言ってたらただの阿呆だ。
作った橋の場所、縦穴の見張りをして欲しい。なるほど。境界線となれば警備の一つや二つは欲しいだろう。その為に呼ばれた。
さてお気づきだろうか。この時点でおかしいのだ。
言うべきか、言わざるべきか。
今のままでいいじゃないか、とも思い、百年来付き合って隠し事もないだろう、とも思い。
悩む。この思考すらさとりには筒抜けているはずだが、彼女は無視を決め込んでいるようだ。触れられたくないと、無言で答えてくる。
だからこそ気になる。
そして私は、言葉を口にした。
「変よね」
さとりは、すぐには反応しなかった。やはり無視を決め込んでいるようだ。
この地底は地上から忌まれ追われた妖怪の住む、いわば最後の砦。地上よりの悪意ある侵入者の危険は、旧都妖怪たちにとって懸念事項である。そのことは誓約に『地上妖怪を侵入させない』という一文を加えた所を見ても明らかと言っていい。
そうなると防衛上重要地点に歩哨や防衛設備が欲しくなるわけだが、地殻で保護された地底への進入口はこういった風穴になる。中には空間的に繋がっていなくても移動できる奴とかがいるが、そんな例外は考慮するだけ無駄であるのでここでは除外する。
さて、歩哨が欲しいならどこかから選定して任命しないといけない。地底の場合、この任命役は旧都総括の鬼か地底顔役の古明地さとりとなるだろう。一番偉いのはさとりなので、基本は彼女からの発令。いくらさとりが嫌われていようともそこはきちんと地底妖怪から選抜されるはずだし、鬼単独でも何かしら手を打つもののはず。実際、腕利きを集めた荒事担当の連中、実働隊と呼ばれる軍兵組織が旧都にはある。
仮に見張りを重視していないならしていないで、縦穴をねぐらにしているヤマメやキスメが片手間にやればよい。
そのはずなのだ。
ところが、現実はどうだ。
既に地底にいたヤマメ達は旧都で遊び回っていて誰も歩哨をせず、実働隊は旧都内の治安警備だけで、誰を縦穴に寄越すこともしない。じゃあ不要と考えているのかといえば、さとりは地上にいた私を呼びつけて使う。
鬼ほどの名声も武勇もない橋姫を呼び、一妖怪の為に自ら橋を作って楔を打ち、命令という鎖で繋いだ。
旧都妖怪達の協力を一切受けられない何かがあって、それでもさとりにはこうして鎖に繋がねばならないほど困る用件があった。けれど使える手駒すらなくて、困り果ててやってきた地上。ふらついていたらボロ橋で死に掛けていた私を偶然見かけて、利用できると踏んだ。まぁ、こんなところだろうと、今では考え至れる。当時は私も余裕がなかったから、言われるがままだったけど。
「随分と聡いのですね」
「橋っていうのは二つの地点を結ぶ要所。自分の守る点の意味を考えただけよ。それくらい知っておきたいでしょ」
「そうですか‥‥‥そうですよね」
落胆したように、苛立つように。そんな声音。
意味を教えてくれないからって、別に立腹する所ではない。けれど、今日彼岸との話を聞いて、今まで聞かずにいた絡みつく何かに改めて気づかされた。今の彼女の声を聴いて、余計にもやもやしている。
気になる。知りたい。だから、酒の力に任せて押す。
「この場所、潰す予定があったってヤマメ達から聞いたわ。地上との接続点としても、縦穴は大きすぎて目立つからって」
「‥‥‥地上との誓約の件は、危ない怨霊を封じる代わりに、地上の妖怪は進出させず地底の安全を担保するものです。それで合っています」
「うん」
「この誓約、面白い点がりましてね。地上から地底への妖怪の移動は禁じています。地上への怨霊の移動も当然ダメですが、『地底から地上へ行く妖怪』は一切言及されていないんですよ、あれ」
「それって、出て行っていいってこと? そんなの初耳よ」
「でしょうね。地上を疎んで引き篭もるあまり、そのあたりを曲解している者が多くて」
忌まれた妖怪達が集う場所とかさとりが言ってたし、見張りを始めてこの方出掛けに行く奴すらいないから、てっきり入ったが最後だとばかり思っていた。
しかしよくよく考えると地上の出来事、天狗が山を纏めたこととか、博麗大結界構想とかいうのを打ち出しているらしいこととかをヤマメが話してくれる。妖精あたりに聞いたのかと思っていたのだが、そういうことか。
「えぇ、河童の要請で土蜘蛛は出張しているそうですね。伊吹鬼も稀に地上へ行くようですが、上の賢者からは何も言われませんよ。仮にも妖怪の楽園を謳っているのですから当然でしょう。もちろん郷に入っては従えですから、行く際はマナーを守るという前提です。しかし」
「外に行ってもいいけど、幻想郷のルールは守れだなんて周知徹底させるのは限りなく不可能ね」
「元々上が嫌で潜ったのですから、戻った所で居場所などないわけですし。封印されて来ているような妖怪もいますから、面倒のリスクを考えたら、上位の方々がわかっているだけでいいかなと」
それで問題は起こっていないのだ。それでよかったのだろう。
「妖怪間で結ばれたものなので、人間や妖精の行き来も誓約上は問題ないですし、粗を探せばいくらでも」
「随分適当ね。即興で作ったの?」
「わざと抜け道を作ってあるのですよ。そもそもあの誓約は、人間の鬼狩りに乗っかって鬼を排斥しようとした、一部好戦的妖怪への戒めでもあります」
こちらを見ないまま、さとりは続ける。
「人間が増え、鬼狩りの手法が広がったことで人妖の拮抗が崩れ、山の王者たる鬼の威光が影ってしまいました。鬼を頂点とした社会で鬼が倒れる。パワーバランスが崩れて支配力が低下し、それまで配下でおとなしくしていた妖怪同士の争いが加速しました。妖怪拡張計画で流入してきた外来妖怪も覇権争いに乗り出して。天狗を立てることで何とか収拾がついたようですが、末期はほとんど統制不能な状況だったようです。おかげで、私たち覚妖怪も巻き添えですよ‥‥‥山の事情はご存知ありませんでしたか」
「何せ山からは離れて住んでたし、かろうじて鬼の四天王の名前を知ってた程度ね」
「では、鬼が地下へ降りた理由も?」
「増長する人間と幻想郷の方針に愛想尽かしたってね。丁度旧地獄が破棄されたまま空間が残ってるってことで引っ越してきて、住むなら自分たちの描く都を築こうって。そこは勇儀から聞いた」
地底妖怪の多くは、鬼を最後まで慕い付き従った集団でもあるそうだ。それでも地底に降りてすぐのころは、下剋上を夢見た忌まれた者たちが旗揚げしたり、叩けるうちにと地上から追撃の手が来たりした。無論鬼が全部返り討ちにし、あるいは鬼狩りの方法を知っていた敵の対処は土蜘蛛などの、現在の実働隊連中が防いだ。
地底は一つの失陥もなく見事守り通したが、彼らも戦続きの日々に疲れたのだろう。そうして出来上がったのが、あの誓約となるわけか。
じゃあ、さとりがこの縦穴に固執する理由はいったい。
「住むに値しない土地だから地底に来た。けどパルスィも、住みよくなればこんな太陽のない暗闇より地上に出たいでしょう?」
「まぁそれは。人間と離別して生きるなんて、妖怪としてどうかとも思うし」
「ならば、感情ひとつで道を塞ぐのはよくありませんよね。開けておかないと、わずかばかりの情報すら降りてこないんですから」
上の事情がわからないと、帰るどころの話ではなくなってしまう。かといって現状帰る気のない旧都民にとって、わざわざ縦穴を開けておく理由もない。むしろ再侵略の危険性を考慮せねばならない。誓約を知らない守らないアウトローなんて、どれだけでも沸くのは想像に難くない。
このまま黙っていたら封鎖されてしまうから、少々強引だがさとり単独で手を打ったということか。
ふぅん。
変ね。
「変、ですか」
「ヤマメ、あぁ土蜘蛛ね。あいつは縦穴に住んでるんだけど、塞ぐには割と反対っぽいのよね。さとりが何か干渉してるってことに難色あるみたいだけど」
「そうだったのですか」
「そうだったのかって、あんた心読めるでしょ」
「読めるのは表層思考だけです。直接会う必要がありますし、パルスィが思うほど万能ではありませんよ」
「そう意味じゃない。見つかるかも分らない代役を地上に出て探す前に、鬼に一声かけなかったの?」
「この通り、嫌われですからね。到底協力は得られないでしょう。嫌っている者が出す提案というのは、どうあっても受け入れられないものです」
肩をすくめて見せるさとり。言葉はその通りなのだが、私の疑念は加速するばかり。
いくら嫌われだからって、旧都に一声もなしに勝手にさとりが手を付けたら、それこそ受けはよろしくないだろう。
上と繋いでおきたいというのが、一蹴されるようなくだらない理由というわけでもなし。鬼の反感を買うのは愚策にすぎるのに、そこまでして保持する必要のある内容でもない。極論を言えば、塞いでも必要ならまた掘り返せばいいのである。
彼岸の件を見ても、さとりは鬼よりは賢明な頭を持っていると私は評価しているが、そんな彼女がなぜ悪手を打ったのか。
まだ何か隠してる?
今言った内容すら嘘?
行き着くのは、無理を押し通す為に、事情を知らない外部の者が欲しかったという推測。このほうがしっくりくる。橋を作った後こいつは、少なくとも縦穴から外へは出掛けたことがない。この引きこもりが、あの時だけ地上を遊覧していたのは出来すぎていないか。
私の知らないことで彼女に関係しそうなことといえば、何か。
それはさとりが嫌われている理由、さとりが地底で一番偉い理由、鬼がそれを許した理由。
さとりが普段理性と笑顔で隠している、裏側。
「昔話は、愉快ではないので話したくないです」
「語るに落ちてるじゃない」
「‥‥‥知りたい。知ってどうするというんですか」
「それは、知ってから考えること」
「そうしてあなたも、私の敵になるんですね」
さとりの手が止まり、声が低くなった。
緑眼の化物が、目を覚まし吼えた。化物は古明地さとりに食らいつき、あっさりと飲み込んだ。
「そんなのわからないじゃない。少なくともあなたに雇われてる身だし、よっぽどでない限り反故にはしないわよ」
「傭兵が忠義の士だとは知りませんでした。それに、そのよっぽどとやらは、十分以上に体験しているはずですが」
今この場にさとりはいない。いるのは、今まで宿主に隠され頑丈に封をされていた、裏側に潜んでいた心の化物だ。
そうよ。私は、お前とも会って見たかったのよ。
「算盤は弾けますか、損得計算はできますか。私の味方? どこに利益があるんです、馬鹿にしないでくさい」
仇敵を相手にするように冷えた視線。硬い表情。刺々しい言葉。
アメシストの瞳の中で、薄汚れた濃緑が輝く。憎しみ、怒り、悲しみ。それらの宿主の過去を食らい、はちきれんばかりに膨らんだ化け物の、淀んだ色。
今のさとりの目に映るものは、そいつの瞳を通して見る世界。目に映るものすべてが敵に見える。すべてが憎くなる。赦した者以外を目にするだけで感情が食われ、判断力が狂わされる。化物の気が収まるまで、どんな言葉もどんな光景もすべて変換されて、餌になる。
「私はあなたの敵じゃあない」
「嘘つき」
こっちの心は読めているはずなのに、いきなり嘘つき扱い。何もかもが信じられず、何の抑制も効かない。
こんな化物に心を貪られながら、それでもさとりはどうにかしたくて私を雇った。頼りにされているかはともかく、求められている。
私はここを見張っていればいいのだろう、それでさとりは満足しているのだろう。何も知らずに愚直に言うことを聞いていればいいのだろう。それがあなたの望んだ形。別に不服はない。私はあんたと契約した。私はあんたの所有物だ、やれと言うならやってやるわ。
けど、それ以上に。私にも感情がある。
あんたは、死に掛けの私に住処をくれた。こうしてそこそこの生活が約束されている。そんな自分を救ってくれた奴が、こんな化物を押さえ込んででももがいて苦しんでいる。そんな姿をずっと見せ付けられて、私が何も思わないわけがない。
放っておけないじゃないか。
何に抗っているのか、知りたいじゃないか。
だから、さとりに歩み寄る。その頬に右手を伸ばす。
「何を」
「動かないで」
「っ!」
悪意がないことを覚ったのか、それとも私の『命令』が化物に効いたのか。一歩引いて逃げようとしたさとりが動きを止める。
そして、頬に触れる。化物の頬に。
「同情ですか。余裕ある者がする憐憫。いいものですね、優越感に浸るのは誰しも楽しいものです」
「情を同じくする。感情の共有あってこその理解でしょう」
「理解? 私を理解してどうするというんです。そもそも理解など出来るはずがない、あなたは私ではないし覚妖怪でもない。理解したつもりになるだけです」
いつも眠そうにしている第三の瞳が、皿のように見開かれる。恐らくだが、自分の読心能力を強化したのだろう。
自分の今の気持ちには一応、表裏はないつもりだ。どれだけでも読んだらいい。
「気が済むまで読んでいいわよ」
あらゆるアクションは怪物フィルターを通してさとりに届くから、今は言葉少なにしておく。私が言の葉にするより、その目で直に私の心を眺めた方が確実に伝達されるだろうから。
どう、化物? 何もない状態で放置される気分は。ほら、次々に宿主の嫉妬心を掻き立てないと、宿主の理性が戻ってくるわよ?
それとも。
このまま、私に触れられて力を吸い取られるのがお好み?
「さぁ今、何を考えましたか。感情の共有とやらの先に何を望んでいます、何を企んでいます。利益を求めない者など居ません。それともあなたの道楽ですか。鬼女とは嫉妬の力を操ることが出来るそうですね、それを私にかけようというのですか。私を前に隠し事など愚かです」
言葉を投げかけることで私の思考を誘導し、そこから暴こうと言う事だろうか。一方的に、質問攻めのように言葉を浴びせてくる。
ふたつの敵意の瞳がじっと私を睨む。唇をわずかに震えさせながら。
やがて。
崩れた泣き顔になった。
「ふざけないで、ふざけないで。私は覚妖怪です、私の悪評などどれほどでも聞いたでしょう、私と関わっていることでどれほどでも不利益を被ったはずです。えぇそうでしょう。なぜ私なんですか」
さとりは握り拳を作って、私の胸をノックし始めた。叩くというほど力のこもったものではなく、まるで痛みを感じない。
なぜさとりなのかって。当たり前でしょう。
この橋を作って私を招いたのは、あんただもん。
「なんで‥‥‥!」
他人の思考、心を直接覗き見てもわからないのか、それとも理解を拒んでいるのか。
家族以外の誰からも優しくされたことがなかったのだろう。誰にも理解されなかったのだろう。だから、私の思考が理解できない。多分、そういう事なんだろうなと思う。私の知る限り、さとりの味方なんてお燐達以外思いつかない。
彼女は覚妖怪だ。他者の嘘を見抜ける瞳で得られる情報は否定しようもなくすべて正しいものであり、その思考が理解できないとしても偽りないという事は本人もわかっている。これでは緑目の化物が暴れる余地がない。化物は急速に弱まって宿主への支配力をなくし、諦めて元居た檻へと戻っていった。
拳を私の胸に押し付けたまま、彼女は肩を震わせて俯いた。皿のように見開かれていたサードアイも、いつの間にかいつも見る大きさに戻っている。
どれくらいそうしていただろうか。
「‥‥‥怖い」
ぽつりと、さとりは呟いた。
本当に弱弱しくて、声も擦れていて、震えていて。
それでも、化物から自分を取り戻した彼女は、続ける。
「怖いんです」
「何が不安なの?」
親指で頬をさすってやる。思った以上にきめ細かで、指はするすると滑った。
さとりは俯いたまま。まるで知らない人の家に入った子供のようなしおらしさで。
小さな声で、ようやく伝えてくれた。
「覚妖怪は嫌われです。地獄街に居られず、衝突の果てに追いやられました。だから生きる為に、この力でどんな助力もする代わり、生活を保障してくださいと鬼と交渉をしたのです。策謀を恐れる鬼達。丁度、地上との誓約文書を用意しているタイミングでしたので、力が欲しかったのでしょう。それであてがわれたのがあの地霊殿です」
私は黙って、彼女の言葉を待つ。
「さまざまなごたごたが片付き地上側ともほぼ隔絶している今、私の能力には交渉当時ほどの価値はありません。もとより仲が悪い関係の中、私は鬼に生かされている状態です。取引を破棄されれば、旧都にも居られない私は上に戻るしかない。けど、その時にここがなくなっていたら。私は」
さとり一人を追い出すために埋めた穴を掘り起こすなんて事はしないだろうから、追い出すための出口がなければ、最悪の場合現世と離別か。今ですら嫌いな怨霊や面倒な灼熱管理を嫌いな奴に押し付けているというようなもの。それがさらに悪化した場合とは、あまり想像したくはない。
この縦穴は、もしも身に危険が及ぶ段になった際の搦手口。それを詭弁で開けておくための存在が私。
「それだけ追い詰められてると感じるなら、動物たちのことはあるけど、やっぱり閻魔に助力してもらった方がいいと思う。お偉方の肩書きは伊達じゃないでしょう」
「楽園とした旧都を汚す、それを鬼が許すと思いますか。彼岸としても、こっそり手を伸ばしてみたら鬼といざこざとなっては、ごたごたを抱えてまで私を守るなどしないでしょう。切り捨てて知らぬ存ぜぬを貫くだけです。お燐たちも許してくれるかどうか」
いかに彼岸を嫌っているとはいえ、さすがにお燐たちが愛想尽かすというのはないと思うけれども、さとりを守れるかとなると何分相手が悪すぎる。
「だから、逃走経路の確保と」
「そう、です」
そのためには守手に裏切られては困る。何としても自分の傀儡でいてもらわなければならない。そこに、橋の命脈を絶たれてなお固執し続けている橋姫が目に止まった。橋さえあれば、言う事を聞いてくれる。多分そう思ったのだろう。
なんと情けない、そしてひどい理由だ。
けど、教えてくれた。自棄になっただけかもしれないが、私に伝えてくれた。
私は、口端を吊り上げる。
「いいじゃない」
「はい?」
「これがあればあんたは安心して暮らせるんでしょ。欲しいんでしょ。ならいいわよ」
「‥‥‥私はあなたのことがよくわかりません。何でこれで納得できるんですか!」
「使う奴が千人でも一人でも、ゼロでなければ構わない。世界平和だろうが世界破滅だろうがなんでもいいわ。私はいつでも使ってもらえるようその時が来るまで橋を守るだけで、守るための理由が欲しいだけ」
民も軍隊も、米も兵器も、橋は何でも通す。必要だから作られて使われる。渡したいモノがきちんと渡るのを見守る、それが橋姫。
なのに、さとりはいまだ納得いかないという顔で見上げてくる。
「私に付いたって、ロクなことはありませんよ」
「知ってる。で? あなたはせっかく用意した橋を打ち壊して、鬼の軍勢相手に一人で背水の陣でも敷くの? 逃げる時は、あの動物共だって連れて行くなりしなきゃいけないんでしょうに」
「‥‥‥」
「私は契約書にサインしたの。あなたが橋を架けるというならそこを守る、あなたの為に働くってね。だから、私はあなたの敵にはならない。望み通り、この場所は空けておいてやるわ」
さとりにとって覚ることが覚妖怪としての存在理由なら、橋を守る。こちら側と向こう側を渡す。求めて作られた通りの仕事をする。これが私の、橋姫の存在理由だ。これを最後の生と決めた、それが私なのだ。
「パルスィ、あなたは」
彼女は何かを言いかけて、しかし数秒の間をおいて「ごめんなさい」とだけ力なく述べるに留まった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」と、ボロボロの顔を俯かせて、さとりはただただ言葉を繰り返した。私を騙してきたことへか、迷惑をかけたと思っているのかわからなかったが、謝り続ける。そこに地霊殿の主の貫録はなく、少しでも触れたら大声で泣き出しそうで、背中をさすってやることも躊躇われるほどだった。
お互いどうしようもなく、私達はしばしそのままでいた。
■
「ふぅん」
胡坐をかいた小鬼は睥睨してくる。
隣にはもう一人、腹心とも呼ぶべき一角の鬼。周囲に座る者も幹部会と呼ばれている、地底では事実上のトップである鬼たちだ。
その彼らを前に、一人覚妖怪が正座して対峙している。
「取引、ねぇ。私たちと対等なつもりなのかい?」
「あなた方の子分でも何でもありませんから、へつらう理由はありませんね」
「そうかい。地獄街じゃ評判も回ってるよ、恐ろしい力で鬼を負かす覚妖怪がいるって。いいよ、強い奴は嫌いじゃない。聞いてやろう」
「それはどうも。では続けましょうか」
対等な口利きに、いくらかの鬼が既に不機嫌を露わにしているが、覚妖怪は意に介さない。
これは降伏ではないのだ。対等であるのは当然。
「こちらの欲しいものは二つです。私と、私の家族の身の安全。及び、衣食住に困らない程度の待遇。以上です」
「まさかただ守ってくれなんて言わないだろうね」
「もちろん、取引ですからね。私は、あなた方に協力を惜しみません。これが対価です」
「話にならないな」
鼻を鳴らす小鬼に、覚妖怪は顔に作り笑顔を張り付けたまま。
「これ以上ない商品でしょうに。それすらわかりませんか」
「覚妖怪が何の役に立つ。庇い立てするほどの価値はないな」
「そうですか。では交渉は決裂ということで、他の価値の分かる方と取引します。たかが覚妖怪ですからね。鬼の弱点の一つや二つ、暴くのは容易。きっと高値で売れるでしょう」
瞬間。
控えていた鬼達が、覚妖怪を取り囲んでいた。外で待機していた鬼も、万一もないようにと警戒を強める。
全員が見下すような余裕の表情で、覚妖怪一人に鬼様が数を頼みに包囲する。圧倒的な優勢に、首領たる小鬼もせせら笑っている。
「逃がすと思うかい?」
「対策もなしに乗り込んできたとお思いで?」
声の大きさも抑揚も変えず、淡々と並べた言葉に、鬼たちは一斉に顔を強張らせた。この覚妖怪が何人もの鬼を倒してきたのは既に周知のことであった。
かつて山の天下を取った鬼が、たかが覚妖怪相手に。
その覚妖怪は気味の悪い薄い笑みを選んで、鬼たちに見せつける。
「鬼の威信の落ちた今、鬼の討伐法を知る者が反乱を起こしたらどうでしょう。この暗い地底も、さぞかし賑やかになるんじゃないですか? たとえここで私を潰したとて、たかが覚妖怪にも噛み付かれ、幹部会数人を道連れにされたとなったならば。他の者はどう思うでしょうね?」
「それがお前の覚悟か」
「性質が悪い? それはよかった」
「殴り込みに来たわけじゃないだろう。何が目的だい」
「ですから、取引ですよ。曲がりなりにも地底最大勢力であるあなた方の権威なら、一番良い条件でできると思いましてね」
にこりと嗤う覚妖怪。
しばしの沈黙ののち、鬼の代表は右手を掲げて手で払う動作をした。首領の指示で、臨戦態勢にあった取り巻き達が拳を下ろし、また部屋の隅に並んで座っていく。
「内容をもう少し噛み砕きましょうか。あなた方が苦慮している怨霊の始末、私なら容易ですよ。何を企もうがばれてしまう、だから彼らは私に手を出せません。また、とりあえず私を囲っておけば火種が一つ減りますね。これでも十分とは思いますが、他には‥‥‥地上との間で、案件を抱えているようで」
「それも読心か」
「どうですか? この眼、欲しくはありませんか?」
二つの瞳と、売り物たるすべてのものの心を見抜く一つ目が鬼を見る。
怒りを燃やした二つの瞳に、侮蔑の笑みを添えて。
「貴重な貴重な、最後の一個ですよ?」
「‥‥‥お前がこちらを憎んでるのはわかっている」
「お互い様でしょう」
読心の力を気味悪がり手を出してしまった鬼と、その抵抗と報復を行った覚妖怪。人数差と、何より最強を謳われた鬼を相手にした諍いは、あまりに一方的であったが。
互いに、謝罪する気などない。
「謀反をしないとは言えないな」
「契約である以上手は抜きませんが、失敗という形でご期待を裏切ってしまうことはあるでしょうね」
「そういうことを言っているんじゃない」
「あなた達との間に義理はありませんが、益があるならば裏切る理由もないでしょう。それくらい、わざわざ言わずとも理解してほしいものです。もちろん、別の者がより良い条件を提示してきたら、義理などないのですからそちらに売りますがね。忠告程度に言っておきますが、私を嫌うあまり半端な条件を提示なさらない方がよいですよ。さぁ、あなた方はいくらで買いますか?」
「契れるのかい。鬼を前に」
「条件を呑むのであれば」
「わかってるよ」
「誓いましょう」
覚妖怪は笑顔を崩さない。
小鬼は顎に手をやってしばし黙し。
「地霊をまとめている屋敷、知っているかい。地獄街の真ん中にある、地獄の奴らが建てていった奴だよ。そこをくれてやるから、お前は怨霊の相手をしな。生活の便宜も図ってやるさ。あそこなら鬼が警護しなくたって誰も近寄りはしないだろうが、何かあったら言いな。それが契約だからね」
「中々に立派なゴミ捨て場ですね、ありがたく使わせていただきます」
「逐一そういう物言いをしないと気が済まないのかい」
「あなた方に傅いたわけではないと逐一示しておかなければ、勘違いで逆上されても困りますから」
「まぁいいさ」
「交渉は成立ということで、いつでもお呼びください」
覚妖怪は席を立つ。
