「ただいまー」
自室に入るやいなや古明地こいしは誰もいない室内に声をかける。誰もいない部屋に向かってそんなことを言う必要がなくても、もはや癖あるいは習慣になっているため、ついつい自然と口から出てしまう。
3日ぶりに帰った自室は、部屋を出たときと変わりはない。以前聞いたところによると、こいしがいない時でも毎日掃除をしているようなので、たいしてホコリもない。
今回もいつもと同じように気が向いたから外に出て、あてどもなくあちらこちらを彷徨い、眠りたいときにその辺の木陰で眠るというような具合であった。さすがに水浴びくらいはしているが、服についた汚れまではそうはいかないし、野宿同然なために髪は痛み、肌は少し荒れている。
こいしは旅の疲れを落とす意味合いも込めて、自室のシャワーを使うことにした。やはり水浴びと温かいお湯とでは肉体的にも精神的にも違うようで、こいしは疲労感やなにやらが洗い流されていく感じがした。
シャワーから出ると、動きやすい部屋着に着替え、そのまま湿った髪に構わずベッドに倒れこむ。脱いだ服は部屋にあるカゴに放り込んだ。以前そうするよう姉に言われたからだ。
ベッドの上から自分の部屋に視線を送る。部屋に戻った後立てかけてあった、いつも被っているお気に入りの帽子。お気に入りのデザインの服や寝間着、室内着などの服のあるクローゼットや自分で買ったあるいは姉の蔵書から拝借した本がある本棚。本棚には本以外にも何となく気にいって買った小物や持ち帰った物なども置いてある。本棚の中にあるものを見つめながら、アレはどこそこで拾ったもの、こっちはいつどこどこで買ったもの、といった具合に記憶を辿っていく。自分は無意識で動いている、とか言われているが、こいしには――それが当たっているか否かを含めて――よくわからない。ただ、自分がどちらかといえば、衝動で動きがちなことや人から忘れられやすいことは自覚している。他には記憶の整理が苦手だ。思い出すのが苦手で、折に触れて――例えば今みたいに、何か関連する物を見て、それに関するエピソードを――思い出すことはあるが、すぐに奥底に消えて行ってしまう。決して忘れているわけではないが、記憶がどこにあるか、どうやったら見つけられるかが分からない。記憶の探し方を忘れてしまったかのように。
ただ、別に不便というわけではない。誰かに会えば、その人のことは分かるし、以前どんなことを話したかくらいは思い出す。本の表紙でも見れば、どんな話だったのかは思い出す。それに自分の肉親である姉やペットたちは覚えているし、自分の部屋にだって帰れている。箸の使い方やナイフとフォークの扱い方や服の着替え方も問題ない。なので、特に不便は感じていないのだ。
「こいし、帰ったのですか? いるのなら返事をなさい」
本棚から視線を外して、自分の部屋を無心で眺めていたこいしはノックの音で我に返る。少し心臓に悪い。ベッドから飛び起きたこいしはそのまま部屋のドアを開ける。案の定、目の前にいたのは姉だった。姉のさとりは、こいしが外出着でなく室内着なのを見て、「帰ってきたのなら、ちゃんと一言いいなさい」と言う。こいしはまた始まったと思いつつ、「はーい、ただいまお姉ちゃん」と答える。さとりはお帰りなさい、と満足げに頷く。
「入ってもいいかしら」
姉はこいしと部屋の中を覗き見つつ、尋ねる。こいしは二つ返事で許可を出すと、どうぞ、とばかりにドアを引いて姉を招き入れる。さとりは部屋にあるソファに腰掛けた。こいしはドアを閉めると、ベッドに寝転がる。さとりは、「あんた、また髪の毛乾かさずに寝転がって」やら「風邪ひくからやめなさい」やら言ってきたが、こいしは疲れもあって適当に相槌を打った。
「今回はどこまで行ってきたの」
