見渡す限りの黒い空。見渡す限りの広い世界。静葉の目の前にはそんな空間が広がっていた。
これは一体どうしたものかと彼女は思考を巡らせる。そう、確か部屋で横になっていた。横になっていたらこの世界へ来ていたのだ。となると考えられるのはただ一つ。
「……なるほど。これは夢の世界なのね」
彼女は辺りを見回した。それにしても夢にしては異様に生々しい。
「……本当に夢なのかしら?」
不意に何かの気配を感じた彼女は後ろを振り返るが特に何もない。しかし明らかに何かの気配を感じる。
「隠れてないで出てきなさい。そこにいるのはわかってるわ」
静葉が呼びかけると目の前に大きな渦のようなものが姿を現す。彼女はこの気配の正体に気づいていた。それもそのはずでつい最近「彼女」とは逢っているのだ。
「貴女ね? ドレミー」
言葉に呼応するように渦が人型に姿を変える。
「ご名答です。流石ですね」
そう言って姿を現したドレミーは不敵に微笑む。
「これは一体どういうことなのかしら? ここはどこなの」
「これは私の世界ですよ」
「貴女の世界って言うことは……」
「ええ。夢の世界です。ここではあらゆる生き物の意識が繋がり合います」
「ふむ。そう言う話どこかで聞いたことあるわ。夢の世界は共通だって」
「そう。夢はすべての生きとし生けるものの意識が集まるところなのですよ。私はそれを司っています」
「……ところで、私に何の用かしら。貴女が私をここに連れてきたんでしょう?『肉体』ごと」
静葉の言葉を聞いたドレミーはぴくりと眉を動かす。
「ほう。よく気づきましたね……?」
「さっきから違和感を感じてたのよ。普通の夢ならもっと感覚がおぼろげなのに、感覚どころか意識もしっかりとしている。これは肉体ごと夢の世界に引きずり込まれたこと以外に他ならない。貴女を見て確信したわ」
そう言って手を握ったり開いたりしながら静葉は不敵な笑みを見せる。思わずドレミーは困惑したような顔で息をついた。
「やれやれ。驚かせるつもりだったんですが、お見通しというわけですか。怖いですねぇ」
「で、何の用なの?」
改めて静葉が問うとドレミーは気を取り直した様子で彼女に告げた。
「この間のお礼をしようと思いまして」
「この間?」
「ええ、あの玉兎の二人のことですよ」
「ああ、清蘭とだんご兎さんのことね? 私は何もしてないわよ。あの二人が自分たちで決めただけだもの」
「またまた謙遜をー」
「本当のことよ。まぁ、強いて言えばあの場にやってきたのは私のわがままのせいってのはあるかしらね」
「わがまま?」
「些細なことよ。ま、それも叶えられなかったけど」
「なるほどー。わかりました」
そう言ってにやにやと意味ありげな笑みを浮かべるドレミー。その表情から真意は読みとれず、得体の知れない雰囲気を漂わせている。力の強い妖怪特有の気配である。
「なにがわかったのかしら?」
静葉が尋ねると、彼女は即座に言い返す。
「あなたのわがままですよ」
「それはすごいわね」
静葉は素っ気なく言い返す。
「あ、信じてませんね?」
「どうでしょうね」
「まぁ、信じられなくても無理ありません。私はあなたの夢からあなたの願いを読みとるくらいしか能がありませんから」
「夢……ね。そういえば最近見た記憶無いけど?」
「それは単に記憶がないだけですよ。記憶になくとも夢は誰にでも平等に訪れるものです。現に私はあなたを見てますから。教えて上げましょうか? あなたの昨日夜の夢を」
「結構よ」
「それは残念です」
「それにしても他人の夢を盗み見てるなんて悪趣味なことね」
「あら、バクがあなたの夢を知っていて何かおかしいことありますか?」
静葉の言葉にもドレミーは意に介せずといった様子だ。