「今後とも、よろしくお願いしますね?」
言葉通りの意味で、覚妖怪は嗤う。
:
:
:
外から、鬼たちの賑やかで騒がしい声が届いてくる。地上と誓約を結び、その祝いに酒や料理が振る舞われている。
その喧騒から離れて、鬼の首領と覚妖怪が向かい合って座っていた。鬼は手にした瓢箪から杯に酒を注ぎ、やや乱暴に覚妖怪の目の前に置く。
「飲みな」
「不要です」
「飲め」
「それは契約に入っているのですか」
お前の酒など飲む気はない。冷めた返答に鬼は不満に顔を歪め、送るつもりであった杯の酒を煽った。盛っていたわけではないという意味と、もうお前にはやらないという意思表示だ。
そんなやり取りも知らずに、外の鬼たちは愉快に笑い声を上げる。あの手この手で言いくるめられそうになっていたやり取りが、覚妖怪を加えただけで地底として必要十分で、実に簡潔な内容で結ばれたのだ。思惑をすべて看破され鬼に告げ口され、地上代表達が疎ましげに覚妖怪を睨むその様子に、鬼たちは覚妖怪が裏切っていないと理解して安堵し、悦に浸る。
それすら、覚妖怪にとっては不愉快極まりなかったが。
「取引の話とはなんでしょう」
「もう読んでわかってる癖にな‥‥‥お前の仕事に一つ追加だ。協力を惜しまないと言ったからには問題ないだろうね?」
「雑事の押し付けは最初から織り込み済みです」
「じゃあついでに、その喧嘩腰の口もどうにかしろ」
「やり取りに支障はありません。何か問題が?」
無表情のまま眼光を鋭くする覚妖怪に、鬼は舌打ちで答える。あの交渉の時以来、覚妖怪の対応は一貫してこうであった。営業スマイルを向ける労力すらもったいないといわんばかりに。
確かに便利ではあるが、鬼からすれば取引という形で寄生しに来た獅子身中の虫。両者の関係は何ら改善を見ることなく、あるいは余計に悪化しているのかもしれなかった。
「お前には外との窓口になってもらう。お前がまず話を聞く。ついでにそいつの心も読んで、内容をすべて私たちに伝えるんだ。そうして幹部会の決定を、またお前を介して相手に渡す。今のところ予定はないが、外とのやり取りは全部それで行う」
「外交官って形がよかったが、それだとうちの連中が応対しちまいかねないし、向こうもお前を敬遠しようとするだろう。だから地底代表の看板を渡しておく、こうしておけばお前に話を通さざるを得ないからな。だがお前には決定権はない、あくまで仕切るのは私たち鬼だ。ふむ。それがあなたのご友人、妖怪の賢者の考えですか」
「本当、その力は気味悪いね。まぁいいや、文句はないだろうね」
「ありません、やりましょう。さて、話は以上のようですね」
「あぁ、さっさと出ていきな」
「喜んでそうさせて頂きます」
全く弾んでいない平坦な声で言葉を残して覚妖怪は立ち上がり、外の喧騒とは反対の、館の裏手口へと向かう。
小鬼に背を向けた覚妖怪は障子に手をかけて開き、しかし先には進まず足を止めたまま。
「あいつは危険だ、生かしておけない。もう用済みだ、生かす必要はない。気持ち悪い害虫が、たかが覚妖怪が、覚妖怪の分際で」
小鬼の思ったことを口に出して。
覚妖怪は冷たい瞳で振り返る。
「窮鼠猫を噛むと言います。最後の覚妖怪の意地がどれほどのものか、試してみますか?」
「‥‥‥」
「地霊殿の門はいつでも開けていますよ、どうぞいらしてください‥‥‥刺し違える覚悟でね」
■
2、
朝起きたら胃がもたれていた。
昨日飲みすぎたから、というわけではない。夢のせいである。
「ったく、最悪」
体調不良による苛立ちにとりあえず悪態だけは吐いておいて、お勤めの為に身だしなみを整えていく。
どんな夢だったかって? 耐えて、耐えて、嵐が過ぎ去るのを待ち続けて、一層ひどくなるそれに絶望して、ついに刀を抜いた誰かさんの夢。
実の所、この夢を見たのはこれが3度目である。
1度目はさとりに最初に橋を作ってもらった時、2度目は最初の修繕の時。そして3度目がこのタイミングとなると、原因と夢の内容は、いい年して少女趣味全開の地霊殿の主であることは疑いない。人の形を模して作られる人形などは特に顕著だが、物には想いが宿るし付喪神なんかになる場合すらある。それなのにあんな思いを抱えながら橋を作られちゃあ、こっちにもそれなりの影響が出るというものだ。
着替えを終えて勤務地へ。その橋はというと、工具や資材も無秩序に散乱し、昨晩から放置されたまま。修繕するはずのその人は今はいない。さとりが本音をぶちまけてくれた後、ご本人の精神状態が回復しなかったので作業も中断したままなのである。落ち着かせる意味も込めて地霊殿まで送ってやったけど、おかげで私は微妙に寝不足。ここからじゃ地霊殿は遠すぎる。
さとり曰く、今日ちゃんと作り直しに来ますとのこと。おそらくは昨日と同じくらいの時間に来ると思われる。立ち直ってくれているといいのだが。
(まぁさすがに大丈夫でしょう)
そこは気楽に考え、眠気を覚ますために背伸びひとつ。
さぁがんばって見張りでもするか。通る奴なんてヤマメとキスメくらいしかいないけど。見張り業務そのものをがんばる必要がないというのは雇用主にカミングアウトされたけど。
‥‥‥いかん、いきなりテンションが下がってきた。
欠伸をかみ殺しつつ、眠気覚ましと胃の為に何かさっぱりしたものが食べたいと思うが、こんな境界線じゃあ出店すらない。昨日の飲み会でお世話になったばかりだけど、昼になったら水蜜の店にでも行くか。と、ここまで考えた予定は脆くも崩れ去る。そうだった、いつ来るかも分らないあの死神にさとりの返書渡さないといけないんだった。このやり場のない怒り、どうしてくれようか。
橋姫だってね、橋の傍にいるのは当然かもしれないけどさすがに誰も通らないとなると暇なわけよ。無我の境地に立って悟りを開くつもりもない。さとりもさとりだ。あいつの意図はちゃんと聞いたけど、何でこんなに旧都から離れた場所に橋を作ったのよ。いやそれはさとりと旧都が不仲だからなんだけど、もうちょっとどうにかならなかったのかと。
「‥‥‥ん」
と、そんな事を考えていると、外側から何かの気を感じた。
気配を殺して来ている。しかも異常に速い。
侵入者かと思って少し身構えたが、相手が近づくにつれて、一度感じたことのある妖気だと理解できたので態勢を解く。地上でお日様が出るか出ないかのこんな朝っぱらに来なくてもと思ったが、他の妖怪と鉢合わせしないよう気を回したのかもしれない。何にせよありがたいことだ、これで旧都で飯が食える。
少し待つと、闇の中でそれでも光る大きな鎌を持って片手を上げる女がやってきた。死神の小野塚小町だ。
「や、おはよう」
「本当に早いわ」
「ははは。いや~起きててよかったよかった。来てみたはいいけどお休み中だったらどうしようかなと」
「一応程度に見張りだからね。それに、ここを渡ろうとすれば寝てようが離れてようがわかるから。気にしなくていいわよ」
「なるほど、それで能力に介入されたのか。便利なもんだねぇ」
わかるにはわかるけど、少し空けるだけでもものすごく後ろ髪引かれる思いなので用事が出来ない限り動きたくはない。そもそも橋姫が橋を離れちゃいけない気はする。しかし出かけたいのも本心で、やっぱり橋の傍にいたいという矛盾で悶々と悩む日々。自由な奴が妬ましいわ。でも、能力に介入ってどういうことだろう。何もした覚えはないが。
目当ての物は部屋に置きっぱなしなので、小町に声を掛けてから戻り、掴んでまた橋に戻ってくる。さとり直筆ゆえにいろいろと問題が詰まっている木箱を。
手渡してやると何も知らぬ彼女は満面の笑みを浮かべるので、余計に後のことが怖くなってきた。さとりに仕事を首にされることはないが、死神から物理的に首を飛ばされやしないだろうか、私。
「助かるよ。あのさとりはなんと言おうか、浄瑠璃の鏡を使ってくるようなもんだから割と苦手でね。いや後ろめたいことはないよ?」
「あの目ん玉がどうにも邪魔なのはまさしく同意するけどね。あれさえなきゃ‥‥‥」
あれさえなければ、なんて、失礼な本音がつい出てしまう。言語の壁どころではないそびえ立つ対話方法の壁は、不都合な嘘とかがあるわけではないし腹を割って話せばいいと理解し慣れたとしても、やはり難しいものがある。
「けどま、怖いけどいい人って感じだよね、わかるわかる。映姫様と空気が似てるんだよあの妖怪。どうやら、お互い上司運は悪くなさそうだ」
「まぁ、そうかもしれないわね」
「あたいも映姫様でよかったよ~。閻魔ってどいつもこいつもアレな感じで、映姫様も例にもれず説教癖のある困った人だけど、聞く所はちゃんと聞いてくれるからさ」
「そう。ところでその映姫様って、閻魔のことよね?」
映姫。
確かさとりは、彼岸の閻魔のことを四季様と呼んでいたと記憶していた。映姫四季よりも四季映姫のほうが、四季を映す姫とは随分と閻魔のイメージに不相応な名だが、姓名としてそれらしく聞こえる。
この死神、もしや閻魔を下の名前で呼んでるのか。
質問に、小町はあっけらかんと笑う。
「四季映姫。あたいの上司だよ」
「下の名前で呼ぶって、閻魔相手によくできるわね」
「是非曲直庁ってまだ若い組織でね、各部署の閻魔も軒並みあたいと同程度か年下でさ。下手にお役所色に染まってないから、そういう意味で付き合いやすいんだよ。まぁ仕事上は目上だから四季様って呼ばないといけないけど、あたいにすれば友達みたいなもんさ。オフの日はたまに一緒に食事行ったりとかするよ」
「と、友達‥‥‥」
地上の鬼と地獄の鬼では勝手も違うのだろうが、閻魔は地獄の鬼を従える非常に高位の、神クラスでもない限り逆らうことなど許されない絶対の法だ。そんな相手にまさかそんな単語が出てくるとは。
眩暈などを覚えている間も小町は話し続ける。勇儀同様、姉御と呼ぶほうが似合うような雰囲気を持つ彼女は、やはり小事は気にしない性質らしい。
「オフと言っても説教するのが趣味みたいな所があるから、その辺飛び回って妖怪を捕まえては、ねちねちと。そうでないときは庁から出ることもあまりしないし、何やってるかと思えば判例読み漁ってたり。根が真面目すぎるんだよね。いや、そういうところはむしろかっこよくてあの人の美点なんだけど。いやぁ凛としてる姿って中々様になってて、後光が差してる感じだねまさに。カリスマって言うのかい?」
「そ、そうね」
「ただ生真面目すぎるのも欠点というかマイナス要素かねぇ。タイミング悪く誘っちゃうとお説教だし、少しくらい映姫様から誘ってくれてもいいのになぁと思わずには。ま、それだけ忙しいんだけどね。新地獄も火車の手も借りたいほど人手が逼迫してるらしいし、だからこんな話がそっちに来てるんだけど」
「はぁ」
「使えそうな覚妖怪と、育った地獄鴉や火車が宝庫に見えてるんで最近また煩くしてるが、ひどい話だよねぇ。そもそも閻魔王の奴らときたら」
くどくどくどくど。
いつの間にやら愚痴会場と化した縦穴に、彼女の声が響いていく。ペースを握られた私は呆気にとられるしかない。
しかしなぜだろう。小野塚小町が話しているはずなのに、お燐が目の前でおしゃべりしている気分になるのは。あたいという一人称のせいか快活な人柄のせいか、紅い髪のせいかも。それと、閻魔の人物像がさとりと被って見えるのも原因か。
お燐が大人になっちゃったらこうなるのか? いやいやお燐は愛らしいくらいが丁度いいから、将来もあのままってことでひとつよろしくお願いしたい。
とりあえず、その、私は愚痴嘔吐袋じゃないんで切り上げていただきたい。
「あなたも早く帰らないとまずいんじゃない?」
「お、っと、そうだね。品物は確かに預かったよ。機会があればまた」
「えぇ」
鎌を担ぎなおし、そのまま颯爽と元来た道を戻っていく死神に手を振って送る。
次会う時は、肩を怒らせながら鎌を振ってきそうで嫌だなぁと思いつつ。
□
珍客が帰ってしまうと、私はいつも通りの生活へと戻される。
内実こそ聞いたばかりだが、それでも私の仕事は「見張り」である。つまり同じ場所に立って、同じ場所を見つめるだけの仕事だ。しかも昨今では地底移住者もめっきりいなくなっており、先の小野塚のような例外でも来ない限りは、変化もないとわかりきっている場所を定点観測するだけなのである。仕事的にも効果的にも、田んぼに立てるカカシと大差ない。
目を開けていたところで誰も通らず、地底の辺境故に明かりもなく。仁王立ちして目を光らせるのも、岩肌に背を預けて目を閉じているのも同じであるので、食事代わりに丑の刻参りダンスでもする時以外は、私は常に後者を選択している。
やることが、ない。
その死活問題に気づいたのはいつだったか。そんなことを思い出そうとするほどに、やることがないのである。
もちろん見張りはしなきゃいけない。橋姫だろうと言われればそれまでではあるし、苦なのかと問われると別にそれほどではないのだが、それと退屈を覚えるのとは話が違う。暇なものは暇なのだ。
それだけに、年一回といえど地霊殿へ報告に上がるのは―――もはや遊びに行くのと同義な気もしないではないが―――大変ありがたいイベントである。ヤマメ達が誘いに来てくれるととてもうれしいし、ここから飛び出してみれば旧都の街は私を大いに満足させてくれる。水蜜や一輪、勇儀みたいに知己も増えて、地上時代より遥かに満足のいく生活だ。
もっと遊びたいな、と、欲が掻き立てられる。
こんな意味のない見張りをしている間も、ヤマメやぬえ達は旧都でよろしくやってるんだろう。なんて妬ましい。
濁った緑眼で旧都方面を睨み付ける。遠くの街明かりが岩肌を反射して薄く見える光を、果たして羨望の思いで見つめるべきか、敵意を持って睨むべきなのか。
「‥‥‥?」
視線の先の闇から足音がする。
複数だ。それも二人や三人ではない。恐らくは十名ほどだろう、誰かが来る。
地底妖怪、旧都民とは地上を疎んで逃げてきた輩なので、出て行こうとする妖怪などない。例外的に、人間とかの手によって地下に封じられた連中と言うのも居るが、彼らはこの地殻によって封じられた存在であり、その封印によって出て行くことはできない。監視対象ではあるが監視の必要がない存在。地震みたいな、封印が壊れるような何かが起こったわけでもないので城門破りと言うわけではないだろう。
なのに多数の誰かが、縦穴に来る。
起こり得ないことが起こるというのは、それすなわち面倒事である。そして面倒と言えば連想されるのは誰か。「縦穴に干渉していることを旧都に知らしめている」誰かさん。三つ目を持つ妖怪を思って、私は嘆息する。
果たして、ずらずらよやってきたのは、純粋なる種族鬼の方々であった。鬼の四天王が一人勇儀ほどではないが、中々の上位のようだ。そして、後列にはその勇儀の姿もあった。
面倒事だと確信して沈鬱になる間に、列の前に居た男の鬼が先手を取ってきた。
「やぁ、鬼女さん」
「どうも、おはよう」
岩壁にもたれるのをやめて、彼らと向き合う。
「我らは幹部会だ。少し話をしたいがいいか?」
「えぇ」
妖力からしてそんな気はしていたが、やはり幹部会か。
幹部会というのはその名の通り旧都を仕切る鬼の集合体のことで、腕っ節の強い順に参画している精強な軍団である。
鬼狩りによって、四天王という象徴だけでは維持できなくなった威光。影響力が低下し、それでも支える為に彼らが出した答えは、粒選りの精鋭兵で頭数を揃え周りに示すというものだった。要するに武力による威圧。
無双の鬼が束になったことで無敗を誇り、いつしか四天王という称号も消え、権力維持のための鬼の軍隊は、幹部会という一つの組織として主権を握るに至った、というのが山の衰退から地底黎明期までの歴史である。それに従ったのが各種族の代表ともいえる実働隊。誰に聞かずとも、私以外の地底のみんなが見てきた昔話だから語り草だ。
‥‥‥この説明で、おや、と思った方は正解。
こいつら、政事をやる為の知能集団ではなく、対話言語が腕力の連中だ。自分ルールに従わない気に食わない奴は武力で解決、そういう連中だ。こいつらが仕切る旧都の治安は兎も角として、お財布関係がどうなっているかは、まぁ、お察しである。
殴り合いになったら私なんかじゃまず勝てないような相手がごろごろと。なるべくは穏便に済ませたいところだが、そうも行かないだろうなぁと思う。
「水橋さんは、ここに来てどれくらいになるかな」
「百年ちょいじゃない? くだらない世間話はいいわよ、用件は?」
「そうか。旧都、幹部会としては縦穴の守備に人員を出してはいない。水橋さんがここに居るのは、古明地の指示という事でいいか?」
「その通りよ」
「古明地の指示で、誰かを通すことになっているとかはないか」
「ないわね」
「では。古明地と手を切ってもらいたい、と言ったら?」
竹を割ったようとはまさにこれを言うのだろう。ずばりな用件だ。
鬼と言うのはこういう奴らだ。良きにしろ悪きにしろ、愚直で嘘が嫌いだから、すべてがまっすぐ。なので、こいつらと対する場合は少しでも気弱なところを見せてはいけない。鬼とは下手に背を向けずに、まっすぐに応対したほうが良い。
言われずとも、向こうが喧嘩腰なら私も相応に対応するけどね。
「水橋さんには世話になった奴も多いし、今までこんな見張り仕事してくれてありがたく思っている。だから荒事にはしたくない」
「あんたらの相談ってさぁ、抜身の刀ちらつかせるのがそっちの常識かもしれないけど、脅迫だからねそれ?」
説得という割には殺気立っている面々に、私は嘆息する。彼らにとって、今現在の私は同じ地底の仲間ではない。縦穴と言う辺境に住む不穏分子。地底にやってくるなり、皆で苛めようと決めた覚妖怪に肩入れする不純物。さとりにつく敵対勢力だ。
「ここは地底だ。勝手をやられては困る」
「辺境、縦穴なんて見向きもしなかったのに、今更に領土主張とは。まぁいいけど。ここも地底には変わりない。それで、拒否した場合は私はどうなるのかしら」
「想像にお任せするよ」
「あ、そう。ま、仲間でもない奴は地底から叩き出すってところかしらね。さとりに雇われてここに来ただけだし、住処なんて別に地底でなくてもいいけど」
ようやく手にした平穏な日常、惜しくないかといわれれば惜しいが、私は地底よりもさとりを優先する。
戦において鬼は最強だ。少なくともそう言って差し支えないくらいの力がある。武力をちらつかせただけで下級妖怪は裸足で逃げ出すだろう。
だが。悪いけど、橋は簡単に移動できないのよ。
「橋はこちらとあちらを繋ぐ物。この橋はさとりが架けた。求める奴がいる限り、この道を絶えさせるわけには行かない。橋はこちらとあちらを繋ぐ物。往来は見守るが何でも通すわけじゃない。私はここの番を命じられた。こちらを犯すものは流入を許さない。私は橋姫、橋と共に在る者。この場は動かない」
「‥‥‥」
「あんたらこそ、橋姫の橋に手を出したら。わかってるわよね?」
睨む。私はお前達の敵だ。そう言ったに等しい。
相手が相手だ。言ってしまった、とはもちろん思ったが、後悔はない。私は、地上のあの場で死んでいたはずの身だ。それをどういう意図経緯であれさとりに救ってもらった。さとりと契約した。さとりに身を捧げるのはごく当然であり、同時に私の意志だ。
さぁ後は根競べだ。どっちが先に折れるか、もしくは戦端が切られて一方的な殴り合いが始まるか。なにせこっちの勝率はゼロパーセント。知るか。命惜しいならとっくにさとりの下なんてやめている。
心の中で、いつ来てもいいように身構える。鬼だと感情むき出しでいきなり殴ってくることもあるかもしれない。来るなら来い。
「‥‥‥ふ」
「?」
「あっはっはっは!」
「‥‥‥何?」
どうしたことだろう。それまで私と剣呑なやり取りをしていた先頭の鬼が、笑い出したのだ。
笑い袋は伝染して、他の鬼までにやにやとし始める。何よ一体。
「いや、まさに鬼女だ。いいね!」
賛辞だろう。殺気が消えうせた幹部会連中に、私は付いていけない。さとりが絡んでいる以上、私って旧都連中の敵で間違ってないわよね。さとりに付いている私が邪魔だから潰しにきたのかと思っていたのだが、なんだか違う気がする。
私が素っ頓狂な顔をしていることに気づいたのだろう。幹部会連中は口々に教えてくれた。
「あぁすまない。近頃、地底妖怪じゃない奴が旧都をうろついてたって話があってな、鬼女さんが黙って通したんじゃないかと疑っていたんだ」
「いやしかし、幹部会相手に啖呵切る奴は久しぶりだ。やっぱり水橋さんも鬼なんだな」
「さとりの肩を持ってるのは知ってる。出来ればやめてもらいたいのも事実だが、やることやってくれるなら問題はねぇ」
などなど。勝手に言ってくれる目の前の連中。
やることとは、ここから妖怪を侵入されないという件のことだろう。建前とはいえここの守を任された以上、別に手を抜く気などなかったが。よかった、ちゃんと仕事してて。
「妖怪を通さなければ問題ないのよね。書簡とかは大丈夫なの?」
「ん? あぁ、その話は勇儀姐さんからも聞いた。書簡くらいは仕方ないだろう、誓約違反と言うわけでもないしな」
「それまで禁止にしてたら縦穴が開いてる意味がねぇや」
「違いない」
そしてまた笑い出す幹部連中。
‥‥‥頭が痛くなってきた。鬼が豪放磊落なのは知れたことだが、どうでもいいと思った点についてはとことん寛容らしい。こっちはあれやこれや考えて気を張っていたのに、なんだかさとりと会話するより疲れた気がする。
私が呆れる間にも話は勝手にまとまったらしい。よし帰るぞ、と彼らは意気揚々と反転。別れの挨拶の言葉を残して彼らは引き返していった。用件が終わったらすたこらさっさ。わかってる。鬼のこのすっぱりさっぱりなところが他の地底妖怪に気に入られているのだ。わかっているが、あぁ、さらに頭痛が。
と。
その幹部会連中に一言かけて、この場に残る女がいた。私と個人的な付き合いがあることも知っているのだろう。幹部会達は諾して、彼女を置いて去っていった。
残ったのは、勇儀だ。勇儀の顔を見上げると、彼女は大きく笑った。
「悪いな、パルスィ」
「一体どうしたの」
「なに、ちょっとした勘違いさ」
「ちょっとした勘違いとやらで幹部会が動くのね、地底は」
私はひとつ息を吐いて、元の岩壁に背を預ける。
どうだい一献と、勇儀専用の杯を手渡され、何も答えていないのに彼女は手にした酒瓶を傾けて注いでいく。今の件の慰労のつもりらしい。
勇儀の杯に注がれた酒は、どんな安酒であろうが極上の美酒に変質させる力があった。ただし、すぐに飲まないと変質が過ぎてゲロマズになる。仕方なく、一気に煽り飲む。喉に来る辛い酒だったが、やはり美味しい。
杯を返して、とりあえず私は話を聞くことにした。
「それで、突然の訪問は一体何?」
「うん。パルスィは知ってるかもしれないな。さとりが、彼岸の関係者と密会してるって話。地底妖怪じゃない奴ってのはそいつのことだ」
「この前追い返した死神も、中に入るのが当然みたいな態度だったから密会ってのはそれでしょうね。で、何、今までそのやり取りのこと知らなかったの?」
「いやいや、彼岸とのやり取り自体は昔にさとりからも報告があったし、内容も知ってる」
「だったら」
「一度は済んだ話のはずなんだ。けどここのところ、使者の出入りが活発みたいでね。さとりのほうから改めて連絡はなくて、二月ほど前かな、催促してやっと近況を報告してくれたんだが。それでまぁ、幹部会が疑心暗鬼になってな。黙って頻繁にやり取りしてたのは、さとりが地底を売ろうとしているからじゃないかって」
さとりめ、彼岸の要件を受け入れるなんて当然ありえないし、一度指示をもらってるからということで鬼に報告しなかったと見える。仲が悪いから意思疎通に問題が出るのはわかるが、ここまでくるとさすがの一言である。
「使者の侵入口があるってのを突き止めて、すぐに封鎖したそうだ。しかしそれで諦めるわけもなし、死神は今度は縦穴に回るだろう。で、その使者をパルスィが黙って縦穴から通すかもしれないって、疑惑と言うか心配だな」
「地上妖怪を流入させないって決まりのあれね」
「そうだな」
話すうちに、ふわふわとした感覚がやってくる。度数がどれほどあるかは知らないが、勇儀の酒は強いのだ。
それにしても、だ。
「私さ。ずっと、ここにいるじゃない?」
「あぁ」
「言うまでもなく私はさとりの味方よ。あんたらから監視っぽいのが付いてたのも気づいてた。だからさ、旧都の奴らに敵視されてるんだと思ってた」
さとりが地底でどれほど嫌われ忌まれているかは、地底にやってきてすぐに知った。恐らくさとりが地霊殿に入居したのと、私と出会ったそれはそう時期は離れていなかったのだろう。旧都方向から漏れ聞こえる地底妖怪の話題は「鬼を負かすやばい覚妖怪がいる」で持ちきりだった記憶がある。
さとりに誘われてやってきたという事は隠さずに伝えていたから、ヤマメやキスメが最初に近づいてきた時は、あぁこいつらが私の監視かと思ったものだ。あいつらは本気で、ご近所付き合いの延長で私に絡んでいただけ、と理解するには時間を要した。それまでは、私も来たばかりでメンタルを立て直すのに忙しく、随分冷たく当たってしまった気がする。
