土をいじっている指先の感覚は弱くて、音もなかった。振り向いてみた空はやけに眩しくて、手を翳してから、それが西日なのだとわかった。
ああ、夢を見ているのだ。
意識だけははっきりしているくせに、思い通りに動けない、たまに見るやつ。
蟻の巣に戻した目がまた逸れて、視界の先に映る人の顔は、逆光で暗くなっていた。顎に伝う汗だけが、黄色い光を吸って鮮明に輝いている。
ここは、庭だろう。嫌だというのに、駆け寄っていく体は嬉しそうで、作業をする傍らに立って見上げてしまうのだ。あの人の、ことを。影を宿した大きな手が頭に置かれても、やっぱり、なにも感じない。
膜を張ったみたいにごわごわとした手のひらは、撫でられている温もりも、優しさだって、夢のなかではくれやしなかった。
そうして肌をざわつかせる落下時の擽ったさと右半身に痛みが走ったのは、一瞬だった。間抜けなうめき声が通ったあとの喉は、すっかりと乾いていた。
「最悪だ」
寝相も目覚めも。
幼少の記憶なんて、一年以上はご無沙汰だ。目がしみるのはカーテンから差し込む朝日のせいか、部屋が埃っぽいからか、どちらにせよ、起床だ。
こんな不愉快さは熱々のお茶で溶かすに限る。ネグリジェのまま自室を出て、水屋箪笥を開けた。
「切れてた、か」
さて困った。あんな夢を見たあとに買い出しだなんてごめんだし、かといって緑茶のない朝食だって考えられない。水じゃこのむかむかは取れないのだ。
「香霖堂は」
どうだろう、規則正しい生活を基本としていても、たまに起きていないことがある。がらくた集めに夢中になって、夜更かし徹夜もやる奴だ、今頃になって船を漕いでいるかもしれないし、開口一番が「茶をくれ」じゃ、無愛想がしかめっ面に変わるのは目に見えている。
お茶を出してくれるもうひとつの避難所の茶葉は、また出涸らしだろうか。腹が、鳴った。
「朝食のサービス付きでも期待してみるかな」
自室の換気を済ませて、着替えは、廊下で済ませた。箒に跨り飛んでしまえば嫌な気分は幾分ましになる。心地よい風を切って進んでいけば、やがて緑の向こうに瓦葺きが見えてきた。煙なんて上がっていないのに、焼けたにおいが鼻に絡んできた。
「おいおい冗談だろ」
もたげた不安は的中だった。境内の裏に回って降りてみれば、いままさに縁側へと腰かけるところだった。茶を啜ろうとした手が止まり、持ち上がる顔と目が合った。
「あら、遅かったのね」
来るのがわかっているのなら、済ませずに待っていてくれてもいいものだろうに。それか焼き芋。ありつけるつもりでいた白米と沢庵は、脇に置いてある器の煎餅へと変わってしまった。
「ちぇ、秋になって時間の進みが早くなってたか」
縁側に膝を突いて、お茶を求めて上がらせてもらった。
「また、あんたは勝手に漁る。靴くらい脱いでいきなさいよ」
「どうせ淹れてくれないだろ」
それに土間だろうに。茶葉缶を取ったら「入れ替えないでね」と声が飛んできて、渋々急須を開けた。少なくとも昨日の夜から替えてなさそうな見た目だった。
湯呑みを借りて注いだ色合いはやはり薄くて、膝歩きで戻れば、頂くはずの煎餅が先に咀嚼されていた。
急いで腰かけた板敷きは少し冷たかった。胃袋が鳴いたから、二枚ほどかっさらう。
「ちょっと」
「飯まだなんだよ」
咀嚼中に聞こえた意地汚いは幻聴だろう。醤油の風味を緑茶ごと流し込めば、しこっていた寝覚めの悪さも薄れた。
もう一枚と手を伸ばしたら、きつい視線とへの字口。
煎餅は動かなかった。反対側を掴んだ左手が離してくれなかったから。
「早起きが三文の徳ならもう十分だろう」
「働かざる者食うべからず、でしょ」
意地汚い根比べはなかなか終わってくれなくて、先に音を上げたのは、小気味いい音で割れる煎餅だった。
不機嫌に結ばれた唇が、返しなさいよと低く言う。
「腹減ってるんだよなあ」
からんと器に煎餅が落とされて、空かせた左手の強襲から逃れる。立てかけてあった箒を取った。
「弁償」
「ひゃなこった」
飛び立ってすぐに追い抜いてきた弾幕が頬を掠めた。
「うひ」
咀嚼する暇もありゃしない。咥えていたからか、そのうちに分泌される唾液が口角から伝いはじめて、気持ち悪かった。
景色は紅葉から丘へ、湖を越えて、道を飲み込む木立と通り過ぎていくけれど、弾幕の激しさは変わらない。くっと反転して撃ち返す。若干の隙ができたところで、食べかけはポケットにしまった。
代わりと取り出したスペルを掲げ、宣言した。
眼前に走る光が六芒星を描いて輝きだす。数日前に出来たばかりの新スペルだ。まばゆい魔法陣から放たれる幾つもの光弾は、絶対不可避の必殺になる、はずだった。
紅い閃光が弾け、衝撃に飲まれた体は制御が効かなかった。霊夢が空で喚いている。減速を試みながら落ちゆく姿勢を変えた。
迫りくる地面と、灰色の塊が見えた次の瞬間に、世界が揺れた。
全身を強打した感覚があるのに、痛みは襲ってこない。打った頭だけが妙に生ぬるかった。
ああ、めがまわる、おとがきえていく、しかいがあかくなっていく……魔理沙というじぶんが、なくなっていく。
きおくがあたまのなかをはしって、あのひとのかおやむかしのことばかりうかんでくる。
しぬのかな、まだやりたいこと、いっぱいあったのに。
どろどろにとけて、とけて、かくはんされていくふうけい、ねむけみたいに、へんに、ここちいいや。
*
鉛を載せられたみたいな息苦しさがあった。徐々に強くなってくるそれは、眠たいというのに覚醒を急かして、感覚の薄かった四肢にまで気だるさを覚えさせてくる。
視界が狭かった。瞼が上手く開いてくれないから。眺めているのは天井だろう、打とうとした寝返りは身じろぎにしかならず、微かな軋みを生んだだけだった。
似たような音が部屋の片隅に鳴って、人の気配が近づいてくる。閉じてしまいそうな目を覗き込まれ、お目覚め、聞こえると尋ねてられて、人差し指を立ててきた。
「何本に見える」
「一本」
「これは」
三本。
正常ね、独りごちながら離れていき、誰かを呼んでいた。声の遠ざかり方から、頭だけ廊下にでも出しているのだろう、呼びつけられた鈴仙の返事と、その慌てた足音が二日酔いみたいに頭を痛くして、また静かになった。靴底の硬さが再度近寄り、ちらと映る姿は隠れるみたいに縮ませて、椅子が軋む。
話しかけてこないのは、つまり、眠ってもいいということだ。瞼を落とし、未だ重い肺腑を膨らませたときだった、どたどたとやかましい足音が部屋に迫ってきて、入り口をくぐったかと思えば、
「魔理沙!」
頭に響く大声。
霊夢、制止する声に従って大人しくなる足は傍らで止まり、僅かに息を切らせながら、心配そうな面持ちで見下ろしていた。
椅子に腰かけて近くなった顔は、よかったとひとまずの安堵を漏らし、怒り混じりに馬鹿と継いだ。
「完成してもない魔法使って、振り回されて落ちるなんてどじ踏んで、鈴仙が通りがかってくれなきゃ、死んでたかもしれないのよ」
なにも返せず、続く言葉もなかった。沈黙を破るもういいかしらのあとに、具合のほどを聞かれた。
「息苦しくて、だるい」
「打撲で済んだのだから運がいいほうよ、頭の裂傷は少しのあいだ残るだろうけど、ね」
傷、言われて腕を伸ばそうとした肩に痛みが走って、まだ無理よと止められた。
「歩けるようになるまで数日はかかるだろうから、それまで大人しくしてなさい」
治療代は払えるときでいいから。
いや、待ってほしい、支払いよりも気になっていることがある。立ち去ろうとするふたりを呼び止めた「あの」に続く言葉は、喉が乾いていて、なかなか出てくれなかった。
不思議そうな視線のひとつが、やがてどうしたのとかけてくる。
「あの、あなた方は誰でしょうか」
気だるさと痺れが残る四肢の肌には、ふたりから発せられる緊張が、確かに感じられた。
2
最初に尋ねられたのは名前だった。
先程に叫ばれた魔理沙が自分のことならば、それが名に当たるのだろう、しかし魔理沙以外の名があるかと問われれば否だ。わからないと横に振る頭が痛かった。
「私たちのことは、わかる?」
記憶にございません。思っている言葉がすっと出せるほど、部屋の空気は軽くなかった。名前のことをいっているのであれば、左脇に立つ彼女は霊夢、そう呼ばれていた。灰がかった銀髪の人に視線を戻し、すみませんと返した。
次に聞かれたのは経緯だったが、これも同じだ。いつ、どこで、なにをしていまに至るのかが、思い出せなかった。永琳と名乗った人が説明する傍らで、霊夢がこちらに目を向けることはなく、魔法や弾幕ごっこなどの話は理解できなかった。
試しにと念じてみた手のひらには、鈍い痺れしか感じない。怪我の影響かもしれないからと言った永琳だけど、治ったところで使えやしないだろう。簡単な計算や読み書きだけはできるくせに、出生などは完全に頭からすっぽ抜けていた。
記憶喪失、言葉の意味は知っていても、他人事のようにしか受け取れなかった。一時的なもの〝かもしれない〟と付け足した永琳に、霊夢は、薬でどうにかできないかと言う。
「脳を刺激すればあるいはってところだけど、お勧めはできないわね」
淡い期待があったのだろう、表情に影を落としたまま、押し黙ってしまった。腕を抱えながら思考するばかりだった永琳が、ふいとこちらを見て、家族はいるのよね。
そうだ、問診のあいだに霧雨という名字が出てきたし、治療費や退院してからのことだってあるのだから、家を頼ってもいいはずだ。そもそも魔理沙という自分がなぜひとり暮らしをしているのかすら疑問だ。
「動けるようになったら、里に行ってみたらどうかしら」
「駄目よそんなの」
およそらしくない取り乱しようだったのだろう、終始変わることのなかった永琳の顔は驚きに染まり、声を上げた本人ですら、そんなつもりではなかったといったふうに椅子へ腰かけた。
「とにかく、駄目よ」
顔を逸らしながら、静かに繰り返した。
医者らしさを取り戻した永琳が「あなた」と発した言葉を、霊夢は、違うわと被せる。
「むきになってたのは認めるけど、へまして落っこちたのは自業自得だもの」
「じゃあどうするの、ずっとこのままってわけには、まあ私たちは別に構わないけれど、いかないでしょう、多分」
ちらとふたり分の視線が突き刺さる。良心として構わないのか、利益があるから構わないのかはわからないけれど、ずっとお世話になるのは確かに考え物だ。
ひとり暮らしである家に戻してもらおうか、切り出しかけたときになって、小さな息がつかれた。
「私が、預かるわ」
一拍して、「そう」と、こともなげに認められていたから、決定のようだ。こちらの意思は、関係ないらしい。
「どうせ家に帰らせたところで、掃除もろくにできやしないだろうし」
魔理沙という人物はとことん駄目な人間だったようだ。向けられている呆れ気味な視線は、いまの体たらくに対してのものだろうか。それとも、昔の魔理沙に対してのものだろうか。
経過を見ましょうと話が切られて、霊夢だけが席を立った。神社の仕事が残ってることをぼやく背中に、ふと、なぜ駄目なのかを尋ねた。
返ってきたのは言葉ではなく、どこか訝しむような、渋い顔つきだった。
とにかくあんたは、私が預かるから。
上体すら起こせない視界から消えて、やがて足音も聞こえなくなった。さてとこちらを見やる永琳は、痛み止めでも作ろうかしらと四肢に触れてくる。丸二日寝込んでいた体は、そろそろ活動限界らしい。瞼が、重い。
眠りなさいと額に被せられた手は冷たくて、抗えない心地よさのなかに、意識は沈んでいった。
3
自然と開いていく距離に気づいた霊夢が振り返って、追いつく頃にまた歩きだす。山に入ってから、もう三度目だ。歩調はゆっくりとしたものだったが、緩やかな傾斜を登っていく脚はどこか焦れているように思えて仕方がなかった。
永遠亭を出てどれくらいが経つだろう。東側にいたはずの太陽は、いまや仰がなくてはならない位置にまで動いていた。
寒さは特になかった。息のあがった体には寧ろ心地よい。ただ、脚が重くてだるかった。休憩を挟む道中になまっているからだと言われたから、そうなのだろう。徒歩で帰るならと渡されていた竹筒はすでにからだ。
獣道はいよいよ傾斜が酷くなってきた。息の乱れた喉は焼けたみたいに熱くて、ぜえぜえとうるさかったのだろう、つばの向こうで見え隠れしていた足が止まり、少し休みましょうと言った。
指の差された先にはなんとか腰かけられそうな岩があった。木にもたれかかりながら、はいと竹筒を渡してくる。
「喉渇いてないから」
そのまま目を瞑り、あとに続く言葉はなかった。
腰かける岩はやはり座りにくくて、尻が痛かった。眺めてみた山道の先はどこまでも紅葉が広がっている。神社まで、あとどのくらい登ればいい。
モミジとイチョウが重なる落ち葉の道からは甘いにおいが漂って、見舞い品だと霊夢が買ってきてくれた団子の味を思い出した。
うなじを火照らせていた熱が引き、肌を撫でくる風に身震いが起きた。いつから起きていたのか、彼女は預けていた体を木から離して、待っている。
「行きましょう」
目的地の博麗神社に訪れる参拝客は少ない、そう笑っていた鈴仙の言葉にむっとしていたから、事実なのだろう。でこぼこの道は歩きにくいし、里からも結構な距離だと聞いた。祭りなどの催しがなければ賑わわないほどのところへ、魔理沙は、頻繁に顔をみせていた。
暇だから、金がないから、理由はわからないが、その日もたかりみたいに来ていたと話された記憶は、やはり思い出せなかった。
魔理沙、おまえはどんな人間だったんだ、なぜひとり暮らしをして、こんな魔女みたいな格好を好んでいたのだ。持ってこられた着替えは似たようなものばかりだったし、視界を塞いでくるつば広のとんがり帽子だって、真夏であっても被っていたらしいじゃないか。
なぜ、魔法使いに憧れていたのだ。胸にこぶしを置いて自問してみても、答えてくれる〝魔理沙〟は、いない。
鮮やかな色合いに混ざる緑を残した広葉樹の先に、やがて空の青さが見えてきた。やっとの思いで平地に着いて、見渡してみる場所は石灯籠すらない神社の裏手だった。
こっちよと歩いていく霊夢に疲れている様子はない。後ろ姿が角を曲がった先には縁側があった。腰かけて脱いだ靴を持って上がる彼女は、奥に引っ込ませた体をひょいと覗かせて、お茶でいいかと聞いてくる。
息がまだ整っていなかったから、頷いてみせた。再び障子の向こう側に消えていくと、少し遅れて座布団が放られた。座って待っていろ、ということだ。
秋風にさらされていた板敷きの冷たさを遮る紺色の座布団は、相当使い古されているのか、縫われた跡が幾つもあった。
立っているのも億劫だったから腰を下ろした。次に靴を雑に脱ぎ捨てた。棒みたいだった足の疲れも和らいで、ちょっとした解放感だ。
後ろからの物音が気になり体を捻ってみたけれど、見えるのは流し台や水屋箪笥の側面だけだった。ぶらぶらと足を遊ばせながら、ぼうっと景色を眺める。
昔の魔理沙もこんなふうに茶が出されるのを待って、他愛もない会話で一日を潰したりしたのだろうか。時間が経てば、知っている場所に行けば、思い入れのあるものを手にしたりすれば、記憶は戻るかもしれない、そう話していた永琳だけど、医者である彼女がくれた助言はどれも曖昧なもので、回復の見込みは限りなく低いのだと宣言されたに等しかった。
顔には出さない暗さが、重い空気となってふたりのあいだに流れていたのを、いまでも覚えている。
近づいてきたすり足が右隣で止まり、お茶と煎餅が載せられた盆をあいだに置いてくれた。正座する足下に目を向けているのに気づいた霊夢は、気にしないでいいからと湯呑みを持つ。あれだけ歩いたのに、硬くて冷たい板敷きに足を畳んでいても、つらくはないのだろうか。
「歩いて帰ったのなんて久しぶり、くたくただわ」
そう語る横顔は涼しげだった。食べないのと振られて、勧められるまま手をつけた。二枚目を取りながらちらと見ても、こちらを気にする素振りはなかった。
責任を、感じているのだと思う。
目が覚めてからの短い期間に知り得た性格上、きっと表には出さないだろうけれど、器のなかに手が伸びてこないのは、多分そうなのだ。
茶を啜る途中に「ねえ」と声をかけてくる彼女は、こちらが思っているような暗さなど宿さない、凛とした表情を向けていた。
「やっぱり、思い出せそうにない?」
かぶりを振った。
そうと外される視線が物憂げになって、胸がちくりと痛んだ。
「あの、霊夢さん」
「やめてよ、その喋り方」
気まずさばかりが、胃のなかに沈殿していくようだった。だって、慣れないのだ。魔理沙でいた頃の関係も、魔理沙という自分にも。
しょぼくれた態度に呆れられたのか、なによと返す声色は柔らかかった。
ずっと気にかかっていた。欠片も思い出せない過去を聞かされたなかで、触れられていない部分。なぜひとり暮らしをしていて、なぜ、生家に返すことを選ばなかったのか、その理由が。
重い沈黙は手のなかの湯呑みが冷めるまで続いた。ようやく開いてくれた口からは喧嘩だなんて低い一言。
父親と、らしい。
確執の原因までは知らないと話す横顔は、機嫌が悪くなっている。
「あんたはそれ以上教えてくれなかったし、ほじくる趣味だってないもの」
お茶と一緒に飲み下したのだろうか、不機嫌さは引っ込んで、続く言葉はなかった。
和解が難しいほどの喧嘩別れだったのか。記憶を失ったいまとなっては知るすべもなく、しばらくはここで世話になるしか、ない。
背伸びのあとに立ち上がった霊夢は、お昼にしましょと土間へ向かった。
ひとり残された縁側には、魔理沙のための居場所しかない。どう振る舞えばこのいたたまれなさは消えてくれる。
知りたくて、思い出したくて、なにも出てこない頭にやった左手で、傷跡をかきむしりたい気分になってくる。
魔理沙で在らねばならない自分が、気持ち悪くて仕方がなかった。
4
境内を散らかす落ち葉は、掃除を任された日はきりがないとすら覚えていたのに、数日経ったいまは慣れてしまった。神社を取り囲む木はぽつぽつと痩せこけはじめていて、季節がたけていく様をゆっくりと感じさせてくる。十一月も半ばを過ぎようとしているのに、まだ、〝魔理沙〟が戻る気配はない。
