ドクター・レイテンシーが黒谷でマンホールに落ちたのは、一月の中頃だったという。呑気な彼女はその日付を正確に思い出すことが出来ない。
レイテンシーはその日、大学での予定を午前のうちに終えると、東大路を平安神宮の方へ歩いた。神宮に何の用事があるわけではなかったが、ただ普段その方へは足を伸ばさないからと、暇つぶしの街歩きを唐突に思い立ったのだった。唐突に思い立ってどこかへ出かけるのは彼女の癖である。
目指すところのないレイテンシーは、気の向くまま無暗に歩いた。寒々しい疏水を右手に見ながらくだり、くだると稲妻に折れて市美術館の別館を過ぎた。応天門から南を振り返ると、向こうに立つ大鳥居が、逆光の中で黒く見える。間もなく岡崎通りに行き当たった。レイテンシーはここで再び北へのぼり始めた。神宮の正面は、観光地らしく人も車もよく通ったが、通りを一本跨いだところには、静かな家々が屋根を連ねて落ち着いている。
レイテンシーはぶらぶらと歩きながら、塀の下や脇道の奥を順々に覗き込んだ。そうした街並みの隙間には、ペットボトル容器を切って土を盛っただけの安上がりなアサガオ鉢があった。八つ目垣の破れを塞ぐためらしい、麦藁のすだれがぶら下がっているのも見えた。生活の気配に充ち上がったいくつかの小景を眺めながら、ふと一本の道に関心を惹かれて、家々の間へと踏み込んだ。もう黒谷町へ入っていた。
「そう、たしか、自販機よ。道の途中に古い自動販売機が立っていたのよ。それが、もしまだ稼働していたら面白いと思って私、触りに行ったんだわ」
レイテンシーは面白いと思うものは何でも触りに行く。それは赤い塗装の剥げかけた、飲料の販売機だった。レイテンシーから見えた側面には、車にでもぶつかられたような深い凹みが目立っていた。放り捨てられた菓子箱に似ていた。
歩き回って喉が渇いていたレイテンシーは、水を買う気でこの菓子箱の方へ歩み寄ろうとした。その足元で大きなマンホールの蓋が外れていることには、彼女はまるで気が付いていなかった。
レイテンシーはマンホールの上に右足を踏み出そうとして、ほとんど飛び降りるかのような素直さでまっすぐに落ちた。その手応えがあまり軽すぎたもので、彼女ははじめ自分に事故が起きたということさえすぐには理解出来なかった。
体重を宙に置き去りにしていく引力の感触は、腰のあたりに冷たい痒みのようなものとして感じられた。視界が暗闇に覆われ、頬に空気の抵抗を感じ取って、レイテンシーはようやく自分が穴に落ちたのだと知った。
遅れながら事態を理解した彼女がまず思ったのは、「これではもう何も間に合わない」ということであった。
穴の縁に手で掴まることは既に出来ない。他にこの落下を食い止める方法を考え出そうとしたところで、自分は次の瞬間にも固い穴の底に叩きつけられるはずだと想像すれば、それも難しそうなことだった。
咄嗟に下を見たが、そちらは暗いばかりで深さも何も分からなかった。
仕方が無いからと思って、今度は上を見ることにする。レイテンシーが踏み外した穴口は、彼女がおろおろしているうちにかなり高いところまで去ってしまっていた。一面暗闇あるばかりの視界に、穴口は青空の色をして丸く光っていた。満月に似ていると思った。
小石のような大人しさで、レイテンシーはするすると落ちていった。落ちる穴の中は静かだった。何か掴まる物が無いかと両腕を広げてみたが、虚しかった。梯子はもとより、マンホールなら円筒形をとるはずの壁さえも一向手に触れない。状況ここに及んでは、人間が引力に抵抗する手立てはもう無かった。
――無論、呑気なレイテンシーとはいえ、マンホールに転落してからこの時点で、衝突までにかかる時間があまり長すぎているくらいのことにはもう気が付いていた。
彼女は落ちていく穴の下を見、上を見て、手で壁を探りさえした。これが一般的な下水道出入り口としてのマンホールであれば、彼女は下を見てから上へ目を転じる猶予もなく、底へついているだろう。