「さとりが絡んでくるから感情は複雑だが。そんなことはない。パルスィ、お前は地底の仲間だ。だから、さとりと組まないでくれって話にもなるのさ」
「私、あんた達に仲間って思ってもらえるようなこと、したかしら」
私の出身は地上だが、山とは離れた人里と人里の間の川にいた。面識があるといえば川関連で河童とか厄神とかだったが、私自身は鬼グループにいたわけではない。無条件で輪の中に入れてもらえるような事をした覚えもなかった。
しかし勇儀は陽気に語る。
「心に、体に傷を負ってここまで逃げてきた。同じ境遇、地底に居る妖怪はすべからく友人だ」
「そんなもの?」
「そんなものだ」
それが、彼らの思考にある基本事項らしい。この、懐が深く見えるあたりが鬼の人気のひとつなのかもしれない。
「そもそも、パルスィに感謝してる奴は多いんだぞ?」
「いや、何もやった覚えはないけど」
「パルスィがここに来てからは、地底に下りた妖怪がまず最初に見る地底妖怪はパルスィになる。ヤマメ達はよく縦穴から席を外すからな。不安で一杯だったところに、出迎えみたいに立っていた姿がうれしかったって、結構回ってる話だよ」
まぁ確かに、橋とはこちらとあちらの間にある隔たりを繋ぐ物だ。移住希望者だと確認を取った上で、まっすぐ行けばたどり着くと声をかけただけなのだが。橋の手前でまごつく奴にとってはありがたかったのかもしれない。
「じゃあ、なぜさとりだけ例外なのよ」
「さとりとは、覚妖怪とは、まぁ、いろいろあったんだ」
「そのいろいろの部分が肝要でしょう」
こじれている理由は間違いなくそこである。恐れるあまり、さとりは地底から逃げることまで考えている。それだけ追い詰められた理由、鬼が追い詰めた理由が、「心が読まれるから」なんて緩いことではないはずだ。
勇儀は杯を一杯煽った。
そして深くため息をつき、しゃべりだした。
「おとなしい奴だった」
「さとりが?」
「覚妖怪全部。あいつらにとっては心を読めるのが当たり前、山時代から気味悪がられてたが。それでもひっそり生きてて、多少のやり取り以外に交流があるでもなかった。けど、地上に住処がなくなったって言って地底にやってきて、地獄街の端のほうで固まってた。‥‥‥目立つようになったのはそれからだな」
「何かやったの?」
「いや。ただ、地底ってのは限られた土地で、山みたいに森林や地形で閉ざされることもない場所だ。覚妖怪がそこに住んでいるって話はすぐに町中知ることになった。そしてうちらは、地上からようやく逃げてきたばかりで気が立っていた。すぐに衝突することになったよ。覚妖怪の相手が、隣に住んでたのが交戦派の荒れた鬼の一派閥だったのは、まぁ、不幸だったな」
不幸だったななんて他人事みたいに、と憤りそうになって、押さえる。今は黙って話を聞こう。
「鬼達はやけに覚妖怪を恐れて敵視していた。まぁ当たり前か。鬼殺しの方法を読心で暴かれちまうわけだからな。で、どこでこじれたか衝突し始めた。幹部会が事態を聞いた時はもう、鬼を守るためだって息巻いて実働隊連中も動いた後だった。もう手遅れだったんだ」
「情報の伝達が遅くない?」
「珍しくもない辺境の喧嘩だと思って無視してたんだ。その間にも鬼達は、あいつらは鬼狩りの方法を知っている侵入者だって触れ回って、散り散りに逃げ始めた覚妖怪を追撃した」
有限の地底世界で、天下の鬼と有力な地底妖怪に追い回される。
先に見た夢の内容を思い出す。
貴重な最後の一個。最後の覚妖怪。
刈り取られたのだ。
「すると、ある時から追っ手が次々と手にかかった。一人ずつ、一人ずつ、そう弱くない奴らが。読心と幻術の合わせ技らしいな。見せしめだ」
読心と幻術の合わせ技か。鬼殺しの方法とそいつのトラウマを読み取って、幻術として何度も何度も執拗に見せ付けるというやり方なのかなと考えたが、考えただけでエグい。激昂ていたであろうさとりが手を抜くわけもない。
「これはまずいと幹部会で議題になった頃、さとりは交渉に乗り込んできた。自分の能力を売りに来たんだ。たいした肝っ玉だよ」
「その先は知ってる」
「さとりが話したのか?」
「ん、まぁ」
夢で見ただけだったので曖昧に返事をすると「そうか、話したのか」と、勇儀は一層深刻そうに表情を陰らせ、また杯を煽った。
獅子身中の虫になるとわかっていても、幹部会はさとりの力が欲しかったのだろう。先に述べた通り幹部会とは名ばかりの武闘派集団でしかない。そして読心とは、謀略を確実に見抜けるこれ以上ない対抗手段になる。散々に人間の謀略でやられてきた鬼種族にとっては最強の盾だ、これは是非手に入れたいであろう。
「まぁ、そういうわけだ。さとりは私達を恨んでいる。もし彼岸がさとりを支援すると言い出したら、さとりは鬼の下にいることをやめて報復しに来るに違いない」
「あら、鬼とあろう者が怖いの?」
「あぁ怖いね。さとりが本気でかかってきたら、どうかねぇ。勝てるかねぇ」
それはさすがに過大評価ではと思ったし、あまりに真面目に答えてくるから少し笑ってしまった。元四天王がこんな反応をするということはまったく笑えないことなのだが、さとりの悪評を聞くたびに、彼女がお燐たちに向けている、あの穏やかな表情がちらつくのだからどうしようもない。
恨まれるようなことをしたと自覚してるし、仕返しを恐れてる。実際のさとりは鬼の怒りを恐れているわけで、つまり互いの喉元に食らいついてビビってる状態。動けば致命傷間違いなしだけど、緩めたら食われるかもしれないから、噛み付いたままで言葉も交わせない。これでよく今日まで持ったものだ。
「天狗も河童もいない地底で散々不便をしてきて、皆、鬼だけじゃどうしようもないことがあるって頭の隅で理解してきた。妖怪ってのは一芸に秀でるが、鬼の一芸は腕っ節だしな。それに種族が種族だ、昔から策謀に弱い」
「脳筋だとか言って旧都の奴らに笑われてるわよ、あんたら。それに喜んでついていく馬鹿共ばっかりだけど」
「ありがたいよ。まぁそんなところに、心が読めるだけじゃなくて頭もキレるさとりだろ? 地底の覚妖怪は、少なくとも存命がわかっているのはあいつが最後だ。代わる人材なんて見つかりはしない。幹部会としても頭が痛いんだよ」
鬼は剛の支配者ではあるが、それを絶対的な法たらしめていた臣下たる情報の天狗と技術の河童は、鬼の不足を補って余りあるまさに神器だったのだろう。土木の土蜘蛛は手元に残ったものの、それ以外に列挙できるような人材が払底しているのが地底の実情。見事に『知』を失って半身不随状態だ。
「できれば、うまくやっていきたい。散々に苛めておいて虫のいい話だがな。だがまぁ、無理だろうな」
「無理と思う理由は?」
「主に幹部会だな。外部との交渉の為にさとりに地底代表の看板を渡しているが、覚妖怪に権威を取られている形が気にくわないって奴らが多い。地底の頂点は鬼だってことにしておきたいし、そのためにさとりには鬼に傅く従順なご意見番で収まって欲しいのさ。さとりがこちらを恨んでいるのが明白で、何をしでかすかわからない恐怖ってのもある」
「不安と憎しみは判断を狂わせる、その判断は恐怖と怒りが実行させる。行く末は言うまでもない」
「鬼女。なるほど」
感心したように、勇儀。まぁこれでも、嫉妬という限定的状況ながら心を操る力があるからね。こういう方面の話は得意であるし理解もあると自負している。
しかし、いつ爆発してもおかしくないほどの心の化物を抱えつつもさとりはそれでも耐えている。それは、いつでも逃げれるという安心感を買いつつ、心安らかにできる居城があるからだろう。この均衡をさとりの側から破るとは。
「まぁ、ないわね。さとりは自分の生活第一みたいだし」
「ないとは言い切れない」
「ない。だって、実際に起こってないもの。そうでしょ?」
「まぁそうだが、それも結果論だ」
人を突き動かすのは恐怖というが、地底にばら撒かれた畏怖と推察が、鬼の力以上の効力を伴って彼らの心を縛り上げている。さとりにその気はないのだろうけれども、地上を失ったその傷痕に入り込みすっかり熟成されたそれは、地底のパワーバランスを変えかねないほどの力になっているのである。
地底世界全部を相手に一人で立ち向かって、拮抗まで持っていっている。恐ろしい女だ、とも思うが。
まぁ、私の考えは変わらない。私の橋は彼女が作ったもので、私は彼女の傭兵。悪鬼に堕ちたさとりの姿が見たいわけでもなし。
と。
「今日は、来客が多いわね」
旧都方向から、今度は恐らくお一人様がやってくる足音と気配を察知して私は呟く。
小野塚、幹部会と勇儀ときて、これで3グループ目だ。これほどの大盛況が今まであっただろうか。いやまぁ、どいつもこいつも面倒事抱えて爆発しに来るもんだからうれしくはないけど。
‥‥‥訂正。
あんたなら吝かじゃないわよ。さとり。
赤い三つ目をさげた少女の姿。どうやら昨晩の一件からは立ち直ったらしい、彼女はいつもの地霊殿の主のしっかりとした顔だった。
ただまぁ、火元がここに来たってことは、火薬庫たる旧都を通ったわけで。下手すれば、先ほどの幹部会連中とすれ違っている可能性すらあるわけで。
引火していないことを祈っておくか。祈る神もこんな最果てにはいないけれど。
「おはようございます星熊さん」
「おう、おはよう」
無表情という名の険悪な顔と、抑揚のない低めの声でさとりは挨拶を交わす。
彼女と同じ空気を吸う気はなかった、というよりは、喧嘩中の心を読んでくる奴と一緒に居たくないだけかもしれないが。勇儀が「またな」と言葉を残して動く。
そのまますれ違う両者。友好のゆの字も見えない。
さっさと横穴を後にしようとする勇儀。その勇儀の視界外に出た瞬間、表情をいつもの緩いものにスイッチするさとり。さとりに対しての勇儀の感情は読めているはずだが、手遅れ感がすさまじい。
「いらっしゃい」
「昨日はありがとうございました。とんだ醜態を見せてしまって」
さとりはひとつ頭を下げてから、勇儀が去った方角を見つめて。
「間が悪かったようですね。また、幹部会がうるさくなるかもしれません」
「どうかしら。遅いか早いかの違いしかないと思う」
「そうですね。しかも、時間を置いたせいで今では腐って異臭まで放っています。解決する気がなかったからですが、悪化の一途です」
「そんな生ごみポイしなさいよ、ポイ」
言って、捨てられるものならとうに捨てているかと考えを改める。
それにさとりは、少し驚いた顔で。
「知っているのですか? そうですか、夢で見たと。随分と、鮮明な記憶ですね。こういうのも、物を介して通じてしまうのですね。申し訳ないことをしました」
「何を今更」
「それで、生ゴミを捨てろですね。いえ、私は捨てているつもりなのですが、あちらがゴミ捨て場を漁ってくるんですもの」
「あれま意外。もっとこう、憎んでるのかと思ってた」
「その感情を持っているのはむしろ彼らのほうでしょう。私のは、第一には昨日話した通り『恐ろしい』ですが、そうですね。『悔しい』が正しいかと」
その割には緩い表情を崩さない地霊殿の主。
どっちにしたって嫉妬に連なる感情であるわけだが、この女は本当に化物だわ。昨日私がやったのは一時的に化物を黙らせただけだ。消滅させたわけじゃない。あんな怪物を飼っておきながら、なんで感情を抑える余裕があるんだ。普通なら食われて暴走している段階だと思うが。
それが元の気質かは知らないが、心が強いのだろう。多少のことではへこたれず諦めない、芯の通った意思。石頭とも言うかもしれないが、強さの秘訣であり魅力。
「悔しい、ね。負けたことが? 仲間を失ったことが?」
「負けたことは悔しい、追いやられたことは苦しい。同族の仇とやらも、もちろんそれなりの感情はあります。でも、それ自体はもうどうでもいいんですよ。私は、こいしやお燐達と何事もなく過ごして、静かに読書ができれば何も言いません。こんなことを言ったら、死んだ仲間が夢に出てくるかもしれませんがね‥‥‥薄情と思いますか?」
「同族って言っても他人なわけだし、そいつの名誉だの誇りだのの為に自分の人生棒に振るのは、う~ん。そういう感情自体は橋姫的においしいんだけど」
「あなたは本当に変な人ですね」
「割とまっとうこと言ったつもりなんだけどなぁ」
なぜか不思議がられた。さとりは、橋姫をどうしようもなく嫉妬狂った獣か何かと思ってはいないだろうか。彼女の持つ橋姫のイメージが、ちゃんと修正されていないようである。
それにしても、自分が受けた過去の仕打ちをどうでもいいと来たか。こいつは緑目の化物を飼いならしているが、嫉妬心は感情でありきっかけ。やがては別の感情を取り込み大きくなりながら変質するものだ。長く時間を経るにつれてきっかけとした感情が風化する、という事もある。さとりの中では、砂のように崩れたどうでもいいことになっているのだろうか。
などと考えている思考は、さとりは当然に読む。そして、答える。
「そこは難しいところですね。私は鬼達が好きではありません、過去を忘れてもいません」
「でしょうね」
「えぇ。ただ、鬼の世は、私は支持しますよ。規律や種族で括りたがる天狗の山の話を聞くとなおさらですね。だから、力を鬼に売り込んだこと自体は間違っていないと思っています」
「嫌いなのに?」
「これは鬼個人が好きか嫌いかではなくてですね。単純に、鬼の時代が一番過ごしやすかったんです。嫌いだけど仕事は評価するって感じです。上位の天狗は種族ごとに優劣をつけて区分し、余所者には風当たりが強い。異質を嫌う風潮では本当に窮屈でしてね。それが決め手で皆で地底に逃げたようなものですし。それに比べてどうですか地底は」
少々熱を帯びた口調で、さとりは続ける。
「少なくとも鬼は、あらん限り粗暴ですが平時はおおらかです、彼ら自身が規制を嫌い自由を求めるから、その世も同じようなものになる。法らしい法などないのに無法ではなく、この通り旧都は平和が保たれている。情に厚くも厳しく強く、寛容さも備えている王。民が王に求めるのは自由と公正な罪刑、そして安寧。それを全部叶えてくれるんですから、得難いものですよ。彼らが覇者たりえたのも納得です。豊かさなどは彼らを慕う臣下が築けばよいのです。もっとも、その臣下の人材が地底は足りていませんが」
鬼と言うのは感情剥き出しでぽこぽこ殴ってくるくせに、そんなところだけは律儀な種族なのである。だからこその魅力であり、少々頭が弱くてもこうして旧都民もついて行っている。そういうことなのだ。
‥‥‥あれ?
私はあることに思い至る。
勇儀は、さとりの力を認めてるし関係改善を望んでいる。惜しむらくは幹部会の意向になっていないこと。
さとりは、鬼の治世を支持して関係改善も吝かじゃない。ただし率先して改善する気はない。
「これ、仲良く出来るんじゃない? ですか。まぁ、どうでしょうね。私達には遺恨があります。大いに努力が必要なのは間違いないでしょう」
「それも片方じゃなくて、両者歩み寄りね。険しい道だわ」
「今のところは、その対価を払おうとは思えません」
歩み寄り。それには、鬼がさとりに向ける感情と、直近の問題で言えば鬼連中からかけられている嫌疑をどうにかしなければならない。あいつらは、さとりが復讐のために地底を売ろうとしていると思っているみたいだからね。
「彼岸から証言してもらえばさすがの鬼でも納得する、と思う?」
「そうかもしれませんが、交渉は決裂中ですだなんて四季閻魔の立場では言えないでしょう。目の前に利益が転がっているわけですから、十王クラスから圧力があれば状況が悪化しかねません」
「そこは大丈夫でしょう。何せ閻魔よ、世界の法よ?」
「その閻魔の頂点に立つのが十王です。完全な悪というのは本当に少ない。ないと言ってもいいでしょう。彼らにとっては、現地獄の窮状を救う善行とも言えます」
「うわひっどい理論。どうしたものかしらね」
嘆きの台詞を吐く。今のところ、さとりサイドから出来る有効な手が思いつかないのだ。
「そうですね‥‥‥まずは、橋の修理でしょうか」
「あぁ、それが一番建設的だわ」
「‥‥‥まさか、パルスィがそんな寒い洒落を言うとは」
「え? ち、違うからっ、そういう意味じゃないから!」
洒落と言われて、自分の言葉の意味を理解して急いで否定する。
しかしそれで、さとりはくすくすと笑ってくれた。それを見ていると、まぁいいかな、なんて思えてしまう。
「ほら、さっさと終わらせて頂戴。今日こそ飲むわよ」
「あ、はいっ」
結局飲みそびれて自宅に置いた酒瓶を頭に描いて声をかけてやると、さとりは声を弾ませて答え、自分が散らかした工具の元へととえとてと駆けて行った。
こいつと飲む酒は、きっと美味いだろう。そう思いながら、作業を再開し始めた彼女の姿を見つめた。
□
一日経ち、二日経ち、三日が経過した。
数日前、ここに幹部会が乗り込んできた。
となれば、地霊殿のほうは一体どうなっているだろうか。
幹部会が五月蝿くなるかもしれない、との懸念はさとりも持っていた。
ここにいては地底の話などろくに入ってきはしない。気が気でないから旧都に出向いて情報収集をしたかったけれど、この場を動かず無用に刺激しないことが彼女の為であろう。そう考えて、やきもきしながらも勤めていつも通りを装い続けた。
そうして今日で四日目となる。
暗闇無音の中、四日も耐えるのはかなりストレスのたまるものだ。気苦労で心に余裕がなくなっていく感覚。自身で感じて自制できるだけまだいいのだが、ひどく落ち着かない。
いつものように堅く冷たい岩肌に背をもたれて、けれど普段地上側に向けている顔はほとんど旧都側に釘付け。待ち人は今日も来ない。お先真っ暗。何も見えはしない。
どうしても気にかけてしまうから、私は瞳を閉じる。開けたくなる衝動も抑えて、腕を組みぐっと瞑る。
そうするのは地底の見張りを始める前から、上にいた頃からよくやることだった。もっともあの頃は、目に付くすべてが妬ましくて気が狂いそうだったからしていた自衛措置だったのだが、今も本質的には変わりあるまい。
視覚を潰すと聴覚ばかりが冴え渡り、洞窟に反響する水音や遠くで響く多数の声が大きく鳴って五月蝿い。が、その音にも無視を決め込み無心を心がけ、慣れ親しんだ闇に包まれる。
そのうちに、若干の睡魔がやって来る。頭も体も動かさないから思考は鈍り、わずかに体が冷えていくのを感じ、腕を抱いて最小限暖める。寝るつもりはないので時折意識は引っ張り上げられ、まどろみの中、またゆっくりと、ごく浅い眠りに落ちていくことを繰り返す。
そうして時が流れることを、答えが出ることを待ち続ける。気持ちが整理されるまで眠り続ける。
闇を見つめるのは好きだ。何も瞳に映らないから、心かき乱し嫉妬を掻き立てられることがないから、落ち着く。
誰かが来るのを望みながら、佇み続けて。
わずかな音の変化に心揺さぶられ、閉じていた目を開けて。
何も無いことを理解して、失意に瞼を下ろし。
全部を諦めて、それでも待ち続けて。
時の経過すら分らなくなる。
どうでもよくなることさえ考え至らず。
静かに自分が消えていく。
闇に食われ。
突如、心に強い恐怖が沸いた。
「っ!」
水に溺れたような息苦しい感覚と寒気がして、怖くなった私は慌てて眼を開け周りを見る。明かりの乏しい闇と無骨な岩肌と、ちんけな橋が変わらずに出迎えてくれたことに安堵して、ほっと息をついた。
やっぱり精神的なゆとりがなくなっているらしい。鈍った思考で変なことを考えていたようだ。今の一時で乱れていた呼吸を整えて、右手でこめかみを押さえる。
昔はそれでよかった。
私には何もなかった。失うものなどなかった。そのまま消えてなくなってしまってもよかった。
けど。
今はこのお粗末な橋がある。この橋には彼女の心が在る。
私は、彼女の為に働くのだ。
「‥‥‥はぁ」
もう一度、息を吐く。
恐怖に起こされたはいいが結構寝てしまっただろうか。よく寝た気分になっていたので3時間くらいは経過した気もするが、案外20分と経っていないかもしれない。時計も太陽もないので、いつも通り縦穴に降って来る地上の明かりの量で大雑把に把握しようと地上側を見やる。しかしどうにも今日のお天気は曇り模様らしく、さっぱり判断できなかった。
3時間も数十分もたいして変わりはないか。どうせ通る奴なんていないし、私のやれる事もない。もう一回まどろみに入ろうと、また腕組みして瞑想に戻ることにした。この長い妖怪人生、そろそろ新しい宗教を開いたり、自分の中の真理を見つけてもおかしくないくらい瞑想していると自負しているのだが、主にさとりのことでいまだに思い悩む日々が続いているとはどういうことだ。仙人とかは狙ってないので構わないのだが、多少くらい状況の好転を見てもばちは当たらないと思うのだ。
目を閉じながらもどうでもいい事に手を伸ばしつつ、また微弱な睡魔が生まれてきたので彼らに身を任せる。気持ちも改めたことだし、今度は良い具合に呆けられそうだ。呆けるとか思ってしまっている時点で真理など見えようはずもないとの突っ込みは、心を読めるさとり以外からは飛んでこないだろう。よって安心して眠れる。
毎日のように通い詰めていたヤマキス二名も、ここ三日ほどは私の目の前を通らない。何かしらを漏れ聞いて、気を遣わせてしまっている可能性も高い。せめて花札でも持ってきてもらって遊びたいものだが、それを時局が許すのはいつのことか。
足音。
研ぎ澄まされた聴覚が旧都からのそれを察知して、私は静かに目を開いた。
下駄の音ではないが、音の感覚からするにこちらに向けて走っている。もはや嫌な予感しかしなかったが、足音の主を視界に捕らえてそれは確信となった。
小柄な体、紅い髪。闇に溶け込む暗い衣服。どこかで見たそれが疾風のごとくやってきた。
「お姉さん!」
呼んでなお駆け、目の前で立ち止まったお燐は膝に手を付いて俯き、咳き込んだ。完全に息が上がっている。地霊殿からは相当な距離があるとはいえ、かなり飛ばしてきたようだ。飛べばいいじゃん、と数瞬思ったが、元が猫だから妖力使って飛ぶよりも走るほうが良かったのだろう。
お燐の口から朗報は聞けそうもない。また焦りが私を蝕んでくるが、何とか堪えて彼女の肩に手をやり尋ねた。
だが持ち上げられたお燐も半泣き顔で、余計に不安が膨れ上がる。
「どうしたの、お燐」
「鬼たち、が、地霊殿に、乗り込んで来てっ!」
「‥‥‥!」
乗り込んだってまさか。
頭をよぎる、討ち入りという単語。
一瞬で頭が沸騰するのを感じる。
勇儀あいつ、何も留めなかったの!?
「さとり達は無事なの? まさかいきなり実力行使だなんて」
「いや話し合い! 話し合いで来たとは言ってるけど」
「あ、あぁもう脅かさないでよっ。鬼がそう言うって事は、少なくともその気はあるんでしょう」
「でも何人も押しかけてきて、門の前も人だかりになってて。さとり様は大丈夫って言ってあたいたちを部屋から追い出すし、お空は戦える連中集めて叩き出してやるって息巻いてて。留めてはきたけど、どうしていいかわからなくて」
お燐の焦る声に流されそうになるが、ここに来れる程度には余裕はあるのだ。一つ深呼吸しろ、落ち着け私。
さとりは悪いことをしてるわけじゃない。鬼が話を聞いてくれれば済むのだが、今までが今までだ。順風満帆とはいくまい。
さとりには最後の、本当に最低最後の選択肢として「地上に逃げる」がある。が、そんなことをペットたちの前で言えるわけもないから人払いをしたのかもしれない。お燐たちと違って、私はそのあたりの事情も状況も知っている。傍にいてやれるかもしれないけど、居た所で何が出来るのかと聞かれると難しい。パルスィも下がっていてください、とか言われるオチも十分すぎるほどありうる。
そんな風に呆けていたら、グイと、服を引っ張られた。
お燐が私の上着を握り、上目遣いに懇願してきていた。
「お姉さん。お姉さんはさとり様の、味方、なんだろう? た、助けて‥‥‥」
紅い瞳を不安定に揺らして、今にも泣きそうで。頼れるお姉さんみたいなところがあるけれど、それでもやっぱり、この子も子供なのだ。さとりの嫌われっぷりは地底に轟いているから、私からも拒まれるのではと不安なのだろう。
私の仕事は、さとりが逃げられるようにこの道を開けておくこと。鬼に囲まれているあいつを救い出すまでの義理はない。もちろん私は。
助ける。
鬼共が地霊殿に居るのなら、今すぐ縦穴がどうこうということもない。何かあったらさとりの所に飛んでいく。頭のどこかで最初から決めていたことを今更に考え至る。義理とか何とか、関係ない。
拒絶の回答を恐れて怯えている子猫の頭を、そっと撫でてやる。
「えぇ、あいつの味方よ。遠いのにがんばったわね」
「よかった、よかった‥‥‥」
呟きながら、そのまま崩れ落ちるんじゃないかというほどに肩の力を抜く小猫。
さて、これから遠路遠征して援軍に向かうわけだが、ただでさえ役立たずなのに手ぶらでいいものか。ここから何かできることはないか、もう少しカードを増やせないものか。
さとりの味方。妹、ペット共、私、それとなく勇儀。ならば勇儀を呼ぶか、いや、あいつはもう地霊殿に居るはずだ。この前私のところにいきなり幹部会が現れたところを見ても、こういうのは率先して出向くのが鬼の流儀だから、確信がある。他には?
