雪の降り止まない冬の夜、こいしは地霊殿の門前に佇んでいた。
かれこれ二週間ぶりの帰宅だった。
「ただいま」
無意識に口をつく、誰にも伝える気のない言葉。『こんにちは』『いただきます』『さようなら』全部同じだ。
ああさむいさむい、とかじかんだ手をこすりながら鉄の門に手をかけたとき、こいしはふと、自分の足元の黒い塊に気が付いた。
しゃがんで見ると、その塊は黒い毛で覆われていて、すでに雪の中に埋まりつつあった。
雪を払うと、見慣れた動物が姿を現した。
「ねこちゃん?」
こんな寒いところに猫がいるなんてめずらしい、と思いながら眺めると、どうやら地霊殿に住むどの猫とも違うようだった。
全く見覚えのない猫である。感心するほどに全身が真っ黒で、力なく細められた瞳は金色に輝いていた。
なんとなく腹をなでてみると、ぬめりとした感触が指に伝わった。指先に赤黒い血がまとわり付いていた。怪我をしているようだった。よく見るとあちらこちらを切っているようで、腹には一文字の裂傷が走っていて、左耳も痛々しく裂けている。
(生きてるのかな?)
そんなことを考えつつ、抱き上げてみる。
ぐったりと腕の中に収まった黒猫は、もう震える気力もないようだった。
どうしようかしばらく迷ったこいしは、とりあえず地霊殿の中に入ることにした。
足で門をそっと開けて、そのまま小走りで玄関をくぐると、館内のあたたまった空気が二人を出迎える。こいしの帽子に積もった雪が小さな雪崩を起こした。
こいしは腕の中の黒猫について逡巡し、助けるにしても弱った動物の手当てなど自分は知らないし、見捨てるにしても死体の処理が面倒であることを考えた。
(よし、おねえちゃんにまかせよう)
結論を出すや否や、こいしは姉の部屋に突入した。
「ただいま、おねーちゃん。そしてグッドラック」
「おかえりなさい……ってええ!?」
ティーカップを片手に眼を白黒させる姉の膝に黒猫をそっと置いて、こいしはさっさと部屋に篭った。生かすにしろ殺すにしろ、姉なら上手くやるだろう。肩の荷が下りた気分だった。
姉に黒猫を託した後、こいしは自室のベッドに飛び込んだ。目を閉じると、真っ黒な猫の引き絞られた金の目が鮮明に蘇った。
ふいに手の中に、ぬめりとした生暖かい感触を感じた。腹を引き裂かれ、赤黒い内臓を撒き散らす黒猫。
はっと瞳を見開いて右手を見てみると、中指と親指が小さな輪を作っていた。
そのまま指先をこすり合わせてみると、さらさらと小さな音がした。
「……治ったかな」
しばらく寝て、いつものように適当な時間に眼を覚ますと、こいしはひんやりとした廊下を無心で歩いた。そうして姉の部屋の前まで来ると一息ついて、静かに厳しい扉を開いた。
「おっはよー……」
ささやきながら部屋に入ると、過剰なまでにゴシックな内装がこいしを出迎えた。続いて窓際のベッドが眼に入った。窓からはかすかな光が差し込んでいて、ベッドの上に丸まった姉を照らしていた。
くしゃくしゃの癖毛に指を絡めてみたり、頬をさすったりすると、姉はぐずるように手で払った。こいしはそれを見て静かに微笑んだ。
しばらくそうやって遊んでいると、背中から布がこすれるが聞こえてきた。振り返ると、部屋の隅に重ねてあるタオルがもぞもぞと動いている。
黒猫が、タオルを積んで作られた即席ベッドから目覚めたところだった。
「ごきげんよう」
黒猫はそっと全身を出して、こいしを、あるいは目覚めつつある朝の光をじっと見つめていた。薄暗い部屋の中で黒猫が眼を開くと、瞳だけがくっきりと宙に浮いて見えた。
こいしはしばらく黒猫の不思議さに見とれることしかできなかったが、目が慣れると、裂けた左耳や、肌がむき出しになった腹の傷跡も見ることができた。
「治ったんだ」
黒猫はにゃあと鳴いた。こいしはにゃあと鳴き返した。誰にも伝わらない、意味のある言葉だった。
かれこれ二週間ぶりの帰宅だった。
「ただいま」
無意識に口をつく、誰にも伝える気のない言葉。『こんにちは』『いただきます』『さようなら』全部同じだ。
ああさむいさむい、とかじかんだ手をこすりながら鉄の門に手をかけたとき、こいしはふと、自分の足元の黒い塊に気が付いた。
しゃがんで見ると、その塊は黒い毛で覆われていて、すでに雪の中に埋まりつつあった。
雪を払うと、見慣れた動物が姿を現した。
「ねこちゃん?」
こんな寒いところに猫がいるなんてめずらしい、と思いながら眺めると、どうやら地霊殿に住むどの猫とも違うようだった。
全く見覚えのない猫である。感心するほどに全身が真っ黒で、力なく細められた瞳は金色に輝いていた。
なんとなく腹をなでてみると、ぬめりとした感触が指に伝わった。指先に赤黒い血がまとわり付いていた。怪我をしているようだった。よく見るとあちらこちらを切っているようで、腹には一文字の裂傷が走っていて、左耳も痛々しく裂けている。
(生きてるのかな?)