留守を預かる日はそう多くなかったが、働かざる者食うべからずだと言って、大体のことは覚えさせられた。炊事や洗濯は交代で、たきぎを集めるのはこちらの仕事だ。風が味噌汁のにおいを運んでくる。
麻袋に落ち葉をかき入れて、蔵にしまった。玄関を開くとはち合わせて、呼びに行こうと思ったのと彼女は身を翻し、その後ろに続いた。着いた座敷でひとり土間へと向かう姿は、掃除当番でない日なのに、珍しく正装だった。ちゃぶ台の横には鍋敷きが置かれて、ほどなく味噌汁が運ばれてきた。
相変わらず、座布団の上には腰を下ろさない。ご飯を装いはじめる横から、どうしたのと投げかけた。
「どうって、なにが」
「だって、こんな時間に着替え済ませてるから」
「お味噌が切れそうだから買いに行くの」
はいと渡される茶碗を受け取り、互いに手を合わせた。お菜はあけびのおひたし。箸を進めながら、ついていってもいいかと聞いた。
やぁよ、面倒くさい。
また歩かなければならないのだから、拒まれても当然だ。わかっている、だけど、このままの生活を続けるのは無理がある、そうだろう、霊夢。
金銭面は心配しなくていいと言われたけれど、いつまでも居候のままでは、いけないのだ。
あからさまに嫌な顔をしながら置かれる味噌汁のお椀は、少しだけ雑な音を立てた。
「子供の手を使ってくれるところなんて、あると思うの」
飛べもしないのに。
苛立たせた口調を鎮めるようにご飯が運ばれる唇は、不機嫌に持ち上がっている。一蹴された通り、この体は非力だ。漬け物石を持つことすら苦労するし、種火を作るための魔法だって使えやしない。帽子のなかに眠っている大切だったらしい八卦炉は、いまやただのお荷物として埃を溜めている。
魔理沙であって魔理沙でない自分がなんでも屋に戻ったところで、仕事なんて取れもしないだろう、それは承知だ。でも、きっかけにはなるかもしれなかった。
ひとりで生きていくには難しい年齢で、それでも生計を立てていたのならば、浅かろうとも縁はあるはずだ。魔理沙を知る人に会いたい。
魔理沙でいなけばならない強迫観念が酷くなったとしても、きっと戻るからなんて漠然とした日々を送るのは、もう嫌なのだ。
お願いだよ、霊夢。
「でも、だめよ、やっぱり」
働かせるなんて。
それにと継ぎ、伏せがちな目が逸れた。多分、父親とのこと。立ち上っていた湯気は次第に勢いをなくし、味噌汁の濁りが沈殿しはじめた頃になって、霊夢に、いまのままがいいのかと、喉元に引っかかっていた言葉を振り絞った。
向けられる顔は少し怒っていて、眉毛だってつり上がり気味なのに、泣き出してしまいそうに見えた。
「いいわけないでしょ」
付け足される馬鹿は沈んでいた。
這い上がるごめんの一言は口内で押し留め、飲み込んだ。
永琳が言っていたような、魔理沙と関わりのある場所に行きたい。いや、行くべきなのだ。
「だから霊夢、協力してほしい。名前だけの魔理沙でいるなんて嫌だ、私は私の記憶を取り戻したい」
責任感を抱えて歩くのはつらいことだし、無駄になるかもしれないけれど、じっとしているだけでは戻らない、そんな気がするから。
しばらく続いた沈黙のあとに、霊夢は止まっていた箸を動かした。
「食べたら出かけるから、さっさとしなさい」
促されて啜る味噌汁はぬるくなっていたのに、重苦しさの晴れた朝食は、いつもよりもおいしく感じられた。片付けはやっておくからと言われて、着替えなきゃと部屋に急いだ。
借り物の寝間着を脱ぎ捨てて、肌着を着て、長袖の上に丈の短いトップス、同色の黒いスカートを穿いて、薄茶色の前掛けはベルト式。帽子の先端を膨らませている八卦炉は、一応持って行こう。襖縁が叩かれて、開けてもいいかと霊夢の声。
どうぞ、入ってくる霊夢はへの字口を作っていて、呆れたようにため息をついた。
「座って」
左手に持っていた櫛を見せられて、背中を向けて従った。長い髪を不快に感じたことはなかったけど、手入れする気も同様になかった。
通される櫛は途中で引っかかることが多くて、口にした小さな痛いを、ずぼらなんだからと霊夢は言う。魔理沙の髪は癖っ毛だ。どれだけ梳いてもまっすぐにならないだろうし、左側の外はねも濡れて乾いたらやっぱりはねている。
誰に似たんだろう。母親かな。どんな、人なのかな。会ってみたい、会えるかな。思い馳せているうちに梳き終わって、立ち上がった。
「ちょっと待って」
着替えと一緒に持ってきていた荷物から短めの布を見つけてくると、左側の髪を三つ編みにくくってくれた。
ねえ、帽子、被ってみてよ。
求められるままにしたこちらを眺める彼女は、切なさ混じりの笑みを浮かべてくれた。
「毎日会ってるのに、なんだか、久々に見たみたい」
巫女としての顔を張りつけていても、やはり彼女は年相応な少女だ。魔理沙で在らねばならない居心地の悪さは、霊夢にとっては大切な居場所で、落っことしてしまった記憶のなかにいる人たちだって、きっとそう。
手を握って駆け出したら、驚かれたあとに怒られた。ふたりして靴の踵を潰しながら外に出て、獣道を下った。
5
山を下りてからの道は平坦で楽だった。思っていたよりも近かった里は、足が疲れる前には着けそうな距離まで迫っている。外壁に守られたあそこで、記憶の手がかりを探さなければならない、だけど聞き込みの案は後回しになった。
魔理沙を知る人が多くいたとしても、その多くを霊夢が知らないからだ。なんでも屋だなんて日雇い仕事の縁など、そりゃあわかるはずもない。思い出の場所も然りだ。だから、事故の起きたところに向かおうと提案した。
歩くのをやめて見つめてくる顔つきは苦しそうで、霊夢にとっては行きたくない場所なのだろう、反対しようとしたのか開きかけた口を一度閉じ、静かな「わかったわ」が絞り出された。それからはずっと、だんまり。
少しだけ前を行く彼女とのあいだには、気まずさが漂ってる。覚えていない里について聞きたいことや話したいことはあるはずなのに、ねえだとか、そういえばとか、なにひとつ言えないまま、門前に着いた。正午までの道のりをゆっくりと昇る太陽はまだ遠い位置にいて、朝の眠たさも消えている頃なのに、開け放たれた門から見える人の姿は疎らだ。
門をくぐってから振り返った霊夢は、勝手に歩き回らないようにと釘を刺してきた。話しかけ難かったしこりはいつの間にか取れている。歩きだした後ろについて、通り過ぎていく周囲に気を取られてしまう目は忙しかった。軒を連ねる格子窓の奥は、干し柿や玉葱などの食材が吊されていて、それぞれの生活感が垣間見えて飽きないし、なにより、神社や永遠亭で過ごした期間に会った人が少なかったから、駆け回る子供やお隣同士が顔を合わせて挨拶する様ですら、新鮮だった。
きょろきょろと落ち着かないことに気づかれて、大人しくするようにと言われてしまう。知ってる人がいたら、変に思うでしょと付け足されて。
それはそれで探す手間が省けるのではなかろうか、言いそうになって、やめた。
いつもより足早に感じるその脇へと並び、こっちのほうが自然かなと笑いかけてみたけれど、喋らなければねと息をつかれた。
「もうすぐ目抜き通りに出るけど、さっきみたいにはしゃがないでよね」
目抜き通り、発した疑問は指を差された先に見えていた。道の横幅は十字路に近づくほど広くなっていき、行き交う人々の活気が届いて、食べ物のにおいも流れてくる。
独り身か仕事終わりか長椅子にかけてうどんを食べている男たちや、離れているのに聞こえてくる野菜売りの声、寺子屋に向かうらしい子供の姿などが右へ左へと流れていく。いまが一番賑わしい時間帯なのだと言った。
「春菊と葱が取れたてだって、いいな、あそこの野菜はおいしいから」
買わないの。
「すぐに売り切れちゃうから」
味噌は帰りに買うからと来た道に一瞥をくれ、十字路の端を進む。空から落ちた現場に続く西門は道なりの先にある。南側や北側にはなにがあるのだろうか、好奇心から尋ねてみて、北側の終わりには田んぼと林があるらしかった。
「あっちはなにがあるの」
足を止めた横顔が、ついっと黒目を流してきて、前に戻された。
――あんたの家。
再び歩きだした後ろ姿に向けていた視線は、無意識に生家がある道の先へと移っていた。掲げられた霧雨店の屋号は里にいて知らぬ者はない、自分の出生を教えられたときに聞いたことだ。
伸び続くこの大通りのどこかに、自分の生家が、ある。立ち並んでいる軒に見覚えはやはりなくて、思い出せないもどかしさが、体までそちらへと向き直らせてくる。知りたい、自分は、魔理沙は、ここでどんな暮らしをしていたのか。なぜ喧嘩をして、なぜ、あなたはそれを止めなかったのだと。父親、なのに。
意識外からの強張った声が、動きだしてしまいそうだった足を止めた。なにやってるのよ、掴んでくる手はらしくない乱暴さで、痛かった。
そのまま腕を引く足取りは速かったけど、それも次第に落ち着いていった。すれ違う人の数が徐々に減っていくなかで、会話はない。巫女という存在がうろつくことに珍しさはないのかもしれないけど、赤い服と白い袖は目立つし、自分みたく洋装の人だっていなかった。仲のいい友達として映るだろうか。それとも悪いことをして、巫女に連行されているように思われるのだろうか。振り返る人はいない。
そのうちにたどり着いた西門をくぐったところで、右腕が解放された。真新しい轍がある道をいく後ろ姿は、結っている髪が不機嫌そうに揺れていて、相変わらずなにも言ってこないし、話しかけられない。晩稲の収穫に勤しんでいる農夫がこちらに気づいても、挨拶を飲み込んだ気まずそうな会釈しかできない様子だった。
あぜ道を抜け出した遙か先には鬱蒼とした森がある。人の均した道は分かれて、選んだ道は往来が少ないのか悪路だ。歩きにくい足下に目がいってしまうのは、前を見たくないからだった。
土からはみ出た石ころばかりが流れていって、すれ違う人の足があったのは一度きり。踏み締める音だけで視界に映らなかった赤い靴は、つと歩みを止めて向き直る。苦々しさを張りつけている横顔が見つめていたのは、雨を凌ぐ祠すらない一体の地蔵だった。
ふたつある供え物の餅は、さっきすれ違った人が置いていったのかまだ新しい。舟形の部分に伸ばされた手が、ぶつかった痕跡すら見当たらないそこを軽く撫でて、思い出したと投げかけてくる。
かぶりを振ってみせる頭が、重たく感じた。
「血、残ってないね」
凄かったのに、そう語る声は寂しそうだった。頭部から額に走る裂傷のおうとつは小さくない。凄惨とまではいかなくとも、酷く出血していたとは聞かされていたし想像だってできた。寝込んでいたあいだに降っていたらしい雨が、舟形や地面を染めていた血糊を濯いだのだろう。拾うべき欠片まで流されてしまったのか、記憶は、やはり、戻らない。
撫でることをやめて拝みはじめる霊夢は、なにを思うのだ。手を合わせる気にはなれなくて、飛び出してきそうな懊悩から、こぶしが胸に行っていた。
お地蔵様、お願いです、魔理沙の記憶を取り戻してください、お地蔵様……
一部始終を見届けていたであろう存在は所詮石造りの置物だ。目を瞑らせている地蔵は静かに佇んで、なにも教えてはくれなかった。
拝み終わり、しゃがませていた姿勢が立ち上がっても、彼女の足は動かない。本当に自分はこのままなのだろうか。ずっとずっと魔理沙の名札を張りつけたまま生きなければならないというのか。
そんなのは、嫌だ。
遠くに広がっている森には〝魔理沙〟の住んでいた家がある。最後に見た光景が頭に残っていなくても、自分を取り戻すための手がかりが、思い出が、あるかもしれない。
「行こう、霊夢」
まだ太陽は高いから、お味噌を買って帰る時間くらいはあるはずだ。手を引いたことに驚きもしない顔は、指が差すほうを眺めて、悲しみを引っ込めた。
引かれることを嫌ってか、追い抜いていく足は速く、力強かった。
*
流れていく景色に見覚えはない。枯れることのない常葉樹から成る鬱蒼さは、季節に染まることなく深い緑を保っている。
魔法の森と呼ばれているここに、人の出入りは多くない。理由はそこら中に生えている茸が出すらしい瘴気にあった。いわく、幻覚作用や不調をきたすのだと霊夢は言った。
普通はねと付け足していたから、咳ひとつしてみせない彼女は例外なのだろう。平気だから住んでいたのか、住むうちに慣れてしまったのか、この体に変化はなかった。
冬が迫っているのに森のなかは少し湿気ていて、地面はたまにぬかるんでいる。近くにあるらしい湖から流れてくる空気が、そうさせているのかもしれない。木漏れ日すら差し込まない小暗い景色は、進むにつれその薄気味悪さを増していった。
紫がかった葉をつけるいびつな木や、歩きだしそうなほどに波打たせた根を伸ばしている針葉樹、人が腰かけられるくらいに大きな茸。深呼吸したわけでもない肺に、重たさが残る気がした。
草藪を避けるように進んでいく足に迷いはない。段々と方向感覚をなくしているのがわかり、はぐれないようにと繋いでいる手が汗ばんでくる。
「ねえ、合ってるんだよね、道」
「合ってるわよ、多分」
勘で歩いていると知り、余計に怖くなった。
茂みが途切れて幅のない獣道に出ると、今度は道なりに進んだ。光がない空間はいつまで続く。もたげてくる不安は明るさが広がる空間を見つけて引っ込んだ。
木の隙間からちらちらと映る建物が魔理沙の家だ。やがて出る開けた一角では空が仰げて、太陽は真上に来ていた。
子供がひとりで住むには贅沢すぎる外観なのに、入り口脇に立てられている霧雨魔法店の屋号は、粗末な看板だった。引かれていた手が離れて扉の前に立った。
ゆっくりと把手が引かれていく。踏み出した足に妙な緊張を覚えてしまうのは、思い出せない可能性への恐れだろうか。
そこかしこに積み上げられた魔導書やどう使うのかもわからない道具は、〝魔理沙〟が残した足跡だ。そのどれもが、うっすらと埃を被っている。仄暗さのなかで伸びていた光源は、扉が軋む音と一緒になくなって、代わりにカーテンが開かれた。
埃っぽさを気にしている霊夢は掃除しておけばよかったとこぼし、階段の前で足を止めた。
「二階、どうする」
「行く」
上がってみた二階は天井が低くかった。外からも見えていた天体ドームのそばには、ステップ階段が置いてある。物の知識や使い方はある程度覚えているのに、天体観測に耽っていたであろう時間は欠けたまま。
魔理沙、魔理沙、おまえはどこにいるんだ。戻ってきた一階の暖炉のなかも、書棚に収まりきらないほど本がある書斎にも、おまえだったときの記憶は落ちていない。廊下を左に曲がった突き当たりの部屋が、魔理沙だった頃の自室だ。また着るつもりでいたのだろうベッドに脱ぎ捨てられたネグリジェは、しわと埃だらけで、もう洗わなければならない。
壁際の帽子かけも、古ぼけた衣装箪笥も、床に転がる魔法道具らしき物だって、きっときっと大切なはずなのに、懐かしさなんて湧いてはこなかった。
立ち尽くしていた横から帰ろうかとかけられて、部屋を出た。振り返る我が家には、もう帰ることはないのかもしれない。そう感じてしまうのは、なにも語りかけてこない霊夢の背中が、寂しげだったから。
森の暗がりへと戻る直前にまた手を繋いだ。恐怖心を煽っていた辺りの不気味さは、目深に被り直した帽子のつばに隠れている。伏し目にしていても先を歩く足はどうやったって視界に入って、手を差し出すために振り返ってきたときの顔が、脳裏に浮かんで離れない。
凛とした巫女の顔を張りつけた裏には、憮然とする少女の気配が押し込められていた。
これから里に戻り、味噌を買って、きつい山道を登ったら一服して、手伝いや家事をしながら今日が終わったら、霊夢は、また里に連れていってくれるだろうか。無駄に歩かせて疲れさせるだけかもしれないのに、連れていってなんて言えるのだろうか、自分は。
薄暗さを宿す土が木漏れ日に照らされて、気がつけば森を抜けていた。行きとは違うところに出た道の先では、草臥れた家がぽつりと立ってる。手は未だ繋いだままに、避けるように道の端を行きながら通り過ぎて、屋号が目に入った。
香霖堂、無意識に口走っていた独り言を拾われて、驚いたように振り返る霊夢が、魔理沙の家では聞いてこなかった〝思い出したの〟を口にする。
「ううん、店なんだって」
なにか、あるの。
魔理沙との繋がりが。
しばしの沈黙が流れてからかぶりを振ってみせて、絞り出したような、静かな、そう。離していた手を掴もうとした動きから逃れて、ひとり香霖堂に足を向けた。
腕を引っ張られるのと、待ってとかけられたのは同時だった。
「なんで勝手に行くの、なにも、ないのよ」
「うそ、声が張ってた」
「早く帰らなきゃ日が暮れちゃう」
ちょっと寄るだけ。
だめよ。
なんで。
「だって、あんたが傷ついちゃうじゃない」
記憶が戻らないから、あそこにいる誰かを悲しませるから、多分両方だ。でも霊夢、それは諦めなのだろう。預かると言ってくれた期間をただ引き延ばし、訪れるかわからないいつかに期待するだけの。
「お願い、会わせて」
目を伏せる彼女はつらそうな表情で固まったまま、黙り込んでしまう。込められていた力が袖から抜けたのは、それから数秒ほどしてから。
妻側につたを走らせたまま放置しているのは、客が来ないから平気なのか、元々がそういう性格なのだろう、辺鄙な場所で商いをやる店主はどんな人物で、どれくらい魔理沙を知っているのだろうか。そっと押し開けた扉の上空でドアベルが鳴った。
からからと迎え入れられた音がやんだ店内は少しごちゃついていた。壁に取り付けられている飾り棚にはよくわからない機械が並び、日当たりのいい窓際近くにはストーブと揺り椅子が置かれてある。寒い日には隅っこに置かれた丸いテーブルを持ってきて、売り台に置かれたマグカップ片手に読書でもするのだろう。暮らしぶりを想像していると足音が近づいてきて、間仕切りが払われた。
なんだきみたちかと息をつく彼は残念そうに席に着き、愛想のないいらっしゃいを継いだ。