四季閻魔。
上からの圧力があれば、とさとりは言っていたけど、閻魔自体は確かさとりの味方だ。こいつなら使える。
しかし呼びつけるわけにもいかないし‥‥‥そうだ。
「お燐。是非曲直庁ってどこにあるか知ってる?」
「そんな関係のないことを」
「あるわ。あんな書類が役に立つかわらないけど、私から何かしてやれるとしたらそれくらい」
「書類? ‥‥‥うん、元お上の場所くらいはわかるよ」
「よかった。場所を教えて」
閻魔とは厳格なものである、かはどうかは知らないがイメージ的にはそうだし、わざわざ書類の束を送りつけるようなところだ。事務処理には五月蝿いだろう。なれば彼岸まで行けばこれまでやりとりしてきた書類が、さとりが何か一筆書いていた書類がきっと保管しているはずだ。適当に言いくるめるなり懇願するなりであの時の彼岸からの書類を手に入れれば、戦力の足しにはなるだろう。叶うなら閻魔の一言ももらいたいところではある。
彼岸を思いっきり恨んでいるお燐を使いに出すわけにはいかないし、何の用件か分っている私が行った方が確実。そう考えての進言だったが、お燐はまた慌てた様子で食いついてきた。
「いいよ、それならあたいが行くっ」
「教えてくれればそれでいいわ。お燐は先にさとりの所に戻って」
「違うよ、違うんだよお姉さん」
「けど他には思いつかな」
「お姉さんっ!!」
「な、なに?」
先ほどよりもさらに苦しい顔になったお燐が叫んできて、思わずびくりとしてしまった。
お燐は、泣きそうな顔で続ける。
「あたいたちも、こいし様も部屋を追い出されちゃったんだ。あたいたちじゃダメなんだ。お姉さん、どうかさとり様の傍にいて、さとり様を一人にしないでおくれよ。もう頼れる人がいないんだ。道具なんてあたいが取ってくるから」
「でもお前、彼岸は」
「さとり様のためなら何だってするさ! だから」
お燐がしがみついてくる。それだけなのに、ガツンと、頭を殴られた気分だった。
なぜお燐が、地霊殿から凄く離れた縦穴まで着たのか。
ここしかなかったからだ。主人のことが心配で心配で、傍にいたいけど居られないから、それが出来る人を探しに来たのだ。大嫌いな彼岸にだって行くといっているのだ。私だって地霊殿に向かうつもりではいたけど、本当なら一も二もなく駆け出さなきゃならなかったんじゃないか。呑気なことを言っている場合ではない。私は馬鹿だ。
だったら。
「船頭の死神、名前は小野塚小町。長身で赤い髪の女よ。この前の書類をすぐ寄越せって‥‥‥怒鳴ったらまずいわね。頭下げてきなさい。私も、すぐさとりの所に行くわ」
「そいつなら知ってる。わかった」
「どれくらいかかる?」
「連絡道使えば往復二時間もいらない。すぐだから待ってて」
「それは潰されたってさとりが言っていたわ」
「そんな、こんな時に何でさ! ど、どうしようっ。幻想郷経由じゃ四時間はどうしてもかかるよ」
その言葉に心の中で舌打ちする。お燐の体力はここに来るまでに消耗しているわけだから、実際はそれ以上の時間が必要であろう。やるだけはやってもらうけど、あてにできないとあればこちらで何とかするしかない。
「おーけー。あればいいかなってだけの代物よ。よろしくね」
「うん、うんっ‥‥‥!」
「ほら泣くな。道中倒れても拾ってやれないわよ、慌てないで気をつけて行ってきなさい」
慌てないように、慌てないように。自身にも暗示をかけながら背中を押してやると、お燐は泣きそうな顔でもひとつ頷いて地上方面へと走り出した。
さぁ一息入れている場合ではない。子供のお燐の手前、落ち着いたお姉さんを演じてみたが、私だって気が気でないのだ。
□
全力で飛翔を続けて、ようやく丘の表面がみえてきた。この丘の上が地霊殿だ。
遠すぎる!
縦穴を出立してからおよそ一時間。お燐が同じ時間かけて縦穴に来たとして、地霊殿からお燐が出立してから二時間以上は経過していることになる。
二時間も議論を粘れるようなものなのか。あまり気が長いとは言えない鬼が、反目しているさとりがそんなに我慢できるのか。お空は戦う準備をしているとか言っていたし、今頃戦場になってはいないか。
考えれば考えるほどによろしくない状況ばかりが浮かんできて、焦りが私を急かす。
出せる最大速度で旧都を飛び越える。整然と並んだ家屋はある一線から突如消え、岩石の丘の上にやっと地霊殿の外観が見えた。百名以上の黒い影が、まるで城を攻め落とそうとしているかのように外壁に群がっている。
その頭上を一息に飛び越えて敷地内へ。外を包囲している誰かの怒号が聞こえたが無視。強行軍の反動で一時的に妖力が枯渇したので、そこからは重い体に鞭打って大地を蹴って館に向かい、施錠を知らない扉を乱暴に開けて突入。エントランスをすぐ左折。来客の際はいつも執務室に案内するそうだから、きっとそこだ。
すでに呼吸が乱れて口内が乾いて、風邪引きみたいに喉と肺が痛いが、無理矢理空気を詰めて駆ける。
階段までたどり着き、急ブレーキ。そのまま駆け上がろうと。
体を捻った瞬間。
正面から黒っぽい影が、階段を蹴っていきなり腕の中へ飛び込んできた。
「うわっ!?」
「パルしー! 来てくれた!」
驚きつつも、上から落ちてきた小さい体をなんとか抱きとめる。
長い黒髪の女の子は、がっしりと腰を抱いて離さない。
だがしかし、見知らぬ娘である。
「‥‥‥誰?」
「うつほ! うつほだよ!」
「うつほ? あぁ、あんたか」
霊烏路空。
人型化したバ鴉は見たことがなかったから焦ったわ。ふん、なかなかかわいくて愛い奴じゃない。
お空が手を離してくれないので不自由だ。仕方なく小さな体を抱き上げて、息を整えながら一段ずつ階段を上っていく。
建物の規模相応しい大きさの階段の踊り場には人型化した妖獣15名ほどが、皆困惑しつつも内に怒りを燃やして立っていた。妹のこいしもこの場にいる。この子たちのストッパー役といったところだろう。
お燐の話からして、これが地霊殿にいるまともな戦力のすべてらしい。
素人が槍を持っても兵士とは呼ばないのだが、人型化できるだけの赤子でも戦力らしい。話にならない。若輩のお燐がさとりの右腕なんてやってる時点で予想は付いていたが、片手で捻り潰されるのがオチだ。そのくせ気概だけは一流の暴徒とくれば、一度火がついたら何をしでかすかわかったものではない。彼らは実力差など考えず、さとりという旗の為に鬼へ突貫するだろう。どうやら乱闘になる事態だけは避けねばならないらしい。
どれほどのことが出来るのか自分でも不安だけど、もっと不安に思っている子供が腕の中にいる。そいつの前では見栄を張っておかなければ。
「ねぇパルしー、お燐は? パルしー呼んでくるからそれまで待っててって言って」
「そのお燐から聞いてきたの。あいつもすぐに戻ってくるから、あんたはここでいい子にして待ってなさい。さとりは大丈夫だから」
「鬼が一杯来たよ。さとり様危ないよ」
「危なくない、危なくない。今から私が行くから」
「でもでもっ」
「助けて欲しくなったら大声で呼んであげる。それでいい?」
「う~」
お空は唸るだけで納得してくれない。
さてどうしたものかと対処に困っていると、脇から声が飛んできた。
「力こそすべて。前に教えたよね、お空」
声の主。踊り場の真ん中。そこで壁に寄りかかって立っている、古明地こいしという緑眼の魔物に目を向ける。
姉に負けず劣らずの怪物が暴れ回り、今にも檻を突き破らんとしていた。お空はただ怒っているだけだが、妹君の方はかなり始末が悪い。難儀なことだ。
「弱いと何も出来ない。悔しいよね。強さは価値だよ。お姉ちゃんを守りたいならいっぱい強くなる」
「こいし様、私は」
「今はパルスィを放してあげて。私もお話があるから。みんな、一度食堂に集まっていて」
「はい」
こいしの説得で、お空はようやく私を解放してくれた。しつけは行き届いているらしい。妖獣達は束になって階段を下りていく。
誰かを黙らせるには力を見せ付けてやるのが一番だ。間違いじゃあない。けど、子供に向けて言う台詞ではないわね。いくら無敵の矛でも、使い方を知らない子供が持ったらどうなるか、そのあたりを勘違いして育ったらどうする。
子供の教育は後だ。状況確認だけはしておきたいので、こいしに向く。
「さとりは?」
「まだ執務室。子守があるから様子は見にいけてないけど、怒鳴り声とかはないかな」
「そう。じゃあ、行って来るから」
「待って」
話があるって、言葉のあやじゃなかったのか。
呆れると同時に、頭を抱える。さとりほどではないが、十分以上にぶくぶくと太った緑目の化物。こいしのそれが、先ほどまであった檻をへし折って暴発寸前になっているのが見えたのだ。
早くさとりの所に行ってやりたいのに、化物を放置するわけにも行かずに立ち止まる。あぁもう、姉妹揃ってヤバいのを心に飼ってるんじゃないわよ。
「なに?」
「今部屋にいるの、地底でも上の鬼たちなんだよね」
「うん。それがどうしたの」
鬼は誰かを遣わすなんてことはしない。交友があるにせよ私のところにいきなり幹部会や元四天王の勇儀が来たのがいい例で、動くときは自分で動く。だから、部屋に勇儀ら幹部会が居るであろうことも想像に難くない。
問い返しに、こいしは世間話を振るような気楽さで続けてきた。
「昔ね、私たち、追いかけられてて。最初はうまく逃げてたんだけど、逃げる場所もなくなっちゃってさ。だからお姉ちゃん、向かってきた中から強い奴を選んで、そいつだけ徹底的に潰したの」
「‥‥‥」
「十人向かってきても全部殺す必要はない、血は一人分でいい。お姉ちゃんの持論。甘いよね。甘くて、残忍。でも、それを何回かやったらみんな怒って、それでも潰したら今度はみんな怖がって、誰も歯向かわなくなったわ」
これはこいし視点の話だから、恐らく真実は違う。歯向かわなくなったのではなく、さとりがその時期に交渉で話をつけたのだろう。
「そう。だから、また?」
「一番強いあいつらを倒したら、今度こそ誰も私達を苛めなくなる。そしたら静かになる。声の大きい方が正しい、強い方が正しい、勝った方が正しい。勝てばいいんだよ」
こいしはにこりと笑う。口調と表情、そして化物の挙動で、こいしが本気で言っていることは理解できた。
狂気。それが一番似合う表現だろう。心を食らって控える化物も、今や遅しと宿主の体を奪う機会を伺っていた。
その中にほんのりと、私に向けられた嫉妬心がある。
仕方ない。
久しぶりに、力、使うか。
「お姉ちゃんの力を鬼は恐れてる。私も無意識の力で後ろからサクッといける。お空達の子守に足引っ張られてね、動けなくて困ってたんだ。ここのおチビ達はパルスィが安全な所に移動さてさ。ね、それでいいでしょ?」
「きっと、もっと辛くなるわよ。望んでいないならやるべきではないわ」
「望んでなくてもやらなきゃいけない時って、あると思うの」
「行動をする機もあれば、耐え忍ぶ時というのもある」
口にして苦い味がした。辛辣な言葉だが、それでもあえて浴びせる。それが私の得た答えでもあるから。
私は、橋にしがみ付き続けたことでさとりと会うことが出来た。もちろんたまたまで、偶然だ。それでもその偶然で、私はこうして生きてそこそこの生活を送れるようになったのだ。それなのに、私を助けてくれた人は不幸まっしぐら? 世の不平等もいい加減にして欲しい。
少しでもいい方向に持っていきたい、こんな所で果てたくない。そのために呼んだのなら私に手伝わせなさい。
「今は待ちなさい」
私は追い討ちの言葉を化物に食わせてやる。
こいしの眼の色が変わる。怒り。嘆き。美味しいでしょう? さぁ、もっと育ちなさい。
そして、化物は眉を吊り上げた。
「私やお姉ちゃんがどれだけ我慢したか知らないくせに、お姉ちゃんが必死で戦う力を手にしたことも知らないくせに。まだまだ一方的に殴られ続けろって言うの? そうしたところで何があるの、いつになったら終わるの。心読むのをやめたら好かれる? この眼を潰せばよくなる? 刀を捨てれば諍いがなくなる? 違うよね、私は見てきたもの。黙っていることに調子付いて、殺されるまで殴られるだけだって」
「我慢しなさい」
「っ!」
こいしは唇を噛んで、その瞳に怒りをたたえて視線を浴びせてくる。彼女の息も荒くなってきた。
いい感じだ。
「いいよ、我慢してあげる。その代わり、パルスィは絶対に確実に何とかしてくれるんだよね。言葉に責任を持ってくれるんだよね。そうでなかったら私、許せない」
「絶対になんとかしてこいって?」
「仕方ない、やればできる、がんばれ。適当に相槌打って気休めの言葉を吐くのは誰でも出来るんだよ。ぬるい言葉を掛けに来ただけなら帰って」
化物はさらに宿主の感情を食らい、またひとつ成長していく。私が怪物を煽ってやったのも合わせて、宿主は自制が効かなくなって来ていた。
私は自分の能力の方向を少しだけ変えた。世界を憎むその心を、同じく彼女が持っていた私への嫉妬心へと書き換える。どうしてお燐のような近いペットでもなく妹の自分でもなく、他人のお前が姉を救えるかもしれない立場にいるのかと。鬼や旧都に対する彼女のさまざまな思いをも、私へのその嫉妬心に書き換えていく。
このまま宿主の限界まで蓄積させて嫉妬心で精神を完全に侵食させ、はち切れるまで貯めさせて暴発させるのが本来の使い方だ。空気を入れすぎた風船が割れるのと同じ感じ。それで、嫉妬に狂った化物の出来上がり。
だがそこで私はそっと、感情のタガを外してやる。必要以上に溜め込ませないために。
外した上で、背中を押した。これまでの反応から、彼女が一番嫌っている言葉を浴びせる。
「我慢しなさい。私からはそれだけよ」
「これからあなたにお姉ちゃんを預けるって言ってるんだよ。ねぇ、わかる? この意味を本当にわかってる? あなたは軽い気持ちで来たのかもしれないけど、私達は本気なんだよ! パルスィ!」
吼える緑眼の魔物は、宿主を乗っ取り飛び掛ってきた。
胸倉に掴みかかってきた獣。その子を私は。
「わかってる」
右手で強く抱き、もう一方の手を伸ばして頭を撫でてやった。
何が起こったのか、こいしはすぐに理解できなかったようだ。瞬間的に黙ってしまった。まぁ、そのタイミング見計らって抱きついたんだけど。
そして勤めて、やわらかく優しい声音にして、囁くように語り掛ける。
「あなたの気持ちもわかる」
「そうやって適当なことを」
「語りたくても語れない、泣きたくても泣けないから、お前たちははこうして猛るしかない。誰かに知って欲しい、聞いて欲しい、捌け口が欲しい。そして出来ることなら、理解して傍に居て欲しい。解決策が欲しい。苦痛から解放して欲しい。そのどれも出来ないんじゃあ、八つ当たりだってしたくもなる。わかっているわよ」
「‥‥‥」
「辛かったわね、苦しかったわね、これまでよく我慢した。よしよし」
一層に抱きしめ、その頬を指でなぞり、あやしていく。一方で能力を使い、以前さとりにやったように化物の力を吸い取っていく。
秘めていた思いを、爆発的な感情を吐き出させてやる。
貯めに貯めれば狂気となり凶器になるが、その前に放出させればただの愚痴。思いをぶちまけるだけでも少しはすっきりするものだが、この子は姉や動物たちに遠慮してガス抜きを出来なかったのだろう。
「あの人にお願いするしかない、でも自分の手でしたかった、でしょう。橋姫を前に嫉妬心剥きだしてると、食べるわよ?」
「いっそそうしてよ。思い悩まなくて済むわ」
「暴走した心に突き動かされ、目的も望みもわからなくなって、手元に抱いていたものも壊してあらぬ方向に飛んでいく。やっと満足して我に返ったら、さとりもお空も居なくなっちゃったじゃあ嫌でしょう」
「お燐とチビ達も。だから我慢しろと言うのね、冷たい人」
叫んだのと力を奪ったのとで、こいしの自制が利くレベルまで化物がおとなしくなったようだ。彼女の声からも大分棘がなくなっている。
さぁお前の力は奪ってやったわ。諦めたらこいしを返して頂戴。
「まぁ、ね。でも、いまだに話し合いが続いてるってことは、さとりはまだ抗ってるってこと。私はさとりを手伝いに来た。あなたはどうする?」
「‥‥‥あなたは、とても卑怯な人。そんな言い方されたら、断れないよ」
こいしは唇を尖らせるけど、それだけだ。
宿主の精神が持ち直したのを見て獣は不満げに喉を鳴らし、渋々と宿主の中へ戻っていった。同時に、私に掴みかかって眉を怒らせていたこいしの表情も元の落ち着きを取り戻す。もういいだろうと判断して、抱擁をやめて彼女を解放した。
「おチビたちの面倒を見てるよ。乱入とかさせないから。お願いしますって言いたいけど、それこそ無責任だね。えっと、難しいな、こういうときの言葉」
「お願いされた。できることはやってくるわ」
「‥‥‥うん」
ここで、こいしはやっと緩い笑顔を見せてくれた。
さとりとは最後まで付き合う気はあるけど、ここで失敗したらこいつらには相当恨まれるだろうなぁ。あまり想像したくはない。
なんて考えていたら、こいしは私の手を握ってきた。
「私たちを助けに来てくれた、それだけで十分だから。だから、失敗してもあなたを恨まないわ。もう好きにやっちゃって。何なら暴れてもいいよ」
「いやそれはちょっと‥‥‥あれ、もしかして心読まれた?」
「ふふ、さぁどうだろう」
悪戯っぽく笑われる。
「あ、そうだった、お姉ちゃんに伝えて。ここにいる子以外はみんな灼熱跡のほうに集めて、絶対に出ないよう言ってあるから大丈夫って。言う前に勝手に読むと思うけど」
「えぇ、わかった」
答えながらも内心首を捻る。伝言くらいは別にいいが、一々報告しなきゃいけないようなことだろうか。
「すごい形相で来てくれたけど、パルスィもそんなに慌てなくていいよ。お姉ちゃんはあなたが思ってるよりは脆いけど、思っている以上に強いから」
「私が思ってる以上って、それ、最強になっちゃうんだけど」
「そうだよ、最強なんだよ。お姉ちゃんは誰にだって負けない。孤高で、孤独で、最弱。だから」
ぺこりと、頭を下げるこいし。
「お願い」
「えぇ」
彼女の思いに、私は頷いて答えた。
□
お燐が戻って来たら部屋に来るようにとこいしに言付けて、2階に上がる。
通路を少し歩けば目的の執務室となるのだが、その扉の両脇には腕を組んだ鬼の衛兵がいた。他にも数名の鬼が、物珍しげに地霊殿の廊下を眺めながら歩いていたりする。外の連中といい、話し合いに来ただけにしてはやけに人数を揃えてきている。お燐が焦るのも道理で、この規模は大げさと思わないでもない。地霊殿の妖獣の戦力を過剰評価していたのか、それともよほどここの主が怖いのか。
鬼の警戒ぶりとこいしの言葉、勇儀の話、そしてあの夢。さとりは過去に相当なことをしたんだろう。それは到底褒められないような、むごたらしいことかもしれない。
それでも、あいつの小さな手が血染めになっていたとしても、妹を守ってきた立派な手だ。手を赤黒く汚して、作った血の池に立って、それでも狂わずに立って踏ん張り続けている。
早くさとりの所に行こう。執務室の扉とその両脇に居る鬼二人の前に、私は立った。
「見張りご苦労様」
「鬼女さんか。悪いけど今は」
「勇儀に呼ばれてきたの。中にいるんでしょう?」
尋ねると鬼二人は顔を見合わせて、「姐さんが呼んだなら」と頷き道を譲ってくれた。悪いけど私は橋姫なんでね、嘘なんて余裕でつくのよ。ちょろいもんだ。
静かに扉を開け、中に入る。
そこには執務室の中では鬼が総立ちでいた。それもただの鬼ではなく、勇儀を筆頭とした上位連中がずらりと十名ほど居並んでおり、その全員が扉の音に気づいて一斉に振り返ってくる。数日前の縦穴で見た顔もいた。おぉ怖い怖い。
そしてその壁と執務デスクの先に、彼女の姿があった。
妖怪というくくりではほとんど最強である鬼に囲まれたら、天狗すら天狗になれずへつらうらしいのに、いまだ対峙しているこの女の肝はどうなっているのか。豪胆とか女傑とかいう二文字が頭をよぎったが、外見に不釣合いだったのであっさり消去された。
そんなさとりもこの状況には閉口しているようで、疲れと苛立ちの色が濃く顔に出ている。大分神経をすり減らしているようだったが、その彼女が3つの目を大きく見開いて、こちらを見つめてくる。
「パルスィ?」
「祭りをやってるって聞いてね。楽しそうじゃないの、お邪魔させてもらうわよ」
言って扉を閉め、歩を進める。
鬼の壁を突き飛ばして最短距離を行きたい所だけど、さすがに自重。何か言いたげにしている鬼共を迂回し、そしてさとりの元までやって来て鬼たちに向き直った。
怪訝な顔をする奴、敵意を露にする奴、状況が理解できてない奴。ついでに若干一名、状況は察してくれと目線を送ってくる奴。よかったよかった、あんたはまだこっちの味方なのね、勇儀。
そして隣に目を向けると、生気を取り戻した地霊殿の主様がこちらを仰ぎ見てきていた。
「来てくれるだなんて」
「そりゃあ雇い主が居なくなったら仕事もなくなるし、そいつは困るわ」
「ふふ、ありがとうございます」
あちらさんには聞こえないよう小さく笑うさとりは、ちょっと生意気な感じで。
でも、力強い。気弱にへにゃへにゃしてるのもよいが、背筋伸ばして凛としているこちらも様になっている。
「ペット達はこいしが逃がしてくれましたか。気を揉ませてしまいますが、続けましょう」
「付き合うわよ。んで、どこまで話が進んでるの?」
「地底を売った売っていないの繰り返しです。論より証拠とはいいますが、やったとでっち上げるのは容易でも、やっていない証明というのは難しいものでして」
さとりはテーブルいっぱいに広げられた文書に目を向ける。これまでやり取りしてきた書簡がずらりと並んでおりその量はなかなかの物であるが、これらは残念ながらさとり側が保管している物品。中には任命状と書かれたものまであり、一方的に送りつけられたそれらは潔白の証明には至らない。
同じような文書が何十通も手元にあるということがどういうことなのかを察してもらいたいものだが、決定打には程遠いのも事実ではある。
「閻魔側に確認を取ってはいかがかとも提案したのですけど‥‥‥根っこの部分が私憎しでの行動なので、聞く耳持たずといいますか。感情論に理論は通りませんね」
「イジメに付き合わされてうんざりしてたわけね。けど、難癖つけてるだけなら物を出してやれば引っ込むでしょ」
「物とは。お燐が彼岸まで? あんなもの、十分な証拠とは」
「探さないよりマシ、ないよりマシ。これだけグダってるなら彼岸からの証言も必要でしょう」
「それはそうですが、十王の横槍が入ったら」
「なにをゴチャゴチャと話してるんだ?」
まだ会話中だというのに、痺れをきらせた鬼の一人がせっついてきた。
地底には大妖怪や老妖怪の類は少ない。お燐には及ばぬもののこちらも若手で、同様に直情的なようだが、幹部会というのも随分不足しているらしい。こうも人材が枯渇しては、さとりに頼りたくもなろう。
「今来た所だから進展具合の確認をね。いろいろ口論もしたでしょうけど、証拠とやらの輸送中だからお茶でも飲んで待っててもらえるかしら。そこ数時間くらい、別に急ぎじゃないでしょ」
「その時間で何を用意するつもりかな」
「さとりの言葉じゃ不服みたいだけど、彼岸からの証言なら納得するでしょう」
「彼岸側と結託してるってことか。やっぱり勝手に話をしていたんだな」
馬の耳に念仏ってこういうときに使うのかしら。などと思考が横道に逸れつつ、それでもお馬さんに念仏を続ける。無駄だろうが何だろうが、お燐が戻ってくるまではにっちもさっちもいかない。出来ればその前に鬼が根負けして帰ってくれることを望むけれど。
「どう考えようが勝手だけど、こっちが持ってくる物を見てから最終的な判断をして頂戴。それまで保留、おーけー?」
「時間稼ぎに付き合えと言うか。随分勝手だな」
「見聞もせずに決め付けて、首を刎ねた後に間違いでしたじゃ鬼の名にも傷が残るわよ」
「間違いなものか。彼岸と幾度となくやり取りしているのはこの通り証拠が残っているんだ。古明地は俺たちのことが嫌いだからな、都合もいいだろ」
うだうだうっさいな、待てって言ってるのが聞こえないのかね。犬でも躾ければ待つぞ。
軽い頭痛に見舞われて苛立ってきた所に、勇儀の援護が飛んでくる。
「そうカリカリすんな。見せるものがまだあるって言ってるんだから待ってやろうじゃないか、なぁ」
「こいつを自由にさせたら何をするかわかりません。姐さんは甘いんすよ」
「いい自信だ、ならお前の名にかけて誓えるな。マジでさとりが何もしてなかったらケジメつけてもらうことになるぞ」
「うっ‥‥‥け、けど姐さん」
その食い下がる情けない姿は、とても鬼には見えない。
さすがは四天王。発言力は桁違いのようだ。まぁ、この発言力が封殺されるくらい周りの圧力が強いってことなんだけど。
そこからしばらくは、さとりの肩を持つ勇儀を説得すべく、残りの幹部会が口論を展開するという流れになった。その時間を使って、私は再度状況の確認と、落とし所と言うか今度どうするのかをさとりに尋ねた。しかしさとりも妙案は持っておらず、八方塞がる。真面目に、お燐だけが頼みになってしまった。待ての一点張りで耐えるしかないようだ。
と。
それまで真面目ながらもやや余裕のある態度で私と話していたさとりが、険しい顔で押し黙った。
「どうしたの?」
問いには答えてもらえないが、目線厳しく幹部会を睨み始めたその雰囲気は何よりも物語っていた。
敵対どころではない。殺意に近い空気を持って、第三の目も大きく見開いて、睨みつけている。
そして彼女は右腕をあげ、幹部会の一人を指差す。
「そこの。左にいる、二本角の背の高い方」
暗く静かで、そして冷たい言葉で、指を指された鬼の一人がさとりに向いた。
「あなた、今考えたことをもう一度想起しなさい」
「あ?」
「ふむ。証拠の運び手を妨害してやれば、ですか」
さとりの怒りを押し殺した声に、一応は実力者の幹部会もただならないものを感じたのだろう。それまで口々に囀っていたのをやめて、場が静かになる。
そんな彼らを、さとりは鋭い視線で眺め。
「あなたを含めて幾人か、こちらにいらっしゃった時も、わざとペット達を怒らせて誘導を図っていましたね。殴りかかってきたら、それを理由に武力で解決するつもりだった」
「なによそれ。じゃあ動物共のことは」
「手を出されるのも出させるのも嫌なので、こいしにお願いしていたんです。屋敷の外に居る方々は予備兵力だそうですよ、居もしない地霊殿軍団を鎮圧する為のね。たかが覚妖怪一人の為に三百も動員とは滑稽ですが、情けない」
言葉通りに情けないと嘆いているのだろう。かぶりを振るさとりに、鬼たちが厳しい視線で抗議を示す。
そして地霊殿の主は絶対零度の瞳と、らしからぬ低い声で威圧を、いや、恐喝をした。
「家族に手を出すな。それともお前の縁者に手を出されたいか」
「そう凄むな。今のはちょっと考えただけじゃないか」
「‥‥‥まぁ、そういうことにしておきましょう」
二つの瞳を閉じて静かに語るさとり。これ以上の問答も衝突も無用、釘を刺しただけでとりあえずはよしとした。そういうことだろう。
だが。
信じられない。
お燐よ。あんたの家族の中でも特に自分に近い奴を手にかけようって、こいつら言ってたのよ。
これを、こんなに汚い奴らを、見過ごせって?