「一体貴女は何を企んでるの? 私をこんなところに連れてきてこんな取り留めのない会話をして」
「あらあら、企んでいるだなんて心外ですね。神様相手にそんな大それたことなんて出来るわけがありませんよ」
「そう。で、何を企んでいるのかしら?」
「……わかりました。教えますよぅ」
静葉のプレッシャーにドレミーは気圧されたように苦笑いを浮かべる。そして気を取り直したように人差し指をたてて静葉に言い放った。
「では、ズバリ言いましょう。あなたは月の世界に憧れてますね? そして月の都に行ってみたいと」
「そうよ。連れて行ってくれるの? ありがとう。嬉しいわ」
「あ、あの、ちょっと待って下さい」
「あら、行かせてくれないの? 悲しいわ」
「ええとですね。ほら、話には順序ってものがあるじゃないですか」
「そんな面倒なものいらないわよ。だってここは夢の世界なんでしょ? 夢の世界は自由のはずよ」
「確かに間違ってませんが、それを司っているのは私であることを忘れないで下さい?」
ドレミーはそう言っていつもの人を小馬鹿にしたような表情を浮かべる。
「ふむ……」
静葉は彼女を一瞥するとふと手を掲げる。すると手のひらから大量の紅葉が紙吹雪のように吹き出す。あっという間に辺りは紅葉の絨毯が出来上がった。更に周りの風景が一瞬にして秋の山となる。静葉は不敵な笑みを浮かべて呟いた。
「夢の世界って素敵ね。思った通りのことが出来るんだもの」
「人の話を聞いてましたかっ!?」
思わずドレミーが声を上げる。
「ええ。聞いてたわ。私は今、夢を夢として認識して夢の世界にいる。故に私はこの夢の世界を楽しむ権利がある……ということでしょ?」
「ぜんぜん聞いてないじゃないですか!」
再びドレミーのつっこみが辺りに響く。静葉は意に介せずといった表情で笑みを浮かべている。
「……やれやれ。せっかく楽しい夢の世界へ招待しようと思ってたのにとんだ食わせものですね。少し頭を冷やしてくると良いですよ」
首を横に振りながら彼女は手に携えている得体の知れない塊―――夢魂を静葉に向かって投げ飛ばす。すると静葉はその中に吸い取られるように姿を消してしまった。
・
・
・
・
次に彼女が目を醒ました先は、自分の家の中だった。なんだ夢だったのかと彼女は起きあがると部屋のふすまをあける。もう夕刻も近いのか薄暗い空からは地球が見えていた。
静葉は思わず腕を組んでもう一度空を見上げる。空に浮かんでいるのは紛れもなく地球である。月と違って青白い。
「ねーさん。やっと起きたの?」
そのとき穣子が部屋へやってくる。彼女は何も変わった様子はないようだ。
「あら穣子。ここはどこかしら?」
「どこって……月よ」
静葉の問いに穣子は首を傾げながら答える。
「……そうね。月だったわね。変なこと聞いて悪かったわ」
「ま、ねーさんが変なのはいつものことだけどねー?」
などと言いながら穣子は部屋から出ていってしまう。まったく失礼な妹である。そんなことを思いながら静葉は丁度手元にあったみたらし団子を口に入れる。この味はあの兎の甘味屋のものだ。最近のお気に入りなのである。気が付くといつの間にか辺りは朝になっていた。
「……なるほど。繋がったわ」
静葉は朝日が射す家の庭に出た。空に浮かんでいた地球はいつの間にか月に変わっていた。庭の端ではたくさんのきのこに囲まれてはしゃいでいる穣子の姿が見える。いっそきのこの神様に成り代わればいいのではないだろうか。そんな彼女の様子を後目に静葉は家の敷地から外に出ようとするが、見えない壁のようなもので行く手を阻まれてしまう。
それならばと静葉は今度は空へ飛び上がり家の屋根に着地する。ふと見下ろした庭からはいつの間にか穣子の姿は消えていた。