レイテンシーは落ちながら身をひねり、背の方を下にして、手足を風に吹き流した。そのまま遥か高く去って行く青い穴口を見ていると、それは間もなく北極星くらいの小ささに遠ざかった。マンホールに落ちたというには、明らかに奇妙なことであった。
「そのときは、色々なことを考えたような気がする。死ぬ瞬間ってこんなふうに考える時間がたっぷりあるものなのか、とか、変に納得しちゃったり。あるいは、このまま落ち続けて地球の核まで飛び込んだら熱いかな、とか、冗談みたいな想像をする余裕があった。それくらい深い穴だったのよ。本当に……」
奇妙な現象はまた起こった。落下するレイテンシーの左肩に、突如何かが強く当たった。「大きくて、重くて、でも固くはなく」というのが、彼女の受けた感触であった。衝突の反動で大切な帽子が飛んでしまわないよう手で押さえながら、レイテンシーの体は暗闇の中を一回転、あるいは二回転して、気が付くと今度は頭を下にして落ちていた。
奇妙だったのは、穴の中で何かに当たられ、頭が下になったというこの時から、落ちていく下方に青い空のような光が見えるようになったことである。そしてその反対側で、先ほどまで遠ざかりながら小さくなっていた上方の光は、いつの間にか消えている。このとき、レイテンシーにとって納得しやすい解釈とは、「つまり、自分は地上から穴の底へ向いて落ちていたんだけど、いつの間にかその方向は反転してしまって、穴の底から地上へ昇っているのではないかしら」というものだった。
このマンホールに備えられた転落事故防止の魔法でもあるものか、ともかくレイテンシーは空へ向けて落ちていった。光は近付くにつれて円形に見え、注意して眺めようとしている間にも、彼女はその中へ飛び込んだ。
果たして、そこには穴に落ちる直前と変わりない住宅街の風景があった。柔らかく投げられた球のように、レイテンシーは引力の粘度を強く感じながら黒谷町の道の上に身を放った。
「曲芸師みたいに見事に宙返りして、マンホールの縁にぴたっと着地したわ。本当よ。それで全部元通り。穴に落ちる前と何も変わりなかった」
穴を出たレイテンシーは、まず頭に手を触れて、帽子がまだ載っていることを確かめた。続いてその手を顔の前にかざし、切り傷やあざが出来ていないかと点検した。
体に怪我が無く、鍵も財布も端末も靴も変わりなく持っていると安心したレイテンシーは、今度はよく足元を確認したうえで、例の自販機までてくてく歩いた。そうして飲料水を買って飲んだ。動悸だけがまだ少し速いようだったが、それも口の中を湿すとすぐに収まった。いくら見回してみても、風景の中で奇妙なのは、蓋の開いたマンホール一つだけであった。
レイテンシーはもう一度マンホールの縁へ戻り、その中を見た。そして脚を使いながら重い蓋を引きずり、穴を閉じた。蓋の表には滑り止めの網模様が浮き出している。蜘蛛の巣に似ていると思った。
・
その後しばらくの彼女は、以前と変わりなく過ごした。
「だって、当たり前よね。マンホールに落ちて出てきたからって、寸分違わない世界を過ごすんだから……」
「寸分違わない世界」これが彼女の使う言葉であった。
実際、下宿へ帰れば出発前と同じ部屋が彼女を迎えたし、マンホールに落ちたことで食事が不味くなるということも無かった。夜は布団に入り、朝は大学へ行った。
周囲の知人らも、レイテンシーのことを変わりなく見ているらしかった。もっとも、彼女は平生からぼんやりした奇人であったから、「実は昨日、散歩中にマンホールへ落ちちゃったのよ」と言ったところで、別段な顔をされる理由も無い。
その調子で一週間も経つと、彼女は事故のあったことさえ思い出さなくなってしまった。
「それがどんなに不可解なことだって、非常なことだって、覚えておく必要のないことなら人間は忘れるものよ。起きたことが問題か否かは当事者が決めていいことだもの」「むしろあれくらいの体験は、まあ言葉にすると何だかとんでもないようだけれど、例えるなら、エレベーターに乗って三階のパネルを押したところが二階に着いたようなものじゃないかしら」「……いま私があなたに話しているこの話だって、読んだ人は来年の今頃には忘れているんでしょう?」