「ふざけんじゃないわよ」
これだけの力があるのに。
妬ましい。
力それこそが価値なのに。
妬ましい。
これだけの力があれば。
妬ましい。
もっとさとりを楽にしてやれるのに。
妬ましい!
「お前たちみたいな奴が、時の権力を握るからクソったれた世界になるのよ! これまでお前達はこいつらに何をしてきた! そこまで憎いか、覚妖怪が憎いか。いいえ、私には視えている。お前達にあるのは恨み辛みじゃない、ただの恐怖だ! 薄っぺらい自尊心と自己顕示欲で簡単に他者を否定し貶め、困ったら力と数を頼みに権力を守る。ふざけるな、この世はお前達のためにあるんじゃない!」
私の言葉に、幾人かが一歩後ろへと下がる。
橋姫すら怖いか。それで鬼を名乗るなよ小物が。
なるほど、こいしの案は正しいかもしれない。こいつらは言葉で矯正なんて出来ない。対話など通じない。
隣の人から、階段の踊り場から、下の階の動物達から、灼熱跡からも。鬼へ、地底世界への恨み辛みの心が溢れている。そうだ、辛いだろう。お前達と共にその恨み、晴らしてやってもいい。目の前にいる憎たらしい奴らを思うままに引き裂いて、思い通りに引き裂いて、心赴くまま満たされるまで壊すんだ。思い描くだけで気分の高揚が止まらない。
息が上がる。眩暈を起こしたように視界が真っ黒になって、その中に目の前の連中の姿だけが浮かび上がる。
あぁ、やっちゃおう。
私は右手を掲げる。
いや、掲げようとした。
ガシャァン!
破砕音。
思いもよらなかった音に、私は音のした場所から離れようと軽く飛びのきつつ、音のしたほうへと向いた。横、さとりの方からだ。
何が、起こった?
真っ黒に染まっていた視界は正常に戻っていた。答えを求めて視線を送る。いたのは当然、さとりだ。ただしそのさとりは私に背を向けていた。執務室の扉の対面、建物の壁面に体を向けて片手をかざして、その横顔はすましていた。
さとりの向いた先を見る。
鳥の模様が描かれた美しいステンドグラスがあったそこは跡形なく、悲惨に割れて破片がひどく飛び散っていた。
そして彼女は、澄ました態度でこう言い放った。
「失礼、手が滑りました」
「今、自分で」
「手が滑りました。あぁどなたか、外の見張りさんに言付けて、何も心配しなくて良いと私が言っていたと、こいしに伝えてください。階段の踊り場に居るみたいなので」
「は? 何で俺達が」
「嫌ですか。ではパルスィに頼むことになりますが、えぇそうですよね、勝手に出て行かれては困るのですよね。ではお願いします。それと、お燐も来たら通すようにとも」
「お燐って、火車のあいつが運んでるのか。あぁわかったよ、ったく」
了承した鬼は大きく舌打ちし、私には聞こえないほどの小声でブツブツ不平を垂れつつ、外の衛兵に声をかけに行く。
一気に冷や水を浴びせられたかのように、急速に熱が引いていくのを感じる。そして、状況を正しく理解した。
我を忘れて暴走しかけたところに、さとりがステンドグラスを割ることで予想外な派手な破砕音を鳴らし、心食われていた私の意識を一気に現実に引き戻した、ということらしい。ステンドグラスは、大きい破砕音を発生させるために徹底して妖弾か何かをぶつけられたようだ。
呼吸を落ち着かせるために、大きく息を吐く。
やってしまった。
ここ数日でさとりとこいし、二人の特大嫉妬心を吸い取ったせいなのだろうか。それとも、この姉妹に感情移入しすぎたせいなのだろうか。私が、私自身の化物に心食われるのを許してしまった。幹部会の態度にイライラしていた所に感情が瞬間沸騰して、抑えられなくなってしまったのだ。
今のでさとりを窮地に追い込んだのではないか。思いっきり火の粉を振りまいて、これでは何の為に来たのか分らない。さとり一人のほうがよっぽど良いではないか。恥じ入る思いだ。
しかし彼女は、温かな笑顔を向けてくれる。
「居ない方がよかったんじゃないかとは、そんなことありません。傍にいてくれるだけで心強いですよ」
「いやでも、ごめん」
「私の分もあなたが怒ってくれる。だから、私はやるべき事に力を傾けられる。ありがとうございます」
地霊殿の主様は微笑む。
「大丈夫です」そう重ねて言葉をかけて、伝言から戻ってきた鬼達にさとりは目を向ける。私の分まで冷静になったような雰囲気の彼女は、地底代表と呼ぶにふさわしい空気で彼らに向いた。
「弱い者を見つけて憂さ晴らし、嘘さえ付かなければなんでもあり。昔はこうではなかった、もっと誇りを胸に生きていた‥‥‥いつから畜生に落ちてしまったのですか」
「お前にとやかく言われることじゃない。だいたいあの縦穴はなんだ。鬼女まで懐柔して」
「同じ境遇の者が入り口で立ち往生していたら、見殺すのがあなた方の流儀ですか。まさに鬼ですね」
用意していた建前を振りかざして、さとりは続ける。
「堅く門を閉ざして耳を塞ぐのが私たちのやることでしょうか。その気があるならいつでも来いと、寛大な所を見せ付けてやろうではありませんか。侵略者? あんな誓約などわざわざ作らなくとも、鬼に敵う輩が居るとは思えませんがね。雑兵程度なら実働隊やパルスィが蹴散らしてくれますよ」
「ずいぶんな志だことで。一理なくもないな、全部は否定しねぇよ。では、その縦穴から害悪が持ち込まれたら責任も取るんだろうな?」
「開けるのに私の名が必要であれば。ただしその時は、良いことが持ち込まれてもあなた方には使わせませんよ。散々に否定し妨害しておいて、甘い蜜だけ吸おうなど厚顔もよいところですもの」
「灼熱で頭が茹で上がっちまったのか。自分の立場を忘れたかい、さとりお嬢様?」
「そちらこそ脳が煮えてしまってはいませんか。あなた方に協力すると契りました。わかりますか、あくまで対等な立場での交渉です。家来や奴隷ではありません。あなた方が勘違いなさらぬよう、あえて態度悪く接し続けているんです」
その言葉で鬼のいくらかが不機嫌顔になる。天下の鬼と対等だなんて言われて、プライドだけは高い彼らが不快にならないはずもない。
「過去の交渉を白紙にする。一つの答えでしょうね。旧都を整備したおかげで辺境に住む者はかなり減りましたから、その一角で静かに過ごさせてもらいます。それすら許されないなら地底から出ていきます。これなら迷惑にはならないでしょう。後はどうぞご自由に」
地底から出て行く。さとりの最後の手段であり。
切り札。
言葉に、それをされては困るという思いが鬼の表情にありありと描かれていた。
流れを取ったと判断したか、押していくさとりに対して鬼達は黙り込んだ。現状不利益を被っているわけでもないのに、彼らのしたくない仕事と苦手な仕事の押し付け先がなくなるのは痛手となるからだろう。さとりとしても、今の立場と館を放棄するのは最悪の選択。結局のところ誰も得をしない。
得をしないが、鬼もそうは譲れない。
「むしろ望むところだ。手前は俺たちの下でご意見番でもやってればいいんだ。協力はするんだろ? やってもらおうじゃないか」
「雑事を引き受けているのは、私と私の家族の生活を保障してくださるならという条件の元での話ですよ。忘れてもらっては困ります。私が地獄街に戻れば騒動の二の舞、あなた方が身を守ってくれるとはとても信用できない、さらには私の家族は増えてしまった。必要な待遇が得られないのに取引継続などばかげています」
「ちっ。手前は黙って言う事聞いてりゃいいんだよ」
「また話がループしましたね。私は家来ではありませんし、お望み通り働いているのに、私の報告をあなた方が信じない。それならご自身で直接彼岸まで行って確認してください、あなた方にすべての話が行くよう星熊あたりが代表をしてください、生活水準が変わらないなら怨霊と灼熱管理はしてあげますと代案まで示しているのに、聞かないのはそちらです。その閻魔も嘘をつくかもしれない、私の力は便利だから利用したい、だが目障りだ。ですか。矛盾していますよ、あなた方は」
鬼は反論の言葉を発さなくなった。矛盾は承知なのだろう。
だから、さとりの言葉だけが続く。
さとりの言葉はどこまでも静かで、それ故に心にも浸透する。
「共に来てくれなかった天狗や河童、鬼狩りをよしとする人間達、妖怪の楽園を謳った土地から裏切られ、ここに来るしかなかった自身の無力。格下と笑った覚妖怪にも噛み付かれる。数々のトラウマがあなた方から誇りを奪い、変質させてしまった」
「‥‥‥」
「私は、鬼が山で天下を取っていた時代が好きでした。少なくとも、我々覚妖怪にとって一番静かな時間でした。しかし、私の知るあの山の誇り高き覇者は、もう居ないのですね。残念です」
その言葉はこの場の主導を握る建前なのだろうか。それとも、彼女は本当に残念に思っているのだろうか。その言葉の重い響きは、どうにも後者に思えた。
それは鬼達にも伝わったのだろう。山を守れず、楽園と謳われた土地にもいられず、地下に潜ってきたこと。思うところがあるのか、押し黙って視線を下げてしまった鬼がいくらか見受けられた。
会話はそこで途切れてしまった。
水を打ったような、とはこういう事を言うのだろう。さとりは静かに目を閉じていた。鬼達は静寂を破る気概がないのか、それぞれに顔を見合わせるに留まっている。下手に場が荒立たないだけ、私としては歓迎なのだが。
そうして、衣擦れの音まで聞こえそうな静寂がどれくらい続いただろうか。
変化、というには一瞬のことだった。
私の橋センサーが何かを検知したのだ。
今、誰かが橋を通過した?
思う間に、急に扉の外が五月蝿くなった。誰かが問答をしているらしい。そして話がついたのか、静かになると扉が開かれた。
「どうも、是非曲直庁の使いの者だよ。黒猫一匹お待ちどう様」
現れたのは長躯の死神小野塚と、彼女の小脇に抱えられているお燐だった。そのお燐の胸にはしっかりと、木箱が抱かれている。
お燐の話だと往復四時間はかかるとのことだったが、それほど時間は経過していない。私が地霊殿までの移動に一時間、そしてこいしと話したりここで問答したりなので、それ相応だ。一体何があったのかと思う間にも、小野塚はお燐を下ろして続ける。
「至急の案件という事で、誓約違反で侵入したことは先に詫びておくよ。縦穴に鬼女もいなかったしね、って、ここにいたのかい」
「早く渡せって言ったのに何十分も待たせておいて、大きな口を叩くんじゃないよ」
「お~、へばりきってのに口だけは回るねぇチビ猫め。変化するのがやっとの癖に」
赤髪のあたいっ子同士がその場で騒ぎ始める。
帰ってくるや否や騒ぎ始めるお燐に、さしものさとりも嘆息。読心で、お燐が彼岸でどんな様子だったのかも読んだのかもしれない。これについてはサードアイなんぞなくても、私でも推察は立つが。
「助力してくれた相手にそんな口の聞き方はダメよ」
「だってさとり様!」
「お燐、後で説教」
「な、なんでですかぁ~‥‥‥」
弱りながらも、やっぱりあたいは彼岸なんて嫌いだ、と口を尖らせるお燐。
だが、すぐに用件は思い出したようだ。お燐が両腕にしっかりと抱いていた木箱。彼女はそれをさとりに手渡す。そう、数日前に小野塚から受け取った私がさとりに渡して、そのさとりがただの燃えるゴミにしてしまったあれだ。中身がすりかえられてましたなんてことは御免なので、さとりは紐を解いて中身を開ける。それを私も横から確認する。
中には破り捨てられた任命状そのほか関連書類と、悲運より免れた紙が一枚。うん間違いない。
その、まともに紙の形を成している一枚が一番上にあった。雪の平原のような真っ白なそれには一文、黒のペンで書かれた縦書き文字がある。私は多分始めて見る事になるが、それはさとりの文字だった。
『 この勝手な任命は受けないと、何度言えばあなた方の心に届くのでしょうか。あなた方の魂胆は透かし見ています。本案件、あまりにしつこいと八雲を交えて大事にしますと警告したはずですが、確認も込めて再通達させて頂きます 古明地さとり 』
自治を認めたはずの地底に干渉しようとしているなんて知れたら、困るのは当然あちらの方々。とはいえ。
もうちょっとマイルドに書いてるのかなとか思ってたら斜め上でした、閻魔相手に脅しかけてました。こいつは、自分に正義があると判断したら相手が誰であろうと容赦がないようだ。閻魔や鬼相手にここまで大立ち回りできるのはあんたくらいだよさとり。
しかし間違いない、あの時の書類という事だ。そしてこれを渡してくれたという事は、閻魔は、こちらの味方をしてくれたという事ではないだろうか。
その書簡だったものを入れた箱ごと、さとりは鬼に渡した。
「それとさとり様、これも預かりました。どうぞ」
「猫ちゃん。それもこっちに渡しな」
「これはさとり様宛だよ。なんであんたなんかにくれてやらなきゃならないんだい」
心底不服そうにお燐は唇を尖らせてから、手紙の封筒をさとりに突き出す。この喧嘩腰、子は親の背を見て育つというが、ペットも飼い主に似るらしい。
「私は喧嘩腰ではありません」
「えぇそうね、既に殴り合ってるもんね」
突っ込むとこちらも心外だとばかりに機嫌を損ねた顔をしつつ、「宛、地底界代表古明地さとり」とある封筒をさとりは受け取り、切って中身を取り出す。私も横から覗き込む。
『 あなたは相も変わらずですね。
さて、あなたの焦熱地獄管理官任命について、そちらの拒否回答を十王の方々に再度伝えたところ、先の任命取り下げられることとなりました。旧地獄が使えないなら使えないで困ることではありませんから、今後はあなたを取り込もうとする動きはなくなるかと思います。こちらが勝手に送付した書状のすべては無効となりますので、どうかご安心ください。このような書簡越しではありますが、これまでの非公式のやりとりとその非礼、十王に代わり深くお詫び致します。
本件の仔細を知りたいという方がいるようですので、私、四季映姫の代理として死神、小野塚小町を派遣致します。これまで使者として遣わしてきた者ですので十分適任かと思います。
追伸。
残した施設の維持については、本件とは無関係に是非曲直庁が責任を持ってさせていただきます。破損・老朽化等あれば無償にて用意がありますので、必要になれば連絡をください。
それと古明地さとり、あなたはそう、少々乱暴に過ぎる。敵と見るや一も二もなく冷たい対応をするのはよくありません。あなたの心傷も計り知れませんが、それでもペットに注ぐおおらかな心をもっと他者に向けなさい。あと返書についてですが、怒りはごもっともですが、あのように破り捨てられていては保管が出来ません。言いたいことのために書簡を破ったり脅迫状にしたりせず、今後機会がある際はきちんとした文書で提出してください。よろしくお願いします。
是非曲直庁ヤマザナドゥ 四季映姫 』
随分と追伸の長い書状だな、とは思っても言わない。元々はさとり宛の書状だし、小野塚が説教癖があると言っていたし、その関係だろう。
兎に角だ。是非曲直庁が、閻魔が、これまでのやり取りはこちらが悪かったと非を認めた上で、さとりが保管していた書状関連がすべて無効になることを示す手紙なのだ。これは宛てはさとりだが、鬼こそが見るべき手紙である。さとりは読み終えると、その書状も鬼に渡した。
木箱とふたつの書簡がたらいまわしにされ、鬼たちの顔色がさまざまに合わっていく。
ガヤガヤと五月蝿くなり始めた彼らを眺めていると、さとりが、小さな声でポツリと。
「墨が完全には乾ききっていない非正規の文書に、四季様の捺印ですか」
「ん?」
「気を使ってくれたということですよ。無効になるタイミングも良すぎます、これは何かお返しをしなくては」
地獄温泉饅頭がいいですかね、などと小声で呆けてみせるさとり。知らんがな。
まぁいいわ。
「こちらからは品物を提示したわけだけど、ご感想は?」
「いや、しかし、これは」
「本物か、正式な文書かどうかわからない、私や閻魔の字ではないかもしれない、閻魔側が嘘をついているのかもしれない。なるほどもっともですね」
「閻魔の押印の偽物をどう用意するのよ。仮に閻魔側が嘘ついてこんなの書いてるなら、それこそ糾弾すべきはさとりじゃなくてあっちでしょう。確認を取りたいなら隣の死神に聞くか、その手紙を持って彼岸に行って欲しいわね」
小野塚を指差して意識を誘導する。彼岸の死神が、誓約を破ってでもやってきてその手紙を出した事実は一体どう説明するのかという意味で。
もちろん彼ら鬼には説明など出来ない。いや、ひとつだけできる。それは。
「じゃあ、なんだ。売り飛ばすどころか地底の為に働いてくれてたってことか?」
いやそれはどうだろう。結果的にはそういうことになるんだけど。
しかしわざわざ水を差す点ではないので。
「そうよ」
言い放ってやると、また彼らは相談会を繰り広げ始めた。隣の女性からは思い切り睨まれたが、それが用意した建前でしょうに。
彼らの相談会は終わる気配を見せない。さとりに叩き付けるはずの怒りを振り上げたまま標的を失って、しかしでかいだけのプライドが邪魔して自らの非を認められないでいるのだ。
黙って腕を下すことができず、どうするべきかと思考停止に陥る鬼たち。逆上されても面倒なのでもう一声かけて、下ろすきっかけを作ろうか。後は勇儀にやってもらおう。
「彼岸の対応は、このままでいいのよね。勇儀」
「ん。あぁ、そうだな」
「ではこの件は落着ということでよいかしら」
「あぁ。お前らもそれでいいな?」
この勇儀の音頭に、鬼達は次々と頷いていった。
□
満足げに部屋を後にする鬼たちを生温い視線で見送って、私たち三人はやれやれと肩を下した。
三人というのは私とさとり、そして勇儀だ。お燐はこいしのところに、小町は幹部会と事の詳細を話すため部屋を出ている。それぞれの方面の後片付けなのはもちろんだが、ありていに言って、人払いである。
勇儀は、話したいことがあるからとここに残っているのだが。
「話すことなどありませんよ」
肝心の対話相手がこれであり、取りつく島もない。
無視を決め込んださとりが広げた書類を一人片付ける間、私と勇儀はどうしようもなく突っ立っている。なんで私もかって? そりゃあ基本さとり側の立場だけど、勇儀が残った理由は大体察しが付くから、今度はそっちのお手伝いかなと思っただけ。さとりや勇儀からも、人払いの対象にはされなかったし。
そうやって五分ほど経過しただろうか。
居辛すぎる空気を先に破ったのは、書類整理を終えたさとりだった。
こちらに小さな背を向けたままで、その表情は見えない。
「大衆というものは御しがたいもの。そんな彼らを取りまとめる方法が、三つ存在します。併用されることがほとんどですけど」
「‥‥‥それは?」
「一つは愚民化。情報統制で、生活に疑問を抱かせなければ皆幸せです。一つは武力と恐怖による束縛。暴れることなど許しません。さて、後ひとつ、わかりますか」
「いや‥‥‥」
「不満を他所へ逸らす。敵を作ることですよ、星熊さん」
大きくも小さくもないさとりの感情のない声が、故に圧迫感を伴って室内に響く。
さとりが振り返る。その瞳は冷たく。
そして、悲しげで。
「大衆共通の弱い標的を、一つだけ置く。標的に暴力のベクトルを合わせておけば、それ以上の衝突は生まれません。共に戦えば信頼や秩序、仲間が傍に居るという精神的安寧を得られる。弱い者を殴り続けているうちはみんな勝ち組、異端にはなりたくないから逆らう者も出ない。相手が反撃もせず、程々の力で適当に耐えていれば殴り続けらるのでなおよい。最小の被害と手間で最大の利益が出せる、最良の方法です」
そして選ばれたのが覚妖怪。鬼狩りによって威厳が地に落ちた彼らの前に現れた、特定の者に致命傷を与えられる力を持った誰からも好かれない孤立した妖怪。しかも手を出さない限り温厚で、気持ち悪い力は持ってるが戦闘能力は大したことがない。嫌いな妖怪一人、反抗してきてもなんとか叩き潰せて、鬼が首級でも上げれば失地回復、旧都は大円満と至りつくせり。傷つき疲れた彼らにとって、これほどの適任がいるだろうか。そして彼女は地底すべての敵となり、地底はまとまった。
さとりは最良の方法と言う。だがそれが最善あるいは最高であるかの是非について勇儀は、そして恐らくさとりも、答えは持っている。
答えなんて単純。けれど私達には、感情がある。
「人も妖も、弱い者を見つけて暴力を振るわずには生きていけないんですよ」
「それは、しかし」
「本当は和解したい? 鬼が嘘とはよくない。あなたも私が嫌いなのでしょう。私もあなたたちが、大嫌いです。憎い、この手で引き裂いてやりたい。それでも、生きるために仕方ないから手を組んでやっているだけです」
「‥‥‥」
「あなたは、みんなの敵覚妖怪を殴り続けられる。私は、ここで静かに暮らせる。これで世は平和、明日も地底は回り続けます。ご心配なく、こちらに益があるうちは裏切りはしませんよ。利害関係とはそういうものです。これからもせいぜい利用しあいましょう」
さとりが欲しいものはあくまで自分と家族の身の安全と、家族を養って生活できる場所。他者が今以上の利益を提示してきたら見限る。あるいは彼岸が乗っ取りに本腰を入れていれば、まったくありえない話と言うわけでもなかっただろう。
「以上です、これで用件は終わりましたね。では帰ってください。家族の所へ早く行きたいんですから、邪魔です」
家族、のあたりをことさら強調するさとり。
ここで解散させていいのか。
良い訳があるか。このままじゃあ今までと同じだ。うん百年、また衝突し続けることになる。むしろ今日のこれは契機なのだ。今なら幹部会と言う鬼の総意、地底全体を代弁する連中の疑念が晴れて、まともな会話が出来る状態のはずだ。対話の余地もなかった奴らに対して得た機会だ。このまま時間経過で風化させるのはもったいない。
差し出がましいのは承知だ。両者を取り持つだなんて私では役者不足だろう。じゃあ今日何もしないで、うちら皆で我慢の日々に戻るか。我慢して我慢して、その先には何もない。こいしだって同じ事を言っていた。私につつかれたくらいで緑の化物を暴走させるくらい、さとりもこいしも限界なのだ。ぎりぎりで踏ん張っているこいつを、どうにかできる機会かもしれないんだ。
それに、私個人としても。
さとりのあんな冷たい目は、見たくはない。
だから私は、さとりの頭を小突くために腕を振るった。
脳天直撃コースだった拳は、しかしさとりに苦も無く避けられる。
「何をするんですかパルスィ」
唇を尖らせての苦言も無視してもう一発。これも避けられた。本気殴りではないとはいえ、さすが覚妖怪、危機察知能力だけは無駄にトップレベルである。身体能力が追いつく範囲でなら無敵だな。
だったら、避けれない攻撃を出すまでだ。
「手間かけさせんな!」
「え? あ、きゃ!?」
両腕を広げ、一気に肉薄して抱きつき拘束。案外楽に取り付けたが、小さい体はなおも手足をばたつかせて暴れるのでヘッドロックに切り替える。ついでに、手こずらせてくれた返礼にちょっと締め上げた。
「く、首、首締まって」
「やかまし。握手でもしてごめんなさいを言いなさい」
「嫌です。なんで私が譲歩しないといけないんですか、何も悪くないです。譲歩したところで彼らは付け上がります」
「口が悪すぎんのよ。今日の件は誤解でしたでいいでしょうが、わざわざ油注ぐんじゃない」
「現在進行形で冷戦中の相手ですよ。関係修復のための行動は不要。その労力をかける価値を私は見出せません」
「そう。この先もずっとやりたいわけね、出来れば仲直りしたいとかこれっぽっちも思わないわけね。味方してくれた勇儀にも」
「そ、れは、ありがたく思いますが」
ばつが悪そうに口籠るさとり。
いきなり旧都全部を許せって言ってるんじゃない。でも、助けてくれてる勇儀に対してあの物言いはあんまりよ。握手くらい吝かじゃないでしょう。と、さらに無言で説得しつつ、お次はその勇儀に目を向ける。呆けた顔をしているが、そんな顔作る前にやることをやってほしい。
「勇儀もよ」
「気持ちはありがたいが、そんな無理やりしても」
「あ"ぁ"? 和解したいって言ってたのは嘘だったの?」
「い、いやそれは本当だが」
「だが何よ、鬼の癖にグチグチ言ってんじゃない。ほら手を出す!」
催促すると、「お、おぅ」と唸りながら、おずおずと大きく手のひらを広げて伸ばしてくれた。
さとりは勇儀の顔を見ようともせず首ごと視線を逸らしたまま。今ばかりは見た目通りに子供である。
そして子供っぽく不平を垂れ始める。
「無駄なんですよ」
「何が無駄よ」
「こちらにだって落ち度はあります。でも、嫌っている者が何をやっても目障りにしかならない。少しでも粗を見つけたら殴りたくなる。そういうものでしょう。今日はこれで済んでも、この先きっと」
「愚痴は後で聞いてやるわ」
誰にも見ることの出来ない未来の言論は問答無用で封殺して。
「はい握手」
「‥‥‥」
「しろよ」
「わかりました、わかりましたからじわじわ力込めるのやめてください痛たた」
橋姫といえど身体能力なら覚妖怪に負けるとは思わない。武力で強要していくと、かなり投げやりな手の差し出し方ではあるが、それでも一応、さとりは握手の姿勢を取った。
そしてその小さな手を、がっしりとした大きな手が包む。
「その、私としてはだな、仲直りというか、すぐにとは言わないが」
「‥‥‥」
「色々こじれてはいるが、今日の件も地底の為に働いてくれたと幹部会も納得しているはずだ、これまでの実績もあるし無理ではないだろう。だから、その、なんというか」
「‥‥‥」
「あ~、えっと‥‥‥虫がよすぎたな、今のは忘れてくれ。とにかく、今日は迷惑をかけた」
そして勇儀は繋いだ手を離し、さとりも手を引っ込めた。
さとりは動かない。ヘッドロックを解いてやるが、彼女は床を見つめたまま勇儀を見ようとも、返答しようともしない。
十秒ほど待っても変化がない。もう一回絞めてやろうか、そう考え始めた頃に、ようやくさとりは声を発した。
「謝ってください」
小さい声。
「それはもちろん」
「私にではありません。瞳を閉ざしたこいしに、肩身の狭い思いをさせたお燐達やパルスィに、倒れた覚妖怪に。本心でなくていいから、上辺だけでいいから、謝って」
彼女の心の化物が暴れようとしている。溢れそうになる自分の感情をそれでも制御して、緑目の化物をぐっと押さえつけたまま。さとりは顔を持ち上げた。二人がまっすぐに、視線を交わす。
自分ではなく自分の周りに居た人たちに謝罪しろと言ったのは、身内への思いが上回ったのか、私は永劫許す気はないという意思表示なのか。判断は難しいところだけど。
勇儀は改めて背筋を伸ばし、悟りに相対した。
「一幹部会としての立場で、地底の総意として謝罪することは今は出来ない」
「‥‥‥」
「だから、これは私個人としてだ」
そして。
「すまなかった」
勇儀は深く頭を下げた。
鬼は、嘘は嫌いな妖怪だ。勇儀はさとりに理解もある。私には程度はわからないにせよ、それは本心からの謝罪の言葉なのだろう。さとりの心の化物も、それでわずかだがおとなしくなった。
しばし沈黙が続き。
「私と、こいしだけでした」
語り始めた彼女に、勇儀は顔色を窺うようにしながら頭を起こす。
「私の世界にいるのは妹だけ。そのこいしが瞳を閉ざした瞬間、失うものなどなくなった。何も怖くなくなった。後は世界を恨み、憎み、私達を追い詰めた奴らにせめて一撃を叩きつけ、一人でも多く地獄へ道連れにするだけ。それが唯一、私が生きる理由になった。あなた達に取り入り、最高のタイミングで手のひらを返す。ただそれだけのために」
「さとり」
「でも」
さとりは辺りを見回す。ステンドグラスが割れている以外はいつもと変わらぬその執務室。
そして部屋の壁の向こうには。
「今はお燐達が、ここに住む皆がいる。私も、ようやく落ち着ける場所を手にできた。その安寧の時間に、私は幸せを感じることができたんです」
「さとり‥‥‥」
「これが今の私が守るものです。復讐なんてどうでもいい、これが今の私のすべてです。その為にも、私はもう、あなた方を裏切れないのです」
だからさとりはここまで耐えられたのだと悟った。化物を心に宿していても飲み込まれることがなかった。堪えた先には、家族との日々が待っているから。
じゃあ、これからも我慢し続ける?