「それで、今日はなんの用だい、冷やかしなら季節的に間に合ってるから遠慮しておくけど」
服の修繕はこの前したし、買い取りではなさそうか、じゃあ蘊蓄を聞きに来たのかな……ひとり話し続ける彼は、いつも通りなのだろう。端正な顔立ちも、語りかけてくる低い声も、欠落した記憶を埋めるには至らなくて、いつも通りの〝魔理沙〟は消えたままだ。
どうしよう、なんて切り出せばいいのだろうか。記憶喪失になりましただなんて。
佇むばかりでなにも言わないことを不振がられて、どうしたんだいと独り言が切られた直後に、脇にいた霊夢が霖之助さんと発した。
震え気味で、でも強張った声色は、彼の知るいつも通りではないのだろう、一瞬だけみせた驚きをしまい込んで、落ち着かせるようなどうしたんだいを繰り返した。
事情を打ち明ける彼女の言葉に彼は、頷きもせずに耳を傾けて、話しが終わるまでその視線を外さなかった。
ごめんなさいと絞り出される声は半分泣いていた。そうかと頭に被せられる手を受け入れている姿は、やはり少女だ。強がりをさせていたのだと痛感させられる胸が、苦しくて仕方がなかった。
霖之助の顔がこちらに向いて、確かめるように魔理沙と投げてくる。はいともうんとも返せずにうつむくことしかできなくて、もう一度呼ばれた名前に誘われて顔を持ち上げてみると、彼は据え置きの棚を指差していた。
「左端にあるふたの取れたオルゴール、あれはきみが落として壊したやつだ。いつか弁償してもらうためにわざと直さないで置いてるんだ」
忘れっぽいからねと付け足されてから、指は部屋の片隅にあるテーブルを差した。
覚え立ての魔法を暴発させて焦がした脚の部分は、まだ跡が残っているらしい。危うく火事になるところだったとぼやく口調は、どこか懐かしさに浸っているように思えてしまう。
あそこの傷も、あっちのひび割れも、全部きみがつけたものだ。なのにそれを忘れてしまったって言うのかい、魔理沙。
反応を待つ瞳に返せる答えは持っていない。だからこそ知りたいのだ、魔理沙という自分を取り戻すために、きっかけとなるかもしれない過去を。
「お願いです霖之助さん、私の、魔理沙のことを聞かせてください」
終始変わらないでいた表情が僅かに驚いて、記憶喪失の事実を受け止めていた。
「八卦炉は持っているかい」
帽子から取り出して渡したそれを手のなかで転がして、息を吹きかけてから売り台に置いた。ちょっと待っててねと奥に引っ込んだ彼は、やかんを片手に戻ってくる。
使えないんだよね、確認される問いに頷くと、彼は八卦炉に触れながら集中しはじめて、ぼうっと音を立てる火が炉の中心に起きた。
弱々しい火を薬缶の底で潰しながら、不思議なもんだと彼は言う。
「基本は魔力を変換する作りだけど、人が持ってる気でも動く作りだから、僕でもこうして使える」
記憶がないってだけで使えなくなるなんて、やっぱり変な話だよ。
言われてみればそうなのだが、使えないものは使えないのだ。
隅っこから引っ張りだしたテーブルに売り台の椅子を寄せて、商品の隙間に畳んでいた組立式の椅子を組むと、次にお茶の用意にかかって、最近仕入れたと楽しげに語るのは、キームン紅茶の味わい。
腰かけるよう促されて、霊夢は組立式の椅子に座った。相変わらずがらくたばかりとこぼされた口調は呆れているのに、漂わせる視線はもの悲しげだった。
我が家の散らかり具合を彷彿させる店内は、やっぱり懐かしさは感じない。吹き出し口が甲高い音で鳴いた。紅茶を注ぎ終わった彼は対面側の揺り椅子に座り、さてと息をついた。
「なにから話したものかな」
出生から話せば、魔理沙、きみはあの親父さんのひとり娘だ。同年代と比べて聡かったきみは幼いながらに看板の重さを自覚していたのか、外ではお行儀のいいお嬢さんを努めている人見知りだった。独立して日も浅かった僕はなにかと気にかけられててね、頻繁に訪ねられたり招かれたりしているうちに懐かれて、ふたりきりのときには親にだって見せない活発さで接せられたもんだ。
そしてあるときにきみは家を出た。はっきりとした理由は知らないけど、まあ大体は僕と同じなんだろう。自然とここに足を運ばせて、自立できるまで置いてくれないかと頼んできたときは、正直戸惑ったよ。きみが出かけてる折りに訪ねてきた親父さんたちも、僕が預かってると知るや待たずに帰ってしまうんだ、お金だけ渡してさ。
ま、頑なに頭を冷やせばいいと会うことすら拒んでいたのは親父さんだけだけど。
そのうちにきみは魔法なんて覚えはじめて、思っていたよりも早く自立してくれた。不安もあったけど安心のほうが大きかったかな。面倒を見ているとはいっても、必要以上の金銭が渡されるたびに嫌でも責任を感じていたから。おてんばになりはじめたのは僕のせいじゃない、自分は悪くないってさ。
誰が建てたのかも知らない家を自分の物にすると言い出したときは、さすがに呆れた。そこそこに深い場所だったから、森の瘴気も強いし大丈夫なのかって。平気だぜって鼻を擦りながら笑っている姿は、もう立派な魔法使いだった。でもおかしな話さ、里で〝なんでも屋〟なんて仕事をするきみは、一度だって霧雨の名を出さないんだ。本気で家を捨てる気なのかと心配したけど、はは、不格好に改装されたきみの根城へ久方ぶりに赴いて、少しでも気を揉んだ自分が馬鹿だったとその場で吹き出してしまったよ。
「口調や格好を変えて、どれだけ魔理沙を演じていても、きみは霧雨のお嬢さんなんだなって」
語りを切った彼は、キームン紅茶の甘さを口に含んだ。
「聞いたわけじゃないから、全部僕の勝手な解釈だけど、ね」
投げかけられる「どう」は、見つめ返すばかりの時間に息をつき、そうかとこぼした。差し込んでくる陽光は黄昏の飴色に変わりかけていた。
手をつけられずにいた紅茶の香りが熱と一緒に弱くなりだして、ごちそうさまと霊夢が立つ。
「歩いてきたんだろ、日暮れが早いんだから、今日は泊まっていきなよ」
「でも」
「ひとりでしょい込む必要なんかないさ」
沈黙を経て従った彼女に、霖之助は微笑を浮かべた。お茶を淹れ直しながら彼は再び語りはじめる。生家にいた頃のこと、家族のこと、家を出てからの日々。聞かされる過去は飲みかけのままだった紅茶の冷たさのようで、寒さばかりが胸にしみてくる。店内に薄暗さが落ちだしたのを合図に、ふたりは夕飯の準備に入った。
質素な食卓のなかに混ざる森の茸は、魔理沙も食べていたもの。
更けていく夜に通された寝室は、ふたりして寝るには手狭だ。敷いた布団のなかに体を滑り込ませる霊夢が、カンテラに手をかける。
「寝ないの」
促されるまま布団に入ると、明かりが消された。月光が届かない暗闇のなか窓の向こう側を仰ぎ、瞬く星たちを眺めた。寝返りを打った霊夢が、ねえと発した。
流星祈願会、覚えてる?
「ううん」
同じように寝返りを打つも、向き合う彼女の顔は、まだ暗さに慣れなくてよく見えない。去年もやったのよと話す声は静かなのに、どこか弾んでいるような気がした。
流行病で一緒に寝込んだりもしたのよ。
「そうなんだ」
あんたが原因だったんだけどね。
ごめん。
いまさら謝られるのって、変な感じだわ。
「ねえ、記憶が戻ったら、やっぱり怒るの」
「どうして」
「だって、家や昔のこと、流れでも聞いちゃったから」
ああ。でも、そんなこと、聞かれてもわからない。どれだけ自分の過去を知ったところで、抜け落ちた記憶は戻っていないのだから。
喉元に引っかかって仕方がない躊躇いを口にしたら、叱られてしまうかもしれない。里を巡っても徒労に終わるかもだなんて、後ろ向きな気持ち。暗さに慣れてきた視界で目が合った。
薄い唇を持ち上げるのがわかって、それは不機嫌の合図だった。
「情けない顔するのやめてよね、絶対、元に戻してやるんだから」
息をこぼし、もう寝ましょうと告げた声は穏やかだ。
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
横向きのまま目を閉じた霊夢から、窓の外に目を向けた。星空の一部を隠す枝葉の輪郭が、風に吹かれて揺れている。
もし記憶が戻らなければ、どう生きていけばいいのだろうか。考えても纏まらないちっぽけな不安は眠気に変わりだしていき、衣擦れと葉擦れの区別すらつかなくなって、意識が、闇に溶けていった。
*
蝋燭の灯が照らす部屋は薄暗くて、ぼやけていた。
動かせない体の前で作業をする人は顔に深い影がかかっていて、表情すら認められない。頭に伸びてきた大きな手は撫でるような仕草をみせたけど、感覚は、ない。
これは夢だろう。意識だけは鮮明なのに、体は思い通りに動かせない。固定された視線の先にいる人に見覚えはない、なのに、どれだけ魔理沙を巡っても感じなかった懐かしいという気持ちが、胸に広がっていく気がした。
あなたは、誰ですか。
喋れない、語りかけてもくれない無音だった空間は、霧みたいに白んでいく。
瞼を透過してくる眩しさが、朝を告げていた。
*
朝食の香りがする土間は、鍋が火にかけられっぱなしだった。流し台で顔を洗っていた後ろからおはようとかけてきた霊夢は、もうできるからと菜っ葉が載ったざるを鍋にあけた。
釜からは炊き立ての甘さがこぼれている。霖之助は店内で新聞を広げていた。こちらに気づくとやあと新聞を下げて、お茶いるかい。
テーブルの中央に置かれた八卦炉の火が、夢のことを思い出させてくる。取りに来てと、土間から霊夢の声。お味噌汁お願いと先に運びはじめる彼女のお盆には、ご飯とお菜の漬け物。八卦炉とやかんが脇の棚に避けられて、昨日と同じように席に着いた。
夢のことを切り出すと、先に箸を止めたのは霖之助だった。
「それって親父さんじゃないのかい?」
どんな人だったと聞いてくる彼は、そこそこに筋肉質な朴念仁だよと笑う。影に覆われた顔立ちはわからないけれど、肩幅や伸びてきた腕は、確かにごつごつとしていた気がする。夢を見たのは初めてなのと確かめてくる霊夢に、頷きを返した。
記憶が戻りはじめた兆しじゃないのかい。追いかけるように発せられる、そうなの。違うとかぶりを振った。ただ、懐かしさは初めて感じられた。伝えると、霖之助は口角を僅かに持ち上げて、きみは親父さんの背中ばかり追いかけてたからなとお菜を摘んだ。
夢で見たあの人が、本当に父親だとしたら。
「会うべきなのかな」
思わず出た言葉に、親父さんにかいと聞かれて、多分だなんて曖昧な返事をした。
「ここには私の思い出があって、それを知っている霖之助さんがいた。昨日のことがきっかけになったのなら、一番の手がかりは実家や父親が持っているんじゃないかって」
「じゃあ、なんで迷っているんだい」
すぐには答えられなくて、目を伏せた。父親に会い記憶を取り戻したら、また喧嘩別れしてしまうのではなかろうか。もし記憶が戻らなければ、父親を悲しませることになるのではないのか。
もたげてきた不安を打ち明けると、彼は、笑い声をあげた。
「はは、あの親父さんがそんな玉かい、記憶喪失だと知ったところで嘆きやしないさ。じゃなきゃ、きみの当てつけじみた意地の張り合いなんかに付き合うもんか」
会いに行きなよ。
柔らかい顔つきで大丈夫と続けた彼は、食事に戻った。左側から刺さる視線に振り向けば、明るさを引っ込めた霊夢と目が合って、気まずそうに目を伏せた。
支度を済ませて香霖堂から出る。しまい込んでいた重たい空気が、ふたりきりのあいだに淀んでいるような気がして、声をかけられなかった。
6
耳元でうるさく通り過ぎていく風は強くて、冷たくて、いつの間にか早足になっていて、里が近づくにつれて胸がざわついてくる。西門をくぐって歩いていく景色は昨日と変わらず静かだ。目抜き通りに出て大きくなる商いの活気を横目に、道を曲がった。
酒屋、呉服屋、飯屋、途切れることのなかった軒並みは小路を挟み、その先には土塀に囲まれた家。
屋敷と見まがう店が、魔理沙の生家だ。足を止めた霊夢がふいと振り返る。待っててと言い残しひとり飲み込まれていく姿を、ただ見つめることしかできなかった。
あの暖簾の奥に父親がいる。会いたい、踏み出してしまいそうになる衝動は、出てきた霊夢を見て収まった。複雑な表情で近づいてくる彼女は、
「会うって」
一拍ののちに手を掴まれ、小路へと引かれた。
漆喰の白さは道を曲がっても少しだけ続き、やがて裏口に着いた。簡素な門構えを通った庭先からは、縁側と蔵が視界に入った。
佇んだまま動かないので、ここで待つように言われているのだろう。しばらくして聞こえてきた足音の主は縁側を降り、草履の底をすらせながら迫りくる。桑年に差し掛かろうとしている外見は、霖之助から聞いた通りの厳つさがあった。
ちらと霊夢に向けた目をこちらへ戻し、確かめるように全身を眺めてくる。無愛想か無表情かもわからない顔が僅かにしかめられた。
「なんのようだ」
ああ、どうしよう、用意していた言葉が消えてしまう。
どこから切り出せばいいのかが、わからなくなってしまう。
夢で見た風貌通りの声なのに、胸を占めるのは萎縮ばかりだった。黙りこくる時間に苛立ちはじめたのがわかってから、訪れた理由を話した。
腕を組んだままの彼は、眉ひとつ動かさずに耳を傾けてくれていた。記憶喪失になったこと、すっぽ抜けてしまった自分の欠片を集めていること、過去の確執を知ることが、鍵になるのではないかということ。
今朝に見た夢があなたであるかもしれない、だから、魔理沙との思い出を教えてほしい。生家にあがらせてもらえないかと、頼んだ。
沈黙はそれほど長くはなかった。深い息を吐ききった次に出された言葉は、断るだなんて冷たいものだった。
「黙って聞いてれば好き勝手言いやがって、記憶がないのも俺との喧嘩も、おまえのはじめたことが原因だろうが。戻らないなんて感情的になって飛び出したくせに、いまさら子供面しやがって何様のつもりだ」
尻拭いすらできねえで、俺を、あいつを頼るのか。
変わらない声色で継がれる言葉は突き放すようなものばかりで、肉親としての距離を感じさせてはくれない。
マジックアイテムが、自立が、挙げ句そんななりに、淡々と語られる魔理沙の断片は〝独り言〟だ。やがて口を結んだ彼は霊夢に一瞥をくれて、踵を返そうとした。
待って。反射的に袖を掴んでしまった右手は、手の甲で払われた。
「記憶喪失なんて知ったことか。いまのおまえを見たらあいつがぶっ倒れちまう、さっさと帰れ」
再び身を翻そうとする背に霊夢が叫んだ。
「待って、ください」
か細い声で繰り返される呼びかけは彼の足を止めて、けれど朴念仁は張りつけられたままで、沈黙のまま彼女を見下ろし続けている。
感情の薄い眼差しが耐えられなくなったように顔を伏せて、消え入りそうなごめんなさいは、震えていた。
「ごめんなさい、私が、悪いんです、知った仲だからって、いつもみたいに悪のり、して」
それは、魔理沙もだ。だのに彼女は自分のふがいなさばかりを口にした。
娘さんをこんなことにしてしまってごめんなさい。頭を下げながら「だから」と繰り返す彼女の両肩に、宥めるように手が置かれた。
「あなたの気持ちはよくわかりました、でもこれは、家族の問題なのです」
もういいでしょうと礼をした父親が、縁側をあがって遠ざかり、やがて消えた。
立ち尽くす彼女にかける言葉が見つからなくて、ごめんと言われるまで、帰ろうと手を引くことができなかった。
棒手振が道を駆けていく、子供たちもはしゃいで駆けていく、風呂敷をしょいながら走る誰かは商人かなにかだろう。強がりが失せたふたり分の足はどこに向かわせればいい。
帰り道を外れて遠退く喧噪が、無力感を突きつけてくるようだった。
柳の影に入った足を止めると彼女は幹にもたれかかった。うなだれている顔つきは前髪で覆われていてわからない。繋いだまま離そうとしない左手にはどう応えてやればいいのだ、魔理沙。
動けないでいる姿を笑う声がいて、丸眼鏡をかけた女性はラブラブだなんてけったいなことを発していた。不思議がる彼女に覚えがあるのか、はっとする霊夢は体を前に出した。
なによ、化け狸。
険しさの宿った眼光を避けるように注視してくる彼女は、珍しいこともあるもんじゃなあと顎を撫でた。
「付喪神が人に憑くなんて」
「なんですって」
見合わせる霊夢の顔がみるみるうちに曇っていく。一体、なにが、どうなって。
「知ってて逃がさないよう手を繋いでたんじゃないのかえ」
頭をかいた彼女の表情が変わる。肌を突き刺さしてくるような寒気を、霊夢が放っていたから。
「そう、なら私の領分ね」
袖から取り出された札が投げられる間際、割ってきた体に霊夢が吼える。
「邪魔よ、どいて」
「まあ落ち着け霊夢、どうしてこうなったかは知らんが、強引に剥がそうとすれば魔理沙殿が危ない」
「じゃあ、どうすればいいのよ」
「さあの。原因を知らなきゃなんとも言えないが、おちおち話しもできんじゃろ」
人通りが少なくても先程の大声は注目を集めていた。野次馬が弾幕による決闘を期待しはじめたところで、霊夢が矛を収めた。
納得していない顔のままひとり身を翻したから、追いかけようとした、けれど、肩を掴まれて止められてしまった。彼女は、くいと小路に顎を動かしてみせる。揺れる市松模様の襟巻きについていくしかなかった。
会話もしないまま歩く路はすぐに途切れて、また違う路に入った。人気は徐々に薄れていきやがて閑静な場所に出ると、いまはもう使われていないだろう井戸の前に霊夢が腰かけていた。化け狸と呼ばれた女性が気配をたどったのか、ここが彼女たちの待ち合わせ場所に使われているのかはわからない、立ち上がってスカートの汚れを払い終わった顔つきは、未だ鋭さを保っている。
「さて聞かせてもらおうかねえ、なにが起こったのか」
微かに伏せる顔が渋くなった。だから、代わりに顛末を語った。無力さに憤るみたく右腕を掴んでいる顔色は終始厳しいままで、こちらに目を向けることはなかった。
経緯を飲み込んだ彼女は、口元にこぶしを作って思考している。
この人格が魔理沙でなく付喪神と言うのならば、
「私は」
どこへ還ればいいのだ。
