もうすっかり慣れてしまったなと、彼女は味の薄い紅茶を喉へ流し込んだ。紅魔館のバルコニーから月を見上げる。痩せ細った月は、弱々しい光を放っている。明後日あたりには新月となるだろう。彼女はエントランスまで歩いて降り、静かな庭へと出た。風も吹いていなかった。少し肌寒いと思った。
薄暗い緑の広がる自慢の庭は、冬のあらゆる音を吸い込んでしまったかのように寂しげで、力強く横たわっていた。彼女はシンビジウムの葉を一枚摘むと軽く噛んだ。かすかな苦みはあったが無味に近かった。
ぱきりと、硝子にひびの入るような音がした。彼女は音のする方へ歩いた。しゃがんでいた赤い髪が足音に気付いて揺れた。
「おはようございます、お嬢様」
美鈴はすらりとした長身を危なげなく折りたたんで、従者の務めを果たす。
「おはよう」彼女はつとめて柔らかい声を出した。「静かな夜ね」
「すみません。枝を踏んでしまいました」
「いや」
美鈴は首を傾げた。彼女はそのまま通り過ぎて右手を挙げた。
「すぐ戻る」
「いってらっしゃいませ、お気を付けて」
歩こうと思った。今日は空を飛ぶ気にはならなかった。彼女は帽子を被りなおして門を出た。
改めて空を見上げた。小さな月は、それでも彼女の影をくっきり映し出していた。十六夜咲夜が人としての運命に従ってから、今夜でちょうど百と二十年だ。偶には、人間の真似ごとも悪くない。
湖のほとりに手頃な石を見つけて、彼女はそこに座った。凪いだ水面はいくつかの大きい星だけを映している。角度が悪いのか月は見えなかった。彼女は小さくため息を吐く。白い煙が目的地を失って散った。
目を閉じるだけで夜はあっけなく姿を変える。あの子は少し寒がりな所があった。作業の前に両の手を捏ねるようにこすり合わせるのが癖だった。「滑り止めですよ」分かりやすい言い訳だった。
赤いマフラーをいつの間にか編んで、外出の時はよく着けていた。色が合ってないのではないかと忠告したが、お気に入りだからと聞かなかった。両手をこすり合わせてから編み始めるのを想像した。様になっていた。
冷気を感じて目を開けた。青白い瞳が思ったよりも近くに出現して、彼女は顔を少し引いた。チルノは彼女をじとりと見つめて向かいの地面に足を投げ出して座った。
「何やってんの」
答えても答えなくてもいい、そんな声だった。彼女は口を閉ざしたまま、膝を台に見立てて頬杖をついた。
「暇なら遊ぼうよ」
チルノは右腕を折り曲げて力こぶを見せた。
「遠慮するわ」苛立たしげな声が出た。
彼女は目の前の青い髪をくしゃくしゃ撫でた。驚いたチルノを無視して立ち上がり、ポケットからミント・キャンディーを取り出して一つやった。続いて自分の口にも放り込む。つんとした味に目が潤んだ。
「人間らしさってなんだと思う」
彼女は湖の対岸を見つめて言う。
「知らない。あたいの方が強いもん」チルノは興味が無さそうだった。
「そう。確かにお前は強いな」
小さく笑った。そのまま背を向けて歩き出した。あれといたせいで体が冷えてしまった。彼女はポケットに両手を突っ込んで少し猫背になった。
フランドールが日傘を持って追いかけてきた。彼女は一言礼を言ってから、並んで歩いた。あの子がいた頃は私の方が少し高かったなと、彼女はふと思い出して笑ってしまったから、フランドールは不審がった。
「山を登るの」妹は大袈裟に高い声を出した。
「ああ登るとも。大した労でもあるまいさ」
「飛べばすぐよ」
「気が進まないわ」
「お姉様、気が触れてはいませんね」
「貴女ほどじゃない」
「もう」
フランドールが顔を真っ赤にして睨むのを、彼女は面白がった。三百年ほど前に狩ったバジリスクの心臓の色みたいだと揶揄った。
葉の落ち切った木の枝の隙間から、縞模様の月光が照らしている。二人は程なくして中腹にせり出した崖に出た。いつの間に崩れたのか、以前訪れた時に比べて狭くなっている。彼女は端まで寄って、暗闇に足を投げ出すようにして座った。フランドールもハンカチを敷いて同じように座った。羽根が擦れてしゃらりと音がした。
山は静かだ。そこに潜む動物も、蠢く妖怪も、眠る草木も、みな等しく音を嫌うから。彼女らが寛ぐ後ろにも、押し殺した無数の気配は彼女を怖れ、油断なく観察していた。
夜空に閃光が走った。流れ星と呼ぶには大きすぎる白銀の筋が一本、黒い空間に引かれていた。その先端は彼女らの真上で停止して、直角に曲がって落下した。彼女の目には星が急激に膨張したかのように見える。彼女は胡散臭そうに左手の二本指を突き出した。
「きゃ」
素っ頓狂な声と同時に、星の奔流が停止した。古ぼけた箒に跨った少女は額を擦りながら大きく息を吐いた。
「危うく頭が割れるところだったぜ」
「何しに来たのよ」
「やけに静かな夜だったからな。散歩だ散歩」
「人間がのこのこ夜に出歩いて、頭以外まで割られても知らないわよ」
「望むところだ」
「お姉様」フランドールが声を震わせた。泣きそうな顔だった。
「そろそろ夜が明けるわ。帰りましょう。心配ないわ、フランドールが一緒にいるからね」
フランドールは気が動転すると早口になることを、彼女はよく知っていた。妹の細い手に引かれて、彼女は山を下りる。空は白み始めて、気温もさらに下がっていた。月は進行方向には見つけられなかった。
「帰ったら食事をしましょう。少し歩き疲れたわ」彼女は優しく言った。
「そうね、それがいいわ。ねえお姉様、とびっきりのワインを開けましょう。真っ赤なやつよ。今日が一番ふさわしいわ、ねえそうでしょう」
門の前には美鈴が腕を組んで立っていた。二人の姿に気付くと、腕を解いて帽子を胸の前に掲げた。
「お帰りなさいませ」
「食事にしよう。美鈴、今日は共に」彼女は美鈴の肩を叩いた。
「私が作るわ。美鈴も手伝って」
「かしこまりました、何なりと」
フランドールが美鈴の腕を引いて館に駆けていくのを見届けると、彼女は裏庭へと回った。
鳥の鳴き声が聞こえた。念のために日傘をさした。
十六夜咲夜の墓は随分と簡素なものだ。彼女は盛り上がった土の傍にしゃがんで墓標の銀の十字架に触れた。砂埃一つとして彼女の指には付着しない。美鈴はよく仕事をしている。百二十年の間、庭の手入れを怠らない。
彼女は口元を押さえた。十六夜咲夜は死んでいた。赤いマフラーのよく似合う人間は、一生死ぬ人間だった。盛り上がった土の傍で、彼女は静かに泣いた。
表でフランドールの呼ぶ声が聞こえた。朝食の用意ができた。
彼女は立ち上がって、銀の十字架に背を向けた。
けどもっと作品に動きというか抑揚が欲しかったな
願いたくは、十六夜咲夜が人間として、一生死ぬこととなった切っ掛けが知れればなぁと思いました
淡々とした展開は好みの一つです
お嬢様と美鈴、チルノ、フランドールとの会話も優しくて好きです。