私の胸に湧いた問いに、さとりはこちらを見て微笑で返してきた。そして今一度勇儀に向く。
「私は、できうることなら過去の清算をしたいと思っています。過去のことは、私は掘り返しません。あの苦痛を忘れるなどできないけど、私もあなた方の仲間を手にかけてきました。もう、終わらせませんか。お互いの怒りを、表面だけでもどうにかしてゼロにできせんか。その上でこの取引を続けたい。ご一考ください」
「こちらも昔話に蓋をして、持ち出すようなことはしない。それで手打ちという条件で、その話を幹部会に持っていく。結果は保証できないが、いいか?」
「えぇ。もう‥‥‥いがみ合うのも、疲れました」
肩を落として。ふぅ、と、さとりの深いため息が聞こえた。そのまま消え入りそうな、深い深いため息だ。
すると何を思い出したのだろうか。真面目な地霊殿の主の顔にすると、さとりは改まって。
「あぁ、言い忘れていました。星熊さん」
「なんだい?」
「こちらこそ、申し訳ありませんでした」
そう言ってさとりも、勇儀以上に深く頭を下げたのだった。
それに、勇儀は手を振ってから。
「私は個人として謝っただけだ。お前さんは頭下げちゃいかんと思うが」
「私も古明地さとりとして、あなた個人に対してです。それと、ご助力ありがとうございました」
「何、鬼が好きにやっただけさ。いつも通りにな」
勇儀はさとりの頭を上げさせると、片手を掲げて執務室を出て行った。
部屋には、私とさとりだけが残された。
対話の用意はあるって伝えただけでもたいした進歩だと思う。さぁこれで、さとりの立場が少しでも良くなるといいんだけど。すぐにどうこうと効果が出るとも思えないので、これまた何十年単位で気長にするしかないだろう。
「期待はしないで待ちますよ‥‥‥疲れたわ」
「同じく」
「ふふ、タメ口は始めて聞いた、ですか。私だって私生活では、ですますは使いませんよ」
そりゃそうだ。
「そうだ、私も謝らなきゃ。ステンドグラスごめんね」
「手が滑っただけですので。それに、タダで彼岸に発注できますからね」
「タダより高いものは」
「使えるものは使う主義でして。使えるなら死に掛け妖怪だって拾うからねこいつは、ですか。えぇもちろん」
偉そうに笑う。当面の問題事がすべて去った後のその笑顔は、これまでで一番やわらかく可愛らしく見えた。
なんだか、見ていると癒されるな。そんな風にほんわかとして。
「もしもし、私こいしちゃん。今あなたの後ろにいるの」
「うわっ!?」
突然後背から何者かに抱きつかれた。何者かというか、本人が既に名乗ってるんだけど。
まったくの気配なく、いつの間に入ってきて傍まで来ていたんだ。さとりがこいしの心を読めない、というのは知っていたが、踊り場でした会話の「後ろからサクッといける」とはこういうことか。彼女が自制してくれてよかった。
こいしは一旦私を解放してから、今度は右腕に抱きついてくる。
「いつからいたのあんた。さとりが心臓吐きそうな顔してるわよ。て言うか大丈夫さとり」
「わかってるんです、覚を捨てたこいしの力だって言うのはわかっているんですが。その、近づく者は探知できて当たり前なので、急に出てこられるとやっぱり」
胸を押さえて冷や汗を流すさとり。本当に驚いているらしい。飽きもせずいろんな表情をする奴だ。
「兎に角、心配かけたわね、こいし。もう大丈夫よ」
「うん。あ、パルスィ。聞こえてたよ、怒鳴り声~」
「あ~‥‥‥ごめん。つい」
「ううん。私達が言えなかった事を言ってくれる人がいるなんて思わなかった。本当に私達を助けてくれる人がいるなんて思わなかった。こういうの、捨てる神あれば拾う神ありって言うんだよね」
拘束されていないほうの左腕で後ろ頭を掻いて謝ったが、こいしはそう言って笑うのだった。
そのままこいしは、私の腕を抱いたまま。
「パルスィ。夕食、一緒に食べようよ。いいよねお姉ちゃん」
「え?」
驚いて、時計を探す為に辺りを見回す。
現在時刻、夕七つを過ぎている。もうこんな時間だ。なんやかんやとやっている間に、結構時間が経っていたらしい。お腹も、そろそろ食べてもいいかなと思える感じに空いていたことに気づく。
ちらりとさとりを見やる。この地霊殿の食事はだいたいペットかさとりが作っており、こいしだけが許諾しても仕方のないことだからだ。
そのさとりは、少しだけ顔を紅潮させて。
「そ、それは是非もなく! 慰労です。用意させてください」
「本気のお姉ちゃんは料理もすごいよ」
「あ~、でも縦穴が」
「誰かが通ろうとすればわかるのでしょう。小野塚の進入に気づくのに時間がかかった? あぁ、彼女は距離を操る力を持っているそうで、千里も一瞬で駆けることができるのですよ」
となると彼岸からの復路は一瞬。ならばあの帰りの早さも納得だ。
さとりからも許可が出たし、私の橋の検知が狂っていないこともわかったので、問題はない。そして食事の誘いを断る理由もないとくれば。
「じゃあ、御相伴にあずかろうかな」
「やったぁ!」
タダ飯をありつける私よりも、こいしのほうがうれしそうである。
なおもこいしが私に絡む中、「では支度をしてきますね」と、さとりは執務室を後にしていく。
そして、扉の外で待機していたお空達動物連中に囲まれ、次々に飛びつかれて身動きが取れなくなっていた。
それでも、だから彼女は、笑っていた。
3、
時の巡りは早い。出来事も気づいたら遠い記憶になって、そして別の変化が未来からやってくる。
「はい、地霊殿の主様からの注文品を持ってきたよ。ここに受け取りサインお願い」
「通っていいから自分で持っていって」
笑顔で紙切れと筆を突き出してきた小野塚小町に、私はどうぞと旧都方面へと促してやった。
時は日と冬と木の年。分りやすく言うと、お空が馬鹿やってお燐が地上に怨霊流した結果巫女が殴り込んできて、その巫女が地底の主要な面子をぶっとばし、ついでの真犯人(神)をとっちめ終えて、少し経ったというところである。
と、簡潔にまとめると、あらゆる部分での異常さがまったく伝わらなくなるのだから困ったものだ。なによ、真犯人(神)とか、それを単身やってきた巫女が天下の鬼を含む地底主要メンバーを全部片付けるとか。しかも人間と妖怪が仲良しこよしで来るとかおかしいでしょ。しかし現実である。
そんな時期にさとりが是非曲直庁へ発注した品物の数々を、大きな大八車3つに満載してやってきた小町は困り顔を向けてくる。もっとも、運んできたのは車の数だけ居る荷物運びの役人だが。
「あたいが地獄街入るとそれはちょっとまずいんじゃ」
「上との出入りなんて騒動からこっち、ほとんど黙認状態よ。さとりからも幹部会からも、よっぽど怪しい人以外なら黙って通して構わないとか言われちゃったし。あなたとうに顔割れてるでしょう」
「無用な火種は撒くなって映姫様に言われてるからねぇ。それにあれだ、水橋もここにいるだけじゃ暇だろうし丁度いいじゃないか」
「私を何だと思って」
小言を並べつつも、受け取った紙の空欄に「水橋」と書いて渡してやる。彼岸からすれば誰だこいつ状態だろうが、これでいいらしい。
最近は好奇心をそそられたかはたまた無鉄砲か、地底に足を踏み入れようとする輩がいる。元々ゼロだったんだから減りようがないなんて野暮な突っ込みはなしにしても、建前のみだった見張り業務がそこそこ重要視されるようになっていた。ほいほい離れるわけにはいかないと思うのだが、小町にこう渋られては仕方あるまい。
暇は潰せて、いろんな嫉妬が見れて、悪戯ついでにちょっとからかって、通っていく奴らを眺める。次の来客が中々に待ち遠しくなって、私にしてみれば歓迎すべき事だ。
無論のこと、この一連の事件は、地上との交流復活という新たな一歩を踏み出させた。それが歓迎すべきことか、うまくいくことかは定まってはいない。だがそれは、閉鎖的な地底にやって来た変化だった。よい変化なら迎え入れ、悪い変化なら押し止める。それだけだ。
地底に入るも上に出かけるも覚悟のある奴だけがやっていることなので、とりあえずの所問題は起こっていない。
「用意に時間かかる品物がいくらかあるから、それはまた後日送りますって古明地に伝えておいておくれ」
「まだあるの? まぁいいわ、じゃあ次の機会にね」
やれやれ、いつから私は運搬業者になったのやら。いや、これは中間管理職かしら?
帰路に着く荷持ちと小町を見送って、改めて品物に目を移す。
車が3つ。一度地霊殿に行きお燐お空を借りれば私は2往復することになるが、地底の端っこである縦穴から、地底の中心にある地霊殿とを2往復とか絶対やりたくない。しかも荷の布をつまみ上げてみると、石材を入れてる車まである。何に使うかは察しが付いたが、運ぶとなれば少々骨が折れそうだ。
それこそ近所のヤマメあたりに応援を頼む、という手も、残念ながら選択には入らない。あいつらの前では極力さとりの名前は出さないようにしてるし。
ではどうするか。
荷包み一つ一つが人間の運べる重量を越えているが、そこは妖怪。大型とはいえ幸いにも四輪型の大八車なので、この程度の重量なら列車みたいに紐で繋げて一度に運べるはず。遠く2往復の移動距離を支払うか、重いけど肉体労働にするかの選択肢に私は後者を取った。面倒は嫌いなのである。
さて、そうなると問題はこの橋。
橋より縦穴側に放置された車。地霊殿へ持っていくにはまずこれを越えていかなければならないが、さすがに3つを一度に渡らせるのは無理がある。対岸までは一個ずつ運ぶことに決めて、手前にあった大八車のひとつに手をかけ、ゴロゴロと引いて運んでいく。
橋の手前まで来た。
橋の幅良し、進入角度良し。
ではゆっくりと車輪を橋に載せて、と。
ギ、ギギギ、ギシリ、、、
た、たわんでる、軋んでるっ。
いや大丈夫大丈夫、案外木材って丈夫だし、こういうのは気持ちの問題だって。
ま、まぁ、慎重策としてもっとゆっくり歩こうか。
もう一歩、と。
ミリミリミリッ、メギッ
「ひっ!?」
大事な橋の悲鳴に思わず変な声を上げ、急いで大八車を橋からどかした。
確認してみると、車輪を乗せた橋板が軽く陥没した上に橋板そのものに大きく亀裂が入っていた。橋板を交換して再チャレンジとも思ったけど、そんな事で解決できるような橋ではない。それはつまり、橋の全交換を意味する。
11代目となるこいつを、最後に架け替えてから既に数十年。そもそも積荷が重すぎるのも原因ではあるが、腐って苔が生えていたりとかなり痛んでいる。最近はまともな加工をしてる木材をくれたが、素材が良くてもさすがに木の板一枚でこの重量は支えられない。当然といえばそれまでだけど、それを抜きにしてもここらが限界のようだった。
もう、寿命か。早いものだ。
建造物としては明らかに欠陥。
だけど、お前は紅白とか黒白とかをちゃんと渡した。通る奴も出てきた。よかったなお前、橋としてちゃんと使われたんだぞ。
‥‥‥。
なぜだろう。
なんだか、心がもやもやする。
「‥‥‥」
‥‥‥橋の傷跡を眺めている場合ではない。さっさとこれを持っていこう。
といっても、ちんけな橋といえど溝のような窪地を跨いで架けてあったわけで、一本道の洞窟に迂回路があるでもないとなると、対岸までは空飛んで一個ずつ空輸するほかはなかろう。
余計に体力と妖力を消費して運び、改めて連結作業。そして、出発。
筍のように突き出した石や迂回を強制する岩石などを横目に、申し訳程度の整備で一応道になった横穴を列車引いて進む。橋と旧都間は貧相ながら整備されていた。絶対舗装してくれないと思ってたのに、勇儀が気と手を回してくれたのだ。私が自力で運ぼうと血迷ったのも、ここが整備されているからであった。
そして薄暗い一本道を抜けると、まばゆいほどの光を放った街に出る。
バ鴉の事件が起こった後も旧都は何か反応を寄越すでもなく、それまで同様悠々自適な時を刻んでいる。何も変わらず出迎えてくれて、その不変さは私を安堵させてくれた。
幾度か繰り返された改修で石畳となった大路に入ると、見覚えある見慣れぬ妖怪の一行が目に止まる。彼らは地上からの旅行者で、その表情から彼らなりに旧都を楽しんでいるのが伺えた。地底妖怪も彼らを邪険に扱うようなことはせず、それぞれのやり方で珍客を迎え入れている。地上の妖怪を地底に入れないという誓約は、もはや形骸だ。
先ほどは往来が増えたと言ったが、「あの鬼の都」「恐ろしい地底怨霊」「封じられるべき力を持つ妖怪」の居る場所に来ようという頭のおかしな連中は一握りだ。来る奴も少ない一方、地底から出て行く奴もこれまたほとんどいない。地底側としても、自らが築き上げ長く住んだ地底都市は、彼らの新たな故郷となっていたからだ。いまさら地上になど未練はなかったので、遊びに行く奴はいても出て行った連中は片手で数えられる。
その例外の中に一輪達がいるので少々寂しくも思うが、大切な者たちが上にいると常々言っていたから、笑顔で見送ってやるべきだろう。
劇的に変化があるなんて最初から思っていないし、別に望んでもいない。問題はそこではない。
まず、この騒動の原因と、それによって受けた被害を考えてみよう。
神の侵入に気づかない、その神の力と飼い主の放し飼いによるペットの暴走、誓約破りの怨霊垂れ流し、開けていた縦穴から侵入を許す、それによる旧都内での戦闘、一部施設損傷。
騒動の原因は彼女に集約されている。地底の誰からも嫌われている、地霊殿の主に。
所詮はお飾り代表。何らかの刑罰があっても文句は言えない。
それなのに。
さとりを糾弾しまくっていたあの旧都連中が、さとりのペットが元となった騒動に何の反応も寄越していないのだ。
前のケースを考えたら、これを理由に討ち入りのひとつやふたつあってもおかしくない。叩かれる理由しか見当たらないのに、本当に何もないのだ。
異変の一部始終と詳細をかいつまんで聞いた後、心配になって地霊殿に駆けつけたのに。さとりからは余裕の笑顔で大丈夫ですとか言われちゃうし、勇儀からもこれからも縦穴の番よろしくとか笑って言われるし。
「何なのよもう」
周りがみんなへらへら笑っている中、一人空回って慌てているみたいでひどく腹が立つ。
笑って楽しんでいる奴らに嫉妬する、その鬱憤を力に変えて車を押す。
ガラガラゴロゴロ
出発した時は快調なペースだったが、そんなものは当たり前に落ちていく。全行程の五分の一も届いていないのに息切れしてきて、車を押す手の握力も落ちてきた。嫉妬が足りない。全世界の生物は私に嫉妬の力を献上すべきである。そうでもしてくれないと、ちょっとそれなりにかなり荷物が重くてやってられない。
横着して運ばずに甘んじて2往復すべきだったか。いやいや根本的に遠すぎる、やっぱりありえないわ。いやしかしこの現状は少々まずい。どうすればよかったんだ私は、などと不毛に悩みつつ小休憩に一度立ち止まり、息をつく。
疲労で俯いていた顔をそれでも持ち上げれば、遠くに地霊殿の影が見える。ただし、あんなにでかい建物が小指の先ほどの大きさで。
あぁ遠いなぁ、もっと近くに建ってたら諸々含めて苦労もないのになぁ。本当、こんなに遠くなければ。
暑くなってきたのでスカーフを解き、気合を入れてまた一歩踏み出した。旧都を抜けるまでにどれほど時間がかかるかとか、地霊殿に続く道も最近になって舗装されたけど坂道には違いないとか、わかりきっている事でも今意識してしまうとへこたれそうだったので、麓まで運べば後はお燐でも借りればいいと無理矢理前向きに思考を向ける。
ゴロゴロゴロゴロ
ゴロゴロゴロゴロ
「はぁっ、はぁっ、あ~」
「やっ!」
「わぁっ!?」
意識が完全に荷運びに取られていたところに、突然上下逆さまになったヤマメの顔が視界いっぱいに出てきたのだ。そりゃ驚いて後ろに飛びのく。
そして、退いた先で後頭部を堅いものに打ち付けた。
「あ痛。何よもう、ってキスメも」
ぶつけた所をさすりつつ振り向くと、丁度頭の位置に桶を下ろしていたキスメがピースサインで返してきた。わざとぶつかる位置に移動したなこいつ。
私を脅かすことに執念燃やす二人組にひと睨み。いつもいつも楽しそうで妬ましいことで。
「何よ二人とも」
「鬼女が恐ろしい形相で荷を運んでるって噂を聞いて」
「そんなにひどい顔はしてない」
「それ本気で言ってる?」
「当たり前でしょ。そこ2時間ちょっとで噂にされるような顔をした覚えはないわ」
答えたら、ヤマメに「ねーよ」と言わんばかりの表情をされた。地底のアイドルがなんてはしたない顔してんのよ。
‥‥‥まったく覚えがないのかと言われると、うん、ちょっとは。これ、重いし。
「凄い量だね。ねぇパル、何してるの?」
「宅配便よ」
「お届け物? 誰の?」
「地霊殿。是非曲直庁に発注したものらしいし、多分アレでしょ、この前の」
「あぁ、あれ。すごかったねあの人間」
キスメが相槌を打つ。
あの時、さとりも博麗のと一戦交えたというのは聞いていた。スペルカードルールそのものは、ヤマメとか往来する妖精によって事件の前から地底に持ち込まれていて、重症怪我人は発生しにくいし、頑張れば鬼にも勝てるし、鬼も気軽にできる勝負事ということで地底においても好評だったのだが。
弾幕という方法で戦えば当然流れ弾とかそういうのが発生するわけで、それを館内でやったらどうなるか。加えて灼熱跡地でもお燐お空がドンパチやらかしたとなれば、今回の件で一番被害甚大なのは地霊殿に他ならない。そうして壊れたので、損失分の資材を元の施行業者である是非曲直庁に頼った。とまぁ、こんな所だろう。
キスメと言葉を交わす間も、私にも許可なく積荷を確認していくヤマメには聞こえているのかどうか。
「ん~、建物の補修か。資材だらけだけど、大工はどこ?」
「さとりのことだから自分で何とかするつもりかもしれないわね。あのへっぽこに出来るとは思えないけど」
橋も作れない奴が石造りの洋館をなんて期待しないほうがいい。だがしかし、こうして資材だけ頼んだ所を見ると独力でやるつもりなのであろう。
任せるといったら全部他人に投げるし、やると言い出したら実力がなくてもやり始めてしまう。橋建設とかペットの飼育の仕方とか旧都へと対応そのほか諸々、両極端な奴なのだ。この建物の修理も、見栄を張らずに分をわきまえているとは言い難い。そんな彼女の性格は理解しているから、手伝える範囲であれば私も手を貸すつもりでいた。
「って、その紐は外さないでよ」
ヤマメが車を繋いでいる紐を解いているのを見つけてたしなめる。
だが彼女は明るく笑うだけで。
「いっぺんに運ぶなんて無茶しすぎ、何考えてるの。持ってくの手伝うよ」
「え? だ、だってこれ、地霊殿に持っていくもので」
そしたら必然的にさとりの傍に寄ることに。
あぁそうか、玄関前まで運んで帰れば別に鉢合わせしなくて済むわね。さとりが玄関先で出迎えるとかまずやらないし。
そう自分を納得させていると。
「ヤマメとさとりさんは別に仲悪くないよ」
「へぇ‥‥‥はい?」
「今は、だけどね」
ヤマメは頬を指で掻いて。
「さとりが橋用の木材を都合するので昔から何度か会いに来たし、当たりも柔らかくなったから。最近は別件でもいろいろとあってね」
「な、なによ。遠慮してさとりの話題避けてた私が馬鹿みたいじゃない! そうと教えてくれればよかったのに」
「あ~、やっぱ気を使わせてた? それは悪いことをしたね」
キスメ驚きのカミングアウトに、にかりと笑うヤマメのこの好意的な反応。
私の知らない所で仲良くなってたわけね。少なくとも、あの地霊殿に寄ってもいいと思う程度にはそういう間柄しい。ならば気兼ねなくこき使わせてもらおう。
「橋の木材を見てさ、さとりに売った奴だってわかったんで。それを会話のきっかけにしてね」
「もう。じゃ、手伝いよろしく」
「あいよー」
ヤマメは手早く連結を解き、三人横に並んで街道を進んだ。
横隊で進みながらおしゃべりをするなんて大迷惑なことをしても、大路はそれ以上に広いから特に文句も言われることはない。運ぶ重量が三分の一となったことで足取りも軽くなり、途中の茶屋で一服も挟んで目的地へ向かう。
不思議なもので、3人でおしゃべりしながら運ぶ間に地霊殿が目の前まで来てくれた。最後の難関である丘を気合いれて登りきり、常に開けっ放しの門をくぐる。そういえば、定期報告以外でここをくぐる事は随分珍しい。用事があることは間違いないし、別にいいか。
さて。荷は玄関先に置いておいて、主人に連絡しに行くかな。
「二人ともありがとう。本当に助かったわ」
「いえいえ。しかしまぁ、話聞いて冗談かと思ってたら、本当に一人で運んでたんだからびっくりだね。まぁパルスィらしいか」
「私らしいって、どういうことよ」
「聞きたい?」
「‥‥‥いや、やっぱりいい」
どう思われているのか気にならないではないが、どうせろくでもない内容だ。
「パル、今度からは呼んでね」
「うん、いっぱいこき使ってあげる。頼りにしてるわよ。じゃあ、さとりに伝えに行ってくるわ」
「待って待って、一緒に行こう。用事もあるんだ」
「私も行く」
用事とは一体なんだろう。まぁそういうことで、三人連れ立ってさとりに会いに行くことになった。
私は、過去一度として施錠されたところを見た事がない扉を開ける。昔はノック位したものだけど、敷地に入ってきたら庭番が見てるし勝手に入っていいよとお燐に言われて以降、勝手知ったる状態だ。
そういうわけで我が物顔でお邪魔するのだが、出迎えはない。あるいは何の警戒もないこの無反応こそが最大の歓迎なのかもしれないが、お空が飛び掛ってきた昔が懐かしく思えた。あの鴉が灼熱管理の仕事に入ってからはそういうこともなくなっていて、一輪達の件といい、なんだか私の周りから人が離れて行ってしまうような寂しさがあった。