ドクター・レイテンシーが黒谷でマンホールに落ちたのは、一月の中頃だったという。呑気な彼女はその日付を正確に思い出すことが出来ないが、それから半年後の七月九日にもう一度黒谷を訪れたことは、確からしく覚えている。
きっかけを与えたものは、彼女の夢であった。七月八日の夜、レイテンシーは夢の中で、夜の京都駅ホームに立っていた。彼女の他に人の気配はなく、寂しく広い構内は終電を過ぎた後らしく思われた。
夢を見ることが多いレイテンシーは、ここが自分の良く知る駅と似てはいても、実際とは異なっていることをすぐに察した。レイテンシーは閉じた自動改札口をまたいでホームを後にした。西口からバス乗り場へ出たが、外もやはり無人である。彼女は家へ帰らなければならないと思い、深夜タクシーを探そうとした。
そのとき不意に、彼女はある形容しがたい、不安な直感に捉えられた。
「どうやら、私は今夢を見ている……。だから、私は今こうして駅に居るけれど、同時に下宿にも居て寝ているはず。このまま夢の中から自分の家へ帰って、部屋の照明を付けたら、そこに自分が寝ているかもしれない。それはとても不都合なことに違いない」
それは、夢の中でだけ成立して人を説得できる特有の論理であったが、レイテンシーにとって何か本源的な、胸が締め付けられるような認めがたいことに思われたのだった。
彼女はそのまま、自分の家へ帰ることが出来ず、一晩中どこか落ちつける場所を探してさまよった。駅のベンチに横になろうとしてみたり、地下鉄の通路を往復したり、屋上階から京都タワーを見上げたりして、夜が明けるのを待たなければならなかった。
この一夜の不安な感じは、目が覚めてからもレイテンシーの心中に消えず残った。
そうしてふと、一月の黒谷での事故のことを思い出したのだった。マンホールに落ちてマンホールから出た、あのときの奇妙さについて、彼女は別な解釈を加えた。
「つまり、私はマンホールに落ちて、何かの手違いで同じ所へ返されたのだと思っていたわ。でもその実は、自分の元いた世界と寸分違わないもう一つの世界へたどりついていたんじゃないかって。二つの世界は互いに鏡のよう、というより、同じ物が二つあるというべきなのよ。だとすれば、穴の途中でぶつかったものは、穴の反対側から落ちてきたもう一人の私だったんだわ。この世界の私もきっと自分と同じように不注意からマンホールに落ちて、そうして今は私の元居た世界で本人さえ気が付かないうちに私になり替わって生活している……」
レイテンシーは括然として端末を取り、友人のRに電話をかけた。Rは、彼女の知る中で最もこの種の問題解決に便利な人物であった。
レイテンシーが電話越しに彼女の名を呼ぶと、Rはその名に「はいはい、Rですよ」と応えた。「はいはい、Rですよ」は、電話口で喋るRの口癖であった。
レイテンシーは急きこんだ声で話し、今すぐ支度をして平安神宮の大鳥居まで来てくれるようにと頼んだ。不審な呼び出しであったが、Rは「何か面白そうね」と言うだけで簡単に引き受ける。これも、レイテンシーが良く知る友人そのままと言うべき返事であった。
半年ぶりに歩く黒谷は、日差しの明るい、そうして影の黒い夏の町であった。
レイテンシーはRを案内して例のマンホールの縁に再び立った。まるで、この日レイテンシーが覗くために、誰かが用意したかのように、マンホールの蓋は外されていた。蓋の表には滑り止めの網模様が浮き出して、蜘蛛の巣に似ている。
レイテンシーはRにぺっこりと一つお辞儀を見せてから、「まずは、来てくれてありがとう」とお礼を言った。Rは多少戸惑ったようだったが、レイテンシーは構わず足元の穴を見つめて話し続ける。