さとりは、こいしにそう尋ねる。いつからかは忘れたが、姉は妹と少しでもコミュニケーションをしようと、こいしが帰ってきたときはなるべく彼女の部屋を訪れて話を聞くようになった。こいし本人はあまり干渉はされたくはないと思っているが、そこまで秘密主義者でもないし、これも姉への配慮ということにして、特に気にしないことにした。そして、今は姉の問いに応えようと無意識の記憶を思い出すのに一苦労している。
「えーと、確か。……とりあえず人里に行ってきた。相変わらずだったよ。その次は……」
さとりはうんうんと頷きながら、時折「そこで何をしたの」とか「その時どう思ったの」といったことを聞いてくる。そのたびこいしは思い出すのに苦労しながら、答える。その様を見て姉は何を考えているのか、こいしには分かない。そして、こいしがどうやって記憶を手繰っているかは姉にもわからない。こいし本人は、記憶喪失の人間が「自分の過去」を思い出そうとするようなものだ、そう思っている。とても疲れるし、自分の記憶のはずなのに、他人の物のように思える。自分は前も後ろも真っ白な霧の中にいるような感じで、灯りとなるようなものもなく、ただ来た道を手繰って行かねばならない。ましてやその時、自分が何を思い、何を感じたかなど。
「お茶を淹れましょうか」
一段落ついたところでさとりはそう言って、部屋から出て行く。こいしは足音が聞こえなくなると静かに、だが深く深くため息をついた。うなじの辺りが妙に気色悪いのは汗のせいだろうか、それともしっかり髪を乾かしていなかったせいだろうか。そう思いながら、天井を見つめてしばらくボンヤリしているとドアがノックされた。跳ね起きたこいしがドアを開けるとティーポットとカップ二つ、皿に盛られたクッキーを乗せたお盆を持った姉がいた。実はこいしの部屋でもお茶を淹れることはできる(水道はあるし、誰か来た時のためにお茶の葉くらいはある。火を灯す手段はないが、以前河童から買ったポットというお湯を沸かすための道具もある)のだが、たぶん姉はお互いのためにあえて自分の部屋の外でお茶を淹れてくるのだと、こいしは思った。それが何故かはわからない。姉に尋ねようかと思ったが、実は姉自身にも分からないのかもしれない。
さとりはベッドの横にあるテーブルの上にお盆を置き、ティーポットからカップにお茶を注ぐ。そしてテーブルの傍にある対のイスに座る。こいしもそのまま姉の向かいに座る。その時、ふと姉の持つ第三の眼にこちらを見つめられた気がしたが、気のせいだろう。
「いただきます」
こいしはそう言ってカップの中身をすする。味は――飲んでから紅茶ということを意識したが――普通だった。少なくとも人里にあるお茶の店に比べて格段においしいというわけではないし、これよりおいしいお茶を飲んだこともあれば、姉よりおいしいお茶を淹れる人のことを知ってもいる。だがそんなことを言うつもりなど、こいしにはなかった。姉が淹れたものであるから、というのもあるかもしれない。こいしにとって姉の淹れるお茶というものは、どこか心の奥によくわからないものを去来させる。それが何かは彼女には、まだ分からない。
ただ姉が表情には出さずとも、こちらを見る瞳で、何を訊きたいのかを、心が読めなくともこいしには分かった。自然と笑みが零れていた。
「うん、おいしいよ。お姉ちゃん」
「――そう」
さとりは僅かに表情を崩す。心が読めずとも、それがどういう感情かが、妹には分かった。
さとりは自身もカップに口をつけ、我ながら今日はまぁまぁね、と心中で独白する。妹は早速クッキーに手を伸ばし、頬張っている。さとりはそんな妹の姿に安心感を覚える。こいしは自分を見つめる姉の姿に対して、疑問を覚えたが、姉の気分が良さそうなので気にしないことにした。ただ、テーブルの上に両手の甲で頬杖をつきながら、嬉しそうな表情でこちら見られることに、何となく気恥ずかしさを覚えてたので、「お姉ちゃん、お行儀悪いよ」と言う。さとりは「あら、ごめんなさい」と言って、頬杖は止めたが、声の調子から気分が良いのは変わらないことが分かる。こいしは中身を飲み干したカップを置くと、ティーポットに手を伸ばす。さとりはそれを制すると、自分で妹のカップに中身を注ぐ。