すたすたと館内へ。が、付いてくる足音がなかったことに気がついてふと振り返ると、キスメとヤマメは扉の外側で二の足を踏みつつこちらを凝視してきていた。
「何してるのよ」
「いや、慣れてるなぁと」
「そりゃあね」
何百回もやってれば誰でも慣れるのに、当たり前のことに感心された。
一呼吸置いて付いてきた二人と廊下を歩む。目指すはいつもの執務室だ。
年一回とはいえさすがに見慣れた風景なので、これまでなんとも思わなかったのだが。積荷の件を思って見回してみると、確かに劣化激しく、石造りの内装はひび割れていたり欠けていたりしている。花瓶やら絵画やらの装飾品で誤魔化そうとしている場所もあり、家主あるいはそのペットが気にはしているのであろうことが窺えた。
そうして廊下を進むと、向かいからある一行がやってきた。
なにやら、会話をしている。
「実質無償でセンターを作れるとなると、貸しを作っちゃったか。適当な要求を聞いてやれば異変の迷惑料は払ったで手打ちできたのに」
「そんな事考えるから、旧都全部の治水とインフラ整備だなんて無茶をふっかけられるんだ」
「鬼との間だけで終わらせるつもりだったのに。人と会いたがらない引きこもりだって聞いてたのに、覚妖怪が出張ってくるとわかってたら手も打ったよ。ついでで分社建てて信仰集めようって計画もパーだ、まったく厄介な女だね。祟ってやろうか」
「諏訪子」
「冗談だって。むしろ私は、懐かしき妖達を見れて愉快な気分なんだ‥‥‥と、こんにちは」
「お邪魔してるよ」
長躯の女性と、帽子を合わせても身長の足りていない女性の二人。挨拶を寄越してきたこの方々が、神格であることは一目でわかった。つまり地底ではない余所者だ。余所者という事は、私の居る縦穴を通らなければならないはずだが、なにせ神格だ。その辺の地殻をすり抜けて入ってきたのだろう。本当、こういう輩がいるから困る。縦穴を守備している意味がないじゃないか。
いかな神といえど、別に信仰しているわけではないので平身低頭になる理由はない。当たり障りなく一言挨拶を交わして道だけは譲り、神様方とすれ違う。「どこが嫌われの妖怪だい、普通に訪問者がいるぞ」「地獄街から集めた情報の精度は確かなはずだけどねぇ」と、なお小声で話を続ける二人の背を見送る。
分社がうんたらと言っていたが、確か赤巫女のほうはそういう事に頓着しない人間だと聞いていた。殴りこんできた赤巫女とはまた別の神社ということは、例の真犯人(神)がいる。
「神格‥‥‥件の神社か。ただ詫びに来たってわけじゃなさそうだったけど」
「なんだったっけ、発電施設とかいうのを地霊殿の傍に作るらしいよ」
「ハツデン、なにそれ」
「前々から河童が執心してた技術で、火を使わずに明かりを作ったりできるんだってさ。これから便利になるよって勇儀が言ってたけど、詳しいことはまだ降りてきてないねぇ」
「ふぅん。で、神様方のあの様子だとさとりが言い負かしたってことね。ざまぁないわ」
「せいぜい泣きべそかいて帰るがいいさ」
神々の背中にちろっと舌を出して見せるヤマメ。さとりと旧都が喧嘩しないというのが先ほどまで不思議でならなかったが、ヤマメの態度を見て何となく納得できた気がする。要は、仮想敵がさとりからとって代わっただけなのだろう。
確かに、昔と今は違う。彼岸の件以来、さとりと鬼たちの衝突は割と軟化しているのは見えていた。「爆発するぞ、爆発するぞ」と触れ回って身を縮ませていたのに、何百年経ってもさとりが噴火しないものだから「あれっ?」と疑問を抱き始めた奴らも出始めているのかもしれない。畏怖が払拭されたわけではないので、旧都では相も変わらずさとりの名前を出すだけで縮み上がるし、蔓延している噂も尾ひれに背びれと胸びれまで付いた魚が勝手に泳ぎまわってはいるが。
神様方を見送ってから、二階の執務室へと向かう。
そして部屋の前について扉をノックすると、奥から「どうぞ」と聞き慣れたさとりの声が届いた。了解を得て、私は扉を開く。
「いらっしゃい、パルスィ」
そう微笑んでくるのは執務デスクではなく、応接用の席に座っているさとりだった。そして私は驚く。その向かいには勇儀の姿もあったからだ。
来客用のテーブルに、向かい合うように設置された湯呑み。二人で話し合いでもしていたようだ。
「お邪魔だったかしら」
「そんな事はありません、どうぞ中に。ヤマメさんとキスメさんも」
「失礼してるよ」
「こんにちは」
「こんにちは。三人で来るとは、今日はどうされたのですか。そうですか、彼岸からの荷物が。ありがとうございます。お二人も、よろしかったらどうですか」
ヤマメとキスメ二人を向かいのソファに誘導する動作をすると、特に拒否の反応もなく同意してヤマメたちも入ってきた。さとりの対応は随分とやわらかかった。
私はさとりの隣に、後の三人は正面のソファに腰かけて一つのテーブルを囲む。ほどなくしてお燐が人数分のお茶を運んできたが、感情剥き出しの黒猫も嫌な顔どころかにこやかに配って回り、一礼して去って行く。黒猫が礼儀を弁えたというよりも、そういうこと、ということなのだろう。
「さっき神様方とすれ違ったけど、勇儀はその件できたの?」
「それもだが、少しばかり説得をな」
「説得?」
理解しがたい単語に、首を捻る。
「そうだ、パルスィの言葉ならさとりも聞くだろ。ひとつ助力を頼むよ。な?」
「だから何の説得よ」
「今回の件が決め手でな。幹部会として、さとりを正式に地底の代表にと」
「‥‥‥へぇ?」
言葉の意味を理解して思わず感嘆の声を漏らし、私は隣の地霊殿の主様を見やった。少しばかり不機嫌そうに眉をひそめて、なんですかと言わんばかりの視線を返してきたが、凄味のない目線では説得力はない。元より、本気モードじゃないさとりには、すごみどころか服装からくる愛らしさしかない。
「外部とのやり取りは、地底代表としてまず私が受けて勇儀さんに報告、できれば勇儀さんの同席が望ましい。そして幹部会へ持ち帰り、協議して意思決定後に私が伝える。旧都の政は勇儀さん達幹部会が行う。私の身は鬼たちが守ってくださる。やることは今まで通りではあるのですが」
「たいして知恵は出せないから、結局さとりの采配に任せることになるんだがな。守るといってもさとりが自分で何とかしちまうし、ただの印籠だ」
さとりの、勇儀への呼称が、星熊さんから勇儀さんに変わっていることにも驚きつつ。
その印籠は必要十分すぎるだろう。ほとんどの妖怪をひれ伏させる最強の印籠を持った心を読める妖怪。しかも、十分に熟達し、懐刀らしい実力を得た怨霊使いと神の炎使いが脇に控えてるとか怖すぎる。
身を守ってくれる印籠がある限り、さとりは裏切らない。さとりが裏切らない限り、鬼も印籠を持たせ続ける。そして両者が利益を吐き出していく。地底が、いい方向へと連鎖を始めたのだ。
そしてその集大成が今回の話。鬼が、正式に、さとりを地底代表として担ごうと言うわけ。
「何尻込みしてるのよ。建前が本当になるだけなんだから、受けなさいよ」
「そして民心を持たぬ王を作りますか。私の言葉に誰が付いてくるというんです。ちょっと頭がいいからと言ってそこらの平民に王をさせますか。そうではないでしょう」
「実力者が王を倒してってのは革命でよくあるでしょ」
「大衆に望まれて立つわけではないので、私の言う事を聞く者はいませんし、私をトップとしては形式上、鬼が完全に私の下になります。これは旧都民が納得しないでしょう。私を象徴とした議会制度、幹部会による統治も考えましたが、鬼を超える象徴としての力がない以上不可能です。どれほど恐れられようと、所詮はただの覚妖怪。妖怪の格が優れているわけではありません」
これだけ地底のことを考えて意見出すんだから、別に任せちゃっていいと思うんだけど、さとりは熱弁で否定する。
「私とて鬼とこのまま協力関係を続ける所存。なので私が提示するプランはこうです。この度の失態を契機に地底代表の看板を剥奪し、表書きの代表を鬼とします。その上で時機を見て私を外交官担当として幹部会に入れ、外とのやり取りに私を挟ませる。不可解な構造といびつな関係の修復、鬼の面子の保持、旧都民への配慮。すべて解決できるはずです」
「反対」
私は即座に否定してやった。
「なぜです?」
「一、さとりと鬼の関係は完全に修復されていない。二、この為、さとりを介さず頭を飛び越してやり取りが行われる可能性がある、ていうか高い。地底代表の看板があったからこそ鬼は黙ってたし、外交相手もさとりを通さずにいられない状態だったんだし。三、幹部会は現状鬼のみで構成されていて、さとりをねじ込む口実としては弱い。せいぜい実働隊への参入でしょう」
「中々に、痛い所を突いてきますね、パルスィ。確かにそこは懸念ではありますが」
「その四もあるぞ」
援護弾を出してきたのは勇儀だ。
「今回の件、確かに動物どもの暴走が発端だが、地上との面倒はすべて片付いた上、なんたらセンターとかの恩恵を地底も受けられるようになった。これはさとりの功績だ。神にも怯まぬ妖怪だって街でも広がってて、さとりにとってはありがたくはないだろうけどな。幹部会も言ってるよ、古明地がこれまで通りしてくれるなら安心だって」
「待ってください、なぜ末端にまで本件の仔細が伝わっているんですか。八坂らとのやり取りの数々は秘匿のはずです」
「博麗のを手伝ってた萃香と、知己の鴉天狗にな、今回の件は実際どうなんだって聞いてみたら気前よく教えてくれてなぁ。幹部会だけで情報は回してたんだが、天狗共の新聞も地底に降りてきてるし」
天狗が気前よく教えてくれた、ねぇ。
山においての鬼は絶対の法だったとか聞いたことがあるのだが。冷や汗流しへこへこしながら吐露していく天狗と言う構図がふと頭をよぎった。
「幹部会がやっていたらコロっと騙されるか気づかないかして、エネルギー革命とやらの養分にされてるよ。それを考えたら、代表から降ろすなんてとんでもないね」
「勇儀に同意ね。ん~、そうね。今回の件、悪かったのは地上の連中、でも落着したと事実を喧伝しつつ、鬼がさとりの功績を強調して名声を持ち上げるでしょ。これで地底代表としてのさとりの立場を示しつつこれまでの形態を維持。もちろん旧都は引き続き鬼が主体になって取りまとめて、さとりはなるべく不干渉。これで主な支配は鬼がやりつつ、さとりが外交面で表に出ることになる」
「実行支配力は鬼が上で、街は鬼がやるんでしょ。文句は出ないと思うよ」
これはヤマメ。
「何かあったら、地底代表のさとりに言えって言えるんだろ。いいな」
これは勇儀。
「ですが」
「武家に都支配された天皇みたいなもんでしょ。これで数百年やってきたんだし、平気平気」
いびつには違いないが、妙なバランスで落ち着いた関係だ。数百年続けてきたものをどうこうしようという大革命が必要とは思えないと、さとり以外の意見が一致した。実質的な負担と権威がさとりに一極集中してしまうと言うデメリットもあるわけだが、人間と違って寿命は長いので引継ぎ云々の話は当分先だ。にしても、あんたいっつも四面楚歌やってるわよね。
双方なんら不利益が発生しない決定。さとりのことを全面的に認めたっていう非常に好意的なそれを、正義のなくなったさとりは。
「こっ、この話は、ゆっくりと協議しましょうっ。ま、まだ地上との折衝も起こるでしょうし、今は内部問題を吐露するわけには行きませんので」
そう述べて俯いてしまった。もっともらしく聞こえるが、これはもう「引き受けた」ということでいいのだろう。
当分と言わず鬼といがみ合わずに済む、ここはあなたの安住の地になった。
よかったじゃないさとり。
そう、からかい半分に祝福しようとして。
「‥‥‥」
私は、口にするのを躊躇った。
まただ。
心がもやもやする。
これは地底にとって、さとりにとって喜ばしいことだ。憎しみに悲しみに恐怖に、締め続けてきたものからさとりは開放されるのだ。もうさとりは苦しまなくて済む。彼女が苦しむ様を見るのは私も好まない。
なのになぜ今言葉を詰まらせたのか。
私は、喜べないの?
なぜ。
彼女を見て嫉妬心描き立てられるという訳でもなく、脳内に疑問ばかりが降り積もって、そこから先に進めない。ほら、そんな風にまとまらない思考で考えているから、さとりが不思議そうな顔を向けてきた。どうしましたかと、今にも尋ねてきそうだ。
混乱する中、私とさとりの間だけで通じる意思疎通を知らず、それとは繋がりのない話題をヤマメが出してきた。
「話変わるんだけどさ。ねぇさとり。さっき持ってきた車のあれ。あの車の資材で建物の修理をするってことだよね」
「そうですね、壁に空いた穴だけでもしておこうと。改築ですか。建て直したほうがよい、と」
「建物が崩れるって心配はとりあえずないけど、修理したい場所が多すぎ。年季も相当だし、それならいっそ思い切ったほうがいいね。手入れされた庭に対しても不恰好だよ」
「ふむ、そうですね。そうなると彼岸に頼んで‥‥‥ご意見ありがとうございます。検討してみます」
「ん~、思うんだけどさ」
唸ってからヤマメが軽く身を乗り出した。
さとりは口を挟まないが、既に驚いた顔になっているのが心情をよく表している。先の言葉を読心で知っているから、それに対しての反応だ。
「資材を一々彼岸から取り寄せなくったっていいんじゃないの。車に乗っけてきた奴も、立派な素材だけと特別な加工をしてるわけじゃない。石材なら地底に腐るほどあるし、同程度の品質の岩石も産出してるよ。知り合いに当たってみようか」
「し、しかしそれは」
「ん? あぁ心配しなくていいよ。さとりに理解のある奴に頼むから。大工もこっちで用意しちゃおう。だいたい、得意の土木で彼岸におんぶに抱っこされてる建物が地底にあるなんて、うちらのプライドも許さない」
それも容易にできると、ヤマメの口調が示していた。
「でも。でも、建設技術だって」
「洋物はやったことないけど、作り方くらいは建物を詳しく見させてもらえばわかるよ。人手だって姐さんのところの脳筋連中、旧都整備の時みたいに貸し出してくれるでしょ?」
「脳筋ってお前‥‥‥言い返せないけどさぁ。幹部会連中のいくらかなら、声をかければ」
「ぁ、ありがとう、ございます‥‥‥」
有り余る好意を耳と第三の瞳で受け止めて、さとりは当惑し照れたように顔を赤くする。
予想以上に鬼との関係が修復されていて、旧都民の一部からも理解を貰っている。地底全部を相手に復讐の言葉を抱いて、ただ一人で戦い続けていたあのさとりが、だ。彼女の緑目の化物も、会う度に少しずつ小さくなっていっているのは見えていたが、予想以上の進展だ。
もう、すっかり地底の仲間。私の見ていないところでよろしくやっているようだ。
「そうそう、さとり、勇儀。この前の話なんだけどさ、どうなってるの。それを聞きに来たんだ」
「その件ですか。えぇ、今つてを頼って集めている所です。また連絡しますので、早ければ来週にでも話し合いましょう」
「どうかねぇ。地上にあるとは思えないんだけど」
「知識と歴史の半獣、という二つ名の者が人里にいるそうです。あるいは書籍があるかもしれませんが、厳しそうと言うのが本音ですね」
何事かの内容をヤマメと話すさとり。
彼女は笑顔だった。これまでお燐達に、私に向けられていただけの顔を、今、外へと向けている。
そんな姿に、私の胸のざわつきは加速して。寂しいとか嫉妬するとか、そんな感情もあるが、それとはまた違った何かが。
‥‥‥あぁ、そうか。
やっと、理由がわかった。
「‥‥‥! あ、あの! パルスィ!?」
「わっ!? 大声出さなくても聞こえてるっての」
怒鳴るとか叫ぶとかいった行為を滅多にしないさとりが、身を乗り出した上でいきなり声を張り上げてきたのでびっくりした。耳元で吠えられたものだからちょっと痛い。
「す、すみません‥‥‥」
「いいけど。どうしたの」
「えっと、そのですね」
言葉を濁し、しかし身は乗り出して私を圧迫したまま。
そのまま、さとりは首だけを回して勇儀達に向く。
「や、やはり私達だけで事を運ぶのは厳しいと判断します! よろしいでしょうか」
「まぁ、それは否定しないけど。さとりがいいなら」
「で、では」
こほん、とさとりは咳払いして。
そして、ぐいと身を寄せたままの顔がこちらに戻ってくる。
「パルスィ。橋を、架けようと思うのです」
「‥‥‥。は?」
「ですから、橋です」
同じ単語を二度言って、さとりは覚る力を持たない私に言葉で説明を始めた。
「今まであなたにはとんでもなくみすぼらしい橋を作ってしまっていました。この数百年とても心苦しく思っていたのですが、その、私もまったく知識がありませんで。なので、せめて橋に見える橋を作りたいと考えて、少し前から動いていたのです。本当は立派な完成予想図とかを見せてあなたを驚かせるつもりだったのですが、地底はもとより幻想郷にも架橋技術が残っていないようなのです。こ、ここまでが、今ヤマメさんと話していた話の内容でして」
「はぁ」
「そこで、本末転倒な話ではありますが、あなたの知識をお借りしたいのです。地底の橋です、地底の者だけでできるのならそれがよいのです。お願いします」
と、さらに頭を下げてきたので、彼女の頭が私の胸にぶつかりそうになった。思わず身を引いて避ける。
しかしさとり、どうやら大いに勘違いをしているらしい。
「付喪神ならあるいはだけど、建築業界の妖怪でもなんでもないんだから。橋姫だからって橋の建設に詳しいと思ってるの?」
「えっ、違うのですか?」
さとりは驚いた顔をした。ヤマメやキスメも、勇儀までもが驚愕の表情だ。
驚くことじゃないでしょう。橋姫の由来考えろっての。建築そのものはさっぱりだ。
「橋に執着しているなら当然だとばかり‥‥‥昔住んでいた橋ならよく見てたからわかるって、ほら、ちゃんと知っているじゃないですか。一番詳しいのはやはりあなたですよ」
「私の古い知識が最先端とは終わってるわね」
私の故郷は、せいぜいが馬車を通過させるための短い木造橋。江戸以前の小型橋建設技術が地底のすべてだそうだ。幻想郷に目を移してもあちらも内陸であり、昔からたいした人口もないしなびた人里だった。川幅もいうほどのものはない。技術力を要するほどの橋は不要となって作られなくなり、書物などによる保存も里ではされず、技術がそのまま消滅してしまったのだろう。文化や技術ってこうやって消えていくんだろうなぁと、のんびりと考えながら。
さとりにお願いしますと頼まれては、拒む権利はない。
「ま、いいわよ」
殆ど二つ返事で返答をしてから。
しまった、と思った。
私は、この話を受けてはいけないのだ。
「あ、それでは」
やっぱり今のなしで、と否定する時間をくれずにさとりは表情を明るくして立ち上がると、本棚から冊子をいくつか取り出して戻ってきた。
私が声を出そうとする度、「待ってください」「すぐですから」と言葉を遮るように声を出され、そうしてぱらぱらとページを捲って、それを開いて見せてくれた。
「山の風祀からお借りした本で、これらの写真は今の外の世界で撮影されたものです。えっと、これが勇儀さんのイチオシで、お空はこっちがいいと言っていましたが、私はこんなのがいいなって」
言いながら、写真をひとつずつ指差していく。
勇儀のこれって、この小さく見える橋姫は、ほう瀬田唐橋。さすがに時代に見合った工事は行ったらしいが、まだ元気にしてるんだ。お空のは知らないけど結構若い、写真の下に瀬戸大橋って書いてある。多分というか、風景から察するに琵琶湖にでも架けてそうな大きさ。さすがは人間、外の技術はここまで進んだか。で、さとりのは錦帯橋と呼ぶらしい。随分と面白い形をしているが、しっかりと作ってあるだけに姿形が美しい。
他にもいくつかあってどれも目移りしてしまう妬ましさ満載だけど、京の都あたりの写真が多くて胸が弾む。あのあたりの橋は姿も立派だから、ほのかな憧れという奴だ。私は私の橋が一番と思っているから妬みではない、あくまで憧れである。そう、あんなさとりの橋でも、私にとっては一番なのだ。私の、いっとう思いが詰まった大切な橋。
‥‥‥って。
「希望品が揃って全長100メートルオーバーじゃないの阿呆共。橋ってのは長くなるほど荷重とか考えなきゃいけないの、どうしろってのよ」
「長さはともかく、とりあえず手すりは欲しいですね。それにギボシとか言うのでしたか、あれがあるだけで見違えます」
「手すり言うな、欄干。それと言っておくけど、木造桁橋しか知らないからね?」
「桁橋とはどのような、あぁ、勇儀の選んだような直線な橋になるんですね。曲線は無理ですか、残念です」
「長さ的にはこれくらいが限界かなぁ、五条大橋。ん? 五条橋って架けてるのここだったっけ。まぁそれくらい」
私の記憶と違う場所の五条橋に首を捻るが、そんなことは今はどうでもよい。無茶して粗が出ても嫌なので40メートルが限界だろう。出来ればその半分くらいが安心できるラインだけど。
しかしこんな時に自慢の意固地がでたのか、さとりは瀬田の奴と宇治の奴を人差し指と中指で示して無茶を言ってくる。
「その、もうちょっとがんばれませんかね? このくらい。大きい橋はすごく見栄えが良いので」
「グーがいい? パーがいい?」
「チョキで‥‥‥あ、シッペじゃなくて目潰しですか、ごめんなさい」
言いながらも、微笑むさとり。
けれど、私の気分は晴れない。
ねぇ、さとり。
その橋って、何の為に在るの?
その橋に、私が居る必要ってあるの?