「さて、ドレミー。そこにいるのはわかってるわよ。出てきなさい」
静葉の声に呼応するかのようにドレミーが姿を現す。
「まったく。どうして私がここにいるのがわかったのです? 今度は完全に気配を消していたのですが」
困惑そうな表情すら浮かべるドレミーに向かって静葉はしれっと答える。
「適当に呼んだら勝手にあなたの方から出てきてくれたのよ」
静葉がニヤリと不敵な笑みを浮かべると、ドレミーはやれやれと言った様子で首を横に振った。
「なんてことでしょう……まんまとおびき出されてしまったというわけですか。私としたことがとんだ不覚ですね」
「さ、私をこの夢の世界から出してくれないかしら?」
静葉の言葉にドレミーは訝しげに目を細める。
「ほう、よくここが夢の世界と気づきましたね?」
「穣子が教えてくれたのよ。あの子にここがどこか尋ねたときに『月』と答えた。あの場面なら普通、ここは家の中と答えるものでしょ。なのに関わらずあの子は私に都合の良い答えを教えてくれた。そこでここが夢だと気づいたのよ。そうとわかればこっちのもの。あとは自分に都合の良い展開に持ち込めばいずれ貴女に会える。ま、そっちから出てきてくれたのは予想外だったけどね」
静葉の言葉を聞いたドレミーは両手を広げた。降参という意味なのだろうか。
「ふむ、見事な推理ですね。やれやれ……。もう少し楽しい夢の世界を満喫してもらおうと思ったのですが」
「結構よ。もう十分楽しんだわ。さあ。私をいい加減ここから出してくれないかしら? そうしないと、私にも考えがあるわ。何せここは私の夢の世界……」
と、そのとき静葉は辺りの景色が一変していることに気づく。空は満天の星に覆われ、周りには何もなくただ荒涼とした灰色の砂地が続いている。何より地平線の向こうには青白い大きな星が見えている。
「ふふ……。いつから錯覚していましたか? ここがあなたの夢の世界であると」
辺りを見回している静葉を尻目にドレミーは例の笑みを浮かべて話を続ける。
「言ったでしょう。私は夢の世界の支配者であると。夢に介入するなんて造作もないこと。あなたが自分の夢と思っていたものはすべて私の作り出した夢。私はあなたの夢を知り尽くしている。だからそう思い込ませるように夢を作り上げることも出来るのです」
「……ふむ。これはなかなか厄介な者に付きまとわれてしまったものね。実に困ったものだわ」
そう言いながらも静葉は不敵な笑みを浮かべ続けている。
「そんなこと言っておいてその表情……また何か企んでるんじゃないです?」
ドレミーも負けじと笑みを浮かべて静葉に言い放つ。
「言ったでしょう。考えがあるって。私、負け戦はしない主義だから」
静葉がそう言い返した瞬間彼女の姿が消えた、と思うと同時に辺りの風景が再び一変する。その様子を見つめながらドレミーは思わず一人呻いた。
「……まったく。夢を夢とわかっている者ほど厄介な者はいないわね。自分が招待したとは言えもう少しお灸を据えてやらなくちゃ……」
そうしているうちにようやく景色が定まってくる。その景色を見たドレミーは思わず目を疑った。それは自分しか知り得ないはずの場所、彼女の目の前に広がっている風景は―――月の都そのものだった。呆然としているドレミーの前に人影がぼんやりと姿を現す。彼女はその人影に思わず尋ねた。
「……なんでここを知っているのです。あなた、本当は月に行ったことがあるのですか?」
「いいえ。月から来たのよ? ……あんたを消すために」
姿を現した人影の正体を見てドレミーは再び目を疑った。彼女の目の前に姿を現したのは、静葉ではなく、赤い髪に黒い帽子をかぶった肩口のない黒いTシャツに緑・赤・紫の三色のスカート姿の女だった。ドレミーはその女の正体を知っていた。ヘカーティア・ラピスラズリ―――地獄の女神の二つ名を持つ神だ。