いつからだろう、姉は自分に対して奇妙な距離感を取るようになった。普段はあまり干渉はしてこないが、時折今みたいにやたら自分の世話を焼きたがる。別にそれ自体が鬱陶しいとか煩わしいというわけではないが(全く感じないということでもない)、自分でもよく分からない感覚を抱いてしまう。自分が姉のこのような振る舞いを好ましく思っているのか、それとも嫌なのかが分からないし、どちらとも判断できない複雑な感触を抱かせる。
目の前の姉は自分をどう思っているのか、そして自分は姉をどう思っているのか。前者はもはやこいしには分かり得ない。後者も、曖昧模糊として捉えられず言葉にして表すことができないという意味でよく分からなかった。
今のような境遇になって――心が読めなくなって――それが自分たち以外にとっては当たり前なことを知った。人やそれ以外の妖怪や動物には心を読むなんてできないし、それが当然だ。しかし、自分は元々心が読めるのが当たり前だったが、今はそれができない。大多数にとっての当たり前の状態に陥った自分は、大多数の中にいながら、未だにそれに慣れていないのだろう。なにしろ今までは相手が何をどう考えているか、自分をどう思っているかを簡単に知れた。普通なら生きていくうちに相手との会話や振る舞いを通して相手の考えや感情を推測していくことを訓練していくものだが、長い間そんなことをしてこなかった古明地こいしは、未だそれが苦手である――そして相手の心を知った上での生き方、というものも苦手だったからこそ、今の古明地こいしとなっている。つまるところ自分は今も昔も、生きるのが下手なのだ。
自分の行動が正しいかどうかは別にして、こうなった以上はそれに相応しい「生き方」というものを身に着けなければならない。こいしは「意識的」にも「無意識的」にもそう思うようになった。そんなこいしがひとまず導き出したそのための答えは二つ。一つは外に出て実際に経験してみること、そしてもう一つは……。
「あら?」
姉の視線の先を追い、振り返るとこいしのベッドの上にある包みを見ていた。こいしが今回の外出で手に入れたものだ。こいしはそれを取ってくると包みを解く。出てきたのは数冊の本だった。
さとりは興味を引き付けられたようで、イスから立ち上がり、こいしの傍によると妹が持ち帰ってきたものを見やる。地底に引き籠る生活を続けていたせいで、さとりの趣味はインドア化していき、読書もその一つとなった。妹はよく自分の書斎に入っては読みたい本を勝手に借りて行ったり、時に気に入ればそのまま自身の部屋の本棚に収めてしまうので――さすがにそれには文句を言いたくはあるが――妹の読書傾向はなんとなくであるが把握していたが、それでもさとりの蔵書という限られた対象から分かることである。こいし自身が自ら収集した本というものほど、彼女の趣味と傾向を教えてくれるものはない。そんなわけで、妹が本を持って帰ってきた、というのは彼女の関心を惹くには十分すぎるほどだった。
ざっと見たところ、今回こいしが手に入れてきたもの――おそらく買ったものが大半であろうが、中にはその辺で拾ったものもあるかもしれないが――は全て文学作品、特に小説たまに詩集らしかった。さとり自身も小説を読むのは好きだが、自身の出自柄や必要もあり学術書の類も読むことが多いのに対し、妹はそういった本人曰く「小難しいもの」はあまり読みたがらない。そういったことに疎いまたは好まない、というよりはむしろそれ以外を求めている、そんな様子であった。妹が何を考えているか分からないため、これはあくまでもさとりの推測である。