わかってしまったのだ。
私は。
怖いんだ。
□
橋の設計図作りは、順調に終わった。私が簡単に橋の外観や覚えている分の構造絵を描くと、それだけで強度補強や加重対策をヤマメが考えてぱぱっと図面を引いてしまったのである。自信はないけど多分こうだと謙遜して見せていたが、さすが土木の土蜘蛛、旧都の建設について一手を任されたその技量は間違いないようだ。
勇儀が一声かければ、地底では潤沢とは言い難い木材もすぐに集まる。その木材を惜しげもなく使って、加工。建設場所を決めると、彼らは早速作業に取り掛かった。場所は今よりも旧都寄りとなり、横穴と大空洞の接点に近い場所となった。
工事は橋だけではない。
建設予定の窪地には水路がなかったので、辺境の治水ついでに湧き水が橋の下を流れるように水路を整え、橋の利用を促す為に橋は灯火する代わり周辺をわざと暗くした。橋と旧都の間にある道も、大路へ接続することを考えてグレードアップさせるらしい。
グレードアップと言えば地霊殿。丘の上の洋館へ続く道も景観含めて整えるそうで、「橋を優先してください」とのさとりの希望から、橋の建設後に地霊殿とその周辺の改修計画も行うことになっている。地獄街整備以来となる複数箇所の、久しぶりの大工事。この為に遠方地区の地底妖怪もやってきていて、旧都中心街は大いに沸いていた。
そんな彼らがいる旧都入り口から離れて、私はここに居る。ずっと居続けた、自分の居場所だった場所。
橋を、見る。
見れば見るほどにみすぼらしい橋だ。橋と呼んでいいかすら怪しい。
あの大八車を渡そうとしたのが最後の仕事となったこいつは、大きく立派な橋が築かれようとしているその影で、静かに朽ちていっていた。
この窪地も、正確には縦穴から旧都に至るこの横道全体も整備していくことになっている。洞窟としての景観は残しつつ、歩いても通れる陸路とするのだ。妖怪は空を飛ぶから云々だが、景観勝負で地上には負けたくないという思いがあるらしい。その際にはこのボロ橋と、長年住んだ小屋も撤去する予定で、私は橋の近くの空き家をもらうことになっていた。見慣れたこの景色も、あと少しの付き合い。
人通りができたから要らなくなるだなんて、ひどい皮肉じゃないか。
‥‥‥橋なんて、はじめからそんなものなのかもしれない。
望まれて作られ感謝され、幾多の補修を繰り返しながら生活の一部を支え。得た当たり前にやがて感謝の言葉は消え、時代と人の流れの移ろいによって人は遠ざかり、限りなくゼロとなって役をなくし、そして静かに消える。記憶は忘却によって、記録は紛失によって、誰にも伝えられずやがて無になる。
そして橋姫は。
「こちらにいましたか」
背後から、知っている声がやってきた。何百年単位で、聞き慣れた声。
さとり。
振り返ると、彼女はいつものように微笑で持って返してきた。
だから私は、無心を決め込んだ。
何も考えなければ考えを読まれる事はない。これまでの経験から、どれくらい思考すればさとりにばれるのかはわかっていた。だから、今考えたいそれらすべてを外にして、さとりに読まれないように勤めた。考えないように考える。これが、結構な労力なのだ。だがそれだけの効果があることは知っている。
対するさとりは、穏やか。
「ここに居る。そんな気がしていました」
「向こうは終わったの?」
「ほとんど作業は残っていません。今はヤマメさんが建付けや強度の確認などをしています」
岩の足場を靴で叩いて、彼女は寄って来る。そして、自分で作った橋を眺めた。
自分で架けた橋。寿命を迎えては架け直し、今日まで繋いできた橋。私の、橋。
「随分長いこと、ここにいましたからね。寂しいですか?」
「当たり前」
「こんな橋でも愛着を持ってもらえるとは、嬉しい限りです」
私の言葉がうれしかったらしい。さとりは微笑んで、また、橋を眺める。
私もさとりも、しばらく黙っていた。
私はこの場から動けない。さとりにさっさと帰って欲しかったが、彼女は動いてくれない。
ばかりか、言葉を渡してくる。
「これからも、あの橋をお願いしますね」
さとりの言葉に、私は。
答えられなかった。
橋をもらうのが嫌だったわけではない。ただ、嫌だったのだ。それを受け入れるのが。
それにさとりは。
「ですよね。知っていました」
その場その場で浮かんだ感情は、どんなに意識しても隠す前に読み取られてしまう。このくらいは仕方なかったが、今だけは彼女が覚妖怪であることをひどく恨んだ。
彼女は答えて、また一歩寄って来る。
「あの橋には、もう私の想いはありません。あの橋は地底皆の橋。そんな橋を受け取れば」
ここにある橋は、さとりがさとりの思いの為に架けたものだ。だがあの橋は違う。地底の皆が、地底と私の為に架けてくれた品だ。
もしも受け取れば。
「私達の間にある、契約の破棄をあなたは認めることになる」
そう。
さとりにとって、いつからこの橋が不要なものになったのかはわからない。私も、盲目的にさとりのためと叫んで仕事を続けてきた。思えば、さとりが地底の輪に溶け込み始めたのがわかっていて、わざと見ないようにしていたのかもしれない。
さとりは私の隣までやってくると、その場でしゃがんだ。小さな体を丸めて、そして、朽ち行く橋をそっと指でなぞる。
「それは、私とあなたが、契約で結ばれた雇い主と雇われの関係から、他人になるという意味になる」
その言葉が胸にずきりと、来た。
「怖いですか?」
感情に、思考に蓋をしようとするたびに、さとりが先回りして言の葉にのせ、蓋を取り払っていく。どうにも無駄な抵抗だったらしい。私は無心をやめた。
そうだ。私は、怖いんだ。
要らないと捨てられる事。
それは、今日まで続いてきた思い出が、他人と言う隔たりを持って途切れ、過去の記憶になること。全部が昔話になって、そしてその思い出を、他人となったさとりと共有できなくなる事。そして、他人と言う言葉を持って関係がぷつりと切れ。
契約。雇われの身であった自分の存在価値が、なくなる事。
「怖いのですよね。人に望まれ作られたはずなのに、容易に捨てられた昔の橋。必要ないと切り捨てられた心の痛み。それはあなたにとってのトラウマ。私の行為は、契約の破棄は、それを想起させる」
淡々とただただ静かに、さとりは述べる。
昔と同じだ。誰にも忘れ去られて捨てられたあの時も。あなたは要りませんと宣告を受けるのも。本質的には同じだ。
「雇用主と被用者の契約から、地底代表から一妖怪への仕事としてぼんやりと引き継ぐ。そう、ぬるま湯に浸り続ける事も考えました。何も考えず、何も悩まず。永劫先送りにして、いつの間にか出来上がっているものに浸り続ける。心地よいですもの。その為に、あなたには内密で話を進めていた。でも、それはもう出来ないのですよ」
「どうして」
「あなたが、理解したから」
何を、と問おうとして、やめた。
自分がさとりにとって、既に不要な存在となっていることを、私は理解してしまった。
わかってしまったから怖いのだ。いつさとりが繋がりを絶つと言ってもおかしくないとわかってしまったから。これ以上続けても、私はその恐怖と隣り合わせに生きていかなければならない。不安を抱えた生活は多大なストレスを生む。今まで通り振舞うなどといったこともできないから、出来ないのだ。
私の思考にひとつ頷いて、さとりは続ける。
「私達の関係は、嘘から始まりました。嘘で呼びつけ、契約で縛り、目的がなくなってもあなたが必要だと、嘘によって橋を渡し続けた。嘘で塗り固めてきた。時には私が耐え切れず、本音を吐露した事もありましたが」
そう。私達の関係なんて、そんなもの。全部嘘の上に成り立っていた。
騙したままでよかった、騙されたままでよかった。どんな嘘でも、その根底にはさとりが自分を求める、確実に裏切る事はないという大前提があったから。それこそが私にとって重要事項だったから、これまでやってこれた。
それが今、崩れる。
「そうです。おしまいなんですよ。もう戻る事はできない」
「‥‥‥」
「だからパルスィ。あなたに、大切なお話があります。聞いてください」
さとりは立ち上がると、その三つの瞳でまっすぐに私を見つめてきた。
それはどこか見覚えのある姿。彼女の三つの瞳の視線が、私を貫く。強い意志のあるあなたが、何もない私を問い詰める。すべての始まりを告げた、懐かしい記憶だ。
またあの時と同じだ。何も変わっていない。すべてが同じ。
だから思う。
やめて、と。
「私達は雇用主と被用者。それ自体は今日まで続きました」
それが私達。
使う側使われる側。利用する側される側。
「ですが、私達の繋がりまでそうだったとは思いたくありません。数々の嘘とこんな板切れ一枚で繋ぎとめられていただけだなんて、思いたくありません」
私にとっては命よりも大切な橋だ。偽りの契約だったとしても、橋まで馬鹿にしないで。
でも、その言葉にだけは同意する。もしも契約なんて関係なく、橋なんて関係なく、今までと同じことをあなたとできるのなら。そしたら。
幸せなのかもしれない。
思う私に、さとりは続ける。
「水橋パルスィ。あなたは私、古明地さとりにとって、とても大切な方です。これを表現する言葉を私は知りませんが、契約などよりももっと深く強い何かであることは、はっきりと感じています。ここに至っても契約だの仕事だのと言う言葉で、この思いまで誤魔化したくないんです。そしてどうか、あなたも同じものを思っている事を期待します。だから、私は」
さとりは右の手のひらを上に掲げた。そして。
振り下ろす。
放たれた妖弾と衝撃波で。
私達の橋は橋を架けた者の手によって、あまりにもあっけなく、易々と破壊された。
数百年分の思い出が、散った。
「私は、ここに契約を破棄します」
これがあったから、私はさとりに尽くす理由があったのに。
これがあったから、私とさとりは繋がっていられたのに。
橋は、もうない。
すべてがなくなった。
今日までの私が、否定される。
「これで、私達は他人です。私達はもう、二度と会う必要はありません」
「‥‥‥」
そこに必要性があったからこそ、橋はあった。そこに必要性があったからこそ、私達があった。
何もない。
もう、何もない。
私達は終わったんだ。
捨てられた。
痛い。
すごく、痛い。
息さえ出来なくなりそうな胸を締める思い。地上で、捨てられたと悟ってしまった時のあの痛み。もう二度と味わいたくないと思った、あの時と同じ痛み。
「ですが、会うことは出来ます」
さとりは屈んで破砕片のひとつを手に取り、そして立ち上がる。
ゴミを握り締めて。
「私はこれから先も、あなたに会いたい。古明地さとりは、水橋パルスィに会いたい」
嘘だ。
さとりは心を読む事ができる。それはつまり、相手が一番欲しいと思っている言葉を読み取って、渡す事ができるという事だ。
そしてここにおいて重要な事は、さとりは地底の噂通りの悪魔の化身のような何かではなく、自分の家族に優しくできる妖怪という事。その強靭な精神力で、自身の爆発的な感情すら御して最善手を打つことができる奴だ。
私はさとりとの繋がりが切られる事を恐れている。そんな私に私達はまだ繋がっていますと、そういう言葉を私に渡すだけだ。一番手っ取り早く、面倒も起こらず変な遺恨も残さない最善の方法だ。すばらしいじゃないか。
さとりは嘘をついている。今まで散々嘘をついて、契約で縛ってきた奴だ。今更もうひとつ嘘を上塗りするくらい、なんてことない。
私のこの思いは当然、さとりも読んでいる。その上で、彼女は続ける。
「もう一度言います。私、古明地さとりは、水橋パルスィ、あなたに会いたい。とても強く思い、願っています」
「嘘でしょ」
「あなたは、私の言葉が嘘である事を恐れている。私の言葉が嘘であることで、また傷つく。それを恐れている。わかります。嘘で塗り固め続けてきた私のことが信じられないことも。ですが聞いてください」
懇懇と、さとりが説く。自身の胸に手を当てて、その三つの瞳が強く訴える。
「あなたと居られてよかった、うれしかった、楽しかった。そして叶うなら、これからも。これは、この思いは本当なんです。だから」
どうせ嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。
望まれて作られたのに捨てられた。望まれて雇われたのに捨てられた。これ以上傷つきたくない。いいんだ、別にそんなに優しくされなくても、さとりを恨んだりなどしない。いいんだ、橋姫なんてそんなものだ。願い叶わず、思い届かず、無念を胸に鬼になる。元からそういう種族じゃないか。捨てられるのも何もかも運命なんだ。橋姫は何も得られない。何も得てはいけない。何も、期待してはいけない。
繰り返す事が無駄だと悟ったのだろうか。さとりは一度唇を結んで、そして、木片を握って。
「もし、私の言葉を信じてくださるのなら。そして、同じ思いを胸にしてくださっているのなら。私のところに来てください」
踵を返した。
さとりは、私に背を向けたまま。
見るとその背中はなぜか哀しそうで、地霊殿の主の威厳なんてなく小さく見えて。いつか見た、ここで本心を吐露して崩れる姿にそっくりで。
「待っています。何百年でも、待っていますから」
残酷な言葉だ。
待って何があった。一時の幸せを引き換えに、さらに深く傷ついただけじゃないか。私がそれを、数百年かけて証明して見せたばかりじゃないか。それでもあなたは待つと言うのか。昔の私と同じように、何の希望もなく何の救いもなく、心を蝕まれながらただただ耐え続けるだけだったあの時間と同じように。
さとりは、もう何も言葉にしなかった。
その言葉を最後に。
石の道を靴で叩きながら、歩き去っていった。
その姿は洞窟の闇に飲まれて見えなくなり、その音も遠ざかって奥から響く喧騒に消えた。
行ってしまった。
姿見えなくなった洞窟の闇を見つめて、これで本当に終わりなんだなとぼんやりと考える。
橋をもらえて住居をもらえて、ここに住んでいいよとは言われた。きっと私はあの新しい場所で、地底妖怪橋姫として、誰に命令されるでも求められるでもなく、殺される事なく残った存在としてただ生きていくのだろう。
終わりだ。全部。
「‥‥‥ははっ」
両目を、片手で覆い隠す。
もう、くそ遠い地霊殿までいく必要はなくなった。さとりが橋を修繕したり、架け直したりしに来る必要もなくなった。お互いに何もない。これでさよならなんだ。
私の今までは一体何だったんだ。この思い出は一体何だ。何の価値もないただの記憶になってしまったこれは何だ。
故郷を離れる時、これが最期の生だと、どこまでも付いていくと決めたのに。私はまた捨てられた。
全部が無駄になる。全部が過去になる。
私達の間に残っているのは、嘘の言葉であったはずの数々だ。これが契約を破棄した瞬間、真実になった。
怖かった。
あなたに尽くすと決めた事も、あなたを守ると地霊殿に飛び込んだことも、あなたと一緒に地霊殿でお茶会をした事も、あなたと一緒にここで酒盛りをしたことも。あの時の私の思い全部が、感じた事全部が、全部嘘になるのが。
さとりの嘘をずっと黙認したのは契約だったから? さとりを助けたのは契約だったから? お茶会も酒盛りも契約だった?
私は。
さとりに付き合うというのは契約だったかもしれない。でもそれを決めたのは私の意志だし、助けに行ったのはさとりだったからだ。あんたとするのが楽しかったからお茶会も酒盛りもしたんだ。嘘になんてしたくない。
私は、あいつを大切に感じている。契約以上に。
だから怖かったんだ。
契約と共に、それを切られるのが。
嫌だ。
片隅に残っていた欲求に火が灯る。
信じていいのだろうか。私はさとりを。さとりのあの言葉を。雇用主としてではなくさとりとして、自分を大切に思ってくれているというあの言葉を。
怖い。
嘘だったらどうする。もう裏切られるのは嫌だ。裏切られたと理解してしまった時の、あの張り裂けそうな思いはしたくない。何も信じなければ裏切られる事もない。希望を持たなければ失意することはない。あの痛みから永劫無縁でいられる。
どちらの思いを選べばいいの。
どうすればいいの。
そんな時だった。
「‥‥‥?」
気配を、感知した。
近くではない。ここからは少しだけ離れた場所だ。そこには大勢の気配がある。恐らく架橋に関わっていた妖怪達のものだろう。こうして距離があっても検知できるという事は、橋は完成して、かつあの橋は私のものになったということなのだろう。元の橋が壊されたことで、移設は終わった。そういうことだろう。
そこでは多分私の帰りを待っているか、適当に酒盛りでも始めたか。連中のことなので多分後者だろうなとは思うが。誰も彼も、橋から離れる気配がない。
いや。
誰かが一人、橋を渡ろうとしている。
ここから新たな橋までの距離と、この場を去ったタイミングからして、それはさとりに違いなかった。
こんな別れ方したら。彼女は私との繋がりを切ったのだ。さとりとはこれっきりになる。
このまま行かせたら、私は。
さとりを失う。
感じたのは怒りや恨みではなく。
強い痛みと、恐怖。
「そんなの、嫌よ‥‥‥」
嫌だ。
手放したくない。どうか行かないで欲しい。
これまで通り、適当に会って適当に会話する、そんなささやかな楽しみがなくなってしまうのは嫌だ。やっと得た、幸せを感じられる場所と人に。
私は、駆け出していた。
待って。
そこなら届くから、今から行くから、待って。あんた言ったでしょ、待ってくれるって。ずっと待ってくれるって。待ってよ。
走れば数分と要らない。すぐに大空洞と、ライトアップされた新たな橋が眼に入った。すばらしく、美しい光景。だがそんなことは今はどうでもいい。
見えた。
悪目立ちもいいところな、青の服とピンクのスカート。橋を渡りきろうとしているそいつ。
橋の両岸で、進路上の橋の上で固まって想定通り酒盛りをやっている旧都連中を無視して突っ切り、そのままさとりの手を握ろうと手を伸ばす。
そして。
捕らえる。
「待ちなさいよ!」
言いながらぐいと引っ張る。探知し避ける能力には長けていても身体能力は橋姫にも及ばない彼女は、よろけるようにして私の胸の中に転がってきた。捕まえられたのは、彼女に避ける気がなかったからだろう。
待つと言っておきながらさっさと帰ろうとするなんて、やっぱりこいつは嘘つきだ。全然信用できない。
信用できないから、ぐっと抱く。
「主役の登場だぞ!」と、周りがやんやと騒ぎ立てた。そりゃそうだ、こいつらは私の到着を待たずして勝手に酒盛りを始めていやがるが、本来なら橋を作ってもらった私が、その完成記念酒宴の前に気のきいた短いスピーチと乾杯音頭でもするべきところなのだ。しかしそんなものはうっちゃらかして、場は流れていく。
ヤマメとキスメが焼酎瓶を片手にやってきて、私の腕を引いて橋の中央へと引っ張っていった。もちろんさとりも一緒だ。その手を強く握って一緒に連れて行く。
そして、主役の私が戻ってくるのを律儀に待とうとしていた一部の妖怪も騒ぎ出し、宴席が本格的に始まる。
仲のよい奴らと乾杯を交わした。
殊勝にもおめでとうを言いに来た幹部会のいくらかと言葉を交わした。
執拗に絡んでくるヤマメをあしらい、空気を読まないバ鴉に黒猫の親友をぶつけてとりあえず追い払い。
当座済ませられる用事をすべて消化した後は、私は徳利とお猪口二つを掴み、さとりを引っ張ったまま輪の中から外れて欄干に背をもたれた。私がいろいろと雑事をする間、さとりは言葉もなく俯いたまま、完全に置物になっていた。そんな彼女と共に。
さとりと並ぶ。私はもう一度、人払いが完了したか周囲を見て、邪魔がこない事を確認して。
「あの」
「嘘つき」
何かを言おうとしたさとりの言葉を遮って、文句をつける。
待つって言ったばっかりじゃないの、待ってろよ。何でさっさと帰ろうとしてたんだあんたは。
そんなんじゃ。
「そんなんじゃ、あんたの言葉を信じていいかもわかんないじゃない」
「‥‥‥ごめんなさい」
俯いて、さとりは呟く。
「あなたの様子を見て不安になって、押し潰されそうで。逃げ出したくなってしまったんです。そ、その、言葉は嘘ではないんです。いくらでも待つ所存でした。あなたが、今まで通りに地霊殿に足を運んでくださるのを待とうと思っていて」
「はいはい」
そんな事だろうと思ったわよ。すっかり冷静を取り戻した頭で考えれば、だけど。
せっかくさ。まぁ、恐怖に駆られてつい突き動かされたって感じではあるけど、私だって、決めてきたんだから。この決意を鈍らせるような事はしないで欲しい。まぁいい。こうやって手を握って捕まえている限り、こいつは確かにここに居るんだから。
「それで、さ。返事なんだけど」
「はい」
私の思考は覚って既に読めているはずであるが、さとりは黙って私の言の葉を待つ。
私は言葉をひとつずつ選ぼうとして、やめた。どうせ読まれているんだ。それでも私の通信手段は読心ではなくて言葉だから。だから、思ったことを適当に口にする。
「私は。さとりと飲みたいって思ったし、地霊殿での茶会も楽しみだったし、私自身の意思でさとりを助けたいと思った。この気持ちが嘘とは思わない、思いたくもない。あの時にはもう、私の中では契約なんてどうでもよくなっていたのかもしれない」
「‥‥‥」
「私の中でも、さとりは大切な奴、だと、思う。だから、さとりの言葉も信じる事にする」
これでさとりの言葉が嘘だったら、本気で橋からの身投げを検討するけどね。もう裏切られるのは無理だ、心が耐えられないと思う。私は、弱い妖怪だから。
今だって不安だ。言葉は本当なのかなって。これがいつまで続くんだろうって。いつさとりが意見を変えてしまうんだろうって。
それでも向き合わなければいけない。今も押し潰そうとしてくるこの不安と。猜疑心と。それを好物にしている緑眼の化物に、心を食われないように。狂ってしまわないように。私は橋姫だから、嫉妬狂った化物ではないから。
向き合って、さとりを見やる。
(大切な奴、か)
浮かぶのは、一つの単語。
報告会という口実。仕事とか同情とかで上塗り隠していた答え。
その単語には行き着くのに、口にするのが恥ずかしすぎて、さとりと二人沈黙する。そうよ、益を捨て情を取った時点で明白じゃないか。あの頃にはもうとっくに、橋とか契約なんて、どうでもよかったんだ。
当たり前になっていた世界が、他人と言う言葉で幻に消えてしまう事が怖かった。
「目的が変わろうと、時代が変わろうと、必要だからこそ橋は在る。たとえ他へと移設することになろうと、たとえ役目を終えて消えようと、存在したその事実はこれまでを否定するものではない。記憶として記録として刻まれ、引き継がれる。継承者は人か妖か、それは、わかりませんが」
「‥‥‥」
「あの時期は苦しかったけれど。この思い、この記憶、私も失いたくはありません」
さとりが手のひらを広げて、手にしていた木片を見せてくれる。
ただの木片ただのゴミだが、それは私達の記憶と思いだ。形ないそれを、今だけは世界に具現化してくれているものだ。
それはまだ、さとりの手の中にある。
「全部、持って行きたいからさ。ちゃんと移設してよね」
「はい」
さとりは木片を、橋板の上にこつんと置く。そして、私の顔を見て微笑む。
これで本当に、移設完了だ。
「あなたはもう、地底の仲間です。かけがえのない仲間。それは、この場を見ればもうわかりますよね?」
「そうね。こいつらとも」
地底の敵古明地さとりに肩入れする異分子だったはずなのに、さとりのことで確執があったのに、いつの間にやら酒の席を共にする仲。こんな酒宴が橋の上で開かれていて、さとりが混じっていても邪険にする奴は居ない。なんとまぁ懐の深い連中じゃないか。さとりの事はもちろんだが、この地底に来てよかったことのひとつに上がる。その機会を与えてくれた奴こそがさとりで、本当に、恩人で。
「ですから」とさとりは続けて。
「これまで通り、この先もずっと、地底の仲間として。橋を、この場を守ってください。これからは、私達と共に」
微笑むさとりの顔。
視界が歪む。
うれしい。
何の迷いもなく、私の好きな場所に居られる事。
でも、まだ堪える。
ぜんぜん足りない。
「橋のことはもういいのよ」
「では?」
「もうひと声」
言って、私は一つの単語を頭に浮かべる。
私はあんたの言葉を、そういうつもりで受け取ったんだけど?
「え‥‥‥えぇ!? そ、そ、そんな無体なっ」
さとりが飛び跳ねるように驚いて、顔を赤くし始めた。もちろん酒のせいではない。私の思考を覚ったせいである。
彼女は混乱して、視線を泳がせて。そして拗ねたように唇を尖らせて。
「もうっ。わかっているでしょう」
「言葉にしないとわからないわよ。覚妖怪じゃないもの」
「卑怯です、卑怯者ですっ!」
卑怯、大いに結構。それで得られるのなら罵ってもらって構わない。
それにやっぱり、言葉にしてもらわないと不安で。
だから、黙して彼女の言葉を待つ。
「ですから、その、つまり」
「つまり?」
「えっと、あの、これから、は、これからも、と、言うべきかもですが‥‥‥い、言わせないでください‥‥‥」
こんな時にも直球を投げようとするダメさとりは瞳を逸らし、ド派手に自爆して顔から火を噴き出している。普通に、今度お茶会でもしましょう、くらい気の利いたことは言えないのかこいつは。こっちまで恥ずかしくなってくる。
唇を尖らせ、耳まで真っ赤に染め上げたさとりは、それでもなお蚊の鳴くような声でぼそぼそと言葉を紡ごうとする。
「私、と‥‥‥」
「私と?」
「‥‥‥友達、に‥‥‥」
そこから先の台詞はない。羞恥に押し潰されて言葉が出ないようだった。へなちょこさとりからこれ以上を求めるのは酷なようであった。
けれど、その切れ端だけで十分。
溜めた涙が残っているけど、ひどい顔になることを承知で、それでも私は笑顔を作る。一筋、涙が私の頬を伝った。
「喜んで」
それが答え。
私は友人にお猪口をひとつ渡し、それに並々と注いでやる。と、友人も徳利を受け取ると、お酌をすると言うように掲げてきた。是非も無いので杯を突き出し、注いでもらう。
二人でお猪口をあわせて小気味よい音をひとつ小さく鳴らし、一気に煽り飲んだ。それは星熊杯の酒など目ではないほど、極上の味だった。
傍らに居る友とまた視線が合う。
彼女は、微笑んでいた。
「ようこそ、地底へ」
「今更」
素気なく答えて。
私たちは笑い合った。
二つを繋ぐ、橋の上で。
こういう作品を久しぶりに見た気がします
面白かったです
またあなたの作品に出会えることを願ってます
パルスィはええ女や
>「鬼女が恐ろしい形相で荷を運んでるって噂を聞いて」
>「そんなに酷い顔はしてない」
って会話見て思ったんですが、
地底の連中って生活する場所も種族も違うのに妙に連帯感ありますよね
そりゃ広い意味じゃ地底の一員なんでしょうが
なんかパルスィは皆に対してツッコミ妖怪の役をせざるを得ない感が
またこういう話読みたいです。
特に長さが苦にならない読み易さと、練られた上で理解しやすい心理描写が素晴らしいと感じた。
楽しい時間をありがとうございました。
さとパルはいいものだ。
序盤のぬえとかで寺の封印組も関わるのかと思ったらそれっきりで、そこだけ少し肩透かしでした。
こういう作品が出てくるからこそ創想話はやめられません。
さとりとパルスィのいじらしい関係と、分かりあえないもどかしさが、
先に進むに連れて幸せな方向になるのがほんと楽しかったです!
大長編、ありがとうございました!