そんなことを考えつつ、抱き上げてみる。
ぐったりと腕の中に収まった黒猫は、もう震える気力もないようだった。
どうしようかしばらく迷ったこいしは、とりあえず地霊殿の中に入ることにした。
足で門をそっと開けて、そのまま小走りで玄関をくぐると、館内のあたたまった空気が二人を出迎える。こいしの帽子に積もった雪が小さな雪崩を起こした。
こいしは腕の中の黒猫について逡巡し、助けるにしても弱った動物の手当てなど自分は知らないし、見捨てるにしても死体の処理が面倒であることを考えた。
(よし、おねえちゃんにまかせよう)
結論を出すや否や、こいしは姉の部屋に突入した。
「ただいま、おねーちゃん。そしてグッドラック」
「おかえりなさい……ってええ!?」
ティーカップを片手に眼を白黒させる姉の膝に黒猫をそっと置いて、こいしはさっさと部屋に篭った。生かすにしろ殺すにしろ、姉なら上手くやるだろう。肩の荷が下りた気分だった。
姉に黒猫を託した後、こいしは自室のベッドに飛び込んだ。目を閉じると、真っ黒な猫の引き絞られた金の目が鮮明に蘇った。
ふいに手の中に、ぬめりとした生暖かい感触を感じた。腹を引き裂かれ、赤黒い内臓を撒き散らす黒猫。
はっと瞳を見開いて右手を見てみると、中指と親指が小さな輪を作っていた。
そのまま指先をこすり合わせてみると、さらさらと小さな音がした。
「……治ったかな」
しばらく寝て、いつものように適当な時間に眼を覚ますと、こいしはひんやりとした廊下を無心で歩いた。そうして姉の部屋の前まで来ると一息ついて、静かに厳しい扉を開いた。
「おっはよー……」
ささやきながら部屋に入ると、過剰なまでにゴシックな内装がこいしを出迎えた。続いて窓際のベッドが眼に入った。窓からはかすかな光が差し込んでいて、ベッドの上に丸まった姉を照らしていた。
くしゃくしゃの癖毛に指を絡めてみたり、頬をさすったりすると、姉はぐずるように手で払った。こいしはそれを見て静かに微笑んだ。
しばらくそうやって遊んでいると、背中から布がこすれるが聞こえてきた。振り返ると、部屋の隅に重ねてあるタオルがもぞもぞと動いている。
黒猫が、タオルを積んで作られた即席ベッドから目覚めたところだった。
「ごきげんよう」
黒猫はそっと全身を出して、こいしを、あるいは目覚めつつある朝の光をじっと見つめていた。薄暗い部屋の中で黒猫が眼を開くと、瞳だけがくっきりと宙に浮いて見えた。
こいしはしばらく黒猫の不思議さに見とれることしかできなかったが、目が慣れると、裂けた左耳や、肌がむき出しになった腹の傷跡も見ることができた。
「治ったんだ」
黒猫はにゃあと鳴いた。こいしはにゃあと鳴き返した。誰にも伝わらない、意味のある言葉だった。
作者さん、これだけ怪我した猫は治らないんだよ。
・・・大丈夫?
>中指と親指が小さな輪を作っていた。
>そのまま指先をこすり合わせてみると、さらさらと小さな音がした。
こいしちゃんは仏様でありお母さんなのかなと思いました。考え過ぎか
作品のグロとか仏心の理解について、とやかくいうのも違うと思いますが、正直あんまり背伸びしすぎないほうが良いと思いますよ
あんまり詳しくは言えないけど、あとで多分恥ずかしく思いますよ、その右手の描写
けど指に深い意味なんてないってなら、それは俺が深読みしすぎました
その場合は申し訳ないです
こいしの日常生活やさとりとの対話をもっと描写すれば印象的なラストになったと思います。
お姉ちゃんなら何とかしてくれると信じているのですかね