「……あなたがどうしてこんなところに!?」
「今言ったでしょ? あんたを消しに来たって」
そう言ってヘカーティアはドレミーを見据える。彼女がどれほど危険な存在かドレミーはよく知っていた。何しろ先日の月の異変の黒幕の一人だ。そして月の都をその異変による被害から防いだのは何を隠そう自分だ。その逆恨みで狙われてもおかしいことではないのだが、まさかこんな辺境の地にまでやってくるとは流石に想定外だった。とは言え、消されてしまってはたまったものではない。
「待って下さい女神様。あなたの怒りも十分承知です。しかし私だってあんな手は使いたくなかったんですよ? ですけど……」
「もちろんあんたの事情はわかってるわよー? でもそれを実行したのはあんたでしょ? なら、私に消される理由には十分過ぎるわよね」
そう言ってヘカーティアはにっこりと微笑む。その笑顔とは裏腹に彼女からは明らかに殺気が放たれている。どうやら話し合いは無理な様子だ。こうなったらもうやるしかない。ドレミーは携えている夢魂を展開し弾幕を構築しようとしたそのときだ。
「……なーんてね」
「へ?」
次の瞬間そこにいたはずの地獄の女神は姿を消していた。そして周りの景色も秋めく山に戻っていた 思わずひざをついて放心状態のドレミーの目の前にほくそ笑んだ表情の静葉が姿を現す。
「……驚いてもらえたかしら? 私の夢」
「……いったいどういうことですこれは」
「種明かしするわ。あの二人の兎さんが教えてくれたのよ。月の都がどんな所かって。私、知りたがりだからこういうの誰かに尋ねるときは事細かに聞く癖があるの。単なる風景だけじゃなくてその空気、色合い、匂い、感触、味とかね。あの子達も本当に詳しく教えてくれたわ。それを元に出来る限り月の都を再現したつもりだったけど、さっきの貴女の様子から見るにどうやら成功したようね」
「……つまり憧れがなせる業だったというわけですか。では、あの女神は? 彼女らはヘカーティアのことは知らなかったはずですよ。一体なぜ夢の中に?」
ドレミーの問いに静葉はにやっと笑みを浮かべて答えた。
「あら、神様が他の神様を知っていて何かおかしいことあるかしら?」
その言葉を聞いたドレミーは思わず苦笑してため息を吐いた。
「……まったく、からかうつもりが逆にからかわれてしまったわね」
「こう見えても私、一応神様だからね。侮ってもらっては困るわ」
「はいはい、降参ですよ」
「さ、今度こそここから出してもらうわよ」
「わかりました。それではまた逢いましょうね。秋の神様」
「二度とごめんだわ」
「そう言ってもどうせまた夢の世界で逢えますからまた今夜にでも……」
そう言ってドレミーが微笑みながら夢魂を掲げた瞬間、静葉の意識はブラックアウトした。
彼女が次に目あけるとそこは自分の家だった。辺りはすっかり暗くなっている。いかほどの時間が経ったのだろうか。はっとして彼女はふすまをあけて空を見上げる。空には見慣れた月がぽっかりと浮かんでいた。どうやら今度は間違いなく現実の世界のようだ。ようやく静葉は安堵したように息をつく。それにしてもなんとも不思議な体験をしてしまったものだ。こんな事を他の人に話ししても到底信じてもらえないだろう。それこそ夢でも見ていたんじゃないのかと言われるのがオチだ。もっとも実際に夢を見ていたことには違いないのだが―――ふと彼女は右手に何かの感触を覚えその手を開く。そこには灰色の砂のようなものが握られていた。
「……まったく、厄介な者に気に入られてしまったものね」
その砂を握りしめたまま彼女は、いつまでもぼんやりと輝く月を一人眺め続けていた。