「詳しい経緯については、後でちゃんと説明があるから、先に何故こうするのかの理由だけ、私の口から言っておくね。と言っても、それほど深刻な問題ではないのかもしれない。私はただ、私の場所を別の私に生きられるのが妙な気がするから、こうしたいのよ。それに、寸分違わない世界がもしもう一つも、もう二つも、あるとしたら、その中で重要なのはそれが私のものかと言うことだと思うのよ。だから、あなたじゃなくて、私のRをつれてまたここに調査に戻って来るわ。彼女の目なら、ここがどこなのか、きっと分かるはず」
レイテンシーの言葉は、恐らく聞いていたRに半分の意味も通じなかった。Rはただ腕組みをして、にやにや笑いながら、「まあ、したいようにしてごらんなさいよ」と言った。
「ありがとう。あなたとも友達よ。あなたのレイテンシーは、今から返す」と、その一言を最後に残して、レイテンシーはマンホールの中へ飛び込んだ。すぐに、驚いたRが穴の縁に駆け寄る気配があった。一月に経験した覚えのあるあの冷たい痒みが腰を走って、数秒後には静かな暗闇の中で風になびいている。
しかし、今度のレイテンシーは、例の衝突に備えて小さく身を丸め、大切な帽子を抱き込んでいくことにした。小さくなったことが成功したのか、今度は何にも当たられることなくレイテンシーは約一分程度の落下を越えていった。
・
筆者の目の前でレイテンシーがマンホールへ飛び込んでから、飛び出してくるまでは、約一分足らずであった。レイテンシーは柔らかく投げられた球のように地面から一メートル程度浮き上がり、筆者の目の前に脚をそろえて上手に着地した。
帰着した彼女の最初の一言は「彼女、なんて言ってた?」という問いであった。
「あなたとも友達よ、って、言ってたよ」
筆者はそう答えた。
彼女はしばらく何かを考えるようなそぶりをしてから、「説明するのが難しいから、一緒に飛び込んでもらえない?」と言った。そこにはさっきまでと寸分違わない、呑気そうな私の友人の顔がある。
こうして。私のレイテンシーは帰って来た。七月九日の十一時八分だった。
レイテンシーはその日、大学での予定を午前のうちに終えると、東大路を平安神宮の方へ歩いた。神宮に何の用事があるわけではなかったが、ただ普段その方へは足を伸ばさないからと、暇つぶしの街歩きを唐突に思い立ったのだった。唐突に思い立ってどこかへ出かけるのは彼女の癖である。
目指すところのないレイテンシーは、気の向くまま無暗に歩いた。寒々しい疏水を右手に見ながらくだり、くだると稲妻に折れて市美術館の別館を過ぎた。応天門から南を振り返ると、向こうに立つ大鳥居が、逆光の中で黒く見える。間もなく岡崎通りに行き当たった。レイテンシーはここで再び北へのぼり始めた。神宮の正面は、観光地らしく人も車もよく通ったが、通りを一本跨いだところには、静かな家々が屋根を連ねて落ち着いている。
レイテンシーはぶらぶらと歩きながら、塀の下や脇道の奥を順々に覗き込んだ。そうした街並みの隙間には、ペットボトル容器を切って土を盛っただけの安上がりなアサガオ鉢があった。八つ目垣の破れを塞ぐためらしい、麦藁のすだれがぶら下がっているのも見えた。生活の気配に充ち上がったいくつかの小景を眺めながら、ふと一本の道に関心を惹かれて、家々の間へと踏み込んだ。もう黒谷町へ入っていた。
「そう、たしか、自販機よ。道の途中に古い自動販売機が立っていたのよ。それが、もしまだ稼働していたら面白いと思って私、触りに行ったんだわ」
レイテンシーは面白いと思うものは何でも触りに行く。それは赤い塗装の剥げかけた、飲料の販売機だった。レイテンシーから見えた側面には、車にでもぶつかられたような深い凹みが目立っていた。放り捨てられた菓子箱に似ていた。
歩き回って喉が渇いていたレイテンシーは、水を買う気でこの菓子箱の方へ歩み寄ろうとした。その足元で大きなマンホールの蓋が外れていることには、彼女はまるで気が付いていなかった。
レイテンシーはマンホールの上に右足を踏み出そうとして、ほとんど飛び降りるかのような素直さでまっすぐに落ちた。その手応えがあまり軽すぎたもので、彼女ははじめ自分に事故が起きたということさえすぐには理解出来なかった。