さとりは妹が何を考えているかが分からない。今の状況に陥って以来、妹が何をしているか、何を考えているか、何を思っているかが全く分からなくなった彼女は、少しでも妹のことを理解しようとする反面、それが妹に対してどのような影響を与えるかということを懸念した。これまでは妹が何を考えているかはすぐに分かった。分からなくとも、すぐ尋ねればよかった。しかし、今はそうはいかない。妹の心は分からず。尋ねても答えるが、それが本当かどうかはわからないのだ。
さとりは自身の妹の性格を良く知っている。正確には心を閉ざす前の妹のことを良く知っていた。今も昔も、妹は明るく快活で奔放で自由で清らかであり、無邪気で純粋な子だ。いや、昔はもう少し物怖じするというか、人見知りなところがあったかもしれない。心が読める故の防衛行動だったのだろうか……。ともかく、以前は妹の外面と内面両方を知っていた。しかし、今は知らない。もしかしたら彼女は――妹がそれを自覚しているかは別にして――その本心では真逆のことを考え、思っているかもしれない。あるいは今の古明地こいしは本心を隠すための演技かもしれない。あるいは無意識に作られた「古明地こいし」が今私の目の前にいるだけで、彼女の心は今も凍り付いたままかもしれない。いやもしかすると、ただ胸の瞳が閉じただけで、古明地こいしは今も昔も変わっていないのかもしれない――だが、古明地さとりは一番知りたいその答えを、知ることはできない。
普通は生物は心を読むことはできない。人はその人のことを知り、会話をし、あるいはその人の行動や振る舞いからその人の性格を読み取り、その人の心を推測する。古明地さとりはそんなことをしたことがなかった。心を読めばすぐに何を考えているか分かったため、彼女からすれば面倒なこと――普通の生物なら当たり前のこと――をする必要はなかった。しかし、今彼女の妹が何を考えているかは分からない。ゆえにさとりは妹の「心」を知る必要ができた。奇しくも古明地姉妹は、彼女たちさとり妖怪からすれば普通ではない――それ以外の存在からすれば当たり前の――方法によって、互いを知る必要ができたのである。違いがあるとすれば、姉は妹に対してだけそのようなことをする必要があるが、妹の方は自分以外のすべての存在に対して、そうする必要があることである。仮に、この違いをズレと呼んでいいならば、このズレの原因は姉は変わらなかったが、妹は変わったためであろう。
「ねぇ、こいし」
「ん?」
横から呼ばれ、こいしは姉を見る。姉はいつもの無愛想な印象を抱かせる表情だった。
「どうしてこの本を持って帰ってきたの」
「……変なこと聞くね」
こいしは呆れた。そんなもの読みたいからに決まっている。妹の溜息にさとりは首を振り、
「ごめんなさい、質問が悪かったわ。……その、どうしてあんたはこの本を読みたいと思ったの?」
そう聞かれるとこいしはああ、と納得したらしく、少し考え出す。といっても返ってきた答えはさとりの予想とは違っていた。
「んー。これは、タイトルでなんかいいな、と思ったんだよね、でこっちは表紙が気にいったの。……こっちは最初の数ページ見て読んでみたいなぁって感じで……あれ、どうしたの」
「……いえ、そうではなくて」
さとりが聞きたいのはそういうことではない。こいしは姉が何を考えているのか全く分からず、混乱した。少し責めるような瞳で見つめられたさとりは、弁解するように答える。
「……つまり、こいし貴方がどうしてこの本を読みたいと思ったか、ということをしっかり私に説明して欲しいのです。できれば具体的に」
さとりはこれでいいだろう、と思った。だが返ってきたのはそれとは異なるものであった。