これは一体どうしたものかと彼女は思考を巡らせる。そう、確か部屋で横になっていた。横になっていたらこの世界へ来ていたのだ。となると考えられるのはただ一つ。
「……なるほど。これは夢の世界なのね」
彼女は辺りを見回した。それにしても夢にしては異様に生々しい。
「……本当に夢なのかしら?」
不意に何かの気配を感じた彼女は後ろを振り返るが特に何もない。しかし明らかに何かの気配を感じる。
「隠れてないで出てきなさい。そこにいるのはわかってるわ」
静葉が呼びかけると目の前に大きな渦のようなものが姿を現す。彼女はこの気配の正体に気づいていた。それもそのはずでつい最近「彼女」とは逢っているのだ。
「貴女ね? ドレミー」
言葉に呼応するように渦が人型に姿を変える。
「ご名答です。流石ですね」
そう言って姿を現したドレミーは不敵に微笑む。
「これは一体どういうことなのかしら? ここはどこなの」
「これは私の世界ですよ」
「貴女の世界って言うことは……」
「ええ。夢の世界です。ここではあらゆる生き物の意識が繋がり合います」
「ふむ。そう言う話どこかで聞いたことあるわ。夢の世界は共通だって」
「そう。夢はすべての生きとし生けるものの意識が集まるところなのですよ。私はそれを司っています」
「……ところで、私に何の用かしら。貴女が私をここに連れてきたんでしょう?『肉体』ごと」
静葉の言葉を聞いたドレミーはぴくりと眉を動かす。
「ほう。よく気づきましたね……?」
「さっきから違和感を感じてたのよ。普通の夢ならもっと感覚がおぼろげなのに、感覚どころか意識もしっかりとしている。これは肉体ごと夢の世界に引きずり込まれたこと以外に他ならない。貴女を見て確信したわ」
そう言って手を握ったり開いたりしながら静葉は不敵な笑みを見せる。思わずドレミーは困惑したような顔で息をついた。
「やれやれ。驚かせるつもりだったんですが、お見通しというわけですか。怖いですねぇ」
「で、何の用なの?」
改めて静葉が問うとドレミーは気を取り直した様子で彼女に告げた。
「この間のお礼をしようと思いまして」
「この間?」
「ええ、あの玉兎の二人のことですよ」
「ああ、清蘭とだんご兎さんのことね? 私は何もしてないわよ。あの二人が自分たちで決めただけだもの」
「またまた謙遜をー」
「本当のことよ。まぁ、強いて言えばあの場にやってきたのは私のわがままのせいってのはあるかしらね」
「わがまま?」
「些細なことよ。ま、それも叶えられなかったけど」
「なるほどー。わかりました」
そう言ってにやにやと意味ありげな笑みを浮かべるドレミー。その表情から真意は読みとれず、得体の知れない雰囲気を漂わせている。力の強い妖怪特有の気配である。
「なにがわかったのかしら?」
静葉が尋ねると、彼女は即座に言い返す。
「あなたのわがままですよ」
「それはすごいわね」
静葉は素っ気なく言い返す。
「あ、信じてませんね?」
「どうでしょうね」
「まぁ、信じられなくても無理ありません。私はあなたの夢からあなたの願いを読みとるくらいしか能がありませんから」
「夢……ね。そういえば最近見た記憶無いけど?」
「それは単に記憶がないだけですよ。記憶になくとも夢は誰にでも平等に訪れるものです。現に私はあなたを見てますから。教えて上げましょうか? あなたの昨日夜の夢を」
「結構よ」
「それは残念です」
「それにしても他人の夢を盗み見てるなんて悪趣味なことね」
「あら、バクがあなたの夢を知っていて何かおかしいことありますか?」
静葉の言葉にもドレミーは意に介せずといった様子だ。
「一体貴女は何を企んでるの? 私をこんなところに連れてきてこんな取り留めのない会話をして」