体重を宙に置き去りにしていく引力の感触は、腰のあたりに冷たい痒みのようなものとして感じられた。視界が暗闇に覆われ、頬に空気の抵抗を感じ取って、レイテンシーはようやく自分が穴に落ちたのだと知った。
遅れながら事態を理解した彼女がまず思ったのは、「これではもう何も間に合わない」ということであった。
穴の縁に手で掴まることは既に出来ない。他にこの落下を食い止める方法を考え出そうとしたところで、自分は次の瞬間にも固い穴の底に叩きつけられるはずだと想像すれば、それも難しそうなことだった。
咄嗟に下を見たが、そちらは暗いばかりで深さも何も分からなかった。
仕方が無いからと思って、今度は上を見ることにする。レイテンシーが踏み外した穴口は、彼女がおろおろしているうちにかなり高いところまで去ってしまっていた。一面暗闇あるばかりの視界に、穴口は青空の色をして丸く光っていた。満月に似ていると思った。
小石のような大人しさで、レイテンシーはするすると落ちていった。落ちる穴の中は静かだった。何か掴まる物が無いかと両腕を広げてみたが、虚しかった。梯子はもとより、マンホールなら円筒形をとるはずの壁さえも一向手に触れない。状況ここに及んでは、人間が引力に抵抗する手立てはもう無かった。
――無論、呑気なレイテンシーとはいえ、マンホールに転落してからこの時点で、衝突までにかかる時間があまり長すぎているくらいのことにはもう気が付いていた。
彼女は落ちていく穴の下を見、上を見て、手で壁を探りさえした。これが一般的な下水道出入り口としてのマンホールであれば、彼女は下を見てから上へ目を転じる猶予もなく、底へついているだろう。
レイテンシーは落ちながら身をひねり、背の方を下にして、手足を風に吹き流した。そのまま遥か高く去って行く青い穴口を見ていると、それは間もなく北極星くらいの小ささに遠ざかった。マンホールに落ちたというには、明らかに奇妙なことであった。
「そのときは、色々なことを考えたような気がする。死ぬ瞬間ってこんなふうに考える時間がたっぷりあるものなのか、とか、変に納得しちゃったり。あるいは、このまま落ち続けて地球の核まで飛び込んだら熱いかな、とか、冗談みたいな想像をする余裕があった。それくらい深い穴だったのよ。本当に……」
奇妙な現象はまた起こった。落下するレイテンシーの左肩に、突如何かが強く当たった。「大きくて、重くて、でも固くはなく」というのが、彼女の受けた感触であった。衝突の反動で大切な帽子が飛んでしまわないよう手で押さえながら、レイテンシーの体は暗闇の中を一回転、あるいは二回転して、気が付くと今度は頭を下にして落ちていた。
奇妙だったのは、穴の中で何かに当たられ、頭が下になったというこの時から、落ちていく下方に青い空のような光が見えるようになったことである。そしてその反対側で、先ほどまで遠ざかりながら小さくなっていた上方の光は、いつの間にか消えている。このとき、レイテンシーにとって納得しやすい解釈とは、「つまり、自分は地上から穴の底へ向いて落ちていたんだけど、いつの間にかその方向は反転してしまって、穴の底から地上へ昇っているのではないかしら」というものだった。
このマンホールに備えられた転落事故防止の魔法でもあるものか、ともかくレイテンシーは空へ向けて落ちていった。光は近付くにつれて円形に見え、注意して眺めようとしている間にも、彼女はその中へ飛び込んだ。
果たして、そこには穴に落ちる直前と変わりない住宅街の風景があった。柔らかく投げられた球のように、レイテンシーは引力の粘度を強く感じながら黒谷町の道の上に身を放った。
「曲芸師みたいに見事に宙返りして、マンホールの縁にぴたっと着地したわ。本当よ。それで全部元通り。穴に落ちる前と何も変わりなかった」
穴を出たレイテンシーは、まず頭に手を触れて、帽子がまだ載っていることを確かめた。続いてその手を顔の前にかざし、切り傷やあざが出来ていないかと点検した。