「……お姉ちゃん」
妹の先程よりも呆れを増した顔。
「なんですか」
「お姉ちゃんって、変なところでおバカさんだよね」
「……」
心外だ、という無言の抗議をするさとりに対してこいしは、やれやれと言いたげだ。
「じゃあ、お姉ちゃんは何か読むときに、『私は今この本のタイトルによく分からないけどとても強い印象を受けて、興味を惹かれた。なぜなら私はこれこれこういうのが好きだから……』なんて考えて読むの?」
お姉ちゃんの言っていることそういうことだよ? といいたげなこいしの表情に対してさとりは言い返せない。
「普通、本を読む動機なんて、『あっ、このタイトルいいなー』とか『この表紙素敵』とか『好きな作者だー』とかじゃないの? それでなくてもあらすじとか書いてあったらそれ読んでからとかでしょ? そんなことを一々具体的に説明する? というかできないでしょ」
全くお姉ちゃんは変なところでヘンなんだから、と呟いたこいしに対して、さとりは遺憾の意を覚えたが先程の自分の質問を省みると、そう言われても仕方がない。
「それにお姉ちゃんだって、なんとなくフィーリングで買ったみた本がつまらなかったせいでその日少し機嫌が悪くなることがあるって、この間お燐が言っていたよ? そういうの良くないと思うな……あれ? 何だっけ? あ、そうだそうそう、ふつう本買うとき、自分の動機に論理的な根拠を求めないと思うんだけどって話だ」
さとりは、急に恥ずかしさが湧いてきた。今度から気をつけよう。
「お姉ちゃん、あまり外に出たくないのは分かるし、引き籠ってくっちゃ寝してる方が楽しいんだろうけど、たまには本読むだけじゃなくて外に出た方がいいよ、そんなんだから変なこと考えるんだから」
言い方にも内容にも抗議したかったが、さとりは姉の威厳を糧に自重する。しかし、何故私は妹にお説教をされているのだろう、と思うと少し悲しくなってきた。……そう言えばこいしは昔からやたら私にもっと外に出ろだの、人と話してみなよ、とか言ってきたと思い出す。結局のところ私はそれを今まで聞き入れてこなかったが。思えば昔からこの妹はあちこち駆けずり周っていた。
「――そういえばそうね」
「……どうしたの」
いきなり納得したかと思うと、再びイスに座り何やら思案し始めた姉に対して、こいしは何が何だか分からない。先程から姉は変である。
「こいし」
「なぁに」
聞いてるのはこちらだが、こいしは我慢した。
「あなた昔っから、私に引き籠ってばかりじゃなくて、もっと外にでなさい、とか口喧しいじゃない」
「喧しく言った覚えはないけど」
むしろお姉ちゃんの方が喧しく言ってくることの方が多いんだけど、と呟いたが無視された。
「昔から、あんたじっとしているのがあまり好きではなくて、本なんて嫌いで、その癖子どもっぽい恋愛話はやけに好きだったけど……」
「お姉ちゃん、怒るよ!」
子どもっぽいとは失礼な、女の子が恋に憧れて何が悪い、ロマンチックなことがなければ生きていけぬ、がこいしの信条だ。姉のよく分からない意味不明だが、なぜかバカにするような言い方に対してむしゃくしゃしたので、残っているクッキーを口に運ぶ。ボリボリ噛み砕いていると、さとりから「はしたないわ、やめなさい」と言われて渋々やめた。
「話を戻すわ。……あんたどちらかと言えばアウトドア派だし、インドア趣味をバカにしていたじゃない」
「してない」
「バカにされた被害者が目の前にいるわ」
「……じゃあ、そういうことでいいです」
こいしは昔から姉には口げんかで勝てたことがほとんどないことを思い出した。でも、お姉ちゃんは度が過ぎているんだよ、と心のなかで反論した。
「その割にあんた……その最近、やけに本読むじゃない」
心を閉ざしてから、とは言えず最近としたが、意味は伝わるだろう。こいしはうーんと考え込んだ後、そうかも、と答えた。