呟かれたなるほどに食いつく霊夢が、殺気に似た冷たさを声に乗せ、説明を求めた。
「言わんでも察してるだろう、地蔵の付喪神じゃよ」
「そうじゃない、祓ったら魔理沙が危ないって話、なんなの」
どうして、剥がせないのよ。
「付喪神だって人格がある、だから同じ物にふたつの魂は同居しないし、人間に憑くなんてあり得ないことじゃろう」
ところが現実には起こっている。死人ならまだしも、生きた人間に、だ。
「ということはだ霊夢、魔理沙殿の人格はいま眠っていることになる。無理やり剥がしたところで意識は戻らん可能性のほうが高いし、最悪魂のほうが体から離れかねない」
「そんな」
くずおれてへたり込む体に、手を差し伸べることができなかった。本当にもうどうしようもないのか。呆然としていた視界を持ち上げられて、いつの間にか変化を解いていた彼女の瞳に、体が射竦められた。
「魔理沙殿が眠ったままなのはおまえに原因があるかもしれん。おまえはいつ付喪神になった、それがわかれば自分の意志で離れることも可能じゃなかろうか」
小さなことでもいい、思い出せ、おまえを大事にしていた人のことを。
思い当たる人物は、ひとりしかいない。けれどそれは魔理沙の父親だろう。霊夢が違うと言った。
「地蔵なんて持つ人いない。それ、造った人じゃないの」
まさか。
「職人の魂が作品に宿るとはよく聞くが、となれば、あの地蔵を造った奴を捜さねばならないぞい」
「あんた、妖怪寺に入り浸ってるんでしょ、なにか知らないの」
ああ、と手のひらが打たれる。
「里に置いてある古い毘沙門天像、あれをいたく気に入ったらしくて一輪が遣いに出されたのだが、造った当人はすでにいなかったと肩を落としていたな」
その方の家は。
「北側の端じゃったかな」
「霊夢」
「わかってる」
希望はまだ、取り上げられちゃいない。走りだした後ろから名前すら聞けなかった彼女が、声を投げてくる。
今日は荒れるから、里から出るなら早めにな。
駆け抜ける道幅は徐々に狭まって、連なっていた軒の数は減っていった。あぜ道をゆく途中で見つけた人たちに尋ね、石像職人として馳せていた羽賀宗介の名を知った。教えられた三軒先にある蓮根畑の向こう側の家が、いまは亡き彼の住まいだ。
ひとり娘がいると聞いた。突き出し戸からは煙が吐き出されて、まな板を叩く包丁の音が聞こえてくる。戸を叩いたのは霊夢だった。
「ごめんください」
柔らかい返事のあとに、すり足が近づいてくる。戸を開けた羽賀のひとり娘は、霊夢や魔理沙とそう変わらない年代だった。
父親について教えてほしい、こちらの要望に訝しむ様子も見せずに通してくれた彼女は、あらためて紗織と名乗ってくれた。父親を訪ねてくる人は久しぶりだと話す彼女は、残されたことの暗さすら感じさせない落ち着きようで、囲炉裏のそばに腰を下ろした。淹れられた緑茶を啜りながら見渡す生活感は慎ましいものだった。
「石像は、置いていないのね」
未完成のものが裏手に並んでいると答える紗織は、出来映えのいいものは祖父が供養したと続けた。
「お爺さまが?」
「ええ、流行病に倒れて、三年前に亡くなったのですが」
いまは畑仕事をしながら暮らしていると語った紗織に、里の外にある地蔵について尋ねた。
「あれは父の遺作です」
湯呑みを置いた彼女は、面白い話ではないのですがと遠慮がちに言って、宗介のことを話しはじめた。彼は所帯を持っておらず、紗織は養女として迎えられたらしい。
物心がつきだした頃に引き取られた彼女がふたりに馴染んだのは、二年ほど経ってからだ。彼は跡取りを考えてはいなかったらしく、紗織に自分の業を仕込むどころか、興味本位にノミを持つことすらよく思っていない様子だったという。
石像を彫る背中や横顔ばかりを眺める毎日だった、浮かべられる微笑には、僅かな寂しさが残っていた。
八つになった頃だ、拾ってきた子犬にコジロウと名付けて、これといった反対もされぬまま飼いはじめたが、数日してからコジロウに異変が起きた。嘔吐を繰り返す体は衰弱して、諦めなさいと言われた。
「でも諦めきれなくて、薬草を取りに行ったんです。犬に効くだなんて考えもせずに」
それは祖父が、自分たちが使うために取ってきていた薬草で、山に自生している珍しくもない薬草なんです。
けれど、長雨続きの山中は動物たちの食べ物が不作気味になっていて、雑食が多い彼らの足が届くところには、薬草はなかった。
その日も雨は降っていて、薄暗さに包まれる山道を進んでいた彼女は、傾斜の厳しいところで薬草を見つけたという。真下にある渓谷は河原を飲み込むほどに増水し、激しく流れていた。
恐怖はあったが、それ以上に飼い犬を助けたい思いが勝っていた、だから慎重に、ぬかるむ足場を進んだ。薬草の近くに掴まれる枝が突き出ていて、太さの足りた枝を頼りに、彼女は腕を伸ばした。
「もう少しだったんです」
しかし現実には足を踏み外して、枝にしがみつくしかない体を持ち上げることすらできなかった。
そこに、宗介と祖父が来た。
「はい」
戻らない紗織を先に見つけたのは宗介だという。彼は危険も顧みない行動を叱って、幼い体を引っ張りあげた。
語りを切る顔に影がかかり、伏せた目と小さな息が、結末を物語っていた。
「大人の体重を支えるだけの力が、雨を吸った土と根には、残っていなかったんです」
持ち上げられた体を祖父が抱えてくれた瞬間でした、土ごと抉れてしまった枝と一緒に、父の体は激流に飲まれました。
あの日ほど祖父が声をからしたことも、己を恥じたこともありません……
外は、振り返る過去と同じように雨が降っている。紗織は突き出し戸を閉め、お茶を入れ替えた。囲炉裏のなかでは弾ける炭が火花を踊らせながら、暖かい仄明かりをくれていた。霊夢が地蔵のことを聞く。なぜ沢や里でなく、あそこに。
「父がそれを望んでいたからだそうです。森は無縁塚と同じくらい、昔はそういった場所だったようですから」
あしげく通っているのは彼女だけだろう。火の当たらない額が、内側から焼かれてくる気がした。
「悲しみを出さなくなったあとも、祖父は拝むたびに願っていたと思います、父の安らぎを」
――この親不孝を赦してやってください。
「弱いところを見せたがらない人でしたから、口に出したのは一度だけでしたけどね」
土間に下り、戸口を開けた紗織は、やみそうにない空を眺めた。長屋を借りるしかなさそうねと傍らでごちられる。傘も。
いとまと持ち上がる腰を止めてきた紗織が、泊まるように言った。巾着の中身を確認する霊夢は、諦めたようにまた座った。夕飯は、鍋にするらしい。支度する後ろ姿は孤独を感じさせないのに、どうして、こんなにも胸を締め付けられるのだ。
この子はもう、甘えられる人が、いない。
旬の野菜はご近所さんから分けてもらったものだ。鍋を囲む場は静かで、やがて夜が下りてくる。明かり取りから聞こえる雨と風は大人しくならない。里の外は荒れてそうと息をつく霊夢は、いつもより饒舌だった。おいしいだとか、うちでもやってみようだとか、魔理沙がなんでも屋だから、雪下ろしのときはこき使ってやるといいとか。
食事の片づけが済み、敷かれた布団は先立ったふたりのものだ。炭の減らされた囲炉裏に足を向けて、床に就く。熾火の届かない暗闇が、夢で見た光景を思い起こさせてくる。
宗介、あなたはどんな気持ちで石像を、あの地蔵を彫ったのだ。付喪神になるほどの思いを込められて、自分はなぜ、魔理沙という少女に憑いてしまったのだ。
手入れされているはずの布団からにおう、覚えてもいない彼への懐かしさが、頭から離れなかった。
*
蝋燭の灯が照らす部屋は薄暗くて、けれど輪郭のはっきりとしたここは覚えている。
相変わらず動かせない体の前で作業をする人は、深い鼻唇溝を走らせていた。伸びてきた大きな手が頭に触れて、削りかすが払われた。薄くしていた瞼が満足げに綻び、煙管に火をつけた。
固定された視界の先では、寝返りを打つ子供がいる。少しだけ気にする素振りをみせて、不精髭の残る頬を撫でた。
没頭すると身だしなみも忘れるような男だった。だから父親として慕うようになってからも、紗織は、髭があるあいだに抱きついては来ない。
煙管を置き、再び触れてくる手はごわついた職人らしい皮膚だ。石の肌を通して伝わってくる思いが、忘れていた気持ちを蘇らせてくる。おまえが落命し、森への道中にこの体を置いたふたりの、子を失った父親の悲しみを。親不孝を赦してやってほしいという、切なる願いを。人々の心を救い、見守っていくための役目をくれたおまえからの想いが、紗織の後悔が、未練となってこの魂を作ったのだ。
宗介、宗介、語ること叶わない口では伝えられない感謝は、おまえに伝わっていただろうか。生んでくれた役目はまだ、果たしきれていない。
夢のなかだから、自分を取り戻したいまだからわかる。魔理沙、殻に閉じこもっているおまえのことが。
白んでいく景色が眩しさに変わっていく。瞼を開けた目尻から涙がこぼれた。突き出し戸から差し込んでくる朝日の先に紗織がいた。一足早く起床していた霊夢は着替えを済ませていて、寝間着を畳んでいる最中だった。
「おはよう」
挨拶と着替えを済ませているうちに、朝食の準備は終わっていた。
一夜の宿と食の借りができたと話す霊夢に、紗織は楽しかったと明るく返している。けれど別れの時間が来た。見送ってくれた彼女と次に会うのは、地蔵に戻ってからだ。
「霊夢、永遠亭に行こう」
7
怪我の治療中にふたりのやり取りを聞いていた。様々な薬を作れると話していた永琳なら、それが可能だと思ったから。駆け足で進むなか話した案は、霊夢の記憶に引っかかった。
「それに近い薬があるって聞いたわ」
彼女から?
「あんたからよ」
正確には魔理沙から、だ。
竹林の入り口に着いて息を整える。はぐれるわけには、いかない。整地されていない土は雨を吸ってぬかるんでいた。早足で歩きながら、ねえとかけてくる。
「それで魔理沙は戻るの」
「わからない。でも、起きない原因はあの子が閉じているからだと思う」
「それって」
言い切る前の言葉は「着いたわ」に変わって、まだ少し遠い永遠亭を見据えた。低い竹垣に囲まれた向こう側には、兎たちに餌をやる鈴仙がいた。こちらに気づいた彼女は、特に驚いた様子もなく門を開けてくれた。
「どうしたの、催眠療法でもご所望?」
「さあ、似たようなもんじゃない」
疑問符を張りつけたまま案内してくれる彼女に、薬のことを確かめてみた。
「ああ、あるよ。でも夢なんかみて意味あるの」
いやあるのかとひとり納得して手を打ち、永琳のいる部屋に通された。振り返る彼女は、あらと筆を休めて向き直る。
「ずっと来ないから気にしていたところよ、どう、経過は」
「そのことなのですが」
神社で預かられてからのことをかいつまんだ話は、医者である彼女を驚かせるものではあったらしく、同時に納得もできるようだった。目的の薬も置きがあると言って、鈴仙に指示が出される。
腕を抱えながら、永琳は厳しい顔をしていた。
「あなたの話が正しいなら、彼女は無意識に昏睡状態を選んだってことになるけど」
意識的な壁よりも、潜在的に抱く拒絶のほうが深く分厚くなっている。そう話す彼女は、下手をすれば戻って来れない可能性もあると指摘した。
「最悪あなたは消滅するし、その子も」
「大丈夫、魔理沙は生きたがっているから」
じゃなきゃ、殻になんて閉じこもったりはしないから。
戻ってきた鈴仙から丸薬を受け取り、飲み込んだ。眠りには、彼女が催眠術をかけてくれることになった。手を握ってくれている霊夢の眼差しには、躊躇いや不安はみられない。
「早く起きろって、怒鳴りつけてやってちょうだい」
謝りたいこと、あるんだから。
「その役目はきみに任せるよ」
「それじゃあ、いくよ」
見開かれた赤い瞳が、徐々に意識を溶かしていく。歪む彼女たちの姿がただの色になり、視界が少しずつ狭まって、体から感覚が抜けていった。
眠りに落ちたはずの意識が切れないのは、薬が効いている証拠だろう、水中みたいな浮遊感を覚えるなかで、思考が作り出すこの体は緩やかに沈んでいた。暗闇が続いていた無意識の海に、やがて淡い光が見えてくる。青白く光る海底に着いた足は、借り物の少女の姿を保っている。
付喪神として憑いているからか、彼女の居場所は感じられた。歩きだすと、一面を照らしていた光源は泡となって、細い道が現れる。
音はない。
歩くたびにゆらゆらと舞う光の泡は、幼くも濃い思い出だ。
悔いているか、一時の感情に流されたことを。恥じているか、姓を名乗れないいまの自分を。
道の終わりに魔理沙は浮かんでいた。金色の髪を揺らしながら、抱えた膝に顔をうずめて。手を伸ばせば触れられる距離に来ても、おまえは、こちらを見てくれない。
「魔理沙」
なんで来たんだよ、帰れよ。
第一声がそれか。
人の心のなかにまで入ってきて、お節介すんなよ。
けれど魔理沙、おまえを待っている人がいる。霊夢も、手助けしてくれた永琳や鈴仙、それに、父親だってそうだ。
やめてよ、あの人の話なんて。
魔理沙。
勘当だって言わせたんだよ、あの頑固者に、許すはずなんてないし。
おまえも許さない。
そうよ、だから出てって。ひとりに、して。
本当は、戻りたいのだろう。
やめて。
孤独に耐えきれず、胸を抉られるときもあるだろう。
やめてよ。
おまえとして過ごした短い期間に色々とあった。付喪神だと自覚できず、魔理沙としての記憶を取り戻すために生家へも行った。
追い返されたんでしょ。
そうだ。
あの人は〝魔理沙〟なんて認めないし、いなくなったって悲しまない。自分が絶対なんだ。
それは違う。
違わない。
おまえに会った父親は確かに突っぱねた。でも彼は、いまにして思えば〝魔理沙〟を理解していた。
嘘よ。
あんな形で顔を合わせたくなかったはずだ。
嫌われてるんだもんな。
嫌いなら、忘れたいなら、生きてほしいだなんて思わない。探したりだって、しない。
どうせ世間体でしょ。
眠りながらに紗織を目にしたときの感情は、おまえのものでもあるだろう。
錯覚でしょ。
なら魔理沙、おまえはこのままでいいのか。人を傷つけたままで、悲しませたままで、意地の張り合いすら放り投げて。
おまえになにがわかるんだよ。
そうやって、強がりを口にする。
うるさい。
魔理沙で在ろうとする。
うるさいよ。
自分自身に苛立って、悔し泣きしてる。
もう、やめて。
このまま死んで、父親を泣かせたいのか。それが〝魔理沙〟としてやりたいことだったのか。
違うよ……
「宙ぶらりんのままで終われるわけがない。負けっぱなしでいいのか、魔理沙」
ようやく顔を上げてくれたおまえは、瞳に溜めていた粒をこぼした。差し出した手を取るおまえの温もりが伝わる。暗闇を押し広げるまばゆい光が満たされていく。
消えゆく体に感じる鼓動は生きる力強さだ。付喪神としての意識が剥がれはじめた視界で、魔理沙がなにかを叫んでいる。
さあ起きて、魔理沙。
淡い光の向こう側で、おまえを望む人たちが待っているから。
8
十二月に入ってすぐに降りはじめた雪がやむ気配はなくて、里の人たちは一様に、今年の冬は厳しそうだと口にしていた。
霊夢は降りすぎだなんてぼやいていたけど、雪見酒は嫌いじゃないからいいかなんて切り替えるあたり、平常運転に戻りつつある。目覚めたときは、涙浮かべながら抱きついてきたくせに、だ。
そのことをいじったらむっとされるけれど、家庭の事情に突っ込みすぎたことを言ったら、不機嫌を引っ込めるんだ。宴会の席でやってみたら面白そうだと思わないか、なあ。
石に戻っちまったおまえは語りかけてはくれないし、夢のなかで話したこともほとんどがおぼろげだ。
いっぱい怒られて、いっぱい謝られて、いっぱい聞いて、いっぱい謝った。妖怪相手にお礼言いに行ったりもしたんだぜ。マミゾウの野郎、葉っぱでいくらでも増やせるだろうに金を要求してくるんだ、ひどいだろ。香霖にも会った。お帰りって言われてさ、ちょっと泣きそうになった。おうだなんて返したけどさ、声が上擦ってて恥ずかしかった。
そうだ、紗織にも会ったよ。こっちは初めてだったからさ、合わせるの結構大変だったぜ。なのに霊夢の奴がさ、振ってくるんだよ、あれ取ってそれ取ってよって、前も鍋作るとき手伝ったでしょって。毎回雪下ろしする約束したって、本当なのかな、ちぇ。
たくさん迷惑かけたし、永遠亭にまで借金作っちゃったけどさ、いまはおまえに憑かれてよかったと思ってる。そりゃあ額に傷が残るのは嫌だけど、失敗は自分の責任だし、なにより、蟠っていたことが色々と吹っ切れたから。
あの人に会ったんだ。手製のマジックアイテム片手に、売り台越しに向き合って。作製の苦労や用途にその素晴らしさをいっぱい語ってさ、買い取ってくれって言ったら見事に追い返されたよ。まったく、わかってないよな、はは。
「道具をお求めの際はご贔屓に、だってさ」
拝むときは、手袋したままでもいいよな。
心で語りかけるこの思いがおまえに伝わっているかはわからない。夢のなかで言われた宙ぶらりんなんてごめんだから、これからも意地の張り合いは続けると思う。でもつらいこともある人生だからさ、上手くいかなくて、挫けそうになって、〝魔理沙〟でなくなってしまう日が訪れてしまうかもしれない。
だけどおまえを通して学んだ繋がりを、大切に生きていくよ。だから、紗織やたまに訪れる人たちのついででいい、このくだらない親子喧嘩の結末を見守っていてくれ。
そうだ魔理沙、おまえたち人の一生は短くて、儚い。冷たくのしかかるこの雪のようにつらく、厳しい試練が待っているだろう。あるいは倒れ、あるいは事故で、おまえたちはいなくなってしまうかもしれない。
けれど魔理沙、閉じてしまいそうになる目で周りを見れば、そこには誰かの手があるはずだ。苦しいときも嬉しいときも、人は支えあって歩み続ける生き物だから、しがらむ感情を捨てきれないことに恥じることはない、胸を張ればいい。
おまえや紗織が大人になり、そしていつか朽ちゆくその日まで、私は見守っていこう。
この儚くも素晴らしい楽園で。
ああ、夢を見ているのだ。