体に怪我が無く、鍵も財布も端末も靴も変わりなく持っていると安心したレイテンシーは、今度はよく足元を確認したうえで、例の自販機までてくてく歩いた。そうして飲料水を買って飲んだ。動悸だけがまだ少し速いようだったが、それも口の中を湿すとすぐに収まった。いくら見回してみても、風景の中で奇妙なのは、蓋の開いたマンホール一つだけであった。
レイテンシーはもう一度マンホールの縁へ戻り、その中を見た。そして脚を使いながら重い蓋を引きずり、穴を閉じた。蓋の表には滑り止めの網模様が浮き出している。蜘蛛の巣に似ていると思った。
・
その後しばらくの彼女は、以前と変わりなく過ごした。
「だって、当たり前よね。マンホールに落ちて出てきたからって、寸分違わない世界を過ごすんだから……」
「寸分違わない世界」これが彼女の使う言葉であった。
実際、下宿へ帰れば出発前と同じ部屋が彼女を迎えたし、マンホールに落ちたことで食事が不味くなるということも無かった。夜は布団に入り、朝は大学へ行った。
周囲の知人らも、レイテンシーのことを変わりなく見ているらしかった。もっとも、彼女は平生からぼんやりした奇人であったから、「実は昨日、散歩中にマンホールへ落ちちゃったのよ」と言ったところで、別段な顔をされる理由も無い。
その調子で一週間も経つと、彼女は事故のあったことさえ思い出さなくなってしまった。
「それがどんなに不可解なことだって、非常なことだって、覚えておく必要のないことなら人間は忘れるものよ。起きたことが問題か否かは当事者が決めていいことだもの」「むしろあれくらいの体験は、まあ言葉にすると何だかとんでもないようだけれど、例えるなら、エレベーターに乗って三階のパネルを押したところが二階に着いたようなものじゃないかしら」「……いま私があなたに話しているこの話だって、読んだ人は来年の今頃には忘れているんでしょう?」
ドクター・レイテンシーが黒谷でマンホールに落ちたのは、一月の中頃だったという。呑気な彼女はその日付を正確に思い出すことが出来ないが、それから半年後の七月九日にもう一度黒谷を訪れたことは、確からしく覚えている。
きっかけを与えたものは、彼女の夢であった。七月八日の夜、レイテンシーは夢の中で、夜の京都駅ホームに立っていた。彼女の他に人の気配はなく、寂しく広い構内は終電を過ぎた後らしく思われた。
夢を見ることが多いレイテンシーは、ここが自分の良く知る駅と似てはいても、実際とは異なっていることをすぐに察した。レイテンシーは閉じた自動改札口をまたいでホームを後にした。西口からバス乗り場へ出たが、外もやはり無人である。彼女は家へ帰らなければならないと思い、深夜タクシーを探そうとした。
そのとき不意に、彼女はある形容しがたい、不安な直感に捉えられた。
「どうやら、私は今夢を見ている……。だから、私は今こうして駅に居るけれど、同時に下宿にも居て寝ているはず。このまま夢の中から自分の家へ帰って、部屋の照明を付けたら、そこに自分が寝ているかもしれない。それはとても不都合なことに違いない」
それは、夢の中でだけ成立して人を説得できる特有の論理であったが、レイテンシーにとって何か本源的な、胸が締め付けられるような認めがたいことに思われたのだった。
彼女はそのまま、自分の家へ帰ることが出来ず、一晩中どこか落ちつける場所を探してさまよった。駅のベンチに横になろうとしてみたり、地下鉄の通路を往復したり、屋上階から京都タワーを見上げたりして、夜が明けるのを待たなければならなかった。
この一夜の不安な感じは、目が覚めてからもレイテンシーの心中に消えず残った。
そうしてふと、一月の黒谷での事故のことを思い出したのだった。マンホールに落ちてマンホールから出た、あのときの奇妙さについて、彼女は別な解釈を加えた。