「どういう風の吹き回し?」
「……なんかひどくない?」
お姉ちゃんの中で私はどう思われているの、とこいしが愚痴るがさとりは頓着しない。
どうやら割とまじめな話のようで、こいしは真面目に考えることにした。しかし、そう言われても答えるのは難しい。ある日急にそうするようになったと言われても当人に実感が湧くかは別だし、しかも何故かと問われて説明できることはそう多くない。ただ、さとりにとって幸運だったことは、こいしにとってはこれは幾分自覚のあることだった、ということだ。こいしはどう説明するか考えた。
「…………そうだね。私、勉強してるの」
どう形容したものかと思ったが、そう言うのが適切に思えた。しかし、さとりは「勉強……?」と不審げだ。
「外に出ないし、人とあまり会話しないお姉ちゃんには分からないだろうけど」
余計なお世話、と睨まれたがこいしは構わず続ける。
「普通は、誰かと話す時に心なんて読めないでしょ? でも、みんな普通に誰かと話したり、付き合っていけているよね?」
さとりはまぁそうね、と頷くが、妹の話は要領を得ない。
「でも、それって始めからそうじゃなくて、大抵は初対面で何とかその人のことを知ろうと努力して、親しくなっても相手のことは分からないことだらけで、それでも相手のことを知ろうとして……そうやって分からないけど分かろうとしていく、そう私は思うの」
こいしは天井を見上げる。その向こうにある何かに思いを馳せながら。さとりは妹が何を思い描いているかは分からなかった。ただ、たとえ妹の心を読めたとしてもそれを覗こうとするのは間違い、そう思えるような気がした。それはこいし自身が教えてくれることなのだろう。
「でも、私全然そういうこと分からなかったの。……ごめん今も分からないや。でも、それを知らなくちゃいけないのは分かるんだ」
天井から視線を戻したこいしは姉を見る。さとりは妹の視線を受け止めた。
「お姉ちゃんは、誰かと話すと、その人の心も分かるよね。それって、私たちには当たり前だろうけど、ある意味他の人からすればズルいっていうか、ルール違反っていうか……うーん、つまり、普通はそうじゃないの」
こいしは考えをまとめるため、カップの中身を飲み干す。さとりが空になったカップにお茶を注ぐ。
「私たちは誰かのことを知るために努力する必要なんてない。けれど私たち以外の、ほとんどにとっては、誰かのことを知ろうとすること、知りたいと思うこと、そのために努力することは当たり前。……お姉ちゃんからしたら、そういうことは『無駄』かもしれないけど」
「……」
さとりはこいしの言葉を聞いていた。妹の言いたいことは分かる。誰かのことを知ろうとするとき、普通は相手が何を考えているか分からない。だから、相手の表情や態度、声の調子や仕草から相手の想いや感情を知ろうとする。何度も話したり、出会いを重ねることで相手のことを、もっと理解するようになる。友人や仲間、あるいは恋人となることでもっと深く相手のことを知ることになる。そうした過程で交わされるもの。言葉でも何でもいいが、そうした諸々のこと――さとり妖怪にはそんなことをせずとも相手の心が分かるため、やらなくてもいいこと――を用いることで、相手のことを知る。相手の心が分からないからこそ、少しでも相手のことを分かろうとする、分からないなりに分かろうとする。そのためのあらゆる方法のことを妹は言っているのだ。
「それって、とっても大事だと私は思うの。たとえ相手の本心が分からなくても、その人の心の一端にでも近づこうとすることが大事だなって」
こいしは三度カップの中を飲み干す。三度さとりがティーポットを取るが、中身はもうなかった。
「でも私、今まで生きてきてそんなこと知らなかった。知る必要がなかったの。でも、それを知らなきゃいけなくなった……」