意識だけははっきりしているくせに、思い通りに動けない、たまに見るやつ。
蟻の巣に戻した目がまた逸れて、視界の先に映る人の顔は、逆光で暗くなっていた。顎に伝う汗だけが、黄色い光を吸って鮮明に輝いている。
ここは、庭だろう。嫌だというのに、駆け寄っていく体は嬉しそうで、作業をする傍らに立って見上げてしまうのだ。あの人の、ことを。影を宿した大きな手が頭に置かれても、やっぱり、なにも感じない。
膜を張ったみたいにごわごわとした手のひらは、撫でられている温もりも、優しさだって、夢のなかではくれやしなかった。
そうして肌をざわつかせる落下時の擽ったさと右半身に痛みが走ったのは、一瞬だった。間抜けなうめき声が通ったあとの喉は、すっかりと乾いていた。
「最悪だ」
寝相も目覚めも。
幼少の記憶なんて、一年以上はご無沙汰だ。目がしみるのはカーテンから差し込む朝日のせいか、部屋が埃っぽいからか、どちらにせよ、起床だ。
こんな不愉快さは熱々のお茶で溶かすに限る。ネグリジェのまま自室を出て、水屋箪笥を開けた。
「切れてた、か」
さて困った。あんな夢を見たあとに買い出しだなんてごめんだし、かといって緑茶のない朝食だって考えられない。水じゃこのむかむかは取れないのだ。
「香霖堂は」
どうだろう、規則正しい生活を基本としていても、たまに起きていないことがある。がらくた集めに夢中になって、夜更かし徹夜もやる奴だ、今頃になって船を漕いでいるかもしれないし、開口一番が「茶をくれ」じゃ、無愛想がしかめっ面に変わるのは目に見えている。
お茶を出してくれるもうひとつの避難所の茶葉は、また出涸らしだろうか。腹が、鳴った。
「朝食のサービス付きでも期待してみるかな」
自室の換気を済ませて、着替えは、廊下で済ませた。箒に跨り飛んでしまえば嫌な気分は幾分ましになる。心地よい風を切って進んでいけば、やがて緑の向こうに瓦葺きが見えてきた。煙なんて上がっていないのに、焼けたにおいが鼻に絡んできた。
「おいおい冗談だろ」
もたげた不安は的中だった。境内の裏に回って降りてみれば、いままさに縁側へと腰かけるところだった。茶を啜ろうとした手が止まり、持ち上がる顔と目が合った。
「あら、遅かったのね」
来るのがわかっているのなら、済ませずに待っていてくれてもいいものだろうに。それか焼き芋。ありつけるつもりでいた白米と沢庵は、脇に置いてある器の煎餅へと変わってしまった。
「ちぇ、秋になって時間の進みが早くなってたか」
縁側に膝を突いて、お茶を求めて上がらせてもらった。
「また、あんたは勝手に漁る。靴くらい脱いでいきなさいよ」
「どうせ淹れてくれないだろ」
それに土間だろうに。茶葉缶を取ったら「入れ替えないでね」と声が飛んできて、渋々急須を開けた。少なくとも昨日の夜から替えてなさそうな見た目だった。
湯呑みを借りて注いだ色合いはやはり薄くて、膝歩きで戻れば、頂くはずの煎餅が先に咀嚼されていた。
急いで腰かけた板敷きは少し冷たかった。胃袋が鳴いたから、二枚ほどかっさらう。
「ちょっと」
「飯まだなんだよ」
咀嚼中に聞こえた意地汚いは幻聴だろう。醤油の風味を緑茶ごと流し込めば、しこっていた寝覚めの悪さも薄れた。
もう一枚と手を伸ばしたら、きつい視線とへの字口。
煎餅は動かなかった。反対側を掴んだ左手が離してくれなかったから。
「早起きが三文の徳ならもう十分だろう」
「働かざる者食うべからず、でしょ」
意地汚い根比べはなかなか終わってくれなくて、先に音を上げたのは、小気味いい音で割れる煎餅だった。
不機嫌に結ばれた唇が、返しなさいよと低く言う。
「腹減ってるんだよなあ」
からんと器に煎餅が落とされて、空かせた左手の強襲から逃れる。立てかけてあった箒を取った。
「弁償」
「ひゃなこった」
飛び立ってすぐに追い抜いてきた弾幕が頬を掠めた。
「うひ」
咀嚼する暇もありゃしない。咥えていたからか、そのうちに分泌される唾液が口角から伝いはじめて、気持ち悪かった。
景色は紅葉から丘へ、湖を越えて、道を飲み込む木立と通り過ぎていくけれど、弾幕の激しさは変わらない。くっと反転して撃ち返す。若干の隙ができたところで、食べかけはポケットにしまった。
代わりと取り出したスペルを掲げ、宣言した。
眼前に走る光が六芒星を描いて輝きだす。数日前に出来たばかりの新スペルだ。まばゆい魔法陣から放たれる幾つもの光弾は、絶対不可避の必殺になる、はずだった。
紅い閃光が弾け、衝撃に飲まれた体は制御が効かなかった。霊夢が空で喚いている。減速を試みながら落ちゆく姿勢を変えた。
迫りくる地面と、灰色の塊が見えた次の瞬間に、世界が揺れた。
全身を強打した感覚があるのに、痛みは襲ってこない。打った頭だけが妙に生ぬるかった。
ああ、めがまわる、おとがきえていく、しかいがあかくなっていく……魔理沙というじぶんが、なくなっていく。
きおくがあたまのなかをはしって、あのひとのかおやむかしのことばかりうかんでくる。
しぬのかな、まだやりたいこと、いっぱいあったのに。
どろどろにとけて、とけて、かくはんされていくふうけい、ねむけみたいに、へんに、ここちいいや。
*
鉛を載せられたみたいな息苦しさがあった。徐々に強くなってくるそれは、眠たいというのに覚醒を急かして、感覚の薄かった四肢にまで気だるさを覚えさせてくる。
視界が狭かった。瞼が上手く開いてくれないから。眺めているのは天井だろう、打とうとした寝返りは身じろぎにしかならず、微かな軋みを生んだだけだった。
似たような音が部屋の片隅に鳴って、人の気配が近づいてくる。閉じてしまいそうな目を覗き込まれ、お目覚め、聞こえると尋ねてられて、人差し指を立ててきた。
「何本に見える」
「一本」
「これは」
三本。
正常ね、独りごちながら離れていき、誰かを呼んでいた。声の遠ざかり方から、頭だけ廊下にでも出しているのだろう、呼びつけられた鈴仙の返事と、その慌てた足音が二日酔いみたいに頭を痛くして、また静かになった。靴底の硬さが再度近寄り、ちらと映る姿は隠れるみたいに縮ませて、椅子が軋む。
話しかけてこないのは、つまり、眠ってもいいということだ。瞼を落とし、未だ重い肺腑を膨らませたときだった、どたどたとやかましい足音が部屋に迫ってきて、入り口をくぐったかと思えば、
「魔理沙!」
頭に響く大声。
霊夢、制止する声に従って大人しくなる足は傍らで止まり、僅かに息を切らせながら、心配そうな面持ちで見下ろしていた。
椅子に腰かけて近くなった顔は、よかったとひとまずの安堵を漏らし、怒り混じりに馬鹿と継いだ。
「完成してもない魔法使って、振り回されて落ちるなんてどじ踏んで、鈴仙が通りがかってくれなきゃ、死んでたかもしれないのよ」
なにも返せず、続く言葉もなかった。沈黙を破るもういいかしらのあとに、具合のほどを聞かれた。
「息苦しくて、だるい」
「打撲で済んだのだから運がいいほうよ、頭の裂傷は少しのあいだ残るだろうけど、ね」
傷、言われて腕を伸ばそうとした肩に痛みが走って、まだ無理よと止められた。
「歩けるようになるまで数日はかかるだろうから、それまで大人しくしてなさい」
治療代は払えるときでいいから。
いや、待ってほしい、支払いよりも気になっていることがある。立ち去ろうとするふたりを呼び止めた「あの」に続く言葉は、喉が乾いていて、なかなか出てくれなかった。
不思議そうな視線のひとつが、やがてどうしたのとかけてくる。
「あの、あなた方は誰でしょうか」
気だるさと痺れが残る四肢の肌には、ふたりから発せられる緊張が、確かに感じられた。
2
最初に尋ねられたのは名前だった。
先程に叫ばれた魔理沙が自分のことならば、それが名に当たるのだろう、しかし魔理沙以外の名があるかと問われれば否だ。わからないと横に振る頭が痛かった。
「私たちのことは、わかる?」
記憶にございません。思っている言葉がすっと出せるほど、部屋の空気は軽くなかった。名前のことをいっているのであれば、左脇に立つ彼女は霊夢、そう呼ばれていた。灰がかった銀髪の人に視線を戻し、すみませんと返した。
次に聞かれたのは経緯だったが、これも同じだ。いつ、どこで、なにをしていまに至るのかが、思い出せなかった。永琳と名乗った人が説明する傍らで、霊夢がこちらに目を向けることはなく、魔法や弾幕ごっこなどの話は理解できなかった。
試しにと念じてみた手のひらには、鈍い痺れしか感じない。怪我の影響かもしれないからと言った永琳だけど、治ったところで使えやしないだろう。簡単な計算や読み書きだけはできるくせに、出生などは完全に頭からすっぽ抜けていた。
記憶喪失、言葉の意味は知っていても、他人事のようにしか受け取れなかった。一時的なもの〝かもしれない〟と付け足した永琳に、霊夢は、薬でどうにかできないかと言う。
「脳を刺激すればあるいはってところだけど、お勧めはできないわね」
淡い期待があったのだろう、表情に影を落としたまま、押し黙ってしまった。腕を抱えながら思考するばかりだった永琳が、ふいとこちらを見て、家族はいるのよね。
そうだ、問診のあいだに霧雨という名字が出てきたし、治療費や退院してからのことだってあるのだから、家を頼ってもいいはずだ。そもそも魔理沙という自分がなぜひとり暮らしをしているのかすら疑問だ。
「動けるようになったら、里に行ってみたらどうかしら」
「駄目よそんなの」
およそらしくない取り乱しようだったのだろう、終始変わることのなかった永琳の顔は驚きに染まり、声を上げた本人ですら、そんなつもりではなかったといったふうに椅子へ腰かけた。
「とにかく、駄目よ」
顔を逸らしながら、静かに繰り返した。
医者らしさを取り戻した永琳が「あなた」と発した言葉を、霊夢は、違うわと被せる。
「むきになってたのは認めるけど、へまして落っこちたのは自業自得だもの」
「じゃあどうするの、ずっとこのままってわけには、まあ私たちは別に構わないけれど、いかないでしょう、多分」
ちらとふたり分の視線が突き刺さる。良心として構わないのか、利益があるから構わないのかはわからないけれど、ずっとお世話になるのは確かに考え物だ。
ひとり暮らしである家に戻してもらおうか、切り出しかけたときになって、小さな息がつかれた。
「私が、預かるわ」
一拍して、「そう」と、こともなげに認められていたから、決定のようだ。こちらの意思は、関係ないらしい。
「どうせ家に帰らせたところで、掃除もろくにできやしないだろうし」
魔理沙という人物はとことん駄目な人間だったようだ。向けられている呆れ気味な視線は、いまの体たらくに対してのものだろうか。それとも、昔の魔理沙に対してのものだろうか。
経過を見ましょうと話が切られて、霊夢だけが席を立った。神社の仕事が残ってることをぼやく背中に、ふと、なぜ駄目なのかを尋ねた。
返ってきたのは言葉ではなく、どこか訝しむような、渋い顔つきだった。
とにかくあんたは、私が預かるから。
上体すら起こせない視界から消えて、やがて足音も聞こえなくなった。さてとこちらを見やる永琳は、痛み止めでも作ろうかしらと四肢に触れてくる。丸二日寝込んでいた体は、そろそろ活動限界らしい。瞼が、重い。
眠りなさいと額に被せられた手は冷たくて、抗えない心地よさのなかに、意識は沈んでいった。
3
自然と開いていく距離に気づいた霊夢が振り返って、追いつく頃にまた歩きだす。山に入ってから、もう三度目だ。歩調はゆっくりとしたものだったが、緩やかな傾斜を登っていく脚はどこか焦れているように思えて仕方がなかった。
永遠亭を出てどれくらいが経つだろう。東側にいたはずの太陽は、いまや仰がなくてはならない位置にまで動いていた。
寒さは特になかった。息のあがった体には寧ろ心地よい。ただ、脚が重くてだるかった。休憩を挟む道中になまっているからだと言われたから、そうなのだろう。徒歩で帰るならと渡されていた竹筒はすでにからだ。
獣道はいよいよ傾斜が酷くなってきた。息の乱れた喉は焼けたみたいに熱くて、ぜえぜえとうるさかったのだろう、つばの向こうで見え隠れしていた足が止まり、少し休みましょうと言った。
指の差された先にはなんとか腰かけられそうな岩があった。木にもたれかかりながら、はいと竹筒を渡してくる。
「喉渇いてないから」
そのまま目を瞑り、あとに続く言葉はなかった。
腰かける岩はやはり座りにくくて、尻が痛かった。眺めてみた山道の先はどこまでも紅葉が広がっている。神社まで、あとどのくらい登ればいい。
モミジとイチョウが重なる落ち葉の道からは甘いにおいが漂って、見舞い品だと霊夢が買ってきてくれた団子の味を思い出した。
うなじを火照らせていた熱が引き、肌を撫でくる風に身震いが起きた。いつから起きていたのか、彼女は預けていた体を木から離して、待っている。
「行きましょう」
目的地の博麗神社に訪れる参拝客は少ない、そう笑っていた鈴仙の言葉にむっとしていたから、事実なのだろう。でこぼこの道は歩きにくいし、里からも結構な距離だと聞いた。祭りなどの催しがなければ賑わわないほどのところへ、魔理沙は、頻繁に顔をみせていた。
暇だから、金がないから、理由はわからないが、その日もたかりみたいに来ていたと話された記憶は、やはり思い出せなかった。
魔理沙、おまえはどんな人間だったんだ、なぜひとり暮らしをして、こんな魔女みたいな格好を好んでいたのだ。持ってこられた着替えは似たようなものばかりだったし、視界を塞いでくるつば広のとんがり帽子だって、真夏であっても被っていたらしいじゃないか。
なぜ、魔法使いに憧れていたのだ。胸にこぶしを置いて自問してみても、答えてくれる〝魔理沙〟は、いない。
鮮やかな色合いに混ざる緑を残した広葉樹の先に、やがて空の青さが見えてきた。やっとの思いで平地に着いて、見渡してみる場所は石灯籠すらない神社の裏手だった。
こっちよと歩いていく霊夢に疲れている様子はない。後ろ姿が角を曲がった先には縁側があった。腰かけて脱いだ靴を持って上がる彼女は、奥に引っ込ませた体をひょいと覗かせて、お茶でいいかと聞いてくる。
息がまだ整っていなかったから、頷いてみせた。再び障子の向こう側に消えていくと、少し遅れて座布団が放られた。座って待っていろ、ということだ。
秋風にさらされていた板敷きの冷たさを遮る紺色の座布団は、相当使い古されているのか、縫われた跡が幾つもあった。
立っているのも億劫だったから腰を下ろした。次に靴を雑に脱ぎ捨てた。棒みたいだった足の疲れも和らいで、ちょっとした解放感だ。
後ろからの物音が気になり体を捻ってみたけれど、見えるのは流し台や水屋箪笥の側面だけだった。ぶらぶらと足を遊ばせながら、ぼうっと景色を眺める。
昔の魔理沙もこんなふうに茶が出されるのを待って、他愛もない会話で一日を潰したりしたのだろうか。時間が経てば、知っている場所に行けば、思い入れのあるものを手にしたりすれば、記憶は戻るかもしれない、そう話していた永琳だけど、医者である彼女がくれた助言はどれも曖昧なもので、回復の見込みは限りなく低いのだと宣言されたに等しかった。
顔には出さない暗さが、重い空気となってふたりのあいだに流れていたのを、いまでも覚えている。
近づいてきたすり足が右隣で止まり、お茶と煎餅が載せられた盆をあいだに置いてくれた。正座する足下に目を向けているのに気づいた霊夢は、気にしないでいいからと湯呑みを持つ。あれだけ歩いたのに、硬くて冷たい板敷きに足を畳んでいても、つらくはないのだろうか。
「歩いて帰ったのなんて久しぶり、くたくただわ」
そう語る横顔は涼しげだった。食べないのと振られて、勧められるまま手をつけた。二枚目を取りながらちらと見ても、こちらを気にする素振りはなかった。
責任を、感じているのだと思う。
目が覚めてからの短い期間に知り得た性格上、きっと表には出さないだろうけれど、器のなかに手が伸びてこないのは、多分そうなのだ。
茶を啜る途中に「ねえ」と声をかけてくる彼女は、こちらが思っているような暗さなど宿さない、凛とした表情を向けていた。
「やっぱり、思い出せそうにない?」
かぶりを振った。
そうと外される視線が物憂げになって、胸がちくりと痛んだ。
「あの、霊夢さん」
「やめてよ、その喋り方」
気まずさばかりが、胃のなかに沈殿していくようだった。だって、慣れないのだ。魔理沙でいた頃の関係も、魔理沙という自分にも。
しょぼくれた態度に呆れられたのか、なによと返す声色は柔らかかった。
ずっと気にかかっていた。欠片も思い出せない過去を聞かされたなかで、触れられていない部分。なぜひとり暮らしをしていて、なぜ、生家に返すことを選ばなかったのか、その理由が。
重い沈黙は手のなかの湯呑みが冷めるまで続いた。ようやく開いてくれた口からは喧嘩だなんて低い一言。
父親と、らしい。
確執の原因までは知らないと話す横顔は、機嫌が悪くなっている。
「あんたはそれ以上教えてくれなかったし、ほじくる趣味だってないもの」
お茶と一緒に飲み下したのだろうか、不機嫌さは引っ込んで、続く言葉はなかった。
和解が難しいほどの喧嘩別れだったのか。記憶を失ったいまとなっては知るすべもなく、しばらくはここで世話になるしか、ない。
背伸びのあとに立ち上がった霊夢は、お昼にしましょと土間へ向かった。
ひとり残された縁側には、魔理沙のための居場所しかない。どう振る舞えばこのいたたまれなさは消えてくれる。
知りたくて、思い出したくて、なにも出てこない頭にやった左手で、傷跡をかきむしりたい気分になってくる。
魔理沙で在らねばならない自分が、気持ち悪くて仕方がなかった。
4
境内を散らかす落ち葉は、掃除を任された日はきりがないとすら覚えていたのに、数日経ったいまは慣れてしまった。神社を取り囲む木はぽつぽつと痩せこけはじめていて、季節がたけていく様をゆっくりと感じさせてくる。十一月も半ばを過ぎようとしているのに、まだ、〝魔理沙〟が戻る気配はない。
留守を預かる日はそう多くなかったが、働かざる者食うべからずだと言って、大体のことは覚えさせられた。炊事や洗濯は交代で、たきぎを集めるのはこちらの仕事だ。風が味噌汁のにおいを運んでくる。
