腐敗臭がする。
そう広くはないリビング。隣の部屋との扉を開き、そこは窓も開け放っているが、その臭いは消える事はない。
もうそろそろ、限界か。
私は一瞬だけ顔を顰めてしまい、けれどすぐに表情を持ち直す。
目の前、テーブルを挟んで向かい側に座る人には、あまり見られたくないから。
「なんだかちょっと、臭うわね」
「あら、そう? ……言われてみれば、少し変な臭いがするかもね」
その目の前に座る人――宇佐見蓮子に言われて、初めて気付いた、と言う体で私は返す。
出来れば、こんな、鼻を突いて、そこからさらに脳へと突き抜けてくるような酷い臭いは、自覚したくない、と言うのもあった。
かちゃり、とスプーンが食器を叩く音。
熱いスープをすくい上げ、蓮子が口へと運ぶ。ずず、と音。
「食べ物かしら。メリー、ちゃんと賞味期限とか、それが大丈夫だったとしても食材に変なところはなかったの?」
「人に作らせておいて随分な物言いをするのね、蓮子は」
「だってほら、最近は凝ってるからーとか言いながら、天然物の食材をよく使ってたじゃない。あれ、一部の好事家向けに少数しか生産されないから高い割に、合成食材に比べて腐りやすいし」
「それにしたって、一昔前に比べれば保存技術は発達しているんだから、あくまで合成食材と比較しての話で、ちょっとやそっとじゃ腐りやしないわよ」
「ま、それもそうか」
ああ、蓮子はやはり気付かないのだろうか。
腐敗臭には気付いたのに。
その発生源には。
否――気付かないのが当たり前なのだろう。
今までもそうだったんだから。
ありえない事には、気付かないのが当たり前なんだから。
蓮子が箸を使って小振りなハンバーグを口に運ぶ。
二口サイズの、一口目。
「でも、そうね。これだけ美味しいなら食材は大丈夫に決まっているわ」
笑顔。いつもの、何も変わらない笑顔。
ああ、でも、もう、いつもとは違う。
変わってしまう。変えなければいけない。
まだまだ、もっと。
「褒めて貰えて嬉しいわ。明日は、――」
言葉を止める。明日は多分、無理だ。
だって、きっともう、もたない。
「どうしたの、メリー?」
「いえ。明日は私、用事があるから。何か買って帰るわね」
「あら、残念。別に私が作ってもいいんだけど…………それにしても」
蓮子の表情が、少し歪む。
「本当になんなのかしら、この何かが腐ったみたいな臭いは。ウチじゃないなら、近所の誰かさんかしら。迷惑にも程があるわ」
「えぇ、そうね」
蓮子の言葉に小さく同意する。
その後で、時計を見る。掛け時計ではなく、携帯端末の、より細かく時を刻むタイマーを。
あと、どれだけもつか。
笑顔のまま、頭の中で思案を始めた私を、嘲笑うかのように。
ぽたり、と音がした。
ぐちゃり、と音が続いた。
「――――――――――――――――――――――――あ?」
小さな絶望が、響いた。
蓮子が箸で掴もうとした、残り一口分のハンバーグ。
その上に、何かが垂れ落ちた。腐った何か。強烈な腐敗臭を放つ何かが。
蓮子の身体が。
「え――――――――――――――――――――――――?」
腐り落ちた。
「め、めり、い、わたわたし、これ、なん、あっ……?」
ぐしゃり、と私は潰す。
蓮子の声を。疑問を。頭を。
空間を割いた小さな割れ目が蓮子の頭を、頭蓋を飲み込んで、首から上をねじり取って、すり潰す。
「ごめんね、蓮子。次はもっと、頑張るから。しっかりやるから。私に任せて。ね?」
立ち上がり、もう何も聞こえない彼女の肩に触れ、そうやって私は決意を表明する。
ずるり、と末端の腐敗から始まって全身へと腐敗が広がり椅子から崩れ落ち始めたその身体を、空間の割れ目を操りねじ込んだ。
私も歩き、その先に進んで行く。
ごうんごうん、と呻る大きなファンの音。
少し肌寒い、仰々しい機械に囲まれた部屋。
打ち捨てられた衛星トリフネに構成した研究施設もどき。
凄まじい熱を放出し続ける機械類の熱を外に排出し、空調で冷やされた空間。
その中心にある、円筒のケースにある人影……液体に浸ったままの宇佐見蓮子を、私は静かに見る。
「本当にごめんね、蓮子。今度は……もっと上手く行くから」
少しずつ、少しずつ。前に進んでいる。腐らなくなっている。
この部屋にあるとかえって異形に思える、大学生のアパートの一室にでもありそうなパソコンデスクで私はデータの入力と今回の成果の検討を開始する。
丸一日はかかるだろう。
明日は、料理は何も作れないだろう。
明後日には、次の宇佐見蓮子が作れるだろう。
この科学世紀と、あらゆる幻想に塗れた……それらによって、合成された物質で作られた宇佐見蓮子が。
たったのボタンひとつで、作れるようになった。作るだけならこんなに楽なのだから、私は、その他のありとあらゆる苦労は負わなければならない。
天然素材よりも腐りにくい合成素材はしかし、人間と言う形を作った場合は、あまりにも負担が大きいのか長くはもたない。
合成であらゆる動物の肉を作っても、わざわざ合成の動物は作られないように。生き物にするには、未だ合成技術には限界がある。
…………大丈夫、最初は半日ともたなかった。
でも今回は、3ヶ月ももった。
きっと、そのうち、1年、2年、10年ともつようになる。
そしていつかは、天寿を全うする蓮子が完成するだろう。
キマイラに襲われ、このトリフネで死にかけている彼女の、生きる道が。
「待っていてね……蓮子」
背後にある、円筒のケース。その中に満たされた液体に目を閉じ浮かぶ宇佐見蓮子を、私は再び目にする。
かたり、と操作する。腐り落ちる直前からの記憶のみを、デリートする。
彼女が生きている限り、その脳がある限り、合成された蓮子の記憶を収めて行ける。
今は少し普通ではないだけで、私が蓮子と共に過ごす時間は、ちゃんと継続する。
いつかは……いつかは。
また、普通に蓮子と過ごせる日が……やってくるだろう。
サイトでもそそわでもみておりました、お帰りなさい。
久しぶりにそそわ開いたら知ってる名前があってちょっと得した気分でほっこり