さとりは妹の話を聞き漏らすまいと努めていた。きっとこの話は偽りなく妹の本心なのだ。これを疑うことは、姉として許されないし、できない。
「だから実際に誰かと話して、それを学ばなきゃいけないけど、中々難しくて……。そんな時思いついたの」
宝物を見つけたように笑うこいしに、さとりは虚をつかれる。妹のこんな明るい笑顔は――妹はいつも笑うが、こんな眩い笑みは――本当に久しぶりだった。こいしは手元の本を引き寄せると姉に手渡す。
「小説だったら、誰かと誰かの出会いがあって、思いがある。誰かと出会って、こう思った。こう感じた。誰かと話してこう思った。こう感じた。……好きな人に対してどんな風に話そう。仲良くなりたい人をどう誘おうか。苦手な人とどう関わればいいか。……そんな風に、色んな『誰かと誰か』のお話がそこにはあるの。私が生きていくだけじゃ分からない、知らない、体験できないものがそこにはあるの。それを読むことで、私はこういう時にどうするのか、ということを知るの。こういう時どう感じるのか。どうしてこう思ったのかを知るの。……そして自分だったらどうするかを考えていくと、段々私にも分かってくるような気がするんだ」
何を、とはさとりは聞かなかった。こいしは言った。
「ああ、みんなこうやって誰かのことを分かろうとするんだなぁって……」
こいしはどこか遠く、自分の知らないもの、あるいは遠い未来を見るように瞳を閉じた。
さとりは思った。勿論小説にあることは絶対ではない。あくまでも作中の人物の体験に過ぎない。しかし、そこからでも学べることはある。参考にはできる。だから、こいしは「勉強」と言った。
そう、古明地こいしが見出そうとした新しい「生き方」を見つける手段。一つは実際に外に出てみること。これはこれまでの彼女と変わらない。そしてもう一つは本を通して自分以外の体験を知ること。たとえそれがフィクションの、紙の上の出来事だとしてもそこには確かに「誰かと誰か」の物語がある。それを知って、考えて自分の「経験」とすれば自分も変われるのではないか。辛い現実に打ちのめされても、遠くに灯る光があることを知った。私の知らない誰かの経験を知ることで、私もきっと変われる――古明地こいしはそう思った。闇の中にいても光を目指して進む。そうすればいつか必ず光を掴める。そしたら次はこの光をきっと……。
「こいし」
さとりは妹に呼びかける。こいしは目を開ける。こいしはいつものように姉に応える。
「なぁに、お姉ちゃん」
「この本、読んだら感想聞かせてください。……今度私にも貸すのよ」
そんなことを言われたのは珍しかったこいしが生返事をするやいなや、さとりはイスから立ち上がり、ティーポットやカップをお盆に載せるとドアまで歩く。そして「クッキーは置いておくわ」と付け加える。
「それじゃあ、私はもう行くわ。……お邪魔したわね。また出かけるのでしょうけど夕食くらい食べていきなさい。後で誰かを呼びに行かせるわ。その時はもう少しちゃんとした服で来なさい。ああ、それと出かけるときと帰ってきたときくらいは挨拶していきなさい」
「……はーい」
姉の珍しい態度に驚く間もなく、相変わらずの口喧しい姉が戻ってきたのでこいしは適当に返事をする。
こいしが煩わしさを覚えるくらい、たまに干渉的になり、こちらをやけに心配し世話を焼こうとするのは――全くいつもの古明地さとりであった。何だかんだ彼女は姉なのである。
「じゃあ、また後でね」
「あ、待って」
ドアを開けようとするさとりをこいしが呼び止める。肩越しに振り返った姉に妹は、
「私だけ何かするのって、アレだし、お姉ちゃんも何かオススメ教えてよ」
にへら、と笑う。さとりはそんな妹に苦笑しながら言うのであった。
「あんたまたそうやって私の本棚から持っていくつもりでしょ」