麻袋に落ち葉をかき入れて、蔵にしまった。玄関を開くとはち合わせて、呼びに行こうと思ったのと彼女は身を翻し、その後ろに続いた。着いた座敷でひとり土間へと向かう姿は、掃除当番でない日なのに、珍しく正装だった。ちゃぶ台の横には鍋敷きが置かれて、ほどなく味噌汁が運ばれてきた。
相変わらず、座布団の上には腰を下ろさない。ご飯を装いはじめる横から、どうしたのと投げかけた。
「どうって、なにが」
「だって、こんな時間に着替え済ませてるから」
「お味噌が切れそうだから買いに行くの」
はいと渡される茶碗を受け取り、互いに手を合わせた。お菜はあけびのおひたし。箸を進めながら、ついていってもいいかと聞いた。
やぁよ、面倒くさい。
また歩かなければならないのだから、拒まれても当然だ。わかっている、だけど、このままの生活を続けるのは無理がある、そうだろう、霊夢。
金銭面は心配しなくていいと言われたけれど、いつまでも居候のままでは、いけないのだ。
あからさまに嫌な顔をしながら置かれる味噌汁のお椀は、少しだけ雑な音を立てた。
「子供の手を使ってくれるところなんて、あると思うの」
飛べもしないのに。
苛立たせた口調を鎮めるようにご飯が運ばれる唇は、不機嫌に持ち上がっている。一蹴された通り、この体は非力だ。漬け物石を持つことすら苦労するし、種火を作るための魔法だって使えやしない。帽子のなかに眠っている大切だったらしい八卦炉は、いまやただのお荷物として埃を溜めている。
魔理沙であって魔理沙でない自分がなんでも屋に戻ったところで、仕事なんて取れもしないだろう、それは承知だ。でも、きっかけにはなるかもしれなかった。
ひとりで生きていくには難しい年齢で、それでも生計を立てていたのならば、浅かろうとも縁はあるはずだ。魔理沙を知る人に会いたい。
魔理沙でいなけばならない強迫観念が酷くなったとしても、きっと戻るからなんて漠然とした日々を送るのは、もう嫌なのだ。
お願いだよ、霊夢。
「でも、だめよ、やっぱり」
働かせるなんて。
それにと継ぎ、伏せがちな目が逸れた。多分、父親とのこと。立ち上っていた湯気は次第に勢いをなくし、味噌汁の濁りが沈殿しはじめた頃になって、霊夢に、いまのままがいいのかと、喉元に引っかかっていた言葉を振り絞った。
向けられる顔は少し怒っていて、眉毛だってつり上がり気味なのに、泣き出してしまいそうに見えた。
「いいわけないでしょ」
付け足される馬鹿は沈んでいた。
這い上がるごめんの一言は口内で押し留め、飲み込んだ。
永琳が言っていたような、魔理沙と関わりのある場所に行きたい。いや、行くべきなのだ。
「だから霊夢、協力してほしい。名前だけの魔理沙でいるなんて嫌だ、私は私の記憶を取り戻したい」
責任感を抱えて歩くのはつらいことだし、無駄になるかもしれないけれど、じっとしているだけでは戻らない、そんな気がするから。
しばらく続いた沈黙のあとに、霊夢は止まっていた箸を動かした。
「食べたら出かけるから、さっさとしなさい」
促されて啜る味噌汁はぬるくなっていたのに、重苦しさの晴れた朝食は、いつもよりもおいしく感じられた。片付けはやっておくからと言われて、着替えなきゃと部屋に急いだ。
借り物の寝間着を脱ぎ捨てて、肌着を着て、長袖の上に丈の短いトップス、同色の黒いスカートを穿いて、薄茶色の前掛けはベルト式。帽子の先端を膨らませている八卦炉は、一応持って行こう。襖縁が叩かれて、開けてもいいかと霊夢の声。
どうぞ、入ってくる霊夢はへの字口を作っていて、呆れたようにため息をついた。
「座って」
左手に持っていた櫛を見せられて、背中を向けて従った。長い髪を不快に感じたことはなかったけど、手入れする気も同様になかった。
通される櫛は途中で引っかかることが多くて、口にした小さな痛いを、ずぼらなんだからと霊夢は言う。魔理沙の髪は癖っ毛だ。どれだけ梳いてもまっすぐにならないだろうし、左側の外はねも濡れて乾いたらやっぱりはねている。
誰に似たんだろう。母親かな。どんな、人なのかな。会ってみたい、会えるかな。思い馳せているうちに梳き終わって、立ち上がった。
「ちょっと待って」
着替えと一緒に持ってきていた荷物から短めの布を見つけてくると、左側の髪を三つ編みにくくってくれた。
ねえ、帽子、被ってみてよ。
求められるままにしたこちらを眺める彼女は、切なさ混じりの笑みを浮かべてくれた。
「毎日会ってるのに、なんだか、久々に見たみたい」
巫女としての顔を張りつけていても、やはり彼女は年相応な少女だ。魔理沙で在らねばならない居心地の悪さは、霊夢にとっては大切な居場所で、落っことしてしまった記憶のなかにいる人たちだって、きっとそう。
手を握って駆け出したら、驚かれたあとに怒られた。ふたりして靴の踵を潰しながら外に出て、獣道を下った。
5
山を下りてからの道は平坦で楽だった。思っていたよりも近かった里は、足が疲れる前には着けそうな距離まで迫っている。外壁に守られたあそこで、記憶の手がかりを探さなければならない、だけど聞き込みの案は後回しになった。
魔理沙を知る人が多くいたとしても、その多くを霊夢が知らないからだ。なんでも屋だなんて日雇い仕事の縁など、そりゃあわかるはずもない。思い出の場所も然りだ。だから、事故の起きたところに向かおうと提案した。
歩くのをやめて見つめてくる顔つきは苦しそうで、霊夢にとっては行きたくない場所なのだろう、反対しようとしたのか開きかけた口を一度閉じ、静かな「わかったわ」が絞り出された。それからはずっと、だんまり。
少しだけ前を行く彼女とのあいだには、気まずさが漂ってる。覚えていない里について聞きたいことや話したいことはあるはずなのに、ねえだとか、そういえばとか、なにひとつ言えないまま、門前に着いた。正午までの道のりをゆっくりと昇る太陽はまだ遠い位置にいて、朝の眠たさも消えている頃なのに、開け放たれた門から見える人の姿は疎らだ。
門をくぐってから振り返った霊夢は、勝手に歩き回らないようにと釘を刺してきた。話しかけ難かったしこりはいつの間にか取れている。歩きだした後ろについて、通り過ぎていく周囲に気を取られてしまう目は忙しかった。軒を連ねる格子窓の奥は、干し柿や玉葱などの食材が吊されていて、それぞれの生活感が垣間見えて飽きないし、なにより、神社や永遠亭で過ごした期間に会った人が少なかったから、駆け回る子供やお隣同士が顔を合わせて挨拶する様ですら、新鮮だった。
きょろきょろと落ち着かないことに気づかれて、大人しくするようにと言われてしまう。知ってる人がいたら、変に思うでしょと付け足されて。
それはそれで探す手間が省けるのではなかろうか、言いそうになって、やめた。
いつもより足早に感じるその脇へと並び、こっちのほうが自然かなと笑いかけてみたけれど、喋らなければねと息をつかれた。
「もうすぐ目抜き通りに出るけど、さっきみたいにはしゃがないでよね」
目抜き通り、発した疑問は指を差された先に見えていた。道の横幅は十字路に近づくほど広くなっていき、行き交う人々の活気が届いて、食べ物のにおいも流れてくる。
独り身か仕事終わりか長椅子にかけてうどんを食べている男たちや、離れているのに聞こえてくる野菜売りの声、寺子屋に向かうらしい子供の姿などが右へ左へと流れていく。いまが一番賑わしい時間帯なのだと言った。
「春菊と葱が取れたてだって、いいな、あそこの野菜はおいしいから」
買わないの。
「すぐに売り切れちゃうから」
味噌は帰りに買うからと来た道に一瞥をくれ、十字路の端を進む。空から落ちた現場に続く西門は道なりの先にある。南側や北側にはなにがあるのだろうか、好奇心から尋ねてみて、北側の終わりには田んぼと林があるらしかった。
「あっちはなにがあるの」
足を止めた横顔が、ついっと黒目を流してきて、前に戻された。
――あんたの家。
再び歩きだした後ろ姿に向けていた視線は、無意識に生家がある道の先へと移っていた。掲げられた霧雨店の屋号は里にいて知らぬ者はない、自分の出生を教えられたときに聞いたことだ。
伸び続くこの大通りのどこかに、自分の生家が、ある。立ち並んでいる軒に見覚えはやはりなくて、思い出せないもどかしさが、体までそちらへと向き直らせてくる。知りたい、自分は、魔理沙は、ここでどんな暮らしをしていたのか。なぜ喧嘩をして、なぜ、あなたはそれを止めなかったのだと。父親、なのに。
意識外からの強張った声が、動きだしてしまいそうだった足を止めた。なにやってるのよ、掴んでくる手はらしくない乱暴さで、痛かった。
そのまま腕を引く足取りは速かったけど、それも次第に落ち着いていった。すれ違う人の数が徐々に減っていくなかで、会話はない。巫女という存在がうろつくことに珍しさはないのかもしれないけど、赤い服と白い袖は目立つし、自分みたく洋装の人だっていなかった。仲のいい友達として映るだろうか。それとも悪いことをして、巫女に連行されているように思われるのだろうか。振り返る人はいない。
そのうちにたどり着いた西門をくぐったところで、右腕が解放された。真新しい轍がある道をいく後ろ姿は、結っている髪が不機嫌そうに揺れていて、相変わらずなにも言ってこないし、話しかけられない。晩稲の収穫に勤しんでいる農夫がこちらに気づいても、挨拶を飲み込んだ気まずそうな会釈しかできない様子だった。
あぜ道を抜け出した遙か先には鬱蒼とした森がある。人の均した道は分かれて、選んだ道は往来が少ないのか悪路だ。歩きにくい足下に目がいってしまうのは、前を見たくないからだった。
土からはみ出た石ころばかりが流れていって、すれ違う人の足があったのは一度きり。踏み締める音だけで視界に映らなかった赤い靴は、つと歩みを止めて向き直る。苦々しさを張りつけている横顔が見つめていたのは、雨を凌ぐ祠すらない一体の地蔵だった。
ふたつある供え物の餅は、さっきすれ違った人が置いていったのかまだ新しい。舟形の部分に伸ばされた手が、ぶつかった痕跡すら見当たらないそこを軽く撫でて、思い出したと投げかけてくる。
かぶりを振ってみせる頭が、重たく感じた。
「血、残ってないね」
凄かったのに、そう語る声は寂しそうだった。頭部から額に走る裂傷のおうとつは小さくない。凄惨とまではいかなくとも、酷く出血していたとは聞かされていたし想像だってできた。寝込んでいたあいだに降っていたらしい雨が、舟形や地面を染めていた血糊を濯いだのだろう。拾うべき欠片まで流されてしまったのか、記憶は、やはり、戻らない。
撫でることをやめて拝みはじめる霊夢は、なにを思うのだ。手を合わせる気にはなれなくて、飛び出してきそうな懊悩から、こぶしが胸に行っていた。
お地蔵様、お願いです、魔理沙の記憶を取り戻してください、お地蔵様……
一部始終を見届けていたであろう存在は所詮石造りの置物だ。目を瞑らせている地蔵は静かに佇んで、なにも教えてはくれなかった。
拝み終わり、しゃがませていた姿勢が立ち上がっても、彼女の足は動かない。本当に自分はこのままなのだろうか。ずっとずっと魔理沙の名札を張りつけたまま生きなければならないというのか。
そんなのは、嫌だ。
遠くに広がっている森には〝魔理沙〟の住んでいた家がある。最後に見た光景が頭に残っていなくても、自分を取り戻すための手がかりが、思い出が、あるかもしれない。
「行こう、霊夢」
まだ太陽は高いから、お味噌を買って帰る時間くらいはあるはずだ。手を引いたことに驚きもしない顔は、指が差すほうを眺めて、悲しみを引っ込めた。
引かれることを嫌ってか、追い抜いていく足は速く、力強かった。
*
流れていく景色に見覚えはない。枯れることのない常葉樹から成る鬱蒼さは、季節に染まることなく深い緑を保っている。
魔法の森と呼ばれているここに、人の出入りは多くない。理由はそこら中に生えている茸が出すらしい瘴気にあった。いわく、幻覚作用や不調をきたすのだと霊夢は言った。
普通はねと付け足していたから、咳ひとつしてみせない彼女は例外なのだろう。平気だから住んでいたのか、住むうちに慣れてしまったのか、この体に変化はなかった。
冬が迫っているのに森のなかは少し湿気ていて、地面はたまにぬかるんでいる。近くにあるらしい湖から流れてくる空気が、そうさせているのかもしれない。木漏れ日すら差し込まない小暗い景色は、進むにつれその薄気味悪さを増していった。
紫がかった葉をつけるいびつな木や、歩きだしそうなほどに波打たせた根を伸ばしている針葉樹、人が腰かけられるくらいに大きな茸。深呼吸したわけでもない肺に、重たさが残る気がした。
草藪を避けるように進んでいく足に迷いはない。段々と方向感覚をなくしているのがわかり、はぐれないようにと繋いでいる手が汗ばんでくる。
「ねえ、合ってるんだよね、道」
「合ってるわよ、多分」
勘で歩いていると知り、余計に怖くなった。
茂みが途切れて幅のない獣道に出ると、今度は道なりに進んだ。光がない空間はいつまで続く。もたげてくる不安は明るさが広がる空間を見つけて引っ込んだ。
木の隙間からちらちらと映る建物が魔理沙の家だ。やがて出る開けた一角では空が仰げて、太陽は真上に来ていた。
子供がひとりで住むには贅沢すぎる外観なのに、入り口脇に立てられている霧雨魔法店の屋号は、粗末な看板だった。引かれていた手が離れて扉の前に立った。
ゆっくりと把手が引かれていく。踏み出した足に妙な緊張を覚えてしまうのは、思い出せない可能性への恐れだろうか。
そこかしこに積み上げられた魔導書やどう使うのかもわからない道具は、〝魔理沙〟が残した足跡だ。そのどれもが、うっすらと埃を被っている。仄暗さのなかで伸びていた光源は、扉が軋む音と一緒になくなって、代わりにカーテンが開かれた。
埃っぽさを気にしている霊夢は掃除しておけばよかったとこぼし、階段の前で足を止めた。
「二階、どうする」
「行く」
上がってみた二階は天井が低くかった。外からも見えていた天体ドームのそばには、ステップ階段が置いてある。物の知識や使い方はある程度覚えているのに、天体観測に耽っていたであろう時間は欠けたまま。
魔理沙、魔理沙、おまえはどこにいるんだ。戻ってきた一階の暖炉のなかも、書棚に収まりきらないほど本がある書斎にも、おまえだったときの記憶は落ちていない。廊下を左に曲がった突き当たりの部屋が、魔理沙だった頃の自室だ。また着るつもりでいたのだろうベッドに脱ぎ捨てられたネグリジェは、しわと埃だらけで、もう洗わなければならない。
壁際の帽子かけも、古ぼけた衣装箪笥も、床に転がる魔法道具らしき物だって、きっときっと大切なはずなのに、懐かしさなんて湧いてはこなかった。
立ち尽くしていた横から帰ろうかとかけられて、部屋を出た。振り返る我が家には、もう帰ることはないのかもしれない。そう感じてしまうのは、なにも語りかけてこない霊夢の背中が、寂しげだったから。
森の暗がりへと戻る直前にまた手を繋いだ。恐怖心を煽っていた辺りの不気味さは、目深に被り直した帽子のつばに隠れている。伏し目にしていても先を歩く足はどうやったって視界に入って、手を差し出すために振り返ってきたときの顔が、脳裏に浮かんで離れない。
凛とした巫女の顔を張りつけた裏には、憮然とする少女の気配が押し込められていた。
これから里に戻り、味噌を買って、きつい山道を登ったら一服して、手伝いや家事をしながら今日が終わったら、霊夢は、また里に連れていってくれるだろうか。無駄に歩かせて疲れさせるだけかもしれないのに、連れていってなんて言えるのだろうか、自分は。
薄暗さを宿す土が木漏れ日に照らされて、気がつけば森を抜けていた。行きとは違うところに出た道の先では、草臥れた家がぽつりと立ってる。手は未だ繋いだままに、避けるように道の端を行きながら通り過ぎて、屋号が目に入った。
香霖堂、無意識に口走っていた独り言を拾われて、驚いたように振り返る霊夢が、魔理沙の家では聞いてこなかった〝思い出したの〟を口にする。
「ううん、店なんだって」
なにか、あるの。
魔理沙との繋がりが。
しばしの沈黙が流れてからかぶりを振ってみせて、絞り出したような、静かな、そう。離していた手を掴もうとした動きから逃れて、ひとり香霖堂に足を向けた。
腕を引っ張られるのと、待ってとかけられたのは同時だった。
「なんで勝手に行くの、なにも、ないのよ」
「うそ、声が張ってた」
「早く帰らなきゃ日が暮れちゃう」
ちょっと寄るだけ。
だめよ。
なんで。
「だって、あんたが傷ついちゃうじゃない」
記憶が戻らないから、あそこにいる誰かを悲しませるから、多分両方だ。でも霊夢、それは諦めなのだろう。預かると言ってくれた期間をただ引き延ばし、訪れるかわからないいつかに期待するだけの。
「お願い、会わせて」
目を伏せる彼女はつらそうな表情で固まったまま、黙り込んでしまう。込められていた力が袖から抜けたのは、それから数秒ほどしてから。
妻側につたを走らせたまま放置しているのは、客が来ないから平気なのか、元々がそういう性格なのだろう、辺鄙な場所で商いをやる店主はどんな人物で、どれくらい魔理沙を知っているのだろうか。そっと押し開けた扉の上空でドアベルが鳴った。
からからと迎え入れられた音がやんだ店内は少しごちゃついていた。壁に取り付けられている飾り棚にはよくわからない機械が並び、日当たりのいい窓際近くにはストーブと揺り椅子が置かれてある。寒い日には隅っこに置かれた丸いテーブルを持ってきて、売り台に置かれたマグカップ片手に読書でもするのだろう。暮らしぶりを想像していると足音が近づいてきて、間仕切りが払われた。
なんだきみたちかと息をつく彼は残念そうに席に着き、愛想のないいらっしゃいを継いだ。
「それで、今日はなんの用だい、冷やかしなら季節的に間に合ってるから遠慮しておくけど」