「あらあら、企んでいるだなんて心外ですね。神様相手にそんな大それたことなんて出来るわけがありませんよ」
「そう。で、何を企んでいるのかしら?」
「……わかりました。教えますよぅ」
静葉のプレッシャーにドレミーは気圧されたように苦笑いを浮かべる。そして気を取り直したように人差し指をたてて静葉に言い放った。
「では、ズバリ言いましょう。あなたは月の世界に憧れてますね? そして月の都に行ってみたいと」
「そうよ。連れて行ってくれるの? ありがとう。嬉しいわ」
「あ、あの、ちょっと待って下さい」
「あら、行かせてくれないの? 悲しいわ」
「ええとですね。ほら、話には順序ってものがあるじゃないですか」
「そんな面倒なものいらないわよ。だってここは夢の世界なんでしょ? 夢の世界は自由のはずよ」
「確かに間違ってませんが、それを司っているのは私であることを忘れないで下さい?」
ドレミーはそう言っていつもの人を小馬鹿にしたような表情を浮かべる。
「ふむ……」
静葉は彼女を一瞥するとふと手を掲げる。すると手のひらから大量の紅葉が紙吹雪のように吹き出す。あっという間に辺りは紅葉の絨毯が出来上がった。更に周りの風景が一瞬にして秋の山となる。静葉は不敵な笑みを浮かべて呟いた。
「夢の世界って素敵ね。思った通りのことが出来るんだもの」
「人の話を聞いてましたかっ!?」
思わずドレミーが声を上げる。
「ええ。聞いてたわ。私は今、夢を夢として認識して夢の世界にいる。故に私はこの夢の世界を楽しむ権利がある……ということでしょ?」
「ぜんぜん聞いてないじゃないですか!」
再びドレミーのつっこみが辺りに響く。静葉は意に介せずといった表情で笑みを浮かべている。
「……やれやれ。せっかく楽しい夢の世界へ招待しようと思ってたのにとんだ食わせものですね。少し頭を冷やしてくると良いですよ」
首を横に振りながら彼女は手に携えている得体の知れない塊―――夢魂を静葉に向かって投げ飛ばす。すると静葉はその中に吸い取られるように姿を消してしまった。
・
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次に彼女が目を醒ました先は、自分の家の中だった。なんだ夢だったのかと彼女は起きあがると部屋のふすまをあける。もう夕刻も近いのか薄暗い空からは地球が見えていた。
静葉は思わず腕を組んでもう一度空を見上げる。空に浮かんでいるのは紛れもなく地球である。月と違って青白い。
「ねーさん。やっと起きたの?」
そのとき穣子が部屋へやってくる。彼女は何も変わった様子はないようだ。
「あら穣子。ここはどこかしら?」
「どこって……月よ」
静葉の問いに穣子は首を傾げながら答える。
「……そうね。月だったわね。変なこと聞いて悪かったわ」
「ま、ねーさんが変なのはいつものことだけどねー?」
などと言いながら穣子は部屋から出ていってしまう。まったく失礼な妹である。そんなことを思いながら静葉は丁度手元にあったみたらし団子を口に入れる。この味はあの兎の甘味屋のものだ。最近のお気に入りなのである。気が付くといつの間にか辺りは朝になっていた。
「……なるほど。繋がったわ」
静葉は朝日が射す家の庭に出た。空に浮かんでいた地球はいつの間にか月に変わっていた。庭の端ではたくさんのきのこに囲まれてはしゃいでいる穣子の姿が見える。いっそきのこの神様に成り代わればいいのではないだろうか。そんな彼女の様子を後目に静葉は家の敷地から外に出ようとするが、見えない壁のようなもので行く手を阻まれてしまう。
それならばと静葉は今度は空へ飛び上がり家の屋根に着地する。ふと見下ろした庭からはいつの間にか穣子の姿は消えていた。