「つまり、私はマンホールに落ちて、何かの手違いで同じ所へ返されたのだと思っていたわ。でもその実は、自分の元いた世界と寸分違わないもう一つの世界へたどりついていたんじゃないかって。二つの世界は互いに鏡のよう、というより、同じ物が二つあるというべきなのよ。だとすれば、穴の途中でぶつかったものは、穴の反対側から落ちてきたもう一人の私だったんだわ。この世界の私もきっと自分と同じように不注意からマンホールに落ちて、そうして今は私の元居た世界で本人さえ気が付かないうちに私になり替わって生活している……」
レイテンシーは括然として端末を取り、友人のRに電話をかけた。Rは、彼女の知る中で最もこの種の問題解決に便利な人物であった。
レイテンシーが電話越しに彼女の名を呼ぶと、Rはその名に「はいはい、Rですよ」と応えた。「はいはい、Rですよ」は、電話口で喋るRの口癖であった。
レイテンシーは急きこんだ声で話し、今すぐ支度をして平安神宮の大鳥居まで来てくれるようにと頼んだ。不審な呼び出しであったが、Rは「何か面白そうね」と言うだけで簡単に引き受ける。これも、レイテンシーが良く知る友人そのままと言うべき返事であった。
半年ぶりに歩く黒谷は、日差しの明るい、そうして影の黒い夏の町であった。
レイテンシーはRを案内して例のマンホールの縁に再び立った。まるで、この日レイテンシーが覗くために、誰かが用意したかのように、マンホールの蓋は外されていた。蓋の表には滑り止めの網模様が浮き出して、蜘蛛の巣に似ている。
レイテンシーはRにぺっこりと一つお辞儀を見せてから、「まずは、来てくれてありがとう」とお礼を言った。Rは多少戸惑ったようだったが、レイテンシーは構わず足元の穴を見つめて話し続ける。
「詳しい経緯については、後でちゃんと説明があるから、先に何故こうするのかの理由だけ、私の口から言っておくね。と言っても、それほど深刻な問題ではないのかもしれない。私はただ、私の場所を別の私に生きられるのが妙な気がするから、こうしたいのよ。それに、寸分違わない世界がもしもう一つも、もう二つも、あるとしたら、その中で重要なのはそれが私のものかと言うことだと思うのよ。だから、あなたじゃなくて、私のRをつれてまたここに調査に戻って来るわ。彼女の目なら、ここがどこなのか、きっと分かるはず」
レイテンシーの言葉は、恐らく聞いていたRに半分の意味も通じなかった。Rはただ腕組みをして、にやにや笑いながら、「まあ、したいようにしてごらんなさいよ」と言った。
「ありがとう。あなたとも友達よ。あなたのレイテンシーは、今から返す」と、その一言を最後に残して、レイテンシーはマンホールの中へ飛び込んだ。すぐに、驚いたRが穴の縁に駆け寄る気配があった。一月に経験した覚えのあるあの冷たい痒みが腰を走って、数秒後には静かな暗闇の中で風になびいている。
しかし、今度のレイテンシーは、例の衝突に備えて小さく身を丸め、大切な帽子を抱き込んでいくことにした。小さくなったことが成功したのか、今度は何にも当たられることなくレイテンシーは約一分程度の落下を越えていった。
・
筆者の目の前でレイテンシーがマンホールへ飛び込んでから、飛び出してくるまでは、約一分足らずであった。レイテンシーは柔らかく投げられた球のように地面から一メートル程度浮き上がり、筆者の目の前に脚をそろえて上手に着地した。
帰着した彼女の最初の一言は「彼女、なんて言ってた?」という問いであった。
「あなたとも友達よ、って、言ってたよ」
筆者はそう答えた。
彼女はしばらく何かを考えるようなそぶりをしてから、「説明するのが難しいから、一緒に飛び込んでもらえない?」と言った。そこにはさっきまでと寸分違わない、呑気そうな私の友人の顔がある。
こうして。私のレイテンシーは帰って来た。七月九日の十一時八分だった。
幻想少女達の気配を仄かに感じさせるところがあってそこが好きです。
ノンキなような怖いような不思議な雰囲気でした。
世界の質感と微かな違和感も手に取るように伝わってきて見事でした
とても面白かったです