服の修繕はこの前したし、買い取りではなさそうか、じゃあ蘊蓄を聞きに来たのかな……ひとり話し続ける彼は、いつも通りなのだろう。端正な顔立ちも、語りかけてくる低い声も、欠落した記憶を埋めるには至らなくて、いつも通りの〝魔理沙〟は消えたままだ。
どうしよう、なんて切り出せばいいのだろうか。記憶喪失になりましただなんて。
佇むばかりでなにも言わないことを不振がられて、どうしたんだいと独り言が切られた直後に、脇にいた霊夢が霖之助さんと発した。
震え気味で、でも強張った声色は、彼の知るいつも通りではないのだろう、一瞬だけみせた驚きをしまい込んで、落ち着かせるようなどうしたんだいを繰り返した。
事情を打ち明ける彼女の言葉に彼は、頷きもせずに耳を傾けて、話しが終わるまでその視線を外さなかった。
ごめんなさいと絞り出される声は半分泣いていた。そうかと頭に被せられる手を受け入れている姿は、やはり少女だ。強がりをさせていたのだと痛感させられる胸が、苦しくて仕方がなかった。
霖之助の顔がこちらに向いて、確かめるように魔理沙と投げてくる。はいともうんとも返せずにうつむくことしかできなくて、もう一度呼ばれた名前に誘われて顔を持ち上げてみると、彼は据え置きの棚を指差していた。
「左端にあるふたの取れたオルゴール、あれはきみが落として壊したやつだ。いつか弁償してもらうためにわざと直さないで置いてるんだ」
忘れっぽいからねと付け足されてから、指は部屋の片隅にあるテーブルを差した。
覚え立ての魔法を暴発させて焦がした脚の部分は、まだ跡が残っているらしい。危うく火事になるところだったとぼやく口調は、どこか懐かしさに浸っているように思えてしまう。
あそこの傷も、あっちのひび割れも、全部きみがつけたものだ。なのにそれを忘れてしまったって言うのかい、魔理沙。
反応を待つ瞳に返せる答えは持っていない。だからこそ知りたいのだ、魔理沙という自分を取り戻すために、きっかけとなるかもしれない過去を。
「お願いです霖之助さん、私の、魔理沙のことを聞かせてください」
終始変わらないでいた表情が僅かに驚いて、記憶喪失の事実を受け止めていた。
「八卦炉は持っているかい」
帽子から取り出して渡したそれを手のなかで転がして、息を吹きかけてから売り台に置いた。ちょっと待っててねと奥に引っ込んだ彼は、やかんを片手に戻ってくる。
使えないんだよね、確認される問いに頷くと、彼は八卦炉に触れながら集中しはじめて、ぼうっと音を立てる火が炉の中心に起きた。
弱々しい火を薬缶の底で潰しながら、不思議なもんだと彼は言う。
「基本は魔力を変換する作りだけど、人が持ってる気でも動く作りだから、僕でもこうして使える」
記憶がないってだけで使えなくなるなんて、やっぱり変な話だよ。
言われてみればそうなのだが、使えないものは使えないのだ。
隅っこから引っ張りだしたテーブルに売り台の椅子を寄せて、商品の隙間に畳んでいた組立式の椅子を組むと、次にお茶の用意にかかって、最近仕入れたと楽しげに語るのは、キームン紅茶の味わい。
腰かけるよう促されて、霊夢は組立式の椅子に座った。相変わらずがらくたばかりとこぼされた口調は呆れているのに、漂わせる視線はもの悲しげだった。
我が家の散らかり具合を彷彿させる店内は、やっぱり懐かしさは感じない。吹き出し口が甲高い音で鳴いた。紅茶を注ぎ終わった彼は対面側の揺り椅子に座り、さてと息をついた。
「なにから話したものかな」
出生から話せば、魔理沙、きみはあの親父さんのひとり娘だ。同年代と比べて聡かったきみは幼いながらに看板の重さを自覚していたのか、外ではお行儀のいいお嬢さんを努めている人見知りだった。独立して日も浅かった僕はなにかと気にかけられててね、頻繁に訪ねられたり招かれたりしているうちに懐かれて、ふたりきりのときには親にだって見せない活発さで接せられたもんだ。
そしてあるときにきみは家を出た。はっきりとした理由は知らないけど、まあ大体は僕と同じなんだろう。自然とここに足を運ばせて、自立できるまで置いてくれないかと頼んできたときは、正直戸惑ったよ。きみが出かけてる折りに訪ねてきた親父さんたちも、僕が預かってると知るや待たずに帰ってしまうんだ、お金だけ渡してさ。
ま、頑なに頭を冷やせばいいと会うことすら拒んでいたのは親父さんだけだけど。
そのうちにきみは魔法なんて覚えはじめて、思っていたよりも早く自立してくれた。不安もあったけど安心のほうが大きかったかな。面倒を見ているとはいっても、必要以上の金銭が渡されるたびに嫌でも責任を感じていたから。おてんばになりはじめたのは僕のせいじゃない、自分は悪くないってさ。
誰が建てたのかも知らない家を自分の物にすると言い出したときは、さすがに呆れた。そこそこに深い場所だったから、森の瘴気も強いし大丈夫なのかって。平気だぜって鼻を擦りながら笑っている姿は、もう立派な魔法使いだった。でもおかしな話さ、里で〝なんでも屋〟なんて仕事をするきみは、一度だって霧雨の名を出さないんだ。本気で家を捨てる気なのかと心配したけど、はは、不格好に改装されたきみの根城へ久方ぶりに赴いて、少しでも気を揉んだ自分が馬鹿だったとその場で吹き出してしまったよ。
「口調や格好を変えて、どれだけ魔理沙を演じていても、きみは霧雨のお嬢さんなんだなって」
語りを切った彼は、キームン紅茶の甘さを口に含んだ。
「聞いたわけじゃないから、全部僕の勝手な解釈だけど、ね」
投げかけられる「どう」は、見つめ返すばかりの時間に息をつき、そうかとこぼした。差し込んでくる陽光は黄昏の飴色に変わりかけていた。
手をつけられずにいた紅茶の香りが熱と一緒に弱くなりだして、ごちそうさまと霊夢が立つ。
「歩いてきたんだろ、日暮れが早いんだから、今日は泊まっていきなよ」
「でも」
「ひとりでしょい込む必要なんかないさ」
沈黙を経て従った彼女に、霖之助は微笑を浮かべた。お茶を淹れ直しながら彼は再び語りはじめる。生家にいた頃のこと、家族のこと、家を出てからの日々。聞かされる過去は飲みかけのままだった紅茶の冷たさのようで、寒さばかりが胸にしみてくる。店内に薄暗さが落ちだしたのを合図に、ふたりは夕飯の準備に入った。
質素な食卓のなかに混ざる森の茸は、魔理沙も食べていたもの。
更けていく夜に通された寝室は、ふたりして寝るには手狭だ。敷いた布団のなかに体を滑り込ませる霊夢が、カンテラに手をかける。
「寝ないの」
促されるまま布団に入ると、明かりが消された。月光が届かない暗闇のなか窓の向こう側を仰ぎ、瞬く星たちを眺めた。寝返りを打った霊夢が、ねえと発した。
流星祈願会、覚えてる?
「ううん」
同じように寝返りを打つも、向き合う彼女の顔は、まだ暗さに慣れなくてよく見えない。去年もやったのよと話す声は静かなのに、どこか弾んでいるような気がした。
流行病で一緒に寝込んだりもしたのよ。
「そうなんだ」
あんたが原因だったんだけどね。
ごめん。
いまさら謝られるのって、変な感じだわ。
「ねえ、記憶が戻ったら、やっぱり怒るの」
「どうして」
「だって、家や昔のこと、流れでも聞いちゃったから」
ああ。でも、そんなこと、聞かれてもわからない。どれだけ自分の過去を知ったところで、抜け落ちた記憶は戻っていないのだから。
喉元に引っかかって仕方がない躊躇いを口にしたら、叱られてしまうかもしれない。里を巡っても徒労に終わるかもだなんて、後ろ向きな気持ち。暗さに慣れてきた視界で目が合った。
薄い唇を持ち上げるのがわかって、それは不機嫌の合図だった。
「情けない顔するのやめてよね、絶対、元に戻してやるんだから」
息をこぼし、もう寝ましょうと告げた声は穏やかだ。
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
横向きのまま目を閉じた霊夢から、窓の外に目を向けた。星空の一部を隠す枝葉の輪郭が、風に吹かれて揺れている。
もし記憶が戻らなければ、どう生きていけばいいのだろうか。考えても纏まらないちっぽけな不安は眠気に変わりだしていき、衣擦れと葉擦れの区別すらつかなくなって、意識が、闇に溶けていった。
*
蝋燭の灯が照らす部屋は薄暗くて、ぼやけていた。
動かせない体の前で作業をする人は顔に深い影がかかっていて、表情すら認められない。頭に伸びてきた大きな手は撫でるような仕草をみせたけど、感覚は、ない。
これは夢だろう。意識だけは鮮明なのに、体は思い通りに動かせない。固定された視線の先にいる人に見覚えはない、なのに、どれだけ魔理沙を巡っても感じなかった懐かしいという気持ちが、胸に広がっていく気がした。
あなたは、誰ですか。
喋れない、語りかけてもくれない無音だった空間は、霧みたいに白んでいく。
瞼を透過してくる眩しさが、朝を告げていた。
*
朝食の香りがする土間は、鍋が火にかけられっぱなしだった。流し台で顔を洗っていた後ろからおはようとかけてきた霊夢は、もうできるからと菜っ葉が載ったざるを鍋にあけた。
釜からは炊き立ての甘さがこぼれている。霖之助は店内で新聞を広げていた。こちらに気づくとやあと新聞を下げて、お茶いるかい。
テーブルの中央に置かれた八卦炉の火が、夢のことを思い出させてくる。取りに来てと、土間から霊夢の声。お味噌汁お願いと先に運びはじめる彼女のお盆には、ご飯とお菜の漬け物。八卦炉とやかんが脇の棚に避けられて、昨日と同じように席に着いた。
夢のことを切り出すと、先に箸を止めたのは霖之助だった。
「それって親父さんじゃないのかい?」
どんな人だったと聞いてくる彼は、そこそこに筋肉質な朴念仁だよと笑う。影に覆われた顔立ちはわからないけれど、肩幅や伸びてきた腕は、確かにごつごつとしていた気がする。夢を見たのは初めてなのと確かめてくる霊夢に、頷きを返した。
記憶が戻りはじめた兆しじゃないのかい。追いかけるように発せられる、そうなの。違うとかぶりを振った。ただ、懐かしさは初めて感じられた。伝えると、霖之助は口角を僅かに持ち上げて、きみは親父さんの背中ばかり追いかけてたからなとお菜を摘んだ。
夢で見たあの人が、本当に父親だとしたら。
「会うべきなのかな」
思わず出た言葉に、親父さんにかいと聞かれて、多分だなんて曖昧な返事をした。
「ここには私の思い出があって、それを知っている霖之助さんがいた。昨日のことがきっかけになったのなら、一番の手がかりは実家や父親が持っているんじゃないかって」
「じゃあ、なんで迷っているんだい」
すぐには答えられなくて、目を伏せた。父親に会い記憶を取り戻したら、また喧嘩別れしてしまうのではなかろうか。もし記憶が戻らなければ、父親を悲しませることになるのではないのか。
もたげてきた不安を打ち明けると、彼は、笑い声をあげた。
「はは、あの親父さんがそんな玉かい、記憶喪失だと知ったところで嘆きやしないさ。じゃなきゃ、きみの当てつけじみた意地の張り合いなんかに付き合うもんか」
会いに行きなよ。
柔らかい顔つきで大丈夫と続けた彼は、食事に戻った。左側から刺さる視線に振り向けば、明るさを引っ込めた霊夢と目が合って、気まずそうに目を伏せた。
支度を済ませて香霖堂から出る。しまい込んでいた重たい空気が、ふたりきりのあいだに淀んでいるような気がして、声をかけられなかった。
6
耳元でうるさく通り過ぎていく風は強くて、冷たくて、いつの間にか早足になっていて、里が近づくにつれて胸がざわついてくる。西門をくぐって歩いていく景色は昨日と変わらず静かだ。目抜き通りに出て大きくなる商いの活気を横目に、道を曲がった。
酒屋、呉服屋、飯屋、途切れることのなかった軒並みは小路を挟み、その先には土塀に囲まれた家。
屋敷と見まがう店が、魔理沙の生家だ。足を止めた霊夢がふいと振り返る。待っててと言い残しひとり飲み込まれていく姿を、ただ見つめることしかできなかった。
あの暖簾の奥に父親がいる。会いたい、踏み出してしまいそうになる衝動は、出てきた霊夢を見て収まった。複雑な表情で近づいてくる彼女は、
「会うって」
一拍ののちに手を掴まれ、小路へと引かれた。
漆喰の白さは道を曲がっても少しだけ続き、やがて裏口に着いた。簡素な門構えを通った庭先からは、縁側と蔵が視界に入った。
佇んだまま動かないので、ここで待つように言われているのだろう。しばらくして聞こえてきた足音の主は縁側を降り、草履の底をすらせながら迫りくる。桑年に差し掛かろうとしている外見は、霖之助から聞いた通りの厳つさがあった。
ちらと霊夢に向けた目をこちらへ戻し、確かめるように全身を眺めてくる。無愛想か無表情かもわからない顔が僅かにしかめられた。
「なんのようだ」
ああ、どうしよう、用意していた言葉が消えてしまう。
どこから切り出せばいいのかが、わからなくなってしまう。
夢で見た風貌通りの声なのに、胸を占めるのは萎縮ばかりだった。黙りこくる時間に苛立ちはじめたのがわかってから、訪れた理由を話した。
腕を組んだままの彼は、眉ひとつ動かさずに耳を傾けてくれていた。記憶喪失になったこと、すっぽ抜けてしまった自分の欠片を集めていること、過去の確執を知ることが、鍵になるのではないかということ。
今朝に見た夢があなたであるかもしれない、だから、魔理沙との思い出を教えてほしい。生家にあがらせてもらえないかと、頼んだ。
沈黙はそれほど長くはなかった。深い息を吐ききった次に出された言葉は、断るだなんて冷たいものだった。
「黙って聞いてれば好き勝手言いやがって、記憶がないのも俺との喧嘩も、おまえのはじめたことが原因だろうが。戻らないなんて感情的になって飛び出したくせに、いまさら子供面しやがって何様のつもりだ」
尻拭いすらできねえで、俺を、あいつを頼るのか。
変わらない声色で継がれる言葉は突き放すようなものばかりで、肉親としての距離を感じさせてはくれない。
マジックアイテムが、自立が、挙げ句そんななりに、淡々と語られる魔理沙の断片は〝独り言〟だ。やがて口を結んだ彼は霊夢に一瞥をくれて、踵を返そうとした。
待って。反射的に袖を掴んでしまった右手は、手の甲で払われた。
「記憶喪失なんて知ったことか。いまのおまえを見たらあいつがぶっ倒れちまう、さっさと帰れ」
再び身を翻そうとする背に霊夢が叫んだ。
「待って、ください」
か細い声で繰り返される呼びかけは彼の足を止めて、けれど朴念仁は張りつけられたままで、沈黙のまま彼女を見下ろし続けている。
感情の薄い眼差しが耐えられなくなったように顔を伏せて、消え入りそうなごめんなさいは、震えていた。
「ごめんなさい、私が、悪いんです、知った仲だからって、いつもみたいに悪のり、して」
それは、魔理沙もだ。だのに彼女は自分のふがいなさばかりを口にした。
娘さんをこんなことにしてしまってごめんなさい。頭を下げながら「だから」と繰り返す彼女の両肩に、宥めるように手が置かれた。
「あなたの気持ちはよくわかりました、でもこれは、家族の問題なのです」
もういいでしょうと礼をした父親が、縁側をあがって遠ざかり、やがて消えた。
立ち尽くす彼女にかける言葉が見つからなくて、ごめんと言われるまで、帰ろうと手を引くことができなかった。
棒手振が道を駆けていく、子供たちもはしゃいで駆けていく、風呂敷をしょいながら走る誰かは商人かなにかだろう。強がりが失せたふたり分の足はどこに向かわせればいい。
帰り道を外れて遠退く喧噪が、無力感を突きつけてくるようだった。
柳の影に入った足を止めると彼女は幹にもたれかかった。うなだれている顔つきは前髪で覆われていてわからない。繋いだまま離そうとしない左手にはどう応えてやればいいのだ、魔理沙。
動けないでいる姿を笑う声がいて、丸眼鏡をかけた女性はラブラブだなんてけったいなことを発していた。不思議がる彼女に覚えがあるのか、はっとする霊夢は体を前に出した。
なによ、化け狸。
険しさの宿った眼光を避けるように注視してくる彼女は、珍しいこともあるもんじゃなあと顎を撫でた。
「付喪神が人に憑くなんて」
「なんですって」
見合わせる霊夢の顔がみるみるうちに曇っていく。一体、なにが、どうなって。
「知ってて逃がさないよう手を繋いでたんじゃないのかえ」
頭をかいた彼女の表情が変わる。肌を突き刺さしてくるような寒気を、霊夢が放っていたから。
「そう、なら私の領分ね」
袖から取り出された札が投げられる間際、割ってきた体に霊夢が吼える。
「邪魔よ、どいて」
「まあ落ち着け霊夢、どうしてこうなったかは知らんが、強引に剥がそうとすれば魔理沙殿が危ない」
「じゃあ、どうすればいいのよ」
「さあの。原因を知らなきゃなんとも言えないが、おちおち話しもできんじゃろ」
人通りが少なくても先程の大声は注目を集めていた。野次馬が弾幕による決闘を期待しはじめたところで、霊夢が矛を収めた。
納得していない顔のままひとり身を翻したから、追いかけようとした、けれど、肩を掴まれて止められてしまった。彼女は、くいと小路に顎を動かしてみせる。揺れる市松模様の襟巻きについていくしかなかった。
会話もしないまま歩く路はすぐに途切れて、また違う路に入った。人気は徐々に薄れていきやがて閑静な場所に出ると、いまはもう使われていないだろう井戸の前に霊夢が腰かけていた。化け狸と呼ばれた女性が気配をたどったのか、ここが彼女たちの待ち合わせ場所に使われているのかはわからない、立ち上がってスカートの汚れを払い終わった顔つきは、未だ鋭さを保っている。
「さて聞かせてもらおうかねえ、なにが起こったのか」
微かに伏せる顔が渋くなった。だから、代わりに顛末を語った。無力さに憤るみたく右腕を掴んでいる顔色は終始厳しいままで、こちらに目を向けることはなかった。
経緯を飲み込んだ彼女は、口元にこぶしを作って思考している。
この人格が魔理沙でなく付喪神と言うのならば、
「私は」
どこへ還ればいいのだ。
呟かれたなるほどに食いつく霊夢が、殺気に似た冷たさを声に乗せ、説明を求めた。
「言わんでも察してるだろう、地蔵の付喪神じゃよ」
「そうじゃない、祓ったら魔理沙が危ないって話、なんなの」
どうして、剥がせないのよ。