「さて、ドレミー。そこにいるのはわかってるわよ。出てきなさい」
静葉の声に呼応するかのようにドレミーが姿を現す。
「まったく。どうして私がここにいるのがわかったのです? 今度は完全に気配を消していたのですが」
困惑そうな表情すら浮かべるドレミーに向かって静葉はしれっと答える。
「適当に呼んだら勝手にあなたの方から出てきてくれたのよ」
静葉がニヤリと不敵な笑みを浮かべると、ドレミーはやれやれと言った様子で首を横に振った。
「なんてことでしょう……まんまとおびき出されてしまったというわけですか。私としたことがとんだ不覚ですね」
「さ、私をこの夢の世界から出してくれないかしら?」
静葉の言葉にドレミーは訝しげに目を細める。
「ほう、よくここが夢の世界と気づきましたね?」
「穣子が教えてくれたのよ。あの子にここがどこか尋ねたときに『月』と答えた。あの場面なら普通、ここは家の中と答えるものでしょ。なのに関わらずあの子は私に都合の良い答えを教えてくれた。そこでここが夢だと気づいたのよ。そうとわかればこっちのもの。あとは自分に都合の良い展開に持ち込めばいずれ貴女に会える。ま、そっちから出てきてくれたのは予想外だったけどね」
静葉の言葉を聞いたドレミーは両手を広げた。降参という意味なのだろうか。
「ふむ、見事な推理ですね。やれやれ……。もう少し楽しい夢の世界を満喫してもらおうと思ったのですが」
「結構よ。もう十分楽しんだわ。さあ。私をいい加減ここから出してくれないかしら? そうしないと、私にも考えがあるわ。何せここは私の夢の世界……」
と、そのとき静葉は辺りの景色が一変していることに気づく。空は満天の星に覆われ、周りには何もなくただ荒涼とした灰色の砂地が続いている。何より地平線の向こうには青白い大きな星が見えている。
「ふふ……。いつから錯覚していましたか? ここがあなたの夢の世界であると」
辺りを見回している静葉を尻目にドレミーは例の笑みを浮かべて話を続ける。
「言ったでしょう。私は夢の世界の支配者であると。夢に介入するなんて造作もないこと。あなたが自分の夢と思っていたものはすべて私の作り出した夢。私はあなたの夢を知り尽くしている。だからそう思い込ませるように夢を作り上げることも出来るのです」
「……ふむ。これはなかなか厄介な者に付きまとわれてしまったものね。実に困ったものだわ」
そう言いながらも静葉は不敵な笑みを浮かべ続けている。
「そんなこと言っておいてその表情……また何か企んでるんじゃないです?」
ドレミーも負けじと笑みを浮かべて静葉に言い放つ。
「言ったでしょう。考えがあるって。私、負け戦はしない主義だから」
静葉がそう言い返した瞬間彼女の姿が消えた、と思うと同時に辺りの風景が再び一変する。その様子を見つめながらドレミーは思わず一人呻いた。
「……まったく。夢を夢とわかっている者ほど厄介な者はいないわね。自分が招待したとは言えもう少しお灸を据えてやらなくちゃ……」
そうしているうちにようやく景色が定まってくる。その景色を見たドレミーは思わず目を疑った。それは自分しか知り得ないはずの場所、彼女の目の前に広がっている風景は―――月の都そのものだった。呆然としているドレミーの前に人影がぼんやりと姿を現す。彼女はその人影に思わず尋ねた。
「……なんでここを知っているのです。あなた、本当は月に行ったことがあるのですか?」
「いいえ。月から来たのよ? ……あんたを消すために」
姿を現した人影の正体を見てドレミーは再び目を疑った。彼女の目の前に姿を現したのは、静葉ではなく、赤い髪に黒い帽子をかぶった肩口のない黒いTシャツに緑・赤・紫の三色のスカート姿の女だった。ドレミーはその女の正体を知っていた。ヘカーティア・ラピスラズリ―――地獄の女神の二つ名を持つ神だ。