「あ、バレた?」
「どれだけあんたの姉やってると思うのよ。……あんたが持ってった本、少しは返しなさい。返さなくてもいいけど私だって、読み返したくなるときくらいはあるのよ。……それにそんなに言うなら、あなたこそ偶には私に一冊くらい貸しなさいな」
イタズラがバレたような表情のこいしに対して、半ば呆れ半ば苦笑のさとり。姉が姉らしいならば、妹は妹らしかった。こいしは自分の本棚に視線を移すと、次の瞬間、ニヤリと笑う。
「へぇー、意外。堅物真面目のお姉ちゃんも、実はオトナの恋、とかに興味あるんだー。……実は憧れてる?」
「…………」
にひひ、と笑いながら顔を覗き込むこいしに対して、さとりは何を言っているんだ、という表情だ。「あなたと一緒にしないで」と言いたいのはこいしにも分かったようだが、こいしは何処吹く風で、お姉ちゃんも隅に置けないねぇ、実は乙女なんだからー、そうだよねー気になるよねー、と言いながら悶ている。そんな、妹を見て、さとりは昔からこういう恋に恋している所は変わらないな、と思う。だが、そろそろ誤解を解かないと後々面倒なことになりそうだ。
「…………昔、あんたに色々言われたことやってみようと思うのよ」
そう呟いた途端、くるくる回ってトリップしていたこいしが動きを止める。ご丁寧にちゃんと首を傾げて疑問を呈している。
「……だから、もっと人と話せ、とか外に出ろ、とか言ってたでしょ。まずは妹のあんたと」
「……まー、そういうことにしておきますかー」
こいしは口笛を吹いて笑っている。お姉ちゃんもお年頃だもんねー、何が良いかなーと呟くさまは、さとりにはこの上なく嬉しそうに見えた。
「でも、本で『勉強する』ってのは悪くないアイディアと思うわ。『お年頃の』私と違って、遊び回ってばかりのお子様には得るものが大きいはずよ」
からかうさとりに対し、こいしは膨れ面をして抗議する。
「でも、私お姉ちゃんよりは友達たくさんいるもん、引きこもってばかりのお姉ちゃんこそ、友達や恋人の作り方の『勉強』したほうがいいんじゃない」
「私は遊び回っているあなたと違って仕事がたくさんあるんです。……大体そんなに友達自慢したいなら偶には誰か連れてきなさい」
こいしは藪蛇だ、と感じた。ここは黙っておくのが吉だと思ったので、さとりが「大体そんなに恋だの愛だの言う割には、恋人もいないんだから」と言ったのに反論したいが我慢した。
「はーい.。……あ、そうだ! お姉ちゃんも小説書いてるんでしょ? 今度見せてよ」
「……あんた、そんな話どこから」
苦虫を噛み潰したような表情のさとり。こいしは、どこだっけ? ととぼけているが、あるいは本当に忘れたのかのしれない。心を読めなくて不便だ。断りたかったが、期待した表情の――もしかしたら単に面白がってる興味本位かもしれない――こいしを見ると、無碍にも断れない。さとりはしばしば心中で葛藤したが、結局自分はかわいい妹の頼みには弱いと自覚した。
「……読んだからって、他人にあれこれ言いふらしたりしないこと」
これが最大限の譲歩だ。有無を言わさぬよう断言すると、さとりはドアノブを回し、ドアを開け、部屋の外に出る。ただしすぐには閉めず「夕食、ちゃんと食べに来なさいよ」と言い、こいしを辟易させることを忘れない。
「こいし」
「?」
残りのクッキーを頬張るこいしにさとりは言う。
「ありがとう」
「……」
ドアが閉まる。姉は微笑んでいた。
やはり姉はよく分からない。クッキーとともに消化不良の疑問を飲み干したこいしは、テーブルの上に置いた本の中から一冊を取り出し、読み始める。とりあえず夕食までに一冊くらいは読んでおこう……。
良かったです
ただ、少しキャラクターの紡ぐ言葉にちょっと不自然さを覚えるところがありました。
でも、面白い作品でした。