「付喪神だって人格がある、だから同じ物にふたつの魂は同居しないし、人間に憑くなんてあり得ないことじゃろう」
ところが現実には起こっている。死人ならまだしも、生きた人間に、だ。
「ということはだ霊夢、魔理沙殿の人格はいま眠っていることになる。無理やり剥がしたところで意識は戻らん可能性のほうが高いし、最悪魂のほうが体から離れかねない」
「そんな」
くずおれてへたり込む体に、手を差し伸べることができなかった。本当にもうどうしようもないのか。呆然としていた視界を持ち上げられて、いつの間にか変化を解いていた彼女の瞳に、体が射竦められた。
「魔理沙殿が眠ったままなのはおまえに原因があるかもしれん。おまえはいつ付喪神になった、それがわかれば自分の意志で離れることも可能じゃなかろうか」
小さなことでもいい、思い出せ、おまえを大事にしていた人のことを。
思い当たる人物は、ひとりしかいない。けれどそれは魔理沙の父親だろう。霊夢が違うと言った。
「地蔵なんて持つ人いない。それ、造った人じゃないの」
まさか。
「職人の魂が作品に宿るとはよく聞くが、となれば、あの地蔵を造った奴を捜さねばならないぞい」
「あんた、妖怪寺に入り浸ってるんでしょ、なにか知らないの」
ああ、と手のひらが打たれる。
「里に置いてある古い毘沙門天像、あれをいたく気に入ったらしくて一輪が遣いに出されたのだが、造った当人はすでにいなかったと肩を落としていたな」
その方の家は。
「北側の端じゃったかな」
「霊夢」
「わかってる」
希望はまだ、取り上げられちゃいない。走りだした後ろから名前すら聞けなかった彼女が、声を投げてくる。
今日は荒れるから、里から出るなら早めにな。
駆け抜ける道幅は徐々に狭まって、連なっていた軒の数は減っていった。あぜ道をゆく途中で見つけた人たちに尋ね、石像職人として馳せていた羽賀宗介の名を知った。教えられた三軒先にある蓮根畑の向こう側の家が、いまは亡き彼の住まいだ。
ひとり娘がいると聞いた。突き出し戸からは煙が吐き出されて、まな板を叩く包丁の音が聞こえてくる。戸を叩いたのは霊夢だった。
「ごめんください」
柔らかい返事のあとに、すり足が近づいてくる。戸を開けた羽賀のひとり娘は、霊夢や魔理沙とそう変わらない年代だった。
父親について教えてほしい、こちらの要望に訝しむ様子も見せずに通してくれた彼女は、あらためて紗織と名乗ってくれた。父親を訪ねてくる人は久しぶりだと話す彼女は、残されたことの暗さすら感じさせない落ち着きようで、囲炉裏のそばに腰を下ろした。淹れられた緑茶を啜りながら見渡す生活感は慎ましいものだった。
「石像は、置いていないのね」
未完成のものが裏手に並んでいると答える紗織は、出来映えのいいものは祖父が供養したと続けた。
「お爺さまが?」
「ええ、流行病に倒れて、三年前に亡くなったのですが」
いまは畑仕事をしながら暮らしていると語った紗織に、里の外にある地蔵について尋ねた。
「あれは父の遺作です」
湯呑みを置いた彼女は、面白い話ではないのですがと遠慮がちに言って、宗介のことを話しはじめた。彼は所帯を持っておらず、紗織は養女として迎えられたらしい。
物心がつきだした頃に引き取られた彼女がふたりに馴染んだのは、二年ほど経ってからだ。彼は跡取りを考えてはいなかったらしく、紗織に自分の業を仕込むどころか、興味本位にノミを持つことすらよく思っていない様子だったという。
石像を彫る背中や横顔ばかりを眺める毎日だった、浮かべられる微笑には、僅かな寂しさが残っていた。
八つになった頃だ、拾ってきた子犬にコジロウと名付けて、これといった反対もされぬまま飼いはじめたが、数日してからコジロウに異変が起きた。嘔吐を繰り返す体は衰弱して、諦めなさいと言われた。
「でも諦めきれなくて、薬草を取りに行ったんです。犬に効くだなんて考えもせずに」
それは祖父が、自分たちが使うために取ってきていた薬草で、山に自生している珍しくもない薬草なんです。
けれど、長雨続きの山中は動物たちの食べ物が不作気味になっていて、雑食が多い彼らの足が届くところには、薬草はなかった。
その日も雨は降っていて、薄暗さに包まれる山道を進んでいた彼女は、傾斜の厳しいところで薬草を見つけたという。真下にある渓谷は河原を飲み込むほどに増水し、激しく流れていた。
恐怖はあったが、それ以上に飼い犬を助けたい思いが勝っていた、だから慎重に、ぬかるむ足場を進んだ。薬草の近くに掴まれる枝が突き出ていて、太さの足りた枝を頼りに、彼女は腕を伸ばした。
「もう少しだったんです」
しかし現実には足を踏み外して、枝にしがみつくしかない体を持ち上げることすらできなかった。
そこに、宗介と祖父が来た。
「はい」
戻らない紗織を先に見つけたのは宗介だという。彼は危険も顧みない行動を叱って、幼い体を引っ張りあげた。
語りを切る顔に影がかかり、伏せた目と小さな息が、結末を物語っていた。
「大人の体重を支えるだけの力が、雨を吸った土と根には、残っていなかったんです」
持ち上げられた体を祖父が抱えてくれた瞬間でした、土ごと抉れてしまった枝と一緒に、父の体は激流に飲まれました。
あの日ほど祖父が声をからしたことも、己を恥じたこともありません……
外は、振り返る過去と同じように雨が降っている。紗織は突き出し戸を閉め、お茶を入れ替えた。囲炉裏のなかでは弾ける炭が火花を踊らせながら、暖かい仄明かりをくれていた。霊夢が地蔵のことを聞く。なぜ沢や里でなく、あそこに。
「父がそれを望んでいたからだそうです。森は無縁塚と同じくらい、昔はそういった場所だったようですから」
あしげく通っているのは彼女だけだろう。火の当たらない額が、内側から焼かれてくる気がした。
「悲しみを出さなくなったあとも、祖父は拝むたびに願っていたと思います、父の安らぎを」
――この親不孝を赦してやってください。
「弱いところを見せたがらない人でしたから、口に出したのは一度だけでしたけどね」
土間に下り、戸口を開けた紗織は、やみそうにない空を眺めた。長屋を借りるしかなさそうねと傍らでごちられる。傘も。
いとまと持ち上がる腰を止めてきた紗織が、泊まるように言った。巾着の中身を確認する霊夢は、諦めたようにまた座った。夕飯は、鍋にするらしい。支度する後ろ姿は孤独を感じさせないのに、どうして、こんなにも胸を締め付けられるのだ。
この子はもう、甘えられる人が、いない。
旬の野菜はご近所さんから分けてもらったものだ。鍋を囲む場は静かで、やがて夜が下りてくる。明かり取りから聞こえる雨と風は大人しくならない。里の外は荒れてそうと息をつく霊夢は、いつもより饒舌だった。おいしいだとか、うちでもやってみようだとか、魔理沙がなんでも屋だから、雪下ろしのときはこき使ってやるといいとか。
食事の片づけが済み、敷かれた布団は先立ったふたりのものだ。炭の減らされた囲炉裏に足を向けて、床に就く。熾火の届かない暗闇が、夢で見た光景を思い起こさせてくる。
宗介、あなたはどんな気持ちで石像を、あの地蔵を彫ったのだ。付喪神になるほどの思いを込められて、自分はなぜ、魔理沙という少女に憑いてしまったのだ。
手入れされているはずの布団からにおう、覚えてもいない彼への懐かしさが、頭から離れなかった。
*
蝋燭の灯が照らす部屋は薄暗くて、けれど輪郭のはっきりとしたここは覚えている。
相変わらず動かせない体の前で作業をする人は、深い鼻唇溝を走らせていた。伸びてきた大きな手が頭に触れて、削りかすが払われた。薄くしていた瞼が満足げに綻び、煙管に火をつけた。
固定された視界の先では、寝返りを打つ子供がいる。少しだけ気にする素振りをみせて、不精髭の残る頬を撫でた。
没頭すると身だしなみも忘れるような男だった。だから父親として慕うようになってからも、紗織は、髭があるあいだに抱きついては来ない。
煙管を置き、再び触れてくる手はごわついた職人らしい皮膚だ。石の肌を通して伝わってくる思いが、忘れていた気持ちを蘇らせてくる。おまえが落命し、森への道中にこの体を置いたふたりの、子を失った父親の悲しみを。親不孝を赦してやってほしいという、切なる願いを。人々の心を救い、見守っていくための役目をくれたおまえからの想いが、紗織の後悔が、未練となってこの魂を作ったのだ。
宗介、宗介、語ること叶わない口では伝えられない感謝は、おまえに伝わっていただろうか。生んでくれた役目はまだ、果たしきれていない。
夢のなかだから、自分を取り戻したいまだからわかる。魔理沙、殻に閉じこもっているおまえのことが。
白んでいく景色が眩しさに変わっていく。瞼を開けた目尻から涙がこぼれた。突き出し戸から差し込んでくる朝日の先に紗織がいた。一足早く起床していた霊夢は着替えを済ませていて、寝間着を畳んでいる最中だった。
「おはよう」
挨拶と着替えを済ませているうちに、朝食の準備は終わっていた。
一夜の宿と食の借りができたと話す霊夢に、紗織は楽しかったと明るく返している。けれど別れの時間が来た。見送ってくれた彼女と次に会うのは、地蔵に戻ってからだ。
「霊夢、永遠亭に行こう」
7
怪我の治療中にふたりのやり取りを聞いていた。様々な薬を作れると話していた永琳なら、それが可能だと思ったから。駆け足で進むなか話した案は、霊夢の記憶に引っかかった。
「それに近い薬があるって聞いたわ」
彼女から?
「あんたからよ」
正確には魔理沙から、だ。
竹林の入り口に着いて息を整える。はぐれるわけには、いかない。整地されていない土は雨を吸ってぬかるんでいた。早足で歩きながら、ねえとかけてくる。
「それで魔理沙は戻るの」
「わからない。でも、起きない原因はあの子が閉じているからだと思う」
「それって」
言い切る前の言葉は「着いたわ」に変わって、まだ少し遠い永遠亭を見据えた。低い竹垣に囲まれた向こう側には、兎たちに餌をやる鈴仙がいた。こちらに気づいた彼女は、特に驚いた様子もなく門を開けてくれた。
「どうしたの、催眠療法でもご所望?」
「さあ、似たようなもんじゃない」
疑問符を張りつけたまま案内してくれる彼女に、薬のことを確かめてみた。
「ああ、あるよ。でも夢なんかみて意味あるの」
いやあるのかとひとり納得して手を打ち、永琳のいる部屋に通された。振り返る彼女は、あらと筆を休めて向き直る。
「ずっと来ないから気にしていたところよ、どう、経過は」
「そのことなのですが」
神社で預かられてからのことをかいつまんだ話は、医者である彼女を驚かせるものではあったらしく、同時に納得もできるようだった。目的の薬も置きがあると言って、鈴仙に指示が出される。
腕を抱えながら、永琳は厳しい顔をしていた。
「あなたの話が正しいなら、彼女は無意識に昏睡状態を選んだってことになるけど」
意識的な壁よりも、潜在的に抱く拒絶のほうが深く分厚くなっている。そう話す彼女は、下手をすれば戻って来れない可能性もあると指摘した。
「最悪あなたは消滅するし、その子も」
「大丈夫、魔理沙は生きたがっているから」
じゃなきゃ、殻になんて閉じこもったりはしないから。
戻ってきた鈴仙から丸薬を受け取り、飲み込んだ。眠りには、彼女が催眠術をかけてくれることになった。手を握ってくれている霊夢の眼差しには、躊躇いや不安はみられない。
「早く起きろって、怒鳴りつけてやってちょうだい」
謝りたいこと、あるんだから。
「その役目はきみに任せるよ」
「それじゃあ、いくよ」
見開かれた赤い瞳が、徐々に意識を溶かしていく。歪む彼女たちの姿がただの色になり、視界が少しずつ狭まって、体から感覚が抜けていった。
眠りに落ちたはずの意識が切れないのは、薬が効いている証拠だろう、水中みたいな浮遊感を覚えるなかで、思考が作り出すこの体は緩やかに沈んでいた。暗闇が続いていた無意識の海に、やがて淡い光が見えてくる。青白く光る海底に着いた足は、借り物の少女の姿を保っている。
付喪神として憑いているからか、彼女の居場所は感じられた。歩きだすと、一面を照らしていた光源は泡となって、細い道が現れる。
音はない。
歩くたびにゆらゆらと舞う光の泡は、幼くも濃い思い出だ。
悔いているか、一時の感情に流されたことを。恥じているか、姓を名乗れないいまの自分を。
道の終わりに魔理沙は浮かんでいた。金色の髪を揺らしながら、抱えた膝に顔をうずめて。手を伸ばせば触れられる距離に来ても、おまえは、こちらを見てくれない。
「魔理沙」
なんで来たんだよ、帰れよ。
第一声がそれか。
人の心のなかにまで入ってきて、お節介すんなよ。
けれど魔理沙、おまえを待っている人がいる。霊夢も、手助けしてくれた永琳や鈴仙、それに、父親だってそうだ。
やめてよ、あの人の話なんて。
魔理沙。
勘当だって言わせたんだよ、あの頑固者に、許すはずなんてないし。
おまえも許さない。
そうよ、だから出てって。ひとりに、して。
本当は、戻りたいのだろう。
やめて。
孤独に耐えきれず、胸を抉られるときもあるだろう。
やめてよ。
おまえとして過ごした短い期間に色々とあった。付喪神だと自覚できず、魔理沙としての記憶を取り戻すために生家へも行った。
追い返されたんでしょ。
そうだ。
あの人は〝魔理沙〟なんて認めないし、いなくなったって悲しまない。自分が絶対なんだ。
それは違う。
違わない。
おまえに会った父親は確かに突っぱねた。でも彼は、いまにして思えば〝魔理沙〟を理解していた。
嘘よ。
あんな形で顔を合わせたくなかったはずだ。
嫌われてるんだもんな。
嫌いなら、忘れたいなら、生きてほしいだなんて思わない。探したりだって、しない。
どうせ世間体でしょ。
眠りながらに紗織を目にしたときの感情は、おまえのものでもあるだろう。
錯覚でしょ。
なら魔理沙、おまえはこのままでいいのか。人を傷つけたままで、悲しませたままで、意地の張り合いすら放り投げて。
おまえになにがわかるんだよ。
そうやって、強がりを口にする。
うるさい。
魔理沙で在ろうとする。
うるさいよ。
自分自身に苛立って、悔し泣きしてる。
もう、やめて。
このまま死んで、父親を泣かせたいのか。それが〝魔理沙〟としてやりたいことだったのか。
違うよ……
「宙ぶらりんのままで終われるわけがない。負けっぱなしでいいのか、魔理沙」
ようやく顔を上げてくれたおまえは、瞳に溜めていた粒をこぼした。差し出した手を取るおまえの温もりが伝わる。暗闇を押し広げるまばゆい光が満たされていく。
消えゆく体に感じる鼓動は生きる力強さだ。付喪神としての意識が剥がれはじめた視界で、魔理沙がなにかを叫んでいる。
さあ起きて、魔理沙。
淡い光の向こう側で、おまえを望む人たちが待っているから。
8
十二月に入ってすぐに降りはじめた雪がやむ気配はなくて、里の人たちは一様に、今年の冬は厳しそうだと口にしていた。
霊夢は降りすぎだなんてぼやいていたけど、雪見酒は嫌いじゃないからいいかなんて切り替えるあたり、平常運転に戻りつつある。目覚めたときは、涙浮かべながら抱きついてきたくせに、だ。
そのことをいじったらむっとされるけれど、家庭の事情に突っ込みすぎたことを言ったら、不機嫌を引っ込めるんだ。宴会の席でやってみたら面白そうだと思わないか、なあ。
石に戻っちまったおまえは語りかけてはくれないし、夢のなかで話したこともほとんどがおぼろげだ。
いっぱい怒られて、いっぱい謝られて、いっぱい聞いて、いっぱい謝った。妖怪相手にお礼言いに行ったりもしたんだぜ。マミゾウの野郎、葉っぱでいくらでも増やせるだろうに金を要求してくるんだ、ひどいだろ。香霖にも会った。お帰りって言われてさ、ちょっと泣きそうになった。おうだなんて返したけどさ、声が上擦ってて恥ずかしかった。
そうだ、紗織にも会ったよ。こっちは初めてだったからさ、合わせるの結構大変だったぜ。なのに霊夢の奴がさ、振ってくるんだよ、あれ取ってそれ取ってよって、前も鍋作るとき手伝ったでしょって。毎回雪下ろしする約束したって、本当なのかな、ちぇ。
たくさん迷惑かけたし、永遠亭にまで借金作っちゃったけどさ、いまはおまえに憑かれてよかったと思ってる。そりゃあ額に傷が残るのは嫌だけど、失敗は自分の責任だし、なにより、蟠っていたことが色々と吹っ切れたから。
あの人に会ったんだ。手製のマジックアイテム片手に、売り台越しに向き合って。作製の苦労や用途にその素晴らしさをいっぱい語ってさ、買い取ってくれって言ったら見事に追い返されたよ。まったく、わかってないよな、はは。
「道具をお求めの際はご贔屓に、だってさ」
拝むときは、手袋したままでもいいよな。
心で語りかけるこの思いがおまえに伝わっているかはわからない。夢のなかで言われた宙ぶらりんなんてごめんだから、これからも意地の張り合いは続けると思う。でもつらいこともある人生だからさ、上手くいかなくて、挫けそうになって、〝魔理沙〟でなくなってしまう日が訪れてしまうかもしれない。
だけどおまえを通して学んだ繋がりを、大切に生きていくよ。だから、紗織やたまに訪れる人たちのついででいい、このくだらない親子喧嘩の結末を見守っていてくれ。
そうだ魔理沙、おまえたち人の一生は短くて、儚い。冷たくのしかかるこの雪のようにつらく、厳しい試練が待っているだろう。あるいは倒れ、あるいは事故で、おまえたちはいなくなってしまうかもしれない。
けれど魔理沙、閉じてしまいそうになる目で周りを見れば、そこには誰かの手があるはずだ。苦しいときも嬉しいときも、人は支えあって歩み続ける生き物だから、しがらむ感情を捨てきれないことに恥じることはない、胸を張ればいい。
おまえや紗織が大人になり、そしていつか朽ちゆくその日まで、私は見守っていこう。
この儚くも素晴らしい楽園で。
ただ幾つか、咀嚼が租借になってる箇所がありました
あと、できれぱタグを付けてほしいと思いました
次も楽しみにしています。
風のない雨の日のような穏やかさが感じられた
それぞれの場面の雰囲気もよく文章から伝わってきて心を打たれました。