「……あなたがどうしてこんなところに!?」
「今言ったでしょ? あんたを消しに来たって」
そう言ってヘカーティアはドレミーを見据える。彼女がどれほど危険な存在かドレミーはよく知っていた。何しろ先日の月の異変の黒幕の一人だ。そして月の都をその異変による被害から防いだのは何を隠そう自分だ。その逆恨みで狙われてもおかしいことではないのだが、まさかこんな辺境の地にまでやってくるとは流石に想定外だった。とは言え、消されてしまってはたまったものではない。
「待って下さい女神様。あなたの怒りも十分承知です。しかし私だってあんな手は使いたくなかったんですよ? ですけど……」
「もちろんあんたの事情はわかってるわよー? でもそれを実行したのはあんたでしょ? なら、私に消される理由には十分過ぎるわよね」
そう言ってヘカーティアはにっこりと微笑む。その笑顔とは裏腹に彼女からは明らかに殺気が放たれている。どうやら話し合いは無理な様子だ。こうなったらもうやるしかない。ドレミーは携えている夢魂を展開し弾幕を構築しようとしたそのときだ。
「……なーんてね」
「へ?」
次の瞬間そこにいたはずの地獄の女神は姿を消していた。そして周りの景色も秋めく山に戻っていた 思わずひざをついて放心状態のドレミーの目の前にほくそ笑んだ表情の静葉が姿を現す。
「……驚いてもらえたかしら? 私の夢」
「……いったいどういうことですこれは」
「種明かしするわ。あの二人の兎さんが教えてくれたのよ。月の都がどんな所かって。私、知りたがりだからこういうの誰かに尋ねるときは事細かに聞く癖があるの。単なる風景だけじゃなくてその空気、色合い、匂い、感触、味とかね。あの子達も本当に詳しく教えてくれたわ。それを元に出来る限り月の都を再現したつもりだったけど、さっきの貴女の様子から見るにどうやら成功したようね」
「……つまり憧れがなせる業だったというわけですか。では、あの女神は? 彼女らはヘカーティアのことは知らなかったはずですよ。一体なぜ夢の中に?」
ドレミーの問いに静葉はにやっと笑みを浮かべて答えた。
「あら、神様が他の神様を知っていて何かおかしいことあるかしら?」
その言葉を聞いたドレミーは思わず苦笑してため息を吐いた。
「……まったく、からかうつもりが逆にからかわれてしまったわね」
「こう見えても私、一応神様だからね。侮ってもらっては困るわ」
「はいはい、降参ですよ」
「さ、今度こそここから出してもらうわよ」
「わかりました。それではまた逢いましょうね。秋の神様」
「二度とごめんだわ」
「そう言ってもどうせまた夢の世界で逢えますからまた今夜にでも……」
そう言ってドレミーが微笑みながら夢魂を掲げた瞬間、静葉の意識はブラックアウトした。
彼女が次に目あけるとそこは自分の家だった。辺りはすっかり暗くなっている。いかほどの時間が経ったのだろうか。はっとして彼女はふすまをあけて空を見上げる。空には見慣れた月がぽっかりと浮かんでいた。どうやら今度は間違いなく現実の世界のようだ。ようやく静葉は安堵したように息をつく。それにしてもなんとも不思議な体験をしてしまったものだ。こんな事を他の人に話ししても到底信じてもらえないだろう。それこそ夢でも見ていたんじゃないのかと言われるのがオチだ。もっとも実際に夢を見ていたことには違いないのだが―――ふと彼女は右手に何かの感触を覚えその手を開く。そこには灰色の砂のようなものが握られていた。
「……まったく、厄介な者に気に入られてしまったものね」
その砂を握りしめたまま彼女は、いつまでもぼんやりと輝く月を一人眺め続けていた。